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異世界チート知識で領地経営しましょう 1

加藤良介

千秋出版



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  この本はタチヨミ版です。

序章

 夕暮れ迫る峠道を、複数の男たちが、荷馬車を引いて進んでいた。
 男たちは疲れ切っており、足取りは重い。
 その隊列は、一人の青年が率いられていた。
 青年は手馴れた様子で馬を操り、その動きには若さが漲っている。時折揺れる、腰に佩いた長剣が、彼が只の村人でないことを表していた。
 背後には、同じように馬にまたがった男と、四台の荷馬車の列が続く。
 迫る暗闇に、先を急ぎたいが、道は上り坂。荷物を積んだ馬車の足は遅い。
 青年が後ろを振り返ると、視界に遠く、オルレアーノの街が夕日を浴びて輝いて見えた。
 空気が澄んでいるのか、いつもより明瞭に見える。青年はその美しい景色を見てため息をつくのだった。
 やがて日が落ち、男たちが灯した僅かな灯火だけが、峠道を照らす。暗闇の中を進むのは危険だが、この先に野営に適した山小屋がある。
 そこまでは進むつもりだ。
 山の天気は変わりやすい。峠を登るにつれ、空模様も急速に悪くなっていった。
 まずいなと思った矢先、鼻頭に雨粒が当たった。
 「もう少しだ。頑張ろう」
 青年が後に続く男たちを励ますと、彼らは無言でうなずいた。
 降りしきる雨に追い立てられるように進み、山小屋まであと一息というところで、道の傍らに黒い塊が横たわっていることに気づいた。 
 「ロラン。明かりを」
 青年は後ろの男に声をかけ馬から降りると、その横たわっているものに近づいた。
 「人だな。行き倒れか」
 行き倒れなど別段珍しくもない。街道を歩けば嫌でも目に入る光景だ。
 灯火が近づいてくる。
 ロランと呼ばれた初老の男が灯りを掲げると、影の正体が露わとなる。
 やはり人であった。
 触れようとすると、ロランが声を上げた。
 「若」
 その声色には自制を促す響きがあったが、青年の動きは止まらない。
 「逃亡奴隷だろうか」
 行き倒れで一番多いのは所有者の元から逃げだした奴隷だ。彼らは束の間の自由を手に入れ、そして倒れる。運が良ければ元の所有者に引き渡され、悪ければそのままとなる。どちらがより幸福かは彼らが決めることだろう。
 ただ、逃亡奴隷にして身なりが妙だ。
 倒れ込んだ人は、見た事のない衣装を身に纏っている。
 青年は、うつ伏せになっているその身体を引き起こした。
 その時になって、倒れていたのが女であることに気が付いた。女の口元に耳を当てると、微かに息の揺れを感じ取った。
 「良かった。まだ、息はあるな」
 女の身体は冷えてはいたが、大きな外傷などは見当たらない。
 恐らく空腹か疲労で力尽きたのだろう。次に女の首筋や手首を確認する。
 「奴隷ではないようだ」
 奴隷になると、首筋や腕に奴隷紋と呼ばれる刻印が打たれるのが習わしだ。
 それは、所有者の家紋であったり数字であったりする。奴隷紋のある者を勝手に連れ去ると窃盗扱いとなる。
 この女にはそれが無かった。
 「どうなさるのです」
 「見覚えはないが、この道を通っていたのなら、ニースに縁の者かもしれない」
 ロランの問いに、暗に助けることを伝えた。
 「わかりました」
 ロランは女を担ぎ上げると荷馬車に横たえた。
 「雨が強くならないうちに山小屋に向かうぞ」
 再び隊列は動き出した。
 山小屋で一晩を明かし、翌朝ぬかるんだ道を抜け、家のあるニースの村に帰り着く。
 その間、毛布にくるまれた女は意識を取り戻さなかった。
 「若。この者はどうなさいますか」
 「とりあえず家に運んでくれ。息があれば、そのうち気が付くだろう」
 「承知しました」
 女は毛布に包まれたまま、家に移される。
 垣根と木戸だけの粗末な門の前で、母と妹が出迎えてくれている。
 妹のレイナが走り寄ってくる。
 「兄さま。おかえり」
 「ただいま。レイナ。ただいま戻りました。母上」
 「おかえり。エリック。雨には濡れなかった。オルレアーノの街はどうだった」
 笑顔で出迎える母の言葉に、思わず苦笑いを浮かべるのだった。
 
 エリック・シンクレアは海沿いの小さな村。ニースの代官を務めている。
 代官の役目には徴収した税を、領主が住む街に納めに行くものがあった。
 エリックは村で取れた燕麦や大麦を馬車に詰め込み、護衛の傍らオルレアーノの街に向かったのだ。
 街の徴税官に税を納めた後、街一番の屋敷に向かう。
 この街の領主であり、エリックのパトローネのセンプローズ将軍に挨拶をするためだ。
 そして何より会いたい人がいた。
 「エリック来てくれたのですね」
 一人の少女が満面の笑みで迎えてくれる。
 「十六歳のお誕生日おめでとうございます。セシリアお嬢様」
 美しい金髪をなびかせる少女に、精一杯のお辞儀をする。
 「ありがとう。また。エリックに追いつきましたからね」
 セシリアも軽くひざを折って挨拶を返した。
 「そうですね」
 「祝いの宴には出てくれるんでしょう」
 セシリアはエリックに一歩近づき、見上げる。
 「いえ。私は贈り物と、ご挨拶だけです。これでお暇いたします」
 「どうしてですか。祝ってくれないの」
 「いえ。決してそんなことは」
 エリックが言いよどむとセシリアは笑顔で。
 「なら、いいでしょ。はい、決めました」
 「しかし、宴に出れるような恰好では」
 エリックは自身の身なりを指し示す。白を基調とした上下に赤の線の入った軍服。ここまでの道中で薄汚れ、とても見栄えが良いとは言えなかった。
 セシリアは一歩後ろに下り、顎に手を当ててエリックを眺める。
 「別にそれでいいです。軍団兵の制服なら別に問題ないわ。お父様だって宴の時はいつも軍装なんですもの。あっ、そうだ。その恰好が嫌なら兄様の衣装を借りましょう」
 「若殿の。とんでもございません。それはご容赦を」
 エリックは慌てて手を振った。
 「そう。背格好が同じぐらいだし、似合うと思います」
 「似合う似合わないの問題ではございません」
 「なら。そのままでいいです。で、何を贈っていただけるのですか」
 「えっ」
 「贈り物を用意していると、言ったではありませんか」
 「それなら、先ほど執事殿にお渡してあります」
 エリックの言葉にセシリアはむくれる。
 「エリック。どうしてわたくしへの贈り物をアルに渡すのです。ちゃんとわたくしに手渡してくださいな。アル。アルフレッド。エリックからのプレゼントを持ってきて」
 奥から小柄な老人が進み出ると、セシリアに小箱を手渡した。
 エリックが用意したささやかな贈り物だ。
 「開けても? 」
 「もちろんです」
 セシリアが小箱を開けると、中から木彫りの人形が出てきた。
 「まあ。可愛い。熊さんですね」
 「あの。いえ。猫のつもりです」
 「あら。そうでしたか。そういえば猫のような? 」
 セシリアは木彫りの人形を手に取って、色々な角度から眺める。
 「すみません。猫がお好きだったので」
 「どうして謝るのですか。わたくし、とても嬉しいです。青いお目目ですね」
 「はい。ニースで取れましたので使いました」
 人形には宝石というには慎ましい、青色の石が嵌め込まれていた。
 「わたくしとお揃いですね。エリックが彫ったの」
 セシリアは蒼い瞳を輝かせてエリックを覗き込む。
 「はい」
 「ありがとう。とても嬉しい」
 「お嬢様。そろそろお時間でございます」
 執事がそっとセシリアに声をかけた。
 「そうですか。ではエリックまたね」
 一礼するとセシリアは部屋の奥へと消えていく。
 エリックにとっての幸せなひと時は終わった。


 夕刻から始まった宴は、大勢の出席者でにぎわっていた。
 それはセンプローズ将軍の権威の強さを表している。
 幸せな時間の後には、必ずそれを取り返そうとする時間がやってくる。エリックはそう信じている。
 今がその時だ。
 宴の片隅で目立たぬようなしていたエリックに、わざわざ声をかけてきたものがいた。
 「軍団兵がどうしてこんなところにいのだ。警備なら門でやりたまえ」
 純白の軍装に、華麗な曲刀を佩いた青年騎士が、エリックの前に立つ。
 ニースの村人から見れば代官であるエリックは平民ではないが、騎士から見ればただの平民と変わりない。
 「将軍閣下からのご許可を得ております」
 「それでも辞退するのが筋であろうが」
 「ご命令でしたので」
 エリックにとってセシリアからのお願いは、将軍の命令と同じ重さであった。
 エリックの返答が面白くなかったのか、青年騎士は鼻で笑うとその場を離れた。
 それでも彼は自分の意見を言うだけ誠実であったかもしれない。それ以外の人々はエリックを居ないものとして扱っていた。
 あたりが静かになると、楽師たちが奏でる楽し気な音色が響きだした。舞踏が始まったようだ。
 当然エリックには踊る気はないし、エリックと踊ろうという物好きな子女は周りにいない。
 ただ楽に合わせて踊る人々を、自分とは無縁の光景として眺めるのであった。
 ある意味で、先ほどの騎士殿の言い分は正しい。
 場違いなのはエリックが一番痛感していることだ。宴に出席しているのは貴族か街の有力者とその子弟。小さな村の代官など自分だけだろう。
 その様に自分を卑下しているエリックにも野心はある。
 いずれ武功を立てて、騎士に取り立てられ、さらに貴族の地位を得たいと思っている。その暁には故郷のニースの村周辺の領主になりたい。今は任期が終われば交代させられる代官だ。ただの役割でしかない。
 だがその望みも薄い。
 父たちの世代で大きな戦いは終わったというのが、この頃の人々の共通の思いだった。
 北方の異民族は撃退されて久しい。
 戦が無ければ手柄の立てようもない。
 ならばどうすればいいのか。
 まずはいつ戦が起こっても武功が立てれるように、自身の武芸を鍛えなくてはならない。
 そして、代官である間にニースの村を豊かにしよう。もし成功すれば再び代官に任じてもらえるかもしれないし、もっと大きな町の代官になれるかもしれない。
 代官の任期は八年、父の跡を継いで一年たった。残り七年しかない。その期間の間に大きな功績を立てて、彼女を迎えに行くのだ。
 だが、それも浅はかで叶わぬ夢だろう。
 輪になって踊る人々を眺めながら、そう考えるのであった。

 思考の迷路で迷い疲れたエリックは、頭を冷やすため庭に出た。
 センプローズ将軍邸は庭も広く、池もある。
 宴の喧騒に背を向け池に近づく。
 いつの間にか日は暮れ、空には月が輝いていた。
 「エリック」 
 月を仰いでいたエリックに声がかかる。 
 「セシリアお嬢様」
 振り返ると、青と白の軽やかな衣装を身にまとったセシリアが近づいてくる。
 その姿は美しく、月明かりに照らされて淡く輝いて見えた。
 「踊り疲れました」
 「ずっと踊ってらっしゃいましたから」
 「見ていたのなら、あなたはどうして来てくださらないの。わたくしと踊りたくないのですか」
 「踊りは苦手です」
 「知っています」
 セシリアは手を差し出す。
 「踊り疲れたのでは」
 「エリックは別です」
 そう言って笑う。
 エリックはセシリアの手を取った。
 二人は舞踏とも呼べないような足運びで、池の端で回るのであった。
 「エリック。見て」
 セシリアは胸元から首飾りを取り出す。
 「急いで作りました」
 首飾りの先端には、エリックの贈った猫の人形が取り付けてあり、青い石の瞳がこちらを見ていた。
 この刹那、エリックはセシリアを抱きしめたい衝動と戦う。
 両手が激しく震える。
 この人を妻に迎えたい。
 それは、エリックの心からの叫びだった。
 だがこの人は、エリックのパトローネ。センプローズ将軍の娘。自分とは身分が違い過ぎる。
 センプローズ将軍は自分のことを目にかけてくれているが、それは自分が忠臣の息子だからであり、娘を与えるなど思いもしないだろう。
 この人を妻に迎えられる人は幸せ者だろう。
 決して自分の手に届かない。
 かつてはそうではなかったのに。
 運命は残酷なまでの現実をエリックに突き付ける。
 例えエリックが武功を上げて出世したとしても、彼女に見合う立場を手に入れるのに何年かかるだろうか。その間に彼女はどこかに嫁いで子をなしているだろう。それを遠くからただ指をくわえて眺めている自分。
 エリックは自分の想像に気が狂うほどの衝撃を覚えた。
 このまま。セシリアを誘拐でもして自分のものにできれば、それが例え一時であっても後悔しないのではないか。
 刹那の葛藤であったが、エリックにとっては長いものであった。
 先ほど会場で受けた居心地の悪さなど、この葛藤に比べれば枯れ葉一枚の重みもない。
 「わたくし、もうすぐ王都の学園に通うこととなります」
 セシリアの言葉が冷水となって降り注ぎ、エリックの胸に新たな痛みが走る。
 「はい。存じております」
 王都には、貴族や有力者の子弟を集めた学園があるらしい。センプローズ将軍の娘であるセシリアは、当然通うことになっていた。
 「エリックに会えなくなって寂しいです」
 「セシリアお嬢様」
 「エリックはどうですか」
 先の衝動が再び身体を巡る。せめてもの慰めとしてセシリアの肩に手を置いた。
 「私も寂しいです」
 「そうですか。では、王都に来てください」
 セシリアはあっけらかんと言ってのける。
 その言葉に心が軽くなるり、僅かな可笑しみを感じた。
 「そういうわけには」
 それが出来れば、どれほど救われるだろうか。
 「私にはニースの代官という役目がありますから。残念ながらお嬢様に伺候できません」
 父が命懸けで手にした役割、簡単に投げうっていいものではなかった。
 「そうですね。わたくしも残念です」
 セシリアは俯く。
 彼女は王都エンデュミオンに旅立ってしまう。
 エリックの心には、熱い怒りと冷えた悲しみが同時に沸き上がった。
 いつの間にか楽の音は止み、宴は終わった。


 「若、女が気が付いたようです」
 オルレアーノで仕入れた物資を村の倉に移していると、ロランが報告する。
 「そうか。気が付いたか」
 行き掛かりとは言え、助かったのは何よりだ。
 汗を拭いつつ母屋に向かう。
 エリックの家は二階建ての母屋に離れが一つ、その周りに倉と厩に家畜小屋が付随した、この地方での典型的な農家の造りだった。
 行き倒れの女は、母屋の客間で母、アリシアが見ていた。
 「母上。女が気が付いたそうで」
 勢いよく扉を開くと、寝台の上の女が飛び跳ねた。
 泣いていたのか鼻の頭が真っ赤だ。
 「エリック。静かに開けて頂戴。この子がびっくりしたでしょう」
 「ごめん。それで」
 「それがねぇ」
 アリシアが困った顔をする。
 「言葉が通じないのよ」
 意外な返事が返ってきた。
 「言葉が通じない。おい。俺の言っていることが解るか」
 エリックは女に向かって言うと、しばらくして聞いたこともない音の塊が飛んできた。
 「ねぇ。何を言っているか解らないでしょう」
 二人が困っていると、先ほどとは違う響きの言葉を話し出す。
 半分歌っているみたいだ。
 ふざけてやっているのかと顔をうかがうが、女は半分泣きながら文字通り必死に話している。
 しかし、まったく意味が解らない。聞き覚えのある音すらなかった。
 「困ったわね。どこから来たのかしら」
 エリックは女の顔をまじまじと観察する。
 茶色の髪を短く切りそろえ、肌はやや黄色がかっている。抱きかかえた時にも思ったが、女にしては背が高い。歯並びはよく、顔立ちも整っている。泣きはらして充血していてもわかる黒い瞳。
 このあたりの人間には見ない特徴だ。
 「どこかの国の貴族の娘かもしれない」
 エリックは自分の思い付きを口にする。
 「そうね。身体つきも立派だし、肌もきれい。着ている服も変わっているけど、仕立てがいいものだわ」
 アリシアは手にしていた器を女に手渡す。
 「お水よ。飲める」
 飲んでみろと仕草で伝える。
 女はしばし器を覗きこんだ後、意を決したように水を飲んだ。
 その姿に少しほっとした。
 「大丈夫そうね。お腹が減っているでしょ。何か持ってくるわね」
 アアリシアが出て行くと、エリックはベッドの傍の椅子に腰かけた。
 「言葉が通じないとは思ってなかったな」
 ここより遥か北に暮らす北方民も言葉が通じないが、彼らとは見た目が全く異なる。海を越えた南の国の人間なのかの知れない。
 考え込むエリックを、女は不安そうに見ている。
 「そうだな。名前ぐらいわかるだろう。名前だ。名前」
 エリックの言葉に女は首を振るだけだった。
 「そうだな。通じない言葉で話しても無駄だった」
 エリックは自分を指さし。
 「エリック。エリック」
 言葉は分からなくても、仕草で俺が何が言いたいのか理解できるかもしれない。
 「エリーク」
 女がエリックの真似をして見せ、エリックは笑顔で頷いた。
 いいぞ。通じたようだ。
 「そうだ。エリック、エリックだ」
 「エリック」
 今度は女がはっきりと口にした。
 エリックは大きく頷き、女を指さした。これでこの女の名前ぐらいは分かるだろう。
 女は自分を指さし。
 「エリカ。エリカ」
 と言った。エリックはがっかりする。
 「違う。俺がエリックだ。お前の名前を聞いているんだが」
 どうやら意図が通じなかったらしい。
 エリックの様子を見ていた女が首を振り、今度はゆっくりと発音する。
 「エリカ。クボヅカ。エリカ」
 「エリカ」
 エリックが指さすと女が激しく何度も頷いた。
 どうやら女の名前はエリカというらしい。
 紛らわしいな。
 エリックは心の中で毒づいた。
 「しかし。エリカか。北方の蛮族の名前みたいだな」
 だが、どう見ても北方民とは人種が違う。北方民の肌は白く金髪のものが多い。
 「おまたせ。食事よ」
 母が盆にパンとスープを乗せて入ってきた。
 「お昼の残り物だけどまだ温かいわ」
 「この女。エリカというらしいよ」
 「あら。名前がわかったの。良かったわね」
 エリカの前に盆を置いてやると頭を縦に振り、何故か両掌を合わせると、おずおずと食べだした。
 食べ物を食べる力があるのなら、大丈夫だな。
 「さて。これからどうしましょうかね」
 母が頬に手を当てて思案する。
 「身元が分かれば何とでもできるんだが、言葉が通じないのなら、どうしようもないよ」
 「そうね。でも、放っておくのも可哀そうだわ」
 「では、母上の女中にでもするか」
 「あら、いいの」
 「一人辞めたばかりだからいいよ」
 「では、そうしましょう。良かったね。エリカ」
 どこから来たのかわからない女エリカは、エリックの家で働くこととなった。


 エリックが代官をしているニースの村は、オルレアーノの街から南西に、二日の距離にある小さな漁村だ。
 村人は沿岸で漁をしたり、小川の周辺に農地を切り開いて生活をしている。
 土地は痩せており、収穫は多くはなかった。
 エリックの父、ブレグ・シンクレアはこの村出身だった。
 若き日のブレグは軍団兵に志願し、センプローズ将軍の指揮下で各地を転戦した。
 不利になっても決して引かず奮戦し、軍団の背骨と呼ばれる百人隊長に取り立てられた。百人隊長になってからもその勇猛さに陰りはなく、将軍からも信頼されていた。そして、二十年の兵役を終えた時、将軍の計らいで生まれ故郷ニースの代官として取り立てられたのだ。
 それ以後シンクレア家は、一家をあげてセンプローズ一門に心服し、将軍もシンクレア家を信頼し一門の名前であるセンプローズを名乗ることを許した。
 従って、エリックの本名は、エリック・シンクレア・センプローズとなる。
 こうしてシンクレア家は将軍とパトローネとクリエンティスの関係になった。
 この関係は、簡単に言うと親分子分の仲である。
 親分に何かあれば子分は駆け付け協力する。子分は何か困りごとがあると親分に相談し、親分はできるだけ便宜を図るそんな関係だ。決して一方的な主従関係ではなかったので家臣とは言えない。 
 ブレグは十年近く代官を務め先年死去した。
 将軍はブレグの功績に報いるために、特別に息子のエリックを代官に任命した。平民の代官にしては異例に若かったがニースの村が貧しい漁村であったためか、特に異論はなかったらしい。それでも将軍の厚意には違いない。
 エリックは将軍に感謝と敬意を抱いている。そしてその娘には愛情を。

 代官としてのエリックの一日は、村の見回りから始まる。
 村人に声をかけながらゆっくりと馬で回る。人口五百人程度の小さな村だ。
 全員が顔見知りと言えた。
 それから剣と弓の稽古が始まる。素振りをしたり、的を射たりする。時には従者のロランや、その息子のエミールを相手に模擬戦闘を行った。
 従者のロランはニース出身の男で、父ブレグの下で共に戦った戦友だ。
 父もロランを特に信頼しており、亡くなる間際にもわからないことがあればロランに相談しろと言い。ロランがダメだと言えばそれは父の言葉と思えとまで言った。
 エリックも寡黙なこの初老の従者を信頼していた。
 昼になると馬にまたがり丘陵地を駆けまわり、目ぼしい獲物を見つけては弓を使って狩りをした。鍛錬と実益を兼ねて毎日のように行っていた。
 そして日が暮れ夕食が済むと、眠るまでの間に本を読むのであった。
 それは、ブレグが何処からか集めてきた本たちだ。
 ブレグの書斎は、今はエリックの部屋と化している。
 樫の木でできた大きな机の上に、羊皮紙でできた大きな黒表紙の本を広げる。
 この本は昔ブレグが村を流れる小川の上流に建っていた廃屋から見つけてきたものだった。
 廃屋はその昔、異端の疑いを掛けられ逃れてきた、魔導士の住みかともっぱらの噂であった。
 持ち帰った本は全編、教会で使用される神聖語で書かれており、エリックにはほとんど読むことができなかったが、ところどころに描かれた挿絵を見ながら、書かれている内容を想像するのは楽しかった。
 ブレグは異端の書物かもしれないと言い、決して教会に見つかってはならないとエリックに念を押していた。エリックも誰にも見せず、書斎から持ち出すこともなく、ただ眺めて楽しんでいたのだった。
 しばらく本を楽しむと明かりを消して眠る。明り取りの油をいつまでも灯せるほどの余裕は、ニースの村にはなかった。

 「エリック。ちょっといらっしゃい」
 エリカを拾って数日後。村の見回りを終えると、母が厩の陰で手招きをしている。
 「なんです」
 傍によると、辺りを窺った後に声を潜めた。
 「エリカのことなんだけどね」
 「エリカが何かしでかした? 」
 「逆なのよ」
 「逆」
 何かしでかしていないのであれば、結構なことではないだろうか。
 「あの子、何も出来ないの」
 「何もできない。どういう事」
 「そのままの意味よ。あの子。火の起こし方も知らないの。薪を割らせてみたけど鉈を持ったこともないようなのよ。辛うじて水汲みと掃除ぐらいはできるみたいだけど、それも手つきが危なっかしくて。見ていられないのよ」
 「それでどうやって生きてきたんだ」
 エリックから笑いが零れた。
 「そうなのよね。やっぱりお前が言ったように、貴族の娘様かもしれないわね。手とかびっくりするぐらい綺麗なのよ」
 「確かにそれなら納得できるか」
 貴族の子女なら火の起こし方は知らないだろうし、鉈なんて生まれてこの方持ったことが無いかもしれない。手も美しいだろう。
 しかし、そんな高貴な娘が山の中で一人で行き倒れになるだろうか。
 思案しながら自室の扉を開けると、部屋にエリカがいた。
 エリカは黒の女中服の上に白の前掛けをつけている。立ち姿はすらりと高く、エリックより少し低い程度だ。ニースの女たちに比べると頭一つ身長が高い。
 どうやら掃除をしているらしかったが、手にした叩きが止まっている。
 注意したいが言葉が通じない。
 エリックが入ってきたことに気づいたエリカは振り返ると走り寄ってきた。
 「なんだ」
 エリカは無言でエリックの手を引いて、樫の木の机の前に連れてきた。
 そこには片付け忘れていた魔導士の書が開いている。
 エリカは本に書かれた神聖文字を指さし。
 「ニホンゴ。ニホンゴ」
 と大きな声で言うのだった。
 何が言いたいんだ。この女は。
 大声で叫ぶエリカを落ち着かせようと、エリックは自分の椅子に座らせた。
 ここで何か言うと、不明な言葉の応酬になって余計に混乱する。
 エリックは神聖文字を指さし。
 「ニホンゴ」
 と、聞こえるままに言う。
 エリカは大きく頷き、もう一度言った。
 ただ単に、神聖語が珍しい人間の反応ではないように思える。
 試しに、違う文字を指し示す。
 エリカは少し考えた後。
 「シボウブン」
 今度は違う言葉を発した。
 もしかして、彼女は神聖語が読めるのではないだろうか。
 また、違う文字を指し示すと、エリカは少し困った表情を浮かべた後、エリックの指を少し動かし。
 「ホウレイサヨウ」
 また先ほどとは違う音だ。
 「エリカ。お前、神聖語が読めるんだな」
 エリックには不可思議な文様にしか見えない神聖語を、明らかに理解しているとしか思えない反応だった。
 そうなるとエリカが話している言葉は、神聖語なのかもしれない。
 「もしかして、教会の人間か。でも神聖語しか話せないシスターなんているのか」
 女の教会関係者はシスターと呼ばれたくさんいる。各地に建てられた修道院には女しかいない修道院もあるがエリカはそこの者なのだろうか。
 エリックは教会に詳しくなかった。
 そこでエリックは、神聖語の理解できる人物のところにエリカを連れていくことにした。
 何のことはない。戸惑うエリカの手を引いて家をでると広場がある。その向かい側にある建物に入るだけだ。
 「神父。メッシーナ神父はいますか」
 木造の教会の内部はガランとしており、正面の祭壇に神々の像が祭られていた。
 手を引いたまま教会に入ると、エリカは教会が珍しいのか辺りをキョロキョロと見渡すのだった。
 声をかけると奥の扉が開き、黒の僧服をまとった男が出てきた。
 「これは珍しい。エリック様が自ら教会においでになるとは。何かありましたかな」
 笑顔で両手を広げる。
 エリックは信心深いとは言えず、節目の儀式以外では教会に立ち寄ることはなかった。
 少し気まずさを覚えたので神像に跪き、祈りの言葉をささげる。
 エリカはエリックの行為を眺めた後、同じように跪いて見せた。
 「メッシーナ神父。唐突で申し訳ありませんが、神聖語は話せますよね」
 「本当に唐突ですね。ええ。聖典は全て神聖語で書かれております。聖句の詠唱は全て神聖語ですから」
 「良かった。その神聖語でこちらの者に話しかけてみてください」
 メッシーナ神父はエリックの申し出に目を瞬かせる。
 「それは構いませんが、こちらの方は」
 「申し訳ありません。こちらはエリカと言いまして、家で新しく女中として雇ったものです」
 「ああ。こちらが噂のエリック様の奥様でしたか」
 神父はエリカに微笑みかけるとエリカは不安そうな面持ちで首を縦に振る。どうやら挨拶をしているらしい。
 「違いますよ。そんな噂が」
 「はい。村のご婦人方が教えてくださいましたよ。ついにエリック様が奥様を連れてきたとね」
 エリックはため息をついた。
 「その噂はでたらめです。オルレアーノからの帰り道で行き倒れになっていたので、助けたまでです」
 「弱者への労わり。お見事です。天国でブレグ様も喜んでおられるでしょう」
 「ありがとうございます。いえ、そうではなく」
 「わかっております。神聖語で話せばよいのですね」
 ここまで来てエリックは、メッシーナ神父にからかわれていることに気が付いた。
 メッシーナ神父がエリカに何事かを話しかけると、反応は激しいを通り越して激烈だった。
 エリカは神父に詰め寄り、首を上げ両眼を見開いて一気にまくしたてる。
 聖句で聞くような穏やかな神聖語ではなく、鬼気迫る言葉の奔流。
 その気迫にエリックは一歩後ろに下がってしまった。
 「待ちなさい。少し落ち着いて」
 神父は両手を振って落ち着くようにと身振りをすると、徐々にエリカは大人しくなった。
 「やはり神聖語でしたか。彼女は何と」
 期待を込めて神父を見るとメッシーナ神父は困り顔だ。
 「それがですね。確かに神聖語のようなのですが、聞き取れません」
 「なぜです。神聖語なのでしょう」
 「彼女の話しているのは恐らく神聖語中でも高位の高等神聖語でしょう。私も高等神聖語は理解できません」
 神聖語に高い低いがあることを初めて知った。
 「しかし、少しぐらいは分かるのでしょう」
 「ええ。少し話してみましょう」
 神父は今度はゆっくりと短い言葉をエリカに投げかけていく。
 エリカは何度も首を縦に振り、同じようにゆっくり返していく。
 よかった。何とか意思の疎通ができるようだ。エリックは胸をなでおろす。
 しばらく二人の言葉のやり取りを眺めていると、突然エリカが泣き出した。
 「どうした。エリカ」
 声を押し殺すように泣くエリカが哀れであった。
 「泣くな。落ち着いて」
 泣きじゃくっている時の妹にするように、優しく頭を撫でてやる。しばらく続けるとエリカは落ち着きを取り戻していく。
 「神父。彼女は何と」
 エリカの頭を撫でながら神父に問う。
 「それがですね。自分は神々の国から来たというのですよ」
 「神々の国からですか。そんな馬鹿な」
 「ええ。そして、そこに戻りたいから道を教えてくれと言っています」
 「神々の国に至る道ですか」
 エリックは思わず声が大きくなる。
 「そんなもの法王猊下でもなければご存じないのでは」
 神々の国に至る道があるなら、エリックだって教えてほしい。
 「いえ。恐らくですが神々の恩寵と奇跡にいたる道という訳ではなく、純粋に場所への道を尋ねているのではないでしょうか」
 「神々の国ってどこかにあるものなのですか」
 「いえ。地上にはありません。いと尊き天空の彼方にのみ存在します」
 「そうですよね。私だって聖典は聞いたことがあります」
 「最後にここはどこだと聞いたようなので、ロンダー王国のレキテーヌ地方だと伝えました。すると」 
 「泣き出したと」
 「はい」
 本当にエリカは神々の国から来たのか。
 「エリカは天使様なのでしょうか」
 エリックの質問に神父は言葉に詰まる。
 おとぎ話や聖典には、しばしば地上に降臨する天使の話がある。
 神の使いの天使であれば神聖語、しかも高位の神聖語しか理解できないのも一応納得できる。
 しかし、エリカを眺めた後、教会の壁画に目をやる。そこには神々の周りを飛び回る天使たちの姿が描かれていた。
 天使たちは朗らかな笑みを浮かべ、背中の羽を広げている。
 一方エリカは静かに涙を流し続ける。当然だが背中に羽は生えていない。どう見ても異民族の女だ。
 「天使様ではなさそうですね」
 エリックの結論にメッシーナ神父は同意した。 
 「メッシーナ神父。お願いがあるのですが」
 「何でしょう」
 「このままだと、エリカと話せません。神聖語から我々の言葉を教えられませんか」
 「ふむ」
 メッシーナ神父は暫しエリカを眺めながら思案する。
 「神々の言葉しか知らぬ方に、人の言葉を教えるのですね。面白そうです」
 「お願いできますか」
 「どこまでできるか分かりませんがやってみましょう。私も高等神聖語に興味があります。神々の言葉ですからね。学べる機会は滅多とありません」
 「ありがとうございます」
 こうしてエリカに言葉を教える見通しがたった。
 

 エリカが教会に言葉を習うために通うようになって二週間。
 「いてきます」
 昼食を終えると、たどたどしいが意味の分かる挨拶をして、エリカはエリックの屋敷を出る。
 手にはエリックの用意した教会に寄進する銅貨を握りしめていた。
 彼女はメッシーナ神父の都合が合う日には、欠かさず教会に通い言葉を習っている。
 「エリカ。少し落ち着いてきたんじゃないかしら」
 母の言葉にエリックも同意した。
 それまでは暗く落ち込むか、一人物陰で泣いていることが多かったが、最近はそんなことも減り、時折ではあるが笑顔を見せるようになった。
 笑うと、今までの印象より年若く感じた。エリックと同年代か少し下のような気がする。
 エリカは言葉を覚えるのが思いのほか速く、今では単語による会話が成立するようになった。発音や音程に怪しい部分があるが、それも日に日に上達していく。
 「もともと頭がいいのかもしれないな」
 エリックは薄めた葡萄酒を一気に飲み干す。
 「エリカふごいんふぁよ」
 隣に座っていた妹のレイナが、パンを頬張りながら話す。
 「レイナ。飲み込んでから話せ」
 エリックはレイナの口の周りをふいてやる。
 「うん。・・・・・・エリカ。すごいんだよ」
 飲み込むと満を持して教えてくれた。
 「数を数えられるんだよ」
 「数か。すごいな。どれぐらい数えられるんだ」
 「すごくいっぱい」
 レイナの答えに笑みがこぼれる。
 「そうね。数が数えられるのは確かよ。行商人から布を買わせてみたけど、しっかりと銅貨を払っていたわね」
 「買い物が任せられたら、助かるな」 
 エリカは徐々にではあるが、ニースの村に馴染んできたようだ。

 エリックには、エリカが言葉を覚えたらやってほしいことがあった。
 その為に夕食後にエリカを部屋に呼んだが、エリカは何事かと警戒した様子でなかなか入ってこない。
 声をかけてもしり込みをするエリカを見ていると、あることに思い当たった。
 「もしかして、襲われると勘違いしているのか」
 心の神殿にセシリアを住まわせているエリックは、エリカをそんな目で見ていないのだが、彼女にそれが分るはずもない。
 野良猫のような警戒心を露わにするエリカに、エリックは自分の失敗を認めた。
 「心配するな。いや違うな。大丈夫。大丈夫だ」
 エリカの理解できそうな言葉を選ぶ。
 しかし、日暮れの時刻に男の部屋に呼ばれて、大丈夫と言っても信用度は低かった。
 エリックは魔導士の本を指さし。
 「読む。読む」
 それだけを言った。
 そう、エリックは魔導士の書を読んでもらいたかったのだ。
 エリックの意図を理解したらしいエリカは、明らかにほっとした表情を浮かべて部屋に入ると、本に近づいてきた。
 「ここ。ここ」
 机の前の椅子にエリカを座らせ、エリックはいそいそと魔導士の書を開く。
 これで長年の謎が解き明かされる。
 もしかしたら本当に教会に仇なす異端の書かもしれないが、それよりも内容が知りたい。
 エリックは試しに魚の絵が描かれた箇所を開くと、エリカは頷き本に目を走らせていく。
 エリックはエリカの横に立ち横顔を見つめる。彼女の目はいつも以上に真剣で、細かく動いていた。本当に読んでいるようだ。
 「なかま。さかな。とる? ちがう」
 エリカは必死に言葉を発していく。神聖語をエリックにも分かるように翻訳しているのだろう。時折長く考え込む。
 「しない。無理」
 エリックとしても初めから読めるとは思っていない。エリカには楽に読んでほしかった。
 「はい」
 エリックの言葉にエリカは頷くのだった。 
 二人は本に顔を近づけながら読んでいく。それは、明かり油が切れるまで続いたのだった。

 何日か掛けて読み解いていくと、エリックの開いた箇所は、魚の種類とその捕獲方法について書かれているらしかった。
 エリックは考える。
 今でも沿岸や小舟を使った漁で取れた魚は、ニースで食べられる以外の物を、干物にしてオルレアーノの街に卸している。数が少ないので収入としては大したことがないが、この本に書かれた漁獲方法で魚を多く捕まえられないか。
 よし試してみよう。

 エリックはエリカを連れて海岸に向かう。
 ニースの海岸には港は無く、遠浅の砂浜が続いている。砂浜の上には引き上げられた漁師たちの船が並んでいた。
 「若様。そちらが噂の嫁さんで」
 焚火を前にした半裸の漁師たちが声をかけてくる。
 「違う。女中だ」
 「いゃぁ。話に聞いてたけど、別嬪さんじゃありませんか」
 「山で拾ったって本当ですかい」 
 「そんな別嬪を拾えるなら、わしらも山に探しに行かんとな」
 「お前が行っても熊に合うだけだ。それとも熊を連れて帰るか」
 「ンなことせんでもウチには、もうでっかい熊がいるからよ」
 エリックを肴に馬鹿話で盛り上がる。
 言葉の分からないエリカは、きょとんとした表情で見ているだけだ。
 「お前たちに聞きたいことがあるのだが」
 「何ですかい」
 「魚の獲れる量を増やしたいんだが」
 「増やしてどうするんで、村のもん全員分の数は獲れてますぜ」
 「そうなんだが、村の収入を増やすためにオルレアーノの街で売ろうと思うんだ。今の量では足りなくてな」
 「そうは言いますがね若様。魚の獲れる獲れないは神様の思し召しですよ。駄目な日はいくらやっても獲れないし、網を入れりゃ持ち上げられねぇぐらい獲れる日もある。儂らにできることと言えばお祈りぐらいですかい」
 「いや。私に考えがあるんだ。それを試してみてほしい」
 「そりゃ、別にかまいませんがね。なにをすればよろしいんで」
 エリックは薪代わりの小枝を一本掴むと、砂浜を走り出す。
 なんだなんだと漁師たちが腰を上げると、エリックは砂浜に枝で何かを書いている。
 目の前を走り回るエリックは遊んでいる子供の様で、漁師たちは遠慮なく笑いあうのだった。
 「エリカ」
 エリックが呼ぶとエリカは走り寄った。
 その姿を見て漁師たちは、また歓声を上げるのだった。
 エリックから枝を手渡されると、エリカは足りない部分や修整する部分を書き足していく。
 書き終わるとエリックを見て頷いた。
 「わかるか。こんな感じの網を作ってくれないか」
 エリックの言葉に漁師たちの笑い止まる。
 「若さん。まさかとは思いますが、この大きさで作るんですかい」
 それは、普段彼らが使っている網の何倍もの大きさだった。
 「そうだ。できそうか」
 「いや。出来るとか出来ないとか言うよりも。こんなでかい網どうやって投げるんで」
 ニースの村。いや、このあたりの漁村では、網を海に投げ入れ、そこに掛かった魚を引き上げる漁法が主流だ。網が大きければ掛かる魚も増えるが、大きすぎると上手く投げられないし、また引き上げることもできない。
 「投げないんだ」
 漁師たちの困惑をよそにエリックは笑顔で言い放つ。
 「この網は引くんだ」
 ニースの村に、いやロンダー王国に底引き網漁が生まれた瞬間であった。
 後年これは王国の漁業にとって歴史的快挙であったが、その瞬間に立ち会ったものは無感動というか困り顔だった。
 「若さん。こんなでかい網。一人じゃ引けませんぜ。二人でも無理だ」
 「わかっている。全員で引くんだ」
 「全員で、ですかい」 
 「そうだ。村の男たち総出で引けば、もっと大きくても引けるはずだ」
 「そうなんですかい」
 漁師たちは困り顔を変えない。
 これまでと規模が違い過ぎて、頭の中で想像できないのだろう。
 「試しに作ってくれないか。材料は私が用意する」
 エリックの言葉に漁師たちは相談を始めた。
 「おい。どうする」
 「どうするったって、網を編むのは、かかあの仕事だぜ。うちの奴がなんて言うか」 
 「おい。とりあえず。呼んで来い」
 年長者の一人が命じると、年若い漁師が集落に走っていく。
 「若さん。相談するんで、ちょっと待って下せえ」
 「わかった」
 エリックが漁師に向かって手を上げた。
 「だいじょうぶ? 」
 漁師たちとの会話が解らないエリカが、心配そうに見つめる。
 「大丈夫。ありがとう。エリカ」
 エリックがほほ笑むとエリカも安心したように笑った。

第一章 異世界

 
 
 「エリちゃん。またね」
 「うん。またね」
 窪塚江莉香は、京都駅の改札で大阪に戻る友人に手を振る。
 近年、温暖化が叫ばれ、昔に比べれば暖かい京都の春先だが、今日は日暮れと共に往時を思い出したかのように冷える。
 明るい色が可愛かったので春用コートをチョイスしたが、今日の気温には合っていない。コーディネートを優先したことを後悔した。
 行き交う人々も寒さの為か、若干足早に通り過ぎていく。
 駅から出ているバスを使い自宅の最寄りのバス停で降り、肩から掛けたバッグを持ち直した時に、中身の存在を思い出した。
 「あちゃ。教授に返すの忘れてたわ」
 これから大学に戻るか迷ったが、遠ざかるバスの後ろ姿を見て諦めた。
 「明日にしよ」
 寒いので明日に持ち越すことにした。教授には明日謝ろう。
 家への道を歩く。市内と言っても西のはずれ。
 観光スポットが集中する東山や中京と違い、観光客が大挙して練り歩くこともなく、比較的閑静な住宅街だ。
 それゆえに気が付いた。
 誰かが後ろからついてくる。
 江莉香は振り返るべきか悩んだが、それも怖いので歩みを上げた。しかし、速足の自分についてくる気配がする。
 「痴漢? ストーカー? 」
 意を決して振り返った瞬間。影のようなものが視界を覆い意識が遠くなった。

 どれぐらいそうしていたのだろう。
 長い時間だったような一瞬だったような。不思議な感覚と共に目が覚める。
 明るい。いや眩しい。
 ゆっくりと瞼を開く。
 目が明るさになれると、そこは木々が生えた林だった。
 「えっ。どこここ」
 周りを見渡すが見覚えのない景色だ。
 それにさっきまで夕方だったのに異様に明るい。夜が明けている。そんなに長い時間気を失っていたのか。
 そして、気を失う直前のことを思い出す。
 「ストーカー」
 江莉香は自分の身体を触る。
 痛いところもないし着衣の乱れもない。どうやら乱暴されてはいないみたいだ。とりあえず安堵の息を漏らす。
 江莉香は立ち上がり。周りを見渡す。
 本当に見覚えが無い。
 京都も北に行けば、ここが市内かと言いたくなるほどの山と森が広がっているが、印象が違う。
 「スマホ。スマホ」 
 とりあえずお母さんに連絡しよう。
 ケータイを入れているバッグを探すが、どこにも見当たらない。
 「えっ、嘘でしょ」
 辺りを捜し歩いたが、バッグは見当たらなかった。
 江莉香はポケットに物を入れない主義の人だ。
 スマホも財布も家のキーも飴ちゃんもバッグの中。つまり完全に手ぶら。
 「どないしよう」
 途方に暮れるがここに留まっても仕方ない。とりあえず下っていけば人家があるだろう。そこで電話を借りよう。
 そう決めて歩き出す。歩き出して気が付く。
 随分と暖かい。いや、この格好だと少し暑い。昨日まであんなに冷えていたのに、京都の春は気まぐれだ。
 江莉香はコートを脱ぐと再び歩き出した。
 幸い。鬱蒼と草木が茂る森ではなく、日の光の差し込む林だ。歩いていくのは可能だった。
 しかし。
 「もう。本当にここはどこなんや。すいませーん。誰かいませんか。おーい」
 林の中に虚しく自分の声だけが響く。
 数時間歩き回るが一向に人家どころか道にも出ない。明るかった日差しも段々と陰り始める。
 ヒールの高いブーツのためすぐに足が痛くなった。途中で見つけた小川で、水をすくい飲んだ以外に何も食べていない。
 「飴ぐらいポケットに入れとけばよかったわ。次からはそうしよ」
 そう、心に決めると江莉香は林の中を彷徨い歩くのだった。
 そして二晩が経った。
 途中で見つけた赤色の木の実以外、何も口にしていない。
 もはや、身体も思考も限界だった。泣くことも忘れ彷徨うと、視界が開け山道が現れた。石畳で整備された道だ。
 やっと人の気配のある場所に出た。
 ほっとしたのがいけなかったのか、その場で崩れ落ち意識を失った。

 誰かの声がする。
 暖かい。
 江莉香が目覚めると扉の閉まる音がした。
 ゆっくりと身体を引き起こすと、自分がベッドに寝かせられていることに気が付いた。
 助かった。よかった。
 安堵の気持ちから涙があふれてくる。
 しばらく泣いていると扉が開く。
 「ありがとうございます」
 入ってきたのは頭に白い頭巾をした女性。
 淡いオレンジがかった髪に白い肌。鼻は高く顔の彫は深い。外国人だ。
 「外国の人。えっと Thank you Miss I am very grateful 」
 女性は笑顔を見せると江莉香の言葉には反応せず、外に向かって何かを言った。
 そして近づくと声をかけてくる。
 しかし、聞き取れない。英語のヒアリングが得意という訳ではないが、英語として聞き取るぐらいはできる。
 江莉香は洋画は字幕で見る主義の人だ。
 「あれ。英語の通じない人なのやろか。Merci pour l'aide これであってる? 」
 うろ覚えのフランス語で話しかけてみるが、やはり反応が無い。
 「あの。何人の方でしょうか。阿保か。日本語で言ってどうするのよ」
 女性は江莉香の様子を見て、困ったような表情を浮かべる。
 どうしたものかとしばらく戸惑っていると、勢いよく扉が開き少年が入ってきた。
 驚いてベッドの上で飛び上がる。
 入ってきた人も白人男性。
 顔を見ても何人かは判別できないが、英語が通じないなんてことがあるのだろうか。ハンガリー人とか?
 女性が少年に話しかけると、今度は少年が話しかけてくれるが、これも何語か解らない。
 「すみません。何を仰っているのか理解できません。だから日本語で言ってどうする」
 パニックを起こす。
 「Où est-ce que quelqu'un connaît le japonais ou l'anglais? Please call Japanese」
 フランス語と英語を混ぜて話してみるが、やはり通じない。
 イタリア人やスペイン人なら、同じラテン語圏の人たちだ。なんとなくでも通じるはずなのに。
 二人も困ったように言葉を交わしている。
 女性から器を手渡された。中に水が入っている。
 見上げるとしきりにジェスチャーをしている。飲めと言う事だろう。
 江莉香は意を決して飲み干す。
 良かった普通に水だ。
 女性は満足したのか部屋を出ていく。
 残った少年が椅子に腰かけ色々と話してくれるが、やっぱり理解できない。
 分からないと首を振ると、少年は自分を指さし。
 「エリック。エリック」
 と言い出した。恐らく彼の名前を言っているのだろう。
 「エリーク」
 舌がうまく回らなかったが、少年は満足したように笑い。もう一度繰り返す。
 「エリック」
 今度はうまく言えた。
 しかし、エリックか。イギリス人に多い名前だと思うんだけど。父が大ファンのエリック・クラプトンはイギリス人だ。なぜ英語が通じないのよ。



  タチヨミ版はここまでとなります。


異世界チート知識で領地経営しましょう 1

2021年5月12日 発行 初版

著  者:加藤良介
発  行:千秋出版

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