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ひまわり

宮本誠一

夢ブックス



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         ひまわり
          一
 細い道路を挟み、丸っこい人頭ほどの大きさの自然石を組んだ石垣上の向かい家の庭から烏骨鶏の鳴く声がした。私の住居と職場を兼ねた福祉作業所『ひまわり』二階の南の採光口からは、雀の賑やかな囀りと羽ばたきも聞こえる。外から見ると漆喰壁のほぼ中央の五十センチ四方の嵌め殺しの出窓は、日が移ろうに従い欅の枝の影を周りに映し、時を刻む文字盤に開けられた螺子穴のようだ。
 烏骨鶏は全部で五羽いてその中の一羽が雄だ。夜間は鼬に狙われぬよう廃材の板切れを張り付けた簡素な小屋に入れ、昼間は外で放し飼いのようにしてある。十平米ほどの広さに地面へ直に木の杭を打ち込んで柵をつくり、大人の太腿辺りまでの高さに無造作に金網をめぐらしたひどく粗末なつくりなので、よく逃げ出した。私は二度捕まえ、持って行ったことがある。高齢の夫婦は、行くたびにお宅は何屋さんですかと聞き、たいそうありがたげに一度目は卵を、二度目は肉を礼にくれた。卵は普通の鶏とさほど違いなく、黄身が崩れにくいのできっと凝った飼料が与えられているのだろうくらいに感心したが、肉の黒さには驚かされた。平皿の上で艶やかに黒光りした身と骨を前に、これまで自分が目にしていたのとはまったく別種のものに思えた。塩だけで味付けても充分風味がするという言葉通り、スープは黄濁色に染まり、崩れかかった鶏ガラはかつて白い綿毛を逆立て走り廻っていた面影の片鱗さえなく、私がゆっくり噛み砕くと、濃厚な味は瞬く間に広がり舌先に絡みつき、口腔を潤した。   
 そんな鳥のけたたましい鳴き声を追うように、やがていつもより一時間早くセットしてある携帯のアラームが聞こえてきた。
 まもなくすると地元テレビ局のクルーがきて、ニュース番組でひまわりを紹介するための収録が行われることになっていた。私が前年、介護職の集まりで発表したひまわりの設立からこれまでの日々を綴ったレポートをたまたま目にした橋田という女性ディレクターから二か月前に突然連絡があり、取材の申し出があったのだ。それから三度来た末、作成した企画書が無事通過したそうで、日程を調整し、今日が撮影日となったのだ。五分間ほどのトピック的なものになるらしく、メンバーを迎えに行くところから撮りたいとの要望で、私が出かける時刻より少し早めにやってくることになっていた。
 ひまわりは八年前、私が二十六歳で教員を退職し、学生時代、アルバイトで腕に覚えのあったパンづくりを生かし、九州中央の山間地に開所した。ようやく二年前に市からの委託を受けられるようになり、現在は最も小規模な事業に沿う補助金とパンの売り上げでどうにか運営されていた。ただ、登録者も定数を満たしてはいるものの、毎年の実績が勝負であることに変わりなく、テレビで紹介されることは行政や市民へのアピール面で多大な影響と意味を持つのだ。
 携帯から流れるデジタル音は、微睡から抜け出そうとしている私の体の端々へ割って入り、粘り強く繰り返すことでよりはっきりした覚醒へ向かわせようとしていた。私は観念したように、三月初旬のこの時期、高地独特の三寒四温で訪れる冷えを凌ぐため窮屈に「く」の字に折り曲げていた体を少しずつ伸ばし、足先まで神経がゆきわたった感覚をつかむと、縮こまらせていた腕も同時に伸ばした。
 恐ろしく深い淵の底から這い上がってきたような不快な気怠さがあった。しこりのように凝固した強張りが、放置された鉛の弾のように体のあちこちから疼きを伴い感じられた。
 嫌な夢を見ていた。
 目覚める直前に開花し昼間、急速に萎んだ朝顔の花弁のように生命の起伏を一挙に往復したようで、胸奥にひりひりする動悸があった。
 漆黒の闇の中、幻燈に映し出されたようにぼんやりと眉間に深い溝のような皺をにじり寄らせた顔が浮き上がり、私をじっと見つめていた。その顔に向かい、必死にどうしてもっと一緒に充実した時を送ることができなかったか言い訳めいた言葉を探すがうまく出てこず、やがて自分の無力さや忸怩たる思いが募ると感情が吹き零れるようにさめざめと泣き出していた。絞り出す声は自分の耳朶にもとどき、声そのものが別の場所に存在するもう一人の自分ででもあるかのように生身の身体から遊離すると、浄化されることのない混沌とした闇へ彷徨い出ていったのだ。飛行は、およそ定かでない、投げやりでそれでいて茫漠とした一点へ導かれ、何とも心細く、儚く苦しいものだった。
 やがてまんじりとせぬ夜が明けたとき、肩や頭中に固い強張りが残っていた。
 夢に出てきた青年は透と言ってひまわりを開所して三年後、二十一歳の若さで死んだ最初のメンバーであり、私とは八つ違いのたった一人の弟だ。彼の誕生が、現在の作業所をつくる運命へ誘ったと言っていい。
─コウ兄ちゃん……
 どこからかそんな声がした気がした。
 だが今、彼は、ひまわりにはいない。
 わかりきっていることではあるが、日頃、如実に縁取ることの減った透の記憶の輪郭がふとした何かで膨れ上がり、月日とともに微妙な変容を遂げながらも、常に変わりなく引きずっていることに気付かされた朝だった。
 私はまたも弟の苦悩の表情や息遣いに触れ、夢とは言え、居たたまれなくなった。それでもいつものように朝は容赦なくやってくるし、私がこの部屋から一歩たりとも出ぬ限り作業所の運営は滞ってしまう。メンバーや家族には既に今日の撮影のことは確認を得ており、おそらくいつも以上に心身ともに高揚と緊張が来たしているはずだ。私はそんなメンバー三人をまず車で迎えに行き、他の二人は各自、この場所までやってくるのだ。
 自分なりに納得し撮影を受け入れたにもかかわらず、丸一日、外部の者を招き入れ過ごさねばならぬ鬱陶しさと白々しさを肯んじえぬまま、ようやく勢いをつけ立ち上がると、今いる六畳板張りの上り口の柱に、これまた心理とは裏腹に撮影に備え二日前から皺伸ばしのため掛けてある普段あまり着ないカーキ色のジャケットと紺のズボンをハンガーから剥ぎ取り、着替えにかかった。
 一階に下り、皆が集まるリビングや工房、奥のトイレまで一通り見て回った。コンクリ床に防水のフローリングをしただけのつくりだが、昨夜遅くまでモップ掛けや片づけをしたため、埃っぽさはなく適度な小奇麗さが感じられる。   
 数分後、タイヤが砂利を軋ませる音が鳴り玄関から出ると、車体に大きく派手な橙の丸字のゴシックでテレビ局のロゴの入ったワゴン車が、私の軽のワンボックスの横に停車したところだった。助手席のドアが開き、茶系で厚めのフレームの眼鏡をかけた橋田が降りてきた。つづいて後ろから野球帽とスタジャンの背の低い男もカメラをかついでくる。
 橋田は私の多少寝不足気味の表情から不安のようなものを読み取ったのか、親しみを込めた口調で愛想よく挨拶してきた。取材のときとは打って変わり肩まで垂らしていた髪は後ろで束ねられ、頬の線がよりくっきりしいかにも活動的だ。均整のとれた肢体に纏ったデニムのジーンズに薄手のトレーナーと白のダウンベストが朝日に照り映え、私より一回り近く若い二十代前半の年齢を証明するように眩しく見える。
 車の中で打ち合わせしてきたらしく、カメラマンはてきぱきと移動しながらひまわりの外景や周辺の風景を撮り始めていた。
「送迎のときくらいは、ちょっと着替えとこうかなと」
 私がこれまで着ていた、裾のゴムがよれて色褪せたジャンバーでないことを照れ隠しのつもりで冗談ぽく言うと、彼女とカメラマンがほぼ一緒に目尻を緩め白い歯を見せた。
「ちょうどいい斜光だったもんで」
 カメラマンは近づくと一礼し、橋田が緒方と紹介した。運転手と雑用を兼ねた男も降りて来て、自分から佐藤と名乗った。総勢三名のクルーだ。
「ひまわり代表の木村晃です。今日は大変お世話になります」改めて挨拶しな「それじゃあそろそろ行きますが、いいですか」やんわりと訊ねた。すると橋田は「あのー、木村さん、それでょっとお願いがあるんです」
 殊勝げに申し出てきたのは、まず車で後ろから付いていき、街並みも含めた送迎へ向かうシーンを撮り、メンバーが乗ったら車の荷台に緒方が乗り込み、普段の車内での会話のやり取りも収めておきたいとのことだった。
「いいですよ。何でもどうぞ。心の準備はできてますから。ただ、彼らが期待通りのことをやってくれるかどうかはわかりませんよ」
「ええ、もちろんかまいません。それから」
 私がまだあるのか、と言った多少訝った顔になったことを察したのか打ち消すように、
「いいえ、これはお願いじゃなくってびっくりしたことがあったんです。昨日、うちの局のホームページの視聴者からのご意見を受け付けるコメント欄に、数人の方からひまわりさんのロケ頑張って下さいって、メールが届いていて。中には日本に住んでおられる外国の方からも来てましたよ。前にひまわりさんのパンを食べてとてもおいしかったって。よろしく言っといてくれって。木村さん、今日の撮影のこと、どなたかに話されましたか?」
「メンバーと家族には、もちろん了承を得るために伝えてますが」私は、嫌な予感がした。しかし橋田にはその予感を勘ぐられぬように、「周りの人に話しているのかもしれませんね。どうもご迷惑かけて」すまし顔で答えた。
「全然、ご心配無用です。却ってスタッフ一同、やる気が出てますから。それにしても驚きました。ひまわりさんて凄く有名なんですね」
 これ以上はこの話題を止めておこうと、軽く苦笑したまま車に乗り込み、橋田たちもつづいた。
   
         二
 久村洋子と高志親子が引っ越して間がない公営住宅はまだ建てられ二年しかたっておらず、外壁のベージュのコンクリートの吹きかけ塗装も色落ちがなく、清潔感が漂っていた。ゴミの集積場所には黒光りしたステンレスの枠組みの洒落たケースが置いてあり、既に赤色のごみ袋が上蓋や枠の隙間からはみ出さんばかりに一杯になっていた。駐車場前からの階段の上り口とは別に、基礎のコンクリートに沿ってなだらかなスロープが伸びている。
 いつものようにスロープ際に車を停め、擦り足のような歩き方で滑り止めの微細な波模様のついた塗料が吹き付けてある傾斜を上って行った。随分前から痛めている持病の腰痛が、朝のまだ温度が上がり切れていないときや冬から春先までの季節には、腰と言わず足先から脹脛、太腿まで軽い痺れを伴って疼くのだ。
 局の車から橋田と緒方も降り立ち、適当に風景などを混ぜ撮影しているようだ。私はインターホーンのボタンを押し、母親との型通りの挨拶をした後、コの字型の銀灰色のパイプの大きな取っ手をつかみ扉を開けた。スライド式で、手を離せば勝手に閉まるようできている。橋田たちはそこまでは付いて来ない。撮影に当たり二つの条件を出していた。一つはメンバーの家族や家の中は撮らない、もう一つは透については一切触れないことだ。
「わかりました。そもそも特集では福祉現場の明るさと元気を届けるのが狙いですし、できるだけ暗いイメージにならないよう、深刻なテーマは避けるつもりです」
 そうは言っても透の件くらいは死に至る経緯まで興味を示してくるかと身構えていた私も、橋田のあっけらかんとした返事にむしろ肩透かしを食らったほどだった。
 高志は奥の布団に足を突っ込み、不服げな顔で私をじっと睨むように見ていた。キッチンと六畳の居間が繋がったベランダまで見通せる一人暮らしでも丁度いいワンルームのつくりだが鼻先につーんとした刺激臭がした。ついさっき、洋子がゴミ出しに行った僅かの隙に排便したらしく、お尻を突き出した格好でふらふら立ち上がり知らせて来たと言う。
「教えられるようになったんだもんね。タカちゃん、えらいえらい」
 洋子は珍しく満足そうに、笑顔で汚れ物の片づけをしていた。洗浄を終えたようで、トイレの扉がまだ開いたままになっていた。紙パンツを取り替えてもらった高志は股関節が弱いためふらつく足取りで部屋へ戻ると、両足を再び布団へ潜り込ませたらしく、私の到来は彼にしてみればタイミングがやや早かったようだ。ただ、その日の私の立場としては、これで撮影中に排便されなくてすむことに胸を撫で下ろしていた。
「すっきりしたねタカシくん、よかったよかった」
 いかにも健康面を気遣う言葉でその場を繕った。
 ひまわりにシャワー設備はない。ウォシュレットや濡れティッシュ、もしくは直接、便器の溜まり水で臀部や股間を洗っていく。冬場の水は冷たく、飛沫がかかるたびに高志は呼吸を荒げ震え上がる。以前は介護用の使い捨て手袋を着用したが手首とビニールの隙間からの水の侵入は防げないし、嵌める間に高志がどんな行動をするやも知れず、素手でやっている。もちろん処理後はしっかり石鹸で洗いパンづくりに取りかかるが、食品衛生からも、なるべく見せたくない情景だ。
「ほらタカちゃん、早く立って」
 母親が何度促しても、梃子でも動かなかった。私も橋田たちを待たせている手前、部屋へ上がり込み「さあ、行くよ」手を握り引き上げたが振り払い、ウォーと喉を振り絞るような雄叫びを挙げた。両手でこめかみを叩き、次いで布団横の畳に額を二度ほどハンマーのように打ち付け、ようやく自分から腕を差し出してきた。
 居間の壁や柱の角には、縦に二つ折りにされたタオルやバスタオルが絆創膏のように四辺をガムテープで囲み、貼り付けてあった。高志の自傷行為が酷いときに備えてのものだ。アンティックな飾り模様の入った、おそらくは洋子には思い出深いはずの高級な鏡台も、既に横板の真ん中が押し潰され罅割れ、厚手のタオルがしなだれたように下へ垂れていた。
「おはようございまーす」
 玄関口に語尾の若干跳ね上がった威勢のいい声がした。石川睦美だ。彼女もひまわりのメンバーで私より十歳年上だ。自宅から天気の良い日は自転車か徒歩、雨の日は父親に車で送ってもらい、高志と一緒に私が車に乗せていく。
「ちょっと裾、短かったかしら」
 私の肩に手を置かせ片足ずつ裾を通していく。十六歳でも小学校の中学年ほどの体型のため母親が必ず手縫いで裾上げをしている。
「おっ、今日のための新品ですか。ちょうどいいですよ。タカシくん、かっこいいな」
 内側へ織り込んだ布に足の指が引っかからぬよう注意する。玄関脇の丸椅子に腰かけさせ、私がジャンバーを着せている間に洋子は運動靴を履かせ、いよいよ住宅からの出発だ。
「タカシくん、おはよー」
 形ばかりの会釈をした睦美は緑のカーデガンの袖に手の甲を引込め、肥満気味の丸っこい肩を竦ませすごすごと後ろを付いて来た。睦美は、橋田たち一行がいることが嬉しいようで、気分が盛り上がっていることが言葉の抑揚や表情の端々から感じ取れた。
「もうタカシくん、だめよ」
 ベルトを装着された高志は、座席に胡坐をかくと、穿かせたばかりの靴と靴下をあっという間に脱いでしまう。足先が身軽になって気持ちいいのか、両膝に腕を置き、ヨガの蓮華座のようなポーズで体を前後に激しく動かし始める。洋子はそのことは解っていても靴下を穿かせずにはおられない。車体のベアリングがゆさゆさと揺れ始めていた。
「あーあ、タカちゃん、しょうがないわねえ。今日はせっかくのテレビ初出演なのにねえ。なんで脱ぐのかしら」
 冗談交じりに苦笑して独り言のように呟く。
「大丈夫ですよ。いつもの姿でいいんですから」私は快く撮影を承知してくれた洋子に感謝の意味も込め、笑顔で答えた。
 数日前のことだ。
「木村さん、私ねえ、この子の障がいはどう見てもやっぱり重いし、性格や表現も激しいじゃないですか。中学を出て支援学校じゃなく、すぐにひまわりさんにお世話になったことをけっして後悔はしてないんですよ。ただ、今でもねえ、なかなかこの子を受け入れられないときがあるんですよ」彼女がふっと息をつき、投げかけたことがあった。高志もひまわりにきて丸一年たち、何気ない悩みの告白がぽつりぽつり増えてきた。「ずっと見ていればそんな日だってたまにはありますよ」私は、親子を交互に見ながら一般論を返すしかない。
「今日は、ちょっと肌寒いけど……」
「この温度くらいだったらタカシくんにはこたえないみたいですよ。その証拠に、すごく冷えてて雪が降ってるときは脱ぎませんから」
「そうですかねえ」
「体調が良い印だから、心配はいりませんよ」
 勤め先であるスーパーへの出勤時間が迫っている洋子は「それじゃあ、よろしくお願いします」言うが早いか住宅に戻り、私も後姿を追うことなく高志の横の扉を閉めた。
「どうぞ、準備はできましたよ」
 少し離れた場所からこちらを観察していた橋田たちに言葉を掛けると、カメラを胸元に抱えた緒方が荷台に乗り込んできた。立ち膝でにじり寄り高志の背中へ近づく。屈伸運動に興じていたかに見えた高志だが、自分の射程距離に入ったのか俄かに後ろを向くとすかさず緒方の帽子をつかみ相手の膝元へ投げ捨てた。緒方が笑いながら帽子を拾おうとする。
「あっ、まずい」バックドアを閉めようとしていた私が止めようとするより早く、高志は今度は、頭を下げ無防備になった緒方の髪の毛をむんずと鷲づかみにし、力一杯引き上げた。緒方の悲鳴が車内に響く。
「タカ君だめだよ。おじちゃん、ハゲちゃうよ」
 後部席の隣の睦美が、いつもは自分がやられることもあるためか泣きそうな声で同情する。
「あっ、ごめんなさい。言うの忘れてたわ。それがタカシくんのやり方なのよ。そうでしたよね木村さん」
 後ろから橋田が駆け寄り、気の毒そうに叫んだ。
「私も初日、ひまわりで、靴下投げたから拾おうとしたら」
 緒方はカメラをかついだまま、左手だけで何とか相手の指をほどこうとしている。高志の指は短いが屈伸運動を日に何百回とやり腹を擦りつけるため、肉厚で関節の力も強い。つかまれた側も気を緩めていては力がたりないし、入りすぎては相手の指を傷めかねぬため慎重にやらねばならない。
 緒方は助けを求めるように私の方を渋面で振り返っている。
 荷台へ乗り込んだ私は、窮屈な姿勢で高志にあれこれ話しかけては宥め、親指からゆっくり伸ばし髪を解放してやることにしたのだった。
    
          三
 国道を十分ほど走るとコンビニと大型のディスカウントストアが見え、その間の道路から左折すると小さな社がある。境内は朱色の鳥居の他これといって目立った大木はなく、それでも向かいの店舗の高い庇で日中でも日が遮られ薄暗く、湿気が逃げ切れず重たい空気が淀んでいるようだ。直径二十メートル程の楕円の敷地にコンクリのベンチと丸太で組まれた小屋にトイレがあり、長めのスカートにウールのショートコートとチェック地のマフラーを巻いた女の子がマスクをしたまま腰かけ熱心に携帯に見入っていた。桜木有紀だ。彼女はそこからさらに百メートルほど先に行った一軒家に両親と三人で住んでいるのだが、道はさらに狭まっており、離合しにくいためそこまで歩いて出て来てもらっていた。
 見た目はまだあどけなさの残る二十代前半とも思える容貌だが、先月三十路を迎え、ひまわりへ来て早いもので五年目になる。ベンチから虚ろな表情で立ち上がると、助手席の扉を開け入ってきた。
 私が普段通り挨拶するとマスクのせいか、くぐもった低い声で返してきた。緒方は荷台で身を屈めカメラを回している。座席についてからも有紀は軽く会釈した緒方にまったく頓着せず携帯を手放さない。彼女は一日の僅かな時間でも感情の波が激しく、無愛想かと思えば別人のように明朗で天真爛漫なときもあり、振り回されぬよう気をつけてはいるが、撮影を意識し、昨晩の様子や健康状態など尋ねると睦美の方が待っていたとばかり、自分の気分を興奮しながら一人で喋った。
 私は今朝、橋田の言った局へのコメント欄のメールの話題の際、頭の隅を過った嫌な予感が甦ってきた。
 有紀が入所し半年ほどたったときのことだ。
 あの頃、ひまわりでは私がブログで、その日の出来事を写真や文章で紹介するようになって一年たち、ぼちぼちコメント欄へ、感想が寄せられるようになっていた。ひまわりの活動がとても励みになっているという主婦や、同じ障がい者で、ぜひ一度遊びに行ってみたいという人もいた。そしてあるとき有紀と中学時代同級生だという女性からコメントが入り、傍に引っ越してきているから久しぶりに会いたいという内容が送られてきた。さっそく有紀へ見せると彼女も嬉しそうに相手の名なら憶えていると言い、すぐに自分で連絡をつけ、会う約束まで交わしたようだった。私は旧交を温める姿を微笑ましく見ていた。友達と会った次の日、有紀はさらに上機嫌でやってきた。友達はアメリカ人と結婚し、ひまわりから車で一時間ほどの所に空き家を借り住んでいて、こちらへ観光に来た外国人や仕事仲間にとって知る人ぞ知る憩いの場になっているそうなのだ。
 特に中心人物、ヘンドリックスは放浪癖があって世界を旅しているようだが、有紀をたいそう気に入り、いつでも遊びに来いと言ってくれたらしい。そこで毎週金曜、ひまわりが終わると彼らと待ち合わせしているからと、有紀は送迎の車を断り、家とは反対方向へ自分でつくったパンをお土産に歩いて行った。土日と泊り込んでいるらしく、昨夜はダンスパーティーがあって夜更かししたなど、いかにも二日酔いの腫れぼったい目であれこれ話してくれるようになった。
 そんなある日、またもやコメントに新しい名前が現れた。ヘンドリックスの妻、ナターシャで、夫が日本でお世話になっているからお礼を言いたいとのことで、この文章も日本語が得意な友人が自分に代わって打ち込んでくれているとのことだった。そしてヘンドリックスがナターシャに打ち明けたことによると、有紀が家庭の事情でとても悩んでいるらしいので、どうかひまわりの方で彼女の相談にのってくれないかとの懇願ともとれる文章がコメント欄へ入ってきたのだ。
 私がコメントを有紀に見せると彼女は、かなり驚いたように目を見開き、「えっ、まいったなあ」と眉を細め、いかにも困惑した表情になった。それから私があまり話したがらない彼女を説得して聞き出した内容は、次のようなことだった。
 有紀の実父は彼女が小学一年のとき離婚し、現在の父親は継父になる。十日ほど前、ずっと会っていなかった実父が突然、今付き合っている強面の女性と現れ、まるで脅すような雰囲気でお金を無心に来たと言うのだ。クレジットカードを無理やりつくらされ、そこからお金を引き出していった。額は初期設定の利用限度額二十万で、返済期限が過ぎ、教えてくれた番号に電話しても父親とは連絡がつかないし、しかもそのことを母親に告げると半狂乱になって怒り、揚句に家を追い出される羽目となり、今はヘンドリックスたちと暮らしているそうなのだ。
 私は、さっそく借用の明細書や督促状を見せてもらうとしかるべき金融会社のもので、私が本人、もしくは血縁者でないため金融会社へ直接問い合わせはできないことになっており、考えた末、定期的に行われている法律の無料相談に彼女を連れて行くことにした。弁護士からの提案は、無視し放置しておくか自己破産だった。すると、とたんに有紀は尻込みし、何とか自分で返すからもう心配しないでほしいと言い出したのだ。その様子からどことなく不信を持ち始めた私は、有紀に一度ヘンドリックスたちをひまわりへ招待してはどうかと誘ってみた。
 ところが、必ず来るという日になっても急用で駄目になることが連続し、なかなか実現しない。そんなある日ついに私は、今日もヘンドリックスのところへ泊りに行くと帰途についた夕刻、有紀の家へ出向き母親に思い切って全部話してみた。すると母親は高笑いしながら、別れた父親は気が小さい上、借金して逃げて行っているので、現れることはまずないということと、しかも何より有紀は毎日、家へ多少遅れながらも帰って来ているというのだ。
 私はこの際、すべてはっきりさせようと家に上がらせてもらい彼女を待つことにした。   
 北側の玄関から入ると、隅に収納付きベッドが置かれた六畳ほどの和室とその横に同じくらいの広さの台所と繋がった板間のリビングがあり、ベッドの上には天井に直付けされたレールから無地のカーテンが垂れ全面を覆えるようなっていた。食事以外、有紀はほとんどそこから出ず、たまに覗くと寝たまま携帯ばかりいじっていると母親は話してくれた。
「どうもすいませんね。あの子最近、ひまわりさんから工賃が多くもらえるようになったからって、お金くれるもんですから、私もついつい電化製品なんか買ったりして、外食もけっこう増えてたんです。大方は自分で勝手にカードつくって借りたんですよ。心配いりません。どうにかして私らで返しますから」
 見ると確かにリビングには真新しい液晶テレビに西日が当たり、パネルが輝いている。
 私の背中には言いようもない戦慄が走った。
 もしそうだとすれば、これまでの友人やヘンドリックスを始め、外国人はすべて有紀のつくった虚構ということになる。私にはさらに疑問がわいた。最初の頃ブログのコメントに入っていた主婦や障がい者の感想も、もしや有紀が適当に外部の者になりすまし送ったものではないか。ネットに熟練している者ならプロバイダーなど発信源を探索し多少の見当もつけられたかもしれないが、ズブの素人の私にはそもそも無理で、まんまと騙されたことになる。それに母親の何とも申し訳なさそうでいて、底の底では悪びれた様子もないサバサバした口ぶりに、もしや母親もその事実は知っていて、それどころか同じようにあのカーテンの向こうで有紀と一緒に携帯の小さな画面を覗き込み、娘のつくりだす話の成り行きを面白可笑しく見守っていなかったと誰が断言できようか。返済をチャラにする手立てとし白羽の矢が立った私が、「自己破産」という方法以外、大した効果が上げられなかったとき二人は果たしてどんな顔をしただろう。そんな想像もまんざら私の被害妄想からだけとは言えない気がしてきていた。
 有紀が現れたのは、それから三十分ほどたってからだった。何かを思いつめているのか疲れきったように足元をじっと見つめ、悄然とした表情で部屋に上がってきた。
「僕がここにいる理由はわかってるだろう」
 精気を失くしているのは半ば開き直っているせいなのか動じる素振りもなく、畳に座りしな問いかけると、彼女はこくりと頷いた。
「あんた、お父さんがわざわざ来て、お金借りてったって言ったそうね、それほんと」
 有紀は洋子の顔をちらりと見たもののすぐに視線を落とし黙ったままだ。
「なんでそんな嘘ついたの」
 母親は早くも涙ぐんでいる。
「有紀、木村さんせっかくみえられてんだから、なんか言いなさいよ」
「お母さん、もういいですよ。あとはご家族で話合ってもらえませんか。借金をどうするかも含めて。こちらでできることはご協力しますから。よろしくお願いします」
 私は無性にこれ以上、この問題に関わりたくない嫌悪感を持った。ひまわりをやってきてそれまでも数多くあったトラブルと同じく、メンバー個々の入り組んだ家庭環境や生活へ歯止めなく入り込んでいけば、所詮、答のない袋小路が待っているだけだ。それでも曲りなりにこんな仕事をしていれば境界線があやふやになるのは必然で、結局は肝心の行動の最終的な決定を相手に委ね、できるだけ早めに予防線を敷き退くより他ないのだ。
 私が玄関を出ると母親が見送りがてら、背中から請うように掠れた声で話かけてきた。
「木村さん、有紀のことどうかよろしくお願いしますね。何やってもすぐに辞めてたあの子が、こんなにつづいていることはないんです。ひまわりは楽しいってあの子言うんです」
 助手席で有紀は相変わらず携帯を眺め、時折メールらしきものを打っている。
 私の予感がもし的中しているとすれば、テレビ局に打ち込まれた文章はすべて有紀の仕業だということになり、今も彼女は新しい人物を造形し、送り続けている可能性はあるわけだ。果たして今度はどんな思いつきと企みでやっているのか。今日一日、なんとしても橋田に勘ぐられぬよう気を付けなければならない。私は自分がうやむやにして来たことも含め、憂鬱な気持ちでハンドルを握っていた。    
      
        四
 私たちがひまわりへ到着した時も、烏骨鶏は相変わらず低く張りのある声を響かせ鳴いていた。一羽の雄鶏に波長を合わせるように他の雌鶏も騒ぎ立てるので、かなりのボリュームだ。ちょうど八時のチャイムが地域の公民館の拡声器から聞こえていた。これまで二度逃げた時、それが同じやつであることを私はすぐに気づき、実際にその通りだった。他の四羽をじっくり見たことはなかったが、白い毛並のバランスや体つき、顔のつくり、特に目つきから確信できた。いや、他の鳥をよく見ていなかったぶん、直観が冴えたのかもしれない。
 烏骨鶏の逃避行動は距離を別にすれば、いつもほぼ同じだった。道路と石垣の間には幅五十センチ、深さ一メートルほどの側溝があるが、まずそこへ逃げ込み、雄雌関係なくこれでもかというほどの鼓膜に響くドスの効いた声を上げるのだった。私はまず遠回りし、反対側へ畑仕事で使うネットを棒で垂らし、音を立てぬようゆっくり正面へ戻ると再び降り、一気に声を荒げ追い立てるのだ。網で行く手が塞がれていることに気づいた烏骨鶏は、なぜか道路側へは出ようとせず、帰巣本能からか仲間たちのいる鳥小屋へつづく石垣を飛び超えようと羽をばたつかせるものの途中で滑ってうまくいかず、そこを両手で押さえつけ捕まえるというパターンだった。
 側溝の濁った溜り水で濡れそぼった烏骨鶏は毛が固まり、鶏冠も胡桃大の膠状のものが額の先で萎れ、吹き出物のようにでこぼこした黒褐色の皮膚の隙間から怯えたように目だけをぎょろつかせていた。ただ特徴的なのは、もちろん容姿もさることながら力強さと身のすばしっこさだ。私はこの鳥の卵や肉の滋養が高く、市場でかなり高価な値で出回っていることを後で知り、栄養源のエキスの良質さは、なるほどあの動きが物語っているのかもしれないと妙に納得した。
今でこそ自傷行為の回数もかなり減った高志だったが、作業所へ来た当初は頻度も程度もかなりのものだった。
 中学卒業と当時にひまわりへ来たのだが、当時は車中でも激しく前頭部をガラスにぶつけるため怪我と破損の防止策が急務だった。初めハンガーでぶら下げたり、洋子のやっているようにタオルを布テープで貼ったりしたが呆気なく剥ぎ取られたため、薄めの座布団をパワーウインドウの圧縮力で挟み込む形でつけるとうまくいった。
 作業もほぼ難しい段階にあると思えた。しかも思春期と重なり、自傷行為だけでなく、傍にいる人間の髪を手当たり次第引っ張る他傷行為が凄まじかった。当然パンづくりをしていても誰かが傍についていなければテーブルや床で額を打ち、無造作に近づき過ぎても不意をつき髪をつかんでくる。私を始めメンバーは、片方で自分の髪を守りつつ片方では自傷行為を制止するという極めて至難な技を習得せねばならなかった。
 そんな高志が入所して三か月過ぎた去年の夏の週末、ある事件が起きたのだ。
四月からの高志の予想以上の調子の悪さに私たちは皆、くたくたになっていた。
 ことは洋子の電話から始まった。
「高志の目の縁が、異様に腫れ上がってるんですが」
「自分では心当たりがないんで、すぐにメンバーに連絡して確かめてみます」
 日は傾いたとはいえ、じっとりと汗ばみシャツが肌にへばりついていた。私はこんな時、一番頼りになる有紀に電話した。有紀は淡々とした口振りで、もしかするとの前提を添え「あんまりタカシくんが髪の毛を引っ張るから、睦美さんが思わず痛いって叫んで立ち上がって、その拍子に肘が当たったのかもしれません。木村さんがちょうど駐車場に車を取りにいっているときです」
 彼女もその瞬間は見ていないが、睦美の叫び声と高志が左目を抑えてソファーに寝転がっている姿は覚えていると言う。
「でもタカシくん、すぐにいつものように起き上って運動始めたし、大したことないかなあって思ってました」
 私はすぐに洋子に伝え、自分の不注意も重ね詫びた。
 洋子も念のため明日、病院で診てもらうつもりだと落ち着いた口調で話すので了解してくれたものと思っていた。だが翌朝九時頃のことだった。携帯が鳴り、発信元を見ると洋子からだった。
「今から病院へ行くんですが、どうしても症状だけは見ておいてほしいんです。すぐ近くに来てますからそちらへ回って行きます」
 車が停止するとともに、後部座席の高志の顔が見えた。左の眉毛の下から瞼にかけ明らかに内出血した箇所が腫れ上がり、引っ掻いたような擦傷が数本走っている。痛さを紛らわすため何回も手の甲や爪の先で擦ったらしい。柔らかい皮膚のせいか打撲だけの蒼痣で治まらず、光の加減では顔半分が火傷で爛れているようにも見える。瞳はほぼ塞がった状態で想像していた以上に酷い状態だった。洋子は運転席から降り立つと、眦に力を入れ厳しい表情で言い放ったのだった。
「驚かれたでしょう。ひまわりさんではこんなことはないと思ってましたが、ついに、あってはならないことがあってしまったんですね」
 この言葉を聞いた瞬間、私の脳裏には日頃意識から遠ざけ忘れているある記憶が甦り、全身の器官が膨張し息苦しくなる圧迫を覚えた。胸底には蒼白い炎が渦巻き、錯乱にも似た激しい動揺が起きそうになるのを必死に堪え、それでも相手に言葉の真意を確かめずにはおれぬ自分はいて、やっとの思いで発語を抑えていた。相手の言葉の奥を探ることは自らもある程度、感情や思いの披瀝を覚悟せねばならない。私は、あの記憶を今更洋子の前で辿る気にはならなった。しかも、何を言ったところで今の彼女には弁解じみてくることもわかりきっていた。小さな作業所でメンバーの力を借りて高志を見ざるをえぬということは、各自が過ごす時間のいくらかを不自由という自己犠牲で費すことを意味する。パンづくりを始め様々な活動は収入を得るためだけはなく、生活に潤いやリズムを生むために必要不可欠なもので、それを楽しみにやってきている面は大きい。その行為を高志に構う余り疎外されることは運営側として望ましいことでないし避けねばならない。それでも常勤のスタッフを一人しか置けぬ今の実情では協力してもらう以外、他に方法はないわけで、揚句、片時も目が離せぬこととなり、この事故もそんな状況下、その隙をつき起こるべくして起こったやむを得ぬ事象と言えぬわけではないのだ。経緯と分析を今改めて話し始めれば、行き着く先は結局、高志の障がいがひまわりでは対応するに重すぎるという結論に到達するわけで、他に預ける場所のない洋子を追い詰めることになるだろう。
 洋子はいかにも嘆かわしげな表情を浮かべると再び車に乗り込み、私は落ち込んだ気分で鳴きしだく蝉の声につつまれ立尽していた。
   
          五
 橋田たちクルーが今のうちにまだ作業に入っていない屋内を撮っておきたいと、あちこち動き出したとき、今朝最後の鳴き声と言わんばかりに烏骨鶏が甲高く叫び、申し合わせたように事務所の電話が鳴った。ひまわりより大きな規模で就労支援事業をやっている栄光園からで、通所者の原田延夫についての問い合わせだった。
 昨日から家に帰っていないと言う。延夫は過去にも数度脱走歴があり、その時以来、給料を三か月ごとにまとめて本人でなく家族に渡していたそうだが、本人も相当反省し心配いらなくなったと判断した支援員がつい気を許し、直接、渡してしまったらしい。夕方すぐに、自宅から家に戻ってない連絡があり、あちこち手を回し探しているとのことだ。
 なぜここへ電話が来たかと言えば、彼は透の死んだ翌年、わずか一年だが在籍したことがあり、それでもしや目ぼしい情報の一つでも知らないかとのことだった。その当時は、メンバーは有紀と睦美しかいなく、延夫は支援学校から身体機能の訓練施設を出て二十歳になったばかりだった。
 おそらくはその頃と同じように送迎車から降り立ち、あのでっぷりした体で愛嬌たっぷりにどんぐり眼をきょろきょろさせ、手を振ったに違いない。もしかすると担当が変わったことも考えられる。給料は三万近くで、車が見えなくなってからまんまんと行方をくらましてしまったようだ。
 栄光園で初めて逃走したのは二年前で、救急病院から自宅へ直接、連絡があり、母親が駆けつけると点滴を受け、かなり衰弱していたそうだ。
 海へ投身自殺しようと海岸まで行き、焼酎をがぶ飲みし酔っぱらったまではよかったが、堤防に打ち寄せては砕け散る波を見ているうちに身が竦み、そのまま泣き叫んでいるところを、たまたま通りかかった地元の人間に保護された。次は一年前、ちょうど銀行から金を下ろしたばかりの母親の財布ごと盗み、飲み屋やソープランドと遊び歩き、翌朝、私のところへ助けを求めやってきた。
「よ、夜のー、お、お姉―さんたちーは、俺―たちにもー、びょ、、びょーどうに、しーてくれるーから、い、いーんだよなー」
 呆れる私をよそに、顔をこれ以上ないくらい綻ばせ嬉しそうに話した。
 私は、安くはないお金を払う顧客に、今時、相手が誰であろうがきちんとしたサービスをするのは当然だろうくらいに思いつつ一切口には出さず、できるだけ素っ気ない態度で、これ以上逃げてもしょうがないと説得し、何とか家へ連れ帰ったのだ。玄関で親に引き渡すとき、私は家族に対し、助言めいたことは一言も口にしなかった。
 延夫の両親とは、ひまわりに来ている時分に嫌と言うほど話し合っていたからだ。たとえば彼への対応の一つとして、家では一滴も酒を飲まさない方針だったが、大の酒好きであることを考慮し、できるだけ早急に改善してほしいことや基礎年金が支給されていながら本人に手渡されておらず、最低、直接渡さないまでも彼との合意の上で行ってほしいことなど提案した。なぜなら彼自身、自分の年金が自由に使えぬことにかなり不満を持っていたし、車や家の改築ローンに回しているのではとの疑問も持っていた。しかし親はまったく聞く耳を持たず、接し方も一向に見直されることなく、当時、鬱憤をひまわりに来て晴らすことが増えて来ていたのだ。
 延夫がひまわりに来て、半年になった秋のことだ。
 ひまわりの主な作業は今もその頃もパンづくりに変わりないが、まだ補助金もなかった当時、その収益はより貴重だった。売り上げを少しでも伸ばそうと配達先に届ける際、理解を広めるため彼に「脱『障がい者』宣言」なる文章をつくってもらい、チラシで配ったことがあった。内容は、ある程度原案は延夫が書いたものの、ほとんど後で私が手直ししたもので、つまり実態とは違う繕った情報を意図的に流すという、まさしく〝やらせ〟に近いものだった。その意味で私にこそ大いに責任がある行為が元で、彼がひまわりを辞める過程は始まってしまったのだった。タイトルのネーミングと文章の中身が思った以上に好評で、なんと延夫に、得意先を介し自動車製造会社の労働組合から人権啓発の講演依頼が舞い込んだのだ。演題は、チラシ通りの『脱障がい者宣言』でお願いしたいとのことだった。
「なかなか面白いじゃないですか。この『脱』がついているところが気に入りました」
「あ、あーりがとーございーます。そこんとーこlろは、いーちばん、考えたーんでーす」
 延夫はすべて自分の発案だとばかりに、これ以上ないくらい白い歯を見せ得意満面だ。そんなとき厚めの唇はさらに斜めに歪み、声も大きくなる。
「やっーぱーり、さ、さーべつするなーとか、け、けんりくれっーて言う前に、ぼ、僕たちー一人一人が、障がい者の、き、着ぐるみをー脱いでー、いかなくちゃー、い、い、けないかなっーて」
 延夫は、文言を考えたときの私の台詞をそのまま自慢げに話している。私は二人のやりとりを聞きながら喉元に突き上げる否定の声を必死に堪えていた。これまでの恩義がある以上、引き受ける形でその場を辞したものの、車に乗り込み、ハンドルを手にしながらも頭から離れず、ついに延夫を降ろす段になって思い切って話したのだ。
「さっきの講演の依頼だけど、やっぱり正直にあのチラシをつくったのは君じゃないことを言って断った方がいいんじゃないかな」
「はー、そ、そーうですーねー」
 黙って車窓に目をやっていた延夫は、そのままの姿勢で力なく肩を落とし、納得したように返事したのだ。私は重荷が下りたようで内心ホッとしていた。
 翌朝のことだ。ひまわりへ入ったときから延夫の表情は気色ばみ全身から殺気が漲っていた。奥から出迎えた私は、僅か半日での豹変ぶりに驚きつつ出方を窺っていると、いきなり大きく上体を捩じり、恫喝するように叫んだのだ。
「おーい、こーらっ、あ、あんたーは、あ、あのーチラシーはー、お、俺がー作っーたんじゃーないーって、い、言うーのか」
「そうだよ。ほとんど僕が書き直したじゃないか」
「ふ、ふ、ふざけーんーなーよ」
 脅しともとれる言葉に私は、怒りより先にいよいよ抑えていた本性を露わにして来たことへの無念さが先立ち、それでもできるだけ冷静に、「事実そうだろう。君が考えたとこはね」チラシをわざわざもってきて「お酒が大好き」「昼食が楽しみ」「彼女がほしい」の三か所に赤ペンで線を入れた。残りの『脱障がい者』の理念に沿った、自分らしく生きようだの要求ばかりに頼らず、障がい者も努力して自立して生きるための力をつけようや、足元の生活から見つめなおそうと言った箇所はすべて私が書き加えたものだ。
 紙面を持ち出され具体的に指摘を受けた延夫はいよいよ憤慨し、ついに私にその場で殴りかかってきたのだった。といって右半身の自由の利かぬ体躯から振り上げられる拳に大した力はなく、それどころか咄嗟の動きでバランスを崩しよろめいてしまう始末で、慌てて抱き起そうと両脇に腕を入れると、今度は手首に必死の形相で嚙みついてきたのだった。私も思わず腕を振りほどき大声を上げていた。
「ふざけてんのはそっちだろう。きちんと説明してるのに話も聞かず」
「あーあー、もーう、こ、こんなーところーや、や、辞めてーやーるー、だ、だーれがーく、来る、もんかー」
「そうかそうか、そっちがその気ならそれでもいいさ。だけど、これまでここでやってきた努力もすべて終わりだぞ。後悔するなよ」
 すると延夫はちらりと私の顔を見て扉に手を伸ばす素振りをしたが、すぐに一転し、苦悶の表情で踵を返すとその場にバタリとにしゃがみこみ、おいおい泣き出したのだった。
「しょ、正ー直、お、俺も、どーうしたらい、いーか、わ、わかんーなーい。断わーろうーとも思うーし、せ、せっーかく、だからー、やりーたいー気もあーる。俺ーね、こ、これーまでー、い、生きて来てー、こんなー、き、機会、一度も、な、ないんだよー。き、木村さーん、ど、どうしたらーいい、ねえ、ど、ど、どうしたらーいいー」
 涙と唾液が色黒の肌にセロハンでも張り付けたようにてかてかに光り、精も根も尽き果てた限界の姿がそこにあった。
「延夫すまん。僕も悪かったんだ。まさかこんなことになるとは思いもよらなかったから」
 私もいつの間にか膝をついていた。
 そもそもはひまわりへ入所して数日後、彼が気軽に持ってきた作文がことの発端だった。かつて成人式後のパーティーで自己紹介の挨拶のため書いた文章の素直な感情の表現、特にあの三か所が気に入ったにもかかわらず、むしろそれを打ち消すように、余計なものを書き加えさせ、いかにも健常者受けする宣言めいた内容にし、チラシとして配ることを思いついたのは私の方だった。講演依頼が来た瞬間、断れなかったことがすべてなのだ。そのことが分かっていながら私は延夫に責任転嫁していたに過ぎない。
 果たしてどうすべきか。彼にそもそも決断してもらうことが正しいのか。私は延夫の剽軽で目立ちたがりな性格を知っていた。今更依頼者に正直に説明し、断ることにどんな意味があるのか。それこそがまたも私が勝手に延夫の気持ちを踏みにじろうとしていることではないか。
「よし、やろう」
 その一言に延夫のうなだれていた顔が持ち上がり、唇の辺りがぴくりと動いた。
「い、いいんーですかー、き、木村さーん」
「お前、やりたいんだろ」
 大きく頷く延夫に私も講演を通じ、彼の話好きで人懐っこい能力が発揮でき、ユニークな人間性が多くの人に知ってもらえればいいのではと思い直したのだった。
 それからパン作業の合間を縫い私と延夫は、三十分というスピーチを成功に導くべく特訓を始めた。ステージ脇から演壇へ歩いてから最初の一言までの仕草や表情、笑いを取るツボなど二人でアイデアを出し合い工夫を重ね、二週間後、本番を迎え、結果は大盛況だった。
 しかし私は、舞台袖からステージ上の延夫を見ながら、またしても憂鬱な気分に落ち込んでいたのだ。
 そこには本来の彼ではない別の彼がいた。
 あのチラシと同じように、延夫らしさを引き出すと言いながらまたしても相手を先回りし、こちらに都合の良いイメージを上塗りさせた虚構の像があった。ライトはいかにもこの世の春と言わんばかりに晴れやかな舞台を一層際立たせるため、演者の身振りや表情から憂鬱な陰影を消し去り、私にこれでもかと、今回の結末を指し示してきているようだった。
 そんなこともあって、まだしばらくは一緒にやっていけるだろうと考えてもいたのだが、その期待は呆気なく瓦解した。講演の件で一度私に爆発したことで彼の感情の歯止めのスイッチが壊れてしまったらしいのだ。それからは些細なことでもキレるようになり、そのたびにこんな所は辞めてやると大声で喚き散らすようになってしまった。
 象徴的な出来事があった。延夫は指先も自由に使えず、咀嚼もしっかりできぬため食事中、米粒やおかずをよく零すが、そのたびにこれまで家族から汚いと言われ傷ついてきた。しかしひまわりではそんなことは当前だし誰も何も言わない。その代わり汚した場所の掃除は自分で行うことにしている。ところが彼は、その掃除が面倒臭く怠け始めたのだ。私が注意すると、掃除をするくらいなら、馬鹿にされてもいいから他人に片づけてもらった方が楽だとまで言ってきたのだった。
 その一言はひまわりの方針とは真逆にあり、溝は決定的となった。
 有紀や睦美が暴れる姿に怯えることもしばしばだったため、落ち着いている日を見計らい話し合うと女の子がもっといる栄光園に行きたいと自から告げ、退所という形に至ったのだった。

          六
 栄光園職員の落胆しながらも、どこかまだ諦めきれぬ声が私の心に糸を引いたまま受話器を置くと、自転車のブレーキとサドルが蹴り下ろされる小気味いい音が玄関口に響いた。窓用の小さなレースのカーテンをしているサッシのガラス越しに人影が近づいてきた。段差を払っているため引き戸は砂が混じり擦れた音がする。手作りのゴム入りのシュシュで髪を二つ縊りにした女の子が笑顔で入ってきた。小糸渚だ。いつもスリムなズボンとタートルネックの上からお気に入りの水色のパーカーを着ている。挨拶するや早速、玄関横のハンガー掛けから白地に黄色い花柄のエプロンをとり、着替えにかかった。
 渚は地元の普通高校卒業後、近場で就職活動したがどこも不採用だった。両親はそれまで彼女の障がいをさほど気にせず寧ろ努力で乗り越えられると叱咤激励してきたが、面接するたびに振り落とされる壁の厳しさを知り愕然となった。知人の紹介でひまわりへ来た時も「こんなはずじゃ」と何度も嘆息交じりに呟いていた。
 ひととおり室内をカメラに収めた橋田たちは部屋の隅に並び、メンバーを必要以上に刺激しないよう気を配っているようだ。
 有紀も睦美も既に頭には三角巾を巻き準備はできていて、九時の開始時刻を待っていた。
 高志が自分の居場所であるソファーで激しく屈伸運動を行い、それと連動し厚めの黒いビニールシートを支えるスプリングが軋んだ。ソファーは私が腰の治療をしていた整体師から近々廃業する整骨院の話を聞きつけ、待合室で使っていたものを譲ってもらい、座面は既に二度張り替えている。両腕で体重をかけるところが裂け始めるのだ。最初、布テープで塞いだが呆気なく剥がれ、次に全面を変えないと繋ぎ目からの破損は食い止められないと気づき、ネットで同じ色合いのシートを購入し、木枠の部分だけ押しピンで留めてみた。座面と背面の隙間には同じ長さの棒にシートを巻きつけ、横にねじ込んでいる状態だ。帰る頃に外れるが、朝ぎゅうぎゅうに挟み込めば充分持ち、一日一日のズレを修復することの方が、完全に直すことより効果的であると知った。
 一階はそんなソファーが玄関から入ってすぐ右手にあり、中央に会議用長テーブルが縦横二列並び椅子が八脚置いてある。メンバーやお客を迎えるための部屋で十畳ほどの広さだ。左横に壁を挟んでパン工房、向かいにキッチンとトイレというつくりだ。
 透が死んだ五年前、ひまわりにはほぼ入れ替わるように有紀と睦美、翌年に延夫に渚、次の年にまだ姿を見せない斉藤正也、最後は二年前、高志がやって来た。
 その正也が一番近くの駅から歩いて到着したのはいつもと同じ九時頃だった。
正也は部屋に入らず、玄関口に傘立て代わりに置いてあるビール瓶のコンテナの上に無造作にバッグを置くと、長身で細身の体をかなり猫背にして如雨露で花壇に水をやり始める。どんなに他のメンバーが待っていようと必ずそこから行わないと気がすまない。
 正也は透と特別支援学校の同級生で二十二歳だ。当然親とも知り合いで、彼が入所した際も鉢植えのポトスを持ってお祝いに来てくれた。高等部卒業後、グループホームを備えた就労施設に入ったが、不況も影響し請け負っていた仕事が激減し、親が会いに行くたびにゴミ焼きや草取りをしている息子の姿に耐えられなくなり、本人と話し合った末、ひまわりへやってきたのだ。それでもいざ通ってみると想像していたほど楽しくなかったらしく、一か月で舞い戻った。私はこちらにもそれなりの準備が必要で行ったり来たりは一度だけにしてくれと進言し、親も納得した。するとわずか一週間後、父親と頭を下げて来た。
「向こうはどうだったの」
「もっと僕のこと歓迎してくれるかなって思ったけど、大したことなかった」
「そりゃそうだろうね。施設とは言っても、職場でもあるわけだし」
「正也、ひまわりさんによろしくって言わきゃだめだぞ。もう荷物も何もかも引き取って事務手続きもしてきたんだからな。もうお前にはここしかないんだぞ。木村さん、どうかこの子をお願いします」
 私はこの手で来たかと半ば強引なやり口に呆れながらも、結局はメンバー確保の必要もあり、引き受けることにしたのだった。
 今朝の正也は、いつも以上に表情が柔らかく嬉しそうだ。橋田がひまわりへ取材に来て、彼女の柔らかい物腰が彼の好みと合致し、気に入ったようだ。これで常時来ている五人が集まったことになる。いつもならマイペースな正也をほっといてパンづくりに移るのだが、その日は待つことにした。
「それじゃあ、今日一日やっていくけど、撮影のことは気にせず普段通りにね」
ようやく全員揃ってから、既にメンバーとは顔馴染みの橋田をちらりと見、改めて挨拶してもらった。
「今日一日、よろしくお願いします。できるだけ皆さんの邪魔にならないようやりますので。でも驚きました。木村さんには今朝、話したんですが、会社の方へたくさんの励ましやお褒めのメールが届いるんですよ。ひまわりさんって人気あるんですね」
 すかさず有紀へ目をやると、どこか悦に入ったように瞳を輝かせ頬も紅潮しているように見えた。
 パン生地は文字通り生き物だ。始めたら焼き上がるまで一気にやらねばならない。ひまわりには大型の機材はなく、すべて家庭用ばかりだ。捏ね器も一キロちょっとまでが可能なものを四台置き、有紀と渚が粉を量りセットしていく。睦美は床や作業台に零れた粉を布巾で拭き取ったり、食パンの焼型を並べたりしている。開所当時は最終発酵させるホイロもなく、灯油ストーブで工房を四十度近くに温めていた。三年して中古のホイロを手に入れたが故障続きでそのたびに私が修理してきた。動力で温風を出す一方で水が小さな容器に流れ込む。容器内には磁石のついた握り拳大のアルミ製の浮き輪があって、それが浮上し、上部の磁石がスイッチを引き寄せることで電流が通り、沸騰させる仕組みになっている。噴霧され、水がなくなればまた浮き輪は沈みスイッチは切れる、その繰り返しだ。このため百度以上の電流に耐えるペレット型のヒューズが必要で、それが焼き切れる故障が頻発したのだ。途中の導線や水を吸い上げる小型モーターのいずれかが老朽化し、過度な熱の負荷が原因と考えられるが、水の元栓を閉め、注水口と排水口をスパナで外し配線ソケットを抜いた後、容器内のヒューズをハンダ付けしなければならず、増えるばかりの回数に私の根気もついに萎えた。
 修理が手間となったとき悩んだ末、ホイロ全体は大型冷蔵庫並みの丈夫なステンレスでできており加湿器を入れてみることにした。最初小型のミント式でやると加温の勢いに負け発酵に必要なだけの湿度をつくりだせず、次に一か八かで二十畳まで可能なスチーム式のものを購入し設置すると、うまくいった。密閉式の厚い扉を開け覗き込み眼鏡が曇ったときの安堵は今でも忘れられない。
 高志も体を前後させ、声の調子を高くしたり太くしたり時々掌で頭を叩き、響きを自分で楽しんでいる。部屋へ入ってきた正也はトイレから順に箒で掃き始めた。私は撮影がうまくいくであろうことに確信を持ち出した。
 捏ね器が小気味いい振動音とともに回り出すと工房はいよいよ活気に満ちてきた。あらかじめつくって冷凍してある餡子やクリームを昨晩から私が冷蔵へ移し解凍しておいた。有紀と渚はそれを小さなボールへ移し替え、食パンの焼型にショートニングを塗る作業へ移る。私は睦美を連れ台所へ移動し、昼食の準備に取りかかった。今日は定番のカレーライスだ。睦美は慣れた手つきでピーラーを使い、材料の皮を剥いていく。橋田は取材ノートを時折り覗き込み漏れがないかチェックし、パンづくりの工程や調理の様子をじっくり緒方に撮らせている。
 生地が出来上がると有紀がスケッパーで切り落とし、キッチンから急いで戻った睦美も一次形成に加わった。いつもは私が切り落とす担当だが、その日はできるだけ表に出ないつもりでいた。指を軽く立て掌を丸めた状態にし、生地を包み込むように囲み八回ほど回す。とてもいいシーンだ。
 緒方は熱心に撮影しているが橋田の方を見ると、さっそく掃除の手を止めた正也にあれこれ質問攻めにあっていた。これまで取材でやってきたときも彼女を捕まえてはしつこくしていた。結婚はしているか。住所は、どんなテレビ番組が好きか。いつもの質問内容だ。今は、ここまで誰と来たかを至福の表情で聞いている。橋田は一つ一つ丁寧に返している。私は答えたくないことは理由を言って断っていいと助言しておいたが彼女には無理なようだ。そんなところも含め正也には持って来いの相手なのだ。
 一次形成を終えた生地をしばらくねかした後、有紀と渚がバターロールをつくっていく。生地の端を左手で摘み上げ、右手で軽く伸ばしてからのし台へ置き、上から下へめん棒で三角になるよう引き伸ばす。細長い二等辺三角形で両辺が内側へ反った形が理想だ。後は先端に重し代わりにめん棒を置き、底角の表面に指四本、その裏に親指を当てまず一回転させ芯をつくり、次はその芯を頼りにくるくる巻き上げる。二人は正確にこの作業を繰り返せる。入所当初、睦美を始め他のメンバーもすべての作業をやってもらい本人と相談した上、ある程度、適応できる場を担当してもらっている。正也の質問からようやく解き放された橋田が近寄ってきた。
「皆さん、本当によく頑張られますね」
「橋田さんたちがいるからけっこうハリキッてるみたいです。いい場面、撮れてますか」
「ええ。予定通りです」
 彼女は満足げに瞳を輝かせ、微笑んだ。
 そのとき携帯が鳴った。メンバーの一人である井上満子の母親からだ。彼女は特別支援学校時代に実習に来てここが気に入り、週一度だけ利用していた。事務所にかけなかったところを見ると急ぎの用かもしれない。
 彼女の家は祖父が起こした工務店を母親が養子をもらい継いでいる。相手はいかにも突然の頼みで恐縮そうに切り出し、知人の設計士の葬儀が今日の一時からあるが、いつも利用する療護施設が改修のため休みで満子は祖父が見てくれることになっていたものの、その祖父も風邪で具合がわるく、お悔やみをする間でいいので預かってもらえないかということだった。葬儀場もひまわりから十五分ほどなので、遅くても一時間内にすべて済ませられると言う。
「いいですよ。今日はテレビの撮影日で賑やかにやってますけど。ああ、お母さん、もしかすると満子さん、テレビに出るかもしれませんがかまいませんか」
「あの子でよければ、どうぞ」
 母親は目途がついたことにかなり安心したのか電話越しに軽い口調で答えた。
 私もそれからは、工房と台所を行ったり来たりしながら全体の運びを見ながら、高志をトイレに連れていくことも忘れなかった。
「さあ、カレーもできたし、橋田さんたちの分もありますから、一緒に食べてください」
「ありがとうございます。睦美さん、上手ね」
 睦美は照れ隠しのつもりか小首を傾げ、肩をほんのちょっとつぼめて見せた。
「あれ、私がここに置いてたノート、緒方さん知らない?」
 数分後、橋田のその言葉に一瞬、私の息は止まり眼の前の情景が固まった。工房との往復の中、つい油断して睦美から目を離してしまったことを後悔しても今更遅かった。橋田たちもいるし、まさかこれほど人に囲まれた状態で行うとは思いもしなかった。延夫にうっかり工賃を直接渡してしまった栄光園の職員も私と同じ気持ちだったのかもしれない。

         七
 睦美の物隠しが始まって一年近くなる。まず渚のアニメのキャラクターの描かれたスプーンから始まり、三角巾、箸へとつづいた。スプーンのときは渚が自分で自宅へ持って帰ったことをうっかり忘れてしまったのではないかと推察し、もう一度よく家を探してみるよう言ったが見つからず、気になりつつも私は日頃の忙しさでそのままにしていた。ところが紛失物の対象が広がるにつれ、どうやら誰かが意図的に隠している思いに至った。
 ひまわりでは渚だけ、彼女独特のこだわりゆえ、自分用の日用品持ってくることを許可している。最初、そのことへの羨望が動機の一つとして浮上した。本人が気づいた時間や状況、他のメンバーたちの動きを振り返り、睦美の可能性が出てきた。私は立場上、勝手に棚を開けたり工房に入ったりしないようメンバー全員に制限を敷き、密かに彼女にターゲットを絞った。
台所にはガラス戸の小さな食器棚が置いてあり、全員の皿が入れてある。いつものように有紀と渚がパンの二次形成へ移った時点で、睦美と昼食づくりのため台所へ移動したが、ちょうど高志が床にしゃがみ頭打ちを始めたため、とっさに止めに入らねばならなかった。
「睦美さん、何やってんの」
 陶器がぶつかる耳障りな音と一緒に有紀の声がした。慌てた睦美が棚から手を引く瞬間を彼女は見逃さなかった。
 現場を見られた睦美は、私から問い詰められると割とあっさり認めた。ただ表情は虚ろで目に力はなく、視線は宙を泳いでいる。場所を思い出してはきれぎれに答えるが、実際探しても出てこない。そこでこちらも埒が明かぬと気持ちを切換え、これまでの不徹底さを挽回しようと、かなり本気で探してみた。まず流しを横壁からずらすと奥の暗隅から渚の三角布が出てきた。次に工房の作業台下の木箱にも道具類が仕舞ってあるが、すべて取り出し引っ繰り返すとスプーンも出てきた。
 しかし私から言えば、やはり特定された被害者と加害者がいるわけでなく、睦美もある意味被害者の一人であって、彼女のメンバーへの何らかの不満が原因ではないかという思いは払拭できなかった。そこで、話し合いを深めればいずれ打開策が生まれ、状況は好転するとの淡い期待を抱いていた。
 だがその成果も虚しく、隠匿癖は治まるどころか範囲は広がるばかりだった。正也のボールペンや有紀のスリッパから、いよターゲットがひまわりへ移行した時、明らかにこれまでなかった病理の発症ではないかと疑い出した。文具の糊、ボールペン、ノート、パン工房から小分量用の計り、ステンの鏝、めん棒、鋏までまさに手当たり次第の状態になっていったのだ。できるだけ睦美から離れず行動を監視してはみたものの、手を伸ばせば何かが届く狭い現場での限界は見えていた。
 私はこの時点で睦美の家へ出向き、状況を説明した。八十近い父親が応対し、家ではまったく兆候も物が隠されたこともないと言い切った。ただ気になったのは、睦美の物隠しが始まったのと母親の認知症が重くなり、デイケアへ通い出した時期がちょうど同じだったことだ。これまで家庭での主な話し相手の母親との会話が減ったことは心に空洞を生み、穴埋めをひまわりでしている可能性も出てきた。
 それでも日々の運営は待っているし、何か一つなくなればパンづくりを中断しても探すことになる。
 私もメンバーも当然、疲労困憊していった。
 私はついに、睦美をひまわりで見ていくことは不可能との判断を下さざるを得なくなってきた。撮影の予定さえ入らなければ再び彼女の家へ出向き、ひまわり以外の施設、もしくは医療機関への入所入院を考慮に入れ、将来のことを真剣に話し合おうと心が固まっていた。しかし急遽テレビ放映の件が持ち上がり、映像の中で立ち動くメンバーが多い方が見栄えもし、視聴者に好印象を与えるだろうとの下心がふつふつと湧き、つい延期していたのだ。
 橋田は、緒方だけでなく佐藤も手伝わせ、ノートを探している。
 私はこれまでの経験から、台所にいた睦美が隠すとすれば、その可能性が最も高いのはガスレンジの下ではないかと踏んでいた。
 橋田たちに気をとられぬようそろりと移動し、レンジ下へ右手を忍ばすと確かにそこに手応えがあった。静かにそれをつかみ、腰の後ろへ隠しテーブルへ近づくと、そっと椅子の上に置き、背凭れにわざと肘をぶつけオーバーに揺らしてから床に落とした。
 すぐに橋田たちが振り向いた。
「あれ、これじゃないですか」
 大仰な声を上げ、橋田たちの視線が落下物へ行ったのを確かめ拾い上げた。
「えっ、そんなとこに」疑心暗鬼な橋田に私は「よかったですね。無事見つかって」あくまで恍けた調子で、その場を何とかやり過ごしたのだ。

          八
 先に食事し終えた佐藤と緒方は撮影にとりかかった。佐藤が緒方の注文に従い五十センチ四方のレフ板を動かし、採光調整している。
 私の介助で食事している高志を始めとする五人はカメラが回っていることなど気にせず黙々と食べている。橋田はその中へ分け入り、スパイスの効いた市販のカレーを一匙掬い口にして昨日見たテレビの話題などを持ち上げ、親密な雰囲気を醸し出そうと努めているようだ。おそらく食事の風景は、彼女の構成では相当重要なのだろう。
 やがて座ったまま、佐藤にもうちょっと横からと指示を与え始めた。明らかに熱が入ってきていることは間違いない。
 高志が食べ終えようやく私がスプーンを手にしたとき、両親に連れられた満子が重い足取りでやってくる姿が正面の窓から目に入った。バタバタしていたせいか車の気配一切、耳に入らなかったようだ。
「睦美さん、ちょっと手伝って」
 私は彼女を置いておくわけにもいかず、外へ連れ出した。
 両脇を喪服姿に挟まれた満子は黄色いトレーナーに薄紫のジャンバーを着て、大柄な体格をより際立たせている。
「木村さん、すいませんね、急に」
 母親がまたしても電話同様いかにも申し訳ないと言ったふうに両目を顰め、一声かけてきた。日焼けして恰幅のいい父親は口数も少なく無表情に近い。
「構いませんよ。どうせテレビに出るんなら皆が揃っている方がいいですし」
「ミッチャ~ン」
 睦美が飛びかからんばかりに両手を広げ歓迎しても満子の方はいかにも不満げに頬を膨らませている。案の定、車が出ていった途端、その場にしゃがみ込んでしまった。ずしんとした重みが私の両腕にかかってくる。大柄な彼女を立ち上がらせるのは一苦労だ。睦美も腕をつかんで必死に引っ張り上げようとするが、力を入れた分さらに頑固になり、地べたにお尻をつけ、梃子でも動こうとしない。結局は私が全力で持ち上げねばならず、腰痛持ちにはかなりの試練だ。
 私はこんな時のためにと前もって用意しておいたものをズボンのポケットから取り出した。
「ほら、これなーんだ」
 膝を落とし、満子の眼の前でオーバーに掌を広げ透明な紙に包まれたものを見せた。
「ミッちゃん、食べようか」
 飴玉を見せられた満子の瞳は俄かに輝き、唇が小さく開くと涎が一筋流れた。私が包み紙を開きそのまま口元に持っていくとすんなり含んだ。たちまち目元は緩み、笑みが浮かぶ。力も抜けたようで、よいしょと引き上げるとさっきまでの抵抗が嘘のようにすんなり腰を上げてくれた。
「タカちゃん、おかしいね」
 部屋に入るや、テーブルに額をぶつける高志に満子は笑顔で話しかける。満子も高志のことは気になっているようで、ひまわりに来て会うのを楽しみにしているのだ。
 有紀が飴を頬張る満子の前に色鉛筆を出してくれた。満子は塗り絵が大好きだ。絵のキャラクターはアニメ好きの渚が描いてくれた動物や果物など五センチ四方のものがB4紙にぎっしり並んでいる。満子が根気よく塗ったのを他のメンバーが鋏で切り抜きパンを詰めるビニール袋に貼って届けると、常連のお客は目を細め喜んでくれる。
 赤や青といった満子の好きな原色の鉛筆だけが三センチから五センチくらいの短さになり、アルミケースの中で出番を待っている。たとえ人差し指と親指で挟むしかないちびたものでも満子はしっかりつかみ、紙面に鼻先がつくくらいの距離で両目を見開き、集中して塗っていくのだ。
「局にメールがどんどん来てるみたいですよ」
 橋田は撮影中もスマホを使い、会社のホームページを見ているらしく、感心して話した。
「コメントがコメントを広げてるんでしょうね。別の作業所の人からの応援メッセージもあるみたいで。お昼ご飯何ですか、きっとおいしい料理ができたでしょうね、ですって」
 私は午前中、有紀がいつ何回トイレに行ったか思い出している。きっとそのたびに小さなキーを巧みに叩き、メールを小まめに送信していたに違いない。
 睦美は大丈夫だろうか。こんなときこそ注意しなければ。さっきのノートの件だけでは満足していない筈だ。見ると澄まし顔でテーブルに座っている。私の目が離れるチャンスを窺っているのかもしれない。正也は相変わらずマイペースだ。何も自分からの行動も、話す素振りもない。そのときだ。さっきまで熱心に紙に向かっていた満子の瞳から力がぬけ、鉛筆がテーブルから転がり落ちた。その瞬間、呼吸が荒々しくなり全身が硬直を始め、椅子の上であっても腰が浮き、伸び切った姿勢で震えだした。発作だ。白眼を剥き、唾液が垂れ始める。私はすぐに隣に行き抱きとめ、大丈夫、大丈夫と宥めながら、背中を撫でていると、ウーと呻き声も上げ、かなり酷い発作であることがわかった。用心のため横にしようと睦美を呼ぶが、彼女の姿はそこになく、焦りながらも一つ一つ終わらせていしくしかないと自分に言い聞かせ、有紀に手伝ってもらった。
 部屋隅から緊急用の折り畳みベッドを満子の椅子の真横へ持ってきて、有紀が両足、私が肩を持ち上げ横にした。満子は全身の痙攣が止まらず、呻きから今度は低い声でお母さん、お母さんとうわごとめいたことまで言いだした。何度もその様子を見て多少慣れている私たちと比べ、橋田はこれほどの発作を目にするのは初めてらしく、しきりに容態を尋ね、一体何をすればいいかと問いつつもかなり動顚しているようだ。私は心配かけまいと余裕ありげに、こうして横になっていればもうじき治まるからと答えつつ、それでも視界から消えた睦美が、今どこで何をしているのかが気になってしょうがない。
 そのとき渚が叫ぶ。
「タカシくんがおしっこ、おしっこ、大変だ」
 後悔したときは遅かった。いつもなら昼食後もう一度トイレに連れて行き、念のため新しい紙パンツと変えておくのだが、今日はうっかりやっていなかった。
 さっきからソファに立ち上がってこちらをじっと見ていた高志は、きっと満子のあまりに迫力ある形相に驚き、ついに紙パンツが許容量を越してしまったのだろう。
「有紀さん、紙パンツと着替えもってきて」
「木村さん、満子さんも」
 橋田の憐れむようなか細い声がし、満子の下半身に目をやると、ズボンの下からベッドがびっしょっり濡れ、滴が床に垂れている。
「ワーハッハッ、ダブルおしっこだ」
 正也がどこにそんな溌剌としたものを持っていたのか疑うほどの豪快さで笑う。
 睦美が肩を揺すって現れたのはそのときだった。上ずった有紀の声もつづいた。
「カゴの中見たけど、服だけで紙パンツがありません」
 もうどうにでもなれと言った開き直りたい衝動を、私はすんでのところで押しとどめていた。     
 もし一歩でもそちらへ舵を切れば成し崩しに、その日せっかくつくり上げてきた私やメンバーを含めたひまわりのイメージを自ら放棄し、この撮影さえ中止にして欲しいと申し出しかねぬ己の性格を知っていたからだ。しかも事態はこちらが開き直ったからといって即座に解決の糸口が見えてくるほど単純でなく、具体的に一つ一つ進めていかねばならぬことばかりだ。
 徐々に鼻孔を刺す臭いが立ち昇ってくる中、必死に自分に冷静になるよう言い聞かせ、一つずつ一つずつとこんなとき、普段自分に言い聞かせている決まり文句を呪文のように繰り返すしか術はないのだった。
 私は、初めて満子の家を訪れた時のことを思い出していた。
 満子の家は祖父と両親、そして彼女の四人暮らしだ。ひまわりを利用することが決まって、挨拶もかね家での様子を見に行くと、両親が工務店をしている関係上、祖父が応対してくれた。その日も朝から発作がひどく療護施設に行かなかったそうで、そんなとき面倒を見ているらしい。    祖父の前で満子は、少ない単語にせよかなりコミュニケーションがとれているようだった。
 大体の連絡事項も終わり帰ろうとすると、ちょっと見せたいものがあると引き留められ、連れて行かれたのは母屋から少し離れた見晴らしのいい丘だった。御影石の立派な墓石がコンクリの杭と鉄線で囲まれ、供物が野良猫や犬にやられないよう通電してあると教えてくれた。
すぐ隣にちょうど地下鉄入口のような地面から斜めに突き出したコンクリの屋根があり、正面に鉄扉が覗いていた。南京錠で留めた錆びた鎖を抜き取り扉を開けると、薄暗い先から冷気が流れてきた。両肩よりやや広い幅に階段がある。
「この先です。満子、行くぞ」
 普段は、自分で歩くことさえ覚束ぬ満子が、祖父に促されるとすんなり後を追うように、壁に手を当てがい下りていった。やがて通路は平行になり、しゃがんで通らねばならぬ高さになり、私は腰に負担がこないよう四つん這いになった。不思議な感覚だった。三人が今、秘密の地下道を通り空間移動を遂げ、切り離された別世界に旅立っているようだ。
 そこも過ぎると空気の流れを考えてか、木製の鎧戸の扉があって隙間から光が漏れている。開けると四畳半ほどの部屋に、まるで到来を待っていたかのように蛍光灯が淡い光を放っていた。きっと祖父が、外のどこかにあるスイッチを前もって入れておいたのだろう。部屋にはパイプベッドが一つ置いてあるだけで他に家具はない。満子はかなり慣れたように横になりシーツを撫でた。
「週に一度は一緒にここに来るもんで、この子の部屋みたいなもんですよ」
 深い皺が至るところに刻まれた顔で、祖父はにこやかに笑った。いつ核戦争になっても大丈夫なように拵えたと真顔で話すので、私は一瞬、正気かと心配したが、誤魔化すように大袈裟に頷いていた。
「戦争中、地獄を見てきましてね、そのことはまたゆっくりお話したいが、その経験がこんなものをつくらせました」
冷んやりしたコンクリ壁をじっと見据え、語った。
「ひとたび有事となれば、満子を連れては娘夫婦も逃げることは難しいでしょう。だからこれはいわば私のあの子らへの置き土産です」
 それから最後にこう言ったのだった。
「木村さん、何事も一つずつですな。まさか最初に小さなシャベルカーで一堀りしたとき、一人でここまでやれるとは思いませんでしたが、お陰様で立派なものができましたよ」
    
       九
 高志の紙パンツはリュックに常備してある外出用を使い、橋田が有紀と睦美を手伝い、発作の治まった満子を着替えさせてくれた。正也は私が水洗いした汚れ物を洗濯機に運び、佐藤と緒方は渚と床を雑巾掛けしてくれた。
─一つずつ一つずつ……。
 私は手足を動かしながら自分に言い聞かせていた。
 その日の配達先は全部で五か所だった。

 昼食の片づけからパンの袋詰めまで、いつもなら主に有紀と渚が工房でやっていくが、満子や高志、それに睦美も目を離せぬためリビングの長テーブルに厚手のビニールシートを敷き、全員集め作業した。
 パンの袋詰めが終わる頃、満子の両親が迎えに来た。発作や着替えに至るまでのことをかいつまんで話すと、またしても母親は申し訳なさそうに頭を何度も下げた。
「この子、ここへ来るのが楽しみなんです。私たち親もいざというとき助かっています。これからもどうかよろしくお願いします」
 父親と二人、来た時と同じように満子の肩を抱き帰って行った。
 いよいよ撮影も大詰めとなり、残すところ配達する場面だけとなったと橋田から告げられ、私は朝からの緊張が急に解ける気がした。
渚は自転車で、正也は徒歩で駅へと帰途についた後、私と睦美、有紀、高志はパンを積んだ車に乗り込んだ。
 時計を見ると二時半になっていた。
 まず向かったのは、国道沿いの個人経営の電気屋だった。駐車場に着くとまず私が先に降り、バックドアを開け荷室のパンの入った蔓の籠を有紀と睦美に渡し、私も彼女たちと店に入るとお得意先であり顔馴じみの主人に一声かけた。既に数日前、録画の了承は得ていた。橋田たちも後から入って来てパン配達の風景を撮影しだした。店舗奥の壁面ラックには売出し中の地上デジタルテレビが三台置いてあり、その真ん中のパネルから国会の質疑討論の場面が流れていた。高志が気がかりだった私はすぐに車に戻った。
 リアドアを開けた状態にしているので、ぶつけるところがなく高志の調子は比較的穏やかに見えた。私が時折り、手を伸ばしちょっかいを出すとウーウーと叫び強く握り返してきた。数分過ぎただろうか、有紀たちが気になり、再び電気屋へ足を運ぼうかと思った時、向こうもこぞって出てきた。有紀と睦美はいつもと変わりないが、橋田の表情が曇り、強張っていた。佐藤と緒方も駆け足で車に戻っている。
「木村さん、東北の方で大きな地震があったみたいです」
 それから橋田は今、国会中継の画面が激しく揺れ、テロップが流れたことを説明した。
「局に電話したんですが、できるだけ早く戻るようにとの指示でした。撮影はほぼ終わりましたし、申し訳ありませんがここで失礼させて頂くことになりそうです。後の編集ですが、こちらに一任ということで構いませんか」
 橋田は初めてひまわりを訪れた時と同じく真摯な目で直視してきた。私は、再度確認したいこともあったが、却って裏を読まれることを恐れ、くれぐれも今後のひまわり運営にプラスになる番組にして欲しいとだけ付言した。
「もちろんです。最初にお約束した通り明るさと元気がテーマですし、私たちも視聴者に障がい者や福祉職場への間違った偏見だけは与えたくありませんので。それに…」そこでちょっと間を置き微笑を浮かべ「僭越ですが私の拝見したところ、皆さんとても真面目でしっかりされていてレポートに書いてあった通りの素晴らしい所だなと感動しました」
 そこまで聞いた私は、何とか綻びを見破られずに済んだことに安堵した。
 クルーが立ち去った後、地震について新しい情報を知りたかったが配達も後四か所残しており、カーラジオを付けてみた。日頃ほとんど聞かぬため運転しながらではうまくチャンネルが合わせられず、ノイズの多さに苛立った。ボタンを次々に押すと、地震発生のことを連呼するアナウンサーの声が聞こえてきた。感情を押し殺そうとする意識が強過ぎるせいか却って抑制の不充分さが感じられた。私は配達の先々で情報を拾えることを期待したが、二軒は地震のことはまったく知らず、後の二軒は留守だった。予め決められた場所へパンを置きながらも、心情は次第に落ち着かなくなってきた。
 すべての仕事が終わったのは三時半だった。
 高志の母親の勤務は四時までで二十分頃に帰って来るが、こちらが早めに終わったときのため鍵を預かっており、有紀と睦美の三人で高志を見ながら待つことになっている。全員部屋に上がると、この部屋では初めてテレビのスイッチを入れてみた。するとそこには信じられぬ映像が流れていた。大きく膨れ上がった波が港へ押し寄せ、船舶や車両はおろか、建物まで根こそぎ押し流している。おそらく人もまだ大勢取り残されているはずで、私は顫える思いで画面に釘付けになった。
 そのとき部屋中にドスンと大きな音が響いた。高志が畳に頭打ちを始めたのだ。
 私は画面から目を離し高志へにじり寄り、大丈夫、大丈夫と満子のときと同じにまるで自分に言い聞かせるように背中を撫ぜた。そして首はまたテレビに向かっていた。港の堤防や建物が画像の中で無残に破壊されていく。ベランダ際にいる有紀は膝を抱えしきりに携帯をいじっている。私の意識はどうしても映像へ向かい、睦美からも目が離れていた。まさか他人の家で何かを隠すことはないだろう、そんな楽観的な思いがあった。だがそれもわかりはしない。
 今、確かに睦美は一人だけ左隅で距離を置き前屈みで正座し、太腿を両手で擦りながら不安気に顔を左右に動かしている。三人は間違いなく何かの眼差しを求めていた。それが誰であるか、私自身、確信は持てなかった。いや、それどころかはっきりとは知れぬ何かの眼差しを切に欲していたのは私自身だったのかもしれない。
 私が手を放すや高志が再びお尻をずって、硬い柱にぶつける動作に移り始めた。今、止めなければまたあの骨と肉のひしゃげる音が領することになる。私は距離を測りつつ、テレビとを交互に見た。波はどんどん溢れている。高志はいよいよ首を後方へ傾ける態勢に入った。波は次の一撃を合図に平板なモニターから飛び出し、どこよりもまず私たちを一飲みしにやってくる、そんな恐怖を感じた。私はとっさに高志の体を抱くと絨毯からリモコンを拾い上げテレビを消し、いつも通り三人に目を配り母親を待つことにしたのだった。
「相当大きな地震が起きてますよ」
 玄関に現れた洋子に伝えたが、彼女は知らぬばかりか素っ気ない返事で関心を示さず、朝とは打って変わった疲れた表情で高志へ視線をやり、夕方からの二人の生活を思い計るかのように溜息を一つついただけだった。
 地震や津波がその後、どんな被害をもたらしているか気にかけつつ、重たい気分でひまわりへ帰ったのは五時近くだった。宅急便の不在者票がポストに入っていて、送り手は母の京子からだった。配達者へ直接連絡するとまだ近所にいて、すぐにUターンして持って来た。
 小荷物を手にした私はまず二階へ行きテレビをつけた。津波はさらに陸へと上り、整然とした田畑やビニールハウスを巨大生物のように瞬く間に呑み込んでいっている。アナウンサーが原発からの放射能物質の漏れなど外部への影響は今のところないと強調していた。
 私はガムテープでかなり丈夫に梱包してある縦横二十センチ程の箱をじっと見つめ、思い切ってカッターで切れ目を入れ開けてみた。エアーシートに包まれた本体に手紙が添えられていた。文面には病名はぼかした表現で、現在、療養中の身とだけあった。そして、もしものことがあってからでは遅いし、もう自分には必要なくなったので今のうちに引き渡しておくと癖のある斜め文字でしたためてあった。持つとシート越しに手首にある程度の圧迫と重さが伝わってきた。こびりついた表皮でも剥ぐようにシートを捲ると不吉な擦過音が鳴った。厚さ数ミリ、長さ十センチ程の赤黒く変色したチタンプレートの両端の穴にボルトがだらりとぶら下がっている。
何ということだ、よりによってこんな日に。
 私は呪われた者のように独言を吐き、相手の健康を気遣う半面、無神経な行為を恨んだ。
 ボルトはひまわりを始め三年後、透がこの二階から転落事故を起こし、手術したときのものだ。腰椎の粉砕骨折で脊髄に突き刺さった骨の破片を除去した後に補強された。
 私の脳裏にかつて記憶の底に沈めた像が印画紙のようにくっきり浮かび上がり、もはや振り払うことはできなかった。
 そもそも京子は透が特別支援学校の高等部を卒業したら昼夜とも施設入所を考えていたが、私がこれからは障がい者も地域で生きる時代だと半ば強引に言い張り、透が小学卒業のとき離婚していた父親から毎月送られてくる養育費の貯蓄と私自身の僅かな退職金を元手に借りた民家を改装し、ひまわりを始めたのだった。
 最初の数か月こそ透の調子も悪くなかったが、徐々にリズムが狂い、その日も私は、忙しさの余り構うこともできず工房でパンづくりに追われていた。利用者が予想に反し現れず、当然だが公的補助もなかったため運営費は僅かなパンの売り上げと民間公募の助成に一度採用されたくらいで、後は貯金を切り崩し捻出する状態だった。
 二階のことが気になりつつも汗だくでパン生地を形成していると突然、南側から凄まじい勢いで何かが落下し粉砕する音がした。外に出て確かめる余裕もなく私は階段を駆け上がっていた。そこにはかつて一畳ほどのベランダがあり、透が頭を抱え蹲っていた。フェンス下を覗くとCDラジカセが無残に飛び散っていた。
「透、どうしたんだ」私が肩に触れようとすると「コウちゃん、僕、苦しい」
 喘ぎ喘ぎ首を擡げるやニヤリと不敵な笑みを浮かべ、立ち上がりしな私の襟首をつかんできた。既に背丈も横幅もゆうに私を超えていた。
「コウ、どうして自転車乗っちゃいけないの」
 透は私をコウ兄ちゃんやコウちゃん、ときにはコウと呼び捨て、使い分けていた。
「それは言っただろう。一人で出ても調子が悪くなるだけだって。パンづくりが終わったら、一緒に配達に行こうな」
 当時透は、支援学校時代に実習に行った施設でひどいいじめにあったこともあり、相手が自分より強いかどうかへのこだわりにとらわれ、とくに体格のいい男性を目にすると闇雲につっかかり「おじさんは僕より強い、弱い?」と聞かずにはおれないのだった。そこで奇異な目つきや注意でもされようものなら混乱し手を出すことも増えていた。当然、外出は必ず私と一緒にする決まりとなり、思うような行動がとれないことがさらに不満を増幅し、自分の鼻柱を自分で殴ったり、沸騰するお湯に指をつけるなど自傷行為が頻発していた。制止する私にも手を挙げ、唯一、好きな音楽を聴くのが平穏を取り戻す手段だったのだが、ついにそのラジカセも放り投げてしまったのだった。
 硬直した体の圧力でグイグイ押しつけられながら私は全身に力を入れた。しかし次の瞬間なぜか、そうやって渡り合うことに徒労のようなものが過った。何度こうしてきたか。一向に変わらぬ現実に成す術なく、このままいっそ弟ともども地面へ落下するのもいいかもしれぬとふいに投げやりな感情がわいたのだ。途端力が抜け、よろよろ後ずさり始め、鉄格子が腰に食い込んできた。私は透の顔を見た。不敵さが消え、こちらの無抵抗さと引き換えに見たことのない悲壮な表情に一変していた。まるでこちらの心理を見透かしたように寂しげな顔だった。
 襟首から両手を離し、掌が虚空をつかむようにもどかしく動いていた。そのときだ。疾風のようなものが鼻先を掠め、くるりと反転した影がスッとすり抜けていった。慌てて名を呼び、袖口をつかもうとしても指先の感覚は戻らず、影は一瞬で消えていった。やがて定まらぬ視界の中、谷底から吹き上がってくる細切れな声に意識が向けられ、眼下から透の呻きを認めたのは、それからしばらくたってからだった。
 幸い命に別条はなかったが術後、脊髄損傷による麻痺が生まれ、発作も出てきた。投与の薬を増やさざるをえなくなり何とか安定は保ったものの、すぐにまた長期入院となり、三か月後急性心不全となり、帰らぬ人となったのだった。
 息を引き取った透は、それまでの混乱時の険しさが嘘のように穏やかに眠っているようだった。特に私はこの数年、常にこだわりの嵐の渦中からの矢継ぎ早な質問に曝されていたこともあり、相手がベッドに横たわっていても、私の顔を見れば両目をカッと見開き、言葉の連打どころか胸元へ腕まで伸ばしてくるのではとどこかで疑っていた。だがその不安をよそに死者はあまりに静かだった。私は彼の死への悲しみ以上に、誕生以来、兄として引き受けてきた重荷からようやく解放される思いと、何よりも弟の苦しむ顔をもう二度と見なくてすむことにホッとしていた。
 鼻から差し込まれていた人工呼吸器の管を私は自分から手を伸ばし抜いてやった。
 火葬後、遺骨から真っ赤に焼けた固まりが出てきた。それが今、送られてきたボルトだった。  沈痛な面持ちで京子が箸でつかみ、凝視したときだ。たちまち私の脳髄は熱くなり、クラクラ霞んだようになった。眩暈に必死に耐え、立っていると透のまるで生きているような鮮明な声が頭中に響いてきた。それははっきりとこれからもひまわりをつづけ、自分の生きざまを伝えてほしいと切望していた。
 だが京子は違っていた。落ち窪んだ眼窩の奥で暗く絶望に満ちた光を発しながら、両眼には私への抑えきれぬ憤怒が渦巻いていた。
「こんなことを始めるからには、絶対にあってはならないことがあってしまったのよ」
 葬儀後、自宅の仏壇に据えられた遺影を前に最初に私へ吐き捨てるように言った言葉、それこそが洋子と同じものだったのだ。
「透はあなたが、本当は教師としてやりたかった理想に殺されたんだわ」
それからは箍が緩んだのか非難の言葉を矢継ぎ早に発してきた。作業所をやるに当たっての計画の杜撰さをとことんなじった後で、
「すぐに補助金で何とかやれるだなんて、大体いつだってあなたは甘いのよ。土台、透のように重い障がい者が地域で生きるには、まだ無理があったんだわ」
そして項垂れたようにポツリと「晃、もしあなたが他人なら訴えてやりたい」そう呟いたのだ。
「だったら思う存分やったらいいさ」
 そうまで言われ私も堪えきれず声を上げていた。
「これもそっちがもっとけばいいだろう。大事な証拠だろうから」  
 膝立ち仏壇の端に手を伸ばすと、遺骨とは別に供養していたボルトの入った桐の小箱を京子の眼前に突き出したのだ。
 その後、母とは二度と会うことなく、私はひまわりをやっていく道を選んだが、まず手をつけたのが、ベランダを撤去し、全面漆喰の真っ白な壁にすることだった。だが、すべて潰すことは透の最後の痕跡まで消してしまう気がし、小窓をつけたのだ。
 携帯が鳴り、細字のディスプレイが橋田を表示した。今日の大震災で、今回の番組企画は当分延期か中止の確率が高くなったとのことだった。橋田自身も急遽、本社へ応援に行かねばならず、現地へ行く可能性もあるという。とにかく報道現場も混乱しているようだ。私は諦めもさることながら、いろいろひまわりの実態を見せたこともあり、編集如何を問わずむしろ、それでよかったのではとも思っていた。取り繕うような労いを言うや橋田も「木村さんも、お体くれぐれも気をつけて」一刻の猶予も許されていないのか早口で、語尾も聞き取りにくかった。
 電話を切るなり、腰部に感じる違和感に俄かに疼痛が加わってきた。私は、そのままゆっくり横になった。半年前の激痛の記憶が甦った。あの地獄は懲り懲りだ。私は前年九月にヘルニアの痛みと痺れでついに二週間入院し、退院後も仕事への復帰はかなわず、一月間の休業を余儀なくされていた。
『お体気をつけて』
 二階に上がれず一階の組み立てベッドに寝ているとき、この言葉をかけてきたのは洋子だった。彼女は一週間ごと欠かさず容態を尋ね、日頃と違いゆったりした調子で、自分も高志を介護するため腰痛は持病と語り、何かとアドバイスしてくれた。私が、つい、こんなことなら入院中にブロック注射だけでなく思い切って手術をしておけばよかったと漏らすと、手術をしたからといって良くなるとは限らないと慰めてもくれた。
 食事は買い込んでいたインスタント類を床に腹這うように用意し、鎮痛剤と一緒に胃に流し込んでいた。
 洋子からの最後の電話のときだ。体を気遣った後、満を持したように力を込めた。
「木村さん、どうか私たちを見捨てないで下さいね」
 私は一瞬耳を疑った。
 最初、少なからず打算抜きで言葉掛けをしてくれているものと思っていたことが滑稽に思えた。同時に、こんな今の状況の自分にすら必死に懇願せねばならぬ親子の厳しい境遇に、悔しさと情けなさで一杯になった。皆、生きることで必死なのだ。わかっていたことじゃないか。私は枕元に携帯を放り出すと咽び泣いた。お笑いだ。こんな俺に見捨てないでくれだなんて。両足が痺れ、立つこともままならぬ自分にこれ以上、何ができると言うのか。日ごと容赦ない痛みに弱音を吐き、投げ出そうとしているのはこっちの方なのだ。弟も死に、実母からも見放され、ひまわりさえこのままでは委託が切られ、放棄せざる得ぬかもしれない、世間からも社会からも見捨てられようとしているのはこの俺じゃないか。
 テレビでは数十分前とは一転し、原発が緊急事態になったと報じている。
「いざというとき」「もうここしか」「楽しみにしてるんです」「あってはならないことが」「こんなはずじゃ」「あなたを訴えたい」「見捨てないで」
 横臥した私の頭中にはそれまで親たちが発っして来た言葉が糸玉のように膨れ上がり、やがて一語一語が、まるで自分自身同じように必死に念じてきたかのように谺すると、再びやって来るやもしれぬ腰の痺れの脅えと混ざりながら、どうにかなりそうだった。
 それからどれだけたっただろう。テレビ情報は津波から原子炉内の水位低下や避難要請へと目まぐるしく変わり、注視しようにも焦点が合わず苛立ちと泥濘の狭間にいた私を再び携帯の呼び出し音が射った。延夫からだ。今、駅にいるとのことだった。逃げれるところまで行くつもりだったが地震のことを知り、すぐに戻ることにした。怖くてしょうがないと必死な声で訴えてきた。だが声の端々には、いつものあのおどけた口ぶりが窺え、私は憮然となった。
「お前、酔ってんじゃないか」
 普段なら聞き流す相手の話癖に、耳触りな響きと不快さを覚え、叱責するように言った。すると延夫は、「や、やっぱり、木村さーんは、お、俺たちを、ば、ばーかにしてるんだよーなー」と胴間声を上げ、こちらがハッとなり怯むとしめしめと勝ち誇ったように「えへへ」と一挙に調子を変え、「ちょ、ちょーっとだけ、の、飲ーんでるけ、けーど」と舌足らずな声で笑うのだった。
 そのときだ。出窓の向こうから烏骨鶏の打ち騒ぐ声がした。朝とは違い西へすっかり傾いた暗灰色の薄闇に彩られ、私には、どこか鳴き声が間延びし、悠長でありながら悲しげで、それでいてこちらを揶揄するしたたかさを感じた。いつも脱走するあの一羽だろうか。もしも遠くへ翔ぶ力があったとして、一体どこへ行く気だろう。私はそんなことをふと思った。
 延夫はそれから、どうしても栄光園には戻りたくないので匿ってくれと、甘えた声で縋り付くように嘆願するので、私は満子の祖父の造ったあのシェルターがもし可能なら頼んでみようか、と真剣に考え始めていた。そして、祖父の体験した地獄を、今こそじっくり聞いてみたいと切に思っていた。

ひまわり

2021年4月12日 発行 初版

著  者:宮本誠一
発  行:夢ブックス

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宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

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