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1 庭とランドスケープ
書店にゆくとまず驚かされることがある。
建築関係の書籍はいくつもの棚を占領するくらい置いてあるのに、庭、あるいは造園関係の本はといえば、その建築関係の棚の片隅に、ひっそりとうずくまっているだけだということだ。 これはあたかも、敷地いっぱいにマンションを建てられ、そのまわりにわずかばかりの植木が思わせぶりなように植え込んである、そんな光景を反映し、象徴しているかのようだ。少なくとも、庭の敷地に対する占有率が、建築物に匹敵し、あるいはそれを凌駕していた時代が歴史上存在していたことは確かであるのに。
どうしてこのような光景が、いや風景が成立していったのだろう?
日本造園学会は、1994年度から、戦前から続いてきた学会誌を、「造園雑誌」から「ランドスケープ研究」と変更している。この学会の編集によって出版された「ランドスケープ大系」の第一巻、『ランドスケープの展開』によれば、それは「造園」活動の拡大が、世間の通念の枠には収まらないほどになったという現状認識から、「既存の概念に拘束されず新たな活動領域を積極的に包含していくために、学会としては、新たな語で対応すべき時期に至ったと判断した」からとされる。そして、その抱負を実践していくための研究課題として、「これまでの造園学原論・造園史、造園材料施工および管理、造園計画、都市および地方計画」だけではなく、「ランドスケープ解析・情報処理、ランドスケープエコロジー」、あるいは「視知覚分析、行動科学的調査、情報処理、緑地機能分析、微気象調査、生活史、遺跡・老古学、社会資本整備論」といった新たな分野的視点・方法をとりいれ、「研究の科学としての確立、他分野との共同開発、国土づくりへの参加といった要請に応え」ていくことが必要なのだと。
要するに、現状(建築)への遅れを先端的な科学の知識を取り込むことによって取り戻そう、いや「地球規模で園を追求する、園を造る」という「立場」からするならば、「造園とランドスケープを区別するのは適切ではない」と付加されもするわけだから、科学的な装いをまとうことによって、造園的なるものを回復したい、あるいは延命させたいということなのだろう。しかし、このような思考は、よって立とうとしている科学的な立場が、どんな政治的・哲学的背景に居依しているかを考慮していないのではないだろうか?
たとえば、人が庭園や公園を目にするにあたっての生理的反応を調査するという方法がある。あるいはアイカメラを使って人の注視点が景観のどのような位置に集中するのかといった科学的・統計学的方法。しかし、人の身体性や感性自体がその属する文化・制度にすでに既定されているものならば、この調査結果が自己確認にしかならないのはやるまえから明白なことなのだ。被験者がいわゆるその社会の正常者であるならなおさらである。というか逆に、作者は科学的にではないにせよ経験的・直観的に、人が限定され習慣化された身体や感性に従って規則的な反応をみせるものだという前提に立つからこそ、感動的な作品を技術的に造ることができたのである。そうした実践をまさに先端的な科学テクノロジーを使っておこなえば、ハリウッドになるだろう。もちろん、その人の心を動かす芸術的テクノロジーは、そのまま世論操作の政治的技術として応用されていることはふまえていなければならない常識的な教養に属する。
しかし、庭の記憶が歴史から抹消されようとしているのは、これまで培われてきた伝統的な感性が、世界資本主義の進展と、それに伴いかつそれを加速させてきた新しいテクノロジーによって破壊されてきているということであり、この現実的進行を取り戻しや回復といった態度で対処しようとすることは観念的にしかならないということなのだ。われわれは被験者として失格の立場に立たされているとむしろ仮説すべきである。だから科学的方法というのなら、実証的データに基づく帰納法ではなく、仮定・命題的な演繹法になるだろう。
造園家の戦争責任といった言葉はきいたことがない。しかし彼等が、当時の科学的知識をふまえ、他分野の研究者たちと共同し、日本が支配した植民地の国土計画、都市計画に参与していたことは知られている。(*)
* 日本庭園学会誌No.13(2005年12月号)で、市川秀和氏は、「近代日本の造園界にとって、大東亜戦争とは何だったのであろうか。」と、次のように指摘し問題提起している。「さて、昭和初期・戦時下での造園界を取り上げた研究そのものが、管見のところ、これまで殆ど皆無であったとは言え、学術研究の対象として注目に値しないものでは決してない。いやむしろ既に国内外では、建築や絵画、音楽、映画、文学などの諸芸術分野において、戦争遂行に何らかの役割や歴史的意味の実態解明が進められている現在、冒頭で提示した問題視座から近代日本造園史へ本格的なアプローチを新たに挑むのも有効ではなかろうか。」
職人とは渡り歩くものたちであった。庭師であるなら、手入れはこっち、石組みはあっち、垣根はあすこでと旅をしながら技術を学んでいったのだ。そしてその不安定な旅を中断し、あるいは停止させられたとき、危機に瀕した国家を安定させるためにとより大規模な旅へと回収され、徴集されていったのだ。もちろん、そのことで戦争に関与し、むしろ殺人舞台の前線におもむいたのである。あるいは自警団として、非国民をとりしまる立場を担ったのである。
無条件降伏として終わった敗戦をふりかえって、われわれは十五年もの間世界を相手に戦いつづけたのだと誇らしげに語られることがある。もちろん、そうした発言をする者たちは、終戦後もなおジャングルに身を潜め闘争を続行していた小野田さんや横井さんのような人たちではないだろう。ただ鳥瞰的・傍観的に、十五年戦争やら大東亜戦争やらと、戦争という歴史的な大枠で概観してしまうことができる立場に身を置いていたものたちにちがいない。 しかし、敗戦として終わったことなど知ることもできないで、身を潜め、隠れ、逃げ、飢えをしのいで生き延びていた小野田さんや横井さんの生き様は、まさにそれが戦争などというものではなかったことを告げている。彼等の戦いを、戦後のだれが日本帝国軍の戦争のやりかただと認めたがるだろうか? 実際、少なくとも、補給線を分断され、軍隊組織が壊滅し、離れ小島のジャングルに各小隊ごとにとりのこされることとなったような戦争状態は、すでに大枠でくくれる戦争などといったものではなく、各々のものたちがてんでばらばらに、ただ生き延びるために、その場その時の工夫と技術で対処しながら逃走を開始したということなのである。そしてそんな逃走=闘争が、あとからみれば戦争として括られてしまう持続性をもちえたのは、日本人の大和魂などといった精神によるのではなく、もちろん機能麻痺していた日本的経営や組織力などといったものでもなく、戦場に現場あがりの職人たちがかりだされていたからに他ならない。彼等の手にしていた技術と知恵が、ジャングルという自然に、障害として立ち塞がる樹木や石に、土に、雨に、蛇に、毛虫に対抗し身をかわしなんとか折り合いをつけて生き抜いていく闘争を支えつづけることを可能にしていたのだ。 そんなサバイバルな技術とは、「自然」のようにみせかけた迷彩服の意匠のようなものではなかった。(*)
しかし、ジャングルという戦場、戦場という自然から生還したふたりが降り立ったのは、高度成長を成し遂げた日本の風景の中にであった。いや彼等が続行していた戦場そのものが、観光地へと変り果てていたのである。
* 司馬遼太郎氏と大岡昇平氏との間で次のような対談がなされている。
「大岡 横井さんは二十八年がんばったが、あれはふつうの人ではとてもできないな。ひと月だってできないな。とくに、ぼくらインテリにはね。手に職のある人間の強みですね。
司馬 人類として例外の記録でしょうか。人類は一人では暮らせないというのが常識でしょうけど。横井さん、自分の手の技術に引きずられて生きていったんですなあ。精神とか意識というより、手がくるくると前へ前へと進んでゆくから、つい生きてしまったという面もあるんでしょうね。しかし、兵隊さんというのは、すごいですなあ。将校さんはだめですね。
大岡 現役の強さね。兵隊の眼から見ないと、日本の元軍隊の特質はわからない。つまり下から見ないと……。
司馬 下にいちばん重圧がかかりますからね。だから、大岡さんが、もし将校でフィリピンにいってらしたら『浮虜記』などの名作は生まれなかったかもしれませんな(笑)。……(略)……
大岡 帰るときも、これも捕虜のうしろめたさと関係するんだけど、「起生会」というものが出てきた。帰っても家族も近所の人も自分を快く迎えてくれないだろうと思い込んでる人がずいぶんいたんです。これは横井さんの心境と同じで、横井さんも国へ帰っても日本人に容れられない。そこで穴にこもったと思うんです。
司馬 私もそう思います。横井さんにとって、敵は日本社会だった。いちばんこわいのは、ほかならぬ日本社会だったでしょうね。」(『司馬遼太郎対話選集―3 日本文明のかたち』文藝春秋社)
2 庭とガーデニング
これまで高木に登ることすらなかった庭師が、山師や空師といった高木専門の職人たちにかわって、その剪定をすることになったのはどうしてだろうか? しかも、山師や空師が寸胴切りのようなほとんどぶつ切りで処していた高木を、「自然」的な整姿形で剪定することが要請されている。それは「緑化」という名をもつ事業とそれを請け負う会社の出現と同時的な現象のようにみえるが、しかしそれまで二十メートルや三十メートルにまで育つ環境にあった樹木は、切る必要さえない自然なままのものだったのである。あたかも木登りをしやすくするようにと、腰のベルトにつけられる携帯用のノコギリが普及しだしたのは千九百も八十年代になってからであって、それまでは毛糸であんだ細紐に木鋏ひとつですんでいたのであり、木を切らねばならないような場合は大工用のでかい鋸をかついで登っていったのである。しかしいまや、緑化事業を受注する会社の下請け職人として、庭師が雑木林に分け入り、森林という名を持つ公園に派遣され、まだ誰も手をつけていなかったような樹木を切らねばならない。そしてそんな要求は、どうも住民による、住民のための政治として招来されてくるようである。枯れ葉の掃除が大変だ、とよに枯れ葉がつまってしまう、といったその地区行政への苦情を通してである。確かに、枯れ葉は「緑」ではないだろう。しかし自然なものであることにはちがいない。ということは、「緑」が自然を志向している言葉ではなく、あくまでこの歴史の中での文化的、人為的な志向性を受け持たされた言葉であるということだ。その言葉にはむしろ、自然そのものの在り方を巧妙に抑圧し、隠蔽しようとする欲望や意志といったものが見え隠れしている。
しかしまた一方で、ここ数年らい、住民によるガーデニングのブームがおこっているという。コンテナやプランターをもちいた、イギリスの個人庭園をモデルとした、造園というよりは園芸の方向での庭造りであろう。そこでは「緑」というよりは、「花」が主人公となる。人々が緑より花、そして花より団子を欲望するとするのは心理的にはわかりのいい話だが、しかしこの真理は、より複雑なメカニズムが産み出すからくりである。樹木の産出する枯れ葉の自然現象としての変遷は、常に地表にとどまり、表土と化して地上に露であることである。しかし緑や花となると、それはきれいごとな理念的抽出物であって、変遷過程が考慮されているかは疑わしい。さらに団子となれば、食ってしまえばきれいさっぱりである。しかしこれも具体的な事実のようであるが、食べたものは腹の中で消化されれば、糞と化すのであり、人がそこまで考慮せずともすむのは、水洗便所を通してその排泄されるべきものとしての糞を地下に抑圧し、隠蔽しうると知っているからである。いつまでもそれが地表にとどまっているモノであるとしているならば、トイレから出てくるときに「さっぱりしたあ」とは言わないだろう。いや現実上は、素直にはそう言えないことを知っているというべきであろう。暗黙であるにせよ気付いているからこそ「緑」などといった言葉が必要とされ動員されてくるのである。排泄されたもののことを「落し物」であるとか「忘れ物」であるとか慣用しても言うが、それは自分のしでかした行為に、どんなに抑圧し隠蔽しようとついてまわってくる金魚の糞のようなモノがあること、そしてそれがなにか「大切なもの」なのではないかという後ろめたさがあるということなのだ。ではいったい、実際のところ、何をしでかしたというのだろう? 排泄行為と「さっぱりした」という自己欺瞞を支えている下水処理施設とがなんだというのだろう? 落としていくべき、忘れていくべき大切なモノとはなんだというのだろう?
R・ボルヒャルトはその著『情熱の庭師』(みすず書房)において、それまで庭の「第一目標」でもなかった花の潜められた状況を変革したのは、「コンスタンテイノープルの陥落とアメリカ大陸の発見である」と言う。「これらの事件の影響が、ゆっくりではあるがますます抗いがたいものとなり、最後には変革と化し、庭と花との緊張関係を決定することとなった十六世紀こそ、今日なお見極めがたいなりゆきの、最初の頂点なのである。」要するに、ヨーロッパという一地域が、世界交通の内部へと本格的に開かれたということだ。アジアやアメリカから輸入されてくる花々が、それまでの古典的な庭の形式を崩すのである。「殺到して溢れかえった植物がもはや把握しきれぬほど増加し、拡大した商業園芸が、商品目に指定した纔ばかりの花の園芸品種をますます細分化して品種改良を重ねるにつれ、その世紀の終わりには、ヨーロッパの庭園の凋落は恐ろしいほど進行し、完了する。王侯の庭園は、よそよそしい名所にすぎない過去の記念碑と化した。風景式庭園は、平凡な都市公園、市民公園となった。花園は、昔の幾何学とオランダ様式のカリカチュアである毛氈花壇や鉢物用台架や切り花用庭園となった。つまり、全く庭ではないものと化したのだ。イギリスが前世紀の終わりと同様、新しい全面的な庭園革命を体験したことは、世紀末の大陸では周知の事実となった。この革命はすでに海を越えて広まっている。イギリスは花と庭との緊張関係を解消した。イギリスは、世界の植物相の蒐集者たる一大世界帝国の首都という地位を己れに割り振った状況を回避せず、それどころかこれを完全に受け入れ、それゆえ風景式庭園という自国の伝統も、同じく否定しなかった。この新しい庭も、十七世紀のアウリクラと水仙の栽培や、十八世紀の庭園の発見と同様、国民的な事件である。それは、以前の事件と同じく、万人の手に庭を委ねる。手に入れたい人は誰もが庭を手に入れる。それも、秩序としての花と庭の秩序とのあいだに、人間の秩序たる庭をもつのである。」
なにも現在の日本のガーデニング・ブームが、百年遅れで「海を越えて」やってきたというわけではない。もちろんいまのブームが、実質的に、つまりは少なくとも経済的には、世界資本主義の中心的な一役を担うまでになった日本の支配的状況からきていることは大きな理由の一つだし、その世界中から珍しくしかも高価な花々をかき集められる情勢が、常緑樹と石を中心とした日本の伝統的な庭の形を崩し、時代にそぐわぬものとして歴史の外においやってきているのも確かなことだろう。しかしこれはいまになってはじまったことではないのだ。むしろボルヒャルトが指摘しているように、世界的同時性として、すでに日本の歴史もまた世界交通の中へと開かれたのであり、いまなお流通している日本の伝統的な庭のイメージとは、その交通の最中で模索され対処されてきた技術が、一般に流通しえる様式として把握されなおされた結果である。十六世紀に結実されてきた技術が、十八世紀にイメージとして様式化すること、その「変革」は一般に江戸時代の庭は形式化されすぎて独創的なものがなく面白くないという否定的な評価として表明されてきもしたわけだが、それはまたイギリスが「一大世界帝国の首都という地位を己れに割り振った状況を回避せず、それどころかこれを完全に受け入れ、それゆえ風景式庭園という自国の伝統も、同じく否定しなかった。」ことと同義である。大衆的に普及した庭、もはや庭でもない庭は、「人間の秩序としての庭」にもなりうるのだ。ボルヒャルトの言葉は両義的な評価からきている二重的、イロニカルなものである。
もちろん、江戸は当時世界でも一番の人口を抱えた大都市であったとはいえ、「世界帝国」などといったものではない。そしてまた鎖国状態に閉じたのである。しかし、江戸時代とはなお戦国時代であって、地方の封建各国とはいつ下剋上をおこすやもしれぬ外国である。しかしその多様な価値システムをもった各々が、ひとつの交通空間として閉じられたということだ。そこでは庶民的な旅が流行するだろう。商人は各国の花々を取り引きし、植木屋は品種改良を試み、戦場として名高かった場所が風景として成立していくだろう。江戸幕府はとりあえずは飽和した征服地を拡大しようと、北海道に探検家を派遣し、植民地化しようとの帝国的策略を練るだろう。規模は小さいとはいえ、そうした政治的動向を支える産業基盤が形成されたのであり、その基盤は十六世紀に開かれた世界交通に参画する重商主義的な活動からもたらされたものである。
たとえば、借景という技法が本格的に現われだしたのは十七世紀初めの頃のことらしいが、その技術について柄谷行人氏は「借景という言葉は、庭が中心であって、その背景の自然風景はそのために「借用」されるかのように思わせる。しかし、実際は、外的な風景が庭を通して見られるのである。つまり、借景は、小さな庭を補うために外的な自然を借りるのではなく、むしろ巨大な自然を一種のレンズを通して縮小することである。」(「批評空間」1998、17号)と考察している。要するに、実は縮景なのだということだ。しかしそれは中世的な「枯淡」の境地とは区別されねばならず、ゆえに「伝統的」なものでもないのだという。「日本において、庭園であれ、詩であれ、茶室であれ、人形であれ、それらを極度に縮めていく志向は決して伝統的なものではない。それは、「無限」に直面しそれを封じ込めようとする意志を示している。そして、それは歴史的なものである。私の考えでは、それは十六世紀に拡張し中世的なものからの切断を試みた近代的な──というより、ルネッサンス的な精神の胎動に根ざしている。織田信長に代表されるような、鉄砲や大砲によって旧来の体制を破壊する絶対主義的な権力の出現、境をはじめとする自治都市の出現、さらに超越的な宗教運動=農民運動(浄土真宗やイエズス会)の拡大。いうまでもなく、それらはコロンブス以後の「世界交通」、ウオーラーシュテインのいう「世界資本主義」に対応するものである。それはそれまでの「限りない」世界を閉じることによって、真に「無限化」するものだった。この実無限に対して、たとえば、利休はモナドとしての茶室を可能なかぎり切りつめることで対応しようとしたといってよい。」
しかしこの衝撃と、それに立ち向かう意志は、つまりは創造意欲は、天下を統一した秀吉の、そしてまた家康の弾圧によって封じ込められていき、江戸時代の具体的な鎖国とともに緩衝されたのだ。つまり借景の普及は、「ルネッサンス的精神」の封じ込めにとりあえずは成功した直後の時期あたりから、利休的な「モナド」の反転として広がりはじめたのである。その緩やかな、あるいはなめらかに均質化された偽造空間として、縮景とも借景ともつかぬ回遊式の庭園が量産されてゆくだろう。あるいはまた、庶民的な、園芸的な庭が。それらは「人間の秩序たる庭」として、形式的なというよりは様式的な、安定したイメージとして反復されるだろう。つまり伝統化していったのである。
3 庭と都市
富士山を縮景として日本の庭園に組み入れることが普及しだしたのは江戸の社会も戦国の記憶が薄れはじめてからだろう。小石川後楽園に富士見台が新たに設けられたのは治保時代(1766~1804)になってからだという。鎌倉後期から南北朝の時代にも富士の借景や代理富士を使った縮景の庭が造られてはいるが、富士山が日本的なるものの象徴として抽出されてくるには、まさに国土が均質な風土として敷ならされたあとからでなければならない。それは遠近法を欠いたのっぺらな並列的な絵画空間に、葛飾北斎が浮世絵として富士山を描出していった過程と平行していることだろう。
しかしだとしても、これらが実は歴史的な反復であり、繰り返される事(=言)柄を産出する構造のより平準的な浸蝕なのではないかということは、その富士という名から考察されてくるのだ。
富士という名の由来を最初にとりあげているのは、「物語の出で来はじめの祖」と称されもしてきた「竹取物語」である。(*)この物語によれば、富士とは帝がかぐや姫からもらった「不死」の薬を焼かせるために、「たくさんの兵士」たちを集めゆかせた場所であるからとされている。この最後にとってつけたエピローグのような文章は、帝に対するかぐや姫の抵抗といった物語内容を鑑みるとき、どこか怪しい深長な意味を浮かび上がらせてくる。むしろ物語の成立順序は逆なのではないか、と。まずその山で、あるいはその向こう近辺の東方において、規模の大きな戦争があったのではないか、そしてたくさんの兵士が死亡したのではないか、そして帝の側はかろうじて勝つには勝ったが損害も大きかったのではないか、あまり褒められた戦でもないので、そのまま伝承させるわけにはいかなくなったのではないか、「不死」の薬を燃やすとは犠牲となった兵士たちを弔うための物語化された願いなのではないか? しかしなお記憶は生きていたので、その作品は構成的不具として、つまり中国からの伝承物語や国内の説話を取り込みながらも、きれいごとには消化しきれず、断片として付記されたこの富士の名の由来が、歴史の痕跡をかいま見せるものとして吐き出されているのではないか? だとしたら、鎌倉後期からの富士、そして江戸の富士とは、不十分な原形としての「竹取物語」を反復しながら十全化していくものともいえるだろう。それらは平安の貴族体制を崩していった戦乱の、そして戦国時代に決着をつけた戦争の記憶の敷均しであり、歴史の物語的回収であり、観光地としての登記とも捉えられるのだから。
* 『竹の民俗誌―日本文化の深層を探る―』(岩波新書)の沖浦和光氏は、竹と縄文文化を系譜にひく先住民族との関係を指摘しながら、この物語の背後に天皇王権によるそれら先住民族への抑圧と差別の歴史を省察している。そして『竹取物語』の作者は「天武・持統朝のやり方に賛成できぬ批判分子」であろうと推察している。そこでは、支配者に忠誠を誓った南方の先住民は制度内に組み入れられたが、東方の「徹底的に抵抗して俘囚となった蝦夷は、卑賤の民として諸国に配流された」というのである。しかしそこでも、やはり7世紀の歴史が9世紀以降に書かれたらしい、という時間経過のことを考慮する必要があるようにおもう。
それらは九世紀、十四世紀、十八世紀のことと言えるかもしれない。
この時代は、建築家の磯崎新氏の考察にならえば、「和様化」の時期と指摘できる。「私は、日本の建築の歴史のなかで、その展開にいくつかの筋目があり、それが常に「外部」との関係を再編することで、一種の危機の切り抜けがはかられてきたことを思いおこす。それは、七世紀中期、十二世紀中期、十六世紀中期、十九世紀中期で、その時点までに日本の「内部」で独自に展開していた和様化が停滞し、そのつど社会的な動乱を介して、「外部」よりの移入または全面的な開港による混交を加えることで、事態が推移していることである。そのときの「外部」としての異文化は、それぞれ韓国、中国、南蛮、西欧という具合に変わってきている。そして、いずれもが、その後に和様化という日本的な変形過程に組み込まれる。」(『始源のもどき』鹿島出版会)
外圧から内乱へ、輸入から和様化へという現象は、建築にかぎらず日本の文化全般にみられることだと磯崎氏はいう。それは伊勢神宮にみられる神社様式から、平安時代の女流による仮名文字の文学作品、枯山水の庭、浮世絵、そして二十世紀の和様化の時期にはウオークマンである。「ここに共通してみられる性格は、自律的に展開して次の位相へと移行することをせずに、ひたすら凝縮し、洗練の度を加え、挙句にユニークネスを獲得はするが、外部との緊張を高めた挙句の動乱を待たねばならないことである。」(同上)
いまも伝統的に続いてきている植木屋の技術とは、この和様の身体化されたものだということができる。そしてこの伝統は、十六世紀の動乱からくる十八世紀、江戸中期の頃に確立されたものではないかと推定されてくるが、実証的にも刈込みという樹芸が普及しだしたのがこの頃のことではないかと検証されてもいる(進士五十八著『日本庭園の特質』東京農業大学出版会)。三ッ葉残しといった技術は、その極致であるとも演繹しうるだろう。葉を各枝に三枚づつ残さねばならないといった技術には、なんら実質的意味はない。外圧として輸入した韓国や中国の庭園では、まずは手入れなどしないということが本質的な原理なのである。しかし、この形だけのルールに従うことが、和様の身体化なのであって、それは茶道や生け花といった作法と同等であり、現在ではパチンコといった日本的な技芸に引き継がれているだろう。しかし当然ながらそこには「落し穴」があるのだと磯崎氏は指摘する。「ルールは固定されているからこそ大衆化するのであって、もし新しい状況が生まれているとすれば、自己再組織化を通じて再編されなければ対応できないのだが、そのようなダイナミックな要因を注入するとルールが破壊されてしまうという矛盾が起こる。これは各時代において、「和様化」が、その純化洗練の極限に到達すると、ここで運動が停滞し、単純に別のルールの導入によって、切り抜けられてきていることである。古いモデル(ルール)の消尽──社会的動乱──新しいモデル(ルール)代替という繰り返されてきたパターンで、自己再組織化の契機を欠いているといってもいい。」またこうした「原理」を問わず、形だけのルールに従うことを暗黙に強制され競争させられているゲーム的な土壌を背景に、「談合」といった政治的技術が生まれる必然性があるとも述べられていることを付記しておこう。この周期性を磯崎氏は「五、四、三世紀と一世紀ずつ期間を短縮して発生し」、ゆえに来る二十一世紀は「動乱」にあたると文化史的に考察している。
しかし、他の分野のことはいざ知らず、庭師の技術と身体が和様化に限定され収斂していくとするのはまず疑問にふされねばならない。なぜなら、たとえば木に登るということ、それは作法には還元されえない技術である。格好などつけていられやしないのだ。とにかくしがみつき、歯を食いしばって登っていかねばならない。あるいは石を据えることを考えてみればいい。押し、突き、転がす、そしてテコの原理を使った工夫。穴を掘ること。植木をかつぐ、そのための縄の掛け方の多様な技術、しかもそれは土の質が地方によってことなるので、その地域地域であみだされた様々なものなのだ。この単純であるとともに複雑な身体の筋肉と直接した対処を、制度文化的に均された身体の規則性(ルール)に解消させることはできやしないのだ。植木屋といえばハッピ姿という伝統的なイメージが、おそらくは江戸中期頃から形成されてこようとも、茶道や生け花、あるいはパチンコといった作法には還元しえないモノを抱えこんでいるのだ。
では、庭師の技術とは具体的にはどんな在り方をしているのか? それにはまず、「庭」という場がどんな場所として捉えられてきたかを考察してみる必要がある。
進士五十八氏は庭の「基本構造」を語源的に探って次にようにのべている。(『日本庭園の特質』)──「ところで、庭(garden site)は建物と一体となって住生活の基本単位となっている。周囲を垣などで囲む構成が様の東西、時代にかわりなくみられるのは、敵の侵入や強風から家を保護するのが、庭の基本機能だからである。庭園を意味する東西の語源に「enclosed space」があるのもこのためである。たとえば東洋では、庭〈テイ〉─建物で囲まれた場所、園〈ソノ〉─果樹の植えられた囲まれた土地。西洋では、Garden─ヘブライ語のgun( protect and defendの意味)と、eden( pleasure and delightの意味)の合成語、Yard─アングロサクソンのgeardすなわちhedge,enclosureから由来したもの、である。」そして以上の考察から庭の「本質」には「囲い」があり、その囲われた内部に理想環境のイメージ、楽園やユートピアの表現がおこなわれるのだと。それは、「庭─囲われ閉じられた空間─楽園・ユートピア─田園─自然─風景・景観─ランドスケープ」といったイメージ連鎖の支柱になるだろう。おおまかには、庭を自然と結び付けてしまう思考である。
しかしそれは本当のことだろうか? 語源的な考察は、自然主義の一変種たるロマン派によくみられる傾向だが、それはわたしたちの生きた系譜を見失わせてしまいがちである。自分の遊び場のことをニワといい、ヤクザ者がここは俺のニワ(シマ)だ、と言う時、その用法には明確な囲いという常態的な安定ではなく、境界地がいつ塗り替えられるかもしれない動態的な不安定さを、あるいは生き生きとしたものを提示していないだろうか?
ニワとは、古語として「日和」とも表記されたりもした。(*)それは陸上の広々とした空間にたいしても用語されたが、おおくは海上の空間を意味し、また天候の善し悪しにも言われた。どういうことだろうか? それはこれから海へ、陸の何処かへと航海や旅にでるものが、その日の空模様と海の様を注視するにあたってでてきた語意ではないか、つまり、庭とは交通の、交易の空間としての意味が内包されているのではないのだろうか。(――おそらく漁場(天気)としての日和が、「島(シマ)」という造園作りの古語と結びつきながら、庶民的な営みの場で、「庭(ニワ)」として概念創造されていったのではないか――)だから、中世においては、モノとモノとが集積し、交換され、売買される空間のことを、「市庭(イチバ)」というだろう。あるいは関所などで払う交通税のことを、「庭銭(ニワセン)」とも呼ぶだろう。また手習のための教科書として使われた冊子には、「庭訓往来」といったものもある。これは書簡体で書かれたものだが、もちろん文通という交通の意味があるからだろう。また江戸時代にもなれば、「庭銭」とは、荷物を宿や倉庫に預けるさいに支払う金のことであり、あるいは祝日などに客が遊女にあたえる金、その逆に遊女が置き屋の主人や奉公人にあたえた金のことをさすようになるだろう。それは遊女が異界との交通空間にいる者だからではないのか。あるいは庭番とは、各地にもぐりこみ情報を集めてくる忍者であり、あるいは共同体とその外との境界にある高木に登りもしやの敵を監視している者である。要するに、庭とは交通の、交易の場所といった意味をもたされているのであり、寺社の境内に庭が多く造られるようになったのは、そこが異界との境界としての、交通としての場所であり、また実際そこは市場=市庭であった。金融の発生が寺社とその僧たちではないか、しかも彼等が造営資金を捻出するためにあみだしていったのではないかという考証は、歴史学上あきらかにされつつある(網野善彦氏などによる研究)。
* 岩波古語辞典によれば、「庭」における「漁場」としての意味が転じて、「日和」となり、「風がなく、海面の静かなさま」をさすようになったとされる。小学館の古語大辞典の「庭」の「語誌」には、「家屋の周りの平らな土地や地面が原義であるが、これは同時に宗教的に神聖な場であり、農業のための生活の場であったと考えられる。やがてそこに草木が植えられ、池や島などが造られると、それはもう美観を主目的とする園(その)であり、山斎(しま)であって、「には」とは区別されていた。」と解説されている。学研の国語大辞典では、「庭」の「水面。海面」を意味する万葉集での用例も、「海全体を指すウミやワタツミとは異なり、眼前の一部の海面であり、海人にとっての生活の場・作業場・漁場としての意味と解される。」とされている。以上の慣用の考察からは、進士氏の語源に返った理解の方が、少なくとも日本(語)の文脈では、自明的であるとはいえないのではないか?
<庭─開かれた空間─交通・交易としての場所/異界との境界─(金と物との)市場・マーケット─都市>
つまり、「庭」を動態的な「都市」として考えること。あるいは都市として読み直すこと。エコロジーの問題ひとつとってみても、それが「自然」の問題ではなく、「都市問題」の結果として生じていることは断わるまでもないことだろう。郊外や地方へと焦点化されていくような「ランドスケープ」といった試みは、「庭─自然」といったこれまでの近代的な作偽に基づいた思考の延長なのであり、それを乗り越えていかせる思想や技術になりうるのかは疑問なのだ。(*)
* 中沢新一氏は、「都市というものは人類的にみても、どうも「庭」と本質的な関係を持っているらしい」と指摘しながら、東京の「路地裏の庭園」を抽出してみせている(『アースダイバー』講談社)。「都市は「市の庭」や「裁きの庭」や「神仏の庭」といった、さまざまな「庭」を集めてつくりだされた、自由の空間として生まれたものである。それはいつしか、自由で軽やかなものをお金や権力で自分のものに囲い込んでしまう「私有の原理」によって、汚されてしまうことになった。ところが、この路地裏にだけは、都市というものを生み出したおおもとの原理が形をかえないままで、いまにいたるまで生き残っている」と。そしてその路地庭に置かれた「盆栽の思想こそ、都市に怪物を生息させるための最上の方法ではないだろうか」と提議する。「盆栽は人間の理性がつくりだしたものだから、自然が野放図に成長した結果でもないし、コントロールのつかないスラムでもない。」……しかし確かに、無駄な情報量を縮減していく「模型」的な近代の合理思考とは違った思想がそこにあるとしても、それは「どんなに細部までおりっていっても、すこしも情報量が減らない」職人の「怪物」的な剪定技術によって反復されているのである。理論的には、その盆栽の剪定技術によって、刈り込み技術によるトピアリーなものとはちがう、ミッキーマウスの形象なども作ることはできる。外見的な形象の違いは、文化的な趣味の問題にすぎない。が、現場の思考は、それを支える技術にこそ洋の東西に普遍的な、自然という「フラクタルな」複雑さへの対応があるだろうと推測させるのだ。実際西欧でも、一般に幾何学的とされている代表的な庭園とは特別な例外であって、職人による庶民の庭が別に普通にあるのだ、とは指摘されていることである。
最古の作庭書として伝わる「作庭記」は、現代語に翻訳するにあたって、こちらで漢字を補ってやらなくては意味が読みとりにくいくらい、平仮名が多用されて綴られているらしい。その書記のあり様は、とりあえずは内容にマッチしていると言われえるかもしれない。この書物が表わされたのは平安時代の後期と推論されているが、もしこの文章が漢字だらけで記されていたならば、作庭作法が実践されている平安の庭にはそぐわないものにならないだろうか? 漢字とは、あくまで外来の文字ということを喚起させる。しかし想像される平安の庭は、「源氏物語」にもうかがえるように、やわらかな印象をあたえるものではないか、つまりその庭には、ごつごつした感じ=漢字がないのである。ならば庭において、その漢字=感じを惹起させてくるものとはなんであるか? もちろん、石であろう。
飛田範夫氏は「作庭記の技術」として次のように述べている。「延段の形状に凝るとか、複雑な石組をするようになったのは後世のことなのである。平安時代の石はあまり組まず、要所にしか置いていない。十分な経費が捻出できなければ、簡潔でありながらも美しく楽しめるものをつくるしかないであろう。そうした点では平安時代の庭園や「作庭記」は参考になるはずである。」(『「作庭記」からみた造園』鹿島出版会)
しかし「作庭記」として伝えられるものは、まず「石を立てる」ことが主眼におかれているのである。この一事は、たとえその内容と形式が一致したリアリズムな表現として、つまり「自然」な様態として表現されていようと、その最中において亀裂を走らさずにはおかない。「要所」にしか漢字=石を置かないで、「簡潔」で「美し」く「楽しめる」庭が自然(=仮名)に即した表象を身にまとおうと、その石が三尊として立っている一事が、自己充足的な完結を崩しているのだといってもよい。
この「立てる石」は、しかし室町後期、横に伏せられて組まれた。西芳寺の池泉や、「虎の子渡し」とも呼ばれる横三尊の石組みをもった、竜安寺の石庭においてである。 そして明治も半ばを過ぎれば、「自然主義」の作風を持った一人として名を馳せた小川治兵衛が、「自然の中の石は寝ているもの。それが自然だ」と弟子にいいきかせるようになるだろう。
この外来の文字としての石が寝ていく過程は(重森三玲・完途著『庭』光風社選書*)、富士山の場合と同じく、「動乱─外圧─輸入─和洋化」といった時代的区切りと平行した現象でもあるようである。むろん、立てることが忌避されてくるのは、「和洋化」にあたる時代である。動乱の中世では、まず石立て僧と呼ばれる者たちが活躍しはじめ、戦国時代の庭となれば石の乱立的な状態である。しかもその石組みの原形を造り上げたといわれる者は、元の襲来に怯えていた十三世紀、密使ではないかと辺境に流されていた中国からの渡来人、蘭渓道隆であるといわれ、その東光寺の庭にみられるという。あるいは風狂とも呼ばれ、当時の禅界を嫌悪し、外部的に超然と孤立していた一休の酬恩庵廟の前庭では、あたかも立ち上がった石が来訪する者たちを拒絶するかのように門前に据えられているという。あるいは利休の露地庭においても、表面が平らの飛び石ではなく、どこかぼこっと突き出た石が選ばれていたりするのは、不注意な者をわざとすっ転ばすように仕掛けているのではないかということが建築家のほうから指摘されたりもしている。そんな態度は、武士でも刀をとらなければ茶室に入れず、殿様でも頭を下げなくては出入りできない建築の構造と同等なものだろう。要するに、石を立てるということ、あるいは石というモノの外在性に即する実践とは、ある種の批評行為として生きられたのではないか、逆にその批評性が失われていくとき、石は寝かせられ、自然に即した造形とされるだろう。そしてこの「自然」な様態としての庭の十全的な表象が、雑木の導入として大正時代にもてはやされることになるが、そこでは石は景石というよりは捨て石として、ほとんど風景の中へと埋もれていくようになるだろう。しかし注意すべきなのは、この実践の契機に国木田独歩の「武蔵野」という文学作品の影響が指摘されていることだ。国木田の「風景の発見」が、それまでの文学的に知名度ある景色を概念的に重ね合せるだけのものとして見ることしかなかった知覚態度を転倒させ、無名のありふれた光景をクローズアップさせていくことになったわけだが、そのイロニカルな認識は北海道という植民地化された場所において成立したものなのである(柄谷行人著『日本近代文学の起源』講談社学芸文庫)。もちろん、北海道が現住民であるアイヌ人の視点からみられるならば、全く無名な自然などといったものではない。しかし「風景の発見」とは、そうした異質なる者たちの現実を巧妙に抑圧し隠蔽した、自閉的に倒錯されたものとしての「内面の発見」でもあるのである。これは言(内容・内面)と文(形式・対象)とを一致させるという言文一致と同時的な、リアリズム(自然主義)な装置である。しかしまた、東京の職人たちが庭石として「下等品」(上原敬二著『庭石と石組』加島書店)扱いされる富士山の排泄物たるぼく石を潜ませてきたのは、そんな時代においてなのである。(*)
* 両氏は「三尊石組の手法も各時代によりその構成の手法も異」なるとして以下のように描写してみせる。それによれば、平安期は平面において正三角形をなし立体面において山形をした、「温雅な」うちに迫力をもった手法、鎌倉時代は平面において平安のものよりやや三角が平ら、立面では「巨石」を用いて構成される、室町では立面において脇侍の「一石がやや小さく背も低くなり」、桃山になると「変化」に富み、「ともかく動きの激しい状態」を示し、江戸初期では三角形が「非常に平らな姿」となり、中期では立面における用法が「横石」となり、脇侍の二尊は「特に小さく低く、全く迫力も気品もなくなってくる」。さらに末期ともなれば「中期より堕落」し、平面において三角形とは言えないくらいになり、三尊とも一直線上に並ぶ。そして立面では中期より更に「弱く力がないため、三尊としての構成に必然性がなくなって」しまう、と。もちろん「立石構成は如何に力強い構成を示すものか」という氏が、捨石として横に、あるいは臥せて用法するいわゆる自然主義風の構成を「石組みのうちでは最も堕落したものの一つ」と述べるのはいうまでもない。
* 富士山への登山は、12世紀のいったんの休火山化にともない、宗教(修験道)的な動機からはじまったとされるが、その体制抵抗的な庶民の運動は江戸後期にも潜在していたらしい。ヨーロッパのアルピニズム・ブームにのって富士登山を要請したイギリス公使に対し、幕府はそれが「金も暇もないような貧しい階級の人だけによって行なわれている」のでふさわしくないと反対したという。(上垣外憲一著『富士山――聖と美の山』中公新書)つまり富士山という日本の象徴は、なお体制的に十全化されているわけではなかったのだ。もちろん今でさえ、富士山麓は、自殺の名勝でもあるわけだが。
つまり、その過程で捨て去られたモノたち。落し物。都市の風景としての景観を保たせる下水施設が処理しきれぬ残余。大切な物たち。都市=庭を思考するとは、この排除しきれぬからくり、様態ではなく動きを、つまりは自然という本性(nature)を握持することによってのみ成立するのである。
植木職人の技術とは、この本性と付き合うことからはじめられる。
2021年4月10日 発行 初版
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1967年生まれ。植木職人。 自著;『曖昧な時節の最中で』(近代文藝社)・『書かれるべきでない小説のためのエピローグ』(新風舎) *カニングハムは、「振り付けするとはダンサーがぶつからないようにすることだ」と言っている。盆栽に象徴される日本の植木の仕立ての技術とは、枝が交差し絡み、ぶつからないよう偶然を準備していくことにある。自然に気づかれないで、いかに生起してくるaccidentを馴化していくかの工夫なのだ。たとえ西洋のトピアリーのような造形をめざさないことに文化的な価値の規定を受けていようと、そこには特殊にとどまらない普遍的な対応がある。芥川が「筋のない話」として日本の私小説の困難な特異さと歴史的前衛性を洞察したことが、日本の植木職人の技術のなかにも潜在するのである。