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この本はタチヨミ版です。
永正十五年(1518年)年頃?誕生。 没年不祥。三条公頼の長女で三条夫人の姉。
三条公頼の長女で、三条夫人の姉はおそらく天文三年(1534)か天文四年(1535)頃、管領細川晴元の正室になる。
彼女は夫の晴元より四歳年下くらいか。
晴元との間に二女をもうける。
天文六年頃、長女誕生?
そしてこの長女は赤松某に嫁いでいる。
そ こで私はこ の赤松某と有馬某とは 一 誰の事なのか考えて みる事にし た 。
こ の 赤 松 某 と は 赤 松 義 祐 、有馬某とは有馬 村 秀の事 では な い の だ ろ う か ?
赤 松 義 祐 は 天 文 六 年 、 ( 一 五三七)播 磨 国 守 護 赤 松晴 政 の 息 子 と し て 生 ま れ た 。
義 祐 の 父 晴 政 は 細 川 晴 元 と は同盟 関 係 に あ り 、 共同で 経 細 川 高 国 を討 っ て お り 、 晴 元 との 接 点 は 十 分 に ある の で あ る 。
ま た 、 赤 松 義 祐 の 妻 は 細 川 晴 元 の 娘 だ と す る 史 料も あ る 。
『 赤 松 盛 衰 記 』 と 『 村上源 氏 赤 松 家 先 祖 』 と い う 史料 に よ る と 、赤 松 義 祐 は 細 川 晴 元 の 婿 だ っ た と い う 。
そして赤 松 義 祐 が 生 ま れ た 翌 年 に は 三 条 夫 人 の 息 子 の 義信 が 誕 生 し て お り 、 当 然 こ の 頃 に は既に彼 女の姉には長 女 が 生 ま れ て い た の で は な い だ ろ う か ?
そ う す る と三条 夫 人の 姉 は 彼 女 と の 年の差が 最 高三年 と 考 え 、 永 正 十 六 年 ( 一 五 一 八)に 生 ま れ た と 推定 す ると 早 く て も 天文二年 ( 一 五三三)か 天文三年( 一 五三四)頃 に は 、 彼 女 は 細 川 晴 元 に 嫁 い で い た 事に な る 。
彼女 が推 定 十 八 歳 く ら い で、 赤 松 義 祐 の 誕 生 とほぼ同時期 に 長 女 を 産 ん で い た と 考 え れ ば 細 川 氏と 赤 松 氏 と の 関 係 か ら 考 え て み て も 、 赤 松 義 祐 の 妻 が三条 夫 人 の 姉 の 子 で あ っ た 可 能 性 が 高 い よ う な 気 がす る 。
ま た 、 次 は三条 夫 人 の 姉 細 川 晴 元 夫 人 の 次 女 が 有馬 村 秀 に 嫁 い だ 可 能 性 に つ い て 考 え て み た い 。
有馬 村 秀 は 摂 津有馬 氏 の 出 で あ り 、 こ の 氏 族 は 赤 松氏 の 流 れ を 汲 ん で い る 。 管 領 細 川 家 家 臣 で あ る 、三田城 主 で 後 に 落 落 葉 山 城 主 の有馬 村 則 の 息 子 で 、 天 文 十九 年 に は 既存に有馬 民 部 小 輔 の 官 位 を 与 え ら れ 、 幕 府奉 公 衆 の 一 人 と な っ て い た よ う で あ る 。
こ ち ら も 管 領 細 川 家 家 臣 と い う 事 で 、 晴 元と の 繋 が り を見 出 す 事が で き る 。
た だ 、 こ の有馬 村 秀 は 生 年 が は っ き り し て お ら ず 、赤 松 義 祐 と 細 川 晴 元 の 長 女 と の 婚 姻 の 可 能 性 に 比 べる と 、 か な り 心 許 な く な る 。
そして想像される、細川晴元夫人の生活だが。
おそらく摂津の芥川城館で、夫である管領の細川晴元の正室として、所領安堵の裁許や施行を求めてここを訪れる、山科言継を始めとした公家や寺社などの荘園領主の使者達である、多くの訪問客達の応対などをしていたのだろう。
しかし、何しろ、典型的な下克上の重臣三好長慶についての本格的な研究はいくつかあるようだが。
ところが後に彼とは敵対関係となる、細川晴元の方の本格的な評伝的研究というのがいまだに成されていないために(実際、いろいろと難しいようだが。)細川晴元正室である、この三条公頼長女の生活の生活についても、夫の動向から推測せざるを得ないのが残念である。
おそらく、まだ彼女が生存していたと思われる時期は夫の晴元が天文十七年から重臣であった三好長慶に背かれ、絶え間ない彼との戦いに突入する時期にまではなってはいなかったと思われる。
とはいえ、天文十年にはこれも重臣であった木沢長政が背き、この知らせを聞いた足利義晴が一時、近江に逃走という事件も起きている。また、天文十一年には、木沢長政軍と晴元軍の三好長慶・畠山植長らとの間に「太平寺の合戦」が行なわれている。
晴元軍の勝利に、終わってはいるが。そして更に続く、天文十二年には細川氏綱が背いている。
このような後半生の晴元の波乱万丈さに比べればまだ波乱は少ない、この細川晴元夫人の暮らしではあったではあろうが。
しかし、晴元政権は何かと不安定さも内包しており、またこのように晴元は管領として、度々敵との合戦にも赴いている。
いろいろと勝手の違う、このような武家の暮らしに人知れず晴元夫人の心労も蓄積されていったのではないだろうか?
正室として、このように頻繁に戦いに赴く夫の身を案じることも、しばしばであっただろうと思われるし。
この細川晴元という人物は三好長慶と何度か戦い、伊丹城を攻略してはまた奪い返され、そして京都へ、そして今度は京都から近江の坂本へと逃走したりなどとにかく転変極まりない生涯を送ったようだ。
そして気になる、彼女のおおよその没年だが。
おそらく最終的に夫の晴元が普門寺に隠棲させられて晩年の最後の日々を過ごし、ここに埋葬されているというのに。
それなのに正室であるこの細川晴元夫人の墓所がないのはたぶん彼女の方は彼より数年先に既に死去している可能性が高いからではないか?と考えられる。
つくづく、三条公頼の三人の娘達の中では一番平穏な生涯を送ったのはこの如春尼だけかという印象を強く受ける。
もちろん、本願寺も各大名達とも密接な関係を持っており、けして世俗の権力とは全く無縁ではないとはいえ、やはり、世俗権力そのものという感じの武家と宗教界との違いなのかとも感じさせる。
それにしても、おそらく文で姉の消息を聞くにつけても三条夫人は比較的平穏な地方の方に下向した自分は恵まれていると思ったのではないのだろうか。
もし彼女も機内のどこかの有力大名などにでも嫁いでいたら、それこそ、この姉のように気ぜわしく、常に日々激変する、夫の戦況に一喜一憂するような心をすり減らすような日々になってしまったように思われるし。
当時、機内は諸勢力の衝突が大変に激しい地域だった。
本当に上野晴朗氏も指摘しているように、この三条家の三姉妹の中で、最も武家社会の荒波に翻弄されたのはこの公頼の長女かもしれない。
永正十一年(1514)―永禄六年。
管領となり、三条夫人の姉と結婚した.細川京兆家の細川晴元でだが。
彼も波乱万丈、転変極まる生涯を送ったようである。
正室は三条公頼の長女。そして側室には天文六年に結婚した六角定頼の娘がいる。
晴元には三正室の条夫人の姉との間には赤松某に嫁いだ長女、有馬某に嫁いだ次女がいる。
細川晴元の後を継ぐ細川昭元は六角定頼の娘の生んだ息子。
永正十一年に晴元は阿波国の細川澄元の子として生まれる。
幼名は聡明丸。
そして澄元と細川京兆家の家督を争い、澄元を追った細川高国が滅亡したので、阿波から迎え入れられ、幼くして家督を継いだ。
永正十七年に父の細川澄元が死去し、その息子の聡明丸(晴元)が継いだ。
大永七年に、三好勝長・元長連合軍の活躍により、「桂川原の戦い」で父の時代からの敵である、細川高国に勝利。
そして高国を近江へ追うことに成功した彼らは足利義維を将軍として「堺公方府」を創設した。
とはいえ、この時の晴元はまだ少年だったので、実権は周囲の家臣達が握っていたと思われる。
天文二年(一五三三)の二十歳頃に当時十六歳くらいと思われる、三条公頼の長女の姫君と結婚。
しかし、当時は京都の情勢はまさに動乱の様相を呈していた。
いや、そんな時だからこそ、晴元は朝廷との強い繋がりを求め、権門である、清華七家の一つ転法輪三条家から正室を求めたと思われる。
また、家門に重みを付けるという目的もあったのだろう。
それからこの頃、京では法華一揆が勢力を振るっていた。
法華一揆とはいっても彼らはれっきとした武力を有した戦闘集団であった。
事の始まりは享禄五年の五月に聡明丸(細川晴元)の家臣木沢長政が旧主の畠山義堯・三好勝宗らに攻められ、細川晴元に救援を求めた事からである。
晴元側は、とても自分達の武力だけでは対抗できないとの判断を下し、本願寺の門主証如上人に、一向一揆の出兵要請を求めた。
そして、その勢いは凄まじく、畠山義堯・三好長慶の父三好元長を自害に追い込む事に成功している。
しかし、一度動き始めた一向一揆の勢いは留まらず、三好元長が妻と千熊丸を阿波に逃れさせ、一族ことごとく自害した六月二十日から、約一ヵ月後の七月十七日には、雁金屋や橘屋ら一部の有徳人を中心とする真宗門徒に率いられた奈良の一揆は興福寺を襲撃し、僧兵勢力と戦い、菩提院ら十七宇の坊舎を焼打ちするなど、一揆指導層の戦闘意欲が旺盛で、証如でさえ、制御不能となっていく。
そしてこの一揆の嵐は大和から摂・河内・和泉と機内全域に拡大し、各地で国衆や荘園領主に対する農民闘争に発展した。結局、細川晴元側は、日蓮宗の法華一揆の軍事力を利用し、一向一揆を鎮圧させた。
このような情勢の中での輿入れであるから、後に細川晴元の猶子、続いては六角定頼の猶子となって顕如に嫁いだ妹の如春尼の時と同様、三条夫人の姉も厳重な警護の下、晴元の許へ輿入れしたのかもしれない。
天文五年の九月二十四日には晴元は入京を果たし、名実共に幕府の執政となり、管領に相当する政治的地位を継承する。
天文六年の八月には右京大夫に任ぜられ、将軍足利義晴の偏諱を受けて、細川晴元と名乗る。これ以降、晴元は「細川右京兆」と呼ばれる事になる。
公卿ではないとはいえ、三条夫人の姉は当代一の権力者の許へと輿入れしたのである。
おそらく、結婚してから、一・二年後くらいに長女がそしてそんなに間を置かず、次女が誕生したものと考えられる。
しかし、このように妻との間に二人の子供にも恵まれた晴元だったが穏やかな家族などとの時間を過ごすまもなく、機内の情勢は間断なく揺れ動く。
細川晴元の家老であった三好長慶が、同族の三好政長と対立するのである。
当然の事ながら、幕府は混乱に陥った。
天文十五年には晴元自身が将軍足利義晴と対立する事になるのである。
十一月には、義晴は細川晴元と戦うため、北白川に築城。その後将軍職を辞め、十二月二十日には、義晴の息子で悲劇の剣豪将軍として有名な、足利義輝が将軍宣下を受ける。
そして天文十七年にはついに三好長慶が晴元に叛く。続く翌年の六月二十四日には、三好長慶軍と細川晴元・三次政長軍との間に、江口の戦いが勃発。
細川側の軍の三好政長が敗死し、ついに晴元政権は崩壊する。前将軍の足利義晴と晴元は、近江へ逃走。そして翌年の五月四日には、の中で義晴は没する。
彼の遺志を継ぎ、晴元は義輝と中尾城に三好長慶と戦う。
しかし、攻め落とされ、再び義輝と共に近江に逃亡。
相変わらず、以降も晴元は三好一派と戦っては破れ、逃走などを繰り返し、転々とした日々を送っています。
また、三条夫人の姉の細川晴元夫人の実家は実家で、天文二十年の九月には三条公頼が周防で大内義隆重臣の陶隆房の起こした謀反の「大寧寺の変」に巻き込まれ、その地で命を落とすという大事件が起きており。
これらの状況から夫晴元と同じ普門寺に晴元夫人の墓がない事からおそらく、彼女は晴元の死よりも数年前に死去。
そのため、夫の晴元とは別の場所に埋葬されたと思われる、彼女の菩提寺と墓所の場所は杳として知れなくなってしまったのではないのだろう。
それにしてもこのような管領の晴元の正室として、晴元正室であった三条夫人の姉もなかなか気苦労の多い生活だったと思われる。
天文二十一年には晴元は若狭に逃走している。
そしてこの間に六角定頼の娘との間の息子の昭元も人質に取られてしまっていた。
翌年も戦闘。そして、五年後の永禄元年の五月にも、義輝と共に入京を目指し、三好長慶軍と戦っている。
しかし、この頃にはすでに京では晴元の評判は下がり、人心は離れていったようである。
義輝も三好側と和睦を結び、京都に帰還。
だが、ちょうどこの前年、三条公頼の三女の如春尼が細川晴元の猶子になり、次いで六角定頼の猶子になり、本願寺証如の息子の茶々(顕如)の許へ、厳重な警護の下に嫁いでいる。
元々、この如春尼と茶々の婚約はまだ如春尼が晴元の猶子であった時に晴元側から申し込まれたものである。
そして最終的にこの如春尼が晴元の猶子から六角定頼の猶子にとされ、更に定頼の許から、猶子として本願寺に嫁いでいく事に関して、彼らの間で何らかの交換条件が交わされていた可能性があると思われる。
如春尼が嫁いだ本願寺を通し、六角側の晴元支援。
また、最初に本願寺に結婚を申し込んだのは晴元であり、つまりまだ如春尼が晴元の猶子であった時であり。
そしてこの時にはこれまでの晴元と本願寺との因縁から本願寺側が迷惑であると難色を示していた事などから晴元の猶子としでてはなく、定頼の猶子として嫁ぐという形で、本願寺側の心理的抵抗を少なくするという、ワンクッションを置くという目的もあったのでは?と私は想像を巡らせてみた。
なお、この前後の弘治二年には信玄と三条夫人の息子の義信が幕府から細川、斯波、畠山の三管領に準じられており。
やはり、これに三条夫人の姉であり、義信の叔母である晴元夫人が管領である細川晴元に嫁いでいるという婚戚関係が義信が三管領に準じられることになったことには強く影響していたのではないのだろうか。
また、義信が三管領に準じられた背景には「信玄の妻 円光院三条夫人 新人物往来社」の中での上野晴朗氏の指摘にもあるように弘治三年のこちらは三条夫人の妹である如春尼と顕如との結婚とも密接に関連していた可能性も考えられる。
他にも三条家の分家である正親町三条家が天皇と将軍に仕える「昵近衆」であった事も関係したのかもしれない。
いずれにせよ、永禄元年にも再び足利義輝・細川晴元と三好長慶側との間で、戦いが繰り広げられている事から晴元が何とか京での勢力挽回を試み、そのためにかつて敵対していた本願寺の支援を欲していた事は明らかだと思われる。
この後の晴元の消息は途絶えるものの、没年までの最後の五・六年間は京都の天龍寺に逃走したり、また龍安寺にいたとかいう説もあるようだ。
結局、三好長慶によって摂津の芥川城に幽閉、そして永禄四年に足利義輝が三好長慶に晴元との和睦を勧める。
同年の五月に晴元は摂津富田の普門寺に入れられ隠棲。二年後の永禄六年の三月に、五十歳で波乱の生涯を閉じる。
こうして見ると、彼も最後まで相当に波乱万丈の生涯である。
既に書いている通り、管領という当時の京都の権力者である地位にありながら細川晴元の生涯については不明確な箇所が多く。
そのためにその生涯の正確な足跡を辿るのも容易なことではない。
彼のその生涯全体を通じて、変転極まりないこともあり。
また、当然そんな彼の正室である、三条公頼の長女の三条夫人の姉については本当に妹達の武田信玄正室の三条夫人や本願寺の顕如の妻である如春尼以上に不明瞭な部分だらけであり、その具体的な生涯は一向に掴むことができない。
何しろ、彼女についてはその生没年、そしていまだにその墓所すらも、確定できない有様なので。
夫の晴元の墓所である普門寺にも彼女の墓も存在しない。
ただ、これらのことに関してはどうも夫の晴元とは違う場所に埋葬されているらしいことから考えて、おそらく、彼が最終的に隠棲した普門寺に落ち着く数年前に彼より先に世を去ったのかな?と推測される程度というか。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年4月12日 発行 初版
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