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嘘つきな小指

さら・シリウス

さら・シリウス出版



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  この本はタチヨミ版です。


【嘘つきな小指】

     さら・シリウス :あらすじ
     朧塚(おぼろづか):文章





目次

嘘つきな小指

気付かない方が幸せ

恋人は客引き

秘密のバカンス

物覚えがよければ

望み通りの人生

 「おわりに」

 「あとがき」





◆ 嘘つきな小指


 内科医である山本サオリが、実家のある神奈川からこの山形の奥地にある僻地へきちに来てもう三年になる。
 この辺りには、昔から医者が居つかなくて困っていたという。
 三年もいてくれた医者は初めてとの事で町民が皆、彼女を大事にしてくれる。人口約七百人ほどの小さな町だが、平和で暮らしやすい。
 もう三十九になるが、サオリはまだ独身である。
 仕事と勉強のせいにしたくはないが、良縁に恵まれず、仕事、仕事の繰り返しで、気付いたらこの年になっていた。数少ない友人たちも皆結婚した。はっきり言って容姿に自信はないが、自分より何の取り柄もない友人が去年結婚した。サオリとて結婚願望がなかったわけではないが、二年ほど付き合った男と別れて十年になる。
 そんなサオリにも、最近、年下の恋人が出来た。
 恋人の良太は二十代の始め頃、東京で結婚しすぐに離婚、しばらくしてこの町にある実家に戻ってきたという二十八歳のUターン組である。

 初めて良太が診療所にやってきたのは、五ヶ月程前の、連日の土砂降りにうつうつとしていた梅雨の終わりの頃だった。
 診療があらかた終わった午後六時過ぎに、顔だけは何度か見かけたことのある良太が、診療室に入ってくるなり、
「先生、さっき急に胃が痛くなって……」と、悲痛な声を上げた。
 余程痛いのだろう、胃に手を当てながら前のめりになって顔をしかめている。
「先生、俺、悪い病気ですか?」
 そう言い乍ら、おずおずと不安そうな顔でサオリを見つめた。
 ちょうに加え、たんせいな顔立ちがかもし出す都会的な雰囲気とその物腰がそぐわずに、思わず微苦笑したのを覚えている。
 良太はその日から三日とあげず診療所に訪れるようになり、ある日、メモ用紙を渡された。そこには、短い言葉と携帯の番号が記されてあった。
〝先生、初めて会ったときから好きでした。付き合ってください〟
 中学生のような丸文字と言葉が可愛くて、警戒心がするすると溶けていったのを覚えている。

 美しい山々に囲まれたこの田舎町には、綺麗な湖や、自然をそのまま残した風雅な川が流れ、その景色を目的にやってくる人間も多い。
 牛小屋や豚小屋などもあり、うっかりドアを閉め忘れようものなら部屋の中まで野生動物が入ってくるような場所である。
 古民家が点在する田舎道を貝つなぎしながら歩いた時に、
「もう都会にはうんざりしているし、田舎に落ち着いてのんびり暮らすのも悪くないかな。ここには素敵な恋人もいるし」
 良太は美しい目でサオリを見つめながらそうつぶやいて、とろけるような口づけをくれた。その夜、彼女は十年ぶりに歓喜の声を漏らした。

 暑い夏が終わりを告げ、山々を鮮やかな紅葉が彩り辺り一面がまるで絵画のように美しい秋の日に、東京からやって来た不動産屋がこの辺りの土地を売って欲しいと町長に申し入れてきた。この辺りは山間部で、以前もダムにしたいという話があったらしいが、今度の話は市会議員が中に入り、県民の為になる産廃処理場を作る計画だという。
 不動産屋が来た翌日、顔も身体も丸い丸田という市会議員が住民達を公民館に集め、説明会を開いた。丸田は秋も深まった肌寒い日だというのに額に汗をにじませながら、日本中が産廃の処理に苦労している現状を得々と説明した。町民が土地を売却してくれたら人々の役に立ち、その上、通常の値段の三倍出すと言っているから悪い話ではないと言う。
 しかし、町民たちは先祖代々受け継がれてきた土地を愛し、川を愛し、山々を愛している。動物や鳥や魚たちが死んでしまう。何より、愛着のある美しい景観が無くなってしまうのだ。丸田の話が終わらないうちに、町民が全員一致で断るという事になった。

 良太の実家も土地持ちで、田畑や家を合わせると千坪は下らないという。しかし、今はもう誰も住む者もなく廃屋となっているらしい。
「俺の先祖は代々、すげえ豪族だったらしい」
 良太はことあるごとに実家の自慢をする。男というものはそういう部分がある。プライドと見栄が言わせるのであろう年下の恋人の自慢話に、サオリは何度でも初めて聴くような顔で付き合う。
 今は地元の建設会社の営業をしているが、二十代前半頃までホストをしていたという。別れた妻ともデキ婚だったらしいのだが、今は女遊びなどをせずに落ち着いている、と言っていた。
 ……ホストをしていたくらいだから、私以外に女とかいるのかしら?
 そんな風に思うが、彼は自分以外に女の気配は無い。
 ――若いときに女遊びをした男は卒業したら真面目になるって聞いたことがあるわ――
 今、それよりも考えなければならないのはこの町の事だ。
 サオリの借りている診療所の建物は、大家が町の実力者で、不動産も沢山所有しており診療所兼住居もタダ同然で貸してくれている。医者がいないので居て貰う為なら安いものだと言う。

 ある月曜日の午後、見知らぬ男が腹の痛みを訴えてやってきた。
 少しヤクザ風のいかつい顔の男だった。
 男を診てみると身体の何処にも悪いふしが見当たらない。紹介状を書くので町の大きな医院で精密検査を受けるように勧めると、男はそんな事はどうでもいい! 此処を立ち退け! と、ドスのきいた声を荒げた。
 産廃業者の回し者だろう。
 男は、こうかつそうな目をぎらつかせ、
「此処の住民達、いい返事をしてくれるといいんだけどねえ」
 と言いながら、自分のカルテを引き裂いて空中に放り投げると、肩をいからせて帰っていった。
 サオリは男の横柄な態度もあって、猛烈な怒りが湧いてきた。
 良太に電話して訊いてみると、良太の家にも業者が来るという。
 一人一人の家を回っておどしをかける算段なのだろうか。
 ちゃんとした話し合いをしたいと申し入れるよう町長に進言し、町長が相手にかけあうと相手はさらに金額の上乗せを提示してきたという。

 良太は美しい景色が広がっているこの町が産廃のゴミ処理場になるなんて耐えられないと息巻いている。サオリと二人で町に住むこの町を産廃業者になんか渡すものかと。サオリもこの美しい集落での良太との未来を夢見ていた。

 サオリは良太に抱かれながら、結婚式はフランスの教会で挙げたいと甘えた。彼は、優しく口づけをしたあと、「サオリのいう通りにするよ」と、長い小指を絡ませて指切りをしてくれた。
 サオリは学生の頃からバイトに勉強にと忙しく、インターンを経て医者になってからも海外旅行などしている暇は無かった、
 ――だから、せめて結婚式くらい海外で挙げたいわ。それも、憧れのパリで――
 良太も、それに賛成した。

 町長が集会を開いた。
 自分のところは全て売るつもりだが、皆はどうだと訊ねる。
 町長が売るというのに町民が嫌と言っても仕方がない。
 みな、この田舎町に対して思い入れは強いが、結局の処、すたれてしまった地方でしかない。自分達の生活を守る為にも、産廃業者達の条件を飲むしかないだろう、と言った。

 町の中程にあるアパートと家を所有する太田という老人とサオリ、良太の三人だけが反対派だった。
 サオリの診療所の大家も、所有している不動産を全て売り払い、賑やかな大阪に移り住んで悠々自適の老後を送るつもりだと言ってきた。旨い物もない、楽しい場所もない、こんな何もない所で老後を送りたくない! だから、早く出て行けと。
 確かにこの辺りは古い酒屋や駄菓子屋、豆腐や菓子パン、缶詰などを売っている小さな規模の、何でも屋くらいしかない。楽しい老後をエンジョイするには無味乾燥な土地かもしれない。
 サオリは大家の話を聞いた後、若い良太も本当にここでいいのかとふと思った。しかし、彼は自分と同じ反対派だ。ここでサオリと暮らしたいと熱弁を奮っていた良太に嘘などあろう筈がない。彼女は少し頭をもたげたネガティブな思いを振り切って、彼との結婚に思いをせた。

 そんなある日、良太が大怪我をした。
 山の上の畑に行っての帰り、坂道でブレーキが効かなかったという。
 サオリは妙な胸騒ぎを覚えた。
 翌日、産廃業者がやってきて、サオリに立ち退き料として三百万円を提示してきた。威圧するかのように、わざわざ黒塗りの高級車でやってきた。
 タダ同然の家賃だからいい条件だろうと言う。
 町長といい、大家といい、町民といい、欲に目の眩んだ腰抜けばかりだ。
「住人には居住権というものがあるんですよ!」
 サオリは大声で産廃業者に喰ってかかり追い返した。
 産廃業者は悪態を付いて帰って行った。

 そんなある日、太田老人が崖から落ちて死んだ。
 酒を飲み過ぎて泥酔したのだろうという。
 あの用心深い太田老人が深酒をして危険な崖の道を歩くだろうか。
 そして、今思えば良太の事故……。
 ――産廃業者の仕業だとしたら――
 人を殺してまで……?
 金に目がくらんだ人間というものは、金の為なら鬼にも蛇にもなるという。
 山と積んだ札束の前で、太った腹を波打たせながら高笑いをする産廃業者や市会議員の姿を思い浮かべて、サオリは身震いした。

 診療所の患者も目に見えて減ってきた。丸一日誰も来ない日もある。村人達の視線も冷たくなった。大家は大家で診療所の入り口にゴミを置いたり、鳥の死骸を置いたりと、あからさまな嫌がらせをするようになった。陰湿極まりない、とサオリは思う。これが田舎独特の異端者に対する悪質な感情なのか、と。
 もう、この町に医者は必要ないのか……存在理由を失くした場所に留まる意味はない。他の町でまた勤務医をすればいい。サオリは出ていくつもりだと、入院先の良太に連絡した。
 看護師の須藤も重い鬱病を患い、辞めていった。辞める前から、住民達の冷たい視線を感じると肩を落として言っていた。眠れない日々が続き、最近は幻聴や幻覚が見えるのだとも。
 サオリに須藤を引き留める術はなかった。

 町を出ていく決意をした翌日、診療所の片付けをしていると、打ちひしがれた様子で町長がやってきた。
 産廃業者の責任者が急死し計画が潰れてしまったと言う。考え直してこの町で医者を続けてくれと。しかし、サオリはこの町で医者を続ける気も、町民達を助ける気も、とうの昔になくしていた。
 サオリが診療所の所長として赴任して来たときは町を挙げての歓迎だった。それが産廃業者に売ると決めてからの、掌を返したような嫌がらせや無視。それでこの町にいてくれという方が厚かましい。
 町民達の裏の顔を知ってしまったからには、もう以前のように接することはできないだろう。
 僻地に住む者たちからの陰湿な村八分、それは経験したものでないとわからないのだと、静かに辞意を伝えた。

 同じ日の午後、看護師の須藤の病状が気がかりになっていたサオリは携帯を手に取った。呼び出し音を十回ほど鳴らして切ろうとした瞬間、須藤が電話に出た。
 須藤は辞めたことが気まずいのか、ちんうつそうな声で話していたが、サオリは気にしていないと告げた。
「誰だって、参ってしまうものね。でも、復帰したくなったら、いつでも復帰してね。わたしは出て行くけれど貴方の事は休職扱いにしておくから」
「ありがとう御座います……。でも、最近、私、幻覚とか幻聴が益々ひどくなってて……。お薬を飲んでも全然眠れないんです。毎日、辛くて、辛くて……もしかすると、これは幻覚や幻聴の類ではなく、本当に何か私に嫌がらせをしてきているのかもしれませんが」
 須藤の声はかなり疲れ切っていた。
 この田舎町には心療内科のクリニックが存在しない。当然、専門外なので、サオリは心の病気の関連で須藤を診る事は出来ない。須藤は隣町か、あるいは都会に移り住んで、心療内科の門を叩くと言った。
 嫌がらせを受け続ければ、人は壊れる……と、サオリは思う。
 自分だって、今、壊れ始めている。

 サオリも、ノイローゼになりかけていると言ってもいい。
 良太に励まして欲しい。
 片付けが済んでサオリは病院へと向かった。山を三つ越えた処にある大きな町の病院だ。良太が入院している二階の病室を覗くと彼の姿が見えない。廊下に出て、看護師の詰め所や宿直室にも行ったが知らないと言う。
 一階に降りて裏口に回ると話し声が聞こえてきた。
 良太の声だ! 
 誰かと携帯で話しているらしい。
 誰もいないと思って彼の声は響き渡っていた。
 はやる胸を押さえ、サオリは思わず声を出そうとした。しかし、いつもと違う悪意に満ちた良太の声に、かろうじてそれを思いとどまった。
「やっぱり死んだ社長が言っていた通り、太田という爺さんとあの不細工な顔の先生がさあ、反対派になるだろうって言ったのは大当たりだったな! だけど、アンタがあんな行かず後家なんてチョロいと言ったから、あんなブッさいな女抱いてやったのに、言う事なんか聞きやしねぇ。この町を二人で守ろう、って言ってやがる。俺の家も建て直して、わたし達の子供もこの町で育てるのよ、なんって言ってさ! 昨日町を出ると言ってきたけど、社長が死んじまった今となっては、遅いっての!」



  タチヨミ版はここまでとなります。


嘘つきな小指

2021年4月5日 発行 初版

著  者:さら・シリウス
発  行:さら・シリウス出版

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