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『人を喰う話』

      イメージ 摂津正 
      文    菅原正樹

瀰漫する日本浪漫派――シン・エヴァンゲリオン批判

      菅原正樹

ひとをくうはなし

      絵 いつき
      文 菅原正樹

 人を喰う話

         イメージ 摂津 正
         文    菅原 正樹


     香田証生さんの記憶のために

 2004年10月、戦場のバグダッドでイスラム抵抗組織に拉致され、斬首される。享年24歳。

 この青年の無謀な行動を、世間の人は「馬鹿」と呼んだ。終わりなき日常に耐え切れず、非日常世界へと引きこもろうとする今どきの日本の若者の典型なのだと。しかし、世界が意味しているのは、あのような戦場こそが日常なのではないか、ということではないだろうか?

 私は夢想するのだ。時差でしかない今の日本の日常を捨てて、引きこもりの若者たちがあの現地へと赴き、非日常的でしかありえないかもしれない平和を建設しようと、次から次へと自らの首を差し出してゆく様を。この無抵抗による世界への反逆は、逆しまな抵抗を漢心(からごころ)として退ける日本浪曼派的なイロニーにしかならないのかもしれない。がだからまた私は、こうも残念がらずにはいられないのだ。彼があと3年の歳をとっていたら、と。

 13歳とが、人類学的にも近代法的にも、大人への通過儀礼的な境界であるとしたら、26歳とは、それがもうひとめぐりした年齢である。

 世界市民を説くカントによれば、そのおよそ10年の経巡る歳月とは、生殖能力のつく自然的大人としての生存を超えて、人間が他人と共栄していく技術の習得に必要な時間ということである。この人為的な年齢の獲得において、はじめて世界市民としての成熟が資格されるというのだ。

 切腹自殺した三島由紀夫は、前者の子供と大人の境界をめぐる小説をものしている(『午後の曳航』)。そしてドストエフスキーは『白痴』において、日本人の恥による割腹という馬鹿げた文化的儀礼を注視しているが、その主人公ムイシュキンは27歳である。彼は生き長らえて、精神病院へと返っていった。

 世界は、何も変わってはいないのだ。
 「ならばもう一度!」 ニーチェもそう言うように、「洞察力を持った白痴(バカ)」たちは叫ぶのである

瀰漫する日本浪曼派――シン・エヴァンゲリオン批判

           菅原 正樹

 日本浪曼派とは、昭和十年ころから発生した文芸復興的な運動であるといわれる。その定義や、どういった人物をそこに見立てるかは曖昧なままだ、ともいわれる。ただその潮流的なものが数年という一時の間もてはやされた背景には、プロレタリア文学の弾圧による衰退、満州事変からはじまる非常事態への国民的な高揚と、知的大衆層にはいる若者たちの悲観的な感情があったと指摘されている。

 が、より根底的には、「ロマン主義」の定義自体が一定ではないだろう。そうした議論自体には、この一映画批評はふれない。ゆえに、曖昧な定義のまま、広義な意味としてのロマン主義と日本浪曼派なる思潮の系譜的な文脈を仮設するが、ロマン派の物語に構造的に類同的な定型はおさえていくつもりである。

          ※

 橋川文三は、その『日本浪曼派批判序説』(講談社文芸文庫)において、「日本ロマン派におけるロマン主義の本質がどんなものであったか」と、問うている。また、日本におけるその思潮の主要人物、保田与重郎の発想を支えている「三つの体系的構造」として、「マルクス主義、国学、ドイツ・ロマン派の三要因」をあげている。上の問いは、日本のロマン派といえども、洋の東西を問わないより普遍的なロマン主義の思想の内にあり、その一変種にすぎない、とも読めるが、逆に、西洋の思想の影響をこうむりながらも、日本に特異的なロマン主義の傾向があるのだ、ということにもなるだろう。おそらくどちらに解釈しても、コインの表裏であって、何を明確にしたいのかによって、どちらに重点をおくかが変わってくるのだろう。

 この「シン・エヴァンゲリオン批判」は、たぶん、後者、ロマン主義のなかでも特異的な日本のロマン派、という視点を提出することになるのだろうとおもう。そしてそのことによって、いわばオタクとされる現象が世界的にみられるともいえることから、より一般的なロマン派の問題点を照射することをも意図するようになるかもしれない、と考えている。

 橋川は、異質な「三要因」の思想を統一的に把握させた思考の契機とは、保田にとってそれは、「イロニー」という思想であったと指摘する。

 イロニーの原型としては、ソクラテスの無知の知、という実践が筆頭になろう。知らないふりをして相手に近寄り、相手の無知こそをあばいていく作法である。ロマン派の文学では、これは、無垢な魂をもった主人公造形、思想的には、「ナイーヴ」といわれる文学概念になる。

 となれば、最終回と名打たれた、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』が、あからさまにというより、そここそを主題化のひとつにしていることは明白である。

 綾波レイの「そっくりさん」は、世界にはじめて産まれてきた赤子のように、何も知らない。「なにこれ?」「なんでそうするの?」みたいな質問を、森の片隅に生きのこった村人たちに発していく。主人公本人に、皮肉があるのではない。無知の知をよそおっているわけではない。作者側に、そう設定する必要があったのだ。そしてなにも、その作者が皮肉屋だということではない。そう思わせるロマン主義作品もあるだろうが、この映画に、そんな作者の自意識は感じられない。問題なのは、系譜されるその形式である。作者は真面目であり、真摯である。が、シュレーゲルによれば、イロニーの最終形態は、「真面目である」ということなのだ。

 作者側は、なぜ、最終的な「真面目」さを引き受けなくてはならなかったのか? 無知の知をよそおうことによって、現今世界の何を、暴かなくてはならなかったのか?

 日本では、とくには3.11の大災害いこう、ありきたりな日常を大切に、といわれる。このコロナ禍でも、非常事態宣言の下、引きこもりのような行動を強いられる現状をかえりみて、普段の何気ない生活の凡庸さの貴重さを、改めて噛みしめ大事にしていくような思想が流布されていく。「エヴァンゲリオン」の時代背景も、おそらくは人災と天災が混合しているような、大災害下での世界が舞台である。エヴァ最終回の映画観賞者は、このリアルな世界での真面目さとだぶって、綾波レイの根底的な問いを受け取るだろう。「あいさつって何?」「なんでするの?」

 それはそれで、貴重な問い返しである。
 定住革命の西田正規によれば、あいさつは、おそらく人と人との闘争を回避するためにうみだされた作法なのではないか、と推察していた。たしかに、目と目があって黙ってとおりすぎていくと、ガンの投げ合い飛ばし合い、になって、気まずいであろう。綾波レイのナイーヴさは、そうした人間にとって根源的に必要になってくる無意識になった行動の意味を、その発生の根源にたちかえってまで、浮き彫りにしようとする。

 おそらく作者は、終末という設定にあって、始原的な意味の発掘を迫られた。自明な事柄が、自明ではなくなってくる病。分裂病なり、引きこもる子供たちは、そんな世間の意味をすぐには受け入れられない。というか、拒否しているわけだ。碇シンジのように。

 つまり、構図としては、こうなる。
 正常とされる大人たちが、抵抗なく受け入れていく常識的な振る舞いの根底には、人間たちが生きるにあたって不可欠になってくる始原の知恵が、歴史が、凝集されているんだよ、というメッセージを、ナイーヴな綾波と頑なな碇の、交互に現れて進む前半部分によって、各主人公を同時的に観賞できる側が受け取れるようになっている、ということだ。

 子供の頑なさの認識が甘い、ということが、もう一方のナイーヴな者の振る舞いによって、浮き彫りにされてくるような仕掛けである。

 廃墟の中でたたずんでいたシンジは、二度・三度と訪れ悪びれずに声をかけていく綾波そっくりさんの置いていった、カロリーメイトみたいなものを猛然と食べ始め、世界にもどることを決意する。シンジの見えないところで、レイそっくりさんが無知の知を装わされながら行ってきた軌跡を知っている観賞者は、シンジだけにかぎれば、なぜ急に心機一転したのかは不透明ながら、以上のように了解できる。シンジは、知を悟り、復帰しえたのだと。

 ソクラテスは、無知をあばいて殺された。おまえは無知だと突き付けられた相手は、知を悟ったわけではない。ナイーヴなソクラテスの問いかけの延長にあっては、無知のまま、ということになろう。だからわれわれは、宙づりにされたままになる。

 しかし、シンジは成長した。大人になった、という確認が、この最終エヴァでの主題のひとつでもあるだろう。

 ここに、ロマン主義のもうひとつの型、ビルドゥングスロマンという思想が挿入されているわけだ。日本浪曼派の保田が特権的に参照したのが、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』だと言われている。この作品から感化自殺者がたくさんでたというエピソードもあるくらいだから、ウェルテルが成長したといえるのかどうか不信になるが、とにかく、最終エヴァ作品が、ドイツ・ロマン派の系譜に連なっているといえることは、明白的に確認できるだろう。また説明ははぶくが、このビルドゥングスロマン、教養小説という主題を補完するものとして、父子間の葛藤、父(王)と子(奴隷)の階層、子(民衆)が父(王)を乗り越えてゆくといった革命的な物語が後半部に浮上してくることも追記しておこう。フロイトが精神分析概念として再把握した、ファミリー・ロマンスの系譜である。

 その確認をふまえて、私は、ここでより一般的な問いかけをしたい。

 ①日々繰り返される、平凡な日常生活の大切さとは、本当なのですか?
 ②大人になるとは、子供の頃からの心理的傾向を、変革し、乗り越えていくことなのですか?

 私が、①のような疑問をもったのは、次のような視点によってだ。
 人災や天災で失われた日常生活の貴重さといっても、それ以前から、日常が地獄のような生活の人びとはどうなるのだ? こんな毎日がつづく大切さとは、どういうことなのだ? 親から虐待の日々をおくっているような子供、日々の食生活でさえままならなくなっている、とくには母子家庭の家族たち……3.11の被害にあった少女のひとりが、言っていた、この災害が日々のつらい悩みから解放してくれてほっとした、しかしまた、日々の生活がはじまるようになって、これでいいのか、と考えだした、と。

 ②には、私が、結婚し、子供ができ、父親になってからの、日々の葛藤においておもってきたことだ。
 私も、引きこもりだった。高1の夏前ぐらいから、学校へ行けなくなった。自分のもやもやを意識したいという欲求からか、夜読書し、昼間に寝、夕刻近くに部活の野球にいったりいかなかったりの学校生活だった。内申書での欠席日数は80何日とか記入してあったが、実際には、ほぼ欠席、たまに遅刻である。単位は、グランドを走ってもらったのだし、また進学校だったからか、テストの点がクリアできていれば問題はなかった。大学は夜間部にはいり、その生活をつづけた。就職活動もせず、フリーターとなり、アパートの裏の植木職人になった十年後に、30代も後半になって結婚し、すぐに子供ができた。自分の息子をまえに、自分が息子だったころを何度もふりかえりながら、時を過ごし、50歳も半ばになった。

 私は、成長しただろうか? 心的傾向、行動の型みたいなものは、何も変わらない。少なくとも私は、変えることができないでいる。ただ、それがシンジが意識するようになったように、反復であることを認識はできる。またか、と。そして、そのことに慣れていく。心機一転し、変革して大人になっていった、というのではない、慣れていく。そして、あきらめていく。頑張るのは、自分を変えるとか、そういうことではなくなっていく。おそらく、自分を変えられたものは、息子にも、いろいろ強いことが言えるのだろうな、とおもう。私は、息子の成長に、耐えているだけだ。たしかに性格的に親と似ているところがあるとしても、小学6年生くらいからか、もうわからない。自分の子といえども、まったき他者になる。自分は変わらない、変えられないのに、子供が変わっていく。

 私自身が、父にとって、そうであったろう。

 私が息子に言えてることは、ただひとこと、「朝(昼)おきたら、顔あらえよ」ということくらいではないだろうか? それこそ、災害での避難所生活になったら、起きて顔を洗える水があることじたい、貴重なことなのだから、大事にしなければならない行為であろう。しかし、綾波そっくりさんが現れて、「なんで、顔をあらってるの? なにしてるの?」ときかれても、私は、答えようがない。

 だから、根底的な問いへの立ち返りが、必要な情勢というのもあるのかもしれない。普段顔を洗わない息子が、その始原の意味を悟って、顔を洗う大人になっていく、ということもあるのかもしれない。が、その必要な情勢、が想定されるとき、その根源的な問いを問うという姿勢が、正当的なのだろうか? 例にあげた、3.11を被った少女の悩みや、普段の日常自体が地獄であるような、現に取沙汰されている現実を考え見れば、それは、深すぎる問いなのではないだろうか? 哲学が、考え方を学ぶことが、人を救う導きになることを、私は否定しない。私は、そうやって、自分を救おうとしてき、こうやって、生き延びてきていると知っている。しかし、それですむ話なのか?

 エヴァ最終回には、いま私が投げかけた問いが、碇シンジの父ゲンドウによって、反芻されている。階級格差や、世間や人生においておきる不幸を解決する科学的な方法として、彼は、神の法則に挑戦し、盗むのだ。つまりその主題に、橋川が指摘した「三要因」における二つ目、「マルクス主義」的な視差が導入されているといっていいだろう。

 また、付言的に指摘すると、綾波そっくりさんの無知の知は、このマルクス主義的な科学的思考をふまえた主題とも通底しているかもしれない。というのは、黒沢清の映画『散歩する侵略者』では、宇宙人によって大切な概念が吸い取られて無知になっていく人々のことが劇画化されているわけだが、おそらくその態度は、黒沢の青春時と重なっているかもしれないマルクス主義的な左翼思想へのパロディーだとおもわれる。作者側に、明確なイロニーの意識があって、あの知的活動は無知だろう、とあばきながらも、その問題把握には共感しているような両義性が感じられるのだ。いわば、知(マルクス主義的科学)の無知の露呈、劇画的な問題再把握化、という対応だ。思想史的に、ロマン主義の系譜とマルクス主義がどう絡む歴史をもっているか私は不案内だが、イロニーという形式それ自体が、マルクス主義的な思想と結びつく契機があるのかもしれない、と推論しもする。

 シンエヴァ総監督の庵野秀明は、しかしこの個人的葛藤をこえた、社会的視点・主題を、すでに『シン・ゴジラ』によってみせていただろう。

 むしろ、あまりというか、ほとんど同時代的には無関心でよい観賞者とはいえない私が、セカンド非常事態宣言が発令されるまえにとこの映画をみにいったのは、庵野監督の『シン・ゴジラ』での解決策をテレビで視聴したからである。世界的災厄に対し、このコロナ禍で一度上映が延期もされたシンエヴァで、こんどはどういうアイデアの解決策をだしたのか、興味をそそられたのである。

 『シン・ゴジラ』がみせた解決策とは、ひとことで要約すれば、オタクの知識が世界を救う、ということだ。そしてオタクの聖地である日本こそが、その実証モデルを提出しうるという、ナショナリズム的な思想である。日本のオタクたちが、世界史的使命を帯びた、という設定になろうか。
 この枠組みの採用もまた、ロマン主義の系譜ということになる。典型的なのが、ドストエフスキーの、スラブ民族主義、ロシア正教的な伝統愛が、世界の終末を救う可能性をもっているとする洞察や信念である。

 つまりここに、橋川のいう「三要因」の三つ目、「国学」的な系譜が挿入されもするわけだが、シンエヴァやシン・ゴジラに、ロシア正教なり国学なりといった、古い歴史までが意識されているわけではない。

 『シン・ゴジラ』では、高度成長期の、あくまで戦後の歴史意識が意識されているだけであろう。ゴジラ追撃の最終作戦は、ヤシオリ作戦と呼ばれた。『古事記』に出てくるヤマタノオロチを倒すのに使われたという日本酒名をもつ作戦を開始するに、まずはゴジラの動きを封じるために使われたのが新幹線であり、その無人列車を特攻させるという手段がとられた。ゴジラに命中した新幹線は、ゴジラの体を駆け上がり、さらに高く、天をも昇る龍のごとく描写されていた。ここには、戦後の復興を支えた、24時間働く日本サラリーマン精神のオマージュがあるだろう。

 『シン・エヴァンゲリオン』でも同様である。
 最後の襲撃は、「ヤマト作戦」と呼ばれる。そもそも、この最終エヴァが、「宇宙戦艦ヤマト」や「宇宙海賊キャプテンハーロック」をこれでもかと連想させてくる。が、漫画家の松本零士は、特攻に象徴されるような民族魂のようなものには、だいぶ両義的な態度がみられ、作調は、エヴァンゲリオンの自意識的悩みとはちがって、もっと暗い低音が流れているように感じられる。それに比べて、シンエヴァは、歴史意識から解放されているといおうか、すっとんでいないだろうか? なにせ、戦艦ヤマトが、単なる楯であり、誘導弾なのである。敬意が、感じられない。かといって、大和魂と呼ばれるようなものを、それでイロニックに批判しているというのでもなさそうだ。あっけらかんとしている。

 しかしどちらかといえば、やはり、24時間戦う戦後のサラリーマン精神、日本人保守主義の態度を礼賛的に把握している傾向であろう。国学、歴史といっても、せいぜいが戦時中から戦後、というか、昭和の中期から後期までの歴史意識しか感じられない。

 もちろん、意識している歴史、参照している歴史の古さ短さがわるい、浅はかだ、と私はいいたいのではない。たとえ、自分が意識し、洞察しうる範囲が私生活をこえず、射程が短くとも、そこに、本当の認識や洞察があれば、意識された歴史をこえて、より普遍的な位相をよびこみ、観賞者側にも考えさせられる、それは可能であろうと私は考える。

 「エヴァンゲリオン」も、私の認識では、当初、そうした射程の長さではなく、深さに達していた、とおもう。
 たとえば、SF的な、映画の舞台背景を考慮してみよう。すごい先端的・未来的な科学技術が林立する風景のなかに、きわめてローカルな、いまでもそこらにみられる風景が並列されているのだ。電柱の立った街路から、廃墟になっているとはいえ、工事中の現場にみられるユンボなどが転がっている。近未来といえば、「ブレードランナー」に代表されるような、すみずみまでが未来都市化された世界風景で、そこに、かわらない格差社会をもった人間が、高層階や衛星宇宙都市に裕福層がすみ、貧しい人々がビル底に棲息しているような光景が描写される。が、エヴァはちがう。この未来と今の並列同居はなんなんだ、と衝撃を受ける。科学の進化した未来は、連続的に訪れるのではなく、突然と出現し、世界に断層が刻み込まれたようだ。が、もしかして、本当は、そういうふうになるのではないだろうか、と考えさせられる。先端的な技術が、ローカルな技術を刷新していく近代までの流れとはちがって、もしかして、今後は、こうなるのが実際なのではなかろうかと。すでにこのコロナ禍において、テレワークと相変わらずの労働が同居しているように。遺伝工学の技術と布マスクが同居しているように。

 あるいは、ビールをぐい飲みするきれいなお姉さん。あえて、顔をおかしくゆがませて描かれた意図には、男による女性の神話化を異化させようとすることがあっただろう。その意図内容自体は陳腐であっても、映画におかれた文脈が、どこか新鮮なリアルさを感得させてきた。

 が、この最終エヴァは、未来におけるローカル風景の同居の衝撃というよりは、昭和への、しかもあくまで戦後高度成長期の日本の風景への懐旧を惹起させてくるだけだ。女性の身体へのあらぬ角度からのショットも、女性神話を異化させていくような新鮮さは感じられない。

 昭和を知らない若い世代は、どう見るだろうか? そもそも、見るのだろうか? 見れるのだろうか? 10代後半のわが息子世代は、関心がないようだ。なんでパパたちは、あんなアニメに熱狂しているのだろうと、冷めてみているというか、見られているような視線を息子から感じる。肉体労働の仕事あとで、私は夜なかにみにいき、夜おそく帰ってきもしたからである。息子にとって、そんな父親は、他者なんではないか?

 しかしそうした他者性を、よくもわるくも解消させる一般性によって、映画は肉付けされている。いわば、民族特殊的なロマン派の文脈だけではなく、より普遍的なロマン主義な信条や定型としてである。

 たとえば、エヴァンゲリオンが一世を風靡した当初、村上春樹との作品の類似性が、普通の愛読者たちから指摘されていたようだ。私は、エヴァシリーズをみて、その読後感の心理状態から、村上春樹の作品を連想してはいた。が、そう具体的な指摘を知ったのは、大黒岳彦の『「情報社会」とは何か?』(NTT出版)によってである。大黒氏は、そこで、綾波レイの人物造形と、村上の『1Q84』という情報社会をテーマとした作中での人物の類型性にある問題を考察している。なるほどそうだよな、と村上のその作品は読んでいないけれども私は合点し、スマホでエヴァンゲリオンと村上春樹との関連を検索してみた。すると、村上の『ノルウェイの森』が、エヴァンゲリオンの人物設定と重なっているとあったりする。内気な男の子を取り巻く、年上の性的導き手の女性、同級の積極的な女性と病的な女性……うむ、そのものじゃんか、と納得する。がそもそも、ロマン主義文学とは、典型を羅列することも手法のひとつなので、良い子悪い子普通の子と、みんなでてくれば、その誰かには感情転移でき、心理的にハイになり、味わえるようになっている。大黒や巷のブロガーの示唆するように、村上春樹がエヴァに影響を受けていなくても、方法的に自覚的でなければ、似てきてしまうのが文学上における物語の力学であろう。

 しかし、もうひとつ、日本民族をこえた、より一般的な肉付けがあるだろう。
 また私にとって、これこそが、みておきたい鑑賞のポイントだった。

 それは、科学、ということだ。

 この物語の設定の背景大枠は、セントラルドクマという、分子生物学的な知見である。
 セントラルドグマとは、DNAからRNAへ、そしてタンパク質の製造へという、生命の原理的なとされた遺伝子のメインストリームのことである。された、と過去形で表記したのは、最近の学説によって、その流れが唯一本来なのか、疑問視されてきているからである。エイズのようなレトロ・ウィルスの発見が、RNAからDNAへという、セントラルドグマとは反対の経路を示唆したのだ。いや、示唆にはとどまれない。指嗾したのだ。いま人体に打ち込まれている最新のコロナ・ワクチンは、そのRNAからDNAへという、セントラルドクマの逆をいく、レトロ・ウィルス的な戦略を実装させているのだから。

 私が知りたいとおもったのは、この新型コロナウィルスに襲われた世界的災厄に対し、シンエヴァは、どのようなアイデアでのぞんだのか、ということだった。

 戦艦大和を楯にし、誘導弾として特攻させるという民族魂が再発行されていることはわかった。しかし相手は巨大な怪獣ではない。ミクロな、見えない敵だ。同じ方法だけではダメだろう。ではどんなアイデアを、この作品はみせてくれるだろうか? ないものねだりのような視点だが、それも、私は『シン・ゴジラ』を評価しているからである。ロマン派的な方法だとはいえ、ひとつの典型を例解として提出しえている。

 しかし、もうその日本人のオタクによる世界史的使命は、お株を奪われてしまった。お隣の台湾では、新コロナ退治に、35歳のオタク的天才を起用し、抑え込んだ。そのデジタル担当大臣に指名された唐鳳(オードリー・タン)は、中学中退してアップル社に飛び込んでいったらしいが、そもそも、その今はGAFAとか呼ばれるデジタル会社を創立した人物たちが、ビル・ゲイツはじめ、オタク的専門家であろう。

 本場を自称する日本はどうなんだ? ゴジラを退治したように、このコロナ禍の対処に、オタクを抜擢登用し、組織しえたか? ……なにもしない、なにもできない、責任のなすりあい、外にでるなとGo to音頭、むちゃくちゃだ。もう30年もたたないうちに、関東をはじめとした大地震がくるぞと、恐るべきCGを流しながら広報しているのに、CO2削減のために原発を再稼働しますとかもいっている。何がやりてんだ? こりゃ、もうだめだ。シンエヴァよ、もっとまともなアイデアをみせてくれ……私は、願うような気持ちで、映画館に足を運んだのである。

 おそらく、解答はこうだった。

 神の二つのヤリ(XとYの染色体のことか? つまり、DNA)にくわえて、三つ目の人工のヤリを製造し、突入せよ! ――おお、人工RNAだ、新型ワクチンかいな!

 もし、この見立てが正しいのなら、『シン・エヴァンゲリオン』は、リアルな世界の方策を、生真面目になぞっていることになる。

 確証はない。
 最後の戦いは、とにかくピカピカで、頭が痛くなって、よくわからなくなってしまったからである。

 もしかしたら、なのだが、この人工ヤリの製造描写は、エリート産業による特権特許的製法というより、どこか、ヤフーの知恵袋におけるような、民衆的な話し合いの集合知であり、大衆的なスマホゲームのアイテム交換のようなノリで、提出されているような気もした。そして、最終的な戦いは、父とではなく、父の背後で一体化していた母とであった、という設定だ。その巨大化した母のイコン像は、虚ろな鋭さで目を見開いている。首と体が離れている。イマジナルなイコンは、破壊、凌辱されているような雰囲気もある。となると、これは、普遍的なロマン主義の一般解というよりは、日本浪曼派としての特殊解、つまりは、天皇制の文脈とも読めてくるのだ。こだわっているのは、父や王ではなく、この日本下の、天皇という双系的な首である、と。

 そうなると、ヤマトを楯や誘導弾に使ったということに、批判的な異議が内蔵されていた、ということになりそうなのだが、いまの私には、判断つかない。

 とにかく私は、頭が深刻になって、映画館をでてきたのだった。

          ※

 『鬼滅の刃』をこえて、観客動員が日本一になった、と宣伝されている。
 そうした宣言行為がもっている意味、社会への機能とは、どんなものであろうか?

 職人の現場でも、若い社長をはじめ、まるで戦時中の青年将校のように、生真面目になってきている。24時間戦ったサラリーマンのモラルを反復することに意義をみだしているようだ。新宿の小学生代表チームの中では、コーチから、おまえはサッカー選手ではなくM―1をめざせ、といわれ、高校では、先輩たちの間での坊主にするしないの議論に嫌気がさしてサッカー部活をやめた息子は、大学受験勉強はいやだから、公務員のおまわりさんにでもなろうかと、勉強しはじめる。

 私は、そこから、脱落した身だ。せっかく、サラリーとはべつの、天気に従った日雇いの日銭の世界で息が抜けたのに、また、息苦しい時代がやってきた。やってきているように感じている。

 私は、引きこもりたくなる。大人になんか、なりたくない。世間など、だいきらいなままだ。

 14歳でエヴァにはじめて乗ったとされる碇シンジは、その歳をもう一巡りした28歳で、大人へと脱皮したかのようだ。私はさらに一巡りして、端からは大人にみえるとおもうけれども、内心は小児のままだ。

 ムイシュキンは、28歳をまえに、精神病院へとかえっていった。もう一巡りした三島由紀夫は、割腹自殺した。

 私たちは、もっと、生きながらえて、この時代を生きている。その意味を、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:Ⅱ』は、問いつけているようだ。

ひとをくうはなし

      絵 いつき
      文 菅原 正樹

人を喰う話

2021年5月3日 発行 初版

著  者:菅原正樹 摂津正 いつき
発  行:知人書謀

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摂津 正 1975年生まれ。

菅原 正樹 1967年生まれ。植木職人。 自著;『曖昧な時節の最中で』(近代文藝社)・『書かれるべきでない小説のためのエピローグ』(新風舎)

いつき 2003年生まれ。

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