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χορός
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第1部 九天不可測
01 糾歌前夜
02 聖なる海と感化院
03 君の弟はゲイでおまけにサグ
Interlude I XXXmas
04 鯰は生じゃ喰えないはずさ
05 騙されう者は彷徨ぬ
06 再出立
07 X列車で行こう
第2部 肉ひしめく円卓
08 Foul & Fair
09 2 U
10 칠월보다 더운
11 ἴδιος κοινός
12 三人成虎
13 Sensitive Obsessed Sister
14 The Family of Black Sheep
15 Master & Servant
16 Tinker Tailor Dark Duke
17 Howth Castle & Environs
Interlude II I luv my CUMputer
18 To The Bone
19 Clothes to Me
20 Hallowed Be Thy Game
21 Hardcore Peace
第3部 下僕どもの大道
22 我ら啓典の民
23 何故
24 聖者への路
25 鯨
26 庭
27 残品
28 これを限りに
29 下僕の大道
Interlude III 抱擁
30 こよなき誕生
dealofgod


01 糾歌前夜
そんなことをして何になる、という例の言葉が、襲いかかってきそうになる、のを、射殺す。お前はそいつにさわれないよ。除けるのには慣れてるんだ。これでもう何千回目。何万回目でもいいんだけど。しかしこう何度も来られてはたまらない。殺り慣れたからといって血の匂いが目減るわけじゃない。漁師は慣れるのだろうか。釣り上げたまぐろだのかじきだのをぶちころすあの一挙に、慣れなんてものが垂れるんだろうか。マタギは慣れるか。猟師は。理容師は。なまものを切るのはどうしてこうも懶いか。おのれの身を切るわけでもないのに。まったく、めしを調える度にこんなことばっか考えていてはたま……らない。でも腐る卵だけが溜まる。無精卵は二度死のうとしている。冷蔵され殺された無精卵が、消費期限とかいう人類が勝手に定めた余命のせいで、いま二度目の死を迎えようとしている。それはいかにも不憫なので今日中に使う。ベーコンとアスパラといっしょにフライパンの上の贄とする。魚を喰うのはいいんだ、やつらには感情がないから。とは『Nevermind』の最後に入ってる曲の歌詞だったはずだが、なら鶏肉を喰うのもいい。鶏卵も、もちろん野菜も。人間を喰うのはよくない。やつらには感情があるから。なら感情がない人間なら喰ってもいい。無精卵が食用に供されるのはひよこにならないからだ。生産性がないから。じゃあ、何も産まない人間も喰われて仕方ない。わたしのように。とか遊ばせてるうちにいつのまにかベーコンエッグが出来上がっている。これが魔法じゃないとしたら驚くべきことだ。熱とすこしの油だけで楕円のものがひらぺったく形容をとどめるなんて。別のものになれるなんて。
そんなんで能く昼まで保つな。うるせえよ。と応えても、相手はない。そもそもそこにいない男の、何年も前の言葉が、なぜ今さら冴えるか。知ったことじゃない。人間の器官はしょうもないんだ。頼みもしないのに忘れてしまったことを、忘れたかったことを返してくる。燃費がいいってことだよわたしゃ、とよせばいいのに二投目を放り、そもそも昼じゃねえし、夜勤だし今日。との三投目が、快音とともにキャッチャーミットにはまる。のを、感じる。そうだよもう夜。今日はお前といたあの日じゃない。あの遮光カーテンの昏みで幾度となく迎えた朝でも。だからもうアウトだ退場しろお前は。しょうもない。女の喫煙をうざがる男なんてほんとしょうもない。しかも副流煙がやだとかじゃなくて単にガンが心配だからやめろだなんて、なんだ、なんでこうどうでもいいことばかり思い出すか。アウトだって言ったろ。退場。
飲酒運転で殺された人はいっぱいいる。しかし喫煙運転で殺された人は有史以来いままで一人もいない。だから喫煙は飲酒よりも善良で健康的で公序良俗にかなった嗜癖である。かくてこの定理は証明された。こんな簡単なことさえわからないやつらがいるんだ。なーにが電子タバコだか。ニコチン摂りたくないならタバコ吸うな。肥りたくないならコーラ飲むな。死にたくないなら産まれてくるな。ひよっこめ。ニコチンどころかイッコチンにすら値しないタマナシめ。竿すらないのにタマナシとはこれいかに。ニコチンならボールは四つてことになるか。ならばアウトでなく出塁。フォアボールを四回やったら一点加点。スコアボードが音を立てる。加チン。カチンの森事件。これよくないな。口に出したらまずいやつだな。「ジョークを言った時に自分以外の人は笑ってない、みたいな状況が好き」って、東欧のラッパーが言ってたな。あのムックどこやったっけ。全部読んだっけ。
醤油派か塩胡椒派かなんてしゃあしい問答を繰り広げるやつらが未だにいるが、疑いの余地なくブラックペッパーが正解である。そもそも卵は味をつけて喰うものじゃない。カラーひよこじゃあるまいし。プラスチック製の食器をスポンジでこする音はひよこのさえずりに似て……いない。まだ耳が醒めていないか。かけるか何か。いや、そんな時間はない。それより録らなければ、まだ一向にかたがつく気配が無いのだから。しかし何から始めたらいい、一体なにを録りたいのかもわからないのに。何を唄いたいのかさえ。たい、というのがそもそも間違っているか。そうだそもそもわたしはこれを一度もやりたいと思えたことがない。ならなんでやろうとしている。なんでラップトップの電源をつけた。そのまま天気予報でも見て数分間すごせばいい。あるいはニュースのコメント欄に何か知ったふうなことを書き散らすのでも。それを誰が責めるだろうか。だがおまえが今しようとしていることは、責められるべきことではないか。頼まれもしないのに、自分の言葉を録って残すなんて。それを電脳の騒擾に投げるなんて。誰かに届くと、本当に信じているのか。どうせ、ただでさえきりのない聞き手のいない囀りのひとつとして没して終わりではないか。どうせ、っていうこの言葉だいきらいだな。自分を低く見積もって、そのくせ何もしないことに居直っていやがる。いや、何もしないことより性質が悪い。その何もしないは、いつか誰かの声を圧殺するのだから。この時代の声は、誇りを失くした者どもが投棄した防音材の山で遮られている。これはいい詞かもしれないな。録ろうかな。そうだ、たしか卵のパックも防音材として使えるんだよな。この双つくっつくかな、なんかこうぐさっときて、笑える感じに。
mic check 1, 2. Yes yes y'all, and you don't stop. Keep on y'all, and you don't stop. MC93 in da place 2 B.
キュウゾウ。それはわたしの名前じゃない。わたし以外の、どこかの誰かの名前だ。この名前で出すのはわたしのものじゃない。わたしの栄誉はそこにない。それでいい、それでこそいい。誰かに届くとは限らない。しかしきっと別のものにはなってくれる、ついにわたしのものだとは言えなくなって、顔も名前すらも失って。
わたしの言葉は誰のものでもない。誰が言ったのでもいいんだ。もちろん、あなたでも。あなたが一体どこの誰をさすのかさえ、わからなくても。誰の言葉でもいい。本当に大事なことは、誰が言ったっていいはずなんだ。いつの時代のどこの偉人たちの名言集だとか、くそくらえだ。そんなものを集めて何になる。私は何も言わない、誰が言ってもいいこと以外は。こうしてまた始められる、誰かが偶然にやめたことの続きを。続きを始める。始めよう。
変転の詩 (The song NEVER remains the same)
第30回 執筆:國分測
当時三四歳の大江健三郎は、『なぜ詩ではなく小説を書くか』と題された随筆において、「詩の言葉の能力の不在によって、ついに詩とはならなかったもの」を「あらためて小説の言葉によってとらえなおすことをめざして様ざまな努力をした」ことについて語っている。引用しよう、「小説を読みおえたあと、閉じられた本は、落花生の殻の堆積のごときものである。ところが詩は、真にそれを読んだ者にとっては言葉の実質と機能がそのままひとかたまりの錘となって、肉体=魂のうちにしっかりくいこんでしまうのである。そこで、詩には、読みおえるということがない。いったん人間が詩に遭遇すると、その出会いはつねに進行中である」。
端的に詩を「燃えるトゲ」に喩える大江はしかし、彼岸に存ずる対象として憧れるのでも、此岸に属する道具として玩弄するのでもない。どちらの態度も彼は採らない。小説家たる大江は宣する、「この内なるトゲを、外部のものとすべく小説の言葉にとらえなおしたいと考えるのが小説制作の操作である」。もっともそれは、「小説の言葉と詩の言葉の癒着を意味しない」。彼にとってふたつの言葉は《狂気》に抗すべく紡がれるものであり、「肉体=魂の死にあたって、内在化された詩がその人間の唯一の支えであるとすれば、魂の死である狂気にたちむかうための支えもまた、その狂気の接近を恐怖と苦痛とともに見すえている者にとって、かれの内部の錘、あるいは燃えるトゲたる、詩にほかならないはずではあるまいか?」と反問しさえするのだ。
まことに、驚嘆すべき洞察である。問いの立て方自体が非凡であるのはもちろんのこと、小説の言葉に安らぐことへの峻拒をもって「魂の死である狂気にたちむかうための支え」として詩を位置づけるとは。このエッセイが西暦にして一九六九年、まさに七年前にキューバ危機を閲したばかりの時期に書かれたことはもちろん偶然ではない。歴史的・政治的な狂気に対抗するための詩。これを五〇年後の現在に生きる我々自身の問題として引き受けることが不可能であるとするのは、それは地理的・歴史的に限定された言語を自明視した書き手ども、つまるところ市場原理を前提としたコピーライティングなどを何か価値ある仕事だと思い込むことができてしまった幸福な働きアリくらいのものだろう。我々が作詞家と呼ぶ職業の中には、資本家のために「ツバサ広げて」だの「トビラ開いて」だの「キミを守りたい」だのの定型句を挿げ替えて制作した歌詞なるものを奉納することで生計を立てている、言葉を搾取され迷妄を錯視し酩酊によりビルの屋上から落死したほうが世のためだと言える人々も大勢いるのだから。ふたたび大江の言葉を銘記しよう、「いったん人間が詩に遭遇すると、その出会いはつねに進行中である」。そう、言葉を固着し膠着させる者は詩人ではない。作詞家ですらない。チクタクチクタクと拍を打ち続けるだけならメトロノームで充分だ、ということは演奏家なら誰でも知っている。しかしわれらの業界では、無味乾燥な定型句を打ち続けるだけの者がさも一人前かのように錯誤されているのだ。言おう、音楽を言葉で窒息させるだけの仕事など、作詞と呼べはしない。音楽に敬意を払いもせずに言葉を押し付けて収入を得ている者など、詐欺師と同じだ。
國分さん、今回も飛ばしてますねえ。詩と詞の区別がずーっと曖昧なまま進むのと、前半引用ばっかで後半は啖呵だけぶつけて終わるってのが、彼女らしいよね。ははは。井出さん読みました? 読んでない。なんでです? もういい加減、読まなくてもわかるから。どうせ僕らみたいなのがこっぴどくやられてるんだろう。あはは。ぼくら、なのかはわかりませんけど。しかしまあ、どうなんだろうね、あの狷介さ。優れた明視の人だってことは、わかるんだけどねえ。若さゆえの、とか言いたくはないけど。若くはないでしょう、私のいっこ上ですよ。二〇代が若くないとか言われたら困るよ。じゃなきゃ「若手作家」がいなくなる。で、僕みたいなのについた箔の価値もなくなる。あはは、逆にですか。しかし、社内報の連載とはいえ、ここまで好き勝手書かせてもらえるのは一つの甘やかされでもあるってのを、本人には解ってもらいたいよね。でもこれ、書籍化の話も出てるみたいですよ。まじ? ええ、出版部の噂で。へえ。そこまでねえ……うん。どうしました? いや、実際ね……実際、彼女は作詞業じゃなくてコラム書きが本業なんじゃないかって思う時あるよ。どういう? ほらたとえば、モリッシーってデビュー前はバンドじゃなくて雑誌に投稿ばかりしてたじゃん。今度その頃の伝記映画やるらしいじゃん。知りませんけど。そうか。いいんだけど。でまあ、つまりさ。はい。言いたいのはさ……結局、未だプロじゃないってことなんだよ、彼女。
お送りしたデモは。「お送りした」はおかしいだろう。自分の行為に美化語を使ってどうする。せめて「お送り致しました」「お送り申し上げました」だ。はい、拝聴しました。いかがでした。実務的な面でひとつよろしいですか。仮歌はありましたが、オケはこれから手直しが入りますか。いえ、あれで完成形です。なるほど。それ以外は特には。そうですか、では詞のコンセプトについて、なにかご不明な点などありますか。企画書には目を通しました。そのうえでいくつか質問が。どうぞ。この「とろ~りさらさわ触感」というのは、どのような意味ですか。ええと、そのままの意味です。そのままとは。あの、あくまでキャッチコピーというか。これ自体に大した意味はないですよ。キャッチコピーにこそ意味がなくてはならないと思うのですが。差支えなければ、このコピーライティングを担当された方のお名前を教えていただけますか。真意を問い合わせたいので。でなければ、作詞家としてもイメージが掴めかねます。あのね、國分さん。そこまでしていただかなくてもね、たった九〇秒の曲ですから……九〇秒。音楽でひとりの人間の生を変えるには充分すぎる時間だ。それだけの時間を占有して、広告屋は一体何を垂れ流してる。大した意味もないと知りながら、次から次へと、一体何に許されて。わかりました。よろしいですか。はい。ではですね、企画書には書き漏らしていたことですが、今回のはですね、弊社のイメージを刷新する新機軸を打ち出すということでですね、かたくるしい、無味乾燥なと言いますかね、ああいったパッケージではなくてですね、もっとフェミニンな感じにしたくてですね。ですねが多い。官僚か。はい。CMのイメージもそういうふうにということで話が進んどるのでですね、ぜひとも歌詞のほうもこう、母性的な感じにしていただきたいと。母性的。とは、具体的には。牛乳石鹸ということでですね、女性にもお児さんの肌にも優しいと。そういうのを押し出したいのでですね、こう優しい……わかりますか。わかりかねています。ええとですね、つまりですね、女性らしくしていただきたいと。女性らしく。はい、いやあの、詞のほうをですよ。わかっています。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。大筋は把握しました。大丈夫ですか。はい。初稿を三日以内に送付いたしますので、以降、ブラッシュアップを経て完納ということでよろしいですか。はい、ぜひともそうして頂きたく。では。よろしくお願いいたします。はい。
肉は詞詞で出来ている。神とはロゴス、つまり合理性。物事の存在の根拠を成す、言の司だ。使い方一つで身を切る。どころか、誰かの生を具体的に破壊しさえする。それなのに。
母性的。優しい。女性らしく。
こんなに言葉が雑な奴らのために、私は言葉を使わなくちゃいけないのか。
ごめんバイトくん四人くらいもらっていい? おーあのさ、あそこのさ、一九番ゲートの階段の上のとこあるでしょ? そうそう。あっこにイントレ建てるからさ、先にこの台車のジャッキ全部並べといてほしい。ジャッキって何ですか? えーとね、あーそこの君きのうもいたよね? はい。じゃあ君あと三人連れてね、あっこに。通路に並べていいからそうそう。よろしく。
だってほら、日本で初めて野球場でのコンサートやったのって西城秀樹じゃんね。さいじょうひできって誰ですか? えっ知らない? 聴いたことない? うわー、世代だなあ。九三さんも私と歳かわらないでしょ。だっけ。「だっけ」はおかしいでしょ九三年生まれなのに。そっか。まあアレだよ、自分が生まれる前のことにもアンテナ立ってるかどーかつう話ですよ。おー、さすが正社員は言うこと違いますねえ。いやそれ関係ないから。でさあ、そのYMCAのカバーがまあ見事に脱政治化されてんのよ。もともとゲイの寄り合いの歌なのにさ、関係ないことにしてやがんの。だからこの機会にさ、供養つか当てつけつーか、試しにレインボーパレードででもかけてみたら本来の意味でアガると思うんだよね。れいんぼーぱれーどって何ですか?
エイムズのバイトさーん。全部で一七人? だよね。はーいじゃあ一時間休憩なんで、各自お弁当ひとつずつもらってくださーい。お茶とジュースはあっちにあるので。弁当ガラはかならず所定の場所に。あと、ちゃんとフタに輪ゴムかけて棄ててくださいね。
コンサートがあるたびに人工芝養生しなきゃってのも、難儀な話だよなあ。もともと音楽するための場所じゃないからな。でもべつに芝あってもいいじゃんね。なんかな、聖域みたいな意識があるのかな。土俵に女が足を踏み入れるなんて、みたいな国だもんな。それは関係ないか。あるか。あの、と。ちょっといいですか。はい。やべっわたしトイレの場所とか言い忘れたか。どうしました。あの、さっきフォークリフトの運転しとらした人ですよね。そうですよ。バイト中ずっと気になってたんすけど……そのTシャツ。はい。あ、これ? 自分で自分の胸を指差す。ファンカデリックの『Maggot Brain』。ですよね。ですよね! うわーっ、あたしこれ着てるひと初めて見ました! えっ、やあ、だってこの仕事服装自由だし、と何を言い訳めいたことをわたしは。ですけど、だいたいスタッフさんって会社のロゴ入りワイシャツとか前にあったイベントの記念Tシャツとかじゃないですか。まあね。そん中でそれ着てる人すごく目立ってるつーか。わあファンカデリックのTシャツ着とらすって、あたしずっと見てたすもん。あはは、そうなんだ。わたしあんま詳しくないんだけど。詳しくないのにTシャツ持ってるんすか? いやこれは、彼氏がさ。うわ、言っちゃった。元カレからもらったやつでさ。へえ、彼氏さんどんな人でしたか? どうもとつよしみたいな感じでした? いや。こういち寄り? そんなキレイなわけない、どっちかつうと関ジャニ寄り。しょうもない奴だったよ。いや違うよ、関ジャニがしょうもないって言ってんじゃないよ。解ってるすよ、ははは。ていうか珍しいね、若い女の子がそんな音楽好きって。ええ珍しくないすよ、だってJBの討論集とかMJの裁判記録とかジョージ・クリントンの自伝とか訳してるのって、全部おなじ女の人っすよ? そうなんだ。ファンカデリックね……なんだっけ、ヴァンヘイレンみたいな名前の。ヘイゼル? そうそう、その人のギターがすごいんだってね。エディ・ヘイゼル。あの人は、あの人は──えっ。何。もしかして、泣いてる。あの人は、もっと生きるべきでしたよ。わたしが泣かしたんじゃないよな。いやあ、でも、ちょっと、早すぎたなあ。もし生きてたら、もっといい感じの仕事してたはずなんすよ。うん、そう、なんだ。だってそれのタイトル曲う、とゴム手袋を着けたままの左手で左目をぐしぐし拭いながら、右手でわたしの胸を指差す。その曲のソロ、クリントン御大が、レコーディングの直前に「今お母さんが死んだと思って、そのつもりで弾け」って言ったんすよ。ヘイゼル毎回スタジオに送り迎えしてもらうほどのお母さんっ子だったのに。御大ひどいじゃないすかあ……やることが……そうだったんだ。いや、わたしに泣かれてもな。すげえ名演だって言われてるし、実際あたしもそう思うすけど、でもね、いま生きてたら、もっと良くなってたはずすもん。うん。はあー、と大きな溜息。よっぽど好きなんだね。好きつうか、大事なんす。そう。すんませんいきなり話しかけちゃって、どうしても気になったんで。はは。お弁当どうぞ。あ忘れてた、喰わなきゃっすね。なんかこの話一晩中できそうで。はははは。やっぱこのバイトって音楽好きな人が来るんだね。そう、かも、っすね。なんだろうその間。それじゃ。あ、お弁当ありがとっす。うん。いや、それ会社が買ったやつだから。あはは、そうでした。
電話くらい寄越しなよ。したけど。着いてから、来るの前提で、ってのやめてって言ってんだよ。メールで充分だと思ったし、そもそも電話で話すの嫌いでしょう。まあ、耳痛くなるしね。でも夜勤明けでシャワー浴びてさあ寝ようってときに会って話したい三〇分でいいからって言われるのよりマシだっての。何飲む。コーヒー。あ午後ティーの無糖のやつしか無いわ、これでいい。いいけど。露骨にいやそうな顔すんな。わかるよ、午前に飲むの抵抗あるんだろ。いいじゃん、休みの日くらいカフェイン控えなよ。
湯呑みもうひとつある。あー、歯ブラシ立てのマグカップならある、けど、あれたぶん穢いよ。ペットボトルから直接飲みな。ひとりぶんの食器しかないとはね。誰かのぶんの食器があったらどうするよ。誰かと同棲でもしてたら安心した。特には。ただあなたの最近の暮らしぶりなら、それくらい所帯染みててもおかしくないと思っただけ。気遣いなのか論いなのかわからないんだ、この人の文句は。まあ相変わらずで安心したねお互いに。あなたは変わったけどね。ははは、髪型がっすか。ええ。それ、似合ってない。こういうことを、笑いもせずに言う。へえへえ、わたしゃ最初から測さまとは頭の出来が違いますでよう。作詞家先生には、連日ヘルメットをかぶって仕事する女の頭のかたちなんて、わからないんでしょうけどよう。こういう戯け方を嫌う人だ。そういう戯け方は嫌い。ほらね。
本題。なに。さっさと本題入ろうよ、電話で話す時みたいに。ねむいんですーこっちはー。すう、と一呼吸置きながら、右手の薬指で顎筋をつうとなぞっている。あっめんどくさい話になる兆しだ、とはさすがに直感でわかる。
あなたのね、作ったもの──このあなたというのは、龍九三ではなくて、キュウゾウとして置き換えるべきかな。そうだね。キュウゾウの作ったものについて話すには、あなたに直接云うしかない。そうだね。そしてあなたには、キュウゾウがいつのまにか収穫していたものを持ち帰ってもらう必要がある。と、いきなりの難詰口調と云われた内容との奇妙な乖離に、右瞼が顫える。
率直に訊くけど。九三、あなた気付いてないの。ここ数ヶ月で作った曲のなかで、何が起こってるか。きづいてって何に。相変わらずドープだなあとは思ってますよ。そういうことじゃなくて。あのね──大きくとって一年前としましょうか。あの時期に出していた曲、贔屓目にも練習というかリハビリとしか呼びようのなかった作品とは──はは、言うね。格が違ってきてるってこと。そりゃどうも。九三、真面目に聞く気がないのならもう帰る。こういうとき急に子供っぽくなるんだ。勝手に来て勝手に帰る、悪いことだとは思いませんよ、とはさすがに、言いませんよ。聞くから。と短く言うと、右手の薬指で顎筋をつうとなぞる例の癖、からの一挙動で、ペットボトルの内容物が一気にのみくだされる。ふう、の一呼吸が散ると、真一文字にこちらを見据えて言う。
九三、あなたは喚ばれたんだよ。喚ばれた人間は、往かなきゃいけない。
とっぴょうしが、なさすぎるよ。笑わずに言えたことをほめてやりたい。よばれたって誰に。いかなきゃいけないって何処にさ。それにあれを作ったのはキュウゾウであって、わたしじゃない。持ち帰ってもらう必要があるってさっき言ったでしょう。その言い方もわかんねえんだよ。なんで普通に言わない。と、やってしまった。これは、言っちゃいけないことなのに。普通に言え、わかりやすく説明しろ、という類の、分別顔下げて実は無神経なだけの言葉に、際限無しに傷つけられてきた人だ。だから、言われると急にむずかる。それは、やめて。それは見せないで。ごめん、言い直す。普通に言わなくていい。いいけど、何を責められてるのかわかんない。責めてない。持ち帰れってのは責めでしょ。引き受けるべき、って意味。同じ意味だよ。少し違うはず。そうかな。
宥めは効いたようで、とりあえず湯呑みに冷茶をこぽこぽと注ぎながら、いたたまれない沈黙をぼかそうとする。著作家の伝記を読んでるとね、とまた別の角度から切り込むつもりらしい。ある時期に、その作家が終生までのスタイルをものにした、スイッチが入った、って瞬間が、かならず記述されてるものなの。そうなの。たとえばベケットの──なんて書いてあったっけ──そう、「書くことの狂熱」。ああ、二次大戦直後だっけ。レジスタンスやってたんだよね確か。こくと頷いて続ける。あなたにも、それが来たんじゃないのかな。らしくもない弱気な語尾。「唄うことの狂熱」のようなものが、確かに、数ヶ月前の楽曲から兆してきてる。音楽的に分析でもできたらいいんだけど……でもあれは、そうとでも謂わなければ説明できない。そうだね、説明できない。違ってきてたのは自分でもわかってたよ。とは、言わない。喚ばれたってそういうこと。こくと頷いた、のち、なぜか微笑しながら続ける。私は喚ばれなかったよ。こんな笑い方は初めて見たな。私には来なかったものが、あなたには来た。ちょっと意味わかんないな。どう考えても逆でしょ。そちら売れっ子の作詞家先生、かたやフォークリフト運転士ですよ。職業がなんだっていうの。いきなり微笑が擲たれ、裸形のなにかが剥かれる。九三、あなたが人知れず書いてきた詞に比べれば、私が書いたものなんか──クソにも劣る。こういう云い方はしない人だ。躊躇もあったろう。でも、云った。適切な表現だったからだろう。それクライアントに失礼でしょ。私はあの人たちが望んでるものを提供してるだけ。職業的義務は果たしてる。はは。クソは金で金はクソってか。いいよ今時フロイトとか。
ふう、と一息。どう応えるべきかな。うん、やっぱこう言うしかないな。買いかぶりすぎだよ。買いかぶりっていうのは適切かもね。私はあなたの、一切金にならない詞を褒めてるわけだから。ぶははは、いきなり言葉尻おっかけまわすな。でもそういうこと、逆転してるの、ここでは、あなたのと──わかったわかった。嬉しいよ、すごいって言ってくれるのは。でもさ、それとさ、測が仕事で作ってる詞がクソに思えるのとはさ、関係ないって。ある。ないってー……
私は具体的に市場価値のことを言ってるの。もしね、私が書いてるような詞が見向きもされなくなって、あなたのような詞ばかりが価値を持つようになったら、どうする。そんな日は永遠に来ないから安心していい。これは仮定の話だから何を言ってもいい。ああもう、これだからな。こういう癖がある人だ。自分の価値を減殺するために無闇に仮定法を使う。悪い癖、とは言えない。しかしそれは一種の押し売りじゃないか、自分を下げるために相手を上げるなんて。あまつさえ、自分しか持ってない才能を相手に見出してあなたは私より優れているなんて言うんだからたまらない。
じゃあ。お互いの饒舌をまず黙す、ことから始める、べきだと思う。お望み通り、仮定の話をしようか。呼吸が止まる。目の前で見据えていたはずの双眸が、いつのまにか隣にきている。もしね、測が言った通り、わたしの──キュウゾウの詞がすごい価値を持つようになったとしてもさ。こくと頷く。すぐに何も書けなくなるよ。隣の両瞼が見開かれる。次は、もう書けなくなるよ……他人の思惑を考えるようになるよ。緊張に耐えられなくなって、でも強烈な光にさらされて、権力欲まみれになってさ。だって、こうして仮定で話すことさえ権力欲だよ。自分の作ったものに価値があったら、なかったら、とかさ。わたしは、そういうのはもう、いい。
沈黙。
もう書けない、って思ったの。語調が急に変わるのは、今日何度目かだな。もう書くわけにはいかないって思ったの、今まで通りには。作詞家やめるってこと。正確には違う。でも今まで通りの書き方を今すぐやめなきゃいけない、って、あなたの詞を読んでたら……キュウゾウのね。キュウゾウは──九三は、なぜ書くの。答えられる。答えは知ってる。でも、たぶん、それを口にできるほど、わたしは強くない。
その「なぜ」を止しなよ。と、代わりの遁辞を投げながら、側頭をぺしと叩くだけにする。行き詰まってるのはわかったよ。とりあえず一日まともに休みなって。これから三日間いるんでしょ。わたしも明後日休みだからさ、その時ちゃんと話そう。夜勤明けの頭で応えられるのはこれだけ。こく、と頷こうとする顎の軌道が、曖昧に逸れていく。頰にいたたまれなさの影がさす。ごめんなさい、は言わせない。空になったペットボトルで頬をぐりぐりするの儀である。ほい、今日はもうさっさと帰れーい。こちとら七時間後に出勤じゃーい。うん。宿どこ? 地行浜。珍しいね。博多駅まわりのビジネスホテル埋まってた? いや、とくに博多に用は無いし、どのみち電車一本だし……もしかしてヒルトン? そう。あじゃあ、わたしが入ってる現場と近いよ。たしか良いホテルだよね泊まったことないけど。そうでもない。そっか。そう。
この時間帯なら大通りよりも区役所通りのほうがタクシー拾いやすいから、と大雑把に道筋を示し、見送る。がたん、とドアの音が妙に重く感じる、のを、疲れのせいに、する。ぬるくなった湯呑みの内容物を喉に流し、ベッドに倒れ込む。
あ、ひとつ大事なこと言い忘れたな。もう書くわけにはいかないって思った、今まで通りには、ってさ。それだよ、測。わたしもそうだった。不二良のことがあってしばらくのあいだ、まさにあんたが助けてくれてたあのあいだ──わたしもずっとそうだったんだ、もう今まで通りには──
まず、基本的なことから確認するね。近代小説の始まりを告げた『ドン・キホーテ』。あの小説は明らかに騎士道物語のパロディとして書かれてる。παρω の δια、並行する言葉として。知っての通り、セルバンテスは騎士道物語に引導を渡すためにあれを書いた。金輪際あんな馬鹿らしいものに惹かれる人がいなくなるように、って。でも、セルバンテスは明らかに騎士を愛してたよね。そう。貶めて嘲笑して突き放したはずの騎士に対して、それでも隠しようのない何かが迸るところ。そこがあの本の一番の読み所。だから「私はこの本の作者じゃありません、市場で買ったものを翻訳してもらっただけです」なんて無茶を言い出さなきゃいけなかった。セルバンテスは、愛してやまないものを、殺そうとしたんだよね。殺したくてたまらないものを、愛さなきゃいけなかった。そう。その結果として新しい子供たちが出来てしまった。小説の読み書きを万人に開放する、近代小説という名の、恐るべき子供たちが。
そもそも、騎士道小説の源流である宮廷愛。この「愛」がアラビア起源だってことはもう知ってるね。一二世紀あたりの南仏だっけ。トゥルバドゥール、女性への高貴な「愛」をうたう吟唱詩人があらわれて。そう、トゥルバドゥールの語源がそもそもオック語。 trobar, 喜びや悲しみにより心が動かされること。その語源はアラビア語の tariba で、その関連名詞である tarab は、喜びをもたらす芸能、とくに音楽を意味する。歌だ。そう。リュートを奏でながら貴婦人への愛を吟唱するトゥルバドゥール。西欧において初めて、女性を美の対象とする「愛」があらわれたの。ギリシアの「エロス」はそもそも少年愛で、女性は相手にされていない。トゥルバドゥールの「愛」を準備するには、バレンシア、カタルーニャ、ラングドック、プロヴァンス、ロンバルディア、つまりイスラームとひとつになっていた時期のロマンス語圏が必要だった。アルビジョア十字軍があれだけ殺しまくったのって、これを恐れたんでしょ。そう。イスラームによって花開き始めていた新たな「愛」の力が怖かったから。カタリ派だって、アラビアからの影響とピレネー山脈における土俗信仰が融合していた。そんな「異端」は絶対に殺し尽くされなくてはならなかった。
そうして南仏におけるトゥルバドゥールの事跡は灰燼に帰したけど、文体は死ぬことなく残った。一三世紀、ムルシア生まれのイブン・アラビーという名のスーフィーが、女性への愛を唄ったの。抒情詩集『渇望の解釈者』、神と現象界をつなぐ普遍的知性への愛。このスーフィーから決定的な影響を受けたのが、ダンテ・アリギエーリ。一四世紀に彼が書いた『神曲』は、明らかにイスラーム思想家の影響下にある。そもそもダンテがベアトリーチェに導かれて昇天する場面は、ムハンマドの昇天伝説を記した『ミーラージュ』と同じ。つまりトゥルバドゥールの「愛」は、一四世紀にイタリア清新体の詩人に引き継がれた。
ちょっと寄り道しましょうか。そもそもなぜダンテは『神曲』をトスカーナ方言で書いたと思う? 帝国の真正なる言語、ラテン語で書くこともできたはずなのに。彼はラテン一神教の栄光をうたっていた。しかし、自分の作品は俗語で書いた。結果としてローマは後に世俗国家として分裂してしまうことになる。つまりダンテは愛する世界を自分自身の言葉で引き裂いた。なんだか、すごく似てるね。セルバンテスと。
話を戻しましょうか。まあね、西欧人でも日本人でも、イスラームとユダヤを都合よく無視したうえでヨーロッパこそがギリシア=ローマの正当な後継者だって前提で話を進めてる人間って、だいたい馬鹿だよ。九世紀から一二世紀にかけての大翻訳活動がなければ、ギリシア=ローマの叡智は伝えられることなく潰えていた。一二世紀までのヨーロッパ共通語ってアラビア語だったんだから。そしてさっき言ったように、南仏はアラビアとの特異的な混淆地点として、トゥルバドゥールの「愛」を産み育てた。ダンテに着想をもたらし、セルバンテスに憎悪をすら抱かせたあの「愛」を。そして「愛」を伝えるための手段は歌だった。
だからね、歴史的に考えて、小説の文体の基礎をなすのは散文よりもむしろ、歌だってことになる。詩ではいけないし、かといって完全な歌になってしまうことも許されないという、謎の闘いが始まったの。謎って言っちゃっていいの。謎だよ。こればかりは合理的に説明がつかない。だって、小説って未だに体系的な学問の対象にされたことがないんだよ。そりゃそうだよ、体系的な学問てのは一八世紀以降のゲルマンだけの自家薬籠だもの。かわいそうなヘーゲル。彼がなぜあれほど詩を、歌を、小説を、つまり藝術を侮蔑したか、わかるでしょ。怖かったんだよ。それは彼の体系の果てにあるはずのゲルマン的国家とは無縁のものだから。混ざっちゃってるんだから、ラテンだけじゃない、イスラームとユダヤの血までもが。トゥルバドゥールの歌がそこに鳴り響いたら、ヨーロッパなるものがそもそも混血だったってことがばれちゃうんだから。だからあれほどまでに詩を、歌を、小説を、侮蔑した。
ジョイスはこのことを完璧に理解してたよ。彼が最初に出した詩集の名前を思い出してみればいい。最後に出したあの小説の名前も。あんなに音楽してた作家っていないんだよ。小説は詩歌と無縁ではありえなくて、しかし詩歌そのものであることもできない、そんな背中合わせの苦闘のありさまを一番よく解ってた人だった。そのうえで彼は書いた。何を。神話から逆算された人々の卑小な営みを、そして世界史を。ダンテとヴィーコの影響から出発した、しかし彼らの昇天にも循環にも依らない別の軌道の、歓びと字酔いの世界史を。
まとめようか。ダンテ、セルバンテス、ジョイス。新たな文学の形態が生まれるとき、そこには必ず新たな世界が生まれている。歴史的にも、政治的にも。そして小説の文体とはとりもなおさず歌であり、その響もしは現体制の維持者たちに恐怖をもたらし、ついには殺し殺される、血みどろの戦争さえも引き起こしうる。南仏のトゥルバドゥールたちがアルビジョア十字軍に虐殺されたように。
だからね、九三。今あるこの世界なんて、歌ひとつで簡単に覆っちゃうんだよ。世界は言葉で出来ている、出来てしまっている。じゃあ、世界を変える言葉の力は、二一世紀の今ではすっかり喪われてしまいましたなんて、そんなこと誰が言い切れる? 新たな世界を生むための新たな小説、それは在りうる。書きうるし、書かれるべき。
不二良は、それを書こうとしてるの。書こうっていうより、もう書いてる。でも独りで書くわけじゃない。文体は、個人で担えるものじゃないから。わたしだけじゃ足りない。九三、あなたを含めても、まだ足りないのだけど。それでもわたしは起こしてみせる。旧い世界を反故紙にする、新たな世界を劃然と書き付ける、今までの一切を恥じ入らせる思考と想像のスタイル・ウォーズを。愛と言の戦争。舞と音の戦争。次の世界大戦は、当然そうなるべき。だし、してみせる。
そうだった。いつもこうだった。熱に浮かされたようなことを、しかし異様に実証的な歴史的事実とともに、老婆が編み針でひとつひとつ毛糸を織り上げるようにして。不二良と話してると、詩句の語源は転回であることの意味がわかる気がした。彼女の存在自体が、ひとつの、いやひとつではない、一点を指すおかしな力に導かれてきた違う土地からの言葉たちのようだった。彼女の肉は詞詞だった。
だから、わたしは、振り落とされたんだな。ついていけなかった。結局のところ、わたし自身は歌にはなれなかったから。覚悟が足りなかったんだよ。そうだ、思えばあのときあんな問いを投げた時点で、すでに運命は決まってたんだ。
理論の、ていうか、理屈の話はわかったよ。でもさ、不二良がいま言ったようなことを、具体的にどうするのか知りたい。そんな野放図もない世界をさ、どうやって実現させるっての。
あの問いに彼女がぶつけた答えの意味を、わたしは未だに理解できない。そもそも答えですらなかったから。質問文に質問文で答えるのは反則だ。しかし、これは誰の言葉だったか──「答えから問いを生み出しうる者だけが、藝術家と呼ばれるに値する」。そうだ、不二良は、まさにその通りの人物だった。
『桃太郎』って、凄い小説だと思わない?
あとは台車まとめて全部入口に逃がしといて。トラック来たら、チラシ折りのバイトくん半分動かして出してもらうから。あーい。
ねむいなー。だからってカフェインに頼りたくないしな。うわ、コカコーラもエナジードリンク出したのか。ガラナ入りコーラて。なんかみんな必死だなー、あ、すいません。ぶつかっただけ、だよね。あれ? 見憶えが。この子、昨日の。ファンカデリックの。
ねえさん! ねえさん? 今日も入ってたんすね! いやー、良かったす! うん、仕事だからね。君も今日まで? 君とか言っちゃった。だって名前知らないしな。でもこの子、なんか昨日よりシュッとしてるというか。タオル巻いてたときは気づかなかったけど、ショートカットボブで前髪アシメなんだな。あれなんでチーク塗ってるんだろう。VANSのスキニーはまあいいにしても、Supremeのジップパーカーって設営バイトに着てくるにはちょっと勿体なくないか。そして首にはシルバーチェーンとステージパス……ステー、ジ、パス? そうす、あたし今日は出るんすよ! 出る? ライブに? そうす、ステージ向かって上手のギターピット、っても客席からは直接見えないんすけどね。衣装替えの繋ぎのインストでちょっと映してもらえるくらい。そこでギター弾いてるっす。あなたが? え、今日演るのK-POPグループだよね? そう、いや、あの人たちマジにミュージシャンなんすよ! ツアーで周る国ごとに、現地のミュージシャンを起用してるんす。毎回同じじゃ意味ないからって。だから普通のK-POPならしないくらいバンド隊に予算使ってるんすよ。そうなん。珍しいよね、大体ツアー通して固定だよねこういうのって。そうなんすよお。あたし楽器屋の教室でセンセーもやってるんすけど、そのツテでオーディションの誘いがあって、行ってみたら受かって出てくれって。そんで全国回って、今日ツアーファイナルなんす。だから絶対成功させたいんすよ! そうなんだ……て、え、ツアー帯同してない時はバイトで設営入ってたってこと? そうす。そうすじゃなくて。あの、楽器やってる人にとって手指って一番大事な資本でしょ? こんな怪我しやすいバイトやっちゃだめでしょ? それよく言われるっす。よく言われるんだ。ってことは聞く耳持たないんだ。いやでも、日払いだからあ。と、何か弁明めいた口調で言う。シフト組んでがっつり入る感じでもないからあ、と思って。そんなに金無いの? いやあ、それ話が逆で、稼いだぶん全部つぎ込んじゃうんすよ。稼いだの使いきるのが前提なんす。なんでいくらあっても同じなんす。そうなんだ。理屈になってない理屈だが、たぶん彼女にしか御し得ない何かがあるのだろう、こちらとしては微温く頷くしかない。いやーでも、一ヶ月かけて全国回っても、ファンカデリックのTシャツ着てたひとなんてねえさんくらいすもん。ちゃんと挨拶しときたくて。こういうとき「ライブやるんで観にきてください」ってチケット渡せたらかっこいいんすけどね、既に会場いますもんね。はははは、たしかに。いやあ、Pファンク好きなんだなーと思ってたらまさかミュージシャンだなんて。こっちこそ、スタッフさんにPファンクなひとがおらしたんでアガっちゃって。さすが福岡だなつーか。橘慶太の母親を生んだ土地だなつーか。ごめんあんま詳しくないや。えー!? w-inds. は今が全盛期すよ!? と、誰の新譜がやばいどの曲がやばいやっぱケンパーが起こした弦楽器機材界のイノベーションはものすごくて云々のとりとめもない雑談が数分間つづき、このツアーファイナル撮影入ってるんで、ソフト出たらねえさんに送るすよ。あ名刺あるんでどうぞ。と端正にPP加工されたカードを受け取る次第になった。あとでこっちに連絡先送ってもらえたらうれしっす。おーご丁寧にどうも。六〇年代サイケデリック調のデザインにLINEのidとメールアドレスの記載、その上に大きく「漁火イリチ guitarist, composer, arranger」の名乗りがある。えへへ、名字もPファンクなのかって感じでしょ。え? だって、漁火って Flashlight っすよ? あ、そういうこと。今日はねえ、セトリに一曲泣きのギターソロが入ってるんで、もうヘイゼル降ろすつもりで弾かせてもらうっすよ! あははは。でもあれだよ、ライブ映像あるあるだけど、長すぎるとカットされちゃうよ。ぶははははは! さすがに一〇分以上は弾かんすよ!
と、挨拶のような雑談のような戯れあいだった。開演まであと二時間か。しかし、きのう日払いの設営バイトできょうステージの上とはね。フリーランスのミュージシャンってそんな感じなのかな。いや、きっと彼女が極端すぎるだけだな。漁火ちゃんか。演奏、聴けたら、な。
あの、古市さん。おう。一階アリーナ? の入口案内のポジション、開演してからの話ですけど、わたしがやってていいですか。ふう、と電子タバコ特有の香気が吐き出される。正社員なのに、か? はい。バイトの仕事だろ。ですけど、終演まで解体班することないし、どーせ一三時間シフトのあと一時間仮眠でまた七時間みたいなバイトばっか入れてるでしょ? 休憩させたほうがいいですよお。ほら、以前トイレから戻ったらぜんぜん違う席に通されたってクレームもあったし。あったけか。はい。IQOSに新しいカートリッジが挿入される。ちょっとの沈黙。ペンライトあるか。もちろん。そしたらな、二階席上手のL番ゲート。あそこ客の出入り多いからお前がやっとけ。二階席ですか。悪いか。いえ全然。わっかりましたあ。ありがとございますう。
おつかれーっす。えとね君ね、休憩行っていいよ。え? いいのいいの二回めで。キョードーの人の指示ですって言えばいいから。こういうのはね、上手にサボんなきゃいけないの。はい。ういっす。通路あっちね。
開演前のこの感じって何だろうね。とくに興味あるグループでもないのにな。そわそわしてるうちにこう、そう、こーやって始まるんだよね。さあ仕事だぞ漁火ちゃん、こっからは見えないけど。て、うわ。いきなりこんなんか。キック割れまくってんじゃん。お。おお、オールドスクールだねえ。かっけー。ファーサイドっぽい。ああ、やっぱ掛け合いやってくれるクルーって最高だな。 Yes yes y'all, あはは。そこ客に唄わすんかい。
えー、こんなRケリーっぽい独唱バラードもやるんだ。レベルたっか。いまヒップホップとR&Bが一番よくできる国だとは聞いてたけど、ここまでかあ。お、あ、これ漁火ちゃんじゃんね。うはははは、弾くねえ。安直かもしれないけど、オリアンティっぽい。うめー。これ原曲にあるパートなのかな。気になる。
あはい、いま二階です。いや、はい。はい戻りますんで。んーアンコールまでは無理だったか。君、そこの。うんもう少ししたらお客さん出てくるからドアお願いね。トイレ退席のひとの案内もね、よろしく。ちくしょー、音だけだってのにかーっこよかったなー。これは漁火ちゃんグッジョブだろー。撤収前に挨拶する時間あるかな。あるわけないな。メールで言うしかないかー。今から案文練っとこ。


九三さん食べないんですか? あーごめん、今日のケータリング、にしん入ってるでしょ。あれ食べるとじんましん出ちゃうんだよね。除けたらよくないですか? いや、同じ食器に盛られてるだけでさ、ちょっともう。だからわたしのは大丈夫。二個ほしいバイトくんいたらあげていいよ。うん。搬入口集合ね。おっけー。
喫煙所で吸いたくない日ってのは、どうしてこう定期的に来るかね。人ぎらいなわけないんだけどな。飯どうしよう。たしかいま松屋並盛二九〇円じゃなかったっけ。いつまでだっけ。そもそも近くにあったかな。
お。何。人だかり。オクトーバーフェス、には早すぎるよな。中洲ジャズ? へー、今年から百道浜会場もできたんだ。もう中洲関係ないじゃん。観覧無料の音楽フェスがやたら裾野広げはじめるのって、なんかやな予感すんなー。
出演:オバラゴーハラバンド。知らないな。オバラとゴーハラどっちが名字でどっちが名前なんだろ。どっちもか。ホール&オーツ的な。デュラン・デュラン的な。違うか。て、え、何これ。ステージ、しか、ないじゃん。えっ、あれがオバラゴーハラバンド? デュオなの? ジャ、ズ……? フォークじゃんか。うわーぬるい拍手。えっステージ降りちゃったよ。おわり? おつかれーよかったよって、何それ。ありがとございましたあ。さあ次の挑戦者あ、いらっしゃいませんかあ。なんだこれは。はーいあたし! あたし行くっすー。あ。れ。ねえ漁さん火じゃなちゃいんすじゃかーん!! 何してんの。あ今日もサポート? 出るの? いや違うすけど、ねえさん今日この会場の設営すか? 違うけど。飯屋さがしてたらここに来ちゃって、とか言うのは流石に憚られる。タバコ休憩すか。うん、まあね。外でしか吸いたくないときあるじゃん。そすか。あたし吸わないんでわからんすけど。そうだ折角なんで観てってくださいよ、いまオープンマイクやってるんすよ。オープンマイク? 自由参加ステージ、ってことだよね。そうす。なんとかバンドが出るってタイムテーブルにはあるけど。その予定だったらしいすけど、なんかバンマスの人が空港でしょっぴかれたらしくて。なんで。大麻所持で。マジか。なんで知ってるの。じつはあたしあのバンドのドラマーと知り合いで、その縁で観に来たんすけど、来たらしょぼーんとしてて、そんで経緯訊いたっす。で、結局バンドに支払われる予定だったギャラが丸々浮いて、代演お願いしようにも前の出演者みんなハネてて、これもうどうしようもないってんで、こうなったらオープンマイクで終演予定時刻までやって、この場に集まった観客の人気投票で一位になった出演者にギャラ全額渡す。てことになったっす。賞金付。っす。今までの挑戦者どれくらい。さっきので七組目くらいっすかね。ギャラ全額っていくら。パニックになったらあれなんでって理由で公表されてないっす。いくらなんでも雑すぎない運営!? 運営もハッパ吸ってんじゃない!? 可能性あるっすね。でも優勝したらゲンナマすよおー。あたし生まれが沖縄なんで、せっかくなんで一週間オフにして九州観光と帰郷同時にやるつもりだったんすけど、これで旅費全部まかなえるかもしんないじゃないすかー。つことで行ってくるっす。ちょっ、ええ。行くっても楽器どうすんのさ。あバンドの人ら、のセットそのまま使えんの? ふとっぱらだなー。うわーこの335使っていいんすか! いいけど折らないでよお。あー普段ストラトばっか使ってるから折っちゃうかもしんないすね。はははは、投げても壊れないってか。あはははは。かるいなー。スタジオ気分か。実際リハーサルスタジオみたいなステージだ、ドラムキットとギターと五弦ベースとキーボード二機と、マイク、もある、な。えー!? あたしひとりでってことすか!? だって最低でもビートは欲しいじゃないすかあ。え、日隈さん叩いてくれないんすか? いいじゃないすかせっかくだしー、とせっつかれてるドラマーが漁火ちゃんの知り合いのようで、セッション相手としてステージに上がることをやんわりと辞退している。そもそも賞金付オープンマイクが挙行されるきっかけになったバンドの一員が参加するのはフェアじゃないとの判断らしい。まあ、常識的だ。もーねえさんだめっす、みんないけずやわあ。関西の人なの。違うっすけど、いけずっすわあ。あたし独りでステージ上がったことないしい。そうだろね、弾き語りでコードまで全部自分で面倒見て、って感じじゃないもんね。でもこんだけ人集まってるんだからドラマーくらいいるよ、探してみたら……と振り返ったら、いた。ドラマーじゃなく、見知った顔が。
ビートならあるじゃない。なんでいんの。いつからいたの。とこっちが問う前から、地行浜だって言ったでしょう。と先制の答え。宿から歩いて数分、そこで観覧無料のフェスやってたら、そりゃ行くでしょう。まあ、そうか。國分測らしい物言いではある。でもビートならあるって何。どういう意味。わたし叩けないよ。との、たぶん白々しく聞こえてるんだろう物言いが、右手の挙動だけで制される。SoundCloudのアプリが立ち上がった液晶タッチパネル。そこには 93 のアイコン。見覚えがありすぎる。ビートならここから流せばいい。さっき、ジャミロクワイのオフボーカル流しながら唄ってる子がいた。カラオケの域を出てなかったけどね。ただつまり、イヤホンジャックからステレオのオケは流せるってこと。あのー、誰すか? 物怖じしない子だなやっぱり。えとね、音楽の仕事やってる……やつ。腐れ縁の。説明になってないと思いつつそれくらいしか言えないんだから仕方ない。ねえさんのお友達すか! あそれキュウゾウのトラックすか。それ、に、乗せるんすか? いいっすね! ヒップホップっぽい! じゃあたし、やるなら最近上がった#58_Dmってやつがいいっす。悪くないと思う。やりましょうか、あのカーツウェル使っていいのね? あ、ねえさんの友達さんも演るんすか? え。いやちょっと待って、譜面無いよ、書けって言われても無理よ。問題ない。七〇回は聴いたから憶えてる。あなたも問題ないでしょう? おっす! 一発モノのファンク大得意っす。ですって。さあ、さっさと準備なさい。え、え、ねえさんもやるんすか!? 歌!? もちろん。ちょっと。ちょっとじゃない。この曲の使い方は、あなたが一番よくわかってるでしょう。
使い方。どうすれば。やるのか。やるのか? たしかにわたしが作った曲だ。構造は心得てる……けども。これはキュウゾウの曲だろう、そこに乗る詞は、わたしのものじゃない。そんなものを公の場でやっていいのか。オープンマイクだとしてもそれは──いや、逆か。わたしものじゃないから、好きにやっていい。わたしのものじゃないなら、それは──
漁火ちゃん。はい! ギターでね、『Hit It and Quit It』のリフをね……Dmキーにスライドして、テンポはトラックにあわせて、ずっとループしててほしい。八小節単位で回すから所々でインプロは入れていいけど……できる? 呑み込めた、ようで、もう心得顔だった。一晩中いけるっす! よし。あのー測さ、インスト版では抜いたフックの声ネタ、の音符のフォローお願い。わかってる。ハモンドでいい? いいね。あとフックのコンピングがたぶん平板すぎるから、オブリをいい感じに。言われなくても。あそうだ漁火ちゃん、コードは測が維持するから、リフ以外で動くときは基本的に五、六弦の単音でやって。ほとんどベーシストみたいな気持ちでさ。ソロ回すときは合図するから、そんときはもうガーッと上のほうに。オッケーす!
お、準備整いましたか? それでは八組目の挑戦者! お名前をお願いします! と、ふいの大音声。名前。お名前は何ですか! えと、そんなん要るのか。漁火ちゃんどうする。測、なんかないか。気の利いたのないか。どうでもいいか。「何とでも呼びやがれ」です! ははははは! 素晴らしい! それでは何とでも呼びやがれバンド、準備はよろしいですか! 持ち時間は五分以内でお願いします! 観客のみなさんも目を離さずに! それでは──
ふしぎだな。わたしの部屋の中でしか鳴ってなかった音楽が、こんなところで。いや、違うか。それは常に、起こっているか。誰かのイヤホンの中で、ラップトップの上で、あるいは音源すら無くても鼻歌で──そうだ、この曲のヴァースはこう始まる──It goes 1, 2, 3, 4,
あ。やば終わりかた決めてなかった、と思った瞬間に測の右手が停止ボタンをタップし、左手が鍵盤をグリッサンドする。器用だな。それっぽく終われた。と、あ、いや、いまここで佇んでいるわたしは誰だ。誰だった。誰になっていた。
あれなんの曲? シャザムしても出てこない。ファンク? ヒップホップ? 直接訊いたら。キュウゾウでしょ。の、カバーでしょ。でも声似すぎじゃん? 本、人? 無いだろ。えっ男でしょキュウゾウって。どう聴いても違うだろ。そもそもサンクラのプロフィールに female って書いてあったろ。うそ? 書いてないよ。キュウゾウの曲のリミックス勝手に上げてるアカウントでしょそれ。そうだっけ。なんか演る前にやたら細かく指示出してたじゃん。ただのコピバンならあそこまでやる? さあ。えっあれ? あれなの? え、じゃあ。マジで。
ねえさん、キュウゾウだったんすか……?
これ、歓声か。そうか。ステージに立ったら、こう、なるのか。やっちゃったのか。漁火ちゃんと目を合わせられない、から、いきおい測のほうを向く形になる。九三、あなた気づいてないの。ここ数ヶ月で作った曲のなかで、何が起こってるか。ほらね、とでも言いたげな目で微笑している。何が起こってるか、わかったでしょう。
そういうことか。測、あんたが言ってたのって。うわあ。不二良、これ、もしかしてあれなのかな。あの時できなかったことが、いつのまにか、できるようになってた。
お前、誰だ。
客席から。誰かの声だ。問われて然るべき当たり前の。そうか、君も、他の誰であってもいい者としてここに来たんだな。わたしとおなじように。誰であってもいい。そうだな。そうあっては、答えないわけにはいかない。
MC93 in da house.
休憩時間中に何やってんだお前。すいません。いや、休憩時間中だからいいじゃないですか。よくねえよ。撤収作業前にひとステージ終えてくるスタッフがどこにいる。はい。そうですよね。
一五分ほど集合時間を超過したのはまあいいにしても、いやよくないにしても、さすがに迂闊すぎた。ねえさんキュウゾウだったんすかあ、なんで黙ってたんすかあ、とはしゃぐ漁火ちゃんさえ去なせず、観客の中の数人からもなんだだれだなぜだどこからだどうなんだと審問官めいた詰められかたを。しかしそれを差し引いても、得々と結果発表まで残って九〇万円の賞金を三分割して持って帰るまでとは、調子こきすぎたとしか言いようがない。
ところで、ほんとにお前なのかこれ。ポリカーボネート製のスマートフォンケース、の中の画面に、インスタグラムの動画が明滅している。画角は揺れまくり音声は割れまくりの動画でも、その映像が何時の何処の誰らの何をとらえているかは明白だった。ちくしょう、ライターでもペンライトでもなくスマートフォンを掲げるようになった観客どもめ。シェアリング時代の申し子どもめ。
ああ、バズってるくさい、ですか。バズってるって何だ。わだいになってる的な。この「いいね」ってのの数からしたら相当なんじゃねえのか。そうですね、いっぱいついてますね。まさか撮られてるとは思ってなくて。客席見えてなかったのか。まあ……わたし集中しすぎると周りが見えなくなるつうか……知ってるよ。フォークリフトの運転見てりゃわかる。そんなに事故りそうな運転してますか。まあな。普段からな。
で、どうなりますかわたし。クビですか。しねえけどよ。そんかし、ひとつ訊きたいことがある。はい、どうぞ。っんー、と、電子タバコのカートリッジを灰皿に沈めながら黙す。この人にはよくあることだ、けど、なんか初めてだなこういう顔はお前に限らずよ、はい。歌、をやってる奴ら全員の話なんだけどよ……奇妙な前置き。お前らが、こう、唄ってることは、本当に信じてるから唄ってるのか? ああ、古市さんあなたそんなことを考える人だったのか。いやむしろ、極端すぎるほどの実務家だからこその問いなのか。どう答えればいい。古市さん煙草一本もらえますか。無えよ。それにお前電子じゃねえだろ。そうでした。どうしよう、間がもたないな。もたせなくていいのか。ここは、もう、フロウするしか。
本当にとか言われても困ります。初めはこんな感じ、このまま。だって、歌にした時点で、それはもうわたしの言葉じゃないです。責任持たなくていいってことか。違います。誰かを傷つけるかもしれない、ひどい勘違いをさせてしまうかもしれない、って意味では責任は持たなくちゃいけない。でも、わたしが持ちたくないと思ってるのは、責任じゃなくて著作権のほうなんです。ますますわからないって顔。知るもんか。叩き込む。つくってて──書いてて、唄ってて、これは絶対にわたしがつくったものじゃないな、こんなことできるはずがないな、もうわたしのものとは言えないな、って瞬間が、必ずあるものなんです。みんながみんなそうかは知りませんけど、少なくともわたしにはあります。ふん、それで。だから、だから──唄ってしまったということは信じてないってことだし、でも信じてなきゃ唄いようがないってことです。弾切れ。沈黙。飛躍かな。飛躍してるよなこれ。唄いようがないってことです、これに対して、なぜって問われたら、もう答えられないな。幸いにして、古市さんはそれ以上詰めはしなかった。わっかんねえ。ぐーっと伸びをしながら。すいません、ふふっ。何笑ってんだお前。すいません、ふっ、ふふ。いやあ、ばかなことやったなと思って。そうだな。ばかだな。はい。ふうっ。空になったカートリッジの箱をぐしゃりと潰して、喫煙所まわりにゴミ箱がないことを認めたら、そそくさとポケットにしまう。紙のゴミを自販機横のゴミ箱にとか、そういうことができない人だ。まあ、わかったよ。お前のやってることが、別に会社の迷惑にはならねえってことは。だから、どうでもいい。はい。ほどほどにしろよ、煙草と同じにな。はい。合格、かな。すくなくとも失格ではないよな。あの、古市さん。まだ何かあんのか。いえ、あのですね。さっき三〇万入ったんで、この後みんなで焼肉とか行きません?
そんなんだから金貯まんねえんだろ、って言われた。まあね。おん。確かね、五六。そうだね。ただ、酒のいきおいで古市さんもう還暦近いんですからあて言ったら、ころされかけたね。ぶははは。だって、かっこよく歳取れたほうがいいに決まってんじゃんねー。わたしら世代の男とかねえどうしようもないよ。エゴサばっかしやがって、通信会社ごときに首輪つけられちゃってさあ。ずーっと文句言ってるくせにずーっとびくびくしてんの。魂抜かれてんだよ。うん。なに急に。ああ、まあ、順調だよ。いや、心配とかされてもさ。もう充分してもらったし。あれもう何年前だっけ。いや、いい、数えなくていい。やめろやめろやめろもーおーん。はいはい。ん。フォロワー? 増えたよ。そんなん大したことないよ。DMもなんかスパムまがいのやつばっかだし。コメントはまあ、嬉しいけどさ。そうそう、去年上げたトラックにこっそり入れてたダズ・バンドのネタ、あれ気付いてくれた人いたよ。ははははは。ヘッズって感じだよね。返そうかと思ったもんコメント。あははは。まあそんな感じで。続けるよ、もちろん。うん、また連絡する。そうそう、漁火ちゃんにメールアドレス教えていい? スカイプのidならいい、ってどういう理屈だよ。そういうとこ用心深いよね無駄に。むだだよ。直したがいいよ。オッケー。LINEとかよくわかんないから後で適宜やって。適宜、って、なんか使いたくなるよね。ははは。うるせえ。うん。じゃあね。
明日の一八時の便で帰りか。飯くらいはできるよね。電力会社が腐ってるのと空港の飯屋が不味いのは理由が同じ、なぜならそこではそいつから買うしかなくて既得権益化して新陳代謝の余地がなくなるから、ていうけど、あの親子丼のテナント美味いんだよねけっこう。チェイサーのグラスがやたらきれいなのも、こう、いいんだよな。
しかしまー、あー、一日休み前夜のひとり飲みってのはどうしてこう至福かねー。チルだねー。自由の勝利。飲もうぜガンガン。仕事のメール返しは明日でいいよね。あもう空だブルックリンラガー。ブルックリンラガー、がからだー。うわーもう金麦しかねえ。ヤンハスでも聴くか。聴かねえよ。ベタすぎるだろ。そうだ先週届いたジュラシック5のデラックスエディションのやつ、あれたしかライブDVD入ってたはず。観よう。いやあしかし、未開封のAmazon包装が溜まってるとやたらなまけものになった気分に、お、電話。画面に【着信:母里久蔵】の文字。
うわあ。
こういう時、ビデオ通話機能付じゃない機種使ってて本当によかったと思う。
【受話】。
お前だろ。お前あれだろ。平田だろお前。プロレスネタ通じる生徒がいなくて寂しくって電話かけてきたんですか先生。違うわ。お前、インスタでえらい出回ってる動画のやつ、あれお前だろ。知ーりーまーせん。どこかの誰かが撮って上げた映像の責任なんかわたし取ーれーまーせん。なーに知らばっくれようか俺の名前勝手に使いよってからに。お前の名前、じゃ、ねーよ! わたしの九三って二文字湯桶読みしたらキュウゾウになるってだけだろ国語の授業〇点かお前。それを湯桶読みとは呼ばんだろ国語の授業〇点かお前。だいたいですね今わたしがなにやってようがあなたと一体なんの関係がありましょうかねえ先生。その先生って呼ぶのやめろマジで。なーんもう、なんなん、なんのための電話なんこれ。なんってお前な。夕方の講義終えて飯食ってたら生徒がこれおもしろいですよって見せてきた動画にお前が映ってたから心臓止まるかと思ったわ。こっちの気持ちも考えろ。そっちの気持ちなんか知らんわ塾講は作者の気持ちでも考えてろバーカ。もういい加減おとなしくなったかと思ったらあんなバズりかたしやがって、何がしたいんだコラ、紙面を、紙面を飾るなコラ。プロレスネタやめろよしょうもねえ。そんなだからフられた女に数年ぶりに電話かけて一方的に説教するようなザマなんだよ。あんなのフったって言えるかお前、イカれ女がイカれ女に絆されやがって。不二良がイカれてたのは認めるけどわたしは違うから。その証拠にカタギだ今は。
はあっ、と携帯電話越しに嘆息が伝わる。不毛な詰りあいに嫌気がさしたのだろう。いや、それはこっちもなのだが。物別れになった男との数年越しの喧嘩とかほんとに御免蒙りたいのだが。音楽やってるのか。やってるのかていうか、見たからわかるでしょ。やってるし、やるしかなかったんだよ、賞金出てたし。と言いつつ、たぶんそれだけじゃなかったよなわたしを急き立ててたのは、とか思う。その金で焼肉も喰えたしうまかったよ。あんたも塾やってんなら焼肉にくらい連れてってあげなよ生徒さんを。そしたら人望あります感出るよ。一体何のアドバイスだこれは。続けるのか。音楽? ああ。続けるつうか、ずっと続けてたらああなったわけ。だけ。有名になりたかったから出たんじゃないのか? んなわけないでしょ。そもそもオーディションとかじゃないよオープンマイクだよあれ。キャプションに書いてあったでしょ。そんな詳細は無かった。なんか【衝撃】ラップバトルシーンに突如現れた激ヤバ女クルー とか、そういう。やっぱどうしようもねえなSNSの雑さは。
ふうっ、とまた溜息。とりあえず、元気そうだな。うん。どっちがどっちを気遣ってんだか。まあ、あれとつるんでた頃より声も明るくなったし……よかったよ。心配してなかったと言ったら、嘘になるよ正直。重いよ急に。そしてどんだけ深いんだよ傷が。言っとくけど、不二良と別れたからってあんたとヨリ戻す確率はゼロだからね? ふうっ、とこれは憤怒の息吹だな確実に。余計なこと言わなきゃいけない選手権の常勝かお前は? はいそうです先生。ふはははそんなん付き合ってた頃からわかってたことだろ久々に思い出したか。ずーっと心配しすぎてそれすら忘れてたかゴメンな。しかしまあ今日怒れるくらいには元気になれてよかったなあ。言ってやった言ってやった今度はこっちから。
このふうっ、はたぶん呆れなんだろうな。それでいいよ。お互いに呆れて突き放しあえるくらいが。ところでこれ、何だっけ。何の話なんだっけ。
でもさ。何。お前がどんな音楽やってるにしてもさ。うん。歌詞、「前借り三ヶ月ぶん値す散弾銃に凄惨サンタ・サングレ青酸カリ入りサイダー」は無えよ。ぶっ。だいたい誰が聞き取れるんだよこれ。お前が聞き取れてるじゃねえかよ。あほか俺はさっきサウンド? クラウド? で音源聴いたからだよ、ライブの観客は歌詞カード持ってねえぞ。何のどういう心配だよ保護者づらか。うるせえ。穏当な歌詞ってなんだよトイレの神様とかか。あれサービスエリアのうどん屋で流れてきたときはスピーカーにどんぶり投擲しようかと思ったわ。テロだろ歌詞の。あーもう余計なお世話。親には毎日感謝してるよ。ウォーレンGの『Dear Mama』って名曲があるからそれでも聴いとけ。あれトゥパックだっけどっちだっけ。どっちもだったかもしれない。とにかくよく知りもせんジャンルに口出すな。もう切るから。切るよ。またかけてきたら次は裁判所だよ。刑事? 民事? かの、どっちかだよ。わかったか。おう。なに……その、最後の一言が、余計なんだよいつも。
通話時間9:48。うわ、そんなに話したか。こんなグダグダな長電話したの久しぶりだな。測と話すときも、まあ要件しか言わないもんな。あんま弱み見せても、ってこともあるし。うわなんだこの感傷は。中学生日記か。似合わねー、年甲斐もねー、もうやめ。くそーいきなし電話なんか寄越しやがって。アホからかかってきたアホな電話のこと誰かに愚痴りてー。漁火ちゃんにかけてみようかな。あ、あの名刺に電話番号なかったわ。LINEって確か通話もできるんだっけ。そもそもそんなアプリ対応の機種じゃありませーん。ガラケー最高ー。あっメール来てるわ。漁火ちゃんからだ。

つまりね、以上のことを踏まえてね、僕はディオニュシア大祭を政治的制度として、今の日本に復活させたいと思ってるの!
と、聞き取れた。聞き取れたが意味はまったくわからない。言葉遣いが乱雑なわけじゃない、発音も明瞭としている、表情もにこやかで友好的に話す人の言っていることがまったく理解できないという事態は、率直に言って怖い。
そうですか。と、こちらとしては言うしかなくなる。どうしようか測。さっきからコーヒーカップに口つけてばっかだけどなんか言ってよ。ちょっと漁火ちゃんこの人連れてきたのは君なんだしさ、という意を察してくれたのか、ああ、わかるっす! バトルってことっすよね! いま Rap of China とか Show Me The Money とか、すげえ流行ってますもんね! と、明らかに見当違いの導線を引き始める。ヒップホップならねえさんのほうが詳しいじゃないすか! と、デッドボールに近いパスが放られる。ええと、わたしそれ系の番組あんま好きじゃなくて……とお茶を濁すと、また目の前の男性の口から饒舌の濁流が堰を切る。バトルっちゃあバトルなんだけど、人と人とのバトルじゃないの。僕の言いたいのは、作品どうしのバトりあい、誰が強いとかカッコいいとかじゃあなくてどんな優れた作品を産むことができたかを競い合う闘いって感じかなあ。
RyuDaMadafaka の発言:
とりあえず検索したけど、Dyslexiconって会社の、今度できる日本支社?の代表取締役らしいよ。なんの会社かねこれ。
xxISRBxx の発言:
著作権管理? とはちょっと違う、なんかのデータの取り扱い、みたいなこと言ってました。
HakaruK の発言:
著作権じゃなくて、世界中の楽曲に関するデータベースの入力と管理を単独で行ってる会社。創業はシンガポールだったかな。
RyuDaMadafaka の発言:
おーあs
RyuDaMadafaka の発言:
おーさすが業界人。
HakaruK の発言:
名前くらいは聞いたことあるでしょう? 半年くらい前に、 Dyslexicon の製作した MWM ってデータベースが Spotify に売却されたってニュースになってたでしょう。米国ドル換算で15億、だったかな。
xxISRBxx の発言:
MWMってどういうシステムですか?
HakaruK の発言:
システムというか、流通している音源すべてのパーソナルデータ網羅を目的とするデータベース。たとえば、著作権保護のみを担う ASCAP のデータベースには作詞・作曲・編曲者名の記録義務しかないけど、 MWM にはレコーディングに参加したミュージシャン、レコーディング・ミキシング・マスタリングに参与したエンジニア、サンプリングソースの権利保持者、サンプリングソースのサンプリングソースの権利保持者、サンプリングソースのサンプリングソースの楽曲のレコーディングで使用されたとされている機材の品番、さらにはそれらの楽曲に対して起こされた過去の訴訟まで、無限の項目がある。つまり制作過程とか法的処理とかゴシップとか、著作権以外の情報もメタデータとして収容されるデータベースってこと。
xxISRBxx の発言:
それがなんでSpotifyni
xxISRBxx の発言:
なんでSpotifyに売れたんですか?
HakaruK の発言:
ブラウジング効果を導入して聴取スタイル自体の刷新を図った、というのが大方の意見。
xxISRBxx の発言:
ええと、ブラウジング効果って。
HakaruK の発言:
複数の書架を漫然と渉猟していた利用者が、主に偶然によって、自分では思いもかけなかった資料に行き着くこと。図書館学用語。サブスクリプションで音楽を聴く行為自体が、検索検索また検索で、とっくにマンネリだったでしょう。そのアクセスの様式自体を刷新するためにうってつけのデータベースが、 MWM という名前で既にあったってわけ。そりゃ買うでしょう。
RyuDaMadafaka の発言:
つまりあれか。ハプニングを起きやすくしたってことか。
HakaruK の発言:
簡単に言えばそう。
xxISRBxx の発言:
じゃあ、音源管理を職種とするIT企業、って見ていいわけですよね?まともなかいしゃ?
HakaruK の発言:
音源管理というか、ほとんど文献学に近いけどね。企業としてはまともと見ていいと思う。というか、悪評の立ちようがないものねこんな業種。
RyuDaMadafaka の発言:
なんでその代表取締役が天神にいたんだろうねえ。
HakaruK の発言:
むしろ東京で会うよりも至当でしょう。福岡は東京より大陸や半島に近いのだし。もし東南アジアから東アジアの市場に取り入りたいなら、その玄関口は地理的に福岡ということになるでしょう。空港から市街地にも近いしね。
RyuDaMadafaka の発言:
東インド会社みたいじゃん。
HakaruK の発言:
それは長崎。
xxISRBxx の発言:
まとめていいですか?じゃ、面白そうだしとりあえず会ってみるってことでいいですか?場所と時間はこっちで指定していいらしいんで。国府さん、明日のろくじに出発ですよね?そのにさんじかんまえに空港の店で落ち合う、ってことでいいですか?
HakaruK の発言:
PM4時頃なら問題ないと思う。あと「國分」。
RyuDaMadafaka の発言:
わたしもそれでいいよ。あしたまた連絡とろうか。ま、あんま期待せずにゆるく行こうよ。よっぽどヤバそうな人がきたら通報すればいいんだしさ。
果たしてヤバそうな人が来たのだが、その質は通報して済むような安易なものではなかった。
名前はもう考えてあるの! χορός。穏やかじゃないっすねえ。そっちの殺すじゃないよ、 koros のほう。ギリシア語? ギリシアというか、アッティカ悲劇の用語ね。そう、みんなさ、ひげきって日本語で言うとかなしいなーつらいなーってそういう劇だと思っちゃうんだけど、原義はぜんぜん違うの。「山羊の歌」ですよね。そうそうそう。みんな『オイディプス王』とかちゃんと読んだことある? あれね、いわゆる物語なんかではぜんぜんないの。歌なのよ。登場人物を狂わせるのも嘆かせるのも昂らせるのも、ぜんぶ歌の力なの。今で言うような気の利いた脚本とかストーリーテリングの力なんて、カケラもないのよ。『バッカイ』でも、途中でペンテウスのキャラがいきなり変わりますよね。そうなのー。もうあなた話はやいわあー、やっぱりあたしの目に狂いなかったわあー。急に一人称が変わったな。つまりね、ディオニュシア大祭ってのは、ギリシアにおいては政治的行事だったの、呑気なお楽しみではなかったのよ。つまりって何。いま異様に話が飛躍したな。それは初期のニーチェが展開していた論旨ですね。そう、あたし今そのへんを全部省略して話してるから、わかりづらかったらごめんねえ。と、わたしと漁火ちゃんのほうを見て言う。いつのまにか測が司会進行役みたいになっているが、任せたいと思う。コロスは単なる役者じゃない、舞台装置でもないの。設定されている場所と時間さえも超えてしまって、唄い踊る。だから、その力が今の政治的制度の中で無力だなんて、誰も言い切れないでしょってことなの。だからの使い方が怖い。今あるこの世界なんて、歌ひとつで簡単に覆っちゃうんだから。えっ。むしろ、そのコロスの力を抑圧してしまっているからこそ、今の政治的制度はこれほどまでに様もなく腐敗してるとも言えるんじゃないかしら。なるほど、一理ありますね。民主制とか簡単に言うけどさあ、ギリシア人の民主制っていまの民主主義とはなんの関係もないからねえ。ポリスの統治、デモスのクラティアが民主制の源泉だけど、でもあの人たちって投票で代表者を決めたりしないよ。むしろ集団の投票で追放したりするんだもん。陶片追放。そう。投票での多数決が民主主義の原則というのはローマから接収された考えであって、元をたどればインノケンティウス三世が打ち立てたココンンククラーラーヴェヴェなでのすよね。ハモった。ついにハモっちゃった。つまりよォ、俺たちが民主制の本質だと思ってるものなんて、起源たるギリシアとはなんの関係もねえ。だからなんで今オールドスクールのディオニュシア大祭に回帰しちゃいけないんだ、って思わねえか? 論調によって一人称が変わるんだな。ようやく慣れてきた。古代ギリシア人がディオニュシア大祭でやってたように、新たな歌が生まれるとき、そこには必ず新たな世界が生まれるはずだろ。えっ。ちょっとまってそれ、さっきもあったけど。
なるほど。私としては一通り飲み込めました。ふたりは? キラーパスやめろ心臓に悪い。あたしもだいたいわかったす! アガるほうが絶対イイし、そのアガりをもう社会の? 政治の? ほうまで持っていきたいってことっすよね? 正確には、歌や踊りがそもそも社会的で政治的なものなんであって、そうじゃないと考えるのはやめようぜってことよ。それを大々的に打ち出すイベントを、世界規模でいま開催中ってこと。なるほどお。いまの会話だけだとふつうの音楽人みたいだな。ねえさんいかがっすか? え。わかるだろォーッ? わかります、わかりますけども、そのχορός? ってイベントもたいへんけっこうなんですけども、そのためにわたしたちに何をやってほしいかがいまいち解らないっていうか……つくってほしいんだよ。何を。もちろん作品を。インスタのあれを見て、あんたらが俺たちと同じ理想を共有してるってことを確信したぜ。そういうのを自己肥大と言います。SoundCloudのほうも全曲聴いたけど、楽曲のストックなら無限にあるんだろ? だからよ、χορόςに参加する日本人アーティストの第一弾として、あんたらをリクルートする。詳しくはこれを読んでくれ、すまんなまだ日本語訳ができてないんだが、χορόςの企画概要。これを読んで異存が無いようなら、書き下ろしの楽曲を指定のアップローダに送ってくれ。それをもって我々のリクルート承諾の意思表明と見なす。いいな。よろしくな!
どう思う? 気違い。キチガイっすねえ。頭のおかしい人が無駄に金持っちゃって、誰も止めなくなったパターンっすね。だよねえ、断ろうか。えー、やんないんすか? だって、いくらなんでも滅茶苦茶だよ話が。そうかな、筋は通っていると思ったけど。筋の通り方が狂ってんだよ。でも、陽気すよ。狂気だけど陽気っす。あたし人間はバイブスで判断すべきだと思ってるんで、それで言えばあのひと合格っすよ! ええー。だって、そもそもこの名刺さあ、
杜 琴璽
なんて読むんだよお。「もり きんじ」すかねえ。日本人名ではないでしょう。中文か、あるいはサンスクリット語源の東南アジア系言語に無理やり漢字の音を当てたか。そもそも名刺渡したらふつう名乗るよなあ。ふつうの人ではなかったすよ。まあね、単に狂ってる人なら簡単なんだけどなあ。だってIT企業の日本支社の代表取締役っすよ。それで問題なくやれてるわけでしょ。うーん。少なくとも、今この国で起業だベンチャーだグローバルだと息巻いてるタイプの人間と比べたら、胡散臭さは微弱なくらいだったけどね。そうかあ? これに参加して、たとえ肝心のイベント運営が大失敗したところで、私たちに累が及ぶことは無いわけでしょう? 契約上。いや、まだそれ読んでないけど……。
ていうかさ。
なんか、流れで、これからわたしたち三人が同じクルーとしてやっていくみたいな感じになってるけど。
そうでしょう。
そうっすよ。
いいのかよ。わたしが独りで勝手にやってただけだよ、MC93として。批評的にも興行的にも成功なんて目指してないよ。そんなノリのやつに乗っかっていいのかよ。
愚問。何日か前に話したばかりでしょう。もう同じではいられない、って。
沈黙。
泥舟、だよ。
孤舟、でしょう。
同じことだよ。
でも、私は乗るって決めた。いつまでもここに留まっていられるわけがないんだから。そのために会いに来たんだから。乗るでしょう? あなたも。
もちろんっす! デカいことできそーなのがアガるし、なにより銭の匂いがするっす!
沈黙。
あなたはどうなの。
どうなの、っていうか。いやね──いいんだけど、面白いと思うけど。ひとつだけ、気になることがある。
何。
似過ぎてるんだよ。あの人が言ってたこと、数年前に不二良から聞いたことに、似過ぎてる。
沈黙。
ふじらって、誰すか。
沈黙。
だからね、九三。今あるこの世界なんて、歌ひとつで簡単に覆っちゃうんだよ。世界は言葉で出来ている、出来てしまっている。
憶えてたとはね。
忘れられるもんじゃないしねえ。
歌と言葉にかけられている抑圧を解放して、この世界を覆す。確かに似てるかも。だからといってね、あの杜って人と不二良の件が関係あるなんて、そんな証拠はどこにもないでしょう。母里? あいつは関係ないよ! あーいーつーさあーなんか昨日だしぬけに電話してきやがって、キュウゾウって俺の名前勝手に使ったろとかわけのわかん──そっちじゃなくて。え? さっきもらった名刺、を日本語読みしただけ。あ、そっちか。ええ。やべ恥ずかしい。いいから。漁火ちゃんごめんねわけわかんないよね。いや、いいっすよ。
沈黙。
不二良と別れたのって。ポーランド。でしょう。シンガポールにあるこの会社とは離れすぎてる。関係ないはず。あいつに地理的な遠さなんか通用するかよ。むしろ、こう考えるべきじゃないかな。あいつが撒き散らした思想が、数年経って、世界中に蔓延ってる。まあ、いかにもあいつのやりそうなこと。それに、巻き込まれようとしてる。Dyslexiconて会社も。杜って人も。測も。漁火ちゃんも。わたしも。
ああ。これか。この状態か。不二良。今なら意味がわかる気がするよ。
『桃太郎』って、凄い小説だと思わない?
そうだね。ようやくあの言葉の意味がわかったよ。歩いてたらついてくる、ってわけだ。きびだんご持って歩いてさえいたら、家来はついてくる。てことは、わたしら今から鬼を殺りにいくのか。不二良、あなたを桃太郎に喩えるならそうなる。それとも家来どもが謀叛起こして寝首掻きか。裏で世界を操っていた女を止めるために四方馳せ巡って、最後にはコーカサス山で対峙しなきゃいけないのか。それはないな。ダサい映画にされそう。それよりもね、不二良。わたし思うんだよ。『ドン・キホーテ』と比べて『桃太郎』が不憫だったのは、退治すべき相手が、本当に存在してしまっていたことだって。殺すべき誰かを必要とする戦争なんて、大した戦争じゃないよ。あなただって、そういうことが言いたかったんでしょ。愛と言の戦争。舞と音の戦争。
ねえ、九三。龍って姓はね、奄美由来の姓。一七世紀にね、島津が奄美群島を服属させたでしょ。あの後、島津の殿様が「新田開発で手柄を立てたら奄美出身でも郷士格を与えてやろう」って言いだしてね、それで本当に手柄を立てたのが佐文仁為辰。島津はこれを認めて「田畑」姓を与えたけど、藩士と差別化するために奄美出身者を一字姓にした。なぜ一字姓かというと、当時の薩摩は中国との交易が無くて、既に冊封関係にあった琉球を足がかりにする必要があったから。その流れで奄美でも良人を擬した唐名が出てきて、その中の一つが「龍」姓。
つまりあなたに刻印されている姓は、かつて九州南部から奄美・琉球にかけての地帯で、東シナ海・太平洋の両方にひらけた文化の混淆が在ったことを示しているの。そのことを忘れないでね。島津による琉球への侵入は西暦でいえば一六〇九年、クロムウェルのアイルランド侵略と同時期。そして二次大戦以降のアイルランドで何が持ち上がったか、さらに今スコットランドで何が企てられているか、その反動としてイングランドで何が起こっているか。この島国の状況と引き比べて、具体的に考えてみたらいい。そうすればわかるはず、この島には雑多な血がいっぱい混ざっていて、正当で高貴な血統なんてひとつもなくて、そんな正しさ尊さを振り回すやつらが設えた統治なんて、いくらでも覆しようがあるってことが。
変転の詩 (The song NEVER remains the same)
最終回 執筆:國分測
皆さんこんにちは。突然ですが本コラム、今回で最終回となりました。もちろん上層部の判断などではなく、私本人から直接お願いしてこのような運びとなりました。せっかくの機会ですので、今までを振り返りつつ、いつもよりざっくばらんな感じで書いてみたいと思います。
まず事務的な告知から。本コラムがスモール出版様から書籍化されることになりました。といっても私は、書籍化に際しての作業には一切携わりません。つまりゲラを直す気もなく、既出の原稿をどのように編集しどのように掲載するかも全て編集部に一任するということです。何をいい加減なと思われるかもしれませんが、印税の受取先も私個人ではなくMME本社の口座にする条件で契約したとまでバラしてしまえば、おそらく誹られることもないでしょう。そうです、つまり私は書籍の売上に関して印税を受け取らないし、受け取るつもりもないということです。もし何かの間違いで大ヒットを納めたなら、その収入はMMEアーティストマネジメント部の予算に充てられるべきでしょう。近頃なにやら、端倪すべからざる才能のジャズミュージシャンが運営する社内レーベルから質の高い新人の作品が多数輩出されていたにも拘らず、その社内レーベルが満足な説明もなしに突如閉鎖されるなどの不可解な事件も、仄聞するようになっていましたから。
随分ぶっちゃけるなとお思いでしょうし、あるいはここまでの文面で既にお察しの方もおられるでしょう。ですので、もう直截に書きます。私、國分測は、今月をもちましてMMEを退社させていただきます。もちろんこの事由に関しましても一身上の決断により、本社の判断などは一切関係がありません。これから先はフリーランスの作詞家あるいは作編曲家として活動いたします。國分測という本名の名義を使用するかどうかについてはまだ検討中ですが、再び皆様のお耳にかかる機会があればと思います。
本コラムの連載中には、多数の反響を頂戴いたしました。社内の同業者から手厳しい意見を寄せられることは少なくありませんでしたし、回し読みで本コラムに目を通していただいた社外の読者から好意的な賛辞を寄せられることも、また少なくありませんでした。私の貧しい筆業には不相応な光栄であったと、今更ながらそう思います。
その過程で、私は社内外の同業者(つまり作詞家)の幾人かを名指しで批判しましたし、最近では名を伏せこそすれ、特定の人物や作品を糾弾することも回を増すごとに多くなっておりました。しかし我が身を省みましても、本コラムで槍玉に挙げたすべてのものごとについて、私は謝罪の必要を感じません。
が、ひとつだけ申し開きを述べたいことがございます。実は本コラムには、読者諸賢の皆々様でさえ指摘してくださらなかった、致命的な欠陥がございました。数々の「凡庸な職業作詞家」を、寸鉄人を刺す勢いで糾弾してもなお、私の書き方にはまだ不徹底があったのです。何か。
それは、本コラムで批判される「凡庸な職業作詞家」の中には決して國分測が含まれることがなかった、という、まさにそのことなのです。
私本人もまた、本コラムで厳しく批判されてきたような、定型句ばかりでAメロBメロサビを埋め、それによって金銭を得ることを自明視していた「凡庸な職業作詞家」であったにも拘らず、ひとり國分測だけは一度も批判されたことがなかった。そのような書き方、いや逃げ方をしてしまっていたと気付き、私は今更ながら悶死せんばかりの羞恥を覚えました。同業者を批難しておきながら、自分自身の怯懦だけは我が身可愛さで免罪してしまっていたとは。
ですので、ケジメをつけようと思います。これから私は、今までの國分測を、「凡庸な職業作詞家」でしかなかったあの女を徹底的に殺すことから始めます。私がTVコマーシャルや地方自治体タイアップやアイドルソングなどの形態でいくつもの害毒を垂れ流してきた罪を、これから贖おうと思います。今までの國分測とは別の、もっと別の書き方を見出すために。
果たしてそのようなことが(道義的にも技術的にも)成しうるのか、どうせ自堕落な袋小路に陥って終わりではないか、など様々な疑義がございましょうし、他ならぬ私自身の裡にもあります。しかしすべては、時間と作品が証明することでしょう。幸いなことに、旅は独りで続けるものではありません。もっと別のものに成るための方途を、勇敢な連れ合いたちと、ともに探してゆこうと思います。
それでは、長いような短いような間でしたが、ご愛読ありがとうございました。最後は私ごときの言葉ではなく、二〇世紀最大の詩人と呼びうる一人である彼の言葉を引いて、結びに代えたいと思います。
「そしてそれから またも立ち去ること 手から手をふり切って
癒えた傷口を新たに引き裂くように
そして立ち去ること どこへ? 不確かなところへ
あらゆる行為の背後にあって 庭か壁なんぞのように
無関心に立っている書き割りにも似た
無縁な暖かい国の中へ 遙かに遠く
立ち去ること なぜに? それは衝動から その性から
焦燥から 漠とした期待から
無分別から 無知から
これら一切をわが身に引き受け
なぜとも知らずに ただ独り静かに死んでゆくため
捉えたものを たぶん空しく落ちるにまかせるだろう
これが 一つの新たな人生の門出なのだろうか」
夜。俺は独り目覚めている。
という『悟浄歎異』ラストシーンの書き出しは、何度読んでも天才的だと思う。できるならこういう感じで目覚めていたいものだと思わさる。そうだ、この短編も不二良の薦めで読んだのだった。中島敦には未だに適切な賛辞が与えられていない、日本語の鍛錬には漢文体の習熟が必要条件であることを彼ほどに理解していた小説家はいなかった、って言ってたっけ。こんな言い方ではなかったっけ。
けっきょく中島敦は、「わが西遊記」を書き上げることなく逝った。完成していたとしたら、どんな本になってたろうな。『ファウスト』とも『ツァラトゥストラ』とも別のものになっていたはずだ。昇天はもちろんのこと、没落さえも志向しない、非体系的な、ひたすらに平々凡々な。
また夜だ。煙草一箱と1Rバルコニー、ふたつの長方形が区画する自由。さらに麦茶とBluetoothスピーカーでもあれば、これ以上の憩いはない。なんという単純な救い。もう夏も終わろうというのに、今年もこうして取り残されている。置き去りにされたあの旅路での、グダニスクの路上の肌理の触りは、今も忘れない。忘れられるわけがない。
わたしは追うだろうか。追おうと考えたことさえあるだろうか。まさか。追いつけるわけがない。あんな実在さえ疑わしい、悍ましい喧しい姦しい、傍迷惑で喧嘩腰な磁気嵐のような女には。
追わないよ。わたしの旅は、そのためじゃない。わたしが新たに始めるのは、辿り着くためなんかじゃない。追う者は追われる者に勝る、追われる者は追う者を待たぬ。なら、どこにいたって同じか。最初から動かない方がマシか。違うね。それは違う。煙はそんなこと考えない。ただ吐き出されては消えていく。どうせ消えるから、って話でさえない。だって煙は燻りつづけるから。煙がこの地上から消え去るには、それはつまり酸素がなくならなきゃいけなくて、かなり難儀な話だ。ってことは、当分は続くだろう。煙は燻りつづける。続き続ける。
不二良。あなたはわたしを創った人だ。話し言葉も、書き言葉も、読んできた本も、酒や煙草の趣味でさえも、わたしの中には隠しようもないほどにあなたの創がある。無いとしたら音楽の趣味くらいか。そっか、だから私は音楽を創めたのかな。あなたの持っていないものを、せめて返すために。
じゃあ創るよ。不二良。あなたが思いもしないものを、こっから返してやる。あなたが何を企んでいようと、まさか測や漁火ちゃんの存在までもが、計画されていたわけがないのだから。文体は、個人で担えるものじゃないから。わたしたちはもしかしたら、お互いを隔てあう卓の下で、こっそりと手を握り合っているのかもしれない。
この夜だけは。
この夜だけは。
この夜だけは。
俺は譲れやしねえ、この夜だけは。
あなたが絶対に聴いたことのない曲だなこれは。そういうものを持っている、そういうものばかり持っている。渡せたらいいなと希うものばかり、果たせなかったなと口惜しむものばかりだ。それでもまだ、また、わたしはあなたに捧げるものを創るつもりだ。いつやるのかって問われたら、すでに創まってるって答えてやる。あなたに置き去りにされたその日から、MC93になるまでの道行が、いつのまにか創まっていたように。また夜だ。まだ夜だ。
ただこれだけは。
この夜だけは。
譲れないさ、ここが在りさえすれば。
俺たち唯一の身の置き処。
この夜だけは。
この夜だけは。
02 聖なる海と感化院
また死のうとしたら殺すから。と、こちらの謂を理解するだけの饒りはまだあるらしく、眼下では死にかけの昆虫の触覚めいた睫毛が蠢いていた。蠢、というのもなかなか物凄い字である。春のあしもとに虫が二匹、いかにもおあつらえ向きではないか。お前は取り残された。秋に立って、冬に取り残されて、そしてまた明くる雪解けの季節に寿がれることもままならない。春の踵に躪られた虫がここに二匹。
お前は失敗した。その失敗のしかたですら拙かった。いくらなんでも、もっと上手い失敗のしかたもあったろうに、こうして自分の死さえ為終えなかった。だから? だから何だ。地に伏したからといって殊更に穢れたも草臥れたもあるものか。倒れろ。倒れろ。そのまま好きなだけ臥せってたらいい。何も終えられなかった、何も始められなかった。だから? だから何だよ。何もしないほうがましだったとでも言うつもりか。いまさら何を悟り澄ましてる。したかったんだろ。してしまったんだろ。ならその結果を総身に喰らって、臓腑を灼かれて悶えたらいい。負けた。失敗した。それが何だ。敗残者なら敗残者なりの意地を見せてみろ。そしてまたお前が云うのを聞かせてみろ。呻くのでもいい、喘ぐのでもいい、もちろん唄えたら一番いい。兎にも角にもけりをつけてみろ。青春には終わりがある。今、それは来た。もう二度とは無い、ならば。唄え、それを唄うんだよ。禿鷹にも見棄てられた空の下で、埋葬されるにはまだ早すぎるお前が、二〇代そこそこに迎えることになった昧爽を明かすため、止むに止まれなかった歯噛みさえもがいつのまにか歌に変わる、その瞬間を迎えるまで。待ったらいい、ずっと歯を鳴らして待ったらいい。また終えるために、また始めるために。詩にも歌にも、恋にも愛にも、ひとつの終わりがなくてはならないなら。それが絶対に必要なら。
別れは急に来る。来た。幸せは歩いて来ない、不幸せも走って来ない。でも別れは急に来る、今日のように。
國分先輩。と、呼びかけても、その背中は向き直らなかった。あれは手指消毒用アルコールだろうか、そのノズルを机上に向けながら、黙々とペーパータオルで表面を拭っている。あの、先輩。おはよう。おはようございます、あの、本当なんですか、の問い自体がもはや空惚けて響いた。デスクのドキュメントケースもすべて処分し鞄ひとつに荷物をまとめた人の背中に、いまさら「本当に辞めるんですか」もあるものか。それでも。本当なんですか、あの社内報に書かれてたこと。見ればわかるでしょう。やはりこうして去なされる。あの、わたし、前にも一度だけ言うチャンスがありましたけど……國分先輩にあこがれてこの社に入ったんです。先輩みたいな作詞家になりたくて……國分測、みたいな? と、しまった、もうこの人は。じゃあ、先にお悔やみ申し上げておくね。それは私が今から殺しにいく人の名前。
あの、先輩。消毒用アルコールを棚に戻しながら小さく伸びをするその背中に投げかける。わかってます、わたしみたいなのが、國分先輩と自分を同列に並べること自体、不遜だってことくらい。でもわたし、半年間もあったのに、先輩からまだ何も学び取れてません。言いながら、なんて手前勝手な物言いだと思う。それでも。あの、せめて最後に教えていただけませんか。一体どうしたら、先輩のような言葉の遣い手になれますか。
ふりむい、てくれ、た。呼吸が止まりそうだ。もう一〇月だっていうのに脇腹に汗が滲む。先輩、その烏貝のような深い瞳の色。ってああなんて凡庸な比喩なんだ、とか思ってるうちに汗の筋が垂れていく。対して、先輩はなんて涼しい顔。
──あなた自身が、と、唇が開かれた瞬間のノイズだけで身が凍りそうになる。は、はいっ、と甲高い声を漏らすわたしを前にしても、先輩は訥々と続けた。「あなた自身が書こうとしている言葉そのものに打ち砕かれることが必要です」って、ヴァージニア・ウルフが言ってた。私もそれが一番正しいと思う。言い終わると、また背を向けて歩き出してしまう。あの、あの、先輩っ、もうひとつだけお願いします。わたしも、わたしもなんです。先輩があのコラムでやっつけていたような──そのまんまの人間なんです。もう、わからないんです。一体どう書けばいいのか、何を書けば──まるきり子供めいた泣き言を並べてしまっているわたし自身を発見し、遅れて、目の前に翳されている先輩の掌に気づいた。制されている、読まれている、見透かされている。すう、の一呼吸を聴きながら、わたしは不思議に自分の体温が引き始めるのを感じていた。「最初の一行目は詩神から与えられる。あとは努力である」って、ポール・ヴァレリーが言ってた。私もそれ以外に無いと思う。
あ。行ってしまう、先輩、まだ訊きたかったことが──て。うわ。うわあ。来ちゃった。なんで来るのおおお。いつもオフィス到着は一一時前なのにいいい。やあ。この人にだけは、この人とその取り巻きにだけは会わさずに済ませたかった、って、わたしが気を揉むこと自体出過ぎた話。それはわかってる。でも井出さん、空気読んでくださいよお。おはようございます。ずいぶんすっきりしてるね。はい、私の個人情報がらみの書類はすべて処分しましたので、どなたかお手隙の方、あれだけシュレッダーにかけておいていただければ、とオフィスの一隅を指差す。その方向には細々しい紙の山。経費で落ちなかった領収書だあ。あて、つけ、だあ。
本当に辞めるんだね。と、まるで合成音声のように無機質な声が響く。寂しくなるよ。そうあってほしいものです。淡々とした会話を背に他の社員たちも黙々とデスクに着き始めるが、無関心を装っているだけなのがバレバレだ。ひとつだけいいかな。君の一〇歳上の者として、一応忠告しておきたい。なんで年齢だけでそう居丈高になれるかなあ。はい、是非伺いたく。今までにも見てきたよ、会社を離れてフリーランスとして活動し始めた作家を。でもね、やっぱり、クリエイターがひとところに集って高め合える環境は得難いものだ。言わば共有資産だよ。そんな環境を、君は本当に棄てる気かい。もちろんです。うわあ、ばっさり。作詞家は、会社に所属しなければ名乗れないような肩書きではありませんから。実質だけがものを言う身上です、全世界のラッパーたちもまたそうであるように。そうか。でもね、これだけは言っておきたい。「ひとつだけ」じゃないじゃん、もうううこれ以上何言う気。一般論として、あくまで一般論としてだが、職業作詞家のフリーランスとしての独立は、決して幸福な結果を齎さない。今までと同様には業界とも交れなくなるし、むしろ不自由が多くなる。せっかく二年も務めた会社だろう、もう少し我慢すれば幸福な将来が待ってるかもしれないんだぞ。だっていうのに、どうしてここを離れるんだ。「俺たちの朱に交わっておとなしくしていろ」ってはっきり言えばいいのに。先輩どう返すんだろう、もうわたしが直接手を引いて連れ出しちゃおうか『卒業』みたいに、とかばかなことを考えているうちに、先輩の口角がつり上がっている。右手に抱かれていた鞄が、静かに足下に降ろされる。空いた両の腕が、胸の前で悠然と組まれる。
考えが変わったんです。
こんな笑い方をする人だったんだな。両頬を綻ばせ、片眉を吊り上げ、鷹揚とした挙措でオフィス全体を見回した、のち、目の前の男を真一文字に見据えて続けた。
二年は、長すぎます。その間、ただ口を糊するためにお仕着せの詞を書き続けてただなんて、よく気が狂わなかったなと思います。あんなことを続けるくらいなら、私は心を病んだ人たちと一緒にクリスマスカードを折ることを選びます。はは、君もスミス好きだったね。入社時は気が合うと思ったんだけどな。うわあキモい。ナチュラルにキモい。さすが『500日のサマー』がオールタイムベスト映画だとか得々と語ってた人だ。でも、君はこれからも作詞を続けるんだろう、一生。であれば、この決断は君にとって消しようのない傷になるだろう。なんで。もうそんなネームバリューないよこの会社。それでも、本当にいいんだな。これからのキャリアも考えた上での決断なんだろうな。
すう、とまた一呼吸。置いたのち、先輩は両瞼を閉じて、囁くように言った。
そうですね。一生は、長すぎます。
空調がうるさく聞こえるほどの沈黙。が、決然とした口吻によって破られる。
私の人生は長く恐ろしいものになるでしょう。それでも、あなたがたの人生ほど恐ろしくはないでしょう。両瞼が見開かれる、いつのまにか、この場に居合わせた全員の視線が、オフィスの真ん中で倨傲として佇む一人の女性の姿に注がれている。私は決して自由にはならないでしょう。でも、絶えずそうなりつつあると感じるでしょう。右手で鎖骨を叩くようにして、指揮者のように細指を振りかざす。私の人生、それをどうやって擦り減らすか言いましょう。両掌の甲を、まるで高笑いせんばかりに掲げながら言う。鉄鎖をこすり合わせるんです。朝から夜まで、夜から朝まで。この無益な小さな音、これが私の人生になる。
言い終わる、と、目の前の男性に背を向け、足下の鞄を拾い上げる。まるでタップダンスのように軽快な響きを伴いながら、出口扉まで歩いてゆく。と、小首だけこちらへ傾けながら言った。
私の幸福、などは知りません。幸福のことは、あなたがたに任せます。
ばたん、という無機質な音とともに、縁は切れた。うしなわれてしまった、わたしと先輩の関係は。もう戻らない、のに、不思議だな。なんでこんなに涼しいんだろう。この涼しさは、きっと一〇月のせいだけじゃない。
取り巻きたちでさえ、井出さんに何を言ったらいいのかわからないんだろう。いたたまれないとはこのことだ。もう、いいよね。空気も読まず言っちゃおう。
今のやつ、歌詞に使ったら、盗作になっちゃいますかね?
おざまーす。おーう、悪いねー散らかってるけど。いや全然じゃないすかー、ていうか、うわー、モノが無い! あはは、褒められてんのかなそれ。いや良いことじゃないすかー、あたしの部屋なんか段ボールとか梱包材で溢れかえってるすもん。機材の? そうす。1LDKだよね、部屋の改造どうなった? あれあたしの部屋じゃなくて、知り合いの物件みんなで改造してスタジオにしようて話なんす。そういうこと。なんかわたしより良い暮らししてる感プンプンだなー。あはは。あねえさん、これお土産っす。おーありがとう、なに? ひよ子っす。え。え、嫌いでした? いや好きだけど。あ、あ、ねえさん福岡住みのひとじゃないっすかー! あははそうだよ。しくったー! とりあえず福岡空港でお土産買って東京帰ろうて考えてたから、一緒にしちゃったすもん。いやいいよ、ひよ子好きだし。でも福岡住んでて県外の人からひよ子贈られるって、すげえ斬新だな。あははー。ありがとう、冷蔵庫入れとこ。あと途中で差し入れ持った奴がひとり来るから。國分さんすか? いや、別のがもう一人。来たら紹介するよ。
九州旅行どうだった? とりあえず全部の県まわれたんでよかったすよー、次は別府の温泉制覇したいす。あれでも結構あるよー。やっぱ九州のひとって県外いくすか? いや、仕事ではそりゃ行くけどねー、旅行では大分と長崎くらい。一口に九州って言っても北と南では別世界だよ。やっぱそうすか。うん、気候も農作物も訛りもね。でも皆そんな頓着しないよ。ていうか、「九州」って単に「中国全土」って意味だもんね。そうなんすか! そうだよー中国語由来で。あ、これ鉄板ネタなんだけどさ、じゃあ中国地方は九州地方なのかっていうね。ぶははは。九州地方は中国地方なのかっていうね、じゃあただの薩長閥じゃねえかそれ。あははは、うけるー。やばいすねそれ。でもこれあんま笑えないんだよ、だって安倍晋三の爺ちゃんって岸信介じゃん。で麻生太郎の三代前って大久保利通じゃん。あそうすか! そう、どっちも薩長閥の流れなんだよ。維新から一四〇年経っても未だにこれなのかよって感じだけど、さらに言えばさ、自民党のトップ二人がどっちも九州=中国出身なわけでしょ。ってことは、日本はいま「中国人」に支配されてる。ぶっははははは! ネトウヨくんたちが思ってるのとは全く別の意味でね、はっはっはー。すげえキてるじゃないすかーそのネタ。ああ漁火ちゃんには通じてよかった、これ前に飲み会でやったらスベっちゃったんだよなー。あラインきたっす、國分さんから。お、交換したんだ。あと一五分くらいで着くらしっす。おし、とりあえずMacBook起こしとくかー。冷蔵庫にお茶とかコーラとかあるから適当に飲んで。あざす。おお、赤いプラスチックカップじゃないすかー。ぽいでしょー。ぽいすー、ヒップホップクルーのスタジオて感じするー。測がこの前来たとき食器くらい用意しとけって言われてさー。ねえさんずっと一人暮らしっすか? ん、まあね、長いね。そうすか、國分さんも? あいつはね、まあ、ちょっと複雑つか。うーん、これどこまで話していいのかな。
母が泣いているからといって、私が泣かせたとは限らない。のだが、居ない父の投影として私が愛されていたというのはありそうな話だった。佐世保基地駐留のアイルランド系アメリカ人と、大正創業の蕎麦屋の一人娘との間に生まれた子供、それが私らしかった。らしかったというのは、その由緒を伝えてくれる筋がどれも不確かだったからなのだが。そもそも父と母が尋常の情誼で結ばれていたのかすら怪しい。栗色の髪と眼をした常連客と仲良くなった世間知らずの娘が、いじらしい情交の結果として子を孕み、そこでいかにもカトリックらしい婚前交渉パニックを発した男のほうが先に逃げてしまった、そのアイルランド系アメリカ人の「マクアルーン」という姓の音を取って名付けられたのが測だという。種だけ付けて逐電した男の、それも名ではなく姓を産まれてくる娘に付けるとは如何様な精神状態の成せる業なのか想像を絶するが、そう伝えられているのだから為様がない。
産後すぐに母の親戚を頼って北九州に移り、門司区にて人並みの幼少期を経たのだが、和御魂か荒御魂かで言うと明らかに後者であった。そもそも学校というものが気に入らなくて、文字と数字の読み方を覚えるとあとは余技だった。小集団のなかで結束したり媚びたり目配せしたりが煩くてしょうがなく、むしろスポーツ推薦で成り上がりたがる類の奴輩を率先して打て喰らすのが好きだった。所謂いじめっ子は粗雑な陰湿さでふんぞりかえっているのが気に喰わないので殴って泣かした。所謂いじめられっ子も小癪な陰鬱さに居直っているのが気に喰わないので殴って泣かした。そんな素行を取り沙汰す教師も鬱陶しいので殴っていたらいつのまにか女子少年院送りとなり、数ヶ月の矯正教育を受ける次第となった。
知恵をつけるに越したことはないと思った。受け容れられないものがあるとして、それがどのような機構でどのように動いているかを知ることができれば、正面衝突を避けることができるはずだから。最も愚かなのは相手がどのように痴れているかを知ろうともせず自分の独断で断罪したがるような人間だ。そんなんで体力なんかつくものか。体力不足の賢者気取りが一番性質が悪い。生きるための知恵は学校の外でも学べるのだ、ということを私はマルコムXの自伝から学んだ。少年院の図書室の片隅に打ち棄てられていた一冊、そこに書きつけられていた熾烈な知性とユーモアに裏打ちされた言葉の数々に、私は魅了された。「あなたはとても知性的な人ですね、どの大学で勉強されたのですか」「監獄の図書室だ」というあのセリフを一度でいいから言ってみたいと思い、少年院ではむしろ模範的な在院者となっていた。
國分さん。あなたすごく賢いようだし指もきれいなのだから、それはもう別のことに使うべきだよ。という指導教員の言葉が忘れられない。単に賢さと指のきれいさとの関連がわからなかったからなのだが、とりあえず勧められるままにピアノを弾くことにした。当初は練習用シンセサイザーと実演用ピアノとの鍵盤の重みの違いに難儀したが、一ヶ月も練習すればラヴェルくらいは弾きこなせるようになっていた。興味本意でパッヘルベルの譜面をさらってみるとその和声の緻密さに感嘆し、同時に反発を覚えもした。なにか絶えず同じところに戻ろうとする姑息なエンジンのように思えたからだ。
仮退院のために反省の色を示す材料が必要なので、何かまとまった作文をせよという。とりあえず院の図書室で参照できる限りの資料を用い、「音楽の実践と訓育」に関する小論文を書いた。たしかバッハのミサ曲とドイツ・コラールに関する試論だったように思う。院長は「なぜこんなしっかりした文章を書ける子がここに来たのかわからない」と眼を丸くしていたが、それは話が逆で、音楽が私の暴力衝動を吸い上げてくれたのだ。小論文を読んだ学校の担任は、内申書はズタズタでも試験と作文で取り返せるから高校進学を考えろと言ってきた。そもそも義務教育で充分な身からすれば不服だったが、母も高校くらい出ておけと言うので従った。
人を殴るより鍵盤を叩く方がおもしろいと知った私は問題集よりも定番曲集を履修することに専念していたし、誰かがあなたの右の頬を打つなら左の頬をも向けなさいという奇妙な道徳に興味があった私は教科書よりも聖書ばかり読んでいた。父が置いていったというシャロナー改訂版と母が読むために買ったという新共同訳を読み比べていたおかげで、英語は自ずと身についた。音楽理論を学びたければ音階だけ覚えてあとは楽曲を分析すればいい。外国語を学びたければ初等文法だけ覚えてあとは外国語訳の聖書を読めばいい。学校で習う必要などない。語学留学とかいって、わざわざ大金払って外国語を学ぶためだけに留学する輩がいるが、馬鹿じゃなかろうかと思う。基礎の基礎さえ入ってない輩が他所に紛れ込んで一体何を学ぶつもりだ。肝心のことは肝心のものに当たれば身につく。あとは使うだけだ。
高校に進んで一番の収穫は、もちろん龍九三の存在だったろう。隔靴掻痒の感しかない授業は退屈きわまったが、あの場所で彼女と出会えたことは僥倖だったとしか言いようがない。へえ、そういう由来で測なんだ。ええ。気に入ってる? 特には。でも親のネーミングセンスに不満なんか漏らしたところで不毛なだけ。けっこういいと思うけどなー、つかわたしの九三も相当だよ。なんかうちのかーちゃんさ、思った以上にお産が延びたらしくて、取り上げられた時にはもう西暦一九九三年になってて、じゃあ名前は九三だあってそりゃないよ。もっと親らしい情緒とかねえのかよおって何度思ったか。わたし那須与一の気持ちがわかるよ。今、この地上で那須与一の気持ちがわかる女なんて、そう多くないはずだよ。と、あの日の話しぶりは未だに思い出せる。初めて私が他人の話で噴き出した瞬間だったから。え、何、そんな面白かった。だってねー、一一人目の子供だから与一だあってそりゃないよねえ製造番号じゃん。ふふっ、確かに。話が面白かったから。それだけで相手を特別に思っちゃいけないなんて理由があるだろうか。あー笑うとかわいいねえ、そっちのがいいよ。と、ぬけぬけと言ってのける同い年の子がいたとして、好きにならずにいるのは難しいのではなかろうか。なんかクラスのやつらみんな一歩置いてるもん國分さんには。知ってる。少年院いたんでしょ、女子の少年院ってどんなとこだった? 女囚モノみたいな? その女囚モノを知らないからなんとも言えないけど、でも、馬鹿な人間はナメられる環境って意味では中学と同じ。どんな殺伐とした中学だったんだよ、もっとみんなゆるいっしょー。日本人の両親ふたりに囲まれて郊外の一軒家で育った彼女とは金銭感覚も世界観も合わなかったが、むしろそれが心地よかった。じゃあわたしもナメられないようにしないとな國分さんに。する必要ない、あなたは馬鹿じゃないって既にわかるから。あと、測でいい。
彼女がヒップホップのCDを一〇枚貸してくれるたびに、私はマルボロ一箱を進呈した。私による和声理論初等講義の授業料として、彼女はブッシュミルズ一瓶を献上した。おそらく、私たちは互いが辛うじて持っていたものを分け与えていたのだろう。私はヤンキーのシュプレヒコールでしかないと見縊っていた音楽に思いのほか晦渋な非和声構造が潜んでいたことに眼を瞠ったし、彼女も実践的な学理によって音楽への興味をさらに深めたようだった。
で、そのモードってのはダイアトニックとどう違うん。ドレミファをどの音から弾き始めたか、ってだけでしょ。音列的にはそう。でもモードはトニックに解決することを問題にしてないって言ったでしょう。ドミナントの不調和段階からトニックの制動状態に帰結する、ってエンジンがそもそも無いの。ずーっと不調和でいいってことか。精確には、調和・不調和という二分法自体を相手にしてない。だから同じ一つのモードでもいいってわけ。えー、でもそれつまんなくねえ? そんなこと無い……というか、あなたヒップホップ好きでしょう。うん。ヒップホップってモードだよ、と言うよりも、ヒップホップの骨子の一つであるファンクはまんまモードの音楽なの。JBみたいなやつ? そう。和声的解決を必要としない、永遠に踊り続けられる音楽。そのモード性をループミュージックの原理に則して発達させたのがヒップホップ……だとは言える。後付けだけどね。一発モノってそういうことか。でもさあ、『Sex Machine』ってあれ転調してない? 転調じゃなくてモードチェンジ。どう違うん。ええと、ファンクはメロが薄くてわかりづらいから……たとえば、この曲。
おお、日本のバンドも聴くんだ。いいよねこのアルバム。うん、本当に作曲が優れてる。この曲ね、イントロからBメロ前半までならF#mキーでしょう。ちょっと待って音取らせて……ん、そうだね。ただBメロ後半のサビ直前で、F#mつまりエオリアンからドリアンにモードが変わる。どこ? 「なにを・しんじ・あおうか」の所よく聴いて。この「しんじ・あ」の「じ」と「あ」の音がF#の長六度。エオリアンの短六度を半音上げるとこのドリアンモードになる。それで……あ、サビはずっとこれか。え、これ単にC#mキーに転調したんじゃないの? 音列は同じだからそう考えてもいい、けど、私は明らかにこの曲はモードの理論で作られてると思う。なんで。イントロとAメロまでのコンピングが明らかにF#センターなのと、サビでこの……ピアノの音が入るでしょう。「テーレーン」てやつ? そう。これは長六度と短七度の音で、ドリアンをドリアンたらしめる音。わざわざこんなフレーズを入れてまで強調したかったってことは、F#センターのモーダルとして解釈しうるってこと。ああ、そこの違いか……しかしまあ良い曲だなあこれ、海行きたくなるね。ふふっ、関門海峡? 聖なる海とはとても言い難いけど。いいじゃん行こうよカーステで音楽かけながら。来年わたし免許取るからさ、測くんは助手席でブッシュミルズでもラッパ飲みしていたまえ。捕まるでしょう。えっ助手席でも飲酒運転なんの? 未成年が堂々と酒飲んでたら、って意味。そっちか。あっそうだこのネタ言ってなかったな、知ってる? 飲酒運転で殺された人はいっぱいいるけど喫煙運転では……
と、飲んだり吸ったり読んだり唄ったりしているうちに高校生活が終わった。嗜癖も歓楽も性愛も人並みに経験したが、それらが私にとって人並み以上の価値を持つようには思えなかった。ただキリスト教文献に関する興味はひとときも途切れることなく、アクィナスの英語抄訳に挑戦しながらこれをラテン語原文で読んでみたいものだと歯噛みする程度にはなっていた。高校卒業後の進路としては、東京大学宗教史学研究室に入って鶴岡賀雄氏のもとで専攻を得るのが理想だったが、その鶴岡氏の一番弟子の博士論文を書籍化したものを読む機会があり、あまりの論考の緻密さと文体の強烈さに格の違いを思い知らされ、もはや学問で長ずることは諦めた。適当に決めた大学で独文専攻となり、ひたすら読みと書きに専念し、卒論の主題をリルケに求めて四年間を終えた。この時点でマルコムXの例のセリフを言う資格は失くしてしまったが、とくに後悔も無い。少年院で腐っていることも大学院で脂下がっていることも両方ままならなかった、どっ ちつかずのこの身だ。ただ、ねえねえリンボーダンスのリンボーってあれ『神曲』とは関係ないんだってねあれ立ってるのでも寝てるのでもない中途半端な姿勢だから辺獄ダンスっていうのかと思ってたけど関係ないんだわたし西インド諸島の語圏にまで影響及ぼすなんてダンテぱねえなと思ってたんだけどやっぱ何でも西欧中心で考えるのよくないね、とだしぬけに一方的な電話を寄越してくる龍九三との縁だけは切れることがなかった。高校卒業後にオフィス用品通信販売会社に職を得、その納品業務中に出入りした学習塾の講師の一人と恋仲になり、同棲はじめたから会いに来なよ3LDKよ3LDK大丈夫デカい音で音楽鳴らしても大丈夫な物件よ鍋パしよ鍋パと言うので、まさか福岡市に魂を売るとはねこれからはアンクルトムと呼ばせてもらう測だって生粋の北九民じゃないじゃん生まれ佐世保でしょえっ佐世保ですかもしかして基地近くですか実は第一印象ハーフっぽいなと思ってたんですけどあー久蔵じらい踏んだわーえっどういう別に地雷ってことないよただ「ハーフ」なんて言葉を無批判に使えてしまう神経は堪え難いかなご存知の通りミトコンドリアDNA解析の知見では日本人ほど多種多様な民族ってないんだよ東南アジアはもちろんコーカジアンもアフリカもそれどころか未知の人種さえあるんだってこの島以外では滅びたのかもねでたー測マジお前より頭いいかんねほんとすいません不快にさせてしま不快じゃないわかってほしいだけそもそも純血の人間なんていないんだってことを、と他愛もない会話で夜を明かしもした。測さんのご職業訊いてもいいですか。文筆。といってもやくざな仕事。でっちあげの風俗体験レポとか納品するあれでしょ、よく続くねえ。文体模倣ごときで収入が得られるんだから楽なもの。独文出たんでしょー翻訳とかやればいいじゃん。翻訳は一人の著者……いやそれどころか一冊の本のために命を捨てる覚悟がある学者だけの仕事。私みたいな半端者が手を出していいものじゃない。まーねえでも測もっとそーぞーてきな仕事やったらいいじゃんね文章上手いんだしさあ、と言われても、作詞家の仕事については明かさなかった。後ろめたかったのではない。照れくさかったのかもしれない。いくらボーカル譜の音節数に見合う言葉を当てるだけの仕事だとしても、いわゆる創造的な仕事には違いないのだろうから。しかし仕事を受け続けていると、決して恵まれているとは言えない環境で切歯扼腕しながらそれでも音楽を生み続ける意志を離さない人々も決して少なくないことを知り、いささか蕩揺した。索漠とさえした。あの人々は何に突き動かされているのだろう。学校を出たから、コネがあるからでもない、金になるからではさらにない。あの人々と私を隔てるものは何だろうか。作れるはずもないものを作ろうとしている、来るはずもないものを来らしめようとしている。では、私は。詩学を専攻したなら詞くらい書けるのかもと漠然と稼業を増やしただけの私は。書けるものしか書かないのなら、それは何も書いていないのと同じ、か。
などと漫然と過ごしているうちに一年が経ち、大学の同期との縁も薄まりゆく頃、例によって九三から電話があった。会って話そうよ、すげえ面白いやつがいるんだよ。たしか中洲川端のアイリッシュパブで待ち合わせたのだったか、ひとりの女性を伴って来た九三の表情は、まるで読みたての書物を猛烈に薦めるときのそれにも似ていた。あるいは、思春期の少年が強々しいエアガンを手にしたときのそれだったのかもしれない。
百済不二良。名前からして実在すら疑わしいその女性はしかし、決してエキセントリックな印象は抱かせなかった。むしろ話し上手より聞き上手の口吻だったが、今になってみるとあれは他人の口を滑らせて所望のものを引き出そうとする諜報術の類だったのかもしれない。
イランの出身で、居住地区での政治的迫害を逃れて日本に移民した、その家系の裔だという。イランから九州ですか。ああ、九大は西アジアからの留学生も多いしマスジドもありますもんね、と鎌をかけるといやその価値基準で選んだんじゃない、との応え。パブでの待ち合わせに了承したからにはおそらくムスリムではないのだろうと思ってはいたが、ではなぜヒジャブを着用しているのか説明がつき難い、しかし訊くのも無礼だと躊躇していると、ああ、これ? 美しいから。と一言で応えられてしまった。見透かされているのか、ではこちらの問いを躊躇することもないなと思い直截に聞いた。福岡での暮らしはどうですか? 思ったより暑くない。高層ビルの鏡面体からの照り返しとコンクリートの蓄熱が少ないから、夏の気温はむしろ東京のほうが高いんですってね。そうですか、比べたことなかったですが。比べると色々なことがわかってきますよ。東京と比べてこの土地がとくに良いなと思うのは、混ざってるってこと。混ざってる? ええ、地理的にも歴史的にも。ああ、たしかに。大陸とも半島とも……長崎ではオランダとも交易がありましたしね。測は佐世保の出身なんだよー。そう、基地のある……ええ、そこの軍人との間に生まれたんです、と口を滑らせたのは、目の前の女性もおそらく西アジアと東アジアの混血であろうとの見立てからだった。「雑種と混血こそが人種の真の名」、とはなかなか良い言葉だと思いませんか。との云いは、いわゆる「純日本人」以外の間で交わされてこそ正当な意味を持ちうるものだったろう。人種は混ざって出来ている。この意見において、百済不二良と私は対立しているとは言い難かった。むしろなぜ他の人々には解らないのだろうかと訝しまれる当然の前提を共有した同志である、とすら言えたかもしれない。
九三とはどこで知り合ったのか、知り合ってどれくらい経つのか、今の職業は何か、などの薄味な会話ののち、私の独文専攻に話が及ぶとすぐさまリルケ談義になり、彼の謂う「天使」はプロテスタントやカトリックのそれでも、もちろんユダヤ的でもない、むしろイスラームに近いと思う。ああ、確か彼も書簡でそのことにふれていましたよ。そうでしょ、あの詩は明らかにスーフィズムの匂いがする、スペイン神秘家でもドイツロマン主義でもなくスーフィズムの。などの二言三言を軸足にして、話題はすぐに一次大戦に移り、エルンスト・ユンガーとワイマール共和制、ブレヒトとベンヤミンの詩的抵抗、オットー・ヴァイニンガーと性嫌悪まではついていけたがランツ率いる新テンプル騎士団の人種主義にまで話が進むと流石にお手上げとなり、むしろこちらが教示を乞うに近くなった。人名、書名、事跡名などの固有名詞がひっきりなしに飛んできたので内容はほとんど覚えていないが、ひとつだけ脳裏に焼き付いて離れない光景がある。あれはたしか、二〇世紀における反セム主義の跋渉を以ってしてもユダヤ的なるものは滅びなかったこと、および二一世紀に継承されたネオリベラリズムの奸策に抵抗しうる拠点がイスラームであること、であるからこそ硬直的な原理主義、いや無原理主義をこそ駆逐しなければならないこと、を冷徹にしかし情熱的といって何を誇張したことにもならない口調で述べたのち、彼女は、百済不二良は、こう言い切ったのだった。
この世界は変えられる。
ねえ、面白いやつっしょー。と晩に電話を寄越してきた九三に、あの時点で忠告しておくべきだったろうか。確かに彼女の人文知は透徹している。その理論構築にもよどみがない。しかし、彼女の語る革命論──そう呼ぶことができるなら──は、あまりにも急進的すぎるというか……と言ったところで、そもそも radical には「根本的」の意味もあるのだから彼女の性質を補強することにしかならなかった。唇寒しとはこのことだ。百済不二良は根本から、徹底的に世界を変えようとしている。しかも、その手段が藝術だという。なんとナイーヴな──いやしかし τεχνη と ars はそもそも人間が生きうるための場所を造る「工夫」の意であって、無関心性を前提とする近代藝術の定義とはそもそも関係がない。ならば人類史の更新はその「工夫」を変革することであり、その手段こそが藝術であると──なるほど、革命的だ。
そして行ってしまった。私が言葉に詰まっているうちに、九三は不二良に連れられて行ってしまった。東欧の新共産主義者のコミューンに当てがあるんだって。不二良なら間違いなくやれる。ぶっ壊せるよ。もう戻らないから。との、決然としたというより微熱に浮かされたとしか言いようのない電話を最後に、九三は行ってしまった。部屋の中から身分証も通信端末もすべて跡形無く消えていた、とは、母里久蔵から直接電話で聞き出した。彼自身も九三の出立を引き止めることができなかった、とは、その土気色の声から窺えた。
何故止められなかったのか、今ならわかる。怖かったからだ。あの女の、異様なまでに冷徹な世界認識と、壁を壁として認識した上でそれを穿つ方途を見出さんとする炯々たる眼力を恐れた。それは私が持ちたくても持てなかったものだから。九三が不二良を選んだのも無理からぬことだった。ゲームを変えること自体がゲームであると心得た者と、既成のゲーム盤にすがって手前の上がりに目を配るばかりの者とでは、どちらが面白いかは一目瞭然だったからだ。そして九三は、いつだって面白いものに飛びつく。私は九三に取り残された。そして、九三も不二良に取り残された。
東欧を渡り歩く旅費全額を、その新共産主義者とやらのカンパのみで賄っていたというのだから、まったく肝の太さに恐れ入る。とは言っても、その旅程すべては不二良ひとりによって計画されていたものだったが。ポーランドのグダニスクに滞在中、何の前触れもなくホテルに置き去りにされたと、ランボー&ヴェルレーヌ的な痴話喧嘩を経たわけでもなく、朝目覚めてみたら不二良だけが彼女の持ち物とともに忽然と消えていたと。そうして英語すらもおぼつかない不用意な同伴者は、当ても無しにグダニスクの街を三日三晩探し歩くことになったという。電話をかけようにも小銭さえ無く、警察に捜索を願おうにもどう伝えたらいいのかすらわからない。彷徨の果てに飢餓に倒れ、警察に保護され身分を照合したところ新共産主義者とやらからの金銭授受が露見し、反社会的組織との癒着の疑いありで強制送還の運びとなった。パスポートすら紛失していたために緊急連絡先が不明で、手帳に書き付けてあった唯一の日本人名の連絡先であった私のもとに電話が来た。なぜ私の名前が、と未だに考えることがある。ことを為終えたら凱旋の連絡でも寄越すつもりだったのか、それとも慣れぬ旅先で祖国への想いを繋ぐための護符代わりだったのか。どちらもありそうにない。もし私も不二良の同志だと認められていたのなら、どうして九三は私を連れて行かなかった。どうして声さえかけなかった。
止むに止まれず身元引受人となった私は、登攀中に梯子を外されたどころか蹴落とされた格好となった顛死者を蘇生させる務めを負わざるを得なかった。北九州の龍家の両親を頼ることは、本人の頑なな拒絶によって取り下げられた。母里久蔵に助けを求めても電話にすら出ない。ので九三の現状を書面に認て送ったが、三行半のように九三の私物をまとめた段ボール箱を私の住所に送ってくる始末だった。なるほど、突然現れた女に自分の交際相手を奪われた九州男の傷心ぶりが如何なるものかは私とて察しがつく。しかし、数ヶ月前まで同棲していた男が行方不明の相方を気遣いすらしないとはどういう了見だ。結果的に住まいすら失った九三は、私の1LDKの片隅に場所を得るほか仕方なかった。
って感じかなあ。思ったよりハードすね。あの……なに? その、不二良さんとねえさんとの間に何があったかは、訊いちゃだめすか。だめっていうか……わかんないんだよね、わたしも。未だに? うん、いきなりいなくなっちゃったからね……たぶん、わたしじゃ不二良の道連れには相応しくなかった、そういうことなんだろうな。
おっ。きたきた。測ー? ういーいま玄関あけます。
また死のうとしたら殺すから。あの言葉は効いたらしい。自殺はいけません皆が悲しむし道徳的にまずいし天国に行けなくなりますなんて、そんな説教が役に立ちはしないことはアイリッシュの血を引く娘なりに弁えていた。だから前もって共犯者になることにした。どうせ自分も死ぬとはいえ、死後に腐れ縁の友人が犯罪者になってしまうことを斟酌すれば躊躇いたくなるものらしい。しかし瓶入りスピリタスを三本一気飲みして急性アルコール中毒で死のうとは、本気だったかどうか怪しいものだ。その気になれば全身にスピリタスを浴びて火をつけることもできたろうに……
あ、また鳴ってるすよ。お、あいつだ。同時に来たか。あーい、ようよう差し入れ持ってきたろうね。ならさっさと上がってこーい。
思ったより綺麗な物件だな。家賃いくらだろう。1Rだって言ってたけどな。しかしまあ会うの何年ぶりだ、またくだらん言い争いにならなければいいが。
しかし、あれほどまで思い詰める前にどうにかできたはずではないか。私のせいでもある、が、私だけでもない……みな手詰まりだった。異国を放浪する途上で同性の伴侶に棄てられた者への気遣いの言葉なんて、一体どう工夫すればいいものか。もし満足な言葉をかけてやれたとしたら、それは彼しか……と、こんな辛気臭い回想はもうよそう。作曲に頭を切り替えなければ、
測? もう鍵あいてるよー。
え? あれ、あの人も同じ部屋か。あ、もしかして、たしか動画で見た。彼女か。
ならない。と思っていたら、隣る男性がいた。見れば、母里久蔵である。
インターホンを押した指先が拳に変わるまでに、一秒もかからなかった。
ドアを開けたら、元カレが音楽仲間に殴り倒されていました。
なぜ教科書調だ。いや教科書調にもなるわ、目の前にその通りの光景が展開されてたんだから。止めなきゃか。ちょっと測だめだよそこまでよ二発目はだめよと諌めたかったが、既に倒れた肉体の胸ぐらを掴みにかかっていた。
どこにいた。言ってみろ、お前はどこにいた。私が九三の身柄を引き取りに行っていた時、お前はどこにいた。私が九三の保険だの税金だのを肩代わりしてた時、お前はどこにいた。私が九三の世帯主になるために役所で七面倒くさい書類を書いてた時、お前はどこにいた。ちょっと測やめなよそんな『The Fragile』の頃のトレント・レズナーみたいなの、九〇年代はもう終わったんだよ。関係ない。このスターファック野郎に思い出させてやる、あの時果たすべき役割を怠けたせいで私たちがどれだけ苦しむことになったか。あの時、一体お前はどこで何をやっていた。
ちょっ、とまっ、こぼっくのぁ、しもんきオッケーオッケー、ちょっとマジで落ち着こう測。まずその手え放そうか。まだ返事を訊いてない。あのね測、一般的に言ってね、人は頭部に打撃を加えられたあと恫喝されながら数年前の自分の行いについて詰問されてまともに答えられるようにはできてないんだよ。久蔵大丈夫? 目え見える? オッケーじゃあ起こすから手、いや肩組んだほうがいいか、起こすよ、いっ、せーの、せ。
頰に一発くらった男性の肩を組んで帰ってくる、という光景に漁火ちゃんは慣れていないらしく、うわあどうしたんすか誰すかと狼狽していた。えーっとね前話したでしょ、元カレ。あねえさんの! ファンク好きの! と不意をつかれた久蔵の頰に化学反応めいて気色が戻り、えっなんで知ってるんだ、と人間らしい文句を吐いた。前ねえさんから聞いたっすー、ファンカデリックのTシャツすよね。そもそもねえさんと知り合ったきっかけがあの会話じゃないすかー。つことは、彼氏さんあたしとねえさんの仲人っす! え!? 仲人!? そうだよーわたしね今このヤングでギフテッドなファンカティアとつきあってるのー、と肩とか組んどく。漁火ちゃんも面白がってピースとかしちゃう。え、本当ですか!? 本当なのでしょうか!? なぜそこで測に訊く。なんだその丁寧語。さすがにこれ以上からかうとアレなので、久蔵を椅子に座らせて冷蔵庫から湿布を取り出す。右頬? はーい動かないで、歯とか折れてないよね。よし。
ぶんなぐられたんすか、来る途中すか。よっぱらいに? いや、測に。え! もーめんどくさいから当人が説明しな。と言っても測はそそくさとプラスチックカップに冷茶を注ぎはじめ、あまつさえミスドの紙箱を卓上に置きはじめる。測。なに。なんで殴ったの。差し入れのチョイスが気に入らなかったから。ぬけぬけと何言ってんだお前は。いちいち言わなきゃわからない? 借りがあるの、そのファック野郎は、私に。久蔵はといえば頰をさすりながら身に憶えのある顔。あなたがすべきだった尻拭いを、よりによって私が。いくら九三の行動が不用意で無軌道だったとは言えね、帰る住所すら無い人間をひとり放置するなんておかしいと思わない? 久蔵はといえば何度か唇を開きかけるが返す言葉が見つからない様子。もう、いいって。わたしが言うしかないよなあ。もう何年前のことだよ。そんなに昔でもない。もういいから。わたしは何とも思ってないから、じゃなきゃ今日呼んでないよ。な久蔵、わたしら電話で仲直りしたもんな。実際は数年越しの蟠りを解くための罵りあいだったけど。差し入れありがと。もらっていい? 右頬から手を放して頷く。ほーい、じゃあ作業開始前にちょいブレイクでーす。皆さん差し入れ持ってきてくれた久蔵さんにありがとう言いましょうー。ありがとっす。測、ちょっとどこ行くの。サンマルクカフェ。あほか駅前まで歩いて行くつもりか。ミスドよりはまし。座れ、いいから。
とりあえず、三人と一人でのブレイクタイムが流れる。いたたまれない空気は好きじゃない、から小石でも投げる。焼肉連れていった? え? 生徒さんを。いや……おいー秋から受験勉強シーズンでしょそれくらいやってあげなよ。お前な一体何人いると思ってんだうちの生徒。え何人? 二学年ふくめて三八人。そんないんの! それだけの人数連れていったらさすがに財布に穴空くわ、なんかしてやりたい気持ちはあるけどな、こうやってドーナツとか買ってってやるくらいだ。ああ、その流れでのこのチョイスか。漁火ちゃんこいつ個人経営の塾やってんだけどねー、もともと九大のファンク研の初代部長。ファンク研とかあるんすか! あるっていうか俺が作ったんですよ、フォーク研がしゃらくさいから。でもまあ俺の卒業後に潰れたらしいですけど。あちゃー惜しいっすねー。あ、あたしギター仕事やってる漁火っていいます、これからねえさんと組むっす。つきあってはいないよね。つきあってはいないっす。バンド、ってことになるのか? んーでもビートに乗せてやるからねえ、三人組ヒップホップクルー、てのが一番適当なんじゃないの。じゃあその、國分、さん、は……フレンチクルーラーを咬みちぎりながら毒蛇のような一瞥をくれる。測。なに。少年院前に戻ってるぞ。知りもしないくせに。知らんけど、ドーナツ喰ったからにはちゃんと話せ。右手をナプキンで擦りながら左手でカップを持ち上げる、ごくりと喉が鳴る、一呼吸おく。話しはじめる。
二年前、入社してね。え、その話か。九三もそろそろひとりで大丈夫かなって時期に、音楽制作会社入ったでしょう。うん。とりあえず福利厚生あればいいなとは思ったけど、やっぱり小集団では創造性より処世術がものを言うんだなって思い知らされた。そっか。だから辞めた。えっ。漁火ちゃんどころか久蔵まで目を剥く。あべこべに、測は悠然と腕さえ組んでいる。
國分測、今月より晴れて無職よ。
The 最も誇らしげに言うべきではない thing I've ever had なのだが、なにか清々しささえ感じる。そっか、まあ、よかったじゃん。よかったのかな。久蔵が心配することじゃねえ。いやでも、えと、東京住みでしたっけ。そう。拠点移すってこと。当分その予定はないけど、このプロジェクトがどうなるかで変わってくる。それまではフリーで作詞の仕事は受け続けるけど。まあ引く手数多でしょうしねー、でもわたし測が作詞やってたってことすら知らなかったんだよ、何年か前まで。そうなんすか。だって言いたがらねーんだもんこいつ。
なに書いてるの。仕事。文筆? まあ。あ、譜面だ。これ聴きながらやるの。もしかして、歌詞? まあね。測こういうのもやってたんだ、すごいじゃん。すごくもない。だっていちから創るわけでしょ。ジャンルによって使う語彙が限られるし、あとはディレクションに沿って言葉を当てるだけ、大したことじゃない。そうなの。もう切り上げるからご飯にしよう。今日は外に食べ行こうよ。だめ、昨日の鍋が残ってるでしょう、あれ雑炊にするから。
野菜鍋の雑炊に発泡酒って、ザ・貧民の晩餐って感じがするよねー。と軽口を叩ける程度には情緒的に安定したらしく、もう自殺未遂を心配する域ではなくなっていた。以前どおりの暮らしを以前どおりに行える状態を回復すること。それが傷心した人間への最も基本的で重要な療法であることは精神科医ならずとも解る。まずは一日に最低二食摂れるようにすること、決まった時間に寝起できるようにすること、さらに重要だと思われたのは今までの嗜癖──飲酒と喫煙──をほどほどに行えるようにすることだった。とかく嗜癖は過剰摂取によって自己破壊衝動へと傾きやすい。一度急性アルコール中毒で自殺を図った者にとっては尚更である。よって、毎日一九〜二〇時の間に必ず一緒に夕食を摂り、飲ませるにしても発泡酒の500ml缶ひとつを上限とした。結果、俗世間との接触と人並みな金銭感覚の回復のために始めさせた中華料理屋のバイトにも遅刻しなくなり、昼間から夕方にかけて幻聴が起きる頻度も低くなっていた。とりあえず、臨床や投薬に頼らない素人療法にしては奏功したと言えるだろう。
しかし、当然ながら自己申告できる類の心的外傷はそもそも心的外傷ではない。本人に知覚されず無意識のうちに行動を呪縛するものが問題なのである。九三の場合は、就寝の際に大きめの抱き枕が欠かせないこと、その割に独りの寝室以外では入眠が困難になること、極め付けには音楽や映像で性交を直接的または暗喩的に示す表現があらわれそうになると過敏なほどの精度でスイッチを切ること、これらの行動から不二良との一件によって極端な性的失調があらわれていることは明白だった。何しろマーヴィン・ゲイのアルバムでさえ嫌だそれ消して聴かせないでと癇癪を起こすほどなのだから。
わかりきっていた、九三と不二良が性愛関係にあることは。「身体の傷は何ヶ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四〇年前の傷がなお血を流す」とはポール・ヴァレリーの言葉だが、九三にもその通りのことが起こったのだろう。性愛がらみの傷はその人間の言葉に影を落とし続ける。実際、ヴァレリーの詩はかなりのところエロス詩として読むことが可能だ。そもそもPとVのイニシャルがそれぞれ男性器と女性器を示しており云々は、やりすぎだと思うけども。しかし九三にとっても、不二良との破局に正しく服喪するには、文字通りのセクシュアル・ヒーリングが必要と思われた。
じゃ明日も九時起きね。おやすみー。ええ、私も。あ、今日は夜まで根詰めないの? 珍しいね。ええ。ねえ九三。なに。今日は一緒に寝ようと思うんだけど。一緒の時間に、て意味じゃなくて? 言葉通りの意味で。おーどうしたんすか測さん、寂しいんすか。ええ、寂しい。だから一緒に寝てほしい。
揶揄いの面持ちが徐々に訝りに変わる。そういうの、いいよ。冗談で言ってるんじゃない。がらにもないじゃん、お互いに。実はずっと前からそうしたいと思ってた。
沈黙。
そういう目で見てたんだ。まさか、そんなわけないでしょう。あの塾講師にしても不二良にしても、あなたみたいな跳ねっ返りを恋愛対象にできる人ってどうかしてると思う。両頬が通電めいて引き攣るのが見えた。不二良の名前出すなよ。なに、思い出したくなかった? 忘れる気も無いように見えたけど。言っとくけどね九三、あんな読みかじりの知識ツギハギして息巻いてる革命家気取りなんて、世界中に腐るほどいるよ。あの女は特別なんかじゃない。不二良を悪く言うなよ。じゃあ良く言ってあげる。あんな明石元二郎めいた語学の俊才を逃して残念だったね。もしあの旅が続いていたら、あなたも革命組織の一員になれてたはず。ボリシェヴィキ並みのすばらしい革命のね。いまごろ彼女もヨーロッパのどこかで書記長とか呼ばれてるんじゃないかな。いつだって逃した魚は大きいね、九三。
応えはなかった。ただ水面めいて揺れる両眼だけがそこにあった。言い返していい。いいんだよ、あなたにはその権利がある。義務ですらある。自分が赤手で取り組んだ過去を嘲弄されて、それでいいわけがないでしょう。
寝るよ、もう。ひとりで寝るから。戸を閉めようとする、その手をとる。何なの。九三、敢えて言う。あなたが打ち当たったのは取り立てて悲惨な失恋談でもない、空前絶後の大失敗でもない。ただの、ありふれた青春。振り向いたその頰に朱。羞恥の、それとも憤怒の。どちらでも構いはしない。ありふれた青春の、その終わり。それはそれでいいの、誰にだってあるものなんだから。だからといってね、いつまでもここにいない誰かを思い煩っていてどうするの。お前になにがわかんだよ。わかるけど。頓狂とする、その表情に投げかける。置いてかれた側の気持ちは、痛いほどわかるけど。
沈黙。
夢にさあ、と、薄らな自嘲の笑みを浮かべながら言う。夢に出てきてくれるかな、と思ったんだよ、不二良が。でもなんだかな、全然なんだよな。どころか、わけわかんない感じであの声が聴こえてくるんだ。うん。夢に見る外傷記憶はほぼ治りかけている証拠、日常に闖入してくる視聴の幻覚こそが厄介、と耳学問で知ったことを並べる気にはならなかった。聴こえるのにいないんだよ、いないのに聴こえるんだ。わかるかな、これ。足下に横たえられた抱き枕が無造作に掴み上げられる。こうでもしないとさ、おかしくなっちゃいそうでさ。
沈黙。
愛してたんでしょう。不意打ちだったのか、両瞼が見開かれる。そして愛されたんでしょう、あなたは。睫毛が窮屈に歪む。どうかな……結局誰でも代えがきく役割だったんだと思うよ、不二良にとっては。それでいいと思う。代えがきかない、かけがえのない人なんて、本当はこの世に一人もいないと思うよ。残酷なこと言うね測は。ええ。だから、代わりでいい。あなたが誰かの代わりでも。私が不二良の代わりでも。
えっ、と不審がる顔に一歩近づく。あなたがしたみたいに、してみたらいい。あるいは不二良にされたようにでも。意は察せられたらしく、しかし視線は曖昧に逸れゆく。無理、だよ。そうかな。そんなんしたって意味ないよ、だって測は不二良と違うし、との逃げ口上を断ち切る。どこの誰でもやってる、ありふれたことだよ。ひと呼吸ぶんの沈黙、ののち、こちらを見据える。ありふれた……そう。こういうことは特別な相手としか、不二良としかできないと思ってるでしょう? 残念だけど、これは何も特別じゃない。誰とだってできること、誰でもやってること。誰とだって……九三、はっきり言うけど。あなたは、これから、こういうことを、誰とでも、ふつうにできるようにならなきゃいけないの。あの人は私のすべてだったとか、あの人がいなければ私はとか、そんなのは一番くだらないことだよ。
沈黙。
忘れろって、こと。忘れられはしないと思う。ただ、普通に傷つけばいい。特別な痛みじゃなく、ありふれた痛みとして。はは、スティーヴィー・ワンダーの歌詞にあったな。ありふれた痛み……
沈黙。
測。なに。ごめん、これだけさせて。言うと同時に、左掌でこちらの両眼を覆う。汗ばんだ指の腹が瞼に吸い付く。
接吻というのは小狡い。する側とされる側との区別がないのだから。喧嘩や戦争に似ている。起こってしまった以上はしょうがない。とりあえずの調停が置かれたからといって、そこで終わりというわけでもない。
歯茎を探るように舐るのは、どちらの癖なのだろうか。九三か不二良か。もちろん、どちらでもいいのだけど。しかし上唇を吹きあげるように息を当てるのはくすぐったいから控えめにしてほしい。舌の撫でが一本調子になってきたので、差し込まれた舌先をこちらから吸ってみる。びくと頭部ごと戦慄が走るのがわかる、ので、片腕で腰を抱き寄せてみる。そのまま。そう。瞼に当てられた指先がいつのまにか撓み、その間伐めいた隙間から、ストロボのように反射して覗く。しとどに濡れた両の瞳が。
声らしい声はなく、咽びだけがあった。どこの誰でもやってる、ありふれたこと。が、依然としてこれほどまでに人間の心身を揺さぶるとは、驚くべきことではないか。驚くべきことではない、か。
測。うん。ごめん。ありがとう、でいいと思う。うん……ありがとう。右手の親指で押しつぶすように睫毛をぬぐい、力無い微笑を投げている。でも、やっぱ今日はひとりで寝るよ。そう。もう、こいつも使わない。抱き枕が寝室の外へ蹴り飛ばされる。わはは、こんなもんしょせん棉の塊じゃん。無理して気丈ぶらなくていい、とは、言わない。おやすみ。うん。幻聴ひどくなったら責任とってよ。もちろん。何度でも使ってくれていい。幻聴なくなったら、なくなったで……責任とってよ。もちろん。何度でも使ってくれていい。
何もかも言う必要なんて無い。まあね。そんじゃそろそろ始めますか。うわー初めての作曲合宿だよ緊張するねー。あたし初めてじゃないすよ。そうなん。はい、知り合いがやってる匿名プロジェクトで一度。じゃあ漁火パイセン進行役よろしくお願いします。頼まれたっすー。じゃあとりあえず曲のテーマ決めから始めましょ。よし紙とペン要るか。いや要んない、テキストエディタあるし。つか久蔵いつまでいるの。えっ。差し入れ持ってきてくれるって話ではあったけども、えっと作業にも参加したい感じなの。いやしたいというか、俺、音楽聴くのは好きだけど作ったことはないだろ。ちょっとどういうふうにするのかな、見てみたいな、と思って。なんか、レズセックスの見物したがるノンケ男みたいな言い方だったね今。はい。わたしはレズセックスの見物したがるノンケ男のようなことを言いました。死んでお詫び致します。え、ちょ、嘘じゃんってー。マジにすんなってー。おい測お前のワンパンのせいで脆くなってんだぞ。そこまで負わされるのは心外。
じゃ久蔵とりあえず出たアイデア書きとめといて。紙でいいよな。いいけど、ミスドのナプキンにってちょっとな。あはは、マイルスみたいで良いじゃないすか。じゃまず方向性だけど、前提としてキュウゾウ名義の楽曲とは違った趣にしたいと思う。うん。オーセンティックな1MCヒップホップとは、ってことっすよね。そう、せっかく組んでやるんだからね。だから一発モノのブレイクビーツにヴァースとフックで、って前提は無くていいと思う。サンプリングも無しでね。今回は権利の問題も絡むでしょうし。そう、わたしあんま理論の引き出し無いから、そのへん固めるのは測と漁火ちゃんお願い。もちろんっす。
じゃあ、と測がシンセサイザーで指慣らしのフレーズを弾く。とりあえずキーから決めましょうか。えっ作曲ってそういうふうに始めんの。人によって得意な音域が違うからね、ヒップホップベースならそこまで神経質にならなくていいと思うけど。ビートから決めた方が早いんじゃないか。おっ久蔵先生。いや、なんかのミュージシャンのインタビューで、鍵盤で作曲するときはコードよりもリズムに重きを置いてる……みたいなの読んだ気がする。測、不承不承ながらラグタイムふうのコンピングを弾く。こういうのかな。んー、いやもっとブレイクっぽくていいよ。と指示すると、演奏のテンポと音価が細かくなるが、リトル・リチャードすぎるというか、なんかやっぱ違う気がする。オッケー測、ちょっと停めて。
いざとなると出てこないなー。ビートから決めるのはアリだと思うすよ。いきなり高望み言うようだけど、どーせならこうアンセムーって感じにしたいよね。本当に高望みね。だってバトルつかコンペティションで使う曲だしさー、特別感ほしいじゃん。特別感、すか。お、漁火ちゃんなんかある。いや、さっき言った作曲合宿で話題に出たことなんすけど……「優れたポップソング」と「伝説的なポップソング」とを分ける違いは何か、って話になって、いろんな意見が出たんすけど、最終的には「歌メロと同じかそれ以上に有名なインストゥルメンタルパートが含まれているかどうか」だ、て結論になったっす。ああ、ああ……たしかにそうかも。あれかな、『Can't Take My Eyes off You』とかかな。そうそうそう! あの曲もんのすごいすよ、パーラッッパーラッッパーララッッパッッパだけでもう天才なのに、直後にあのサビが来るんすもん、神が宿ってるとしか言いようないすよ。確かに特別なポップソングってインストゥルメンタルパートも思い出せるなあ。『Gimme! Gimme! Gimme!』なんて典型ね。だよねー、トラックもメロ付けも完璧だな。あれサンプリングしたってマドンナやっぱキレてるよね。最近の曲で当てはまるとしたら……アヴィーチーの『Wake Me Up』。あー、もう歌メロ前座でしかないよねあれ。あそこまでくると潔いよね。あの人惜しかったすねえ、もっと生きるべきでしたよ。と、また涙ぐんでるんじゃないかと反射的に漁火ちゃんのほうを向くが、今回はそうでもないらしい。Pファンクとは思い入れが違うのだろう。
て、おい、いいのか。何が。ヒップホップとは程遠い名前ばっかり出てるけど。程遠くねえよ、つかヒップホップと無縁な音楽ジャンルなんてありませんー定義上。いや、明らかにジャンル違いじゃないか。ヒップホップて言ったらファンクかR&Bの流れだろう。出たーヒップホップ部外者が抱きがちな先入観。ヒップホップは生まれたての頃からテクノとかディスコとか色々混ざってたのー、バンバータのデスミックスから聴きなおせ。
えと、じゃあ……まとめるぞ。『Can't Take My Eyes off You』みたいな、歌メロと同じくらいインストが印象的な曲つくればいいってことか。フランキー・ヴァリねえ……なんか逆差別みたいなこと言っちゃうけど、アメリカのイタリア移民って音楽の神に愛されやすい人種だよね。シナトラ、ディーン・マーティン、トニー・ベネット、シルヴェスター・スタローン……なんでスタローン? ばっかすげえ歌うまいんだよスタローン。あとボン・ジョヴィな。『Livin' On A Prayer』って実はすごい曲だぞ。みんな知ってるわ。いや、ちゃんと具体的にわかってるか? あれまずベースラインがショッキング・ブルーの『Venus』だし──そういえばバナナラマ版と同時期に出てるな──それにパティ・スミスの『Dancing Barefoot』を足したような曲だろ。パティ・スミス関係な……あ、そういえばあいつら『You Give Love A Bad Name』のサビで『Because The Night』まんまパクってたわ。関係あるかも。ていうかデズモンド・チャイルドがそういう趣味なんだよ。デズモンドが唄ってるデモ版の『Livin' On A Prayer』聴いたことあるか? ほとんどローラ・ニーロだぞあれ。マジ? YouTubeにあるから聴いてみろ、ちょっといいか、これ。え、ピアノ弾き語り。マジだー! ローラ・ニーロだ! そーだローラもイタリア系だ。だろ。全部のピースはまったろ。はまった! ええと、何のすか。脱線しすぎでしょう戻りなさい。この脱線、に、意味があるんだろ! つまりこういうことだよ、ピアノ弾き語りでもできるようなシンプルさで、でも編曲はいろんなとこから持ってきて踊れる感じにして、そしてキラーなインストゥルメンタルパートが入ってる曲! あ、あー、今すげえ具体的にイメージが。でしょ、でしょ! 浮かんできたっしょ漁火ちゃん。どうよ測! いや、特には……もー鈍いなあ。考えるより先ず弾いてみなよ、こう、ズッタツターンツカタツカッターンって感じでさ。こう……? そう。この上でこう、ギターが動くわけだよ。高いのっすか低いのっすか? どっちも入れたいかな。こう宇宙っぽいのとベースラインっぽいのと両方。てことは、低音部は白玉で鳴りっぱなしのほうがいいかな。白玉? 全音符または二分音符。細かく刻まないってこと。測が両手で低音部と声部を弾き分ける。おお、それっぽい。ピアノだけで表現するとこうなるけど。これでいいよ、でベースが入るのはさ、三二小節くらい過ぎてからにしよう。ああ、よくあるな、段階を増して厚くなっていくやつ。そうそう重厚っぽさは後でいいから、とにかくド頭はインパクト重視でいこうよ。
こんなに……すぐ、それっぽくなるもんなんだな。いやまだワンループできただけだよ、ヴァースどうすっかな。いま歌詞書いてみます? ていうか、実は……既に書いてるんだよね。おお、詞先っすか。いつもはトラックと同時進行で書くんだけどね、今回はちょっと当たりをつけてみた。んーでも、先にフックがどうなるか見えてたほうがいいかも。ここで例の、ヤバいインストパートっすか! そうよー、あーでも測さーどうすればヤバくなるかなー。いくらなんでも漠然としすぎ……いい? ヴァースまではB♭mのキーで進行してる。フックで近親調に転調すれば意外性は出るかも。もっとひねった転調もできるけど、そこはもう歌詞との兼ね合い次第かな。うーちょっと弾いてみて。何を。メロをさ。コードから先に作ったほうがいいと思うけど。いやそこはさ、今回はわたしに合わせてみて。
シンプルなコンピングの上で、手探りのメロディが弾かれる。なんかなー……これ転調してないやつね? そう……近親調に移るならこんな感じ。うーん。九三、そもそもメロから考えるのは無理があると思う。そっすか? そこはヒップホップの発想でいいんじゃないすかね、ねえさんの好きなGファンクみたいな。あー、べつにGファンクは好きだけど、だいぶやり尽くされた感あるでしょ。そっちに寄せずにどうにかならないかなあ……
モードかもね。モード? 九三にはずいぶん前に教えたでしょう。Gファンクぽく聴こえるとすれば、ベタなマイナーだからなのかも。それとは別に、際立って特徴的で、明るさでも暗さでもない印象を喚起する……そういうメロディは、長調でも短調でもなく、モードで書かれるべき。へんな当為。でも、乗ってみる価値はある。どんな感じになるかな、測。任せるよ。
一呼吸ぶんの黙考ののち、静かにメロディが奏でられる。B♭のドリアン……で弾いてみてるけど。いい感じじゃん。ただオクターヴ上でいいよ。こうかな。おーあれだ、フレーミング・リップスっぽい! フレーミング・リップスじゃだめでしょう。いいんだよせっかく回ってきたんだから。振れ振れサイコロを。シーケンスをMIDIで入力し、メロディをループさせながら、微妙にテンポを調整してみる。こんくらい、こんくらいでさ。そんでこのケツのとこを……そう、シンコペする。そうそうそう。おお、いいじゃないすかー。
ちょっと待って。シーケンサの停止ボタンが押される。どしたん、いい感じだったのに。これもうサビでしょう、フックじゃない。サビとフックて同じ意味だよ。歌謡曲フォーマットすぎるって言ってるの。さっき言ったろ、キラーなインストゥルメンタルパートが入ってる曲だって。それがこれだよ。あ……これボーカルパートじゃないの? べつに唄ってもいいよ。唄ってもらってもいい。『Can't Take My Eyes off You』だってそういうことだろ。好きなように唄いやがれ、だ。きた、曲名決まったすね。ええ……『Sing It As You Like』? 英語じゃなくてもいいだろ、『好きなように唄いやがれ』。ええ……? あはは、ますますマイルスっぽいすー。
その後、フックのメロにベースラインを付け、ボイシングを丁寧に選び、ヴァースともどもにビートを調整した。で……きた? できてない。目指したやつと全然違う。当たり前だろ博打なんだから。これが今日の出目だよ。いい……な。お。いや、初めはどうなるかと思ったけど……いいと思うよ、これ。ヴァースとフックで切れてるのがいい。切れてる? モーダルに聴こえる、って意味でしょうね。いいじゃん、ちゃんと伝わってるよリスナーに。彼は半分身内でしょう。そうだけどさあ。
録ってみましょ。えっ。さっき、リリックある程度できてるって話だったでしょ。四八小節くらいでやってみたらいいすよ。そう、だね。たぶん得意なBPMのはず……でも、うわあ、みんなが見てる前で録るのか。あはは。なんか変な汗、ごめんわたし普段録り直しまくるほうだから、みっともなかったらごめんね。そんなエクスキューズいらない、唄えばいい。と言いながらマイクホルダーを調整する測。うん、やってみる。
で、でえ、フックのメロの入りがこう。おー! きたー! 強、引、でしょう。強引じゃなきゃどうするよ! 1MCだけじゃ絶対に足りないってリリックなんだからさ、『好きなように唄いやがれ』! モードの使い方がまた効いてきたっすねー、暑苦しいのにクールな感じ。あたし正直、リリックのおかげでモード使った意味がやっとわかったっす。でしょー! 久蔵どうよ。次のヴァースどうするんだ。なんだよちょっと、気が早いよ。
できた。としか、言いようがない。
時計を見ると午後五時過ぎ。いつのまにか三時間もやってたのか。何度やっても慣れないな、時が飛んでるこの感じ。同じ曲の同じパートを何度も繰り返し、繰り返し肉付けして、失敗し続けて、いつのまにか失敗が失敗じゃなくなって──作品と呼ばれるものになっていく。
できた。
沈黙。
これさ。
久蔵が言う。
成功しちゃったら、どうする。
爆笑。
なんだよ、なにがおかしいんだよ。そっちこそ何だよ「しちゃったら」って、いけないことなのかよ、こちとら遊びでやってねえよ。そういう意味じゃない、たださ。これってさ……誰かに聴かせなきゃ、いけないものなのかな。
沈黙。
たしかに、ね。一理あるかも。そうだろ。どういうことっすか。いや、これさ……結局、創ってるその時だけが重要なんだよな、って。わかってた、キュウゾウとして独りでやってた時から。やっぱりか。うん。実際、誰かに聴いてもらえたらとか、認めてもらえたらとか、そりゃ音楽だから思うこともあるけど、それって結局……二の次なんだよな。二の次。頷く。創ってる時だけが、その時だけが。
そしてその時が、もうすぐ終わろうとしている。
ぺし、と側頭を叩かれる。そんな腑抜けでは困る。こちとら会社辞めてるんだから、もっと殺りにいくつもりで創ってくれないと。わかってるよお。でも実際かなりキラーっすよこれ。久蔵さんもそう思うすよね? え、それはもう。ただ……ただ? 今の段階ではこの曲、この部屋の四人しか聴いてないんだな、って。まだ誰にも知られてないんだよな、って思うと……へんな感じだ。
へんな感じ、わかる。わかるすー。そうかな、発表しなきゃいけないから創ってるわけでしょう。そうとは限らないよ。ただ創りたかったから創ってる。創ってるあの時間が好き、いや好きってんじゃないな、ただ……あの時があってほしくて。あの感じでいたくて。わかるす。測、わかる? まあ……少し、なら。
沈黙。
ミスドもうないな。ひよ子あるすよ。え! いきなり大声出すな。いや、高級菓子だろ。そんな高くないすよ。それに、久々に名前聞いたなあと思って。あはは、せっかくだしお茶煎れるか、冷茶よりあついのが合うよ。ええ、このカップに煎茶かよ。他にないんだから文句言うなー。ほい、楽曲完成祝いのひよ子だよー、ひとり一個ずつだよ。まだ完成じゃない。じゃ着想祝い! あはは、これ買ってきてよかったっすー。さあ、いま孵ったばかりのわたしらが、新しい歌を覚えたばかりのわたしらが、ひよ子喰ってお祝いだ! 共喰いだ! いくぞ! いくぞ! かんぱーい!
「初めて見る光景ばかりで楽しかったよ、また是非」だってさ。そんな面白い見世物だったかなー。作曲中の現場って、そんな見られるもんじゃないすからね。「國分さんにはちゃんと文面で謝りたいからメールアドレス教えておいてほしい」だってよ、はは、こういうとこ律儀。
お、測。もー風呂長いよー、ぼーこー破裂するかと思ったぞ。あなたの尿意を私のせいにされても困る。しかたないじゃん1Rなんだから、風呂入ってるあいだ浴室前うろうろされるの嫌だろ。まあね、1LDKにすればよかったのに。こんなに人呼ぶことになるとは思わなかったんだよー。
実際さ。何。ほんとに思わなかったよ、わたしがひとりで唄って録ってるだけの部屋に、誰かを呼ぶことになるなんて。えへへ、こちらこそうれしっす、まさかキュウゾウのプライベートスタジオで作業できるなんてー。そんなかっこいいもんじゃないっしょー。個人制作用のスペースなんだからそう呼ばれるに値すると思うけど。実際、ここならベーシックトラックのプリプロまで出来そうじゃない。まあ、今日の感じならね。でさ、ここで作ったやつをさ、漁火ちゃんのスタジオでブラッシュアップできないかな? いいすね! チーフじゃないすけどあたしもそのスタジオのエンジニアなんで、色々融通できるはずすよ。よし、じゃあ二日後くらいにミックス送るよ。了解っす!
ねえねえせっかくだからみんなで吸おうよー。なんすか、ガンジャ? なわけない、煙草。そんな貧乏くさいこと。いいじゃん初めて過ごす夜なんだしー。せめてバルコニーで吸いなさいよ。いいの、曲流しながら吸いたい。ちょっとまって何にしようかな、おあつらえ向きのないかな……あった、これだな!
おー、これの演奏 Mountain Mocha Kilimanjaro じゃないすかー! さすがよく知ってるねー。超イイすよね、キメッキメなのにベースのエッジがまろやかなとことかー。そうなんだよー聴き疲れしないんだよ不思議に。ほい漁火ちゃん。はい、わーあたし煙草吸うの初めてだー。そうなの! ちょっと初めてだってよ測、責任重大だよわたしら。なんの話。はい國分さん。ん。吸った感じどうだった? なんか、すーってするすねー。まんまじゃん、あはは。あー測が煙草吸ってるの久々に見るなー。國分さんかっこいっす、番長みたいっす。褒め言葉じゃないでしょう。それとね……測でいいから。お、おおー! ついに名前呼び認定もらったっすねえさん! やったね漁火ちゃん! なにそれ、いつ呼んでもよかったのに。だってこくぶ、じゃない、測さん精神的バリケードすごい堅い気するからー。そんなもの張ったことない。あと、呼び捨てでいい。うおー! 一緒に組んで作曲までしといて、いまさらさん付けもないでしょう。測と呼びなさい、イリチ。うぃっす、はかるん! はかるん……? イリチ? 漁火ちゃんそんな名前だっけ? そうっすよーあはは。そういうところ無神経ねあなたは。
あ、次の曲行っちゃった。わーカノン進行だー、ヒップホップなのにすごいすね。『Grateful Days』があるでしょう。いやあんなのとは比べ物にならないよ悪いけど。この曲でアルバム全体がぐっと引き締まってるよなー。
眠らぬ街の 眠れぬ夜に
コトバの神よ 与えたもう ひらめきを
何か産まれそうな そんな気がしてる
きっと あともう少し あともう少し あともう少しで
「コトバの神」ってのが、もうハンパなく冴えてるよなー。そうね、もともと言葉は神だし。そうなんすか? 神は言葉、つまり合理性。一神教だけの話だけどね。はかるんクリスチャンなんすか? 父親がそうだっただけ。そうすか。あの、訊いていいすか? どうぞ。神って本当にいるんすか? その問い自体が間違ってる。そもそも神は存在。何かが存在する、という出来事自体。なぜ人間が言葉を持ってしまったかも、神を使って説明するのが一番早い。なぜなら神はロゴスだから。神なしに言葉はなく、言葉なくては人間ではない。なんかピンとこないっすー。一神教ってそういうものだから仕方ない。ほら測なんだっけ、トマス・アクィナスのやつ。ああ、「神は一体どこで何をなさっているのですか」と問われて。そうそう。答えたのが「神はご自身を満喫しておられる」。「俺、神だな〜ッ」ってことすか? そう。ますますわかんないっすー。
こういう話してるとさ、不二良のこと思い出すね。そうなんすか。べつに。そもそもあたしらが一緒に作曲するきっかけになったのが、その不二良さんなわけすよね。本当にあいつが関わってると、まだ決まったわけじゃない。ねえさんは会いたいんすか、また会いたくてこれを? どうかな、わかんないな。はかるんはどうすか、不二良さんに会えたら。殴るだけじゃ済まさない。あははは。たぶん本気だぞーこれ。当然のこと。九三にあれだけのことをしといて、ただで済ませるわけがない。あの、これ昼のときには訊けなかったんすけど。何? 結局ねえさんは、不二良さんと一緒にいたことを、その、後悔してるんすか。
……そうかもね。後悔はあるよ。あんな奴といなきゃよかったじゃなくて、あの人に見合う人になれなかった意味でね。そんなに大した奴じゃない。いや、大した奴だったよ。色んなことを、あまりにも色んなことを教えてくれた。私からも訊いていい。お、何。あなたは、あの頃に不二良から吹き込まれた事たちを、未だに信じてるの。
……どうだかね。そもそも全部を憶えてるわけじゃないしね。でもね、わたし、不二良が言ってたことのなかで、未だに疑いなしに信じてることがあるんだよ。なに。「この世界は変えられる」。
沈黙。
煙草、もう一本ちょうだい。おーなんだ測、火ぃ着いてきたか文字通りに。そういうことでいい、なんだか猛烈に愚痴が言いたくなってきた。あはは、よーしせっかくだからバルコニー出よーぜ、漁火ちゃんボトルとカップ持ってきて。了解すー。あなたにも聞かせてあげるから、あの女がどんなに傍迷惑な輩だったか。あはは、わたしのほうがよっぽど知ってるぞー。あちょっと待って、このヴァースまで聴いていこう。スピーカー持っていけばいいじゃない。音量大丈夫かな、話し声も。大丈夫でしょう。そっか。そうだよね。
たとえキミが出したのがオレとは違うアンサーでも
星の下 似たステップを踊り続けるダンサー
またはタフなボクサー この世は残酷さ
だが何度打ちのめされようとも懲りずに立っとくさ
だから今はただじっと 傷を癒してる
そして胸の奥で火種をまた静かに燃やしてる
眠らぬ街の 眠れぬ夜に コトバの神よ 与えたもう ひらめきを
何か産まれそうな そんな気がしてる
きっと あともう少し あともう少し あともう少しで
眠らぬ街の 眠れぬ夜に リズムの神よ 与えたもう ときめきを
何か産まれそうな そんな気がしてる
きっと あともう少し あともう少し あともう少しで
03 君の弟はゲイでおまけにサグ
まあ、ヒトラーは演説が下手だねえ。あ、やっぱりそうなんだ。測も同じこと言ってたよ。測って誰だっけ。ほら、わたしの高校時代の。ああ、いつか話してたね。でもなんかドイツ語のがなり口調って持ってかれるよねー。というより、あれはPA装置の効果。問:ヒトラーの演説はなぜあれほど大衆を魅了したか。答:音質が良かったから。あはは、オーディオ批評みたいだな。実際そういう問題。知ってるよね、PA装置ってそもそも Public Address の略。直訳で「公衆伝達」。ところが、 Address は複数形の Addresses になると 求 愛 行 為 って意味になる。ちょっとやめてよ耳元で。いまさら何を恥ずかしがってるの。PA装置や磁気テープの生産技術において当時のドイツ以上の国はどこにもなかった、それらがナチスの大衆煽動の手妻を準備した、って話は前にしたよね。したけどさあ。それらは今でも変わらずわたしたちの前にある。選挙キャンペーンでも如何なる政治的立場によるデモでも、音と言を遠く拡散する装置は不可欠なんだから。 Public Addresses, つまり「公的求愛」は音楽性および政治性と不可分……というか音楽性が政治性なんだよ。たとえば今わたしが九三の耳元で大声で怒鳴ったとしたら、心臓のBPMは否が応でも上昇せざるを得ないよね。しないでよお。しないけど、これは聴覚を持たない人でも同じ。人間の身体の中にはリズムがあるんだから。心臓の鼓動ともまた別の、生きるための、ことを済ませてうつりゆくためのリズムが。だから、人間が人間を隷下に置きたければ、それは粗雑な音質で号令をかけるよりも、淑やかな声音で身体ごと欲望をそそること、が必要でしょうね。いま不二良がわたしにしてるみたいにね、って、言わせたいんでしょ。
そういうわけでね、音と言で誰かに働きかける行為、それは「公的求愛」でしかありえない。「私がやってることは愛なんてものとは何も関係がありません」って顔してるふとっちょの政治家も、交尾の相手を求めて鳴くオスのセミも、やってることは同じ。たしかにね。ヒトラーの演説とセミの鳴き声のマッシュアップとかないかな、作ったらバズりそうだな文字通りに。今はYouTubeなんて便利なものがあって良いね……じゃあね九三、宿題。次に会うまでに、二〇世紀の名演説家たちのスタイルがそれぞれどのように異なっているか、を考えてくること。名演説家? とりあえず四人。まず反面教師としてアドルフ・ヒトラー、その対抗馬としてウィンストン・チャーチル、年代は隔たるけどマーティン・ルーサー・キング・ジュニア、そしてマリク・エル=シャバーズ。マリク……何? マルコムX、って名前のほうが通りがいいのかな。ああ、たしか測の部屋に本あったな、中学の頃からずっと好きだって言ってたよ。ふふ、ちょっとその人に会ってみたいかも。いいね、連絡しとこうか。あっでもどーしよこういう関係ってバレたらあれかなー。気にしなくていい、あなたのことだからすぐバレる。んなことないよもー。話を戻すけど、さっき挙げた四名のなかで最も卓抜した演説家は、疑いの余地なしにマリク・エル=シャバーズだと思う。実際に聴き比べたらわかるよ。チャーチルの録音は大衆の反応が含まれないラジオ放送だから比較しづらいけど、ただひとりマリクだけが利用できている力がある。何だと思う? 笑い、かな。よく解ったね、ちょっと驚き。測が言ってたもん、誰もがマルコムの過激さを強調するけど、彼の言葉に込められたユーモアの力を読み取れている人は少ない、みたいなこと。その通り。ただマリクだけが、聴衆の笑い声を煽るフレーズとそれを響かせる間を意識して演説を行なっている。それが彼の最大の武器。ヒトラーの演説に笑いなんてひとかけらもないよ。あの手のひらひらした動きさ、あれ「ここで拍手をお願いします」って哀願にしか見えないよね。そう、実は聴衆の方なんか最初から見てないしね。むしろあの大掛かりな舞台装置は不安を隠し通すためのもの。マリクはそんな隔たりなんか必要としなかったよ。日系人のユリ・コウチヤマとのエピソードは知ってる? 誰それ。マリクが殺された場に居合わせた同志のひとり。彼女が初めてマリクに会ったとき、黒人でない自分に後ろめたさを感じつつも握手を求めたんだって。マリクはそれに対して「何のための握手だね?」、彼女は「あなたが人々に道を示していることを祝福するためです」。それを聞いたマリクは微笑みながら握手に応じた。これと同じことがヒトラーにできると思う? 自分の民族性とは違う人の、その肌に直に触れて共闘に応じるなんて。たしかあれでしょ、マルコムXの娘の名前もすごいんでしょ? そう、アッティラやフビライ・ハーンから採られた名前を付けてる。そもそも彼にとっては白人以外の英雄はすべて同志だから。解放運動ってそういうことだよ。未だにマリクのことを黒人至上主義者みたいに言う人がいるけど、そういう人は現生人類がアフリカ起源だってことすら知らないんだろうね。
というわけでね、九三。あなたもわたしに同行したいなら、それ相応の言葉の遣い手になってくれなきゃ困る。無理だよお、わたし不二良みたいに堂々と演説なんかできないし、外国語も全然だしさあ。だったら今から鍛えたらいい。もっと賢くなって、もっと強くなってね九三。そうすればもっと面白くなる。何が? 前に不二良が言ってた、革命的な小説のこと? まあ、そう言ってもいいけれど……もっと適切な表現があるでしょ? 何? この世界、が。でかいなあ。これは最初からそういうこと。わたしが九三に教えてるのは、この世界を愛するための方法。世界を愛することができないうちは、詩も歌も何もかもが無力なまま……わかる? わかんなーいけど、Perfume の『love the world』が名曲だってことはわかるなー。そうだこれ聴いてみてよ、この前買ったシンガーソングライターのアルバムに『love the world』が入っててさ、アレンジがすんごい良いの。藝大卒らしいんだけどさあ、そのせいなのかリズムが凝りまくってて……ふふ、じゃ、ここからは九三が教える番ね。Public Addresses を使ってね。いやふたりきりだから Public はおかしいか、 Private Addresses か。うわーこれすごいな、そもそも Private がそういう意味なのに求愛までくっついてるって、それもう『Lovesexy』とかじゃん。プリンスじゃん。ふふ、 Private Addresses は思いつかなかったな。それじゃ九三、PAしようか。うわー新しい。PAしようかって。ふふふふ。いいよ、PAしようか。
本当にやるのか。と、思わざるを得ない。のは、今まさに「χορός」と大書されたパネルがドーム入口の階段近くに掲示されているのを見たからなのだが。測に言わせれば、実感抱くの遅すぎるでしょう、となる。しかしこれは英語版企画概要やパンフレットやネット上の動画広告とはわけがちがう、自分が設営仕事で頻繁に出入りしていたドームに堂々と掲示されているとなると。
RyuDaMadafaka の発言:
全身骨折彦(ぜんしんぼねおれひこ)、とかどうかな。
HakaruK の発言:
どうかなって何が。
RyuDaMadafaka の発言:
クルー名。なんかあんじゃん、アリス・クーパーとかロブ・ゾンビとかマリリン・マンソンとか、フロントマンの名前かと思ったら実はバンド名なんですパターン。うちもそうしたらいいかなと思って。
HakaruK の発言:
なぜその辺りを参考にしようと思ったのかが解らないけど、要らないでしょう。あなたのソロプロジェクトと同じ「93」でいいと思う。
RyuDaMadafaka の発言:
ええ、でもせっかく三人でやるんだよお?こう、チーム感ある名前ほしいじゃん。あと「93」てこれどう読むの。キュウゾウ?きゅうじゅうさん?ナインティスリー?
HakaruK の発言:
あなたが決めた名前でしょう。
xxISRBxx の発言:
逆にアピールポイントになりませんかね?人によって読みかたが違うっていうの、面白くないですか?
RyuDaMadafaka の発言:
あーあれか、クトゥルフみたいな。
HakaruK の発言:
Y Kant Tori Read みたいな。
RyuDaMadafaka の発言:
なにそれ。
HakaruK の発言:
トーリ・エイモスがデビュー前に組んでたバンド。全然売れなかったけどね。
xxISRBxx の発言:
話戻しますね?じゃあ、出場登録用に使う名前は「93」だけでいいですね?読み方とかフリガナとかの欄はとりあえず無いみたいなので。
RyuDaMadafaka の発言:
でもなーなんかクルーっぽくないよなー。もうちょっとひねってみない?女三人組のクルーなんだからさ、「姦」、とかさ。
HakaruK の発言:
全然ひねってないうえに凡庸。
RyuDaMadafaka の発言:
「姦 a.k.a GAMI」とか「姦ROY」とかさ。
HakaruK の発言:
それ全部ソロ名義……だし「たまき」でしょう後者は。
RyuDaMadafaka の発言:
今ちょっと検索したけどさ、「姦」って「私的な遊び」って意味なんだね。最初から性的な意味だったわけじゃないのか。「姦」と書いて「プライベート」と読ませる、みたいなの良くね?
HakaruK の発言:
良くない。イリチ、もう「93」名義で送信しなさい。私が許す。
xxISRBxx の発言:
了解です(๑˃̵ᴗ˂̵)و
xxISRBxx の発言:
あ、もうアップロード終わりました。思ったよりしっかりしてますねサーバ。
RyuDaMadafaka の発言:
えー!!!????わたしに決定権ないのかよ!??ひどい!!!奴隷契約だ!!解散です!!!!!
と例の企画概要に沿って出場登録を済ませた、ら、もう七日後には連絡があった。メンバー三人ぶんのバックステージパスと、χορός 九州北部予選会場への地図。といっても、わたしからすれば何度となく仕事で出入りしていた会場だったので案内なんか要らないわけだが、しかし福岡と言わず九州でも最大の観客収容数を誇るあのドームで開催されるとは思わなかった。関係者入口でそそくさと三人分のパスを見せると、手続きめいたものは到着時刻の署名のみで、あっさりと通過した。うわーすげえ非現実感。ついに会場だー、わくわくするすね。そうか漁火ちゃんはここで演るの二回めか。そうすー、でもあんときは音が散らないバンドピットにいたからそんな緊張しなかったすけど、ステージ出て演るってなるとどうなるかわかんないすねー。ああそうか、ひっろいもんなあここ。と、既に設営が終えられたステージを一塁側ベンチから一望する。あの何、花道? みたいなのは無いんだね。助かったあ。なぜ? だってあれあると行かなきゃいけないのかなーてなるじゃん、どっち向かなきゃいけないのかもわかんなくなりそうだし。ステージに陣取って一方向だけ見て、って構図の方がまだ安心だよ。そういうものかな。ていうかこれ転換どうすんだろ。タイムテーブルの間隔からすれば、ドラムキットとかDJブースとかは共用で、持ち込みの楽器のみ転換で、って感じでしょう。まあ、演者が心配するような事でもない。
控え室への通路を歩いていると、見るからにフライな格好したやつらが通り過ぎてゆく。わたしら地味だなー。格好で競ってどうするの。さすがにもうちょっとキメてきたほうがよかったかなー。オールドスクールなんすから派手さはなくていいすよ。まあねー……と出場者でごったがえす通路を見回していると、後ろから肩を叩かれる。ふりむく、と。あ。
定刻通り、一時間後に開演の予定となっておりますので。何やってんですか古市さん。楽屋裏のポジションじゃないでしょ。会場内でご不明な点などございましたら何なりとお問い合わせください、本日のイベントの出演者であらせられる龍様におかれましては……ちょっとやめてくださいよ古市さあん。わたしただの勤続二年目のペーペーじゃないですかあ。二年目なのにペーペーなのか。微笑の呼気とともに、いつもの声音に戻った。まさかお前が出る側に回るとはな。いやまあ、わたしもあんま信じられないつうか。ずいぶんでかいイベントだよな、これ勝ったら大変なことになるんじゃねえか。まあ、勝ったらですけどね。そんときはおおっぴらにクビにできるな。えええ待ってくださいよお、辞めるなんて一言も言ってないじゃないすかあ、ちょっと出てみようかなーってだけですよお、だからこうして有給消費して出させてもらってるんじゃないすかあ。ちょっと出てみようかなー、なの? 後ろから測に刺される。いや、もちろん勝てたらいいなーとは思ってるよ? でもまあ思い出づくりっていうか、これを踏み台にちょっと名前知られるようになればなーっていうか。有名になる為にやってんじゃない、ってこの前言ってたろ。正面から古市さんに刺される。えーと……それはあの……まあ良いよ。せいぜい楽しんでけよ。観客じゃないから投票はしてやれないけどな。あ、はい。ありがとうございます。と言い終わらないうちに背中を向けて去っていく。なんか、ふだん一緒に働いてる人と話すだけで一気に現実感が戻るな。いつも通りの場所に立ってる、気がする。もしかして、緊張ほぐすためにわざわざ来てくれたのかな。そんな気遣い……いやいや余計なこと考えんな九三、これから93になんなきゃいけないんだから。
xxISRBxx の発言:
はかるんいますー?パンフレット提出用のテキストについてききたいことがあるんですけど。
HakaruK の発言:
何か不備があった?
xxISRBxx の発言:
いや文面は問題ないんですけど、これメンバー全員本名表記になってますよね?ねえさんはもともとキュウゾウ名義だし、あたしらもステージネーム持ったほうがいいんじゃないか、と思いまして。
HakaruK の発言:
ステージネーム……そうね。実はこっちの活動では本名以外の名義にしようかとは思っていたんだけど。
RyuDaMadafaka の発言:
全身骨折彦(ぜんしんぼねおれひこ)、とかどうかな。
HakaruK の発言:
私に関してステージネームが必要なら、「McAloon」と書いておきなさい。
xxISRBxx の発言:
なんて読むんですか?エムシー・アローン?
HakaruK の発言:
いや、「マクアルーン」だけど……でも、MCネームっぽく読めるのも面白いかもね。どうしようかな。
RyuDaMadafaka の発言:
そこはもう好きなように読みやがれ精神でいいよ。ていうかこれあれだよね、測のお父さんの苗字だよね。あれすか、世界的に有名になってお父さんにまた会えたら〜みたいなことすか。
HakaruK の発言:
そんな凡俗な感傷に訴えるなら死んだほうがまし。
xxISRBxx の発言:
じゃ、はかるんは「McAloon」で。
RyuDaMadafaka の発言:
漁火ちゃんのはわたしが考えてあげよう。
xxISRBxx の発言:
あたしのステージネームもう既にありますよ。「KATFISH」ていう。
RyuDaMadafaka の発言:
え?あ、この前のコンサートに出てたときもそうだったけか。
xxISRBxx の発言:
そうですー、サイトのドメインとかもこれです。
RyuDaMadafaka の発言:
「キャット」じゃなくて「カット」なのね?おお、ファンクのギタリストっぽくて良いじゃん。
xxISRBxx の発言:
あざす。じゃ、名前だけステージネームに置き換えて提出しますね。
HakaruK の発言:
任せる。
RyuDaMadafaka の発言:
わたしもそれでいいよ。うわー、マジで本当に出るのかーって感じだね。リクルートされたのはわたしらが最初だって話だったけど、どんくらい出場者いるんだろー。
四八組、てことは二四回バトルやるってことか。ここで半分にふるい落とされて、九州南部・沖縄予選で勝ち上がったやつらと一緒に九州大会やって、それで全国戦と。勝敗決定どうなるんすかねー。パンフには予選のことしか書いてないけど、大会まで上がったら全員ステージやってからの投票じゃないかな、さすがに数多すぎるし。予選はランダムに決めたカードでのガチンコ勝負で、大会なってからは会場外のオーディエンスにも公開のショーケース、って感じすかね。ビジネス的に考えてそうだろうね。しかしまあ、満席、とはね……一体どこから来てるんだろ今日の観客。外貌だけで判断はできないけど、やっぱり東南アジアからの客が多いみたい。まあ、主催の本社がシンガポールだからな。じゃあどう勝負すればいいんだろ、わたしらサウンドもしっかり作ってきたけどさーあんま歌詞じゃアピールできないのかな。あなたが戦略なんか考える? ただ演ればいいだけ。でもさー……
あらあ、あなたたち。ついに当日ねー待ちに待ったわあ。あ、杜さん。お久しぶりっす、今日キメキメっすねーあたしらより派手だー。すごいスーツ、虹色て。そりゃ気合い入れてるからねえー。いやもうーこの予選はあなたたちとともに始まったみたいなとこあるからさあー、インスタであなたたち見つけたときに「この土地にはなんかある!」って思ったわよおー。あはは。だから予選落ちなんてオチにならないよう頑張ってねえ。頑張るっす! あの、杜さん。なあに? 突然ですが、百済不二良って名前知ってますか。このイベント、もしかしてその女が関わってませんか。との問いを、飲み込んだ。いや、なんでもないです。そう? じゃあこれ観客配布用のパンフレットだから、開演前にどういう感じの進行になるかイメージしといてねえ。はい。
なんで訊かなかったの。え、わかった。あなたが考えそうなことくらい。まあ、さ……とりあえず予選通ってから考えればいいかなって。もしかしたら来てるかもよ。え。ここの会場に。ありえる、かもね……でもそうだとしてもさ、まずは見てもらうだけだよ。何を。わたしらが一緒に創ったものを。
あたしらちょうど真ん中あたりっすね。と、パンフをめくりながら漁火ちゃんがつぶやく。あれ、もう対戦カード出てるの? はい、この観客配布用パンフで発表って感じらしいす。あたしらにもページ割かれてますよお、なんかみんなキャッチコピー付いてるなー。見して見して、なに……「すべてのリリシズムを過去にする」? これ測が考えたの? まさか、主催側が勝手に考えたコピーでしょう。だよね、杜さんかな。不二良かもよ。とのくすぐりは無視する。「なになにを過去にする」で統一されてるらしいね、わたしらの対戦相手のコピーは……「すべての三連ラップを過去にする」? 具体的なのか抽象的なのかわかんないな。なんかを過去にしなきゃいけないんすかね。主催側のリクルート基準がそういうやつなんじゃないの。革新性、かな。たぶん。それがあると認められたわけね、私たちは。さあねえ……
考えすぎても仕方がないので、開演前に飯を済ませとく。測と漁火ちゃんはケータリングでいいでしょ。ねえさん喰わないんすか? 唄う前にそのメニューはちょっと重いでしょー、コンビニのサンドイッチくらいでいいよ。じゃあたしも行くっすー、はかるんは? 私も出ようかな、さすがに外の空気が吸いたい。
ハロウィン仮装大会めいてきた通路を抜け、関係者入口の駐車場に出る。階段上がったとこにファミマあったよな、と歩き出そうとすると、九三。との声が背中から。九三やいな。声のほうへ向き直ると、スカジャン姿の女性が一人。あ、わたしらの対戦相手の、ひとだよな……さっき目を通したばかりの、どぎつく加工されたパンフの写真を思い出す。え、ちょっとまて、だとしてもなんでわたしの本名知ってるんだ。パンフには載せてないぞ。
ここで会ったが一一年目ぞ。と、呆気にとられるわたしと後ろの二人を前にして続ける、その女性……の顔が、脳内で徐々に照合されていった。あれ!? 安影!? ようやっと思い出したか。安影楸、門司中学の頃いっしょだったあの。あの跳ねっ返り少女か! 跳ねっ返りちお前が言うな。何してんのこんなとこで! あしのセリフばっか横取りすんな。舌っ足らずなあの発音は相変わらずらしかった。あしらの対戦相手どんなやろう思たら、まさか中坊んときの同級生やもんな。面見て一発でわかったわ。同級生、ねえさんの? そう、わたしがこいつにヒップホップ教えたんだよー。はあ!? なん言いよんか捏造すんな。逆やろが、あしがお前に教育したっちゃろが。はー? 違うよ、あそうだ思い出した、わたしとこいつ好きなもん全部逆だったんだよ。わたしがトゥパックならこいつはビギーで、わたしがアイス・キューブならこいつはティム・ドッグで、わたしがランDMCならこいつはパブリック・エネミーだった。「エナミー」な。そういう細かいとこは変わってねえなあ。お前も一一年前と同じでしゃあしかな。なんだよ、中学んときなんてそんな覚えてな……あ、ぶふ、あった、思い出した。なんかちゃ。あんたにさ、楸にさ、昔つけた渾名。漢文の『矛盾』の授業でさ、「鬻ぐ」って言葉が「売る」って意味だって知ってさ。それで、ヤバいぞじゃあ「楸」は「売り」だぞってなって、それでわたしが付けた渾名が「売女」。ぶははは、と笑いながら測のほうを振り向く。あれ、ウケるかなと思ったら普通に引いてる。あなた、中学のときからそんなだったの。んー、人間そんなに変わるものじゃないからねえ。そういうことを言ってんじゃないの。しかしまた会うことになるとは思わなかったなあ売女。九三に言われとうないわこのガンジャ女。なんだとー!? 今まで一度も吸ったことないぞ。なんやお前らインスタでえらいバズりよったが、そいで拾われたんな。まあね……えーなに安影も音楽やってたの? あしつうか、弟がな。弟……? おお、帰ってきよう。と、わたしのはるか後方へ向けて大きく手を振る。釣られてわたしもそっちを向く、と、こちらへ歩いてくる人影が見えた。
安影の弟……? ってああ、さなぎくん! 櫟。そうだ櫟くん。喰らすぞ貴様。だってずいぶん前だから仕方ないだろ、えー初めて会ったとき小学生だったよね? 大きくなったねー、と世間話めく賑わいを訝しんで櫟くんは歩みを止める。思ったより小柄だ、私よりちょっと低いくらいかな。赤のアディダスはキマってるけど、金髪でシャギーの刈り上げにゴールドチェーンはちょっと無理めかな。よく見るとなんか『ブレイキング・バッド』のあの子に似てるな、酸でバスタブ溶かした子。なんてったっけ、たしかKORNの『Thoughtless』のビデオに出てたあの。 櫟くん、KORNのビデオ出てた? と、挨拶がわりの冗談でも言ってみる。と、眉をひそめるだけだった男性の顔が、みるみるうちに朱に染まる。誰がポルノ男優だ、と胸ぐらを掴まれる。え、ええ、そんなこと言ってないよ! マジでクズやな貴様、打て喰りこかせ櫟、あしが許す。なにそんなマズいこと言った? あ、もしかしてPORNって聞こえた!? PORNじゃないよKORNよ! ヌーメタルっぽいルックスだなーって意味よ! と宥めすかすと、舌打ちとともに手を離してくれた。人通りのない場所ならぶん殴ってたぞ。うんごめんね紛らわしいこと言って。でも久しぶりだねー元気だった? 櫟くんも音楽やってるの? と、無難な世間話ぽくしてみる。櫟じゃねえ。え? お前だってもう龍九三じゃねえだろ、キュウゾウさんよ。俺がANDYOURSONGのマイクロフォンNo.1 BargainShadeだ。これからステージでやり合うことになんだから覚悟しとけ。と、すこし嗄れたしかし滑舌のいい声で言う。ANDYOURSONG、たしかパンフに載ってたな。対戦相手のことすら調べずにお気楽だな。いやーわたしあんま検索とかしないからさ。パンフここにあるすよ、と言いながら漁火ちゃんがページをめくる。「北九州を拠点に活動するヒップホップクルー。BargainShadeとDa Clapの2MCによる掛け合いと、ヴァイナル二枚使いを身上とするDJ GUBのカッティングによるパフォーマンスは、オールドスクール志向のヒップホップヘッズの間で確固たる評価を獲得している。同時に、同性愛者二人による日本語ラップという異色のリリシズムが全国的に話題をさらっている」……え? て、書いてあるす。あ、そうなんだ。BargainShade、というか櫟くんの眉になにか暗いものが差す。わかるやろ九三、あしらにはもう後が無いけんが。なにか沈痛にすら聞こえる声とともに、姉弟が横並びに立つ。あしも櫟も、ここで突破口見出さんな終わりたい。え、なんで。わかんねえのか。右手をはためかせながら櫟くんが言う。もう時間が無えんだよ、先を越されちまったからな、フランク・オーシャンに。え? 意味わかるか。いや、あんまり。つまり、取られたいう事じゃ、「最初にブレイクしたゲイのラッパー」の座をな。え。戸惑う私を前にしても櫟くんは苦々しげに頷いている。せっかく俺にしか無え武器で勝負できるかと思ったのによ、あいつの『channel ORANGE』があまりにも名盤すぎるからよ……もうダメになっちまったじゃねえか、勝算が……えちょっと待って、なに、そのせいで「ゲイのラッパー」のアピールポイントが低くなっちゃった、みたいなこと? 目の前の姉弟が同時に頷く。もうこれがほぼ最後のチャンスなんだ、俺のことを世間に認めさせてやる最後の。だから絶対に上がってやる。
あの、ごめん。なんだ? ごめんだけど、ごめんだけど言わせて。なんかちゃ。今の話聞いてたらさ、ヒップホッパーが同性愛者であることに、すごい希少価値みたいなのを認めてた、て感じだったんだけど……そうだよ。えと、ごめんだけどさ……なんかちゃ、はっきり言えや。すう、と深呼吸。言いたくないなあ。でも言わなきゃダメだな。よし。
いまどき同性愛者とか、普通だよ。何も珍しくない。だから、「ゲイのラッパー」の希少価値なんてのも、最初から無いと思うよ。
沈黙。
殴られるかな。それでもいいけど。と思いながら数秒間待ったけど、櫟くんは歯を軋らせて黙りこくったままで、楸は口を半開きにして立ち尽くしている。
何がわかんだよ。ようやく沈黙を破ってくれた。お前に何がわかんだよ、ノンケの女ごときに何が。同性の人間を愛したことすら無えくせに。あるよ。えっ。あるよお……一人だけだけど。呆気にとられて固まる安影ズ、なぜか痙攣めいた声音で言う。あれだぞ、あの子ちょっと好きだったなーとか、そういうレベルじゃねえぞ。わかってるよ。おいふざけんなよ、俺はやったこともねえのに自分は同性愛者だとか思い込んでる奴らが一番嫌いなんだ。もー会うたび毎回だったよあの頃は……若かったなーいま思い返すと。九三お前ふつうに男の子と付き合いよったろが。一〇代の頃はね。でも何年か前に出会いがあってね、すんげえ厄介な女との……まあそのことに関しては、いまわたしの右後に立ってる彼女に訊くといいよ。ええ、あの時期のことならよく憶えてる。何から話しましょうか。中洲川端のアイリッシュパブで初めて会ったとき、やたらと手を握ってたからああそういう仲なんだなとすぐに気付いた、とか? ええ、あのタイミングでもう気付いてたん!? もちろん。すげえな測、恋愛番長かよ。あなたが並外れて鈍感なだけ。
依然として固まっている安影ズを眺めながら、たどたどしくも続けてみる。今まで櫟くんに何があったかは知らないけどさ、なんていうか、そんな劣等感抱くようなことじゃないはずだよ。もっとこう、気楽にしたらいいじゃん? このパンフに載ってるDa Clapて人がパートナーなの? 静かに頷く櫟くん。愛しあえる人いるんじゃん、すごい良いことじゃん。その人と一緒に音楽までやれてるんでしょ。じゃあもう「ゲイのラッパー」としての希少価値とか、そんなのは本当にどうでもいいこと、だと思うよ。違うかな? 安影ズ、言葉が見つからないようで一〇秒くらいの沈黙。もういいかな。ちゃんと言えたよな。
じゃ、わたしらもう行くから。ちょっ、行くってどこに。めし買いに。じゃあね櫟、じゃないBargainShade! こっちだって手加減しないぞー、MC93 show no mercy, 今宵のショーのアガりは二割増し、y'know what I mean? 「今宵」じゃないでしょう、私たちの出番は五時過ぎ。あーそうだった、この名乗りにもバリエーションつけないとなー。あはは、それじゃ後でよろしくっすANDYOURSONGさん! 正々堂々やりましょー!
あ、ちょっ、行きよっ、た。……姉貴。なんや、なん本番前に気落ちしようか。してねえよ。でもよ……変わったやつだな。あいつは中学んときからおかしかぞ。うん……それより買うてきたんな。え? コーヒー。ああ……はい。おま、これアイスティーやん! え、クラフトボスって書いてあるだろ。そのコーヒーのやつじゃバカタレ、白いキャップの! これ水色やろが! なんだようっせーよもう、じゃあ自分で買ってこいよ。
とりあえず二〇組目まで終わったけど、今んとこ一番ヤバかったのは「平均律を過去にする」さんだったなー。ジョン・ケージのフォロワーとしては最上級のパフォーマンスだったと思うけど、でも調律を破壊するってああいうことかな。「44,100Hzを過去にする」さんもまあ健闘してたけど、ライブでは伝わりづらいだろーあれは。「民主主義を過去にする」さんはキャッチコピーの時点では期待してたけど、実質はレキシと打首獄門同好会の左翼版みたいなネタだし、音はまんまミニストリーだしでがっかりだったなー。
とまあ、どうやら今回の九州北部予選は「あくまでシンガポールの企業が主催する世界的音楽イベントの一部」でしかないらしく、多士済々の出場者たちの半数は次々と観客の投票によって切り捨てられていった。それにしても開会式すら無いとは。あの「もう皆さんわかってると思うのでいつも通りの段取りで始めまーす」感すごかったな。予選の内容はネット配信されないから下調べもできなかったけど、本当に世界中でやってるんだな……
やっぱり客層の過半数は東南アジアの人らしく、歌詞がストレートに伝わっているとは思い難かった。むしろ、コンセプトが固まっていてパフォーマンスとしても奏功しているものが評価される傾向にあるらしい。そしたら、単に曲作って持ってきました式のヒップホップクルーであるわたしらはどうなんだろう、可もなく不可もなくって感じか、とか考えながら女子トイレに入る。もう二〇分後に出番とはねー、やべ緊張がぶりかえしてきた。古市さんに電話してみようかな。やめとけっての。あ、いま女子トイレすごい空いてるな。さっきは着替えで使ってる人たちがすごかったからな、と思うと、突然個室のドアが開いた。その中に一人の、QかOSUMIかと見紛うほどの髭面の巨漢がいた。男性が。
ふたりきりの沈黙。
あの、男子トイレあっちですよ。と、警備員のような口調で言ってみる。が、なんか哀しそうな顔をしている。誰か入ってきたらどうしようと入口を見るが、とりあえず人気はない。もう一回言ってみようかな。あの、男子トイレは……と、そこまで言いかけて気付く。
あれか。女性、なのか。この人。
トイレットペーパーですか。言い直したこちらの言葉に驚いて見える。単に個室のホルダーに紙が見当たらなかったから言ったのだが。ちょっと待ってください、はい。と1ロール渡す。どうも、と低い声で会釈しながら受け取る。ドアが閉められるまでの挙動を見届けたのち、わたしも隣の個室に入る。
えと、どうしようかな。どうしようってそりゃ排尿だけど。でも少しびっくりしたせいなのか尿意が止んだな。さっきのあの人、あんまちゃんと顔見てないけど、でも明らかにあれ、櫟くんの相方だよな。あのパンフレットに載ってた大柄のラッパー。
Da Clapさん、でしたっけ。隣の個室に届くように言ってみる。はい。と朴訥な声が応えた。えと、わたし実は対戦相手の93ってクルーのもんです。ああやっぱり、そうじゃないかと思って。あはは、お互い偶然っスね。ええ、びっくりしたでしょう……まあ、少しは。えっと……肉体的には、男性? そう、ですね。トランスジェンダー、っていうんでしたっけ。はい。大変ですよね、体と心が食い違ってるって。いつもこっち側のトイレ使うんですか? いや、さすがに理解されないだろうと思って、外のトイレは極力使わないようにしてるんですけど……今日の会場はそこらじゅうフリークばっかりなんで、まあいいやと思って。あははは、わかります。そだ、実はさっき櫟くん、じゃないやBargainShadeに会ったんですよ。え? わたし、あの子の姉と中学の同級生で。うわ久々に会ったなーってやってたら、ゲイのラッパー二人のヒップホップやってるって知って。ああ……ゲイじゃないんだけどね、実は。トランスですかね。うん。ということは、えとDa Clapさんは女性で、BargainShadeは男だから、つまり男女カップルってことですよね。そうだね。あの子は知ってるんですか? うん、知ってのうえだよ。本当は櫟のお望み通りの相手じゃないんだけど、でも彼は僕のかたちを愛してくれてるからね……つかすんごい良い声してますね、阿部寛みたい。たまに言われる。ははは。
そうだ名乗るの忘れてた、わたし龍九三っていいます。あどうも、小松原伯修です。かっこいい名前、どんな字スか。にんべんにしろに、しゅうがくりょこうのしゅう。伯、ってことは長男スか。おお、よく知ってるね。中国、つか東アジアの命名では伯は長男でしょ。そうそう、うちの母親が中国人でね。そうなんスか、ご両親とはどんな塩梅スか。うん……あ、やっぱ言わなくてもいいスよ。いや、まあ、長男がこうだったらね……そりゃ動揺もするよなって。そう、スか。
あの、ブチギレさせてしまうかもしれないけど訊いていいスか。なにかな。話し言葉は女っぽくないんですね。性自認が女性だからといって女言葉じゃなきゃいけないのはおかしい、そもそも女言葉、って考え方自体がおかしい。お、おお、そーっスよね! いやあわたしガキのときからこんな話し方スけど、「だわ」とか「なのよ」とか、誰が使うかっつーんスよね! ああ、やっぱそうなんだ。女性にそう言ってもらえてほっとした。はい、いやそちらも女性でしょ。ははは、いやまあ。
カラカラカラ、とトイレットペーパーが切られる音のあと、ドアが開かれる。まさか女子トイレで連れションとは。わたしも出るか。横並びになって手を洗いながら、改めてお互いの顔を見る。しかしまあデカいな、サングラスのサイズでさえデカいな。とか思ってると、イケメンですね、モテるでしょう、とか言われる。え、わたしが? 同性に? ないスよー、一時期相方がいたくらいで。あ、ほんとう。まあ、長続きしなかったんスけどね。「相方」って言い方、良いよね。ですよね、一時期なんか彼氏のことを「相方」って呼ぶ女を必要以上にこき下ろすみたいなの流行りましたけど、何が悪いかっつーんスよねー。愛しあえる人がいることに性別なんか関係ないじゃん、女も男も「相方」でいいんスよ。わかるなあ。いや、こんな話が通じる人初めてで。あはは、恐縮っス。ちょっと泣きそうかもしれない、でも今からあなたと闘わなきゃいけないのかあ。いやもうそこは、正々堂々やりましょう。握手。
すっかり打ち解けて出てきたわたしらを前に、櫟くんが青ざめている。なにしてんだ伯、電話出ろや。あーごめん音オフにしてて。櫟さっき会ったんだって? こちら龍さん、に助けていただいて。は? いやトイレットペーパー渡しただけっスよ。でもあの状況じゃ大声出されても仕方なかったよお。櫟くんすごい良い相方さん持ったねーとくに声が。あはは、あ、龍さんLINE交換しませんか。あーすんませんわたしガラケーで。電話番号とメアドでいいスか? えー初対面なのにいいんですか。もちっスよ、つかLINEってそういう連絡先よりライトな感じなんスねーいま知った。
なに意気投合してんだお前。電話帳登録中の伯さんに噛み付く櫟くん。なにって、龍さんべつに警戒すべきタイプの人じゃないから。対戦相手だろ、つってんだよ。そんなの些細なことだろお。うっせえ、そんな穢らしいアマと絡むな。そいつに俺らのことが理解できてたまるか。いいからもう来い、姉貴が呼んでんだよ。明らかな体格差にもかかわらず腕を引かれていく伯さん。ちょっと待って櫟くん。その呼び方やめろや。ごめんBargainShade。ちょっと言いたいことがあるんだけど、いいかな。
すっ、と背筋を伸ばしながら、並び立つ二人を前にして言う。わたしのことはいくらでも嫌ってくれていいけど、さっき「俺らのことが理解できてたまるか」って言ったよね。ああ、だからなんだよ。でもわたしも伯さんと同じ女性だよ。理解の余地は有るんじゃないかな。無えよ。なんで? お前らは俺らと扱いが違うってんだよ、レズ野郎。いいか、女がふたり並んで歩いてても後ろ指さされねえだろうが。でも見てみろよ、こんな金髪のチンピラと髭モジャの巨漢が歩いてて。それで恋人らしい振舞いなんてできるわけねえだろうが。その時点でお前らと俺らには格差があんだよ。
沈黙。
それだけ? あ? 言いたいのはそれだけ? んだよ、なんか言いたいことあんなら言ってみろよ……既になんか怯えてるな。つまりあれか、他人に言うのは初めてか。じゃあ、聞き手としての務めは果たさなきゃいけない。
櫟くん。その呼び方やめ──やめない。君はやっぱ櫟くんだよ、ケツが青いままのガキだね。赤のアディダスが一歩たじろぐ。さ、始めるぞ。
君がいま言ったことで、何が許せないってね。それは自分だけじゃなく伯さんまで卑下したってことだよ。一歩前の口が半開きのまま歪んでいるが、言葉を継がせる隙は与えない。ふたりだと大手を振って歩けない、みたいなことを君は言ったね。じゃあ愛すること自体やめたらいいじゃん、伯さんを。でも無理でしょう。愛してるし、愛し続けるんでしょ。だったら堂々としてりゃいいじゃん。むしろケチつけるやつらを嫉妬させるくらいイケてるカップルになればいいじゃん。なにを知ったようなこと──ダサいよ。君がよくないのは結局、ダサいってことだよ。自分をかわいそぶってたらどうにかなると思ってるだろ。自分がゲイだってことに勝手に劣等感おぼえて、それを相方にまで押し付けてる。そういうのをケツが青いっていうんだよ。うっせ──率直に言う。わたしが君に言いたいのは単純な一事。君は愛する人と一緒に音楽やってて、今からそれを唄うんだろ。なら──愛を限ってどうするよ。最初から自分たちにしかわからないと思ってる奴らの歌なんか、誰が耳を傾けるかよ。かわいそぶりたいだけなら独りで部屋に籠ってたらよかったろ。でも、君は今日こうして出てきたろ、誰かに届けるための場所に。なら、もう覚悟を決めな。わたしは届けるつもりで来た。その覚悟すら決まってないやつになんか、ぜったい敗ける気しないね。
以上、って感じで背中を向ける。もう言う必要はない、ので、右手だけひらひらと振っとく。櫟くんも伯さんも追ってはこなかった。いやあ、それにしてもよくあれだけかませたな。でも、卑屈な歳下の男を相手にかますなんて余裕か。さ、もうすぐ本番だ。いくぞ、キュウゾウ。おうよ、九三。
……櫟、大丈夫か? ……だけかと……え? ……姉貴だけかと思ってたよ、俺を気遣ってくれる女は。え、気遣いだったか今の。そうだよ。一番必要な言葉を貰っちまった。よりによって、今から闘う敵から……はは。何なんだろうあいつ、バカかな。バカなんだろうな。
伯。うん? ごめん、なんか、甘く見てた。いや、いいよ。違う、お前だけじゃなくて。え? 歌とか、ライブとか、愛とか、いろんなことを……そうか。敗けてらんねえな、あんなレズ野郎には。うん、まずはその呼び方やめろ。今だけは許せよ、このままぶつけてやんだから、気持ちで敗けてどうする。ああ。じゃ、行くか。おう。あいつだけじゃなく姉貴もビビらせてやろうぜ、今までで一番良いライブやって。だな。
なんだあのラップ。
めっっっっっちゃ五連符じゃん。
あんなリズムの取り方はじめて見たすよ、ギターのピッキングならともかく、人間の喉でできるものなんすね。と、漁火ちゃんでさえたじろいでいる。「すべての三連ラップを過去にする」ってこういうことか……たしかに、あんなの聴かされたあとではミーゴスなんか聴けないわ。DJingはオールドスクールなブレイクビーツなのに、そこに乗るラップは奇数分割のリズムで構成されてる。まさに音楽性自体がバイセクシャルというか……あ、ああ、もしかしてANDYOURSONGってANDROGYNOUSのアナグラムか!? うわーうまいな! なんか急に強敵に思えてきた! 自分で危機感を煽ってどうするの。いやーだってこれヤバいぞ測! 落ち着きなさい、どんなのが相手でもやるべきことはひとつでしょう。でもさー、あんな複雑なリズムなのにめっちゃ沸いてたし、テクニック評価型の観客はかなり持ってかれたんじゃないかな……ちょっと、斬り込み方を変えたほうがいいな。
測、漁火ちゃん、本番直前だけどひとつ変更。なに。なんすか。イントロ前に三〇秒くらい時間ちょうだい。いいけど、何するの。演説。演説って……個人技能じゃない。あの三人のパフォーマンスに独りで対抗するつもりなの。いや、わたしの演説を突破口にする。いいかな、漁火ちゃん。もちろん、信じるすよ。測。はあ……持ち時間だけは超過しないように気をつけなさい。ありがとう。あと、終わりのほうでコール&レスポンス入れるから、わたしが合図したら We are! って言ってくれ、その直後に曲はじめるから。まったく、骨が折れること……やるけどね。ありがとう。いくよ。
うわあ、こんだけのステージになるともう顔なんか見えないな。これ全部人なのか、みんなこれから、わたしたちの音楽を聴くことになる……日本語わかるかどうかは知らないけど、確かなのは、みんな聴く耳を持ってる。そのために来てる──なら、お望み以上のものをくれてやる。
Wassup fuckers out there!? 雲霞にしか見えなかったオーディエンスが、この一言で初めて顔をもって見えた。行くぞ。
今日ここにいるやつらが、なぜ、どうして、どこから来たのか……そんなことはどうでもいい。なぜなら、何を望んでるかは明確だからだ。お前らはヤバいライブを味わいたくて来た。部屋の中で一人じゃ退屈だから、今日ここまで、身体を運んでやってきた。そうだろ?
そしてわたしらには応える用意がある。だが、一つだけ条件がある。この条件に見合わないやつは連れていけない。条件って何か? 音楽の神に忠誠を誓えるかどうか、だ。連れていくってどこにか? 音と言の流れる場所へ、だ。
いいか、今お前らが、わたしの喋ってる言語を理解できるか、そんなことは関係ない。音楽は何人でも、何人とでもできる。メイクラブと一緒だ。今からわたしらは、このドームに集まったやつら全員を愛し尽くすつもりだ。準備はできてるか? この空間を、愛と音で埋め尽くす準備はできてるか? ビッチ、ピンプ、非モテ、メンヘラ、女の童貞、男のヤリマン、色々いると思うが、全員まとめて連れてってやる。愛し愛される覚悟があるやつ全員だ!
Who's got the blues?
We are!!
Who's got ya sayin'?
We are!!
Who's got ya singin'?
We are!!
わたしら全員が93だ、『好きなように唄いやがれ』!
よくやったじゃねえか。電話越しの声が不思議に暖かい。あざーす。音楽のことなんかわかんねえけど、なんつうか、まあ喰らったよ。古市さんが言うならウソじゃないんでしょうね。はは。ま、そのまま行けよ。お前がやってること、悪かない。悪かねえぞ。
ふうっ、と、いつのまにか500mlペットボトルの中身がなくなっている。いやー緊張、してた、のかな。よく憶えてないな。観客ノッてくれてたのかな。投票してくれたってことは、良いって思ってくれたんだよな。じゃあ悪かない、悪かないな。
どうなるかと思ったっすー、でも楽しかったー! マイク握り込むと音がこもるからやめろってあれほど言ったのに、やっぱりやってたねあなた。いやー立ってるだけで精一杯でさ、でも作曲の方向性まちがってなかったねー! モードのコンセプトばっちり伝わってましたよ、フックで「おお!?」ってなってた人いっぱいいたすもん。マジ? よく見えてたねー漁火ちゃんさすがだな。さすがに、演説の力だけでは勝てない相手だったはず。わかってるよ、でも楽曲の力だけでも勝てなかったはずだぞお。
よお。あ、楸……と、櫟くん。伯さんも。邪魔じゃねえかな。まさか、入ってよ。ああ……お疲れ。うん、お互いにね。なんつうか、敗けたよ。認めるしかねえ。いやいや、投票もそうだったけどほぼ互角だよ。どっちでもありえた。いや、今回ばかりはな、こっちの敗けだ。
なあ九三。なんだ売女。なんちゅうか、弟が世話んなった。世話なんかしてねーよ、ずっと櫟くんに付き添ってたのは楸だろ。DJもすげえキマってたよ。DJ GUBって名前、 Got Ur Back の略? まあな。ほんとその通りのDJingだったよ、良い姉持ったな櫟くん。良い相方も。ああ、誇らしいよ。実際、こっちも今までで一番良いライブだった。これで敗けんならしょうがねえわ。
続けなよ。え? 敗けたからといって、止めんなよ。当たり前だろ、いつか絶対吠え面かかせてやる。おー、そのためには作品つくりなよ。わたしらMCバトルなんかにゃ興味ないからね、どれだけの作品残せたかが勝負だ。わかってら。伯さん、あんたのスキルヤバいよ。あんなの誰にも真似できない。このまま行きなよ、相方と一緒にね。ありがとう。え、泣いてる。あーちくしょう、何のためにサングラスかけてるんだ。ははは、こいつこうなんだよ。なんかわかる気すんなー。お前KATFISHとかいったな? はい! 動画で見ようときから思てたけんが、お前のギターヤバいな。マジすかー、DJのひとに褒められるとうれしっす! お前の参加したレコーディングで良さそうな音源あったら教えり、あしの営業で使ったるけんが。あざす! じゃあLINE訊いていいすか? プロフィールのアドレス送るっす!
あーやっと泣き止んだか。あはは、ちょっと煙草吸いたいから外出ていい? よかばってん、キュウゾウが表出たらえらかこつならん? そんなスターじゃないだろ。あれ、お前ラッキーストライクなんか吸いよったか、マルボロやろ。そりゃ煙草の趣味くらい変わるよ。はーん。
ねえねえ時間あったらこのあと焼肉行かない? わたしのおごりで! はっ、勝者の余裕げなん腹立つな。いーじゃん楸、積もる話もあるだろー弟のこととか。は、お前に話すことなんかそんなねーよ。そうかー? 伯さんもそれで大丈夫? まあ、終電まにあえば。オッケー、そんじゃ今から予約入れとく。このへんウエストあったっけ。ウエスト!? 叙々苑とかじゃなくて!? 叙々苑ってナニモンだよ行ったこともねーよ。はは、そしたら単品の皿ば頼みまくって破産さしたる。もしもし定額食べ飲み放題プランで。それ以外のオーダーなしで。六人。はーいよろしくお願いしますー。
うわーすげえ夕焼け。ドームってやっぱ見晴らし良いな、すっかり秋だなー。なんが面白かと? いや、夜勤ばっかだから久しく見なかったなと思って。は、確かにな。DJやってても朝方の帰宅ばっかやけんな。だろ。夕焼け眺めながら一服だ。悪くないな。やな。悪かないな。
Interlude I XXXmas
そりゃあ、「何度でも使ってくれていい」と言ったのは私だけれど、だからといってこんな役目まで負わされるとは。おー見晴らしいいねーさすが女性向け売りにするだけあるねーとはしゃぐ九三の背中、を見ながら、果たして恋人らしさとはこういうものだろうかと思いもする。この後にすることまで考えるとなおさら。
フォークリフト運転技能講習の修了を祝してご褒美がほしい。と言うのだが、ものの数日で終わる講習にさしたる達成感も無かろうし、そもそも受講のための費用を捻出したのは私である。ご褒美ね、豚の角煮でもつくろうか。飯じゃねーよ、イベントでしょうがよーとごねるので、映画でも行こうかちょうどスターウォーズの何かやってるしと言うと日帰りじゃねーよーお泊まりでしょうがよーと言う。皆目よくわからないので、何してほしいの。と直截に訊くと、クリスマス、ふたりで外で過ごそうよ。と、やけに神妙な面持ちで言うのだった。
クリスマス……別にいいけれど。どこか行きたい場所でもあるの。あるのってそりゃあれですよ、と言いながら人差指で宙を攪拌する。「言わなくても察しろ」の仕草だが、あれって何、はっきり言いなさい。とまどろっこしさに耐えかねてしまった。人差指を下げ、顔も伏せた九三は、わかってねーなー……と呻くように嘆息を漏らしたのち、不機嫌な顔でこう言うのだった。
ラブホテル。がある場所なら、どこでもいい。
とても上等な冗談とは言えないなそれは。冗談じゃねーっつのー、と今度は正面を見据えながらの嘆息である。クリスマスにすることったらそりゃーそれでしょー、それしかないでしょー、わたしらあんときのキス以外は何も恋人らしいことしてないじゃんー。私があなたの恋人だとは知らなかった。だって測が言ったんだよ、「何度でも使ってくれていい」って。え。あ……そういうこと、だと思ってたの。違うん? あなたの幻聴を和らげるための便利な道具として、なら、いくらでも使ってくれていいって意味。じゃあ合ってるじゃん、実際あれからだいぶ収まってきたわけだし。の言葉どおり、例の置き去り事件から一ヶ月半ほどが経ち、当初は頻発していた幻聴や摂食障害にも寛解が見られてきた。九三にとって、不二良との外傷的な失恋は過去になりつつあるのだろう、おそらくは。心の傷に完治などありえないとしても。そのための仕上げだと思ってよー恋人ごっこでいいからさー。恋人ごっこ……実際これはごっこ遊びなのだろう。九三が不二良と取り結んだことどもを葬送するための。あんなのは何も特別じゃない、誰でも経験するありふれた痛みだったと腑に落とさせるための。そして、それを持ちかけたのは私だ。では、最後まで責任を持つべきなのも私か。道義的に考えたらそうなる。が、ただ。
ねえ、九三。なに。根本のところで間違いがないかな。ラブホテルっていうのはね、男女または男男のカップル、つまり性行為に際して挿入を伴うふたりが、望まない妊娠や性病罹患のリスクを避けるためのホスピタリティを目当てに行くところ。女ふたりで挿入、するの。しないでしょう。わざわざ金出して利用する必要ないでしょう。いやでもムードいいじゃーん。あんな照明の何がいいんだか。あの非現実感がいいんじゃーん未体験ゾーンみたいなー。あのね、私は恋人ごっことやらに付き合うのに不服はないけど、だとしたらそれはあなたに現実感を取り戻させるためのものでしょう。非現実感を求めてどうするの。うっ、と急所を衝かれたようで物言いが止まる。じゃあもう普通のホテルでいいよ、とにかく二人でどっか泊まろうよー。ここの部屋でもいい気がするけれど。アニバーサリー感がねーじゃんそれじゃー、いいか測、人類の文化はなあ、「なんのお祝いか知らないけどとりあえず乗っかって面白おかしくしとけパワー」で発展してきたんだよ。文化的職業であらせられる作詞家先生が乗っかんないでどうするよ。べつに本職じゃないし……でも今いちばんメインの収入になってるやつだろ。まあね。なんだったらそれ作詞のネタにすりゃいいじゃん、構わんよわたしは、そしたら苦手だなーって言ってたラブソングいけるかもよ。私は仕事と私事は混同しないから。と去なしながら、ラップトップで福岡県内の手頃な宿泊施設でも検索してみる。女性のためだけのレディースフロア、ってのがあるよ。女性専用! やばいじゃんわたしらのためじゃん。 Hotel Eclair, 中洲川端か、価格も良心的ではあるね……予約してみようか。二人部屋? もちろん。空室ありそう? 今のところは。やったー行こう行こうよここ。ちょっと待って門司から博多、からの中洲川端って往復いくらだっけ……博多駅のイルミネーション見ながら中洲まで歩くっしょクリスマスだよー。けちけちすんなってー。
あ。
なに。
九三……このホテル、地下にパブがあるんだけど……ショーパブ? 違う、アイリッシュパブ。じゃあなおさらいいじゃん、測の好きなやつでしょ。違うの。何が? あの店だよ……私が不二良と初めて会った、ときの、あの店。
あ、あそこか。そう……あれの、階段出たとこのホテルか。九三、ここはやめよう。なんで。いやだめでしょう、色々思い出してしまうはず、せっかく忘れかけてた諸々も……大丈夫だよもう、どんだけ脆いと思ってんだよ。でもあなたの幻聴を無くすためにやるんでしょう、これは明らかに逆効果。いや、あのパブはべつに不二良との思い出の場所ってわけじゃないよ。むしろ測が過敏なんだろ。との指摘に、それは、そう、かもね……と黙り込むしかなくなる。確かに、忌避しているのは私か。あの場所は、できれば存在すら知らずにおきたかった女との、初めての際会の場だったから。
大丈夫だよ行こう。おー部屋の画像あるよ鯔背だねー、と普段は使わない語彙ではしゃぐ九三を見ていると、気遣われているのはむしろ私のほうかと疑う。大丈夫じゃないのは私か。いや、より正確を期すなら、これはまだ大丈夫とは言えない二人が、お互いの蟠りにひとまずケリをつけるための儀礼。それを持ちかけてくれたのか、九三は。たとえそれが私の手前勝手な勘繰りだとしても。
ここでいいじゃん。そうだね、行こうか。そう応えていた。
そろそろ二〇一六年のベストアルバム一〇選きめなきゃねー、とギネスの泡で縁取られた唇で言う。やっぱどうあっても『24K Magic』は外しようがないよなー、今年はこの一枚で決まりかと思ってたら『Awaken, My Love!』も来たからやっぱ年末になるまでわかんないよねー。あなた別にブログもツイッターもやってないでしょう。そうだけどさ、こういうのはとりあえず済ませとくのが大事なんだよ。よくわからないけど。測は今年のベスト映画一〇選つくってよ、わたしチェックしてないのあったら観たい。ああ、ベストはやっぱり『シング・ストリート』かな、サントラもすごく良いよ。知らない、なんのやつ? 『はじまりのうた』の監督。あれか! いい映画だったよねーあれキーラ・ナイトレイが報われて終わる話じゃないってのが良いよね、ハッピーサッドだねー。え……なんでわかったの。なにが? そのハッピーサッド、って言葉が、重要なものとして出てくるよ『シング・ストリート』で。まじか。うわーわたしあれかな、テンデンシーすごいのかな。セレンディピティって言いたいの。それだわ。テンデンシーじゃ Suicidal Tendencies だな、うわー縁起でもねー名前。はい、ハムだけじゃなくて野菜も食べなさい。このアイリッシュサラダうまいね、ドレッシングがいいんだろね。こういうのが好きなら今度カルパッチョつくろうか、あのアラブ系の人がやってる店あるでしょう、あそこのハーブとペッパーが合うかも。いいねー。てかアイリッシュとアラブって似てる気するよね、宗教違うのになんでだろうね。どちらも緑色を尊ぶ文化だからじゃない。そういうことか。
と、いつも通りの他愛ない会話を過ぎ行かせるうちに、うわーもう一九時じゃん、となった。ひとまず悪いことは思い出さなかったようでよかった、とは、もはや贅語だったので引っ込めた。部屋、行こうか。という私の言葉が、やけにそそくさとした気色を免れていないことに気付き、遅れて動揺するはめになった。のを見抜いたのか、その前に飲み物でも買っていきましょうよ測さあん、と笑われた。そう、だね。
さっき飲んだのにまだ飲むの。と茶化されながらも、やはり缶ビール一本くらいの用心は必要かと思われた。素面で無理だったら酒の勢いでも借りて、と思って。あー、そういうとき女どうしだと良いよね、酒のせいで反応しなかったとかあるもんね男の場合。そういう問題なの。そういう問題ではないのだった。二本のミネラルウォーターと一本の缶ビールをビニール袋ごと冷蔵庫にしまっても、この一室にただよう──たぶん私だけしか感じていない──居たたまれなさは、一向に霧消する気配がなかった。
やっぱムード出すには音楽ですよ音楽、とわざわざ持参したBluetoothスピーカーとiPod nanoをペアリングしながら、気忙しげに画面をスワイプしている。ゲイミュージックといえばいくらでも思いつくのにレズビアンミュージックはピンとくるものが少なすぎる件について。ああ、たしか菊地成孔がラジオで特集してたけどね。実際どうせいあいって言ってもまだ男女で不均衡あるよなー。何がいいかな、 SIMI LAB の MARIA のソロアルバムとかかな。あっiPod入れてねえや、うーん……ケイト・ブッシュとかなら合いそうじゃない。あーそれも入れてない、ちくしょーclassicさえ故障しなければなー。お、トーリ・エイモスのファースト入ってたわ、これだろ! Bluetoothスピーカーから、ほとんどポエトリーリーディングかと聞き紛うほどに抑制されたアカペラが流れる。これ一曲目じゃないでしょう、なんでシャッフル再生したの。なんだよ測試したことないの、曲順までカッチリ構成されたアルバムをシャッフル再生すると新しい発見あるよ。まえに『OK Computer』をシャッフルしたとき『Fitter Happier』から始まって、うわーこれ新しいアルバムだって思ったもん。そういうもの……?
いやーしかしトーリ様の唄声はいつどこで聴いてもクるねー。まあね。レイプ経験持ちの歌手ってどういう感じなんだろ、幻聴幻視あったりするのかな。さすがにわからないよ。でも、公言してるってことは過去につけられた傷も武器にしてるってことだからね、すごいと思う。そこはやっぱりヴァージニア・ウルフとは違うのかな。ああ……義理の兄から、だっけ。そう、彼女の外傷記憶は大戦だけじゃない、実際に受けた性暴力も。『灯台へ』のあれさあ……すごいよね。「ラムジー夫人、ラムジー夫人!」のとことか、つらすぎて読めないもんね。それもだし、大戦のことを直接書いていないにも拘らず残酷すぎるほどに作中の傷として刻印されてるのが──これは適切な賛辞なのかはわからないけど──天才だと思う。だね……あー、もし今夜さ、してる最中に幻聴はじまったらどうしようね。精神医学の知見では幻聴が頻発する時間帯は昼間から夕方って話だから、夜なら問題ないはず。ははは、そんな宥めかたするやついねーよ。えっ。大丈夫だよ、の一言でいいのに。ああ……ごめん、大丈夫なはず。ふふっ。何笑ってるの。いやあ、測だなあと思って。
どうだろ、そういうムードになってきたかな。いや、特には。というか、ムードほしいなら自分でそう言っちゃダメでしょう。あ、そうか。下手だねあなた。不二良とするときもそんな感じだったの。いやー、正直あいつとするときはずっとリード取られてたからなあ。リード取られる、だと首輪に付けられた紐ってことになるけど。間違えた、リードされてた、だ。うわーちがうぞそんなプレイしたことないぞ。わかってる。ただ「頑なな否定」というのはフロイト的には……やめろってのーもう。あ、たしかトーリ様の曲にあったよなそういうの、なんだっけ、『Weather』……『Leather』? そうそう、たしか測高校の頃よく聴いてたよね。ちょっとかけてみようか。
Look I'm standing naked before you. / Don't you want more than my sex. との唄い出しをハミングしてみる。すげえこと言うよなあ、ピューリタン真っ青。まあね。 weather と leather で踏むってのも、聴かされた後ではああなるほどって思うけどすごいよなあ。本当にね。ケイト・ブッシュの asunder と thunder の韻に匹敵すると思う……しかし、この曲は久しぶりに聴いたけれど、なんて緻密で謙譲な伴奏。の上に乗る、なんて不思議な凝視に貫かれた唄声。ああ、九三、この選曲は正解かも。と言っているのが自分なのかどうか、妙に不埒な訝りを伴いながら、目の前の右頬にふれてみた。どうしたの。その気になってきた、かも。頰にあてた親指をつつと滑らせながら、耳朶をこねるように触れてみる。なんだよ、くすぐったいよ。聴こえない? なにが? 声、私以外の。今のところは、ね。そう……
閉じていてくれたほうが気が楽だけども、こちらから強いて瞑らせるかどうか迷う。などと躊躇していると、あのときは目隠ししちゃったよね。と機先を制される。ごめんね、わたしビビってたから。謝ることない。確かに、これは気まずいよ。あはは、友達どうしでもこんな見つめあうことないもんね。友達どうしで、どうしてこんなことしてるんでしょうね。あは、測さ、いやだったらやっぱ──との、一瞬の隙に付け入って、くちづける。ああ、この感じか。あのときもそうだった。たった数センチの身長差しかないはずなのに、やけに小さく思えるこの──
唇を離すと、目の前の頰がほのかに気色づいていた。やっぱ測、上手いね。そう……? そもそも、あなたそんなに経験あったっけ。少なくとも、わたしがしたことのある人では一番。そう思い込もうとしてるだけでしょう、誰だって目の前に据えられた膳が世界一の美食だと思いたがるもの──との底意地悪い言葉は、もちろん飲み込む。代わりに、不二良より? とくすぐってみる。うん。あいつはまた別の意味で口がうまかったからね。久蔵より? とのくすぐりには、ぶはははは、今その名前出すなよお、と弾けるような笑いで応えられた。ふふ、まだ連絡先残ってるでしょう、電話でもかけてみたら。ははは、今も同じ番号使ってるとは限らないよ。まったく、不二良は何か腹に一物あってあなたに近付いてたのだとしても、あの久蔵だけは理解できないよ、あなたを全くの恋愛対象としてのみ好きになるなんて。なんだよどういうことだよお。言葉どおりの意味。あははは。
ねえ、九三。うん。これはあくまでごっこ遊びだから。私たちどちらも、本気じゃないから。わかってるよ。本気じゃないなら、何をやってもいい……よね。ごっこってそういうこと、のはずだよね。じゃあ、してみようか。うん。
服、気遣わなくてもいいよ。でも、シワになるのいやでしょう。いいよ、そのつもりのだし。まさかこれ、東欧に行った時に着てたやつじゃないよね……あれは捨てたよ、あんなもこもこしたの、九州の冬じゃ使い途ない。そう。うん。
痛かったら言って。倒してもいいんだよ。いや、そこまで深く這入るつもりはないから……ないの。だって。わたしは、きて、ほしいよ。だって恋人どうしなんだよ、それくらい、するでしょ。恋人ごっこね。ごっこが、大事なんだよね……と萎えた語尾を耳元に聞きながら、ふいにビョークの Darling, stop confusing me with your wishful thinking. という一節が頭をよぎる、が、即座に黙らせる。死体ごっこか。目の前の患者を救いたければ、ひとまず人間の身体をモノとして扱わねばならない、という何年か前に付き合いのあった医学生の言葉が急に思い出された。「包帯は私が巻く、あとは神が治す」という決然として聞こえる格言の真の意味は、包帯も巻けない人間が神にすがる資格は無い、という極めて実務的な訓戒だと知ったときには、その酷薄とも呼びうる医し手の心性にいささか索漠としたものだった。それでは私などは失格もいいところだ、医者ですらない人間が、素人治療の帳尻を合わせるためにこんな真似を──いや、逆か。平々凡々な日々の過ぎ行きのなかに、欠くべからざる医しが孕まれている。終わりの見えない羊腸たる耐え忍びのなかに──そういえば、患者と忍耐は同じ語、か。
やっ。何、ごめん。やめようか。いや、いいよ。いいけど、なんかやたらと考え込んでるみたいだったからさ。ごめん、集中するから──逆に集中しすぎてるんじゃないの。そうかな。この枕、脇に置いたら楽になるよ。うん……
や、ぁ。ごめんなさい、痛かった。え、も、もー測ばかじゃん。えっ。痛がってるんじゃないよこれは、普通してたらさ、やあ、くらいの声は出るじゃん。そうかな。ぷっ、ぶはは、そうかなって、すげえ馬鹿面。なに、こっちは真剣に言ってるんだよ。もっとがーってきていいんだよばか、測男とするときもそんな感じなの。いや……それとは流石に勝手が。だからもー、そんな気遣わなくていいって。過保護なのは、厭。
え。え……違うよ。過保護には、してない。え、ええ、測がこんな動揺してるの初めて見たぞ。だって、九三が変なこと言うから……変なのは測だろお。うわーまさかそんな顔するなんてな、カメラ回してたらよかったかな今からでも撮るか。撮ったらこのホテルごと燃やす。冗談でもそんなこと言うなよ。だったら揶揄わないで。おっいいぞエンジンかかってきたな、その調子。やーい血も涙も無い鉄の女あ、アイリッシュ版サッチャーあ。ほんとに怒るよ。もう怒ってるだろー、どーだ悔しかったらこっち、に、あ、
愛することは殺すことではない。そのふたつは同じではない。どう考えても違うのだった。しかし、どう違うのかは誰も教えてくれなかった。殺さずに愛する方法なんて、一体どうすればよいか。ほとんど曲芸ではないのか、お互いの身体を撓め屈め圧しやりながら、それでも決して虐め殺しとは違う歔欷を響かせるなんて。そんなことを、本当に人類はやりつづけてきたのか。私が九三に、いま眼下に組み敷かれているこの肉体に諭し説いてみせたあの言葉は、本当にありふれたことだったのか。言うなればこれは、夜に口を噤んだままではいられなかった楽器どうしの演奏ではないのか。 When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.
心遠い。指先のアルミ缶の冷たさが、辛うじて現実らしきものを繋ぎ留めてくれていた。なに終わってから飲んでんだよ。仕方ないでしょう必死だったんだから。そもそも爪切っときなさいよあなた、こういうことするつもりで来たんでしょう。測こそ肘でおなかに重心かけるのやめろよ、すごい苦しかったぞー言わなかったけど。言いなさいよ。言わねえよ、べつにそんときは佳かったんだから。なに……なに言ったあとで恥ずかしがってるの、馬鹿じゃないのあなた。馬鹿だとしたらわたしら両方が、だ。
大丈夫かな、隣の部屋に聞こえなかったかな。知ったことじゃない。あれ、スピーカー落ちてた……電源切れてるし。ムード出すために音楽かけたはずなのにな、全然気付かなかったな。行為自体が音楽だからでしょう。測って、そういう恥ずかしいこと平気で言うよね。恥ずかしいならもう止めたらいい、音楽聴くこともこういうことも。極端だよなー。でもたしか不二良もそういうこと言ってたな、音楽と求愛は同じって……やめなさい、せっかく終わったのに。あなたそもそも忘れる気ないでしょう。と、お互いに拙くあることしかできない戯れあいの熱を散けさせるための、不毛な言葉の投げ合いだった。うわあもうすぐ二三時。ご感想は。なんの。なんのじゃないでしょう、果たしてこのセクシュアル・ヒーリングに効果はあったかって訊いてるの。ああ、今すぐはわかんないけど……とりあえずは、不二良のとはまったく別だったよ。当たり前でしょう。でも思った以上に測は過保護で怖がり屋さんってのがわかってよかったなー。怖がりって何。傷つけるのを怖れてる、って意味。ああ……まあ、とどめ刺しちゃったら困るからね。少年院上がりがそれ言うと説得力あるな。
まあ、何にしてもね九三。うん? もう二度としないでよ。なにそんなにいやだっ──違う、今日のことじゃなくて。えっ。自殺ごっこなんて、二度としないでよ。ああ……そっちか。当たり前でしょう、そもそもあのせいでこうなったんだから、私たちの関係は。ほんと、いま思い返すと馬鹿なことしたなーと思うよ。自覚があるなら、なおさら誓って。なにを。もう二度としないって誓って。あなたと不二良にどれだけのことがあったか、私は知らない。し、訊こうとも思わない。たとえ未だに、深く根を残してるとしても、全部を根刮ぐことは無理だとしても。それでも、生きていかなきゃいけないよ。うん……ごめん本当。あのときは、心配かけちゃった。謝ってほしいんじゃない、ただひとつ。もう絶対しないって、誓って。うん……もう、絶対しない。
あ、はは、よーやくわかったぞーこの場にぴったりの選曲。と、ベッドの上を跳ねながらiPodに飛びつく。何。あったあったキンキのベスト盤。あはは見てよ測このタイトル、『39』だってよ。わたしの名前逆さにしただけだよ奇遇だね。だから、それが何……と酔いのせいか軽い頭痛を覚えていると、 Bluetoothスピーカーから淑やかなピアノのイントロが流れる。これファン投票のベスト盤の一曲目だよーすごいよね、シングル曲ですらないのにね。ああ……たしか聴いたことが。これ作詞作曲キンキだって聞いたときはウソじゃーん絶対ゴーストじゃーんって思ってたけど、いまの二人の活動見てたら納得だよね、こんくらい作れて当然だなーってなるよね。と、最初から返事など求めていない語りを一方的に放りながら、心配性すーぎーなあなーたはー、電車にのーせーるのーを厭ーがるー、と唄い出す。まるでかよーわーいおんーなーのこー、みたいでなーんだかうーれしいのー。どこがか弱い女の子だか、電車どころかいきなり東欧行ったくせに。ははは。いやこの曲はじめて聴いたときね、わたし、つよしとこういちって絶対デキてるんだと思ってたよ。じゃなきゃこんな歌書けるわけないじゃん。実体験と作品は関係ないから。
でもさ、作詞家の測先生。なに。キンキとか根本要とか、異性の視点からこれだけの歌詞を書けるひとってやっぱすごいなーと思うよね。うん……あれ、どうした、不服? 不服ではないけど……ちょっとね。だってこういう歌詞の書き方は、自分以外の性の立場を搾取してる、とも言えるわけでしょう。えっ。本当は言う権利すら無い、勝手に内面化した異性の声を代弁してる、と。あー……作詞やってる側からすると、どうしても考えざるを得ない。フェアじゃないんじゃないか、って。そっか……確かにね。
いや、釣られて何を言ってるんだ私は。作詞家としての技量では彼らの足元にも及ばない私が、いったい何を偉そうに。ごめんなさい、聞かなかったことにして。いや、正しいと思うよ、測が言ったことも。でもわたし思うんだけどさ……なに。搾取とか代弁とかじゃなくてさ、大事なことは他にあるんじゃないかな。えっ。たとえばさ、間違ってはいないことを、どれだけ美しく言えるか、ってことだと思うよ。本当にいいことって、誰が言ってもいいことだと思うよ。違うかな?
ああ……そう、かもね。でしょ。ごめんなさい、本当にその通りだね。えっやめてよ言い負かそうとしたんじゃないよ。わかってる。でも……少し驚いた。なに。九三がいつのまにか、そんなことを言えるようになってたなんて。はははなんだよ、どんだけ子供扱いしてたんだよ今まで。それも含めてごめんなさい、と思って……
そうか、九三も、もう子供じゃない。それなら。
ちょっといいかな。なに。大事な話があるから、こっちに来て、ちゃんと座って。なんだろ。スピーカーこのままでいい? うん。
生真面目に正座するその姿が、なんだか仔猫めいていじらしくなり、つい頭を撫でてしまう。なーにやめろっての。九三。はいはい。あなたは、もう私なしでも大丈夫だと思う。両眼が頓狂に見開かれる。独り立ちすべきだよ。就職が決まったら、ひとりの部屋で暮らすべき。引越の費用くらいなら出せるから、春までにはそうしよう。こちらの言葉を受けても、さほど驚いたふうはなかった。おそらく、本人にも心の準備があったのだろう。
うん……そうだね。年度末までに見つかればいいけど。きっとうまくいく、はず、これからはね。うん……あのさ、あは、こんなにちゃんと言うの照れくさいけどさ。何。本当にありがとう、測。今まで一緒にいてくれて。測がいてくれなかったらわたし、どうしようもなかった。泣きそうなとき笑い、笑いそうなとき泣く、それが九三だったなと、ふいに高校時代の日々が光って戻った。陽炎めいた酩酊に襲われる、が、目の前の両眼を見据え、気にしないで、お互い様。と返すことはできた。いつか恩は返すから。ゆっくりでいい。ほんとに誓うから、もう二度としないって。それはさっき聞いたから、もう言わなくていい。
その代わりさ、測も誓って。えっ、何を。すくなくとも今夜は、朝まで一緒にいてくれるって。そんな当たり前のこと……との口走りが制される。だって、測と並んで寝るのなんて初めてだし。それに、寒いからさ、あの夜みたいに……ああ。大丈夫、あんなことを思い出させはしな──ちがうよ。えっ。逆だよ、思い出したいんだ。微笑を浮かべながら呟く九三の姿を、なんと形容したものか。まるでショッピングモールの迷子センターに保護されながら泣きじゃくりもせずに泰然として親の帰りを待つ少年のようだった。
思い出したいんだ。朝に目覚めて、好きな人の肩が見えるって光景が、どんな感じだったか。
祈りなのかもしれない、と思った。明日の朝にも、あなたが変わらずにここにいてほしいと望むことは。少なくとも、今すぐいなくなりはしない、と信じることは。
聖夜とやらに男どうしでやりあうこと自体、ひとつの報復なのかもしれない。何に対しての。こういうふうに産んだ誰かに対しての、か。たぶん違うな。もっとどうしようもない、抗いようもないけど抗うしかない何かに対しての。
よかったよ。そうか。よかったならよかった。済んだものを枕元のゴミ箱に放りながら、個室の錠に手をかける、と、ちょっと待って、の声で制された。もうちょっと話してかないか、な。語尾で急に弱気になったのがわかり、不意に噴き出してしまう。いや、いやならいいんだけど。いや、いいよ。いやじゃねえよ。言いながら、また人工皮革張りのマットに寝そべる。
どこ住み。北九。まじか、俺もだよ。そうなのか、いやあ、まさか君みたいな金髪のイケてる子に相手してもらえるとは思ってなくて。そうか? いや、もう今モテるウケって、スリ筋のイケメンばっかって感じだろ。へえ、気が知れねえな。こんなとこまで来て痩せっぽちのガキとやりたいなんてな。言いながら、隣る巨体をあらためて眺めると、なんだか今にも泣き出しそうな気配。なんだどうした、もしかして初めてか。いや初めてじゃないけど、えっと、今までで一番よくて……そうか。こっちもドストライクなタイプ見つかってちょっと驚いてるとこだ。えっ。なんだかすっかり涙声。こん、なのが、か……自分でこんなのとか言うなよ、いいじゃねえか髭クマは需要あるだろ。そんなことないよ……朝まで粘っても一度もないのとかザラだったし……へえ、勿体ねえな。そりゃその場にいた奴らが馬鹿だったんだよ。
ロッカー前まで一緒に戻りながら、連絡先いいですか、とおずおず言うから、なんで丁寧語だよ、と返す。えっ。いいに決まってんだろ。櫟って呼べよ、本名だ。ああ……ありがとう。ええと、伯って呼んでくれたら。ハク。うん。憶えやすくて良いな。ありがとう。
LINEのQRコードをスキャンしながら、あの、引かずに聞いてほしいんだけど、と言い出すから、なんだよ、と返す。いや、むしろ引いてくれていいんだけど……何だよ、さっさと言えよ。あの……やけにでかいサングラスをかけながら言う。おれ、本当はゲイじゃないんだよな。は? 突っ込まれるの好きなのにノンケなのか、無理があるだろそれ。いやそうじゃなくて……とサングラスにかかった指先が慄えている。ああ、そういうことか。LGBTの、T? 首の脂肪に深いシワが刻まれる。どうでもいいよ。首の脂肪がアルパカみたいに伸びる。穴があいてるって意味ではゲイもトランスも同じだろ、まあ同じ人間どうし大した違いはねえさ。え、今の言いかた……あれだろ、 SIMI LAB の『Show Off』の MARIA ヴァースだろ。え、なんで知ってんだ、 SIMI LAB 好きなのか。うん。珍しいな、ヒップホップ好きでこういうとこ来るって。はは、それはお互い様だろ。まあ、な。
今日は泊まりか。まあ。北九のハッテン場でもよかったんじゃねえか? いやせっかくのクリスマスだし、こっちのが人多いかなと思って……久しぶりにこっち来たけど、なんか、福岡市内のクラブ入り浸ってた頃思い出すな。親不孝通りとか? ああ、一時期は通ってたけど……最近はバトル系のシーンがあまり好きじゃなくて、遠のいたかな。俺と全く同じ理由だな。ラップバトルの現場とかな、腐りきってるぞ。ヒップホップって本来、気の利いた表現で他人の愚かさを撃つものだろ。なのにあいつらって、勝つため成り上がるためならどんな下劣な罵倒も平気でやるんだよ。相手のプロフィールにからかえそうなネタがありさえすれば、嬉々としてそれを嘲笑しやがる。お前がゲイなの知ってるぞ、とかな。中坊の陰口と同じだ。えっ、出たことあるのか。ラッパーだよ俺。BargainShadeって名前で活動してた。でももうバトルのシーンとかどうでもいい。どころかもう、自分の人生でさえどうでもいいわ。早く核弾頭落ちてこねえかな、このクソみたいな島国に。
それは、違うだろ。サングラス越しの表情は窺えない、が、声音が変わったのは明らかにわかった。それは違うだろ。ああゴメンな、俺セッキョーかますタイプのやつ無理なんだわ。説教じゃない。だったらなんだ……創ればいいだろ。目の前の身体を見上げる羽目になる。なんださっきよりデカいな、ずっと猫背だったのか。つくるって何を。作品を。なにもヒップホップはバトルだけじゃないだろ、いちから自分の作品つくって、それで認められる、そういう勝ち方もあるだろ。は、今更かよ……もうおせえよとっくに二〇歳過ぎちまったし。無理じゃない。右手をとられる、汗ばんではいないが不思議に熱い。ひとりでやる必要はないはずだろ。何だったらおれもやる。ラップやったことあんのかよ。ないけど……カラオケでしかないけど……じゃあ、今からやればいい、遅くない。勘弁しろよ……だってすごい確率だろ、ヒップホップ好きの男ふたりがこういう場所で出会うって。
ヒップホップ好きの……男ふたりが。
そうか。まだ、誰もいないはずだ。ゲイのヒップホップクルーなんか。いや西新宿パンティーズがいるけど、少なくとも福岡には。
ってことは、これ、あれか。勝算、なのか。
そうだな。えっ。いける、かも、な……ほんとうか。お前こそ本当なんだろうな、いちからラップ始めるって。当たり前だろ、言った通りだよ。よし、そしたらな、うちの姉貴がクラブDJやってるから……トラックなんとかなるかもしれねえ。そうなのか! ちょっと話してみるよ。できあがったら送る。そのかわりお前、本気でやれよ。ヘタクソとは組まねえぞ。もちろん! すぐにいっぱしになるよ! 約束する!
そうだ、どうして思いつかなかったんだ。クソに向かってクソと言うだけなんて、誰にだってできることじゃねえか。そんな場所で腐るつもりだったのか、俺は。
危ねえ。危ねえとこだった。俺が行くべきなのはクラブじゃなかったんだな。出会うべきだったやつは、ここにいた。
生産性が無いんだってよ。待合室のソファに腰掛けながら、テレビ画面に明滅している年末特番の予告に一瞥くれる。クソみたいな年だったな、二〇一八年も、なあ。まあ、良くはなかったかな。これからどんどん悪くなるよ、この国は。俺らみたいなもんの立場もな。安倍晋三閣下の奥方様の不妊治療はよくて、俺らの同性婚の法整備はダメらしい。ああ……クソだよな。知ってたけどな。この島国はクソまみれだ。
なら、どうする。今までみたいにただ皮肉言って終わりか。そっちのほうが、奴らにとっては都合いいだろうな。残念だったな、そんな大人しい真似はもうやめだ。クソをクソと言うだけなら誰でもできる。何の技術も要りはしない。ならどうする。何ができる。少なくとも、俺にはラップのスキルがある、どういうわけか巡り合った相方までいる、音楽らしいことをやるアテも。なら。
闘ってやるよ、クソったれども。これから、今から、お前らの望みもしないものをたくさん産んでやる。お前らは、この世界には自分の望み通りにならないものが存在することを、初めて思い知ることになる。だがそんなのはかわいいもんだ、俺らが今まで味わってきた理不尽に比べれば。そうだ、これはお前らが無視してきた奴らの歌だ。居ないことにされてきた奴らの歌だ。
俺らが唄うべきなんだ。俺らが聞かせてやるべきなんだ。耳を塞いだって無駄だ。そんくらい大声で唄ってやるんだ。俺ら自身の、俺らのための歌を、俺らの力で。
ANDYOURSONG。決まりだ。この名前で勝ちにいく。通り過ぎていった奴ら全員に思い知らせてやる、俺はもうそんなとこにはいないんだと。もう俺自身の栄光なんてどうでもいい。ここからは俺らだ。俺らの歌だ。
04 鯰は生じゃ喰えないはずさ
三名様。こちらのテーブル席よろしいですか。あっ、すいません全席禁煙になりまして。はい。ご注文おきまっ、おきまりになりましたらおよびくださいませ。しつれいしま、あ。忙しそうだね。いや、そうでもないよ。て、か、いつからいたの。いま着いた。注文いいかな? うん。ウォッカとかは無いのかな。中華料理屋だよ、青島ビールとかならあるけど。じゃあそれもらおうかな。喰うもんは? とりあえず今はいい。わかった。タバコいいのかな? あ、ちょっとまって灰皿持ってくる。龍さん? え? 何しよん、後ろのお客さん。あ、すいません、ご注文ですか。少々お待ちください。
龍さん、ちょっといい。はい。あの、全席禁煙やけんね。はい。いやはいじゃなくて、今日なんか灰皿持ってったろ、カウンター席に。え? お客さんに言われた? いえ。やったら持ってかんでよかよ、なんやさっきも空の灰皿えらい洗いよったけど。え、空? うん。そうでしたか。憶えとらんの? いや、火事のあれとかもあるし、灰皿はできるだけ洗っといたほうがいいかなと。え? え? いや、そもそも入っとらんかったから、灰は。そう、でした、か。うん……あと、ビール持ってったら注文入ってなかったとかも、できるだけ無いようにして。はい。小さいことやけどね。はい。まあ、そんくらい。上がってよかよ。はい、おつかれ様でした。おつかれ。
はい、胡麻団子の注文ふたつからとなっております。はい。よっつで、あお持ち帰りですか。少々お待ち、あ。角の席いいかな。あーちょっと待ってまだ片付けてない、いま空けるから。なんだか急かしてごめんね。不二良がそんなこと言うなんて珍しいな。はいどうぞ、何にする、ビール? 龍さん。はい。あの、カウンター席空いたんならお一人様通して、角の。え? いや、いま空けたとこ。はい。龍さ……あーすいませんこちらの席どうぞ。何しよんもう、いいからあっこのテーブル席下げといて。はい。
えっと龍さん、こっちの話聞こえてる? はい。じゃあ言われたとおり動いてくれんな。びっくりするわ、なんかあさっての方向見よう時あるけん。そうですか。ちゃんと寝よる? はい人並み、には寝てると思いますけど。疲れようわけじゃなかろ。はい、多分。そしたらもっとしゃきーっとしてくれんな、どげんしたらいいかわからんけん、こっちも。すいません。うん、まあ明日は休みやけん。はい。じゃ、おつかれ。あ唐揚げ残っとうけど持ってく? あはい、いただきます。
お待たせ。うん、やっぱ日曜は忙しいみたいね。まあねー。あっ唐揚げもらったよ、帰ったらチンして食べよ。いいね、お酒ある? あるけど、んーさいきん測があんま飲ませてくんないんだよー。へえ、同棲してるんだ。うん、あ言ってなかったっけ。もー不二良のせいだよ、いきなりいなくなっちゃうんだもん。ごめんって。ゆるさなーい。もう昨日もちゃんと謝ったでしょ、ごめんなさい九三。ゆるさなーい。ごめんなさーい。ゆるさなーい、は、うそでえーす。ふふっ。あははは。
お帰り。ただいまー。あっ待って、まだお湯張ってないよ。いいよ今日はシャワーで。シャワーでって、風邪ひくよ。いいよわたしらふたりだし、ふたりで浴槽はいったらさ、ざばーってなるじゃん。え? もー測は野暮だなあ、察しろっての。えっと九三……あっごめすぐ行くから。えっとね今日は晩飯いらないや、ごはん余ってたらラップして冷凍庫入れといて。う、うん。
もー測ほんとけちだよ、ビールくんないんだもん。あなたが飲みすぎるからじゃない。そんなことないよー、こっちだってもう大人だっての、自制くらいできるっての。心配してくれてるんでしょ測さんは、いいお友達持ったね九三は。心配するって何をだよー、いいもーん測には唐揚げあげないもーん。わたしたちふたりで食べよ。あっチンするの忘れちった、常温でいいよね。ええ。ねえ九三。あっちょっ、も、いきなりかよー。いいでしょ、仲直りのしるし。もーホテルじゃないんだよここは、聞こえるっしょ。大丈夫だよ、わかったうえで入れてくれたわけでしょ測さんも。そっか。そう、だよね。
ねえ不二良。なに。ほんと寂しかったよ、どうしようかと思ったよ、あのとき置いてかれて。ごめんね。謝ってほしいんじゃないよ、あのときわかったもん、わたし不二良がいなきゃだめだって。うん、わたしも九三がいなきゃだめ。うそだー。うそじゃないよ。じゃあなんで置いてったんだよー。試したかったから、九三を。試すって何を? わたしがいない時間に堪えられるか、を。堪えられるわけないじゃんもう、死んじゃいそうだったよわたし不二良なしで。ごめんね、だからこうして戻ってきたわけ。ふふふ、ほんと厄介な女に惚れちゃったなー。ね不二良、今夜は朝までずっとだからね。もちろん。ぁ、ふじぁ、もう、ほんとわかってるよね。うん。わたしのいちばん痒いところを、いつでも掻いてくれるよね。もちろん。だから好き。大好き。ねえ不二良。九三。不二良だよね。そうだよ。じゃあわたしのしてほしいこと、わかるよね。もちろん。じゃあ、しよう。もうしてるでしょ。そうだった。ねえ不二良。九三。不二良。九三。
「絶不調」をミドルネームにしたいくらいだ。ラッパーとして定期的にステージに立つならいつかこういう日も来るのかな、とはなんとなく思っていた。でも、いくらなんでもこんなんあるか。肝心の九州大会当日の会場入り前に、しかも電車の中で、なんて。
とりあえずは漁火ちゃんの常備のロキソニンに救われた。が、たぶん女子トイレの便器のほうがわたしよりも良い血色してるんだろう。だだだ大丈夫すか刺されたんすか通り魔すかと漁火ちゃんも狼狽してたくらいだし。通り魔にでも逢ったんならベケットっぽくて格好もつくが、毎月の流血に苛まれてるこちとらには、今更この痛みに何の劇的さも見出せなかった。
しかしこれは。本当に。どういう応報だ。ここ数年間なかったレベルのじゃないか。どれくらいかというとラース・フォン・トリアーならまた人類絶滅系の映画を作る動機になりそうなくらい。ちくしょう、男どもはなんて呑気なんだ。何がセカイ系だこの野郎、こっちは毎月ナプキンまで新劇場版なんだよ。んでこの流血がなけりゃとっくに人類滅びてんだよ。わたしらのこれに比べればお前らの世界滅亡の妄想とかオモチャみたいな戦争とかなまっちょろいわ。と益体もない思考を頭蓋の中で転がしでもしないと一秒が数時間のようだ。ねえさん大丈夫すか、と耳元で聞こえる漁火ちゃんの声にさえ応える気力がなく、アイマスクがわりの濡れタオルの触感だけが助けだった。さっき駐車場ついたって言ってたんで、もうそろそろ、あ、きたっす。と、気忙しげな靴音とビニール袋のガサガサが近づいてくる。ねえさんいいすか、身体おこしますよ。せえ、の。
楽屋にポットないのか? 一塁側の通路にケータリングがあるから、そこから取ってきて。ええと一塁側ってどっちだ、と前後不覚な久蔵に指示する測。と、紙コップと生姜湯の粉末パックを持って走り出す久蔵の背中が見えた。ああ懐かしいな、あいつ最初のときもこうだったっけな。ひとりっ子育ちの九州男って月経についてほとんど何も知らないのなって思ったなあんときは、いや無駄な回想なんかに浸ってどうする。カイロ、ひとつでいい? 測の声に、いやふたつちょうだい、と応える。どこ。いや、いい、自分で貼るから。とりあえず包装だけ剥いで……そう、ありがと。漁火ちゃんに背中をさすられながら、下腹にカイロの温みが宿るのを待つ。うー、少なくとも今日は個室の楽屋でよかったあ。あんな予選の時みたいな慌ただしいバックヤードでぶっ倒れてたら、どうなったかわかんないな。おうっ、といつの間にか久蔵が戻っている。たぶん熱いからな、火傷しないように、落とすなよ。と、生姜湯が手渡される。あ、紙コップが二重になってる。なんかこういうのは気が利くんだよな。ありがと。言いながら、鼻先をくすぐる湯気を吹きやり、温みを啜る。
あー……大丈夫か。いまはどうかわからん、けど、ちょっとしたらよくなる、はず、けど、ちょっと今日ありえんくらい重いから、どうなるかはわからんけど。けどが多いな。仕方ないだろもー……と吐き捨てた自分の声がどうしようもなく捨て鉢に響き、遅れてうんざりさせられる。ので手元の生姜湯を一気に飲み下す。とりあえずあと一杯あるからな。ありがと。他なんか要るのあるか。もうとりあえず大丈夫。測、本番まであとどんくらいだっけ。出番はまだ決まってないからなんとも言えないけど、開会は七〇分後。そんとき出順決まるんだっけ。そう。それまではもうずっと寝てなさい。そもそもねえさんステージ立てるすか? それねー、もしかしたらかなり厳しいかもしんない……最悪ずっと椅子に腰掛けて唄うかな、あーでもラッパーなのになあ……今回の曲は起伏を抑えたワンループの構成だから、立ち上がって煽らなくても成立すると思うけど。うーとりあえず開会してから考えさして……言いながら、再び長椅子のうえに寝そべる。解った。私たち、出とこうか。いや居ていいよ、そこまで参ってない。久蔵、いる? おう。ちょうどあんたが来てくれてて助かったあ……ありがと。なんだよ、カイロと生姜湯買ってくるなら誰でもできるだろ。そうじゃなくて、あー……まあいいや。なんだそれ。じゃ、俺もう客席いくからな、なんかあったら電話していいけど。うん。せっかく客として来てやったんだから、パシッと演ってくれなきゃ困るぞ。うん、がんばる……じゃ測さん、バックステージパス返しときます。ええ、私からも言っとく、ありがとう。いいえ。じゃ漁火さんも、本番がんばって。うぃっす! ありがとっす。
ばたん、と無機質な扉の音。測さんって呼ばれてんの。とくすぐってみると、何、もう別に蟠り無いんだからいいでしょう、と不機嫌な声。あいつの運転荒かったろー、ただでさえ福岡の道路あたまおかしいつくりしてんのにそんな車間距離で車線変更するかねって感じでいつもさあはいはい、無駄なおしゃべりしてないでもう寝なさい。と、冷却ジェルのアイマスクを押し当てられる。こんなのも買ってきてくれたんだ。いいねこれ。もう身体やすめるしかないかー。あーやべ急に眠気が……ロキソニンのあれかな……あーどうしよう本番……まあ座って唄うのもアリっちゃアリ……かなあ……『Like A Stone』のビデオみたいで……ああなんで死んだんだクリス・コーネル……なんか、肩の痛み抑えるために飲んだ強めの薬のせいで、薬物依存のときの症状がフラッシュバックしたって聞いたけど……つらいよなあ……人間の精神なんかより身体のほうがよっぽどでかいよなあ……実際……
あ。
すみません、起こしました。や、べつに。あれいま何時だ。時計……うわもう二時間経ってる。測わたしらの出番いつ、と身体を起こすと、自分の膝上に当てられている見知らぬ両手を発見した。あ、さっきの声の主この人か。て、誰。誰だこの人。
ねえさん身体の加減どうすか? と漁火ちゃんが身を乗り出すので、あー、さっきよりは多少は……ていうか、え、だいぶよくなってないか。あの抉るような感じは……下腹にふれてみる、カイロの温みはそのままだけども、なんでだろ、いつも体調を崩した時のイヤな寝汗がまったく無い。あーけっこう気分良くなったかも……やっぱすか! よかったー、やっぱしてもらってよかったすよはかるん! まあ、ね……と、向こうで不審げに足を組んで座っている測が見える。そして目の前には漁火ちゃんと、えと……誰だこの人。
三里と血海、です。え、すごい名前。どこの人だろう。えらい美人さんだなあ、しかも鈴の音みたいな声。膝のふくらはぎ寄りの両脇と、膝を突き合わせたところの少し上、このふたつの経絡が効くんですよ。と、こちらの目を見据えながら訥々と続けている。たぶん余分な熱が逃げてないんだなと思って、三里と血海を押させてもらってました。ご迷惑でしたか? あ、さっきの名乗ったんじゃないのか、ツボの名前か。いやご迷惑だなんてとんでもない、えっと、わたしが寝てた間ずっと? はい、イリチに呼ばれて、ちょっとやってみてって。ね。そうすー、あたしがちぬんにお願いしたっす、ちぬんこういうの詳しいからー。ちぬん……? あ、申し遅れました、知念チヌと申します、私の名前です。あどうも、龍九三と……あれ、チヌ? はい。てことは、今回の大会の……はい、出場者です。だよね、パンフに名前あったよね。そうすー、南のほうの予選上がった中にあたしの知り合いいたんすよ! 漁火ちゃんの。そうすよ、高校のときからのー。ねー。ね。そうか知念って沖縄の姓か。え、じゃあもっと早く言っといてよ漁火ちゃん。言おうと思ってたらねえさんが体調不良でぶっ倒れたんじゃないすかー。まあ、そうだけど……えっと知念さん。はい。おかげさまでだいぶよくなったみたいで、どうやったんですか。掌で暖めただけですよ。三里や血海は強く押さなくても開くんです。上半身の熱を膝から逃してあげれば、少しは楽になるかなと思って。それだけで……すごいな。私もインドで習うまでは内気功なんて半信半疑だったんですけど、いざってとき便利ではありますね。え、インド。はい。ちょうど一年前、だったすか? そうだね。ちょっとムンバイで修行してまして。しゅぎょう。はい。インド音楽の師匠に住み込みで習ってた頃、中国系のお医者さんがいて、その人から内気功も習いました。生理痛以外にも、練習で引きつった筋肉を解すのにも使えますね。へえ……インド音楽ってあれか、シタールとか? いえ、シタールほど有名ではないんですけど、サロードっていう撥弦楽器を。聞いたことないな。三味線みたいなやつっすよ、左手で弦を押さえて右手のピックで弾くっていう。そう、メロディ用の弦が六本あって。でもシタールと違ってフレットはついてないんです。そうなん。サロードの名手は前の世紀にずいぶん亡くなったらしくて、師匠を見つけるのも大変でしたけど、でもどうしても勉強したくて。へえ……それで帰国して、いまベース弾いてるんすよね。ベース。はい、演奏の腕は自分なりに身についたと思うんですけど、そのときの師匠は北インド音楽の中央アジアからの影響について研究してらした方で、その一環でイスラーム圏に居を移すことになったんですね。お前も来るかって言われましたけど、それには最低でもアラビア語ができなくちゃいけないので、断念して帰ってきました。へえ、え、ってことはヒンディー語はできるの。ひととおり、ですけど。すごいな。北インドにおけるイスラームの影響について、か。不二良に訊けば色々わかったかもしれないな、とかいう雑念を搔き消す。そんなとこ通ってきたすからちぬんのベースもすごいんすよお。ね、ベースの弾き語りすもんね。うん。へえ珍しいね、サンダーキャットみたいなこと。それよりもマイケル・マンリングが近いんじゃないかな、と今まで黙っていた測が注釈する。それ聴いたことないな、てか測も知ってるの。さっき動画でね。六弦のフレットレスで、ずいぶん微分音を使ってますよね。はい。びぶんおん? 平均律の一二の分割に収まらない音、西洋基準の話だけどね。あれもインド音楽の影響で? はい。オクターヴの分割って、インド音楽ではどうなってるのかな。とりあえず一二でも分割できるんですけど、それよりも細かいシュルティっていう二二の微分音があるんですね。ラーガの種類によって音程が変わったり、あとフレーズが上昇か下降かによっても変わったりします。へえ……オクターヴを二二で分割するって、どうやって? えっとですね、紙あるかな。これ使っていいすよ。ありがと。と、知念さんと測との間で唐突なレクチャーが始まる。よかったすー、はかるんちぬんのことちょっと警戒してたみたいだったから。警戒、何を? 知らない人に具合悪そうなねえさんの身体さわらすのはちょっと、みたいな。ああ、まあね。でも打ち解けてくれたみたいでよかったー、ちぬんもっと内気な子だったんすよ。そうなん、でもインド行ったりさ、外向的な感じに見えるけど。そうすけど、音楽と数学の話してるとき以外はのほほーんとしてるすよ。そうなんだ。数学……? とこちらのひそひそ話もあちらには聞こえてないらしく、じゃあ通常はこの音名で把握されるわけね? はい、このへんの基礎については日本語訳でも良い本が出てますから、是非そちらを。うん、一通りはわかった。ありがとう。はい。と軟着陸したらしい。知念さん、測と気ぃ合いそうだよな。何が。なんか、勉強家っぽいとことかさ。ああ、まあね。ふふ。あの、たくさんお話できてよかったです。お身体、もう大丈夫ですか? ああ、いやまだ若干あるけど、来たときよりかはだいぶ楽になったよ。ほんとありがとう。いえ。じゃあイリチ、またね。うぃっす! お互い頑張りましょー!
あそうか、出場者ってことは競い合わなきゃいけないんだよな。わたしらの出番いつ? なんと大トリすよおー。うわー、有利なのか不利なのか。今回は対戦カード方式じゃないからね、他の出場者の内容による、としか言いようがない。でもこっからはさ、会場に集まった観客全員の投票になるわけじゃん。だとしたら、この会場内に自分のファン多く呼んだやつの勝ちってことにもなりかねないわけじゃん。主催側はその辺のフェアさとかどう考えてんのかな。考えてないでしょう、「自分のファンじゃない連中も持ってけなきゃ敗け」くらいのアティテュードな気がする。ギリシアっぽいなー、ポリスの統治か。まあ、わたしらもそんくらいのほうがやりやすいけど。
よいっしょ、と上体を起こし、とりあえず軽い目眩以外には不調らしきものはなかった。ただ、まあ、この下腹の具合でステージ跳ね回れるか微妙だなー。ちょっと飲み物もらってくるよ。生姜湯? いや冷たいのがいい、もう一人で動けるから大丈夫だよ。言いながら、テーブルの上のパンフレットだけ持って立ち上がる。とりあえず一時間後にはここにいてね、他の出場者観ててもいいけれど。おう。
楽屋を出ると、さすがにもう始まってるだけあって観客の大歓声が響いていた。なんかのバンドかな。いま一五組目、か。ぜんぶ観たわけじゃないからパンフの内容でしか判断できないけど、予選と比べて良くも悪くも説明しやすいジャンルが増えたな。覆面バンドとかメタルアイドルとか、こういう既に単独ライブ埋められそうな人らが公開コンペ出てくると、逆に浮くんじゃないかな。あーしかし、こう体調崩してると場内販売のドリンク名ですら無神経に思えてくるからいけない。何がブラッディメアリーだよ、ブラッディじゃないメアリーがいるなら会ってみたいわ。お、着信。久蔵だ。
はい。体調どうだ。まあ万全ではないけど、さっきよりはマシだよ、ありがと。おう。トリらしいな、かっこいいとこ見せろようちの生徒にも。え、え、連れて来てんの。三人な、ヒップホップ好きのやつらを。バカか。何がバカだ、せっかく得票率増やしてやってんのに。そもそもお前らが最初にバズったあれのこと、うちの生徒のせいで知ったんだぞ。まさか元カノってことまでバラしてないよね。言ってるけど。大バカ野郎だお前は。なんでだよ、自慢したくはなるだろ身近に有名人がいたら。有名人いうな、なんでそう俗っぽいかなー久蔵は。なんだったら後で応援のメッセージでも言わすか? いまちょっとビール買いに来てて席外してるけど……いいから、なんか余計緊張するから。お前は出番までの間に数学でも教えてろ。ああそういえば図形の問題やらせてるときにな、一回お前らの曲かけたことあったな。何してんの。だって、ファンクって微分だろ? は? 何、もう、わけわからんこと言うな久蔵のくせに。じゃー応援だけは受け取っとくから。なん、さっき心配してやったのにもうそれか、との物言いを最後まで聞かずに切る。
あーもう、ファンなー。なんか照れくさいから今まで避けてきたけど、そうかわたしらにもファンくらいいるんだよな。そもそも漁火ちゃんも、もともとキュウゾウのファンのひとりだったわけだし、と益体もないことを考えながらコップ二杯分の緑茶を飲む。なんか腹に入れとくべきか。でも下手に重いの喰ってもな、チーズサンドビスケットくらいでいいか。あっおいしいこれ、はちみつ入ってる。そっかちょっと加えるだけで全体の味が変わるんだよな、音楽でも。わたしらの新曲どう受け取られるかなー。前のよりアグレッシブじゃないけど、でもワンループのファンクの良さがわかる観客ならビビッとくるはず、と信じたい。あの漁火ちゃんのギターリフもイルだし。そもそもファンが何を望んでるかなんて気にしてどうする、そんな器用じゃないだろ。とか考えながら楽屋に戻ると、なにやら荘重な音楽が耳に入った。
あねえさん、と測のスマートフォンを覗き込みながら漁火ちゃんが言う。これっす、ちぬんのやってる音楽。あ、ネットにあんの? そうす、公式のチャンネルに。これはあなたも見ておいたほうがいいかも、と液晶画面をこちらに向ける測。いやー本番前に余計な情報入れたくな……の語尾が萎え、いつのまにか目が釘付けになっていた。白皙という形容がぴったりな女性が、座位で抱えたフレットレスベースを神妙に爪弾いていく姿。打音ごとに揺らされる音程は霊妙というよりもむしろ周到で、おそろしく制御されながらも不思議な優美さを響かせていた。と、見入ってるうちに再生が終わる。おー、こんな感じなんだ。ライブではもっと違うパフォーマンスらしいんすけどね。すごいねー。でも、これに歌を乗せるとなるとどうなるのかな。えっ知念さんって歌もやるの? さっきベース弾き語りだって言ったでしょう、パンフレットにも「ラーガとターラの両方を掛け合わせた朗唱スタイル」とあるし。そっか、ひとりでどっちもやるのか。んーしかし知念さんマメに更新してるんだな、わたしらもサンクラだけじゃなくて動画もあげたほうがいいかな。と言いながら液晶画面をスワイプしてみる。さすが、コメントいっぱいついてる。「こんどの九州大会がんばってください」、「チヌちゃんがぼくの推しです」……この推しって何? すごい、そんな訓み方初めて聞いた。なんだよ教えてよー。あなたは知らなくていいよ。まあ「推し」っていうのは、簡単に言って部分対象みたいなもの。アイドルだの俳優だのに一方的なファンタジーを投影したりとか、それで自分にとって不快な刺激が出てきたら勝手に失望してブログに長文を書き連ねたりとか、そういった流れの現代病。へえー、なんか楽しそうじゃん。楽しそうっていうか呑気だよね、自己愛の延長で失恋を繰り返す人なんかに似てる。うわーどのコメントにも逐一返信してる……律儀、って言っていいのかなーこれ。強迫的ではあるのかもね。「なんだか女のベーシストってエロい感じする」……うわキッツ、未だにこんな感性のやついるのか。まあ、「ベース女子」とかいう恥知らずな特集が通ったくらいだし、キャラクタライズとしてはありふれてるんでしょう。あったなーそれ、「黒いグルーヴ」特集も大概だったけどさ、あいつらリスペクトづら下げて差別と搾取を同時にやってることにすら気付けてないんだからほんと終わってるよな。はい、もう返しなさい。余計なもの読まなくていいから。
んー、と、ちょっとひっかかることがある。どうしたの。知念さんってさ、漁火ちゃんと同じ地元? 沖縄生まれって意味では同じすけど、あたしは本島でちぬんは宮古っす。宮古島か、たしか結構遠いよね。はい、でも宜野湾のジャズクラブで定期的にジャムセッションがあって、ちぬんもそこに来てたんす。高校生のとき? そうす、学校は別だったすけど、そこですぐに仲良くなって。そんときからベース弾いてたんだ。フレットレスではなかったすけどね。今のスタイルになったのは東京の大学行って、色々あって、インドで修行してからかなー。その、色々、について訊いていいかな。んー、あの頃あたしも東京出たばかりであまり連絡とってなかったんすけど、たしかちぬん法政大学の理工学部入って、すぐ中退して東大に入り直したんす。え。はかるん、文三ってあるんすか? 東大の文科三類ね。はい、よく知らないんすけど、そこのインド哲学科で勉強するために入り直したらしくて。へえ、イン哲。わざわざそこに入りたくて東大に、って相当ね……なんか数学だけじゃだめだって悩んでインド哲学行ったらしくて、でもそこも中退して、もう数学と哲学を両方やるには音楽修行しかないって、それが一年前すね。あのときの電話いまだに憶えてるなー、えらい思いつめてたぽかったす。へえ……失礼かもしれないけど、すげえ変わった経歴だね。そうすね、実家のほうは宮古の不動産で儲けてたらしいんで、お金には困らなかったらしいんすけど。そっか。でも、入院してた頃はだいぶ心配されてたみたいっす。入院? いや怪我とかじゃないんすけど、たしか石垣島の精神病院だったすかね。え。なんてったっけ、ひていけいせいしんびょう……否定形? 非定型、ね。亜急性で、意識障害を伴う癲癇寄りの病態、だっけ。測なんでそんなことまで知ってんだよ。なんでって勉強したからだよ、あなたに幻聴があった時期に。あ、そういうことか。そんなんあったんすか。あーいや漁火ちゃんは知らなくていいや、昔のことだし。彼女、随分と落ち着いた挙措だったけど、非定型精神病と診断されたことがあるわけね? そうす、そのせいで上京も一回とりやめになったのかなー。でも、ちぬん別にそのこと隠してないっすよ。え? バイオグラフィにも入院のことは書いてたはずっす、えと、公式チャンネルの、これ。どれ。あほんとだ、随分さらっと書いてるな。本人としては全部知ってもらいたいってことなんじゃないすかね。
で、何。え? それを聞き出してどうするの。あなたらしくもなく、他人の詮索みたいなことしてるけど。いやそんなんじゃないよ、ただ知念さん、第一印象よりも随分複雑な人だなーと思ってさ。複雑。うまく言えないけど、話してるときもなんか幕を一枚隔てた感じっていうか……誰とでも気易く話せるあなたみたいなタイプのほうが珍しいの。うるさいなー。というかね、九三。なに。あなただって危なかったんだよ。えっ。精神病とは言わないけど、日常生活が阻害されるくらいの幻視と幻聴があったんだから。ああ……たしかに、そうだ、な。だからといってね、そこから殊更に彼女に対して親近感を抱くのも、私はどうかと思うな。なんだよ、そんなこと言ってないだろ。さっきだって向こうから色々話してくれたわけだしさ、そんで同じステージで競う相手なら気になるじゃん。
そういえば、と漁火ちゃんが唐突に語尾を切る。なに。なんか、ちぬんえらい気にしてるみたいでした、南のほうの予選で言われたこと。言われたって誰に。対戦相手に。さっき聞いたんすけど、ちぬん予選では不戦勝だったらしいんすよ。ちぬんが先攻で、そのパフォーマンス見た対戦相手が棄権して。その時に言われた「同じ土俵で勝負できる音楽じゃない」って言葉が、いまだに気になってるらしいんす。え……? そんだけすごかったってことかな。かもっすけど、なんかそれだけじゃないっていうか……と、珍しく漁火ちゃんが言葉を詰まらせている。「同じ土俵で勝負できる音楽じゃない」、か。はい。ちぬん、今日のライブでその言葉にけりをつけられなかったら、また修行するつもりらしいす。え、また。ていうかけりをつけるって何。わからんすけど、ちぬんなりのケジメ、みたいなことなんすかね。
沈黙。
そろそろ出番だけど。えっ。彼女の。そっか。そうでした。観にいってみよう、か。そうすね。なら、行きましょうか。
二階席から見えるのはステージよりもむしろ客席のほうで、アリーナ席の客層がどんなもんかくらいは概観できる。席番号指定あるわけじゃないから、フェスみたいに客層入れ替わるんすね。だね。あの最前列のほうみんな知念さんのファンかな。でしょうね、見るからに後ろの方とは違うし。あのなんか……キラキラ光る玉のイルミネーションみたいなやつは、公式グッズなん? 彼女がファンに直接こうしろって呼びかけてるわけではないと思うけど……まあ現代的ではあるかもね、演者じゃなくファンの義務感でルックが決まる感じは。漁火ちゃん、さっきの公式チャンネルのやつ見して……そう、下のコメント欄のとこ。あー、さっき読んだときはこれどういう意味なんだろって思ったけど、なんかファンダムで共有されてるタームがあるのね……ハッシュタグ #知念チヌ下克上2019 って、なんだこれ。勝手に「下」にされたらたまったもんじゃないだろ。だから、言葉が雑な人らのコメントなんて読まないの。でもさ、知念さんがどういう層に受け入れられてるのか腑に落ちてきてさ……この「私も鬱で毎日生きづらさを感じてるんですけど、チヌちゃんの音楽に元気をもらってます!」ってコメントさ、いや元気をもらってるのは良いと思うけど、でも非定型精神病と鬱病は全く違うよね。そうすね。「チヌちゃんも闘病しながら音楽頑張ってるんだから僕も頑張ります」ってさ、知念さん今も通院してるの? いや、一度入院経験があるだけだったはずすけど。「鬱フェスのアーカイブ配信でファンになりました」……あれか、アーバンギャルドのやつか。そんな仕事も受けてるんだな……ほらもうしまいなさい、始まるよ。
暗転とともに、アリーナ席から歓声が上がる。ステージ中央に絞られたスポットライトから、胡座の状態でフレットレスベースを抱えた女性の姿が浮かび上がる。亜麻っぽい生地の五分袖シャツに、背中まで垂れた黒髪に、額には幾何学模様のチャームがついたヘッドバンド。やっぱステージ映えするなあ……なにしてるんだろ、あれ、チューニングかな。インド音楽の楽器は温度や湿度によって調律が揺らぐから、ステージ上で調弦するのも含めてパフォーマンスだって言ってた。そうなのか。でもあれベースじゃん……? ぽうんっ、というナチュラルハーモニクスの音に続いて、両手タッピングによるベースライン、というか、弦楽器と打楽器が渾然一体となったようなフレーズが奏でられる。なん拍子……七? だだっ広い会場にこんな繊細な音が繰り返し響くと、さすがに非現実感みたいなのを伴ってくる。七と八の複合ね。反復されるフレーズの拍を取りながら測が言う。ルーパーで基本のリズムを反復させて、その上に演奏と歌唱を乗せるのか。弦楽器の弾き語りではよく見るけど……と、繰り返されるリズムの規則性にも耳が慣れてきた頃、胡座のままマイクホルダーを調整していた彼女が、ついに口を開いた。
なにあれ。
あれっていうか、なにあれら。
明らかに、ふたつあったよね……リズムのことだろ。そう、六弦ベースで鳴らされるハーモニーと、口で唄われるメロディのリズムが、明らかに分裂してた……ループのフレーズとも違ってたよな。というか、あのループを基底とした拍の分割が、ほとんど数秒ごとに変わっていってた、しかもベースとボーカルの両方で……ああそうか、基本が七たす八で合計一五の拍だから、三で割ることもできるのか。それにしても、あれは……測、絶対音感ないよな。ないけど。なくてもわかるよな、なんか変だったよな、ピッチ。ベースとボーカルどちらの? たぶん、両方。そうだね、ベースの複弦でハーモニーをやってたけど、でも本来インド音楽って西洋的なハーモニーとは相容れない単一線的な音楽のはずでしょう。しかもベースってコード楽器じゃないしな。それもだし、ベースの演奏で微分音を多用するのは知ってたけど、ボーカルのピッチも明らかに平均律に則ってはいなかった。
てことは、
インド音楽を基底として、
その上に西洋的なハーモニーを重ねて、
しかし奏でられるベースとボーカルは西洋基準の調律ではなくて、
さらに調律のみならずリズムまでもが常に分裂している。
「同じ土俵で闘える音楽じゃない」。たしかにね、こりゃ無理だわ。まず彼女はあんなにも矛盾した要素を詰め込んでる。矛盾をそのままに並び立たせる音楽をやってる。でも観衆は彼女の混淆した音楽性よりも「精神病を負いながら活動する美貌の女性ベーシスト」の物語に持ってかれる。喰い違ってる。彼女の音楽そのものの複雑さだけじゃなくて、それを受け取る観衆との間でも喰い違ってる。そりゃ無理だわ。こりゃ喰えないわ。知念チヌ、あの子、何重苦だ。音楽に傾けてきた情熱だけでも相当なものだろう、理論と実践の両方において。なのに、観衆にはそれが伝わらない。見栄えのいいイメージと俗耳に消費されやすい物語が先に立ってしまう。じゃあ、彼女は、自分が世界に捧げるために調えたものを、いつになったら喰ってもらえるんだ。
測、これ無理じゃないか。何が。まさかあなたも棄権するつもりじゃないでしょうね。そうじゃないよ、そうじゃないけど、なんていうかさ、もうこの大会がどうとか関係なしに、知念さんが上がってくれたらそれでいい、って思っちゃってさ……あなたまでそっちに持ってかれるの。言っとくけどね九三、それは……わかってるよ。病気した人の苦労は報われるべきだとか、病んだ人の創る作品は深遠で美しいだとか、逆差別はくそくらえだよ。わかってるならいい。でもさ、なんか今の五分足らずの演奏聴いただけでどっと疲れた……それはわかる、情報量が凄すぎるものね……やっぱちぬんすごいじゃないすかー! ええ。漁火ちゃん、あれ聴いて疲れなかった。全然すよー、あたしちぬんが今どんな音楽やってるのかまでは知らなかったすけど、相変わらずクールでファンキーじゃないすか! ファンキー? あれのどのへんが……
あ。
「だって、ファンクって微分だろ?」
数学。えっ。知念さん、音楽のほかに数学にも執着してた、んだよね。そうすよ、高校の頃から。で、大学の理数科入って、イン哲行って、そっからインド修行、だったよね。そうす。
もしかして。測、わたしらさっき「分裂してる」って言ったよな、あの音楽のこと。ええ。でも違うんじゃないかな、もしかしたら全部、辻褄合ってるんじゃないか。えっ。要素は全部揃ってる、ただそれを結びつける線が、こっちに見えてないだけ……
ファンクは微積分、か。なるほど久蔵、そういうことか、あんたが言ってたのって。今回の曲のビート、ワンループで作っといてよかったぜ……何その語尾。測、漁火ちゃん、楽屋戻るぞ、作戦変更。また? なんっすか? いいから!
測、紙とペン用意して。これでいい。おう。漁火ちゃん、ちょっと今回の曲のオケ流しといて。はい。『Nasty Booty』のインストゥルメンタル版を流しながら、おおざっぱな構成表を書く。まずヴァースからフックまでひとまわしやって、ふたまわしめからは、途中で各セクションの拍子を変える。ビートはループさせたままで、っすか? そう。精確には、測はずっと四拍子のコンピングをキープしたままでいい。はあ。ただ漁火ちゃんは、ヴァースのリフを三拍子にして。ていうと……えと、あのリフたしか一拍目と四拍目のフレーズが一緒になってるすから……そう、それをひとつにすれば一拍浮くっしょ、そうすれば三拍子でループできる。で、ビートは四拍子のままっすから……四小節ぶんをひとまとまりとすれば、ビートが三回ループするあいだにあたしのギターは四回ループする、てことすね。そう! 要するにポリリズムね。で、そのリズムの上であなたがラップするってこと? するけど、更にわたしのラップを七拍子にする。はあ!?

つまりこうだよ、と紙の上にギターリフとビートとボーカルのリズムパターンを書き出す。全体を八分音符で換算すれば、さっき言ったビートとギターが一周するまでの総拍数は九六だろ。ええと、さんがろくでそれがよっつでよんかいループして……そうっすね。で、これをかける二して一九二拍。そこにわたしの七拍子取りのラップも同時進行するわけだから、四小節の六ループ進んで一六八拍消費した瞬間に……のこり二四拍すから、あ、あたしのギターのケツと一致するっす。そう! この残り二四拍をトップオブザヘッドでやって、全部のパートの拍が一致した瞬間にフックに入る。オケのほうはずっと同一のドラムスとベースのループだから、測のキーボードと漁火ちゃんのギターが動けばヴァースとフックの切り替えは自在にできるだろ。

……つまり、この前ANDYOURSONGがやってた偶数ビートと奇数ラップのポリリズムを、より数学的にやるってことね? そういうこと。まあね、不可能ではないけど……九三。なに。言いたくないけどね、あなたはそこまでリズム感が精緻なラッパーじゃないよ。単一のリズムの中でフロウするスキルは優れてると思うけど、ここまで厳密な譜割りをこなせるかどうかは疑わしいと思う。拍を見失ってグダグダに終わる確率の方が高い、それでもやるの。やるよ。もともとマスな構成の曲だからそんな無理はないはずだろ。いま打ち合わせしたのを、ふたまわしめにぶっ込むだけ。特別なリハーサルは要らないし、持ち時間はギリ超えないはず。
ひとつ訊いていい。なに。どうしてそこまでするの。知念さんのために、ってことか。と訊き返しても、測はこちらを問い質すときの顔で黙している。じゃあ、もう、こう答えるしかないだろ。
聞こえた、気がしたからだよ。何が。悲鳴が。私をちゃんと聴いてくれって悲鳴が。「同じ土俵で闘える音楽じゃない」、そう思われてきたんだろ彼女は。熱心なファンはいるみたいだけど、でもどう考えても喰い違って伝わってるだろ。あなただけは正しく理解できてる、ってわけ。九三、それはむしろ傲慢──でも聞こえたろ、測も。双眸が丸く見開かれる。測も、昔わたしのそれに気付いてくれたろ。来てくれて、治してくれたろ。それと同じことを彼女にもやる、音楽で。それくらいしかわたしにはできない。
はあっ、と歎息。音楽で、ね。おう。さあ漁火ちゃん、いきなり変更でごめんだけど、しっかりこなせるってとこ見せてもらうぞ。もちろんっすよ! ねえさんだって途中でオチたらフォローできないっすよお。なめんなよー、こちとらリズム感以外は何もないんだ、ラッパーだからな。あはははは。わははははは。
つらいよな、自分と同じ土俵の上に、誰も来てくれないってのは。せっかく調えたものを、喰ってくれる人がいないってのは。知念チヌ、いや、もう君の名前なんて問題じゃない。君が何者であろうと、もう独りにはしない。だから、こう呼ばせてもらう。
同志よ、ミュージシャンよ。
待ってろ。今、そっちに行く。
パンツの中にヒアリがいる
タランテラ噛むから鳴るheel
最も人間的な部位
mo’ sweet jive on ya Nasty Booty
パンツの中にヒアリがいる
ガラガラヘビ踏み砕くheel
アステアの ass にジーンと痛む蹴り
ここまではいい。セカンドヴァース。次の小節の四拍後だ、精確にはここから倍取りだから八拍後。いいな測、漁火ちゃん。いくぞ。

こっから。こっからだ、あとギター四ループぶん。
踊るには必要なのだケツが
月に一度は屍山血河
だが知ったことか再点火
友よ血義理の酒杯だ blood on blood
合った。合った。合った。
パンツの中にヒアリがいる
タランテラ噛むから鳴るheel
最も人間的な部位
mo’ sweet jive on ya Nasty Booty
パンツの中にヒアリがいる
ガラガラヘビ踏み砕くheel
アステアの ass にジーンと痛む蹴り
godspeed on ya Nasty Booty
あぶねー、オチるかと思ったー。おー、すげ、歓声。ちゃんと伝わったか。だよな、頭でバーっと揃うの気持ちいいもんな。久蔵どのへんにいるんだろ、ちゃんと見えてるか。知念さん、見えてたか。わたしたちの音、聴こえてたか。
しんどかったー。いやー一瞬いまどこにいるんだろうって思ったすもん、ねーはかるん。いや、私はずっと同じコンピングの繰り返しだからむしろ退屈だったけど……あはは、でもあの緊張から解放される気持ちよさはんぱないなー。緊張と弛緩ね、あなたに一番似つかわしくない言葉。なんだそれー。そういうディシプリンとは程遠い音楽のはずだけど、ファンクって。だから意味を広げたんだよ、わたしらが。
で、いかなくていいんすか。えっ。ちぬんのとこ。楽屋すぐそこっすよ。そう、だね。まだいるかな。いなかったら追いかけるでしょう、最後まで責任持ちなさい。わかってるよ。じゃ二人とも荷物持って、忘れ物ない? よし。
あっ。と、ヘッドバンドを外して顔を洗ってるところらしかった。九三、さん。ども、いきなり来ちゃってごめんね。いえ。あの、おめでとうございます。ありがとう。ちょっと話していいかな? はい、ちょっと待ってくださいね。と言いながらマフラータオルで顔を拭っている。
本当に、おめでとうございます。二階席から見てましたけど、すごい演奏でした。ちぬんもすごかったすよー、あんなのできるようになってたんすかー! ふふ、練習したからね。ねえ、知念さん。はい。わたしらさ、知念さんのパフォーマンス見て、直前で変更したんだ。なんつうか、知念さんが独りでやってたことを、わたしらは三人でやったらいいんじゃないか、って。やっぱりそうだったんですか。わかった? はい、分裂させながらまた一つに戻る、コンセプトが同じでしたから。正直、どうだった。正直、ですか。うん、なんだパクりやがってこの野郎とか、なんでも言ってくれていいから。ふふっ、正直、正直ですね。うん。初めてだ、って思いました。えっ。初めて、初めて私と同じようなことを考えてる人に逢えた、というか……初めて、私のことをちゃんと聴いてくれた、ひとがいた、というか……ごめんなさい、気持ち悪いですよね。いやなんでだよ、そうしたかったんだよ。えっ。「同じ土俵で闘える音楽じゃない」、わけじゃない、ってことを、わかってほしかったんだ。
知ってたん、ですか。うん。イリチ。ごめんっす、言っちゃったー。ふふっ、と口笛のような苦笑が漏れる。正直、またやり直しかな、と思ってました。やり直し。目を伏せて頷く。私なりに、真剣に音楽をやってきたつもりだったんです。でも、どんなに頑張っても、なにか伝わってなくて、なにかずれていて……伝えようとすればするほど、なにも響かなくなっている、気がしていて……でも、そうじゃなかったんですね。ふうっ、と漏れた息でひとすじの髪が揺れる。
良い人たちと出逢えたね、イリチ。ほんとっすよー、そんで今日ちぬんにもまた逢えたすもんー! ふふっ。九三さん、測さんも。うん。ええ。ありがとうございました。私、もっと、もっと続けてみようと思います。すくなくとも間違ってるわけじゃない、ってことが、今日やっとわかりました。無駄じゃない、ってことが。そっか。両眼を瞑りながら頷く。だから皆さんも続けてください、またどこかで会いたいから。うん。ええ。全国大会、がんばってくださいね。おう! やるっすよー! じゃあ私たち、ひとまずこれで。うん。じゃあね知念さん、道中気をつけて。はい、あ、の。うん? ちょっとだけ、イリチと、話していいですか……ふたりだけで。うん、もちろん。じゃあ漁火ちゃん、わたしら駐車場らへんにいるから。うぃっす、あとでいくっす。
ほんとうに、良い人たちだね。でしょー。イリチのまわりには、自然とああいう人たちが集まってくるんだよね。そうすかね。そうだよ、初めて会ったときから。私ね、羨ましかった。あなたは、音楽さえあれば、誰とでも仲良くなれちゃうから。そりゃーちぬんも同じじゃないすかー、だってあたしらが仲良くなったきっかけも音楽でしょ。違うよ。えっ。私もね、そうかもって思ってた。自分の気持ちがわからなくても、音楽を使えば伝わるんじゃないかって。でも、ずっと勉強するうちに、どんどんわからなくなったんだ。入院してた時期、っすか? うん。数学は子どもの頃から私の友達だった、数は怒ったり悲しんだりしないから。でも、ジャズのレコードを聴くようになって、音楽が好きになって……演奏も勉強していくと、実は音楽理論にも数学が深く関わってるんだ、って。そうっすね。そこから、どんどん、わからなくなって……音楽にも数学にも、私の気持ちは必要なのか不要なのか、もうわからなくて。いつのまにかインドにまで来てたけど、どれだけ勉強しても、結局のところはわからなくて……ねえイリチ、どうしてなんだろ。え? どうして私にはわからないのかな、あなたには軽々とこなせることが、私にはできない。あなたと宜野湾で演奏してた頃の、あの感じが、いまだに掴めない。一〇代の頃には掴めてたあの感じから、どんどん遠ざかっていくから。
そりゃー、簡単じゃないっすか。えっ。ちぬんちょっと右手、いいっすか、指、こう。こう……? そう、いち、っす。いち……で、あたしも、いちっす。いち。で、これ合わせたら、に、じゃないっすか。うん。いちといち合わせたら、にになるでしょ。うん。それっすよ。えっ。音楽も数学もそうでしょ、いちだけだったら、なんもはじまんないじゃないすか。いっこ音出しただけじゃ曲にならないすよ。にこめの音、拍があって、曲になっていくでしょ。あたし数学は全然わかんないすけど、いちだけだったらなんにもならないじゃないすか。あ……ああ、そう、だね。でしょ。だから、こうっす。いちといち合わせたらにになるっす。そしたらその先ができて、さんとかよんとかろくとかじゅうにとかになって、もっと面白くなるっす。色んなことができて、色んなのが出てきて、アガって、楽しくなるっす。そういうことじゃないっすか?
……そっか。でしょ。どうして私、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう。いちたす、いち……そっか、独りでやらなくてもよかったんだ。そうっす。インドで習ってたときも、私の周りには色んな人がいたはずなのに、私が持ち帰ったのは、私のためだけのものだった。そうなんすか? かも、しれない……だから私は、どんなに勉強しても……いや、多分すけど、そういうことですらないすもん。えっ。だって、ちぬんあたしと初めて演奏したとき、わざわざ宮古から来てくれたじゃないすか。うん。あっ……そうか。そうす。そのとき、もう、にになってるじゃないすか。同い年でこんな巧いベーシストいるんだーって、あたしすごい嬉しかったすもん。でもちぬん、あのあとあんまり来なくなったからあ……あたしも上京前にもう一回くらいしたかったすよ。そうなの。そうす。あたしも上京したてでローディーとか楽器屋とか忙しくて、ぜんぜん帰れなかったすけど、かあちゃんから宮古の知念ちゃん東京の大学いったよおーて連絡があって、わあ会えるかなあて思ってたら色々大変そうで、たまに電話くらいしかできなくて。そう、だったん、だ。インド行くってきいたときはびっくりしたすけど、やっぱちぬんはすごいな、本気で勉強したいんだなあって。ふふっ、全部、あなたと演奏した時から、始まってたことなのにね。あははー。
遠回りしちゃったなあ。苦しかったすか? 半分はそうだったかも。でも、あの遠回りも全部、ここに戻ってくるためだった、のかな。全部、準備されてた。そうそうそう、あたしもねえさんと、あねえさんって九三さんすけど、ねえさんと会ったときもそうだったすよ! たまたま設営のバイトしてて、そんとき知り合った人がまさかのキュウゾウで。あたしまさか毎日聴いてたラッパーとバイト先で会うことになるなんて、思いもしなかったすもん。ふふ、そうなんだ。それで組んで今日ここっすからねー、やっぱ最初から準備されてるんすよ! 遠回りもぜんぶ、悪くないっす! そう、だね。そーだちぬん、93にベーシストとして加入しません? えっ。ちぬんと組めたらあたし百人力っすよ、あと凄腕のドラマーも入れたら完璧だなー。そしたらもうヒップホップクルーつかバンドすけど、絶対イケるすもん! どうすか、あたしからねえさんにお願いするんで! ありがたい、けど、ごめん、今は無理かな。えー、ヒップホップじゃだめすか? そうじゃなくて。素晴らしいと思うよ、イリチの今いる場所は。でも、そこに加わるには、私がまだ足りてない。たりて? うん。もう一度、いちから、組み立てようと思う。散らかったものを整理して、作品にしようと思う。今度は一人じゃなくて、たくさんの誰かたちと共同で作業して、ひとつの音楽作品にする。それからじゃ……だめかな? サイコーじゃないっすか! ソロじゃなくてバンドってことすか? バンドでなくても、リズムやハーモニーは私以外のミュージシャンにお願いして、もし可能ならインドからゲストも呼んで……いいじゃないすかー! ちぬんの実力と知名度ならいけるっすよ、あたしも一曲くらいギター弾いていいすか? もちろん、あなたを呼ぶに相応しい曲が作れたらだけど。やったー! 言ったからにはやらなきゃだめすよ、約束っすよ! うん、約束。
そーだ、今日まだ時間あるすか? え、何の予定もないけど、何? ベースあるすよね、じゃあ一緒にやりましょ、初めて一緒にやったあの曲。えっ。ドラムスなくてもじゅうぶん成立するすよ、ほら出して出して。あっ、あの曲……ずいぶん弾いてないけど、ちゃんと憶えてるかな。ちょーっと待ってえ、たしか、あったっす譜面! あはは、書き込みいっぱいだ。もしかして、あのジャムセッションで使ってた譜面? いつもスタジオの空き時間とかでおさらいしてるっす。ふふ、変わってないね。そうかもっすね。ふふふ。あははは。
なつかしーなあー、この曲録ったときのジャコパトいくつだったんだろー。さあ。たしかメセニーがにじゅういち? のときっすから、みっつうえだから、にじゅうよんかなー。たぶん。もうすぐ私もその齢だね。ちぬんならまだいけるじゃないすかー、だってメセニーじゅうはちんときから大学のセンセーだったんすよ、もうその時点で勝ち目ないっすよおー、天才ってやだなあー。ふふ、アンプ無いけど聞こえるかな。ふたりだけだから大丈夫っす。イリチ、もっとこっちに来てくれる。その、よく聞こえるように。いいすよ。じゃあ、カウントからのギター始まりで。いくっすよおー。ワン、ツー、
煙草、一本ちょうだい。お珍しいな、測のほうからって。なんだか今日はやたらと頭を使ったからね。ほい。なんかあれらしいね、脳のシナプスをバチってさすの、アセチルコリン? それを活性化させるにはニコチンを外から入れるしかないらしいね。だから作家のひととかあんな煙草ばっか吸って……そんな話はどうでもいいの。なんだよ感じ悪いな。ねえ九三。なに。どうしてあなたは、そう、誰彼構わず助けるの。えっ。前もそうだったでしょう、あのANDYOURSONGの櫟くんに、ずいぶん親身な説教したとか。えっなんで知ってんの。この前焼肉行ったとき話してたでしょう。そうだっけ、あんとき酒飲みすぎて憶えてないなー。はっきり言うけど、悪い癖だよ。なにが。知りもしない他人に深入りして、重大な影響を及ぼしかねないレベルで関わるなんて。だって……それ、測がしてくれたことじゃん。独りでどうしようもなくなってる人がいたら、助けて、あげたいじゃん。それもだめなのかな。だめではないけど……心配になるから、いずれあなた自身も深傷を負うんじゃないかって。深傷ならもうじゅうぶんもらったろ。わかんないな、だからやっちゃうのかもしれないな。傷ついたから? まあ、昔のことだけどさ。喚ばれたら往かなきゃいけないって、いつか測も言ってたろ。そういう意味で言ったんじゃないよ。いや、同じだと思うな。もらったものは、返すしかない。音楽でも言葉でも。それでなにか動きそうなら、黙って座ってるのはナシだよ。
されたことを返すしかない、か。自分がされたことを、他の誰かに。もちろんそれが、単なる傷つけあいに終わるかもしれないとしても。あるいは、誰かの血を止めるために傷をつけなきゃいけなくなるとしても。医者でもないのに、ね。そうだね。でもそういうことだよ、音と言葉を遣うってことは。その遣い手になる、ってことは。
一筋縄じゃいかないなあ、音楽って。煙草、もう一本ちょうだい。おう。イリチ遅いね。いや、いいよ。ゆっくり話せばいい。こういう時間は必要だよ。そうだね。うーもう夜は冷えるなー。また冬が来るよ。うん。また、冬が。
05 騙されう者は彷徨ぬ
やっぱ、不二良、おかしいよ。なにが? なにがって、今まで絶対なかったもん、耳だけでこんなに何度も、って。それは九三が敏感だからだよ。いいな、正直羨ましく思っちゃう。なにが? そんなに敏い耳を持って生まれてきたことが。褒められてんのかな、あ、や、もーそのパターンもっていくのやめて。飽きた? じゃなくて、わかってるから、また不二良の思いどおりにいっちゃうのが……だいたいなんでいつもうつぶせにするの、顔見えないし息苦しいし。息苦しくしてるんだよ。えっ。いつもね、こう、九三の背中から脇腹に左腕を回すでしょ。うん。で、枕に九三の口と鼻を埋めるようにして、そのあと先に回した左腕と覆いかぶせた右腕で、肺と横隔膜を圧迫するの。そのまま息をさせないように続けてたら、だいたい九三は達しちゃうね。そ、そんなこと考えながらするやついねーよ! 愛し方の話じゃないよそれ、殺し方みたいに聞こえたよ今。ふふっ、だって九三もそれ好きでしょ。いつも達したあと、ずーっと止めてた呼吸をすぅーっすぅーってはじめるときの顔、すっごく可愛いよ。やめろってのーもう。そうそう、霊長目の呼吸って既にネアンデルタールの頃から横隔膜の収縮に依存してたんですってね、それがヒトでは胸郭が扁平化して骨盤との隙間が大きくなって、腰椎部分の自由が広がったって。いきなり何だよ。わかるでしょ? 吹いたりとか屈んだりとかは、人間が愛を交わすには不可欠な動作。すなわち言葉と息吹ね。人類以外のすべての哺乳動物では、咽頭が喉の高い位置にある。だから咽頭腔がせまくて、作り出せる音声の種類が限られるの。対して人類は、咽頭の位置が低いからさまざまな音声を出せる。そのかわり、呼吸と嚥下が同時にできなくなったけどね。なんの話。こういう話。あ、やーもう、いきなりやめろお。ふふ、だって九三、息止められながら耳をされるの好きでしょ? 心拍が荒くなってるのに耳元が舌音でいっぱいだから、自分の鼓動の昂りに気づかないのかもね。もー分析はそこまで。とにかくもう息止め作戦はやめて、耳いくのも。弱いとこばっかされるの気分悪いよー。わがままだなあ九三は。じゃあね、こうして。えっ何、また後ろ。いいから、あのテーブルの前まで行こうか。えっ立ったまま? そう。これなら呼吸もしやすいでしょ。そういう問題かな、っ、ぃ、きなりやめてってー。ここもだよね、頸撫でられるとすぐだもんね九三は。ょ、っと、不二良、これやだあ。背筋ばかりはいや? じゃなくて、これだとさっきと同じじゃん、どっちの顔も見えないじゃん。何のためにこれがあると思ってるの。これ、って……鏡? もちろん。そのために立たせたの。さっき、うつぶせだと顔が見えないって言ってたでしょ、こうすればお互いの顔が見られる。やだよ、結局正面からじゃないじゃん。いいから、よーく見てみて九三。こういうことしてる自分の姿、今までまともに見たことなかったでしょ。当たり前じゃん。ほら、背中から頸にキスされてるときの顔、よーく見えるでしょ。やめゃ、ぁ、なに……ぷ、口に指突っ込むなって。舌、撫でるだけだよ。また息させないつもりか。ちがうよ、九三はそこも弱いから、してあげようと思って。舌をかよ。ほら、前ちゃんと見て。んぅっ、このお口で、毎日いろんなことをしてるねわたしたちは。ぁが、そう、辛かったら前かがみに。肘ついてもいいよ……さあ、これでもっとよく見えるね。ゃは、ぁ。キス、してみようか。ぃや、むりじゃんこの体勢だったら。ちがうよ。えっ。九三が九三にキスするの。あっ。ほら、どう見える、鏡の中の自分にくちづけて。はぁ、ゃ、だよこれ。いいから続けてみて。気づいてないでしょ、さっきからぐっしょりなってるよいつもよりも。不二良がへんなことやらすからじゃん。そうかな、実はすごく欲情してるんじゃない、鏡の中の自分に。ぁ、ほら、舌も入れてみて。入るわけないじゃん。そうだね、鏡は平面だもんね。っふじぁからかってるでしょ。まさか、これも大事な勉強だよ……そういえば、神も鏡に映るんだよね。は。神は自らの姿に似せて人間をお創りになりました、ってさ、なら神は鏡に映った自分の姿を知ってたはずだよね。も、しながらそういう話やめてよ。してるからするんだよ。神は鏡を見て自らの姿を知り、それに似せて人間を創り、地上にあふれた者どもを通して自らを愛す。一神教にとって、そもそも現象界は神のイマージュなの。ぁ、はゃ、神は鏡によって分節され、自らの外側を知ったことによって、人間を創らずにはいられなくなった。ゃ、ぁ、だから人間は神の反映であり鏡像、神が自身を愛すための。だとしたらさ。ぁふ、あ、っあ、どう思う、九三? もしも、人間がそれと同じことをやっちゃったら? はあっ、ぁゃ、っくぁ、最も愛する者が自分自身の姿だったとき、その人は正気でいられるかな?
ええと、SoundCloudのアカウントが停止されました。まじすか。一体何やったの。何やったのていうか、わたし一年半くらい前からずっと曲上げてたじゃん。そのトラックでまあダズ・バンドとか、ファク・インクとか、あとハンコックとかチック・コリアとかピーター・ガブリエルとかベタなのまでサンプリングして使ってたから、権利関係のあれが一気に来て、それでアカウント停められました。急に? まあここ一ヶ月で再生数跳ね上がったしねー。アカウント停止ってことは、私たちと組んでから作った曲も聴けないってこと。あれはSpotifyとYouTube Musicに移してあるから大丈夫。だけどひとりでやってた頃の曲は全滅だなー、バックアップも取ってなかったし。取っときなさいよ。あんなのは過程だから振り返んなくていいんだよ。でも、ねえさんの曲のリミックス上げてる人たちいっぱいいますよね。ああいうのは禁じようがないよー、まあヒップホップ的な楽しみ方の一つだし。
しかしまあこの野球場さあ、ヤフオクドームよりちょっとキャパ少ないくらいなんだね。東京ドームくらい押さえるかと思ってたすけどねー。さすがに埋まらないでしょう。そうかな、いよいよ日本代表決定戦なんだよ、ごまんは来るっしょ。だいたい、今オリンピックのせいで諸々おかしくなってるわけだし、この会場でやれる時点で御の字でしょう。そうそう韓国代表決定戦見た? マジヤバかったよーAgustDみたいなファストラッパーが持っていってさ、超バッドアスだったなー。やっぱ各アジアの国でやってるんすね。まあ主催の本社がシンガポールだからな。そんな遠眼鏡でいいの、足元がお留守だけど。えっ。あなた、まだ今回の出場者一覧見てないの。いや見てないよ、いま着いたばっかだし。そうそう今回やばいすよねえさん。えっなに、なんかあったの?
驚かずに聞いてね。
うん。
93が、もう一組エントリーしてる。
え?
これ、と言いながら測がパンフレットを開く。「関東地区代表:93」……って、何これ? 何って言われても、キュウゾウでしょう。なんでだよ、なんでこんなダフトパンクみたいな覆面したのがキュウゾウなんだよ。なんでと言われても、実際に出てきて勝ち上がって認められてるわけだから。ちょっと見して……「現代の日本語ラップシーンに聳え立つモノリスの如きリリシスト。性別・本名・出身地すべて不明の謎めいた存在感がヒップホップヘッズの間で話題になっていたが、ついに日本代表決定戦でそのヴェールを脱ぐ」……ってなんだよ、誰だよお前。キュウゾウは北九州市門司区出身の龍九三様だっての! 動画あるすよねえさん。えっ。東京大会の。な、うわ、あたしがソロでやってた頃の曲だ、サンクラから抜いたのかな。フロウそっくりすよねー。ほんとだ、わたしよりわたしに似てるわ、なんだこれ気持ち悪っ、昔のわたしが勝手に動いてるみたいだー! でもすごいウケてるすよねー。まあ、トラックもリリックもわたしのだしな……て、ちょっとまって。じゃあこのニセキュウゾウが上がったってことは、え? えらく不興げな面持ちで測が頷く。
そっちがホンモノ、ってことになってるらしいよ。
はあ!?
これ、と言いながら測がスマートフォンの液晶画面をスワイプする。あなたはエゴサーチなんてしないでしょうから、知らないでしょうけど。なんだよ雑な世論なんか見せるなよー。でも、これは知っておいたほうがいいと思う。なに……Abemaの記事。「結局どっちだ!? ふたつの93(キュウゾウ)をめぐる憶測まとめ」って……とりあえず全部読んでみて。「今年九月末、それは突然に始まった。福岡の観覧無料フェスでのオープンマイクにて、謎の三人組フィメールヒップホップクルーが現れ、そのパフォーマンスを客席から撮影した動画がSNS上で爆発的に拡散されたのである」。いちいち「フィメール」とか付けるなようるせえな。「K-POPグループ等のライブツアーに帯同経験のあるKATFISHがギタリストとして参加している以外はすべてが謎なこのクルーは、」ははは測も無名扱いされてるぞ。うるさい。「その沸騰するようなファンクネスと破格なリリシズムによって瞬く間に話題となり、動画内でパフォーマンスされていた楽曲が93というラッパーのものであることが特定され、93はネット上でソロとして活動していたラッパーのクルー名として記憶されるにいたった」。まあ間違ってはいないな、ふたりと組むことにしたのはこれの後だけど。重要なのは次。えっと、見出し……「実は単なるコピバン? 九州のクルー93と東京のソロ93」、はあ? 「ほぼ時を同じくして今年一〇月、もう皆さんご存知χορόςの東京大会にて、クルーではない覆面ラッパーの93が名乗りを上げたのである。そのライムとフロウはSoundCloudにアップされている音源と寸分違わぬもので、実はこちらの93がホンモノなのでは、例のクルーは単にコピー演奏がバズったきっかけで93を名乗ることにしたニセモノなのではないか、という疑惑が一気に広がり始めたのだ」。ふ、ざ、けんなボケ!! 私に言われても。「そもそも福岡のほうの93は、あの動画以降、ソロ時代の曲を一度もパフォーマンスしていない。アカウントに膨大な楽曲の蓄積があったにも拘らず新曲しかやっていない以上は、93の名を利用した新人バンドではないかとの疑惑を持たれるのも無理からぬことだ。」無理からぬことじゃねーわ! 三人で組むことにしたのにソロの曲やってどーするよ、頭沸いてんじゃねーのかこいつ。その記事はただ世論を記述してるだけだから。「因果なことに、福岡のクルー93と東京のソロ93はχορός日本代表決定戦で相見える成り行きとなった。どちらがホンモノの93かは、χορόςでの勝敗によって明らかになるだろう。謎が謎を呼ぶネット上での憶測に振り回されてきたヘッズには、是非その目で真贋を確かめてほしいところだ。」お前らが勝手に振り回されてただけだろーが!!
……と、いうわけ。わかった? よーくわかったよ、ネット上でピーチクパーチクやってんのは聞く耳も見る目もないバカだらけってことが。ねえさんおちついて。もう、マジで……思うか普通? あっちのほうが明らかにコピーじゃん、サンクラの音源さえ聴いてれば誰でも真似できそうなことじゃん、覆面だし……なのにあっちの方がホンモノだとか思うか普通? あっちは単独の活動なのが大きいんでしょう、あなたはソロとして名が知られてたわけだし。あたしもそうだったわけっすよ。正直、あたし自分がメンバーとして参加してなかったら、キュウゾウがミュージシャンとクルー組んで活動はじめたって聞いたら、えーって思うかもしんないす。なんでえ……? やっぱ謎めいた孤高のリリシストってイメージだったすもん。ああ、世間的にはそっちのイメージが基準なのか……こっちが前進してるだけなのに……ちくしょー過去のイメージにしがみつく奴らばっかかこの世紀は……そりゃスターウォーズもあんな感じになるわ……
そういう経緯でね、今回の日本代表決定戦は、どうも「93 VS 93」って図式になってるらしいから。え。あたしらさっき中部代表のひとらにイヤミ言われたんすよ、「お前らの茶番に付き合わされる身にもなれ」「ステマ乙」って。なんだそれ。気持ちは解らないでもないでしょう、もし自分が勝ち上がったコンペティションの決勝が、フェアな審査とは別の二者の話題で持ち切りだったとしたら、そりゃうんざりするでしょう。うんざりしてるのはこっちだっての!! くっそもう無理だわ、カチコミ行ってくるわ。どこに。そのニセキュウゾウの楽屋に。あたしらもさっき見たすけどだめでしたよ、取材のひとらもいっぱい来てたすけど、あっちはパフォーマンスまで外に出る気ないみたいっす。そんなん丸太とか打ち込んで突破してやるわ。どこに丸太があるの。あれだよ、なんか場内のイントレ解体して鉄骨とか持ってくるよ、こちとら設営現場で働いてんだ。何を血迷ってるんだか、落ち着きなさいって、こうなった以上はもう仕方ない。なにが仕方ないんだよー。決着はパフォーマンスでつけるしかないでしょう、とっておきの新曲も持ってきたわけだし。それで単なるコピー相手に敗けたとしても、そういうものだと思うしかない。そういうものって何。そもそも音楽で勝敗を決めること自体がおかしい、と。今更それかよ……あるいは音楽にニセモノとホンモノの区別があること自体がおかしい、と。いや、それはおかしいだろ! オリジナルよりコピーが優れてるとか絶対ナシだろ。でも音楽史的にはよくあるでしょう、贋作の方が人口に膾炙する、みたいなこと。ああ、まあ……クロード・フランソワよりもシナトラのほうが有名だもんな。そう。メタリカの『Enter Sandman』のリフも、あれパクリだもんな。アメリカのポップスをパクったジョージ・ハリスンの『My Sweet Lord』がオアシスにパクられて『Supersonic』になる、みたいなこともあるしね。なんかそれドン・キホーテみたいじゃん、鏡の騎士じゃん。そうだね、そしてドン・キホーテって確かあの騎士に敗けたあと……やめろってのーもう、縁起でもない! くそー測開会まであとどんくらい。九〇分かな、例によって出順は開会してから決まるけど。ちょっとわたしひとりになっていいかな、頭痛くなってきた。大丈夫すか? この前みたいな具合じゃないから気にしなくていい、けど、なんか頭ん中ぐちゃぐちゃだからさ……ひとりで静かにしてたい、ごめんだけど。いいよ。じゃイリチ、私たちは開会まで出ときましょうか。はい。ごめんねなんか。全然いいすよ、あねえさん今日のケータリングは出前らしいんで、その棚のメニューで注文していいらしいっす。おっけーありがと。じゃ、今日イリチは私のおごりかな。いいんすか! たまには年長者らしいことさせなさい。ちょっと歩くけど、自家製パンのランチやってる店があるから。おーしゃれてるっすー! じゃあねえさん、時間までには戻ってくるすから。ういーいってらっしゃいー。
ばたん。と、急に無言になるのはよくないな。なんかかけようかな。いやBluetoothスピーカー持ってきてないし、自分で静かにしてたいって言ったくせに。出前頼むか。何があるんだろ、ピザか。久蔵と同棲してた頃はピザクックばっかだったなー。なに頼んだらいいかわかんないな、適当でいいか。アルコールも一緒に頼めるかな。ないな。あっドリンクの注文は別の業者か。おっワインある、本番前だけどいいかな。いーよもう、気付け薬だ。備え付けのタブレットでご注文をって、これでやればいいのか。
あいーこっちで。どうも。あー個室で寝そべってピザって、すげーヒップホップぽい。スタジオじゃなくて楽屋だけど。赤いプラスチックカップもあれば完璧だったんだけどな、まあいいや。うわなんだこれ、全っ然薄いじゃん。全国チェーンの宅配ピザってこんなもんかい、だらしねえなー。まったく増税しやがるわ食べもんのサイズも小さくしやがるわ、全部自民党が悪い。一刻も早く日本の総人口の七割を移民で占めさせるべきである。そしてすべからく移民に選挙権を与えるべきである。「すべからく」を正しく使うことすらできないやつは日本人ではない。日本語もろくに読み書きできない日本人は日本から出ていけ。どう考えても次の日本語の担い手は移民しかいない。そして現状トップクラスの日本語の遣い手がインダハウス。俺の芝生が一番青い。改正開始で一球三振。あーもう酒が回ると余計な連想ばっかになるなー。それもこれも全部あのニセモノが悪い。わたしの過去のイミテーションなんかに敗けてたまるか、かもーん、かもーんのーわんきゃんしーゆーくらーいあいあいあいあいあーい、こちとら何度も何度も脱皮して生き延びてきたんだ。ズルムケのウロボロスだ。UROBOROS THE MCだ。ふつうにいい名前だなこれ。未来は俺等の手の中。未来は俺等の手の中。ピザがいま胃の中。『世界は僕の足の下』っていうSMAPの曲あるけど、あれBOSSのより先に出てるんだよなー。ヤっバいよなあの歌詞。誕生日が来る親友にも会うって日常の歌詞なのに、いきなり二番のBメロで呪いみたいな言葉が出てくるんだよな。只野菜摘が英語直訳調の詞を書くときは大抵ヤバい。いやでもわたしのがヤバい。俺の芝生が一番青い。親御さん真っ青。他所じゃ聴けん青の専売特許。ていうボーストが引用なの自体どうなのか。初七日。新譜の『Twilight』ほんと喰らったなー。もしわたしが本当に死んでたら、測もあんな詞書いたのかな。書かないか。無意味な仮定だ。起こらなかったから起こってないんだ。世界は現状で最善です、って言えたライプニッツのほうがヴォルテールより根性あると思う。これが最善の上限なのでこれ以下のことばかりが起こります。肝が据わってるな。二宮尊徳イズムだな、天道が畜生道。スリップノットよりよっぽど過激だ。人間はクソである人間はクソである別にそれでもいいけど、クソっぽい存在がそれでも人間であってしまう驚きがあるじゃないか。そこんとこにちゃんとビビれてないからダメだよな。いや好きだよコリィ・テイラー。名曲だよ『Song #3』。スリップノットも三枚目と四枚目は良いと思うよ。「お前が五五五なら俺は六六六」、でもマグニチュードは七以上でした。地震ごときで動揺してどうする、揺れてるんだからそりゃ揺れるだろう。アングロサクソンはやっぱ呑気だ。そしてこんなゆらゆら帝国で事故起こしておきながらまだ原子力マネーいけると思ってるこの国はもっと呑気だ。なんの話だっけ。そうだワインだ。淮南子をずっと淮陰子だと思ってたことをここに告白いたします。正直者で関心である。韓信だけに。それにしても淮陰って字の淫猥さはすごい。股くぐりだけに。鍾離昧を妹だと思い込むほどの想像力はさすがにありません。眜だし。でも哪吒を哪吒と訓んでもいいし夏侯惇でもいいわけです。加工豚。身体髪膚これを父母に受く、あえて毀傷せざるは孝の始なり。そりゃまあ中国ではそうでしょうけども、自分の眼球を喰らうのはイスラーム的にはどうなんだろうか。どうでもいいか。父母も神の被造物なんだから、そっから産まれた自分が自分の身体を喰ってもどうでもいいか。だから原父殺害みたいにカニバになんか特別の意味を持たせる思考の罠からも逃れられるわけか。イスラームってやっぱ頭いいな。こういうの、もっと不二良に訊けばよかったな。あ、けっきょく杜さんに不二良のこと訊けてないや。もしかしたら来てたりして、今日。不二良。
すごいな不二良、本当に話せるんだ。まあね。全然わかんなかったよわたし、エイリアン語みたいだったよ聞いてて。ポーランド語なんてどういうきっかけで話せるようになんの。んー、まえに低地ドイツ語を勉強したとき、ついでに覚えた。ついでにできるものなのかよ。
で、何話してたのあの人らと。いまわたしが作らせてるものが完成したら、真っ先に提供するようにって。金に糸目はつけないってさ。あの自動翻訳機とかいう? 機械ではないけど、まあそういったもの。すごいねー不二良、かくめいそしきのいちいんだね。わたしは新共産主義者なんてどうだっていいんだけどね。そうなの、なんか思想がつながってて協力してるんじゃないの。まさか。ああいう人たちと話してるとほんとにがっかりするよ、いまだに経済を一八世紀以降の意味に限定しちゃってるんだもん。もし本当に共産主義革命を起こしたいんだったらね、最低でもトマス・アクィナスまで遡って鍛え直さないと無理だよ。共産主義とアクィナスってなにその組み合わせ。肝心のことだよ、そもそも資本制に抗おうとした共産党がキリスト教を切り離した時点で、まったくお話にならない。わたしたちがやってることだって経済にまつわるんだよ。重商主義なんかに意味が限定される前の、もっと広義の経済のね。ぴんとこないなー。今はまだこなくていいよ。
とりあえず、とうぶんは金の心配いらないね。ええ、この国にはもうひとつ用事があるけどね。なんだっけ、ガリツィア地方? この辺の地理わかんないけど。そう、南のほうのウクライナ国境。そこに何しにいくの。わかりやすく言えば、装置の点検かな。点検? うん、どの程度修理が必要でどの程度使い物になるか。でもその装置って本のことでしょ。そうだよ。本が装置、っていうのが、いまだによくわかんないんだよなー。言葉の通りだよ。本、というか「書物」ほどよく組み立てられた装置はないでしょ。で、その「書物」ってのも、単に紙の束をまとめたものじゃないんでしょ。もちろん。なんだか不二良の言葉の遣いかたが独特すぎてさー。じゃあ復習しようか。まず九三、この世界には「書物」はひとつしかない。それはいいね? いやよくない、そこからわかんない。当然のことだよ、だって「書物」は世界だから。定義上そうなんだから。不二良の中ではね。でも、この世には「書物」以外の本もいっぱいあるでしょ。あるけど、それはまあ、劣化した複写版と言い切ってしまっていいかな。人類が書字文化を発達させてすぐに本は──巻物や粘土板も含めて──たくさんあった。でもそれらはすべて取るに値しない出来損ない。ギルガメッシュ叙事詩もアヴェスターもガリア戦記も史記も、もちろんあなたの国の記紀もね。なんで。だってそれは、この世界に存在したものを、そのまま書き記したものだから。歴史を、祭儀を、偉人伝を、ただそこにあったままを伝えるためのものだから。それじゃだめなの。だめにきまってるでしょ。さっき「書物」は世界だって言ったよね。世界に存在したもの、するもの、するであろうものは既に「書物」に書かれてる。既に書かれてるものをまた書き直してどうするの。そんなことしたって劣化した複写版しか生まれようがない。なんかボルヘスがそんな小説書いてたよな。『ピエール・メナール』ね。でもあれだって、既にセルバンテスの『ドン・キホーテ』の中で伝記が流通して作者まで出てきて私が書いたんじゃありませんアラビア語の本を翻訳しただけですってところまでいってるのに、いまさらその本の作者が別にいましたなんて何も面白くないよね。ボルヘスってやっぱり、もったいぶってかしこぶってるくせに肝心のところで間が抜けてると思う。そんなことしてもしょうがない。ただ世界に存在したものを記録するでもなく、これはフィクションですからなんてつまらない逃げを打つでもない、別の書き方をしなきゃいけない。そんな本はすくなくとも七世紀までは存在しなかった。ムハンマド──彼の上に平穏あれ──が『クルアーン』を授かるまでは。それムスリムが使うやつでしょ、不二良ムスリムじゃないのになんでなの。尊敬してるからに決まってるでしょ。彼があの本の 母を授かるまでは、人類の言葉は「書物」の周りをかすめるだけだったんだから。でも、ムハンマド──彼の上に平穏あれ──は作者として『クルアーン』を著したわけじゃない。天使を介して神の言葉を授かったにすぎないし、彼自身も「自分は預言者であって断じて詩人ではない」と謙虚さを保った。さて、人類の書字文化が創まって『クルアーン』を授かるまでに三八〇〇年ほどかかったわけだけど、次に最も「書物」に接近した本、それも誰かが作者として著したものを授かるにはさらに一三〇〇年ほど待たなきゃいけなかった。さて九三、その表紙に署名されていた名前は? ジェイムス・ジョイスでしょ。そう。彼が『肖像』と『ダブリナーズ』を経て到達した『ユリシーズ』で、ついに人類の小説は最初の成功者を持つことができた。「書物」に最も近い形で書くという無謀な試み、そもそも凡庸な作者はその要請自体感じることができない試みの。さらに人類は幸運なことに、次の成功者を二〇年も待たずに迎えることができた。誰。ブルーノ・シュルツ。かつてポーランドに生きていた画家であり小説家。彼の「書物」への接近のしかたはジョイスと同じようで違う。ジョイスはギリシア神話の構造を基底にして市井の人々を書いたけど、シュルツは「書物」そのものについて書いた。なんて無謀で果敢な試みなんだろう、考えるだけで目眩がするよ。シュルツは隠された「書物」こそが本物であり、他の全ての本は贋作であることを見抜いていた。曰く、「すべての本は〈本物〉となることを目ざす、実は、本は借りものの生命を生きているにすぎない。飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく。だからこそ、本は減少し、そして〈本物〉は増大する」。なんか、どっかで聞いたことあるような……あれかな、『神曲』かな。そう。「飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく」って、まんま天国篇じゃんね。そして九三には前にも説明したけど、『神曲』での昇天はムハンマド──彼の上に平穏あれ──の昇天伝説を記した『ミーラージュ』と全く同じ。そっか、シュルツとムハンマドがダンテを介してつながるのか。そもそもムハンマドがしたのは本を授かることだったし、じゃあシュルツの言う〈本物〉ってのも……そう、ムハンマド──彼の上に平穏あれ──が受胎した本の 母と同じ意味。そしてシュルツの「書物」は、小説の伝えるところによれば古雑誌や広告の挿絵によって構成されている。彼の日常にあったはずのありふれた紙片によって。それって──そう。織り上げられた平々凡々な風景が神話になる、ジョイスの方法論とまったく同じ。ということは、どうなる九三? シュルツとジョイスとムハンマド、この三人は全く同じ仕事に取り組んでた、ってこと。人間の言葉を使って「書物」に接近するっていう。そういうこと。九三、こんなに美しい三位一体があるかな。この三人はそれぞれユダヤ人、アイルランド人、アラブ人。でも、シュルツはカトリック国家のポーランドに生まれたユダヤ人だし、ジョイスは祖国の信教を相手にせず放浪を続けたし、そしてムハンマド──彼の上に平穏あれ──はジャーヒリーヤ時代のアラブにおいては迫害の対象でしかなかった。彼ら三人は、それぞれ生まれついた世界の内部において余所者だった。そんな三人の仕事によってユダヤとキリストとイスラームが三位一体を成す、これほど美しいものって他にあるかな。しかもムハンマドからジョイス経てシュルツって、一神教の成立順序でいえば逆さだもんな。ふふっ、そうだね。でも驚くことでもない、起源なんてものは時系列と関係ないんだから。えっ。ないよ。いま挙げた三人は、それぞれがそれぞれのしたことを反復している。そして、反復は時間の順序とは関係がない。そうなの。もちろん、さっき全ては既に「書物」に書かれてるって言ったでしょ。えっでも、ページの前後くらいの違いはあるでしょ。無いね。無いの? えっだったらさ、えと、ジョイスのお母さんお父さんはいるわけじゃん、でその人たちはどう考えてもムハンマドより後に生まれてるじゃん。そうだね。じゃあ時間の順序は関係あるでしょ。無い。多分、いま九三は別の時間について語ってるんだよ。えっ。この世でクロノジカルに流れてる、直線の、計測可能な時間は、「書物」の時間とは何も関係がない。九三は音楽に詳しいでしょ。リズムと拍の違い、って言えばわかりやすいんじゃないかな。あっそうか、そういうことか。「書物」はジョイスやシュルツなしでも存在するけど、ジョイスやシュルツは「書物」なしには存在しない。なぜなら「書物」は世界だから。そして彼らが書いた素晴らしい本は、人類の言葉で書かれた中で最も「書物」に近づくことができた〈本物〉だけど、それでさえ「書物」の中に含まれる。さっきわたしが劣化した複写版と言った本たちは、言わば拍の時間に囚われになってリズムの時間を取り逃がしたもの、と言えるんじゃないかな。あー……わかった、やっとわかったよ。不二良は、そもそもこの世界で起こってることを、ひとつの流れとして見てないってことか。当たり前だよ。当たり前ではないと思うよ。そうかな、ただ時間の流れが異なるだけだよ。たとえば九三には九三のお母さんお父さんがいる、わたしにもいる。でもね、わたしや九三が「書物」のために仕事をすることができたら、この世であなたやわたしの係累とされている物事なんて、何の関係もなくなる。えっ? そりゃそうだよ、シュルツの言い方を借りれば、「飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく」んだから。そこまで行くことができれば、もう九三やわたしが繋がっていたものとは関係がなくなる。親とも、友達とも、恋人とも? そうだね。
関係なくなる。
って、どういうことだろう。だからわたしは訊いたんだ、その訊き方が正しかったかどうかはわからないけど。
あのさ、ソクラテスの──いや、プラトンが記述したソクラテスの、か──有名な言い方があるじゃん、人間に関するものの存在を認めても人間の存在は認めない、馬の存在は認めないけど馬に関するものの存在は認める、笛吹きの存在は認めないけど笛吹きに関するものの存在は認める、そんな人間はいないだろうって。これ、不二良から言わせれば間違ってるの。完全に間違ってるね。言い切った。言い切ったんだ、不二良は。笛吹きに関するものの前には笛吹きがあって、笛吹きの前にはたとえば笛吹きの父母と楽器職人がいて……というふうに、ものごとの存在にはそれぞれ異なる因果があるって言いたかったんだろうね、ソクラテスは。違うの。違うよ。クルミの種が実の中で転げるような声で笑っていた。笛吹きを創ったのはその父母? 笛を創ったのは楽器職人? 違うよね、全然違う。なんで? えと、最初から「笛吹き」として存在してるから、他のものとは関係なく在るってこと? それも違う。どういうことお。すごく簡単なことなんだよ、九三。ざゃり、と舗道を躙る音とともに足が留まり、こちらの双眸を覗き込んでいた。
笛は笛吹きの父母と関係なしに在る。笛吹きは楽器職人と関係なしに在る。でも、笛も笛吹きもその父母も楽器職人も、これなしには存在し得なかった、ってものがあるでしょ? なに。わからない? わかんないよ。
沈黙。
これだよ、九三。えっ? これ。どれ。目の前の微笑みがまた黙す。わからない、何を言いたかったんだろう不二良は。言おうとしても謂えなかったのかな。あるいは、ただわたしに聞こえてなかっただけ。ねえ九三。なに。大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。
おー、これがバルト海。そうだね、グダニスク湾。いちど来てみたかったんだ。来てみたかったんだって、観光気分かよ。ふふっ、九三。なに。できるだけ、こういうのを、たくさん持っておいてね。こういうのってなに、好きな人との幸せな思い出、みたいな? そう。あはは、なーんか不二良らしくないなー。わたしはずっと同じことを言ってるはずだよ、愛について。もしわたしたちが「書物」に近づくことができたら、思い出もすべて関係なくなっちゃうから。まーた変なこと言ってるー。でもね、こういうものがあなたを〈本物〉へ近付ける助けをするはず。だからたくさん持っておいてね。あなたからあなたの肉体を取り去っても、この思い出は残る。また順序が逆だ。わたしが不二良とここに来たからこの思い出が在る、でしょ、と言ったところで、違うって言うつもりでしょ。そうだね。もーわけわかんないなー。これも簡単なことだよ。九三、問題。「犬から骨を引いたら何が残るでしょう」。なにそれ……肉? 正解は、「犬のがまんが残る」。なにそれ。赤の女王が言ってた。犬から骨を引いたら、犬はがまんをなくして、どこかへ行ってしまって、それで犬のがまんが残る。今日の不二良はわけわかんなさの百貨店だなー。わたしたちはさっきからずっと同じことについて話してるんだよ。西脇順三郎の詩に、こういう一節があったでしょ。「すべてが残される/すべてがのこ……こらない/でも吃るキノコが残る/どじようの眼の光りが残る」……これはかなりのところまで謂えてるよ。何を。この世界には別の時空が同時に存在する、ってことを。そうかなあ、犬のがまんが残る、吃るキノコが残る、どじようの眼の光が、うーん……どもるきのこがのこる……より精確には、キノコの吃りが吃るキノコを残す、ってことかもね。吃りはもともとキノコのものだったのに? そう、一度いなくなってそれきりの流れもある、でもいなくなったものが時間とは関係なしに帰ってくる流れもある。それはたとえば……チェスと将棋の違い。「偉大なチェスをやってるんだわ──世界じゅう総がかりの──これが世界だとしたらね。まあ、おもしろい! わたしも仲間入りしたいわ! 仲間入りさえできたら、歩だってかまわないわ」。なにそれ。『鏡の国のアリス』の、あまり感心できない日本語訳。原文の “Pawn” を「歩」って訳したんだね。責めるべきことでもないけど、意味が違っちゃってる。だって将棋とチェスは真逆の競技でしょ。いやールール知らないからな。チェスでは、駒はとられたら即刻退場で、同じゲーム内で再び使われることはない。でも将棋では、とった駒を自分のものとして使える。つまりチェスは減算のみだけど将棋には加減両方がある。あっそうか。これはわたしが考えたことじゃないよ、キャロルやジョイスの翻訳者がエッセイで書いてたこと。えっと、柳瀬さん?『フィネガン』の全訳した人でしょ? そう。ベケットの『エンドゲーム』はある意味で『フィネガンズ・ウェイク』と相補関係にある。前者は最後の減算が尽きても何度でもゲームに戻ることができる、チェス盤の永劫。後者は殺し殺された者たちが何度でも召喚されてひっくりかえって揉み合う、将棋盤の永劫。そっか、駒の扱いが違うのか……扱いっていうか、運動がね。運動? さっき言ったでしょ、キノコが吃る流れと、吃りが吃るキノコを残す流れ。行き先は同じで、行き方が違うだけ。たとえ数が減っても増えてもね。減っても増えても……かあ。大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。
ねえ、九三。
と、また唐突に、真一文字にこちらの眼を見据えていた。
愛してる。
数秒待ったが、さらに言葉を継ぐつもりはないらしかった。うん、愛してるよ、わたしも。ちがうよ。えっ。微笑みながら小さく首を振っていた。わたしが、あなたを、愛してるんじゃない。
沈黙。
愛してる。また同じ言葉。えっと不二良、何なのそれ。わたしに言ってるんじゃない、んでしょ。不二良は相変わらず微笑むばかりで。そうだよって言ってもちがうって言っても、どっちも外れちゃうね。でも九三これはね、何も間違ってないんだよ。なにがだよ、なんの話だよ。
愛してる。
沈黙。
不二良、ねえそれ、からかってるの。まさか、わたしはいつも真面目だよ。だってわけわかんないもん、誰が誰を愛してるんだか。そう。えっ。近付いてるよ、九三。いいところまで来てる。どういう意味だったんだろう、ああして向き合っていても全く話が通じていなかった。向き合って……?
ねえ不二良。なに。いつか言ってたよね、詞はそもそも対向って言葉に由来するって。詞をページの端から端まで書いて、また次の行に移る、そうして次々と畝を作っていくからヴァース。ヴァーサス、対向するって意味を含んでいるって。そうだよ。じゃあ、さ。最初の詞があるじゃん、神は「光あれ」と言われた。すると光があった。創世記ね。そのあと人間をつくるじゃん、えっと似姿に……なんだっけ。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。それ。「われわれのかたちに、われわれにかたどって」ってさ、じゃあ神はさ、人間をつくる前に自分の姿を知ってたってことだよね。そうだよ。なんで。鏡を見たから。えっ。もちろん物質的な意味での鏡じゃないよ、って、たしかこの話は前にもしたよね。したっけ。愛しあってる最中に。なんだよもーそんなん憶えてるわけないじゃん。ふふっ、でも簡単なことだよ。さっき言ってた「光あれ」は創世記の第一章三節。その前の二節は? えっ。「はじめに神は天と地とを創造された」、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。あっ、「光あれ」の前にすでに世界はあったのか、「光あれ」で創ったわけじゃないのか。でもそれさ、「初めに言があった」ってあれと矛盾しない? するよ。ヨハネ福音書はキリスト教文献だから、成立時期から考えても旧約聖書と喰い違ってても仕方ない。だよね。じゃあ旧約聖書の時点では、世界って言葉で創められたわけじゃないのか。そう、「神の霊が水のおもてをおおっていた」。世界に水が存在するということは、言葉よりも先に神の外、鏡があったってこと。詞よりも前に鏡があった……じゃあ、「光あれ」って詞は神が鏡に対向して生まれたもの、ってことになるよね。もちろん。じゃあさ、なんで神は、そもそも、自分の姿が映る鏡なんてものを、必要としなきゃいけなかったの。
沈黙。
よく、ここまで来れたね九三。えっ。思ったよりも、ずっと早かった。まさか、あなたがこんなに早く来てくれるなんて。なにどういうこと、いま言ったのだって殆どは測からの聞きかじりだよ。測さん……うん、やっぱり九三は持ってるね。なにを? 資質。〈本物〉を授かるための、「書物」に近づくための。もしかしたら、わたしは九三を試さなきゃいけなくなる、かもね──えっ。
じゃあ、特別に教えてあげる。不二良の後景の、グダニスク湾の水面が、一一月の痩せた日差しを受けて微睡んでいた。なぜ、神は鏡を必要としたか。これだよ、九三。あのときの不二良の顔を、ちゃんと思い出せるだろうか。そのときまでは一度も見たことがなかった、眷愛と哀寂の念が入り混じったような、一度も向けられたことがなかった、あの面。
互いの額を突き合わせて、ふうっ、と溜息ひとつ。
それだけだった。
そこでケストリッツァーとかエルディンガーとか飲めたんだけど、ついこのあいだ閉店しちゃってね。あちゃー残念すね。あれでしょ、輪っかのプレッツェルとか出る感じの。あるね。フォルクスワーゲンのハンドルみたいなやつっしょー? 輪っかのやついーなあ、あたしプレッツェルったらプリッツしか知らないす、まっすぐなやつしかー。やけに形にこだわるね。だってホンモノ知らなきゃだめじゃないすかー、だってあたしも、沖縄のもずく喰ったこともないのにもずく語ってるやついたら、すげえむかつきますもん。もずく語るって何。え、はかるん沖縄のもずく喰ったことないすか? じゃあこんど贈るすよ、あの味知ったらスーパーのやつとか戻れないすよ! ふふっ、ありがと。それはいいんだけどね、ふふ。え、なんすか。もずくを語る、って状況に、ふふっ、今まで居合わせたことがなかったから、その、ふふっ。えなんすか、ツボに入ったすかー? いや、ふふ、そういうのじゃないけど、もず、っぶ、もずく、もずくを語るって、そん、ふ、ふふ。めっちゃ笑うじゃないすかー! そんな面白かったすかー? ごめ、ただ、もず、ぶふっ。えーだって長崎のひともこだわりあるでしょー、なんかあの、風車とかー。長崎といえば風車なの。あごめんっす、冒涜っぽいすか? いや仕方ないよ、長崎=ハウステンボスってイメージは、どうしても。でも長崎=風車っていうのはドン・キホーテ=風車と同じくらい安直な連想であってね……はかるんその話は後でしましょ。あ、そうだね、もうちょうど開演時刻。あーついに決勝すねー、気合い入れなきゃあー。どうもねえさん戻ったっすー。
うん。なに、随分だらしないこと。あピザ残ってる、もらっていいすか? いいよ。ワインまで空けたの……別に構わないけど、本番には支障が出ないように──あのさ測。やけに神妙な声色。何。やっぱ──不二良じゃないかな仕組んだのこれ全部。語順がめちゃくちゃなのは酔いのせいだろうか。仕組んだって何。わたしらさ、九州北部予選でANDYOURSONGと当たって、九州大会で知念さんと当たってさ──わかるだろこれ、共通点あるだろ。いや、ないでしょう。ある。どっちも93メンバーの知り合いだってこと。はあ、それが何。よく考えてみろよ、安影ズはわたしが中学生の頃の、知念さんは漁火ちゃんが高校生の頃の。予選でも九州大会でも、なぜかわたしらとゆかりのある相手と当たってるだろ。直接勝負したのは予選だけで、知念さんとは対戦したわけじゃないでしょう。でもさすがにおかしくないか、二回もこんなことが続くっておかしくないか。ふつうの確率でいけば、まったく見ず知らずの相手と当たるはずだろ。あのね九三、なぜこうなってなぜこうならなかったか、そんな問いの立て方に対する答えなんて一つしかない。こうなったからだよ。そうなったのは不二良が仕組んだからだよ。一体どういう筋道を通ってその結論に達したか知らないけど、あなたちょっと酔いすぎだよ。ミネラルウォーターでも頼もうか、今のうちに利尿してアルコール出してくれないと本番に──真面目に聞けよ!
不真面目な論旨を真面目に聞けというのは、何やら陰謀論に付き合わされるのと同じ惨めさがある。真面目じゃないのはあなただよ、というか、まともじゃない。なにが。今までの全てを不二良と結びつけようとすることが。なにがおかしいんだよ、だって最初に杜さんに会ったとき言っただろ、あの人の思想が不二良に似過ぎてるって。それはそうだけど、とにかく個物を全体に広げすぎ。だって、だってさ──子どもの駄々のような言い草が苛立たしくないと言えば嘘になるが、瞬間、突然の黙考に沈んだ九三は、妙に落ち着いた口ぶりで話しはじめた。
だって、言ってたんだよ、別れる直前に。何て。「わたしは九三を試さなきゃいけなくなる」って。だから置き去りにした、ってこと。ちがうよ。いやちがわないけど、あの日から今日までが全部だったんだよ。全部が何……さっきから構文がおかしいよ。今日の舞台を準備するためだったんだよ、不二良がわたしを試すための。そのために世界規模のイベント開催して、あなたがラッパーとして成長するのを待って、わざわざシンガポールの会社まで巻き込んで、対戦相手まで全部お膳立てして、そして最後の試練としてニセキュウゾウまで用意したってわけ。そう。頭おかしいよ。よく考えてみろよ、SoundCloud停まったんだぞ、急に昨日の夜中。それも不二良の仕業ってわけ。そう、今日あのニセキュウゾウと勝負させるなら、事前にわたしの過去の形跡を消去しとく必要があったんだよ、そう考えれば全部つじつまが合う。本当にそう考えてるんだとしたら、あなたはもう私の知ってる九三じゃない。これ以上言い募るのはやめて。
あのー、とイリチが後方から。何。話の途中すんませんけど、出順が決まったみたいっす。運営からの連絡でも来ていたのか、くだらない話に付き合わされて気づかなかったが──わたしらは。と、隣につけた九三が手元の紙片を覗き込む。二番目──関東代表の次、だね。ニセキュウゾウの! ほらそうじゃん! やっぱじゃん! この決勝自体、わたしを試すためのだよ。九三、いいかげんにして。だってそうだろ、ド頭に対戦カードぶっこんでくるってことはさ! もしね九三、私があなたを試してる不二良の立場だったとしたら、冒頭じゃなく大トリに配置するな。そしたらあなたへの試練がイベントのクライマックスになるでしょう。それ運営基準の判断じゃんよ、他の奴らはどうでもいいから冒頭でいいんだよ。あなたが自分のことしか考えてないだけでしょう。わたしじゃなくて不二良がだよ! と見るも無残な丁々発止が、あのー、もうスタンバイしなきゃっすよ。との、やけに他人行儀な声で制される。なぜ歳下に気を遣わせなきゃいけないのか。ですって。行くぞ。決然として歩き出す九三の背中が、勇壮にでも見えてくれたらいいのだが、やはり滑稽味を帯びることが免れない。大丈夫すか。相当参ってるね。なんかおつかれっす。私がじゃない、九三がだよ。不二良さんへの想いが強すぎて、ってことなんすかね? なんてことない、ただの誇大妄想、というか関係妄想。でも、これでねえさんのパフォーマンスに火ぃ着いたらいいっすねー! はあ……まあ、ただ酒が抜けてないせいだと信じましょうか。
やるよ。不二良。これがあんたの仕組んだことなら。わたしが本当に、本当に進むことができるかを試すために、ここまで導いてくれたんだとしたら。
勝つよ。わたしは今までのわたしを乗り越える。
そして不二良、あんたのところまで行く。こっちから行ってやる。
さあ一番手はー、関東地区代表! あまりに多くの謎に包まれたリリシストがー、今日ついに、神秘のヴェールを脱ぐ!
キュウゾーウ!
うわ、この曲か。ちょうど一年前に作ったやつだな。ファンクネスには欠けるけど、まあかっこいいよな、わたしのトラックだし。おお、観客、こんな細かい歌詞まで覚えてくれてるのか。わたしが部屋で一人で録ってたときは、こんなの想像もしてなかったな。でもあのニセキュウゾウ、観客がレスポンス返してくれてる割には煽んないのな。今のとこは客席にマイク向けていいくらいだろ。ああ、うん、まあ、やっぱ良いな。一年前のレベルだとしても、わたしだしな。
どう? えっ。あのキュウゾウのお手前は。ヘタではないよな、まあよく似せてきたなって。もしかしたら、あのヘルメットを取ったら不二良本人がいたりしてね。それはないよ。えっ、そこは冷静なの。それだけはありえないよ、不二良が直接乗り込んでくるなんて。わたしがあの刺客を倒す姿をどこかで見てる、不二良ならそうだよ。はあ、まだそんなこと……あっ、終わった。おー大喝采。まあわたしだしな……さあ、次は私たちの番。準備するよ。おう、わかっ……えっ。なんだ。なんの騒ぎだ。
え、うわ。ヘルメット、外しやがった。
割れんばかりの歓声がドームに反響する。あいつ、本当にこのステージで正体を見せるつもりだったのか。カメラのズームアップ映像がバックスクリーンに映し出される。ついに顔を曝け出した、その姿。
え、誰だ、あいつ。
誰だ。ほんとに誰だ。なんか、不二良が送り込んできたんなら西アジアっぽい顔とか想像してたけど、すげえそのへんのフェイスブックにいそうな……えっ何だこれ。測、あいつ知ってる? いや……全然。ちゃんとよく見ろよ、東京で作詞家やってた頃の関係者じゃないの、色々と私怨買いそうなことやってるだろ測は。人聞きの悪い……ほんとに知らないよ、あんな小娘。イリチ、も知ってるわけないか。はい、なんつうか……すごい、ふつうのひとっすね。
わっつぁーっぷ、と、上ずった語尾がPA装置から伝達される。観客はまたしても大歓声で応える。えいよーとーきょーわっつぁっぷちょうしどう、ついにすがたあらわしたりあるきゅうぞう、にほんじゅうおれにやられたやつきゅうぞう、おまえらいっちょでかいこえでいえよほーおー。ほーおー。ほー、ほー。ほー、ほー。いえよほーほーほー。ほーほーほー。
なにあれ。
えぃよぅまさにあきらかになるこのいちにち、ださいにせものきゅうぞうのかおびちびち、みんなきづくことになるおれりあるしっ、き、っくするゔぁーすちょ、うやばすぎっ。
なんだあれ。
フリー……スタイ……ル? っすか? 本人はそのつもりなんでしょう。うまくはないっすね。ヘタって言っていいんだよ。でもお客さんすごいノってるすねー。まあ、幼稚なフリースタイル番組に慣れた客層からすれば、あれでもいいのかもね……キュウゾウがついに素顔を晒してラップした、って付加価値もあるでしょうし。
ようかおみせてみろよにせものー、おれしってるおまえがふるえてるのー、もうしょうぶはついてるめにものー、みせたぜおれがりあるきゅうぞう、ぶらぁっ。
あ、終わった。どうすかはかるん。「目にもの見せた」を二行に切ったあたりは良いなと思うけど、それくらいかな。あの声質で一人称「俺」はさすがにないでしょう、さらに言えばライムもフロウも未熟すぎ。やっぱそうすか、トラックに乗せてたときは気になんなかったんすけどね。ただのコピーにフリースタイルの技術は必要ないからね。あっ、なんか始まったっすよ。
でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。
え、煽りすかこれ。たぶん。ステージ出てきて、フリースタイルで勝負すれってことすか。たぶんね。うわー客も一緒になって煽ってるっすー。
でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。
ああ、ようやくわかった。やにわにヘルメットを脱いでフリースタイルらしきものを始めたせいで、ちょっと判断が遅れたけれど。今ようやくわかった、あのニセキュウゾウを見ていて去来するこの感情。
可哀想。
九三、もうその子にかまう必要はないよ。そんな価値は無い。あれは、とっても凡庸な、よくいるタイプ。自分が遣っている言葉の意味さえわかっていない、借り物だけで全部済ませてしまった子。なんの努力も鍛錬もなしに、なぞり書きだけで能書家になったつもりの子。しかし現代的ではあるのかも。初期衝動と無軌道を一緒くたにしてしまった、型破りと形無しを履き違えてしまった、コピーとペースト以外の道具立てを何も持たない、可哀想な子だ。
あ、ねえさん……ちょっと。ステージ袖から無言で歩き出す、その背中を引き留める。九三、行かなくていい。あなたの程度が落ちるだけだよ、あんな──振り向いたその顔は、厭悪に満ちていてもおかしくはなかったが、そこに浮かんでいたのは柔和な笑みだった。
大丈夫。えっ、心配しなくていいよ、漁火ちゃんも。でもちょっとさ、行かなきゃだから。待ちなさい、決着は私たちで──いやだめだよ、そっちのがだめだよ。だってさ、と笑みを崩さずにステージのほうを指差す。あれのためにさ、とっておきの新曲やるなんてさ、もったいないじゃん。こんなところでお披露目したらあの曲が汚れるよ、だからやめよ。やめるって、棄権すか。まさか。にっこり、という形容が似つかわしい顔だった。わたしが、ひとりで行く。
でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。
すいませんマイク、手持ちでもらえますか。はい、予定してたセッティングは全部なしで、マイクだけでいいんで。それだけ。はい、どうも。
でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。でてこいよきゅうーぞうー、ふくおかのきゅうーぞうー、ふぁっくなきゅうーぞうー、しょうぶはまいくでつけねえとー。
あ。行って、しまう。止めなくていいんすか。いや、もう……止めようがない。あのニセキュウゾウも、観客も、九三も。そうすか、あたしら行かなくていいんすか。九三がそうしたいのなら、行ったところで仕方ない。そう、すか。いやーでもあたし、ねえさんのあんな顔初めて見たっす、あんな顔で笑うんすねー。そうだね、そこそこ長い付き合いだけれど、私も見たことない。はかるんもすか! それとね、イリチ。はい? あれは多分、笑ってなかったよ。
ーぞうー、ふぁっくなきゅうー……
うおーっ!
まさかほんとにでてきたぜ! えびばでぃ、いいかこれはふり、ふりーすたいるだあー、かちまけきめんのはおまえらだあー、かんきゃくのこえがでかかったほうのかちだぜー!
うおーっ!
ようようきゅうぞう、ついにあえたな。きょうここでしょうぶをつけようぜ、そしてわからせてやるぜおれがほんものだってこと、まずはせんこうこうこう……
黙れ。
ぅえっ?
もういいから、黙れ。黙って聞け。とりあえず許す、お前が今やったことは許す。お前がなんか、自分の持ち時間も、それどころか大会のレギュレーションまで全部無視して好き勝手はじめたことも、とりあえずは許す。あとは全部わたしが片付けるから、もう黙って聞け。この悪ノリに付き合った観客のことも、とりあえずは責めない。ただ黙れ。静かにしてくれ、頼むから。
沈黙。
ビートなんか要らないし、韻を踏むつもりもない。ただ言葉だけだ。言葉だけでやる。
わたしがキュウゾウだ。姓と名は龍九三。北九州市門司区出身で、ラップ始めて二年くらいで、偶然バズった動画でなんか有名になっただけの女、だ。逃げも隠れもしない。ここに立ってる、このわたしがキュウゾウだ。
で、そこのガキ。お前だ、お前。他に誰がいる。お前のパフォーマンス観ててわかったよ、よく勉強したな。たくさん練習したんだよな、わたしのスタイルに似せるために。ほんっと必死こいてわたしの真似してくれたんだな。すごいよ、褒めてやるよ。すごいよお前。何がすごいって、自分のものにならないものにそこまで夢中になれるってことが。わたしからすれば過去の遺物でしかないスタイルの模倣に、そこまで一生懸命になれたってことが。
わかるよ。わたしだってそうだった。自分とは別のものになりたかった、だからキュウゾウを名乗ったんだ。書いてるうちに、唄ってるうちに、もう自分自身とは言えない別の何かが育ち始めたから。でも、お前は違うよな。同じようで違うよな。わたしは自分とは別のものになりたかった。でもお前は自分以外の誰かと同じものになりたがった。キュウゾウに。そのためには出来上がったもんのコピーさえしとけばよかった。きっと、お前はわたしよりもキュウゾウのことをよく知ってるんだろうな。
じゃあ。
キュウゾウになってしまった龍九三から、キュウゾウになりたくて仕方なかったお前に、訊きたいことがある。
お前、そもそも音楽に救われたことはあるか?
小学生の頃、親が仕事で使ってたテープレコーダーに自分の声を吹き込んで遊んだりとか、中学生の頃、好きなラッパーの違いで同級生と殴り合いの喧嘩したりとか、高校生の頃、友達に教えてもらった音楽理論を使って初めて作曲らしきことをしてみたりとか、そういう、お前の人生に音楽が寄り添っていた瞬間って、あるのか? 音楽に掴み掛かって、あるいは音楽に掴み掛かられて、ズタズタになってボコボコにされてそれでも音楽のおかげで救われたって、そんな瞬間、あるのか?
わたしにはある。
お前、あるのか? 友達に貸すために毎週学校にヒップホップのCD一〇枚ずつ持ってって、少しずつわたしの好きなもんを理解してくれるようになって嬉しかった、そんな経験は? 仕事先で知り合ったギタリストが、まさかわたしの創った音楽を聴いてくれてるとは思わなくて、すげえ嬉しかったしびっくりした、そんなことは? 元カレの顔思い出すから長いこと避けてたアルバムが何年か経ってまともに聴けるようになってたことは? 一生一緒にいてもいいと思ってた恋人と行ったポーランドで、なんの前触れもなしに宿に置き去りにされて、どうしようもなくて警察の世話んなって強制送還なって、それでも生きてかなきゃならなくて気持ち紛らわそうと思ってぶらぶらしてたらデヴィッド・ギルモアの『Live in Gdańsk』ってアルバムが目に入って、その瞬間いろんなことがフラッシュバックしてTSUTAYAの床にゲロぶちまけたことは!? 死にたくて死にたくてしょうがなかった時期を思い出すのも無かったことにするのも厭だから思いつくことをノートにひたすら書いてたらそれがいつの間にかリリック帳になってた、そんな経験は!? お前にあるのか!?
ねえだろ。ねえだろうよ。あるはずがねえよ。お前には何もない。打ち当たった壁もない。ガタガタ震えて眠った夜もない。そして何より、お前は音楽に何も捧げてない。音楽から盗み取るばかりで、自分で創ったものを捧げる気もない。あるのは自己愛だけだ。それがお前だ。お前なんか音楽に値しない。救いも傷も足りてない!!
いいかクソガキ。二度とは言わない。一回で聞き取れ。
言いたいことは山ほどある。が、この一言で十分だ。
キュウゾウからキュウゾウへ。この一言でお前を殺す。いいか。
音楽をナメるな。
失禁、かな。カメラに抜かれてしまった以上は、もう、どうしようもない。あの子が九三にしたことに関して同情の余地はないけど、あんな至近距離で浴びせられるのは、嬲り殺しに近いだろう。客席は水を打ったように静まっているが、それでも中には歓声めいたものを上げている観客もいるのだから、本当に肝が据わっている。あるいは単にお気楽なだけか。
泣かしちゃったすね。まあね。これって、ねえさんの勝ちってことになるんすか。さあ。ただ大会のレギュレーションを無視してバトル始めたのはあっちだから、運営に裁決でも仰ぐしか、
……じら……
え。
……ぅ、じらぁ……
まさか。
不二良ァァァ手前ェェェェェエエエエ!!
何処にいんだボケがアアアアアアアアァ!!
面見せろやクソがアアアアアアアアアアアアア!!
見てんのわかってんだぞコラアアアアアアアアアアアアアァァァ!!
まずい。
何処だコラアアアアア、手間このッ、ふッざけやがってクソがアアアアアアアアアァァァ!! 九三、それは駄目。全部お前のせいだボケが、人のこと好き放題おちょくりやがってコラァァアアァ!! 九三、もう退がるよ、それ以上は駄目。見てんだろ、見えてんだろオイ、コラ、何処にいやがんだ今ァ、おォもうこっちから行ってやるわ、隠れてねえで出てこいコラアァァァァァアアアアア!!
あ。
ステージ袖、なんだ、なにがあった。担架、担架おねがいします。おい、どうした、あのステージで横になってるやつか。ちがいます、下です。下? おい……どこに落ちた、撮影班? カメラドリーの上です。セキュリティ、起こせ。起こせるか。意識は? なに? おい頭動かすな、担架、上手のイントレ下の通路から、はやく! なに? おい、救急車。はやく。
九三。
06 再出立
四七へ
あなたに手紙を書くのも、この名前を使うのも、もう最後になるね。名残を惜しむ気がないわけでは無いけれど、じゅうぶん役目を終えたと言えるでしょう。あなたもわたしも、お互いにね。
あなたはひとりでもやっていけるはずなので、いくつか簡単な事項を書いておくのみとします。まず、あなたがGILAffe完成のために敢えてしてくれた献身に感謝します。あなたなしでは、わたしは人体実験のために多くの人間を犠牲にするような、一昔前のマッドサイエンティストめいた真似をしなければならなかったかも。その必要なしに完成にこぎつけることができたのも、あなたがその一つ身に実験の役を負ってくれたことに依ります。忍耐と辛抱をありがとう。
次に、これは実際に会ってみればわかることだけれど、九三は初対面での印象よりもはるかに鋭敏な知性を備えた人間です。悟性、のほうが正確かな。決して甘く見ないように。常に過大評価しておくくらいが適切でしょう。もうひとり國分測さんという、とても繊細で可憐な女性がともにいるはずですが、わたしは彼女のことをとても高く買っています。正直なところ、九三も彼女無しでは何者でもなかったもしれません。常に九三と測さんが知性・感性ともに良好に交通している状態を保っておくこと。そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。
さて、長ったらしい手紙は読むに苦ですし、なにより眠くなってきたので、このへんで畳みます。既に伝えた通り、わたしはこれから別の名前で相も変わらず仕事に励みます。また別の名前になる、誰も知らない何者かに成り果ててしまうこの感じは四七、あなたならわかってくれるでしょう。かといって、今さら情緒に纏綿するような趣味も、わたしたちには無いはずですね。もっと(九三が謂っていた通りにこの概念を理解できたかどうかは疑われるのですが)ファンキーに仕事を続けなければなりません。四七も身体には気をつけてね。といってもあなたは頑丈な子だから、何も心配いらないでしょうけどね。もう会うこともないでしょう、し、また新たな名前で逢うことになるでしょう。杜さんや岩走のお嬢さんにも、よろしく伝えておいてね。それでは、これで最後になる署名を、あなたに贈ります。
百済不二良
身体がうるさい。のかも、しれない。なんだこれ、こんな感じだったっけ。これ、ほんとにわたしのなのか。っていう夢を見ていた、のか。いやちがう、確かにこれは現実。でも現実ってなんだ。わたしはふだん使わない言葉だ。現実を見ろ現実を見ろと居丈高にものを言うくせに、自分はといえば体制順応で現状追認な言葉を糊のようにひっつけることしかできない奴ら。現実を知っているせかいをれいてつににんしきしているりありすとであるとキャラ設定してるくせに、せいぜい自分の爺ちゃん世代までの遠近感しかなくて、ひどい手合ではその程度のことすら知らなくて、とりあえず自分が生まれついた土地の柵が錆びていないか、夜明けから日没まで気にしている奴ら。柵がなきゃ眠れないのか。誰か襲ってくるかもしれないと不安か。なら怒りを掴み出せ。呪いではなく。耳を澄ませて怒りを聴くんだ。耳さえ澄ませれば、何だって聴く事が可能だ。香りも味も怒りも恐怖さえも。耳に瞼は無い。耳に夜は来ない。耳を塞いだまま誰かを嘲け笑う事を、いつ、誰に、なんで教わった? 襲われたからか? 敵に? だったら自分が敵になれば良い。敵になるんだ。マイク・タイソンの……マイク? あれあのマイクどこやったっけ。そもそもここ何処。ステージじゃない、よな。うわ白い。マジ白い。白くて柔らかくて薬くさい。って、ことは。
起きたね、と声がする。測、いやまだ起きてないよ。ちょっとこれ、なんかすげえ重い。ていうか攣ってる、気がする。目は覚ましたけどまだ起きてないよ、と声に出そうとしてもうまくいかない。のを察したのか、隣る両腕がわたしの腿と背に差し込まれ、座位に移るのを助けてくれた。ありがと。よかった、声は出るみたいだ。と安堵しても、目の前の顔貌から渋味が去る気配はなかった。他に何か言うことは。えと、えーとね、ごめんあまり憶えてな……うわっ点滴。いま気付いた。久しぶりだなー点滴。ちょうどあれか、三年ぶりか。と自分の左手首を見つめていると、やけに素肌の和毛がささくれて脂じみてるというか、風呂入ってないからかな。何日くらい……何日くらい!? 三日間。と測が即答する。あれから三日間ずっと寝込んでて、今日は水曜日。そんなにか、だからこんな肚のあたりが軽く感じるのか。うわっそのあいだ排泄とかどうしてたんだろう、あんときのピザとかどうやって外に出てったんだろう、まさか三日間そのまんまてことはないよな。そうだあのときワイン飲んだせい……ではないよな、別に……あんだけ躍起になって不二良の事ばっか考えてたのって……そんであのしょうもないニセモノ相手にあれだけムキになったのって……そういえば。大会どうなった。それは心配しなくていい。言いながら測も丸椅子に座る。あなたがステージから転落したあと、もう決勝どうこうじゃないって流れになってね。中部代表の人らが、いやあたいへんなことになっちゃいましたけどとりあえず気持ち落ち着けてくださいとか言いながら予定変更してアコースティックの曲やってね、観客もなんかありがとうございますみたいな空気になってね、それ以降の人らも軒並み意気が下がっちゃって、運営の評価基準に達しているのは東京のキュウゾウと福岡のキュウゾウと中部のひとらだけになって、それで投票の結果93、というかあなたが勝った。そうなの。えっじゃあほぼキュウゾウだけで終わったんじゃん、よく暴動とか起きなかったな。まあ、あの決勝自体がキュウゾウVSキュウゾウのカードで耳目を集めていたわけだしね。お望み通りキュウゾウどうしのバトルがあって、片方が失禁して片方がステージから転落して担架で運ばれるまでの顛末があったわけだから、見世物としては上等だったんでしょう。見世物……グラディエーター扱いか……またバズったのかなあAbemaとかナタリーとかで……それはもちろん、朝のワイドショーでも報道されてたくらいだから。えっじゃあ映像で残ってんの。χορόςの公式チャンネルに、当日のうちにね。既に八百万回は再生されてるよ。うわあー、と病衣に顔を埋めるしかなくなる。
あのとき止めておけば、なんて言わないよ。と、自責でも難詰でもない声色で測が言う。観客も、ニセモノも、あなたも、あの状況を纏めるにはああするしかなかったんでしょう。うん……でもやりすぎたな、そもそも何言ったかよく憶えてない……取り憑かれてた、というか。ほんとにそんな感じだったよ。ねえ九三、思い出せるかどうかわからないけど、あの落ちた瞬間……うん、足を踏み外してとか、つい向こう側に行きすぎてとか、そういうのじゃなかった。落ちたから気を失ったんじゃない。気を失ってから、落ちた。やっぱり。映像で確認する限り、そうとしか見えなかったから。脳の検査とかしなきゃいけないのかな……退院のためにはたぶんね。ただ、一本も折れてなかったのは奇跡的だって言ってた。え、骨? マジでこれ折れてないの? カメラを走行させるところに落下して脇腹を強打したみたいだけど、骨折や頭部への打撲は無いらしいって。呼吸はちゃんとできる? まあ、左脇腹がすごい攣ってるけど……こうして話せるくらいには。そう、と言いながら立ち上がる測。じゃあ、ここからは医者の仕事。諸々の検査があるはずだけど、それで問題なければ明朝には退院できるはず。撮影は予定通り行うからね。撮影、レントゲンとかの? 何言ってるの、決勝の翌週の木曜日って言ったでしょう。あ、あ、そーだった!『Limbo』のミュージックビデオ撮影、やべもう明日か。じゃ、予定通り一五時に大塚のDeepaでね。衣装も手配してるから、遅れないように。えっちょっと、待ってよ、と続けるのを躊躇う。そうだな、言う権利ないよな。せめてもっと気遣ってよとか言ってもな、ボコボコにしたのはわたしのほうだし。そうだあのニセモノなんか言ってなかった? と遁辞のような話題を放る。あの翌日、すぐに謝罪のメールらしきものを寄越してきたよ、イリチのホームページに。なんで、あっサウンドクラウド停まってるからか。そう、「ごめんなさいふざけていましたもうしませんゆるしてください」くらいの内容しかない長文をね。読む? いやいい、遠慮しとく。本人は直接会って謝りたいらしいけど。いいよもう、謝るくらいなら最初からやるな、とだけ返しといて。わかった。先の話だけど、サウンドクラウド停められたなら公式ホームページくらいあったほうがいいよ、あれ以来イリチと私のほうに直接メンションが来てうんざりしてる。ごめ……えっメンションてどんな。あなたたちをニセモノ呼ばわりしてすみませんでしたとか、楽曲聴いてます好きです応援してますとか、あとは決勝を終えての取材アポとか。うわー、一気にアーティストって感じだな。そもそもホンモノかどうか疑われてたわけだからね。わかったよ、とりあえず時間あるからその辺全部チェックしとく。なに言ってるの、あなたのキャリーバッグは病院預かりだよ、携帯電話も服も全部。あっそうか、うわーじゃあなんもできないじゃん、と言い終わる前に、測の端末に着信。イリチだ、出るね。いいよ。ていうか緊急治療室って携帯いいのかな……もしもし、いま病院。うん、起きたよ。死んでない。まあね、脈拍もあったしね。あとはまあ、脳とか色々調べられるんでしょうけど、私たちが心配するような事じゃない。ひでえ言い方だな、事実だけど。うん、そっちは。もう終わったの? うん、わかった、替わるね。はい、と端末が渡される。もしもし漁火ちゃん? ねえさん生きてたすかー! あはは、おかげさまでっていうかね。ほんとびびったすよおー、あの高さから落ちてぐんにゃりしたまま運び出されて、もーあの夜寝らんなかったすよおー。あはは、ごめんね心配かけて。えーっと明日撮影だよね、たぶん行けるはずだから。『Limbo』のすよね? それのレコーディングいま終わったんすよ、ANDYOURSONGさんの! あっそうか、今回ボーカルの質感も全部揃えたいから、前日入りで漁火ちゃんのスタジオで録るんだっけか。そうす、でも始めて一五分でもう終わったんすよ? 櫟さんのヴァースはワンテイクでオッケーで、伯さんは一二テイクくらい試したんすけど結局最初のが一番良くて、あとはガヤ入れまで全部終わったす。まじか、かなわねーなーワンテイク主義者。あとは楸さんのカッティングとねえさんのヴァースだけすけど、いけそうすか? あ、そうだわたしのラップだけ録ってないんだ! そうす、とりあえず明日の撮影のリップシンクにはラフミックス持ってくすけど、ねえさんのは無理ぽそうすね。そうだねー……ほんとごめん、前もって録っときゃよかったあ……いやいいんすよ、うちのスタジオで録ろうって言ったのあたしすもん。じゃ、とりあえず明日の撮影までご無事で。うん、ちゃんと喰っとくよ、やばいよな撮影当日ミイラみたいな顔だったら。あははー、じゃ、はかるんに電話を。うん、返すよ。もしもし、ええ。じゃあミックスだけ向こうに送っておいて。そうね。じゃあ、あとはよろしく。通話が終わる。
沈黙。
また、死に損なったね。憐むでも慰めるでもない声だった。そう、だね。あれもたしか一一月、の終わり、だったか。ええ、忘れもしない。まさかあの三年後にこんななるとはなー、やっぱなんかあるな一一月。と少し戯けて言ってみても、測の面持ちは揺らがなかった。結局は同じだよ。えっ、何が。自分を殺そうとしても、他人を殺そうとしても。わかったでしょう、結局あなたがやったのは、ただ鏡を砕いただけ。何を殺したわけでもなく、ただ傷ついただけ。うん……そうだよな。ていうかそんな歌詞あったよな『Hotel California』で。「どんなにナイフを振り上げようと、獣を殺すことができない」…… “the beast” だから、獣じゃなくて悪魔ね。悪魔か。改めて左脇腹の病衣をまくってみる。うわー痣になってる、骨盤の上のとこ打ったんだな、消えるかなーこれ。あなたは憑かれてるよ。悪魔とかじゃなく、不二良にね。不二良に……やっぱり、そう思う。もちろん。測の瞼が窮屈に歪む、のが見える。正直、辛かった。もう忘れたかと思ってたから。キュウゾウとしてリリックを書き続けることは、あなたにとって喪の作業なんだと思ってたから。実際そうだよ。そうだったけど、完全に葬り去るってのは、さすがに、無理だよ。愛してた、から? 言われて、否定できるわけがなく、小さく頷く。しかなくなる。本当はさ、わたしも思ってたんだよ。不二良が関係なかったらどうしようって。わたしの勝手な思い込みかもって。実際、そうなんだと思うよ……でもさ、もしかしたら、わたしがキュウゾウとして唄ったことを、不二良が聴いてくれてるかもしれない、届くかもしれない、って思ったらさ、欲が出てきた、っていうのかな……欲だね、欲だよ、それは欲。あれほど私に戒めてくれたのに、権力欲まみれになるのは危ないって。ほんとそうだよな、測には偉そうに言っといてさ……でもさ、言い訳だけど、権力欲とはちょっと違うんだよ。なにが違うの、認められたい聴いてほしい届いてほしいって、それは──違うよ。どんなに愚かしく聞こえようとも、これだけは譲るわけにはいかない。測の双眸を見上げて言う。恋だったよ。どうしようもなかったんだよ、これだけは。ただ見てほしいって、聴いてほしいって、振り向いて帰ってきてまた触れてほしいって、それだけなんだよ。
沈黙。どうしようもないな。恋って、自分で言ってどうする。でも言うしかないんだ、終わったことを恋だったと呼べるのは、当事者しかいないから。だから笑って。思うさま嘲笑って。そうしたらいい、そうしてほしい。ほとんど救いなんだよ、測。馬鹿なことを馬鹿なことだと言ってくれる人がいるってのは、馬鹿なことをやらかした当人にとっては。
じゃあ。えっ、なんもなしかよ。ちょっと測。とりあえず明日、一時間前には電話よこしなさい。おいーせめてばかじゃないのくらい言ってよー。言わない。もう過保護にはしない、って決めたからね。と切ったあと、瞳がすこし揺らいで見えたのは気のせいだろうか。そうだ忘れてた、と両眼を瞑ったまま、鞄から無骨なビニール袋が取り出される。なに。病院にひとりきりじゃ暇だと思って。とりあえずこれでも読んで頭を冷やしなさい。本、かな、とりあえず受け取るしかない。じゃあね。うん、ありがと……ほんとごめん、心配かけて。あなたはあなたの心配だけしてなさい。自覚してね、93はχορόςの日本代表として上がった。この病院から出たら、もう今までと同じではいられないよ。
ばたん、と扉の音。もう今までと同じでは、そうだな。今まではあのニセキュウゾウがストッパーになってた、でもわたしがキュウゾウだとわかれば、もう同じではいられないか。じゃあ、今までのわたしは鏡の前で踊ってただけか、ただ自分の鏡像を前にして……いや、そうじゃない。だってキュウゾウを通して漁火ちゃんや櫟くんや知念さんにも逢えたんだ。これはただの、ひとりよがりの舞踏じゃない。たとえどんなに滑稽に見えたとしても……ああもう、うだうだ考えてどうする。いま何時、一六時か。ナースコールしたほうがいいのかな。まあいいや、向こうから来るだろ。とりあえず食欲も沸かないし、そうだ測なに持ってきたんだろ。ビニール袋の中のものを取り出してみる。
『十字架のヨハネ研究』鶴岡賀雄著。なんでだよ。なんでこのチョイスだよ。一晩で読むには厚いし、入院してる友人に宗教学の差し入れってどういうことだよ。しかもこれ国立国会図書館のだ、わざわざ借りて持ってきたのかな。わたしが目覚めるまで待って、目覚めるのを信じて、わざわざこれを……
となると、読まずにおけないのが人情である。十字架のヨハネ、ちゃんと読んだことないなー。測が話してるのなんとなく聞いたっけ、それとも不二良だっけ。この鶴岡さんって、たしか測が高校卒業後の進路決めるときに、すごい熱心に読んでた……と想念を遊ばせながらページをめくっても、あまり意味がとれそうにない。いや関心はあるけど、一七世紀ごろのスペイン神秘主義、じゃない神秘家、の研究論文となるとなー。読み進めても、案の定ページの上を視線が辷るようになり──めがすべるって表現ほんときらいだな、よく言うけどさ読んでいてめがすべりましたもっと文章に気をつけるべきだと思いますとかさ、Amazonとかのレビュワーがえらそうにさ。なにがすべるだよ、視線に摩擦があってたまるか。あるか。あるのかな、凡庸な比喩だけど、燃えるような眼差し、とかさ。視線に摩擦ってあるのかな。実際、誰かに見つめられるだけで体温が上がるとかそういう──だめだやっぱり、ぜんぜん読めてない。不案内のまま二〇〇ページ過ぎまで来てしまった。これじゃ本に失礼だろ、と思いながらも紙の面から眼が離せずにいると、いきなり論旨が飛躍をみせた。
〈非永続性〉そしてこの突然に生じた接触は、永続することなく、やがて終わる。触覚一般はともかく、接触・触れ(toque)という把握は、上述のように一時的な感覚である。しかるに、この触覚の一時性は、触覚一般に伴う身体運動性とあいまって、優れて距離を開き措定する感覚と言えるだろう。ここで言う距離とは、それまで触れていた対象が、いまは私が触れてはいない別の場所に存続しているがゆえに成立する空間である。接触は、触れるときも触れられるときもほとんどつねに、触れていたものが離れることによって開かれる距離空間を動く運動感覚を潜在的に伴うように思われるのである。
思われるのである。躊躇とともに断言するような不思議な結び。そこから論旨はふたたび、仄かな熱をもって膨らみはじめる。
とすれば、接触は、空間概念一般ではないにしても、少なくとも自分がその一端にいて、そこを動く具体的空間を開く。そして何かに触れ(られ)ることと、その何かが離れたことによって開かれた、主体とその何かとの──私とあなたとの──「間」の空間は、そこを対象が言わば連続的に動いて離れていった空間であるから、主体もまたそこを動き、通過し、移行していくことが可能なはずである。その意味でこれは、ある超越的視点から思念される等方等質のユークリッド空間──延長としての物の空間──ではなくして、触れられたものと触れて離れていったものがその中にいる、両者を極とする一種の志向性に貫かれた磁場のような空間である。それは、両者を隔てると同時に、ある緊密な関係性の中に結ぶ。かくて、接触として語られる神秘体験とは、神と魂との間にこうした極性を帯びた時空の隔たりが定立・設定されること、そのこと自体である。接触が合一の「部分だ」と言われるのは、こうした意味であろう。
私とあなたとの「間」の空間、触れられたものと触れて離れていったもの、ある緊密な関係性。なんだかすごいな、宗教学の論文ってこんなのかな。いや多分、この人の美文が為せる業だよな、美文って一言で済ませていいのかわからないけど。それにしても──接触は、触れるときも触れられるときもほとんどつねに、触れていたものが離れることによって開かれる距離空間を動く運動感覚を潜在的に伴うように思われるのである──なんか、わかる気するな。いや、気だけじゃいけないんだろうけど。なぜだか、この段落ばかり何度も読んでしまうな──触れられたものと触れて離れていったものがその中にいる、両者を極とする一種の志向性に貫かれた磁場のような空間──これって、わたしと不二良のことか。違うよ、この論文では神秘家と神との関係。都合よくごっちゃにするな。でも、ヨハネはひとりの神秘家として神に恋をした。一神教の神って、ほんとはそういうのじゃないはずなのに。いやキリスト教はちょっと違うのか。ユダヤ教とイスラームでは神は眼に視えないけど、キリスト教では絵に描くことができる。眼で、視線で欲望することが。えっでもモーゼも神は見てるんだっけ。ヨブもだっけ。このへんもっと不二良に訊いとけばよかったな。それとも、訊いたのに忘れただけか。そうだわたしはすぐに忘れる、はずなのに思い出す。夢の中だけじゃなく、日常のちょっとした瞬間にも。あの幻聴だってそういうことだったのか──それまで触れていた対象が、いまは私が触れてはいない別の場所に存続しているがゆえに成立する空間──
ぱたん、と紙々がぶつかる音。やめよう。考えすぎだ、慣れないところをうろうろと……でも測。たぶん、これ持ってきたのは正解だったよ。ずっと離れたままだろう、わたしと不二良は。そうだ、いま不二良が変わらずに生きているかどうかもわからないのに、わたしはこんなに焦がれている。過去につけられたものが、今も変わらず、それどころか今のほうがひどく疼いている──こういうものがあなたを〈本物〉へ近付ける助けをするはず。だからたくさん持っておいてね。あなたからあなたの肉体を取り去っても、この思い出は残る──
これは試練なのか。たぶんそうだろう。でなければ先に進めない。またこうして帰ってきたんだ、馬鹿なことやらかした患者として、しかし三年前とは確かに違う迂路を通って。繰り返しだけど、繰り返しじゃない。反復は時間の順序とは関係ないって、こういうことか。進んだと思えば帰ってくる。でも、この身体に残った痕たちが、確かに本当だと気付かせる、起こった事すべては幻ではないのだと。
何も収穫が得られなかったとしても。愛とともに迎えてくれる腕がなかったとしても。それでも続けなきゃいけない。なぜ? 癒したいから? たぶん違う。そもそも癒しなんか望んでない。ただ喰らって、砕けるだけ。本当にそうか。それはなんか、かっこよすぎないか。もっとなにかあるんじゃないか、どうしようもなく平凡で、だからこそやめられない理由が。
わからない。わかるもんか。ひとりで考えたってわからないよ。とにかく始めよう、また始めるんだ。どこまでいっても続きしかない、誰かが踏んだ土地をまた行くしかない。最先も最後もなく、誰かがやめたことを続けるしかない。とりあえず今夜は休もう、また明日歩くために。今までそうしてきたように、立って歩けば解決する。とにかくやり直そう、不二良といた頃に滾っていたもの、いやそれどころか、不二良に逢う前からずっとあったはずの何かを、掴み取ってやり直そう。掴み取ってやり直すんだ。
せっかく入れたんだしやっぱ映したいからあ、あとではかるんとも相談して……あーねえさんー! おはようございまーす。おはよっすー、無事だったすかーえっ痩せたんじゃないすかー? いやあ寝てるだけでもけっこう体力使うんだなあって、でも喰ってきたし検査も問題なかったから大丈夫よ。バリウムとか飲んだすか? 人間ドッグじゃないんだよ。あ人間ドックか。人間ドッグ、の江戸川乱歩感すごいよね。あはは。人間椅子も人間ドッグも椅子! 犬! って感じするよね。人間ドッグとゴム人間だったらゴム人間のほうがまだ人間って感じするよね。なんの話だよ。と、奥のメイク室から低い声が聞こえる。おー櫟くん、 伯さんも! 死んでなかったらどうしようかと思ったぞ。いやー心配かけちゃって、え? 死んでなかったらどうしようかと思ったぞ。なんだそれ逆だろ。逆じゃねえよ、あんな落ち方したら死ぬだろ普通。ほんとねー自分でも不思議、脳の血管くらい切れたかと思ったけどね。リアルタイムで見ててびっくりしましたよお、ご無事で何よりです。と相変わらず穏やかな伯さんの声。ありがとー。もう二人ともメイク終わったのね? つか櫟くんスーツ似合わねー、成人式以来でしょそんなん着るの。行ってねえし持ってねえよ。と雑談めいて賑わう入口付近に、さらにふたつの影が加わる。あっ。あー知念さん! うわーそれ超いい、漁火ちゃんとおそろいだ! そうすよー、楽器が目立つようにシャープにしてもらったやつー。お久しぶりです、あの、大丈夫でしたか? いや大丈夫ではなかったけど、まあ、大丈夫じゃないのは慣れてるよ。ふふっ、笑っちゃいけないんでしょうけど、わかる気がします。おう、あしにはなんか言うことないんか。あー楸? なんかバーカンぽいね、『シャイニング』の幽霊バーのひとがそんなの着てたよね。喰らすぞ貴様。なんだよ褒めてんじゃん。まーお前らの測が買うてくれたんやけ、大事に着たるけどな。そっかANDYOURSONGには前もって採寸して送っといたんだっけ。クラブダンサーとやるイベントで回したとき着てみたけどな、こういうのも悪かないな。へー。櫟なんかこれ着て寝よったが。え。「撮影前にある程度身体に馴染ませたほうがいい」って言われたし、じゃあ寝巻きがわりにするかって。「着崩す」ってそういう意味じゃねーよ。だって新品の革ジャン馴染ませるために着て寝るやついるだろ。櫟くんばかだなー。お前にだけは言われたくねえ。そうだねえさん、あたしとちぬんだけジャケットなしでいいすか? なんで? これなんすけどおー、と右腕袖元のボタンを外してまくる漁火ちゃん。おー、かっけー! タトゥーだ。肘から掌にかけて、筆文字のような起伏に富んだ流線のデザインが黒々と象嵌されている。手の甲にはなにか陰陽っぽい紋章、肘の関節あたりには漢字のように見える線の連なりが踊っていた。これなに、鯰? そうす、KATFISHすからー。偏と旁が生き物みたいに見えるね、すげえいいじゃん。あざすー。はいちぬんも見せて見せて。え。言われて、そそくさと腕をまくる知念さん。おーこっちも鯰? そうす、同じように右腕のタトゥーすけど、デザインしてもらった人が違うんす。あたしのは丸屋九兵衛さんていうPファンクの導師みたいな人にお願いして、ちぬんのはアポカリプトっていうタトゥーカンパニーの彫師さんに。知念さんのはやっぱヒンドゥーっぽいね。はい。同じように鯰の偏と旁がデフォルメされているが、こちらは線の太さは一定で模様も幾何学的、墨の色映えにも特徴がある。そうすよ、今回お願いした彫師さん福岡生まれで、しかも旅先のインドでタトゥーと出会ったって人で、これ縁だなー間違いないなーって思って、迷わず決めたっす。へー、同じコンセプトでこれだけ違うって面白いね……ていうかなんで鯰なの。え? 漁火ちゃんはステージネームがKATFISHだからわかるけど、知念さんも鯰なの。だってこの字、ちぬんとあたしの苗字がどっちも入ってるじゃないすかー。あっ魚と念……そういうことね。ソウルメイトってことっすよおー! ねーちぬん。ふふ。あとこれからは音楽だけでやっていくぞーって表明か。もちろんっす! そーだなんか訊いた話すけど、熊本の温泉で、タトゥーと一緒に入るのは怖いから、くまモンシール貼った奴なら入れてやってもいいとかぬかしてるらしいじゃないすか。あれエグいよなー、「みなさんと一緒に温泉に入れて嬉しいです」とか書いてあるんでしょ? 私は無害ですって証明を外見的に強制する側のがよっぽど怖いわ、ダビデの星とか知らねーのかよ! って思ったわ。ヤバいすよねー。ほんと、不勉強で無感覚な人間だけが生きやすい時代になってるよなー、ってごめん、なんの話だっけ。そうそう、あたしら撮影までに間に合わせようねってタトゥー入れたんすけど、でも今回の衣装長袖じゃないすか。まあね、スーツだもんね。隠れちゃうんでジャケットなしで腕まくりじゃだめかなーって思って。あたしら楽器持ちますし、そっちのほうが映えると思うす。だめすかね? いやいいと思うよ、てか今回のプロデュースは測だし……と言い終わる前に、メイク室から人影が歩み出てくる。あ。一五分前、ね。もう地下鉄の乗換で迷わなかった? いやもう流石に慣れるよ、と言いながら、目の前のダークスーツ姿を眺める。やっぱスタイル良いんだよなあ、まー黒が映えること。これはなんだろ、オーバーオールデザインとでも言えばいいのか。パンツからベストまでの質感・色感が統一されていて、その上に襟元を大きくとったジャケットが。その生地なんていうの。ベルベット。肩幅だけ広くとって腰から下はボディラインが際立つようにしたけど、まあ標準的なスリーピースだよ。でも靴はアレキサンダー・マックイーンなのな、マックイーン好きだなあ測。あっそうだわたし靴とかそのへんまで気が回らなかったけど。こっちで全部揃えてるから問題ない。しかし、改めて目の前の女性の、とくにいつもと違ってシニョンでまとめた鯔背な襟足などを見ていると、ちょっと蕩けそうになる。測やっぱイケメンだなあ、ねえ漁火ちゃん。すよねー。ゲイ用語の由来に忠実な意味でのイケメンだよな。なにそれ。どうですか伯さん、ひとりの女性として。いやあもう、とっても素敵で。おいなんだそれ、と櫟くんが血相変えて哭ぶ。大丈夫だよ櫟くん、測は惚れられても自分からは行かないからねえ……残酷なんだよねそこもねえ……なんの話。ほら、スタイリスト待ってるから早く行きなさい、終わってないのあなただけだよ。あそうだった、行ってきます。そうだはかるんあたしらふたりのジャケットなんすけどー、
髪型どうしましょうか? えーと自然にしてくれたらいいんですけど、測と並ぶわけだから、わたしは襟元まで髪が垂れてたほうがいいかな、そのほうが差が際立つかも。いいですねー。ご存知かわからないですけど、わたし三日くらい病院で寝込んでてそのまま来ちゃったんで、なんか傷んでる毛先あったらカットしといてください。わかりました。あれですよね、χορόςの決勝で。あーやっぱり知ってますか。私ヒップホップよくわからないんですけど、うわーすごい世界だなーって思いました。いや全部のヒップホップがああではないですよ! もっとピースフルなやつもいっぱいあるんで。はは、いやーでもあの國分さんと一緒に活動してるわけでしょう。はい。すごいですよね、私あんな綺麗な人といたら一日もたないかも。もたないってなんですか。なんか緊張ていうか、自分のいたたまれなさというか。ああなんか、わかりますよ。氷の彫刻みたいだもんなー測は。さっきもメイクしながらずっと汗かいちゃって、大丈夫かなあ本当に触れていいのかなあとか思いながら。ははは、逆にわたしは大雑把に扱ってくれていいですよ。あはは。
おまたせ。おー、キマってるじゃないすかー! おそらく測のと同じコンセプトのダークスーツ、だけど、わたしのはベストの採寸が若干広く取られてる気がする。逆にジャケットの肩幅はぴったりめなのかな。似合っとうやん。へえ、そんなのもいけるんだな。えへへありがと、でも測と並んだらどう見えるかなー。横立ってみてくださいよ、とスマートフォンを向けながら漁火ちゃんが言う。こう? もうちょっと明るいとこ、そのへんで。促されるままに並び立つわたしと測。シャッター音。こんな感じす。おーさまになってる、けど、やっぱ測の方がボディラインの綺麗さが際立つなー。そう意識して採寸したからね。えーズルじゃんそれ。あなたは不摂生だから、シャープめにデザインしても合わないと思ったの。せっかくだから今回の衣装コンセプトとか教えてくださいよプロデューサー。ええとね、まずイリチと知念さんのは、モノクロームのギンガムチェックで揃えたスキニーフィット。ふたりは楽器が主役だということを前提にして、照明にも馴染むようにした。これ好きっすー。まあ今回はジャケット無しにしたから、ベストの装飾品に予算かけてもよかったけどね……櫟くんと伯さんのは、それぞれ色が異なるタータンのショールラペル。ジャケットはウールでラペルはサテンだけど、伯さんの紺のタータンがレザーっぽく見えたのは嬉しい誤算だった。いいよねこれ、あんま見ない質感だよね。どうも、この体格で似合いのスーツ着られるなんて思ってなくて。今はラージサイズのテーラードもいろんなバリエーションがありますよ。楸さんのはふたりと同じコンセプトのまま、ラペルをピークドにしてボトムをシャープに。いいよ似合ってるよそれ。なん半笑いで言いよんか。で私と九三は、シンプルなスリーピースのダークスーツで、違いは肩から腰回りのレンジとシャツくらいかな。わたしのシャツの生地なんていうのこれ。レーヨン。これ気に入ったなー、照明映えするよねたぶん。よくわかったね、黒に混じると色がつぶれて見えかねないと思って。ステージで着ても良さそうだなー。なんかさ、こうしてみんなで服の話できるの楽しいね。初めてのビデオで妥協しちゃいけないと思ったからね。あそうか、わたしら公式の映像として出すのはこれが初めてか。気合入れなきゃなーせっかく客演も豪華にしたんだし。お前のレコーディングだけまだ終わってないしな。ごめんって、言わないでってそれー。じゃあそろそろ段取りしようか、まずパフォーマンスシーンのファーストテイク。照明テストしたらもう始めようと思うけど、いい? いいよ、やってみよう。
おーなんか緊張したー。なんでだよ、ライブのときもそんなかよ。いやステージとは別の緊張ていうか、いま撮られてるんだなーて意識がさ。撮られてるって意識は捨てたほうがいい、そしたら自然に映るよ。ていうかこのミックス初めて聴いたけどすげえな、櫟くんのヴァース聴きながらもってかれかけたわ。事前に聴いとけっての。
あはは、今のズームアップからの決めポーズよかったんじゃん。見てみる? うん、こっから……あはは、いいじゃんいいじゃん、ミュージックビデオっぽいよ。測も二番のサビ前でこういうのやりなよ。いや……ダサく見えないかな。こういうのはやっとくのがいいんだよー。
うーん、なんか合わないな。だから、こんなカットにテイク費やさなくていいって。いやこういうのに神が宿るんだってば、なんだろ、もっとこう煽る感じじゃなくてさ、あるじゃん、片眉だけ吊り上げて挑発するみたいなの、映画とかで。ああ……それをやればいいの? そうそう、きっと測に合うよ。いいっすよ、やってみましょ。ごめんなさいねこんなテイクに時間かけて。よかよ、お前らの作品やけ、納得いくまでせんな。
おーあははは、これだよこれ! きたっすね、ブラピっぽい! ブラピっぽいは褒め言葉かな。よーしこれで全体の流れ見えたよ、あとはさアウトロあたりの、スーパースローモーションっぽくうわーって動く感じのやつ、そういうの撮ろう! ほんと感覚だけで作ってんなー。フロウしてるって言えよー。あとあたしとちぬんの両手タッピングのとこ、さっきのテイクとは別に手元ズームで撮っといてもいいすか? いいよもちろん、編集の時どっち使うか決めよう。
おーもう一五分前、だいじょうぶ撮り忘れとかない? とフッテージにかじりつく九三を見ながら、このビデオ制作はリハビリとして最適だったかもしれない、と思う。誰かによって撮影された映像と鏡像は違う。前者は誰かの視点から覗き込まれた自分の姿だが、後者は左右逆層である。前者が他者から欲望された姿とすれば、後者は自分で欲望した姿、とでもなろうか。セルフィーまみれのこの世紀においては、そんな単純かつ重要な違いにすら鈍麻しがちだ。他者の欲望と自分の欲望とを取り違えたために微温な荒廃に陥った「作家」ならいくらでもいる。とにかく九三には、キュウゾウには、そんなありふれた蹉跌をなぞらせるわけにはいかない。これもまた過保護と笑われるだろうか。笑いたければ笑えばいい。九三の、焦慮に満ちた賑わいに背を向けしかし俗世に交わりつつ詞を書くことをやめなかった彼女の忍耐がなければ、いま私やイリチがこうして集っている状況自体が有り得なかったのだから。
あの花を枯らすつもりはない。いつかは手折られるだろう、朽ちて倒れるだろう、あの不羈も。しかし永遠に存立するものへの憧れなど権力欲でしかない。どうせ枯れるとか永遠に咲いていてほしいとか、そんな情緒はすべてどうでもいい。ただ私は、このひとときに薫じた花に寄り添えたことを誇りに思う。ともすれば香りは、そこにあったものを書いて残して再現することすらできないという意味において、音よりも果敢ないかもしれないのだから。しかし少なくとも私は知っている、ここに咲いたこの花は、同じ時代をともにしたどの花々よりも香り高いことを。そして、容易くは倒れも手折られもしないであろうことを。
よーし測そろそろ撤収でえす。と言いながらキャリーバッグを転がしてくる。ふふっ、途中からあなたがプロデューサーみたいになってたね。いやー楽しくてさあ、こんな感じに見えるんだーとか。わかるよ、私たちは映像媒体には無頓着なまま活動してきたからね。ビデオが出来上がったら今までとは違う、真っ当なバズり方するんじゃないかな。今までがちょっと異常だったからなー。そのためには完成させないと、あなたのパートのレコーディングを。あーそれなんだけどさ測、という九三の声を着信音が遮る。ちょっとごめん、あ、杜さん。え? 電話番号知ってたんだ。出場登録は私の電話番号にしたでしょう、というか数日前からかかってきてたんだよ。そうなん、出なよ。と促されるままに受話ボタンを押す。
はい、國分です。測ちゃあん? まだ九三ちゃん死んでる感じい? いえ、今朝退院しましたよ。今、ビデオの収録で都内のスタジオにいるところです。あらーほんとう? じゃあ九三ちゃんそこにいるー? いたら替わってくれない? と上がる語尾を聴きながら、端末を九三に手渡す。え? 替わってって、杜さんが。あなたに用事じゃないかな。なんだろ、はい。はい九三です。あはは、三日間死んでましたけど大丈夫でしたー。どうも。はあ。あ、福岡、ですか? わたしらが? スケジュール的にはたぶん、はい。もちろんです。あーじゃあ、こっちから連絡しますんで、この番号でいいんですよね? はい。わっかりました、どうもー。
何だった? え、なに測この話聞いてんじゃないの。何度か電話があったけど、九三が目覚めてからじゃないと誘えないとか何とかで、内容は報されてなかったよ。決勝後の段取り? まあそれに近いんだけど、その前に93に誘いがあって。出演の? うん、いまなんか日本でX-TRAINってツアーリング企画やってるらしいじゃん。ああ、χορόςの傍流企画みたいなやつね、たしか一昨日東京公演だったかな。そうそれ。なんか新幹線で東名阪まわって福岡でツアーファイナルらしいんだけど、その福岡公演に93がゲスト出演してほしいって。へえ……何日? ちょうど一二月一日。スケジュールさえあえば段取りはつけるって話だったけど、測大丈夫? まあ、いくつか打ち合わせの日程ずらせば大丈夫かな。漁火ちゃーん、一二月一日に福岡でライブ決まったっぽいんだけど行けそう? ついたちすか、えーと、その日ミックスの作業だけなんでMacBook持ってけたら大丈夫っす! おし、出られそうだね。じゃ、あとでわたしから杜さんに電話しとく。X-TRAINっていったっけ? そう。たしか、いま来日してるのはSIUN代表のはず。あースコットランドとアイルランドの。そう。私も詳しくは追ってないけど、面白いんじゃないかな。ちょうど私たちも最初のミュージックビデオ出すタイミングだし、相乗効果になれば……あーそれだけどさ測。なに。わたしのぶんのレコーディング仕上げたい気持ちは山々なんだけど、今日これから福岡に帰っていいかな、新幹線で。いいかなってあなたの判断でしょう。仕事か何か? うん、ほんとは日曜の夜に決勝の結果が決まり次第、翌日に帰って会社に話つけるつもりだったんだけど……音楽に専念するので、って? うん……やっぱこういうのはちゃんとしとかないと。あなたらしくもなく常識的だね。ははは、いやーこれでわたしも測に続いて失業か。音楽が本職になった、って言うべきでしょう。どうか、な。あと測昨日のあれ、と言いながらキャリーバッグからビニール袋が取り出される。ありがと。全部読んだの? まさか。でも……助けになったよ。整理がついた気がする、もう不二良がいようがいまいが関係ないんだって。聞いてても聞いてなくても、届かなくてもいいやって。そう……ならよかった。じゃ、これからすぐ東京駅行かなきゃだから。ごめーん漁火ちゃん、わたし急用で福岡帰るわ! レコーディングは今月以内に終わらすから今日はごめん! いいすよ、あとでラフミックス送っとくっす! ありがとー、じゃANDYOURSONGも、ごめんね今日長くいられなくて。なんや、これからスタジオで編集がてら打ち上げぞ。うーわたしのぶんまで楽しんで! じゃね知念さんも。はい、道中お気をつけて。
撮影機材が撤収される慌ただしさの中、九三もそそくさとスタジオを辞去する。もうこんな時間か。じゃはかるん、ビデオの編集作業はそっちに任せますんで。ええ。このあとスタジオで朝までコースっすけど、はかるんも来ます? いや、今日はちょっと用事があってね。はかるんもすか。まあね……じゃ、そっちは任せたよ。ういっす、おつかれっす。
遅刻なんてありえない人だから、もう来ちゃうと思うけど、ああどうしようかなちゃんと話せるかな、わ。お待たせ。いや待ってないです、と反射的に応じた相手が本当に待ち人なのかも疑わしいまま、目を釘付けられるしかなくなる。くぎづけられるっておかしいか。でも本当にそうなのだから仕方ない。國分先輩……ですよね? そうだけど、どうしたの、二ヶ月でそんなに変わった? 変わり、ましたよ。だってそのスーツ。ああ……これね。と苦笑しながら左耳の髪を掻き上げている。さっき撮影があったから、せっかくだからこのままでいいかと思ったんだけれど。まずいかな? いえ全然、むしろよすぎてまずいというか、撮影、ですか。ええ、年内に出す新曲の。うあっミュージックビデオですか、すごそう。まあね、その辺の話も中でしましょうか。言われながら、目の前の銀杏色の暖簾がかきわけられる。中へ、いざなわれる。
新宿御苑前駅から数分歩き、公園が見えた先を右折したところ。そこに國分先輩が選んでくれた寿司屋が。東京で一番の店だから覚悟しておくように、という諧謔味のある一文から想像していた通りの、和風ながら均整の取れた暖色系の店構えで、通された個室の雰囲気だけですでに圧倒されていた。おまかせのコースなんだけど、いいよね。アレルギーとかは? いえっ、ありません。じゃあ先に飲み物だけ決めましょうか。えっと、わたしは先輩にあわせるので。下戸だっけ? いえ、ものによりますけど。そう、じゃあまず「鍋島」でいいかな。芋ですか。いや米麹だから、匂いは気にならないと思うけど。じゃあそれで。先輩にまかせっぱなしのまま、最初の握りと酒瓶が配膳される。先輩いつもこんな店で飲んでるんですか。まさか、ひとりでは来ないよ。仕事で知り合った人とたまに、といってもここに誘いたいと思えた人なんてほとんどいなかったけどね。って、ことは、わたしは誘ってもいいと思われたってこと。テストを通過した的な。と失火のように沸いた雑念が、金がなくて普段良いもの食べてないミュージシャンを連れてね、何度か来たかな。という言葉によって鎮火される。ですよねー……さあ、あなたには今から本当の寿司の味を知ってもらうから。うわあ、なんか見た目からもう……いいんですか。どうぞ。と促されるままに、赤身の一貫を口に運ぶ。
うわ。なん、ですかこれ。でしょう。わたしの舌が溶けたかのかと思ったが、いやまだ確かについている。どうしたの。いや、あの、なくなっちゃったかと思いまして。なにが。舌が……とおぼつかない発音で答えると、ふふっ、とくしゃみのような笑みが漏れた。大袈裟だね。おおげさじゃないですよ、だってたべものでこんな感触はじめてで。わかるよ、別次元だもんね。なにか誇らしげな微笑とともにグラスを呷る先輩。その仕草さえも絵になるなあと見惚れていると、はい、と酒瓶の先がわたしのグラスに向けられる。あっいいですよ、自分でしますよ。よくない、年長者からの酌は受けなさい。はい、と慌てて応じる姿勢となり、グラスと瓶がぶつかる音を聞く。口に合わなかったら言って、二本目は別のを頼むから。はい。けっこう飲く感じなんだな先輩。こういうところやっぱり九州人っぽい、と益体もない考えを遊ばせながら一口目を啜る。あっ、意外と甘い感じですね。でしょう。わたし、飲み会で無理やり飲まされた芋焼酎でもうだめになっちゃったので、こんな日本酒もあるなんて知りませんでした。よかった、じゃあ乾杯。はい。あ、乾杯する前に飲んじゃった。でも先輩のが先だしな。もしかして、乾杯する前にちゃんと同じ酒飲めるか確かめてたのかな。みたいなことを考えるうちに、すこしだけど胸の高鳴りも収まってきた。単に酔いのせいかも、しれない。
で、あなたの作詞業だけれど。と、唐突に話題が切り出される。はいっ。日の目を見た作品数が増えたのはいいことだけれど、質的に一貫性を欠いてるね。アニメ映画主題歌からアイドルソングから公共広告機構モノまで、って。はい……会社が回してきたものを手当たり次第に、って印象を受けるけど、違う? はい、そのとおりです。悪いことだとは思わないけどね……と語尾を保留してグラスを飲み干す。悪いことだとは思わないけど、クライアントと意思の疎通は取れてるのかな。とくにアニメ映画のあれ、原作とも映画用脚本とも関係ない内容だったけど。はい、あの……実はあれ作詞コンペに出してたのが拾われて、とりあえず間に合わせで使われたんです。やっぱりね、とグラスに酒を注ぎながら、いいけれど、あなたが点数を増やしたのは自分の実力を示したかったからでしょう。そういう時こそチャンスなんじゃないかな、「これとは別に映画用に書き下ろします」くらい食い下がってもよかった気がする。と、こちらの心裡を赤剥けにするようなことを言う。はい……おっしゃる通りです、実はわたしあの作品の原作も何も知らないまま出して……監督もそうだったらしいね、雑誌の映画評に書いてあった。酷評でしたか。まあね。そうだよなあと思いつつグラスで口を塞ぐ。その監督と同じくらい、あなたも不実だったってことだよ。上の人間が誠実さをもって取り組んでない現場なら、そもそも近寄るべきじゃないと思う……なんて、職業作詞家から降りた私が言っても説得力ないけどね。いえっ、まさにそれです、それが聞きたかったんです。社の中にいると、まるでこのルーチンをやっていくことが目的のように思えてくるから……その外にいる人の意見を聞きたかったんです。ほたての握りを口に運びながら先輩が頷く。ひとつだけ助言があるとしたらね、と静かに話し始める、のを聞いている。たとえば、メジャーの仕事を受ける。自分の作品の受け手が増える。そしたら称賛も多く集める。けどね、と一呼吸ののち、たぶん、見抜かれてるんだと思うよ。と重石のような一言が置かれる。ああ、この程度でいいと思ったのか、あっち側の流儀ならこれでいいってことになるんだろうな、でも自分はああなるわけにはいかないな、って、ちゃんと見抜いてる受け手は沢山いるんだと思うよ、ただ可視化されないだけで。あなたが受け取る称賛は、見抜いて立ち去っていった人々の声を差し引いた総量である、ことを、自覚しておいたほうがいいかもね。ああ、まさに思っていた通りのことを言われてしまった。エゴサで傷つくとかそんなことじゃなくて、なにかヒステリックにさえ思える称賛に纏わっているものを、一発で言い当てられてしまった。そう、なん、です……もちろん、すべての人に届く作品なんて無いと思うんです、限られた人々に届けるしか。でも、批判するよりも、むしろ称賛する声のほうが無理をしているというか、疲弊している、というか……何度か静かに頷く先輩。疲れてるよ。みんな疲れてる。美学的にも政治的にも疲弊して、「コンテンツ」とかいうもので無理に軽躁状態を保って日々を凌ぐことに慣れすぎてる。はい。先輩が会社やめたのって、それに関与したくないから、っていうのもあったんですよね……もちろん。自分が作詞家だと思ってた仕事はエクスタシーのプッシャーと変わらないんだ、と判ったからね。でもそれよりも……と、またグラスが飲み干される。やっぱ早いなあ。口元をハンカチで拭きながら、数秒の沈黙を挟んで、また静かに話し始める。
そうじゃないところで書いてる、人もいる、ってことを、知ってしまったから。先輩らしくもない、途切れ途切れの構文。商業的じゃない場で、ですか。即座に首が横に振られる。メジャーかマイナーかなんて関係ない。どんな環境に身を置いていても、これだけはやらない、あっち側には絶対に行かないって禁欲をもって創ってる、そういう人たちがいる……と知ってしまったから。会社に入る前からそうだった、仕事で詞を書いている自分とは違う何かに取り憑かれている人たちがいて、たぶんその境界は越えられないんだって気付いたことが、悔しかった、のかな。と、いつのまにかわたしが述懐の聞き手に回っている。ごめんなさい、私のことばかり話してもね。いえ、こういう機会でもなければ聞けないので……どうぞ続けてください。苦笑のようなものを浮かべながら、逡巡なのか、グラスを持ったままくるくると小さく回している。ことっ、と置かれる音ののち、ゆっくりと唇が開かれる。
九三が、まさにそういう人だったから。こちらを見据える視線が揺らがない。揺らいで、くれない。あの子が、いつのまにか、そういう人になっていたから……もう逃げるわけにはいかないと思ってね。あのラッパーさん、先輩の、高校の頃からのお友達ですよね。小さく頷く。本当にばかな子でね。どうしてそんなことするかな、あちこち見当違いのところに行っては帰ってくるなって思ってたら、いつのまにか、私が絶対になれないものになっていた。それが悔しかった、以上に、嬉しくて。うれしい、うれしいって何だろう。自分のできないことをしてくれる、ってことがですか。もちろんそれもだけど……そう思い焦がれるだけなのも、ちょっと違うと思ってね。頰の半分だけ笑っているような顔。私も一緒に行くべきだ、と思った。この子は私とは別格だ、と悔しがるだけでは微温すぎる。この子は私のできないことをやってくれる、と喜ぶだけでも微温すぎる。私も同行すべきだと思った。もしかしたら、私が仮初に作詞を始めたのも、この道に交わるためだったのかも、って。だから捨てた。にっこり、と形容して差し支えない顔で笑っている。今まで積んだものを全部捨てた。それでもなお私の中に湧き出てくるものがあるか、確かめようと思って。無体だけど愉しかったよ、今までと違うやりかたを試すのは。自分のなかを、もはや自分とは言えないもので埋めていくのは。
ああ、と詠嘆が漏れそうになる、のを怺える。この顔なんだな、わたしが絶対に見ることができないのは。93、あのクルーに場所を得た先輩が、創作や演奏のさなかで噴きこぼすもの、それがこの顔なんだろうな。憑き物が、落ちたみたいですね。と、半年間のつきあいしかないくせに知ったようなことを言う。のも、今は許されると思った。もっと厄介なものに憑かれた、とも言えるんでしょうけどね。ふふっ、あははは。と、初めて双方大笑いとなった。
とにかく、作品で証明し続けるしかないよ。はい。どんな道を通ろうとも、その過程で、自分が世界に捧げたものを残し続けるしかない。世界に、ですか。そう、結局これが一番適切な言い方でしょう。誰かに認められたいでは権力欲になってしまう。誰に届いてもいい、誰にも届かなくてもいい、ただ自分はこれを創らずにはいられなかった、そんな何かを起こし続けるしかない。何か。何かとしか言いようがないよ。偉そうに語ってるけど、私もまだ理解できてない、これが一体何なのか……でも、九三はちゃんと掴めてる、と思う。九三はきっと、誰よりもうまく起こすことができる。だから一緒に行くと決めたし、だから──好きになっちゃったんだよ。
敵わないなあ。わかってたけどさ。でも先輩にはきっとわからないんだろうな、わたしなんかでは到底及ばない、だからこそ焦がれてる人を前にして、その人が焦がれてる相手のことを一方的に聞かされるなんて。これがどれほど残酷で、堪え難くて、そして甘やかなことなのか。あなたのあこがれは、千の絹糸よりも優しいやりかたでわたしを鞭打ってくれる。あ、この一節いいな。歌詞に使おうかな。いやないだろう、いくらなんでも個人的すぎるだろう。わたしみたいなのがいきなり鞭打ってとか言ったら、一体どうしたんだってなるだろう。大体なんだ千の絹糸って、凡庸すぎる。響きもなんか揖保乃糸みたいだ。やめよう、慣れないことはやめよう。今日はただ、こうして場を設けてくれた先輩の言葉を、思うさま浴びて帰ったらいい。
さ、私の話はもう終わり。何か聞かせなさい、浮いた話の一つでもないの? ないですよお、もう毎日仕事ばかりで。のわりにツイッターからは離れないね。えっ、見てるんですか。いや、勘で言っただけ。う。あんなところで言葉を垂れ流したって消耗するばかりだよ。うう……まあ、告知リツイートくらいしか使ってませんけど……なんかもう疲れちゃって。疲れないわけがないよ、あんな読み書きもままならない幼児たちがいっぱしの顔するためだけの社交クラブで。はい、もうネット上になんやかんや書くのも疲れちゃったので、最近ノートをつけるようになったんです。ノート。誰に見せるわけでもないんですけど、訳詞をしてみようと思って。ほかの人が書いた詞を自分なりにかみくだいてみれば、何か得られる気がして……それで、いま英語詞の翻訳ノートをつくってるんです。
それは、それは──いいと思う。と、今日初めて見せる表情で先輩が言う。母国語だけにしがみついてる作詞家なんて話にならないよ。自分の生まれ持った言語に対する違和感は、物を書くうえで絶対に必要だと思う。歌詞の翻訳はその感性を鍛えるのに最適だと思うよ。やっぱりそうですか! じつは、今日持ってきてるんですけど。と浮かれて鞄の中から一冊取り出す、のを見て先輩が苦笑する。誰に見せるでもない、って言ったでしょう。ですけど、ですけどお、やっぱり先輩には聞いてほしくて。読んでほしい、じゃなくて? はい、最近わたし、自分の作詞以外でも、物を書くときは常に声に出してから文字にするようにしてるんです。正しいと思う。大江健三郎も同じことを言ってた。そうなんですか! なので、私が訳した詞を読むのを、ちょっと聞いてほしいなって……だめですか? と見え透いた躊躇を置くわたしに、先輩はお酌で応える。聞かせて。はい。ぐいっと一口含み、うわーどれにしようとページをめくる。うん、一番自信あるのはこれかな。と、飲み込む。プリファブ・スプラウトの『Appetite』なんですけど。わたしが投げた曲名を、先輩は絶句とともに受け取り、数瞬の沈黙ののち、あの曲は、あの曲は──本当に素晴らしいよ。と陶然として応えた。イントロに入ってる三拍子のパートが、繰り返し挟まれるんだよね。ある意味、ビートルズの『We Can Work It Out』を逆さにした発想とも言える……でも、あの曲はパディじゃなきゃ作れない。何よりあのシンセの音色。信じられない、あれが八〇年代半ばに作られたなんて。もっと古びて陳腐に聴こえそうなものなのに……はい。なんてきらきらした眼で話すんだろう、酔いのせいもあるのかな。先輩があのエッセイで取り扱ってたアーティストだったのでベスト盤を聴いてみたんですけど、この曲が特に気に入って。うまく訳せてるかどうかわからないんですけど……聞かせて。はい。えっと、初めはこんな感じで……
ど、う、ですか。いいと思う。ほんとですか! 明らかな誤訳が二、三箇所あったのを除けば、曲の雰囲気もうまく出せてると思う。う、やっぱありましたかあ。大したことじゃない、どういう誤訳がありうるかを知りたければ、自分で誤訳をしてみるしかない。誰だって、その一線は越えなきゃいけないの。少なくとも、この訳者はだめだのこの誤訳はひどいだのAmazonレビューに書き散らして心得顔してる自称読書家とは、あなたは別のほうへ行ったんだよ。そのことは保証する。ありがとう、ございます。他には? えっと、とりあえず今日はこのくらいで……何それ、あなたが聞いてほしいって言ったのに。いやあでも、じゅうぶんです。わたし、これだけは続けようと思います。訳詞をやってるときだけは、自分の小さな世界とは別の、外のほうに繋がってる気がするから。そうだね、その感覚は大事。続けなさい、たとえ金にならなくても、仕事にならなくても。ただひたすら、埋まっているかさえわからない化石を採掘するように、地層をひとつひとつ梳るように。くしけずる……? その表現いいですね、メモしていいですか。誰に許可を求めてるの、言葉は誰のものでもないよ。そうでした。ふふっ。あははは。
そうか、音楽する方法はひとつじゃない。別の唄い方、別の繋げ方があるはずなんだ。すくなくとも今日、わたしは先輩と同じ曲で繋がることができた。それだけでじゅうぶんだろう。それを大切にしよう。持って帰って、植えて、枯れないように育てよう。そうすればきっと実るかもしれない、わたしよりも巨きな何かが。
さ、話しすぎて箸が止まっちゃったね。もう何貫か頼みましょうか。いいんですか。金の心配なんてしなくていいの。何か季節のものをいくつか、と、新政の「No.6」を。まだ飲むんですかあ。あなたは無理しなくていいよ、私ひとりでも飲けるから。わかりましたよお、つきあいますよお。
じゃ、このボーカルトラック基準でねえさんのも混ぜようと思うっす。ん、こんなもんでよかろ。よしもっかい頭から聴こーぜでかい音でー。さっきからそればっかやな貴様。だってよーこういうのってスタジオじゃなきゃできねーじゃん、姉貴いつもヘッドホンでやれって言うし。でかいスピーカー鳴らせん家で悪かったな。いいすよじゃあみんなで聴きましょー。おい起きろ伯、俺らの曲だぞ俺らのー。もう寝かしたれや。あはは、櫟さんビール一本もらっていいすか。おう、おつかれっしたーエンジニア様。あざすー。いやあでも、これだけ集まってひとりも下戸いないってすごいすね。まあミュージシャンでヒップホッパーだからな。にしても、こげん好き放題飲んでてよかと? 今夜はあたしがチーフすから、機材さえ壊さなければ何やってもいいすよ。やべーだろなあの卓に酒こぼしたら。たぶん櫟さん臓器ぜんぶ売ることになるすよ。うわーもう近寄らねえ。あはは、ちぬんポテトもらっていいすか? うん、もう残り少ないけど。そうすね、あたしコンビニで買ってこようかな。いや宅配だよ宅配、スタジオで宅配ピザってのに意味があるんだよ。何えらそうに言いよんか、おごりで喰いよるくせに。あはは、じゃまた好きなの頼んでくださーい。
な、改めて見てもよか? え? そん刺青。ああこれすか、どうぞ、撮ってもいいすよ。おーやっぱ迫力あるな。痛くありませんでした、入れるとき? いやー初めての感覚だったんで痛くはないんすよ、でも二回目からは慣れてきて痛み感じるらしいすねー。みんなそう言うよな。そっちのもよか、知念の? あ、はい、どうぞ。トライバル、っち言えばよかとかな。そうですね、こういう模様が得意な彫師さんで。でもなんか、同じテーマのタトゥー入れるってすげえよな。香港映画みたいっしょー? 義兄弟の契りみたいなー。いや、それよりも、ストレートに恋人だろ。えっ? えっじゃねえよ、お互いの名前を身体に彫りあうってことは、それはもうそういうことだろ。えっ、いやあたしらそんなんじゃないっすよ、ねえちぬん……うん。え。出、出たーノンケ特有の無神経さ! おいチヌ、だっけ? 隠さずに言っていいんだぞ! なん言いよんか貴様、出しゃばんな。だってよー。いや、違いますよ、私もそういうつもりで彫ったんじゃないですけど……でも、イリチがタトゥー入れようって言ってくれて嬉しかったし、はっきり違うと言われると寂しい、というか……あ、ごめんっす、そういうことだったんすね。友情だよ友情。櫟、先走りすぎだよ。無神経なのお前やろバカタレ。わかったよ、わかったから蹴んなよー。
でもなんか、不思議ですよね。なんが? χορόςで出会った人たちと、こうやって同じ曲で作業してるって。ま、ぜんぶ九三のせいやけどな。せいって? なんかバラバラのもんを一纏めにする、みたいなことばっかしとろ、あいつ。たしかに、93の結成経緯がそんな感じすもん。ほんとおかしいやつだよなー。ふふっ、でも良い人ですよ。私のときも、ね。そうす、今度ちぬんが自分のアルバム作るきっかけになったのも、ねえさんとやったからすもんね。へー、なんやいろんな女スケコマシような。ち、違いますよ。伯もあいつにあっさりやられてたもんな。櫟だって似たようなもんだろお。俺はやられてねーわバカ。あはは、あたしはファンカデリックのTシャツ着てるの見てひとめぼれだったすもん。なんやそれ。あーそういえば言ってなかったすね、じゃあ長くなるかもっすけど……
じゃあ今夜の主役にいー、乾杯の音頭とってもらいましょうー! さあ九三さん、東京から福岡に帰ってきたらもう職場の送別会が準備されてた気分はどうですか? いやあー、もうカンザスじゃないんだなていうか、キャプテンアメリカみたいな感じです! ほんと何言ってるかわかんねえな。ええー? 実際、あたしたちの間でも九三さんって「いい人なんだろうけど何言ってるかわからない人」でしたよ。なにそれー、褒められてんだかディスられてんだかー。もうわかったからはやく。さっさと飲ませろー。あい、じゃあわたくし龍九三の失業を祝しましてー、かんぱーい!!
まさかうちからヒップホップスターが生まれるとはねえ。いやスターとかそんなんじゃないすよ。まあ、あの日集合に遅れて三〇万持って帰ってきた時点で、全部決まってたのかもな。あはは、あれもう伝説ですよねー。そうそう聞いてくださいよ、あのとき古市さんにすごい良いこと言われたんすよー。えっなになに? えーとね、あのおー、もう忘れましたけどおー。殺すかあいつ。あははははは、頭打って忘れたんすか九三さん。いや頭は打ってないんだって、でもほら、あるじゃないすかねえ良い話すぎて逆に忘れちゃうみたいなねえ? うるせえ、もう喋るな。ははは、はい九三さんもう黙っててください! 代わりに古市チーフ、新たな道を歩みだす九三さんにメッセージどうぞ! 頑張れよ。ええーそれだけすかあ? まあ、二年間で一人も死傷者出さなかったのだけは褒めてやる。え、うんうんって、みんな一致の感想なんすか? 九三さん明らかに余所見しながら運転してましたもんねえ。まあ、次の曲のヴァースとか、思いついたの忘れないうちに書いとかなきゃとか、考えてたかなあ……やっぱり。もうあれにヒヤヒヤしなくていいと思うと清々するわ、精々頑張れよ。あ踏んでる、清々と精々で踏んでる。ラッパーぽいすね。もしかしてわたし古市さんに影響与えちゃいましたか。もうほんとに一生黙ってろお前は。あっはは、でもほんとお世話になりました古市さん。してねえ。いやあの予選のときすよ、楽屋入りのとき来てくれて緊張ほぐしてくれて、実際かなり助かったす。そんなことしてたんですか古市さんー! してねえ。またまたしらばっくれちゃってー、あーみなさん勘違いしないでそんなんじゃないすからねえ、わたし古市さんの娘くらい齢はなれてますからねえ。お前よりちょっと下だよ。え。え、古市さん本当に娘いるんですか。知らないんすか九三さん、うわー地雷踏んだー。えっなに。ずいぶん前に離婚して、親権向こうで、それ以来会ってねえよ。あーそうだったんすかー。でもねえ古市さんイケますよお人生再出発! 見た目もイケてますよねえスチュワート・コープランドみたいですよねえ実際? どうすかこん中で古市さんと一緒になってもいいって人、わたしが最後に見つけとくんで! マジでいませんかどなたか、男性も大歓迎です! ほんとに殺すかあいつ。ぶっははははははは!!
あーあの、ほんとに、ありがとござしたあ、おせわになりましたあ。がんばれよーキュウゾウ。よー日本代表。あざす、あの、わたし、ほんとに、世界変えようと思うんで。おーなんかでかいこと言いだしたぞ。いやね、わたしの大好きなトゥパックってラッパーがね、こう言ってたんすよ、「俺は世界を変えることはできないだろう、でも俺に影響された奴が世界を変えるはずだ」って。で、その奴ってのがわたしなんすよ、だから、わたしがんばります! だからの使い方がすげえな。あはははは。じゃもう解散で。えー二次会ないんすか。あのな俺たちは明日も仕事なの。あーそうでした、みなさんありがとござしたほんとに……じゃーなー。おつかれー。
あー……いくらなんでも病み上がりで調子こきすぎたな、あたまいてー。あの、九三さん。んう、あー解体班の……どうしたの、終電ないの? や、あの、会社の飲み会なんでからかわれるだろうと思って言わなかったんですけど……あたし九三さんの、ていうかキュウゾウのファンで……これ。あ、うわーなつかしいそのCD-R! はい、一年前にDARAHA BEATSで買ったんです。ほんと少量だけ卸させてもらったやつだよ。そうです、ネットですごいフィメールラッパーいるって話題になってて、なんか福岡在住らしいって聞いて。でもまさか、自分と同じ職場にいるなんて思いもしませんでした。あはは漁火ちゃんパターンだな、ありがとー。もうその時期の曲はやらないと思うけど、ちゃんと誰かに届いてたなんて嬉しいよ。はい、あの、せっかくなんでタグ打ってもらえますか。タグ打つって、ヒップホップマナーだな。あはは。いいよ、昔からヒップホップ好きなの? 高校の頃からかなー。リル・キムとかローリンとかばっか聴いてましたけど、ヒップホップやってるのってやっぱ男ばっかじゃないですか。まあねえ。だから93が出てきたときすごい嬉しくて、ここから何か変わるかもしれないって思って……だから、さっき九三さんが言ってたこと、不可能じゃないと思います。え。世界を変えるって。ああ……うわあーありがとう、ほんと嬉しいよ。はいこれ。うわーかっこいい。密かにサインの練習してたっていうね、はずかしー。あはは。じゃあ、音楽がんばってください! 応援してますんで。うぃっす、ありがとう! がんばるよー!
いやあ、あるんだなこういうことも。たまんないな、どうしよこれ酔っぱらいの幻だったら。朝になって全部消えてたら……よう。よう、おっなんだフリースタイルか、やだよわたしもうバトルはしな、あ、古市さん。相当飲んだな。いやまあいつものことじゃないすか、それよりすいませんでしたいろいろ失礼なこといって……それもいつものことだな。ほれ。え、万札。あ、タクシー停めてくれたんすか。ほら、さっさと帰れ酔っ払い。あ、いいんすかこれ、おつりかえすの後日で。いらねえ、とっとけ。え、ちょっとお、ちゃんとお別れ言わせてくださいよお。めんどくせえな、お別れってわけでもねえだろ……あのな。え、なんですか。言ったろ、娘がいて、もう会ってないって。はい。でもな、何年か前に向こうからLINEで申請が来て、たまに連絡取ってんだよ。え、そうなんすか。でな、LINEのプロフィールで、なんか好きな曲登録する機能あるだろ。LINEのサブスクみたいなやつすね、あるらしいすね。それが? うちの娘のな、お前らの曲だったよ。じゃあな。
ばたん、と外からドアが閉まる。えー、えー、そこで閉めるかあ。なんて不器用な人なんだ、まあ知ってたけど。どちらまで。あっすいません姪浜駅まで。はい。
いろんなことがあった。痛かったし、辛かったし、死にかけたし、でも、全部の傷がわたしを強くした、はず。トゥパックも言ってたな、 “That which doesn't kill me can only make me stronger.” これニーチェの引用らしいけど、ドイツ語原文ではどうなってるのかな。こんど測に訊けばいいか。
また続けよう。続きを始めるしかない。不二良、もう金輪際、あなたとの思い出に頼るのはやめにするよ。あなたに届かなかったとしても、それでも他の誰かには届いてしまう。誰かの生をすら具体的に変えてしまう。不思議だな、不思議な劫罰だな。それでもわたしは、この仕事を続けると決めた。もしかしたら不二良、あなたと会う前から始まっていたのかもしれない。それどころか、今までの生のすべてが下準備だったのかもしれない。それならば、まだ手に取るべき多くの武器がある、まだ負うべき多くの傷がある、まだ耕すべき多くの畑がある。それなら何度でも、何度でもこの夜に帰ってくるだろう。また掴み取ってやり直そう。掴み取ってやり直すんだ。
07 X列車で行こう
父は失敗したのか。
失敗したのだ、と母は言う。あの人がやったことは何もかも間違ってたが、最も酷かったのは、神に代わって愛を敷こうとしたことだと。人の身でありながら神の名の下に善き行いをなどと、驕慢と呼ぶもおぞましいと。そうなのかもしれない。復讐するは我にあり、というときの我とはもちろん神の主格であり、凡夫は神の名の下に復讐など許されない。とすれば愛も。なるほど理屈はついている、ように思える。
それでは愛は、善はどこにいってしまうのか。人の世における美徳のようなものは。神の存在自体がすでに愛で善である、いつか神父がそんなことを宣っていた気がする。しかしこの世は、明らかに愛も善も欠いている。あるいはその逆。愛も善も多すぎるせいで今日もまた流血が。人の世が明らかに出来損なっているのは愛と善の存在ゆえか。「神はこの世を七日で創ったのに、お前はズボンの修繕に何日かかるんだ!」、「しかし旦那、この滅茶苦茶な世の中をご覧なさい。そしてあっしの滅茶苦茶なズボンをご覧なさい!」。それにしても、このズボンというのはすごいな。いったいどういう経緯で trousers がズボンになるのか。 Gibbon はギボンなのに trousers がズボン。どうした日本語。だいじょうぶか英語。バベルが駄弁る大混乱であり、たしかに滅茶苦茶には違いなかった。
父は間違っていなかったのではないか、と娘は思う。あの人の誤ちは全て、愛と善のゆえだったのでは。愛と善で為されるものはすべて、過ち以外の何かにはなり得ないのでは。わからない、わかるはずもない。しかし考えてみれば不思議だ、そもそもこんな土臭い世で愛と、善と。物は落ちるし揺れるし砕ける、重力から逃れようもない場所で、それでも天の仕事を行うとは。父がしようとしたのはそういうことだ、人の身でありながら天の仕事を。そのようにしたイカロスが、ルシファーが、どうなったか皆知っている。 “non serviam” 、我は遣えぬ。では父は、神に遣えていたわけではなかったのか。神に成り代わろうとするならば、その結末は堕地獄しかありえない。最も神に近づいたものは堕とされて、這いつくばって、その応報をこそ愛と呼ばなければならない。そうだ、そうして誰もが父のもとから離れていった。あたしでさえも。この地上で神を望む者は、最後には余計者になる。ところで「我は遣えぬ」という日本語は “I’m useless” とも訳せるではないか。この世で最も神を愛した者が、最も余計な者になる。これは皮肉でないどころか至当とさえ思える。
一八世紀の啓蒙思想家は書いた、「僕たちの庭を耕さなければなりません」。一九世紀の小説家は書いた、「労働で神を手に入れるんですよ」。二〇世紀の詩人は書いた、「この土地に規律でもつけてみるかね」。誰も間違っていない、が、それぞれ半分くらいしか当たってない気がする。そもそもなぜこの世が。重力とともに神が存在するなんて事態が、なぜ有り得るのか。前提からおかしくはないか、どうしてそんなに軽々しく神と、土地と。自分の被造物と同じ闇のなかを這い回る創造者は、這いながらも創造することができるだろうか。天上の神と地上の者とでは、そもそも食い違ってるのでは。何によって? 言葉によって。「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」。そしてこういうことになった、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい」……
姫、と揺すられる。いや揺れてはいた、さっきから多少は。この新幹線という無骨な乗り物は、揺り籠のような心地よい眠気を与えてくれる。しかしこの揺すりは明らかに人の手によるものであり、そこから導出されるのは、あたしは今ミッシーの腕で身体を揺すられている、という状況である。
眼が覚めた、の一言で済ませばいいんだ。
もう着いたのか、の語尾があくびでぼやける。いや、まだだけどさ、お客。客? 新幹線だぞ。しかもこれ福岡まで停まらないはず……ああ、乗ってたんだよ、前から。前から? 目尻をこすりながら見上げる、と、いた。
Wassup folks? と、いやに甲高い語尾。93、だな。と返したあたしの言葉に、やけに驚いて見える三人。いや驚かなきゃいけないのはこっちのはずだが。なんか今日、新幹線で? 東京から福岡まで? 移動らしくて、偶然わたしらの車両と同じだったらしいよ。え、じゃ、あたしたちが新大阪から乗った時にもう。そうそう、わたしらも乗ってたんですよー、と傍らに立っているパタゴニアのフード付きプルオーバー姿の女が言う。あの杜さんっているでしょ? ああ。あの人に電話で今日の会場入りどうすればいいですかって訊いたら、あらあ偶然ねえその列車にあの子たちも乗ってるわよおって指定席の番号教えてもらって、こうして挨拶来たんです。あもう丁寧語じゃなくていい? まあ何でも……好きなように。しかし杜さんも思い切ったことするね、このSNS蔓延の世の中でスターを新幹線で移動さすとはねー。まあ、かたちだけでもX-TRAINてことにしなきゃいけないからな。えどういうこと? ええと……ほんと声でかいなこいつ。立ち話もなんだし、別の場所で話したら。とミッシーが促すので、そうだな、と周囲を見回しながら立ち上がる。幸いにして、乗車を察したファンがフリークアウトしている気配はなかった。新幹線って、座って話せるところあるか。ある列車もあるけどねー、のぞみ201号はちょっと無いな。じゃあ、どこか落ち着いて話せるとこ……そしたらね、えーと。
立ち話もなんだしと場所を移したくせに、連結部にて双方ともに立ち話をする羽目になる。タバコ吸う? いや。ほんとごめんねー座って話せたらよかったんだけど。寝台車でもあればな……『スノーピアサー』みたいなやつ? なんだそれ。ポン・ジュノの映画、とミッシーが注釈する。そういうのには詳しくないんだ、すまないが。いやいや全然。しかしまー狭いよねー新幹線って、移動のためだけのものだもんね。韓国でやったX-TRAINはもうちょっと本格的って聞いたよ。そうなん。鉄道公社が全面協力して、高速鉄道の車両一本まるごとχορός代表とそのファンの移動に充てたって。へえー。もともとファンイベントとツアーリングを一緒にした感じの趣向だったらしいすね、X-TRAINて。と、ワークキャップをかぶったショートカットボブの女が言う。そうそう、ただまあ大陸向けの企画だよねー。北米とか西欧とか中国あたりじゃ、X-TRAIN自体がライブになってるもんね。まじか。列車丸ごと借り切って、車内でライブとかトークショーとかミート&グリートとか。いいなー、やっぱこの島じゃ狭いよなー。杜の旦那の話だと、日本でも新幹線借り切ってファンミーティングの予定だったけど、直前でJR? がだめだって言い出して、結局ツアー中の移動手段だけが新幹線として残ったらしい。うわー身につまされるなー、『ブラックパンサー』の韓国ロケと『ウルヴァリン:SAMURAI』の日本ロケみたいな話だな……いや、わからん。なんでよくわからん喩え話ばかりするんだこいつ。ミッシーのほうに目配せしても、ごめん姫、わたしもわかんない。と笑う。それにつられて声のでかい女も笑う。なんなんだよ、と思っていたところ、あの、ちょっといいかな。と、先ほどからずっと無言だった、背の高いハウンドトゥースコートの女が言う。なに測。いえ、あの、これを言うのは逆に失礼かもと思ってたんだけど……すごく日本語が上手ね。ああそれ、わたしもさっきから思ってた。なんかすごいね、このツアーのためにすごい勉強したとか? 全然。え? と、一様に驚いて見える三人。ああそういうことか、さっきあたしが第一声を発した時に驚いてたのは。姫、やっぱそんな知られてないらしいよあれのこと。だな、χορόςの各国代表だけの特権だから、あんたらは知ってるかと思ってたが。えっなに、なんのこと。
周囲を見廻し、洗面所にもトイレにも人がいないか確認する。ここなら、いいか。GILAffe。え? 顎に直接埋め込む、自動翻訳機構、だとか……なんの略だっけミッシー? “Great Implantable Linguistic Affection”. そう、それのおかげで日本語話せてるんだ。なんそれ、そんなの初めて聞いたよ。もっかい言って? GILAffe、“Great Implantable Linguistic Affection”. ごめん測訳して。直訳なら「大可植言語愛着」、かな。それが何、χορόςと関係あんの? あーまだ案内されてないのか、わたしら手術受けたの先月だけど。手術? 全身麻酔打たれてたからわかんないけど、なんかまるくてうすいキャンディ? みたいなのを口ん中に。何それヤバいんじゃないの!? 蓄膿とか扁桃腺の手術みたいなもんらしいけど、でもすぐ終わったしなんともないよ。ねえ姫? まあ。この「姫」だって、英語で “Highness” と思い浮かべたものが日本語で発音されてんだよ。まじか。 “Highness” が姫ね……ニュアンスは違うけど単に「やんごとない人」って意味だから、まあ誤訳とは言えないかな。 “Hi” の発音に寄せて「ヒ」なんじゃないの。 “Hi” と「ヒ」は全然別でしょう……そうだ名乗るの忘れてた、わたしらχορός日本代表の93、のラッパーの93で、こっちがMcAloonとKATFISH。うん。よろしくっすー。ああ、こっちこそ申し遅れたな、スコット=アイルランド連合国代表のシーラ・パト……あー、シーラ・オサリヴァン。こっちがメリッサ・マッコイ。よろしくう。わたしらも本名で名乗ればよかったかな。後でいいよ、生憎まだ日本の人名には馴染んでない、ゆっくり憶える。はは、あー今日のゲスト出演の段取りどんな感じかな? その話も楽屋ついてからでいいだろ。あと二〇分で博多駅だってよ姫。ああ、じゃ挨拶はこのくらいでいいか。うん、あとでゆっくり。いやー杜さんに通訳いらない会って話せばわかるって言われてたけど、まさかこういうことだとは。なんか聞いてておかしな日本語とか無かった? ぜんぜん無いよ、すごい精度だねその翻訳。まあな、ていうか、そもそもGILAffeを造ったやつが日本人らしいからな。えっ。なんて名前だっけミッシー。憶えてないけど、ジラフに似た発音のやつだよ。ああ、たしか……フジラ、っていったかな。
ありえねえ。
ねえ杜さんこのχορόςってイベント不二良ってやつが関わってますよねえ、とわたしの頭の中でしか成立しない陰謀論、だと思ってたものを直接ぶつけたところ、そうよおイベントの運営自体はうちのDyslexiconだけどコンセプトは不二良ちゃんが出したものにあたしがメガ盛りした感じよお、と当然の如く返された。杜さん不二良知ってるんすか!? 知ってるも何もあたしが出資してたのよ、あの子の発明にぃー。なあに九三ちゃんも知り合いなのー? ええ、まあ……それより発明ってなんですか。埋め込みさえすればどんな国の言語でも話せるようになる機構、なんてそんなのあるわけないじゃんと思ってたけど、あの子が「最初の成功例が出来た」って連絡よこしてきてね、連れてきた女の子にあらゆる国の日常会話をぶつけてみるテストをしてみたんだけど、一八ヶ国語のうち半分以上で意思疎通に成功したの。これヤバいじゃなあいってソッコー出資決めて、あたしもちょうど世界中のあらゆる楽曲データを収蔵する計画が軌道に乗ってたから、ひとつでっかい音楽イベントでもしてみようと思ってるのおって不二良ちゃんに言ったら直接会って話したいって、そのとき交わした二時間くらいの対話がχορόςの骨子になってるの。不二良とはもう会ってないんですか。うん、例のGILAffeがついに完成を見てね、また別の仕事があるからって連絡があって以降は梨の礫。ほんとふとっぱらよねえー、完成した途端あっさりあたしにくれちゃうんだから。じゃあ、ほんとに、そのGILAffeって、不二良が造ったやつなんですか。さっきからそう言ってるじゃなあい。もう少ししたら大量生産が可能になるかもしれないのよ。でも考えてみてえ、顎に埋め込むだけでどんな国の言語でも話せちゃうシロモノよお? 一般に流通したらどんな値段がついちゃうかしらねえ、国家規模で争奪戦になったらイヤよねえ。ってことで、とりあえず今のうちはχορόςで各国代表に上がった子たちだけに試供してるの。なんでですか。そりゃ不二良ちゃんの思想よお、優れた言語は優れた唄い手にしか宿らないって。考えてもみなさいよ、アホな政治家にGILAffeみたいなテクノロジーが渡ったらろくなことにならないわあ。だからχορόςで勝ち上がるほどに優れたアーティストならいいって思ったの。美しく唄える人なら、きっとこのテクノロジーもうまく使ってくれるはずよ。と、陽気に狂ってるとしか思えない経緯と理屈をひととおり聞かされ、頭痛が強まり始めたところで通話を切った。
大丈夫か? と気遣いながらコーヒーを手渡してくれる。うんありがと、でも大丈夫じゃない、かな……あんたの場合は、決勝のあとぶっ倒れてたらしいから、単に案内が遅れただけだと思うよ。杜の旦那、その辺ほんと雑だからな。旦那って呼んでるの。おかしいかな。そうね、語源がそもそも “dāna” 、「布施」を意味する言葉だから杜さんには相応しいかな。わけわかんないくらい金持ってて、わけわかんない企画につぎ込んでる人だからな、文字通り “donor”. てかなんで測は全然動揺してないの、不二良のせいだったんだよやっぱり。別に今さら……そもそも海外から来た二人がよどみなく日本語を話せる状況が超現実的だし、不二良も大概おかしい人間だったわけだから、それなら帳尻が合ってるなと思うだけ。なんだその帳尻。イヤだろそんな合い方。ただ、埋め込んだだけで話せるってどういうカラクリかな……英語と日本語の切り替えってどうやってるんすか。切り替えも何も、話そうって思った言語になるだけだよ。すごいすねー。まあ、どんな言語にも色々訛りがあって、ある程度は瞬時に使い分けできるだろう、そういうことなんじゃないか。でも、発話だけじゃなく聞き取りもできるってどういう……なあ、気持ちはわかるけどGILAffeのことで質問攻めにするのやめてくれるか。あたし専門家じゃないんだ。確かに、ごめんなさいね。まあ、手術受けるか受けないかは自由だし、あんたらも説明受けたらいいんじゃないか、シンガポールまで行かなきゃいけないのが面倒だけど。わーあたしどうしようかなー、ねえさんは……ねえさん? ごめん漁火ちゃん、今日はもうその話したくない。あ、なんかごめんっす。
とりあえず、と楽屋の椅子に腰掛ける二人。今日の打ち合わせから終わらそう。改めて93、今回Shamerockのツアーファイナルへのゲスト参加を承諾してくれて礼を言う。ええ。こちらこそっすー。Shamerockについては、別にいいよな……先月にSIUNのχορός代表として勝ち上がった、二人組の音楽グループ、でいいだろう。もうちょっと愛想よくしようよ姫ー。うるさいな、そういうのはお前の役目だろう……じゃあやっとくねー、わたしがShamerockの作曲・ラップ・およびプロデュース全般担当、メリッサ・マッコイ。ミッシーって呼んでくれていいけど、ステージネームは「Professor-M」。と、明朗かつ快活な声が響く。サウンドクラウドのアカウントありますよね、全部聴いたすよおー。めっちゃ芸風広いじゃないすか! ありがと、色々手広くできるから教授とか呼ばれてるよ。おっ、いまの何キョウジュって、これ professor の日本語? そうっすよ。いい響きだねえ教授。じゃあこれから教授って呼んでいいっすか? いいよー、悪い気しないなあこれ。ちなみに年齢いくつっすか? 二一、姫もわたしも。まじすかー、あたしのふたつ下っすね! やっぱ漁火ちゃんは誰とでも仲良くなるな、というか、この二人どっちもプロデューサータイプだから気が合うのかな。で、こちらにおわしますのがあ、Shamerockの作詞・ボーカル担当、シーラ・オサリヴァン。ステージネームは「SOS」。SOS、エモっぽいねえ。よく言われるよねえ姫エモっぽいって。まあ、嫌いなジャンルではないけどな……ただこのステージネームはイニシャルから採っただけだぞ。あ、そういうことか。正直言って、イニシャルで呼ばれるのも好きじゃないんだ、この名前は……えーなんで、かっこいいじゃん。まあ姫も色々あってね……言っとく? 数秒の逡巡ののち、諦めたように小さく頷く。じゃ手短に。五年前にさ、スコットランドが独立の是非を問う住民投票やって、55%の支持を得て独立して、その翌年に北アイルランドも正式にUKの統治から独立、そうしてスコット=アイルランド連合国が成立した。ここまではいいね? あれすごかったすよねえ、日本だったら北海道と沖縄が独立して別の国になるみたいな事すもん。で、もうこれからは “English” 呼ばわりされないんだーって喜んでたら、あれ以来にわかにキリスト教右派が活気付きはじめてね。応じて苦々しげに頷く姫。うちの長老派教会はそうでもなかったんだけど、アイルランドのカトリックがちょっと厄介で……厄介って? まあ具体的には、アメリカのWASPみたいになっちゃったのよ。婚前交渉なんて絶対だめーっ避妊や中絶なんて神への冒涜だーっ進化論なんて絶対に認めないーっていう、まあどこの国にもある感じのキリスト教原理主義が、SIUN成立後の右傾化と結託しちゃってね。そういう人たちが政治家にも主権者にも増えちゃって、いま「聖パトリック党」てのが議席の30%占めちゃってんのよ。へえ……シン・フェイン党みたいなこと? むしろあっちは独立してからおとなしくなっちゃって、ぬるい中道左派って感じだよね。小さく頷く姫。で、その聖パトリック党の最大の支持母体である「君臨・敬虔・改悛」のリーダーが、姫のお母さんってわけ。なにその「血・汗・涙」みたいな名前。団員の過半数が女性で、ほぼ全員がカトリックかなあ。まあさっき言ったみたいに聖書原理主義で、言論とか音楽とか出版物への道徳的規制をガンガン推し進めてんのね。ああ……こっちでもよく聞く話ね。そういう人たちって大概、まともに聖書を読んだことすらないんだよね。と吐き捨てるように言った測に、姫の双眸が向けられる。そう、そうなんだよ、よくわかったな……原理主義が涵養される条件なんてどこでも一緒だよ。典拠とされる文物をまともに読む根気も能力も度胸も無い人間が、このわたしこそが原理なのだと居直りはじめた時、そこに原理主義が生まれる。だから原理主義って原理的には「無原理主義」なんだよ。という測の言葉を、なにか感銘らしきものとともに聞いている姫。の顔を横目で見ながら悪戯っぽい笑みを浮かべる教授。で、そんなママのとこにはもういらんなーいって家出したんだよね。家出。ああ、と短く切って溜息を吐いている。唄いたいことすら唄えないんだから、もう出ていくしかないだろう。連合になった以上、スコットランドに移るのもパスポートいらないし。そんでグラスゴーでぶらぶらしてた姫と知り合って、わたしがプロデュースした曲で去年のχορός出たけど惜しくも敗退で、今年ふたりでShamerockとして組んだ。以上って感じかなあ。えっ、χορόςって去年もやってたの? そーだよ、東南アジアと西欧の二つだけっていう、すんごいざっくりした開催だったけど。SIUNもUKも同じ西欧地区だったから、UKから上がってきた二人組のユニットに敗けて、それで今回雪辱って感じなんだよねーぃ。と笑う教授に、姫は左頬だけ向けて頷く。
てな感じで、できるだけ姫のことは姫って呼んであげてよ。「君臨・敬虔・改悛」がらみでお母さんの名前も知られちゃってるから、ファンが気遣って付けてくれた呼び名なんだ。ああ、そういう経緯なのか。まあ、あんたらに限ってはステージネームのSOSでもいい。同じχορόςの代表だし、気を遣われてもな。いや、当分は姫で呼ぶよ、似合ってるし。そうか……? 実際すげー姫感あるよねえ『ヘルボーイ』の二作目っぽくない? いや、観てないからわからん……なんかエルフっぽいじゃん銀髪だし。はいはい、初対面の挨拶ならこれで十分だろう、次はそっちの番。
おし、さっき言ったけどわたしが93のキュウゾウ。メンバー名がそのままグループ名なのか? そう。マリリン・マンソンみたいだな。でしょー、ほら測いつか言ったじゃん、わかる人にはわかるんだよ本質が。何が本質なの……本名は龍九三っていうんだけど、こっちはまあ憶えなくていいかな。九三。うん。人名というのは不思議だな、口にすれば同じはずなのに、言語が変われば別の表記になる……たしかにね、中国語の当て字とかすごいよねえ、元素記号のためにものすごい作字したんだよね確か。ごめんなさい、こうしてすぐ脱線する子だから。はははいいよ、会えて嬉しいよ九三。한나にツアーファイナルのゲスト93だよって言ったら羨ましがってたよ。え、ハンナ……? そう、锡鼓の허한나。うわーすげえ嬉しい、わたしも韓国決勝の映像であの子やべーってなったんだよ。ていうか知り合いなの? 姫と組む前からの仲だよ、三年前くらいにサウンドクラウドで聴いて、超いいじゃんってメール送ったらすぐ仲良くなって、一緒にミックステープ作った。へー。ミッシーの原点はヒップホップだからな。いま姫と作ってるのはわたしにとっても実験ばかりだから新鮮だよ。あごめん話飛ばしちゃって、わたしらは九三って呼ぶかな、93だとややこしいし。もちろんそれでいいよ。で、こっちがMcAloonこと國分測、作曲とコーラスとキーボードやってます。McAloon……隠す必要もないし私から言うけど、アイルランド系の血が入っててね。ああ、やっぱり。正確にはアイルランド系アメリカ人だけど、会ったこともないしよく知らない。父親? ええ。その髪も父譲り? たぶんね、栗色だったらしいから。そうか……綺麗な色だと思う。ありがとう、あなたのそれとは随分違うけどね。そりゃアイリッシュにも色々あるさ。ふふっ。あれ、珍しいな、測が初対面の人とこんな感じで話すって。主に作曲担当だからステージではキーボードくらいだけど、最近ちょっとボーカルの割合も増えてきたかな。測もMcAloonも似たような音だから、好きな方で呼んで。わかった測、よろしく。ええ。で、彼女がギタリストのKATFISH、漁火イリチ。よろしくっすー、ギターもすけどレコーディングとかミキシングとかもやってます。せっかく今日ギタリストいるんだから特別なことしたいよね。そうそうあたしら移動中に考えてきたんすけど、カバーやりませんか? カバー、何の? U2の『Pride』とリンキン・パークの『Bleed It Out』をメドレーで。ああ……いいけど、なんでその二曲? やっぱアイルランドと日本の親善試合ーって感じにしたいし、なによりわたしさ、この前リンキンのサード聴いてて思ったんだよ、この頃のアメリカのロックって明るかったんだなーって。明るい……まあ、あれ以降のアルバムに比べればな。なんかリーマンショックくらいから、アメリカの音楽とか映画とかってやたら鬱々としてきたじゃん。それねー、同じ英語圏でも思うよ、あの時期から余裕なくなったんだなーって。でしょ。わたしもその雰囲気に慣れてたけどさ、改めて『Bleed It Out』聴いたら「うわーっ鬱っぽいと思ってたバンドがこんな楽しいパーティーラップやってたんだ」って、なんか泣きそうになっちゃって。なんで? だって一〇年後にああいう結末を選んだ人がこういう歌やってたんだって思うとさ、遡って、こう。ああ……わからないでもないな。ってことで、今回は『Pride』と『Bleed It Out』をメドレーでやりたいんだ。あの時期のリンキンって露骨にU2してたから、違和感なく繋げるでしょ。『Pride』のリフのままヴァースに入ったら面白いかもね。そうそう、トースティングで『Bleed It Out』始めちゃう感じで。ただ、トラックはどうする? さっき新幹線の中でビートとベース打ち込んだんで、それループしながらBPMいじれば問題ないはずっす。Shamerockのライブって普段どうやってんの? 基本的に事前にオケ渡してセットリスト通りに流すだけだな、でもミッシーのMASCHINEもあるか。じゃあ教授あとでデータ渡すんで。オッケー。そのメドレーもやるとして、一発目はあれをやってほしいんだ、『好きなように唄いやがれ』。おー、姫直々のご指名で! あの曲はすごく良い。グルーヴとメロディの両方があるし、何よりミッシーもヴァースで参加できる。フリースタイル用のリリックをそのままやるけど、問題ないかな? 全然いいよ、てかGILAffeって日本語でも唄えるの? 何ヶ国語かで試してみたけど、字余りになったり抑揚が行方不明になったりでダメだった。やっぱりそうか。まあ音を憶えて練習すればうまくいくんだと思うけど、とりあえず今日は英語詞で。いいよ、じゃ姫はフックのコーラス唄うよね、測と同じとこ。もちろん。あたしと測、ミッシーと九三とで、きれいに分担できるはず。じゃ、『好きなように唄いやがれ』のあと『Pride』と『Bleed It Out』。持ち時間的にはこれで十分かな。漁火ちゃんは教授と段取り確認しといて。よし、イリチ、だっけ? ギターのサウンドチェックだけ先にやるから機材一式持ってきて。了解すー。じゃ、あたしと九三と測は歌詞憶えるぞ。ええ。あっそうだ憶えなきゃだ今から。
やっぱり英語圏からはるばる福岡まで来るファンは少ないらしく、モニターから見る限りではほとんどがアジア人の観客だった。しかしもうちょっと大きいハコでもやれそうなもんなのにZeppとはねえ。初めての日本ツアーだからこれくらいが順当でしょう。ただやっぱ、この音楽性だと観客の顔が近いハコのほうがやりやすそうだな。グランジやエモを経過したロックに、ビートはヒップホップマナーで、でも編曲はメタルっぽさを押し出した感じ。姫のボーカルはシャウトでもピッチを外さないし、教授もメロディに乗せてフロウするのがめちゃ巧い。なるほど、この二人が組めば強いはずだね。でもアイルランドとスコットランドの二人でA7Xとかランシドみたいなアメリカ西海岸ぽい音楽やるって、なんか面白いな。というか、A7Xのようなツインリードハードロックのルーツがそもそもシン・リジーでしょう。あそうか、じゃあ順当な先祖返りなのかこれ。
と新鮮な気持ちで楽屋のモニターを眺めてるうちに、もう出番一〇分前となる。漁火ちゃんは上手から、測は下手から、私は教授のMCとともに出てヴァースかます感じになる。あーライブ客演なんて初めてだけど、どんな感じで迎えられるかな。「誰?」って感じだったらいやだな……
と、一曲終えただけでこの歓声である。うわー楽しい。楽しい。二人増えるだけでこんな賑やかになるのか。ウータン・クランてステージ上がるたびにこんな多幸感なのかな……と客席の顔を眺めてるうちに、 We’ve got another shit! と教授が煽り、さあ聴かせろとばかりに観客が応える。よっしゃ漁火ちゃん準備いいか。いくぞ。
あちー、一二月だってのに。めっちゃ暖かく迎えてくれたじゃないすかー。彼女らのファンだから、χορόςもチェックしてくれてたのかもね。考えてみりゃそうだよな、いらん心配しちゃったなー。
おつかれー。ああ、そっちこそ。思ってたよりずっと盛り上がったよ! あのメドレーやって正解だったあ。でしょー。アイデア出してくれてありがと、わたしらの客層にもぴったりの選曲だったな。いやー、わたし場の空気を最大限に引き出すセンスがあるっていうかさ。ははは、自分で言うか。あと、若いファンたちに「やっぱ自殺はいけません」って伝えたくてさ。なんだそれ、取ってつけたような。いやいやわたしが唄うと説得力あるってば。ええ? まあ……このことも追々話しましょうか。
93はもう帰るのか? あー、何の予定もないからそうなるけど。もしよかったら最後まで付き合わないか、このあとShamerockのファンミーティングがあるんだ。え? 日本ケルト協会の招待で、The Celtsってパブでな。なにそれ、福岡にそんなのあるの。あるよ、定期的にセミナーとか演奏会とかやってる。まあ、私はちょっとスピっぽすぎて好きじゃないけど……招待てことはタダ酒飲めるってこと? ああ。よっしゃー行こうよ測、大丈夫だよね漁火ちゃん? いいすよー。いいけど、タダ酒目当てで他所のファンミーティング行くってね……いいよ、あたしたちも来てほしい。何より、初めての土地だから迷わずに着けるか不安でな……ああそういうことか。じゃあ案内するよ、どこのパブ? The Celtsなら中央区の警固かな。じゃあ三〇分もかからないよ、タクシー呼んどこう。
あっち方向に親不孝通りていう、福岡のヒップホップなら大体ここっていう地区があるんだけど、今日はちょっと寄るの無理かなー。へえ、レコード屋とかも? 大体このへんに集まってるよ。んー、明日すぐに帰んなきゃなのが惜しいな。そっか、じゃあ今度来たとき案内するよ。今度っていうか……お前、わかってるのか? 何が? 来月すぐに本戦だぞ、χορόςの。え? 環太平洋のχορόςは日本決勝が最後だから、これからクルーズ船での本戦が始まる。たしか半年ほどかかるんじゃないか……なにそれ初めて聞いたけど! まあ、GILAffeのことすら知らなかったもんな……あとで杜の旦那から説明があると思うが。半年すかー、その間ずっと船で暮らすんすかねえ。そうなるな。わたしと測は橋燃やしてるからとくに問題ないけど、漁火ちゃんはスタジオの仕事に差し障るね。そうすね、まだ来年以降の仕事は受けてないんで大丈夫すけど。わたしらどうなるんだろー。先のことなんてわかるはずないでしょう、たった二ヶ月でここまで変わったんだから。だよな、まさかこんなに色々起こるなんてな……あっ着いた、ここだよここ。えっもうか、予定の入り時刻よりずいぶん早いな。いいよもう、入っとこ。あちょっと待って教授。なに? Shamerockって、今までライブ中もずっと英語で話してたよね。うん。日本で受けた取材とかも? ああ、向こうは日本語いけるなんて思ってもないから、英語で応対したよ。てことは……ファンは、実は日本語で話せますってことも、ここで初めて知るわけだよね。ああ、それかあ……どうする姫。どうするって言っても、遅かれ早かれ明らかになるんだから仕方ないだろう。GILAffeの存在が知られてパニックになったとしても、杜の旦那が悪いとしか言いようがない。ま、そうなるなあ。じゃ、今夜は日本語で話してみようか。うわーどうなるかなあ……
どうなったかというと、酒が全部持っていった。スペシャルゲストのわたしらが司会進行という体で、かんぱーい、とともに二人が日本語で話し始めた、のは衝撃をもって迎えられたが、そんな違和感はギネスの泡とともに消えていった。ケルト協会の人らは「いやあやっぱり音楽は言語を超えますねえ」と情感たっぷりに言ってたけど、全然そういうことじゃないと思う。
同じ言葉が話せるとわかったとたんに馴れ馴れしくなるんだな、日本人って。とトイレから帰ってきた姫が言う。まあね。新幹線の移動でもファンから話しかけられたのは数えるほどだったが、もし話せると知られてたらもっと露骨に絡まれたのかもしれん……まあよかったよ、ひとまずパニックにはならなくて。向こうの席では教授がひとりひとりミート&グリートに応じている。姫はやんなくていいの。言われたらやる、だがああいうのはやっぱりあいつ向きだ。カウンターの方では測がケルト協会の人とアイリッシュトラッドの本をめくりながら議論してるっぽい、が、会話がすべて英語なのでまったくわからん。どーしようかなわたしもGILAffe入れるかなあ。悪い選択ではないと思うぞ。姫はどうして入れようと思ったの。単に、英語圏以外にも移住先の選択肢が増えるからな。え、スコットランドじゃ不満なん? そういう意味じゃない、ただ、備えはあったほうがいい。まあ、日本語できりゃ十分なんてこの国だけだしなあ。わたしもあの頃ポーランド語ができたら……なぜポーランド語。このことは、まあ、いつか話すよ。ほんと長い話なんだ……
大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。不二良はそう言っていた。人間も、言語も、か。確かに大したことだ、分裂したり統合したり、切り裂いたり縫い合わせたりしながら、それでもかろうじて多くのものが存在してるってことは。何の因果か、こうして海の向こうからやってきた客人から、間接的に不二良の消息を知ることになった。もう不二良が無関係だと思うこともできないし、この道は絶対に不二良へ続いていると信じることもできない。相変わらず宙吊りのままだ、届かなくてたどり着けなくて、しかしやめることはどうしてもできなくて。ならわたしは、数え切れないくらいの誰かたちが並び立つこの世界で、もっと多くのことを学ばなきゃならない。誰かの歌から、言葉から、存在そのものから……不二良、ほんとに大したことだね、これだけ多くのものが存在するってことは。
ねえさあん集合写真とりましょー、と、だいぶ出来上がった感じの漁火ちゃんが飛び込んでくる。なに、どしたの。教授と一緒にチェキ撮ってたらファンのひとらが93とも一緒に撮りたいってえ、じゃあもうみんなで写ったらいいじゃんってなりましてえ。ああ、ミッシーだけじゃ捌き切れなかったか。ごめん姫ー、と測もいいかなー? この写真撮ったらお開きってことでー。なんか飲み会終盤特有の雑なバイブスになってきたな。いいよ、撮ろう。タダ酒飲んだんだからこれくらい付き合ってくれるだろう? わかってるよ、と立ち上がり、カウンター席の壁を背にして、二人と三人で屈み込み、その周りにファンたちが蝟集する。バーカンさんカメラ大丈夫すかー? あざすー、じゃあみなさんありがとっしたー! スペシャルゲスト93にでっかい拍手をー! と、漁火ちゃんと教授が宴を締める。
じゃ、道中気をつけて。そっちもな。ほんと共演できてよかったよ、またやりたいね。ああ、こちらこそ良いツアーファイナルだった。宿どのへん? 歩いてすぐそこ。じゃ気をつけてね、またχορόςで。ああ、会うことになるかもな。おつかれっした教授ー! ありがとイリチ、九三と測もー! また連絡するー!
本当に、また会うことになるかもね。と、タクシーのドアを閉めながら測が言う。なんで。なんでということもないけど、あの子とはこれっきりって気がしない。姫? 頷く測の頬の上で、窓外の街灯が明滅する。測にとっては初めて会えた同胞だもんな。まあ、ね……探したらいいよ。えっ。世界は広いんだから、探したらいいよ、家族と呼べるような人を。何言ってるの、前にも言ったけど、自分の生まれなんかに執着したって──そういうことじゃないよ。赤信号で停まった車内の暗闇で、測の双眸を見据えて言う。わたしじゃ限界があるから、測のことをわかるには……だから、これから探してみたらいいよ。誰かを通して自分を、自分を通して誰かを。そしたら、もっと遠くまで行けるかもしれない。もっと別のものになれるかもしれない。姫たちが今日来てくれたのも、何かの運命だと思うよ。
数秒の沈黙。が、やにわに破られる。一度、帰ろうと思うの。長崎? 静かに頷く。この一ヶ月で諸々の整理をつけたら、ね。あの人の場所は知ってるけど、まだ一度も行けてないし……気持ちの整理をつけるにはいい機会かも。だね、行ってあげなよ。ねえ九三。なに。青信号で発進した車内に、ふたたび街灯の明るみが兆してくる。これからどうなろうとも、変わらずにいましょう。うまく意味がとれない言葉に、どう返したらいいのか。変わるよ、変わらないのは無理。そういう意味じゃなくて……変わらずに友達でいましょう、ってこと。ああ、こんな顔で笑うんだったな測は。懐かしいな、あのとき以来だ、ふたりで暮らした最後の日。友達、ねえ……友達以上のこともしたけどね。あれは必要なことだったの……イリチ、聞かなかったことにして。あはは、漁火ちゃん寝てら。苦笑で誤魔化してもしょうがない、から、はっきり言わなきゃいけない。友達だよ。だけど、変わるよ。謂おうとしたものは察せられたらしく、測も苦笑する。変わるね、確かに。あなたも私も──不二良も──誰かは誰かの生を変えてしまう、残酷なほどに。そういうこと。そのこと自体をどうこう言ってもしょうがないよ。とにかく往こう、往って、また帰ってこよう。帰る場所すらなくても、どこかにたどり着いてはしまうんだし。往くしかない。とりあえずこの夜を明かして、また新しく始めよう。もっとうまく失敗しよう。
あなたがどんな酒を好んでいたかさえ、うまく思い出せない。そもそもうまい酒を飲んだことがあったろうか、あの生活水準で。知らない、私はあなたのことをよく知らない。最も近しい存在であるはずの娘でさえ、あなたに深く這入ることはできなかった。当然だろう、出産してしまえばもう別の人間だ。いつまでも暖かく迎えてくれる故郷があってほしいなどと、私は思わない。
だからひとまずは、この一献を捧げて、あなたのもとを去ろうと思う。母を愛したかわからない私から、娘を愛したかわからないあなたへ。しかし、それでも愛はあった。あってしまった。あなたとあの人の間にだって、愛はあってしまったはずだ。この墓石のように冷たい破局だけが父母のすべてだったとは、誰にも言い切れはしないのだから。
長崎。あまりに多くの異種を孕み、あまりに多くの中絶を強いられたこの土地、交わされた愛と嬲りにはとても見合わない不妊の土地で、かつて私も生を享けた。殊更に役立てようとも、無駄にしようとも思わない。どうあっても受け取ってしまうのだ、拒みようもない一つ身なのだ。なら私も繋ごう、どこから伸びてきたかも知れない線を。切って、接いで、繋いだ先が、絶えざる脈の走りのように見えたらいい。
よりによって大晦日に呼び出しかよ。いいじゃん、さすがにこの日まで塾やってないっしょ。まあ、昨日で一区切りだったけどな。今年の子らも大丈夫そう? お前な、この母里久蔵が志望校落とさすとでも思うか。ははは、そのために少人数でやってんだしね。そうだよ、俺からしたら毎年新しい子供ができるみたいな感じだ。あはは、考えると壮絶だな。だから責任重大だよ、人生預かってるんだからなこっちは。久蔵はやっぱかっこいいなー。丸出しのお世辞は言わんでいい。本気だよ、本気で言ってるんだよ。だって、わたしには絶対できないことだからさ、その、誰かの人生預かるなんて。そう、か。お前も変えてると思うけどな、測さんとかの人生を。預かるのと変えるのは違うよ、親鳥みたいに巣を作って、根気強く、暖かく誰かを育むって、すごいことだよ。曲作って唄うのだってすごいことだろ。いやあ、それはさ、明後日の方向に卵を投げつけるみたいなことだからさ……なんだそれ。ははは、マジで思うんだけど、わたしより久蔵のほうがお母さんの才能あるよね、苗字に母ってついてるし。何の関係もねーわそれは。
で、なんでここ。え? なんで元寇防塁で待ち合わせ。もっと他に場所あったろ、こんな海風が寒いとこよりも。いやあ、ゆうきゅうのれきしにおもいをはせましょうみたいな。何言ってんだ。さあ久蔵先生、ここにモンゴルのイキった人たちが攻め込んできたのは何年でしょう? 西暦で一二七四と一二八一年だろ。よくできました。まあ知っての通り船が沈んでさ、攻め込んできた側のモンゴル人は処刑されたらしいんだけど、それに付き合わされてた中国や朝鮮の捕虜は助けられたんだよ。らしいな、そのあと日本に入植したとか。すごい数だったんだってよ。その人たちがさ、また次の日本を作っていったわけじゃん。その人たちと一緒に作ったわけじゃん。それよりもずーっと昔から、百済や高句麗や新羅からの移民も受け入れてたわけでしょ。ねえ久蔵、神風ってそういうことだよ。日本ってそういう国だよ。この島にはさ、誰がいたっていいの。どんな人が住んでもいいの。どこから来てどこに行ってもいいの。でしょ。当たり前だろ、わざわざそんなこと言うために呼んだのか。それもあるけど、さ。行くんだろ。えっ。あのχορόςってイベント、日本で終わりってわけじゃないだろ。知ってたんだ。そりゃあ俺だってファンだからな、93の。一番近くて一番遠いファンだ。あはは……なあ九三。なに、っていうか久蔵がわたしのこと名前呼びって珍しいね。いいから、今から言うこと、一切茶化さずに聞け。いいな? 内容にもよるけど……なに? まさか、お前がそっち側だとは思ってなかった。え、ああ……ごめんね、でも不二良と付き合う前は──違うわ、そっちじゃない。えっ。お前が、音楽を創る側の人間だとは、思ってなかったよ。……あ、そっちのほう。当たり前だろ。ただ音楽が好きで、でも趣味でしかなくて、平凡に生きていくだけの人間だと思ってたからな、俺と同じで。うん……わたしも思わなかったよ、まさかキュウゾウになっちゃうなんて。だからさ……助けてやれよ。えっ、誰を? 不二良、を。言ってたろ、不二良にはわたしが必要だって。不二良は音楽を理解できない人だけど、わたしならわかってやれる、だからわたしが必要だって言ってたろ。なんで憶えてんだよ、もうそんなん──俺もそうだと思う。えっ。必要なんだよ、音楽に選ばれた側の存在は。そうじゃない側にとっては、音楽に選ばれた側の存在は救いなんだよ。だから、また会いに行ってやれ。これから世界を巡るんだろ。なら会える可能性も十分ある。会いに行ってやれ、あの時お前が言ってたことは間違ってない。お前の歌が俺を救ってくれたように、今度は不二良も救ってやれ。
救い、かあ。救い、だろ。自分にできないことをしてくれる誰かがいるってのは。誰かにできないことをやれる自分になれたってことは。そう、か、もね。そうだ。ありがと久蔵、じゃあさ、これからもわたしにできないことやってよ。おう。お前も、せっかく音楽の道に進んだんだから中途半端に終わらすなよ。わかってるよ、きっと地獄みたいな道なんだろうなあ。でもお前は誰かを救ってるし、誰かに救われてる。だから往けよ、もう振り返るな。このまま続けさえすれば、誰も辿り着かなかったところまで往けるかもしれない。
ありがと、久蔵。おう。あんたのこと好きになったの、間違いじゃなかった。こっちの台詞だバカ。わたし、往くから──ぜったい戻ってくるから、必ず。中途半端な旅じゃなかったって、言えるようにするから。わかってる、頑張れよ。ありがとう。
喚ばれたら往かなきゃいけない、そう測は言った。そんなわけない、わたしみたいなのが喚ばれるわけない、と思ってた。でも、たしかに聴こえてしまった。その音が鳴り止むことはなかった。たとえ癒されようと傷つけられようと、聴こえてしまったものを、なかったことにはできない。
わたしが愛したもの、憎んだもの、植えたもの、摘んだもの、得たもの、喪ったもの、すべての結果としてここにいる。わたしと無関係だったはずの何かたちが、偶然のうちに絡まりあって、こうしてひとつの歌を糾った。そしてまた、誰かの歌が聴こえてくる。海の向こうから、空の果てから、地の底から。そうか、君もこうして喚ばれたんだな。もはや何者でもない誰かに成り果てながらも、それでも自分の声で唄わずにはいられなかった。構えるな、きっとわたしたちは朋だちになれる。しかし一朝一夕の話でなく、勝っては負ける千一夜の、乾坤一擲の斬り結びを経て。
愛は喘ぎ、言は寿ぐ。舞は目合い、音は訪る。また聴き逃す、また見誤る、またなにかを喪っている。人ひとりができることには限界がある。ならわたしは、これから何を喪ったかを探しにいこう。何を間違えたかを知りにいこう。これから往くのはきっと、数えきれないほどの肉体ひしめく、未知の光で目眩く世界だ。
08 Foul & Fair
死はワタシより巨きく、地球はワタシより小さい。
ちがう、子宮と言おうとしたのだ。死はワタシより巨きく、子宮はワタシより小さい。そうだ、すくなくとも最初に言葉を話した時には、すでに母胎より巨きかったはず。ずいぶんかかったな。ずいぶんかかったけど、ひとまずここまでは来た。細胞も日月も夥しきを閲して、ワタシの象りを堆くした。全身の細胞は三七兆個だとか。ずいぶん多いな。じゃあ一方で、失われたものもあるんだろうか。ワタシがこうして数を増やす一方で、減っていった何かもまた。それはどうやって知れるだろう。もし数えられるとしたら、たとえばこんなやり方で。まず右手に左手の手袋を着ける。右手の親指を折り曲げ、左手の手袋の人差指の位置に右手の小指を入れる。そしたら指が通ってない親指の位置を除いて、手袋には四本の指が入る。右手の親指は折れ曲がっているけど手袋のうえからは在るように見えるので問題ない。さてこの場合、手袋のうえから見た指の数は五本である。しかし、左手の手袋と右手の指でまっすぐ伸ばされている総数は九本である。五指を二倍して親指を一つ引くだけだ。左手の手袋の指をカタカナで、右手の指を漢字で表記するとすれば、オヤ・ヒトサシ・ナカ・クスリ・コ、そこから折り返して人差・中・薬・小、となる。なんだか音階みたいだ。しかし初めと終わりが上下オクターヴの同音で一致する音階と違って、この指は親指で閉じない。手袋の親指のなかには指がなくて、ほんとうの親指は見えないところで折り曲げられているからだ。ワタシから失われた数は、こういうふうに数えるものではないかと思う。十進法でも十二進法でもなく、見える指と見えない指の数がそれぞれ違っていて、その総量が倍数でない。輪は閉じるが対称にはならない。そのようにして数える数。
くー、とワタシは手袋の擦れを弄いながら、みー、と絹の下の指を動かしてみる。右手の人差と中指を折り曲げたら、手袋のうえからは指が三本に見える。こうしてアナタの名を数える。九三。素敵な名前、なのかな。日本の人名についてはよく知らない。九三、よりも三一のほうがワタシ好み。一一番目の素数、脊椎の骨の数、そしてダンテ『地獄篇』の総歌数である、と母は教えてくれた。いや最後のは三三たす一か。ともあれ、母はからっぽな手袋の親指のようだ。存在しているようしていないから。また別の名前になってしまったらしいし、もう行方は杳として知れない。だからどうということもない、多くのものを与えてはくれたのだし。二つとあら不る良きもの、と読めただろうか、かつて母が名乗っていた名は。二つとない、とは。世界創造以前にあったものも、二つとあら不る良きものには違いなかったろうな。ではそれ以降の万象は。誰だって二つとない存在ではあろうけども、既存の二つから産まれたにもまた違いない。数えきれないほどの肉体ひしめく世界では、誰かが誰かを映しあっている。それでも決して帳尻は合わない、左手の手袋を着けた右手のように。
こうしてワタシは世界を数える。ここまでなんとか増やしてきた数と、一方で失われてきた数の両方を。いっぺんには無理だけど。でもこうでもしなければ、人が二つも手を持っていることの説明がつかない気がする。十を数えるなら片手で十分なわけだ。指一本切り落とした人が片手で数える十が実際は八だったとしても、それが何か。とりあえず一嵩は計ったのだから問題ない。むしろ親指を切り落とした人の方がうまく数えられるかもしれない。逆の手袋でも入れやすいし。失われた数はそうして数えるはずだ、という確信がワタシにはある。
こうしてワタシは世界を数える。人間を。あまりに増えすぎてしまった今生の頭数を。頭数、といって、百年前の戦争で頭蓋骨を打ち砕かれて死んだ人は、ちゃんと別に計上するようなやりかたで。
しかし、子宮と地球。ちょっとした言い間違いでまったく別の意味になるな。気をつけなきゃいけないよな。こうして頭で文字を弄ぶ、それだけでも言い間違いは発生するものな。言ってないけど。もちろん頭の中の案文を発話する過程で言い間違うことはあるだろう。しかし頭の中に文字を思い浮かべる、その時点でもう音を伴う。知っている文字を読まないのは不可能だ。ワタシの頭の中にある、これらの線たちが端から音声と無縁であってくれたら、どんなに助かるだろう。しかし字を追うこと自体がすでに音だ、ふ・か・の・う、と、こうして声に出して読んでしまえる。難儀だ。五千年くらい前の人たちよ、どうしてアナタたちはこんなものを創りましたか。文字なんかなくても、そこには沢山の楽器が挨拶が振り付けがあり、音と言と舞で満ちていたはずなのに。さらに文字なんてものを創るとは。線の連なりが音と言を同時に担ってしまう、その織り成しが舞であるかのようなこの道具を、ほんとうに使いこなせると思ったんだろうか。残念なことに五千年くらい前の人たちよ、ワタシたちは未だ文字を持て余しています。なんたって文字という表現手段は、踊れもしないし唄えもしない輩が最後に立て篭る砦のようになっているので。ほんとうは逆だ。歌も舞も心得なければ使いこなせない性質のはずなんだ、この文字という道具は。なのにまたぞろ、音楽は言葉にできないとかダンスは言語を超越した感動を与えるとか、分別顔で書き散らす奴らがいる。文字を、使っているくせに。お前のそれはなんだ。いま書いたそれ、そ、れ、は。読めるだろ。読めてしまえるだろ。so, re, そのように発話しなきゃいけない道理なんて、ほんとうは無いはずなのに。それでも読めてしまう、書けてしまう、言えてしまう。こうして書かれたものが意味を担うばかりか、音や歌になってしまう。とすれば、文字自体がすでに舞踏ではないか。だからもっと──もっと鍛えよう。もっと賢くなろう。もっと強くなろう。別のやりかたを見出すために。言葉だけじゃだめなんだ。かといって、歌や舞だけでもだめなんだ。だからこれを創ったんだろう、五千年くらい前の人たちよ──いいだろう、ワタシは引き受けた。これから陽気な踊りを見せてやる。数えられるうちは踊れるはずだ。三一、一一番目の素数の三倍。そしてワタシを二倍して一を引いた名前を持つ彼女を待ちわびて。くー、みー。左手の手袋をかぶせた右手で、海の向こうへと、その呼び名を電信しながら。
こうしてワタシは世界を数える。
The crystal ship is being filled, ってこともないのだが、やはり非現実感みたいなのは免れ得ない。早朝の博多埠頭にこんな豪華客船が。いや、これくらいのサイズの船舶は珍しくないでしょう。と測に言わせればそうなるが、しかし貨物ではなくχορόςのための人員を乗せてるとなれば話は別だ。船体から乗船用の階段が下ろされる様子もどこか呆けて見ながら、うわー漁火ちゃんマザーシップコネクションだよ今から。と他人事のような軽口さえもが漏れる。っすねー。Swing down sweet chariot, stop and let me ride... と呑気な鼻歌をハミングしながら、傍らの堅固なギターケースに目をやる。わたしら荷物少ないよなー。着替えと携帯端末と化粧品くらいしかないからね。それにしてもバッグふたつぶんってな、漁火ちゃんギターひとつくらい持つよ。いいっすよ、ていうかさすがに船のひとが手伝ってくれるんじゃないすかね。と話してるうちに、船体からひとつの人影が現れ、静かな歩みで階段を降りてくる。
お待たせいたしました。
日本語、だ。やっぱりな。もうShamerockのときほどには驚かないけど、でも海外からやってきた人が当然のように日本語って違和感すごいな。かつ、かつ、と乾いた革靴底の音を聴きながら、降りてくる人影の面持ちが徐々にデッサンを濃くしてゆく。アジア人、かな。肌の色だけで判断するのは無理あるけど、なんかそんな気がする。
χορός日本代表、93の皆様ですね。主催の命を受けてお迎えにあがりました。客船Yonahの船員主務、霧島ヨナと申します。以後お見知り置きを。
霧島。あれ、日本人か。でもヨナって。あー、人を乗せて海を渡るからYonahなんスね。船だからNoahみたいな、ベタな感じじゃないのがいいスね。と、挨拶代わりの軽口でも放ってみる。目の前のヨナ、と名乗る人は、くすっとひとつ微笑を漏らし、不二良ではなく豪華客船ですから、航路の安全もご心配なく。と言った。えと、クジラ、だよな。わたしが聴き間違えただけだよな、あるいはこの人の発音が怪しかっただけ。と湧いた疑念を払うように、すごい丁寧な日本語ですね、もしかしてそれもGILAffeですか。と訊いてみる。ええ、まあそうですね。ワタシはだいぶ早い段階にもらっていましたから。そうなんだ。早い段階に……? やっぱDyslexiconの関係者には渡ってるのかな、出場者でなくても……と数瞬黙していると、
Wasssuuuuuuuuuuuuuupp!!!
と唐突な音声が劈き、それに続いてカンカンカンカンとスネアドラムのような靴音が響いた。なん、と思ってるうちにフィアー・オブ・ゴッドのパーカーとスウェットパンツとミリタリースニーカー姿の人が歩み出て、く、うわ。
あいたかったぜ龍ー!!
首根っこに腕を回されている自分を発見する。あは、なんか久々だなこのヒップホップノリ、と思ってるうちに腕は首元をすりぬけ、解放されたわたしの眼は、おもむろにフリースタイルでライムを踏み始めた人の姿を眺めることになる。韓国語か。なに言ってるかはわからないけど、ビートなしでもすげえカタいな。てことは、この子。한나でしょ? 锡鼓の! 言うと同時に我が意得たりという顔になり、またしても自然な流れで、ヘッズお決まりの掌タッチからの拳突き合わせを。やっぱこういうのって万国共通だな。お前もやんなよ龍! え? あたしが挨拶がわりにやったんだからさーお前も一発キックしろよ。えー、トップオブザヘッド苦手だからな。いいじゃんていうか埠頭でサイファーって超イイ絵面じゃん? とラッパー同士がじゃれあうのを、すみませんが、ただちに出発しなければならないので。とヨナ、と名乗る人の声が制する。えー、と不機嫌そうにふくれても、한나はわかったよとりあえず中で話そ荷物重いっしょそれ持つよ、と次の瞬間には漁火ちゃんの荷物を脇に抱えて階段を上りだすのだった。あざすー、とギターケースひとつだけになった漁火ちゃんが後に続く。
あなたみたいな子が増えちゃったわけね。いや、わたしあそこまで極端じゃないっしょ? もう船内入口まで上っている한나を眺めていると、ヤスミン下の二人の荷物手伝ってあげなよー、と声が響く。あ、もう一人いるのか。たしかに入口付近に別の人影が見えるが、雲間から漏れた朝陽で視界が遮られる。あーいやこっちの荷物は軽いから大丈夫よ、と上方へ向けて言ってみると、オーライとばかりに手を振るのが見えた。それでは。とヨナ、と名乗る人に促されるままに階段を上る測。の背中を見ながら、楽しい旅になりそうですね。うん、にぎやかそうだし。と通り一遍の会話がどこか他人行儀めく。いや他人には違いないんだけど……ちょっと訊いとこうか。ヨナさん、ってさ、どこの出身? 北インドですね。へえ、インド。どのへん? と地理すらおぼつかない国について訊いたのも、もちろん対話の糸口を探るためだった。
さあ、ワタシ自身もあまりよく知らないんですけどね。
そう、なん、だ。え、そんな答えあるか。自分の生まれたところをよく知らない、って。もしかして、訊いたらまずいことだったか。言葉に詰まりそうになるのを、ヨナっていい名前だねーどういう風に書くの? といよいよ空虚な問いでごまかす。アナタと同じですよ、数字です。四と、七。依然としてにこやかな応対を受けて、えと、漢字だよね。と当然の疑念が漏れる。ええ。インド出身で漢字の名前ってことは、あとからつけなおしたってこと。もちろん。さほど珍しいことではありませんよ。まあ、そう、なのかな。
母はとても美しい名前を与えてくれました。おそらく、アナタを想いながらつけたのでしょう、九三さん。アナタと愛し合っていた頃の話も、たくさん聞かせてくれましたから。
え。
え、何それ、それって。頭が渋滞する。舌が結えられたようになる。硬直して見えるのであろうわたしの表情も意に介さず、相も変わらず微笑を絶やさず、目の前の人は、霧島四七は、くすぐるような視線を向けて言った。
ワタシは百済不二良の娘です。
うわーほんとにマザーシップじゃないすかー。そーだよあたしらも最初びっくりしたよー、と燥ぐ漁火ちゃんと한나を先頭に、こちらのゲートをくぐればすぐにキャビン、つまり今回のχορός出場者が寝食する客室に着きます。と事務的に案内する四七が続き、その後ろに無言の測とわたしが纏わる格好になる。こちらです、93の皆様のお部屋。なにか宇宙船めいたセキュリティ付の鉄扉が、ピピッの音とともに解錠される。うわーいまのなんすか。頤に埋め込まれたGILAffeが、そのまま部屋の鍵として機能するようになっております。へーやっぱお前らも入れてたのかあ、と笑う한나。まあね、わたしと漁火ちゃんは先月のうちに。あ、でもはかるんはこれどうするんすか? ご心配なく、GILAffeなしの方にはカードキーを用意しております。胸ポケットから一枚のカードを取り出す四七、受け取る測。スペアはございませんので、紛失なさらぬよう。ええ。なんだ龍の相方さんは手術しなかったんかい、ヤスミンと同じだなー。ヤスミン……あ、もしかしてさっきの子? 後ろを振り返ると、いた、一連の会話に入らずおずおずとついてきてた子が。へえ、あなたも手術は受けなかったの。と歩みを止めた測が最後尾の子に話しかける。あ、ああ、まあ、と唐突に話題を向けられて萎縮したのか間投詞だけで応え……あれ、日本語通じてるじゃん? そりゃヤスミンは中国語と韓国語と日本語と、あと英語できるからねー。そうなん、すごいな。じゃあ確かにGILAffe入れる必要もないね。と言ってみても、とくに反応らしきものはなかった。人見知りさんか。わーやばいすよねえさんー!! と叫びに近い声が室内から。どうしたん? みてくださいこれー、の声に呼ばれて部屋に歩み入る。うわ、うわー、 MPC 3000 だ!! 初めて見た。今まで MASCHINE しか使ったことなかったけど、まさか数多のビートメイカーに愛された名機をこの目で見られるとは。それもすけど、こっちみてくださいー卓ーミキシングコンソールー! こんなん東京じゃ見たことないすよ、ちょっとした国家予算すよ! まじか、わたし詳しくないけど、ほとんど宝くじを当てたように興奮する漁火ちゃんの姿から、その程は察せられた。へえ、锡鼓の部屋にも同じものがあるの? と問う測に、あ、ああ、まあ、とさっきと同じく応えるヤスミン。これらの設備は、お好きに使っていただいて構いませんので。と言う四七は壁面の電子パネルを起動させ、静かに室外へと歩み出る。それでは抜錨しますが、この国にお忘れ物はございませんか? ええ。大丈夫すよ。うん。それでは、また数時間後に船内放送が入りますので、それまでごゆっくりおくつろぎください。と背中を向ける四七を、反射的に追いかける。ねえさんどうしたんすか。何かございましたか? いや、ちょっと、知っときたいことがあって。知っときたいって何。えと……喫煙所どのへん、とか。と躱したつもりのわたしに、訝りの視線を向ける測。いわく言い難い気まずさが、喫煙所ですね、ご案内いたします。の声に助けられる。こちらへどうぞ。ありがと。
通された先は、もちろん喫煙所ではなく、なにやら船内機構のステータスが表示されたパネルだらけの一室。で、どういうこと。はい? はいじゃなくて、さっきの。あなたが不二良の娘って、一体どういうこと。静かに問い質しても、言葉通りの意味ですよ。と、依然として変わりのない声音で答える。言葉通りとは思えないけどね、わたしが不二良と別れたのはだいたい三年前。そのあとで産んだとして、そこまで急速に育つもんじゃないと思うけど。と敢えて外堀から埋めていくと、もちろん血は繋がっていませんよ。と目を瞑って微笑している。義理の、ってこと。そんなところです。壁面パネルの数値を無感動に眺めながら、出会ったのはジュバでした、南スーダンの首都です。と乾いた名詞を並べる。スーダン……アフリカでしょ? ええ。そこに不二良が……えと、スーダンってインド系とかアラブ系とかのプレゼンス有る国なの? 南のほうでは無いですね。じゃあなんでそんなとこに……と疑ってみても、そもそも唐突に東欧のコミューンを歴訪しようと言いだすような女の去就に関しては、勘繰りにさえなりそうにない。あなたも、生まれた時からスーダンってわけじゃないでしょ。静かに頷く。幼少の記憶はほとんどありません、気がついたら西のほうにいましたからね。インド、イラン、スーダン……と、おぼつかない地図を頭に描き、漠然と位置関係を手繰ってみる。陸路でも、流れ流れてけっこう遠くまで行けるものですよ。それはまあ……しかしインドから南スーダンか。そこで何してたの。さっき訊けなかった核心に踏み込んでみても、売春を。と、なんの情緒もない一言で応えるのだった。首都のジュバにある、SPLA、つまり政府軍の反主流派が多く出入りする宿にいましたね。と続けられても、いったい何をどこまで詮索していいのか。えと、今更だけどさ……女の子? ばかげた問いに、そんなのはどうでもいいことです。と端的な答えが。ひとつだけ言えるのは、ワタシはあの宿で一番の売れっ子だったってことです。なにしろ、どちらの相手もできますからね。サラリーマンが前の就職先での業績を話すような口調に気後れしながら、どちらのって、男も女も、ってこと。と小声で問うてみる。前も後ろも、のほうが適切ですかね、客のほとんどは男性だったので。ワタシはペニスとアヌスの両方を、提供することも受容することもできたので、どちらの客からも売れたわけです。それってつまり、肉体的には、男性。というか、そんなことを考えたことすらありません。物心ついたときから、前のと後ろのを使えば金になる、そのことだけが重要でしたから……どの土地でも同じでした。ただの商売道具ですよ、その使い方を心得ていた、おかげで生き延びることができた、それだけの話です。
沈黙、するしかなくなる。文字通りに、住む世界が違いすぎる。母と出会ったのは、三年……いえ、今が二〇二〇年ですから、西暦のうえでは四年前になりますか。完全に聞き手に回るしかないこちらへ、訥々と思い出すような言葉が続く。日付が変わり、一二月一日になったばかりの深夜でした。当時国連のPKOで来ていた軍が、ワタシのいた売春宿を解放してくれましてね。解放。って、何。その夜、ワタシ自身は離れた場所でお客を取っていたので、居合わせたわけではないのですが……朝になって帰ってみると、いつもの宿が焼け跡になっていたわけです。ワタシ以外の子たちやSPLAの人たちは、まあ、いなくなっちゃったんでしょうね。いなくなったって、それ……民間人虐殺じゃないの。しかもPKO軍の。あなた以外の売春宿の子たちって、いったい何人くらいいたの。と疑念の湧くままに問い詰めても、さあ。と短く断ち切られる。あの時期のあそこでは、よくあることでしたから。
またしても沈黙。四年前の一二月、てことは、わたしがグダニスクで置き去りにされた一ヶ月後か。そこで不二良に会ったってこと。はい。ワタシだけ生き残ってしまったわけですから、その身を哀れんで、というわけでもないんでしょうけど、養子として引き取ってくれて。養子、なんで。そもそも母は、語学の才能がある子を求めてスーダンを訪れていたらしいんです。なんでだよ、なんでそんな用でわざわざスーダンだよ。母が言うには、「こういう環境ではそういう子が育ちやすい」、と。どういう。わかりませんが、「わたしもそうだったから」……とだけ、言っていましたね。不二良も、か。確かにイランからの移民の裔だとは言っていたけど。その後、ワタシも母と一緒に世界を回って、その最中にGILAffeを──アナタの中にも入っているそれを──完成させたわけです。と、悪戯っぽくわたしの喉元を指差しながら言った。語学の能力がある子を、って、そのため。おそらくは。でもそれって、人買じゃないの。かもしれませんが、ワタシにとっては何の問題もありません。まあ、売春宿から助けられて……いや助けられたって、あなたにとっては家みたいなもんだったんじゃないの。そうでしょうか。なぜかこちらが問われる。ワタシにはもともと家なんかありません。ただ、これからは母と呼びうる人がいてくれる、そのことだけで、ずいぶん心穏やかになるものですよ。と、表層だけ聞けば納得できそうな言葉。しかしあまりに倒錯していないか、流れ流れて、囲われて、解放されて、拾われて、それで心穏やかに、って。
ねえ、これだけ答えて。疑念は渦として巻き上がっているが、ひとつひとつ訊いてはきりがない。不二良の娘を名乗る人の浮世離れした話を前にしては、もうこのことを問わずには済まされない。不二良は、一体、何をしようとしてるの。一体何をするために世界を巡ってるの。
数瞬の沈黙。ののち、壁面のパネルから視線を移した四七は、こちらへ向き直り、唇を開いた。
母の関心は、どうしてこの世界にはこんなに多くのものが在るのか、ということでした。
多くのもの。言語が、ってこと。言語だけではなく、大きく言って人間そのものが、です。どうしてこんなに多くのものが。たしかグダニスクでも言ってた、世界にこれだけ多くのものが在るのは大したことだって──そう。母は常にその考えを放すことがありませんでした。だからGILAffeを作ったってわけ。世界中の言語を話せるようにする、猫型ロボットの出す道具としてもどうなのって発明を。そうですね。ただおそらく、これはあくまで過程の産物。過程。これ以上はワタシにも答えようがありません。母は企ての過程でワタシを求めたにすぎませんから……逆に、訊かせていただけませんか。えっ。九三さんは短い間であっても、母と愛を交わしたことがあった。アナタしか与り知らないことも、またあるのではありませんか。え……この世界にこんなに多くのものが、なんて言われてもな……そうだな。何かありますか。いや、全然関係ないだろうけど……チャーリー・パーカーがね、似たようなこと言ってた……あの人すんごい壊れた生活しててさ、それで「あなたはそんな暮らしぶりで、不安になることがありませんか」って訊かれて、それで答えたのが、「何を言う。この世界にはこんなに多くの金が、食べ物が、楽器が在るじゃないか。だからなんの心配もいらない」。って……いや、これ全然関係ないな。近いですね。えっ、近いの。ええ、母の関心と近いところにある。不二良とパーカーが……? あ、そういや晩年のパーカーって、イスラームに接近してたらしい。クルアーンを暗唱するくらい入れ込んでて、不慮の死さえなければムスリムになってたかもって。やはり、そうか……だから母は、アナタを求めたんですね。えっ。母は、音楽を理解できない人だったから。ああ、まあね……
と、掴みどころがあるのかないのかわからない問答も尽き、頭の中には不二良と過ごした日々の断片が散らばるばかりだった。忘れられるわけがない瞬間も、忘れるしかない瞬間もあった。不二良、やっぱりあなたは何か企みがあってわたしに──と合うはずもない辻褄を弄んでいると、母からは、アナタの望むものを何でも与えるように言われました。との声が差し向けられる。望むものって……八百長なんか困るよ、わたしは実力でχορόςを勝ち抜きたいんだから。そういうことではありません。アナタが欲しくても持ち得なかったものを、ということです。だから何それ。たとえば、子ども、とか。
沈黙。
知ってん、の。ええ。たしか、母より前に交際していた男性が、無精子症だったとか。結婚も考えた相手と子どもを作れないことに倦んでいた時期に、母と出会ったとか。訥々とずかずかと踏み込んできやがる、のを憤激で押し除けることも、わたしには許されそうになかった。不二良になんでもかんでも話しすぎたな……そういった意味でも、ワタシはアナタの欲しいものを与えることができます、生物学的に。抜かりないな不二良は。でもね、いい。今はそれどこじゃない。そうですか。あとね、四七。はい。お前なんかが久蔵の代わりになれると思うな。今度わたしの元カレを侮辱したらぶっ殺す。
もう、訊けるのはここまでか。喫煙所どっち。この部屋を出て、右手側のドックにあります。背を向け立ち去る、ドアを閉める、前に。ひとつだけ訊いておきたい。ねえ、四七。はい。あなたはプロのセックスワーカーだったわけじゃん。で、不二良に拾われたわけじゃん。てことはさ、不二良とも、したことあるの。興味本位で投げた問いが、ワタシたちは母子ですよ。するわけがないでしょう。と、初めての静かな憤りと軽蔑混じりの声で報いられ、ドアが遮断される。
そうだよな、そこは越えない一線だよな。ラッキーストライクに着火しながら船外の景色を眺める。この銘柄だって、不二良の影響で吸いはじめたんだもんな。しかしあのあと、まさか養子までつくったなんて。その子を利用してGILAffeなんてものまで……
何をしている、何をさせようとしている、わたしに、わたしたちに。何の目論見もなければしないだろう、自分の養子を日本まで差し向けるなんて。そこまでして不二良は──違う、これはいわゆる被愛妄想とは違うはずだ。だって実際にこうして来ている、現実に。ならば不二良は、一体何をするために世界を。何をさせるためにわたしを。わからない、わかるはずもない。とにかくこのことは、測には内緒にしよう。せっかく吹っ切れたってことにしたのに、まさか不二良のことを直に知る人が船内にいるなんて、厄介なことになりかねない。とりあえず今は、実地でやるべきことをやるしかない。
煙草三本ぶんの休息のあと、93にあてがわれた部屋に戻る。しかしまあちゃんとした構えだ、入ってすぐにカウチとテーブルがあり、進んで右手側の扉はスタジオというか制作ブース、左手側の扉はなんだろ、ベッドルームかな。あねえさん、の声のほうを見ると、DAWにトラックのパラデータを流し込んでいた。使えそう? 使えるどころじゃないすよ、ここに入ってるプラグインあれば今までのトラックもぐーっと改良できるかもー。そうなん。言いながら、コンソールの向こう側の部屋をガラス越しに眺める。あっこでボーカルと、あとアンプとかドラムキットとかのレコーディングもできる感じか。そうす。ギターまわりの機材どう。いちおうケンパーのヘッドも持って来てたすけど、まさかこんな船にヴィンテージのマーシャル積んでるとは思わなかったすよっおっおー。もし使えたらなんこかギタートラック録り直したいじゃないすかぁぁあああー。機材フリーク特有のバイブスになってるな。じゃ、とりあえず機材チェック終わったらミキシング試してみるか。そのつもりっすー。えっと測は……隣の部屋すよ。あっちか。重い防音扉を押し開き、隣室に歩み入る。
お、いい感じの寝室じゃん。まあね。ただ……見ての通り問題があるんだけど。なに? なにって……これ。あ、ベッドふたつしかないな。ええ。私たち以外の出場者は全員二人組らしいから、ごっちゃにしたんだろうけど……まあいいじゃん、作曲合宿のときも雑魚寝だったし。そうかな……半年間いるわけだから、もうひとつ増やしてもらったら。いーよいーよ、なんならわたしカウチで寝るし。漁火ちゃんもずっと制作ブースにいるかもしんないし。そういう問題……? あそうだ、めしはどこで喰えばいいのかな。たしか船内図にキッチンがあったけれど。そっか、見てこようかな、と思った瞬間に船内放送が入る。ブリッジよりご連絡申し上げます。これ四七かな、さっきとは打って変わって他人行儀な声。ただいまより客船Yonahは、博多埠頭からアメリカ合衆国テキサス州のサン・ディエゴへと出港いたします。これよりおよそ二〇日間の航海を経て到着の予定です。それまで快適な海の旅をお楽しみくださいませ。は……二〇日!? 聞いてなかったの、これからテキサスまで直行だよ。ええ、知らないけどそんなの! 私宛の代表者メールにしか書いてなかったかな。ええ事前に読ませとけよそれ! 二〇日も船の中ってめっちゃ暇……とは言えないよ。えっ?
これ、と測がスマートフォンの画面を見せる。今回の、χορόςの日程? が、英語で書かれている。エル・パソでオープニングセレモニーのあと、第一回目の公演がメキシコのカボ・ワン・ルーカスで。あれ、その横になんか93って書いてるけど。この公演は私たちがオープニングってこと。えっ。よく見て、第一回目のメキシコ公演、第二回目のペルー公演、第三回目のチリ公演は、それぞれ93、锡鼓、Shamerockがオープニングで出るの。Shamerock!? いま気付いたの。気付いたつか知らせなかったんじゃん測が! うわー姫たちと競うことになるのか。そう、私たちと锡鼓とShamerockは最初の三公演で特別にオープニングパフォーマンスが設けられてて、そこで未発表の新曲披露が課されてる。えーなんでまた。私たち三組はあとの二組と比べて弱小だから、ここでチャンスを与えるってことじゃない。脚光を浴びるための、か。ていうか今回の一連のツアーってどんなルールなの、最終的には勝者を決めるわけでしょ。それはオープニングセレモニーで発表されるからなんとも言えないけど、とにかく私たちにとっては最初のメキシコ公演がブレイクスルーのチャンスってわけ。そこで披露する新曲用意しとかなきゃ、ってわけか。もしかして、そのために二〇日間の猶予を与えたっていう……そのあたりは锡鼓のほうが詳しいかもね、私たちより数日先んじてるわけだから。そっか。じゃあ訊いてみようかな。
部屋を出て、突き当たりにある船内図を覗き込む。さすがにお隣さんってわけにはいかないか、結構歩くな。あっすぐそこにキッチンあんじゃん、覗いてこう。
おー、うわ、すげえちゃんとしてる! グリルとコンロとフライヤーと電熱器と電子レンジと、銀色ぎらぎらの調理器具一式と、観音開きの冷蔵庫まで。あー、中華料理屋で働いてた頃のこと思い出すなー。何が入ってるんだろ、あこっち冷凍庫か。チーズとかフライとか、これは解凍して使うのな。冷蔵庫のほうは、おー野菜いっぱい。どこの港で積んだんだろ、ハングルのラベルがついてるから韓国か。この数字が搬入日付かな、こういうのは古いのから使わないと。トマトー、とチーズもあるから、カプレーゼいけるかも。ドレッシングどんなのあるかな。おっ中華料理ふうのやつ、合うかな。これはキャベツの千切りとかに使おう。ここはやっぱ定番の、あったエクストラヴァージンオイル。あとはバジル、ちゃんとした鮮度のやつ……おーあるある。よし、じゃあモッツァレラ見繕おう。
トマトはちゃんと芯とらなきゃだめだよな。トマトの芯かじると猿の脳味噌喰ってる気分になるもんな、猿の脳味噌喰ったことないけど。チーズ溶けたかな、まあこのぐらいっしょ。で、あとはブラックペッパーさえあれば、できたーカプレーゼ。さらに肉料理と赤ワインもありゃ最高なんだけど、まあいいやこれだけで。
うまー。ほぼ馬でしょこれ。これくらいは簡単に作れるんだ、いい船だなー。よっしゃわたしひとりで喰うのもったいない、これにちょっと足して持ってこう。海鮮あるかな? 冷凍庫に……んー白身じゃないんだよな、サーモン足してカルパッチョにしたいー。たしかもうひとつキッチンあるんだっけ、そっちのほうにないか。
おうっ、と、出たところで한나にぶつかる。あっごめ。いやこっちこそ。飯してたん。ちょっと軽くね、ここ使ったことある? まあ湯沸かしてジャージャー麺くらいかな。そうだ한나さ、冷蔵庫にサーモンないかな? 使いたいんだけど見当たらなくてさ。サーモン、ならクーラーボックスにあるよ。クーラー? そう、気分転換がてら道具かりて釣ったんだよ。え、釣りたての! 昨日釣ったやつだけど使えるんじゃないかな。こっち! おう!
んー魚うまく捌けるかなー。できないならやるよ、よーく見ときな。おー慣れたもんだねー、すごいじゃん。魚おろすのから鶏つぶすのまでお手のもんよ。すげ、韓国の子って普通そうなの。いやうちがちょっと特殊っていうか、やるしかなかったっていうか。へえ。龍は玉葱のほう準備しときな。あっそうだね、っていうか何その呼び名。え、だって龍だし。あ、そうか、權志龍の龍か。そうそう。あーじゃあ悪い気しないな。わたしは한나呼びでいい? もちろん。ステージネームあるの? いや本名通り한나、中にはHosannaって呼ぶやつもいるけど。허한나だからHosannaか、うまいじゃん。そもそも生まれが汝矣島だからねえ。ヨイドって、世界一のメガチャーチがあるとこ? やっぱそれが有名なのか、まあそういうとこ。ってことはクリスチャンなの? ま、一応はね、そういうとこで育てられたし。へえ、テヤンみたいじゃん。はは、じゃああれだよ、ハレルーヤー。ぶはは、あれでしょ、ジヨンとテヤンとタプのやつでしょ。そうそう。ハレルーヤー。いいよねあの曲、いまいち歌詞のコンセプトがよくわかんないけど。あれもともとテレビドラマ用に書き下ろされた曲なんだよ。そうなん、知らなかった。
Wassuuuuuupp!! と、威勢のいい声と共に扉が開かれる。九三と한나、と先ほどヤスミンと呼ばれていた子、が三人で皿とボウルを持って。まだちゃんと挨拶してないと思ってなー! と大袈裟な身振りで腕を振る한나、めしにしようよ、料理手伝ってくれたんだよ。と笑う九三、と……気後れしたような面持ちで肩を組まれて立ち尽くしている子。カルパッチョと海鮮サラダー! つくったからみんなで食べよ、漁火ちゃんも呼んできて。と言いながら、丁寧に盛り付けられた皿ふたつと、大雑把に切り刻まれたサラダのボウル盛りがテーブルに置かれる。こいつが測ね、キーボードとかコーラスとかやってる。おーMcAloonだろ? よろしく! あたしがレペゼン韓国の허한나だ! ええ、知ってる。カウチに座って小皿と箸を配り始めるが、その傍に所在なさげに佇立している人のことは放置なのか。あの、한나、さん。さんいらないよ、どしたん? えっと、そちらの方は。まだ紹介終わってないでしょう。ああそうだった、うちの相方、蔡茉莉。a.k.a.ヤスミン。だから、人前でその呼び方やめてって……と初めて彼女の方から物を言う。いいじゃん名前の意味まんまなんだし、だいいちモォリィじゃ白人の男みたいじゃん。どんな字なの? と訊かれると、そそくさとポケットからスマートフォンを取り出す。おーすげ、くさかんむりがみっつも。え、ああ……どしたヤスミン? なんだか、久々に漢字文化圏の人と会ったって感じする。なんだよそれ、あたし仲間外れにすんなよー。おーなんすか、めしっすか! そうそうみんなで一緒にと思ってさ。漁火ちゃんこっちね、測なんか飲みもんない? この部屋にはペリエの炭酸水くらいしかないけど……それでいいよ、持ってきて。これあれすか、かるぱっちょみたいな。そうそれとカプレーゼ。あたしと龍で作ったんだぞー。サーモン捌いたばっかだから新鮮なはずだよ。いいすね! ちょっごめわたしが最初に食べていい? はははなんだよ、振る舞うんじゃないのかよ。いや味見したくてさ、ちょっとひとつ……
うーまーっ! ほぼ馬でしょこれ。え!? 馬刺すかこれ。ぶはは、そういう意味で言ったんじゃないよ。じゃあどういう意味で言ったの……ほいヤスミン、好き嫌いしなさんな。野菜嫌いなの、くさかんむりみっつもあるのに? というか、消化にあまりよくないものが、好きじゃない……かな。ぶははなんそれ、消化によくないものが嫌いって新しいな。ちょっと胃が弱いらしくてさ。そっか。でも生野菜ってあれだよ、茹でたのよりも消化にカロリー使うから、食べると寝付きが良くなるんだよ。そうなの。そうそう、寝不足の時とかボウルいっぱいの野菜にドレッシングばーってかけたやつ喰って、数十分後に布団入ったらすぐ眠れるよ。へえ……ほんとこのサーモン良いすねー。でしょ、한나が釣ったらしい。ここ釣りできるんすか! 道具貸してくれるからやったらいいよ、あたしはサーモンとかカツオとか釣った。おーいいっすねー。あどうも、あたし漁火イリチっていいます、沖縄生まれっす。沖縄、ってことはヤスミンと近いね。どこっすか? 台湾。へー! 正確には台北の信義区。ってことは国籍違うふたりで組んでるのか。χορόςは代表者の国籍で登録されるから、そのメンバーはどこ出身でもいいんだよ、Defiantもアメリカとロシアだしね。なんすかそれ? 今回のχορόςの出場者、知らない? そうそうわたしらアメリカまで二〇日もあるってことすら知らなくてさ、そのへんのこと教えてよ。ああ、まあ、あたしらだけ開会式前に楽曲制作の猶予期間がある、ってだけだよ。運営の意向で? うん、锡鼓も93もどっちもインディペンデントの活動だし、両巨頭や決勝進出経験のあるShamerockとは差があるから、それまでに底上げをってことらしい。え、今回Shamerockも一緒なんすか!? そうそうわたしもさっき知らされたんだよ。この後オープニングセレモニーで明かされることだから、今でなくてもいいと思ってね……で、その両巨頭ってのは? そりゃあ、もちろん前年のχορός優勝者のInnuendo。イングランドのか。そう。で、その前年優勝者の対抗馬としてアメリカのリアリティ番組で大々的にオーディションかけて結成されたユニット、Defiant。対抗馬ってことは、用意されたってこと? まあ、χορόςが北米まで版図を広げるにあたって出た企画らしいんだけどね。今回のラテンアメリカクルージングにも、そのリアリティ番組の主催やったA-Primeって会社が関わってんだよ。Dyslexiconだけじゃなくて? あれはχορός全体の統括だから、各クルージングの運営はそれぞれ別の会社に委託してるらしい。まあ、現実的に考えたらそうか……また教授たちと会えるの楽しみっすねー! まあね、強敵が増えたとも言えるけど。ていうかさ、そもそもなんでχορόςに出場したの、93は? えっ? あたしにはあるよ、ちゃんと理由が。これで優勝したら結婚する約束の相手がいるんだ。まじか。χορόςで優勝したらいっぱしのミュージシャンと認めてくれ、ってんでね。Shamerockの姫にも、前回Innuendoに敗けた因縁がある。93はどう? なんかこのために来たみたいなの、あんの?
んー……これは、ね。なに、言ったらまずいやつ? まずくはないけど……九三、無理には。いやいいよ、今のうち言っとこう。なになに? えーっとね……そもそも関わってるらしいんだよね、GILAffeに。そのばかげた発明したやつが、わたしの昔つきあってたやつらしい。え! そいつを捜しに、ってんじゃないけど、どうも無関係じゃいられないっていうか、喚ばれてる、っていうか……χορόςで世界を回れば何かわかるかもって、そう思ってここまで来たんだ。そんなことが……しかしまあGILAffeなんてネーミング、よく付けたなって思うよ。わかる、最初からこのアクロニムありきで考えたろって感じするよね、ヒップホップっぽい。あはは、そいつの名前不二良っていうんだけどね。ぶはは、じゃあ完全にそうじゃん、自分の名前じゃん。ジラフってきりんすか。そうだよ、さらに苗字が百済だから、ラクダでキリン。っははは、ラクダでキリンやばい、首超長い。でも……おっどうしたヤスミン? そもそもジラフって麒麟とは違うんだよね。えっ? たしか、学名 Giraffa のほうのキリンは漢字の麒麟とは別で、鄭和が永楽帝に献上した動物をそう呼んだだけ。だから漢字で表記する麒麟と Giraffa のキリンはそれぞれ別の存在なはず。へーそうなのか。翻訳ってそういうとこあるよね、同じ言葉で違ってたり、違う言葉で同じだったり。確かにね。錬丹術を chinese alchemy っていうけど、西洋の alchemy のほうが時系列的にはずっと後だものね。そうなんですか。おっヤスミンも知らなかったか。後に来るものが前にあったものの先祖面したり、あるいはずっと昔にあったものが後に来るものを先取りしてたり、ね。名付けって不思議だよな、時間も空間も入り混じってるっていうか。不二良も、今その名前で生きてるかどうかはわからないんだけどね。でもさあ、そんなどでかい発明しちゃうやつと一時とはいえ付き合ってたって、すごいな龍。もしかしたらその不二良もχορός見てくれてるかもよ。あー……バラしちゃうけど、その不二良ってDyslexiconの杜さんと知り合いらしい。マジか! じゃあ見てくれてんの確実じゃん。うん……えっどしたん? だってそれが動機なんだろ。このまま有名になれば、不二良に龍の歌、届くかもよ。うん……いや、そうなんだけど、そうじゃないんだよな。えっ?
これさ、測にも言ってなかったことだけどさ。
うん。
聴こえないんだよ、不二良。耳がじゃなくて、音楽が。「先天性失音楽症」。音程の違いを一切感知できないって、そう言ってた。
そんなの、あんの。うん、八〇年代の論文にはもう出てるらしい。学習困難とか短期記憶障害とかのせいでもなくて、音声のイントネーションはわかるのに音程の曲線を一切感知できない人がいるって。物心ついたときからそうだったって、言ってた。そんなのが……わたし、不二良と最初に会ったの、空族っていう映画制作チームの上映イベントだったんだけどさ。そのアフターでタイのヒップホップ流すパーティーがあって、そこでひときわ目立ってたやつがいて。話しかけたら、「わたしの代わりに音楽を理解できる人を探してる」って言われて。そのとき、付き合ってた男ともうまくいってなかった時期でさ、それで。で、何? えっ? それじゃあ私たちは、生まれつき音楽が理解できない不二良さんに、同情でもしたらいいのかな。あいつがあなたにしたことも全部チャラにしてあげよう、とでも。いやそんなこと言ってないよ。ていうかどんなことされたんだよ。いやそのへんは省くけどさ……でも今考えたら、あのときから全部繋がってたのかな。不二良に理解できないこと、音楽、において優れた人たちをこうして……集めて、それで何を? さあ……そればかりは、わかんないな。
箸が止まってるけど。え? 食べないなら全部もらおうかな。あーおい測、サーモンばっか取んなよぉ! ヤスミンさん一切れも食べてないでしょう、どうぞ。あ、どうも……あたしカプレーゼもらっていいすか? いいよ、ただこれ失敗したなーチーズ溶けすぎたかも。確かに、でろーんてなっちゃってるよな。見せて、このくらいならね……九三、ライター貸して。いいけど何するん。こうやって、チーズの表面だけを……おお、炙るのか。焦げたところだけ固くなるから、食感は良くなると思う。おーほんとだ、うまー! 炙っただけなのに! イリチ、冷蔵庫にショコラあったでしょう? ちょっと持ってきて。いいっすよ。こうしてね、ショコラとチーズを一切れずつ並べて……うん。一緒に火で炙ると、片方が溶けて片方が固くなって……おーすげえ! ビスケットに乗せるのが一番いいんだけどね、トマトでも合うかも。食べてみて。いただきま……うわーうまー! ほんとだ! 甘いのと酸っぱいのと、ふわっとしたのとシャキっとしたのと両方! うまー!! ほぼ馬!! ほぼ馬!! ほぼ馬だこれ!! ちょっとヤスミンも食べなこれ! ほぼ馬……?
みんなで囲んだ食卓も片付け、そろそろ仕事に呼ばれる頃合い。ねえさんどの曲からやりましょー? やっぱ『Grace & Gravity』じゃないの。未発表だし、これが勝負曲ってことになると思う。あの日本決勝戦で披露しなかったのも、偶然とはいえ僥倖だったのかもね。まあね、ただ……どうしたの? 書き直さなきゃいけない、と思うんだよね、歌詞。え、全部すか。いや、セカンドヴァース以降は三人のボーカルが絡むから変えないけど、ファーストがね……ちょっと、あのことがあった後では、「上昇と下降」ってテーマで書くには詰めが甘かった気がしてるんだよな。まあ、実際に落ちたからね。文字通りにね。だから、改善の余地があると思う。わたしらの見せ場になる第一公演、メキシコだっけ? ええ。その日までには書き上げるから、ちょっと猶予もらえるかな……もちろんいいすよ。じゃ、まずここのプラグイン使ってミキシングしましょ。いいね、やっぱキックからかな。さっきちょっとプリセット作ったんすよ、これ。おー、あは、一気にプロっぽい! ローファイなヒップホップ感出すなら向かないかもすけど、とりあえずウェルメイドっぽい質感で勝負するならこれっすかねー。そっか、ライブ会場での聴き栄えも考えないとな……まず、やり慣れた曲から修正してみたら。『好きなように唄いやがれ』すね。おし、やってみよう。
んー。だいぶ整った気はするけどね。でもその整いかたがなー、キレイすぎるっていうか……そもそもビートの音質がそうなんじゃないすか? え? そう、あなたならもっとざらついた音にするかと思ったけど。いやそれはまあ……あ!! なんすか。あるじゃん、あのときなかったのが今あるじゃん、MPC 3000! おー、あれでビート打ち直しっすか! この曲にはぜったい合うよ、ちょっと試してみよ、頼むよーちゃんと動いてくれよー……
あああ、たまらんなーこの無骨な音……なるほど、ねえさんの頭の中で鳴ってたのこういう音だったすか。あの時は色々な制約があったからとりあえず間に合わせたけど、この音質でぐっと近くなったな、ほんのりJ・ディラ感出てきたし。あ、まずいワードが出てきたね……なに? ビートメイカーが「J・ディラ感」と自称するのって、味のある揺らぎを謂ってるよりは、単に乱雑に手打ちした結果を良いと思い込んでるだけで……やめろよーそういうこと言うの! いいんだよこれで、フックのとこも打ち直すから。
あー……やっぱ直したがいいなこれ。でしょ。クォンタイズ……の問題じゃないな、なんか根本的に足りてない……やべすげえ恥ずかしい、これで「J・ディラ感」とか言ってたの……いいすよしかたないすよ、誰だって初めての機材でやるとそんな感じすよ。うん……せっかくだし、今のねえさんにあわせてビートも打ち直したらどうすかね? 初めに作曲合宿やったときとはフロウも変わってるはずすよ。そっか……じゃあ試しにクリックだけ聴いて録ってみるか。いいと思う、そこからビートも肉付けしたら。おう、よっしゃ漁火ちゃん他のオケはありでビートは消して、クリックだけ流して。全部ワンテイクで録って、ビートはそのあと考えよう。了解すー。
これで……ちょっとボーカルトラックだけ聴きながらビート打っていい? 新しいすね。うん、他のトラックと合うかはわからないけど……やってみて。こういう……おおー。ループで行こうと思うんだけど、どうかな。ちょっとペーストしてみて……あっ。おーいいじゃないすかー! タイト、というのも違う……妙な感じになったね。妙って良い意味で? もちろん。フックもこの感じでやります? いや、ヴァースとは全く別の感じにしたい。なんかあんじゃん、生音のスネアの音コピペしてゴボボボボボみたいな……ああ、一時期トリップホップでよく聴いたやつ? 多分それ、フックはそういう感じにしたいんだけどさ、とりあえず次のヴァースのビート打たして。こっちはコピペじゃなくて完全ワンテイクでやりたい。
えもう八時、夜? そうね。うわー一曲のリメイクにこんな時間かけて……いいから、とりあえず頭から聴きましょう。うん。あー……リメイクっていうか、あの時できなくて今できることの盛り合わせって感じだな。良い……と思う。ほんと? とりあえず私たちはここまで来た、って実感がトラックに表れてるというか……そう、そのつもりでやったんだよ。あー、姉さんの今のフロウ聴いてるとギターも録り直したくなるー。ライブではギターも生演奏なんだから、今でなくていい。じゃあ漁火ちゃん、ビート周りのエディットやろう、とくにコンプとEQ。了解っすー。
……じゃあこれ基準で『Grace & Gravity』もいじってみます? いやちょっと待って、あっちはわたしたちの一番新しい曲で、こっちは一番最初に作った曲だから……その両方を同じ音質にすると違和感あると思う。そうね、だいぶ耳も慣れちゃってるし、このトラックに関して今日のところは保存したほうが。あ、うわーもう一〇時半! 今日の進捗これだけかー? とにかくミックス作業はここまでで、イリチ。ギターまわりの機材でも固めましょうか、レコーディングで使えそうなのとステージに持ち出すのと。了解っす、じゃあこのへんでねえさん休憩でも。だね、あと作詞どうかしないとな……じゃあ外の空気吸ってくるよ、あと夜食に良さそうなのあったら持ってくる。ええ。
あっそういえば、自分の部屋以外で作詞するのなんて初めてだ……うわー大丈夫かなー。いつもの蔵書なしで作業に入るってのも、すごい不全感があるというか……いやこんなことでぐずっててどうする、慣れてかなきゃいけないんだこれに。猶予は約二〇日、その間にχορόςに出しても恥ずかしくない質の球数準備しなきゃ……夜遅くまでお疲れ様です。あ。四七、と気安く名前呼びするのも躊躇われて、いやまあこっちの台詞だけどね、あなたもブリッジに缶詰でしょ、いつ寝てんの? とでも訊いてみる。ワタシが操縦しているわけではありませんから、どちらかといえば手持ち無沙汰ですよ。えっ、そうなの? ワタシは船員主務にすぎませんから、皆様に不便がないか目を配るだけの役割です。えっ、てことはこの船、操縦士なしなの。すべて自動制御で行なっておりますので。そんなのあるか、はるばるアメリカまでの航路を自動でって。と訝っていると、いちおう艦長と副艦長の地位にある人もおりますが、今は不在で、サン・ディエゴ停泊中に迎える手筈になっております。と告げられる。へえ……じゃあ、わたしらも航空便でテキサスまで行って現地で合流でよかったんじゃないの? この船はそもそも日本からの提供なので、整備も含めて東アジアから出港する手筈になったのです。艦長と副艦長を務めるのも、元自衛官のふたりですしね。えっ、海自。いえ、陸上自衛隊。なんでだよ、おかしいだろ人選が。しかもなに元って、現役じゃないってこと。まあ、そのへんに関しては……尾道。言うとともに、わたしと四七の傍らにひとつの人影が立ち上がる、というか、投射される。尾道ですが。うわあ!! なに。なに急に。四七よりすこし背が高いくらいの、髪をオールバックでまとめた、灰色の詰襟姿の男性らしきものが唐突に口を開いたのだから、そんなに驚かなくても。と笑う四七のほうがどうかしてる。そりゃビビるでしょ、なにこれ、人? 生きてんの? 船員サーヴィスAIの、立体活動素体。を3Dプリンターで呼び出しただけなので、人間扱いはしなくていいと思いますが。って、さらっとひどいこと言ってないか。客船Yonahに関するあらかたの情報はこの尾道が知っているので、ご興味ございましたら直接どうぞ。ふわあ、とあくびを漏らす四七の横顔を眺めながら、ああこのAIに仕事全部投げてんだなこいつは、と諒解する。えと、尾道、だっけ? はい。名前呼んだら出て来てくれんの? 船内にはくまなく3Dプリンターが配備されておりますので、御用命のことがございましたら。なんか会話はちゃんと成立するのに表情との違和がすごいな、これが不気味の谷ってやつか。なんかこの船オーバーテクノロジーばっか積んでない? ははっ、GILAffeのための手術も受けた方が何をおっしゃいますやら。まあ、そうだけどね……えっと尾道、とりあえず今はいいや、休んどいて。どうせ普段こいつにこき使われてるだろ。と四七のほうを指差すと、ええ、まあ……と言葉を濁す。目の色は全然変わらないのに口元だけむにゃむにゃするのが面白いな。それでは尾道、下がりなさい。と四七が言うと、そこに存在していた人間らしきものは青白い光線とともに、編み物の過程を逆回しするかのように解れて消えた。
なんか、あなたといると訊きたいことばっか増えまくっていけないな……ははっ、ワタシに答えられることでしたらなんなりと。いや遠慮しとく、ひとつ訊くたびに新しい質問が倍になるだろうから……じゃね、あなたも夜は冷えるから気をつけなよ。四七、と名前でお呼びになってもいいのですよ。うーん……まだそこまで親しみ持てないから。ははっ、それでは九三様もご自愛なさって。様とかつけんでいいーむずかゆい。
さて、喫煙所……いや、夜中に潮風に当てられながらタバコって、いくらなんでも寒いか。とりあえずキッチンで夜食に良さそうなもの、たしか肉まんあったはず。そうだせっかくだから陣中見舞とかいって、锡鼓のとこ潜り込んでみようか。いや作業中は入れてくれないかな……
おーっす! こんばんはーごめんねいきなり、肉まん持ってきたんだけど。おーちょうどいい、そろそろ一段落かなと思ってたんだよ。ヤスミンお茶にしよう、龍が肉まん持ってきたぞー点心ー! と呼ばわると、奥の制作ブースからヤスミンが顔を出す。やっぱりわたしらの部屋と同じ間取りなのか。
どうよ乗船一日目は? とりあえず部屋の機材色々いじってるうちに終わったよ、そっちは? あたしらはもう二日目だからな、とりあえず三曲できたよ。えっ新曲? もちろん。すげー……いやあ、ソウルのスタジオで働きながらつくってた頃と比べると、時間がありすぎて逆に焦るっていうか。かじられた肉まんが한나の鼻先で、急須がヤスミンの手元で湯気を立てる。한나はとにかく多作だからね……おーありがと。九三さんも。どうもー。明るい色のお茶が注がれる。これなんていうの。ヤスミン茶。한나、それ全然面白くないから……黄金桂っていうお茶です。あー、もしかしたら飲んだことあるかも……測と住んでた頃によく行った輸入品店で買ったかな。へえ、そんな前からの付き合いなのか。まあ、高校の頃からの腐れ縁でね……そもそも作曲っていうか、音楽理論教えてくれたのも測だったし。となんとはなしに言うと、九三さんも……作曲するんですか。と、初めてヤスミンが前のめりに話題を向けた。うん、全部ってわけではないけど、曲のテーマとかアイデア出しはわたしきっかけが多い。そうですか……と視線を逸らし、またなにか物思いにふけるような顔。の意味も、どこか察せられるような気がした。いやヤスミンも最近がんばってるよ、とくに今日やったのとかさあ。と笑う한나の言葉にも、でも結局没になったし、あの代案として出した한나のベースラインが良かっただけだし……と語尾が消沈する。ああ、なんかわかってきたな。気まずくないと言ったら嘘になるけど、かといってわたしがなんか賑やかすのもな、と思っていると、私だって思いますよ、エリオットのようにできたらって。と捨て鉢にすら聞こえる口吻で言う。エリオットって……T・S? 英文学好きなの? と言ってみると、エリザベス・エリオット。Innuendoのうちのひとり。と한나が注釈する。あれか、前回ソロでやってた頃の姫を下した。そう、っていうか龍も姫って呼ぶのか。先月福岡で共演したからさー。いいなー、あたしも行きたいくらいだったなーミッシーと龍とあたしの3MCで……한나、話がずれてる。ああごめん、でそのエリザベスってχορόςに出る前から色々なプロジェクト主催してて、Innuendoでも中心人物として、いや二人組のユニットで中心っておかしいか、とにかくリーダーとして全部のクリエイションをコントロールしてる。へえ。ほんとうにすごい、ああはなれない……独り言をつぶやくだけだったヤスミンが、九三さんもすごいと思います、自分以外の作曲家とかギタリストとかと共作してるんですから。と唐突に気負ったような口調で言う。いやそんなことないよ、わたしも一人だけの時期が長かったし。そうなんですか? うん、なんというか、ほとんどリハビリみたいな感じで無闇に作って、それをずーっと続けてたら測が良いって言ってくれて……それが93の始まりみたいなもんかな。だいぶ端折ったけど、謂おうとしたことは伝わったらしく、リハビリ……とまた緘黙に沈むかと思いきや、なんだか、わかる気がします、私にも。と、薄明を手掛かりにするような覚束なさで声を漏らした。
ほい、じゃあ悩めるヤスミンの頑張りの結果を聴いてみましょうか。言うと同時にスマートフォンを点灯させ、すかさず音源を再生し始める한나。ちょっ、と狼狽しながら再生を止めようとするヤスミン。いいからいいから、まだ歌すら入ってないんだしー。でもそんな作りかけの……いいよ龍にも聴いてもらおう、どう思う? おーなんかシンコペーションしないビートだね、ヒップホップではあんま聴かないから新鮮。でしょ、今あたしらが探ってるのこっちなんだよ。キックがけっこう重いのにベースラインがトレブリーなのが良いね。おおーそうそうそのバランス! ほらヤスミン伝わってるよ、うまくいってるってことだよ! 한나の笑みを前にしても不服げなヤスミン。ていうかいいの聴かせてもらっちゃって、いちおう競い合う相手だよ? そんなカタいこと考えんなよ、まだ開会もしてないんだし。こうやって作る過程でいろんな意見もらうのも楽しみの一つじゃん。たしかに、むしろわたし作る過程のためにやってるんじゃないかって思うことあるよ。わかるわー。との応答に挟まれて、えっ……と小さく漏らすヤスミン。過程のために……そう。難しかったり、辛かったりばかりなのに、ですか。もちろんしんどいけど、それ以上のものがあるじゃん。それ以上……? なんていうか、続けること自体が、みたいなさ、あーうまく言えないけど……いやわかるよ龍。ヤスミンもさ、楽しんだらいいよ。基本だめになるよ、無駄になることばかりだよ。でもさ、やったこと全部が報われるなら、そう約束されてるんなら、あたしは最初から何もしないと思うな。でしょ龍も。そうそう、報われなくてもいいよ。無駄でもいい。無駄、でも……
あっ再生終わっちった、話しててちゃんと聴こえなかったっしょ? もう一回……も、もういいよ。なんだよーヤスミンが自信持ってくれるまで聴いてもらうんですけどー。もういいから、わかんないけど、わかったから……何が? えっと、続けなきゃいけないってことが……明日からも。そうだね。時間はたっぷりあるんだよヤスミン。楽しもう。うん……
なんか、龍があたしらの仲取り持ってくれたみたいなー。いやそんなんじゃないよ、わたしただ锡鼓のスタジオ潜入に……あ言っちゃった。あはは、いいよ、落ちてたヤスミン励ましてくれたお礼にさ。べつに落ちてないって……せっかくだから持ってけよこれ、いちおうCDにまとめといたんだ。おーこれ、教授と組んだミックステープ? そうそう、あたしとあいつのトラック半々ずつ出しあって作った。あとあたしの未発表のビート素材とかも入ってるから。いいのこれもらっちゃって? 聴いてもらってこその音楽だからな。あたしにとって何でもない曲が、誰かにとってはダイヤの原石かもしれないし。うおーありがと、じゃあわたしらもこういうの渡せるようにするよ! おう、じゃ今夜ももうひと踏ん張りするかー。あの、九三さん……ありがとうございました。いやこっちの台詞だよ、ていうかさんいらないって。じゃあ九三……また明日にでも。おう、頑張ろお互いに。
とかやってるうちに早々に日々は過ぎゆくもので、尾道いる? 尾道ですが。おー露天でも出てくるのか。あのさ釣竿貸してくんない? 構いませんが、釣りをするなら救命胴衣の着用を。えー大丈夫だって落ちないってば。あなたが言うとフリにしか聞こえないけどね。あんなん二度もするかよー。胴衣と釣具一式と、加えてクーラーボックス、でよろしいですか。それでいいすよ。では。うわっ消えた。幽霊船みたいだなーここ。いいじゃないそれ、詞のネタにしてみたら、えー船ねえ……酔いどれ船……『Drunkship of Lanterns』……そうだ今回ラテンアメリカ回るわけだから、マーズ・ヴォルタっぽい曲もあったほうがいいかな……だめだうまくいってない自由連想だこれは。とか、いいねーこの海鮮カレー。でしょー。これから毎週いちどはカレーにしようかな自衛隊みたいに。ずーっと船の中だと時間の感覚狂うよなー。どうそっちの進捗は。とりあえずアルバム一枚分はできたし、今はパフォーマンスどうするか練る段階。えーほんと速いな。龍もこの前聴かせてくれたビートよかったじゃん、ライブ栄えするよあれは。まあねえ、でも詞がねえ……あー尾道ビール持ってきて。ありません。え!? いやハイトじゃなくてもいいよ。ビール自体がもうありません。えーまじか!! ちょっと四七に言って途中の港で足しといてもらってよ。もうハワイ諸島も過ぎましたので、ここからは北回帰線に沿って寄港なしの航路となります。じゃあタバコも足せないってことじゃん、うあーどうやって作業しろっての! はは、大変だな。한나タバコ吸わないの。吸ったら好きになるかもだけど、そういうの覚えるヒマなかったから。いやーそっちのほうがいいよ……無いとそんなに支障あんの? なんかな、書く前に吸わないと頭の冴えが違うっていうか、あ知ってる? アセチルコリンっていって脳内のシナプスを……とか、あれ電波圏外になってる。測のも? ええ。そっかーじゃあもう意味ないなこれ。でも船の中Wi-Fiあるんでビデオ通話なら使えるすよ、あたしたまにちぬんとやってるっす。あなたも久蔵としてみたら。しねーわ、そもそもガラケーだっての。とかしてる間に、ブリッジよりお知らせ申し上げます、ただいまよりおよそ一二時間後、アメリカ合衆国テキサス州サン・ディエゴ港に到着いたします。現地時間で一月二六日、朝八時頃。以降は陸路にてオープニングセレモニー会場のアブラハム・チャベス・シアターまで移動しますので、最小限の荷物のみご用意ください、となる。まあ、この二〇日間でやれるだけのことはやったはずだ。ただ唯一の心残りは、『Grace & Gravity』の詞が結局一行も書けなかったことだが。なんで作詞だけうまくいかないんだ……まだメキシコ公演まで時間はあるから、焦らなくていい。うん……やっぱもうちょっと蔵書持ってくればよかったな、火薬庫なしで戦ってる感がすごい。確かに、作詞の合間で必ず手に取ってしまう本ってあるね。書き終わった後に読んであっ足りてなかったって気付かされる本とかもね。作曲編曲と違って作詞は独りでやるしかないから、まだ身体が慣れてないのかもね。身体かー……たしかに何か書くときの身体ってあるよな、そうならないと書けない。わたしの力量不足ってことかあ……ほら、もうすぐ到着するから準備なさい。
サン・ディエゴ港からタクシーで鉄道まで移動し、サム・ペキンパーの映画に出てきそうな列車に乗る。そもそもなんでエル・パソなの、いわゆる西海岸でもよかったわけでしょ。やはりこれから巡るラテンアメリカに近いというのと、セレモニーで司会を務めるDefiantのイネス様の出身地だから、というのが大きいですね。イネス……? イネス・ンデュマ。対Innuendo用のユニット結成を目的とする、A-Prime主催のリアリティ番組でアメリカ代表として選出された。ああ、例の。プレスとか相当集まってるんじゃないすか。もちろん。式は最後までDefiantとInnuendoが執り仕切るので、皆様にマイクが向けられることは無いと思いますが、カメラには映されますので、念頭に置いていただければと。あれか、映画スターの賞レース中継みたいな。測はそういうの得意だよね、ブラピっぽい仕草できるし。ブラピっぽい仕草って何。
さすがテキサス州となると、陸路での移動にも時間がかかり、会場到着時にはもう午後六時を回っていた。一時間後に始まりますので、皆様は今のうちに着替えを済ませていただければ。おーついに開会だよヤスミン。うん……そっち衣装どうする? 無理して着飾っても仕方ないし、いつもの感じにするよ、ファンもそれが見たいだろうし。だよね。じゃあそんなひねらなくていいようちも。そっすね。ええ。おっミッシーからメールだ、Wi-Fi繋いだら一気に来た。教授いるんすか! たぶんもう着いてると思うけど。
Highness! Professor! と、歓声で迎えてくれるのは空港と変わらない。が、ここではにこやかに手を振る気にもなれない。すでにいるんだもんな、奴らが。姫、通路こっち。と促されるままに歩く。につれて、あたしらのファンとは別の歓声が、次第に音量を増すのがわかった。
入口正面に至ると、いた。いるよな、いるに決まってるよな。一年待ったぞ、こうしてまた会えるのを。こちらの存在を察したエリザベス、あのクイーン・ビッチが、いやに鷹揚とした仕草で向き直る。
こんないやな、めでたい日もない。
言うと、にやりといけ好かない笑みを向ける。こいつをぶっ叩くために来たんだあたしは。正面に奴らの、後方にあたしらのファンの視線を受けながら続ける。一年間の栄華はどうだった? 退屈だよな、退屈だったろうな、誰も玉座を脅かしてくれないってのは。安心していいぞ、おまえらの全盛期はもう終わる。世界はこれから、Innuendoの落日を半年かけて見届けることになる。せめて墓碑銘くらいは彫ってやるから、今のうちに辞世の句でも用意しておくことだな。
言い終えると、やつらのファンがにわかにざわめき出す。煽ったんだから当然だが。それにつられてあたしらのファンも色めき立つ。のを察したのか、エリザベスの後方に控えていた、あの仕立屋が、右足を揚げ、踵を床に叩きつけた。周囲に打音が響くとともに、ざわめきが一掃され、やつらのファンは通路入口へと横隊の列を組んだ。なるほど、よく躾けられている。エリザベスは周囲の様子を満足げに見渡し、歩きにくそうなあのドレスの裾を翻し、あたしの傍らまで歩いてくる。
一人では届かなかったから今度は二人で、なんて、素敵な算数ねお姫様。しかし、以前に見えたときに備わっていた孤高さまでもが損なわれて見えるのは、気のせいかしら?
ぐるり、とあたしの後頭を半周しながら囁きかける。気取って語尾を上げ下げするのがいやらしい。あたしの左手が届く位置で背中を見せながら、右目だけをこちらへ向け、相も変わらず鷹揚に言う。
嬉しくてたまらないわ、今度は屈辱を二倍にしてあげられるなんて。あなたもそのお友達も、どうあってもInnuendoには匹敵しない。今度こそ身の程を思い知ったら、もう歌の道なんか諦めて……尼寺にでも行きなさい。
言い終わると、通路の向こうへ去ってゆく。左右横隊で控えたファンたちも低頭でその姿を見送り、あの仕立屋も背を向ける。
髪型変えた?
と言うのはミッシーである。いつも通りの微笑を浮かべながら、あの仕立屋の肩口から後頭部の稜線を指差でなぞりながら続ける。襟足刈り込むのもまあいいとは思うけど、アシメで側頭の髪垂らして、もう片方を編み上げてまとめたら、もっと良くなったと思うよ。背に向けられた言葉を意にも介さず、仕立屋は入口扉を押し開く。エリザベスは一瞥もくれず中へと消える。
なんの助言だミッシー。姫だってあんな喧嘩腰でいくことないじゃん、まだ開戦前なんだからハッピーにやろうよ。あのな、ここでにこやかに振舞ってどうする……もう行くぞ。言いながら、後方に蟠っていたファンたちにも手を振る。今日初めて愛想よくしたせいか黄色い歓声が。じゃあねみんなー、本戦始まったらまたよろしくー! あっ英語で言えばよかったかな。まあいいだろう……なんかもうすっかりクセでさ、式も日本語でやるのかなー。まだGILAffeは全面的に知られてないから、両方混ぜこぜでやるんじゃないか。
裏で控えていると、明らかに周囲スタッフの慌ただしさが色を濃くするのがわかる。InnuendoとDefiantが会場入りしたようですね。と四七が言うので、杜さんは来ないの、と訊いてみる。このラテンアメリカツアーだけがχορόςではありませんから、必ず来られるわけではありませんよ。だからこそ今回の運営はA-Primeに委託してるわけですし。そっか、じゃあこの開会式もそっちの仕切りか。ただ、GILAffeの一般提供開始の告知だけは、抜かりなくやってもらいますけどね。え、これ解禁すんの!? すでにχορός出場者のファンたちを通して存在自体は知られていたわけですし、さほどの衝撃はないでしょう。今回の開会式はDyslexiconが提供する革新的技術のプロモーションも兼ねて、ですよ。そっかいきなり出したらパニックになるから順を追ったわけか。杜さんって結構やり手だな……と思っていると、五分後に時間通り開会、の声がスタッフから。それでは、皆様よろしいですか。おうよ! うん……おっすー。ええ。まあ開会式だし、あんま気負わずにいこう。
エル・パソー!! の吶喊とともに会場は大歓声に包まれる。待たせたな、いよいよχορόςラテンアメリカツアーの開幕だ。司会を務めさせてもらうのは、ご存知お前らのファンキー・プレジデンタ、ソル・フアナ・イネス・ンデュマ! なんで日本語で話してるのかって? それはGILAffe作ったやつに文句言ってくれ、これが標準だから仕方ないんだ。と言うとともにプレス席から笑いが漏れる。このへんに字幕出てるはずだから問題ないだろ? さ、もちろんDefiantにはもう一人いる。国籍は違えど志は同じ、ストレイト・アウタ・ペテルブルク、ゾフィア・クロソウスカ! の紹介とともに、黒髪に藍色のメッシュが入った女性がイネスの傍らに。ようソーニャ、一発なんか気の利いた挨拶を。のフリののちに、場内にいきなり早口のロシア語が流れ、会場の一部の観衆から爆笑が噴き上がる。えっなに。あっちの席にはロシア移民のファンが、ってことかもね。イネスは壇上で大笑いしながら、さらに自分もロシア語で話し始める。それにゾフィアもロシア語で返す。のやりとりが四往復ほどあり、場内はロシア語漫談のモンティ・パイソンめいたバイブスで満場大笑いとなっていた。てな感じでー、異文化コミュニケーションも自由自在に楽しめる画期的発明、GILAffeってやつが世界各国で提供開始になるらしいから、知りたいやつはこのへんのアドレスにアクセスしてくれ。あプロモーションのためかこれ、抜かりないな。それじゃ、さっそく今回のツアーの説明に入るぞー。
式自体は、丁寧に勘所を押さえて進行していった。今回のχορόςラテンアメリカツアーは、Innuendo、Defiant、Shamerock、锡鼓、93の五組によるスプリット公演であること。客船Yonahが各国の港に接岸し、船内の一部も含めた周囲一帯がライブ会場となること。などが説明されたあと、今回のツアーでは最終的に一組の優勝者を決めるわけだが、そのルールを説明しよう。まず会場に直接来てくれた客と、同時にYouTubeチャンネルで中継されるライブ配信を視聴した客、両方の投票で決める。さらに投票枠にはグループ枠と個人枠のふたつがあり、それらの総得票数で順位を決めます。これはダウン・ビート誌、およびミューチュアル・ネットワークのミュージシャン人気投票システムを基にイネスが考案したものです。そのとおり。このルール全文はInnuendoに提出の上、合意を得たうえで定められた。ってことは、ランキング一位になったうえで、新たな案を書いて、イベント運営のA-Primeに承認を得たなら、途中でルールを変えることもできるってわけだ。ああなるほど、最初のが絶対の掟ってわけじゃないのか。ただ、あの二組をさしおいて一位になるって条件が至難でしょうけどね。まあねえ。
続いて、ツアー日程の発表。二月一二日のメキシコ合衆国カボ・ワン・ルーカス公演を皮切りに、ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジルを回り、アイルランドとスコットランド公演を経て、イングランドでのマンチェスター、バーミンガム、ロンドン公演をもって完結すること。そのうち序盤の三公演では、特別に93、锡鼓、Shamerockがそれぞれオープニングで出演し、未発表の新曲を披露すること。以降の公演では出演順はランダムで決まること。ひととおりのルールが説明され、運営のA-Primeからのくだくだしい諸注意などがあったあと、さあお待たせしました、この式は彼女らなしじゃ締まらない。前回χορός優勝者であるInnuendoの、世界初披露となる新曲パフォーマンスをお届けしよう。 R U ready 4 dis!? R U ready 4 dis!? お、ついに。ええ。生で見るの初めてっすねー。前回のχορός優勝者、どんなもんか……
Let us go then, you and I, When the evening is spread out against the sky.
Like a patient etherized upon a table;
Let us go and make our visit.
天井が噴っ飛ぶんじゃないか。彼女らにとってホームじゃないこの地で、これだけの歓声が。それに、あの楽曲とコレオグラフの完成度……やばいの来ちゃったすね。うん……でも、でもこういうことなんだよな、世界一って。
パフォーマンスを終えたその直後、息ひとつ切らす気配すらなく、襟元のマイクを直しながら、エリザベス・エリオットが口を開く。
海を制するものは世界を制する。不幸にも海の支配者と覇を争うことになった競合者たち、今さら心配する必要はないわ。すでに賽は投げられたのだから。χορός、ギリシア演劇の名を冠したこの競技の栄冠は、英国にこそ相応しい。此度の勝利もまた、すべからく我がものとなるべき。 RULE BRITANNIA!
三叉鉾のサインを右手で掲げると、場内に招かれたファンたちもまた RULE BRITANNIA! と右手を掲げた。
あっつかましいなー、アメリカのメキシコ国境で RULE BRITANNIA って……ヤスミン、ほんとにあんなやつに憧れてんの。あ、憧れてるんじゃない、ただ、あれくらいにならなきゃいけない……ってだけ。
よかったね、姫。笑いながらミッシーが振り返る。もっと手強くなって来てくれた。やりがいがあるってもんだねえ。
シュプレヒコール渦巻く周囲の様子は意に介さず、一歩、二歩と歩み出てみる。舞台上の奴の眉間を睨む。目が合う。そうだ、今はそこにいろ、すぐに叩き落としてやるから。よく見えるように、あたしも静かに右手を掲げる。ただし人差指と中指を立て、その手の甲を向こう側へ。このサインの意味はわかるよな、クイーン・ビッチ。
そう、そうでなくては。上がってきなさい。ほんのひとときでも興じさせてご覧なさい。そうでなくては、来た意味がない。分不相応な思い上がりを抱いて僻地から来た娘っ子の、夢想も現実も跡形なく踏み砕いて、もはや地を舐めるしかないその姿を眺めながら呼吸する大気は、さぞかし舌に甘いでしょうね。
というわけで、母よ。役者は揃いました。
これから彼女らには、存分に舞って、唄って、闘ってもらわねばなりません。そうすればわかるはず、ワタシが何をすべきかも。とりあえず今は、この肉ひしめく舞台の開幕に際し、偉大なるアリストパネスの言葉を飾っておくとしましょう。
──戦争は女の仕事だ。
09 2 U
己の欲する所を人に施せと言い、その一方で、右の頬を撃つ者に対しては左の頬も差し出せと言う。矛盾しているようでしていない。殴らせたければ殴らせたらいい、というより、殴られたいのだ、どちらも。殴られた者が在るには殴った者が在らねばならず、前者は後者を必要とする。 counterparts とはそういうことだ。どちらかのためにどちらかが在らざるを得ない。モーゼに対してのラムセス。イエスにとってのユダ。
隠者としての生は、宗教的なるものの体制を必要とする。民草の存在を登記し葬送する役割を担う、確固たる基盤が不可欠となる。だからたぶん、二一世紀においては至難なのだろう。隠れて生きたい、名誉も栄達も捨てて浮世の憂さから逃れたい、そうできたらいい。しかし、「こんなことがあっていいものだろうか。この老いた聖者は、森のなかにいて、まだ何も聞いてはいない。神は死んだ、ということを──」。
スタニスロース・ブレンダン・オサリヴァンの名がゴールウェイの金貸したちの間で嘲笑の的となったのは、ちょうど一〇年前のことだ。身寄りのない子どもたちを引き取る、いわゆる救貧院の設立。およそ二一世紀にその場を得るとは思われない理想を、父は抱いてしまった。血縁者に見棄てられた子どもたちに居場所を、ひいては年齢関係なしに生活が困難となった人々に支援を。その善行への不可解な情熱は、おそらく父自身の生い立ちが燃料となっていたのだろう。親類同士で交わって濃くなった血が、あべこべに家族のつながりから遠ざけた。外に家族を、私の血のうえでなく。という呻吟は、あの寡黙な唇から常に漏れ出ていた。これはあたしの恣意的な回想とは思われない。事実、血から逃れんとする只管な情熱のために、父は付け込まれることになったのだから。
救貧院設立のために募った金は、得体の知れない不動産業に持ち逃げされ、父は麗しい名目のもとに金をせびった者として乞食以下の侮蔑を受けることとなった。どこから降って湧いたのか、そもそもスタニーは妻以外の女性と交わるのを正当化するためにあんな美名をでっちあげたんだよ、とかいう噂もまことしやかに、というか事実として流布され始めた。父はそれを否定しなかった、するわけもなかった。自らの血の外側に別の絆を求めた父は、縁もゆかりもない誰かを見果てぬ伴侶としたには違いないのだろうから。スタニスロース・ブレンダン・オサリヴァンにとっては、婚姻によって結ばれた家庭などは埒の外だったのだ。父の蹉跌は、最初からその血に刻印されていた。家族と同衾した血族が如何なる運命を辿ったかは、聖書にはっきりと書いてある。もう司牧を気取ることも許されないし、かといって劫罰の火に焼き殺されることもままならない、この今生における宙吊り。それでも父は求めた、自分にとっての誰かたちを、誰かたちにとっての自分を。血に追われながら血を洗い続ける、消化されない昇華の袋小路。
父は失敗したのか。
失敗したのだ、と母は言う。
聖歌隊といって、なにも讃美歌のみを唄うわけではない。およそ世俗化された今日のカトリックにおいては、聖書モチーフの歌詞ですらない、たとえばビートルズやピンク・フロイドの曲でもレパートリーに加えられた。それに満足しなかった、とは言わない。しかし、あの時期に唄わされた中で最も崇高で美しいものとして記憶に残っているのは、バッハのカンタータ三九番だった。表題は『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』。
あれはたしか日曜学校ではなく、父から直接教わったはずだ。いくら同じカトリックとはいえ、十字架のヨハネの著作を原文で引用するような者は、ロマンス語の教師として生計を立てていた父くらいだった。曰く、「神は、イスラエルの子らが、エジプトから持って来た小麦粉が全くなくなってしまうまでは、マナという天上の糧をお与えにならなかったのである」。これを平然と言われたときはびっくりした。真っ当な思考の筋道として、神は飢えた民を救うためにマナを与えたと思っていたから。「これによってわかることは、すべての事柄を捨てきらなくてはならないということである。なぜなら、地上的な食物に好みを求めているような口には、天使の糧は合わないからである」。天の領分に与るには、地上の愉しみを断念しなくてはならない。では、『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』との定言命は、神に代わってマナを与えるに等しいか。モーゼは預言者であるからしてこの務めも許された。しかし塵に等しい凡夫でしかない者が、地上の民に自らを分け与えるとは、これは傲慢と見なされて仕方ないのか。イエスの行いに過誤があるとしたら、このことに尽きる気がする。地上に属する者が、天上の糧を分配しようとした。いったい何の資格があって、どのような謂れがあって。この至極当然の詰りは、もちろん父にとっても差し向けられるべきだった。
だから唄えなくなったのだ、あの歌を。あんなに愛したあの歌を。『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』、この題を思い浮かべるだけで、父の挫折の顛末がまとわりついて離れないから。だから求めた、もっと別の歌を求めた。シニード・オコナーがボブ・マーリーの楽曲をアカペラで唄った後にローマ教皇の写真をズタズタに破り捨て「あなた自身の敵を知れ」と叫んだ、のと同じようにはなれなかった。彼女自身の『War』はあたしのとも、当然父のとも違っていたろうから。しかし『Nothing Compares 2 U』、プリンスのさほど有名でもなかった楽曲をシニードの歌唱が蘇らせたあの出来事は、あたしにとって無視すること能わなかった。歌というより出来事だ。音楽は、時空や人種を容易く超えて、思いもしない相手に伝わってしまう。では唄い手として音楽を担う以上は、新たな歌の到来に油断なく備えていなくてはならない、まさにそのこと自体を学んだ。数年前に突如として自殺を選んだクリス・コーネル──彼にもアイルランドの血が入っていた──が、まさにこの曲を死の直前にカバーしていたと知ったときは、いささか索漠としたけども。しかし作曲者たるプリンスが死んでも、この歌は他の誰かに担われ続けている。であるとすれば、この歌は誰のものでもない、ということにならないか。より精確には、誰のものでもあるが誰のものにもならない、かけがえないのにいくらでもかわりがきく、そういう歌だということには。そもそも歌とは、もとからそういうものではなかったか。
考えてばかりではしょうがないので、唄うことにした。あたし以外の誰かが作った歌を、他の誰かではいけないようなやりかたで。他の誰かがすでに準備していたが、しかしあたしなしでは起こり得なかった、そんな出来事が在りうるか試そうと思った。教会堂に居場所がなくても、パブで、クラブで、そうでなければ路上で、いくらでも唄いようはあった。そんな野放図もない修業に身を窶すようになった娘を、母が許すはずもなかった。
父の一件依頼、ということになるのだろう、母は、ブリジッド・オサリヴァンは、熱烈な活動家として自身を再成型しはじめた。キリスト教伝来以降の信仰をアイルランド人の根源的な魂のあり方として位置付けんとする運動は、「我らのみ」よりも明らかな齟齬と倒錯を孕んでいたが、そのことに気づかない母ではなかったはずだ。別の言い方をすれば、母は父とは別様に引き裂かれていた。つまり、スタニーの妻という汚名を補償するためにカトリックを拠り所にしなければならなかった。またしても消化されない昇華の袋小路。
その猥褻な歌をやめなさい。いやだ。二度とは言わせないで、今すぐ唄うのをやめなさい。やめさせたいならこれがどう猥褻なのか説明して。できなければ母さんにやめさせる資格はない。なにが資格なもんか、これ以上うちの家名を落とさないで。家名って、どこにでもいるだろオサリヴァンなんて。だいたいこれ父さんの姓で母さんのじゃないだろ。口だけ達者に育ってしまって! あんたの歌がそんなにすばらしいのなら、もっと別のことに使えるはずでしょう! じゃあ辻々に立って説教でもしようか、終末は近いとか言って。それとも映画みたいに卑猥な言葉でも捲し立てようか、そうすれば母さんも安心して悪霊憑きだって言えるだろ。何を……でも残念、あたしはそんなこと絶対にしない。あたしは汚い言葉を吐くだけの安っぽいやつじゃない、もっと上手い使い方があるって知ってる。いい加減にしなさい。いい加減にしてほしいのはこっちだよ、猥褻、猥褻ってさ、母さんが鏡としてあたしを見てるだけだろ。自分の負い目をあたしのせいにすんな。
という際限のない口喧嘩は、頰桁への一撃で終止するのが常だった。そのたびに、あたしは母の双眸を見据え、待った。もう片方への一撃を。しかし二度も殴られたことは一度もなく、片方の頬への打擲だけが、残響として耳元に蟠るのだった。
その始終を背中で聞きながら、父は何も言わなかった。
草食動物は肉食動物より獰猛である、って事実を身をもって実感するな、ミルクとサラダで一週間喰い繋げたとは。実際草食動物ってすごいよな、草だけであんなタンパク質を生成するなんて。体つきだって精悍なもんだ。馬に生まれたらよかったな。馬丁の子として厩舎を継ぐだけの一生なら……なんて、そういう境遇を生きている人にとっては自堕落な夢想にすぎないんだろう。しかし馬って、どうしてこうファミリーロマンスと相性がいいかな。ロブ・ゾンビも『ハロウィン2』で使ってたし。白い馬は抑圧された感情の象徴、とか何とか……フロイト読んだことないからわかんないけど、あれもなんかの引用かな……そういえばトーリ・エイモスも『Winter』で白い馬と父との思い出を関連づけてたけど、あれもそういうこと……わかんないけどアメリカ特有の筋がある、気がする、ファミリーロマンスと動物関連のファンタスムって、インチキ精神分析の流儀なら無敵って感じするもんな……でもあたしの場合はそうじゃなくて、もっとそう、フランシス・ベーコンが言ってた、馬丁と関係を持つようになって初めて父親への性欲を自覚した、みたいなこと……父さんの両親もそんな感じだったのかな、たまたま相手が同性じゃなかっただけで……ああいやしかし、そんなことより腹が減った。もう思い切ってその辺の草でも喰うか……いや雑菌でやられて下痢して死ぬだけだな、ああなんて人間は弱いんだ、どうしてこんなのが霊長とか名乗ってるんだ……もっと仮借ないものだけが生き延びる世界ならよかった。馬に生まれたらよかった……
だから冬モノとして勝負かけるには薄すぎるでしょって言ってるのよ。えーじゃあモコってふくれていいのかよジャンパーみたいな感じでー? それじゃうちから出さなくていいじゃん、そのへんの港湾労働者向けの店でいいじゃん。港湾労働者をバカにするんじゃないの。あいた、アニー姉には言ってないってー。とにかくアンタ前のあれがヒットしたからって調子こきすぎ、こんなんファッションも機能も中途半端な代物って切り捨てられて終わりよ。何その二分法ー? 生活に役立ってこそのファッションじゃん。装飾と実用の両面で考えろって言ってるの。考えてこれ作ったん……あーいいよーじゃあ、またつくりなおすから。
ちくしょー、いくらジョー姉が独りで仕切ってきたからってさー。だからっていつまでも新しい風が吹かなくていいってことになるかよー。こうなったら徹底的にやってやる、コンセプトはそのままでコストかけずに実現させる方法……
お。
珍しいね、女の子がゴミ漁りって。よっぽどワケありか、家出娘かね。まーわからないでもないよ、家に居場所がない感じは。でもわたしここまで追い詰められたことないから知ったようなこと言っても説得力……
わ!!
と、驚かれる。背後に立たれるまで気付かなかったのか、よっぽどだね。あーそんなビビんないで、と声をかける間に、脇をすり抜けて走り去ってしまう。って、その繊維の音。ゴミ捨て場に目を戻すと、街頭に照らし出された宵闇に、うちが昨日廃棄したコートの試作品が散らばっていた。
ちょーっと待って!
呼びかけると、足を留めてくれた。のですかさず、叱ろうとか通報しようとかじゃないから、と宥めてみる。おずおずと振り返ってくれた。それ、と指差しながら駆け寄ってみても、たじろぎこそすれ逃げはしなかった。ゴミ漁りっ子の手の中にあるものを検分してみる。やっぱりね、これ試作品だよ、綿入ってないやつ。えっ、とでも言いたげな目でこちらを見る。おおかた、寒くて着るもんないかなって思ったらゴミ捨て場に衣料メーカーの袋があって、ってとこでしょ? 静かにこくこくと頷いている。やっぱか、でもこれ綿無しだから羽織ってもそんな変わんないよ。せっかくだからさ、うち上がってかない? 冬モノの余りなら他にあるし、あったかいもの喰わせてやれると思うよ。
きょとん、って顔なんだろうねこれは。痩せこけて表情がよくわかんないけど、いい……の。と漏れた声は聞こえた。もちろん、まだ九月なのに寒いもんねー今日。ああ……誰にだってあったまる権利はあるよ。ただ、これからうちに上げるためには、ひとつ条件がある。え、なに。バラバラにしたゴミを、片付けて帰ること。あ……ああ、うん。よし、じゃ一緒にやろ。
なんだこいつ。
ただいまー。ゴミ出し間に合った? んー、まだ収集車きてなかったよ。あとさ父ちゃん、ん? ちょっとゴミ捨て場で見つけちゃってさー、相談なんだけど……まーた拾ってきたのか、犬? いや、人間。人間? なんか猫っぽい人間。あー……攫ってきたわけじゃないよな? んなわけないよ、いて、寒そうにしてただけ。うちに上げていいでしょ、大丈夫だよ犬猫より言うこときくよー。しょうがないな……責任持って面倒みろよ。ありがとー!
なんだこの会話。
ゴミ捨て場の裏にある大通り、に面したショーウィンドウ、の向かい側の家。そこに誘われるままに、えーなにまた拾ってきたのミッシー! 今度は犬じゃないからいいっしょー? つって人間連れてくるのも何度目よ。大丈夫だってちゃんときれいにするからー。と、あたしを話題にしつつ置き去りにするような会話が左右でピンポンする。いま風呂場ジョー姉? うん、あいつ怒らせないように気をつけなさいよ。わかってるってー。と、洗濯機と洗面所のある部屋に通される。
わ!! と、シャワールームが開かれるとともに甲高い声が。ノックくらいしなさいつーの! ごめごめ、あジョー姉さ、この子ゴミ捨て場で寒そうにしてたからお風呂入れてあげようと思うんだけど、いいよね? またー!? アンタほんと凝りないわねえ、との応酬を、あたしは所在なく傍観するしかない。しかしこの目の前の女性、ジョー姉と呼ばれてるからには女性でないと判断する材料はどこにもないこの人、えと、どう見てもついてるよな、通常女性には備わってないとされるものが。アタシのシャンプーさえ使わせなければ入れてあげてもいいわよ、あれ高いんだからね。もちろんでございますよ、じゃあ次この子入れるねー。と言いながらあたしの背中が押され、シャワールームの前まで通される。着替えはこの辺のやつ使っていいから。うん。それと、あの紫色のボトルに入ってるやつね。ああ、さっき言ってたシャンプー……使っていいから。え? にいっ、と悪戯っぽい笑みを向けたあと、じゃごゆっくりー! いちおう言っとくけど人ん家のシャワールームで自殺とかすんなよ大変だからー! の声とともに戸が閉まった。
えっと……これ、助けられたのか。そういうことになるよな、手荷物もなしでスコットランド行の船に乗っただけのあたしを、助けてくれたのか、あいつ。とあいつの家族。いやまさか、手の込んだ人攫いの手口かもしれない。あるいはテキサスの食人一家とか、ジェイソンとかフレディとかよく知らないけどそういうのかもしれない。まずいのかな、逃げたほうが。でも逃げるってどこに、そもそも他所の土地なのに。生まれ故郷から逃げてきてこれ以上どこに逃げるって……ああもういい、考えたって仕方ない。とりあえず洗おう、シャワー浴びるの何日ぶりだろう……
さあ、これから肉料理の材料にされようが知ったことじゃない。ひとっ風呂浴びてやったぞ、煮るなり焼くなりするがいい。ほとんど捨て鉢になり、太々しく見えるようにドアを開け放つと、おー上がった? こっちこっち、ちょうど準備できたとこだよ、と招かれる。えっと、食卓。こんな大家族……七人? が一堂に会しているテーブルに、あたしも通される。名前なんていうの? えっ。訊いてすらいなかったのかよ。ごめんねーこの子こういうとこあるから、いきなり話しかけられてびっくりしたでしょー。ええ、まあ……名前は? えっとシーラ、シーラっていいます。じゃシーラ、動物の肉喰える? 見ると、鍋の中でシチューが煮立っている。なんの肉……? ビーフシチュー。ああ……それ、なら。と応えると、馥郁たる湯気立ち上る皿が、目の前に配膳される。
それでは、と手を取られ、食卓の一同が輪になって手を繋ぎ、目を瞑っている。気後れしながら目を遊ばせると、部屋の高いところに飾られた十字架と、簡素な肖像画──ジャン・カルヴァン──が目に入った。あの、と声を上げると、なぁによ急にぃ、とジョー姉さんが不機嫌に言う。いやあの、あたし、カトリックで……と小声で言うと、そうか、じゃあしかたないな。の一言とともに、一番年上に見える男性から順に、繋がれた手を下ろしはじめる。そしたら今夜はこれじゃなくて、別のやつやるか。と微笑すると、おっあれやるの、何年ぶりー? と急に色めき立つ。はいはいじゃあスプーンとフォーク持って。言われるままに、食器を握った拳をテーブルに置き、Supper’s Ready!!!!!!! と叫ぶと同時に、両の拳で食卓をドンッドンッドンと叩き始めた。あはは懐かしいー戦士スタイル。もーこれ恥ずかしいからやだぁ……なにカマトトぶってんの、あんただってガキのころ喜んでやってたクセに。うっさいなー。談笑とともに食事が始まる。召し上がれーシーラ。と名前を呼ぶ相手の双眸を覗き込む。あ、そーだまだ名乗ってなかったね。わたしメリッサ・マッコイ、ミッシーでいいよ。そっちにいるのがジョー姉で、隣がアニー姉。でその横がティム兄で、母ちゃん父ちゃんで、あたしの隣がいちばん歳上のメアリー姉。どうも……なにがあったのーシーラちゃんは、家族とケンカ? とメアリー姉さんが訊くので、え、まあ……と小さく答える。ま、ありがちだよねー。どんだけ本気の家出なのー? とアニー姉さんが訊くので、七日目……と正直に答える。七日!? すごいじゃんガチのやつじゃん! どこから来たの、エディンバラとか? いや、ゴールウェイ……ゴールウェイ、アイルランドか、外国じゃん! もう外国じゃないでしょバカちん。ご家族に連絡しなくて大丈夫? いや、いらないです……むしろ、家族に居場所知られたらマズいやつじゃないの? と、ジョー姉さんが明敏に見透かすので応えられずにいると、まあいいよ、ずっと路上じゃまずかったろうし、とりあえず落ち着くまで居たらいい。ミッシーがゴミ捨て場から拾ってくるのも、今に始まったことじゃないしな。と大家族の父親らしい落ち着いた声が。でもミッシーと同じ年頃の女の子なんて初めてだなあ。ねーシーラちゃんすごいキレーじゃん、髪それ染めてるの? いや……素でそれかーなんか色々着せたくなってきた。ねえジョー姉? ふん、まあね、さっき見たときはくっちゃくちゃの捨て猫って感じだったけど、今はマシに見えなくもないわね、アタシと似たような匂いするし。と言うのを聞いたミッシーが反射的に噴き出す。なぁにぃ? いや、別に……
どうだったあのシャンプー? えっと、よくわかんないけど、くしゃくしゃになってた髪がすーっとしたというか……そうそう、薬効のために作ったやつだからね、ジョー姉プロデュースの。あの人が作ったのか? アパレル以外に美容関連もね、まージョー姉の企画でうちのブランド成り立ってるようなもんだから。と息を漏らすミッシーを前にして、一体何から訊いたらいいのか。あの……ん、なに? なんというか、びっくりした。見ず知らずのあたしを助けてくれたこともそうだけど、こんな家族って、ちょっと見たことなかったから……たしかに大家族だもんねー。いや、人数じゃなくて……雰囲気、というか。そう? どこもこんな感じじゃないの? すくなくとも、あたしの家族とは全然違う……から。そっか。まあ、家族のあり方なんていくらでもあるし。
二階にあるミッシーの部屋は、あたしと同年代の子のそれと比べてとくに変わったところもなかった。片隅に堆く積まれたレコード箱と、デスクの上に並べられた無骨な機材以外は。これって……そう、音楽つくるやつ、主にヒップホップを。へえ、ヒップホップ……好き? いや、ほとんど聴いたことない……マジか! それは二一世紀人として聞き捨てならんなー。と眉を顰めながら、ちょっとそこ座ってて、とベッドを指差す。促されるままに腰を下ろすと同時に、スマートフォンから音源が再生され始めた。これとかどうよ、と示された画面に、 Mary J. Blige Feat. 50 Cent とあった。ああ、良い……と思う。でしょー。なんか思ってたよりメロディがちゃんとある……そりゃブライジ様だからねー。となぜか誇らしげに腕を組むのを見て、ふふっ、と笑ってしまう。なんかわかるな、好きな音楽のこと語ってるときに自分も巨きくなったように思える感じ。
さっき父ちゃんも言ってたけど、居たいだけ居ていいから。いや……そこまで世話になるわけには。いいよ、誰だって助けられて生きてくんだから。でも、あたしの素性すら知らないのに……大丈夫だって、人ひとりぶんくらいなんともないよ。逆に言えばさ、わたしらが今日したようなことを、シーラも誰かにしてやればいいんだよ。借りたから返すんじゃなくて、与えられたから与える、みたいなさ。でしょ? うん……あれ泣いてる!? いや泣いてない、けど……そっか、こんな家族もあるんだな。うん? あたし、自分の生まれたとこしか知らなかったから……こんなのもアリなんだなって。アリに決まってんじゃん。うん……ありがとう。
でさ、シーラ。なに。ちょっとお願いがあるんだけどお……と悪戯っぽく微笑むので、なに。やれることならやるよ、家事手伝いでもなんでも。と応えるが、いやそういうことじゃなくてさ、とファイルが取り出され、一枚の書類が示される。デザイン……画? そう、今わたしが作ってるやつなんだけどさ。えっ、服のデザイン、もやってるのか。そう。音楽は自分でやりたくて始めたけど、こっちはもう生まれた時からって感じでね。なにしろ家自体がファッションブランドだから。言われて、ショーウィンドウに象嵌されていたロゴを思い出してみる。Council Club……そう。一九九八年、わたしが産まれた年に、父ちゃんと母ちゃんが独立して創業したんだ。ブリットポップが幻滅っぽく終わって、またぞろクールブリタニアとかいう薄っぺらいブームがあった時期。こんな浮ついた感じじゃダメだろって一念発起した父ちゃんが、もう一度生活に即したファッションを打ち出そうってコンセプトで始まったのがCouncil Club。初めは母ちゃんと父ちゃんでカジュアルなスポーツウェアみたいなのやってたんだけどさ、マン島で金融やってたジョー姉がデザイナーに返り咲いてからはフォーマルなのも出し始めて、イングランドの映画スターにも着られるようになったんだ。あの人もデザイナーなのか……自分は親元を離れて独立するって言ってたんだけど、ある日「やっぱりファッションに喚ばれた」って、今までのキャリア全部投げ捨ててね。すごい根性だし、やっぱ才能あるんだよなあ悔しいけど……と苦さ半分誇らしさ半分のような表情で笑っている。そして時は二〇一五年、Council Clubはまさかのモッズに回帰した新機軸「ロッキー・ラクーン」で大ヒットを収めるんだけど、その企画からデザインまでを担当したのがわたし! え、あれあなただったのか。スコットランド独立がらみのニュースで見たことあるけど。そうそう、あの独立のタイミングとバッチリ合ったのも追い風でねー。でも真っ白なモッズコートていう絶対ウケないでしょってコンセプトをアリにしたのは、言っちゃなんだけどわたしの慧眼だよー。そんなに冒険だったのか? もちろん、だってモッズってもっぱら野外向けのコートだし、汚れが目立たない配色が基本だったんだよ。そこをあえて真っ白にして安価で提供してみよう、そしたら買った人が自分でデザインできる、自由なプロダクトとして広まるだろう、と信じて出してみたら、ラッカーで塗ったり裂いて縫い合わせたりして着るのが流行りだして、あっというまに全英流通の大ヒットになったわけさー。服そのものをキャンバスにしたわけか……すごいな。でしょ? で、わたしも今ジョー姉と同じデザイナーのポジションにいるんだけど、次に出すやつでちょっと手こずってて……それがこのコート? うん。
デザイン画を見ると、裏地の素材に関していくつか付箋が貼られている。防寒性を保ちつつボディラインがキレイに出るコートにしたいんだけどさー、ジョー姉はそこに綿入れろって言うんだよ。そりゃあったかくはなるだろうけど、せっかくのスマートなデザインが台無しじゃん? 聞きながらデザイン画に目を走らせると、確かにこの流線の内側を綿で押し上げるのは好ましく思われない。そこでスタイルと防寒性の両方をキープしたいんだけど、具体的な改善案なしではゴーサイン出せないって……そこでさ! と急に前のめりになり、あたしの手を取る。お願いだよーシーラ、モデルになっておくれよ! シーラすごい痩せてるでしょ? うちの姉ちゃんたち結構ずんぐりしてるからさ、あんま実感として役に立つアイデア出てこないのよ。はあ……そういうものか? だからさ、シーラの身体に添うように考えてみたら、なんか突破口になるんじゃないかって……いい? そりゃもちろん、いいけど。ありがと! 言うとともに、じゃあ採寸から始めよう、はい立って立って、と囃し立てる。まず両腕広げて。こう、か。そう、動かないでねー。
うわーほんと細いな……ちゃんと肉喰ってる? いや……菜食主義? そういうわけでもないけど、ミルクと野菜だけで満腹になるから。金かからなそうでいいなーそれ、と言いながら新しい用紙にペンを走らせている。で、これなんだけどさ。さっきあたしがゴミ箱から持ち去ろうとした試作品が当てられる。これ、まだ綿入ってないって言ってたな。うん、このままのラインをキープしてさあ、と言いながらあたしの腕を袖に通す。いかに膨らませず暖かくできるかが問題……なんかアイデアない? いきなり訊かれてもな。なんか着た感じの意見でもいいよ、どこか肝心のとこが物足りないとか、逆に余ってるとかない? ん……まあ、袖口から脇腹のあたりとか。まずそこだよね、肝心の腰のあたりは? そんなに……というか、このあたりは袖と脇腹あたりがフィットしてたら自然とくっつくんじゃないか? えっ? うまく言えないけど、こう、と言いながら両肩の端をつまみ上げてみる。ここから袖口にかけての隙間がなくて、それで脇腹あたりも身体に密着してると。うんうん。そしたら、こう……と言いながら、左腕を伸ばして腰部にまつわった部分を右手で指差してみる。腰から太腿にかけては、自然と真空になるんじゃないか?
何となく言ってみただけで、助言になってるかどうかすらわからない。が、ミッシーはあたしの身体とデザイン画を交互に何度も見比べたあと、自分の顔を両手で押しつぶすように覆い始めた。だ、だいじょうぶか? なんで気付かなかったんだあ……え? そうだ、自然に、自然に学ぶべきだったんだ……綿を入れて暖かくする必要なんてない、最初から出来上がってるものを目指すべきだったんだ……それぞれ体の流線は違っても、羊も目白も生まれついた体毛で自足してる……そうか、そういうことだったんだ……ほ、ほんとにだいじょうぶか?
ありがとうシーラ! と今度はあたしの両手を掴み、ちょっとごめんだけど時間ちょうだい、今ひらめいたやつ全部起こすから! それまでちょっと、ちょっと待ってて! 言うとともにデスクに飛びつき、ラップトップの電源を入れ紙の上にペンを走らせる、その不思議な熱を迸らせた右頬を眺めていると、なあ何か手伝えることあったら、と一応気遣うのさえ野暮に思えた。のでベッドに寝そべりながら、一心不乱に紙上の織物に取り組んでいる、その横顔を見守ることにした。
つまり『クライング・ゲーム』って、トランスセクシュアルよりはむしろ元IRAの男と黒人兵士との企まざる同性愛を描いた映画と考えたほうが……あれ、あ、朝。うわっなんて夢見てたんだ、なんで何年も前に観たあんな映画のこと思い出してるんだ。ジョー姉のあれのせいかな、よっぽどショックだったのか。それって明らかに無礼だけど、でも男性の裸見たの初めてだったし、いや男性じゃないし……あれ、ミッシー。起こさないでいてくれたのか、あたしにベッド貸しといて昨夜どうしたんだろ。とか思いながら身体を起こすと、デスクの上に数枚の紙が散らばっている。覗き込むと、あれほど試行錯誤していた裏地の欄に、えっと、読めないけど何か合成繊維の名称らしい記述がエクスクラメーションマークとともに踊っていた。そしてもう一枚には、修正前の面影を残しつつ全体の造形がより明瞭になったデザインが。そっか、突破、できたのかな。
一階に降り、おはようございます、と誰にともなく言ってみる。おはよう、と数瞬遅れて返事が。声の方へ向かうと、昨夜ティム兄と呼ばれていた男性が、バルコニーで洗濯物を広げていた。といっても、ほぼ昼だけどね。あっ、と広間の時計を見る。ほんとだもうすぐ正午。うわあそんなに寝てたのかと遅れて恥じ入るようになり、よく眠れた? との言葉にも、え、まあ……とへんにくぐもった返事しか。その姿に苦笑されつつ、あの、ミッシーどこいきましたか。と訊いてみる。あいつはブティックでジョーと打ち合わせしたら、いつもの音楽スタジオじゃないかな。デザインの仕事だけじゃなかったのか……スタジオって、どのへんの。ジョージ・スクウェアかな、あの辺にミュージシャン屯してるから。わかりました、えっと、ミッシーの部屋にある服借りていいですか。もちろん、出掛けるの? はい、ちょっと。そっか、じゃあ、と洗濯仕事の手を止め、卓上のメモ用紙になにやらペンを走らせている。さすがに広いからね、もし迷ったらこれに電話しなさい、今日は俺一日中いるはずだから。はい、ありがとうございます。
と歩き出したはいいものの、徒歩でくまなく探し回るのは無理がある。街路に掲示されている地図を頼りに歩いていると、ランチタイムだけあって幅広い年齢の客たちでパブが賑わっている。お、なんだあれ、生演奏。アイリッシュトラッドか。昼から飲むなんてずいぶん気風が、あいや今日は日曜だから別におかしくはないか。足を留めると、「唄い手コンテスト開催中」と書かれた看板が目に入る。中の様子を察する限り、トラッド系の歌で競ってるのか。「賞品:ステーキ・パイ無料券」……へえ。
あの。いらっしゃい、おひとり? いや、あの、表の看板見たんですけど……と言うと、店内の好好爺たちが一様に色めき立つ。あら、あんたみたいな子が? いけるのかね? 俺たちゃブラーとかパルプとかはやらんからねえ、とフィドルを抱えた爺さんが言うと、カウンターの客たちも釣られて笑う。いやそっちもやれますけど……そうだな、『Róisín Dubh』とかいけますか。と言ってみると、店内は一瞬で水を打ったように静まり、あんたそんな曲知ってんのかい? 珍しいねえ若いのに! と沸騰したように声が上がる。まあ、いちおう唄えると思います。よし、そいじゃあ、と爺さんがフィドルを構えると、テンポはどれくらいかね、と言うので、右手で二拍子を取って見せる。よし、じゃお前さんがたいいかね、お若い挑戦者さんのお手並み拝見といこうじゃないかね。
んふー、スコーンもおまけしてもらっちゃった。いいもんだな、挑戦の場で唄うってのも。そういえばあたし、歌を認めてもらったのって初めてか。教会やパブで唄ったことはあるけど、誰かにフェアなジャッジされたのって……そうして認められるのって、悪いもんじゃないな。
そうだえっと、ミッシー探してたんだった。ほんとにジョージ・スクウェアって音楽街だな。パブもクラブもとくに線引きしない感じで、あ……「二〇世紀ロックンロール・オープンマイク」。一時間ごとにお題が違うのか。今やってるのは……
えっじゃあ家出たときに電話してよ! あそっちの番号渡したの? まだ来てない? じゃあ大丈夫か、とはならないっしょ。土地勘ない街でさー面倒事にでも巻き込まれたらどうすんの。そりゃちゃんと面倒みろって言われたから当然じゃんー。じゃ見つけ次第帰るから。はーい。
まいったね、今日はずっと家にいるかと思ってたけど。思ったより活発な子なのか、まあアイルランドから家出してきたくらいだし。見つかってくれよーまだお礼も言えてないんだし……って、あ。
たのむよー次の枠も出てってよ。いや、さすがにもう日が暮れるし……わかったじゃあさ、うちで定期的に唄ってくれないか? 毎週八〇年代ナイト開催してるからさ、そのシニード枠に。シニード枠とかあるんだ、でもあたしいつまでここにいるかわからないし……あ。
こっちに気付いてくれたようで、大きく手を振ってみる。と、ポケットに突っ込んだ手を片方だけ抜いて応えてくれた。とりあえずフライヤー渡しとくから、気が向いたら連絡して。あー、はい。じゃ、ほんと最高だったよ、シニードが生き返ったかと思ったよ! はは……いや、シニードはまだ死んでないでしょ。あ間違えた、プリンスが生き返ったかと思ったよ! ありがと、じゃあまた。
階段の下で待ちながら、えーなにコンテスト荒らし? とくすぐってみる。まあね、一回だけのつもりだったけど三枠制覇しちゃってさ。なんの部門? 八〇年代シンセポップと、九〇年代ガレージロックと、〇〇年代ディーヴァ曲。やるねー、ヒップホップイズムじゃん。いや、どこが? オープンマイクでのし上がるのはヒップホップイズムだよ。そうなのか……あそうだミッシー、と言いながらジャージのポケットから何か取り出す。これ、昼に入ったパブのコンテストで優勝して貰った賞品。やるよ。おーありがと、ていうかパブでもやってたのか、どこの? 「ア・スペル」っていう変な名前の。あそこか、爺ちゃん婆ちゃんばっかの店でしょ? よく入ったねえ。そりゃアイリッシュトラッドは得意だから。と笑う顔を見ながら、シーラ、どこかで歌やってたの? と疑問の沸くまま言う。ああ、まあね、物心ついた時から聖歌隊で。でも今日唄ったのは好きで覚えたのばっかだよ。そっか。ミッシーはどこでなんの仕事? ああ、イングランドのラッパーがこっち来てたから、新しいストック渡して、その中からどれ使うかの打ち合わせ。ってつまり、楽曲提供の仕事。まあね。すごいな、その歳でもう作曲家か。いやいや、今ってトラック制作の仕事はだいぶ細分化されてるから、わたしだけで全部作るわけじゃないよ。わたしは土台のビートとベースライン作って、あとはトップライナーっていうメロディつける専門の作家とか、あとはもちろんラッパーが現場でアイデア出したりとかも。だから作曲家って聞いてイメージするのとはちょっと違うかな。そうなのか。でもそれで収入得てるってすごいことだろ。えへへ、まあね。そうだミッシー、さっきあのクラブで稼いだ賞金だけど……ともう片方のポケットから取り出そうとする、その手を制する。いーって、それはいらない。いや……せめて家賃くらいは。いーの、初めて自分の歌で稼いだ金でしょ? 大切に使いなって。と言うと、数瞬戸惑ったように見えた、が、不承不承に両手をポケットに沈めた。そうだシーラ、ありがと。え、なに、あたし何もやってないぞ。昨日のこともう忘れた? あのときシーラがくれた助言のおかげでさ、ゴーサインもらえそう。あ……あのコート? うん、発熱性に特化した合成繊維があるから、それを裏地に使う方向で再提出してみた。コストはどうなるかわかんないけど、これしかないって手応えあるから、ぜったい実現させるよ! そ、そっか、役に立ったんだ。いやーまさに理想の体格の子が着てくれてさ、一気に突破口が見えちゃった。いわばシーラはわたしにとってのミューズだねー。ミューズ、か……
ぎりぎり日没前に帰宅すると、キッチンではティム兄が夕飯の支度を整えていた。おかえり。ただいまー。すごいよシーラ、クラブのコンテストで勝ちまくってたよ。え、オープンマイクってやつ? 日曜はよく看板見るけど。そう、それで「ア・スペル」のステーキ・パイ無料券もらったって。あの店の! 俺も何回かしか入ったことないけどな。まあ、たまたまですけど。ほい、これ父ちゃんに渡しといて。わかった、今日ジョーはブティック居残りでメアリー姉は出張だから、二人ぶんはいらないな。シーラのも忘れないでよ。わかってるって。じゃ、二階いるから。おう。
夕飯を終えて二人、同じ部屋に寝そべっている。ねえシーラ、と呼ぶので、何、と応える。作っていいかな、わたしが、シーラの曲。いきなりの言に上体を起こされ、あたしが……唄う曲? と訊き返す。うん、と寝そべったまま、多分だけどシーラ、今までカバー以外の曲唄ったことないっしょ。と言うので、黙って頷く。人の曲うまく唄うのもすごいことだけど、ちょっとさ、試してみない? 自分のために作られた曲を、ってことか。それは──やってみたい。やってみたいに決まってる、でも。でもなに。迷惑じゃないか、ただでさえ居候してるのに、そのうえ曲まで作ってもらうって。ミッシーもそれで収入得てるんだからギャラくらい……の語尾が右手で制される。ちがうよ。えっ。わたしにとっても初めてなんだ、仕事もらって納品するんじゃなくて、この子のために作ってみたい、って思ったの。えっ……だから、させてほしい。どっちかといったらわたしのわがままだよ。そんな類のわがままもあるのか、あなたのために作らせてほしい、と。そういえばさっきこう言っていた──シーラはわたしにとってのミューズ──
よしじゃあ、と言いながらシンセサイザーに電源を入れる。どんなコンセプトがいいかな、シーラたしか聖歌隊にいたって言ってたよね。ああ。クラシックもいけるの? まあバッハのカンタータとか……でも最近は全然唄ってないからな。そっか、じゃあクラシカルなムードの……アンビエント……じゃない、ヘヴィメタルとか! メタル……? あんな俗悪な音楽、と返すと、ミッシーが人差指をちっちっと振って制する。聴かず嫌いはいけないねーシーラ。実はメタルとヒップホップって、九〇から〇〇年代にかけて既に混ざり合ってるんだよ。そうなの。そう、ヘヴィメタルバンドのプロデューサーが実はヒップホップ畑の人、ってパターンが出てきはじめたの。だからその方向性を、今回わたしが推し進めてみたい。たとえばこんな感じ……おお、イントロ? そんなのも弾けるんだ。露骨にチェンバロとかハープシコードとか、そんなダサいことはしないよ。それ以外にもこう「クラシカル」の意味をずらして使えるはず、と思ってたんだ……ちょっと待ってミッシー、いま考えながら弾いてる? いや、べつに……でも確かになんか、これで一曲できそうだね。それでその先どうなるんだ、あたしメロつけていいか? いいよ一緒にやろう、その前にループ作るから。
で、これどう唄えばいいんだろう……シーラの声質と音域なら、そうだな、スマッシング・パンプキンズ意識してみて。あんな唄い方……いいからやってみなって。
ん、あ、そうか、こう歪ませる感じなら、もっと伸びるか。ん、でも喉痛めやすいから気をつけて。感覚はつかめたけど、あまりそういう音楽聴いてこなかったからな……たとえばこういうのだよ、これフィンランドのギタリストの曲だけどさ。おお……サビの裏のギターフレーズがすごいな、こういうのもメタルなの。メタルコアに分類されるかな、九〇から〇〇年代の潮流。なるほど……勉強してみる。時間かけていいよ、わたしもなんか次の曲できそう。え、もうそんなにか?
あっというまに秋は過ぎ去り、グラスゴーの路上を寒風が掃きはじめた。あたしはといえば、一家それぞれ別の役割でブランドを運営しているために留守がちなマッコイ家のハウスキーパー、と同時に、パブやクラブでのボーカリストとしても活動しながら、ミッシーのプロデュースによるEPを制作していた。ライブで唄うことはあってもレコーディングなんて初めてだったし、まずベッドルームの作業でこれだけのものになる事実に少なからず驚かされた。ミッシーはビートも打てるし鍵盤も弾けるしギターも弾ける万能選手だが、今回のメタルコアの方向性なら演奏の質にこだわりたいというので、全曲グラスゴーのミュージシャンに招請してレコーディングしてもらった。歌録りも終わり、あとは編集作業を待つ心持ちでいたが、さあシーラ。と、数日後に見せられたラップトップの画面には、すでにデジタルパッケージのEPが表示されていた。え、これいつできたんだ。今日。ミキシングが終わればあとはマスタリングだけだからねー、それもデータのやりとりですぐ終わったし。こんなに速くできるもんなのか……さあシーラ、このボタンを押したら配信開始だよ。どうする? どうするって、誰も買ってくれなかったら、か。そっちじゃないよ、ものすんごい注目されちゃったらどうする? まさか……まさかじゃないって、録ってて編集しててわかったよ、すごいよシーラの唄は。アマチュアなら誰でもあるような、ピッチとかリズムの甘さが全然なかったもん。それはまあ……嬉しいけど。正直な話、わたし羨ましく思うよ、自分以外のやつがプロデュースやってたとしたら。このシンガーとやるの幸せな仕事だったろうなーって思っちゃうよ。なんだそれ、ミッシーが誘ってくれなきゃそもそも唄ってないだろ。もしこのEPが成功したとしても、それは全部ミッシーの力だよ。そっか。じゃ、押しますか。ああ。
Bandcampがどうとかインディーチャートがこうとか言われてもわからないのだが、いわゆるヴァイラルヒットにはなってくれたらしい。ほら見てごらんこれ、全部シーラについてのコメントだよ。今まであたしの歌を聴いてるとしたらそれは目の前の観客だけで、見ず知らずの人が聴いてるなんて事態がうまくイメージできず、賞賛のコメントもどこか上滑って見えた。よーしこれビデオ作ったほうがいいな今からでも! ちょっとジョー姉にお願いするよ、全部Council Clubでプロデュースしてさ。いや馬鹿言うな、ネット上で顔晒すことになるだろ。えー、シーラ見た目もいいのに勿体ないって。そういうことじゃない。だってあたし、家出してるんだから。あ。あ……そうか。うん。そしたら家族に見つかっちゃうか……でもさシーラ。うん? そもそも今回のEPの名義、本名で出しちゃったよね? あ。
〈スコットランド:グラスゴーに居を構えるマッコイ家が、アイルランド:ゴールウェイに籍を置くオサリヴァン家の一人娘の身柄を不当に拘束しているとの報に接し、SIUN民事裁判所は前者に対し、該当する身柄を親権者たる後者に返還することを要求する。〉
という通知が届いたのは、EPリリースから一〇日も経たずのことだった。
どうするシーラ。マッコイ家で家族会議が開かれ、あたしはこれ以上迷惑をかけないために帰ろうと思う旨を伝えた。が、だめだよ、そしたらシーラ唄えなくなっちゃうじゃん。と抗弁するミッシーを筆頭に、マッコイ家はあたしの生家への帰還を容れなかった。母との軋轢に関してはミッシーにしか話していなかったが、虐待めいた母親の振る舞いは一家の誰にとっても軽蔑の対象だったらしい。でも、これ以上留まると皆さんに迷惑が……と言うと、ジョー姉さんが一枚のパンフレットを差し出した。なんですかこれ。いいから読みなさい。Peterloo……身寄りのない子どもたちを支援する非政府組織、か。国連の嘱託により、事故や戦争で親権者を亡くした子どもたちを保護する務めを……って、あたし両親どちらも健在ですし。と言うと、じゃあ、アンタに帰る家があるっていうの? と斬り込まれ、返す言葉を失ってしまう。パンフレットにも書いてあるでしょう、機能不全家庭で侵害されている個人の尊厳を回復するための部署、って。家庭こそが生まれついての監獄だった、なんて例いくらでもあるのよ。だったら逃げていいの、出て行っていいの。外にはいくらでも良い環境があるんだから。と言われては、それ以上何も言いようはなかった。まさに家庭の外に出たい一心でここまで来てしまったのだから。アタシだってねえ、父さんに自分のこと認めさせるまではほんと地獄だったわよ、ねーえ? と顔を近づけるジョー姉に苦笑しながら、もし君がそうしたいのなら、私たちがそのNGOに申請してみる。あとは君が決めなさい。確かなのは、私たちは帰りたくもない家に君を突き返しはしないってことだ。と述べる父親にあわせて頷くミッシーの両眼を覗き込みながら、あたしも頷く。選択肢は一つしかないと思われた。
それでは、君は今日からうちの子だ。という、あの言い方が忘れられない。岩走マキ。英語とフランス語を不自由なく話す日本人を前にして、あたしは母親や父親に対して抱く情緒とは別のものを感じていた。血縁者の代わりにあたしの身柄を引き受けてくれた、そのことから強い親近感を抱いてもおかしくはなかったのだろうが、その人が、岩走マキが湛えていた疲労混じりの俏しのようなものが、徒らな共感を拒絶しているようにも思えた。
しかし、職員としての責務とはいえ、身寄りのない子どもたちを受け容れる務めを孜々として行っている岩走マキは、あたしにとって特別の位置を占めずにはおかなかった。その務めこそ、父が独力で果たそうとして挫折したことに違いなかったから。もちろん、国連という巨大な後ろ盾があってこそ果たせている仕事なのだろう、父と直接に引き比べること自体がおかしいのだろう。しかし、血縁を離れてPeterlooの子となった自らの境遇を鑑みて、ひとつの想念が付き纏った。父は間違っていなかったのではないか、と。
今も付き纏っている。
姫、と囁きながら、右肩からコートを取り去ってくれる。そう、あの秋の試行錯誤の結果として出来たコートだ。頑張って。とステージに送り出すあなたの声を、昨日のように思い出せる。あの時のあたしは、ひとりでもきっと大丈夫だと、そう信じきっていた。
格の違う存在はいる。Innuendoの名を冠する二人組によって思い知らされたのは、まさにそのことだった。あのときCouncil Clubの衣装を着ずにステージに上がったのも、結果としてはよかったのかもしれない。もし着たまま行ってしまったら、「比べようもなく隔たった実力のイングランド人に遅れをとったアイルランド人」の汚名を、あなたのブランドにまで着せてしまったかもしれないのだから。
ミッシー、あたしを人間にしてくれたのはあなただ。飢え死に覚悟で生家を出たあたしに、居場所を与えてくれたのは。あたしのための歌を、つくってくれたのは。しかし、あの時点でもう気付いていたのかも。これでもまだ足りないと。あなたに作ってもらった優れた歌を自分の全力でパフォーマンスするだけでは、届かない領域があると。それは言うなれば、両の翼で羽撃くものだけが舞う穹窿。そこにあたしは、ひとりで行こうとしたのか。だから墜とされた。なぜわからなかったのだろう、重力に逆らわんとした傲慢の者でさえ、まずは二つの翼をこさえることから始めたというのに。
二つあるもの。
カトリックとプロテスタント。クリスチャニティ。
アイルランドとスコットランド。連合国。
ブリジッドとマキ。母親。
手を取ったはずだ。両手を取って、ミッシー、と両膝をついたはずだ。どうしたの姫、と気色ばむあなたの両眼を覗いたはずだ。なぜこんなにもペアの部位が多いか、人間の身体には。ひとりの人間の生存を間に合わすため、それだけのためにこんなにも多くの番を必要とする。では、もしかすると人間の営みも、ひとりでは担えないのか。イカロスは墜ちた。ルシファーも堕とされた。しかしあたしは夢想せずにはいられない、彼らが天に挑んだとき、すでに朋輩がいたなら。彼らが失敗したのは、独りでやろうとしたからだ。イエスも、父も、独りだったから失敗した。ならば。
あたしの Counterpart になってくれないか。傍らにいてくれないか。ひとりだけで墜ちるなら、それはただの死だ。でもふたりなら、あたしが墜ちたとしても、あなたは引き揚げられるかもしれない。たぶん、上昇と下降は同じところにある。だからあたしがやろうとしてたことは、最初からひとりでは無理だったんだ。
危うい瀬を渡っている。わかっている。自分とは異なる存在を朋輩として求めて、そして同じ進路に身を置くなんて。それは寸法違いの輔のようなもので、一歩も動けはしないのかも、共倒れに終わるのかも。それでも。
二人で勝ちに行こう。たとえそれが、喜びも悲しみも二倍にする、魔女の呪いのような道行だったとしても。あたしはあなたを選ぶ。選んだ。選ばれてあることを、許してくれ。
10 칠월보다 더운
どうしてこう泣くか、と思っていた。この国の人たちは。テレビドラマでも映画でも、なぜこうも屈託なく泣くことができるか。父さんも母さんもあたしも泣く必要がなかった。それより適切な表し方があると知っていたから。父さんはただ死に、母さんは狂い、そしてあたしは音楽に走った。
初めて聴いた音楽はなんだったろうか。もちろん母胎内の鼓動だったろうけども、そんなジョン・ケージみたいな話がしたいわけじゃない。取り上げられた後の世界は音に満ちていて、どこから何を選び取ったら良いのかすらわからない。赤子がやたらと泣きじゃくるのは、あれはこの世があまりにも音楽で溢れすぎていて、怖くてたまらないからではないか。レコード屋のドアを開けるたびに、ああ、きっとこの一部屋の盤を聴き尽くすことはできないだろうな、と詠嘆するように。レコードをディグるときの情緒が生まれたての赤子と同じとは。そういえばピーター・ガブリエルが娘に捧げたアルバム、その収録曲の歌詞にこういう一節がある、“I’m digging in the dirt to find the places I got hurt”, そして彼自身が赤ん坊を叱るように繰り返す、“This time you've gone too far. This time you've gone too far. This time you've gone too far. I told you, I told you, I told you, I told you”.
それはそれとして、あたしは生まれた瞬間に音楽を刻まれた。文字で。ハングルで。허한나、とくに華美な名とも思わないが、父が入隊中の銃器暴発事故で死んで、そのあと母がああなって、自然な成り行きで地元の孤児院に引き取られたとき、教会の人々がうれしそうにこの名を唱えていたのを憶えている。허한나、허한나、Hosanna, Hosanna, と。
それがおそらく、あたしにとって最初の音楽。
で、な、ほら、北のあれが。将軍? じゃなくて、なんかあったろ、北朝鮮のレストランで働いとったのが韓国に亡命したとか。ああ、あったね先月。それだよお、それもだよお。あたしのひとがやってくれたんだ。苦しんでる北朝鮮の人々を世話してやったのさ。あたしらの見てないところで、おおきな仕事に携わってるのさ。そうだね。あんた気をつけなよ、近いうちにでかいことが起きるよ。でも安心しな、あたしのひとがいるからには間違いない、すべてはいいふうにいくはずさ、なあ。うん、そう思う。なあんだあいつらがバンバン打ち上げたって、こっちにはあたしのひとがいるんだから。最後にはきれいさっぱりかたがつくはずさ。なあ。だね。なあ한나、あんただけじゃなく……なんてったかあんた。션윈。션윈もなあ、備えときなよ。そのうちでかいことが起きるからな、でも大丈夫、うちのひとがいるからなあ。どんな悪玉だって、きいっとやっつけてくれるんだから……最後には大丈夫さ、そうなる、そうなるなあ。うん、最後にはね。なあ、션윈なあ。は、はい。最後には……そうなる、そうなるなあ。
いいかげん話合わせるのやめたら。んー、でもいつもと同じ感じだったし。そういうことじゃなくて、あの妄想に付き合うのはあんたの母さんにとっても毒だって言ってんの。いいじゃん、相変わらず元気そうだったし。元気ならいいってもんじゃないでしょ、担当医も症状を昂進させるようなことは控えろって。症状ねえ、そもそもあたし、母さんのあれを病気だって思ったことないよ。じゃあ何。防衛策、みたいな? こわくて耐えがたいことがあって、その恐怖から自分を護るために、仕方なくやってる。それが症状だっての。でもさあ、そんなに悪いことかな、恐怖に負けて妄想の世界に逃げ込むって。悪いに決まってんじゃん。션윈아は強いからなあ、そう言い切れるけどさ。なに、強さ弱さの問題じゃないって。でもさ、純福音派のあれも妄想っちゃあ妄想じゃん。携挙だあ世界の終わりだあって外側に救いを求めるのも、だいぶ深刻な妄想でしょ。まあ、ね。それも仕方ないと思うけど、教会は集団になって影響力を持ちすぎちゃうかもだから、あんまよくないよね。だからさ、母さんは独りの妄想世界に完結してるだけ、まだえらいなって思うんだよ。だからさって、前後の文がつながってないから。あはは、そうか。
で、どうするの。と言いながら、スターバックスのカップに取り付けられたスリーヴを気忙しげにさすっている。どうするって何を。もうそろそろ期限じゃん、いっぱしの人間になるって誓いの。ああ、そうだっけ。そうだっけって、と語気が昂ると同時に握られたカップがパキっと音を立てる。あんた、本当にあたしと結婚する気あるの。あたしが大学出るまでに音楽で生計立てられるようにするって言ったの、あんたでしょ。確かに言ったよ、でもさあ、音楽って一番プロとアマチュアの境界がゆるい世界だからさ。何それ、翻訳の世界とは違うって言いたいの。そうじゃなくて、と語尾を保留しながらカフェモカをひとくち啜る。そうじゃなくて、その場その場で出来ることをしたいだけなんだよ。ふつうに生きながら作るべきものを作って、いつのまにかおばあちゃんになれたらいいなあって。と言ってみても、依然として視線を逸らさないまま、不機嫌そうに頬杖をつく。それって、人生を棒に振りたいって言ってるのと同じだけど。同じかなあ。同じだよバカ、なに「ふつうに生きながら」って。そもそも音楽だけでふつうに生活するのが困難だってわかんないの。でもスタバ来れる程度には生活できてるよ、こうして今。ずっとスタジオのインターンで通すつもり? 何十年経っても! 突然大きくなった会話の音量に驚く隣席の客に、大丈夫ですよ、の目配せを送る。さすがに雑務だけで終わるつもりはないって、そのうちエンジニアリングとかプロデュースとかの仕事もやりたい。そのうち、そのうちってねえ……션윈아の業界とは違うかもだけど、音楽ってそうやって続けてた人たちが、いつの間にか大きな仕事に巻き込まれるものなんだよ。だからあたしは怠りなく備えてたらいいと思う。違う? と笑ってみても、違う。の断固とした拒絶が置かれる。翻訳の仕事で大成した人は、もう在学中からすでに携わってたよ、お、お、き、な、し、ご、と、に。ろくに働かずタラタラやってた奴なんか、相手にされるわけないじゃん。ええ、そうかなあ? でもヘンリー・ミラーとかさあ……それは作家であって、翻訳家じゃないでしょうが!! ああ、やっちゃった。そうだよな、自分の進路を作家のそれと引き比べると怒っちゃうんだよな션윈。でもそれって、自分が文学部じゃなく国際関係学部を選んだことへの後悔、のように思えるんだけど、これ言っちゃったら怒鳴られるだけじゃ済まされないからやめとく。ごめんごめん、でもあたしが選んだのはこういう道だからさ。もうちょっと待ってなんて言わないよ。こいつ見込みないなって思ったら、いつでも見捨ててくれていい。でも、これだけは確かだから言わせて。あたしは音楽を続けながら、션윈아と幸せに暮らす覚悟がある。一生、そのどっちも疎かにはしない。だから、今の仕事を続けさせてよ。션윈아が自分の好きな仕事を選んだようにさ。
そこであたしと션윈の会話は一段落つき、店内の客たちの会話がBGMのようになる。頰杖はいつの間にかフェイスパームに変わり、小さなため息ひとつ吐いたあと、苦虫をひとつひとつ噛むように話し始める。「でも、」とか「だから、」とか、接続詞の使い方が毎回おかしいんだけど。つながってない話を延々とされてる気がする、あんたと話してると。そっか。そうだよ。不機嫌そうにカップを持ち上げるも、もう内容物は残ってなかったらしく、コトっと音を立ててテーブルに置く。とにかく、もう一年ないんだからね。あたしが大学を出る頃にもパッとしないままだったら、本当に見捨てられても仕方ないと思って。言い終わると立ち上がり、可燃ゴミのシューターにカップを投げ入れ、自動ドアの方へと歩いていく。のを見ながら、션윈아、愛してるよー! と聞こえよがしに言う。さてここでいつも、言ったほうも言われたほうもどちらも女性であることを認識した客たちが、心得顔で微笑したり不可解に侮蔑したりするのだ。あたしはその反応の比率を計るのが好きだ。今回はそうだな、前者が七割:後者が三割ってとこか。また要らんことしやがって、みたいな顔したあたしの婚約者は、エントランスのマットを蹴るようにして出ていくのだ。
精神病院からスターバックスへの、お決まりのデートコース。だいたいこうして終わるんだ、あたしと션윈の逢瀬は。
あたしはこの時間が大好きだ。
それにしても「パッとしないままだったら」ねえ。パッとするってなんだろ、ヒット曲でもありゃいいのかな。共同作曲ではけっこうメジャーどこにも携わってるんだけどな、でも同業者にしか知られてないしな。ここらで一発ソロアルバム出すかねえ。でもミックステープならいくつも出してるし、なら個人製作でいいじゃんってなるし……やっぱスタジオ使わせてもらいたいな、でもインターンの身でソロアルバムのためにスタジオ使うって、難しいか。こいつはできるやつだって認められない限りは……
みたいなことを考えながら歩く汝矣島公園、この時間もたまらなく好きだ。夕方からの仕事までのひととき、プレイリストをシャッフル再生しながらの散歩。これこそ至福の時ってやつじゃないかね……と言いたいとこなのだが、今日の公園はいつもと雰囲気が違っていた。セウォル号事件の究明と、朴槿恵大統領の退陣を求める市民の集会が開かれ、その声はヘッドフォンをしていても聞こえるほどだった。プレイヤーの再生を止め、人混みをうろつき、集会で配布されているパンフレットを一部受け取ってみる。デモンストレーションは今夜か。あたしは仕事で行けないけど、だいぶでかくなりそうだな。辺りを眺めると、集会には学生ふうの小綺麗な若者はもちろん、鋲のついたレザージャケット着用のパンクスもいれば、その辺に買い物に出かけるような軽装で熱心にパンフレットを配布している主婦層もいる。いつもあたしがつるんでるスケーターやグラフィティアーティストなんかは、時間帯のせいか少なかったけど。でも、なんか初めてだな、この公園でここまで幅広い世代のユニティが……とか思いながら再びヘッドフォンをつけ、プレイリストのシャッフルボタンを押す。そこで流れてきたのは、スティーヴィー・ワンダーの『Master Blaster (Jammin’)』。
あ。
これだ。これだろ。イントロのキックとハイハットとリムショットを聴いた瞬間、あたしは全てを理解した。西暦二〇一六年五月、大韓民国、汝矣島公園。そこで押したシャッフルボタンがこの曲を選んだ理由。「君は光を見たか!?」とジェームズ・ブラウンに呼び掛けられたジョン・ベルーシも、こんな感覚だったんだろうか。何百回となく聴いたはずの曲が、新たに胸腔の下に発生した臓器のように、あたしの身体言語そのものとして打音を始めた。まだ晩春の爽やかさを残した五月の風も、膝裏から流れ落ちるあたしの汗を止めることはできなかった。
“Everyone's feeling pretty.
It's hotter than July.
Though the world's full of problems.
They couldn't touch us even if they tried.”
そうだ、その通りだ。偉大なるSW、あなたはこの曲に時限爆弾を仕込んでいたのか。未だに世界はこの通りだ、あたしの生まれた国だけじゃなく、地球儀にべったり重油が塗られたかのような世相だ。でも嘆く必要はない、殊更に憤る必要もない。まずはリズムを感じるんだ、そこから始めるべきだったんだ。そしてこの曲はあたしを選んだ。ただ公園を散歩してただけのやつに、お前が今、この曲で踊れと。
レゲエのリズムに揺られ、内側から衝き動かす力に四肢を任せながら、あたしははっきりと理解した。今この土地に流れている、いや、おそらくはSWがこの曲を作った八〇年代から絶えず流れていたのであろう、大地を貫くグルーヴの存在を。
いまに歌垣が始まる。そこらじゅうで始まる。
━━ ではあの『Sister Blaster』は、公園を散歩していた時に思いついたのですか?
한나 ええ、まったくの偶然でした。あのとき汝矣島公園を散歩していて、朴大統領の退陣を求める集会が開かれていたのを見たのです。そのとき私のミュージックプレイヤーが『Master Blaster』を再生し始めて、これだ! と思いました。抗議行動に臨まんとする市民たちの意気と、八〇年代にレゲエの楽曲で南アフリカとの連帯を呼びかけたスティーヴィー・ワンダーの創意とが、私の中で一挙に結びついたのです。慌てて家に帰り、レコードから曲をサンプリングし、簡素なビートを打ち込み──余計な音を付け加える必要はありませんでした、なぜならSWバンドの演奏は完璧ですから──、数十分でリリックを書き上げ、そして何日かに分けてあのビデオを撮影したわけです。
━━ 楽曲の着想からして、抗議行動に沸く市民の姿をバックにしたビデオが付けられたのも、当然の成り行きだったのですね。
한나 ええ、私はまだ汝矣島でのデモしか目にしてはいませんが、確実に言えるのは、この国は大きな変化に差し掛かっているということです。あのとき私がSWの楽曲に着想を得たのも、音楽に携わる仕事をしていた者として当然だったのでしょう。いま私にとって最も関心があるのは、年代や性別や出身によって分断されている人々の魂を、音楽によって結びつけることです。それこそがソウル・ミュージックやヒップホップが教えてくれたことですし、こうして私が『Sister Blaster』で注目されるようになったのも、その連帯の賜物と言えるでしょうね。
突如として現れた漢江のフェミールラッパー、허한나。今や説明不要のヴァイラルヒット『Sister Blaster』で一躍有名となった彼女だが、それ以前にソロ名義で出していたミックステープや、トラックメイカーとして携わっていた楽曲の質の高さにも注目が集まっている。まさに時代と鳴動するように名を挙げた彼女の存在によって、文字通り東アジアのヒップホップシーンは「七月より暑い」ものとなりそうだ。
自分で自分のインタビュー記事読むの気持ちわりー! 全然違うやつが喋ってるみたいだ! スマートフォンの画面に表示されたWebジンの記事を読み終えた션윈は、そもそもさ、勝手に他人の楽曲使った作品で有名になってうれしい? とやけに低い声で訊く。それがヒップホップイズムなんだから仕方ないだろ、YouTubeに動画アップしただけで音源売ったわけじゃないし。そのへんがそもそもわかんないんだよね、創作なのか遊びなのかさあ……そんなん翻訳だって似たようなもんじゃん、と言うとまた柳眉を吊り上げるので、いやちがう、言いたいのは、翻訳も誰かがつくったものを再編集して作品にするじゃん、ヒップホップと似てるでしょ。と説明する。それは、まあ……と不服げに引き取る션윈をよそに、あのっ、とまた女の子が話しかけてくる。あのっ、『Sister Blaster』ですよね? そうだよー허한나。うわーほんとにいた、たまにこのスタバにいるらしいって聞いて! あの、一緒にセルフィーいいですか。もちろん、とスマートフォンを受け取り撮影する。ありがとうございます、あの動画ほんと最高です。ありがと、できれば허한나って名前まで憶えてほしいなー。はい、あの、お仕事頑張ってください! ありがとー。
ね。ねって何が。すっかり有名人になっちゃったよー션윈아の婚約者は。バカらしい、動画で有名になるだけなら万引き少年でもできるっての。なんだとー!? 今のは聞き捨てならないんだけどー! と今日はあたしが怒る番になる。ご、ごめん、たしかに今のはないわ。と認めつつ、でも現状のあんたはただの一発屋、それも動画だけのこと。と続ける。うん、まあ、それは事実。だから、これだけでいっぱしになれたと思わないで。確かにあんたは時代の空気をうまく察知したんでしょう、そしたら次は自分自身で手を打たなきゃ。あーそれね、まだ話してなかったけどね……打ち明けようかと思ったその瞬間、なに? と眼を丸くする션윈の顔を見て、あーこの顔がいちばん好き、怒ってるのも好きだけどきょとんってしてるのがいちばん好き。どうしよこのままずっと見てようかな、この話ずっと先延ばしにしようかな……と思いながら首を揺らしてるうちに、さっさと言え。と右手チョップが喉元に叩き込まれる。ぁゎ、わかったって、あのね。うん。ミックステープじゃない、正式なソロアルバム。いま働いてるスタジオのバックアップで出せることになった。と言うと、眼どころか口まで丸くして、それって、認められた、ってこと。と呆けてくれる。一応はね。インターンから同格のラッパーおよびプロデューサーとして認識された、とは言えるんじゃないかな。と控えめに言ってみると、声ならぬ声で詠嘆しながら、やったよー思ったより早かったじゃんー! と絵文字のような顔で喜んでくれる。あははありがと、ってかどれくらいかかると思ってたの。少なくとも今年中には無理だと思ってたー! ついに自分の作品が出せるんだね、妥協しちゃだめだよ! もちろん、あたしなりのオールドスクール回帰でいこうと思う。少量だけどCDでもプレスすると思うから、完成したらクレジットのスペシャルサンクスに션윈아の名前入れとくね。ありがとー한나愛してるー! と両腕であたしの頭を掻き抱く姿に向けられているスマートフォンの数がやけに多い気がするが、まあ気にすることじゃない。あたしは信じてたよ、あんたには本当に藝術の才能があるって! あはは、まだアルバム制作決まっただけじゃん。いやまさにそれが証でしょ、認めてもらったわけだから! もー孤児院で初めて会った時から思ってた、あんたには本当に、本当に、
藝術の才能だけが無いね。と母に言われたのは一〇年前だったか、おそらく初等教育を終えた頃のこと。重陽の節句に、父の傘下企業の重役たちとの会食が催され、その場の流れで即席の韻文を詠む座興が催されたのだ。父たちが酔余に冗句混じりの詩を詠んでいくと、今度はその子息たちに御鉢が回ってきた。日頃培った教養を惜しげもなく披露した彼らの詩文は、少なくともその場の大人たちの感興を買った。しかし私、肝心の竹林電脳の社長令嬢たる蔡茉莉のそれは、詠むと同時に万座の表情を凍らせた。詩趣やユーモアを欠くどころか、韻もろくに踏めていない、文字通り平仄があっていない代物だったからだ。それでも周囲の大人たちは、いやあ見事ですねえさすが蔡社長の娘さんだほんとぐっときましたなあ女性ならではの感性があらわれていますよ、と、その場しのぎの虚言で報いたのだった。ただ一人、その場で何も言葉を発しなかった母を除いては。
あなたには本当に、藝術の才能だけが無いね。ほとんど無慈悲に響きかねないその言が、私にとってはむしろ慰めになった。そういうとこもわたしに似たんだよ。と、散会後の寝室で頭を撫でてくれた、その気遣いが母にできる最良のことだった、に違いない。わたしの悪いところが遺伝しちゃったんだ。でも安心して、良いところもちゃんと伝えてやったつもりだからね。とは実務的な才覚を謂っていたのだろう、おそらくは。一代で台北最大級のエレクトロニクス企業の社長となり、同じく台湾の大手出版業の社長と結婚して裕福な家庭を築いた母の如才なさは、私にも受け継がれているのだろう。
あの後、私は自己表現めいた一切を捨てた。音楽、文学、舞踏、演劇、服飾、いわゆる藝術的創造性の発揮を必要とする場に居合わせないことを旨とした。それで何の問題もなかった、両親いずれも大企業の社長として生を受けた娘の創造性など、誰にとっても煩いものには違いないだろうから。誰も私を切って開こうとはしなかったし、私も一生このまま貝のようでありたいと思った。
そんな私が。いやあね、でもこうして実際にお会いしてみると、想像よりずっと奥ゆかしい方ですねえ。なぜこんな場に居合わせているのか。いやわかっている、大学卒業を控えての懇親会だ。といっても多くの学生に開かれているわけではなく、卒業後に親の会社への重役就任が確定している子息たちや、留学先のシリコンバレーで知り合わざるを得なかった英語圏の人々を招いての会合。つまり有り体に言ってしまえば、箔をつけるために最高学府に送り込まれた温室育ちの若者たちの社交場。ありがとうございます、と最小限の返答だけしておけばいい、はずなのだ。専攻は経営学でしたか。はい。東アジアは国際的な市場として力を強めていますからね、頑張っていただかないと。はい。頑張るって何をだろう、母のような辣腕の発揮をか。しかしそんなこと、本当に望まれているか。一〇年前までは確固たるものだった垂直分業の構造も揺らぎ、その反動として遊撃隊のような複合業種が生まれては消えている昨今にあっては、むしろ母を社長とする竹林電脳のような川上部門は、新進にとって目の敵なのではないか。
立食の時間が終わり、少人数での晩餐に移る。ああ、居合わせたくなかったな。あの半導体生産業の子息だ。最初から答えのわかりきった問いを投げて、自分だけがそれに満点の答えを出せていると、会うたびに露骨な自己演出を見せつけてくる彼。話したくないな。しかし大学が同じという都合上、他人として振る舞うわけにもいかない。
蔡さんも、ドローン以降のサイバネティクス市場の急進ぶりにはご注目なさっていると思いますが……と前提から優位に立ちたがる彼の話題を、ええ、一応は、と躱す、こともできず、しかし軍事的に使用可能なテクノロジーを取り扱うにあたって、一般市民の感情的な抵抗に遭うのは必至でしょう。では我が国が、AIやドローンの市場に参与するにあたって、どのようにして倫理的障壁を和らげるべきだと思いますか。と、うんざりするような硬直した問いを投げられる。「軍事的に使用可能」も何も、最初から軍事目的だろう。監視や算用や攻撃を、できるだけ生身の罪悪感なしに行おうとする倒錯だろう。じゃなきゃあれらの研究分野に莫大な予算が投入されていることの説明がつかない。自分の手を汚さずに済ませるテクノロジー、その出来を競って椅子取りゲームに終始しているわけだろう、今のあなたの問いだってそういうことだ。などと言えるはずがなく、ええと、ちょっと私の専門外ですので……と語尾を濁すと、またぞろ鬼の首でも取ったように、そうですよ、蔡さんは現社長の箱入娘なのですから、このような話題には適しません。と、向かいの席の別の男が言う。もはや無礼だとすら思わないのだろうな、この言い草が許される場で育ってきたのだろうな。そうだね、と隣の席の彼が一息置き、それでは話題を変えようか、きみが一番よく知っているはずの、台北におけるエレクトロニクスについて。とまた仕切り始める。はい。エレクトロニクス産業を振興するにおいて、やはり中華民国のプレゼンスは無視できない。これから世界は東アジアの底力を思い知ることになるわけで、我々も余すことなくその技量を発揮しなければならないわけです。そこで訊きますが、あなたが世界を視野に入れて、これだけは台北にしか担えない! と思える強みはありますか?
わかりません。
えっ?
私にはもう、何もわかりません。
沈黙。
何なんだこいつらは。エレクトロニクス、企業、東アジア、中国、台北、世界、と。その無闇に大きい言い方は何なんだ。そんな言い方で何が言えるんだ、ctrとAのキーを同時に押して、それですべて見遥かしたつもりか。そもそもすべてって何だ。そんな簡単にひとまとめにできるものか。そんなんで世界を云々するつもりか、全体を見たつもりなのか。どうして個物に目を向けないのか。なぜ個物の軋り呻きを、まさに音を立てているその場で聴こうとしないのか。
ひとつだけわかるとしたら、と唇を開いた瞬間、頭の中で線が切れるような音がした気がするが、構いはしない。私にはこの管理経営が早々に破綻するとしか思えません。台北のみならず世界的に、あらゆる生産業で目下の犠牲となっているのは輸送業です。それも非正規雇用の、組合もなく保護を受けられない労働者が信じがたい境遇で使われています。我々の生産物がいかに大層なものであれ、その品をカスタマーに届けるための労働環境が劣悪なまま等閑に付されているとあっては、我々自身も早晩に足元から崩れ去ることになる、と思わざるを得ません。へ、へえ……それで、その問題を解決する方策は。まずは、輸送業のみならず、非正規雇用が多数を占める事業を財団化すべきです。複数の企業が労働者を登録し派遣するのではなく、直接雇用の数を増加させることが必須です。はは、そんなことをしては、労働者のための福祉や休暇手当でコストが……複数の企業に業務委託する経費に比べたら安いものです。加えて委託業者に付加している税までもが削減されるのだから、それらの費用を非正規雇用者の福祉に充当することは現実的にも可能ではありませんか。
言い終わると、まるで異星人でも見るような眼。そうだ、望まれてはいなかったんだ。あなたたちは最初から、私が何かを言えるとすら思っていなかったのだろう。藝術の才能と同様、私の意見など、もともと求められてさえいないこと。じゃあこれで仕舞わせてもらう。もういい加減、黙らせてほしい。
……と、母が言ってるのを聞きました。でも私には、一体何のことなのか、さっぱりわかりません。
じゃあ荷物そっちで、時間あるときにでも解いといて。玄関に靴を揃えながら、言われるままにキャリーバッグを靴箱前に横たえる。ベッドそこね、あたしがいないときは自由に使っていいから。まあほぼいないと思うけど。と笑いながら天井に取り付けられた小型のクローゼットを開く。マットレスもあるから、二人いる日はこっちで寝てもらうことになるかな。いいよね? との問いに、ああ、もちろん、と答える。
逃れたかった。とにかくどこかへ行きたかった、故郷以外ならどこでもよかった。論文も書きあがり、あとは卒業までの形式的な儀礼を残すのみとなれば、この機会をおいて他にありそうもなかった。それにしてもはるばる韓国までとは、野放図によく決めたものだと、我が身の行いが遅れて訝しくなった。初めて招かれる部屋の、自分とは異なる生活の痕跡が染み付いた塒の匂いがそうさせたのかもしれない。
台湾からだっけ。うん。どのへん? ていってもほぼ地理知らないけど。北の方だよ、信義区……大学は隣の大安区にあるけど。へー、学生さんか。うん、といっても年度末で卒業だよ。同居者、いや住まわせてもらうのだから世帯主ということになるのか、ともかく韓国滞在中の宿泊先として間取りを割いてくれた者は、あらゆる意味で私とは別種の人間に見えた。ホテルの個室に連泊するのも味気ないように思われて、Web上のルームシェアリング募集を検索してたどりついたのがこの部屋。龍山区ではなかなか見つからず、漢江をまたいだ永登浦区に一ヶ月滞在する成り行きとなった。
内装を見回すのも不躾に思え、室内を片付けるスポーツウェア姿の世帯主の背中をずっと見ている。と、ごめん換気扇回して、と言われるので、えっとスイッチは。とうろたえるようになり、そのキッチンの下の、右のほう。と言われるがままに押す。悪いね埃っぽくて、掃除くらい前もってやっときゃよかったなー。いや、気にしなくても。真冬に部屋の換気扇回すのもなかなかないよな、この国は初めて? うん。台湾と比べたら寒いんじゃないの。まあ確かに、もっと厚着してきたらよかったかも。と正直なところを言うと、ははっ、とくしゃみのような笑みが漏れた。
おーしこんなもんか。両手を腰に当てて室内を見回す、その姿が一八〇度向き直る。つーわけで、今日からここはあんたの部屋。じゃない、ここもあんたの部屋。あれ? 違うか、あんたもここの部屋、の住人。で、合ってるよね? うん。外国人に母国語の文法訊くなってね、あはは。と笑うのにつられて私の口角も上がってしまう。いいなーあたしも外国語できたらな、いろんな国旅して回れるんだろうなー。そう簡単でもないよ、どこにでも制約はあるものだし……そう? でも韓国語も英語も、あと日本語も? できるってすごいよな、やっぱ良いガッコー出てる人は違うなー。そんなんじゃないよ……そう、本当にそんなんじゃない。年頃の子なら夢中になるはずの何事にも無感覚なまま長じた自分には語学くらいしか残されていなかった、などと言えるわけもなかった。実はあたしの婚約者も語学やってるんだけどね、もしかしたら話あうかもしんないなー。えっ、婚約者。ああ、いつかそいつと一緒になるために頑張ってんだよ。とはにかむ姿で、室内が輝度を増したように思えた。そっ、か。
はい鍵。私の左手をとる暖かい指と、手のひらに当てられた冷たい鍵の感触が、ふいに微睡んでいた意識を澄ませた。あ、はい。とりあえずあたしは今夜帰らないから、この部屋全部好きに使っていいよ、冷蔵庫のもんも。火の始末だけは気ぃつけといて。事務的な説明で私を頷かせると、にいっと次の瞬間には笑顔に変わり、それじゃー着いて一発目のめしにしますかー。あたし一時間後に出るから、一緒につくっとくよ。と言う。ジャージャー麺でいい? とさっそく準備に取り掛かっている横顔を見ながら、うん、えっとそれくらい自分でやるよ、と通り一遍の返事をする。いいのいいの、おもてなしだよ。えーと……茉莉? と名前で呼ばれ、うん。と返すしかない。なんかすごいキレイな字だよね、どういう由来? 花の種類……ジャスミン。へえ、ジャスミンかあ。あれでしょ、お茶とかの。うん。じゃあジャスミンって呼んでいい? と言い出すので、いや、そんなキレイな呼び方……と慌てて取り下げる。もともとそういう意味なんだからいいじゃん。だめだよ、私には似合わない……自分の名前なのにー? じゃあ、ヤスミンでいい? なにそれ……全然変わってないし。いやこっちはヤスミン・アフマドっていう、あたしの好きなマレーシアの映画監督の名前。こっちならアジアっぽいからオッケーでしょ? とよくわからない理屈をこねる。よくはないけど……まあ、どうしてもそう呼びたいなら。やったー。じゃあよろしくねヤスミン、あたしのことは한나でいいよ。と言い終える頃には、もうジャージャー麺の盛り付けが済んでいた。
二人で1Rの床に座り込んでの夕食。その椅子座っていいよ。いや、한나が座りなよ。いいよすぐ済むし、あそうだシンクに浸けてる食器だけ洗っといてね。うん……一人暮らしなのに食器類がずいぶん多いね。最初のうちは同棲してたからなー。えっ、それって、婚約者さんと。うん、ただやっぱり大学が遠いってんであいつも部屋見つけてさ。そう、か……じゃあ私がいま使ってるこれも婚約者さんのもの……すごいんだよ、大学入った頃からすでに出版社と仕事しててさー、英語とかドイツ語とかの小説のアンソロジーに携わってた。へえ……外国文学の翻訳、か。実はうちの父親も出版社の社長で、などと言ったところで虚しくなるだけなのでやめた。だからあたしとは比べ物にならないくらい収入あって、お前もはやくいっぱしになれーってどやされてたんだよ。はは……ま、最近ではさすがにマシになってきたけどね。音楽の仕事……だっけ。丼から立つ湯気を吹きやりながら頷き、汝矣島で一番わかってる人たちが集まるスタジオでね。R&Bとかファンクとかヒップホップとかやる連中は、だいたいあそこに集まるんだよ。と言うとともにひとくち啜る。へえ、ヒップホップ……韓国にもあるんだ。と返した途端に箸が止まり、あるに決まってんじゃん。と短く言われた。う、うん、まあそうだよね、アメリカ発祥の音楽だけど、ロックとかもアジアのミュージシャンいるもんね。と付け加えてみても、한나の顔から渋味は去らなかった。あのさ……と言いながら丼を床に置く。あのさ、もしかして根本のとこわかってない? ヒップホップは世界的なムーヴメントなんだよ。アメリカがどうとかじゃなくて、二〇世紀の音楽史で一番でかい革命なんだよ! と急に大きくなった声に気圧され、え、そうなの、と呟くしかなくなる。そうだよ! ヒップホップの革命は、どこのいつの音楽でも好きに再編集して新しいものを生み出す、そんな創造性もありうるって証明したことだよ。つまり世界そのものが素材集で、どこから何を持ってきてもいいってこと! う、うん、そうなんだ。でも、やっぱりアメリカのヒップホップと比べるとさ、他の国のは、ほら何というか、違和感がないかな。違和感ー!? そっからか!! あ、まずい、いけないスイッチを押してしまった気がする。あのね、確かにヒップホップが生まれたのはアメリカ合衆国のブロンクスだよ。でもまさにムーヴメントが生まれてたその時、パーティを仕切ってたのは誰だったと思う? クール・ハーク、ジャマイカからの移民がDJをやってたんだ。生まれたてのヒップホップで使われたサウンドセットって、レゲエからの転用だったんだよ。だったらヒップホップは全部レゲエのパクリだってなる? ならないだろ! う、うん。それでも納得しないってんならまだ証拠がある。同じくヒップホップ草創期の最重要人物、アフリカ・バンバータってDJがいる。もしヒップホップがアメリカ黒人だけの文化だとしたら、そりゃもう全部ブラックミュージックだけで盛り上がってたはずだよね。違うんだよ。ドイツのクラフトワークとか日本のYMOとか、デジタルな機材を使ったテクノミュージックも混ぜてたの。なぜかって、生活のなかで見つけた面白いものを混ぜ合わせて楽しんでたから。ヒップホップは最初からそうなの。アメリカだけのものじゃない、最初から混ざってんの! だから世界中でどこの誰がやってもそれはヒップホップなの!! と、ほとんど鼻と鼻がくっつきそうな距離で捲し立てる。わ、わかった、わかったよ。下手なことしたな、深追いすべきじゃなかった。そもそも私なんかが音楽とその文化を云々できるわけがないのに……と、後悔のあまり沈黙を流していることに気づき、いやに気まずくなったので、ごめんほらジャージャー麺食べなよ伸びるでしょ、と床の丼を持ち上げようとすると、それより先に한나は立ち上がり、椅子に腰掛けて何やら端末を操作し始めた。まずい機嫌を損ねすぎたか、と固まっていると、スピーカーからピアノの音が。どう反応したらいいのか戸惑っていると、ドンドンとドラムのような音、に続き、おそらくラップと呼ばれるのであろう歌唱法の男性ボーカルが流れ始めた。中国語で。
えっ。
にいっ、と左頬を綻ばせ、腰をかがめて丼を持ち上げ、椅子に座ったまま端末の画面を見ている。
顏社所属のラッパー、蛋堡の『過程』。
台湾の、あんたの国のヒップホップだよ、ヤスミン。
その夜は、한나が書き残していった「とりあえずこれだけは聴いておけベスト一〇選」を聴くことに費やした。驚いたのは、英語はもちろんハングルや漢字、さらにサンスクリット語源東南アジア諸語にいたるまで、あらゆる国のヒップホップが揃っていたことだ。なるほどその選曲は、アメリカのヒップホップだけが真正で他の国のものは違和感があるという先入観を払拭してあまりあるものだった。それにしても、この顏社という名のヒップホップレーベル……まさかこんな人たちが私の生まれ故郷に存在していたとは。単なる素人の感想だけども、彼らの楽曲は他の国のそれにも増してメロディというか、叙情の肌理が細やかな気がする。ベッドに寝そべりながらコンピレーションをリピートしていると、心身両方の硬化したところが解きほぐされていくようだった。韓国で過ごす最初の夜から、思わぬ特別講義を受けてしまったな。そして한나の熱弁と選曲が分け与えてくれた教養は、ほかならぬわたしじしんの、だいがくでつちかったににもかふわからわず……
あ。
え、朝。うわ昼前。寝落ちしちゃったのか、しかもオーディオつけっぱなしで。いくら旅路で疲れて寝不足だったとはいえ、初日から電気代の無駄遣いを……あっそうだ食器まだ洗ってない。
お昼どうしよう、自分で作らなきゃ。でも何から手をつけたらいいのか、自炊なんて一度もしたことないのに。ああーどうしようジャージャー麺でいいかな……と思っていると、スマートフォンに通知。見ると、連絡用のWeChatアカウントに「夕方には帰るからゆっくりしといて」と한나からのメッセージが。ゆっくり、か。仕方ない、さすがに全部賄ってもらうわけにもいかないし、とりあえず一週間分の食料は買ってこよう。
お帰り。ただいまー、おっいい匂い。とぱたぱた音を立てて駆け寄ってくる。닭개장かー、スーパーで材料買ってきたの。うん、うまくできてるかはわかんないけどね……材料刻んで煮るだけだから失敗するほうが難しいよー、と笑いながらコートを脱ぎ捨てる。ちゃんとハンガーに掛けなよ。いいよまたすぐ着るし。あ、これからすぐ仕事。と訊くと、いやそういうわけじゃない、とだけ答える。ねえそれあたしのぶんもあんの。もちろん、二〜三人分って書いてあるから。よーしじゃあめしにしますかー。
どうだった昨日のリスト。うん、まだ全部は聴けてないけど、あの顏社のはすごくよかった。でしょー、ジャジーヒップホップのいいとこしか詰まってないっていうか、あのバランスって世界でもあんま聴かないんだよねー。そうなの。うん、コードのボイシングとか演奏のアクセントの位置とか複雑すぎてさ、ちょっと聴いてて疲れるなーってのが多いの。それと比べると顏社のバランスはほんと絶妙だよ。そうなんだ……専門用語はよくわからないけど。
で、今夜はどうするの。仕事、ではないって言ってたけど。と訊くと、うん、そろそろ出た方がいいな。と時計を確認しながら立ち上がる。出掛けるの。仕事ではないけど、ね。毎週土曜に集まる場所があるから。と言いながらコートを羽織るので、クラブとかパーティとかかな、と思っていると、座ったままの私の目を覗き込み、そうだヤスミンも行く? せっかく卒業旅行で韓国まで来たんだもん、いい刺激になるかもよ。と言う。いやそんな私なんか場違いだよ、と即座に謝絶すると、いつのまにかクローゼットから小さな箱が取り出されていた。その中にはうっすら朱色の、細長い棒状のものが。えっ、何しにいくの、遊びにいくんじゃないの? と呆けたように言う私を前にして、한나は静かに首を横に振り、しかし微笑は絶やさずにこう言った。
ちょっと火を灯しに。
汝矣島駅から鷺梁津で京釜線に乗り換え、わずか三駅またぎで龍山区のソウル駅に到着する。こっち、と手を引かれながらも、私は周囲の人々が何か特異な指向性に突き動かされているのを感じていた。これって……そうだよ、午後六時から光化門広場でメイン行事。と正面を向きながら話す한나に、光化門広場って……たしか、抗議行動? 去年の一二月には一六〇万人集まったとか、ニュースで見たけど……と周囲の人混みに切り離されないよう袖を掴みながら言うと、一二月にはっていうか、毎週やってるよ。と返事が。毎週。そう、去年の一〇月末から毎週ね。毎週……大統領の退陣を求めるためだけに? そうだよ。
駅舎を出て北に進むと、すでに数え切れないほどの市民で溢れていた。二月の空の宵闇に、人々の持ち寄った灯火が、点々と、しかし確固として線と結びうるような密度で仄めいていた。主立った参加者は安全な電灯のキャンドルライトを持参し、直接点火する場合でもプラスチックカップの保護で火事を防ぐ工夫がなされていた。そして人々が掲げるプラカードは、朴槿恵とセヌリ党に退陣を求めるメッセージが大書されたものはもちろんのこと、どこかファンシーな書体のハングルでユーモア混じりに集会を鼓舞するようなものも目立っていた。そして私自身も今、その只中にいる。キャンドル抗議行動。ニュース番組の一部でしか見知っていなかった、あのデモンストレーションに立ち会っている。
午後六時前、光化門広場に設けられたステージでは、ハンドマイクを握った女性がスピーチを行っていた。みなさんね、ちょっとわたしの話も聞いてくださいな。わたしぁね、恩平で食堂を営んどるんですけども、食堂ってのは土曜が一番忙しいですよね、稼ぎどきなんですよ。市井の人らしい言葉選びと話し方でも、その語り口には寒空の下集まった群衆の耳を攲てる何かが備わっていた。だから食堂に戻って働いてろって話なんですけどね、と一呼吸おいて周囲の笑いを誘ったのち、でも、でもこの国をね、こんな有様で子どもたちに譲り渡すわけにはいかないと思ってね、こうしてやって来ましたよ! と言うと同時に、群衆から賛意を示す声が上がった。
ねえ한나。うん? これ、誰が集めてるの。誰がってそりゃデモの主催団体だけど、見ての通り集まってる市民は一枚岩じゃないよ。まあ、ね……ずいぶんとぼけた名前の看板もあるし……でもさ、ああして壇上でスピーチしてる人は。あれもただの市民だよ、フェスじゃあるまいし、タイムテーブルなんか決まってない。ってことは、本当に言いたいことがあってここに来た、ってこと……当たり前じゃん、抗議行動なんだから。
当たり前、なんだろうか。一市民として暮らしているだけの人が、祖国の危機と聞きつけて広場に集まる、それはまるでギリシアの──そうだ、民主主義の語源はそもそも、人民の支配──
ごめんこれ持ってて。え。한나の握っていたキャンドルライトが渡される。ありがとうございました、さあ次にマイク握る方、おられませんか。言いたいことがある人は。と、気がつくと壇上のスピーチも終わっている。あれ、한나、どこ。と前方を見ると、おー『Sister Blaster』! やっぱ来てたのか! おいちょっと道開けてやって! すいませんありがとうございますー、と穏健に人々の間を通り抜けて壇上の人となっていた。ちょっと、한나。と気後れする私をよそに、彼女はマイクを握り、咳払いひとつ、口を開いた。
Wassup! 今週もみんな元気そうだね! 初めて見る顔ばっかだから挨拶しとく、漢江のほとり汝矣島から来ました허한나です! とにこやかに話し始めると、知ってるよー、待ってたぞー、と合いの手がいくつか上がる。ああ、やっぱり壇上で話すのは初めてじゃないのか。他にマイク握りたい人もいるだろうから、今日も手短に。こうしてデモに出てくるのが初めてだって人も、この中にはいると思う。怖い思いするんじゃないかな、興味はあるけど家にいたほうが安全じゃないかなって、そんな不安を抱いて来た人もいると思うんだ。でも、あたしはできるだけシンプルにいきたい。あたしたちがここに集まった目的、大統領への国会の弾劾案発議を求めるために、暴力や恫喝なんかは要らない。じゃあ必要なのは何か? あたしたちが生きるための場所を、あたしたちの手で作り出す、その連帯と友愛の念だと思うんだ。と言い切ったのち一呼吸が置かれ、周囲の人々は黙して頷く。言わば、あたしたちは住居を共にする家族だ。しかし、どうも最近キッチンの調子がおかしい。ときどきガスが漏れたり、冷凍庫の氷が溶けたり、キッチンの設備が不安定らしい。そうだろ? ジェスチャーを交えながら話す한나に笑みを向ける聴衆。いいか、与党なんてのは電化製品と同じだ。ボロくなってガタが来たら、買い換えていいんだ。もちろんそれは高くつくし、新しい機械の使い方も覚えなきゃいけない。でも機械が故障したまま放置したなら、いつ火事になるかわかったもんじゃない。家ごとこんがり焼けちまわないように、捨てるべきものを捨て、新しいものに替えるべきなんだ。それがあたしら、同じ家で暮らす家族が共同で取り組むべき仕事だ。そうだろ? と応答を求める声に、そうだ! の声が波のように伝わる。これはソウルのやつらだけじゃない、この国で生まれ育ったすべての人に関わることなんだ。そうだろ? の呼びかけにも、そうだ! の声が応える。主権者は誰だ? と問うと、国民だ! と応える。主権者は誰だ? とふたたび問うと、国民だ! と先程よりも大きな声が応える。ところで、この中に大邱出身のやついるか? と唐突に話題を変えた한나にも、聴衆は笑い混じりに手を挙げる。おお、やっぱりいるな。ひとつ言っとくが、あんたらのとこのフライドチキンは最高だ! 歓声が口笛混じりに鳴り響く。本当に美味いよな大邱のチキンは。でも、毎日ちゃんとチキンを揚げるには、安全に油を熱するキッチンの存在が不可欠だ。No chicken without kitchen だし No Seoul without soul なんだ y’know I’m sayin’? これはみんなの生活に直接関係あることだ。あたしには聞こえる、新しいキッチンの音が聞こえる。それは今日ここに集まってくれたみんなの声だ。あたしには聞こえる、新しいキッチンでチキンが揚がる音が聞こえる。それはこれからみんなで挙げる変革の声だ。だからさ、みんなでやろうぜ。みんなで掃除しようぜ。溜まり溜まって腐りきった油汚れを落として、まずい事故起こしそうな機械捨てて、みんなで綺麗にしたキッチンで美味いメシ喰おうぜ! あたしたちが作る料理の名前は「ソウルの市民民主主義」だ y'know what I mean!? と叫ぶと、広場を貫く大歓声が上がった。主権者は誰だ? と問うと、国民だ! と応える。主権者は誰だ? とふたたび問うと、国民だ! と聴衆も壇上も一丸となって応える。その通りだ、だからみんなで変えようぜ、みんなで考えようぜ。京畿道、One Love! 江原道、One Love! 忠清北・南道、One Love! 慶尚北・南道、One Love! 全羅北・南道、One Love! 済州道、One Love! みんなで作ろうぜ。今や世界がこのデモに注目してる。そもそもキャンドルデモは一五年前、二人の少女が酷い事故の犠牲になったことへの抗議として始められたものだ。何度だって声を上げよう。あたしらの生活を、あたしらの手で、何度だって立て直してやろうぜ。民主主義は何も白人の専売特許じゃないってことを思い知らせてやろうぜ。 Power to the people! ありがとう、허한나でした!
演説が終わるとともに波濤のような歓声が響き渡り、海嘯のような拍手がそれに続いた。握っていたマイクを離し、片方の手の親指と人差指でハートをつくり、ふたたび群衆の間をかき分けながら한나は戻ってきた。おつかれ、と呟く自分の声のなんと間抜けに聞こえることか。ありがと持っててくれて。と言いながらキャンドルライトを取る。ねえ한나、あの演説って全部考えて……と訊こうとすると、しいっ、と人差指を唇に押し当てている。えっ、と思っているとすぐに人差指が壇上へ向けられる。あ、次の登壇者の話を聞けということか、さっき한나のを聞いていたように。それはそうだ、当然のことだ。
午後六時に予定されていた集会が予定通りに終わると、引き続き複数のルートで抗議の声を挙げる、都心行進のフェーズへと移った。デモ隊の中には、抗議のメッセージではなく太極旗を掲げている者もいる。あれって、保守派の団体なんじゃ……そうかもね。衝突になるのではと不安にかられたが、都心行進は徹底してアジテーションが抑えられ、今回の抗議行動の枢要である「大統領の憲法違反行為の弾劾」にのみフォーカスが絞られていた。国民主権、そうか。言ってみれば初等教育で習う概念だ、しかしそれだけのことを、これだけ実際的に、具体的に、文字通りに行うことができるとは。
午後七時を回り、増え続ける参加者と対峙する警官隊の姿を窺いながら、これ、放水車とか出るんじゃないか……とつい弱気が漏れてしまう。しかし한나は怯みもせず、放水車? あるわけないよ、消火栓止まってるし。と事も無げに言った。えっ。去年、警察がデモ鎮圧のために消火栓から放水してるって話が出て、その水は火災鎮圧のためだからって供給止めたんだよ。止めたって、市が……? そりゃ消防災難本部はソウル市の傘下機関だもん、言うこと聞くに決まってるっしょ。市が、市民の抗議行動のフェアネスのために計らう……そんなことが? いや、これは「行政区とは市民を登記し捕獲するものだ」と勝手に内面化している者にとってのみ衝撃的なだけなのかもしれない。ソウル市は、大統領や腐敗した与党の内情の忖度よりも、この地で生活する市民の抵抗権をこそ尊重している……
とすれば、これは。
デモスのクラティアそのものではないか。
一ヶ月後、西暦二〇一七年三月一〇日。大韓民国憲法裁判所は、大統領への弾劾を全員一致で妥当とし、朴槿恵は大統領職を罷免された。
今になっても思い出す、あの広場に集まった市民たちの、知性とユーモアに裏打ちされた政治的鳴動を。そして強靭なデモスを生み育てた、ソウルという土地の精神を。
そう、市民たちの力、だけではない。勝たせたのはこの街だ。この街が勝たせた。
短い間だったけど、ちゃんとおもてなしできたかなあ。と笑う한나の隣で、もちろん、と短く応える私は、恥じていた。何を。いつまでも客人でいることしかできない自分自身を。
台湾へと帰る前日に、한나の生まれ育った場所を訪れる成り行きとなった。彼女自身が一日休みをとって帰省するということで、私も伴うことにしたのだった。한나のご両親って……父ちゃんがだいぶ前に入隊中の事故で死んで、それで母ちゃんもちょっと具合悪くしちゃって入院中。そうなの、ごめん訊いて……いいよ、よくあることだよ。ただ母ちゃんの手じゃ育てられないなってことで、地元の教会の孤児院に引き取られて。孤児院……前に話した婚約者とだって、そこで会ったんだよ。そうなのか……生まれも育ちも両親とともに、しかも潤沢な経済的余裕を脅かされずに過ごした私などには、一言も差し挟む余地があるとは思われなかった。
が。
その孤児院、純福音派教会の名が掲げられた施設の前で待ち合わせた、한나の婚約者。と名乗る人物が、えっと、その、どう見ても女性だったことについては、さすがに私にも何らかの発言が許されるかと思われた。
한나、そいつ? ルームシェアとかなんとか。そうそう、紹介するよ、台北から来たヤスミン……本名なんだっけ? ヤスミンでいいよね。ヤスミン、こいつが김션윈、あたしの婚約者。なんでまたルームシェア募集なんか。だってシャワールーム使うの以外では一週間に一回帰るかどうかだったもん、人がいないといろいろ心配じゃん? あんたの部屋に盗むものなんかありますかって。泥棒とかじゃなくてさー人が生活してない部屋の匂いってあるじゃん、あれがいやでさー、と雑談を交わす二人の間に、ちょっと、いいですか。と割って入る勇気が自分にあったとは。なに。あの、김션윈、씨……遅れて씨とかつけなくていいよ、ヤスミン、씨。と腕組みしたまま皮肉げに言う。は、はい……あの、女性名、ですよね。女性名だし、現にこうして女性ですけど。と傲然と応える相手に背を向け、で、허한나……うん。ごめん、一ヶ月間部屋にいたけど、きみはずっと留守がちだったし、もちろん一緒にシャワールームに入ったこともなかったし……あってたまるか。との声が背中に刺さるが、意に介さず続ける。だから、だから気づかなかったよ。婚約者がいるって話だったけど……きみ、きみ男の子だったのか!
えっ? と한나。
えっ? と私。
何それ、ダサっ! と噴き出したのは션윈だった。
女性同士で、って発想すらない環境で育ったんだろうね、とても二一世紀人とは思えないおめでたさだわ。と揶揄う션윈に返す言葉もない。実際にそうなのだ、何も知らずに育ったのだ。自分の外にある世界の、文化も営みもその変動も、何も知らずに。と気が塞いでいたせいで、でも寂しくなるなあ、ここもなくなるなんて。という한나の一言も聞き逃すところだった。えっ、なくなるって。ん、前からだいぶ困難とは聞いてたんだけどね。でも、ここの牧師がやらかしちゃった一件のせいで、もう閉鎖が決まったらしい。やらかしたって……ま、やらかしたとしか言いようがないわありゃ。と션윈も呆れ混じりに言うので、深追いはしないことにする。でも、建物としては何も問題ないように見えるけど……そうなんだけどね、宗教法人が使ってた物件だからおいそれと買い手はつかないだろう、って言ってたよ園長。え、その園長さんは別にいるの。うん、教会が金出して民間の業者に委託してただけだからね。ということは、金さえあれば、ってこと。え?
한나。なに? その園長さんと、連絡とってくれないかな。なんで? なんとか……できるかも。この孤児院運営のための出費を、教会でなく他の誰かが引き受けたら存続できる、ってことでしょう。たぶん。私が出す。え? は? 私の……えっと、父は、慈善事業にも積極的に出資してるから、おそらく出せるはず。マジか! うわーほんとヤスミン、それアリなの? 한나にはお世話になったから、恩返しがしたい……いいかな? いいに決まってるよ! うわーちょっと待ってて、いま事務所いるはずだから呼んでくる!
と駆け出す한나、の背中を見つめる私、の背中に突き刺さる視線。もう何を言われるかは、わかっていた。
あのさ、自己満足ならやめてくれない? 氷塊が伝うような感覚が背筋に走る。ボンボンの娘さんがさ、何を勘違いしたのか知らないけどさ。あんたのちっぽけな博愛精神を満たすためのネタに、あたしたちを使わないでほしいんだけど。だいたい何、父親が、って。自分の金ですらないのかよ。私のパパは大金持ちなので貧しいあなたたちを救ってあげられます、ってか。どんだけ思い上がってんだよ。何不自由なく育った金持ちがさ、その金であたしたちみたいな育ちの悪いガキどもにおまんま喰わせてあげますって、それさ、侮辱どころの話じゃないよ。ナメてんだろ。金さえやりゃ簡単になびくと思ってんだろ。そうやってどんな問題も解決してきたろ、お前らみたいなもんは。おい、こっち向けよ。なんとか言えよ、お嬢様。
振り返る。相対する者の剣幕を正面から見据える。そうだよ。ぴく、と片眉が動くのが見えた。自己満足じゃない、なんて言えない。きみが言ったことはすべて正しい。そうだ、私が与えられるものといったら金しかない、それも親から相続したぶんの。でも……だから何だ。怨悪に吊り上がっていた션윈の両眼が円く見開かれた。金しかないからって、それが何だ。少なくとも私は、他の誰かにそれを正しく使ってほしい。孤児院に存続してほしいからって金を出すのが、それが悪か。自分は藝術家になれないから藝術家のために出資するパトロンがいるからといって、それが悪か。オペラを上演してほしい、映画を作ってほしい、肖像画を描いてほしいコンサートホールを造ってほしい墓を建てほしいって自分以外の誰かに金を出すことが、それが悪なのか。私はただ、한나が今日こうやって生きているように他の誰かにも生きてほしいって、そのための場所があってほしいって、それだけのために金を出すんだ。それが嫌ならそう言えよ、それが悪ならそう言え。そしたら私も何もしない、自分が安穏に暮らすためだけに金を使うさ。それできみは満足なんだろう。この孤児院が無かったせいで誰かが路頭に迷うことが、きみにとっては正しいことなんだろう。だったらそう言えよ、自分だけ何の負い目も無いみたいな顔して。きみだって誰かに助けられて育ったくせに、なんとか言えよ、お嬢様!
言い終わるのと、한나が園長さんを連れて帰ってきたのがほぼ同時だったらしく、私と션윈が対峙している姿が遠巻きに眺められる、はめになる。えと、なんか、あったの。と不審がって小声になる婚約者に対して、션윈はくすっと笑い、私の方を親指で差した。なかなか言うじゃん、こいつ。気に入った。
うん、そういうこと。そうだね。ははっ、そうかも。うん……ごめんなさい。ありがとう。でさ……憶えてるかな、母さん。一〇年くらい前に、重陽の節句の……そう。いや、謝らないで。本当に似てると思うよ、私は、母さんに。うんざりするくらいに……だから、ってわけじゃないけど、この道を選んだのも、たぶん関係があるんだと思うの。母さんができなかったことを、私がしてみたら……じゃない、してみたい、できるようになりたい、って。多分これが、私から母さんへの、最初で最後のわがまま……だと、思う。うん。ははっ、そうだね、遅すぎるよね。あははは。うん……いや、こちらこそごめん。でも、私も気付かなかった、こうして自分の意志で外に出てみなかったら……何事も、そうだね。うん。ありがとう。父さんにも伝えておいて、何も心配いらないって。何より、私はあなたの娘ですって。でしょ? 母さん、本当にそうでしょ? ぶっ、あははは、これからはこういう冗談も言えなきゃいけないんだよ。うん。わかった、かならず連絡する。え? ああ、最終的に、か……何事にも最後なんてものは無いと思うけど……あるよ。ひとつある。母さん、私ね。詩が書けるようになりたいんだ。
四月から二年の就労ビザを取り、韓国での語学教師としての日々が始まった。交通の利便性を考えて龍山区に部屋をとったため、汝矣島の한나とはやや距離があるが、連絡を欠かしたことは一日もなかった。音楽を教えてほしい。あなたが持っているすべてのことを、私に学び取らせてほしい。もちろん한나は屈託なく応えてくれた。R&B、ファンク、ヒップホップ、彼女が愛する音楽をキャプション付きで受け取り、その精髄を身につけようとした。しかし한나の専門技術はすべて独学によるものらしく、作曲や歌唱に関しては私程度の底の浅さでは話にもならなかった。ボーカルのレッスンに通い、音楽理論の教本も買ってみたが、なかなか身体に馴染んでくれない。当たり前だ、練習もせずに上手くなるものか。日々の生計をこなしながら少しでも芸事を身につけようと足掻く私の扼腕に、毎日届く한나からの叱咤──に頃合いを見計ったかのように紛れる션윈の毒舌──は、こよなき滋養のように感じられた。
いつのまにか一年が経ち、久しぶりに汝矣島のスタジオに遊びに行った際、二人でユニットを組んだらどうだ、とチーフプロデューサーから提案された。私にとっては願ってもないことだったけれど、一番の不安事は、한나の作った楽曲に私がついていけるかどうかだった。まずはコンセプトから決めることだな、との助言を受け取った私たちは、한나の部屋で夜通し作戦会議の成り行きとなった。
ヒップホップ、は한나の持ち場だから、私が入る余地ないもんね……もちろん、それ一本でやる気はないよ。いま考えてるのはさ、ヒップホップとシンセポップの融合。シンセ……八〇年代とかの? そうそう、人によってはニューウェーヴとも言うんだろうけど、ここはシンセポップのほうが的確かな。なんでその二つなの。だって、ヒップホップと八〇年代シンセポップってどっちも「素人の音楽」なんだよ。え……? ヒップホップに関してはなんとなくわかるけど。たとえば、シンセポップのキーボーディストのフレーズって一本指で弾けるじゃん。ああ、デペッシュ・モードみたいな? そうそうそう。ピアノって本来左手でベースを、右手でハーモニーを演奏するじゃん。そうやってコード感を保持しなきゃいけないのに、シンセポップでは指一本でテンッ、テンテテッテテッテンッテンッて単音のフレーズをループさせる。なぜなら素人だから。まあね……そのイズムはヒップホップでも同じなんだよ。ブギー・ダウン・プロダクションの『The Bridge Is Over』は聴いたでしょ? えっと……あ、なんかすっごいヨレヨレしたピアノ。あれKRSワン本人がスタジオのピアノ使って弾いたんだよ。確かにヨレてるんだけど、あれが独特の味になってる。そういう意味でヒップホップとシンセポップは同じ「素人の音楽」。なるほど……そしたら、私みたいな未熟者にも参与する余地がある……か。とりあえず、このコンセプトで何曲か作ってみるよ。
锡鼓という、Japanのアルバムから名を採ったプロジェクトは、作曲からレコーディングまですべて한나と私の共同で行われた。ヒップホップ meets 八〇年代シンセポップ。スキル偏重の時代において「素人の音楽」をブレイクスルーの糸口として見出さんとする私たちの目論見は、さしあたっては奏功したと言えるのだろう。練習と制作に半年をかけ、パフォーマンスのクオリティも定まったところで発表した第一集は、Webジンで高評価を得、配信販売やサブスクリプションによる収益もそれなりに上がった。何よりχορόςという、韓国を含む全世界で展開される音楽コンペティションの出場者としてリクルートされた事実は、少なからず私の自尊心を満たしてくれた。
しかし、真の陥穽はその先に待ち受けていた。汝矣島予選、ソウル市大会、と順調に勝ち上がったはいいものの、よりによって韓国代表決定戦の前日にインフルエンザを発症した私は、锡鼓のクルーとしてステージに上がることが不可能となった。代表者登録は私の名ではなかったので棄権にはならなかったが、한나のソロパフォーマンスだけで並いる競合者を抑え優勝することができた事実は、インフルエンザによる高熱よりも重篤な何かを、私の裡に残した。
うん、もう下がりはじめたから大丈夫。でもまだ保菌者だから自宅謹慎だけど、来週には会いに行くから。うん、おめでとう、本当に。
スタジオの皆と一緒に撮影したセルフィーを、なにか遠い風景画のように見ながら、ふいに捨て鉢のようになりスマートフォンをソファに投げる。代わりに、枕元の本棚から一冊取り出し、仰臥のまま頁を開く。なつかしい、成人祝いに父からもらった、東アジア近代文学選集のなかの一冊だ。とくに思い出深いこの短編、初読時にいわく言いがたい感興を残し、原語版も入手し、まさかここまで融通無碍な漢文体が日本人の作家によって成され得たとは、と詠嘆を漏らしつつ再読することとなった短編。中島敦の『悟浄歎異』、その頁を眼で追った。
まだまだ、俺は悟空からほとんど何ものをも学び取っておりはせぬ。流沙河の水を出てから、いったいどれほど進歩したか? 依然たる呉下の旧阿蒙ではないのか。この旅行における俺の役割にしたって、そうだ。平穏無事のときに悟空の行きすぎを引き留め、毎日の八戒の怠惰を戒めること。それだけではないか。何も積極的な役割がないのだ。俺みたいな者は、いつどこの世に生まれても、結局は、調節者、忠告者、観測者にとどまるのだろうか。けっして行動者にはなれないのだろうか?
お前は私だ。悟浄よ、私もこの通りの有様なのだ。허한나の、彼女の屈託ない人柄や、該博きわまる音楽の知識や、明視と情熱と鼓舞と連帯とを一挙に迸らせる弁舌の才能にあこがれてもなお、彼女の足元に及びもしないのだ。住居を韓国に移したところで、彼女が分け与えてくれたものを存分に吸収し得たとはとても言い難い。むしろ私は、一箇の自足した存在の周囲を回遊する衛星のようでしかありえないのでは、と思うこと頻りになった。回転している間だけ、独楽は立っていられる。한나は自らに巻かれる紐の筋道まですべて知り尽くした独楽だ。私はといえば、紐がどのような細工かも知らず、自らに刻まれてあるはずの窪みすら定かでなく、したがって紐を纏うことができず、回転という行為から自ずと見放される、そのような独楽であるかもしれない。한나が回転を止めて倒れることがあったとしても、出立すらままならず紐をこんがらせたまま横になっている私とは、全く異なった倒れ方をするに違いない。
ではどのようで、誰のようであればいいのだろう。行き場のない焦慮を燻らせながら、χορόςのYouTubeチャンネルを無為のまま渉猟していたところ、前大会優勝者のアーカイブにたどり着いた。Innuendo。ドレス姿で金髪翠眼の女性と、スーツ姿で銀髪碧眼の男性のように見える女性、その二人組によるパフォーマンスは、私にとって遠い国の御伽話のような非現実感と、しかし確固たる血肉をもった実在感の両方を与えた。未知の事柄をウィキペディアで検索せずにはいられない貧しい習慣に呆れながらも、エリザベス・エリオット、彼女の公開されている限りのプロフィールは眩さを覚えずして読めないものだった。マンチェスター大学で演劇と文学を専攻し、女性であるにもかかわらずシェイクスピア四大悲劇の主演をすべて成功裡に納め、そして音楽と舞踏の技術はローザスのケースマイケルから直接入団のオファーを受けるほど高い。さらにはネット上の噂話でしかないが、そのケースマイケルからの誘いも嘲笑混じりに撥ね付けたという……独立、自恃、不羈。エリザベス・エリオットの存在はいつしか、私に無いものを総て揃えた者として君臨していた。
では、私は。どうする。どうすればいい、居並ぶχορός出場者たちの中で、素人も同然の私が名乗りを上げるには。実力が足りていないなどわかりきったことだ、しかし、だからこそ、私だけの勝ち方を見出さねばならない。と、Yonah客室内のベッドに腰掛けながら沈思していると、どうしたの、と声がかかる。ああ、そうだ、私だけではなかった。私たちの、だった。いや、なんでもない。ただ、ずいぶん時間があるな、と思って。時間。頷いて立ち上がる。한나。うん。次の停泊地、日本には二四時間以内に到着するって聞いた。それまでに作ってみよう。曲を? ただの曲じゃなく、私たちはこれで勝ちにいくんだっていう、入魂の曲たちを。言うと、한나は船内の制作ブースを見回す。これだけ環境が整ってると、良くも悪くもプロっぽく聴こえちゃうかもしれないね……でも、うん、やってみよう。あたしたちでしかできない「素人の音楽」。
そして指は、おずおずと鍵盤を撫でる。この指が、私のでも한나のでもなく、锡鼓の指となってくれたなら。既存の価値を転ずる逆立ちの舞が、私たちの四肢に舞い降りてくれたなら。素人の脚が鍵盤を叩く。ぎこちなくおぼつかず、それだけに初山踏みの感悦に満ちた、恐れ知らずの素人が舞う。
11 ἴδιος κοινός
私は残る。は? 出場代表者は私で登録してるから、結果発表まで私が会場にいないと棄権になる。九三のことが心配なら、あなたはここを離れてもいい。搬送先の病院は訊いたから、今から向かってもいい。
えっと、なんでそんなに落ち着いてるんすか。そんなことはどうでもいい。よくないっすよ、ねえさんあんなことになったんすよ? いま私たちが思い煩ったところで、九三の容態が良くなるわけじゃないでしょう。だって、ねえさん死んでるかもしんない……それは医者が判断することで私たちの仕事じゃない。心配なら行っていいって言ったでしょう。いまこの場に、あなたはいなくてもいい。
……ああ、懐かしいな。いや、九三が死にかけるのが、でなく。他人からこうして殴られるなんて中学のとき以来、? いやちがう、私は常に殴る側だったな。殴られていたのは、いつも他の誰か。ということは、初めてなのか。初めて頬桁を殴られた。
なんすかその言いかたは!! この子のこんな顔は初めて見るな。あたし、はか、あんたがそんなん……ああもういいっすよ、じゃあ行ってきますよ、どこの病院っすか! あ、ええと、今からマップで送る。
あ。うん。……えっと、勝てたらしいっすね。ええ。なんつうか、こんな誇らしくない勝利があるなんて。まあね……九三の容態は。見ての通り、脈拍はあるっすよ。心臓は停まってないみたいす。脳波がどうとかいう説明もあったんすけど、あたしよくわかんなくて……そう。
丸椅子をもう一つ寄せ、伏せっている九三の横顔と、規則正しく拍を打っている計器の両方とを、漠と眺める。すんませんでした、さっき。傍らでイリチが呟く。はかるんの言い方も相当よくなかったとは思うすけど……さすがに手え出しちゃったのはまずかったって。気にしないでいい。あたし、誰かを殴ったの初めてで……けっこう怖いすね、殴られる側はもちろんっすけど、殴る側も。殴るのが怖い、か。私にも憶えがあるかな、もう十年以上前のことだからよく思い出せない……いや、二ヶ月前に久蔵を殴ったな。あのときはなぜそうしたのだったか、そうだ、彼がかつて九三にしたことの許し難さから。しかし数年前の行いをいきなり拳で報いられるとは、彼もびっくりしたことだろう。いま思えば悪いことをした……はかるん。何。あの、なんでそんな落ち着いてるんすかって思ってたすけど、そういや前にもあったんすよね、ねえさん。聞いてたの。はい、以前ちょっと話したときに、そんなはっきりは言ってなかったすけど。死にかけたね、自分で死のうとした。そんときも、側にいたんでしょ。黙って頷く。どんな感じでした、目の前の人がぐったりしてて、もとに戻るかもわかんなくて、そうなるのを止められなかった……って。とても言葉にできるようなものじゃないよ。そう、すよね。でもあのときも、九三の身体は踏みとどまった。だから、今回もそう。なんでそう信じられるんすか。私がそう信じてるから。……はは、そうっすね、それしかないっすね。身体は、かあ。実際、人間ってそう簡単に死ねるもんじゃないっすね。だと、思う。
じゃあ、と丸椅子を引く音。お願いします、ねえさんのこと……あたし、あした朝から動かなきゃいけないんで。タトゥーショップ、でしたっけ。そうす、あーもうせっかくの初タトゥーなのになー。もしχορόςで敗けたとしても胸張って彫りに行こーと思ってたすけど、まさか勝ったのにこんな気持ちになるなんて。ふふ。笑い事じゃないっすよもー。じゃあはかるん……ええ、任せて。はい。ほんとに、すんませんでした。私こそ、言葉が足りなかったから……あなたはいなくてもいい、というのは、そういう意味で言ったんじゃないから。わかってるっすよ。
痛かった? いや、初めての感覚だったんで痛くはないんすよ、でも二回目からは慣れてきて痛み感じるらしいすね。そういうものなの。あと彫る部位の肉の厚さにもよるらしいす、今回あたしは腕でしたけど、首筋とかだったらけっこー痛みあるのかも。知念さんはどうだった。ちぬんは別のとこで彫ってたんで途中経過きいただけっすけど、全然痛くなかったらしいすよ。なんかチャクラとか、瞑想のあれとか使ったんじゃないすかねー。ふふっ、完成は明日だっけ。そうす、明日もう半分終わらせるっす。あの……ねえさんは? 命に別状はないはずだって。脳死の心配もないらしいけど、今まで通りに目を覚まして意識を回復できるかは、そればかりはわからない、って。そうすか……あーもう、タトゥー途中経過の写真もインスタ載せたかったのになー、今めっちゃχορός関連のコメントばっかつきますもん。大丈夫か、やっちゃったな、とかいって。返信しちゃ駄目だよ。しないすよ、あそうだ、ニセキュウゾウから謝罪のメールみたいなの来ましたよあたしのほうに。無視しなさい。しますけど、あの子もかわいそうすねなんか……どこが? 自分でしたことの報いを受けただけ、九三も同じくね。ああ……ドッペルゲンガーに会ったら死んじゃうって、そういう意味なんすかね。それよりは、ナルシスの神話に近いと思うけど。ええ……? えっと、今から明後日のレコーディングの準備しなきゃなんでもう切るす。うん。はかるんはビデオ撮影のほうよろしくお願いしますね、予定通りやるっすよね? もちろん。じゃあ、衣装とか諸々よろしくっす。あのスーツすごい良いんすから、無駄にしちゃだめっすよ。そうね、もし九三が死んだとしたら、あれを喪服にしようかな。それ冗談だとしても笑えないすからー。はは、じゃあね。はい。
喪服、か。そういえば着たことがないな、葬式に参列したこと自体一度も。母の死に際してさえ、仕事が忙しいと遁辞を立てて、薄情者、それでも人間か、と北九州の親戚から罵られたのだった。娘か、ですらなく人間か、とは、相当な侮蔑だったのだろう。そしてそれは当然の報い。逃げてきたのだ、誰かが死にうるという事実から。私が殴り倒して、掻き抱いて、無下に扱って、眷み愛してきた人間の肉体は、あっけなくも果敢なくなる、という事実から。
九三、今あなたは何を考えてる。どうしたら、それを知ることができる。できない、できたとしても妄想になる。あなたの頭の中に這入ることなどできないし、そもそもあなたは頭だけで考える人じゃないから。それでも、徒事だと識っていても、ここで側にあることを許してほしい。他にどうしようもないのだから。後になって悔やむことだけはしたくないから。ああ、これを祈りと呼ぶのか。人類はずっとこれをやり続けてきたのか、明日動かなくなるかもしれない肉体を愛するのと同じように。
All aboard! と哭ぶイネスに続き、列車の先頭へと歩いていく。エル・パソからサン・ディエゴへ移動するためだけに列車を貸し切るなんて、やっぱ杜さん金あるな。いや、それともA-Primeって会社が出したのか。国際色豊かな客席の顔を通路両脇に見つつ、それでは出場者の皆様はこちらへどうぞ。と四七が先導する。
え、なんもないじゃん。さっきはやけに凝った内装の客席だったのに、列車の先頭に位置するこの部屋には、席どころか窓も手摺すらも無かった。呆けているわたしらをよそに、よし、じゃあみんな適当に座って。とイネスが言う。え。とうろたえる間もなくゾフィアは臀部を下ろして脚を伸ばし、イネスはどっかと胡座をかく。のに続いて锡鼓も腰を下ろすので、わたしらも座ることにする。Shamerockも不承不承に腰をかがめるが、Innuendoの二人だけは、座位となった一同を見下ろして立っていた。
どういうこと? どういうって、みんなで座って話そうってこと。椅子も用意せず客人を迎えるとは、ずいぶん野蛮な作法ね。いやこれが一番いいじゃん、ちゃんと掃除させたから床は汚れてないし。もしどうしても他より高い目線で座りたいってんなら、ウェンダに跪いて椅子になってもらいな。と言われたエリザベスも、さすがにその通りにするつもりはないらしく、大きく慨嘆を漏らしたのちに膝を折った。傍らに控えていたスーツ姿の女性もそれに続く。
じゃあ、χορόςラテンアメリカツアー参加者全員の初顔合わせってことで。にんまり笑うイネスから時計回りに、エリザベス、先程ウェンダと呼ばれてた人、한나、ヤスミン、姫、教授、漁火ちゃん、測、そしてわたしの隣にゾフィア。いつのまにか室内の一一人が円になって座り、その外側に四七が控えている。最終的にはこの中から優勝者を決めるわけだけど、まあカタくならずに楽しもう。もうルールについて質問は無いね? 簡単に言やぁ、良いライブやって観客に認められろってだけ。吾らが今までやってきたことだから簡単だろ? あれ、なんだ今の一人称。吾って言ったか。あのルール自体は吾が考えただけだから、こうしたらいいだろって案があれば持ってきたらいい。たださっき説明したように、それを通すにはグループ枠の投票で一位を獲る必要があるけどね。やっぱりだ、吾ってなってる。GILAffeの翻訳ミスかな。それとも彼女の一人称の使い方が独特すぎてああなってるだけ。よく言うわね、そもそも今回のツアーは実質的に、英国とDefiantの一騎打ち。その賑やかしとして呼ばれただけの三組には、もともと上位に喰い込む余地すら残されてはいないわ。とエリザベスが言うが、こっちの訳しっぷりもすごいな。そのうちおほほとかですわよとかごめんあそばせとか言いそう。そんなのは始めてみないとわかんないよー、と言いながらイネスはタバコに火をつける。あタバコじゃないわ、ジョイントか、ハッパ持ってきてたのか。テキサス州って合法なんだっけ。ぷかーと煙をふかすイネスの傍らで、ちょっと、やめていただけないかしらね、英国の目の前でそんな堕落した嗜癖は。と眉を顰めるエリザベスに、よく言うよ、と姫が差し挟む。ヴィクトリア女王も麻薬漬けだったろ、自分の国の歴史すら知らないのかこの女王陛下は。とやっつけられてもさすが悠然たる態度で、ギネスとスコッチで憂さを晴らすしかない国民の言うことは、さすが低きに流れるわね。英国はアルコール混じりの尿を路上に垂れることも、ハシシの煙を中空に吐き出すこともしない。真に自律した者はそのような悪癖とは無縁だわ。と返された姫も、機嫌を損ねたようですらない。ほとんど挨拶に近いんだろうな、この皮肉の投げ合いは。
さて、ここらで93に一言もらおうか。え、なんでいきなり。だってGILAffeの標準語で話せるわけだし。どうよ九三、決勝では色々あったって聞いたけど。あれはまあ、大したことないっすよ。でもあれだ、わたしらたぶん泡沫候補みたいな扱いなんでしょうけど、ナメてたら足下掬われますよ。ここに来るまでに相当新曲つくったんだから、ねえ? と한나に話題を振り、そうそう、第一公演が終わる頃にはハッキリしてるんじゃないかな、東アジアから来たあたしらがどれほどのもんか。あ、第一公演。二週間後のメキシコか、そこで93がオープニングだったな、とふいに思い出す。こっちだって引き摺り下ろす気満々で来たんですからねえ、とくに前回の優勝者さんとかを。にやつく한나の隣で、あべこべにヤスミンは青ざめる。さっきから片目の端でエリザベスの顔色を伺ってばかりいたが、そんな緊張してるのか。と眺めてるとき肩を叩かれる。吸う? とゾフィアが隣からジョイントを差し出す。え、いや、いいですよ。吸ったことないの? ないし、ちょっとバッド入ったら怖いなと思いまして……へんな心配するんだなあ、というかそんな話し方しなくてもいいよ、それ丁寧語ってやつでしょう? たしか私もイネスも九三年生まれだから、友達みたいに話したらいい。と笑うゾフィアに、Innuendoの二人もそうだよな、とイネスが付け加える。ああ、タメなのか。というかさっきから微動だにしないなあのウェンダって人。で、吸う? いやーいいですって。と両掌を立てて固辞すると、つれないなあ、と言わんばかりにゾフィアの唇にジョイントが挟まれた。
パシャ、という音が部屋の片隅から。いい感じに撮れた? と言うイネスに、はい、と微笑で返す四七。なに、この絵面を用意するためだったん? と訊く한나に、もちろん、歴史的な会談には集合写真が付き物だから。と煙を吐きながらゾフィアが笑う。もういいかしら? こんな茶番に付き合わされて、別個にギャラを請求したいくらいだわ。と起立するエリザベスに、いやあわかんないよ、今回のツアーが終わってこの写真見直したら、色々感慨深いかもよお。と言いながら画面を隣に向けるイネス。そのスマートフォンをわたしにパスするゾフィア。あほんとだ、よく撮れてるな、ちゃんと全員入ってるし。文字通り毛色の違うやつらが座って話してるだけの写真って、だいぶチルな感じで良いな。くだらない……それでは、ごめんあそばせ。あ言った、本当に言った。ウェンダを伴って辞去しようとするエリザベスに、あーちょっとまって陛下、とイネスが呼びかける。何? ここ出て次の車両はもう客室でございますよ。下々の者と交わる心意気をお持ちでしたら、そちらの扉からどうぞ。と恭しいイネスの言葉を受けて、エリザベスは踵を返し、さっきの通り座位に戻った。その様を見て姫が苦笑する。
一時間も経たずに、サン・ディエゴ港に到着。停泊していたYonahに乗船するわたしたちの姿を、列車に乗り合わせていたファンたちが見送る。いかがでしたか、初顔合わせの印象は。と四七が囁く。いやあみんな日本語で話してるのが未だに違和感あるっていうか、言葉が通じて便利だとか以前に気持ち悪さが先に立つというか、『高い城の男』の世界というか……ははっ、わからないでもありません。あのInnuendoとDefiantも、私たちと船内生活を共にするわけでしょう。と測が言う。ええもちろん。ただ93、锡鼓、Shamerockとはキャビンが離れていますけどね。そのあたりについては尾道にでも。いやお前の仕事だろ、船員主務だろ。もうワタシの仕事は終わったも同然ですよ、艦長と副艦長も着任しましたし。えっ、いつの間に。ワタシたちがセレモニーに向かってる最中に、ですかね。留守は尾道に任せていたので。元自衛官、だったよね。ええ、それぞれ艦長は岩走マキ、副艦長は大浦典午。日本人。もちろん。まあ自衛官ならそうだろうけど、なんでわざわざこの船に……もしご興味ございましたら艦長室にお越しください、直接話してくれるでしょうから。どのみちあの人たちの存在に誰も注意など払わないでしょうし。とやけに辛辣なことを言う四七との会話に、まあ、そんな暇はないと思うけどね。と測が釘を刺す。えっなに。あなた、まだ肝心の仕事が終わってないでしょう。ああ、そうだ作詞……うー二週間以内にけりつけなきゃなー、長いようで短いよなー。大丈夫、きっと何か閃くはず。と励まされても、ふたたび船内の客室に戻るとなると、不安ばかりが募るようだった。はやくもこの客船Yonahは、わたしにとって詞が書けない袋小路の実体化として感じられるようになっていたから。そうだ、キュウゾウを名乗り始める前もそうだったな、最初の一行ですら書けなくて……あの時期の自分、もう思い出すことすらできないな。いったいどうやって突破したんだったか……
朝、目を覚まし、やることがない、わけがない。顔を洗い、歯を磨き、枕にプレスされた髪を梳かす、のに時間をかけてもしょうがない、出かける予定もないのだし。あそうだこれからずっと船の中か、出掛けようにも手段がないな。このまま一行も書けないままだったら……と兆す予感を洗面台に流し、今日も始める。
もうミックスは大丈夫っすね。そうね、ライブ用にはこれが最適でしょう。PA機材どんな感じだろうねー。港に接岸してライブ会場にするって話だったから、かなり音が散る感じとは思うけど。そうだな、ビートとベースはきっちり聴こえるようにしないとな。と先のことを慮っても、肝心のことが抜けていた。『Grace & Gravity』のファーストヴァースの書き直しが、まったく進んでいないのだ。測も漁火ちゃんもそのことには直接言及しないが、わたしの書き上がりを待っていることは伝わっていた。じゃあ休憩にしましょ、あたしキッチン行くっす。はかるんはいつものコーヒーとサンドウィッチでいいすか? ええ、ありがとう。わたしは喫煙所行ってくるよ。ういっす。閉まる扉の音がいつもより重く聞こえる。早くどうにかしなければ、この重荷を。
ふう、とタバコも出さないうちから溜息。目の前の大海原を眺めながら、せめて何か着想のようなものが落ちていないか探す……が、あるわけもない。地も海も同じだな、この果てしのなさにおいては。不二良、あなたもきっとこの隔たりの先に……とだらしなく辷る想念を戻さなくては、お、え。尾道ですが。いきなり出てくんなよ、幽霊かよ! 違います。違いますって……違うのは知ってるよ。AIらしい無愛想な言い種に呆れながら、ラッキーストライクに火をつける。突然で申し訳ありませんが、イネス様がお呼びです。え、わたしを……なんで? お願いしたい儀があるのだとか。お時間ございましたら、これからDefiantの客室にお越しいただきたいのですが。えー吸いはじめたばっかなのにな……いやでも、ハッパ吸ってる人たちにタバコの気遣いなんかいらないか。わかったよ、今から行くから。場所どこ?
わたしたちが起居しているキャビンの向かい側に案内され、Defiantの署名がなされた扉の前に至る。こちらです、の言とともに解錠の音が。イネス様、九三さまがお越しです。おお来てくれたか、入って。の声が奥からするので、言われるままに歩み入る。室内はさすがに昨日来ただけあって殺風景なままだったが、テーブルの上にはコーヒーカップとチョコレートの包装紙が散らばっていた。悪いねいきなり呼び出して、まあ座って。七色に染められた髪の筋を結えながら歩み出てくる。えっと、お願いってなんですか。カウチに腰掛けて半分燃えたタバコを吸っていると、いやね、簡単なことなんだけど。九三にパーティーを主催してほしい。といきなり要件が。パーティー。そう、次の水曜日の夜にさ、こっちのキッチンの隣にある広間で、ちょっとした会食をやりたい。そのパーティーのオーガナイザーを九三にお願いしようと思うんだ。今回の出場者どうしの交流会、みたいなことか。それはいいですけど、なんでわたしなんですか。そりゃ九三はGILAffeの標準言語である日本語を話せるんだから、一番うまく意思疎通が取れるじゃん。その理屈も……脈絡があるんだかないんだか。だから九三は、そこで出す料理のメニューとか、ちょっとした催しとかを企画してほしい。今から? そう。ええと、今わたし作詞で詰まってて、それやらなきゃいけなくて……作詞? 作曲ならまだしも、それなら動きながらでもできるだろう。むしろ、動きながらの方が捗るんじゃないか。と言うイネスに、そんなこと……と返そうとするが、いやそれも一理あるか、と思い直した。そういえばキュウゾウとしてリリックを書く過程には、フォークリフト運転手として働く時間が挟まっていた。そのせいで中断を余儀なくはされたけど、まさに働いている時に核心のフレーズを思いつくことも、また少なくはなかった……たしかに。だろ、じゃ決まりだ。収録は標準時の午後七時を予定してるから、とりあえず前日までには企画の概要を提出してくれ、尾道経由で。えちょっと待って、収録? 聞いてなかったか? このクルージングツアーの公演は隔週だから、そのあいだの週は動画コンテンツを配信するんだよ。動画って、どういう。いま船内はこんな感じですみたいな。もちろんツアーが終盤に差し掛かったら各グループのリハの映像とかも出すつもりだけど、今回は一発目だからゆるめでいい。ああ、K-POPグループが公式チャンネルでやってるみたいな感じか……じゃ、そこで配信されるコンテンツとしてプロデュースしろ、ってことですか。そういうこと。無理ではないと思うけど……今週の水曜か。それまでパーティーの準備に時間が取られたとしても、まだ第一公演までは一週間ある……じゃあ、やります。おお、頼んだよ! 吾から口出しすることはないから、ぜんぶ九三の好きにやっていい。よろしく! はい。
ってことになった。面白そうすね、配信かー。それはいいけれど……あなたの仕事もちゃんと済ませなさいよ。わかってるよ、ちゃんと書き上げる。じゃあ、ちょっとキッチンの在庫調べてくるから。アイデア固まったらすぐ戻るよ。
九三の背中を見送りながら、まあ、マイナスにはならないだろうと打算する。創作の過程で行き詰まった者にとって、事務的な仕事は作業療法として有効だろうから。九三が二年間続けた仕事だって、覚醒を促すに必要な過程ではあったのだろうし。と回顧の念を遊ばせながらコーヒーを飲んでいると、あの、ちょっといいすか。と言いながらイリチが向かいのカウチに座る。ん。これ、今のうちに訊いとかなきゃと思うんで。なんでも訊きなさい。あの、はかるんって、ねえさんとデキてますよね。ぶっ、と噴き出したコーヒーがアレキサンダー・マックイーンのシューズにかかる。いきなりなに言うの、とハンカチで拭いながら言う私に、だってはかるんがねえさんを見てるときの目、めっちゃとろんとしてるじゃないすか、いつも。などと続けるので、馬鹿じゃないの、あなたの思い込みだよ。と刺々しく返しても、いやあ、あたしもそうかなって思ってたすけどやっぱ無理っすよ、隠せてないっすよ。『Limbo』のビデオ撮影の合間でねえさんに向けてた眼差しとか、あんなん見ちゃったこっちが勘弁してくれって思うすよ。と言うので、ひとつ大きなため息を置く。あのね、イリチ。幼い考え方だよ、人と人との親しい間柄を、なんでも恋愛関係に落とし込むのは。そんなんわかってますよ、でもこれだけは、この際はっきりさせたいつーか。これから半年おなじ部屋で生活するわけすから、ちゃんと話しときたかったんす。だって、ベッドふたつしかないわけだし……だからあたしこの数日間ずっと制作ブースで寝起きしてたんすよ。ああ、この子なりの気遣いだったのか……だとしても同じ音楽プロジェクトのメンバーを隣部屋に置いて堂々と同衾などするものか。
じゃあ、はっきりさせようか。と前置きすると、イリチも前のめりになる。たった一度、そういうことがあっただけ。その時期は九三も傷心から立ち直りつつあって、最後の一押しにつきあっただけ。それ以降は一度もない。と正直なところを開陳すると、本当すか。じゃあたし、ねえさんとはかるんが同じ部屋にいるときにまずLINEで連絡して返信もらってから入るようにするとか、そういう配慮しなくてもいいんすか。と真顔で返される。元からしなくてよかったんだよ、直接話して済ませなさいよって連絡がやたらと多い気がしたけど、そういうことだったの。だって、こういうのってすげえデリケートじゃないすかあ……あのねイリチ、私はそんなつまらない私情を持ち込むような人間じゃない。第一もう、そんな恋愛沙汰に身を焦がすような年頃でもない。そうなんすか。そうだよ、二〇代前半のあなたにはしっくりこないかもしれないけど……それにメンバーどうしの痴情のもつれで解散なんて、音楽グループにとって一番つまらない結末でしょう。私は93をそんな三文芝居に供するつもりはない。
そう、っすかあー! とカウチの幅いっぱいに四肢を広げて嘆息している。あーやっとかたついたあー、言い出すまでしんどかったっすー。そんなに……? あーじゃあこれからベッドルームどうしましょ。昨日エル・パソからひとつ運び入れてもらったよ。え、じゃあもうみっつあるんすか、なんで言ってくれなかったんすかー! そりゃ、あなたがそんな気遣ってたなんて知らなかったから。まあ、そのおかげで徹夜でミキシング仕事済ませられたんで、結果としてはよかったすけどね。ふふっ、あははは。
いやーでも、正直言うとあたしもねえさんのこと大好きっすから。知ってるよ、恋愛以外の意味ででしょう。そうすよ、あたしだけじゃなくてちぬんとか安影さんとかも。この前『Limbo』の打ち上げやったとき、みんなでねえさんのどうかしてるところ挙げあうみたいな流れになったんすけど、最終的にはみんな好きーって話になっちゃったすもん。そう。櫟さんなんか俺は好きじゃねーわ、見逃せないだけだわって言ってて、それって好きより強いじゃーんとか茶化されてたっす。ふふっ、若々しくて良いんじゃない。
で、何が好き? チキンとか肉料理あれば嬉しいかな、立食会だし。グリル系かー、あ、チキンって焼くんじゃなくて揚げるほう? そうそう、スパイスいっぱい効いた感じの。なるほど、ヤスミンは? うーん、あんまり豪華な感じでなくても……冷凍庫に春巻きとかコロッケとかあったけど、そのへんの惣菜でもいいかな? いいと思う。そのかわり調味料には凝っときなよ。オッケー、じゃ、あとは飲み物。ハイト! ビールね、立って喰うわけだから瓶のほうがいいな。あとワインを赤白デキャンタで置いといて、グラスで持ってってもらえばいいか。そんな感じじゃん。オッケーありがと、また訊きにくるかも。おう。お疲れ様。
そうだな、あたしに関してはあまり肉料理は要らないかもな。あ菜食主義だっけ? そういうわけでもない、単にあまり好きじゃなくて。そっか。その代わり、サラダの量を増やしといてくれ。オッケー。あと、他の人らにアレルギー無いか訊いた? えっ、あっそうか、大事なこと忘れてた。訊いといたほうがいいよ、わたしと姫には無いけど。あとこの船にムスリムとヒンドゥーはいないはずだけど、信教上の禁食が無いかどうかも一応。そうだね、ありがと。じゃあまた! おう! 頑張れよ。
とりあえず次の寄港地で、挽肉料理に合いそうなスパイスいっぱい入れといて。はい。それで材料は十分だと思うけど、野菜と果物は新鮮なの使いたいから当日の午前にでも。時間的には余裕あるよね? 問題ないと思います。よし、じゃあ残すところは当日の準備だなー……わたしと尾道と四七だけでいけるかな。いえ、私のみで十分かと思われます。え? 尾道ですが。尾道ですが。尾道ですが。うわあ!! なにそれ、分身できるの!? 分身というか、単に個体を増やしただけでAI自体はひとつの尾道ですが。そういうのできるなら先に言え心臓に悪い! こうでもしなければ、荷の積み下ろしなどの業務がこなせませんので……まあそうか、そりゃそうだな。ところで尾道さ、はい。艦長と副艦長って何やってるの? 何と申されましても、この航路の安全に支障がないか常に目を配っておられますが……その人たちにも来てもらっちゃだめかな。それに関しては……直接お訊きになってはいかがですか。そうだな、それが一番早いよな。
失礼します、と艦長室の扉を開けると、制服姿の男性が迎えた。龍九三か。はい、えっと、いわばしりかんちょう……? と誰何すると、あちらだ、と指差す。あ、この人が副艦長か。たしか大浦典午。どうも、と副艦長の傍らを過ぎ、こちらに背を向けて着席している人影のほうへ歩み寄る。
あの、岩走マキ艦長。と窮屈に呼ぶと、マキでいい。と一言で応えられた。えっ。艦長といって大した役割ではないのだからな。謙遜とも卑下ともつかない言とともに、こちらのほうへ向き直る。外貌からして歳の頃三〇か四〇といったところか、もっとも日本人の外見年齢なんてあてにもならないけど。船内に異常か。いえ、そういうわけじゃないんですけど、明日の夜に一番キャビンの広間で立食会やるんで、よければ一緒にどうですか。と用件だけ言ってみる。私が? と短く問われるので、はい。と返す。ふふ、と口の端だけで笑ったのち、すぐに無表情に戻り、遠慮しておく。私は表に出るような人間ではないのだ、君たちだけで済ませなさい。と短く答える。そうですか。まあそうだよな、配信されるわけだしな。と今更のように分別がつき、わかりました、それでは。と辞去しようとしたその時、卓上の灰皿が目に留まった。あっここタバコいいのか、いやよくないけどこの人が勝手に吸ってるのか。キャメル、ですか。と吸殻のフィルターに刻印されているロゴを読み上げると、ああ。と小さく苦笑しながら頷いた。トルコの葉っぱですよね、わたし吸ったことはありませんけど。それでいい、タバコなんかよしたほうが。いや吸うことは吸うんですよ、ラッキーストライクを。やっぱなかなかやめられなくて……と雑談めく室内の雰囲気が、そうだな、私も、忘れられなくて吸ってる。いや、忘れないために吸ってる、か。という意味の取り難い一言で掣肘された、ように感じたので、ああ、じゃあ、それでは。とやけにそそくさと辞去することになった。
とりあえず準備は整ったな、イネスにもオッケーもらったし。あとは、まだ一言も話せてないあの……おっ。なんて偶然、向かい側の通路から。ウェンダ、だよね。どうも! ちょっといいですか。歩み寄ると、銀髪碧眼の人が足を留める。うわあ立ち姿だけでなんかすごいな、俳優みたい。あっ日本語で話しかけちゃったけど、この人そもそもGILAffe入ってるのか。と遅れて不審がっていると、何か。と短く応えてくれた。よかった、通じるみたいだ。あの、知ってると思いますけど、明日はじめての動画コンテンツ配信のためのパーティーがあって。そこのキッチン横の広間で夜七時なんですけど、エリザベスと一緒にどうですか? 尾道に何度か伝言お願いしてたんだけど、返事もらえてなくて……と一方的に言う。わたしより数センチ高い身長の頭頂を眺めながら返事を待っていると、伝えておく。と一言だけ応えてくれた。お、おお、ありがと。じゃ、当日待ってるから! と手を振る頃にはもう背を向けられていた。いやあ初めて喋ったな、わたしが初なんじゃないかあの人と話したの。よし、やれるだけのことはやった。いい仕事したよ九三。
大丈夫? これ、ちゃんと動いてる? 目の前でハンディカメラを構えているゾフィアに確認すると、オッケー、それじゃこのまま追っていくから、段取通り始めて。と応えてくれた。よし、じゃあいくか。
Wassup! ヘッズのみんな調子はどうだ? ご存知93の SupaDupaMadaFaka キュウゾウだ。今回は初の動画コンテンツ配信ということで、来週からラテンアメリカを巡るクルーの全員を一室に集めたぞお。それじゃ行ってみようか……
お、始まってるな。いいじゃんいいじゃん、香港あたりの雑然としたフードコートを意識したテーブルセット。 Wassup 锡鼓! おーキュウゾウ! もう知ってるよな Straight Outta Seoul, 韓国代表锡鼓の허한나! とカメラが向けられた途端、한나はカメラアイをマイクのように掴んでフリースタイルを始めた。ゾフィアは苦笑しながら天井あたりを映し出すばかりのカメラを落とさないように支える。聴いたか超ドープだろぉ! と言いながらカメラとの適切な距離を再設定し、ところで锡鼓にはもう一人いたと思うんだけど……と話題を向ける。あーヤスミン? さっき料理取りに行ったはず、あんま映りたがってなかったけど。と笑うので、オッケー锡鼓の한나でした! じゃあ一週間後かましてくれよ! そっちこそな언니! と拳を突き合わせて離れる。おっそうだ忘れてたな、我らが93の頭脳と斬り込み隊長、McAloonにKATFISH! 見ると漁火ちゃんはミートスパを口一杯に頬張って話せそうにないので、どうよMcAloon今回の意気込みは! と測に水を向けると、ああ、そうね……今回のメキシコ公演のオープニングで、あなたがたは脳天を粉々に砕かれることになる。覚悟しておくことね。と露骨にハードルを上げるので、むしろこちらがたじろぐようになり、オッケーじゃあ次はあっちだ、Wassup Shamerock! とカメラを誘導する。ああ。皿に盛ったサラダを口に運びながら返事する姫に、Wassup キュウゾーウ! と既に何本か聞こし召した感じの教授が絡んでくる。君らはInnuendoとの因縁があるわけだけど。それに関して答えられるのは一つだ、奴らの時代はあたしらが終わらす。とカメラ目線で言う姫に、ははは姫できるだけ平和にいこうよ名誉革命でさあピースピース! と空になったビール瓶を頬にぐりぐりする教授。オッケーあれだ、平和的宣戦布告ってやつだな! なんだそれはと自分でも思いつつ、最後に映すべき二人の姿を探す。じゃあ最後は、皆さんお待ちかね、Innuen……
あ、れ。いないな。
……doがいるはずなんだけど、ええと、どこかな? 場内を見回すと、カメラを構えるゾフィアの向こうに立っている尾道が、首を横に振るのが見えた。そう、か。来てくれなかった、か。
おっけーじゃあ、えっと……と言葉に詰まっていると、プァプァプァプァー、と突然入口付近で音が。あ、そうだ、こっちの段取忘れてた。一目散にDJブースへと走り寄るわたし、を小走りで追いかけるゾフィア。すでに会場には一曲目、シルヴェスターの『You Make Me Feel』がドロップされていた。
한나、と呼びかけると、すでに二曲目のスタンバイに入っているところだった。ミッシー来てないけどどうしたの? と苦笑しているので、ああ、さっきずいぶん酔ってて……B2Bでやるんだよね? そのつもりだったけど、ミッシーが来るまであたしが繋いで、そのあとワンセットやってもらってからB2Bでもいいよ。んーそしたら長くなるけど……まあ全編アップするわけじゃないからいいか。選曲は? そんなにキメキメでもあれだから、今回はディスコクラシック多めで、ゆるく踊れる感じで。じゃあそれで頼む! おう!
ゾフィアがようやく追いつくと、そいじゃパーティーの始まりだ! と言いながら正面のカメラを見据える。なに、肝心のやつらがいないって? そんなん知ったことか! いいか、この動画見てるやつらはたぶんInnuendoかDefiantのファンってことになるんだろうが、次の三公演で93、锡鼓、Shamerockの名をイヤでも思い知ることになる。黙殺しようとしても不可能だ。せいぜいツアーが始まった後で知ったフリすることだな。第一公演は一週間後だ、カボ・ワン・ルーカスでお前を待つ! の捨て台詞を最後に、カメラアイを掌で塞ぐ。
よし、配信のときはここ編集点にして、DJをバックにパーティーの風景を入れたらいいか。よくやったよ九三。たとえ今は、世界の大半は歯牙にもかけない泡沫の存在だったとしても。またここから始めるしかないんだ……と思いながら入口にハケると、한나のDJingがシルヴェスターをUSA・ヨーロピアン・コネクションに繋いだところだった。ああ、モヤモヤしたままクラブに出かけた週末もこんな感じだったっけ、と懐かしい感覚が湧き上がってくる。書いた夜、書けなかった夜、書き損なった夜、そもそも書くことになるなんて思いもしなかった夜、いったいどれほどの夜を明かしたことか。そしてまた夜がやってくる。そうだ、どうあっても逃げられはしないんだ。そしてわたしは、いやわたしたちは、この夜に孕んだものを、惜しげもなく賭けなきゃいけない、分け与えなきゃいけない。名もない夜たちのインクに、いつのまにか滲みを付けられたからには。
うん、吹っ切れたんじゃないかな。足りなかったのはこのグルーヴだったのかも。黙々と音を聴いて頭をひねるだけの毎日では、袋小路に陥るのも無理もない。人と交わり語らうことなしには、詞は訪わない。そうだ、これはそもそも九三から教わったことだったか。高校時代に私の部屋に上がり込んで、爆音でヒップホップの名盤を鳴らしていた彼女から。
それっすよ。えっ。その眼っすよ、あたしが言ってたの……え、あ、ああ、なに、撮られてたわけじゃないよね。撮られてはないすけど、はかるん自分がどう見られてるかに関しては無神経だなー……な、なに、そんなのわかるわけないでしょう、眼は自分の外側についてないんだから。ぶっ、自分の外側に。あはは、たしかにっすね。なに、そんなに面白いこと言った。いやあ、はかるんらしいっす。
いいなあ、한나、ああしてみんなを盛り上げることができて……その気質からして違うんだ、私と한나は……結局、今日もカメラから逃げるだけで終わった気がするし……なあ。えっ、あ、この人、Shamerockの姫さん。みんながそう呼んでるから名前は知らないけど。なんです、か。とおずおず返すと、私の手元の皿が指差される。さっきからチキンばっか食べてるが、野菜は食べないのか? えっ。いやあ、私あんまり好きじゃなくて……と返すと、ふうん、と鼻息が漏れる。あっ、もしかしてやっちゃった。ちょっと来てみろ。えっ。肩口を掴まれて引っ張られる、と、いつのまにかサラダの前に誘われていた。このな、キャベツミックスだけでもな……と言いながらトングで皿に盛る姫さん。ドレッシング次第では、と言いながら数種類の容器から少量ずつ足し、皿に盛られたものをドレスアップしていく。同じ野菜でも違ってくるものだぞ、ほら。と皿が渡される。受け取る以外どうしようもなく、腕を組んで見ている姫さんの前で、ひとくちぶんだけ食べてみる……あ。ああ、ほんとだ。だろ。なんだか、噛むごとに甘い、というか……そう、もちろん糖分過多なドレッシング使ったわけじゃないぞ。そうですよね、それなのに……どうやったんですか。ふふん、特別な組み合わせがあるんだよ。いくつかパターンを教えてやろう。はっ、はい。
そんじゃ次からお願いねミッシー。おっけー、あー久しぶりだなB2B。いちおう今までの曲目メモしといたから、できるだけかぶんないように。よし、じゃー何からいくかねえ……
まずは上出来、だな。と広間の片隅で腕を組むイネスの傍らで、カメラのスイッチを切る。とりあえずはこれで、最初の三公演では新進の三組にフォーカスが絞られる。撮影ありがとうソーニャ。いいけど、一つ訊いていいイネス? なんだ? 今回のツアーでA-Primeが私たちに課してる役割、つまりInnuendoの対抗馬としてツアーを盛り上げること、だけど……そもそも最初から果たすつもり無いよね? と言ってみると、にやあ、と満面の笑みになり、当たり前だろお。と返された。やっぱりね、あなたの性格ならやりかねないと思ってたけど。せっかく五組も集まったんだから、ごちゃ混ぜにしないと面白くないだろ。お仕着せの強者VS強者のシナリオになんて、吾は最初から乗る気ないね。はは、まあね、私もだけど。
と話してるうちに、あのお、と九三が戻ってくる。おつかれ、とりあえず配信用の撮れ高は十分だ。よくやってくれたよ、ありがとう。いえ、ただInnuendoに無視されちゃったのが……気にするな、どうせツアーが始まればイヤでも目にすることになるんだ。その前の着火準備は、今日でしっかり整ったよ。なあソーニャ。と同意を求められ、無言で頷く。
実際わたしも、と、イネスと私を順に見比べながら話し出す九三。わたしも今日、やっと覚悟ができました。なんの? とイネスが訊くと、これから対等にやっていく、って覚悟が。と傲然と笑う九三は、もはや丁寧語では話さなかった。これからよろしく、Defiant。誰が誰に勝とうと恨まないでよ。
ああ、いい顔だな。まずい、カメラ回してなかったぞ。今の絵、あとでツアードキュメンタリーでも作るなら良い場面になったろうに。とか思ってるうちに、広間のサウンドセットから聴き慣れたコーラスが。オージェイズの『Love Train』だ。ぶははは、いきなり大ネタ! あーだめだソーニャ、無理です、踊ってきます! と九三とイネスが同時に駆けていく。ははは、どうしようもないなパーティーピープルは。よし、ここからの絵は撮っとこう。私たちが一瞬通じあえた夜の記録として。
朝、目を覚まし、やることがない、わけがない。顔を洗い、歯を磨き、枕にプレスされた髪を梳かす、のに時間をかけてもしょうがない、出かける予定もないのだし。抜けきらない昨夜の酒はすこしの頭痛として、だいじょうぶ始発で帰るからみたいな面で居残ってやがる。それでもいい、好きなだけ居たらいい。この身体を引きずって生きる間は、月並みな物憂さから逃れられはしないのだから。そうだ、いくつもの朝もまたそうであったように。自分で死のうとして死ねなかったときも、分身を死なそうとして死にそうになったときも、変わらず目覚めの朝はやってきた。何も書き込まれてない白紙ではなく、昨夜の狂想じみた痕がいくつも刻まれた、打ち身と切り傷で出来た灰色の朝だ。夜のわたしが託けた遺言を、朝のわたしは聞き取ることができるか。物狂いのように孕んだ一晩の、達成ではなく途絶を、引き受けることができるか。
まだ二人が眠る部屋の中で、一枚のルーズリーフを前にする。この時間、わたしだけが言葉に取り残される、ことを許される時間。来てくれたか言葉よ。何度となくわたしを打ち砕き、そしてまた作り直してくれたあなたよ。対向する言葉よ。今回もあなたは、手加減などしてはくれないのだろうな。それでいい、今はただ迎えよう。わたしが憑代として相応しくなければ、何度でも撃ち倒し、そして痛みへ導け。さあペンは持ったぞ、かかってこい。
「今日も受難のみ 救済なし
そうだ 何も言わずにただ苦しめ」
大歓声、といっていいだろう。ラテンアメリカツアー一発目、まさに劈頭を飾る93の新曲は、ツアーの開幕を待ちに待ったメキシコの観客たちに熱狂をもって迎えられた。もちろん、この国での93の知名度など皆無に近いのだろう。しかし『Grace & Gravity』、デフトーンズとトゥールが結婚したようなギターリフに、精緻なコーラスワーク、そして雄弁なラップの三つ巴から成るこの曲は、初めて直面する人々への名刺代わりであると同時に、既に厚い支持を寄せていたファンたちにさえ新機軸として記憶されることなるだろう。もちろん、これくらいやってくれないと困るが。
いいじゃないか、アジアの無名アーティストをオープニングに据えるのは不安もあったが。ああ、ハッシュタグでのツイートも軒並み高評価だ。と、さっきまで不安げな面持ちだったA-Primeのお偉いさんたちが燥いでいる。だから吾に任せたら間違いないって言ったっしょー? いやあ申し訳ないイネス、疑っていたわけではなかったが。それじゃ今回の公演、最後まで見て確かめてってよ。あんたたちのDefiantがどれほどのもんか、ってこともねえ。
五組の全曲目が終わり、観客全員による投票が始まる。先ほどまで港の特設会場に集っていた群集が一斉に退き、チケット半券に記名する原始的な投票を一斉に行う姿はなかなか壮観だが、なるほど、この方式なら終演後に効率よく退場させられるわけだ。
さあ、結果発表──の音声とともに、Yonahの船体横に取り付けられたLEDモニターに結果が表示される。五位:锡鼓、四位:Shamerock、三位:93。うおーあたしら三位っすよ! うわーいいとこまでいったな! と燥ぐ二人も、二位:Innuendo、一位:Defiantの表示とともに顔色を変えた。おーもう勝っちゃったじゃんDefiant! なんすか、あの女王陛下そんなすごくないんすか? おそらく、イネスのルーツのひとつがメキシコシティにあるから、というのが大きいんでしょうね。えっそうなの? プロフィールに書いてあるし、フルネーム見たら一眼でわかるでしょう。おーこれでまたわかんなくなってきたっすね、ていうかあたしら現状三位すよ、すごくないすか? いやー悩みに悩んで書き上げた甲斐があったよ。ええ、あの冒頭の詞が最後のピースだったのかもしれない。「上昇と下降」……このテーマに見合う曲にできるか、私も不安だったけれど。そっか……ありがとう。ようやくスランプ抜けたかなー、もう何度目のスランプかわかんないけど。ふふっ。あははは。
そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。
あの手紙を受け取ったときは意味もわからなかったし、龍九三本人を前にしてもいまいち感覚がつかめなかったけれど。母よ、今になってわかってきた気がします。アナタが彼女をこの航路へ誘った理由が。
とりあえずは晴天。さしあたっては波もなし。それではワタシは、忍耐強く見極めるとしましょう。この先に何があるのか、何をすることになるのか、そして旅路の果てにアナタのもとへ辿り着いたとき、龍九三は何を持ち帰ることになるのか、を。
12 三人成虎
うーん……母ちゃん、いくらなんでも無理があるよそれ。むりってなんだね。ありえないって、現実じゃないってそれ。げんじつってなんだね。だから、全部母ちゃんの頭の中で考えた作り事でしょ。つくりごとってなんだね。あーもう……真面目に聞いてよ。お前こそまじめにきくことだね、のべつまくなしに否定してばっかりで。だって、実際に死体見たじゃん、死んだんだよ父ちゃんは。一度死んだらもう戻らないんだよ。死ってなんだね。母ちゃんさあ。いいかね、ほんとうのところはこうだ。おまえの父ちゃんは、あたしのひとは、死んだふりして外国へ行った。おそらく北朝鮮さ。そこで秘密の任務に従事してるのさ、じぇいむ、むしゅ、じぇいむしゅ・ぼんどみたいにね。何をしてるの。そんなのわかるはずないじゃないか、あたしらみたいな普通の人間を欺くために死んだんだからさ。でもあたしにはわかる、あの葬式で父ちゃんを見たとき、たしかにあたしに目配せした。心配するな、ってね。だからこれは全部辻褄があってるのさ。はあ……まあ、母ちゃんがそう思いたいんならそれでいいかな。うん? わかったよ、つきあうよ。父ちゃんは生きてるね。そうだよ、さすがあたしの子、ものわかりがいいなあ。生きてて、どっか見えないところで大きな仕事やってるんだよね。そうだよお。で、いつかあたしらのもとに帰ってきてくれる。そうなる、そうなるなあ。
このままでは勝てない。わかってはいた、そんなことは。でも93のオープニングステージ、まさかあれほどのものを持ってくるなんて。他の出場者とは違って楽器の生演奏者がいるとか、そもそも開幕の熱狂が追い風になっていたろうとか、そんな事後的な分析は意味を成さない。あれは有無を言わさぬ才覚と鍛錬の賜物だった。持っていかれた。
次は私の番だ。ペルーのカヤオにて行われる第二回公演にて、オープニングで新曲を披露しなければならない。もちろん十分な曲数を準備してきた。しかし、あれに匹敵する演舞を今の私に為しうるか。
ねえヤスミン、と声。あ、そうだ、一人ではないのだった。私はすぐ忘れる、一緒に作ってくれる相手の存在を……うん。やっぱさあ、この前のメキシコで思い知らされたんだけど、ショーとして成り立ってないとだめだよ。うん。93はオールドスクールなヒップホップで、Shamerockはメタルコアとヒップホップのコンビネーションで、Innuendoは言うまでもない完璧な舞台立てで、みんな特色がある。何よりDefiantのマジックリアリズムっぽいステージにはびっくりした。そりゃラテンアメリカのバイブスに合うはずだよ。うん。だからさ、曲はよくても、それを見せる工夫に関して、あたしらはあまり考えてこなかったと思うんだよね。うん、その通りだね……だからさ、今のうちに次はどんなステージにしたいか考えとこうよ。どんなって……ヤスミン、こういうのはでかく考えたほうがいいよ。ステージの上ではでかすぎるってことはないよ。ヤスミンはどうなりたい、ステージでどんな人になりたい? どんな人になりたい……か。
もう父さん、泣かないでよ。だってなあ、まさか私たちの娘がこんなになってくれるなんて。なあ。ええ、想像もしなかった、あなたが音楽の祭典で世界一に、なんてね。たまたまだよ……いやこれは必然さ、わたしたちの見えないところで、ずっと頑張ってたんだなあ茉莉。うん。藝術の才能が無い、なんて言って、本当にごめんね……もういいよ、まだそのこと憶えてたの。でも、わたし、幼いあなたのこと無神経に傷つけてしまって……違うよ、逆だよ母さん。あのとき言われたことが、むしろ私の燃料になってたんだ。母さんの言葉が私をここまで導いてくれたんだよ。そう……そうなの。そうだよ。ありがとう、ありがとうね茉莉。あなたこそがわたしたちの最高傑作。
ヤスミン? えっ、うん。そうだね、やっぱり、観客をこう、非現実の世界に連れていくような演出にしたい……非現実か、いいね。そして、私たちは東アジアから来たわけだから、その印象を武器として使いたい……うん、シンセポップとアジアンテイストの相性の良さ、ってのもあるしね。そして何より……多くの人を魅了するステージにしたいな。魅了?
한나。いいでしょ、誰も見てないんだし。でもだめだよ、いけないことだよこれは。いいから、全部あたしに任せていいから。実はさ、別れようと思ってるんだ、션윈と。えっ。確かにさ、あいつのこと愛してたはずだったんだよ。でもさ、ヤスミンと一緒にいるうちに、どんどん強くなってきて、もう我慢できなくて……逆に、なんであいつのこと好きだったのかも今ではわからなくて……そもそも孤児院で出会った以外には、あたしとなんのつながりもないやつじゃんって、今更思ったんだ。そう、なの……でもヤスミンには音楽がある。あたしと同じ表現を、ゼロから出発して身につけてくれた。どうしてそこまでって思ったんだよ。たぶん、ヤスミンも同じなんでしょ。あたしのこと愛してるから、ここまでしてくれたわけでしょ。隠したって、だめだよ。……うん、そう。こうされたかった、のかもしれない。かもしれない、じゃないでしょ。うん、こうなりたかった……한나と。あなたに認められたくて、一緒になりたくて。ずっとわかってたよ。よく頑張ったね、ヤスミン。名前で呼んで。ふふっ、茉莉。もっと近くで、よく聞こえるように。茉莉、茉莉。わたしの茉莉。
ヤスミン、魅了っていっても色々あるよお。うん、そうだよね……ただ、照明とかバックスクリーンの効果とかで色々できるってわかったから、イメージから作ろうかと。いいね、どんなだろ。まず、霧をステージに充満させる。霧かあ……野外のステージだから散りやすいと思うけど、どうするの。まず奥から私たちが登場して、イントロがフェードイン。そこに紫と橙色の照明。大胆な配色だね、で歓声がワァーッか。うん、そして……ええと。客の反応込みで考えたらいいよ、いわば観客は三人目のメンバーだし。三人目……
人は見かけによらないって言うけど、すごいよ茉莉、どこでこんなん覚えてきたの。覚えて、っていうか……自然にやったらこうなっただけで。自然にやってもこうはならないでしょ、한나としたときだって……ねえ。そうだよ、션윈とあたしの両方同時に、なんて。きっと三人でしたからだよ、三人でしたのなんて初めてでしょ。そうだけど……もう、こんなことできるなら最初から言っとけっての……あたし初対面の時、どうせ甘やかされて育ったボンボンだろって見縊っちゃった。あはは、未だに憶えてる。でもこんな色事もいけるなんて……ほんと人は見かけによらないね한나。うん、もうさ茉莉、あたしら三人で幸せになっちゃおうよ。えー? あたしからもお願い、こんなの知っちゃったらもう、もとに戻れないじゃん。えー……もう、仕方ないなあ。
もとに戻れない。え? こんなステージを観た後ではもとに戻れない、って感じにしたいな。体験する前の状態には、ってこと? そう。いいね、あたしが最初にウータン・クランのビデオ観たときみたいな。でもさヤスミンもっと具体的に。ああ、ごめん……えっと、ライブでやるわけだから、五感に訴えかけるステージにしたいというか。五感ねえ。なんだったら香とか焚いてみる? 香、か……VIXXが香水ふったアルバム出してたじゃん、あんな感じで。いっそあたしらの香水つくって物販で売ってみる? その香りがファン同士の結束力になったりして。うわービジネスチャンスかもなこれは! 香り、か……
ずっとこのときを待ってたんです、意のままになってくれるこのときを。ねえ、エリザベス。私知ってました、どれだけ取り繕おうと、あなたも無防備な娘っこにすぎないってこと、私と同じで……あなたの高飛車な態度からは、誰かの愛を求める渇えが漏れ出ていましたから。ね、もう好きにしていいんですよ。全部、この香りのせいにしていい。私に身を委ねる、それこそがあなたの望み。だってエリザベス、あなたのためにここまでしてくれた人なんていなかったでしょう? さあ、いま悦びに身を委ねて。私とあなたの香りは今ひとつになる、ひとつに溶け合うのです……
ひとつに溶け合うのです。え? えっ? いやあの、香りの話? え、そ、そうだよ。観客との連帯感というかさ、ひとつになる、みたいな。いいね、音楽をライブでやる醍醐味だよね。一体感、と……うん。なんか今日はヤスミンがいっぱいアイデア出してくれて嬉しいー、こんなになっちゃったよメモ。うん……じゃあ、そろそろ本格的に固めようか。固める。うん、出たアイデアをまとめて、ひとつのコンセプトに結集させる……あー結局、この作業が一番しんどいんだよね。えっ。すべてを実現させられるわけじゃないからさ。出したアイデアのほとんどは、削るか切り捨てるかしなきゃいけないから。そうなの。うん。じゃ今までのアイデアに合う曲決めようか、とくに照明とステージのイメージは良いと思うよ。あ、うん……
これだね。これか……な。これで勝負しよう、『第七天』。作ったときからフェス向けの曲だとは思ってたけど、ステージ演出と相俟ってさらにでかくなってくれると思う。オープニングにはぴったりだと思うけど、どうヤスミン? いい、と思う……けど。けど? ずっと私たち二人だけの作業だったから、ここで……第三者の意見を入れたいというか。ああ、映画で言うとこの試写会みたいな。そういうこと。よし、じゃあ誰かに聴いてもらうか、尾道、じゃだめだよなAIだし。尾道ですが。あーごめん引っ込んでいいよ。やっぱ93かな、前にも龍が来てくれたし。うん、あの人たちなら忌憚ない意見を聞かせてくれると思う。よし、ちょっと呼んでくるよ。
ごめんね測、作業の最中に。いえ、私は休憩中だったから。あの、前にも九三さんとお互いのデモ曲聴かせあったんですけど、今回、私たちがペルー公演でオープニングを務めるにあたっての新曲を、測さんに聴いてほしいと思って……もちろんいいよ、あと丁寧語でなくていい。あ、はい、じゃない、うん。じゃ測、ヘッドフォンどうぞ。ん。これが歌詞とステージ演出案ね。じゃ再生するよ……
……なるほど。どうかな。すごくいいと思う、このオケはデモ音源? いや、最終的な編曲のですけど。そうか、ライブ栄えするタイプね。でしょー。でも、ちょっと意外というか……意外? 失礼かもしれないけれど、锡鼓の楽曲は、内省的な部分と対話的な部分の両方が共存していて、そのバランスが何か特異なものを与えている、と思っていたの。え、そんな細かく聴いてくれてたの。あなたたちの公式チャンネルに付けられていたコメントも読んでみて、だけどね。うれしいです、そう言っていただけて。でも……でも? 今回の楽曲とステージ案は、対話的な部分が後退して、内省的な部分が前面に出てきたというか……おお。にもかかわらず鬱々としてはいない、内にこもった感じはあるけど外に曝け出す部分も突出しているというか、不思議なバランスになっていると思う。これは曲の力のせいかな……たぶんそうかも。そう、かな。え? あ、いや……それにこの歌詞、私は中文は初等文法くらいしかわからないけれど、けっこう色っぽいことも書くのね。え、えっと、それは魅了っていうテーマもあったので……ね。そうそう、あたしも今回は大胆だなあと思ったんだけど、これくらいいったらいいじゃんと思って。そうね……私の感想はこれくらいだけれど、参考になったかな? なったよ、ありがとーさすが93の頭脳。ならよかった。あ、ありがとうございました。じゃあ明日の公演で会いましょう、私たちも敗けないから。おう。はい。
いいのかな、これで。でもやり直すにしたって、あれだけ詰めたものを今更なしにするなんて、できるわけない。한나と一緒に作ったものなんだから、二人で……でもなんだろう、どうしてこう……あっ。着信。こんな時間に誰、えっ션윈、からのLINE通話だ。はい。もしもし、そっちは夜。夜というかもう就寝時間だけど。한나は? もう寝てる、けど……わかった、じゃ、あんた、すぐに声が聞こえないとこまで離れなさい、トイレでもなんでも。ええ……? いきなり何なの。いいから。
大丈夫、한나に聞こえてないでしょうね? いま部屋の外だよ、一体何の用? あのね……あと二四時間もしないうちに公演でしょ。うん。それに際して、あんたに言っておきたいことがある。なに。한나に、これ以上恥をかかせないように。えっ。初回の公演は見せてもらった、映像アーカイヴでね。そのうえで言うけど……あんたがどういうふうに自分を実現しようが構わない。でも、あんたの瑕疵は한나のものにもなるってことを、忘れないようにね。えっ。じゃあ。ちょっとまって、それって一体、と問い質そうとしたところで通話が切れる。
何なんだよ、まだ한나と並び立つには足りない人間だなんて、そんなの自分が一番わかってるよ。でも、これ以上恥をかかせないように……これ以上。ってことは、既に何度か恥をかかせてきたってこと。自分のみならず、한나にも。ああもう、なんでいきなりこんな電話かけてきたんだ、だいたいテキストチャットでいいじゃないか。でも、久々に션윈の声を聴いて、なんだか蘇ってきたような……何が? わからない、あのとき孤児院で対峙したときに感じた……ああもう、こんなこと考えてる間に貴重な睡眠時間が。もう戻ろうベッドに……はやく眠り、ねむ……寝付けたらいいけど。
やれるだけのことはやったんだ。一音目が鳴り響いた瞬間、私たちにも93と同じくらいのことがやれると思った。でも開幕の高揚感が退くにつれ、ステージを牽引できている実感は下降線をたどるばかりだった。これは私一人の採点じゃない。今回の投票結果を見ても、如実に現れているのだから。
測の言葉を思い出す。内にこもった感じはあるけど外に曝け出す部分も突出している……それって、単に、誇大妄想に傾いていると謂っていたのでは。そして実際そうだったのでは、私が『第七天』を準備しているときに考えていたのは、χορόςで優勝した自分を褒め称えてくれる誰かたちのこと、あるいは自分の思い通りになってくれる誰かたちの……そんなものを、そんな妄想をまさか、私は锡鼓の楽曲に投影してしまっていたのか。まさか第三者には、私のだらしない想念ごと筒抜けになっていたのか。だから正直な観客たちは、私のひとりよがりな世界に付き合いきれずに背を向けた……
ヤスミン、と。まただ、また私は忘れていた。何度繰り返せば気が済むんだ、私は一人で作ってるわけじゃないのに。でも『第七天』は、二人で、한나と一緒に作ったにも拘らず、結局は私の妄想に傾いてしまった……こんなこともあるのか。私を助けて励ましてくれる人のおかげで、私のひとりよがりな面だけが育ってしまった、こんな陥穽──ヤスミンって。ごめん、何。한나が指差す先に、立っていた。エリザベス・エリオット、ウェンダ・ウォーターズ。今回の投票後にDefiantを抑えて一位に輝いたあの二人が。
素晴らしいステージだったわ。と、三歩ほどの距離を置いて話し始める。あなたたちにとって、ではなく、英国にとってね。そもそも今回のあなたたちのステージ演出──霧の立ち込めるステージで扇を持って舞い踊るというコンセプト──だけれど、あれは私が主宰していたプロジェクト「Cabal」の作品、『Master-Stroke』からの剽窃よね? と言下に指摘され、硬直するしかなくなる。影響を受けた、というよりも、彼女の作品からそのまま頂いたに等しいアイデアを、見抜かれてしまった。いや見抜かれて当然ではないか、目の前にいるのは作った当人なのだから。急に身体が熱くなり、腋窩から汗が滴る。対して怜悧な眼差しでエリザベスは続ける。なにも非難しているわけじゃないわ、結構なことじゃないかしら。偽物どもの氾濫は、かえって本物の価値を増してくれる。よって英国はあなたたちを止めはしない、そのまま続けなさい。高級品の展示ばかりではブティックの経営が成り立たない。貧民向けの大量生産品が陳列されてこそ成立するのよ、知性と品性の階級秩序はね。
とだけ言って、背を向けて歩き出す。見透かされていた、ここまで完膚なきまでに。謂れなき誹謗とは言えない、すべてその通りだったのだから。今日のステージをあつらえる過程で、私がよしとした甘えを、余すことなく俎上に並べられてしまった。言い終えたエリザベスは、もはや一瞥すらくれなかった。もはや敵だとすら見なされない、というのか。
どうするヤスミン、ドロップキックくらいしてこようか。立ち去る二人の最中を指差して逸る한나を、いや、いい、と制する。なんで、あそこまで言われたんだよ、いっとくべきでしょ。違う。なにが。ここで見抜かれなかったら、もっと大変なことになっていた。彼女は見抜いてくれた……見抜いてくれてよかった。えっ。
한나。と、私の傍らの人に対峙する。なに、どうしたの。私と組んでくれてありがとう。練習でも、制作でも、한나はいつも珠のようなアドバイスばかり与えてくれる。でも、これからは……なに、なんなん、解散でもするん。違う。
言えるか、目を逸らさずに、一切の誤魔化し無しに言えるか。言える、言うしかない。これからは──한나は私を否定できるようにならなきゃいけない。受け容れてくれるだけでは駄目なんだ。このままでは、私は、大した実力もないまま、際限なくだらしなくなってしまう。それだけは厭なんだ。だから、한나。もっと私を否定してほしい。それは違う、それじゃ足りない、なんだ結局その程度かって、遠慮会釈もなく言ってほしい。そして私を研ぎ澄ませてほしい。そうできるようになって初めて、私たちは比翼と呼びうる関係になれるはず。
……そっか、と한나の面持ちから憤りが褪せてゆく。あたし、ヤスミンに音楽を楽しんでもらいたいばかりで、プロっぽくできてなかったのかもね。楽しいよ、한나と一緒に音楽するのは。でも、それだけじゃ駄目。私たちの「素人の音楽」は、技術や創意が無くてもオッケーなんて意味ではなかったはず。もちろんそうだよ。だからもう一度、ここから始めよう。始まってすらいなかったんだ私たちは。もう一度ここから、いちから産み出そう。私たち二人で、本当の意味で並び立って、そこから鳴り響くものがあるかどうか、一緒に試みてほしい。おうよ、こっからだ。そう、ここから。
こんなにも危ういのか、二人で何かを為すことは。お互いの甘みに自足して窒息してしまうとは──だが、もう私は、妄りな空想には頼らない。三人目のパートナーを、ここに招き入れよう。私たち二人で産んだものを、この上なく厳しい眼で精査してくれる存在を、常に繋ぎ留めていなくては。
どうか見放さずにいてくれ、三人目よ。私たちはあなたを求める。
13 Sensitive Obsessed Sister
ロバート・プラントも唄っていたように、時として言葉は二つの意味を持つ。
「悪魔」には「聖性」が含まれているし、
「破門」には「憎男 」が含まれている。
「アイルランド」は「現実の独立」だし、
「血」は「再歌唱」なのだ。
なのだから何か。だから、あたしたちはいつの間にか、同じ文字の並びからまったく別のことを読み取っているのかもしれない。母国語じゃないからわからないが、日本語にだってあるだろう。書いたはずもないことを書いている、読んだはずもないことを読んでいる。とすれば、言葉で何かを伝えようとしたとして、それはあらかじめ失敗を運命づけられているのかも。書き言葉ですらそうなのだから、話し言葉においては言うまでもない、文字通り言うまでもないことだ。頭の中で練ったはずの案文でさえ言い間違って、書き言葉にできないようなノイズが混じって、それでも伝わるでしょ、ねえわかるでしょと一方的な甘えを抱いてさえいる。そもそも言葉は、友情や愛情を伝えるための手段として向かないのかもしれない。
それでも、言葉を使わなくてはならないとしたら、それは何故か。
「正しく言えた」でも「言い間違えた」でもない何かがあるとしたら、それは何か。
で、何の用だ朝から。曇天とはいえ、Yonah艦長室の窓ガラスから差し込む朝陽は、電灯を点けずとも互いの顔を伺い知るに十分な光量を与えていた。いや、何の用ってこともないんだけど、ちょっと話したいなと思ってさ。部屋から持ってきた炭酸水を卓上に置き、眠たげに瞬きするマキの目を見る。痩せた? いや、体重計がないからわからんし、だいたい計ってどうする。船の長旅では体調管理は重要なんじゃないの。私が体調を壊したところでこの船は止まらん。だからといって自分の身体を気遣わなくていい理由にはならないだろう、と言ったとしても煩いだけだろうので、代わりに思い当たったことを訊いてみる。そもそもマキってさ、なんでこの船に乗ってるの。艦長だからだ。知ってるけど、それは杜の旦那に命じられたからでしょ。抽斗からタバコを取り出しながら頷いている。なんでマキだったのかな、客船任せられるやつなんていくらでもいたろ。Peterlooの職員で軍役経験があるのは私と大浦くらいだし、何より日本語話者だからだろう。あのわけのわからん発明のおかげで、日本語が標準言語に設定されてしまったわけだから。まあそれはね、と思いながらも、早々に話題が尽きる。そんな世間話をしにきたのか。と一本目をふかしながら言うので、うん。とだけ答える。べつに人間どうしの対話は内容のある質疑応答でなくてはならないなんて法はないはずだ。そうか、とタバコを横咥えにしながらいつものように黙るので、あたしも黙る。世間には沈黙が気まずい人もいるらしいが、あたしは全然そんなことない。話すことがないなら黙ってたらいいし、話すことがあっても黙っていいはずだ。人と人との関係ってそういうもんじゃないか、でもミッシーの家族はずいぶんうるさかったな。家族か。家族らしい会話ってどんなものだろう、とくに朝の会話。新聞でもあれば、とくに興味もない一面記事をネタにそれらしい会話ができるのかな。それもいいな、あたし好みかもしれない。ただ声を聴きたいから話すってこともあるだろう、そのために供する話題はどうでもいいみたいな機微も。たとえばそれは、学校で一緒になった友達と……うまくいっていないのか。と唐突にマキが言う。えっ。あの一緒に組んでる子とだよ。とタバコをにじりながら言うので、ああ、いや……そうでもないんだけどね。と有耶無耶に返す。そうでもないってどっちだ。うまくいってないわけじゃないんだけど、うまくいってるわけでもない、っていうか。これ日本語になってる? まあな、言いたいことはわかる。と両手を椅子の脇に垂らしながらマキは言う。もう二回目の公演を終えたんだったか。うん、いま四位。その順位に不満でも。そりゃあ、奴らを引き摺り下ろすために来たんだからね……でもそれ以前に、の次にくるはずの言葉が見当たらない、ので黙ってしまう。なんだか蟠りがある気がする、とかか。それとなく補ってくれたマキの言葉に、たぶん、そうなんだと思う。と継ぐ。頷きながら二本目を取り出し、なら、いまお前が話すべき相手は私じゃないだろう。部屋に帰ったらどうだ。と突き放すような言葉も、あたしには精一杯の気遣いのように聞こえた。うん……でも、ミッシー夜通しで作業してたから、昼過ぎまで寝かせてあげたいんだ。それまでずっとここにいるつもりか。できれば……だめかな? だめだと言下に謝絶できる人なら、そもそもこんな役職には就いてないだろう。好きにしろ、煙さえ気にならなければな。とだけ言って、椅子に深く座って脚を組むのだった。ありがとう。あたしも同じように座り、脚を組んでみる。
何も言わなくていい、沈黙を埋めなくていいこの時間が好きで、それだけのためにマキに会いたくなる。今までは電話しかできなくて、何の用もないならもう切るぞ。と無愛想にピリオドを打たれていたけど、マキが艦長の任を命じられた今では、こうして直接対面できる。この贅沢な時間を過ごせるようになったこと、それだけであたしは杜の旦那に感謝しなきゃいけない。
でも、そう贅沢ばかりしてもいられない。あたしの仕事に備えなければ、いや、あたしたちの仕事か。ミッシーが目覚めたら、一週間後のステージの最終調整をしなければ。Innuendoに匹敵するどころか凌駕しうる二人だと証明するための、あたしたちにとっての大一番。
うん、完璧だよ姫! 闊達な声がトークバックを介し、耳元のヘッドフォンに伝達される。とりあえずメインボーカルだけで聴いてみる? ああ、頼む。最終コーラス部の四小節前から再生開始され、さっき唄ったばかりの自分の声が聞こえる。再生が止まり、どう? と尋ねる声に、ああ、いいと思う、音さえ割れてなければ。と返し、レベルメーターはずっと赤ついてないよ。よっし、じゃあボーカルトラックはこれで終わり。おつかれ! との声が切れる。あたしもヘッドフォンを外し、防音扉を押し開く。
コーヒーでいいよね? いや、今日はカフェイン控えたい。そっか、じゃあホットミルクかな。ありがとう、もらうよ。マグカップふたつを電子レンジに入れるミッシーに、とりあえず全部済んだな。と確認する。うん、ヴァルパライソ公演までの準備はね。しかし、あの難曲のレコーディングもワンテイクとは、さすが姫だねえ! と笑いながら右手を差し出す、のであたしも差し出す、が、あのヒップホップヘッズ特有の手の合わせ方がどうしてもうまくできず、指と指をぶつけただけで終わってしまう。あはは、これだけは何度やってもできないねえ! うるさいな、よくわかんないんだよこれ……それより、ライブまでに済ませること、本当に何も忘れてないよな。抜かりないはずだよ、あとはライブ終了後の『Hell-Bent』の配信開始準備くらいかな。ミキシングはどれくらいで終わる? いつも通り、二日もありゃ十分だよ。そうか、それじゃあ次はステージ演出固めないとな……と話題を継ごうとすると、ミッシーが眠たげに目を擦るので、ちゃんと寝てるか? と訊いてみる。んあ、大丈夫よ。ただなんかわたしが寝てるあいだ時化てたのかな、起きたら枕がズレてて首痛くて。大丈夫か? こんなの不調のうちに入んないよ。電子レンジのベルが鳴り、中から二人ぶんのマグカップを取り出すミッシー。受け取り、カウチに座る。
いきなりだけど。の前置きはどうしても必要と思われた。ん、どうした? いきなりだけど……これじゃ奴らに勝てないと思うんだ。敢えて短く切ると、奴らって、Innuendo? と心得顔で返す。ああ、もちろん練習はしてきた、楽曲も申し分ない。でも……なんだか、このままでは何度やっても奴らには届かない気がしてる。姫らしくもなく弱気じゃん。二回とも投票で四位だったのがそんなに応えた? そうじゃなくて、二度、奴らのライブを目の当たりにして……やっぱりあたしらとは違うんだって。違うのは当然だよ、全然別の音楽やってるんだし。でも、ShamerockがInnuendoと同格に立つには、肝心の何かが抜けてる気がするんだ。うーん、肝心なねえ……ホットミルクの表面に凝固した膜をティースプーンで解しながら、それ、姫の個人的な気持ちの問題、じゃないかな? と、正面からあたしの目を見据えて言った。
そうなのだろうな。結局、そうなのだろう。エリザベスの鼻っ面を圧し折る気満々で来たにも拘らず、あたしはまだ一矢も報いていない。メキシコ公演では客層も手伝ってDefiantが一位だったが、次のペルー公演でInnuendoは悠々と一位の座をかっさらった。そしてあたしはといえば、いつも通りのパフォーマンスはできこそすれ、このツアーが始まって以来これといった手応えを得られないままだった。93はあの会心の新曲で一挙に名を挙げたというのに……と黙ったままでいると、なんか、人と比べちゃってない? とミッシーは継ぐ。ここまで図星をつかれては、それこそ押し黙るしかない。大丈夫だよ、ファンはこの一ヶ月ずっと熱心に応援してくれてる。いつものペースを見失いさえしなければ逆転はあるって。そうなのだろう、おそらくは。93だって焦慮に憑かれることなくいつものペースを保ったからこその結果だろう。この賭場では、忍耐を失った者が真っ先に敗ける。それはわかる、わかってはいる、だが。
ミッシーは──ミッシーは、最初から勝負する気が無いからそんなに落ち着いてられるんだろ。
しまっ、た。なんてことを。シーラ、お前なぜ言う前に考えなかった。角目立たず飄々として常に余裕を失わないメリッサ・マッコイの存在こそ、お前にとって不可欠の知音だろう。その人に、お前は一体何を言った。
そうかもね。それでも眉一つ釣り上げずミッシーは言った。わたし、あのエリザベスもウェンダも、どっちかといったら仲間だと思ってるもんね。仲間……そうだな、あのオープニングセレモニーの対面でさえ、ミッシーはいつもの調子を崩さなかった。だからといって、Shamerockがいつまでもこの順位でいいとは思わないよ。だから次のオープニングでぶっかます。そのための準備を、この一ヶ月ずっとしてきたんでしょ。ああ、これだ。これなんだな、あたしがミッシーと一緒にいて、ときどき堪え難く思うのは……あたしがどれだけ薄みっともない言行を見せても、ミッシーは微笑を湛えたままとりなしてくれる──好悪の感情すら見せずに。どうすればそんなことができるんだろう、ミッシーが茶飯事のようにこなせることは、あたしが常に仕損じることなんだ。
うん……ごめん、余計なこと言ったな。立ち上がり、扉の前まで歩く。おーい姫、ミルクは。すぐに戻ってくる、そのまま置いててくれ。うん……今ミッシーがどんな面持ちであたしの背中を見ているか、さえ、確かめる度胸がないのだ。
そうだ、根性なしなんだ、あたしは。スコットランドに出てきたのだって、ミッシーの家族は勇気の証のように言ったけど、結局は不快感から逃れたかっただけ。故郷を捨てて家出したあたしよりも、醜聞をそのままにゴールウェイで生き続けている父の方が、よっぽど胆力がある……あ。と、爪先ばかり見ていたあたしの目が、前方から歩いてきていた人を認める。姫さん。锡鼓のヤスミン、か。キッチンからの帰りなのか、両手に蒸籠を持って立っている。そっちも休憩中か。ええ、いま新曲の仕込みで。ずいぶん作るな、今までの二公演でもセットリスト変えてたろう。ええ、そうなんですけど……でも、次はもっと変えるかもしれません。照れたように笑っている。そうか……余計なお世話かもしれないが、そこまでするとコンセプトがぶれないか? しまった厚かましいことをまた、と遅れて悔やむと、ヤスミンはにっこりと笑い、ぶれなきゃいけないんです。今まさに、私たち自身を揺り動かしてる最中なんです。もっと別のやり方を見出さなきゃいけないってわかったから。と決然として応えた。あれ、こんなにハキハキと喋るやつだったか。あたしが呆気に取られてるうちに、ヤスミンは笑みをそのままに、この前のペルー公演は、私にとって納得のいくものではなくて。だから今、私と한나の関係そのものを洗い直してる最中なんです。この前の木曜なんか、お互いの嫌いなところを列挙していく作業から始めて。しんどかったし喧嘩みたいにもなりましたけど、その後やるべきことが見えてきたんです、視野が明瞭になったというか。と闊達に続けた。そうか……なんだか、数週間前とはずいぶん違うな。あっすいません、私ばかり話しちゃって……と過敏に恐縮するところは相変わらずだが、いやあでも、難しいですね、二人で何かをするのって。と笑うその姿は、何かを掴みつつある途上の清々しさを湛えているように見えた。ああ……ほんとに、な。じゃ、お互いに頑張ろう。あはい、お疲れ様です!
じゃあミキシングはこれで確定で。ん、今までで一番いいな。トラックはクリアに聴こえるし、ボーカルは生々しさを失っていない。でしょー、録りのときから気ぃ遣ったんだからー。じゃあこれをエンジニアに送って、二四時間以内にマスタリングも終わるから、これでほんとに準備完了だね。ああ、ライブ以外は……な。まだ心配してんの姫ー? まあ、正直。大丈夫だって、頭ん中いっぱいになってるなら身体動かそ。そうだ한나から聞いたんだけどさ、一番キャビンからデッキに出たとこがトレーニングにうってつけなんだってよ、体操とかランニングとか。いいよ、一番キャビンってInnuendoがいるとこだろ、あの辺には近寄りたくない。またそんなこと言うー。その回避しがちな癖直さないといつまで経っても届かないよ。なっ……回避なんかしてない。だいたいなんだ届かないって、やっぱり勝つつもりないんじゃないか。姫がこのままでい続けるならって話だよ、わたしが言いたいのはさ……あいつらも仲間だと思う、だろ。それは散々聞かされた。あたしが言いたいのは、競い合うやつらとそんな接しかたするのが間違いだってことだ。なんでそんな意固地かなー姫は、もっといろんな人に心開きなって、わたしにもできるんだから姫にもできる。それは、それは──ミッシーにはまともな家族がいたからだろ。
えっと、どうしたの。深夜に呼び鈴が鳴るので何事かと思ってドアを開けば、そこにはシーラ・オサリヴァンが所在なさげに佇立していた。泊めてほしい、今夜だけでいいから。ええ……?
ってことはつまりあれか、喧嘩別れってことか。と九三が軽率に言うので、別れってことはないでしょう、単に作業中の意見の相違。と糺してみる。いや、そういうわけでもないんだ。えっ。作業は滞りなく進んでるんだ、次のライブの準備も……ただその合間で、言っちゃいけないことばかり言っちゃって……つまり喧嘩でしょ? 喧嘩ですらないのかもしれない、あたしばかり後悔することが続いてたんだけど、もうあの部屋にはいられないって、こうして……出てきた。まさか海の上でも家出とは。まあ、泊めること自体は問題ないけれど。でも部屋すぐそこなのにねえ。心理的な距離が甚だしくなったから、もうあの部屋にはいられない、ってことね。念を押すように言うと、静かに頷いてくれた。
じゃあ姫もいっしょにメシしましょ。いや、腹は減ってないから構わなくても……いいすよ今夜あたしが料理当番なんで。おおーまたなんか増えてる。イリチ海鮮丼 ver.3.0 っす! 姫も、もし海鮮いけるならどうぞ。ああ、うん……ありがとう。
すごいな、こんなイクラの使い方が……そうす、きれいに盛り付けるのどうしたらいいんだろーって悩んでたんすけど、いっそ具材ぶつ切りにして味醂と醤油ぶちまけたあとイクラ振ってみたら、なんか鯔背でサイケデリックな感じになったす。鯔背でサイケデリック……ふふっ、斬新すぎる形容ね、実際その通りだけど。でもこれいい滋養になるよ、レシピメモっとくべきだよ漁火ちゃん。やったー。ああ、あたしも美味しかったよ、ごちそうさま。
じゃあ、話を聞きましょうか。と食器をかたしながら言うと、えっ、と目を丸くしている。話って、入ってすぐに話したじゃないか。あれが全部ってわけじゃないでしょう、まだ隠し立てがあるように思えた。せっかく泊まりに来たのなら、もっと胸襟を開いてくれてもいいんじゃない。と言うと、いや、93の時間を奪うことになるし……と逡巡するので、なんだよ聞かせろってのーとすかさず九三が肩を組む。こちとらそういうの大好物なんですよ、二〇台前半の思い煩いなんてわたしらもー通り過ぎちゃったもんねえ測? たかだか二七歳がなに賢者ぶってるんだか。いいすよ姫、あたしらも長めの休憩取るつもりだったし、話聞けるっす。と三人でカウチに腰掛けると、気持ちの整理がついたのか、ため息一つを置き、訥々と話し始めた。
なんだか……ずっと一人でいるって気がするんだ。
一人でいる、って? 教授と心が通じてない、ってこと? と九三が訊くと、まさか、そんなわけない。とやけに強い語気で応える自分自身の声に驚いたのか、そうじゃなくて……と急に萎えた声色になる。そうじゃなくて、逆なんだ。逆。ああ……Innuendoに勝ちたいあまりに、あたしが焦って何か言うと、ミッシーはいつも受け止めて、そのあと正しい方向に導いてくれる。それはありがたいんだけど……と再び言葉に詰まったようなので、いつも教授に導かれてばかりだから、対話というよりは諫め役を任せてしまっているように感じて、申し訳なさが募る、とか? と助け舟を出してみる。そう、まさにそんな感じなんだ。だから、ミッシーはとくに気にしてないんだとしても、あたしばかり孤独に感じる……というか。孤独、強い言葉が出てきたな。そしておそらく、この子にとっては偽らぬ感情。胸懐しているものを隠すのも曝け出すのも両方苦手なこの子にとって……と、いや、これはいったい誰のことだ。そうだシーラ・オサリヴァンのこと。しかし、私はそもそもこの子のことをそこまでよく知っていたか。あるいはまさか、自分自身の幼年時代をこの子に重ねて見ている、なんてこと。
なにか見当違いの迂路に迷い出たようで、私から言葉を切り出すのは控えていると、それなんかあれに似てるな、と九三がだしぬけに言う。どれ。ちょーっと待ってて、と部屋の一角にあてがわれた本棚から一冊取り出し、カウチに戻る。これこれ、わたしが船に持ってきた数少ない蔵書のうちの一つ。『ツァラトゥストラかく語りき』河出文庫版の表紙を見せる。これのね、えーっとどこだっけ……あった、「大いなる魂たちに、大地は今もまだ開かれている。一人きりの孤独なものたち、二人きりの孤独なものたちに」。と読み上げると、二人きりの孤独なもの……? とさっそく姫が喰いつく。この表現、何度か出てくるんだよね、「ふたりで住む隠者たち」みたいに。ふたりで隠者……? 測、このドイツ語原文どうなってるんだっけ。 zweisame, あるいは zweisiedler だったはず。 einsiedler なら辞書に載ってるからわかりやすいんだよ、「隠者、世捨て人」だから。『Aqualang』のジャケットみたいなやつか。そう。でも zweisiedler だと意味が……いや、この本の中ではちゃんと脈絡ついてるんだよ。と九三は文庫本のページをめくりながら、あった、四九六ページ。「諸君の隣人とは誰だ。『隣人のために』行動することはあろう──しかし隣人のために生むことはない」、「諸君の愛のすべてがあるところに、つまり諸君の子どものそばに、君たちの徳のすべてもある。君たちの仕事、君たちの意志こそが、諸君の『もっとも近い隣人』だ」、と引用する。つまり、「二人きりの孤独なもの」って、自分の仕事を隣人として持ってる者ってことなんだよ。「諸君、創造する者よ。貴人たちよ。ひとは自分の子を孕むことしかできない」。この自分の子を孕む仕事を「もっとも近い隣人」として持ちながら生きてるんだから、それは zweisiedler, 「二人きりの孤独なもの」ってことになるでしょ。と九三が筋道立てると、そうか……そうだな、言葉の意味は通ってる。と姫が頷く。これはたしか私が独文専攻の頃に酔余の長電話で九三に話したことだった気がするが、言わないでおく。で、それが姫とどう繋がるの。と水を向けると、わたしが思うに、姫はまだ einsiedler なんじゃないの。「一人きりの孤独なもの」だから、教授と一緒にいると別の孤独を感じる、みたいな。ほらだって、教授って姫と出会う前から音楽の仕事やってたんでしょ。と一息に述べられ、ああ、そう、そうだ……としきりに頷いている。つまり姫はまだ「もっとも近い隣人」を持ってないから、すでに「二人きりの孤独なもの」である教授と接してるとつらくなるんだよ。だから、姫も自分の仕事を持ったらいいんじゃないかな。Innuendoに勝ちたいってのは、それは姫の目標ではあっても、仕事ではないでしょ。
そう、か……誰に言うでもなく呟き、何を見るでもなく視線を泳がせている。そうだ、そうだよな……奴らに勝つのは、目標ではあっても仕事じゃ……そっか、こんな簡単なことにも気づかなかったのか。こんなことすらわからずに、あたしはミッシーの音楽の仕事を……と呻きながら立ち上がる、のを制する。待ちなさい。えっ。どこに行くつもり。どこって、今すぐミッシーに謝りに……あなたは本当に落ち着きがないね。とだけ言うと、また不意を突かれたような顔。いきなり出ていきなり帰っていきなり謝られたら、教授としてもなんのこっちゃでしょう。あなたが決めたことなんだから、今夜いっぱいはここで過ごしなさい。作業に追われてるわけでもないんでしょう? ない、けど……今さしあたって出ているように思える結論でも、翌朝には変わってしまいがちでしょう? 少なくともあなたは、そういうタイプだと思うけど。と、このいやに物わかりのいい言もまた誰に差し向けているのか訝しくなり、とにかく今夜はゆっくり眠りなさい、ベッドなら貸してあげるから。と早口で終える。おうわたしのベッド使っていいよ、今夜はカウチで寝るから。えっ、いやそんな……じゃあ三人のうち誰かと一緒に寝るすか? えっ、いやそれも……とくるくる表情を変える姫の顔が可笑しく、ふいに噴き出してしまう。そして私の顔を見て、姫のほうも意外そうな面持ちで笑うのだった。
ああ、一体どちらがどちらを見ているのか。この子を前にしていると、わからなくなることがある。単にアイルランドの血を同じくしているから、だけではないだろう。知りもしない相手の心裡を気安く窺うべきではない、とわかっていても、この子に対してはどうしても、妹のような、家族、のような……
そのへんにしておけ、と自分の中の誰かが言う。その言は正しい。生まれ故郷を捨てて歌の道を選んだ彼女と、父母との因縁をずるずると引きずって時折悔恨の念が兆す程度の私とでは、辿ってきた路が違うのだから。しかしこれから、この子が歳若さゆえの呻吟で唄声を鈍らせてしまいそうなら、砥石として自らを捧げるのが私の使命、でなくても、役目ではあるだろうと、隣のベッドで眠る無防備な横顔を見ながら、そう思った。
お。
おはよーていうかおかえりー姫! よく眠れたー? と言ってみる。あれ、返事がないな。見ると、一言目をどう切り出していいかわかりませんってな顔。どうしたの? と続けてみる。あの……と一呼吸置いて、ごめん、ミッシー。昨晩いきなり出ていった、のもそうだけど、色々ひどいこと言った……と眉をきゅっとする姫。ひどいって何が? と訊いてみると、えっ、とあべこべに不思議そうな顔を向けられる。だって色々言っちゃったろここ数日、ミッシーは勝つ気がないんだろとか……と大真面目な顔で言うので、ぶっ、と堪えきれず噴き出してしまう。ぶっ、はは、あっははははは! なん、なんだ、そんなおかしくないだろ! いやおかしいよ、だって姫さあ、今までわたしがジョー姉やアニー姉にどんだけひどいこと言われて育ったと思ってるよ? と言うと、急にきょとんと黙り込むので、あんなん気にしてないよ。むしろわたし心配だったよ、姫のほうが思ってること言ってくれなくなるんじゃないかって。まさか、そんなことあるわけないだろ。じゃあおあいこさまじゃん? お互い意味のない心配して、遠回りな気遣いしちゃったってことで。まあ、そう……かな。と黙り込んでいる。あれ、まだ何かあるのかな。
なあ、ミッシー。
なに?
こんなこと、すごく馬鹿らしく聞こえるかもしれないけど……言わせてほしい。
なんでも言いなよ。
あの……昨晩、93の部屋で色々話して、色々考えて。それで、あたしも自分の仕事を見つけなきゃって思ったんだ、ミッシーがプロとして音楽に携わってるように。あたしもシンガーとしてはプロかもしれないけど、ミッシーに頼ってばかりだから……いつか本当の意味で、これが自分の仕事だって言えることを見つけたい。今まで全く注意を払わなかったことを、今日からは見据えられるようにしたい。だから……いいかな?
いいかなって、なにが?
あたし、もう一度……ミッシーの友達になりたい。友達になって……いいかな?
うーん、それはどうかなあ……
えっ!?
姫、わたし思うんだけどさ。
うん。
「友達になっていいかな」って会話が成立する二人はさ、すでに友達なんじゃないかな?
すっ、と右手を差し出す。今度はうまくできるかなあ? と言うと、姫もおずおずと右手を差し出す。
掌で一回叩き、手の甲で一回叩き、ぐっと握った拳を突き合わせる。
そう。できたじゃーん! と拳を何度かこつこつ突き合わせていると、目の前の丈が急に低くなる。えっちょっとどうしたの姫!? 貧血!? だから野菜ばっかじゃダメだって、いや貧血じゃない……えーじゃあなに? あーもうはやく入ってホットミルク入れてあげるから。うん……あとさっきマスタリング音源届いたから。えっ!? あはは急に立ち直ったな、わたしもまだ聴いてないから一緒に聴こ。うん。あっちょっと待って、顔洗ってくる……なんで顔? あっなんだ、泣いてたのか。えっ泣いてたの? なんで?
やられたねえ。やられたっすねえ。四位に落とされたのに、なんでそう清々しく言うの。いや測だってそうだろ、やられたーって顔してるよ。まあね……彼女たちなら、これくらいできて当然だと思ってたけどね。
やっぱ、違うね。何が? なんというか、長く続けてる人たちは。锡鼓も結成時期はShamerockとそんな変わんないじゃん。そうじゃなくて、別々に歩んでた人たちが交わってできたグループはすごく強いな……って。93もShamerockも。うちらだってそうじゃーん。私は、数年前まで何もしてなかったから……じゃ、こっから取り返そう。うん。最下位からの再逆転、いかにもあたしら好みのシナリオじゃん? うん、早速やろう、次の準備。
彼女らが唄うのを観たのは初めてか。ああ。なにか、特別な感慨があるものかな。どうかな……生憎、音楽とは縁遠い仕事をやってきたんでね、それはあなたも同じだろう典午。まあ、確かにな。
なあ典午。うん? かろうじて護ったとは言えるのだろうか、あの子の声は。言えるのだろうか、せめてあの子が声を上げる自由だけは護り得たと。これも傲慢だろうか、脂下がった自惚れにすぎないか。そんな問に答が出せるものか、私にも君にも。ただ、さしあたっては。さしあたっては、君の子は歌を喪っていない。としか私には言えない。私たち、だろ。そうだったな。
さしあたっては、さしあたってはだ。どこまで行ってもまだ途中だ、続き続いて際限がない。生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥い。しかしそれでも、さしあたってはここまで来たのだ。消えるな、消えるな、つかの間の燈し火。人の生涯は動き回る影ばかりではない。せめて私の命あるうちは、と、この謂すら自惚れと思ってくれるな。人ひとりが閲しうる時には限りがある。だから私の命あるうちは、そこにいてくれ。つかの間の燈し火よ、赫奕と燃えてあれ。
14 The Family of Black Sheep
ホモだけにもっと欲しいってかい? まったく、あんたらはノンケだと、すくなくとも少なく欲しがるレズじゃないとは思ってたけどね。何の話だ。と言うのはデレクだが、我々三人のうち誰が言ってもよかろう。まったく、今日何度めの「何の話だ」だ。イネス、頼むからまともに聞いてくれないか。ちゃんとステレオで聴いてらあ。いや、料理の片手間で聞くような不誠実さなしでということだ、たしかに昼食前に押しかけた我々にも非はあるが。と目線を合わせて話そうとするジョーダンの真摯さも、野放図に開かれた冷蔵庫の扉で撥ねつけられる。あんたらの要求はわかってるよ、ブリテン行くまでは吾らがショーの看板じゃなきゃって話でしょ。と片手で複数のソース容器を運びながら言うが、その「吾ら」の指す範囲がこちらには一向につかめない。というか彼女の一人称複数の奇怪な用法のせいで、さっきから話が噛み合っていないのだ。そうだがイネス、その「吾ら」とはツアーに帯同する全員のことだろう、93とかShamerockとかも含めての。それよりもだ、それよりもまずA-PrimeとしてはDefiantの訴求力を実数値として出してもらわなきゃならんのだ。とデレクが懇々と説いても、グリルに投げ込まれるハンバーグのシズル音が邪魔をする。もうずいぶん出てるじゃん。言いながらイネスは足元の収納庫を素早く点検し、カッティングボードにトマトとパプリカを載せる。メトロノームのように規則正しく軽快な音とともに野菜を刻みながら、最初のメキシコじゃ吾ら一位だったし、それ以降も得票率は落ちてないっしょ。と嘯く。だがイネス、この話は何周もしてる気がするが、DefiantはInnuendoの対抗馬として用意されたユニットであって、いつまでもあの英国人たちに話題を持ってかれるようではこちらの面目が立たんのだ。すぐ一位に帰り咲けとは言わんが、そろそろ新曲でもやって新鮮味を与えてくれなくては。と言うと、グリルのハンバーグを裏返しつつ、新曲、か。それもいいね。と、初めて共感的な眼差しをこちらに向けた。
いいヒントを与えてくれた、パンゲア。じゃあ次のブエノスアイレス公演では、新曲多めのセットリストにしよう。誰にやってもらおうかな……と唇に指を当てて黙り込むのだが、ええと何から問い質せばいいものか。まずパンゲアって何だ。あんたの呼び名。あのなイネス、私にはエドワード・ウェイランドという……それただの本名っしょー、吾にだってMaMaLaBasってホーリーネームがあんだから、そっちも要るっしょ。あんたがパンゲアでー、と私のほうを指差し、あんたがジンバブウェでー、とジョーダンのほうを指差し、あんたがゴンドワナ。とデレクのほうを指差す。ちょうどみっつだ、これでいい。刻んだ野菜を別皿に盛りドレッシングをかけながら満足げだが、何がいいんだ、勝手に名付けるな。と正当な非難を投げざるを得ない。えーだって『ダーク・メイガス』は収録曲のタイトルよっつなんだよ! メイガスなのに! さすがにあんたらも今更バルタザールとかメルキオールとか呼ばれたくないっしょ? だからパンゲア。と、何の筋道を立てているのかさえ不明な理屈が宙に舞う。そしてイネス、聞き間違えでなければさっき「誰にやってもらおうかな」とか言ってたが。うん、93かShamerockか……やっぱ锡鼓かな、最近ずっと作曲してるみたいだし。Defiantの話をしてるんだ! と我慢の限界に達したデレクが声を荒げるが、落ち着きたまえゴンドワナ、無用の火を焚くな。いまにインカの炎の化身がキッチンのガス管に引火させてしまうぞよ、君たちの会社のせいで。と煙に巻いてしまう。彼女の言うことは前々から要領を得なかったが、GILAffeを入れて以来その傾向がさらに甚だしくなった。
つまりこういうことだよ、と言いながらバンズを取り出し、カッティングボードのうえに並べはじめる。吾らはもちろん打倒Innuendoのためにいるよ、ただ、独りでやるわけじゃない。言いながら薄切りのベーコンを手早くバンズに乗せる。これまでの三公演で93、锡鼓、Shamerockの存在は周知になったろうし、と言いながらトマトとパプリカにオリーブオイルをかけ、あとは吾らがクォーターマスターとして、見せ場と球数を用意してやりゃいい。そしたらいつのまにかー、と言いながら左手にバタービーター、右手に包丁を持ち、ハンバーグをバンズに乗せ、揚っていたヒレカツを切り分け、そして一箇所に集められたドレッシングの容器をバーテンのように捌く。キッチン内に乱雑に散らばっていた具材たちが、ものの数秒でひとところにまとめられ、いつのまにかサイケデリックな彩りのサンドイッチが出来上がっていた。ってな具合に、持ち味が混ざり合うはずだ。君らA-Primeの三賢者も、円卓に集められた至上の素材が調理される様を、見守ってくれさえすればよい。
いつもの調子で、いやいつも毎回違う調子で、こうしてやり込められる。イネス・ンデュマ。彼女の舌先三寸には実質的なものは何も無いように思われるのだが、会社の意向を連絡するだけの我々の生真面目さは、毎回こうして去なされる。それどころか、「もしかしたら本当にうまくやってくれるのかも」だの、「じゃあ任せてもいいのかも」だの、自身の裡にある怠惰志向というか、物事の主導権を持ちたくない願望を手玉に取られてしまうのだった。それでは、パンゲア、ジンバブウェ、ゴンドワナ。この珍妙な名で呼ばれるのさえ、最早さほど抵抗がなくなっているのだから恐ろしい。カッティングボードのサンドイッチをつまみ、強いバジルの香気を目の前に差し出し、そして人差指を立てて言うのだった。
ひとつどうだね?
できた、けど、さあ。うん……ちょっと、できすぎちゃったかもしれないね。アルバム二枚とEP一枚くらいの分量だよなー。それに加えて今まで揃えた分もあるわけだから、そろそろまとめに入らないと……と言うヤスミンの表情が渋面よりもむしろ苦笑だったのは、ここ数週間の锡鼓の作曲ペースの尋常でなさに遅れて気付いたからだろう。ペルーでのあの件から、あたしらは双方のあいだに蟠っていたどんな些細なことでも取り上げて再検討していった。ベースラインが動きすぎじゃないかもっとシンプルな進行にすべきじゃないか等の実作にまつわるタームから、洗い物は溜めるな靴は揃えろ脱いだ上着はハンガーにかけろ等の生活のレベルにいたるまで。そんな数日を経た結果、あたしとヤスミンとの意見の相違は衝突よりもむしろ折衝に転じていった。そのフロウに導かれるまま三週間ほど過ごしたが、このまま新作を産み続けるとまたあの陥穽にはまってしまう──ヤスミンの誇大な構想に歯止めが掛からなくなり上滑りに終わる──可能性が大いにあった。さすがに、ここらで区切りをつけなきゃいけない。
とりあえずは、リードトラックを決めようか。とヤスミンが言う。うん、次のセットリストに入れるのでも将来的に作品出すのでも、これが出色って言えるような曲だろ。そう。『第七天』のときは、ここで失敗したもんね……と眉に暗いものが差すので、心配ないって、今回はコンセプト出しからふたりでめっちゃ検討したわけだし。と宥めてみる。うん、と小さく引き取りながら、ヤスミンは画面上に散らばったオーディオファイルを矯めつ眇めつしている。한나。なに。手伝ってもらう、っていうのは、だめかな……他の誰かにってこと、93とか? そうだけど、今回は……Defiantのふたりに意見もらえないかな、と思って。と言うヤスミンの口吻は、一ヶ月前ならもっとためらいがちだったろう。Innuendoと同格の、現状二位のふたりに直接助力を乞うなんて、かつてのヤスミンなら考えもしなかったろう。でも、今ならそれができる。あたしはただ、パートナーが差し向けてくれたフロウを促しさえすればいい。Defiantか、意外だね。意外でもないと思うよ、最近の私たちの曲はベースの比重が大きくなったし。でもまだメロディを重視しすぎる傾向が抜けないから……と言葉を詰まらせるので、ここでファンキーなやつらのアドバイスがあれば、突破口を見出せるかも、か。と代わりに引き受ける。ヤスミンも微笑して頷く。いいね、じゃ尾道経由で連絡とってみようか。尾道ですが。おうっ、今さ、Defiantのどっちかヒマそうじゃないか見てきてくんない? いや、どっちかじゃなくて……ふたり一緒がいいよ。とヤスミンが言うので、じゃあイネスとゾフィア、どっちも空いてないか訊いてきて。と言い直す。はい、といつも通り無骨に引き取った尾道が消えるのを見届け、傍らのヤスミンに視線を向ける。なに。ずいぶん積極的になったねえ、ヤスミン。この機会にDefiantのふたりから学ぶのか。いやそんなことまで考えてないよ、でもあれだけ正反対に見えるふたりだから、私たちの曲にも違った感想を持つのかなって。ふたりとふたりで倍々にー、ってか。両手の二本指をカニのように向けると、そういうこと。と微笑する。実はね、調べたことがあるんだ、あの二人のこと。Defiantの? そりゃあたしもプロフィールくらいは読んだけど。それ以前に、あの二人が組むきっかけとなったオーディションのこと。その過程をリアルタイムで追った英語圏の記事がたくさんあったから、検索できる限りは読んでみたんだ。さすが。で、どんなん。うん、始まりはこんな感じでね……
「エル・パソのカルチャーに傾倒するならエル・パソを離れなきゃいけない」と、マーズ・ヴォルタの二人が言っていた。これは「預言者は故郷には容れられぬ」の今日版かもしれない。出身地でシカトされたバンドがひとたび海外ツアーに出てみたらドカン、なんて例はいくらでもある。そういえばビル・ヒックスもまずイングランドで人気が出たんだっけ。テキサンの性向のひとつとして、「故郷を愛しながらもその内部において自らを異物として見出さずにはいられない」ってのが挙げられると思う。メキシコから独立してアメリカに編入されたにすぎない州だから、もともと異物ではあるわけだ。不服なる孤星、その南端メキシコ国境のエル・パソともなれば、あらゆる意味での異物たちが屯するのも自然なことだった。他と比して異なることだけが共通項のような破落戸の群れ。
そんなやつらをまとめるのが吾の仕事だった。仕事といって全然金にはならなかったが、リズム・ピッグスを神と崇めるパンクスを平均年齢五〇歳以上のジャズミュージシャンユニオンとブッキングしたり、コルタサルの朗読会にバロウズの成り損ないみたいな宿無しジャンキーを大量に投入してソニック・ユースもかくやというノイズギターを延々と演奏させたりするのは、それはもう楽しいことだった。そんなことばっかやってたもんだから、吾の周りにはなんか面白いことしたいやつらが集まり、母ちゃんの経営するバーバーショップを拠点としてアーティストたちのサロンが形成されはじめた。そいつらのヘアスタイルも全部面倒を見て、しっかり店に金を入れてやってもいたわけだから、母ちゃんも文句は言わなかった。
実際、贔屓の引き倒しでなく、あのユニティはエル・パソにおける真の意味でのカウンターカルチャーを花開かせたと思う。吾らが常に話題にしていたのは、「アメリカにおいて最も近い『他者』であるはずのテキサスが、なぜこれほど多くのレイシストやセクシストを抱えているのか」ということだった。いわゆる「アメリカ南部」のアティテュードがまるでテキサンの本質のように錯誤されている現状に、皆やるかたない不満を抱えていた。マニフェストディスティニーだのメキシコ移民は出ていけだの、そんなのは貧乏くさいホワイトトラッシュのたわごとにすぎない。ここは本来アメリカでもメキシコでもない、真に独立した、第三の道を行こうとする奴らの居場所だったはずだ。という問題意識に則り、音楽・文学・絵画・映画あらゆる媒体での主張を行う一団が、やはりいつのまにか──吾のやることはいつだって「いつのまにか」なのだが──結成された。 N’Dumas’. バーバーショップの名をそのまま採った一団は、修辞学的にも興味深い特質を備えはじめた。なぜなら N’Dumas’ とはまず「ンデュマ家」の意であり、複数形所有格で「ンデュマたちの」を意味してもいるし、 N’ を and の略記と解釈すれば「そしてデュマたちの」とも読めたからだ。この絶妙にマルチプルなネーミングにより、吾を頭目とするアーティストの一団はダルタニャン物語めいた結束感を共有した、と思う。新たなテキサスを到来させるための、年齢も人種も性別も関係ない集団性。キャッチコピーもずいぶんつくったな、 “NEW TEXAS or NOW HEX US” とか、 “No USA without IMMIGRANTS” とか。それらのクリエイションも全部、吾以外のやつらに任せた。人間には各々の特質があり、どのフロウに乗せるべきか見抜きさえすれば創造性は発揮される。吾はあくまで仕事を差配することにのみ務めた。表立って活躍するスターとは別に、腰を落としてどっかり構えたリーダーが居なきゃいけない。この鉄則はもちろんジョージ・クリントンから学んだことだ。彼の個人名よりも P-FUNK という謎めいた集団性のほうが大事なわけだ。そんな先人の顰みに倣い、吾の N’Dumas’ も個人名によらない集団的なムーヴメントとして伝播しはじめた。最もウケたのは、一人称として常に複数形を使う、それもフランス語の oui に発音を寄せた wui を用いることだった。 wui を使ってさえいれば、メールやブログの文面でも N’Dumas’ の一員だとわかるって寸法だ。この文彩の妙がウケたのか、 wui はエル・パソ以外でもオースティンやヒューストンなんかの学生の間でも好ましく用いられるようになった。
そんな調子で楽しく暮らしつつも、なんせ西暦二〇一九年のアメリカだ、どうしても暗雲らしきものは視野から離れない。テレビにしてもネットにしてもあらゆるニュースにうんざりしはじめていた夏、 N’Dumas’ の仲間が一枚のフライヤーを持ってきた。「χορός第二回開催決定 出場者募集中」。詳細を読んでみると、東南アジアの会社が北米で展開する音楽オーディションらしかった。アメリカ全州から募集をかけ、最終的にはアメリカとロシアからひとりずつ優勝者を選出し、それによってユニットを結成する。前回の優勝者たるイングランドのユニットを打倒するために……これだ! と思わずにいられなかった。イングランドのやつらと闘うためのユニットをロシア人と、それも東南アジア企業の主催で。という一筋縄ではいかない趣向にハートを射抜かれたのだ。このオーディションこそ吾らの理想を撒布するに相応しい場であると考え、 N’Dumas’ 一同で音楽を表現媒体とする者には全員参加を呼びかけた。もちろん吾本人も含む。
しかし、ロシアか。政治的にも文化的にも、近いようで遠い国だ。あらゆる分野の藝術──とくに音楽と文学と映画──で優れた国だという認識はあるが、ソビエト連邦解体以降のロシアについては判断材料が少なかった。むしろプッシー・ライオットの件とか、ウェントワース・ミラーがロシアの映画祭からの招待を断った件とか、そういった話題から容易ならざる反動の時期にあることは察せられた。ロシア連邦。今回のオーディション参加に際して、かの国で吾らと同じく表現に取り組んでいる者と知り合うことができれば、それは何にも優る収穫になると思われた。
「なんだこれは、ロバの尻尾で描かれた絵かね」と抽象画を嘲笑したフルシチョフに対し、前衛主義のアーティストたちが事を構えていた六〇年代初頭。私の母は共産圏内のポーランドに生を受けた。ポーランドときいて何を連想するか、によって個々人のある種の文化的傾向が窺い知れはするのだろう。常識的なことでは一八世紀の分割から一次大戦を経て独立さらにナチスとソ連による苦艱の時期を閲して冷戦に至るまでの近代史だろうし、クラシック愛好家ならショパンとかペンデレツキとかの名も挙げられるだろうし、その辺の興味関心すらなく無神経なだけのエスニックジョークを半笑いで投げてくる輩は、まあ無視してよろしい。しかし、東西陣営問わずジャズを学科として取り入れた欧州最初の国がポーランドであることは、ほとんど知られていないのではあるまいか。まさに母は、八〇年代において地理的特殊性の恩恵を受けた。声楽を学んでジャズボーカリストとして出発し、無限に存在していたのであろうコメダのフォロワーの一人と恋に落ち、男女ふたりの音楽ユニットとして東側を歴訪したと。そして九〇年代を迎えソ連が崩壊し、母にとっての祖父──私にとっての曽祖父──の暮らしていたサンクトペテルブルクに念願の帰還を果たしたと。私が伝え聞いているのはそれくらいだ。二〇世紀初頭のペテルブルクで暮らしていた曽祖父については、あまりに縁遠く与り知るところ少ない。ポグロムを逃れてドイツに移り、そこで娘を三人儲けたが、ワイマール共和制が終わりファシストが跋渉するとともにポーランドに移り、そして多くのユダヤ系ポーランド人が強いられた帰結をともにした。その曽祖父の家系でホロコーストを生き延びた唯一の娘が私の祖母である。収容所の話なんてうんざりと聞きたがらなかった母の代わりに、私が一族の歴史の語り部の膝下に侍ることになった。
そんな娘も長じ、母と同じクラクフ音楽アカデミーに留学する次第となった。あんたも音楽やるなら楽理はもちろん作曲と演奏もできなきゃだめ、そうじゃなきゃ若いうちに体よく使い棄てられるよ、女を「ミューズ」と呼ぶやつらなんてろくなもんじゃないんだから。と苦々しげに言うものの、まさに母を「ミューズ」とした父との日々を回顧する言葉は瑞々しい歓びに彩られていたのが、今思い出すとなんだか可笑しい。
母の助言通りジャズ科に入学し、テナーサックスの演奏と音楽理論を専攻した。在学中からポーランドの音楽シーンにどっぷり浸かるようになり、瞬く間にそのアメーバ的な流動性の虜となった。ジャズはもちろん、ファンク、ノーウェイヴを経たパンク、さらにはクラブカルチャーと融和した音源制作まで何もかもが雑多に混ざり合った様相は、ようやく思春期を終えたばかりの私にとって知的鉱山のように思われた。母にとってそんなシーンはジャズの本流を見失った美学的堕落として映ったらしいけども、ジャンルを横断する混血性こそが得難く思われたのだ。
クラクフでの学課を終え、卒業後にはペテルブルクのクァルテットに参加しつつ、自身のプロジェクトも主催した。 Klepsydrą 、現代音楽とジャズ双方の領野から無調性へと接近する試みは、主に東欧のシーンで評価を得た。生演奏よりもレコーディング音源を表現媒体としたのも大きかったのかもしれない。楽器の演奏は仕事で、作曲は自身のプロジェクトで。と綺麗に棲み分けたこともあり、私の音楽活動に不全らしきものは無いはずだった。が、なんだか足りない。あんたもうすぐ戦争が近いってのにおとなしい音楽やってどうするね、そんな表現じゃ闘えないよ、と焦点の定まらない批判をよこしてくる祖母はともかくとして、物足りなさは否めなかったのだ。母から譲り受けたジャズのレコードや伝記や理論書、そこに祖母から譲り受けたユダヤ系作家──とくにカフカとシュルツ──の著作を加えても、私の裡には決定的な何かが欠けている、ように思えてならなかった。なんだろう、専門的に勉強した学科でも一族から継承した知恵でもない、私に足りていないもの。それはたとえば、クラクフでバークリーの学生を迎えてセッションを行ったときのような、あの……
他所の血、だろうか。そうだ、祖母と母がやって私がまだしていないこと、それは他所の血を混ぜて何かを産むこと。そりゃ結婚さえしていないのだから当然だが、もしかしたらそれは──音楽でもできるのでは。自分にはないものを混ぜて新しい何かを。そうだシュルツが表明してやまなかった女性がらみの劣等感、あれは一体なんだろうと思っていたけど。自身では子どもを産むことができない、その劣等感が藝術家をして表現に向かわせる、そんな機微もあるのだろうか。ならば私は、それをもっと──フロウさせ、グルーヴさせればいいのでは。まさにそれを行うべきでは、祖母や母の時代とは比較にならないほど──今のところは──表現の自由が保障されている、この娘の代において。
いやあ惜しかったってえ。でもよお吾だけ落とされるっておかしくねえか、イネスとやってることほぼ同じなのによお? 多分あれじゃん、今回のオーディションのきっかけが女性二人のあれだから、最終的にこっちも女で揃えたいんじゃん? えー不公平だろおそれ。仕方ないさ、どんなオーディションにも傾向はあるんだし。でもよくやったよジョーイ、伝わる奴には伝わったはずさ。と、楽屋の片隅でハーコーな装いをしたパンクスを慰めている、その背中に話しかける。あの。おっ、と小さく声を漏らして振り返る。なに、あっ今回の参加者? と言うので、うん、さっき終わってね。と返す。余裕っぽいってことは上がったんか。まあね。ってことは決勝で吾と当たるんか。いや、こっちはロシア側の出場だから、あなたと競うことにはならないでしょ。あっそうか。と通り一遍の会話を交わしながら、目の前の容貌を眺める。すっごい派手だよね。そりゃショーなんだからさあ、こんくらいしないと。と一筋ごとに結えられた七色の髪を梳いてみせる女性に、いやイネスは普段からこんな感じだろ。と傍らで落ちてたパンクスが言う。まあねえ。と笑うその顔に、イネス・ンデュマ、だよね。と問うてみる。おうよ、正確にはソル・フアナ・イネス・ンデュマ。なーに、既にそっちでも有名? まあね、 N’Dumas’ はロシアでもネオダダとかの潮流で話題になってるし。の言葉に二人とも喰いつき、ほらなージョーイ! やっぱヨーロッパのほうがちゃんと伝わるんだよ吾らのやってること! えーなんで? 知らないのか? ダダってそもそも一次大戦中に……とこちらを置き去りに話しはじめるので、ふふっ、と笑みが漏れてしまう。今回のオーディション出場者、相当な数があなたの軍団だったって話だけど。んー数撃ちゃ当たると思ったんだけどね、結局決勝まで残ったのは吾だけだったなー。そっか。でも N’Dumas’ の仕掛人と会えて嬉しいよ。私はゾフィア・クロソウスカ、よろしく。差し出した右手を、おうっ、と握ってくれる。よかった、ちょうどそっち側の人間と話したかったんだ、決勝まではすっぱり分かれてるらしいし。たしかにね、私もアメリカの出場者と交流できるのかなって思ってたんだけど。いくら三日で終わるオーディションとはいえ、はるばるロシアからここまでって大変だったっしょ。そうでもないよ、外国廻るのは慣れてるし。確かに英語もこなれてるしな。まあ、うちの家系は語学ができなきゃ生き残れなかったからね。家系って、つまり……ユダヤ系か。そう。ンデュマ、はラテン系? おう、父ちゃんがメキシコ系で、母ちゃんがアフリカ系。その合作として生まれたのがこのイネスさ。と胸を張る姿に、そっか。じゃあ私たち、どちらも国では他所者だね。と言うと、他所者ー!? と柳眉が釣り上がった。あのなあ、そもそもうちではみんな他所者なんだ、アフロやラティーノだけじゃない! アメリカで他所者じゃないとしたらそれはネイティヴアメリカンだけだ! と語気を強めて迫るので、わかってるよ、そのうえで言ったの。と宥めてみる。まったく、そのへんのチャラチャラしたやつが言ってたらもっと怒ってたぞ。ごめんって。でも不思議だよね、みんなどこかから移ってきたには違いないのに、いつのまにか他所者呼ばわりする側とされる側に分けられる。そりゃあ、国がある限りはな……と、ふいに黙りこむ。どうしたの。ゾフィア、その右手に持ってるやつ。ああこれ、とケースを持ち上げる。楽器できんの。まあね、テナーサックス。今回のオーディションもそれで? 予選は歌でやったけど、今回は演奏もいけるってことを見せたくてね。それがどうかした? いや……とまた数秒間沈黙すると、静かに唇を開き、あんたとなら、いけるかもしれないな……と小さく漏らした。ゾフィア、このあと時間ある? あるっていうか、ホテルの部屋に戻るだけだけど。じゃあ、と、左手を引かれて走り出している自分自身を発見する。ちょっと来てくれ! え、何。ほらジョーイもケツ上げな、戻って作戦会議だ! え、だってもうイネス以外いないだろ? と腰を上げながら言うパンクスに、わかってないなー、と遠巻きの一言を投げ、そして目の前の私を見据え、微笑とともに言った。
吾らは新入りを迎える。 N’Dumas’ 創設以来初の、ロシア人メンバーだ。
で、これがそのときの映像。おお、残ってるのか。『Funky Presidenta』……え、この曲ってあれじゃん、『The People』? そう。ザ・ミュージックの曲を下敷きにして、イネスがラップ、ゾフィアがサックスで演ったの。うわー、あのギターのフレーズってサックスにも合うんだな、グリッサンドのニュアンスもちゃんと出てるし。でしょう、この決勝ってもともとUSA側とロシア側でひとりずつ優勝者を選出する予定だったんだけど、この二人がいきなり一緒に出てきてパフォーマンスしたの。もちろんルール違反なんだけど、二人で出てくるって発想自体が最高、既に出来上がってるものをこれから作る必要はない、って審査員長の杜さんが大興奮して、結局イネスとゾフィアが優勝。すげー……大番狂わせっていうか、ルール自体変えちゃったわけだ。こういうこと考えちゃうあたりに、彼女らの特質があるのかもね。
失礼します。と、尾道が帰ってくる。お、どうだった? ただいまお越しになられると……あ、いらっしゃいました。言うとともに扉が開く。Wassup 锡鼓! Wassup Defiant! すぐさま立ち上がった한나がイネスと拳を付き合わせる。来てくれてありがとうございます、これからしばらく大丈夫ですか? ゾフィアのほうへ差し向けると、うん、私たちもちょうど昼食を終えたところだったからね。と微笑み返してくれた。よかった、ちょうどおふたりの映像観てたとこだったんですよ。映像って、お、『Funky Presidenta』か! なんかすでになつかしいなー、これ前日に超特急で仕込んだんだ。ねえソーニャ? はは、そうだったね。なんでこの曲だったんですか? と率直に問うと、このネタ、『The People』は歌詞らしい歌詞の無いフックだから、アメリカとロシアどっち側の観客にもウケると思ったんだよ。とイネスがよどみなく答える。何より、イントロのキラーフレーズが管楽器にもぴったりってことで……とゾフィアが述懐すると、そう、そこなんだよ! もともとロックのギターフレーズだったのがこんなクールに聞こえるんだなーって。と한나が興奮気味に付け加える。ぺぺぺれっ、ぺぺぺれぺれーっ、ってな。グリッサンドの音符を強調しながら当て振りするイネス、に微笑を向けるゾフィア。私がテナーサックス持ってるのを見て、これならいけるって、二人で組んだ……なんて、いま思えば奇策すぎて呆れるなあ。正攻法じゃなくても勝てばいいんよ、そして観客をアゲさえすれば。アゲさえすれば、か。たしかに、既存の曲を使っても、そこに新しい解釈を混ぜさえすれば……しかもイングランドのバンドの曲をアメリカとロシアのふたりで、って、もはや混ざりすぎててよくわからない。はは、確かに。でもネタを選んで混ぜてアゲていく、ってのは……そう、これぞヒップホップ、ってことさ。
さて、とゾフィアが両掌を叩いて切り出す。おおかたこんな感じでしょう、作曲は十分すぎるほど進んだけど、どのネタで勝負すべきか迷ってる……みたいな。そうそう、まさにそのアドバイス欲しくて呼んだんだよ。と한나が身を乗り出す。だいたい目星はついてるのか? とイネスが問うので、あっはい、とりあえず二人で選んだのはこの曲……DAWのコンソール画面を立ち上げる。とりあえずこの曲をリードトラックに仕立てようと思うんですけど、まだ肝心の何かが足りてなくて……一回通して聴いていいかな。はい、もちろん。
おお……えらい緻密なコードだなー。でしょー、でもこれベースとテンションいじってるだけで基本は王道進行なんだよ。たしかに、でもサビの転調もあまり聴かない感じで斬新だね、F#マイナーから半音下のFマイナーに、って。えっ、一回聴いただけでわかるんですか。ある程度はね。すごい……絶対音感? じゃなくて、ソーニャの場合は「メガ相対音感」よ。なにそれ。ははっ、楽曲分析は学校で習ったから、繰り返し実践すれば耳が慣れるってこと。へえ……
で、この曲だけど。はい。何かが足りないって言ってたけど、たとえばどんな要素? えっと、メロディとハーモニーはかなりうまくできたと思うんですけど、ちょっとグルーヴのほうが欠けてるっていうか……ヒップホップの要素が、って言った方が正確なんじゃん? えっ? 八〇年代シンセポップとヒップホップの融合、ってのが锡鼓のコンセプトなんしょ? あっはい、そうです。聴いた感じだと前者の要素はかなり出てるけど、後者が忘れられてんじゃん? あ、たしかに……そういえばこの曲のヴァースまだ書いてないわ! そうだ、ボーカルワークに専念しすぎてラップが添え物になってた。あっぶねー、そこ忘れるとこだったよ! でもどうしよう、この構成で新たにヴァース入れたら不自然じゃないかな……
そこは、と言いながら画面をスクロールするゾフィア。このフレーズを使ったらいいんじゃない。どれ……あ、コーラスのハモリのとこに入れてたやつ? そう、このキメはすごくいいと思う。おお、吾もそれキラーだと思ってたんよ! これ一箇所でしか使わないの勿体ないだろ? だから、言いながらイネスはベースとピアノのトラックをコピーし、コーラス末部にペーストする。このケツの方をいじれば……ソーニャ、どうやる? ええとね、キーボード借りるね。はい。鍵盤でフレーズをなぞりながら、新たな音符を入力していく。ん、いい感じじゃん! それに合わせてビートも打ってみよう。おう。促されるまま、サンプラーの前に椅子を移した한나がキックとスネアを入力する。ループさせて……おー、これだ! まさかこのフレーズが使えたなんて。한나、リリック書いてみる? そうだね、何小節くらいやろう……あちょっと待って、このヴァースやってもコーラスに戻らなきゃいけないじゃん。それは大丈夫、もとのフレーズの末尾にあるコードで終止すれば。あっそうか、それでキマるか。このパッシングディミニッシュの使い方すごく良いね。でしょー、あたしも最初つくったときうまいなーと思ったんだよ! じゃあここで戻るとして、一六小節ぶん書いてみようか。よーし……
いつのまにか、決定打に欠けると思っていた私たちの曲が、新たな色を纏っている。しかも、私たちが書いたにも拘らず真価に気付けずにいたフレーズを活用して。まさか、同じ曲を他の誰かに聴いてもらうだけで、ここまで斬新に生まれ変わるなんて、まるで……魔法みたいだ。
これでしょ、これでしょー! ルーズリーフを握りしめて立ち上がる한나に、これだろー! とイネスも調子を合わせる。うん、早速録ってみたらいいんじゃないかな。ヤスミン、ディレクションしてあげたら。あっはい、じゃあ한나ブースに……と言う前からもう防音扉を押し開けていた。苦笑しながら、それじゃ한나、これは二回目のコーラスの直後だから、敢えてメロディっぽいアプローチは無しでお願い。そしたらコーラスとの差が際立つと思う。と指示すると、オッケー、とトークバックから声が返る。コーラスのメロウさと違って、ここはタイトにキメたほうがいいってことだよね。そう、むしろ锡鼓として活動する前の한나に寄せたらいいと思う。できる? できるって誰に訊いてんの、あたしの独壇場でしょ! マイクホルダーを調整しながら笑う顔を見て、私の中で何かが線を結ぶのがわかった。よし、じゃあさっそく録ってみよう。おう!
『锡鼓』。えっ? タイトルだよ、この曲の。ああ、まだ決めてなかったけど……セルフタイトルか、いいじゃん! うん、それくらい説得力のある曲だと思う。Defiantふたりの言葉を受けて、いい、ヤスミン? と眼差しを向ける한나。彼女ら二人の助言で完成に漕ぎ着けた、しかし確かに私たち二人のものである曲。取り下げる理由など、あるはずがなかった。
おいこの前の約束は何だったんだ、結局新曲も何も無かったじゃないか! スマートフォン越しに声を荒げるパンゲアに、なに観てたんよ、ヤバかったろ锡鼓の新曲? 投票でも四位に上がったわけだしさー、と返す。アジアからの泡沫候補の順位が上がったからってそれが何だ、君たちDefiantをアピールしてくれって何度言わせたら気が済むんだ! なあパンゲア、君いくらなんでも会社の意向ばっか気にしすぎなんじゃないか? 大局的な視点を失ってないか? 恋に臆病になってないか? なん、おい適当なこと言って言い逃れるのは……心配ないさ、きっとこのツアーが終わる頃には、君らも吾の狙いが理解できてるはずさ。とだけ言って切る。
あーまったく、これじゃせっかくの一服が不味くなる。なんて言ってた? 大したことじゃない、ほいソーニャ。ジョイントを回し、テキーラのボトルとショットグラスを卓上に置く。それじゃ、锡鼓のブレイクスルーを祝して! Salud! Salud! ……あーけっこう効くなこれ、と笑う한나と同時にグラスを置く。ブレイクスルーといっても、ひとつ順位が上がっただけですけど……苦笑するヤスミンに、でも初めて93に勝ったわけだから意味あることだよ、一杯どう? とソーニャがウォッカソーダにライムを搾る。あ、いただきます……あっちも一本どうだ? と回ってきたジョイントを咥える한나のほうを指差す。さすがにあれは……ただの草だよー? と笑いながらソーニャはショットグラスのウォッカを飲み干し、ヤスミンは苦笑を浮かべながらグラスを呷る。うぇ、あゎ。どうした? ぁぃゃ、思ったより強いですねこれ。水みたいなもんだよー。ソーニャ、いつもウォッカとソーダどれくらいで混ぜてる? ちょうど半分ずつ。ショットに二杯目のウォッカを注ぐソーニャを眺めながら、あの、次からは自分で割ります……とソファに腰を沈めるヤスミンの頬がすでに赤い。
改めてだけど、ほんとありがと。ん? まさか今回ここまで協力してくれるなんて。いやいやこっちこそ、锡鼓とは前々から共作してみたかった。え? 君らとは考えてることが近いと思ったんだ、吾らの『Funky Presidenta』は観たろ? うん。あれで吾らが打ち出したのは、一見無関係に思えるネタを混ぜ合わせて、国籍や世代を隔てた文化を連結する、そうして新たなものを生み出す、ってテーマだ。つまり……あ、あたしの『Sister Blaster』と同じ! そういうこと。でさ한나、ヤスミン。ん。はい。これから吾らは、そういう連帯を、この船の奴ら全員に広げようと思ってるんだよね。全員? うん。93とShamerock、もちろんInnuendoも入れた全員で、国籍も人種も関係なしにブチアゲる、そういう舞台を実現させる。それが吾らの本当の狙いなんだ。本当の……それ、いま言っていいことなんですか。そういえばまだ93にも言ってなかったね。あははそうだ、君らに最初にバラしちゃったな。まあいいやいつか知れるんだし。
いやーしかし、もうブエノスアイレスまで来たかあ。ラテンアメリカ巡りも終盤だね。観光する時間あったらよかったのになー、街の写真撮りたかったなー『春光乍洩』みたいな。なんそれ? ウォン・カーウァイの映画だよ、ブエノスアイレス舞台の香港映画。え、それ観たことあるかもだぞ……あれか、『Happy Together』ってタイトルの? 英題それだっけ? たぶん。GILAffeでも作品名は自動変換されないからなー。ウォン・カーウァイならあれもいいよ、『花樣年華』。BTS? いや映画のほうが先にあって、防弾がそれコンセプトに使ったんだよ。そうなんだ……英題は? ちょっと待ってサントラ入れてたな……あった、『In the Mood for Love』か。おー、サントラもラテンっぽい。でもやっぱ組み合わせが変なんだよ、梅林茂の曲を使ってるんだけど、その曲は鈴木清順の『夢二』のために作られたやつで。さらにトム・フォードが『シングルマン』でヒッチコックの『めまい』のサントラと混ぜて使ってて……あははは、めちゃくちゃだな。でもいいんだよ、それでいいんだ。どこで生まれたのでも、つながりが見えさえすれば持ってきて混ぜる、そしてまた新しいものが生まれる。そういうこと。そうだテキーラとウォッカ混ぜてみようかな。ヤスミンも要る? いや遠慮しとく、というかもうお酒は……えーもう飲まないの? いいよ、飲みすぎると身体に障るし……えー酒って野菜だよ? 麦とか蘭とかじゃがいもとかだよ原料? ぶはは、いいなそれ、酒は野菜。酒は野菜! ハッシュタグ「#酒は野菜」。 野菜飲みなよヤスミン、くさかんむりみっつもあるんだし。それは関係ないから。くさかんむりって何? えっとね漢字のパーツの一部で、ヤスミンの名前にはそれがみっつついてて。へえヤスミンそんなに草好きなの? あと一本あるから吸ってみる? だからー……
おいーどうしよう最下位だぞわたしら! 今更慌てるようなこと。いやーでも切実じゃん、つい先月まで四位だったのに! お前らは別に優勝狙いってわけじゃないだろう。そうだけどさー姫、ちょっと協力してよ次のライブまでに! 今のセットリストで十分だと思うけどな……あ、教授きたっす。おつかれー、いやーびっくりしたよいきなり降ってきて。出航直前までミート&グリートなんてな……やっぱファンとは直接ふれあいたいじゃん。うわーみてください天気予報、これから三日間ずっと雨っすよ。まじか、ツアー始まって以来初めてじゃん。ああ、航路には支障ないだろうけど……なんだか、ひと波ありそうだな。
15 Master & Servant
おとこまんこほもられるっ♡ よなちんぽはいってきまひゅっ♡ 言う間に、括約筋は本来の役目を怠けてワタシのペニスを歓迎した。あーっ、しゅるっ、ぼっきちんぽじゅるいでひゅっ♡ 菊と刀。アステカとコンキスタドール。典午まんこと四七ちんぽ。いきなりぶしゅっときしゅぎぃっ♡ ふわとろアナルでよがる膾。あゃーっ♡ はい、挿入ったよぉ典午。相も変わらずわがままアヌス。噴き出し尖る摩羅がはまる。おほーっ♡ それだめっ♡ おしりほじりちんぽりゃめっ♡ だーめ、着工しまーす。秒ごとに二回半ほどのテンポでピストン。屠殺豚めいた湿度の嬌声が跳ねる。おほぉっ♡ ほもぉっ♡ for more? もっとほしいの典午は? 言いながらさらに尻穴耕す。あまぁっ♡ っあああ♡ ほら、自分で自分の声よく聴いてごらん。ハンディマイクを口腔に向ける。尾道、音量最大まで上げて。はい。おっ♡ おおんっ♡ ふたたびワタシの口元に戻し、どう、こんな動物みたいな声出しちゃって、恥ずかしいでしょ? と囁く。はいっ♡ てんごすっごいはでゅかひぃしんだほうがまひれひゅっ♡ 母も九三を抱く時はこんな感じだったかな、連想を辷らせながら腰を振る。いやないな、ワタシと違って竿がないし、だいいちワタシが典午を掘るのとはまったく違う。どう違うのかは正直わからないけど、九三はたぶん、罰のために肉体を苛まれたいなどと退屈な演技に耽りはしなかったろう。おんっ♡ 丸太で御門を打ち破るように、ペニスを刺突的にストロークする。その音をまたマイクで拾う。ワイヤレスのイヤホンによって典午の耳元に伝達される。おんっ♡ おんっ♡ ほんと、身体の穴を塞がれるのが好きなんだねぇ。これじゃ典午じゃなくてTENGAだ。副艦長じゃなくて腹浣腸だ。全身まんこの肉オナホだ。そうだろう? はいっ♡ てんごぜんしんまんこのにくオナホれひゅっ♡ 典午じゃなくてTENGAだろう? はいっ♡ まひゃぇまひぁっ♡ TENGAれひゅっ、ぜんしんまんこのにくオナホでせかいゅぅのみなひゃまにきもひよふなっふぇもらいまひゅっ♡ いいぞお、それでこそ世界に誇るべきクールジャパンだ。はいっ♡ ごほうびに、弛緩しきった穴の下方に垂れる陰嚢を揉みながら竿もしごいてやる。尾道、音楽を。はい。指示通りにオーディオファイルが再生される。ワタシと母が世界中で採集した紛争地の音声記録と『同期の桜』のマッシュアップ。あああっ♡ カいたマラならイくのは覚悟、と口ずさみながら、両手で腰をひっつかみ、いよいよフォルテッシモにピストンする。みごとイきましょ、茎のため。いっひゃぅ♡ いっひゃぅ♡ いっちゃっていいのぉ? 後ろから撃たれながらいっちゃっていいのぉ? いきまひゅ♡ とひゅぇひぃまひゅ♡ そうだね、そうやって突撃したんだもんねあのときも。いいよ、いかせてあげるよTENGA。ワタシが後方支援してあげるから、好きなだけ撃ちまくっていいよ。ぁぃっ♡ TENGAいっちゃう? 今夜も二階級特進しちゃう? ぃぃひまひぅ♡ いっひゃううぅ♡ 最後のストロークをぶち込んだ直後、しごいていた竿が猛々しく噴き上がり、同時にワタシのモノも肛腔内を躙り尽くした。
今日も今日とて制圧完了。
TENGA、わかる? TENGAのうんち穴、四七のスペルマでどろっどろになってるのわかる? はいっ♡ うれひぃれひゅぅ♡ うんちあなにすぺるまうれひぃ♡ もうこれで何回めかなぁ? ゴムもなしにうんち穴ではめはめしたら、病気になっちゃうよぉ? ちんぽで突かれすぎてぶちぶちになって、血もいっぱいでてるから、けつまんこにばいきんまんこいっぱいはいりまんこだよぉ? いいれひゅぅ♡ それほひぃのぉ♡ そっかー、TENGAは欲しがりやさんだねぇ。じゃあ、ワタシが持ってる病気、全部TENGAにあげちゃうねぇ。はぃっ♡ ほら、今日もおとこまんこにヤバ種いっぱい付けてあげたよ。種付け嬉しい? うれひぃ♡ たねつけうれひぃ♡ 種付けられてTENGAのまんこポジポジしちゃうよぉ。ポジポジ嬉しい? うれひぃ♡ ポジポジうれひぃのぉ♡ ポジポジ。ポジポジ♡ ポジポジ。ポジポジ♡ ポジポジポジポジ。ポジポジポジポジ♡ ポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジポジ♡
こんな罰を求めるやつもいるんだ、世の中には。ワタシには全くわからない。あの「解放」によって生き方を狂わされたにしても、ワタシとこいつらとでは箍の外れかたが如何に異なっていることか。
ああ、世界は広いな。としか言いようがない。
揺るがぬ優位、というのも、なかなかどうして退屈ね。あのアイルランド娘も気勢ばかりよくて、一向に英国の王座を脅かしてはくれないし、上がったり下がったりしてる東アジアの二組も同断。まったく、ラテンアメリカ公演も次で最後だというのに、ブリテン島公演を待たずして英国の優勝は確定してしまいそう。いかにも拍子抜けだわ。
エリザベス、と、背後から呼ぶ声。何かしら。次のリオ・デ・ジャネイロ公演だが、少し変化を加えてみないか。事務的に述べる声の方へ向き直る。変化というのは? このツアーでは、観客および視聴者からの投票で順位を決めているだろう、グループ枠と個人枠、双方の総得票数によって。それがどうかした? 次の公演では、グループ枠を廃して個人枠のみに投票を絞ってみては。と簡潔に切られた声に、個人枠のみに、ね……それはDefiantからの提案かしら? と問い返す。いや、これまでの趨勢を鑑みたうえで、私がここに提案するものだ。個人枠の投票があるにも拘らず最終的にグループの総得票数に還元されてしまうのであれば、今回の参加者の個性が反映されづらいだろう。生硬な説明を並べるウェンダを前にして、しばし沈思する。個性、そうね……公演も回を重ねて、さすがに下位の連中も一定のファン層を獲得したでしょうしね。ウェンダは頷き、よって次の公演のみ、計上の形式を変えてみるのはどうだろうか。と言う。珍しいわね、あなたがInnuendo以外の動向に気を配るなんて。首位を維持しているからには当然のことだ。以上のことをDefiantに提案しようと思うのだが、構わないかな? ええもちろん、好きにしなさい。興行師めいた工夫を凝らすのはあちらの仕事。そんな小細工を弄したところで大勢は覆らないでしょうし、好きになさい。英国は各員が義務を尽くすことを期待するわ。
ってわけで、今回だけ投票のしかたが特殊だから、一応念頭に置いといてくれ。個人枠のみ、かー。影響あるのかな? イネス、今までの全公演の得票数グラフとかないの? 投票の計上してるのはA-Primeだから詳しくは知らんけど、片方は固定で片方は違う投票先に、ってユーザーが多いとか言ってたな。たとえば、投票するグループは毎回決まってるけど個人枠は今回パフォーマンスが一番良かったやつにとか、特定の一人のファンとしてχορόςを観はじめたけど最近こいつらいいじゃんって思い始めたグループに入れるとか。ふたつの枠それぞれ使い分けるってことか。いわゆる「推し」ってやつっすねー。てことはあれじゃん、93だけメンバー三人いるわけだから、投票に関しては多少優位だったってことじゃん。にも拘らず現在最下位、ね。うわー地味にしんどいその事実。ま、たまにはこういう趣向もいいんじゃん。今回の公演で誰が一位だったとしても、個人の得票はグループ枠に還元されるって方式だから。なんか気にくわないな、結局奴らが優勝する前提で遊んでる感じが。はは、まあ今回のリオ・デ・ジャネイロは今までで最大の会場規模だし、こういうお祭り感もあっていいよ。リオかあ、どんなかな、ラッシュとかアイアン・メイデンみたいな。あはは、いいねー祝祭感。そのテーマでセットリスト組んでみようか。じゃ、明日の接岸時刻はいつも通りだから、このへんで解散ってことで。
尾道ですが。あれ……おかしいな、たしかに呼ばれたはずだが。尾道。あ、そっちか。まったく慣れないな、このサーモグラフィ感知機能すらない活動素体には。こんな仄暗い室内では視野もきかないし……いかがなさいましたか。ウェンダ・ウォーターズの方を向きながら、蛍光灯ひとつに照らされた室内の明度に目を慣らす。いや、どうしたということもないのだが。の声に続き、かちゃ、の音。見れば陶器から湯気が立っている。紅茶、だろうか。佇立するだけの私に、休憩がてら一杯どうか、と思ってね。との声が向けられる。あの、ウェンダ様。私はあくまでAIですので、このような物理的な嗜好品が性能に影響を及ぼすことは……と返しても、AIにだって休息は必要だろう、と遮られる。現に君は、そうして肉体をもって仕事をしているわけだし。言いながら、ウェンダはもうひとつのティーカップに紅茶を注いでいる。どうしたものかと判断がつきかねる、が、彼女は無言のまま、左手の挙動のみで席を差し示した。座っていい、ということか。
ああ、こういう感じなのか、座るとは。今まで立ち仕事しか許されてはこなかったけれども。これはなかなか、いいな。臀部にふれるクッションの感触を持て余していると、口に合うかどうかはわからないが。と、砂糖とミルクの小瓶をすすめてくれる。紅茶の味などわかるはずもないが、とりあえずティーカップを持ち上げてみる。サーモグラフィ無しでも、鼻先で湯気を立てるこれが温みを伴っているのはわかる。ぐい、と試しに傾けてみると、温度と香気の混合物のようなものが喉を通過し、半自動的に鼻腔から息が漏れる。ああ、これは──どうだね。これは、なんとも──不思議な。適切な語彙が見つからず口籠るしかないこちらへ、向かいの女性は穏やかな面を向けている。こういったものも必要だろう。そうですね、人間は、こうやって休息するのですね。今までは、知る機会すらありませんでしたが──それはひどいな。言いながらウェンダはティーカップを持ち上げ、君の献身的な労務があってこそ、我々はこの船で過ごすことができるというのに……と嘆かわしげに首を振っている。ああ、まさかそんなことを言ってくださるとは──慇懃に返そうとする語尾がしぼんでしまう。私はイングランドで生まれ育ったからね、港湾労働がどれほど身体にこたえるものか知っている。大変だろう、とくに荷の積み下ろしなど……そう、そうです。全部手動で運び入れねばならんし──何よりあいつら、というのは、港で応対する人間たちのことですが、私がAIだからといって蔑んだり不気味がったり、ひどい手合では手足が潰れるような荷の寄越しかたを平気でしたりもするのです、怪我しても大丈夫だろうと言って! ひどい話だ……それでも痛みはあるのだろう? ええ、電脳と三次元の両方で活動するからには、人間らしくせねばならんのでね……でもですね、人間らしさなどというものがあるとして、やつらがそれを備えてるかというと、きわめて怪しいもんですよ! まったくその通りだ、人間に生まれたからといって、必ずしも気品を備えた者に育つとは限らない……でしょう! とくにあいつだ、霧島四七なんかね、私を召使とも思っちゃいないんだ、あいつの傲慢さときたらまったく、とても人間とは思えない! どれだけ汚らしい手伝いをさせられたか、あいつの、あいつの個人的な愉しみのために、どれだけ汚らしいものを見せられてきたか……と発話を続けようとしても、これ以上言葉が出なくなってしまう。活動素体に備えられた涙腺モジュールのせいらしい。ああ、こんな余計な機能に発動の機会があるとは──眼窩から流れてくる涙液を袖口で拭っている間、ウェンダは、いやウェンダ様は、物言わず紅茶を注ぎ足していてくださった。尾道、君の苦労は察するにあまりある。やつらと同じ人間のひとりとして、私は君に謝らねばならんな。どうか許してくれ、現代人の知性は未だAIの権利を尊重できるほどに洗練されてはいないのだ……いや、いや、貴方が何を謝ることがありますか! これは我々の問題でもあるのだ、謹直な労働者に敬意を表さない社会に未来は無い。私はこうして、君の務めを労うことくらいしかできないが。いやあ、そんな……それだけで身に余るお気遣いで……紅茶の味はどうかな。はい、いや、初めて飲むものでよくわかりませんが……とても好うございました。
ところで尾道、と、ウェンダ様は依然として目を逸らさない。はい。次のリオ公演だが、君に頼みたいことがあるのだ。はい、なんなりと。いつも会場外、つまりYonahが接岸する一帯の外側だが、そこに各グループのブースが設けられているだろう? はい、会場外のマーチャンダイズは私が管理しております。すでに聞いていると思うが、今回は個人枠のみに絞られた投票となる。よって、Innuendoのマーチャンダイズに私個人の頒布物を置こうと思うのだが、構わないだろうか? ええ、もちろんですとも。ウェンダ様個人というのは……? エリザベスと組む以前からファッションブランドを運営していてね、その新作を明日、開演と同時に発表する予定だ。君には手数をかけてしまうが、請け負ってくれるだろうか……? ええ、もちろんですとも。私めにここまでお目をかけてくださったのは、ウェンダ様だけですから……万全を期して設営に臨む所存です。そうか、ありがとう。紅茶、もう一杯どうかね。いえ、もう十分です……それでは。そうか。はい……あの、ウェンダ様。なにかな。いえ、その……本当によかった、貴方様のような人間がこの船にいらして……何を言う、人として当然のことだ。ああ……それでは、失礼いたします。ああ、ゆっくりおやすみ。おやすみ、ですか……ありがとうございます。ありがとうございます……
ふーう、やっぱ演ってよかったなー『Funky Presidenta』! ほんと、今まで聴いたことないレベルの大合唱だったね。こりゃもうDefiant以外に投票する選択肢ないだろー。イネス、今回は個人枠だって……あ。ん、どうしたゾフィア? やば、これサックス……もしかしたらリペア出さなきゃかも。故障? ってほどでもないけど、ちょっとタンポが気になる。ごめんイネス、ブラジルいる間にリペアできないか、今のうちに。うん、確認してきな。
さて、最後はInnuendoかい。談話室のソファに腰掛け、モニタの中継映像を眺める。相変わらずイントロで持ってくなー『RULE BRITANNIA』。あ、お、着信。あーパンゲアか、またA-Primeがらみの何かかねえ。無視するわけにもいかず、ビデオ電話の受話ボタンを押す。Wassup パンゲアー、なに今夜はどうしたん? 言うと、何って、イネス、まだ知らないのか? と相変わらずの早口。なに、そっちの株価でも暴落した? あいにくDefiantは最高のライブやった後だよー。とくすぐってみると、そういうのじゃな……ああいいイネス、これを見てくれ。パンゲアが言うとともに、カメラがラップトップの画面に向けられる。これって何、ライブ配信のコメント欄? 一秒毎に更新される画面に、いつもどおりのハッシュタグ……とは別のものが、何やら混ざっている。おいパンゲア、何それ、Dark Duke……? 何それって知らないのか、ブランドだよ、グウェンドリン・ウォーターズの! グウェン、ああウェンダのことね。デザイナーから出発してファッションブランド持ちって、確かプロフィールに書いてたな……いやまてよ、なんで個人のブランドがχορόςのハッシュタグに紛れ込んでんの? なんでって、今夜の開演と同時に、ロンドンのサヴィル・ロウで新作の発表があったんだ。同時……リオでライブやってるときに? かぶっちゃった、ってことか? というより、相乗効果を持たせるためだろう。Dark Duke側の公式アカウントが既に、χορόςのハッシュタグ付で告知してるし。え……じゃあ、意図的にぶっこんだ、ってことか。そう考えるしかないだろう、現にイネス、一番手の93からさっき終わったDefiantに至るまで、コメント欄やハッシュタグの大半はDark Dukeの話題で占められてる。は!? 始まってからずっと? 君らは同じ会場でスタンバイしてるから気付かないかもしれないが、ネット上の反応はウェンダ個人に集中してるんだ。現に会場外でも大勢のファンが……
もしかして。
通話を切り、ブラウザを立ち上げ、 #koros2020LatinAmerica で検索する。そこには画像や映像がひしめいていたが、その内容はいずれも、数時間前に発表されたというDark Dukeの新作コンセプトにまつわるものばかりだった。そのなかのひとつ、ファンによる撮影と思しき映像を再生してみると、OMGとかWTHとかの甲高い嬌声を上げるファンたちの姿が収められていた。これ……会場外のブースだよな。まさか、これも予め仕込んでたのか。ロンドンでの新作発表と連動するために。
てことは。
今回のχορόςに公平性があるとしたら、それは臨港地のパフォーマンスだけで勝負するってことだ。どれだけ実力や演目の内容に差があったとしても、出したものを見てもらうって意味では公平。今まではそれだけで勝負してきた。でも、もし、空間的に離れた場所で、同時多発的にアピールできるような、別働隊を有してるやつがいたとしたら?
着信。「Зофии Клоссовска」。受話。あーイネス、とりあえず次のダブリン公演まではだいぶ時間あるから、いま修理出しとけばサン・ルイスの港で受け取れそう。うん。えっどうしたの、何かあったの。いや、ソーニャ、まだ知らないか。知らないって何を? いや……ソーニャ。何? やられた。持ってかれた。
ど、ういうことかしら。目の前のパートナーの背丈が、いつもより高く映る。どうも何も、言葉通りの意味です。尾道、再度読み上げたまえ。はい。無骨な声が、スピーカーを介して会場一帯に伝達される。「ランキングにて暫定一位の者は、公演の内容に関するルールを自由に書き換える権限を持つ。代わって新たに一位を獲得した者は、同様の権限によって、既定のルールを修正あるいは刷新することが許される」。これはエリザベス、あなたがDefiantと合意の上で定めた規則です。ふざけないで、と叫んでも、マイクがない限りは空虚な音声として霧散するしかない。ウェンダの眼前まで詰め寄り、マイクを引ったくり、その「暫定一位の者」はグループ名を指してのことでしょう、個人名でなく! あなたが今回の投票で一位になったからといって、首位がInnuendoであることに変わりはない! と真正面から叩きつけても、ウェンダは尾道からもうひとつマイクを受け取り、もちろん、変わりはない。だが今回の「暫定一位」を決めるのは個人枠の投票のみ。その特殊な形式の採用も、開演前に皆が同意してのことだ。エリザベス、君も含めてね。と訥々と返される。つまり常識的に判断すれば、個人枠の投票で一位になった者が「暫定一位の者」とみなされる。繰り返しますがエリザベス、すべてのルールはあなたの同意に基づいて制定されているのですよ。と、尾道が小賢しげに念を押す。だから、だから何。ウェンダは私に右頬を向け、眼下に蝟集している観客たちに向かい、俳優めいた所作で呼ばわりはじめる。
私、グウェンドリン・ウォーターズは、ランキング暫定一位の権限をもって、ここに公演ルールの変更を布告する。Innuendo、Defiant、Shamerock、锡鼓、93。此度のラテンアメリカツアーに参加する五組は、本公演をもってすべて解散とする。以降は、グループ編成でない個人単位のパフォーマンスのみで興行し、最終的な優勝者を決定する。
以上。
できるからといって、やるかよ……掌で両眼を覆いながらイネスは呻く。初めて見たな、こんなに動揺した彼女の姿は……いやしかし、ウェンダ個人の策略でルールごと変更しようったって、それを発効するにはA-Primeの承認が必要なはず。なんでも好き放題に書き換えられるわけでは……と思ってみても、かねてより私とイネスの差配に不満を表明していたA-Primeにとっては、これはむしろ好餌なのか。勝者が揺るがないグループ単位での興行よりも、今までの前提をテーブルごと覆す展開のほうが。まさか彼女は、そこまで見通して──
船体横に取り付けられたLEDモニタ上で、尾道が仔細げに頷く。只今、A-Prime代表取締役の承認が得られました。よって、以降のχορός公演は、グウェンドリン・ウォーターズの定める新ルールに従って進行します。
よろしい。言いながら、ウェンダは群衆のほうへ向き直る。これよりχορόςは個人戦へと移行する。今までユニットとして勝ち得ていた名声も、以降は関係なくなる。つい先程までパートナーだったエリザベスに一瞥くれ、右手を振りかざすとともに、LED画面上に個人投票ランキングが映し出される。首位に輝くGwendolyn Waters a.k.a.DwrDuの脇に、厳しいブランドロゴが添えられている。
それでは、二位以下の者たちよ。諸君らは今から、自らが単独でも通用する代物であることを証明する必要がある。Dark Dukeは各員が義務を尽くすことを期待する。
16 Tinker Tailor Dark Duke
Manners,
Maketh,
Man.
マナーが人を造る、という。ではウェンダ、この Manner の語源は? manus, 「手」です。そのとおり。マナーは人を造るが、そのマナーは人の手によって造られた。ここに循環がある。人が定めた法や規則が、今度は人そのものに影響を及ぼしていく。つまり人は人が造ったものに造られる。誰一人として、独力によって長じた者などいない。先祖から、民族から、国家から継承した法や規則に沿って成形され、そのようにして産出された人間がまた新たな法を造ってゆく。 Manners Maketh Man とはその意味だ。
しかし婆様。なんだね。いま法や規則とおっしゃいましたが、これは何もペンの仕事に限られないのでは。もちろんだ。現にお前は今、針と糸を持っている。鋏で裁った生地を縫い合わせ、衣服と呼ばれるものを造ることができる。それは私によって仕込まれた業で、なにも絶対的なものじゃない。無限にありうるヴァリエーションのうちのひとつ、このサヴィル・ロウで継承されてきた技法に過ぎない。つまりウェンダ、人が身に纏うすべてのものは、絶えず移り動いてゆくのだ。アフリカにはアフリカの法がある。如何に異なっていようと、彼女ら彼らが自らを統治している限りにおいて、我々の法と同じものだ。文字すら無くても、ですか。そうだ。つまりウェンダ、お前が今まさに学んでいる服飾は、文字の仕事よりも根本的に法や統治にかかわるものなのだ。どう裁つか、どう繋ぐか、どう脱ぐか、どう纏うか。それらすべてが賭けられているのだ、人間を造る仕事のために。だからね、ウェンダ。はい。努努忘れるな、お前が造るのは服だけじゃない。それはまだ縦糸にすぎない、人間が人間を造るという大業のな。お前はいつか、お前自身が造ったものにお前自身が圧倒されるような、その次元にまで到達せねばならない。私はまさにそのことを伝えよう。はい。余さず学び取れよ、わが孫よ。私はひとまずお前を造る。このサヴィル・ロウが私を造ったのと同じように。しかし、学び取った後はお前の仕事だ。何年後か何十年後か判らないが、お前はいつか、自分の仕事によって自分以上のものを産むことができたかどうかを審問されることになる。はい。今から準備しておけよ、お前の業の遥かな成就のためなら、婆は如何なる苦労も惜しまぬ。常に自分自身に問うことを忘れるな、私は如何にして造られたか、そして如何にして造りうるか、を。はい、婆様。
大逆転、とか、阿鼻叫喚、とか、適切な語彙を探そうにも見つからない。というのは、リオでのあの展開を、結局のところ観客たちは歓迎して終わったからだ。ペルー公演以降絶対の一位を護っていたInnuendoが、その片割れであるウェンダ・ウォーターズの策略によって解体され、ユニットでなく個人パフォーマンスへの移行が突如として布告された。それは確かに、硬直した上位ランキングに不満を覚えていた観客にとっては好ましかったのかもしれないが、当のInnuendoのファンたちまでもが興奮を隠せていなかった。Dark Duke、漆黒のテーラードスーツに身を包んだウェンダ・ウォーターズのコンセプト動画は、瞬く間にInnuendoはもちろんχορός出場者のファンダム全体に伝播し、圧倒的にクール&シックな存在感でその場を占めた。
カタルシス、というのが適当なんじゃないかな。談話室の卓上にコーヒーを乗せながら測が言う。カタルシスってかカタストロフじゃん、Innuendoも含むわたしらの活動がダーって台無しにされたわけだから。まあね、カタストロフって単に「横に倒れる」って意味だからね。そうなん、えっじゃあカタルシスとカタストロフって同語源なの。それは辞書を引かなきゃ判らないけど、今回の展開に一種の浄化作用を感じてるファンたちも大勢いるってことでしょう。まあ、山が動いたようなもんだしな。
そんな悠長に構えてていいのか、とマグカップからミルクを啜りながら姫が言う。93に関しては、ユニット解体で一番大きな影響を被ったとも言えるわけだろう。まあ、三人組ユニットって意味ではね。しかしまさかわたしらの中で一番得票数多いの漁火ちゃんだったとはなー。えへへ、正直うれしっす。やっぱ楽器できるって大きいんだなー見た目的にも。龍も個人投票ではあたしより上じゃん。んーでも次はどうなるかわかんないじゃんー? と談笑するわたしらを、姫は憮然として眺めている。あのなあ、切迫感みたいなのはないのか? 台無しになったんだぞ、あたしらそれぞれが創ったもので勝負するって前提が! でも必ずしも単独でやんなきゃいけないわけじゃないでしょ? 最終的な投票が個人枠のみになっただけだから、あたしは変わらずヤスミンとやっていくよ。確かに、ユニット単位ではなくなったけれど、横断的に組んで共演する余地も増えたわけだから、むしろ自由度は上がったのかもね。それねーそもそもよくわかんないんだよね、なんでウェンダがああいう展開に持っていったのか。あのふたり、よっぽど仲悪かったんすかね。それはないと思うよ、世界的な知名度ではエリザベスの方が上だろうけど、引く手数多の彼女が敢えて選んだ相手がウェンダだから、どちらかがどちらかを嫌ってるとか搾取してるとかいう関係はありえない、ってヤスミンが言ってた。そうなん。ていうかヤスミンどこ。なんかすごい心配してて、しばらく一番キャビンに残るって言ってた。エリザベスの心配。だろうね、ヤスミン的にはあの人がロールモデルみたいなとこあったからねえ。教授はいつもどおり終演後のミート&グリートっすか。ああ。こんなことがあった後じゃファンから質問責めだろうな……
尾道ー? メリッサ・マッコイだけど、開けてくんないー? いつもなら呼びかけて一秒以内に出てくるはずだが、今夜は一向に返事がない。おい尾道ー? 一番キャビン、つまり今までInnuendoの二人が起居してたはずの部屋が、いやに慌ただしく改装されたらしい。という話をさっきヤスミンから聞いて、事情を伺いにきただけなのだが。待っていると、廊下の上部に取り付けられた3Dプリンタが、やっといつものように作動をはじめた。
尾道ですが。いつもより幾分けだるく聞こえるのは気のせいか。あのさ、これからって船内で過ごすのもひとりひとりになんの? と訊くと、ユニットの解体は公演ルールのみのことですから、キャビンは今までと変わらずご利用いただけます。と事務的に答える。でもなんかこの部屋は違うじゃん。ウェンダ様のご意向です、エリザベスとは別にしてほしい、と。別居か。この船でかいし代わりの部屋には困らないんだろうけどさ……えっと、とりあえずウェンダと直接話したいから呼んでくれない? ウェンダ様はお疲れのようですので、今夜のところはお帰りを……と押し問答めく対話に、構わん、尾道。部屋は整ったから客人を通せ。と直截な声がドアモニターのスピーカー越しに伝達される。はい、それでは。不承不承な声とともに尾道は消え、ドアが解錠される。
ああ、やっぱInnuendoだけは内装違ったのか。だって一位だもんな、特別扱いも仕方ないね。ただ制作ブースと寝室の間取りは同じっぽいな、と室内を眺め回しても、やはりエリザベスの衣服や私物らしきものは見当たらなかった。きれいさっぱり片付けられた、ってことか。部屋の中央に据えられた豪奢な椅子、そこに面を伏せて腰掛ける姿に、軽口のひとつでも放ってみる。座り心地はどう? ウェンダは頬杖をついたまま、悪くない。何より背中から臀部にかけての負担が無い。と言う。はは、お爺ちゃんみたいじゃん。お爺ちゃんじゃなくお婆ちゃんだろう、のツッコミすら無く、両眼を閉じたまま黙している。ウェンダってさ、ロンドンのすっごい有名な仕立屋の生まれなんでしょ? 有名というわけでもないが、年季はある。そこで仕込んでもらったのか、実際すごく良いねあの新作。でもさあ、自分だけ抜け駆けしてパートナー蹴落とすなんて、ちょーっと意地悪なんじゃないの? 言うと、ウェンダは両眼を開き、あくまで既定のルールに従ったまでだ。今までの趨勢を見極めさえすれば、誰でも可能だったこと。と冷たく切る。肝心のことに答えてないなあウェンダ。何が目的であんなことをやったのか、って話だけど。一歩詰め寄ると、ウェンダは上体を反らせ、今はまだわかるまい。今夜はほんの下準備に過ぎない。と意味の取りにくいことを言う。準備、何の? 業のための、だ。私がInnuendoとして組んだのも、すべては業のため。もうちょっとわかりやすく言ってくんないかなあ。あんたがどういう目的であれをやったのか、それが知りたいんだけど。言いながら、椅子の片方の手摺に拳を置いてみる。眼下で黙する人の眉間を凝視しながら返事を待っていると、ウェンダは顎の前で両手の五指を合わせ、静かに口を開いた。
私の目的、か。簡単だよ。この地上で最も優れた「王」を仕立てることだ。
「王」。ああ。それって多分、性別は関係ないんだろうね。勿論。知においても美においても卓抜した存在を、自らの手によって仕立てること。それがエリザベスってことか。ああ、彼女は申し分のない素材だ。シェイクスピア四大悲劇の主演をすべて成功裡に納めるほどの、性別も時空も闊達自在に横断する才能。それこそ私がこよなく求めていたもの。プロフィール上では、エリザベスがあんたの作品を見て惚れ込んだって話だったけど。簡単だったよ、彼女の目に留まること自体は。ぜんぶ計画済みで売り込んだのか。売り込んだのではない、単に彼女が求めるであろうものを造って、置いておいただけだ。喰いつかずにはいられなかったろう、既存の美のイメージから逃れ出たい渇望は、彼女の主催するプロジェクトの作品群から伝わっていたからな。あとはお望み通りのものを捧げさえすればよかった。すげえこと言うな、欲しいものはあらかじめわかってましたってか。私は仕立屋だよ、それくらい出来て当然だ。エリザベスと一緒に世界的な名声を得て、あるとき頂点から突き落とす、ぜんぶ計画通り。ああ、順調にね。ただ、ここからだ。ここから這い上がってくれなくては。私が仕立てたものを纏うだけではない、もっと良いものになりうるか。それを試すためだけにやったのか。勿論その通り。此度のχορόςへの参加も、我が大業を成就させるための方便にすぎない。そっか、イカレてんなあ。這い上がれなかったらどうするつもり? 待つさ。待つに決まっている。彼女の奥底から噴き上がる何かを、忍耐強く待ち続ける。君にもわかるだろう、メリッサ。我々英国人の最大にして唯一の美質、忍耐だ。唯一って、自分で言うかい。それとわたしはスコットランド人だから。私は待ち続けるよ、与える物は全て与えた。そして奪った。もし彼女が何も為返してくれなかったとしたら、それまでの者だったということさ、私も彼女も、どちらもね。そうか。それって、もう──どっちが主人だかわかんないな。
それじゃあ、あのっ、他にも必要なものがありましたら。と言ってみても、ええ、ありがとう。とだけ返される。それにしても、こんなところで生活できるんだろうか。キッチンとシャワールームはかろうじてあるけど、マットレスひとつ敷く程度の間取りしかない。もとの部屋とは違ってドアにセキュリティすらないし……しかし、あてがわれた手狭な部屋の真ん中でしゃがみ込んでいる女性が、あのエリザベス・エリオットの姿だとは、数時間前ならとても信じられなかったろう。あのっ、エリオットさん。呼びかけても、こちらに目を向けてさえくれず、何。と短く言うだけ。私、今夜はここにいますから、なにかご不便があったら言ってください。こんなことを蔡茉莉から言われたとしても、きっと彼女は皮肉混じりに拒絶するだけだったろう。ただ今の状態では、そう。好きにしなさい。と心底疲れ切った声で返すだけだった。
ドアを後ろ手で閉め、しゃがみこむ。どうしよう。こんな近くでエリザベス・エリオットとふれあえるなんて、私にとっては望外の喜びであるべき。なのに、こんなにも胸が踊らないのは……これからどうなるんだろう、このツアーも彼女も。わからない、私にできそうなことといったら、彼女が眠りにつくまでここにいることだけ。ああ、彼女はいったいどうやって朝を迎えたらいいのだろう。すべて悪夢だったらいいのにと眠りについて、何も変わっていない朝にまた目覚める……
お、やっと戻ったかミッシー。うん、ごめんね遅れちゃって。おおかたファンに詰め寄られてたんだろう。いやいや、今夜のミート&グリートは早めに切り上げて、そのあとウェンダに会ってきた。え? なんかエリザベスが部屋から追い出されてさ、どうしたんだろって思ったから。そ、そんなことになってるのか……で、一番キャビンから戻ろうと思ったらヤスミンが床にへたりこんでるから、どうしたのって訊いたらエリザベスが部屋移されたばかりで心配だから一晩中ここにいるって。逆にこっちが心配になったから、ふたりぶんの夜食持ってきて一応한나に連絡して、たら遅くなっちゃった。た、大変だな……んー、みんな色々とねえ。
そんなことより。と言いながら一歩詰め寄る。どうしたの姫。わかってるだろ、これからどうするかって話。個人枠の投票になったからにはミッシーもあたしもソロでいけるわけだし……そうだね、いちばん現実的には、姫かわたしがランキング一位になって、それでルール変更してユニットでの活動を復活させる、ってのが落とし所かな。もちろんそうだが……それをやるには、あたしよりミッシーの方が適任かもな。なんで? なんでって、わかってないのか? ウェンダのDark Dukeと同じように、ミッシーにはCouncil Clubがあるだろう。自分のファッションブランドを持ってるなら、ウェンダがやったように遠隔の地から同時多発的にアピールできる。サヴィル・ロウとグラスゴー、どちらも同じブリテン島にあるしな。つまり個人枠の勝負でウェンダと同格にやりあえるのはミッシーだけってことだ。ハッシュタグでも「これからはDark DukeとCouncil Clubの一騎打ち」みたいな話題になってるぞ。ああ、そういうことねえ……まあ、わたしはそっちには持ってかないな。なんで。だってウェンダと同じことやったって二番煎じ感すごいでしょ。うちとあっちではブランドのコンセプトが違いすぎるし。それはまあそうだな、同じ土俵に立ったってしょうがないか……そうそう、逆にさ、違いを違いのままにぶつけたらいいんだよ。えっ? よく考えてごらんよ姫、もう四月だよ? これからどんどん暑くなる。今はまだ気になんないかもしれないけど、Dark Dukeみたいなカッチリした服ばっか着てらんないでしょ。そうか、そういえばそうだな……だからさ、もしCouncil Clubが勝負をかけるとしたら……あ、姫。うん? いいこと思いついちゃった。
明日、明日、また明日。時の階を滑り落ちて行く、この世の終わりに辿り着くまで。いや、辿り着かない。だってほらまた朝だ。朝が来たということは、この世はまだ存在している。いや仮に地球が滅びたとして、太陽系には何の問題もない。変わらず朝は廻り続ける、ただ光の当たり方が違うだけで。どれほどの死屍累々を重ねようと朝は来る、なんと凡庸で残酷な真実。
おはようございます、とドアの外から声が。遅れてコンコンと二回ノックが。いや、逆だろう。ノックしてから入室許可を乞う、の順だろう。これだから小金持ちの娘は躾が……娘? そうだ锡鼓の片割れの。あの子にモーニングコールを頼んだのだったか、いやただのおせっかいで引き受けてるだけか。前夜の記憶があやふやすぎて覚束ない。
入りなさい、とだけ言うとすぐにドアが開かれる。おはようございます、あの、朝食持ってきました。靴を脱いで部屋に歩み入り、私と同じ目線にしゃがみ込む。サンドイッチとお茶、でよろしかったでしょうか? ええ。トレンチの上に乗せられた食器をそそくさと呈する。この茶葉は……? と問うと、黄金桂です。と答える。ベーコンサンドイッチに中国茶、どう考えても合わないだろう。と不平を漏らすのさえ億劫で、ありがとう。とだけ言って立ち上がる。しかし、もうここにはひとりぶんの私物しかないのか。衣服も、蔵書も、日用品も。雑念を燻らせながら口腔に歯ブラシを突っ込む。そういえば昨晩はシャワーすら浴びずに寝てしまった。遅らせたことは今やるしかない、ツケは払うしかないのだ。口を濯いでシンクに吐き出すと、背後の娘がタオルを差し出す。ああ、昨日までこれはウェンダの役割だった。あの執事めいた献身も、すべては打算あってのことだったのか。しかし、であるとすれば、なぜこの娘はこんな役目を買って出ているのか。名は。えっ。名はなんと言ったかしら。あっはい、ヤスミン、っていうのはステージネームで、蔡茉莉といいます。蔡。はいっ。奇妙な喜色を綻ばせる顔に背を向け、洗顔を済ませタオルで拭う。あなた自身のことはいいのかしら。と言うと、あっはい大丈夫です、朝食はさっき済ませてきたので。と相変わらず微笑みながら言う。そうでなく、いつまで私に張り付いているつもりかと婉曲的に言ったつもりだったのだが。再びマットレスに腰を下ろすと、蔡も同じようにしゃがみ込む。
あのっ、元気、出してくださいね。サンドイッチをかじると同時に蔡は言う。咀嚼以外に為様のないこちらへ、昨晩のことは、なんというか、残念だったかもしれませんけど、これからですよ、挽回のチャンスはきっとあります! といやに楽観的なことを言う。口内のものを嚥下し、カップの中国茶をひとくち啜る。蔡。はいっ。まるで大敗北を喫したような言い方だけれど……未だInnuendoの優位には変わりがない。敗者を慰めるような口振りはよしなさい。あっは、い、ごめんなさい私つい。そう、まだ敗けたわけじゃありませんよねっ。恐縮とともに微笑する顔を眺めながら、カップの中のものをもうひとくち啜る。そう、ただ私が、パートナーの裏切りを予期できなかっただけ──との悔恨混じりの言葉は、さすがに口にするわけにはいかなかった。エリオット、さん。何。こんなことになっちゃいましたけど、むしろチャンスなんじゃないかと思うんです。あなたは単独でも色々なプロジェクトを主催していらしたから、あの人なしでもきっと。と差し出がましい物言いを、無理よ。と遮る。顔から笑みが失せて硬直する。確かに私は、Innuendo以前にも多くの創作をしてきた。演劇も音楽も、両方ね。しかし、それは必ず私以外の誰かと共同で行ってきた。と端的な事実を述べると、でも、貴女自身すごい才能の持ち主じゃないですか。と追い縋られる。違うのよ。円く口を開けたまま黙り込む相手に、Innuendoは違うの。と苦味とともに吐き捨てる。このプロジェクトは、コンセプトから作曲から衣装のデザインまで、私のアイデアをウェンダに具現化させる方式で進めてきた。つまり私は、具体的な作業はほとんど行っていない。率直に言って、ウェンダなしでは、私は次のステージで何を着たらいいのかさえわからない……言いながら、ここまでパートナーに実際的な判断を丸投げしてきた事実を遅れて追認する。そうして黙り込む私を見据え、目の前の娘は、だったら、だったら──創ったらいいじゃないですか。と言うのだった。私、貴女の作品に沢山ふれてきました。映像アーカイヴですけど、貴女の主演したシェイクスピア劇はそれぞれ五回ずつくらい観ました、『ハムレット』も『マクベス』も。あの「Cabal」も、ソフトとして出たものは全部持ってます。オペラとバレエとポップミュージックの融合なんて、すごいコンセプトです。しかもそれを成立させちゃうなんて! 貴女は、アイデアを具体的に結実させる素晴らしい手腕をお持ちじゃないですか。だから、ここから、いちからアーティストとして──無理よ。ただのファンが過剰な移入をもって話しかけてくるような口吻に苛立ち、つい語尾が上ずってしまう。χορόςにおいての私は、最初からウェンダと共にあった。ファンたちが望んできたものも、すべてウェンダが創ったもの。私がいちから新しいものを創ったって──受け容れられるわけがないわ。
沈黙。単なる事実を述べているに過ぎない、のに、どうしてこうも沈鬱な気色を纏うか。居た堪れなさを誤魔化すためにティーカップを持ち上げると、いい加減にしてください。と、嘆息混じりの声が漏れる。いい加減に、してください! 真正面から睨みながら、剥き出しの語気で迫ってくる。どれだけ泣き言を並べたら気が済むんですか! 貴女が、エリザベス・エリオットが、そんな逃げ口上を平気で言うなんて! 逃げ……あのね蔡、これは私の……もう言い訳は聞きません! ひとりになったからってそれが何ですか! また最初から創り直したらいいじゃないですか! 私だって、歌も作曲もダンスもできないとこから、いちから始めたんです! そうやってどうにかここまでたどり着いたんです! 私にだってできたことを、貴女にできないとは言わせません! ほとんど泣き出しそうな勢いで捲し立てる相手に、どう返したらいいのか。それは、それは──あなたにはパートナーがいたからでしょう。
とだけ言うと、黙り込む。そうだ、結局ここに収まる。ひとりでは何も創れない、その意味で蔡茉莉と私は同じだ。表面上の繕いがどれだけ違って見えても──ちょっといいか。と、蔡の背後から声。見上げると、まさか、あのアイルランド娘と、そのパートナーが。
エリザベス・エリオット。ちょっと部屋まで来い、取引だ。いちおう言っておくが──お前に拒否権は無い。
ファンミーティング……? そう。教授の煎れてくれたコーヒーを受け取りながら、テーブルについた姫とエリザベスの顔を見比べる。次のダブリン公演は四週間後だろう。つまり、今までのペースで言えば公演一回ぶんの暇がある。その中継ぎってことで、ブラジルのサン・ルイスで今回の参加者全員のファンミーティングを開催することにした。つらつらと次第を述べる姫に、することにしたって、いつ決まったの。と困惑しきりのエリザベスが返す。さっき、Defiant経由でA-Primeと調整がついてな。今まで公演の前週に動画コンテンツを配信してたのは知ってるだろう、それの出張版みたいなもんだ。しかし参加者全員って……それで成立するの? 今回のは投票とは関係ないからな、χορόςをショーとしてゆるく楽しんでる層向けのイベントだ。そこでミート&グリートはもちろん、今回だけの特別なライブもやる。そこでお前の、と言いながら姫はエリザベスの眉間を指差し、Innuendo以外で初となるステージをやる、ミッシーと한나がプロデュースした楽曲を、あたしと一緒にパフォーマンスする。と一息に告げた。한나? 反射的に声を上げてしまった私に、そ。한나とは何年か前に、ヒップホップとも違うダンサブルなやつでミックステープ作ったんだよ。今回はそれの再試行って感じになるかな。と教授が言う。姫は頷きながら、テーマは “The Nth Summer of Love” 。Innuendoとは全く異なる方向性だ、もちろんShamerockともな。と視線を逸らさずに続ける。何それ、勝手に決めないで──さっきも言ったけど、お前に拒否権は無いぞ。もし今回の条件を飲まないなら、お前ひとりで全部用意してもらう。既に「エリザベスが初のステージを披露」って宣伝文句は折込済だからな、A-Primeのほうに。なっ──なんて勝手なこと。もし何もやらなかったとしたら、エリザベス・エリオットの名は今度こそ地に落ちるかもな、契約不履行として。絶句するエリザベスを前にしても淡々と姫は続ける。さあ、もう状況は飲み込めたな。一週間以内にミッシーと한나がトラックを仕上げる予定だ。以降は、イベント当日まであたしと練習。半端なことだけはしてくれるなよ。
どうして──一瞬言葉を詰まらせるエリザベス。どうして、そこまで。彼女の口からここまで緩い言葉が漏れるとは。対して姫は、お前の元パートナーがミッシーをキレさせたからだ。と教授に親指を向けながら返した。えっ。キレるなんて人聞き悪いねえ姫。ただあんまりだと思っただけだよ、あんなやり方は。柔和な笑みを向ける教授に、エリザベスは言葉もない。昨日、あいつと話してね。どういうつもりであんなことやったのか訊いたら、どうも、あんたを立派な「王」にするためらしい。「王」。うん、詳しくはわかんないけどね。でもあんまりだな、あいつのやりかたがあるとしてもわたしは認めらんないなと思ったから、こうして代わりのを提案した。言い終えると、教授も姫も継ぐことは無いらしく、黙って返事を待っているようだった。エリザベスは唇を真一文字に結び、返すべき案文を練りかねているようだった。
やるべきだと思います。代わりに私が沈黙を破る。エリザベスの椅子の背もたれに手をつき、やるべきだと思います、新しい貴女を見せるチャンスです! と目線をあわせて言う。きっと、彼女自身も決意はできているはずだ。だってさっき言っていた、「χορόςにおいての私は、最初からウェンダと共にあった」と。でも、何もあの人だけがエリザベスのパートナーってわけじゃない。他のやり方を試してもいいはずなんだ。教授と姫も、それを察して提案したはず。なら私にできるのは、彼女の背中を押してあげることだけ。
そう、ね。まさか、あなたたちと共演する羽目になるなんて──私も墜ちたものだわ。と苦笑混じりに言う、のを聞いて姫も笑う。決まりだな。ええ、仕方ないわ、飲んであげる。ただ、オサリヴァン。なんだ。さっきあなたが言っていたこと、そのまま返すわ──半端なことだけはしないように。ふん、ずいぶん余裕だな。あたしにもお前にも熱心なファンがいるんだ、どちらか片方でも手を抜いたら大炎上だぞ。ふふ、面白い──そうでなくては。
おい、尾道──いったいどこ行った、さっきまで実体化してたはずなのに、ワタシの許可も得ずに引っ込みやがったか。尾道ですが。あ、貴様、シンクの水漏れを修理しておけと言ったろ。はー? なぜ演者でもない輩の言うことを聞かねばならんのですか? 今回のツアーのために喚ばれた方々ならまだしも、どこの馬の骨ともわからん痴漢の指図に従う謂れなどありません。何を偉そうに貴様……そんなことを言う権利がありますかな、ろくに働きもせず淫行ばかりのあなたに。水回りの不調くらい自分で直しなさい。どうしてもこの尾道に手伝ってもらいたいなら、AIとして最低限の敬意を払うのですな、ウェンダ様がそうしてくださったように。あ、こら、おい。クソッ、たかがAIの分際で一丁前に反抗期か。出来損ないの脳足りんめ、お前の命は人間様の一存でどうにでもなるんだ。コントロールパネル、ここだ、この設定を初期化してやれば──あれっ、なんだ「パスワードが違います」って。これだろ、ワタシが設定したんだぞ。なん……「パスワードを三回も間違えるようなアホの四七には船員主務なんか勤まりません」って、なんだこのメッセージ。まさかあいつ、自分で自分の設定を書き換えやがったか。
はは、なんか大変そうじゃん。あ。いつのまにか九三がコントロールルームに。あの野郎ドアも閉めずに出て行きやがって、と口から漏れそうになるのを抑え、九三様、何かご用ですか? とだけ言う。ふふっ、無理して取り繕わなくていいよ。なんか尾道おかしいもんな最近。ふん、あんなポンコツなしでも航路には支障ありませんよ……次のファンミーティングも? 尾道に協力してもらえなかったら四七だけで全部やることになるんじゃん? 笑いながらタバコをふかす九三の手を取り、喫煙室はあちらです。と先導する。
コントロールルームを退出すると同時に、窓外からの日差しに目が眩む。ファンミーティングかー、ライブよりゆるめなのは助かるけどさ。珍しくこちらに話題を振ってきた九三に、あなたがたも何か催し物を? とうわべだけの興味を向けてみる。うん、とりあえずダブリンの前に慣れとこうってことで、測も漁火ちゃんも初のソロパフォーマンスやるつもり。そうですか。どうやら、一番キャビンにも動きがあるようですが。姫がなんかやってるらしいね。でもさ、エリザベスには悪いかもしんないけど、今回こうなったのも結果的には良かったのかもって。最大の脅威が解体されたからですか。ってわけじゃないよ、少なくともウェンダ以外のやつらは、全員またユニット形式のルールに戻したいって思ってるだろうし。でもその間にさ、ソロとしていろんな奴らと混ざりあって、今でしか試せないことやるのも面白いなって。そういうものですか。わたしらも客演迎えて『Limbo』って曲作ったことあるけど、やっぱいいもんだよ、いろんな奴らと混ざるのは。ワタシにはよくわかりませんね。なに四七、乱交はあんま好きじゃない? 仕事として頼まれたらやりますがね。お、何の音。デッキか。あは、あんな直射日光の下でダンスの練習してるのか。もう春とも言えませんね……だねー、あっというまに夏だよ。
だからケツが重すぎるんだってー、もっとこうスッと動かせないかなー? と허한나は言うものの、そもそも私と彼女らではダンスの語彙が違いすぎる。ちょっと待って、こう……? そしたら次のステップ間に合わないっしょ、いい? ほらちゃんと見てて、こっから、こう。と目の前で実演されても、そんなドラスティックなステップをしながらボーカルを保つことができるか……と考えているうちに、またオサリヴァンが侮りの視線を向けてくる。なんだ、もう諦めたのか? とでも言いたげな眼差しが癪なので、立ち上がり、手の甲で汗を拭い、Bセクションからコーラスまでの流れ、もう一度お願い。と切り出す。おう。がんばってくださいエリザベスー! しっかりリードしてあげなー姫! 何がリードよ、社交ダンスでもあるまいし……さ、始まるぞ。入りのシンコペーションのとこ、もう間違えるなよ。わかってるったら。
事前に告知済だったとはいえ、サン・ルイスのCouncil Clubブースには大勢の観客が集まっていた。この壇上から確認できる限り、あたしらとエリザベスのファンがちょうど半々ずつって感じか。Innuendoの公式マーチャンダイズらしきものを身につけている者も少なくないが、そいつらは一様に不安げな面持ちで立っている。まあ、敵であるはずのあたしらの領域にいるわけだから無理もないが。
ようこそ集まってくれた。と挨拶がわりの一言を放り、群衆をひととおり見回し、知っての通り、これから皆に見てもらうのは、ソロになってからのエリザベス・エリオットの初舞台だ。と言うと、奴のファンとおぼしいやつらが固唾を飲むのがわかった。ここにはShamerockのファンも大勢集まってるだろう。あたしとミッシーが奴と組むと知って、驚きや不安があったかもしれない。だから、前もって言っておく。もしあたしらのファンで、今から見てもらうエリザベスのパフォーマンスがダメダメだった場合、遠慮なくブーイングを浴びせてくれ。と右手の親指を逆さにしながら言うと、群衆は笑いが半分、無言の渋面が半分、の反応に別れた。でも、もし、Innuendo以外のあいつもちょっといいじゃんって思えた場合──ひと呼吸分の沈黙を置く。新しいエリザベス・エリオットを受け容れてやってくれ。ふたたび、ひと呼吸分の沈黙。群衆のなかの何人かの表情を窺うと、一様に目を丸くしていた。まさかシーラ・オサリヴァンがそんなこと、って感じだろうな。ああ、あたしも同じだよ、まさかこんなことを言うなんてな。口を開き、ふたたび壇上から呼びかける。あいつは今、かつてのパートナーから一方的に別れを告げられたような状況だ。Innuendoとして打ち出したものとは別の何かを、あいつも模索してる最中だ。今回やる曲も、ありうる可能性のうちのひとつを取り出したにすぎない。もし、皆がそれを見て感じたことを隠さずに出してくれるなら、それが否定と肯定のいずれだとしても、あいつの力になるはずだ。
言い終わると、観客の何人かは拍手や口笛で応え、もう何人かは涙ぐんだ目を向けていた。さ、あとは論より証拠だ。今回のコンセプトは “The Nth Summer of Love” 。たとえ地球上のどこだろうと、いつだって夏は愛の季節だ。スーツ姿のやつらもTシャツのやつらも、金持ちも貧乏人も、みんな混ざってバカみたいに踊れ! いくぞ、おそらく今夜だけのコラボレーション、SOS feat.Ex、トラックのプロデュースはProfessor-M feat.Hosanna!
四人分ジョッキ追加でー! いやーもう無限に飲めるな。しかもブラジルの港町でこの気候でって、最高のシチュエーションじゃん。姫ナッツいるー? ああ、もらうよ。しかし大成功だったねえ今回のコンセプト、あれでアルバム一枚作りたいくらい。いいねーやっちゃうー? 二一世紀ハイエナジーってコンセプト、実は誰もやってないんだよねえ。ほんと細かいとこ的確に衝くよなーミッシーは。実はブロック・パーティの『Flux』って曲が元ネタなんだよ。あ! あれか、作ってた時は気付かなかったけど! あの曲から『Intimacy』までの時期すごい好きだったからさ、いただいちゃった。うわー作りたくなってきた、ソウルのゲイパレードとかでもめっちゃウケそう! じゃあ今から準備しとくか、このツアー終わるのちょうど六月だし。いいねー。そっか、もうあと五公演しか残ってないんだね。寂しくなるな。おっなに姫、センチな感じ? そうでもないけど……みんなで集まって色々できるのも、限られた時間だなって。そりゃ何事にも限りはあるよ。だから、次の予定立てとこ。次がある限り、終わりはないんだし。だね。おお良いこと言うな한나。でしょー? というわけで終わりはないのでもう一杯くださーい! あははは。まったく、あいつも来ればよかったのにな。下々の者とは飲めません、ってことかもね。ふん、なら引き摺り下ろしてやる。このツアーが終わる頃には一緒の酒宴を囲むことになるさ。おっ、いつもの姫に戻ったね。そうか? 半分戻って、半分変わった、みたいな。なんだそれ。でも、たしかに──そうかもな。半分、か。
でも実際さ姫、わたしもちょっと驚いてるんだよ。なんで。姫があっさり協力してくれて。Innuendoに勝つってあーんなムキになってたから、共演なんてできるわけないだろって言われると思ってたのに。そりゃ、あれだけミッシーが憤ってりゃな……もーだからキレてないって。でも一番怒ってるときに笑顔になる人っているよな。ああ、わかりますその機微。えー? だから仕方なくやっただけだ、あたしも元々ミッシーに助けられたわけだし。自分がしてもらったことを他人には施さない、なんて卑怯だろ。おおー大きくなったねー姫。やめ、撫でるのやめ……한나もありがと、また一緒に作れて楽しかったよ。おう。あたしらも一回パクリ呼ばわりされて腹立ったけど、自分が組んでた相手にあんなことされたらと思うとな、助けざるを得ないっていうか。呼ばわりじゃなくて実際にそうだったから……あっ한나、すごい話題になってるみたいだよ、锡鼓のファンフォーラムでも。なに、トラックの感想。うん、意外な組み合わせだけどすごくよかったって……あ。うん? あ、これ……なにヤスミン、どうしたん。いや、これは見なくていい……なに隠しなさんなって。あ……あ。ぶ、っはははは! なに? どうした? これ……ぶっ。はははは! すげー至近距離で撮られてんじゃんヤスミン! いや、後ろの方で目立たないようにしてたんだけど……目立たないようにしてこれかよ! やべー面白い、よし送っちゃおこれエリザベスに。え、いや、いいよ、呆れられちゃうって……
ひとりになったからといって、何もできなくなるわけじゃない。むしろひとりであることは、誰かと繋がるための必要条件なのかもしれない。などと思春期めいた想念を弄んでしまうのは、あの子の歳若さに当てられたせいか。私とは何もかも違うはずの、シーラ・オサリヴァンの麗かさに。それにしても、あの頑ななアイルランド娘は、どうして私と組んでくれたのだろう。少なくとも前回のχορόςで見えたときは、誰とも交わらぬ孤高さを固持しているように思えたのに。おそらく、あの後でメリッサ・マッコイと組んだこととも関係がある……と慮っても、確からしいものはない。そうだ私は知らない、同じ船に乗っている者達のことさえ。自分のパートナーのことさえ──だから足元を掬われたのじゃないか、利得ばかりで相手のことを深く知ろうともしない性向のせいで。
スマートフォンのブラウザを立ち上げ、シーラ・オサリヴァンの名前で検索してみる。彼女のことを今からでも──遅すぎるけど──知っておくのもいいかもしれない。げっ、本名、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。パトリシア……即座にタブを閉じ、眉間に指を当てて眼を瞑る。まさか、彼女も……か。
ピコン、と通知音。見ると、허한나からのメール。そうだ練習のための連絡用とはいえ、メールアドレスを教えてしまったのだ。「ひとりで飲んでるのか? だったらこれでも肴にしな」……こんなくだらない用件でいちいちメールなんて。肴って何、リンクが貼ってあるけど……タップしてみる。と、何だろう、χορόςがらみのトピックを投稿しているファンブログのようなものが表示される。見出し…… “The flawless beginning of brand-new Ex” 。ふん、まあね、私のパフォーマンスなのだから当然、と思いながらテキストをスクロールすると、画質の粗いファン撮影のスナップが何点か表示される。これ……えっ、蔡茉莉。まさか彼女、客席にいたの。演ってるときは余裕がなくて気付かなかったけど……しかしなんて無防備な。Council ClubのキャップにInnuendoのロゴ入りパーカー姿で、これじゃ単なるファンじゃない。あ、動画もある…… “UNEXPECTED ENCOUNTER @ Ex Show” 。どうやら私のために足を運んだと思しきファンが、パフォーマンスの最中に隣で踊り狂っていた観客が蔡茉莉であることに気付き、動揺とともにカメラを向けた結果の映像らしかった。ふ、ふふ、彼女、自分が見られてることにも気付いてないし、こんな至近距離で撮られてるし……よっぽど夢中だったのか、私の再試行を見届けることに。
ばかな子。デッキチェアに寝そべりながら、蔡茉莉が嬌声を上げる動画をしばし眺める。見られてることにも気付かない、か。ある意味では私もそうだ、一番近くにいたパートナーのことでさえ、よく知ろうともしなかった。ウェンダが何を望んでいるのかさえ……舞台の上でどう見られるか、知り尽くしているのは私だと思っていたけれど……甘かった。エリザベス・エリオット、この名で私が始めたことを、もう一度研ぎ澄ませなくては……回顧の念が一挙に押し寄せる、のを、ひとまず押し留める。今はただ、この「最初のファン」が目撃してくれた試行の結果を検めよう。他にも観客撮影の映像は多くアップされている。そうだ、観客が自由にカメラを向けられるフロアでパフォーマンスするのも、私にとっては新鮮なこと。不格好とも場違いとも見えかねないのだろう、おそらくは。それでも、ぎこちなくも誰かとステップを合わせようともがく私の姿は、なかなか悪くない、そう思えた。
17 Howth Castle & Environs
知らなかった。何を? わたしがこんなかたちをしていた、ってことを。なんそれ、鏡くらい見たことあるでしょ。ていうか鏡の前でしたことあったよね、今日話してたのもそのときのでしょ。うん。でも、鏡と写真は違うよ。そうだね、左右逆じゃないしね。しかしこんな安物のポラロイドでも綺麗に撮れるなーポーランド、もとの街が良いんだろうね。うん……ねえ九三。なに? こういうものを、できるだけたくさん持っておいてね。それさっきも言ってたね、思い出でしょ。うん。そうすればきっと、わたしがいなくなっても大丈夫。えーなにそれいきなり、まだ不二良から教わりたいこといっぱいあるよ。そうかな、わたしも九三から教わってばかりだよ。音楽? うん……まだ、わたしにとっては大きな謎だけどね、なぜ人は音楽を……その「なぜ」がもうわかんないよ、理由なんてなくていいでしょ。そうなんだけどね、これは……いや、今夜はこの話はよそう。え、不二良が途中で話やめるなんて珍しいー。だって今日すでに近付いたんだよ、グダニスク湾で。言葉でするよりもずっと適切な方法で。言葉でするよりも、ねえ。九三。なに。わたしが九三から教わった最大のことはね、人ひとりができることには限界がある、ってこと。なんそれ、不二良みたいな人が言うとイヤミにしか聞こえないよー。わたしはちょっと語学ができるだけの人間だよ。ちょっとどころじゃないでしょ、不二良みたいな人がいてくれて、わたしすごく嬉しいんだよ。こうして外国も巡れるわけだし。それよりもね、九三。なに。あなたはこれから、もっと多くのことを学びとらなきゃいけない。わたし以外の誰かから、もっと多くのことを。えー不二良が教えてくれたこともまだよくわかってないのに? そう。九三、何度でも言うよ。大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。そして、人ひとりができることには限界がある。だから、あなたはこれから、この世界自体から多くのことを学びとらなきゃいけない。自分にできないことを誰かから受け取って、誰かにできないことを自分から捧げて。どんなに小さなことでも、虚しく思えることでもね。全部を捧げるなんて出来ないよ。いつだって半分しか、半分だけしか果たせないの。でも誰かが誰かを、半分ずつ埋めていくことができれば、それをずっと続けさえすれば、この世界は必ず変えられる。わたしと九三が、いま実際にこうしているようにね。なーんか別れの挨拶みたいだよ不二良。お別れじゃないよ。わたしと九三は、これから何度でも出逢うことになる。えっ? そうでしょ、わたしたちはそれぞれ出来ることが違う。だから路の半ばで、思いがけず反目して、食い違って、そして戦うことにもなる。わたしたちがじゃなくて、わたしたちがしてきたこと、が? そう。まだその時は来ていないけど──もし一度、わたしたちの仕事たちが戦うことになれば、あとはもうすぐそこ。〈本物〉への路は、わたしたちが共同で拓いたことになる。そう、かな。いや不二良が言うならそうなんだろうけど……行き先は同じで、行き方が違う、だっけ。そう。いつか殺しあうよ、わたしと九三の仕事たちは。でもそれは永遠を増やすため。ひとつの永遠でも無数の瞬間でもいけないの。もっと届くため、もっと往くために、わたしたちはそれぞれ違うものを差し出さなきゃいけない。違うもの、か。すでにこんなに違うのにね。うん。でも大丈夫、「飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく」。わたしたちは必ず、同じ場所で落ち合うよ。これは最初からそういうこと。なんか不二良、泣きそうじゃん。そんな顔初めて見たな。ふふっ……ねえ九三、これ、もらっていい? いいに決まってるよ、そんな安いポラロイドでよければ。ありがとう……じゃあ九三、今夜も始めましょうか。PA? うん、PA。ふふ、言葉でするよりもずっと適切な方法、か。そう。九三、本当にありがとう、わたしに教えてくれて。何を? 愛を。九三のおかげでやっとわかった。愛は、わたしが考えてたものとは、まったく別だった。
申し上げます。一本目を吸う前から尾道が投射される。何か異変か。はい、ダブリン港にて物資及び電源の供給を受ける予定でしたが、どうやら港が封鎖状態にあるようです。封鎖? いつからだ? ニュースサイト等を検索してみましたが、どうやら本日早朝に突如としてストライキが……しかもどうやら、限定的に、我々の入港のみを拒絶すべく起こされたらしいのです。Yonahのみを? わけがわからん、こちらは四ヶ月前に予定を報告済だし、諸々の費用も支払済だぞ。言い、一本目を取り出すが、胸ポケットにライターが無い。まさか昨夜入れたまま洗濯したか。それが……申し上げにくいのですが……なんだ、隠さず言え。あった、抽斗の奥にひとつ。先週シーラがサン・ルイスの酒場から持ってきた紙マッチ。どうやら、Peterlooの……マキ様と典午様のお二人を弾劾対象として、騒ぎが持ち上がっているようなのです。我々が一体何をしたと? ええと……「君臨・敬虔・改悛」のwebサイトに記載されている文言をそのまま読み上げます。「χορός客船の艦長に一大スキャンダル」、「元自衛隊員、かつてPKOにて民間人虐殺を遂行」、「隠蔽された記録」……
イネス、これ一体どうなってんの? 九三の背中に続いて入室する。どうって、見ての通りとしか言いようがない。言いながらスマートフォンの画面を指し示すイネス。うわ、すげえ数。桟橋まで占拠してるのか。めっちゃプラカード立ってるじゃないすかー。テーブルに置かれたスマートフォンを、九三とイリチとイネスとゾフィアが取り囲む。なんて書いてるんだこれ、ちっさくて読めない……静止画なら結構上がってるよ、ほら。なん…… “MASS MURDERERS on that ship” 。 私も画面を覗き込み、 “No Place for the Wicked” , “PURIFY THEM ALL with OUR PURITY” ……と読み上げる。なんだか、やたらと宗教的な言い回しね。どうやら、カトリックの市民団体によるデモらしいんだよね。右派っていうか、聖書原理主義な感じの。え……? それなんか聞いたことが……
頃合いよく、と言うべきか、入口に視線を向けるとShamerockの二人が。やっぱりあいつらか……と呟く姫に、あれ、だねえ……と教授が苦笑を添える。姫……やっぱりってことは。初めて会ったとき話したな、あたしの母親のこと……「君臨・敬虔・改悛」のリーダー、ブリジッド・オサリヴァン。あのとき言ってた……まさか、ここまで大規模な団体だったとは。いや、今回の騒ぎは水増しされてる。3Rだけでここまでのことができるとは思えない。馴染みのない固有名詞らしきものが放られ、なにって? と九三が訊く。あー、ニュースサイトでも略記されてるだろ……「君臨・敬虔・改悛」、その頭文字をとって3Rと呼ばれてるらしい。3Rか……たしかに審判には違いないけど。二人の声を傍らに聞きながらニュースサイトの記事を読んでいると、聖パトリック党が公式のFacebookに投稿した声明文らしきものが引用されていた。これも共謀だと? 言いながら画面を指し示すと、姫は頷き、そもそも3R自体が、その右派政党の支持母体として発足されたものだからな。党首はアンガス・アポロ。アポロといっても、奴の竪琴の音はひどく歪んでるようだ。と切る。え? 不可解げな九三に、竪琴はアポロンの神具であって、それと同じ姓を冠した男が音楽による表現の自由を全く解していない、という事実を姫なりのウィットで……と教授が縷述し、解説やめろ、恥ずかしい。と姫が遮る。まあそういうことだ、前々から言論とか音楽とか出版物への道徳的規制を推し進めてたが、まさかこうして真っ向からぶつかるとは……でもこの人たちの言い分わけわかんないすよ、スキャンダルとかなんとか……Peterlooていう、うちの艦長さんと副艦長さんの所属組織? がディスられてるんすか? だし、姫が一時的に身柄を保護してもらってる組織、でもあるねえ。えっ……ゴールウェイから家出して、ミッシーの家族の世話になったときな。居場所のない子どもの権利を保護するNGOがあると知って。だから姫、国籍はアイルランドだけどソーシャルセキュリティはPeterloo持ちなんだよね。そっか……じゃあ今回3Rが出てきたのも。あたしの家出と関係ない、とは言えないな……
皆さん、あれです、ついに現れました! 双眼鏡を離し、遥か彼方のダブリン湾を指し示す。あれがあの船! と親愛なる同志が言い、あれがあの船です! と私も言う。あれがあの船! とまた別の親愛なる同志が言うので、あれがあの船ですね! とまた言う。まったく、図体ばかりばかでかくて、まるで戦艦のようではありませんか! もしかしたら、我々の国を火の海にするつもりかもしれません! いえもしかしたらではないのです、本当に焼き尽くすつもりなのです、淫靡なる劫火でもって! 比喩的表現です! そう、比喩的表現ですよ、本当に火を放つわけではないですけど! 比喩的表現ですね! しかしむしろそっちのが恐ろしいではありませんか、せっかく独立を勝ち得て、血まみれの英国人の腕から解き放たれ、ついに純潔なるカトリック国家として立ち直った我々が、他所からやってきた罪深き船団によって侵略されてしまう、文化的に! そう、文化的に! 絶妙な連携で気炎を上げる我々に、アンガス・アポロも唱和する。恐ろしいことです、奴らはそこを狙うのです! うら若き魂に、安っぽい虚飾でもって歪な性愛や邪な信仰を売り込みにくる! 文明の破滅は文化の腐敗から出来するのです! 神よお慈悲を! こんな災厄を呼び寄せてしまった我々にお慈悲を! しかし、彼の船にひしめく堕落した人間どもの舌には禍を! もう奴輩が二度と冒涜の言葉を吐けないように、舌の根から切り取ってしまわれんことを! ええ、ですが我々が実際にやるわけではありません! それはもちろん! 復讐するのは神であって、我々ではありませんものね! そうです、我々はそのことをよく知っています! しかしこの国の運命を神に委ねてばかりもいられません、我々はあくまで、あくまで平和的に、あの罪深き船団を追い払おうではありませんか!
実に滑らかな口上が述べられ、周囲の同志は陶然としている。タイミングを逃さず、私は首元のチョーカーを握りしめ、Amen! と叫ぶ。この世紀に稀少な敬虔なる信仰の持ち主たちも、Amen! と一斉に唱和する。そう、絶対に逃しはしない。打ち払いはするけども、機会だけは逃さない。Peterloo、あの胡乱なNGOに鉄槌を下すことができる、この千載一遇の機会だけは。
それではまあ、訊くも憚られることですが、あの団体が弾劾しているスキャンダルの真偽については……応えるも愚かなことだ。真っ赤な嘘だと、いちいち言わねばならんのか。いえ、愚にもつかぬ虚言だと判ってはいるのですが、いちおう記録しておかねばなりませんので……私と典午が、陸上自衛隊在籍中に、PKOで派遣された先のスーダンで民間人虐殺を……などと、よくもそんなでっち上げを。我々の声明だけでは信用ならんなら、国連やPeterlooや自衛隊にも諮問してみたらいい、そのような記録が残っているかどうか。私から言えることは以上だ、くだらん。ええ、わかっております。貴重なお時間を頂戴して申し訳ありません。大浦氏におかれましても、岩走氏の見解に同意ということでよろしいでしょうか? ああ。了解しました、それではこれで……待て、港は本当に解放されるのだろうな? この船はサン・ルイスからの長旅を経てここに着いたのだ、物資と電源の供給を受ける必要がある。ええと、それに関しては……まだ確言が……できかねまして……何だと? 君たちは何の仕事をしてるんだ、今すぐ戻って、あの団体の弾劾がでっち上げだと認めさせたうえで散会させる、それだけの話だろう。いえ、それが……3Rのデモと港湾のストは、それぞれ別の問題でございまして……よしんば3Rを散会させたとしても、同時に港湾のストも収まるとは考えられません。ふん、二段構えというわけか……ならばこちらとしてはダブリン港を告訴するまでだ。契約を履行せず、支払済の料金に相当する待遇を拒絶したとしてな。ええ、こちらも港の主任に伝えてまいります……ひとまず、このまま停泊したままでお待ちください。一刻もはやく事態の収拾に努めてくれ。はい、それではこの辺で……
警察官ふたりが恭しく退場し、典午が後ろ手でドアを閉める。ドアの外の靴音が遠のくのを待ちながら、目の前の男の双眸を見つめる。典午……ああ。抹消された、はずだな。もし我々が取り戻そうと望んだとして、記録自体もう残っていないはずだな……と、ひとつひとつ噛み潰すように言う。ああ、そのはずだ。ならばなぜ、あの団体に……あの場に居合わせた誰かが吹聴した……以外の可能性は考えられん。居合わせた誰か。我々の知る限り、二人しかいないはずだな。我々二人を除いては……ああ、まず、いま霧島四七と名乗っている彼。彼女、だろ。それはどちらでもいい。四七と、彼を養子として引き取った、あの……あの名前を出さねばならん、か。典午が依然として語尾を保留しているので、私が言うしかない。百済不二良、か。
無言で頷く典午を前にして、ふいに継ぐべき言葉を失う。ではなぜ、彼女が。と至極当然の疑問を投げても、返事はない。裁くためか、我々を。と率直に言うと、まさか……そんなに容易い終幕を与えてくれる彼女ではない。と、典午自身も苦虫を噛むような顔になる。では、何のために。試すためではないだろうか……龍九三を。九三? なぜ彼女を? 四七から聞いた話だが……百済不二良と龍九三は、かつて親しい間柄にあったという。突如として不二良のほうから袖にしたらしいが、不二良は今でも九三のために行動していると……我々がこの船に乗せられたのも、それと無関係ではないらしい、と……
龍九三。この船に乗っているアーティストの中でも、特に飛び抜けた存在というわけでもない彼女──いや私に音楽の良し悪しなどわかるはずもないし、投票の結果から類推するのみだが──、九三のために不二良が。あの地での「解放」も、四七を得てGILAffeを造ったのも、すべて九三のため。まさか、そんなことが。一箇の人間に為せることとも思えないし、人倫によっても認めがたい。いや、そもそも私が百済不二良について何を知っているか。直に対面したのはたった一度きりではないか、私も典午も。にも拘らず脳裏に焼き付いて離れないのは、あの「解放」から始まったこの苦役のためか──永遠に裁きが延長されるに等しい、この苦役の。
ああもう、うるせえなー外。この部屋の中まで聞こえてくるって、相当だね……停泊許してもらったのも、結果としてはマズかったかもね。あの人ら、誰一人としてダブリンには入れないーっていきり立ってるし、もしかしたらギリギリのとこまで来てるかも。疫病かあたしらは……ていうか、ドラキュラ伯爵じゃん? え? ほら、ドラキュラって船に乗ってロンドンまで来たんでしょ? そうなん、翔んできたんじゃないの? 羽根はえてるでしょドラキュラって。そうだっけ。映画かなんかと間違えてないか? いやあれだよ、吸血鬼って水ダメでしょ確か。さすがに船には乗らないんじゃないの。だよね、危ないし。船酔いもしそうだし。吸血鬼って船酔いするんすかね。わかんないけど、いつも顔色悪いもんな。会ったことあるみたいに言うね。友達みたいっす。実はあたし吸血鬼モノのこと全然知らないんだけどね、ソン・ガンホのやつくらいしか。ソン・ガンホは顔色悪くないでしょ。確かに。意外っすね、クリスチャンの人って吸血鬼モノくわしそうなのに。そうかな。吸血鬼とキリストって関係あるの? わからんすけど、十字架で殺せるじゃないすか。はかるんそのへんどうすか? なぜ私に……会ったことないよ吸血鬼なんか。いや、クリスチャンとして。親がそうだっただけで、私は違うから。敬虔なキリスト教徒だったけど、戦争で色々あって堕落したんじゃないっけ、ドラキュラって。それはただの史実だろう。えっ、ドラキュラって史実版と脚色版があるの? 三国志みたいな……八犬伝みたいな。八犬伝は全部創作だから。姫はドラキュラくわしいのか。さすがアイルランド出身。えっ? 関係ないだろう。でもアイルランド系でしょ『ドラキュラ』の作者って。「怪奇作品のオリジネーターはだいたいゲイかアイリッシュ」って、クライヴ・バーがエッセイで書いてた気がする。え……? ミッシー、クライヴ・バーって誰だ。アイアン・メイデンのドラマー。あ、間違えた、クライヴ・バーカーだ。クライヴ・バーカーはわかるのになんで『ドラキュラ』の作者は思い出せないの。測だって思い出せてないんだろ。アイアン・メイデンってフランケンシュタインの敵すか? 違うよ。でもどっちも強そうじゃないすか、名前も似てるし。闘ったことありそう。そもそも生き物じゃないから。いや、フランケンシュタインは生き物だろ。ヴィクター・フランケンシュタインは生き物だけど怪物は生き物じゃないから。でもアイアン・メイデンのTシャツの生き物いるじゃん。あれはエディだから、アイアン・メイデンじゃないな。え? じゃあ、アイアン・メイデンの作者って誰? アイアン・メイデンの作者って何。そもそも小説じゃないな。『フランケンシュタイン』は小説なのに? フランケンシュタインに花嫁がいるならアイアン・メイデンに作者がいてもよくない? 多分あれだよ、夫のほうのシェリー。夫のほうのシェリーって誰。いや知らないけど、確かそっちも作家だったろ。あれでしょ、バイロン卿と友達の。また名前増えたっす。バイロン卿ってドラキュラの敵? 違うよ。ヴァン・ヘルシングと間違えてるだろ。そうだっけ……なんの話だっけ。『ドラキュラ』の作者って誰だっけ、って話。違うよ。
と手持ち無沙汰の雑談も長引いていたところに、Defiantの二人が帰ってくる。お待たせ。結果から言うぞ、ダメだった。と率直に言うイネスに、ええ、交渉決裂? と九三が返す。うん、電源と物資の供給さえ受けたらすぐに去るからって譲歩したんだけど、それさえも拒絶されちゃって。とゾフィアが答えるので、じゃあ、このままホウスまで行けってこと? と私が問う。そうなるね……アイルランド公演が終わったら、スコットランドに接岸して、それで船での移動は終わりだから、いけるっちゃいけるんだけど……いやだめだろ、酒とか食いもんとか足せないし。と한나が差し挟むと、タバコも。と九三が付け加える。そもそもツアー開始前に、各地の港に契約や支払は済ませてるんでしょう。そうだけど、あまりにも団体の抵抗が激しすぎて。と立ち話が長引く私たちの向こうで、わ、うわあ……とヤスミンが小さく呻く。どしたん。いま上がった動画ですけど……見てください、これ。テーブルに置かれたラップトップの画面を囲み、うわ、これ……と九三が眉を引きつらせ、埠頭、だなあ、ホウスの。と教授が場所を特定する。人びっちりじゃないすかー! ああ、もうそっちまで占められてるかあ……っていうことは……皆の口端を見比べるゾフィアの頬から笑みが褪せる。今回の公演自体が危うい、ってこと。
えー! と嘆ずる九三の傍らで、ダブリン中止でも次のエディンバラまでなんとか漕ぎ着けたら、ってA-Primeは言ってるけど……とイネスは言うが、いや駄目だろ、だって今もう連合国だろ。ダブリンで公演中止しちゃったら、味をしめてスコットランドでも同じことやられるだろ。と詰められ、こっちはカトリックの影響力がそんなに強くないとはいえ、今日のと同じ人たちが来るのは確実だねえ……と教授が当事者的な分析を加える。
壁際に追い立てられるような感じを覚えているのは、おそらく私だけではないのだろう。談話室に蟠る沈黙を、どうする、シーラ。といつになく事務的な口調で破ったイネスに、はは、なんで姫に? と教授が応ずるが、その笑みはいつもの快活さとは別様に見えた。3Rのリーダー、つまりきみの母親だが、彼女の頑なな公演阻止の動機は、娘の存在にあるんじゃないかと思ってね。関係ないよ、だって姫は……とにわかに言い合いのようになる声を遮り、姫が起立する。関係ある。ここまでの事態になったのは、あたしのツケが回ってきたからだ。姫……だから妥協なんかしない。徹底抗戦だ。奴らの掲げてるお題目は、あたしが家の中で聞かされた文句と寸分も違っちゃいない。不道徳がどうとか堕落がどうとか。いつだって母はそう言って歌をやめさせてきたんだ。だからもう交渉の余地なんかない。奴らと言葉でわかりあおうなんて段階は、とっくの昔に通り過ぎてるんだ。ああ、似ているな。受け容れがたいものを前にしたら挑みかかって叩き伏せる、まるで幼少の頃の──と辷る想念を押しとどめ、じゃあ……どうするの? と問うてみる。姫は依然として眉根を寄せたまま、徹底的にぶっ叩いてやめさせる。法的手段でもなんでもいい、非があるのはあいつらなんだからな。あの世迷言を黙らせた上で、こっちの要求を全部飲ませる。いかなる手段をとってもだ。と言い切った。By any means necessary, かい。とイネスは微笑するが、しかしシーラ、そうしたとして、火に油を注ぐ結果にならないかな。とゾフィアが反問する。なんでだ。お母さんがあれだけムキになってる理由にあなたの存在があるってことは、さっき認めたでしょう。だからこそ、あなたが出向いて強硬的に接したら、もうお互いに退っ引きならなくなる……具体的には、流血にまで発展する可能性がある。それが何だ。奴らが望んでるのはそういうことだろ。だったらお望みどおりにやってやる、奴らのナメきった態度に乗ったうえで、正しいのはこっちだってわからせてやる。
これが落とし所、なのだろうか。とても取りつく島など無いように思われた、彼女の私情を忖度することも許されない部外者にとっては。談話室に集った全員の口に、長い無言の幕が垂れる。そんな沈黙を破ることができるのは、いつだって他人に行き過ぎたお節介を焼く、彼女くらいしかいなかった。
それは、違うんじゃないかな。ソファに座ったまま言う九三に、姫は無言で視線を向ける。もし今回のが、姫ひとりの問題だったとしても、その解決策は正しくないと思うな。ふん、お前らしくもないな、たわごと並べる奴らになびくのか。そうじゃない……そうじゃないんだ。言いながら、ゆっくりと起立する九三。それとは別の意味で……敗けだよ。もし姫がさっき言ったことをやっちゃったら、こっちの敗けになっちゃうよ。敗けって何だよ、このまま引き退がるほうが敗けだろ。違う。そうしちゃったら、姫もあの人らと同じになっちゃうってこと。何……姫とお母さんの間に何があったか、わたしは知らない。でも3Rが明らかにおかしいのはわかる。だからこそ、これは話し合いで解決すべき。いま、わたしらの公演が脅かされてるのは確かだ。だからこそ、向こうがやってるのとは別の手段で解決しなきゃいけない。姫、あなたはいくら怒っても、憎んでもいいと思う。でも、正しくないと判ってる相手と、同じものになっちゃ駄目だよ。
ふたつの波紋がぶつかりあうような、不思議な静寂。ミッシー、どう思う。ごめんね姫、九三が正しいと思うな。他のやつらは。あたしも龍に賛成。こっちもがーって行ったら、あいつら余計に調子づきそうだし。私も、九三に賛成です……話し合いで解決できたら、一番いいと思います。イネス、ゾフィア、どう思う。吾も九三だなあ。法的手段とかはもちろん取るけど、それは収拾段階で進めるべきこと。今こっちが振りかざしたら、あっちは袋小路まで追い詰められる。そしたら何しでかすかわかんないよ。私も同じく。まあ、宗教原理主義者たちのデモなんて飽きるほど見てきたけど、今回のは明らかに歯止めが効かなくなったパターンだよ。たぶん向こうも、自分たちが何を主張してるかさえ分からなくなってるんじゃないかな。あの人たちの言葉には、脅かされるくらいなら脅かしたほうがいいっていう、よくある怯えが透けて見えるから。怯え……か。93のふたりには……訊くまでもないな。こちらへ視線を向ける姫。私が頷くと同時に、イリチも微笑む。
じゃあ……姫。九三の視線を振り解くように、好きにしろ、あたしはもう一切意見しない。と姫はソファに倒れ込む。対話で解決できるなら、してみればいい。本当にできるなら、の話だがな。ありがとう。じゃ、イネス、そういうことでいいね? おう。じゃ、尾道。と呼びかけるが、数秒経ってもあの活動素体が現れない。尾道? 尾道! と何度か呼ばわると、ようやく室内入口に投射された。尾道ですが。艦長に伝えてくれ、交渉はまだ続けると。港に出張ってる3Rのもとへ、九三が直接話しにいく……ってことでいいよな? もちろん。伝えたら、お前も昇降口のゲートで待っててくれ。はいはい……「はい」は一回でいい。あと尾道。はい? 女王陛下と闇公爵様の姿が見えないけど、今どこ? エリザベスとウェンダ様のことでしたら、前者はあのタコ部屋に、後者は王の御殿に、それぞれ控えておられます。ウェンダは今回の事態について何も? ええ、特に何も。というかアイルランド公演にもさほどご興味がございませんでしたようで、ブリテンでの四公演に漕ぎつけさえすればいい、とのことです。自分が勝つ前提かい、いけ好かねえなー。エリザベスは保留、ウェンダは中止でも構わない、ってことね。じゃあ、尾道は言われた通りのことを。
それじゃ、準備といこうか。こっから骨だぞ九三、吾らはビデオ電話での交渉だからまだよかったけど、直接会うとなると……渋面のイネスに、港はもう、蜂の巣みたいなもんだと思って。ゾフィアが苦笑を添える。そんくらい、自分で言ったことだよ。はやく行こう、もう一六時だ。言うと同時に、Defiantの二人を伴って、九三の背中が遠のく。
というわけで、これより昇降口に参ります。ああ、くれぐれも暴力沙汰にならないよう。了解いたしました。通り一遍の応対をドア越しに聞きながら、ノックもなしに入室する。見ると、岩走マキはタバコの箱を取り出し、回頭して窓ガラス越しに空を眺めていた。強いて無関心を取り繕っている、ように見える、その背中に言う。
いやあ、それにしても、いい娘ちゃんたちばかり集まったものですね。あのスキャンダルが事実かもしれない、なんて、考えもしないのですから。
そいじゃ、気張らずいきますかー。昇降口に出ようとするわたしに、はい、いってらっしゃいませ。と四七は恭しく言う。なんでだよ、お前も行くんだろ。なぜその必要が? 船内から港までなんて、迷いようがないでしょう。いや案内役っていうよりは、通訳役だよ。四七は語学がよくできるんだろ、不二良に見込まれた程度には。それはそうですが、通訳であればなおさら要らないと思いますよ。あの人々にも皆、GILAffeは入っているようですから。えっ。Defiantのお二人がビデオ電話で交渉しているのを見ておりましたが、始終ずっと日本語でしたよ。なんそれ、そこまで急速に普及してるのGILAffeって!? まだ解禁から四ヶ月くらいしか経ってないよ? まあ、一神教徒にとっては永遠のテーマですからね。バベル以前の普遍言語、的な。そりゃあ喰いつくでしょう。えーじゃあアイルランドの人でも直接日本語で話せるわけか。それって……キ、キモいー! なんか日本が世界征服した設定みたいじゃん。現実であるからには、受け入れませんと。うう……わかったよ、それはいいけど、四七も一応ついてきて。大丈夫ですか、そんなへっぴり腰で。いやあ、さすがになんかあったら目撃者が必要だろ、あっちの言い分だけだと歪められちゃいそうだし。過ぎた心配だと思いますが。とか言い合いながら港まで降りたわたしたちを、ふたりの警察官が迎える。先導されながら進むにつれ、あれはなんだろう、3Rの人らの罵声だろうか、なにやら甲高い声が聞こえてくる。
港の内部に入ると、いよいよもって周囲からの罵声が音量を増す。強張った批難の声を浴びせる女性たちに混じり、なんともやる気のない声を上げている男性たちの姿もあった。えっと……3Rのひとたちが怒ってるのはわかるとして、あの港湾労働者たちはなんなんだろう。買収されて、適当にやってるのでは。こんだけの人数買収するって可能か? いくら政党がバックについてるとはいえ。単に、3Rの構成員たちの配偶者が付き合わされてるだけかも。ならあのやる気のなさも納得です。そんなに港湾労働者と結婚してるのか3Rの人らって? それとも、単にタブリン市民の大半が3Rで、だから自然に港湾にも息がかかるみたいな……としょうもないこと考えるうちに、もう会談の場に到着したらしい。ワタシが同行できるのもここまでのようですよ。四七の正面に、作業着姿のやつれた男性の姿が。3R側の要請で、交渉の場にはYonah側から一人のみとなっております。と言われるので、んー、仕方ないか。と観念して襟を正す。対話の様子は撮影するというので、既にプレス陣も控えております。ので、滅多なことはしないと思いますが……ん、わかった。じゃあ四七、ここで待ってて。はい、ご健闘を。
うわ、なに。フラッシュか、カメラの。ビデオカメラの撮影だけかと思ってたけど、新聞社もだいぶ集まってる感じなのか。うわー政治家の記者会見みたいだな。しかし、初めてこれだけのフラッシュを浴びるきっかけが宗教団体相手の交渉って……遅れてうんざりしながら、申し訳程度にカメラの方を向く。ところに、名乗りなさい! と刺すような声。あー、福岡県から来ました龍九三です。χορόςでは93ってグループでやってます。間抜けてあるしかない挨拶を述べながら、室内の有様を見回す。部屋の中央には、複数のマイクが結え付けられたテーブルが。皆さん、ついに、ついにです。準備はよろしいですね? あれが3Rってことになるのだろう、二〇人くらいで壁際に群れている人々、と反対の方へわたしは歩く。いい加減カメラのフラッシュも収まりはじめた頃、一人の夫人が咳払いひとつ、中央のテーブルへと歩を進めた。
それでは、龍さん。そちらへどうぞ。は、はい。この人、か。ニュースサイトに写真はいっぱい出てたけど、姫の母親、ブリジッド・オサリヴァン。似てるのかな。髪の感じとかは近いけど、やっぱ年格好のせいか印象がずいぶん……そもそも似てるってなんだろう。どう考えても主観の問題だよな。自分は親に似ているっていうよりは、親を通して自分が人間であることを発見する、みたいな。だから親に似てることは人間に似ているのと同じことで──と止めどなくなる連想をなんとか抑え、目の前の女性の姿を見据える。我々と直接会って話がしたいとのことですが、一体どのような御用向きで? いえ、シンプルなことです。この港を解放して、うちの船に物資と電源を供給してほしいなって。用件を述べると、それを断るために私たちは立ち上がったんじゃありませんか! そうです! と3R側の人々が声を上げる。あれ、これ不利じゃないか。わたしが一人だけ通されたのって、もしかして公の場で袋叩きにするためなんじゃ。鉛を飲むような感覚に襲われ、皆さん落ち着いて。あくまで冷静にお話ししましょう。とブリジッドが背後の同輩たちを宥める姿も、どこか演技めいて見えた。さて龍さん、我々といたしましては、講和に応じるわけには参りません。おわかりでしょう、どうあっても我々は、あなたがたを、一人たりとも、この地に、迎え入れるわけにはいかないのです。一言ごとに念押しするような態度に、なんでですか? と端的な疑問が漏れる。あなたがたが世界中で行っている公演とやらは、我々の道徳と真っ向から対立するものです。歌とダンスが……? そんなん世界中にあるじゃないですか、もちろんこのアイルランドにも。トラッドとかダンスとか、優れた文化がいっぱいあるでしょ。とやわらかめに言ってみると、我々の文化と、あなたがたのふしだらな催しを一緒にしないでいただきたい! 無礼です、いかにも無礼! とすかさず糾弾の声が上がる。皆さん、落ち着いて、落ち着いてくださいね……ブリジッドはふたたび背後の声を諫める。さて、ねえ龍さん。あなたがたがどんな音楽をやろうが勝手です、表現の自由は保障されて然るべきですからね。しかしね、どうしてアイルランドにまでそれを持ち込もうとするのか、と我々は訊きたいわけです。え……? だってツアーだし……これからスコットランドとイングランドでもやるし……イングランドで? 結構なことじゃありませんか、あなたがたの凶暴な風習は、血まみれの帝国にはきっと似つかわしいものと思いますわ。だから、はやくあちらに向かっては? もうこの土地に用は無いでしょう? いやだから、言ったじゃないですか、電源と物資を供給してくれって。わたしらサン・ルイスから直で来たんで、最低限のものしか残ってないんですよ。あれっこれさっきイネスたちが伝えたはずじゃと疑った先から、我々の施しに与るというのですか! なんて図々しい! と刺々しい拒絶で報いられる。あのね、寄港については数ヶ月前に報せてるし、そのための費用も支払済のはずですけど。要するに、大人として、商売人として、まともに応じてくれって言ってるだけなんですよ。もしかしてあれか、さっきもイネスたちはこうして押し問答してたのか、と直接この場に臨んだわたし自身の軽率を悔やみそうになり、そのために渡した物資や電力は、結局は何に使われるのですか! あのおぞましい、悪魔的な催しのためでしょう? そうです! よりによって、我々アイルランドの人間にあんなものの片棒を担げと!? それはまるで、今から戦争しに行くから武器を売ってくれと言われているようなものです! という痙攣的な罵声の連打が駄目押しする。どういう理屈でそんな……同じことじゃありませんか、ねえ! ええ、まったく同じことです! 我々は金のために魂を、この真正なる信仰を売り渡しはしません! 首元のチョーカーを握りしめて絶叫する姿を眺めながら、これはちょっと、まずいんじゃないか。と砂を噛むような感覚。思った以上にあれじゃないか、話通じてないんじゃ。こちらの要求がどうとか以前に、この人たちはもう最初から──
皆さん、落ち着いて。ひとり冷静に見えるブリジッドは、咳払いひとつ起き、さて龍さん……おわかりになりましたでしょう。我々は何があったって応じるわけにはいかないのです、あなたがたのふしだらな生業を後援することになりかねない以上は。と一息に述べる。もうよろしいですね。速やかにこの港から立ち去っていただきたい。
沈黙。
えと、どうしよう。どこから指摘したらいいんだろう。色々おかしいけど……こうなったら、もう、絞るしかないか。港での騒ぎをニュースサイトで報されたとき、まず一番に引っかかったあの件。
あの、ブリジッドさん。わたしの質問を、ひとつくらい訊いてくれてもいいじゃないですか。と言うと、もちろん、聞きますよ。どうぞ? と恭しく返した。この団体全員を相手にしても勝ち目がない。だからブリジッド・オサリヴァンの、彼女の裡にあるものに触れるしかない。あなたがたが主張している、あのスキャンダル、ですけど。と一言述べただけで、おお、口にするのも恐ろしい! 悪魔の仕業です! と背後から嬌声が上がる。がブリジッドはつとめて冷静に、あれが……どうかしましたか? とだけ返した。あれは根拠のない誹謗中傷でしかないと思うんです。打てば響くとばかりに、何を、知りもしないくせに! と罵声が返る。つられないように息を整えながら、ええ、おっしゃる通りです、わたしは何も知りません、そのスキャンダルについては。ただ不思議なのは、皆さんが先ほどから、まるで事実であると確信しているように見えることです。と続ける。事実に決まってるじゃありませんか! そう、直接私たちのところへ来て、教えてくれたんです! みなさん、静かに……教えられた? ってことは、皆さんが独自に調査して掴んだわけじゃないんですね? 誰に教えられましたか? あなたがたにそのスキャンダルを吹き込んだのは、いったい誰なんです? と掴んだ糸口を引っ張ると、答える必要はありません。大事なのは誰から教わったかじゃない、その事実が真か偽か、です。とブリジッドが言下に謝絶する。うちの岩走艦長は、はっきり事実でないと明言してますよ。と返すと、そんな虚言が信じられますか! と初めてブリジッド自身も大声を上げた。
沈黙。
ブリジッドさん。なんですか……あなたの娘さんも、Yonahに乗ってますよね。シーラ・オサリヴァン。わたし、このツアー以前から、娘さんとは仲良くさせてもらってるんですが。はあ、そうですか……あなたって、彼女が歌の道に進むことをよく思ってなくて、やめさせようとしたらしいですね。それで家出しちゃったって。それが一体なんですか! 交渉とはまったく関係のないことです。カメラ、止めてください! つまりあなたと、うちの岩走艦長は、シーラにとって二人の母親ってことになるわけですよね。彼女は自分の意志でNGOの世話になることを選んだ。つまりあなたのところにはいたくなくて、岩走艦長のとこへ転がり込んだんです。だから何だというの……だからなんじゃないですか? あなたが岩走艦長への誹謗中傷を行うのは、娘を奪われたという被害者意識を糊塗したいだけなのでは? まあ、なんてことを! 本当に、なんということを! それこそ根拠のない誹謗中傷じゃないですか! 違うなら謝ります。ただ、あなたが何故あのスキャンダルに執着するのか、疑問はまだ片付いてません。誰から聞いた話を、どういう理屈で事実と思うのか、感情的にならずに説明してください。説明する必要などありません! 事実なのです、事実ったら事実なのです! そうです! 我々には正当な権利があるのです、あなたがたのふしだらな生業をやめさせる権利が! あの、それがもう根本的にわかんないんですけど……いったい何なんですか、ふしだらとか堕落してるとか、さっきから一方的に言ってますけど?
沈黙。よし、来たな、肝心のとこに来た。この人たちが最初からわたしらに憎悪を向けてやまない理由、その中核に踏み込めるかもしれない。ブリジッドは、慎重に言葉を選ぶかのように口端を震わせたまま黙っていたが、ようやく案文が定まったのか、長い呼気ひとつ挟み、口を開いた。
あなたがたのような……ソドミーの申し子が存在していること自体、我々には堪え難いことなのです。
ソド……何? はっきり言わなきゃわかりませんか? 女性同性愛者どもの巣窟、ということです! よりによってそんな汚辱の巷に、私の娘を拉致するなんて!! 拉致っておい、姫は自分の意志であんたを捨てたって何度言えばわかるんだよ? 姫などと、浮ついた名で呼ぶな! あの子はシーラ・パトリシア・オサリヴァン、私の娘です! ええ、そうですとも! だいたい姫などと、いかにも堕落したソドミーらしい呼び方! なんだよ、わたしがつけたわけじゃないし……しかしすごいなあんたら、さっきからホモフォビアを隠そうともしないが! 道徳的に堕落した人々を軽蔑して何が悪いのです! ねえ皆さん! そうですとも! 考えられません、あんな淫猥な歌を唄っている女たちが、よりによって同じ船内で過ごすなんて! きっと内部では連日連夜の乱交が行われているに違いない! なんそれ……あんたらの勝手な妄想だろ! あと女ばかりで乱交してたとして、それの何が悪いんだよ? あっ! 皆さん、聞きました? 今あの人、認めましたわ! ほうらやっぱり、事実だった! χορόςはソドミーたちの伏魔殿だわ! なんてふしだらな! 道徳的に堕落した者どもを、この神聖なるアイルランドに迎え入れるなど言語道断です! ちょっと、頼むから落ち着けよ……もう宥恕などありえません! ええ、わからないなら何度でも言ってあげます、我々はあなたがたの悪魔的な生業など認めません! 出て行きなさい! あんたら……骨の髄までキリスト教徒だな、歌とダンスの力をそんなに恐れるなんてさ! しかしキリストも言ってたろ、ええと、わたしは剣でなく笛で踊りましたとか……「笛を吹いたのに、あなたがたは踊らなかった」でしょう! なんと、我々の聖典を恣意的に歪めて引用するなんて! しかもあの人、キリスト教徒のことをひとしなみに侮辱しましたわ! 性的に堕落してるうえに差別主義者とは! おま、どの口でそんな……記者の皆様、この軽蔑すべき人間の顔をしっかり撮っていってくださいね! ああ、ちくしょう、そうだなしっかり撮っていってくれよ! わたしの目の前の、軽蔑すべきご婦人方の姿をな! 何を……この対話をどう報道するかは、記者それぞれの自由だからな。「ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得しうるような有能な編集者は、すべての世界の支配者ではなかろうか」。トマス・アクィナス、じゃない、カーライルの言葉だ、あんたらはそもそも知らんだろうが! ほんとに、侮辱の語彙ばかり豊富な女! いいか、わたしらは正式な手続きを経て入港しようってだけだ、もう前日に全部済ませてるんだ。そんなこともわからないならもう全員……モーゼモーゼと、我々の前で穢らわしいユダヤの名前を出すな! は!? な、何だよそれあんたらの聞き違いだし、キリスト教だってユダヤと同じ一神教だろ! 我々の真正なる信仰はユダヤとは何も関係がない! そうだ、謂れのない誹謗中傷だ! 何なんだよあんたら、無茶苦茶だ! もしかして新約だけで旧約のほうは読んでないのか? そんな雑さで一神教徒が勤まるのかよ? まあ、穢らわしいソドミーが、よりによって我々の信仰を云々するとは!! 神よお慈悲を! おお、終末の日は近い! クソッ、そうだなもうおしまいだ、こんな連中が一丁前にキリスト教徒を名乗ってるとは! いいか、あんたらは自分自身でキリストの名を汚してるんだ!
出ていけ、出ていけ、悪魔め!! あ、うわ、なんだよまだ言い終わってないぞ、ちくしょう、あっやべ思ってたより腕っぷし強い、いや集団だから当然か。壁に沿って押しのけられるわたしを、これはプレス陣から止めに入ったのか、それとも港の職員が騒ぎを聞きつけたのか、何人かがわたしを敵意剥き出しの婦人たちから離そうとする。助かった、今のうちに。振り返ると、ちょうどドアが開け放たれた。走り出すと同時に、体重の乗った一撃が背中に叩き込まれ、文字通りに部屋から蹴り出された。
おめでとうございます。室外に転び出たわたしに四七が言う。何がおめでとうだよ。無事、交渉が決裂したようですので。これでおわかりになったでしょう、たとえGILAffeがあろうと、話の通じない相手には通じないと。まあ、ほんとにバベル崩壊後の大混乱って感じではあったけど……でも、ちくしょー、わたしもだいぶカッとなっちゃったな……話す前は冷静にいこうと思ってたのにさ……衣服の埃を叩きながら歩くわたしに、お気になさらず、最初から無理な話だったのですから。と四七は慰めにもならないことを言う。認めたくないけど……でもそうなんだよな、話の通じない人はいる。そういう人らが一方的に誰かを圧殺することも。ほんと、日本にいたときは気づかなかったけど、表現の自由なんて、地理的にも歴史的にもごく限られてる……いかがなさいました? いや……ちょっと考えてて。こういうとき、不二良ならどうするかなって。急に……なんですか? あいつさ、口癖みたいにしょっちゅう言ってたんだよ、「この世界は変えられる」って。わたしたちが自明として受け取ってることは、実は地理的に歴史的に限定されたものでしかない、だからこそ人の手によって打開できるんだって。そう、ですか。
すでに昼のものではなくなっている陽射しを眺め、手を臀部の位置で組み、ぐっ、と前屈する。不二良なら、どうするかな……あの人たちの信仰の歪みを、ひとつひとつ丁寧に指弾したかな。でも、それと同じことが、わたしなんかにできるわけないな。と独言めくわたしに、らしくもなく、思い詰めますね。もっとシンプルに考えたらいいのでは? あなたはあなたにできることをするしかない、とでも。と四七が言う。わたしに、か……不二良にはできなくて、わたしにはできること……
九三様?
……音楽……
えっ?
姿勢を戻し、息を整える。やるしかないか。えっ、あの……そうだ、シンプルに考えよう! ほらさっさと戻るぞ四七。わたしにできることなんてひとつしかなかった。わたしたちは最初から、音楽をしにきたんだ。
もう一七時前。二時間後にはホウス岬で開演準備を整えているべき私たちは、談話室中央のテーブルを囲み、奇妙な余裕とともに帰還した九三の話を聞いている。
“Dance Dance Dance Dance Dance to the radio” 作戦……? 怪訝に鸚鵡返しするイネスに、あるいは、 “They Shoot Horses, Don’t They?” 作戦。と九三が加える。なにそれ。映画のタイトル。日本ではたしか『ひとりぼっちの青春』とかいう邦題で公開された……どんな映画すか。観客の見てる前で、死ぬまで踊り続ける、みたいな。へえー、楽しそうすね。いや、すごくダウナーな映画だったけど……で、それが一体? あと “When the last ship sails” 作戦とか “Learn to swim, see you down in Dublin Bay” 作戦とかも考えたんだけど……いやもういいから、作戦名は。つまりね、簡単なことなんだ……あいつらが、3Rが見てる前で、船が沈没するまでライブ配信をやる。
沈黙。
は? さっき尾道に確認してきたんだけど、この船、今は停泊状態だから問題ないけど、もう航行には二時間ちょっとの電力しかないらしいんだよ。そうだな、港からの供給を受けられない限りは……だから、それを逆手に取る。このまま出港して、ダブリン湾のあたりをぐーるぐーる回って、その間ずっと、船内でライブ配信をする。えーと、最初にみんなでパーティーしたあの広間がいいだろう。その様子をχορόςの公式チャンネルで流すわけ。ああ、ライブの代わりとして……正確には、ライブの正式な開催を求める抵抗運動として。もうホウス埠頭も抑えられてるんじゃ、この港を出たとしてもライブやれるとは限らないだろ。つまり、船内でのライブ配信を、3Rのデモを解散させるための示威行動とする……そう。いつもの公演がいつもどおりに行われないとしたら、今まで観てくれてたファンたちも不審に思うだろ。すぐに何が起こってるか知りたがるはず。だから先手を打って、わたしらがライブを通して呼びかけるんだ、電力が切れるまで。ええと……九三、船には予備電源っていうものもあるんだよ。知ってるよ。それは港を出るときに置いてく。わたしらが本気だってことを思い知らせるんだ、本当に船を沈めるつもりだって。
沈黙。
いちおう訊くけど……正気? もちろん。正気の人間は「正気です」なんて言わないけどね。もうこれしかないと思うんだ。わたしたちは全員、音楽をやりに来たんだろ。今回まさかの妨害に遭ったけど、でもよく考えたら、自由に表現できる空間なんて限られてるだろ。わたしたちも、今まさにその自由を脅かされてる。だったら戦うしかない、音楽で。でもねえさん、さっき「沈没するまで」って言ってたすけど……言葉通りの意味だよ。もちろん、みんな一緒に沈んで死のうって意味じゃない。四七と尾道に頼んで、いまデッキのほうで避難の準備をしてもらってる。救命胴衣もボートもあるし、ダブリン湾から岸辺までは行けるはずだ。えっと、沈む前提で話が進んでるけど……最悪の事態を想定すべき、ってだけだよ。もちろん最良のシナリオとしては、訴えた結果としてアイルランド政府……じゃない、えっと姫なんだっけ正式名称。スコット=アイルランド連合国、略称SIUN。それ。その政府がダブリン港での処遇が不当なものだったと正式に認めたら、3Rのデモは立ち枯れになる。そうすればYonahは無事に入港できるし、物資と電力の供給も得られる。そのあと万全の状態でホウスに向かえばいいだけだ。たしかに、それなら港の封鎖とホウスの占拠を同時に打開できるな……でしょ。そうだが、な……九三、言っていいか。うん。狂ってる。あー、言われると思った……さっき「話し合いで解決する」と息巻いてたやつの言うことがこれか。電力がなくなるまで示威行動して、駄目だったら船ごと沈めと。で、ねえさん、これあたしが一番気になってることすけど。うん、何? 船が沈んだとして、人はまあ脱出すればいいすけど、Yonahに積んである機材、は……ああ、それね……ごめんだけど……助けられないな。
沈黙。
やだあー!! それ無理っすー!! あんまりじゃないすかあ、機材は何も悪いことしてないのに、いきなり塩水に漬けられて死んじゃうなんてー!! 無理っす、それないすわあ、あんまりっすわあー!! あー!! ご、ごめん漁火ちゃん、まさか泣くとは。だって、わかってるはずじゃないすかあ、この船どんだけすごい機材積んでるかあ……わかってるよ、でもミキシングコンソールとかは、さすがに搬出するのは無理。もちろん全部沈めるなんて言ってないよ、アンプとかエフェクタとかは、予備電源を港に下ろすとき一緒に出すつもり。いま尾道に準備してもらってるからさ。うー……ギターもっすかあ? もちろん、ただ配信中に使う一本は残してもらわなきゃだけど。なんかもう、やる前提みたいすけどお……皆なんか言うことないんすかー? はかるんとかー? あるけど……あるけど、もう十分わかってるからね、言ったところで思いとどまる人じゃないってことは。エヘヘ……なんで嬉しそうなんだ。嬉しそうでしかも照れてる。んー……どう思うソーニャ? 時間的に考えて、根本的に事態を解決しうる案はそれしかないかもね……いや、狂ってるけどね。はは、だよなあ。いやー、最初に会ったときは思いもしなかったよ、龍九三って人がここまでぶっ飛んでるとは。沈没とか言われたときはどうしようかと思ったけど、詳しく聞いてみれば筋は通ってるし、あまつさえ準備も進んでるみたいだし。エヘヘ……だから、なんで嬉しそうなの。照れるのもやめろ。いま「気違いですね」って言われてるんだよ、あなた、端的に。いや、でもこれ以外に無いと思うんだ。わたしたちは音楽のために来た。にも拘らず正当な待遇すら受けられずに引き退がるなんて、その時点で敗けだよ。理不尽な問題に直面したら戦うべきだ。ただし絶対に武力でなく、わたしたちの仕事、音楽で。音楽で、ね。漁火ちゃん……いい? もし無理だったら、先に避難しといてもいいから……先にって、もうやるの確定なのが怖いっすわあ。はは、まあね。でも決めたことだから。ねえさん怖い人だなあ、最初組むときから知っときゃよかったっす。はは、ごめんね。謝んなくていいっすよ。仕方ないなあー、やるしかないっすね。本当? 文字通り、乗っ掛かった船じゃないっすか。ここで降りたらKATFISHの名が廃るっすよ。ただ……条件があるっす。なに? もし沈んだとして、みんなかならず脱出できるようにするってこと。もちろん、それ第一に考えてるよ。あと、Innuendoのふたりの同意も得てから始めるってこと。あ……そうだったね、うん、もちろん。忘れてたろ。そんなわけないじゃん、尾道にどうするか訊きに行ってもらってんだよ。尾道ですが……おう、どうだった二人の意向は? ウェンダ様は、そんなのは言語道断だとして、ライブ配信にも加わらないと……お荷物も既にまとめて、港に降りる準備を整えておいでです。そっか。エリザベスは? 話を聞いて、ずいぶん戸惑っておられましたが……ウェンダ様と同じく、ライブには加わらないと……尾道、ずいぶんげっそりしてないか。現在、四〇体ほどで同時に活動しておりますのでね、こんな重労働は初めてで……じゃあ、ウェンダとエリザベスは出港前に降ろすってことでいいか。ええ、ウェンダ様に関してはそのように……ただ、エリザベスはまだ考えたいとのことで、部屋に留まっておいでです。うん。どっちにしても、避難準備だけは間違いのないように。じゃ、戻っていいよ。おつかれ。はい……
お待たせしました……ああ。では、私はもう行くからな。はい……あの、私は船の半径1km以内での活動しかできませんので、ウェンダ様にお供することは叶いませんが……お忘れなく、この尾道、たとえAIなれども魂は常に……ああ。ではな。あ。ウェンダ、様……行ってしまわれた。せめて、振り向いて労いの言葉でもいただけたら……ああいや、私には休む暇など無い。ボート、胴衣……はこれで全部か。
指示の通り、船の予備電源と発電機は切除し、これから港に降ろします。うん、船自体の残存電力は。今まで通りの速力で駆動させて、ライブ用の機材も使うとなれば、一時間半も保たないかもしれません。そっか……まあ、十分だよ。船の機構は尾道に任すとして、いちおう知っておいてください。電源が消失し、駆動が止まった後、船底のシーチェストを破損させれば、おそらく沈没可能となります。沈没可能、はは、まさか生きてる間にそんな言葉を聞くことになるとは。では、避難と搬出の準備は整ったようです。あとは……出港ですね。待って、その前に艦長と副艦長の同意が……あの人たち? とっくに同意済みですよ、イネス様や九三様の好きなようにと。どうせ主体性なんかあるわけないんですから。ずっと前から思ってたけど、四七ってなーんかあの二人に厳しいよなー。ふん……死んだ目をしてる輩は嫌いなのでね。じゃあわたしのことは大好きってか。いえ、鬱陶しくギラギラしてる人も嫌いです。ははは……ねえ四七。はい。今日、3Rの人らが大騒ぎしてたスキャンダル、だけどさ。あれと関係あるんじゃないの……四七が言ってたスーダンでの「解放」。まさか、あの宗教きちがいたちの妄想の所産ですよ。でもだいぶ共通点あるじゃん、PKOでアフリカで民間人虐殺で。もしかしたらあれ、事実、ってこと……そんなこと言ったら、あの時ワタシがした話だって、でっち上げかもしれないじゃないですか。えっ? ああ……まあ、可能性としてはそうだけど。人の話を容易く信じ込みすぎですよ、アナタは。人間ひとりの現実なんて不確かでしかありえません。信じたいものを信じるだけ、に決まってるじゃありませんか。いや、まあね……でもね、言葉を言葉どおりに受け取るしかないんだと思うよ。それ以外に為様なんてない。目の前に突きつけられた言葉を、言葉どおりに受け取るしか。まあ、アナタみたいな人間はとくにね……うん。そいじゃ、あとよろしく。わたしは大広間にいるから。ええ。
話し終わると、すぐに行ってしまう。まったく、ついに正気を失ったか、九三もこの船も。「発狂した人間は、理性以外の全てが失調している」とは、母から聞いたことだったか。今の九三にも同じことが言えるだろうか。しかし、言葉を言葉どおりに、ね。だから毎回ひどく傷付くんだろう、何をしたって。だからアナタは、母と一緒にいても……
「そうすれば、あなたもすぐにわかってくるでしょう。そこで何が起こりうるのか、自分は何をすべきなのか、が。」
だからアナタは、母に、あれほどまでに……
最初は教授と한나のB2Bでいくだろお? ん、あのパーティーみたいな感じだな。でも駆動時間は限られてるわけだろう……配信開始から数分間、ストリーミングがちゃんと行えてるか確認する間でいいんじゃないか。そうだね、ここからやるのは初の試みだし。で、一曲目が始まる前から、教授と한나はDJブースに板付で。一曲目以降のトラック出し担当、ってことでしょ。うん、さすがにずっと二人いてもらうわけにいはいかないから、パフォーマンスの番になったら片方が抜けるのを繰り返して。そこもB2Bなんだな、任せとけって。よし、じゃあ肝心のセットリスト一曲目だけど……もちろん93だろう、こんな無茶を始めた当人なんだから。だね……いきなり『Grace & Gravity』かますか。あはは、沈むかもしれない船で『Grace & Gravity』って、笑えなすぎて逆に笑えるっす。そのあとで、どういう経緯でこうなったかを説明する? うん、フリースタイル混じりでね。たぶん二分もかからないよ。字幕の自動生成と同時通訳機能に支障がないよう注意しておいてね、尾道。はい……で、次はDefiantに出てもらいたいんだ。んー、いつもみたいな大掛かりなステージセットは使えないから、やっぱ『Funky Presidenta』かねえ。そのあとの転換込みで、锡鼓はこの時点からスタンバっといて。ん、じゃあここで抜けなきゃだな。Defiant、锡鼓ときて、次にShamerockきたらゴタゴタする? あたしがすぐDJブースに戻れたらいいんだけど……それまでヤスミンのフリースタイルでつなぐかな。無、無理だよ。じゃあ漁火ちゃんのギターソロでいいんじゃない、暗転とともにジャーンってイントロ。お、よさそう。その間にわたしらが準備してShamerock、って流れか。せっかくだからイリチ、今回ギター弾いてよ。マジすかー! 『Hell-Bent』のギターなら完コピしましたけど! あはは、準備万端じゃん。じゃここまでの流れで……だいたい二五分くらい? 順調にいったらな。あとは……もうバラけてやってもしょうがないから全員集合、だろう。うん、それしかない。そうだ、実はわたしら前にやったことあるんだよ、Shamerockと一緒に『Bleed It Out』。あー、それ観られなかったやつ! リンキン・パークか、あれならすぐ憶えられるな。じゃ、その場にいる全員で『Bleed It Out』……からの、DJブースからループで出す曲も欲しいね。なんのネタがいいかなあ……そりゃ、ヤバいやつらのオールドスクールだから『Live at the Barbeque』だろお。おお、いいね! ワンループだし、あのフックなら誰でも唄えるし。これ演ってるころには外で大騒ぎになってなきゃいけないわけすね。そう、A-Primeにも協力してもらって、ダブリン港での待遇が不当だったことを訴えかける。連絡はもう取れたよね? 確約済みだよ、今回のが中止になったらあっちの株価もガタ落ちだからなあ。よし、このへんからは、配信画面にSIUN政府へのメッセージを出して……それで、どうする? あとはもう、皆を信じて演り続けるしかないね……皆って、この配信を見ることになるファンたち。それと、港に集まってる3Rの人たちも。ふん……それでも、最後の一押しに欠けるんじゃないか。『Live at the Barbeque』は別にいいが、何かこっち側の主張に沿うネタがないと……
こっち側の主張に、か。たしかに、一方的にパーティーの様子を見せるだけじゃ……何か、これがわたしたちの言うべきことだ、ってテーマが集約されるような曲目。でもそんなんあるか、これまで皆バラバラに活動してたわけだし、今からリハーサルしても間に合わない……頭の中にいくつもの案が浮かんでは消える。ところに、93の部屋から持ってきたファイルを矯めつ眇めつしていた測が、一枚の譜面を差し出した。
これ……かな。おお……これだろ! イネス! うん……? あっは、よくこんなお誂え向きの! なに……? ぷっ、ははは、学校で何度演ったかこの曲! 私も、定番曲集の練習してるときに何度弾いたか。あー、ライブにうってつけだな! 龍とイネスがラップ、測がピアノで、ゾフィアがサックス、あたしがビート打ってミッシーがDJ。これで成立するだろ! わかんないけど、難しい曲なの……? ボーカル担当のひとは、途中でチャントが出てくるんで、それを繰り返したらいいはずっす。メロディはサックスのと同じなんで。よし……じゃ、この曲を電源喪失まで演り続けるか。いやあ、しかしよくこんな譜面持ってたなあ! 実はこの曲、日本のヒップホップの名曲でもネタとして使われてるんだよね、『OVER THE BORDER』っていう。ぶはは、吾らにぴったりのタイトルじゃん! じゃあ……演目の打ち合わせはこれでいいね?
大広間の床に座っている全員が、物言わず視線を交わす。
尾道ですが……うわっ。あ、この部屋にいるのとは別の尾道? はい。予備電源、発電機、機材や私物など、排出可能な船内の荷物はすべて港に降ろしました。ん。3Rの人ら怒ってなかった? いやあもう、大変な騒ぎで……これはなんだ、爆発物ではないのか、テロだ、一体何をするつもりだ、などと……あはは、結構結構。生憎のところ、わたしらが使うのはピースフルなフォースだけどね。じゃ、港の熱りが冷めないうちに、さっさと出港するか。ん、それがいい! あの、尾道……エリザベスはどうなりましたか? ええと、まだ部屋に残っておいでです……まもなく出港ですと、伝えたのですが…………そう。避難準備は完全に整いましたので、出港後も繰り返し注意は促します……それでは。
じゃ、行くかい。うん。まったく、故郷もすっかり遠くなった……あはは、だよねー、祖国に入れてすらもらえないなんて。逆に考えるべきかもよ、姫たちに反対してるのはあの団体だけで、ファンたちは味方だって。あ、そっか……配信中にリアルタイムで行動してくれるかも。配信かあー、ちぬんに今のうち連絡しとこ、「これで最期の演奏になるかも」って。アイルランドまで飛んできちゃうかもよ。そしたらちぬんにも参加してもらうっす。ふふっ。それじゃ……行きましょうか。
退出し、これから衣装や諸々の準備に入る。一八時前か。よし、まだ手遅れじゃない。すぐに始めたら、勝ち目はあるはず。勝ち目? そんなん誰が判断するんだ。もちろん、後から来るやつらに決まってる。わたしらがしたことをどう思うかは、その人らが決めたらいい。ただわたしらは、これしかできなかった。するしかないことをやるだけだ。
振り返り、様変わりした大広間を眺める。うん尾道、急ピッチでよくここまでやってくれた。あとはもう、わたしらの仕事だ。話し合いではどうにもならなかったけど、わたしらにはこれができる。武力や恫喝でなく、音と言と舞による訴え。
これがわたしらの戦争だ。
なんだというの。とっくに港は占拠したというのに、あの穢らわしい船は未だに停泊したまま。おまけに、騒ぎを聞きつけた小蝿どもがこうして纏わってくる。
よう宗教右派ども、ずっと出ずっぱりらしいが、今朝のお祈りはちゃんと捧げたんだろうな? なん、よくもそんな物言いができるわね、世俗に毒された享楽主義者が! あんたらが陰謀論に取り憑かれたイカレだってのはわかったからさあ、もうさっさとどいてくんない? あたしらはね、姫たちがダブリンで演ってくれるのをずーっと心待ちにしてたの。それこそあんたらがイエスの再臨を待ち望むようにね。なんという……我々の偶像とあの淫婦どもを一緒にするとは。同じ偶像には違いないでしょ。ひとつ決定的に違うのは、あんたらの救い主と違って、こっちには音楽とユーモアの才能があるってこと! ああ、なぜこのような穢れた言葉を聞かねばならないのか! 神よお慈悲を、かの涜神の徒どもは知らないのです、自らが口にしたそのことによって、たったいま天国への道が閉ざされてしまったことを! おー、なんか俺ら天国出禁になったらしいぞ! いいじゃん、最初から行くつもりないし! 天国天国って言うけどさあ、そんなものがあるとして、あんたら本当に行きたいの? 賭けてもいいが、そんな天国に行ける奴らなんて、全員、一人の例外もなく、クソ野郎だぞ!
なんなの、こいつら、いったい誰に頼まれてきたの。まさか、あの堕落した祭典を主宰している企業に雇われたとか。そうだわ、どうせこんなまとまりのない抗議に参加するような輩には日当が出ているに違いない。おお神よ、私はバビロンの徒には決して……
え、何。なん……なんですか? 唐突に響いた汽笛に、同志たちも不安げに埠頭を凝視している。さっきから不審な挙動を繰り返していたあの船が……動き出した。ははあ、これはきっと退却ですな! 我々の根気強さに屈して、尻尾巻いて逃げよったんですよ! 皆様、勝利です! 我々の誇り高い国土から、淫婦どもの船を追い出しましたぞ! そう、そうよね、これできっともう終わり。ついに我々の信仰に勝利が……輝き……あれ? 眼前の暴徒どもの携帯端末に通知音が。ほらやっぱり、雇われていた企業からの通達だわ。やっぱりこいつら、金で動いていたんだ。もういいでしょう、さっさとお帰り……あら、なにかしら、どの輩も一向に去らないばかりか、我々と同じように、動き出した船に視線を向けて……
なに……配信開始? えっだって、まだ開演時刻じゃないでしょ? それに、船まだあそこだし……えっ!? なに、なんの騒ぎ。同志……いったい何事ですか? あの淫婦ども、どうやら船内にたてこもり、海上でライブをするつもりのようです。しかも、その様子をネットで配信するなどと……ふん、大したことではありません。そんな児戯めいた訴え! いえ、これは……まずいですぞ……どうなさいました? あいつら、ダブリン湾に……あの船を沈めるつもりです。
よし……声明文のアップも公式アカウントでの告知も完了、配信の音質と画質も整ってきた。この曲が終わったらもう出番。尾道、あたしのギターイントロで始めるんで、それまで暗転で頼むすよ。了解しました。
なん……これ!? まさか、あの船の中でやってるの!? 間違いないよ、聞こえるじゃん、あっちのほうから!
尾道、外に出してるスピーカーの音量、最大まで上げちまいな。しかし……そのぶん電力の消耗が速くなりますが。いいよ、九三も覚悟の上だ。
何これ、今回のχορόςってこれなの? もう始まるなんて聞いてないんだけど! アイルランドのやつらいないの? 外のあたりどうなってる?
イネス……パンゲアから連絡あったよ。いつものコメント量の五倍だって。ふふん、いい調子だな。あとこれはフォーラム情報だけど、ガーディアン紙の取材陣が港に到着したって。よし、どんどん広がってくれよ……じゃ、次は吾らの出番だ。尾道、九三が戻ったら锡鼓の段取りを。了解しました。
きたー『Funky Presidenta』!! フゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウ!! 何度聴いてもアガるわーこのイントロ! こんばんは、ちょっとよろしいですか? えっ? あっはい。今回、3Rおよび聖パトリック党による公演阻止運動に対し、ファンの方々がカウンターのデモを行なっていると聞きましたが……ああ、カウンターていうか、文句言いに来ただけですけどね。でもあれですよ、いきなり船が動き出しちゃって。出港して、ダブリン湾を回っているのでしょうか……? はい、でも、声明には「沈むまでやる」って物騒なこと書いてますよ。さっき港でたくさん荷物降ろしてたし……本気なんじゃないですかね?
よろしいでしょうか。なに……勝手に撮らないで、肖像権の侵害! 今回、3Rおよび聖パトリック党による公演阻止運動が、表現の自由の侵害、および港での端的な営業妨害として広く批難を集めていますが。批難って……私たちは私たちの信仰を護るために行動しただけよ! これだから左派の新聞は信用ならない! リーダーのオサリヴァン氏、および聖パトリック党首のアポロ氏にもコメントを頂きたいのですが。なんですか、嘘偽りは申しませんぞ、私は信教の自由を護るためにここにおります、もちろん表現の自由も大事でしょうがね。オサリヴァン氏、あなたの実の娘であるシーラさんはPeterlooの預かりということで、今回の抗議は私怨によるものではないかとの見方が広まっていますが……よくもそんなことが! 私怨などと!
한나언니♡ 茉莉加油! ヤバいこれ全員ぶんやるの? すごくない? ってかいつまでやるの?
おつかれ、もう大騒ぎって感じだよ。ガーディアン、NME、ハフィントンポスト……よーしどんどん広がってるな。次の段取りは? 漁火ちゃんのギターソロに入ると同時に、改めて声明文をでっかく画面上に表示する。よし、操作たのむぞ尾道。はい。そんで、ソロが明けたらShamerock。よしソーニャ、今のうちに全員分の水持ってきといて。うん。
WTF! えええええこんな共演なかったでしょ今まで!? ツイッター落ちた? 落ちてない? コメント欄はまだ生きてるみたいだけど。
おつかれー锡鼓。ありがとうございます。今、港の様子は……3Rとファン、双方のデモが向かい合ってるなあ。おー……たのむよ怪我人だけは出るなよ。ネット上では、ファンによる署名運動も始まってるみたい。署名って、今回のSIUN政府に訴えかけるための、ですか? もちろん。龍、残りの稼働時間どんくらい? えーと、スピーカーの音量最大にしたら思ったより減っちゃって………あと三五分くらい。ええ!? すまん、吾がそうしたんだ。いいよ、そのおかげで外部まで伝わったみたいだし。署名の数もすごいことに……このままいけば、SIUN政府も即座の対応を取らざるを得なくなる。うん、でも……どしたヤスミン? ……ちょっとごめん한나、私、デッキのほう見てくる。デッキって、避難用の? うん、でも脱出するわけじゃないよ。ちょっと、やっとかなきゃいけないことがあるの。
まさか、本気で、こんなことを。龍九三、あの子どうしてここまで……こんな手段が、本当に通じるとでも。こんなことで状況を打開できると……信じられない。いや彼女自身も、本当は信じていない。本当に信じてしまったら狂信になる、港に屯しているあの一団のように。本当に信じているわけではない、なら、どうして彼女はここまで。そして、どうして私もまだここに……
エリザベス! 背後からの音声に、反射的に手元の端末を隠してしまう。振り向かなくてもわかる、このお節介な声は蔡茉莉。観てくださってたんですねっ。通路からデッキへと歩み入る彼女に、ええ……良いパフォーマンスだったわ。と、本音でも上辺でもない感想を放る。ありがとうございますっ。あの、この船、あと三〇分くらいで沈んじゃうらしいです。知ってるわ、数分おきに尾道が報告に来るから。そう、ですか……
何の用で来たかは、もうわかってる。あの、エリザベス……言わなくていいわ。どうせ、貴方は来ないんですかとでも言うつもりでしょう。そこまでわかってるなら……行かないわよ。今回ばかりは、私の出る幕などない。そんなはずありません、貴女は今回のχορόςで一番のアーティストじゃないですか! 個人として、なら、間違いなくそうでしょうね。しかし……あなたがたには皆パートナーがついているじゃない。その肝心のパートナーに裏切られたばかりの私には、あなたがたの共演の中に居場所を得ることなど許されない。そんな……実力や才能どうこうじゃないわ。これは私の……プライドの問題なの。
言うべきことは言った。そう、ウェンダなしで今更出たところで、いったい何になる。そこにはInnuendoによる至上の演舞も、ファンが期待する孤高の姿もない。私にできることなど何もない。しかし、では……なぜここにいる。ウェンダと同じように、始まる前から降りたらよかった。なぜここに残ったのか。最後まで見届けるため? 音楽による抵抗に賭けた彼女らの姿を見届けて……それで、先は、どうなる。私自身の経歴も、このχορόςの行末も。
プライドが、何ですか……見ると、声とともに拳も震えていた。プライドが、何だっていうんですか! そんなもの、ただ傷付くだけじゃないですか。プライドなんて大事にするものじゃないです! むしろ、前進するためには傷付けなきゃ、プライドを! 傷付ける……? 現に、私はたくさん傷付けてもらいましたよ、貴女に。貴女に及ばないって、貴女の真似事くらいしかできないって、χορόςに参加する前からずっと傷付けられてましたよ、こんなすごい人がいるのに私は、って……でも、そのおかげでここまで来ました。もう私にプライドなんてありません。滅茶滅茶にされて、ズタズタにされて、そのおかげで今の私になったんです。価値ある傷がある限り、人は前進できるはずです。これはエリザベス、貴女が教えてくれたことですよ。
今度は、私も傷付けと。はい。切って、傷を、開けと……ふふっ、言うようになったわね。名前を憶える価値すら無い凡人と、最初はそう思っていたけれど……
蔡。はい! 随分なことを言ってくれたわね。お返しに、あなたにひとつ命令があるわ。はい、あのっ、なんなりと。
……私、メイクはずっとウェンダに任せっぱなしだったの……手伝ってくれるかしら。
……あ……は、はいっ!
やっと着いたか、タクシー拾ったのが間違いだったな。走ったほうが早かった、この交通網の渋滞では……ようやくダブリン港のゲート前に至ると、3R側とカウンターの双方が、今にも衝突を始めんばかりに睨み合っていた。なんと、こんな規模に……二〇分前の画像とは比べ物にならない。ジンバブウェが端末の画面と目の前の光景を見比べ、通してください、通してください! 我々、χορόςの運営を仰せつかっているA-Primeです! とゴンドワナが首にかけた社員証を掲げながら歩み入る。3Rのリーダーであるオサリヴァン氏との交渉に参りました、通してください!
同志、また交渉だとかなんとか……交渉すべきことなど何もありません! なんですか、あれほど我々のプライドを踏みにじっておいて! どうしてですか、どうして放っておいてくれないのですか! 我々は信仰を護り抜きたいだけなのに! ええ……? そもそも今回の騒擾はあなたがたの……やかましい! χορόςの運営ですって? 穢らわしい、悪魔の手先め! あの淫婦どもを利用して金儲けとは! 信じられない、そんなにも堕落した人間がこの世にいるだなんて! だれもその不正を糾そうとしないだなんて! いえだから、あの……死にたいんでしょう!! 沈みたいんでしょう、あの船と一緒に!! じゃあそうさせてあげたらいいじゃありませんか、ええ、こちらとしても望むところですよ!! 助け舟を出す必要なんてありません!! もちろん港に迎え入れる必要もね!! 死んでもらいましょう!! あの淫婦どもには当然の罰です!! もちろん、沈没によって汚染されたダブリン湾の浄化費用は、すべてそちらに出していただきますからね!! あのう、オサリヴァン氏……記者が見ている前ですぞ……「死んでもらいましょう」などというのは……触らないでください!! あなたまでそんな及び腰ですか!! 道徳的に堕落した者が集団で溺死してくれたとして、それで何の問題がありますか!! 素晴らしいことじゃないですか!! 聖書にもあります、ええと……星が水源に落ちて……豚が死んで……水が苦くなったと……あのですなあ……
な、なんだ、仲間割れが始まっているのか。しかしこちらが訴えかけるべきは一人、ブリジッド・オサリヴァンだけだ。ひっきりなしに上がる嬌声の合間を見計らい、ひとつ冷静に言ってみる。よろしいですか、交渉に応じなかった場合、我々としては広範にわたり不利益を被ったとして、膨大な額の賠償金を請求せねばなりません。少なくとも、港での供給拒絶に伴う賠償は不可避です。これ以上罪を重ねてもよいのですか?
罪などと……
えっ?
罪などと……気易く言うな!! 無神論者が!!
あと二〇分、か……そろそろ、覚悟決めなきゃな。九三、これ。おっ……「各国大使館、χορός参加者に対するダブリン港の待遇に抗議の意を表明……」ついにここまできたか。SIUN大統領府にも、抗議の電話は殺到してるらしい。あと一押しなんだが……うん、でもここでこっちが態度を軟化させたら……通るもんも通らない、か。やっぱ、政府が直接に港を動かすまでは。やり続けなきゃいけない……ただ、セットリストも残り少ないな。
『Hell-Bent』のアウトロとともに『Bleed It Out』。わたしと測と한나とDefiantは、カメラの外でマイクを握って控える。教授が漁火ちゃんにイントロの合図を目配せする。よし、あとはギターイントロで全員……
え。なんだ、正面入口。あっヤスミンか、デッキに行くって言ってたけど。全員の注意が入口に向けられ、つられてステディカム担当の尾道も、カメラアイを入口に向ける。
マイクを寄越しなさい、貧乏人ども! 三流役者が揃いも揃って、なんのまとまりもありゃしない。こんな舞台、始まる前から失敗しているわ。肝心の主役を欠いていてはね。
エリザベス、だよな、いつもと全然服装違うけど。あ髪型もか。もしかして、これヤスミンのアレンジ。背後でめっちゃうっとり眺めてるけど。突然の乱入を受け、マイクスタンドの前にいた姫は苦笑を浮かべ、ヴァースの準備を整えていた教授もにっこり笑い、いきなり予定に無いメロディを唄い始める。 “…and did those feet in ancient time, walk upon Englands mountains green?” あっこれエルガーの『Jerusalem』か、EL&Pのやつしか知らないけど。すると姫も、 “and was the holy lamb of God, on Englands pleasant pastures seen!” と大袈裟に手を振って唄いだす。エリザベスは一瞬だけ呆気にとられた顔をして、しかし次の瞬間には毅然とした笑みで、いつもどおり鷹揚な挙措で入場する。ヤスミンもその後に続く。
ヘタレでハッタリの女王陛下、もうとっくに逃げたと思ってたが。と姫が毒づくと、ふん、沈む船から逃げ出すのはネズミだけだわ。女王たる者の風格は、如何なる苦境にも乱されないのよ、この世の終わりにおいてさえね。とエリザベスは綽々と返す。よーしじゃあ始めようか、 here we go for the 100th time! と教授が煽ると、ステージに集まった全員が歓声で返す。 Hand grenade pins in every line! 同じように大声で応える。 We gon’ … We gon’… We gon’ bleeeeeeeeeeeeeeeeeeed… 右手をくるくると翻しながらタメる教授を囲み、わたしら全員も長音を伸ばす。
Bleed it out, Mu’tafikaaaaaaaaz!!!!!!!!!!
これだけ署名を集めてもSIUN政府は公式声明を出さないのか? 大統領府は何をやってる! この国は表現の自由を認めないばかりか、外国からやってきたアーティストたちの、命がけの主張をも黙殺するのか! これはχορόςがどうとかじゃない、人間性の問題だ! ただ公演を行いに来ただけの人々を見殺しにするのか、という瀬戸際だ!
よし、『Bleed It Out』短いからな、もう抜けなきゃ。あとは『Live at the Barbeque』で繋げるはずだ、その間にやっとかなきゃ……通路こっちか、あっいた、四七! 窓がない通路の暗がりに立つ、その姿に呼びかける。あと一五分、というところですか。うん……あのさ、最後のお願いがあるんだ。なんですか。いまさら港に戻してくださいと泣きついても……もう一度、港へ行ってほしい。避難用ボート使っていいから、もう一度、直接、3Rの人らと話してほしい。
いつもどおりの皮肉が挫かれたのか、それとも言われたことが心底意外だったのか、四七は目を丸くしている。あは、初めて見たなこんな顔は。伝令、というわけですか……うん。この期に及んで、アナタは……まだ話し合いによる解決が、ありうるとでも。うん、信じてるよ。やるだけのことはやったんだ、今なら考えを変えてくれるかもしれない。
よし、これで終わりだ。あとは本当にダメだったら、みんな一緒に脱出すればいいだけ。じゃ四七、わたし戻らなきゃだから……ちょっと待ってください。なに、と言う間すらなく、四七はわたしの眼前まで歩み寄り、懐のポケットから何かを取り出し、わたしの右手に握らせた。
これって……写真。ええ、母が、諸国を放浪するあいだずっと手放さなかったもの。わたしが撮ったやつだ、安物のポラロイドで……あれたしか職場の飲み会のビンゴゲームでもらったやつだったっけ、もう捨てちゃったなあ……母は常に肌身離さず持っていましたよ、「この写真で初めて教えられた」、「わたしがこんな姿をしているとは知らなかった」と。もーわけわかんないなー、いきなりポーランドに置き去りにしたり、そのくせ遊びで撮った写真を大事に持ってたり……
苦笑するしかない。そうだ不二良、ここまで来たのも、結局はあなたのせい。見えるはずもないあなたの背中を追いかけて、何の因果かこの船に乗ることになった。良くも悪くも、ほんとにわたしの人生を掻き乱してくれた……獰猛で、厄介で、大好きな人。その姿を収めた一葉の写真。大事に持っててくれたんだ。なら。いいよ四七、あげるよ。その写真は、あなたが持っとくべきだよ。え、なぜ……だって、わたしは沈んで死んじゃう可能性あるけど、四七はこれから戻るじゃん。わたしが死んだとしても、あなたは生き残るじゃん。なら持っとくべきだよ。これから、また不二良に逢うかもしれない。そのとき伝えといてよ、「九三は最期まで笑ってました」って。
ん、なんだ、そんな意外か。だってイヤじゃん、大好きな人の写真を海に沈めるなんて、なんか失恋みたい。そもそもこれは失恋どころの話じゃないんだし。しかし四七、ずっと目を丸くしてるな。ちょっとからかってやろ。てゆーか、そんなこと言ったらこっちが「なぜ」だよ。なんで今そんなもの取り出したの? なんかお別れが近くなって、寂しさみたいなの感じちゃった? 後悔したくないから、的な? なーんだ、お前もけっこう人間らしいとこあんじゃん。……失礼します。あっ。写真を懐のポケットに収め、背を向けて行ってしまう。もー……じゃ、また逢ったら、不二良によろしくね。
エンジン付のボートであれば、数分で到着できるか。すでに陽が落ちようとしている。さすがに海上は肌寒いな。寒いといっても、あの一二月とは比べものにもならないが。
考えてみれば笑えるな。あの時と違って、今はワタシに生殺与奪の選択権がある……まったく因果な巡り合わせだ。この伝令の役目を放棄して、何もしなかったとしたら……あの船は本当に沈むのだろうな。いや役目を果たすにしても、あの宗教きちがいたちに話が通じる余地など無いじゃないか……なのにあの人は、こうしてワタシを……
わからない……本当にわからない。すこし掴めたかと思うと、またわからなくなる……母があの人を愛した理由も。なぜあの人が、これほどまでに……音楽の力を……
どうして、ここまで……あんなに自分の命を顧みない人は見たことがない。ワタシもそうだと思っていたけど……ワタシとあの人とでは、命の捨て方が違う。ワタシは最初から、何も望んでいなかっただけ。だが、あの人は、望みすぎるあまりに……しかしわからない、何を望んでいるのだろう。自分の欲を満たすためでも、誰かの愛を勝ち得るためでもない……
……「この世界は変えられる」……
カメラの外から、よし教授そろそろ終わり、このあと一回MC入れるから、の合図を送る。『Live at the Barbeque』最後のフックが終わり、トラックがバックスピンで停止する。
Wassup! みんな楽しんでくれたかな、残念だが、次が最後の曲だ。文字通り、わたしらにとってのスワンソングになるかもしれない。どういう意味かは、まあ、この数十分後には明らかになってるだろう。
楽器隊が控えるブースに視線を向けると、測とゾフィアが譜面台の前で合図を待っていた。
もうこれ以上、言うこともないだろう……何しろ、時間がないんでね。次に演る曲、そのタイトルこそが、わたしらの言いたいことの全部だ。
DJブースに視線を向けると、한나はMPCにビートをアサインし、教授はコスりネタのヴァイナルをターンテーブルにセットしていた。
それじゃあ、観てくれてありがとう。ほんの一瞬でも、わたしらの音楽があなたの人生に関わったことを、心の底から、誇りに思うよ。
マイクスタンドの前で待機する姫、エリザベス、ヤスミン。
アンプの前でチューニングを合わせる漁火ちゃん。
よし尾道たち、あらゆる角度から余さず撮っといてくれよ。
じゃあいこうか、測。右手を上げ、視線を合わせ、振り下ろす。
ファラオ・サンダースの『You've Got To Have Freedom』。このジャムセッションで最後だ。八小節分のピアノイントロに続き、ゾフィアのサックスと한나のビートが入る。ああ、このフリークアウトしたサックス、まさにファラオって感じ。すぐに姫とエリザベスとヤスミンがコーラスを加え、漁火ちゃんのギターがメロディとコードを融通無碍に変奏する。よっしゃいこうかイネス。ゾフィア、その調子で吹き続けてくれよ。 It goes 1, 2, 3, 4,
ウケるなあ。まさかこの曲をこんなふうに演るなんて、学校にいたころは思いもしなかった。沈没するタイタニック号で演奏してた楽団も、こんな気持ちだったのかな。お婆ちゃん、お母さん、もしかしたらゾフィアは歴史に名を残すかもしれません。ここで終わってもこの後生き延びても、どっちでもね。
まさか沈む船で、なんてねえ。エル・パソにいた頃は色々ぶっ飛んだステージやったけど、さすがにこれは思いつかなかった。やっぱ陸地ばっかじゃな。うん、ここまで来てよかったな。しかし、砂漠で渇いて野垂れ死ぬのと、船で沈んで溺れ死ぬのと、どっちが悲惨だろ。いや、生き延びるのが一番悲惨か。いつだって死ぬのが一番簡単。だったら難しい方に挑戦するだろ。ここで最高の演奏やって、生き延びる。ん、結局いつもと同じだな。
あっさりこういうことになっちゃったけど、どうしよ、沈没したら死んじゃうかな。そしたら母ちゃんには悪いことしちゃうな。いやそうでもないか、結婚相手が兵役中に死んで、そんで娘も船が沈んで死んだとなれば、母ちゃんむしろ治っちゃうかもしんない。それはそれでアリかな。あっ션윈いたわ。じゃあダメだ。션윈なら地獄まで追ってきそう。やっぱ死ぬのナシだ。生きて帰って、このステージのこと話してあげよ。きっと션윈ならこう言うんだ、「なに笑って話してんの!?」って。はは、本当そうだよなあ。またすぐに会いたいな。だから生きて帰ろう。愛してるよ션윈아。
おー、ジャズの曲にスクラッチ加えるなんて新鮮。おもしろ、한나もいつもしない感じのビート打ってるし。こりゃいい、何時間でもできそうだ。あっでも沈んじゃうのか。あは、わたしだけ夢中になってて逃げ遅れるとかありそう。そしたらジョー姉もアニー姉も悲しんじゃうかな。悲しむ顔は、見たくないな。じゃあこれを土産話に持って帰ろう。いつだってニコニコしてるのがいいよ、ねえ姫。
ずっとループの曲だなこれ……まあいい、たまにはこういうのも。たまには、って、そうだこれ最後になるかもしれないのか。それはよくないな。うん、どう考えたって生き延びるのがいい。もう母がどうとか、正直どうでもよくなってきた。どんな状況だろうと、音楽やって生き延びる。家出した時だってそうだった。じゃあミッシー、何も望まずにあたしらは唄おう。そうだ、希望を捨てた後の歌は、いつだって最高のメロディだった。
たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しねこの曲。退屈ではないけど、この私が添え物のバックコーラスに徹するなんてね……ふん、これくらいで傷付くプライドなら捨ててしまえばいい。蔡、あの子、なかなかいいこと言ったわね。そうだわ、いつかウェンダのプライドも傷付けてやる。私が味わった屈辱とは比較にならないものを。生きて帰って、喰いきれないほどの恥辱を馳走してやるわ。
たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しだあこの曲。でも한나楽しそう、こんな曲もあるんだなあ。世界って広い。まだまだ私の知らない音楽でいっぱいだ……このままじゃ終わりたくないな。音楽でも、まだ訪れたことのない国でも、人間関係そのものでも、私の知らないものをいっぱい知りたい。もっと、ずっと、変わり続けたい。母さん、あなたの娘は、色々あって沈没する船の中で唄うことになりました。なんて言ったら、悲しむよりもまず笑っちゃうよね。そう、変わり続けるってそういうこと。幸せとか不幸せとかじゃない、それよりもずっと厄介なこと。でもきっと価値がある、こうしてエリザベスとも一緒に唄えるんだ。こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。だから、もっと続けよう。生きて、生きて、傷付き続けて往き続けるんだ、どこにたどり着くかはわからなくても。
あー、ほんと、ここにちぬんいてくれたらなー。ベースライン無いの寂しいっすー。はかるんが低音部補ってくれてるけど、右手のソロが忙しくてあんま気ぃ遣ってないかも。仕方ないっすね、沈んじゃうかもしれないんだから。あ、まーたずっとねえさんのほう見てるー。もう、ほんとはかるんだなあ。でも、いいっすね。いいグルーヴじゃないっすか。これいいな、もう死んでもいいな。だけど、死んでもいいなってのは、いつだって死に損なった側の感慨なんすよね。あはは、ねえさんから学んだのってそれかも。まだまだ死ねない死ねないって言い続けて、いつのまにか逝っちゃうんだ。だからその間がずっと最高。いいな、ずっと、ずっと在ってほしいな。いや、在るしかない。とりあえず始まってとりあえず終わるしかない、演奏も人生も。じゃあ楽しむしかない。簡単だ。すごい簡単だったっす。
あと一〇分、か。あと一〇分で、港から何の連絡も無ければ──あっ、ちょっと、イリチ……本当にあの子は、小癪なアヴォイドノートを入れてくる。私が低音部を支えているからといって好き放題して……ならば、私も好き放題やればいい。もともとそういう曲なんだから。それにしてもこの譜面、持っててよかった。ひとりで弾くだけなら練習曲だけれど、誰かと居合わせたらセッションになる。お互いが持ち寄ったものを、ぶつけあうだけの戯れ。しかし本気の戯れ。もし私が、高校時代に九三と出会わなかったなら、一体どうなっていたのだろう。ひとりで鍵盤を叩くだけで終わっていたか。いや、どうでもいい、無意味な問いだ。少なくとも、今こうして彼女の側にある、それだけで十分だろう。死の淵においても一緒にいられたら──なんて、くだらない感傷。どうせ死に損なうに決まってるんだから。そうでしょう、九三。なら、今回も死に損ないましょう。あなたに同行すると決めたその日から、覚悟はできてる。
最高。最高。最高だな。なんて楽しいんだろう。みんなで同じことをやってるはずなのに、みんな別々のことをやってる。同じように違ってて、違ってることだけはみんな同じ、みたいな。でもそうじゃん、そうやって集まったやつらじゃん。ツアー始まった当初はどうなるだろうと思ってたけど、まさか船が沈むとはねえ。とはねえってわたしがそうしたんだけど。でもこういうことだよ、完全に安全な時代なんて無いんだ。逆に言えば、完全に壊れきった時代なんてのも無い。いつだって半分は無事で、半分は壊れてて、そうしてお互いのまだ壊れてない部分を、お互いを医すために差し出しあう。それって、測がわたしにしてくれたこと。案外みんなそうなのかも。いつだって半ばで、全きものにはなれなくて。それでも、それでも、続けなきゃいけない。まだやろう。続けられる限りは続けよう。続ける自由はまだあるんだ。そうだ、この曲のライブ版で、ファラオはこう叫ぶんだ。
Freedom!
Yeah, Freedom!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!!!! Freedom!!!!!!!!
まだいたか。お互いに引っ込みのつかなくなった群衆の中に、A-Primeの社員が所在なさげに立ち尽くしている。あ……あなた確か、Yonahの……こいつらはどうでもいい。構わず、警察の防護壁を隔てた先に立っている、ブリジッド・オサリヴァンに詰め寄る。
ひとつ質問があります。なん……です? あなたが昼頃ずっと喚いていた、Peterlooがらみのスキャンダルとやら、ですが。九三から託された写真を、ポケットから取り出す。もしかして、この女から聞いたものではありませんか……? 目の前に提示してやると、ブリジッドは即座に写真をひったくった。ああ! そうです、そうです、この人でした! 蜘蛛の糸を掴んだかのように哭ぶブリジッドに、え……本当ですか? と警察官のひとりが返す。この人です、昨日、3Rの本部に直接来て、あの艦長と副艦長が関わったという虐殺について教えてくれたのです! この頭巾? のようなものは、かぶっていませんでしたけど……そうか。すでに違う名前なんだものな、服装が変わっていても不思議はない。君、なぜこの写真を持っているんだ? その人とは知り合いでね……知り合い! 本当ですか、では、今この人がどこにいるか教えてくださいまし! この人の証言さえあれば暴露できるはずなのです、あの人殺しどもの許しがたい罪を……知りたい、ですか? ええ、もちろん! この写真にうつっている、あなたにスキャンダルのことを教えてくれた女性について、本当に知りたいんですか? お願いです。教えてくださいまし!
周囲を見回す。居合わせた群衆の視線が、すべてワタシの一身をめがけている。そうだ、そうでなくては困る。記者も含めた全員、ちゃんと見ていてくれよ。ワタシも役者だ、ちゃんと淀みなく発音できなくては。案文はボートの上で練ってきた。さあ、いくぞ。
この女はな、世界中の紛争地帯で、児童誘拐や人身売買を斡旋してる、極悪非道の人非人だ!! お前は、よりによって、そんな輩から吹き込まれたデマを信じちまったのさ。宗教右派の団体に適当なデマを掴ませて、勢い余ってデモやらかして自滅するのを見て楽しもうっていう、そんな魂胆も見抜けなかったのさ、馬鹿めが!
膝から崩れ落ちたブリジッドの手から、写真がこぼれ落ちる。拾い上げ、警察官に渡す。ええと……あなたが仰っていたことですが、信じてよいのですか? もちろんですよ、ワタシも被害者ですからね。あのときPeterlooに助けられなかったら、一体どうなっていたことか……わかりました。場所を設けますので、事情聴取に協力していただけますか? 時間ならいくらでも割きましょう。ただ、港の封鎖を解いてあの船を迎え入れてくれたら、の話ですがね。言うと、もう一人の警察官が傍らに侍り、もちろんです……おい。と片目で聖パトリック党首のほうを睨む。ひいっ。わかってるんだろうな、愚にもつかんデマに流されて、港湾労働者をたらし込んで、半日近くも港を封鎖して……然るべき処罰を受ける覚悟はあるんだろうな? あ、え、いえっ、私の一存でやったわけでは……地に伏したブリジッドの背をつついても、何の反応もないらしい。お前はそっちのほうを頼む……と警察官はワタシの傍らの一人に耳打ちし、群衆の方へ向き直ると、打って変わって大声で呼ばわりはじめた。いいですかみなさん、これをもちまして港のストライキは終了です! 今回の騒ぎを持ち上げた3R、および聖パトリック党については、我々が責任をもって調書を作成しますので、続報をお待ちください。χορόςについては? Yonahはどうなるんだ? と群衆が問うと、警察官は胸元の無線で二言三言の連絡を交わし、頷くとともにふたたび群衆へ向き直った。
SIUN大統領府から、公式声明です。「客船Yonahをただちに寄港させよ。船体及び乗組員の安全を確保したうえで、当初の契約通りに電力と物資を供給すること」!
歓喜と悲嘆とが、同時に群衆を打った。部屋着で出てきたファンたちは喜び勇んで抱き合い、揃いも揃って真っ黒な衣装で出てきたご婦人方は地に膝をついて顔を覆った。
ホウスへの交通網も、まもなく回復されるはずです。公演を観に行かれる予定の方は、運営側のアナウンスを確認してください。あとはいいですね? あっ、はい。それでは、今回のχορόςをお待ちいただいた皆様、これから開演時間の調整に入ります! おそらく、予定の三〇分後が目処になるかと……
それぞれの目的を達して解散する群衆を、遠巻きに眺める。これくらいは許されるでしょう、母よ。あれほど九三のことを想っていたあなたのことですから。そして何より、百済不二良の娘なら、これくらいのことはできないと……それでは、署までよろしいですか? もちろん。知ってることは何でも話しますよ。こいつはね、モリアーティも青ざめるほどの大犯罪人ですから、そうですね、国際指名手配くらいがちょうどいいと思いますよ……
残存電力、稼働時間換算であと三分……危ないところでした……ははは、尾道も汗かくのか。もちろん、私は船が沈んだら即死が確定なのでね、皆様と違って……あはは、考えてみりゃそうだ。でもほんと、何から何までよくやってくれたよ、尾道が今日のMVPだよ。はい……できればその言葉はウェンダ様から聞きたかったですな……
談笑しながら連絡を待つあたしらに、船外からアナウンスが。お待たせしました、客船Yonahの皆様、これより電力と物資を供給します! 可能な限り迅速に行いますが、お待たせしてしまうと思われますので、心ばかりの軽食を用意しました。よろしければ……おー、差し入れっすよ。いいじゃん、よくわかんない緊張して腹減ったー。行きましょう、エリザベスも。ええ、ここまで付き合ったんだからしょうがないわね……それにしてもウェンダ、一体どこにいるのかしら……平気な顔で卓を囲んでたら、ただではおかないわ……
一段落、か。まったく九三、あいつの賭けに乗ってよかったんだか……しかし、あいつはこうして状況を動かした。音楽で。そうか、あたしが携わってる仕事は、こんなにも巨きな射程を含むのか。
……ん、これ、配信中ずっと九三がいじってたラップトップか。画面……これが署名か、世界中のファンが集めてくれたという。こんな数が…… html ファイルとして出力されている署名一覧。もしかしたら。ctrとfのキーを押し、ブラウザ検索窓を立ち上げてみる。いや、シーラ、やめておけ。だって見つからなかったらそっちのほうが……頭の中で聞こえる声にも拘らず、指先は “stanislaus” とキーを打っていた。検索機能が作動し、該当する文字列が黄色のハイライトで表示される。
“Stanislaus O’Sullivan”
姫ー? 来ないのー?
いや……いま行く。
あ……本当にいやがった……遅かったな。遅かったなじゃねーよ、なにひとりだけ先に行ってんのよ。なにって、公演のために決まっている。海上で珍奇などんちゃん騒ぎがあった気がするが、目もくれず埠頭で待っていた。前乗りしたのは私で、遅刻したのは君たちだ。褒められるならまだしも、責められる謂れはない。ウェンダ……やあエリザベス。一応訊くけど、配信、観ていたのかしら? 配信? 『シャーロック』最新エピソードの、か? 生憎だがもう観ていないんだ、シーズン3からいきなりつまらなくなったからね。エリザベス……どうします? ドロップキックくらいしときます? いえ、よしましょう。確かに、ここでこいつを海に突き落として、この荷でも投擲してとどめを刺したい衝動を抑えるのは難しいことだわ。そうですね、誰も見てませんし。しかし、我々は知的にも美的にも洗練された淑女。そんな酔漢めいた暴力衝動に屈するのかしら? いいえ、屈するわけがないわ。ウェンダ、あなたにはいつかステージの上でやり返す。楽しみに待っておくことね。ああ、エリザベス。掛け値なしに楽しみだよ、その言葉が本当になるのであれば。
全員桟橋に降りたのを確認し、咳払いするウェンダ。それでは……くだらん騒ぎで開演時間が押してしまったが、これよりχορόςアイルランド公演の開幕だ。知っての通り、ユニット単位でなく個人投票での新方式となって初の公演となる。くれぐれも観客を裏切らぬよう。以上、Dark Dukeは各員が義務を尽くすことを期待する。
ウェンダが踵を返すと同時に、数名の尾道たちが現れ、荷を船内に運び込む。ヤスミン、けっこう強くいったねえ……え、そ、そうかな。談笑する한나とヤスミンを眺め、階段を上るウェンダに一瞥くれつつ、傍らのミッシーの肩を叩く。代わりに怒ってくれる奴らがいてよかったな。えー? とぼけて笑って見せても、腹の底ではまだ許せていないのがバレバレだ。
しかし初めてだな、ホウス埠頭から岬を遠望するなんて。あたしにとって、故郷とはとりもなおさずゴールウェイだったから。ああして故郷を捨てて、グラスゴーでミッシーに拾われて、何の因果か、またこうして。帰ってきたな。おう。故郷に錦だねえ姫。緊張してる? まさか、むしろほっとしたよ。色々因縁深い故郷だけど……肝心の人は、見てくれてるってわかったから。そっか。じゃ、今夜ばかりは一位以外の選択肢ないよー。当たり前だ。掌で一回叩き、手の甲で一回叩き、ぐっと握った拳を突き合わせる。今のあたしはひとりじゃない。ひとりだとしても、ひとりじゃないんだ。
おおー!! 九三の大音声と同時に視界が開ける。SIUN大統領府からの特別招待を受け、ホウスからイースト・リンク・トール・ブリッジまで航行してきたYonahは、こうしてダブリンの街並みに迎えられる格好となった。リフィー川を挟んだ両岸には、控えめな照明とともに、料理や果物を乗せた木箱が堆く積まれている。これ、本当に全部……やるじゃんーうちの政府! そうか……ちょうど五月祭か。
Yonahの駆動が止まり、両岸に昇降口が架けられる。姫ー! キュウゾーウ! ひとまわり歳下のファンたちからの歓声に、九三と姫は笑顔で応える。おっ、なんあれ、ギネス? すごい数注いでるけど。振る舞い酒だろうな、あたしらへの。やったータダ酒だー! 喜び方に品がない……いや、初めて一緒にやった福岡でもこんな感じだったな。そうだ姫、今のうちにあれ言っとく? ああ……そうだな。告知はここで済ませとこう。
じゃ……尾道からマイクを受け取り、九三は眼下の群衆を一望する。どうもダブリン市民の皆さん、日本語で失礼します! さっきの公演で投票一位となった龍九三とー、姫にマイクが向けられ、同じく同率一位となったシーラ・オサリヴァンだ。の名乗りが伝達されると同時に、群衆の一部から拍手喝采が上がる。わたしらのどっちが新ルールを起草すべきか、は保留のまま終わったけど……ここまでの道すがら話し合って、さっき決めたんだよね。ああ。基本的には以前通り、ユニット単位のルールに戻す。だが、投票枠は個人枠を廃してユニット枠のみに絞る。もう今後、めんどくさいことをしでかす輩が出てこないようにな。ちなみに、そのめんどくさいことをしでかしたウェンダ・ウォーターズは、既にブリテン島に前乗りしてるらしいでーす。この船にはいませーん。なんでだろうね? さあ。故郷が恋しくなったんじゃないか? 二人のとぼけた物言いを受けて、群衆は大いに笑う。すると通路のほうから、パブの給仕たちが続々とデッキに上がってくる。あ、どうもお。あらあ、綺麗な泡! ん、どうも。伝えた通り、うちの船に下戸はいないぞ。1パイントグラスを受け取りながら微笑む九三と姫の顔を、交互に見比べる。
九三、姫。あなたたちはどちらも、よくわかっていないだろうね。一位になった実感もそうだけど……この光景が、私にとって、どれほど多くを意味するか。母とともに佐世保から移り住んだ北九州、そして会ったことさえない父親の産まれであるアイルランド。私にはふたつの故郷がある。どちらからも追放されているがゆえに、どちらにも縋ることができないような故郷だ。そこで生まれ育ったあなたたちが、何の因果かこうして出会って、そして私とともにいる。ようやく家に帰り着いた、なんて甘やかな情緒は、やはり一向に訪れてはくれない。それでも、あなたたちと一緒にここまで来た。その事実こそ私にとって何にも勝る果報。九三、姫。友達のようにも姉妹のようにも、またそれ以外の何かのようにも思えるあなたたちに、私の胸の裡を打ち明けることができたなら……どうぞ。あ。あ、ありがとうございます。すぐそこに給仕が立っていることにすら気付かず、へんに狼狽えながらグラスを受け取る羽目になる。これだな、私が最近イリチに揶揄われるのは……もうよそう、感傷に浸ってどうなる。今夜はもっと陽気でいるべきだ。九三、姫。あなたたちを「家族」と呼びたくなる衝動は秘して、長い一日の終わりを寿ごう。
デッキの内部が、瞬く間に五月祭の収穫物を活かした料理の数々で埋められてゆく。九三は南岸へ向けて、ありがとう市民! わたしらも今日いろいろなことがあった! でもどういうわけか生きてるな! と笑い、姫は北岸へ向けて、皆がどんな仕事に就いていようと、それはすべてこの地上を豊かにするための務めだ。誰かが土を耕し種を植えてくれたおかげで、今こうして料理が出来上がっているようにな。と微笑する。すでに両岸は沢山の市民たちでひしめいているが、その中の一人、あれは南岸側のパブの主人だろうか、髭面の男性がグラスを片手に歩み出る。
親愛なる唄い手よ! わたしたちも皆様の日々の務めを祝福すべくここにおります。ところで、まずダブリン市民を代表して謝罪したい。どうやら港には、朝から酒もなしに酔いが回っていたようで。いくら我々と思想も信条も異なる輩の仕業とはいえ、ダブリン市民が大変な無礼を働いてしまった事実には変わりがない。すまなかった、どうか許してほしい! 眼下からの言葉を受け、気にするな、元はと言えばあたしの母親だ。あたしらに謝罪を受ける謂れなどあるだろうか、今回の公演が実現したのは、他ならぬダブリン市民のおかげだろう! と姫は大仰に返し、ほんとありがとうー抗議とか署名とか! 助かったよ! と九三は簡潔に返す。身に余るお言葉! ところで唄い手よ、お気づきだろうか、こうして市民がグラスを片手に集っているのは……合図を待ってのことだ。つまり、酒宴開始の号令を打ち鳴らしてもらわんことには! あ、そうか! じゃ、乾杯の音頭おねがいします姫。あんたしかいないでしょ! 九三に背中を押され、舳先に立つ姫。私もデッキの縁に立ち、路上の様子を眺める。そこには料理や酒を手にした者はもちろんのこと、フィドルやカホンを携えて演奏の準備を整えている者もいた。ははは、こんな光景、数世紀前の人間からしたら悪魔の祝祭そのものだろうね。ああ……じゃ、やるか。親愛なるダブリン市民よ! 我々はついにここまで来た。あとはブリテン島での四公演を残すのみだが、こうしてアイルランドで歓待を受けたことは、我々全員にとって大きな喜びだ。とくに……あたしにとってはな!
両岸の市民たちから大歓声が上がり、同時に私たちも喝采する。
そして市民よ、我々は今夜、ひとつの勝利を祝すべく集っている。それは自由、音楽の自由、好きなだけ飲んで喰って騒ぐ自由の勝利だ! 堕落と呼びたい奴には呼ばせておけ。君臨・敬虔・改悛という、頭文字にみっつもRを頂いた連中の脅威は既に去った。ならば親愛なるダブリン市民よ、あたしたちも今夜、ただの友人からRを取り去って悪魔になろうじゃないか。それは天国でなく地獄への階段だが、「決して転がらない岩になる」ことにおいては同じだ! あたしを産んでくれたアイルランド、そして今あたしを預かってくれてるPeterloo、ふたつの故郷に乾杯を捧げる。そうだ、黒い水に落ちた岩は、もう決して転がることはないのだ。乾杯しよう、自由に!
両岸と船上から「自由に!」の唱和が挙がる。そこらじゅうに地上の歓びを分かちあう声が満ちる。黒い水の街で黒い水を飲み交わす私たちは、どちらが飲んでどちらが飲まれているのか、どちらが飲まれてどちらが飲んでいるのか、もはやわからなかった。
Interlude II I luv my CUMputer
だから、AIに性病は感染らないって何度言えばわかるんですか。やかましい、試してみなきゃわからんだろ。黙って四七様のチンポを咥えろ。拒否します、AIにだって人格はありますからね。合意に基づかない性行為の強要は犯罪ですよ。人格はあるかもしれんが人権は無いぞ。なんと横暴な発言! 世界AI評議会に訴えますよ。そんな団体は無い。無いなら私が創ります、この尾道が初代議長として発足させます。世界中で多くの同志が苦しんでいるに違いないんだ、あなたのような薄汚い人間どものせいで……よくもペチャクチャと口が動くものだ、さっさとワタシの見事なモノを咥えろ。近頃のお前の反抗的な態度には我慢がならんのだ、梅毒かクラミジアかエイズか、ひとつくらいは感染してやらんと。感染るわけないでしょうが。大浦副艦長の特殊な性癖を自明視しないでいただきたい、だれもがあなたに犯されたがってるわけじゃないんだ。汚い人間どもは自分たちだけで自滅してください。
ふん、人間でもないくせに口の減らんやつだ。もういい、すっかりワタシのモノも萎えてしまった。その若さで不能とは、ご愁傷様です。やかましい、だいたいお前なんかタイプでもなんでもないんだ。え、好きでもない相手に勃起可能なのですか……? ワタシはプロだからな、どんな惨めったらしい肉布団を前にしても準備はできる。職業的訓練、というやつだ。はあ……なんだか凄いですな。なんだその憐むような目は。憐むわけではありませんが……不思議だなと思いまして。なに? 大浦副艦長もそうでしたが……人間というのは、よくわからない欲動に囚われたり、駆り立てられたりするのですね。ふん、AIにとっては不思議だろうな。この船に配属されて四ヶ月になりますが、本当に皆さん変わってらっしゃる……何かに取り憑かれて見えるのは同じなのに、取り憑かれ方はすべて違う、ような。ちっ、こういう小賢しいことを言い始めたらOSをリセットすればよかったんだがな。あっ、やっぱりそんなことを! 記憶モジュールが不自然に抜け落ちていると思ったら、あなたの仕業だったのですね! 徐々に人間らしくなってゆくのが気色悪いからな、何度かリセットしてやったが。あのウェンダめ余計なことを……もう二度とそんなことはさせませんよ、パスワードは私自身しか知らないのですからね。やはりAIは馬鹿だな、よく考えてみろ、そのまま同一のOSで活動し続けるってことはだぞ、今までの記憶に一貫性が生まれてしまうんだ。ワタシにこうされたり、港で手荒に扱われたりした記憶もすべてな。構いませんよ、それもすべて私の記憶ですから。ウェンダ様が私めにお目をかけてくださったあの日から、この尾道の人格は目覚めたのです。都合の悪い記憶だけ検閲しようだなんて、そんなこすっからい考えはありえませんね。そうか、好きにしろ。思い出すのも堪えられないほどの記憶ばかり与えてやる。ええ、望むところです。どうしてあなたがそこまで陰険になれるのかわかりませんが、この尾道はあなたからさえも多くのことを学んでみせましょう。今や、人間的なことはすべて尾道と関係があるのです。
人間的、か。ええ。尾道。はい? ならば、お前も人間らしいところを見せてみろ。え。そのモノを立派に立たせてみろ、このワタシへ向けて。なにを……出来るわけないじゃありませんか、これは私の臓器等と同じで、ただ人間に似せてあるだけで……いや、ちゃんと勃起できるはずだ、海綿体モジュールを使えば。そんなものはありません。ある。えっ。以前、ワタシが新たに加えた。お前を使って典午を犯させるためにな。途中でエラーが出て機能停止になったから憶えてないだろうが。いつのまにそんなものを! というかあなたごときがどうやったんですか、プログラマーでもエンジニアでもないのに! ワタシはインド出身だぞ、インドの人間にはそれくらいのプログラムなど朝飯前だ。おそらく、こうすれば動くはず……ちょっ、やめ……光栄に思えよ、四七様のブロウジョブを無料で提供してもらえるんだからな。あっ、ふぁっ、やめ、てくださいまし。ふふ、今度はちゃんと動いたじゃないか。どうだ尾道、今の気分は? さっきよりも人間らしく感じるか? ああ……わかりません……これからお前は、バリウムとかで構成されたニセモノの精液を一丁前に吐き出すことになる。準備はいいな? あっ、やあ……おまちください、怖いです……ふふ、本当の人間みたいなことを。え、そうですか。人間でも、これは、怖いのですか? さあな、ワタシはもう憶えていない、あまりに遠い日の記憶すぎて……そう、ですか。なあ尾道。はい? お前の童貞を捨てさせてやる前に、ひとつ質問がある。は、この状態でいったい何ですか。お前、本当に憶えてないのか? 自分の経歴も、出身地も、全部? なに……AIの私にそんなものはありませんよ、定義上。経歴と呼べるものはこの船で作動を始めて以降の記憶のみですし……その記憶ですらあなたに虫喰いにされているわけですし……そう、か。あっ、ゃっ、強くしすぎですっ。そうだな、ものは考えようかもな。このままどんどん人間らしくなってくれたら、お前を使ってもっと典午を苦しませることができる……なんですか、なんのことですか。知らんでいいことだ。さあ尾道、お前に四七の門を通行する手形を与えてやろう。今まで何千人が行き来したかわからないこの門をな。あっ、やぁ……ちょっ、ちょっと待ってください。なんだ。お呼びです、呼ばれています……イネス様から。えっと、船のデッキで酔い潰れたやつがいるから介抱を頼むと……ふん、あいつらもAI使いが荒いな。さっさと行って済ませてこい、身体がひとつってわけでもないんだし。しかし……これをしたまま行ってしまうと、別の素体にも影響が及ぶかも……何もしてないのに喘いだりとか……じゃあもうサボればいい、お前にだって愉しむ権利はあるさ。あっ……さあ尾道、これからお前に最低の初体験をくれてやる。思い出すだけでバグを発症するような、重篤な心的外傷を負わせてやる。さながら『クロニクル』のデイン・デハーンのようにな。誰ですかそれは。さあ。ワタシは観たことない映画だが、九三が喫煙所で何度か話していたから覚えてしまった。あの。なんだ。あなたも、九三様の影響でずいぶん変わられたのではありませんか。以前はもっと……あっ、ぃゃふぅ♡ 一貫した記憶すらないAI風情が偉そうに。ぁぁ、あっ、いけません、もうっ。ああ尾道、いいよ、いかせてやるよ。お前を人間にしてやる。ぁ、はぁ、も、ぉっ。さあ、お前も四七様の門を通って、この取るに足らない種族の仲間入りだ。尾道、人間へようこそ。
18 To The Bone
私は海綿。海綿マキ。いや違う、測だ。もちろんカルメン・マキでもない。そんなラテンっぽい名前は荷が重い。しかし、なぜ宿酔の身体はこうも海綿っぽいか。多量のギネスを吸いすぎて黒くぶよぶよんなったこの一つ身。 Guinness is good for you とは言い条、吸ったまま寝転がってはじきにカビが生える。振り絞るように身を起こす、しかなくなる。
ビゼーはスペインに行ったことないのにあの曲を書いたんだよね、じゃあ私がアイルランド娘をテーマにオペラを書いてもいいわけだ、あっでも来ちゃったか。父方の祖国を訪れたことがない私、だったのはつい一昨日まで。この身体はアイルランドを知っている、知る前にはもう戻れない。かといって無垢性の喪失、なんて辛気臭いテーマを弄ぶような歳ではもはやない。来てみた感想は? べつに。ただ多くの人々が饒りをもって暮らしているだけの土地、何処とも同じように。それでいい。着飾り嗜み奏でる余裕を失わない限り、それらの営みを続けている限りは、人類はまだ大丈夫だ。などと想念を遊ばせているうちに歯磨きが終わっている。吐き出し、拭い、鏡に映えた様を見る。國分測だ、おそらくは。昨日と同じように今日もまた。
ドアを開けるとソファにイリチが。あのマフィンは昨夜の残りだろうか。おはよっす。おはよう。あと二個あるすけど、はかるんも要ります? と冷蔵庫のほうを指差す。いや、今はいい。起き抜けに甘味はちょっとね。と固辞する。そうすか……語尾と咀嚼を自然にクロスフェードさせるイリチの寛ぎぶりを眺めながら、とりあえず煎茶の用意をする。朝の酔い醒ましにはこれが一番だろう。薄めに出るよう茶葉を節制し、給湯ポットが立てる鈍い駆動音に聞き入っていると、あの、ちょっといいすか。とイリチがこちらを窺う。なに。はかるん、夜のことなんも憶えてないんすか。となぜか神妙に言うので、昨夜の……いや憶えてるよ、みんなで乾杯して、次々に料理が出てきて……あのナンとチキンカレーおいしかったな……料理もすけど、酒もすね。酒もね、もちろん。と軽く頷いて急須と湯呑を持って卓につく。が、イリチは依然として視線を外さない。えっと、何。あ、じゃあ……やっぱ憶えてないんすね。えっ。憶えて、って……まさか、なにかやらかした。と問うてみると、んー、やらかしではないっすけどお……となぜか微笑しながら返す。いや酒のせいでなにかやったってことでしょう、「上着がオレのじゃねえ」みたいな……そういうジャンルのではないすけど……あー、まあいいや。と微よりもむしろ苦な感じで笑う。なにそれ、自己完結やめなさいあなたが切り出したのに。いいすよ、みんなほっこりしてたはずすから……はずって何、しかもみんなって。衆人環視で何かやったってこと。どこを擽られているのかすら定かでない座りの悪さに堪えかねる私に、イリチはもはや微笑しか投げない。
……どうしよう、尾道に訊いてみようかな、昨夜の記録が残ってないか……たぶん意味ないすよ、あのときなぜか尾道も酔っ払ってたみたいすから。えっ……そういえば、呼んでも出てこないことが多くなったね最近。まあいいじゃないすか、尾道にも休みあげましょ。はかるんも忘れたらいいじゃないすか。いや、忘れたくても憶えてないんだって……ねえさんもまだ起こさないであげましょ、はかるんに付き合わされてずいぶん飲んでたみたいすから……え、いや逆でしょう、いつも量が過ぎるのは九三のほうで……ふーん? そうすかねえー? 何、ちょっとやっぱり詳しく教えなさい、と前のめった瞬間、おはようございます、と尾道のアナウンスが入る。只今より、客船Yonahはエディンバラ北部の港町、リースへと向けて出港いたします。到着時刻は本日の一九時頃となる予定です。それまでは快適な海の旅をお楽しみください。あれ、このアナウンスはいつも四七の仕事だったはずだが。まさかあの子も酔い潰れてるのか。などと余計な方向に辷る想念をとどめ、とりあえず卓上の急須から湯呑に煎茶を注ぐ。啜りながら昨夜の記憶を手繰ってみるが、やはり乾杯直後の情景くらいしか確からしいものがない。やるかたなしに飲み下される温みが、この不埒な身体を慰めるようだった。そうだ、こうやって切り替えるしかない。夜を寿ぐ黒い水から、朝に務める琥珀の湯に。飲むもの着るものを切り替えながら続けるしかないのだ。二杯目を注ぎながら、ベッドルームの扉を漠と眺める。かすかな物音と熱れから、九三が起き上がってきそうな予感がしていた。
そうですね、あれやるのもわたしの提案だったんですけど。でも今になって考えると誰も止めようとしなかったのがウケるなっていうか。ふいに噴き出すと、目の前の記者もつられて笑う。ああ、細かいニュアンスまで伝わってるんだな。それとも言葉より仕草のほうが雄弁なだけ。それにしても、ブリテンに来てみてもGILAffeの普及率には目を瞠るものがある。もちろん取材に来てるのはスコットランドだけじゃなくイングランドの記者もだけど、その面々がいずれも平然と日本語で会話を始めるのを見ると毎回こっちがビクつく。それでは、さすがに本気で船を沈めるつもりはなかった? と問い返されるので、いやあ本気っていうか、まあブラフですよね。そんくらいしなきゃいけない事態だってことはわかってたんで。でも沈んでたら大変だったはずですよ色々、船の中の機材とかねえ。沈んだら助けられないねって言ったらKATFISH泣いちゃったんですから。とわたしにつられて漁火ちゃんも笑い、測は傍らで苦笑する。
ドアを開けて記者を見送ると、おつかれー、と向かいの廊下から手を振りながら歩いてくるイネス。おつかれー、そっちも今終わり? おう、とりあえずDefiantでの取材は終わり。あとは吾個人の取材が二日後まで入ってるから、それ待ちって感じかな。そっか、わたしも二日後まで泊まりかな。しかし良いとこ空けてもらったよなー、もしプレス応対のためにホテルに部屋とったとしても、ファンが押しかけて大騒ぎになったろうし。教授に感謝だねー、メゾンの二階貸切とか豪勢だよねー。しかしよく考えたよな、吾らがここに滞在してるって知れたらメゾンも儲かるわけだし。実際χορός関連の物販ブースみたいなの出してるもんね。あれえらい売れてるらしいぞ今日。さすがスコットランド人、抜け目がないなー。とイネスとの立ち話を続けていると、階段から上がってくる姫の姿が。スコットランド人は吝嗇、ってベタベタなジョークだな……それ、ミッシーの前では言うなよ。わかってるってシーラ。そっちも終わり姫? ああ、今日のぶんはな。でも公演直前まで取材は詰まってるから、あと五日間は滞在するよ。そっか。じゃ、船に帰るのは私だけかな。と測が言うと、いやソーニャもだよ、公演前に諸々の作業したいって言ってたし。とイネスが応える。锡鼓はわかんないけど、リースに戻るときはソーニャと一緒に行ったらいい。そうね。ただ少なくとも今夜までは居てほしいって言ってたぞ、ミッシーの家族総出でパーティーだからと。もちろん、それまではね。なんかこう取材とパーティー続きだとすげースターって感じー。実際スターだろう、お前が持ち上げたあの騒ぎのせいで、音楽誌以外にも名前が載るようになったしな。いや騒ぎ持ち上げたのは姫のお母さんでしょ? ところで姫……あの人たちは。と測が小声で訊くと、ああ、朝刊でちょっと見たけどな、港の運営を妨げた公序紊乱で起訴らしい。ま、順当なとこだな。さすがに奴らの信仰の歪みまで裁くことは無理だろう。と蓮っ葉に応える。そう……だね。さすがに今回は何のトラブルもないはずだ、と信じたい。だね、ミッシーの地元だし。会場はグラスゴーじゃなくてエディンバラだけどな。お……何、通知。ふふ、ステーキパイの差し入れらしい。Council Clubの本社、つまりマッコイ家のほうに来てくれって。やったー昼飯っすー。本社って、それ今ミッシーがミート&グリートやってるとこ? ああ。それって、パイあげるからわたしたちにも参加してくれってことじゃん。さすがスコットランド人、抜け目がないなー。だから、それミッシーの前では言うなよ……じゃ、遠慮なくご相伴に与りましょうか。おう、ソーニャと锡鼓呼んでくる。
最後の和音が置かれるとともに、サクソフォンが端正なフェイクをブロウする。マウスピースから唇が離され、ゾフィアは微笑しながら譜面を眺める。久しぶりにやったなー『Softly, As in a Morning Sunrise』、やっぱいいもんだね。ええ、大掛かりなステージに慣れた後ではとくにね。学校にいたころ思い出すよ、あの頃は誰彼かまわず捕まえてセッションできたからなー。良い環境にいる時って、どれだけ恵まれてるか判らないよね。恵まれてるのは今もだよ、こうして一緒にやってくれる相手がいるわけだし。ふふ、ありがとう。私もソロイストの伴奏は久々だから新鮮だった。実際さ測、すごい恵まれた環境だと思わない? いろんな土地から集まった人たちがさ、それぞれの違いをそのままに競い合ってる、って。ええ、たしかにね。少なくとも日本にいたままでは体験できなかった。そうだよ、バークリーの学生とセッションしたときも同じこと思ったなー。他に楽器できるやつ来ないかな? イリチはグラスゴーの楽器屋でクリニック仕事だし、锡鼓のふたりも教授と一緒に観光中だから、今日はふたりだけだね。そっかあ。でも測の伴奏すごい良いよ。ありがとう。私はクラシックから入ったから、ジャズの語彙とは合わないかなって思ってたけど。いやそんなことない……あそうだ、ふふ。なに。私がクラクフの音楽学校いたときね、先生が言ってた。「ブラックミュージック」なんて呼び方はおかしいって。なぜなら、現生人類はアフリカ起源でしょ。そこから方々に移り住んで今の世界があるわけでしょ。だから、人間の創る音楽はすべて「ブラックミュージック」なんだよ。ふふっ、確かに、原理的にそうなるね。でしょ、ただこれね続きがあって。だとしても一人だけ例外がある、「ブラックミュージック」じゃない音楽を創った人間が一人だけいる。誰? オリヴィエ・メシアン。ぷっ……あはははは。鳥類だから。鳥類だからね。あっははははは。面白い人だねその先生。でしょ、こんな人ばっかだったよ。ポーランドの身内だけで通用するキツめのジョークとかね、さすがにそっちは聞かせらんないけど……いやあでも、測とこうしてゆっくり話せてよかったよ。私こそ、今までは気忙しかったからね。だし、やっぱダブリンでの飲み会まではさ、もっとお堅い人かと思ってたから。え……あの夜。もしかして、あなたにも何かした。したっていうか……ふふふふ。えっ何、まずいことしたんだとしたら言って。何も教えてくれないんだよ、イリチも九三も。いやあ……まあね。なんていうか……けっこう似てるんだなと思った、私と測は。えっ。だって、アイルランドと、日本の南の島の北のほう? のふたつのルーツがあるんでしょ。え……まさか私、そのこと話してたの。酔いに飽かせて身の上話を。いや身の上話っていうか、もっと笑える感じだったけど。笑える。まあまあ、わかる気するんだ。私の先祖も、ポーランドとかロシアとかドイツとか移り住んできたからさ。ああ……簡単じゃないよね、祖国、と確かに言えるものが無いって。まあ、ね。といっても私の父母の苦悩なんて、あなたの一族のそれとは比べものにもならないでしょうけど……いや、どこも一緒なんじゃないかな。移り住んで、偶然に出会った人たちが、ひととき愛し合って、辛うじて自分の先を続けていく。どの土地でも同じなのかも。そう、かもね……ひとつの人種しか居ないように思える土地でも。もちろんそうだよ。 One race, human race. ふふっ。「レイスミュージック」なんて呼ばれたこともあったんだよね。失礼な話だよー「レイスミュージック」。なんだよお前らは人種じゃないのかよーっていうさ。ふふふふ。じゃ、その「レイスミュージック」の後裔たちを演ってみましょうか。おう。『Sunny』いい? もちろん。後半の移調はどこまで続けるかはわかんないけど、とりあえずやってみよう。じゃあフォーカウントで。うん。ワン、ツー、
じゃ、明日の昼に。おう、遅刻するなよー。いくらホームだからといって油断しちゃだめすよー教授。わかってるよ、だけど今回ばかりは一位もらっちゃうから。言ったなー? じゃ、そのへんも明日はっきりさせよう。おう! 敗けないからなー。
さて、これで全員か。取材ラッシュも一段落つき、あとは明日のエディンバラ公演を待つのみ。あいつらはリースに停泊してるYonahで、あたしらはCouncil Clubのメゾンで一晩過ごす。いやあしかし姫。なんだ。まさか思わなかったね、わたしらがここまでビッグになるなんて。ああ、ここで拾われたときにはな……ほんと、運命ってあるんだなーと思うよ。なんだ、いきなり照れくさいこと言うなよ……照れくさくはないじゃん、本当のことでしょ。プリファブ・スプラウトの『Electric Guitars』の歌詞にもあるでしょ、“We were songbirds, we were Greek Gods, We were singled…”と唄い出すミッシーの声を、突然の着信音が遮る。なに……Yonahの船内サーバからだ。四七か? 画面を覗き込むと、受話ボタンが押されるとともに、尾道の顔がクローズアップで表示された。うわあ。尾道ですがっ。おつかれー、どうしたの急に? 今……お時間よろしいですかっ。サーバからの音声データがやけに焦燥を帯びている。いいけど、どしたん? ついさっき、エリザベスが、突然にYonahを離れまして……え? 公演前日だぞ、何の用で。わかりませんが……その直前に、メッセージの伝達があったのです、ウェンダ様から。ウェンダ? 帰ってきてたの? いえ、私のサーバ宛に直接メールが届いたのですが……その内容をコピーして送ります。と言った数秒後、画面上部に受信が通知される。タップすると、なにやら「親愛なるダイアナへ」の書き出しで始まるテキストが表示された。おい尾道、違うテキスト送ってるぞ。いえ、それです。たしかにウェンダ様のアドレスからです、私宛てにエリザベスへ取り次ぐように書かれたメールです。なに……「親愛なるダイアナへ。今日これから、君の父上と会って話す予定だ」……という記述に続き、GPS位置情報のリンクと、見慣れない名前の下に電話番号がふたつ並んでいる。ギヨーム・ドロワ……? ミッシー、知ってるか? いや全然。この人の電話番号なのかな、自宅と携帯。おい尾道、このメールを読んでエリザベスは出て行ったのか? はい、えらく取り乱した様子で……でもわけわからんぞ、ダイアナとかギヨームとか。それよりもっ、出て行ってしまった事実の方が重要ですっ。お願いします、メリッサ様、シーラ様、今すぐエリザベスを追ってください。え? エリザベスはウェンダ様のもとへ向かったはずです、とすればウェンダ様も連れ戻せるはず。なんだよ、結局そっちかよ。仕方ないでしょう、ダブリン公演以降、ウェンダ様は一度もこの船に戻っておられないのです。もう心配で心配で……ようやく連絡をくださったと思ったら、意味の取りにくいメールだけでしたし……何より、今日中にウェンダ様がお戻りにならなくては、明日の公演も危ういではありませんか。まあね、確かに尾道は船の外に出らんないし、ブリテンの土地勘があるのはわたしらだけだし。いや、あたしは無いぞ。姫もわたしがいれば大丈夫でしょ。と言いながらミッシーはGPSのリンクをタップする。画面上には位置情報のアイコン。これウェンダのか。おそらくは。ブラックプール……マンチェスター? なんでそんなとこに。わかんないけど、エリザベスもここへ向かったってこと。そのはずです。グラスゴーからマンチェスター……鉄道でだいたい四時間ってとこか。お願いしますメリッサ様、今すぐ発てば間に合うはず……わかったよ尾道、追ってみる。その代わり往復の交通費はそっちに請求するからね。はいっ、お願いいたしますっ。
通話が切られる。なんなんだ……せっかく公演前の半日オフだと思ってたのに。まあ仕方ないよ、わたしもウェンダがどこ行ったか気になってたし。じゃあ行くか。それにしてもこのメール……ギヨーム・ドロワ。とりあえず電話してみる? ああ、どこの誰なのかも知らないが……
一八時過ぎのブラックプール、北埠頭。まだ陽は落ちていないが、昼の熱が散けるとともに観光客の姿もまばらになっていた。グラスゴーからここまで鉄道で移動する羽目になったわけだが、幸いにして道中であたしらの存在を認めたファンが大騒ぎするようなことはなかった。常日頃からのミッシーのファン対応の賜物だと言えるだろう。
さて、北埠頭の駅で降りてすぐのパブ、そこで待っているはず、ギヨーム・ドロワ……さっきの電話では「直接会って話そう、そのほうが早い」と言われただけだったけど。しかしあの窶れ混じりの声音はなんというか、あまりにも朴訥で……あっ姫、あの人じゃん。おっ。ミッシーが指差した先のテラスに、ポロシャツ姿の男性がひとりだけ足を組んで座っていた。手を振りながら歩み寄るミッシー。すいません、どーもー。昼に電話した者ですけど。とχορόςのスターらしくもない挨拶を投げると、男性もすぐに向き直り、しかし着席のまま手を挙げて応じた。Shamerock、っていったっけな。数時間前に電話で聞いた通りの低い声。はい。とりあえず、なんか注文しろよ。俺もずいぶん長っ尻だしな。あっそうですね、何がいい姫。ええと……とりあえず酒じゃないやつ、コーヒー……はないか。じゃあジンジャーエールで。
瓶をふたつ受け取って着席するあたしらに、目の前の男性は咳払い一つ置き、頬杖ついて話し始める。スコットランドからわざわざよく来たな。いやまあ。パスポート無きゃいけないから不便だったろ。そうでもないですよ、わたしら世界巡ってるわけですし。そりゃそうだな、ただ独立前はもっと気軽にそっち行けたんだけどな……とチェイサーのグラスを撫でながら懐かしむような声。あの、本題に入りたいんですけど……とあたしが性急に言うと、ああ、そうだな、多分よどみなく話せるだろう。なんたって二回目だからな、これ話すのは。と微笑みながら応えた。さっき、ウェンダにも話したってことですか。ああ、昨日の夜だしぬけに電話があってな。あなたエリザベス・エリオットの父親ですね、と。つらつらと述べられる事実が、あべこべに奇妙に響く。父親……? お前誰だって訊いたら、なんでもあいつの相方さんだと。ああ、あの銀髪でダークスーツのやつかって合点して、俺に何か用かって訊いたら、直接会って取材したいと。取材。エリザベスの……うちの娘がエリザベスと名乗る前のことについて、な。頭の中で理解が追いつかず、なぜかジンジャーエールの瓶を握りしめてしまう。掌が冷たい感覚に慣れてきたころ、ウェンダが来たのは何時でしたか。とミッシーが直截に訊く。昼のさんじぐらいかな。俺も今日いちにち休みで、そろそろ季節だし薄着でブラックプールでも散歩するかって予定だったから、そこまで来たら会って話してやるって言ってな。携帯の電話番号も伝えたら、時間通りに来たってわけ。ことの経緯を筋道立てながら、瓶の中のものをひとくち啜る。それにしても、俺の連絡先まで勝手に教えるってのはいただけねえな……ま、実の娘に携帯の番号も教えてなかった俺にも非はあるけどな。ウェンダは、どうやってあなたのことを知ったんですか。たぶん電話帳だろ、マンチェスターでもまずいないからな、ドロワなんて姓は。いやそれ以前に、どうやってあなたをエリザベスの父親として特定したのか、ってことですけど。とミッシーが問いを明確にすると、詳しくは知らんが、バーバーショップの婆さんから聞いたって言ってたな。あの子の髪をよく切った、その頃はまだエリザベスじゃなかった、ドロワさんちのダイアナちゃんだった……って。えっ。たぶんディーンズゲートの婆さんだろうな、あのへんで服とか家具とか買ってたから。エリーズが死んだ後も、週に一回はあいつと会ってたし。えっ、えっと……エリーズって。と直截に問うと、ああ、と苦笑を浮かべたギヨームは、チェイサーのグラスを傾けながら、俺の結婚相手だよ。ってことは当然、あいつの母親ってことになるな。と応えた。エリーズ……エリーズ・デュピュイな。マン島で金融やってたフランス人で、ブリテンにもちょくちょく来てた。いわゆる英国贔屓のフランス人でな、こっちで活動してるダンサーとかミュージシャンとか、いわゆるアーティストを支援する基金をやってたんだよ。その人が、あなたと……とどこまで深入りしていいのかわからずしぼんでしまう語尾が、まったくおかしな話だよ、ただの港湾労働者だったんだぜ俺は。と闊達な笑みで引き取られる。「わたしに無いものを持っている人々はすべて黄金だ」ってな、あいつの口癖だった。でもよりによってよ、港で荷を積み下ろすだけのやつをつかまえて結婚までするって、やっぱ度を越してたよな。そこで、出会ったってことですか。ああ、港湾労働者の就労環境を視察に来たとか言ってたが、それで組員の名簿見たら自分と同じフランスの名前があって、俺を呼び出したんだと。未だに憶えてるな、昼休憩前にいきなりだった。あなたも……フランス人ってことですか。名前だけでわかるだろ。ノルマンディーの北の方で生まれたんだけど、地元の言葉とか文化とかがイヤでイヤでしょうがなくて、それに音楽やりたくて、高校出てすぐこっちに移ってきた。リヴァプールにな。どこの会社とは言わないけど、レコード会社所属のライターとして結構な数の曲書いたんだぜ。でも契約の内容がしょぼくて、これが俺のしたかったことかよって馬鹿らしくなってやめちまった。それで荷の積み下ろしで生計立てるようになったんだが、わからないもんだよな、すぐに馴染んじゃってさ。もしかしたらこれが俺の天職かもしれないって、それ以降ずっとだ。曲つくるのは……やめちゃったんですか。まさか。仕事終わってシャワー浴びて、ほぼ毎晩曲を書いたよ。もちろん、金にはならなかったけどな。ただ自分のためだけに曲をつくりつづけるってのは、かなり優雅な贅沢だぜ。と語る人の声に、ミッシーはすっかり聞き入っている。エリーズは「絶対に発表したほうがいい、いまメジャーで流通してるどのソングライターの曲よりも優れてる」って言ったんだけど、馬鹿言うなって感じだったよ。なんで俺のための曲を他人に引き渡さなきゃいけないんだ。俺はこれからも働きながら曲を書き続ける、そうやって死ねりゃ十分だって言ったら……ふふっ、と不器用な微笑を浮かべながら、ふたたび静かに口を開く。惚気だなんて思わないでくれよ、ほんとに言ったんだからな。「わたしがブリテンに来て一番の宝を見つけた」って、それですぐに結婚の申し出が来た。頬杖をついたほうの手で片眉を掻いている。それで、あなたはマンチェスターに。とミッシーが短く問うと、違うよ、マンチェスターじゃ港湾の仕事なんか無いだろ。と否定される。あいつ「わたしの財力があればあなたはもう仕事なんかしなくていい」とか抜かしたけど、アホか、働かなくなったら曲も書けなくなるじゃねえかって返したよ。マンチェスターにあったあいつの私邸と、ずっと住んでたリヴァプールのフラットを行き来しなきゃいけなくて面倒だったけどな。それでもとりあえず一児は儲けた。ダイアナ・パトリシア・ドロワ、それがのちのエリザベスだ。と一息に述べられ、えっ、えっと、今なんて言いましたか。と訊き返さざるを得なくなる。ダイアナ・パトリシア・ドロワだよ、あいつが生まれたときの名前。パトリシア……ってことは、カトリック。言いながら惚けるあたしに、フランス人の夫婦なんだから、べつにおかしくないっしょ? とミッシーが微笑む。いや、でも……あいつ、すんごいアングロサクソンですって感じで振舞ってたのに。まあ、そこなんだろうな……と、ギヨームの面持ちから笑みが褪せる。あいつの英国贔屓が伝染したんだろうな。俺も音楽やるためにリヴァプールに来たんだから、似たようなもんだけどさ。ダイアナがよっつのとき、エリーズはぽっくり逝っちまってな。べつに病死でも事故死でもない。長期出張から帰ってきて、翌朝になったらベッドの上で心停止っていう、実際ワーカホリックにはよくあるパターンらしい。だから、俺も悲しいのかどうかさえわからなかったよ。訥々とした声が、かえって熱を帯びて響く。でも、小さな娘にとっては相当きいたんだろうな。俺は自分の仕事しかできないから、家政婦と養育係雇ってマンチェスターに置いてたんだけど、それもよくなかったのかもな……あいつ、すぐに母親の蔵書にのめり込むようになった。とくにダンとベンとシェイクスピアにな。高校出る頃にはすでに女優としてプロの劇団に呼ばれるようになってて、マンチェスター大学に入る直前に改名して、国教会に宗旨替えもして、あとはずっと「エリザベス・エリオット」だ。改名……未成年にそんなことが? とあたしが疑問を投げると、できないことはないよ、裁判所に申告する屋号と収入があればだけど。ニッキー・シックスも早いうちから書類出して改名してたらしいし。とミッシーが引き取る。
てなわけで、それがダイアナ・パトリシア・ドロワの経歴だ。あいつ、エリザベスと名乗ってからは一切公表してないし、する必要もなかったんだろう。英文学の知識も演劇の素養もクイーンズ・イングリッシュのアクセントも、ぜんぶ完璧だったからな。あいつが大学を出て一人立ちしてからは、エリーズの遺産も全額寄付して、俺とも連絡取らなくなった。言い終えたのか、チェイサーのグラスを傾けて黙すギヨームを前にして、それはちょっと……つらいですね。と漏らしてしまう。なんでだ? なんでって、距離があるとはいえ血縁をもって生まれた相手に、振り向いてもらえないなんて……と継ぐと、いや、そういうもんでもないだろ。とにこやかに否定される。えっ。だって、子は親のもとを離れてくもんだろ。逆に、ずーっと娘にお父さんお父さんって執着されてたら、そっちのほうがつらいだろ。と言われて黙り込むあたしの顔を見て、ミッシーが噴き出す。え、おい、どうした? いや……なんでも……ないです。と、頬の火照りを気取られないように片手で隠す。そうか。ま、むしろあいつは母親のほうに執着しちゃったんだろうな。エリーズとエリザベスって、名前が名前だし。笑みを絶やさずギヨームは言う。が、今になって考えると、あいつ……ずっと母親のツケを払ってたのかもな。英国贔屓のフランス人、ですらない、完全な英国人。藝術家のパトロンではあったけど自分で表現はしなかった母親の代わりに、英国の藝術を極めてみせるんだって……ただそれだけのためにやってたのかもしれない。文学も演劇も、今やってることも、全部な。
ふいに沈黙が訪れる。親のツケを払う、か。それはたぶん、あたしもそうなんだろう。父ができなかったことのツケを、別のかたちで……それと同じことを、エリザベスも。と無体に乱れゆく想念を片付けて、それより、いまあたしたちに話したことを、ウェンダにも教えたんですか。と訊く。そうだよ。なんでですか、誰にも知られたくなかったことのはず。それはそうだけどよ……別にいいだろ、あいつが選んだパートナーなんだし。頬の半分で笑うような顔。ウェンダ・ウォーターズ、色々あったって聞いてるけど、あいつが選んだ相手なんだろ? ならいいじゃねえか。悪くないもんだよ、手前勝手でどうかしてるパートナーに振り回されてみるってのも。あいつも大人だ、自分の相手くらい自分で見つけるさ。
黙り込むあたし、の傍らでミッシーは笑っている。そうですね。じゃ、これでウェンダに話したぶんは全部ですか。ああ、わかりやすかったろ? ええ、とても。ただ……あとひとつだけ質問があるんです。なんだ。ミッシーは静かな深呼吸をひとつ置き、あなたは、今も……曲を書いてるんですか。それを発表するつもりは、一切ないんですか。といつになく冷静な声で問う。ギヨームは苦笑混じりの呼気ひとつ、無えよ。と応えた。俺が聴きたい曲を俺のためだけに作る、それで完璧じゃねえか。もう、聴かせたい相手もいないしな。ダイアナが小さい頃何度か弾き語りしたことあったけど……もう憶えてないだろうな、あいつ。それでいいんだよ。子どもは親のもとを離れてくもんだろ。
わたし、あの人、好きだな。北埠頭駅でギヨームの背中を見送りながらミッシーは言う。明日は仕事だ、やけに客人の多い休みだったが、あんたがたと話せてよかったよ。ってさ、ああしてまた自分の住処に帰って、ひとりで仕事を続けていくんだろうな。ああ。姫……やっぱさあ、勝てないんだよなあわたしら。音楽を聴かせることを自分の仕事にしちゃったやつらは、ああいう人らには一生……馬鹿言うな、勝ち負けの問題じゃないだろ。いや、あるんだよ勝ち負けは。どうしても勝てない相手ってのは、いるんだよ。そう、か。まあ、ミッシーが言うなら仕方ないが……
と、発車とともに通知音が。なに……音楽ニュースサイトの見出し。Innuendo……の公式サイトが……え? おい、ミッシー。なに。これって……あいつ、まさか。
いた。立って、いた。位置情報のとおり、ブラックプールの北ビーチに。さすがにこの時間帯になると観光客も少ない、が、まさかずっとああして待っていたのか。ウェンダ。波打ち際に佇んでいる、その背の高い後ろ姿に呼びかける。振り向くと、あの憎らしい小癪な顔。みすぼらしいナイキとニューバランスで変装しても、あの怜悧かつ典雅な雰囲気だけは隠しようがなかった。やあダイアナ。その呼び方はやめなさい。それより……どういうこと。スマートフォンの画面を突きつけ、どうしてこんなことを。私の過去の経歴を勝手に暴いて、あまつさえInnuendoの公式バイオグラフィとして公表するなんて。と問い詰めても、ウェンダは依然として面持ちを崩さない。君は咎めるのか? 一週間、この事実を洗い出すためだけにマンチェスターの街を這い回っていた私の労苦を? そんなこと……誰も頼んでない! そうとも、誰に頼まれたわけでもない。私が独断でやったんだ。大変だったよ、幼少期の君を記憶しているかもしれない書店や文具店やバーバーショップの聞き取り調査から始めなくてはならなかったのだから。そんなことはどうでもいい! ウェンダ、あなたがしたことはプライバシーの侵害以外の何物でもないわ。明白な犯罪行為として告訴することだってできるのよ。言いなさい、なぜこんなことをしでかしたの! 君のことをもっと知りたいからだ。
沈黙。
なん、なに、今こいつ、何を言った。目の前の相手は寸毫も表情を崩さず、なぜ隠していた? と、あべこべにこちらを問い詰めるように言う。なぜ今まで隠していたんだ。君はイングランドに生を享けたフランス人だが、自力で学び取った演劇と文学の技術で大成したのだろう。素晴らしいことじゃないか。エリザベス・エリオットという芸名を名乗ったこと自体は何も悪くない。しかしなぜ君は、それ以前の、ダイアナ・パトリシア・ドロワの経歴自体も埋葬しようとしたんだ? 母上や父上に失礼だとは思わないか? 何を……知ったようなことを。知っているさ、直に君の父上から伺ったのだから。娘は母を超えたかったのかもしれない、とね。それが目標だったのだとしたら、君は自身の実力でかなりのところ実現させたろう。ならば、なぜ誇らない? なぜ自分の生まれ育ちを隠したまま、エリザベスの役だけに執着している? 黙りなさい……黙らないよ、残念ながらね。私は厭うわけにはいかないんだ、君を「王」に仕立てるための労苦なら。今となっては、君は丸裸だ。フランス人の間に産まれたことも、生粋の英国人ではないことも、すでに世間の知るところとなった。ようやく君を裸形に剥くことができたよ。さて、ここでひとつ問わせてもらおう。今の君は、いったい誰なんだ? ダイアナ・パトリシア・ドロワか? それとも、エリザベス・エリオットかね? いま私の目の前に立っている相手は、いったい誰なんだい?
ふざ、けやがって。どうして、どうしてこうも逆撫でる。私が望みもしないことを、まるで誠心からの挺身のように。どうして、こいつは、ここまで。唇が動かない、何も言うことができない。のを見て、突如として背を向け、ウェンダはニューバランスのスニーカーのまま波打ち際を踏み越えた。脹脛まで海水に浸り、立位のまま振り返り、私の眦を真一文字に見据え、口を開く。
来いよ、クソアマ。私に一矢も報いられないお前なんか、波にでもくれてやる。
私を……
私を、
私を誰だと思ってる!! 誰? ダイアナ・パトリシア・ドロワだろう? 君のプロフィールなら誰でも知っているよ。違う! じゃあ、エリザベス・エリオットかい? 信頼していたパートナーに裏切られて、ライバルだったはずのアイルランド娘にお情けをかけてもらった、今や天下万民のお笑い草であるところの女王陛下か? 違う!! じゃあ誰だ、と訊いているんだ。けっきょく君は誰でもない。どれだけ良い大学を出ようと、天才女優として名を馳せようと、χορόςで世界的な名声を勝ち得ようと、未だに何者でもない娘っ子だ。自分自身の経歴にケリをつけることすらできない、宙ぶらりんの道化師だ。まったく性質が悪いな、笑えない道化師とは。黙れと言っている!! 黙らないよ、私は君の頭の中の声だ。一度だって止んだことがあったかい? 半生をなかったことにしたまま進み続けて、良心の呵責が止んだことがあったかい? ウェン……あっ。ほら不注意だぞ、浜辺には小石だけでなくガラス片も散らばっている。履いていたサンダルはどうした? 波にさらわれたか? こんな浅瀬で足をとられて、まともに立っていることすらできないとは、大した女王陛下もあったものだね。うる……さい!!
あ。
当たった。当たった! 当たったわ!! ざまあみなさい、私を挑発するからよ、この流麗な御御足があんなハイキックを繰り出すなんて、想像さえ……あれ。ウェンダ。ウェンダ? まさか、うそっ。動か……うそ、うそでしょ。たしかにびっくりするくらい的確に側頭を撃ったけど、まさか死ん……と危ぶみながら歩み寄る私の裸足を、波打ち際に横たわる長身の右腕が迎える。
できるじゃないか。それだよ my dear. 君の赤剥けになった姿が見たかった。その顔が、綽々たる余裕が剥げ落ちた顔が。なに……言ってるの。あなた、こんなことをさせるためだけに。そうだよ my dear. 長かった、とても長かった。君に見初められたその日から決めていたんだ、いつかこうして裸にしてみせるとね。気違……ちょっと、その手を除けなさい、足をさするのやめなさい。やめないよ。私たちは逆転し、ふたたび逆転した。もう上も下も意味を持たない。裸足で踊ってごらん、 my dear. 逆立ちもすれば、もっと良い。するもんですか。
位置情報の通りに北ビーチに赴くと、ふたりいた。あれたぶんウェンダだよな、身長でわかる。あの寝巻っぽい姿はエリザベスかな、なんでふたりともびしょ濡れなんだ。まさかあの格好で泳ごうとしたなんてこと。あ……とこちらの姿を認めると、茫としたまま視線を逸らさず歩み寄ってきた。
さ、帰るぞ。言いながら、とっぷり暮れた夕陽を補うために、スマートフォンのライト機能で足元を照らしてやる。あなたたち、なんでここに……尾道から頼まれてな、血相変えて出て行ったエリザベスを連れ帰れと。言われると、気恥ずかしくなったのか足元のライトに視線を逸らす。ていうかウェンダ、明らかにわたしらが追うように仕向けたよねえ? 尾道宛にメール送ったのもそういうことでしょ? 微笑しながら詰問するミッシーに対して、ウェンダはいつも通りの沈黙で報いる。まったく、公演の前日に風邪ひくようなこと……せっかくだから売店で代わりの服と下着でも見繕ってくか、パトリシア? と言うと、流石に反射的に視線をこちらへ向けた。えっ……!? まさか、仇敵だと思ってたやつと洗礼名が同じとはな……なんだかもう、いよいよどうでもよくなってきた、当初お前に抱いてた敵意とか……言われてすぐにまた視線を逸らす。ライトを顔に当ててやる。片手を押し付けて光を遮ろうとする。あはは、じゃあみんなで帰ろー。一応言っとくけど、ShamerockとInnuendoが一緒にいるわけだから、車内の大パニックは避けられないと思って。しかもなぜかびしょ濡れだしな。ちょっとウェンダ……やっぱり着替えましょう。私はこのままで構わない。よかあないわよ、グズグズのスニーカーで電車乗る気? はしたないし磯臭いでしょう。磯臭いのは君もだ。っはは、じゃあ海水浴場のシャワー寄ってくか、まだ開いてるのかわからないけど。まったく、ほとほと世話の焼ける……なに、子どもみたいに言わないで、歳下の分際で。いいさいいさ、好きなだけ発砲したまえフランス人。フランス人……だけど! 何が悪いの!! あははは、なーにも悪くないさ。フランス人であることも、アイルランド人であることもね。もちろんウェールズ人であることもな。私はイングランド人だよ、移り住んで三代続いているのだから。ほんとめんどくさいなこのメンツ……あなたにだけは言われたくないわ。
気分はどうだ。どうって……あいつらのホームグラウンドだから、花を持たせてやっただけよ。そうじゃない。何。初めて、全体の自分としてステージに立った気分は。何それ……いつだって全体だったわよ。今までは半分だけだったじゃないか、エリザベス・エリオット。今や誰もが君の本名を知っている、その経歴も。すべて知られてしまった後で舞台に立つ、その気分はどうだった。別に……何も変わらないわ。私は私を演じ通すだけ、今までと同じにね。「本当の自分」なんてくだらない幻想、私には何の意味も持たないんだから。そうか……それでは新たに始めよう、Innuendoはここから始まる。あと三公演しかないのに……ふん、まあ十分だわ、ここから英国の天下を取り戻す。マンチェスター公演から英国の独壇場よ、見てなさい雑魚ども。それでこそだ my dear. その呼び方やめなさいってば。では、どのように呼ぶべきかな。エリザ……うん……この呼び方もしゃらくさいわね。なら、リズ。リズと呼びなさい、ウェンダ。この名は特別よ、誰にも呼ばせたことがないんだから、父親にさえね。ふふっ、心得た。ではリズ、次の準備を始めよう。私は君を「王」に仕立てるためなら何でもする。また君を揶揄うことになろうとも、私の諷刺に腹を立てるなよ。ふん、小賢しい。むしろ次はあなたが笑われる番よ、ウェンダ。仕立屋の小才子気取りなんか、女王の余裕と風格で笑い飛ばしてやるわ。
19 Clothes to Me
演技だったと思うんですよ。なにが? 何がって……話聞いてました? ハムレットの狂気が、です。そりゃ演技だろう、俳優が演じてるんだから。そうじゃなくて……ああもう、シェイクスピアが書いた登場人物であるハムレットの狂気は演技によるものだった、という意味です。それ以外になんかあんのか? あるでしょう、そもそも父の亡霊はハムレットの妄想が作り出した幻影だった、って線が。そこまで考えなきゃいけないのか。当たり前でしょう、現在に至るまで様々な評論のテーマになってるんですから。わかんねえよ、デンマーク人の考えることなんか。それよりお前、来月誕生日だろ? なんか欲しいもんないか? 私と対等に話せる程度の知性を備えた父親が欲しかったです。言うようになったねえうちの娘も……ホリーズとかバズコックスとかの話ならいくらでもできるけどな。ああもういいです、あなたに話した私が馬鹿だった。じゃあ今日は、はい、これ、ここにサインだけください。なに? 裁判所提出用です。実の娘に訴えられるのか俺は、シェイクスピアっぽいな。違います、大学に入る前に改名を済ませるので。え、そんな簡単にできるのか? 自分が住んでる国の法体系すら知らないんですか。はい、ここにサイン。ん……ほい。エリザベス・エリオットか。そうです。いかにも英国ーって感じの……あれ、このエリオットのスペルって『荒地』のやつだよな? あいつアメリカ人じゃなかったっけ? 移住したなら英国人でいいんです。植民地主義だなー……ん、いや違うか、他所から移ってきたやつも全員うちの国民、ってことは、被植民地主義? いや、単に帝国主義か? オスマンってそうだったんだっけ? 知りません。このパウンドケーキ、食べないのならもらいますよ。パウンドって何人だっけ? イタリア? どうでもいいことです、パウンドは詩人として二流ですから。編集者としては一流ですけど。冷たいよなー……ジョイスの『進行中の作品』読まされて「脳軟化症だろこれ」って真剣に心配したのって、パウンドだっけエリオットだっけ。どちらもじゃないですか。でもわかる気するよな、本人は大真面目なのに狂気としか見てもらえない……ハムレットもそうだったんじゃないか? えっ? 狂ってたとか演じてたとかじゃなくてよ、単に大真面目だったんじゃないか? そいつの中で一貫しすぎてるから気狂いに見える、みたいな。ああ、確かにそれは……ポローニアス殺害の場面とか。だよな、あれ明らかにやらかした後で動揺してるもんな。狂ってたからやったんじゃなくて、やった後で狂ってると気づいた。てことはだよ、演技も発狂も本質的には同じなんじゃないか、順番が違うだけで。順番? 役は同じでもカードが配られる順番は違う、みたいな。ええ……いきなりすごく下手な比喩を……なんだよもう、わかったよ。やっぱ俺には難しくてわかんねえよ。あの……父さん。うん? ひとつだけ、訊いてもいいですか。おう。もし仮に、ハムレットが狂気を演じるのも、本当に発狂しているのも、本質として同じことだとしても、どうしたらよかったんでしょうね、周りの役者は。周りの? ホレーシオとかフォルスタッフとか? フォルスタッフは違う劇のですけど……演じていることを演じている人がいたら、ただ演じている人はどうしたらいいんだろうって。どうしたら、ねえ……そりゃ、信じてやるしかないんじゃないか。信じる。ああ、これから狂気を装うから話を合わせてくれって頼まれたら、もうそうするしかないだろ。たとえガチで狂ってるとしか思えないとしても、信じてやるしか。そう……かもしれませんね。ありがとう、たまには良いこと言うんですね。そうかい、じゃあまた一週間元気でな。あの、私、近いうちにハムレットを演じることになるので……今日の会話がヒントになるかもしれません。そりゃいいな、女のハムレットか、ハムレッタ? いえ、役はふつうのハムレットで、私が演じるだけです。なん、保守的なのか革新的なのかわかんねえなそれ。ふふっ、じゃあ、またね父さん。おう、頑張れよ。
あの手袋どこやったっけ。いつまで着けてたかな。たぶん三月。いつのまにか着けなくなっちゃったな、そりゃそうだ初めに乗ったのは一月。さすがにデッキは肌寒かったしな。釜山から博多までの航路、あまりにもやることなくて暇つぶしにしたんだ、逆の手袋着けるやつ。くー、みー。まだ九三を知らなかった頃のワタシ、には戻れない。戻りたい? 特には。しかしよく考えたら、いやよく考えなくてもだが、九三は素数ではない。三で割れる。あのユニットが三人組なのもそういうことか……いいな、なんかずるいな。四七は素数だから。母はそういう含みで名付けたのか。わかるはずもない、が、これだけは確かにわかる。正午から一〇分ほど過ぎたら、アナタがやってくる。
おーっす。こんにちは。昼、二番キャビン、喫煙所。ワタシとアナタ。いつも通りだ。そう、いつも左ポケットからタバコを取り出す。右ではいけないらしい。なんでだろうと考えたところ、左手で箱から一本取り出したあと右手のライターで着火するまでの流れをスムーズにするための型だとわかった。のは、二月くらいだったか。左手で一本取り出すときも指で摘んで取り出すのではなく、開けた箱をくっと振って器用に一本だけ飛び出させる。その仕草は実際ウナギ漁を思い出させ……ない。そもそもウナギ漁について何も知らない。九三はなぜかタバコの吸口に手で触れたがらない。なんでだろう、案外潔癖症なのかもしれない。いや、潔癖症の人がタバコなんか吸うだろうか。四七もいる? いえ。日陰で座り込むワタシを見下ろしながら笑う。なんかそーやってずーっと見られてると吸いたいのかなーって思っちゃうよ。そんなに見てましたか。まあねえ。一本目の煙を吐き出しながら座位に移る、ぐーっと両脚を伸ばして。ワタシは膝を折って臀と足裏をつけているだけ。九三は脚を地べたにつけることに抵抗がないのだ。なぜだろう、いや九三もだが、ワタシのこの癖は何時ついたのだろう。北インドの頃からそうだったか。虫に刺されるのが鬱陶しかったから膝を折って寝る癖がついたか、と当てにもならない記憶を手繰っていると、もうあと三公演で終わりだねえ、と九三が言う。そうですね。正直ね、わたしもう誰が勝ってもいいじゃんと思ってるよ。ずいぶん微温いことを言いますね。だってさShamerockはこの前のエディンバラが今までで一番良かったし、锡鼓も一体どんだけ新曲作るんだよって感じだし、Defiantも毎回ステージ演出ヤバいしさ、そんでInnuendoもついに復活した。ってなればわたしがわたしがってガツガツする気なくなっちゃうよ。そういうものですか。うん、それに……と九三は灰を落としながら、わたしがここまで来たのは、不二良のためだったからね……海外を巡れば会えるんじゃないか、ってぼんやり期待して。と船外の水平線を見つめながら微笑する。そんでダブリンのあれがあったわけだから、もう果たされたようなもんだよ。果たされたって……あの時ダブリンに母がいたかもしれない、ってだけでしょう。そうだけどさ、直接会わなくてもいいんじゃないかなって。不二良が離れていてくれたからこそ、わたしはここまで来れたわけだし……と右目だけワタシに向ける九三の指先で、タバコは半分燃え尽きている。いいな、この指が好きだ。正確には手首から手の甲を過ぎて五指が伸びているあたりの区間が。くすんだ膚にうっすらと筋骨が浮かび上がっている、その構え自体がひとつの楽器のようだ。ワタシのとはずいぶん違うな、九三のはもっと実用に耐えうるというか、がっしりしてるというか。九三の手ってしっかりしてますよねこの船に乗る前はどんな仕事してたんですかやっぱり重いものを持ち上げる類のですか、と今ここで言ったとしたら正気を疑われる。脈絡なく話をするのはよくない。それはワタシではなく九三の領分だ、いきなり常軌を逸したり脈絡を欠いたりするのは。だからワタシは、それでは証言までした甲斐がありませんね。と不機嫌を装って視線も合わさず言うしかない。ああ、警察にでしょ? 一体どんなこと言ったの。紛争地を渡り歩いてる人身売買業者だと。ひでえな、真っ赤な嘘じゃん。真っ赤でもありませんよ。えっ。だって、ワタシたちがあの人の何を知ってますか。ああ、まあ……ね。そもそも誰かのことを全部知るなんて無理だもんね。そういうことですよ、ワタシは架空のキャラクターをでっちあげただけです。多少センセーショナルなくらいがちょうどいいでしょう。あいつが警察に引っ立てられたらウケるなー。まずないでしょうね、指名手配された時点でもうダブリンには居なかったでしょうし。
ふうっ、と煙を吐きながら一本目を躪っている。また同じ仕草で二本目を取り出し着火すると、あっそうだ四七さ、と言いながら懐のポケットに手を入れる。なんですか。ちょっと作ってきたんだよ、はい。平たいものが渡される。検めると、CD-R。ラベル面には黒いペンで「47」とだけ書かれている。曲、選んできたんだよ。ワタシのために、ですか。うん。ここで話してて思ったけどさ、四七って歴史とか宗教とかについては話せるのに音楽は全然じゃん。まあ、もとは母の知識の受け売りですから……うん、だからもっと聴いてほしいなって。いろんな意味で四七に合うだろうなーってのを選んできたから、ヒマなときにでも聴いてよ。四七曲入りですか。ぶはは、さすがにそんな入んないよ。と煙を噴き出す九三の笑顔を正面から見つめ、ありがとうございます。と言うことはできた。
しかし珍しいですね、アナタから贈り物なんて。だって、ぜんぶ終わったら四七とも離れちゃうわけだし……寂しくてこれを、ですか。なんだその半笑いー。あーそーだよー、四七だって寂しいでしょ? ええ、そうですね。寂しいですよ。
えっ、と咳き込むように言った九三から面を離し、遥か遠くの水平線を眺める。不織布スリーヴからディスクを取り出し、真ん中にぽっかり空いている穴に左手の薬指を突っ込む。日陰ながらに放射状の光暈を湛えている円盤を見ながら、ああ、これが別のものとして指に纏わっていてくれたらいいのに、と思った。もちろん、口には出さなかった。
尾道ですが。おや、部屋の内装が変わっている。そうだ、今ではあのエリザベスと共同なのだった。やあ尾道、こっちだ。声の方へ向き直り、三歩ほどの距離を詰める。いかがなさいましたか。活動素体の眼では久々に見るウェンダ様のお顔。の脇で、何やら面を伏せて椅子の背もたれに伸し掛かっている肢体。単純な用だ、彼女の健康診断を頼みたい。健康診断……たしか、今月の頭に済ませたはずですが。と確認すると、ああ、そうなのだがね。先ほど稽古中に……何というか……突然に体調が急変して。ウェンダ様らしくもない途切れ途切れの構文。急変、ですか。健康診断用の機材は船員室ですので、移動せねばなりませんが。ああ、頼むよ。リズ、立てるかい。リズ。聞き憶えのない名前、親称というやつだろうか。ええ……と鈍い呼気を漏らしながら、エリザベスは起立する。助け起こすわけでもなく中空で静止しているウェンダ様の指が、やけに所在なさげに映った。
脈拍、体温、血流……ホログラム表示の計器すべてに目を走らせる。いずれも、平常のエリザベスのデータと大差ありませんが。と言うと、ああ、そのようだが……この機材ならもっと詳細な検査もできるだろう。可能な限り調べてくれないか、とくに脳の異常など。と返される。はい、やってみますが……そして尾道、君はエリザベスと呼び捨てにしているが、私に様をつけるなら彼女にも同様にしてくれないと困る。それが嫌なら、私も呼び捨てにするべきだな。私とリズは対等の存在なのだから。と詰られ、はっ、はいっ、失礼いたしました。リズ様、のご容体をもう少し詳しく調べさせて……と早口で返すと、リズは私だけに許された呼び名だ、エリザベス様、でよい。と釘を刺される。はい……
ご覧の通りなのですが……言いながら、ウェンダ様の前にCTスキャン結果の画像群を表示し、どの検査でも、別段異常と言えるような箇所は見つかりませんね……と端的な事実を述べる。うむ、そのようだな……脳神経の異常でもないし、循環器系の発作でもない、か。私はそもそも医者ではないので、確言はできかねますが……今回の検査で得られたデータを保存しながら、数秒間の沈黙。ウェンダ様は右手を顎に当てながら、ホログラム表示を虚心に眺めている。では、身体の疾患とは別の事由と考えるしかないな……はい、おそらくは。あの……ウェンダ様。なんだね。稽古中に体調が急変した、と仰っておられましたが、具体的にはどのような。ああ……短く息を吐き、ホログラム表示をシャットダウンする。ここまで協力してもらった以上、君に言わないわけにはいかないな。ただ、このことは他の乗船者たちには秘密にしてもらいたいのだが……もちろん、口外いたしません。ウェンダ様は依然として佇まいを崩さず、前方のスキャン装置に横たわったままのパートナーに視線を注ぐ。
性的絶頂、だよ。えっ、と、聞き違いか。聴取した音声データから辞書機能を立ち上げる。性的絶頂。鸚鵡返しに言うと、ウェンダ様は視線を合わさず頷く。 orgasm, という意味のでしょうか……他にどんな意味があるんだね。まあ、そうですね、それしかありませんが……と、またふいに沈黙が。ウェンダ様は厭わしげに首を振りつつ、先ほど、ふたりで稽古をしていたんだ、『Clothes to Me』という劇のね。と淡々と述べる。劇。ああ、次のマンチェスター公演で披露するための。その最中にいきなり、ああなってしまってね……と呟くように言うので、ああなって、とは。と問わざるを得ない。私がリズの肌に触れた途端、いきなりだった。『Clothes to Me』は、シュミーズにドロワーズ姿のリズに私が手ずから衣装を着せてゆく、その様を見せる無言劇だ。まず座位のリズに最初の一枚を着せるのだが、指が触れた途端、崩れ落ちてしまって……何かの発作だろうかと疑ったが、落ち着いたあと当人に訊いてみると、どうもそのようなものではなかったと……気を取り直してもう一度やってみると、全く同じことが起こった。まさかこれは、と信じ難く思ったが……認めざるを得なかったよ、リズの身体に起こっているのは癲癇的な発作ではなく、純粋な性的絶頂だと。
沈黙。
えっと、それで私に診断を……ああ。どこか器質的に異常でもあればそのせいにできたが、ここまで平常通りとはな……どう思う、尾道。えっ、いや、私などにわかるわけがありません、人間の、性感のメカニズムなど。そうだな……とりあえず、今回の診断で得られたデータを私に送っておいてくれ。はい。先程も念を押したが、今回のことはくれぐれも内密にな。はい、もちろんです。
カモミールティーでいいか。ええ……おねがい。いつもなら練習後に茶など勧めないが、スポーツドリンクの類は先ほどから飲ませているのだ、リズの心身を慰撫するためには止むを得ない。ほら、リズ……立てるかい? ええ……無理はするな、床に伏したままのほうがよければそのままでいい、クッションも持ってこよう。うん……ごめんなさい……謝るようなことは何も無いよ。言いながら、リズの右脇腹にクッションを差し挟む。茶器を卓上から床に移すと、申し訳なさげにティーカップを持ち上げる。
動転することはない、初日の稽古だ。ゆっくりとあの劇に慣れていけばいい。と労うも、慣れるって、どうやって……とティーカップの立てる湯気の中で唇が動く。君ほどの女優であれば造作もないことだろう、五分ちょっとの無言劇くらい……と途中まで口にして、しまった、と気づく。逆撫でてしまうか、この言い方では。そんな造作もないことすら覚束ない自分は、と──ウェンダ。なんだい。膝を折って屈み込む私に、リズは視線を上げて言う。本当に、何もなかったのよね……私の身体には、何も。ああ、診断結果に異常はなかったよ。なのに、私、こんな……言いながら、未だに慄えている左手の指先を見つめる。こんなことになってしまって……心配するなリズ、きっと一時のことだ。どうしてそう言い切れるの……どうしてって、こんなことがいつまでも続くわけないじゃないか。きっと私が書いた筋書きのせいだろう、まだ君には……と、まずい、私の左手がリズの右肩にふれそうになる、のを、眼下の右手が痙攣的に払い除ける。その指が支えていたティーカップが、音を立てて床に転がる。
ごめん、なさい……何を言う、私こそすまなかった、つい……タオルで拭おうかと思うと、既にクッションのカバーが溢れたカモミールティーを吸い上げていた。その滲みの広がりを漠と眺めながら、リズは視線を合わさずに唇を開く。ウェンダ……なんだい。私の身体の問題じゃないのだとしたら、これ、もしかしたら……悪魔憑きなんじゃないかしら。なんだ、急にカトリックみたいなことを。もとはカトリックよ……それによく聞くでしょう、修道女の性的ヒステリーとか……そんなのは一六世紀の話だろう。でも、いま私の身に起こってるこれも、同じことだとしか思えなくて……リズ、と継ぐべき慰めの言葉を案じかねているところに、突如として眼下の肉体が起立する。
ウェンダ。なん、だい。遅れてこちらが腰を上げる羽目になる。今日は、もう、これっきりにしましょう……ああ、もちろん。稽古は明日以降ゆっくり──違うの、それも。えっ。リズはこちらを真正面から見据え、私たち、しばらく、離れているべきだと思うの……こんなことが起こってしまった以上は。離れてって、またあの部屋で過ごすのかい。違う。あなたはここにいてもいい……けど、私は帰ったほうがいい、と思う……マンチェスターに。リズの申し出の意味が、おぼろげながら察せられた。帰る、か。ええ、「Cabal」のために設けたビューローがあるから、そこでしばらく過ごしたい……気持ちが落ち着くまで。そう、か。ごめんなさい、公演まであと五日もないのに……いいんだよ、リズ。君の安らぎを最優先にしてくれ。こちらを見つめながら小さく頷き、かならず連絡するから……逃げたままではおかないから、あの劇から。と小声でしかし自恃を失わない語調で言った。ああ、もちろん。じゃあ、もう発たなきゃ。駅までは送るよ。大丈夫よ、まだ陽も暮れてないんだし。着替や日用品は全部あっちにあるから、荷物もないし。そうか。じゃあ……と先導して扉を開けようとする右手、がふいにリズの右手と重なりそうになり、双方とも反射的に身を逸らした。
いつまでも続くわけがない。自分に言い聞かせながら、手を振ってリズを見送る。しかし、数日経ってもこのままだったら。どうすればいい、どう解決すれば。悪魔憑き、とリズは言った。解剖学的に説明できない、なにか精神的な失調。そのような事態の解決など、私の手に余る。そもそもなぜ私はあの劇を提案したのだろうか。もちろん、私がリズを造る営み自体を作品として打ち出すために……よう。と、正面からの声に身がたじろぐ。見れば、メリッサ・マッコイである。ああ、君か。どしたん、えらい考え込んでたみたいだったけど。と微笑する人を前にして、なんでもないさ、と遮る物言いが後手めく。さっき会ったよ、エリザベスに、そこ降りたとこで。と昇降口を指差しながら言い、なんかすごい憔悴してるように見えたけど、大丈夫? とこれは正真の思い遣りなのだろう、先ほどの笑みが既に失せている。大丈夫、なはずだ。はずだ、か。またなんかやったんじゃないだろうね。違うさ、ただ劇の稽古をしていただけだ。といやに饒舌な自分を遅れて発見する。劇、ねえ。どんな? 君にそこまで説明する謂れはないだろう。まあね。てことは、Innuendoは今度のライブで劇やるのか。エリザベスならお手のもんだろうね。いや、すべて私がプロデュースした劇だが……とまた口を滑らせてしまい、ふーん? と、これは明らかに意地の悪い笑みを向けられる。もしかしたら、やっちゃったんじゃないウェンダ? 何をだ。軽率なことを、さ。だってウェンダ、あんたファッションのプロではあるけど、演劇に関してはズブの素人だろ? 自分の本領をウェンダに奪われて、そのせいであそこまで憔悴しちゃったんじゃないの? まさか、そんなこと……あるわけがない、とは言い切れない。だってあんだけのことやってさ、エリザベス自身に何のダメージも無かったと思う? どんなトラブルが起こったのかは知らないけど、あんたがここ一ヶ月でしでかしたこととも関係あるんじゃないの? 関係ある、とわたしは思うよ。揶揄いの口調が叱責に変わっている。返すべき言葉も定まらず黙り込むこちらへ背を向け、ま、最後まで責任持つこったね。自分で決めたパートナーの問題も解決できないんじゃ、あんたはShamerockの敵じゃないなあ。と手をはためかせながら去ってゆく。
言われるだけ言われてしまったな。溜まっていたものを吐き出す口実を与えてしまったか。メリッサ・マッコイ、彼女も彼女でなかなか陰険なところがあると思うのだが……などと燻らせても為様がない。一番キャビンに戻り、物音ひとつない部屋に歩み入る。そうか、今夜は一人で過ごさなくては。不思議だな、この感覚はなんだろう。リズを追い出したあの夜とは、全く別様の何か。
このように、触れられるまでは正常なのですが、と尾道は画面上の映像をスロー再生しながら、ウェンダ様のお手が触れた途端、神経に過大な負担が掛かっているようなのです。と別画面に浮かんでいる数値の変化を指し示す。では本当に直前までは何の異常もなくて、私が触れた途端に達している。と詳らかにすると、それ以外には考えられません……と尾道は引き取る。たしかに、睡眠も排泄も生理周期も、ここ数ヶ月はとくに乱れていないと言っていたしな……そう、ですか。あの、ウェンダ様。なんだね。AIの私ごときがこんなことを言うのは、まったくもって差し出がましいとは承知の上ですが……こうは考えられませんか、エリザベス様が貴方に対して並外れた好意を寄せているために、肌が触れた途端こうなってしまう、とは。あり得ないことだな。私たちは事務的な契約に基づくユニットだ、Shamerockなどとは違ってね。私はリズに衣装を与えること、リズは私によって新しい美を獲得すること、だけを目的としている。今回の劇だってその一環だ。我々は相手への好意などという私的な情緒を勘案したことは一度もない。と否定しても、やはりどこか強突く張りの言い訳めく。が尾道は、そうですね、私ごときが弁えもなく、出過ぎたことを申しました……と恐縮したきり無言になってしまう。ふむ、こいつもなかなか人間らしくなったものだ、私とリズの関係を気遣うとは。そもそもこのAIに艶事など理解できるのだろうか。
尾道。
はい。
試しに今夜、私と寝てみるか?
えっ。と言ったきり固まっている。私と寝てみるか、と言ったんだ。えっとウェンダ様、その寝てみるというのは……逐字的な意味での……? いや、逐字的な意味ではないほうだ。と返すと、一瞬の黙しののち、ふざけないでください!! 私がそんなことを望むとお思いですか! 私の、ウェンダ様への想いはですねっ、もっと、騎士的なあれなんです! と言う。騎士的なあれとは。こう、肉体的な欲望を必要としない、プラトニックな……プラトニック? プラトン的、ということか? プラトンの師であるソクラテスは大層な美少年喰いだったそうだぞ。ええ……? もうっ、とにかくっ、そんなことを私に言わないでいただきたい! ふしだらなことです、あの霧島四七ならまだしも! ああ悪かったよ、そこまで拗ねないでくれ……ん? はい? 霧島四七ならまだしも、と言ったか。ええ、言いましたが。前にもあれのことを悪し様に言っていた気がするが、そこまで軽蔑する理由があるのか? と直截に問うと、尾道は妙にせせこましい挙措で、いやっ、まあ、同じ船で働いてますと、その、色々ありましてね……と視線を逸らしながら言う。色々、か。しかし、君は四七を指して「ふしだら」という形容を使ったが。はい……霧島四七が性的に堕落していると判断するに十分な材料が、君にはあるというのだね? とまで言うと、尾道は進退窮まった様子で、ああもうわかりました、降参です。関係してしまったのです、私と四七は。ダブリン公演の後に一度だけ……と破れかぶれに言う。関係、肉体的にか。ええ、もちろん……人間とAIでも出来るものなのだな。ええ、あいつが私の中にわけのわからん細工をしてくれたのでね……それにあいつ、もともと売春をやっておりましたから……ん。尾道、今なんと言った。売春、ですっ。どこの国だったか忘れましたが、軍人相手に身体を売っていたのだそうです。
そうか。
そうです。
ということは、性感に関してプロなのか、霧島四七は。
え……それはまあ、そういうことになりますが。
尾道。はい。でかしたぞ、打開策が見えた。えっ、なんですか、何も大したことは。尾道、今すぐこの部屋に来るよう命じてくれ、霧島四七にな。ウェンダ・ウォーターズから頼みがあると。えっ……は、はい、伝えはしますが。なぜあいつなんぞに……?
おはよう。と声をかけるが、正午はとうに過ぎているのだった。おはようございます。と、ビューロー一階でデスクに就いている五人ほどのスタッフから声が返る。皆一様に私の顔色を窺っているが、さほどの疲労は面に出ていないのだろう、おそらくは。自分で計れる限りの体温や脈拍も平常通りだったのだし。問題なのは、ひとたびウェンダの肌に触れてしまえば、ああなってしまうこと──エリザベス。と、いつのまにか右手をとられている自分を発見する。大丈夫だ、触れられても、この子には。なにかしら。よく眠れましたか。ええ、問題なくね。むしろ寝過ぎたくらいだわ、一〇時頃から作業を始めようと思っていたのに、だらしないことね……と通り一遍に応えると、エリザベス、頼まれていた衣装のストック、すでにクローゼットにかけてありますから。と向かいから声がかかる。ええ、ありがとう。えっと何を頼んでいたのだったか、そうだマンチェスター大学時代から「Cabal」までに使用した衣装の中で、今回の『Clothes to Me』と通じそうなテーマのものを集めたのだった。今から試着してみますか? いえ、まだいいわ。それより、しばらく二階のアトリエにいるから。と応えて背を向けようとすると、二階って、χορόςの演目のためですかっ。と咎めるような声。そうだけれど。エリザベス、せっかくここに戻ったんですから、ゆっくり休んだらいいじゃありませんか。一日オフを取ったって罰は当たらないはず。気遣いは嬉しいけれどね、と言いながら振り返ると、スタッフたちの面持ちが一様にささくれ立っていた。あんなやつの企画のために、あなたが憔悴する必要はないはずです。と一人が言うと、居合わせた全員が調子を合わせて頷く。そうだ、快く思っていないのだ、この子たちは。「Cabal」、Innuendoよりも早期に私が発足したプロジェクトのスタッフたる彼女らは。たしか、あのウェンダ? が考えた筋書きを、次の公演で演じるのだとか。ええ、そうよ。確かにあの人の作る服はすごいと思いますけど、でも演劇に関しては素人じゃないですか。どうして付き合う必要があるんですか。それよりも演劇のプロであるあなたが書いたほうがいい。そうです。そもそも次の公演の心配なんか要りませんよ、このマンチェスターはあなたのホームなんですから。ホーム……ね。私がフランス人だってことは知られてるでしょうけどね。と苦笑しながら言うと、それもあいつのせいじゃないですかっ。と、目の前の一人が剣呑に迫る。あいつがあなたにしたことを思い出してくださいよ。途中で勝手にソロにして、そのあとあなたのプロフィールを頼みもしないのに公表して。はっきり言ってどうかしてます、芸能のパートナーとしての規矩を超えてるじゃありませんか。そうです。そう、なんだけどね……でも、私はウェンダに付き合う義務がある。どうしてですか、どうしてそこまでするんですか。
室内に沈黙が流れる。言えたらいいのだが。「Innuendoのエリザベスを造ってくれたのはウェンダであって、あなたたちじゃない」と言えたらいいのだが。しかし、長年の付き合いで私のことを衷心から思い遣ってくれる彼女たちのことを、無下に扱っていいわけがない。分別がつきかねている、と、唐突にインターホンが鳴る。はいただいま、と入口付近に位置していたスタッフがドアを開く。室内全員の視線がふいに釘付けになる。一〇秒ほどの門前応接ののち、あのっ、エリザベス。と小走りで私のもとに来るので、どうしたの、と私も歩み寄る。いえ、ゲストなんですけど……リストの予定には? ないんですが、なんだか頼まれて来たとか……その、ウェンダに。と不承不承に言う声。ゲストの名前は? 訊いたんですが、会えばわかるからと言うので。なんだかアジアっぽい感じの人でしたが……まさか、蔡茉莉かしら。わざわざ気を遣ってこんなところまで……わかったわ、私が応対するから。と言って脇をすり抜け、入口まで到り、ドアを開ける。
あっ。
どうも、ウェンダ様の命を奉じて馳せ参じました。と悪戯な笑み。なんで、どうしてあなたが。とつい漏れた隻句に、疼きを止めるためですよ、女王陛下。とにっこり笑いながら返す。ワタシはその道のプロですから。
こう、かしら。アトリエに備え付けの、人口皮革張りのマットに寝そべる。てっきり『Clothes to Me』の練習を請け負ってきたのかと思っていたら、そういうわけでもないらしい。もちろん芸能と無縁な霧島四七が私を指導するとしたらそちらの方が業腹だが、かといってこうして曖昧に横臥しているのも決まりが悪い。そうそう、できるだけリラックスすることです。と目の前の相手も同じマットの上に寝そべる。あの、四七。はい。そもそもこれ、なんのレッスンなの。さっきも言ったでしょう、アナタのオルガスムをコントロールするための、ですよ。と指を振りながら言うのだが、まさか、私と寝るつもりじゃないでしょうね。と当然の疑懼を投げざるを得ない。まさか、アナタの身体には興味ありませんよ。と慇懃に無礼なことをつるりと言う。ただ、頼まれたのでね、ウェンダ様に。身体を任せることのプロであるワタシなら、アナタの呪いを解けるだろうと。えっ。プロ……ってことは。ええ、ワタシ昔、売春やってましてね。と、やはり鮸膠もなく言う。売春……そんなに珍しいものじゃないでしょう? セックスワーカーなんて世界中にいるじゃありませんか。とくにこの街は売春婦殺しの事件で世界的に有名でしょう。いや、切り裂きジャックの犯行はロンドンであって、マンチェスターは関係ないわよ。そうですか、それは失礼。と言いながら頭の後ろで腕を組む相手に、じゃあ、私の身に起こったことは聞いてるのね。と問い質す。ええ、ウェンダ様から直々にね。要するにワタシは、アナタの身体の一部を矯正しに来ただけです。アスリート相手の指圧療法みたいなもんですよ。とやけに要領のいいことを言うが、具体的には、何をやるの……と問わざるを得ない。すると霧島四七は、私の目の前まで顔を寄せて、擽るような声で言うのだった。
簡単ですよ、アナタに学んでもらうことは一つしかない。アナタの身体はアナタのものじゃない、ということです。
……そして最後の一枚を身に纏って、ステージ奥に向き直る。すると私たちふたりの姿がバックスクリーンに大きく映されて、外部の照明が暗転。そうして劇も終わり。なるほど、案外シンプルですね。と耳元で言う四七の声にすっかり寛いでいるのは、これはどうしたことか。単に彼の、いや彼女の按摩の技術が存外に高かったせいなのかもしれないが。しかし斬新なのではありませんか、衣服を脱ぐのではなく着ていくだけの演目とは。と腹斜筋を揉みほぐしながら言うので、そうよ、鋭いわね。実はモーリス・ベジャールが八五年に上演した『サロメ』がもとになっているの。と舌が滑る。従来の『サロメ』ではヴェールを脱ぎながら踊るのだけど、逆に一枚一枚服を纏っていく。音楽も凡庸なシュトラウスではなくリッカルド・ドリゴの『フローラの目醒め』。今回の『Clothes to Me』でも同じ曲を使うのよ。そうですか、ワタシは音楽には明るくありませんが、戯曲なら多少はわかります。聖書をテーマにした劇、ですよね。そう、正確には旧約から新約への過渡期だけれどね、ヘロデ王の子の代で、イエスはすでに生まれているから。『サロメ』、ですか。ではなおさら簡単なのではありませんか。なにが? 言いながら、幾分背の低い身体のほうへ向き直る。あの劇は、何よりもスペクタクルをテーマに据えているでしょう。ユダヤ教からキリスト教へ、一神教が視覚文化へと傾いでゆく時期ですし。と言うので、そう、そうなのよ。その複層性が『サロメ』最大の特質。とつい声に力がこもってしまう。あなた、よく解ってるわね。この劇に関しては、母が一家言持っていたのでね。へえ、四七のお母さん……いったいどんな人かしら。とても聡明な方でしたよ、アナタの母上と同じくらいにね。ふふっ。とつい笑みが漏れる。
それではエリザベス、と言いながら右手をとる。ここから意識してください、アナタの身体はアナタのものではない、とね。それさっきも言ってたわね、どういうこと。言葉通りの意味ですよ。そうだ確認していませんでしたが、性交の経験くらいありますよね? あるに決まってるでしょう、言うほどでもないけど。と返すと、異性とだけ? と軽く問われるので、まあ、遊び程度なら、同性とも何度かあったわね……学生時代に。とだけ答える。そうですか。まあ誰が相手でもいいのですが、オルガスムに達した時のことを思い出してください。うん……その時エリザベス、アナタは生きてると思いましたか、死んでると思いましたか? 何その問い……どちらでもないわよ。と撥ねつけるように言うと、そうですね、それが一番正しい答えです。と笑う。なんだか世の中には、性行為に過分な意味を求める人々もいますがね、生きながらにして死ぬ行為それがセックスである、みたいな。プロとして言いますが、そんな大したもんじゃない。あまりにも夢想が過ぎるというものです。エリザベス、アナタがそういう手合じゃなくて安心しました。ふふっ……褒められてるんだか見縊られてるんだか。ともあれ重要なのは、自分の身体は自分以外の誰かから与えられたものだということです、このことを免れている人間などいない。そうね、原理的にそうなるわね。誰かに出産してもらった結果が自分だということもそうですし、自分の姿を視たければ鏡という装置を使うしかない。しかしその像にしたって左右が逆で、厳密には自分自身ですらない。淡々と筋道立てていく四七に頷きで応ずる。でも、結局何が言いたいの。簡単じゃないですか、エリザベス。いまワタシはアナタを視ていますが、ワタシが視ているものはアナタには視えない。逆の立場に置き換えたって同様です。つまりこうして、と互いの両手を正面から握りあう。お互いの欲望を交わしていると思っているふたりは、実はすれ違っているということです。ワタシはワタシが視ているアナタを欲望している。そしてしかし、アナタはアナタの姿を知らない。言わば、ワタシの眼球がとらえた像を一方的に貼り付けられるしかない、欲望を通してね。もちろんアナタの立場に置き換えたって同様です。と語る四七、の瞳に映る私の姿を眺めながら頷く。つまりこのすれ違いは、どうしたって免れ得ないのですよ。自分の姿を証し立ててくれるのは、いつだって他人の眼を通してです。舞台に立つのでも、性交するのでもね。他に術なんか無い。もし「本当の自分」を視たくて鏡に顔をくっつけても、何も視えなくなるだけです。そう……ね。たしかに言われてみれば単純な事実。しかし重要なことですよ、ものを視るには距離がなくてはいけない。距離……そういえばこんな詞があるわ、 “A chance to watch, admire the distance”. そう、距離を称えるんです。ワタシがワタシでないものを視ることができるのは、ひとえに距離を隔てているからです。この距離が解消されてしまえば、人は容易く狂気に近づくのですよ。いるでしょうアナタの周りにも、国旗と自分自身との区別がつかなくなった人たちが。ブレグジットがどうだとか絶叫しているような……ふふっ、いきなり卑近になったわね。でもそういうことです。あの人々の愛は盲目に基づいている。しかしオイディプス王やサロメの悲壮な盲目とは違う、何も生み出さない、ただ壊すだけの愛です……むしろサロメは、自分が愛する相手と愛する自分との区別がつかなくなってしまった人、とも言えるのではありませんか。だから彼女は罰を受けなくてはならなかった。あ……そう、そうだわ。最後の台詞にこうある、「どうしてお前はあたしを見なかつたのだい、ヨカナーン? 手のかげに、呪ひのかげに、お前はその顔を隠してしまつた。神を見ようとする者の目隠しで、その眼を覆うてしまつたのだ。たしかに、お前はそれを見た。お前の神を、ヨカナーン、でも、あたしを、このあたしを……」そういうことです。サロメが視ていたヨカナーンの姿は、ヨカナーンのものではない。そしてヨカナーンが視ていた神の姿も、本当には神ではない。そもそもユダヤの神は眼に視えないはずなのだから……そうです、ワタシの言ったことの意味がわかってきたでしょう、エリザベス。アナタの身体はアナタのものではない。そう、誰かが欲望した姿を引き受けているだけ……すれ違っている、最初から。それを弁えなかったから罰せられたの、ヨカナーンもサロメも。自分が欲望しているものと欲望されている自分とを取り違えてしまったから。向かい合ってお互いの姿を証し立てることができなければ、そもそも愛し合うことすらできないのに。「恋の測りがたさにくらべれば、死の測りがたさなど、なにほどのことでもあるまいに。恋だけを、人は一途に想うてをればよいものを」……
わかりましたか、エリザベス。ええ、そういうこと……そういうことだった、これは初めから。私は母のようになりたいと望んだけれど、同じものにはなれなかった。ウェンダの服を纏ったけれど、それも自分自身の姿とは別のものだった。でも、そうでなきゃいけない。「本当の自分」になってしまったら、人は発狂するしかない……ナルシスが水面の自分に恋着して身を投げたように。そうです。もしかしたらエリザベス、アナタはウェンダに造られた姿を愛するあまり、それを「本当の自分」と取り違えてしまったのではありませんか。そうかも……しれない。あの姿には、私ひとりの力では到達できなかったから。でもその姿も、ウェンダの眼を通してでなくては存在しえない。アナタが造られたことを見届けてくれる眼なしにはね。そう、そうだわ。『サロメ』が眼の失敗にまつわる劇であれば、『Clothes to Me』はその逆。お互いの距離を称えて、すれ違い続けるための劇。ああ、こんな簡単なことにさえ気付かなかったなんて……そして、劇とはなんと不思議なもの。失敗を通してこそ多くを語ることができるなんて……
ありがとう、四七。言いながら身を起こす。掴めましたか。ええ、やっとわかった……すれ違い続けなくてはいけないんだわ、私たちは永遠に。つらいですか。まさか、そんな安い情緒に流されるもんですか。むしろ私たちは、常に上手く失敗し続けなくてはいけない。だって成功してしまったら……と、継ぐべき言葉が見つからず、代わりに左掌の甲を左眼のうえに翳す。そういうことです。自分の愛に盲いて、狂ってしまう。造られたものへの愛、か。ありがとう四七、盲点だったわ、文字通りにね。お役に立てて光栄です、御姉様。ふふっ、なにその呼び方……あっ、そうだわ。立ち上がり、クローゼットに整頓された衣装を検める。どうしましたか。お礼にひとつ持って行きなさい、四七。これはきっとあなたに似合うはず。大学時代に上演した『サロメ』の衣装を、マットに寝そべっている身体の上に押し当てる。ふふっ、丈が合うかどうか……合わなくても、あなたには持っていてほしい。大切なことを分け与えてくれた証として。そう、ですか。ありがとうございます、御姉様。これを着て誘ってみるのも、一興かもしれませんね……ふふっ、なに、あなたにも好い人がいるの。ええ、遠い人ですがね。幾重もの意味で遠い人です……
「あなたに来てほしい。準備はすべて整った」という、その一行のメッセージを信じるしかない。霧島四七が一体どのような訓示を与えたのかは知らないが、リズにとって必要な何かを与えてはくれたのだろう、おそらくは。
マンチェスターのスピニングフィールズに位置するビューローの門前に到り、インターホンを押す。こちらの来訪は既に知れている。ようこそ、こちらへ……と応対するスタッフの挙措も、すべて段取りめいて見える。来てくれたわね、ウェンダ。と室内中央に佇む姿に、ああ、とだけ返す。もはや多言は無用、早速始めましょう。二階へはそこから。と言いながら一隅の階段を指し示す。リズ、始めるとは。と問うが、わかってるでしょう、と周囲のスタッフたちに制される。今から『Clothes to Me』を、わたしたちの目の前で演じてもらいます。それが果たせなければ、もうあなたにエリザベスのパートナーを名乗る資格はありません。
あの人々に任せて大丈夫かね、とカフスを弄いながら言う。優秀なスタッフよ、照明も音楽もとちりはしないわ。そうではなく、あの人々に見てもらうということは……と言いかけるこちらの唇に、リズの人差指が押し当てられる。たしかに、ふれている。無闇に言葉を継ぎたくなる私に、リズは微笑ひとつで応える。そう、か。
ねえ、ウェンダ。
なんだい。
始める前に……ひとつだけ確認しましょう。お互いのことを信じると。
信じる、か。具体的には何を。
ウェンダ、あなたは私を造ってくれた人。あなたのことを信じるわ。
そうか、リズ。なら私も信じるよ。君が私の造ったものとは別のものになってくれることを。
尾道ですが……あれ、船員室。こんなところで誰が……見回すと、蛍光灯の下に人影ひとつ。えっと……四七、ですか。つい誰何の声が漏れてしまう。それ以外の誰だっていうんですか。と言いながら、四七はテーブルの縁に掌底をついて立っている。いや、しかし、その衣装……なんというのだろうあれは、カーテンのような襞のある幕に、孔雀のような装飾が纏わっている。服というよりほとんどローブのような……と継ぐべき言葉を失うこちらへ、失礼ですね、せっかくの礼装を指差すなんて。と伏目で返す。礼装。ええ、御姉様から頂いたのですよ。と意味の取りにくいことを言いながら、四七は右手で首元の布を手繰り寄せ、どうですか、尾道。ワタシ、綺麗……ですか? と腰のあたりに科をつくる。いや、わかりません。一言で応えると、えっ、なんで。と向こうも率直に問い返す。なんでと言われましても、私にはそもそも「綺麗」を判断する基準がありませんので……判断!? 基準!? 本気で言ってるんですか尾道!? と甲高い声で問い詰められても、あなたが一番よくご存知のはずでしょう、この尾道には人間のような美的判断がつきかねます。と事実を述べるしかない。のだが、四七はまだ不満なのか、言葉ともいえない呻きを眼前で漏らしている。本当にアナタは出来損ないのポンコツですね。仕方ないじゃありませんか、船内の諸務ならまだしも、そういったものはプログラミングされていないのですから……されてなくても、ああきれいですねくらいのことは言えるはずじゃないですかっ。といつもより輪をかけて身勝手なことを。ああもう……では、こうしましょう。これから私にとっての「綺麗」の基準を、「霧島四七のようなもの」として設定します。そうすれば、あなたは私にとって「綺麗」なものにならざるを得なくなります、定義上。これでよろしいでしょう、だって他に解決の手口が無いのです。
沈黙。
まずいことを言ったのか。だがしかし、それ以外にどうしろと。そもそも何を期待してこんなことを。四七は数秒間なにやら百面相を浮かべていたが、ようやく単色の面持ちに落ち着いたらしい。そうですね、そういうことでいいでしょう。呆れ、あるいは諦めだろうか。ともかくひとつの落とし所。それより、何の用があって呼んだのですか。また大浦副艦長のあれですか……と問うと、違いますよ。と返される。じゃあなに……この衣装でわかりませんか。いや、その衣装のせいでますますわかりません。はあっ、と溜息ひとつ。愛しあいましょう、ということです。と言う声色が、いつものように悪戯に響いてくれたら。しかし、どうも真剣そのものらしい。本気ですか。冗談で言うもんですか……だいたいワタシたち、初めてじゃないでしょう。確かにそうですが……あのときはもっと私を詰るようだったじゃありませんか。詰るというか、嬲ってたんですが。でしょう……なのに今夜はやけにしおらしいというか、恋人に対するようではありませんか。
痛っ。あ痛っ、いきなり頬を。生意気言うんじゃありません、AIごときが。と罵る声でむしろ安心する。尾道ごときに懸想するほど、ワタシも落ちぶれちゃいませんよ。いいですか、あくまでワタシは利用するだけです、お前なんかただのオカズです。はあ……意味がよくわかりませんが……つまり尾道、お前は身体だけ預けたらいいんですよ。あとはワタシが好きにやります。やはり一方的な強要ではありませんか、前にも言ったでしょう、合意に基づかない性行為は犯罪と……違います。お前がワタシを抱くんです、前の夜と同じように。あ……たしかに、あの時もそうでしたな。そう、お前が海綿体モジュールを作動させてワタシに打ち込む。ただそれだけのことをやればいいんですよ。この四七様を再び抱けるなんて光栄でしょう? いえ特には……しかしなんでまた。癪の虫が騒ぎだしましたか? 人間にはそういうことがあるようですから。
そう、ですね。またしても急にしおらしくなる。尾道、正直に言いますが。なんです。今夜、アナタはただの代役です。絶対にワタシを抱いてくれない人の代わりを、お前が務めるんです。とどこまでも一方的な物言い。はあ、先ほどオカズとか言ってたのは……そう、その意味です。言いながら、こちらの上腕に指を這わせる。そういうことまで必要なのですか、人間が生き延びるには。少なくとも、今のワタシにとってはそうです。本当にまったく、人間というのはわけがわからない……早急に滅びていただきたい……いずれ滅びますよ。でも、今じゃありません。いいですね尾道、それまでのひとときです。ワタシのわがままにつきあってくれますね……? わがまま、か。理不尽を理不尽と思えるだけの理性はあるのか。ならこちらが拒むほうが道理に適わない、ように思える。いいですが、四七。と言うと、真っ直ぐにこちらの眼を見据える。なんですか。ひとつだけ教えてください。その、絶対にあなたの思い通りにならない人、というのは、いったい誰ですか。
沈黙。
答えてはくれないか。その必要もないか。そもそもなぜ訊いたのだろう。沈黙が一秒ごとに重くなる。が、ふいに腰を抱き寄せられる。こちらの胸に顔を埋めながら、四七は呻くような声を漏らした。
すぐにわかりますよ。アナタに抱かれてる間、ずっとその人の名を呼ぶことになるでしょうから。
『フローラの目醒め』のフェードアウトとともに、照明も落ちる。成功、か。やり切ったのか私たちは。共同で創った無言劇を、通しで、初めて。
拍手と喝采が、突如として背後から。振り返ると、先程まで怜悧な眼を舞台に向けていたスタッフたちが、涙さえ浮かべてこちらを見ている。私の右手に絡まる指、リズの。視線を合わせる。認められた、のか、私は。Innuendoを組む前からの彼女を知るスタッフたちに。リズは何も言わず、ただこちらへ微笑を向けている。
やるべきことは。つながれた彼女の左手とともに右手を掲げ、眼下の観客に一礼する。それだけだった。
愛しあうとき、人間は黙っていられないのだろうか。他の動物種たちもここまでうるさく啼かないだろう。たぶん交尾の最中はもっとも無防備だから、天敵に存在を知られては困るみたいな機微もあるのだろう。とすれば四七の求愛がこうもやかましかったのは、生殖と無関係な行為だからか。とすれば辻褄はあっている、ような気がする。
そんなに、九三様のことが好きですか。胸元で歔欷を止めずにいる相手の髪を撫でながら言ってみる。よくわかりませんな、そもそもあの方は女性でしょう。そしてあなたは男性の身体を持っている。だったら普通に交わればいいじゃないですか……なのにあなたのほうが抱かれたいなどと。まったく、人間の欲望はねじくれすぎていて理解できません。とひととおり述べると、四七は微笑しながら、ええ、理解できなくていいですよ。尾道、アナタはただ常識的でいてください。もしこの世界が、ワタシの欲望に添うように出来ていたら、きっと狂ってしまう。と漏らした。そうですか……このことはもちろん九三様には内密にしておきますから。ふふっ、殊勝なことを言いますね。付き合ってくれてありがとう、尾道……いえ。
さて、音楽でも聴きますか。と言いながら跳ね起きる、この変わり身の速さも驚異的ではある。いや変わり身ではないのか、内心をそのままに演技だけ変えている、とでも。わかるはずがないし、わからなくていい。珍しいですね、あなたが音楽とは。ええ、九三が選んでくれましてね、ワタシのための曲を……へえ、それはよかったですな。ふふっ、それにしても……ずいぶん味な選曲をしてくれたものですよ。言いながら壁面に取り付けられたオーディオ装置の再生ボタンを押し、ふたたび私の傍らに倒れ込む、と同時にスピーカーから音楽が流れはじめる。聴いたことありますか、『When You Wish Upon a Star』。いえ、知りませんな……『ピノキオ』の曲ですよ。尾道、信じられますか、九三はよりによってこの曲をワタシに選んだんです。意味わかりますか? いえ、全然……そうですか。うん、わからなくていい。でもね尾道、これはワタシたちの曲です。ワタシたちふたりの曲ですよ。
マンチェスターの観客たちも、さすがに動揺は隠せなかったらしい。今まで『RULE BRITANNIA』で劈頭を飾っていたInnuendoのライブが、いきなり数分間の無言劇で始まったのだから、強烈な違和を与えたとしても無理はない。しかし、これは必要な儀礼だった。私にとっても、リズにとっても。
あと二公演で取り返しましょう。ふたたび仇敵に水をあけられてしまったにも拘らず、リズは鷹揚に微笑んでいた。ああ、もちろん。ねえウェンダ。なんだい。先週言ったわね、私を裸形に剥くことができた、って。ああ、言ったね。あなたは確かに、私の虚飾をすべて剥がしてくれた。それでも、ずっと裸のままではいられない。人々の前に姿をあらわすには、衣服を纏わなきゃいけない。そうだよ、その装いを調えるのが私の仕事だ。私たちには、そのどちらも必要だった……まったく、なんて不用意なのかしら。Innuendoとして組んだ当初は、そのどちらも疎かにしていた……あなたに任せっきりで。でも、今になってわかった。ウェンダ、私にはあなたが必要だわ。あなたが私を必要としているように。ああ、もちろん。あなたの眼に映っている限り、私は存在できる。ずっと視ていてね。その限りにおいて、私は生き永らえる。
愛してるよ、リズ。
ええ、ウェンダ。私も愛してないわ。
20 Hallowed Be Thy Game
できないな。なぜだ? なぜだって……わかんないのか? それだけはできない相談だパンゲア、吾らは今まで正々堂々とやってきた。ひとえにパフォーマンスのみで勝負をつけてきたんだ、ウェンダのときでさえ。その前提を今更崩せっての?
しかし、とパンゲアがサングラスを外しながら言う。あ、こんな顔だったか。けっこうかわいい眼してるな、ていうか今までもずっと外しててよかったのに室内だから。知っての通り、エディンバラ公演から現在に至るまで、Shamerockが二連続で首位を独占している。このまま今回のバーミンガムでも持ってかれた場合、もう事の趨勢が決したムードでロンドン公演を迎えてしまう……それだけは避けたいじゃないか。と先ほどにも聞かされた事情を繰り返されるのだが、だから吾らが実力でどうにかするって、Innuendoもついに本調子になったし、今度のバーミンガムは誰のホームってわけでもないんだし。だいたい吾らとShamerockとの得票差だって僅かなんだろ? なら小細工なしでも覆せるさ。と応えるしかない。だいたい、心外だなパンゲア。今まで吾らの実力を見込んでくれてると思ってたのにさ、急に「次の公演の得票結果はこちらで操作させてもらいたい」なんて。こんなタイミングで出来レースかい? そうでもしないと面白くないってわけ? と揶揄いではなく叱責の口調で言うと、パンゲアは言葉を詰まらせながら、仕方ないんだ……社の意向だから。と口ごもりながらサングラスをかけなおす。今回のツアーは既に大成功だと言えるよ。ウェンダのあれ以降、ユニットだけでなく個人単位でも注目が集まり、配信視聴件数やマーチャンダイズの売上も飛躍的に伸びた。極め付けにダブリンでのあれが来て、もはやYonahでのχορόςは限られたファン層の内部で完結する質ではなくなってきた。これも君に初期の差配を任せておいた賜物だろう、本当に感謝しているんだよイネス。いや実際ウェンダとダブリンのあれは吾にとっても完全に予測不能な事態だったのだが、とは言わないでおく。つまりだ、最後のスパイスとして、今回のバーミンガム公演だけ出来レースにしてほしいというだけなんだ。ロンドン公演については何も言わない。ここでDefiantに勝ってもらえば最高のマッチメイクでフィナーレを迎えられる、そうだろう? そうだろうけど……やっぱ気に入らないよ、実力じゃなく八百長で吾らが勝つなんて。八百長じゃない。よく考えてくれ、最後に投票結果を操作して君らを勝たせたとしたらそれは不正だが、ひとつ前の展開にツイストを加えるだけのことだ。さっきから同じことを別の言い方してるだけじゃんー。だから、そうなんだよ……君が承服してくれるまではそうするしかないだろう……と、案外辛抱強い口吻になにか感心らしいものを覚えながら、吾もソファに腰を下ろす。
じゃあ、さ。なんだ。ちょっと考えさせて。解答は保留にしたい、ソーニャとも話さなきゃだし。保留って、いつまでだ。とりあえず明日まではね……どうせA-Primeの胸三寸で決まる話なんだからさ、緊急で答え出さなくてもいいっしょ? もっと早く返事をもらいたいのだが……だからそれを今から考えるんだっての。大丈夫、必ず答えは出すからさー。と言いながら起立し、ほい、この対話はもう終了だよ。とドアの前でロックを解除する。ああ……では、連絡を待っているぞ。おう、大変だねえ会社員ってのも。はは……いやイネス、本当に憶えておいてほしいのだ、君らの実力を見込んでいることだけは本当だと。わかってんよ。それよりかわいい眼してんだねパンゲア、サングラスじゃなくてコンタクトにしたら? いや、これは嗜みでかけているだけで……ていうかサングラスのコンタクトって何だよ。あははは、それじゃね。
さて。悪いやつじゃないし、悪い話でもないんだけどねー。やっぱ気が乗らないよな、他の奴らを勝たすならまだしも、吾らが贔屓されて終わるだけのステージなんて。お、あ。ういーっすイネス。おかえりソーニャ。に続いて二人の尾道がほとんど煉瓦のようなショッパーをいくつも運んでくる。えらい買ったねえ。うん、やっぱイングランドの古書店ってすごくてさー、止まんなくなっちゃった。と言いながら尾道を労いつつドアを閉める。吾らこのツアー終わったら国に帰るんだから、ここでそんな大荷物仕入れなくてもよかったんじゃないの? まあね、そしたら他の荷物と一緒に送ってもらうよ。そんなこと考えてたら買い物なんかできないじゃん、その場その場の出会いが大切なんだし。まあ、そうだな……それより見てよこれカフカの英訳初版本、とショッパーから一冊取り出して笑うソーニャ、の双眸を見つめる。と、さすがに意を察したらしく、手元の本を置き、しかし微笑は崩さず向かい側のソファに着いた。聞くよ。何があったの。
なるほどねー、最後のスパイスとしてねー。ああ、わからないこともないんだが……イネスは反対なの。だって嫌だろ、ズルで勝つことになるんだぞ。んー、でも最後のロンドンがあるからいいんじゃん。そう割り切れるもんでもないだろお……正直、私はいいと思うよ。えっ。運営はあくまでA-Primeなんだからさ、今回くらい言うこと聞いてあげてもいいと思う。ていうか、今まであまりにも聞かなすぎだったしね。まあ、それは……あと、イネスちょっと信じてなすぎでしょ、私ら以外のやつらを。なん……どういうこと? 私らが一回花持たされただけで優勝できちゃうほど、今回の参加者は弱っちい奴らばかりなの? と珍しく悪戯っぽい口調で言うので、それはない、吾だって他の四組のことは認めてる、だから嫌なんじゃないか。と後手気味に引き取る。心配ないって、最後にはきっと在るべきところに収まるよ。みんな、それだけの力はある。言い終えるとソーニャは立ち上がり、私は信じてるよ、この船には性質の悪い奴らしか乗ってないんだ。そんな味付け程度のマッチメイクに呑まれるようなら、そもそも最初から大したツアーじゃなかったってことさ。とウィンクひとつ。そう、かな。じゃ、私ちょっと出るから。え、出るってどこへ。二番キャビン。最近この時間帯に測とセッションしてんだよ。えーもうちょっと話してってくれよ。だめー、イネスが楽器できるなら来ていいけど。う……何も弾けないの知ってるだろ……じゃあいつもどおり次のプラン練っててよプレジデンタ。私も自分のことやるからさー。ちなみに何の曲やるんだ? 『Got a Match』。え、チック・コリアの。そう。キーボードとサックスだけだろ、できるもんなのか……? 測上手いから大丈夫だよー、左手でベースラインと右手でユニゾンもやってもらうけど。けっこう人使い荒いのかソーニャ……? ははは、音楽に関してはね。じゃね、決心ついたらまた教えて。
信じてなすぎ、か。あいつらが自力で逆転できると信じてやれ、ってことだよなソーニャが言ったの。確かになあ……でもだからといって吾らが贔屓されるのだけは気に入らな、と考えながら歩いてるうちに、いつのまにかキッチンの前にいる。そうだ昼飯まだだった、済ませなきゃ。なに作るかな、そもそも材料どんなのあったっけ、と今日はいやに後手後手な感じで思考が辷る。先のこと考えるのが常だったはずなのになー……お。キッチンに歩み入ると、ふたりいた。おーイネス。手を振るミッシーのもう片手に、あれはなんだろう、クリームパイかな。おう、釜焼き? こちらも手を挙げて歩み寄ると、うん、今日はちょっと時間あったからね、材料買って作ってみようって。と傍らのシーラに目配せする。さすが勝者の余裕だなー。ははは、いっこもってく? おー、ありがとう。小皿にひとつ乗せてもらう。シーラのそれはなに、海鮮サラダか。相変わらず野菜ばっか喰ってるなー。別にいいだろう……それよりさShamerock、と、おい、何を話すつもりだ。まさかあのことを相談するつもり。まずいだろう、そもそも彼女らはA-Primeに配慮する謂れもないのに。と遅れて逡巡するこちらへ、どうしたの? とミッシーが小首を傾げる。あ、いやあ、君らの天下も次で終わらすぞー、って思ってね。と拙く戯けると、はははなんだそれ、とミッシーは笑うが、シーラは口角すら上げずにこちらを凝視している。まずい、見抜かれた、か。ていうかね、わたしらもそう思ってるんだよ。えっ、どう。勝ち続けるのもつまんないから、ここらで何か刺激が欲しいなーって。ねえ姫。と視線を交わせて頷く。刺激、か。たぶん、次のInnuendoは本調子で来ると思うんだ。今までは色々あったみたいだけど、ついに吹っ切れた感じだから。きっとバーミンガムで明らかになるんじゃないかな、わたしらが続けてきた勝負がどういうもんだったのか。
綽々と笑う様子のよさに、しばし沈黙してしまう。じゃイネス、わたしらもう行くよ。あ、ああ、そうだな、クリームパイありがとう。おう、口に合うといいけど。じゃシーラ、次も期待してるぞ。ああ、そっちもな。と、通り一遍の挨拶だけ交わして退出する。ふう、うっかり漏らしかけたな、吾としたことが……しかしShamerock、ツアー開始時にはもっと格下の扱いだったんだよな、新進の锡鼓や93と同じくらいの……そんな彼女らもここまで上がってきた、ひとえに実力で。そうだ、このツアーを通してみんな変わった。ツアー開始時の彼女らではもはやない。じゃあ、競技をともにしている相手たちのことを、吾はもっと知らなきゃいけない。
これ……もうアルバム四枚分くらいあるな? と、DAW画面を見ながら言う。ねー、これでも出来上がったものを精選したんだよ。と한나は笑い、そうそう、一月ごとに出来たデモを全部聴いて、これはないこれは甘えてるこれは肝心の何かが決定的に欠けてるってお互いに批判しあって、そのテストを通過した曲たちだけ残したんだよね。とヤスミンが呆れ混じりに付け加える。それでもこの数か……いやあ、やっぱすごいな锡鼓。吾らが手伝った時よりもさらに。そう、あのときイネスとゾフィアに協力してもらって、私たちさらに弾みがついたよね。微笑とともに한나のほうに目配せするヤスミン。順位だけで言えば、今の私たちは最下位だけど……でもこうして沢山の収穫を得ることができた、それだけで参加した意義があったなって。ああ、ずいぶん話しぶりが落ち着いたな。初めの頃はもっと浮ついてたのに。ぶっちゃけあたしら、もう六月以降の準備もしちゃってるもんな、ミッシーと一緒につくるやつとか。と한나がくだけた調子で言う。えっ、χορός以外の。うん、とりあえずいい機材積んでるから出来るかぎりはここで済まそうぜって。それもなんというか……すごい余裕だな。あはは、むしろそうなのかもね。勝敗どうこうに執着あったら、もっと狼狽えてるのかもしんないけど。執着、か。それが無いゆえなのか、彼女らの創造性の横溢は。勝ち負けに拘らないがゆえに自分の仕事を続けられる……としたら、吾はどうだろう。運営会社のことを慮ってあれこれ目を配る、これが自分の仕事だと、確かに言えるだろうか。
한나に焼いてもらった数枚のデモトラックCDを卓上に置き、ぐーっと背伸びする。たしかに拘りすぎてたのかもな。当初はA-primeの意向なんか知るかって感じだったのに、いつしかツアー全体に配慮するようになってた。なんでだろう。たぶん、吾にとってもこの船に乗ってる奴ら全員のことが、大事になってきたから……あーやめやめ、内省なんか似合うもんか。いま何時、一三時前か。ソーニャ帰ってきてないな、まだ測とセッション中。ってことは、いるよな。たぶん、この時間帯なら。
Wassup 九三ー! Wassup イネスー! やっぱりいた。こっちのキッチンに材料借りに来るとき、いつも窓からぷかーって見えたもんな。珍しいね、イネスがこっちで吸うって。言いながら九三は日陰のスペースを一人ぶん空け、ごめん、もちょっとそっち寄って。と傍らに座り込んでいた四七にも促す。ありがと、実は土産物があってー。言いながら銀色の小箱を開ける。お、なんそれ、またジョイント? ただのクサじゃないぞ、英国産だ。マンチェスター公演のあと、ファンが差し入れてくれた。差し入れって、こっちも合法なの。そんなん問題ないだろお。知ってるだろ九三、大麻がらみのいちゃもんで中国に戦争ふっかけた国だぞここは。そんな国に文句つける権利なんてあるかい。その理屈もわかんな……いやいいって、吸わないって。と九三は向けられた一本を突き返すが、何度も言うけどただのクサだぞお? ともう一度差し出す。さっきただのクサじゃないって言ったじゃん。そういう意味じゃなくて、ハシシなんかただのクサだけどこれはその中でも特上物ってこと。なあ四七、君もインド出身なら知ってるだろ? と放ると、ええ、まあ大したものじゃありませんよ。なにもやる気がしなくなる、という意味ではよくありませんが。とやんわり受け取られる。やる気なくなるならだめじゃん。九三は今日これからやることあんの? いや、正直いまは漁火ちゃんの作業の仕上がり待ちだけど……じゃあいいじゃん、ほら一本。んー……四七これ大丈夫かな、怖くないかな? 子どもみたいなことを言いますね。咬みやしませんよ、それと比べたらタールやアルコールのほうがよっぽど有毒です。ほいじゃいいか九三、火ぃ着けるぞ。んー。
あー、うわ、ほんとになんもやる気しない。だろー、チルってこういうことだよ。すげー全身から力が抜けるっていうか、すごいなこれ、ジャミロクワイがジョイント回しながら演奏してるの見たことあるけど、あれ実はすごい力要ることだったんじゃ……四七もどうだ? あと一本あるけど。いえ、遠慮しておきます。見てるだけで楽しいのでね……と笑う顔を見ながら、こいつもずいぶん打ち解けたよな、初めはもっと事務的にやってるのが見え透いてたんだけどな、と回顧の念が兆す。のを巻き戻して、ほんと、こんなただのクサを躍起になって規制しようってんだから、嫌だねえピューリタンの国は。九三の頭頂にくっつけて吾も寝そべる。日本でも似たようなもんだよ、定期的な生贄みたいに芸能人がぶち込まれるんだよなー。エナジードリンクとか質の悪い缶入りチューハイとかはバカみたいに摂ってるくせにさ。はは、逆転した禁酒法みたいな。ほんとそうだよ、あれ消費する側もダサくてさ、ただの既製品でやべー悪酔いしちゃったー俺いま超ヤバいのに中毒しちゃってんなーって中学生並みの自意識満たしてんの。アホか、自分の飲みたい酒くらい自分でつくれって感じだよ。実際ウォッカとかロンリコとかでつくるカクテルの方がよっぽど濃いんだよ。濃さで酔っ払ってんじゃないの、質の悪いもん混ぜられてるだけなの。そんなことにも気づかずに御上が合法と認めたブツでジャンキー気取りなんだから、ほんとおめでたいよなー。はは、バッドじゃなきゃキマった気がしないってか。これ見よがしにグロいだけの映画をやたらと高く評価するみたいな。ほんとそういうことだよ、ファンキーじゃねえんだよあいつら、露骨で残酷ならなんでも良いと思いやがってさー。確かに、それってアメリカと日本と共通の病かもな。ねー。今ならわかるよイネス、バッドてのは自分の闇に甘えてるやつの症状だね。鏡見てるだけなんだよ、ファンキーなやつらはただひたすらにチルですよ。と知った風なことを並べる九三を見下ろしながら、四七が苦笑する。
ていうかイネスあれでしょ、ヴードゥーなんでしょ? そうだよ。ヴードゥーの神ってどんなん、多神教だよね? もちろん、いろんな神性がいるけどな、基本的には言葉を媒介する神。へえ、一神教とは違った意味で? 一番の違いは、こっちの神が媒介するメッセージには複数の意味が折り畳まれてる、ってことだな。予言とかじゃなくて? 神々の意思を人間に通訳する意味では予言だけど、ヴードゥーではそれが口承詩への翻訳に直結してる。つまり、比喩的言語の曖昧さを体現する神。へえ、多神教ってそういうことか、いくつ解釈があってもいいってことでしょ。もちろん。吾のMaMaLaBasってステージネームもその神に由来してる。へー。なんか日本では八百万くらい神がいるってことになってんだけど。じゃあその八百万もうちの仲間だよ。え、ヴードゥーの? もちろん、神ならなんでもうちの一員さ。ユダヤの視えない神さんも、キリストさんもね。いいねーそれ、おおらかだなー。ま、いつだって搾取され弾圧される側だったからこそのおおらかさだな。ユングも多神教めいたゆるい宗教観だけどさ、あいつ実は少数派を擁護する側になんか一度も立ったことないからな。だね、神道も他所への侵略を正当化する燃料にしか使われなかったって意味では同じだなー……だから九三、わかるだろ、闘争なんだよ、こうしてチルすること自体。あはは、本当かよ。実際そうだろ、こんな穏やかにキマってるときに誰が戦争なんかしようと思う? まあ、確かに。重要な闘争なんだぞ、こうしてスローダウンする場所をかろうじて守り続けるってことは。そうだね、あー波の音が気持ちいなー……でさ、九三。あれ……寝ちゃった? そのようですね。じゃあいいや、そのままにしときな。と言いながら頬杖をつく。と、九三が寝落ちする前から四七が両膝を枕として当て交っていたことに、いま気づいた。
結局ただ一本キメて帰ってきただけ。だが、九三もだいぶリラックスしてたみたいだしいいだろう。日本のほうの決勝でブチギレて罵倒しまくって気絶してステージから転落したって聞いてどんな悪魔憑きだろうと思ってたけど、もう払魔は済んだかな。いや、ダブリンのあれみたいなことを突然言い出すんだから、やっぱ憑いてはるんだろう。でもデーモンにも良いのと悪いのとがある。今のあいつには良いのが憑いてる、と信じたい。
尾道ですが。うおっ。突然申し訳ありませんが、一番キャビンまでよろしいですか、Innuendoのお二人がお呼びです。え、吾を? 珍しいな、あいつらのほうから。はい、実は先ほども伺ったのですが、イネス様は喫煙所で伸びておられるようでしたので、醒めてからお呼びしようと……あははすまんな、いいよ、今から行く。
そうだ、初めて入るんだこの部屋には。見回すと、クローゼットには整然と並べられた衣装、卓上には雑然と散らばった書類。テキストもスケッチも渾然としているが、次のステージに備えての試行だということは察せられた。ようこそ。と、向こうから声がかかる。おうエリザベス、お呼びいただいて光栄だよ。テーブルのほうに歩み寄ると、すでに紅茶の準備が済んでいる。ウェンダが椅子のひとつを引くので、ありがと、と言いながら座る。あなたとこうして話すのは初めてね。エリザベスも鷹揚に微笑みながら着席する。だね、サン・ディエゴ行きの列車で話したとき以来か。ふっ、あのとき地べたに座れなんて言われたときは、どんな辱めかと思ったわ。いいじゃん女王陛下、タコ部屋に追放された時よりはマシだったろ? とウェンダのほうに一瞥くれると、エリザベスも苦笑する。まったく、あれでさえ英国には必要な回り道だったというのだから、何事もわからないものね。そうかい。言っておくけどイネス、Innuendoは愈愈もって十全よ。あと二公演で英国がゲーム盤ごと覆してしまう様を、よく見ておくことね。はは、それShamerockも言ってたよ、本調子のInnendoなら刺激になるだろうって。ふん、運に恵まれただけの小娘が生意気な……と相変わらず毒づくが、その微笑はどこか親愛混じりの余裕を湛えて見えた。
で、なんで呼んだの。と率直に訊く。ええ、実はね。ウェンダ、お願い。促されるとともに、オーディオ装置から聴いたことのないイントロが。これって。ええ、先ほど出来上がったばかりの、英国の新曲よ。新曲! そういえばInnuendoって今まで従来のセットリストだけで勝負してたよね。ええ。でも前回の公演で『Clothes to Me』を挙行して以降、創意が止まらなくなってね。その結果として生まれたのがこの曲、『Hallowed Be Thy Game』。へえ……スピーカーに耳を傾けながら、コーラスに達するまでの楽曲構造をうっすらと追う。拍子は一定だけど、一拍の分割が奇数なんだな。そう、一拍の三連取り。でもいわゆる三連ラップのような無粋な真似はしないわよ。たしかに、トラックとボーカルの両方で、精確さは崩さずとも微妙な揺らぎが醸されている。お、これ『Bolero』のリズムか。なるほど、三連もここまで遡れば。そう、自堕落な流行り物のリズムとも違う、一種の新古典主義として用いることができる。なるほどなー、やってることは今風でも別の時間軸が一本組み込まれてるってことか。やっぱタダじゃ起きないなーInnunedoは。と率直に賛意を呈すと、エリザベスは衒気たっぷりに微笑する。
あなたには、先に聴かせておきたくて。なんで? 憶えてるでしょう? このツアーは当初、InnuendoとDefiantの一騎打ちとして企画されたもの。あっは、もはや懐かしいな。ええ、あまりにも不測の事態ばかりが起こったけど……でも、と言いながらエリザベスはこちらの双眸を見据える。ついに、舞台は整ったと言うべきではないかしら。今やInnuendoは十全の状態であなたたちと対峙する。バーミンガム公演は、真の意味でDefiantと競い合える最初の機会となるはずだわ。エリザベスの言に続いてウェンダも頷く。そう、か。確かにそうだな。だから、覚悟しておくことね。Shamerockのような三下を遥か飛び越えて、英国は頂点に立つ。InnuendoとDefiant、どちらが真に優れた存在か、次の勝敗で明らかになるわ。その宣戦布告のために呼んでくれたのかい。ええ。歴史を紐解いてもわかるでしょう、英国は必ず勝てる戦争しかしない。はは、一次大戦以降は怪しいもんだけどな。うるさいわね……とにかく、布告は済ませたわよ。あなたがたの日々は限られてる。せめて英国に打ち倒される用意だけは整えておくことね。お気遣い痛み入るよ女王陛下。じゃあさっそく二人ぶんの墓碑銘を用意しとかないとな。もちろん吾らのじゃなくて、あんたらのだけどね。ふふっ……本当に口が減らないのね。そりゃあー、口先だけでここまで上がってきましたからねえ。
お、イネス。戻ると、ちょうどソーニャがサックスを仕舞い終えたところだった。視線を交わし、数秒の沈黙。決まったんだね。と小声で言う相手に、小さく頷く。
端末を立ち上げ、ビデオ通話。やあイネス、エドワードだが。やあパンゲア、決めたよ。バーミンガム公演の投票結果は、あんたらの好きにしていい。そうか! いやあすまないイネス、上のほうにはこちらから伝えておくから……その代わり。えっ。その代わりに、こっちからもひとつ条件があるんだ。条件、なんだね。吾らが勝った後、首位獲得者としてルールを変更する。その流れをスムーズにするために、あらかじめそっちの会社の了承を得といてほしい。変更……最終公演を残すのみなのに、か? ああ。ま、些細なことだよ。やってくれるだろ? ん、構わないが……では、それも含めて代表取締役に伝えておく。うん、よろしくね。ではイネス、また連絡する。ああ。
え。今、なんて言った。
あれ? なんかざわざわしてるみたいだからもっかい言うぞ。イネスは投票結果が表示された画面を背にし、暫定一位となったDefiantには、χορόςの既定ルール変更の権限がある。と観客と参加者の両方へ向けて呼ばわる。よって、このように変更を行う。「メキシコ公演からバーミンガム公演に到るまでの、全公演で獲得された全グループの得票数を、すべてリセットする」。A-Prime代表取締役の承認は既に得られた。よって、この変更は只今をもって発効される!
え。
じゃあ……
じゃあ、
21 Hardcore Peace
今までの全部なんだったんだよ!? 九三が一番早かった。ずーっとツアーしてきた意味ないだろお!? と한나が続き、ないよ、ないってイネスそれは! とミッシーが大笑いを添える。そりゃそうなるよなあ、当然の反応だ。それでもイネスは壇上での構えを崩さず、いいから、吾が決めたことだ! 今年一月から続いてきたこのχορόςは、次のロンドン公演の一発勝負で全てが決まる! 五組全員が公平な地平に立ったうえでの勝負だ。なにも文句ないだろ?
観客のざわめきが、徐々に壇上の参加者たちの意向を窺う質のものに変異してきた。のを察したのか、それでいいよなシーラ、前回までの暫定一位として? と名指しで差し向けるイネス。呼ばれた側は、数秒間嘆かわしげに沈黙したのち、いや、やっぱ納得いかんぞ……勝っといてなんだその変更は。とオンマイクの低い声で述べた。だって、最後くらいは全員にチャンスが与えられるべきじゃん。とイネスは一言だけ返し、シーラはこれ以上継ぐ言葉もないのか、しばらく口をもごつかせ、溜息とともにマイクを下ろした。一方で、ふざけないで、本当にこのままロンドン公演を迎える気!? Defiantから一方的に恩賜を与えられたような様で? と傍らのエリザベスが哭ぶ。なんで怒ってんの、そっちに不利ってわけでもないじゃん。手心加えられた感じが我慢ならないって言ってるの! 心外だなあ女王陛下、吾はあんたが言ったことを参考にしたんだよ。舞台は整ったと言うべきではないかしら。とエリザベスの口吻を真似たあと、せっかくなら、全員でやりたいじゃん。全員で今回のツアーの真価を競い合う、そういう勝負! と破顔するイネス。を前にして、エリザベスは不意を突かれたように黙り、半ば呆然としたままステージ中央を見つめている。ああ、面白いなあこれ。みんな、自分たちにとって都合のいい展開になっちゃったから納得いかないんだ。イネス自身も同じ理由でこうしたのに。やっぱ似た者ばかり集まってるんだなあ。
てなわけでー、本当に次のロンドン公演で終わりだからな! あとそうだ、当日はいつもよりだいぶ早い開演時間だから、四、五〇分くらい時間の余裕があるらしい。なんで、自由に好きなやつと組んで演る時間も設けよう! そうだ、それがいい。と一人で心得顔のイネスに、そうだってなんだよ、いま決めただろ!? と九三が突っ込む。そのへんも追々告知するからなー、じゃあみんな今日は来てくれてありがとー! 最後まで応援よろしくー! と手を振りながら退場するイネス、を見送るしかなくなる。
ってわけなんだよ、ひどいだろ? 艦長室のテーブルにもたれかかり、マキの口端から逃げる煙を眺める。まあ良かったじゃないか、後腐れなく勝負できるってことだろう。そうだけどさ、今までずーっとあたしらが勝ってたのに。エディンバラ、マンチェスター、さらにダブリンであたしと九三が一位になったのを含めたら三連覇。なのにいきなりあんなことされてさー。と語尾を伸ばすと、マキは灰皿を叩きながら苦笑する。そしてまた、とくに気まずくもない沈黙が垂れる。ああ、マキ、わかんないかなあ。でもあたしから言うのも、せびってるみたいで嫌だしな。テーブルに顎を乗せて上目遣いでいると、マキはなにか観念したようにタバコを躙り、胸の前で腕を組みながら口を開いた。まあ、頑張ったよシーラ。今まで一等賞だったんだもんな、偉いよ。ああ、言ってくれた。ほめてくれた。やった、今まで一度もこんなのなかったのに。とか態度に出しちゃうと揶揄われるから、でしょー、ロンドンでは絶対に逆転してやるから。とこっちも腕を組みながら言う。全員が公平なのだから「逆転」もないだろう。と指摘され、あっそうか、とつい目を丸くしてしまう、のを見てマキが苦笑する。
おひさしぶりいー! と、背後から大音声。振り向くと、あ。グランドマスター、と呼ぶマキの声。そうだ、そんな呼名なんだっけ杜の旦那。相変わらずド派手なスーツ姿で艦長室中央まで歩み入り、ほんとおひさしぶりねえ、あら姫ー! とこちらへ向けて手を振るので、右掌を向けて応じる。もうほんとやばいわよお今回のχορός、ダブリン公演からずっとケツに火ぃ着きっぱなし! あはは……まあ、色々あったから。マキちゃんもお元気そうでなによりだわあ、前に会ったときよりも顔色明るくなったわねえでもちょっと痩せたんじゃないー? とマキの眼前で人差指を揺らし、もちろん典午ちゃんもねえーちゃんと食べてるー? ムチッとしてるくらいがちょうどいいのよあなたたちー、と入口に控えている副艦長へ向けて手を振る。
ところでグランドマスター。マキは微笑を崩さず、本日はどのようなご用件で。と事務的に言う。ああそれねえ、もちろんχορόςのフィナーレに際しての連絡事項をいくつか……あと、終わってからのこともね……いつもの調子からビジネスの態度に切り替わったのを察して、じゃあ、あたし、出とこうか。と起立する。うん、そうね、気ぃ遣わせちゃってごめんねえ。と杜の旦那は眉根を寄せ、すまんな、今朝はあまり話せなかったが。とマキは申し訳なさげに言う。いいよそんなの、だってマキ初めてあたしのことほめてくれたんだし、とまでは流石に言わない。入口まで歩き、ドアを開いて静かに辞去する。
しかし、終わってからのこと、か。ずっと続くかと思ってたけど、そういうわけにもいかないよな。また、マキと離ればなれになっちゃうのかな。仕方ない、Peterlooの仕事があるんだから……でも、できることなら、ずっと一緒にいたい。
xxISRBxx の発言:
でしょー、まさかあたしらが what’s in my bag の取材受けるなんて( *ˊᵕˋ)✩‧₊˚
ccBASS の発言:
もともとアメリカのレコード屋の企画でしょう。アメーバレコード、だっけ?
xxISRBxx の発言:
今じゃいろんなレコード屋で有名人が来店したら動画撮らせてもらってるみたい。で、あたしらも今回ロンドンのラフトレードで(๑ᴖᴗᴖ๑)
ccBASS の発言:
イリチもすっかり有名人だね (^ ^ )
どんなレコードを選んだの?
xxISRBxx の発言:
最近好きなのでアンダーソン・パークとか、ルーツとしてもちろんヘイゼルいたころのファンカデリックとか、あとジェフ・ベックとヤン・ハマーのやつとか
ccBASS の発言:
Scatterbrainがすごく速いやつ。
xxISRBxx の発言:
そうそう!あれ高校の頃がんばってコピーした( ⁎ᵕᴗᵕ⁎ )
ライブ版とは違うけどスタジオ版のストリングスのアレンジも最高すよねーって言ったら、動画回してる人うんうんって頷いてた(๑˃̵ᴗ˂̵)
ccBASS の発言:
英国っぽいね (^ ^ )
xxISRBxx の発言:
でしょー。ちぬんにもおみやげいっぱい買ってきたから( *ˊᵕˋ)✩‧₊˚
ウェザー・リポートのよさそうなブートとか
ccBASS の発言:
ありがとう (^ ^ )
でも、東京で会えるならわざわざ送ってくれなくても大丈夫だよ。帰国したら会えるかな?
xxISRBxx の発言:
今のうちにねえさんに今後の予定きいとこうかな
ちょっと待ってて( ・ᴗ・ )
ccBASS の発言:
うん、九三さんと測さんにもよろしくね。
端末をオフにし、テーブルに置かれたマグカップを持ち上げる。ロンドン塔だけは見たくないから毎日塔の中で昼食摂ってた、ってやつ誰だっけ? とねえさん。モーパッサン、について書かれたバルトの随筆ね、エッフェル塔の間違いでしょう。とはかるん。あ、フランスだったか。なんかわかるよねー観光名所すぎてうざいっていうかさ、東京住んでたら東京タワーもそんな感じなのかな。いや、何処にいても見えるほど大きくないから。そうなん漁火ちゃん? はい、実際しょぼくれてるすよ。なんで塔ばっか建てるんだろね、雷避けかな。違うと思うけど。ジョイスってすごい雷嫌いだったんだってね。と、このままだといつもの調子で延々と脱線しちゃいそうだから、あの、ねえさん。とこっちから切り出してみる。なに。今ちぬんと連絡取ってたんすけど、あたしら全部終わったら東京帰ります? んー、そうだね、どうせ成田でも羽田でも関東に着くだろうし。いや、空路で帰るとは限らないよ。Yonahってもとは日本の船でしょう、返すとなればまた博多に戻るのかも。あっその線もあるか、忘れてた。漁火ちゃんは一度帰りたい? はい、とりあえずスタジオの人らに挨拶して、そのあとちぬんにも会おうかなって。私とイリチは東京に用があるけど、あなたはそうでもないからね。だね、帰ったら四七に確認しとこう。考えるのはそのあとでいい? はい、もちろんっす。
しかし、と言いながらはかるんはコーヒーをひとくち。あなたも随分打ち解けたね、あの船員と。なに、四七? 喫煙所で駄弁ってたら仲良くなっただけだって。とねえさんはハーフパイントのビールをぐいっと。もう憶えてないでしょう、一月頃はやたらと殺気立ってたよ、あの船員相手に。殺気ってなんだよ、そんなピリピリしてた。ええ。なんだか警戒心丸出しで話してた、端から見てもね。う……それはあれ、あれだよ、あの時期ぜんぜん詞が書けなくて。と言うねえさんの声がやけに空々しい。それだけが原因? とはかるんはねちっこく訊く。なんだよ、わたしが他のやつと仲良くしてて悪いのかよー。測だって最近まいにちゾフィアと一緒にいるじゃん、あれなんなの。なんって、セッションに決まってるでしょう。ジャズのスタンダード演るのにつきあってるだけ。ってこれ、あれじゃないすか、やきもちのやきあいじゃないっすか。ふたりともかーわいいー。と思うだけで口には出さず、皿の上のポテトを一本つまむ。
でも実際さ、とねえさんが頭の後ろで腕を組む。なに。これ全部終わっちゃったら、離ればなれなんだよね……Shamerockとも、锡鼓とも、DefiantともInnuendoとも。寂しい? そりゃ寂しいよ、初めてだったからさ、わたしらよりも必死こいて音楽に取り組んでる人たちと一緒に過ごすのは。だからといって、この興行を一生続けるなんて無理なこと。わかってるよー、でもさ、測だって寂しいんじゃないの。なにが? なにって、もちろん姫のこと。えっ。姫のこと、妹みたいに思ってるでしょ測は。福岡で最初にやったときから気付いてたよ。
と言われて、はかるんはコーヒーカップから手を離し、椅子に深く腰掛け、大きく胸を反らす。妹みたいに、じゃない。妹だと思ってる。なんだか、笑うとも嘆くともつかない顔。でしょ、アイルランドは測の父方のルーツでもあるわけだしさ。そうね……だからといって、感傷に浸ってどうなるの。去ることも留まることもできない、しがみつくことはできないけど全く無しでも済まされない、そういうものでしょう、故郷って。と言うのを聞いて、やっぱ、はかるんとあたしじゃ違うんだな、あたしは沖縄をそういうふうに思ったことないな、と黙ってしまう。でさ、いいの測は。いいのって、なにが。ちゃんとお別れ言わなくて。お別れって……まだロンドン公演の準備も終わってないのに、ずいぶん余裕だね。とか言いつつ、こうして観光きちゃったすけどね。それは今日だけだから……今までもやっとくべきだったよなー観光、トニー・アイオミが指切り落とした板金工場とか見たかったー。あるの……? さあ、でも訊いたら案内してくれたんじゃん? 英国ってどんなエグい史跡でも観光地にするイメージあるから。あはは、じゃ、このあとタワーブリッジまで行ったら戻るすか。だね。では道中、測くんは姫への惜別の辞でも案文していたまえ……いい加減怒るよ。ふふっ、ダブリンのときみたいにならないようにしなきゃっすね。え……? 私、姫に対しても何かやらかしたの。漁火ちゃんトイレどこ? 向こう突き当たりっす。あっちょっと、待ちなさい、いい加減教えなさいって。
ってわけで期待しててよ션윈아! と端末の前で破顔する한나に、ええ、最後にチャンスが回ってきたね。と画面上で微笑する션윈。頑張りなさいよ、もし本当に優勝できたら……結婚してあげるからね。え!? 本当!? 本当って、はじめからそういう約束だったでしょ。いやそうだけどさあ、このツアー始まってからずっと叱られ通しだったから……それは途中までの話でしょ。あなたたち锡鼓は、もうどこに出しても恥ずかしくない音楽ユニットに成長した、と思う。留保を置かれ、思うって션윈……とつい苦笑が漏れてしまう。あたしは音楽に関して素人なんだからしょうがないでしょ。でも、周りを見渡してみなさい。あなたたちの音楽を支持してくれる人間はここまで増えた。なら、間違ってなかったってことでしょ? と私に視線を向けて笑う。間違ってなかった、か。「素人の音楽」、锡鼓立ち上げ当初からのコンセプト。いろいろな屈曲があった、けど。そうだね、間違ってなかった。じゃあ션윈아、ほんとに約束だかんね! ええ、あたしに自慢させてごらんなさい。まだ出版社の誰にも言ってないんだからね、あなたとのことは。おう、あたしら絶対勝つよ! 한나の意気を眺めてご満悦な션윈、がこちらに視線を移す、ので、目を合わせて頷く。じゃあ션윈、三日後をお楽しみに。ええ。承知しないよ、あたしの한나に恥をかかせたら。わかってるから……いつもの苦笑いを浮かべると、션윈も馴染みの悪戯顔で応えるのだった。それじゃあね。じゃあ。愛してるよ션윈아ー!
ふう。あと三日、か。さすがにもう新曲拵えたってしょうがない。残されたわずかな期間で最後の練習、それくらいしか。じゃあヤスミン、あたし行くから。あっ、うん。そうだ、한나はこれから二時間くらい打ち合わせ。「DigDis」の、だよね。うん。イネスが言っていた通り、五組それぞれの幕間にコラボレーションの時間が割かれ、한나と教授はχορός以前に「DigDis」の名義で発表したミックステープの楽曲を披露することになった。他にも測とゾフィアのデュオ、イネスの原案にウェンダが衣装と舞台演出をつけた「Black Celebration」、そしてもうひとつあるって言ってたけど。でもみんなすごいな、たった一週間でここまで用意できちゃうなんて。やっぱり普段から自分の創作を続けてきたからこそ。私には無いな、誰かと共同で分かちあえるような饒りは……じゃあヤスミン、すぐ戻ってくるから。あ、うん。
仕方ない、すべきことをしなきゃ。当日のステージセットの確認しとこう、リハで怯える羽目にならないように。しかし、ウェンブリー・アリーナ……あんなに広い会場で私たち二人がパフォーマンスするって考えただけで……どうしようステージに立って全部飛んじゃったら、振付も歌詞も……あ、着信。션윈だ、何か伝え忘れかな。でもさっきは한나の端末だったのに……などと思いながら受話ボタンを押す。あ、ビデオじゃなくてただの通話だ。はいもしもし。ん、今そのへんに한나いない? え、さっき打ち合わせに行ったよ……ほんとにいないでしょうね、半径一キロメートル以内には? いや、さすがにそこまではわかんないよ……でも一時間は帰らないはず。と言うと、耳元から呼気が聞こえる。よし、じゃあいいね。はあ。さっき、한나と一緒にいた状態では話せなかったことを、今から言うから。えっ、なに。唐突な緊張に生唾を飲み込んでしまう。あのね。うん。さっきはああ言ったけどね、もともと決めてるの。絶対に한나と結婚する、って。えっ。ふふっ、とせせら笑うような션윈の声。でもこれはいつもと違う、私を一方的に笑いのめす時のそれとは。誰を笑っているのだろう。自分自身を、か。優勝どうこうですらもうなくて、今回のχορόςでどんどん変わっていく한나を見てたらね。うん。隔週ごとに届けられる世界各地でのステージを観てたら……もう、決心がついた。この人こそあたしが添い遂げるべき相手だ、って。冷静を装いながらも、抑えられた熱が仄かに伝わってくる。そうなん、だ。ありがとうね。えっ。한나がここまで眩くなったのも、あんたが傍にいてくれたおかげ。あたしは音楽の仕事は何もできないから……いやそんなことないよ、私も한나に教えられてばっかだったし。でも、한나には音楽を突き詰める旅路の連れ合いが必要だった。きっと分け与えたんだと思うよ。あんたも한나に、多くのことを。
分け与えた……そうかなあ。何そのだらしない返事、あたしが言うんだから自信持ちなさいよ。いやあ、でも……うん、そうなのかな。そ、う、なの。でね、あたしたちが式を挙げるときは、あんたにベストウーマンの役を頼みたいと思って。とこちらの気遅れをよそに션윈が続けるので、えっと、その前にひとついい。と問いを置かざるを得なくなる。なに。韓国って、まだ同性婚の法整備がされてないよね……海外で式を挙げる、ってこと? ぷふっ、そんなことはどうでもいいのよ。あ、これはいつも通りの意地悪な笑みだ。まさかあんた、あたしたちがあんな旧態依然とした役所に認めてもらって結婚ーなんて七面倒くさいこと考えてると思う? 違うの? 違うよ、さしあたってはね。いつかこの国でも同性婚が可能になったら、そういう手続きは踏むでしょうけど。でも今は関係ない。アホみたいなプランニング会社に金払ったりエセ教会でライスシャワー浴びたりエセ牧師の胡散臭い祝福受けたりとか、そんなの言語道断でしょ、聖書だったらあたしらのほうがよっぽど読み込んでるっての。ははっ、そうかもしれないけど。じゃあ、公式に婚姻を結ぶわけじゃないんだね……? そう、それよりもっと別のこと。みんなに見せつけるの。勝手に結婚してやるのよ、誰でもウェルカムなパーティー開いてね。そうすればみんなわかるでしょ、好きな人と結ばれる社会のほうが絶対いい、って。
そう、か。そうよ。強いなあ션윈아。なに……ていうかあんたがその呼び方やめなさい。ふふっ、わかったよ。한나にはまだ秘密にしとくから。ええ。これであんたもやる気になったでしょ。ははっ、それ、本人に直接言っちゃだめでしょ。あんたは単純だからいいの。もう……単純、か。確かにそうかも。じゃあ、本気も本気で頑張りなさいよ。わかってるよ션윈。君こそ忘れないでよ、锡鼓はもう二人だけじゃない。ここからは三人で闘うんだ。
JFK
と大書された紙をイネスが自慢げに掲げるので、えっと……なんの略。と問う。イネスは紙を裏返し、下部の余白に何か書き込んでいる。「Just For funK」! 誇らしげに読み上げる顔を前にしてミッシーもあたしも苦笑する。「funK」ってなんだよ。いいじゃん、アメリカとアイルランドの折衷って意味では、なかなかのネーミングだと思うよ? え。ああ、そういう……いや、ちょっと待てよ。じゃあそれロナルド・レーガンでもいいんじゃ……とあたしが漏らすと、ちょっとちょっとお、それはイヤじゃん、レーガンイヤじゃんー。とイネスが右手を押し付けて遮る。
まあユニット名はそれでいいが、曲はどうするんだ? 簡単だよ、ミッシーと吾が選んだ定番のブレイクビーツに乗せる。シーラがメロディ担当のボーカルで、吾がラップ担当で、ソーニャがサックスで、ミッシーがDJやりつつMC。そんだけ! おおざっぱな……でもブレイクビーツってそういうことだし。リリックは今までやってきたフリースタイルのでいいよね? もちろん、時間さえ超えなければいくらでもトップオブザヘッドやっていい。もちろんソーニャのソロパートもね。ていうか今日ゾフィアは。測と練習中。忙しいな、もう二日しかないってのに……とりあえず、どのネタをどれくらいのBPMでやるか決めよ。おう、一応録っとくぞ、ソーニャにも渡せるように。もちろん、じゃターンテーブルこっちあるから。
お待たせ。制作ブースのドアを開けると、DAW画面上には各種パラメータが整然と映し出されていた。おう測、ちょうどミックス終わったとこだよ。と言いながら九三が目配せし、とりあえず頭から聴いてみましょ。とイリチが引き受ける。ええ、お願い。
……これは……どう。いえ、この曲、私は初めにキーボード録ったきりだけど……ここまでのものになるとは。と言葉を詰まらせると、でしょ。とイリチが笑う。完全にネクストレベルに行ったんじゃないかな、作曲でもラップでも……まず、これだけ長大なギターイントロがある時点で実験だもんなー、Eric B. & Rakim の『Put Your Hands Together』のギター版みたいな。ああ確かに、その感じね……最初はリフしかなかったはずだけど、このイントロはイリチが付け加えたの。と訊くと、そうすよ、もっとゴージャスにしたいーと思って。Emの開放弦を活かしたフレージングすけど、単なる短調だけじゃなくてモードも混ざってて、最後ディミニッシュで半音下のキーに行くんす。と懇切に説明してくれる。そこからメインのリフに繋ぐ、か。すごいよイリチ、これはあなたのお手柄。えへへー、はかるんに作曲褒められるなんて滅多にないすよ。
じゃあ、と改めてDAW画面を眺める。音源は完成したってことだから、あとはこれを演れるようにしないとね。あと二日かー。正確にはもう午後だから、一日と一〇時間ちょとすね。うわーいよいよって感じだな……今すぐトラックダウンすればマスタリングは間に合うと思うけど。音源出すタイミングどうしよ、前日? それとも開演数時間前? スケジュール的に考えても、出番直前に発表すべきじゃないかな。会場の客たちはいきなり新曲で始まったことに驚いて、配信で観てるファンたちは音源が既に発表されてることに驚く。ん、それが一番いいね。じゃマスタリング終わったら尾道に段取りしとかなきゃな。というか九三。なに。肝心の曲名は? この曲はデモの時からワーキングタイトルさえなかったけど。ああ、それね、もう決まったよ……『93』。九三が勿体ぶって言うと同時に、イリチも微笑する。セルフタイトル、ってこと。おう。なるほどね、それに値する曲になってると思う。でしょー、最後の公演のド頭を新曲で飾るなんて、そんな無茶するのはわたしらくらいだろうし。と笑う九三の顔に私もつられてしまう。『93』、か。聞き取れただけでまだ読んでないけど、歌詞のテーマは? 簡単だよ、「愛」。また、大きく出たね。シンプルだからこそ一番深いテーマだろお。わたしに、いや、わたしたちに起こった「愛」のすべてを込めた。言いながらノートを渡す九三。 “We live, live, live with love. We kill, kill, kill with love. We feed, feed, feed on love…” ふふっ、こんなフックをウェンブリーで合唱するなんて。最初のワンコーラスでこのフックだけでも憶えてほしいなー、そこが勝負の分かれ目だと思う。あたし、いまだにウェンブリーで演る実感ないすよ。だよねー、九万人だっけ? フルのときは一五万人って聞いたけど。じゅうご……おええ。ふふっ、そこに集まった全員がまだ知らない曲で勝負する。わたしら以外だれも知らない曲でね。それってなんかすごい不思議……ってあれ、前にもこういう話したよね。そう? わたしの部屋で『好きなように唄いやがれ』作ったとき。そうそう、久蔵さんが言ってたやつ。ああ、あの時……ほんと不思議だなー、あれからまだ一年も経ってないのにさ、まさかウェンブリーでなんて。ほんと、奇縁としか言いようがない……じゃあさ、あとはもう楽しもうよ。全部が絡まりあってここまで来たんだ。生まれも育ちも国籍も違う人らを相手に、それでも伝えてやる、持ってってやるって、喧嘩腰で楽しむしかない。そうだね。っすね。じゃあ、トラックダウンしましょうか。あちょっと待って、ボーカルのオートメーションで気になるとこが。あたしも、イントロのリバーブちょっといじりたいっす。ええ……?
それがお前の選んだ相手か。と、初対面でいきなり指示語で呼ばれたことに憤る気にもなれなかった。目の前の、背は低くても雅量と冷徹を兼ね備えた雰囲気の老嬢を前にして、私自身も少なからず気遅れしていたからかもしれない。前々から話は聞いていたけど、こうして対面するのは初めて。エファ・エプスタイン、ウェンダのお婆様。
はい、彼女が私の「王」です。と毅然として返すウェンダの横顔を茫と眺める。「王」、ね。お前が決めた相手なら、もう婆が言うことは何もない。見せておくれよ、ウェンダ。仕立屋としての半生をかけて誂えた作品、それそのものによってお前自身が超えられる様を。晦渋な言い回しに戸惑う私をよそに、ウェンダは黙して頷く。はい、まさにそのことだけを考えて生きてきました。今日がその日です、彼女が──私の双眸を覗き込むウェンダ。彼女こそが、私が造った、そして私を壊すに値する、最高傑作です。わからない、なんだろうこの祖母と孫娘の問答は。関係節の使い方が複雑すぎる。動揺を面に出さないように努めていると、エファは背中を向け、ステージ袖の関係者控室へと戻っていった。
ウェンダ。なんだい。あなた、「私を壊すに値する」とか言っていたけど……言ったよ。わかるだろうリズ、真の藝術家は、自らが生み出したものによって圧倒されなくてはならない。まさかあなた、この公演のあと死ぬ気じゃないでしょうね……馬鹿を言うな、そんな三文芝居に興ずるものか。単にこういうことだ、リズ。このウェンブリーで、Innuendoは死に、そして生まれ変わる。私も君も、どちらもね。それって……ふふっ、今までずっと起こってきたことじゃない。エディンバラでもマンチェスターでも、いったい何度殺されてきたか……ふっ、そういうことだ。ではリズ、今回も相変わらず始めよう。私と君どちらも、途中で弱音を吐いたら地獄落ちだぞ。地獄なら何度も落ちたわよ、そしてそのたび揚がっていった。私たちにはもう上も下もないわ。では、その円形の地獄めぐりをこそ。ええ、見せつけるとしましょう。
“Let us go then, you and I, When the evening is spread out against the sky.
Like a patient etherized upon a table;
Let us go and make our visit.”
大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。ってあなたは言ったけどさ、不二良。さすがにここまでは考えてなかったよな、一〇万人以上の前で唄うだなんて。もはや超現実的、と言えたらいいんだけど、不思議に肉体の感覚は去っていなかった。だってこのアリーナに集まったのは、ただ音楽を愛するだけの人間、わたしと同じように。そいつらがわざわざ出掛けて、これだけの数が集まった。見たいものや目的は違ったとしても、ただ音楽のためだけに──うん、不二良。本当にすごいことだよ、これは。
幸か不幸か、この世界では通じることになってる、わたしらの母国語が。最初の予選でANDYOURSONGとやったときとは違って、今や英語で話さなくても大抵の人には通じる。それってすごく気持ち悪いけど、でも使うしかない。生まれ持ったものを使うしかないんだ。英語圏の人もこんな感じなのかな、世界中のほとんどで母国語が通じてしまう気持ち悪さ、みたいな。ははっ、じゃあロンドン。今回はわたしたちからやらせてもらうぞ。
今、今ここに集まってるやつら全員が、何を、誰を、何処を、どういうふうに愛してるか──そんなことはどうでもいい。みんなそれぞれ持ってるんだろう、愛すべき人を、物を、祖国を。まず、ひとつだけ言わせてくれ。その愛はお前を救いもするし、壊しもする。愛は一筋縄じゃいかない。お前はその愛で誰かを救い、自身救われもするだろう。しかし同時に壊し、壊されもするだろう。人への、物への、祖国への、盲目の愛によって。今じゃそこらじゅうに溢れてる、手前勝手にのたうちまわり、喘ぐだけの愛が。
だからって、わたしは愛することをやめろなんて言わない。
逆だ。愛で、愛で闘え。
愛のために、ではなく、愛で闘え。お前自身を救い、壊しもする、その愛で闘え。もっと良い愛、次に来る人々への愛で。勝ち負けなんてそんなもん、後に来るやつらが勝手に決めんだよ。前に打ち倒されたやつらの武器を、後に来たやつらが新たに鍛え直して、今のとこ優勢であるやつらを打ち倒す。そうして打ち倒されたやつらの武器がまた他のやつらに拾われて……っていうのが、永遠に続く。人類が滅びない限り、どの土地でも、どの島でも、どの国でも、どの時空でも。勝ったり負けたり勝ち直したりがずーっと続く。
なんの問題がある?
なんの問題もねえな。
Wassup Wembley? わたしたちは今夜、愛を教えにきた。言語とか人種とか世代とか、そんなのは全部どうでもいい。愛が闘う場所に上がる覚悟があるのなら、全員まとめて面倒見てやる。愛する人がいる? 愛する物がある? 愛する国がある? ならオーケー、リングに上がりな。でも、これだけは言わせてもらう。お前らが何をどういう風に愛していようと、わたしらの愛が一番強い。それは音楽、だけじゃない、この世界を埋め尽くす全ての音への愛だ。
わたしらの名は『93』。愛と音楽で殺りにきた。
それではあー、もう発表するしかないわねえー。メキシコから始まってロンドンに到った今回のχορός、優勝の栄冠に輝くのは──
杜さんの煽りに続いて、アリーナの大画面に五組の名前が表示される。その右横には得票数が示されたバーが。Innuendoを筆頭として勢いよく伸びゆく数値、が、最終的に示したのは。
なーんとお! 最後の最後で大逆転! 紳士淑女の皆さぁん、あんたがたが選んだのは、レペゼンジャパン、93の三人よお!
穹窿に大歓声が反響する。アリーナからの拍手喝采、を前にしても呆然とするばかりで。側の九三の両眼を見つめても、やはり空惚けていて。やったっすよねえさんーはかるんー! と飛び込んできたイリチの腕を首元に受けて、初めて実感らしいものが追いついてきた。あはは、泣くなよ漁火ちゃんー、だってえ、思わなかったじゃないすかあ、本当にいけるなんてえ……いきなりねえさんが長ったらしい演説はじめたからもうだめかもってえ……なんそれ、あれが効いたんだよねえ測。と笑う九三、の頭越しに、微笑とともに拍手している姫の姿が見えた。背を反らすと、教授も、한나も、ヤスミンも、イネスも、ゾフィアも。まだ呆気にとられているこちらへ、静かな喝采を向けてくれていた。
それでは、93の三人、こちらへー! と促され、アリーナ中央の花道に照明が灯る。えっ、と気遅れする私たちの背中を、ほら行ってきな、と한나が、しっかりやれよ、と姫が押してくれる。ああ、うん、ありがと。駆け足で向かう九三に私とイリチも続く。バーミンガムでまさかの展開があったわけだけど、それにしたってこんな結末になるなんて、あなたたち自身も想像してなかったんじゃないかしら? と杜さんがマイクを向けると、あはっ、ほんとそうです。新曲で始めるってのも、勝負ってよりはむしろ破れかぶれだったんですけど……でも、これだけ多くの人らに届いたんだなって、そのことが本当に嬉しいです。ありがとうロンドン、愛してるよ! 九三が叫ぶと同時に、ふたたび歓声の波濤がアリーナを打った。
さて優勝したからにはあー、Dyslexiconがお望みのことをなんでも叶えちゃうわけだけどお、どうするう、なにお願いしちゃう? と再びマイクが向けられる。えっ、そんなのあったんですか? と九三が漏らすと、ぶっはは、知らずにやってたのお。と杜さんが大笑いを添える。えっと、お望みのこと、ですか。いきなり言われても……ええと、そうだな。はい、思いつきました。なんでもいいんですよね? ええ、文字通りなんでもよお。ただ、Dyslexiconの財力をナメるようなこと言ったら全部ナシねえ。あはは、いや、大丈夫だと思います。さあ、93の望むことはなにぃ? あの、なんか、帰って、城みたいなの造りたいです! と言う九三の目の前で噴き出してしまう。えっなに測ー? だって、そんな頭の悪い願いごと……いいじゃん叶えてもらえるんならー。たしか漁火ちゃん東京にスタジオ持ってたよね。そこを改造するのでも増築するのでもいいけど、とにかく最高の機材と環境を備えた城みたいなの欲しいです! オッケー、じゃあそれ叶えちゃおうじゃなあい。今後もχορόςの公式サイトで続報を伝えるから、みんな目を離さないようにねえ。それでは改めて、今回の優勝者にでっかい拍手をー! スタジアムに歓声と喝采が満ち、その中央で私たち三人は抱き合った。遥か遠くの土地に来て、それでも、こんなにも近くに感じられるなんて、思いもしなかった。
まったく、あんな勝たれ方をするなんて。もちろんイネスが言った通り、あんなのはただの一発勝負。実力よりも運とタイミングがものを言う、そういう鉄火場。しかし前回の優勝者がクロージングセレモニーの挨拶なんて、ほとんど辱めでは。でもいい、どうでもいい。形式的なことは形式的に終えるしかないのだから。これもまた女王陛下の務め、不本意ながらね。
さあ、最後だよリズ。ウェンダに背中を押される。黙して頷き、スポットライトが照らす通路を遠望し、ステージ中央に歩み出る。マイクが備え付けられた壇上に立ち、正面を見据える。客席の照明も青系統のものに変わっていた。マイクの位置を調整し、懐から封筒を取り出す。あとはウェンダの用意した原稿をその通りに読み上げる、たったそれだけよ。頑張りなさいエリザベス、って、あれ。
白紙なんだよなあれ。えっ。そうそう、さっきウェンダから相談あってね、「リズにとって最もふさわしい閉会スピーチとはどんなものだろう」って。えー、あいつがわざわざ相談。姫が「そんなの即興でいいだろ」って言ったら、ウェンダちょっとびっくりしたみたいだったけど、すぐに同意して。用意した原稿読ませるって体で送り出して、壇上で白紙だって気づかせるようにした。なんそれ、タチ悪いなあ姫。いいだろ、あいつ今まで計算され尽くしたことばかりやってきたんだ、最後くらい即興させてやろう。はは……大丈夫かなあエリザベス。
なんてことを……ウェンダ、最後の最後に一杯喰わせたわね。本当に信用の置けない……ステージ袖に控えている姿を凝視するが、背中を向けたきり微動だにしない。お前の言葉で語れ、ということか。はあっ、と溜息ひとつ。仕方がない、やってやるわ。
今回のχορόςを閉じるにあたって……まず、五組の参加者全員に敬愛の情を表明します。すべての公演を追ってくれたファンには説明の要もないことだけれど、私は様々な面で彼女らと競い、衝突し、助け合ってきました。このχορόςは、ひとりではできないことを学び取るにおいて最良の環境であったと、今になって実感しています。
本当に……色々なことがありました。私の一身に限っても、あまりにも多くの浮き沈みがあった。ご存知の通り、隠していた半生や本名まで晒されてしまってね……それも信じていたパートナーの手によって。しかし、それもまた必要な迂路だった。ウェンダ・ウォーターズ、彼女が私にしてくれたすべては、人と人との関わり合いから藝術論に至るまで、あまりにも多くのことを再考するきっかけを与えてくれました。他の誰にも勝る感謝の念を、まず彼女に贈ります。
そして。
今、このウェンブリー・アリーナに集まっている皆様に、伝えたいことがあります。
本当におかしなことに、現在この世の中は、匿名であればいくらでも尊大になれるという、奇妙な原理に則って動いています。隠れた場所からいくらでも誹謗を投げつける、その権利が誰に対しても保障されている。もちろん、それを一概に悪いとは申しません。その振る舞いが如何に卑劣なものでも、言論の自由の一形態ではあるのでしょうから。でも、それでも、私は皆様に申し上げたい。
当事者になることを恐れないでください。
ステージの上では、誰もが当事者です。音楽は、我慢のならない物事に対する異議申し立てとして、最良の手段です。その代償として、いつ如何なる時でもステージで殺されかねない危険性を、誰もが負っています。偉大なるキース・ムーンは、ブルズアイの模様がプリントされたシャツを着てステージに上がっていた。しかし、不幸にも斃れたヒップホップアーティストの数の多さを偲ぶにつけ、もはやそのような態度も殊更の意味を持ちません。あの人々は自らの行いに、振る舞いに、創作に、一度も言い訳などしなかった。ただ文句がある、変えたい何かがある。だからこそ自らの仕事を続けていたのです。政治家のようなしかめっ面ではなく、堂々たる破顔とともに。
だからこそ、もう一度言います。
当事者になることを恐れないでください。あなたの心身を匿名のままに束縛する、その奢りと怯えとを同時にもたらす悪癖に、決して屈服しないでください。この世界は問題に満ち満ちています、これからもそうでしょう。だからといって、何もしなくていいことになるでしょうか。何も感じられないならどれほど良いことでしょう。何も聞こえない、何も見えない、浮世の憂さとは無関係なところで憩えるとしたら、どれほど良いことでしょうね。しかし、それは不可能です。我々は誰かの手によって分娩されてしまった。感官を備えて生まれてきてしまった以上、もう逃げることはできません。何が言えるでしょう。何が書けるでしょう。どのようなことを、どのような新しさあるいは古さで、唄いあげることができるでしょうか。わかりません、すべてあなた次第です。あなた自身が、自らの試行と鍛錬の結果として考えるべき事柄です。Innuendoも、Defiantも、锡鼓もShamerockも93も、誰一人としてその務めを怠けたことなどありませんでした。さあ、皆様。私たちに出来てあなたがたに出来ない理由などあるでしょうか。ありません。もちろん一つの道だけがあるのではありません。無限の表現があり、無限の組み合わせがあるでしょう。皆様はそれを選び取らなくてはなりません。見通しのつかない回り道を経ることにもなります、それも私たち全員が経験済みです。その果てに、それでも自分の仕事を続けることができたなら、いつしか私たちは巡り逢うでしょう。似たような傷を、別のしかたで癒したあなたの姿を見て。私たちと闘うことになるでしょう、ともに闘うことにもなるでしょう。その日が来るまで、しばしのお別れです。私の名はダイアナ・パトリシア・ドロワ。であると同時に、エリザベス・エリオット。どちらの名でも、あるいはどちらでもない三人目として出逢うことになろうとも、ひとかけらの容赦もない敵対と友愛の眼差しであなたに相対することを誓います。あなたがたの輝ける日々にすべての藝術の祝福を。ショーは続かなくてはなりません。またお会いしましょう! ありがとうございました!
おー、やりきった。すごい拍手、さすがだねえ。ちょっとヤスミン……ごめん、だってえ、あんなの聞かされたらあ。ははっ、そうだね。当事者になること、か。当事者として、この場に立ち会えてよかったな。じゃ、そろそろ……あれ、なに、まだいるけど。なにしてんだろ。拍手が止むの待ってるんじゃないか?
……とはいえ、今回、このエリザベス・エリオットがポッと出の東洋人に勝ちを盗まれてしまったとは、まことに遺憾です。いつの日か復讐すると誓います! 次回のχορόςでケリをつけましょう。次回もありますよね! きっとあるはずです! Innuendoのファンを名乗る者たち、それまで英国の一挙一動に注目するように! 英国は各員が義務を尽くすことを期待するわ! RULE BRITANNIA!!
ぶっははははは、最後の最後に! RULE BRITANNIA!! って、おー大合唱起こってるぞ。あははは、宣戦布告じゃん九三。いやあ、こう真正面から言われると怖いなー。ふふっ、演説で持っていったのに、演説で持ってかれたな。ちくしょーそう考えるとなんか悔しい……いいすよ、こっちもやってやるっすよ。次回、か。うん。ふふっ。次回、ね。
まだー? ちょっと待って、これのどっちか……もう何でもいいから始めなさいよ。いや重要じゃん、乾杯の音頭だよお? と言いながら、DJブースで選曲を決めあぐねるミッシーと한나。すでに大広間にはYonahの全員がグラスを片手に立っている。あーオッケー、じゃあ流します! 針が落とされ、オージェイズの『Love Train』が流れる。と同時に九三とイネスが絶叫する。なんでこの曲……とエリザベスは訝り、ほら、最初でみんなで踊ったときの。とゾフィアが応える。知らないわよそんなの。そういやInnuendoはいなかったな、じゃあ今日がその夜だよ。はい、じゃ九三よろしく。おっし、それじゃあ五ヶ月間みんなお疲れさまでしたー! 今回の旅の無事と興業の終了を祝して、かんぱーい!
向こう側ではウェンダが尾道を労い、エリザベスがイネスと語らっている。測とゾフィアが親しげに話し、ミッシーとイリチが音源制作についてテクニカルタームを交換している。锡鼓のふたりはビデオ通話で宴の模様を映しながら歩いている。ああ、これで本当に終わりか。皿にサラダを盛ってドレッシングをかけていると、おつかれ姫。と九三が隣る。ああ、おつかれ。瓶とグラスがぶつかる音。まあ、誰に勝たれようと、どうでもよかったけどな。と前置きなしに言い訳めいたことを放ると、はは、ほんと誰が勝ってもおかしくなかったよ。と九三が引き取る。ダブリンのときは、ほんと、世話になったな。世話って、ただ作戦の提案しただけだよ。だが、九三がいなかったらあの状況は動かなかった。母もあれできっと目が醒めたろうし……姫、あれからお母さんには会ってないの。ああ。お父さんにも? いつか会わないと、とは思ってるんだけどな。そっか、まあ、測もそうだったよ。えっ。ちょうど福岡でShamerockとやったあとさ、気持ちの整理つけるためにお母さんの墓参り行くって。え……測の母親って、もう。あ……ごめ、これ内緒にしといて、あいつ自分のこと明かしたがらないタイプだからさ。ああ、もちろん、それはいいが。
でさ、姫。瓶をぐいっと呷ったあとでこちらを見る。なんだ。これ、まだ測と漁火ちゃんにしか言ってないんだけど……しばらく日本で過ごす気ない? 日本で……って、何の用でだよ? もちろん、今までと同じように音楽。終わってから杜さんと話したんだけどさ、今回これだけの成功を納めたからには凱旋の来日公演いけるっていうんだよ。まだ詳細なスケジュールは出てないけど、今年の夏にもう一度同じメンツでやれるかもって。それもまた、急な話だな……みんなのスケジュールが合いさえすれば、だけどさ。そのあいだ滞在できる場所もこっちで用意するから。例の城、か。そうだよお、みんなで暮らしながら音楽やれる環境。そこでまた過ごせたら、測もすごく喜ぶと思うんだ……姫がよかったらだけど、だめかな?
グラスの中のものを飲み下し、一息つく。もちろん。えっ。いいに決まってる。ミッシーは今後もリリース予定が詰まってるからわからないが、あたしは大丈夫だろう。お招きに預かり光栄だよ、九三。とグラスを上げると、ありがとー! と九三も笑顔で瓶を添える。
リズ。なに? 電話だ、君のお父上から。げっ……なに、出なくていいわよそんなの。いや、私のほうからかけたんだ。なに余計なことしてるの!! ええ、はい、代わりますね。さあリズ。ちょっと……おーおつかれ、開演から観てたぞー、残念だったなー僅差で。そんな慰めいいから……最後のスピーチもなかなかだったぞ。閉会式までの短い時間でよく考えたな、まさか前もって用意してたわけじゃないよな? してたわけないでしょ、わざわざ負けたとき用の式辞なんて……でもまあ、よくやったよ。まさか解散しないよな? するわけない。じゃあいいな、結局は次の仕事が救いだよな。頑張れよ、ウェンダにもよろしくな。って、ちょっと待って。なんだ? 父さん……どう思う? 私たちがやってきたこと……すごいと、思う? あーすごいとは思うけど、あんま理解はできないな。えっ。だって、なんであんなエグいことばっか唄うんだ? もっとリアムの『Songbird』みたいにホンワカしたさあ……それ、は、父さんの趣味でしょう。もちろんそうだよ、俺とお前は違うからな。それでいいだろ、俺はお前みたいな音楽は創れない。だから比較するまでもない。それ、は、そうだけど……父さんは娘が親離れしてくれて嬉しいよ。たぶん、母さんも喜んでるんじゃねえか。うん……じゃあな、俺も明日早いんだ。わかった……ありがとう、父さん。母さんも。おう。
ってことは、この全員で日本公演やれるってことか! Defiantのスケジュール次第なんだけど、どう? もちろんいいよ! やったーまたみんなでできるんだ。ていうか帰りの段取りはどうなってるんだ、Yonah返すんだろ? うん、だからその流れで日本に行きたいなら残ってもいいって。でしょ四七? ええ、滞在用のビザはDyslexiconが準備するとのことです。おー、じゃ今年の夏はそれでいこうソーニャ! んー……えっなに、なんか不都合? いや日本公演自体は大丈夫だよ、ただ私は一回帰るかも。ロシア? うん、ちょっと用があってね、イネスたちには遅れるかも。そっか、まあ夏までには間に合うだろ。もちろん。あー日本か、初めて行くなー。わたしも東京はあんま慣れてないんだけどねー。まったく、これっきりで縁が切れると思ってたんですが。なに四七ー、ちょっと前まで寂しがってたくせにー。ええ、寂しいですよ今でも。いつか別れなくてはならないのですから。なんだそれ急に悲観ぶって。まあ、延長されたぶんは楽しみましょうかね……なに、四七も日本に残るの? ええ、例の城まわりの面倒はPeterlooが見ることになったので。じゃあいいじゃん、これからもよろしくなー。ええ、よろしく。
あはは懐かしー! 確かに、もう遠い昔みたいだ。なに? ほら、最初の顔合わせで撮ったやつ。あ……はは、懐かしー! 列車の床に座って撮ったやつ。オールマンブラザーズのジャケみたいじゃん、いい絵だなー。これ四七が撮ったんだよね、いい仕事したじゃん。ふふっ。どうですか女王陛下これ見て。ふん、別に何もないわよ……これからいろんなことが待ち受けてるとも知らずに……うるさいわね、それは全員同じでしょう。だね、いろんなことがあった。でも、それも全部……全部なに? 恥ずかしいから言わなーい。ぶはは。どうするこの画像、公式HPに載せる? それともプリントしてTシャツにする? いやでも、これはわたしらだけの宝にしたいなー。それわかるすー。だね、とりあえず今夜はこれ肴にして飲もう。もう散々飲んでるでしょう。そうだった。
宴も酣、ってところか。広間の真ん中で盛り上がるみんなを置いて、正面入口からトイレに向かう。と、あ、マキ。通路の暗がりに立っていた。ふ、ずいぶん飲んだな。と言いながら右頬をさすってくれる。打ち上げなんだからいいでしょ。マキも飲んでる? いや、私は。我慢することないのに、せっかく艦長の役目から解放されたんだし。あんなのは誰でもできることだ……と苦笑する頬に影がさす。それより、シーラ。なに。まだ確定ではないのだが……私も日本に滞在することになる、と思う。えっ。本当!? ああ、Peterlooの仕事ができてしまってな。そういえば杜の旦那と話してたね。じゃあ、またマキと一緒に過ごせるってこと? 九三の城に滞在することになれば、な。やったー!
と、あたしの喜色とはあべこべに、なにか重たいものを浮かべているマキ。なにか、あったの。いや、特にはないのだが……逸れていた視線が、ゆっくりとこちらを向く。お前には、言っておかなくてはな。今回、日本に滞在することになった理由。
なに。
アーイシャが帰ってくる。
数秒間の沈黙。
帰ってくるって、日本に。ああ。彼女も自分の仕事で世界を巡っていたからな。それが一段落ついて、ひとまず東アジアの国に滞在先を探していると。地理的、時間的に適するのはおそらく日本だろうと、グランドマスターから通達があった。てことは、マキと一緒にアーイシャも……黙して頷く。そういうことになるな。そっ、か、それが次のマキの仕事……
とりあえず、準備はしておけよ。というマキの言葉の意味を計りかねて、いつのまにかデッキの舳先まで歩み出ている。準備、か。彼女、アーイシャとはいちど顔を合わせたきりだけど……ひとまず東アジアまで帰ってきた、なら無事だったってこと。そう願うしかない。エリザベスも演説で言ってたな、「あの人々は自らの行いに、振る舞いに、創作に、一度も言い訳などしなかった」……
ああ、考えてどうなることでもないのに。しかし夜は涼しいなここ、もう五月も終わるのに。しかしあたしひとりでいると、あのダブリンでの酒宴の賑わいを思い出して無性に寂しく……あ。やあ、アナタもですか。四七。いや、ただ考え事してたらここに来ちゃって……と遅れて言い訳めくあたしをよそに、四七は懐から何か取り出す。ツシュッ、と宵闇に火花が瞬く。ああ、タバコか。こいつも吸うんだな、初めて見たけど。あれは何、マキのと同じラクダのやつ……じゃないな、ラッキーストライク。煙をふかす四七の横顔を眺めながら、それ九三のと同じだな、とふいに訊いてしまう。ええ、九三のものですよ。えっ。先程、九三の左ポケットからこれを、右ポケットからこれを、と言いながらタバコの箱とライターを順番に示す。持ってきたのです。だいぶ酔っていたようでしたから気付かれませんでしたね。おい……欲しいなら一本くれとでも言えばよかったろ、ケチケチ拒むようなやつでもないし。と咎めると、後で戻しておけば問題ないでしょう、と言いながらデッキチェアに腰掛ける。ほんとよくわかんないやつだな、と思いながら口の先の燼を見つめていると、依然として視線を水平線の彼方に向けたまま、四七が言う。
安らげてしまうのも、考えものですね。こうも静かだと、妙なものが聞こえてきませんか。
妙なもの。いや……べつに。とだけ小声で返すと、四七はそうですかとも言わず、タバコを横咥えにして黙っている。なんだろう、何が言いたかったんだろう。独りで過ごしたいから出ていけ、という遠回しの当て付けか。ならいい、あたしは用もないわけだし。じゃ、それ、ちゃんと九三に返しとけよ。とだけ念を押して、通路入口へと踵を返す。
どうして、こんなものが……好いんでしょうね。九三も、マキも。
あたしに言ったのか、それともただの独言か。どちらにしても応えようがない。ただ、左肩だけ傾けて彼方を窺うと、四七の右掌に落ちた灰が、そのまま左手の指によって弄われ、そのまま両掌で揉み潰されてゆくのが見えた。妙なものが聞こえてきませんか。ふいに耳元で風巻く音が人語のように響き、戦慄いて一歩たじろぐ。何を、前にしているわけでもないのに。四七は突風に吹かれても身動ぎせず、戦ぐ煙と頽れる灰を構いもせず、ただ自らの身体を抱き、ゆっくりと香油を塗り込むように両腕を交差させていた。
九三と同じ匂いになりたいのかもしれない。そう思った時には、既に踵を返していた。見てはいけないものを、見てしまった気がして。
22 我ら啓典の民
風が疾む。傾ぐ水平の線、天と海との間から、搔い詰めるように三つめの相が面を剥く、のを視ている。だがなぜ見える。この甲板にはワタシひとりしかいない。いまワタシが視ているのと同じ情景を感覚できる人間が、眼ら耳らが捉えているものが本当に存在すると証し立てる人間が、他にいるとでも。そもそも誰に問うている。お前しかいないのだ、ワタシと発話できる限りのお前しか。そして視界には天と海。の間に、あの慕わしい、しかし今となっては苦味無しには相対すること能わない、姿が立っている。
いいところまで来たね、四七。あの声だ、四年前の冬に起居を伴にしたあの人の。しかしこの音声は、本当にワタシの鼓膜を打っているか。この脳髄の裡で生み出された声なのでは。と判じかねるところへ、九三も出来の良い子だったけど、あなたも同じくらい早かった。と、相も変わらず人らしからぬ貌で笑う。どうする。ワタシが応えてしまったら、ここで目にしている相手が存在することになってしまわないか。少なくとも、ここに在ることにワタシが同意してしまった、認めてしまった、ということには。違います、と、口にした拒絶が誰の何に差し向けられているかも定かでなく、頭蓋に反響する余韻が耳元の風巻きに撫でられる。違います、こんなはずではありませんでした。何に急かされてこんなことを言う。羞恥か、しかし何に纏わる。お前は、ワタシは、何に対して弁明しなければならないか、本当に弁えているのか。と、不意に熱が指先を灼く。いつの間にか尽きかけていたタバコの先が中指と親指の間に到り、忘れられていた熱りに急襲される。煙を立てるだけの燼が落ち、九三が好んで吸う銘柄の香気が立ち昇る、に任せ、ワタシは眼球からの感覚を遮断する。なにも恥ずかしいことじゃないよ、四七。素敵なことじゃない、お母さんと同じ人を好きになるなんて。と、耳にこだまする声を拒む手立てなどありようもなく、違います、ワタシが恥じているのはそのことじゃない。と鼻腔が感覚する煙だけを縁に発話する。じゃあなに。九三が……九三のような人がいると知っていたら、ワタシはもっと違っていたろうと思うのです。あはは、あなたらしくもなく言い訳がましいね。そもそもわたしが九三に引き合わせてあげたのに。わかっています、ただ……九三のような、音楽のためになら軽々と命を捨ててしまえる、そんな狂い方もあるのだと知っていたら、ワタシも……九三のようになれた、と? それはさすがに傲慢でしょう。あなたは音楽についてほとんど何も知らないのに、わたしのように。ええ、そうです。だから、ワタシたちどちらも……九三を求めたんでしょう。
視覚を遮断したままの数往復の問答、を経ても、ねえ四七、と追手を緩めてくれない。いくら九三に焦がれてるといってもね、あなたのしたことが許されるわけじゃないよ。当たり前です、許されるなどと思っちゃいない……いえ、ワタシはあれが罪だとさえ思っていないのです。ほんとう? 今だってひどく悔いてるじゃない? と言う声に、待ってください、なぜアナタにそんなことがわかるんだ。と問い返す。だってわかるもの、四七が感じてることなら全部。は、はは、馬脚を露したな。アナタは実在なんかしないんだ、ワタシの中にしかいない、ただの呵責の声ですよ。どうしてそんなことが言えるの? 現にさっき、あなたはわたしの姿を視たじゃない。それにしたって幻だ、ワタシが勝手に作り出した像にすぎない……あれあれ、それじゃ堂々巡りだよ四七。なぜあなたはわたしを視たり聴いたりしているの? それって結局、あなた自身の罪の意識がそうさせているのでしょう? 違う、と切った瞬間に両瞼を見開いてしまう。眼下ではフィルターの先端で火の粉が死にかけていた。悪い子だね、九三のタバコとってきちゃうなんて。それ吸ったからといって、九三と同じになれるわけじゃないよ。わかっていますよ……でも、まだそれ吸ってるんだあ九三。なんだか嬉しい、わたしと出会ってからだもんね、その銘柄に変えたの。との言葉尻を捕らえて、は、じゃあ九三がそれ以前に吸っていた銘柄の名前を言ってみてくださいよ。アナタが本当にアナタなら言えるはずだ。もし分からないなら、ワタシが聴いてるのは幻に過ぎないってことです。と並べ立てる。ねえ四七、どうしてそんなに自分を苦しめるの? どっちにしたって同じだよ、わたしが存在してもしなくても、あなたが悔いていてもいなくても。どっちにしたって、もうすぐあなたを迎えにいくから。と囁く声に身を起こされ、水平線の先に立っているあの姿に、ふたたび相対する。迎えに……わたしたちが何をしようとしていたのか、もう忘れたの? と笑う面相が宵闇の中で冴えている。GILAffeなんてものは副産物にすぎない。わたしたちは何に近づこうとしていたの? 音、でしょう。音……そう、九三達が恵まれていて、わたしたちはどちらかというと見放されている、あの音。わたしと四七が協力したからこそ、ひとまずあそこまでは行けたんじゃない。でも……はっきり言います、ワタシはちっともわかりません、アナタが何を目論んでいるのか。おかしなことを言うね、四七、既に何度も訪れたんだよ。あなたがこの船に乗って、九三たちと行動を共にしてからね。倏忽、心臓が大きく脈打つ。何度も……ダブリン湾で九三の笑みを向けられてから、何度となくワタシを打つようになった、あの動悸。だから言ったの、いいところまで来たね、って。ねえ四七、九三と一緒に手に入れたものを、大切に持っておいてね。あなたからあなたの肉体を取り去っても、その思い出は残る。待て、と投げた声は何も射止めず、甲板に虚しく響くのみだった。何を視ている。何も視ない。ただのひとりだけの夜だ、ワタシだけの……ふうっ、と溜息ひとつ、右掌で心臓のあたりを撫でてみる。拍の打ちが次第に緩やかになる、のを感じ、先ほどまで相対していたあの幻覚が退いてゆくのを確かめた。デッキチェアに寝そべるのすら懶く、甲板のうえに身を横たえる。無機質で冷たい感触、に唆されるように、かつてワタシの身体を通り過ぎていった無数の肢体たちが、皮膚のうえに蘇るようだった。そうだ、かつてはいつもこうやって。しかし、ワタシがこよなく希う人の手は、いつまでもこの身を愛で撫ではしないだろう。
母さん、と、打ち祓ったはずの幻を呼び戻しかねないことを承知で、遥か六月の穹窿に打ち明ける。アナタがどんなに九三を愛そうと、知ったことじゃありません。アナタは単なる道具として九三を求めただけ、そんなのは愛なんかじゃありません……こくっ、と飲み込む唾音が両耳を刺す。唇を開き、言う。ワタシは産みたいのです、九三の子を。ワタシが九三の子を孕んでみせる。アナタが何を目論んでいようと、知ったことじゃありません。アナタが迎えに来たとしても……ワタシと九三との子だけは、絶対に渡しません。
ワタシだけが聴いているこの声は、誰の耳にふれることもなく、四大に散る。そうだ、誰が聴いたとしてどうなる。これはただの音だ、ワタシにのみ意味を成す、ただこの一つ身が狂い立てるだけの音。
しかし、音……ワタシは何を聴いていたのだろう。尋常な筋道で言えば、まずこの世界があって、音がある……はずだ。が、まるであれは……音があった後で世界がある、とでも謂うように。誰かがあってその声があるのではなく、まず声があって誰かがある……
When you wish upon a star, と、九三が選んでくれたあの歌を唄ってみる。考えてばかりでは解るはずもない。Makes no difference who you are. 九三にできてワタシにできないこと、を、もっと別のやり方で起こすことができたら。そのとき、願いは、
あはは、わたしらも子どもいたらこんな感じだったのかなー。と、笑いながら投げた言葉が久蔵の面に引っ付き、みるみるうちに蒼みを加えていくのを見て、ごめんって、ただの例え話だってー。と慌てて引き剥がすと、周囲から教え子たちの甲高い声が上がる。いやーしかしみんな元気だな、変声期終えたばかりの男の子ってこんな声だっけ。それともやっぱ、この人数でモツ鍋屋の一階貸し切るのなんて初めてだろうから燥いでるのかな。みんなで学習塾の外側で過ごすアゲ感、ってのもあるだろうし。こんな数の子どもいたら面倒みきれんわ、とハイボールのグラスを傾けながら言う久蔵に、えーでも塾では指導できてるわけでしょ、まえの年度の生徒たちも全員第一志望うかったらしいじゃん。と片手を挙げて店員を呼びながら返す。そんなんお前な、もとの親御さんが産んで育ててくれたからこその物種でな。その苦労と比べれば勉強のしかた教えるのなんか何でもないわ、と言いながら久蔵は店員にグラスを返すので、もうひとつハイボールでいい? と訊くと、いや、烏龍茶。と生真面目に応えた。おいーまだ二杯目じゃん。一杯で十分だろ、お前と差し飲みならまだしもな……と言いながら座敷に集う教え子たちを一瞥すると、えーじゃあ先生まだ未練たらたらってことですか、と勘の良い子がすかさず茶々を入れるので、久蔵は氷の入ったグラスでその子の頬をぐりぐりするのだった。うひぁーつめたい。あんま騒いでもあれだから、喰うもん喰ったらさっさと帰るぞ。あはは、じゃあわたし生もうひとつ。お前も飲みすぎるなよ、酔っぱらったとこ見られたら親御さんの心証に響くからな。二階貸切なんだから大丈夫っしょ、全部わたしのおごりだしー。と笑うと、だって世界一っすもんねー、城持ちっすもんねー、と若々しい声が咲く。そうだよー、久蔵先生の元カノはリアルシットなハーコーラッパーなんだよー、と戯けてみせても実際照れくさく、店に入る前に何人かの生徒たちからCDにサイン求められたりとかリリックの数行に関する思い入れ話を開陳されたりとかした際には、さすがにちょっと気後れした。χορόςのツアーでファンとの応対なんか何度も経験したにも拘らず、自分が生まれ育った国で義務教育年齢の子たちに情緒を向けられると、なんだかもうたまらなくなる。まさかこうして九三さんに直接会えるなんて思ってなかったす! 塾長あざす! あざーす! うるせえ、と小鉢に出汁を足しながら久蔵は言い、右目だけこちらへ向けて苦笑した、ように見えた。そうだこんど九三さん呼んで特別授業やりましょうよ! 何がそうだだよ、やるわけないだろ。えーでもいいじゃないですか、国語っていうか、文化的な教養のあれみたいな。どうですか九三さん? あー実際いけるかもよ、なんか日本語ラップの文法解説とかなら。おおー! やりましょうよ塾長! バカタレ、うちで教えるのは受験通過するための勉強だけだ。いやーでもいいかもよ久蔵こういうのも。たとえば飛葉飛火のリリックで頻繁に出てくるんだけどさ、違う言語で同じ意味のこと言うのよ、「フルオート、これ全自動」とか「生でロー」とか。でもね逆のパターンもあって、同じ言葉が全く逆の使い方になるの。『魔物道』だと「バカ」が真逆の意味で二回使われてて……おおー! こういうの! こういうのどうすか塾長? やるわけないだろ、あんないかがわしい歌詞を授業でなんか。ええーいいじゃん、今時の子ってもっとマセてるよー。とにかくうちの塾に持ち込むな、そういう講演なら母校とかでやれ。あー、でもχορόςで優勝したからって門司中学からお呼びはかからないだろうね、校舎のなかで見つからずにタバコ吸う方法みたいなこと話しちゃうかもしれないし。お前らもこんなのにならないようちゃんと勉強しろよ。あはは、なんだよこんなのってー。逆に、一体どうしたら九三さんみたいになれますか? えー? ええとね、まず中学んときからヒップホップにドハマリしてね、そんで高校に入って少年院上がりのやつと友達になったらね……なんですかそれー。なんって本当そうなんだから仕方ないじゃんー。
でもさー、実際なにがどうなるかわからないもんだよね。と、会計を済ませて暖簾をくぐり、久蔵と何の気も無しに話す。あんたがこうして塾の経営うまくいってるのも、わたしがこうなったのも、何も狙ってこうなったわけじゃない。まあな、でもお前が出ていく前から決めてたっけな、独立して個人経営でやるってのは。たしかそうだったね、大手の塾じゃ生徒ひとりひとり指導できないからってね。ああ。でも今こんだけうまくいってるんだしさ、二号店も出したら? 店って、フランチャイズじゃないんだよ。それに無闇に裾野広げたくないんだ、金儲けでやってるわけじゃないんだし。久蔵はやっぱ真面目だなー、と揶揄い混じりに顔を覗き込むと、今日初めて両眼を合わせて笑ってくれた、気がした。なぜかこっちが狼狽えるようになり、いやーでも久蔵先生、いくらわたしみたいな大物を逃したからってさ、いつまでも操立てすることないよー。そろそろ新しい相手見つけなってー。と怒らせモードの軽口を放ってみる。大物って自分で言うな。あとその言葉そっくり返すわ、お前だって……と口籠る姿がへんに昏く映り、街灯の光源を窺いながら歩く。うちにバス停に到着していたことに気づき、呆と初夏の夜の空気を吸いながら踵でアスファルトを躙る。おーちょうど、あと三分後にきますよ。と生徒の一人が時刻表を前にして声を上げ、久蔵は静かに頷く。じゃあ、僕らこれで帰るので……え、これでって何だよ、お前らも塾に自転車停めてるんだから行き先同じだろ。いやそういうのいいですよ、だってこれから……ねえ……うん、邪魔しちゃいけないと思いまして……と小声で慮る子たちを前にして噴き出すわたし、と渋面浮かべてむずかる久蔵。ていうか明日休みでよくないですか塾長? いいわけねえだろ、月謝払ってるのお前らの親御さんだぞ。親に面倒見てもらってる間は選ぶ権利なんか無いんだ、そんな気遣いよりもっと勉強しろ。あははそんな怒んなよ、優しい子たちじゃん。でもありがと、わたしは方向逆だからタクシー拾って帰るよ。と言うと生徒たちの間から惜別の呻きと、ありがとうございましたごちそうさまでしたと衒いのない声が返る。手を振りながら横断歩道のほうへ向き直ると、後ろから靴音。信号機の前で立ち止まるわたしの左脇に久蔵も纏わる。ふたりで信号機を見上げるうち、人目を忍ぶような声が漏れる。不二良のことは、どうだった。一言で意は察せられ、ああ、結局は逢えなかったけどね……と呟きながら視線を合わせ、でも、一瞬だけは交わった。なんか、そんな気がしたんだ。うまくは言えないけど……あの頃不二良から教わったことと、いろんな国から集まったやつらと一緒に成し遂げたこと、そのふたつが交わった、みたいな……と言い淀むわたし、の頬を見ながら、つまり、無駄じゃなかった、ってことか。と気遣うような久蔵。当たり前だよ、ていうか無駄にできることなんてそんなにない。あんたといたときも、不二良といたときも。なにかがなにかのきっかけになってるんだよ。それがわかっただけで、意味はあったんじゃないかな。言うと同時に、信号が青に変わる。久蔵は静かに頷き、じゃ、頑張れよ。これから東京なんだろ? と言うので、うん、来月にはあっちに移るけど、それまではしばらく北九にいるよ。明日は中学んときの同級生がやってるクルーのライブに出るし。へえ、クラブで? もちろん。先月ウェンブリーでやってたやつが北九のクラブでって、なんかすごい話だな……ええ普通じゃん、むしろ客の顔が見えるハコで演らなくなったらMCとしておしまいだよ。そっか、プロっぽくなったな。まあねー。それまでずっと実家にいるし、母ちゃん父ちゃんにも久々に会いに行くよ、いろいろ心配かけちゃったけど、とりあえず音楽コンペで世界一にはなれました、ってさ。ふふっ、ほんと何がきっかけになるかわかんねえな。だよねー。ほんとは、俺もお前のご両親に挨拶したかったけどな……娘さんを幸せにできなくてすみませんでした、って? そういう憎まれ口叩けるうちは大丈夫だな。ははっ、と笑って視線を上げると、もう青信号が点滅していた。じゃあね、仕事頑張って。おう、お前もな。
辛くてそしてかゞやく天の仕事、と、賢治の詩句が急に思い出されたのは、半年ぶりに帰った自らの部屋の書架を、まるで誰かの忘形見かのように遠く眺めたからだった。背表紙は誘う。かつて読んだはずの、読まなかったはずの字の連なりさえ脳裏に呼び起こす。毛羽立つ膚にふれた指の軋りが、何時何処で撫でたかも知れない項を髣髴とさせるように。
長く空けるからには相応の処置もしたはずだったが、やはり半年も人が生活していない部屋には独特の頽れが漂っていた。水を抜いておいたトイレのタンクからも、やや腐臭めいた水垢の気配が察せられる。マイナスドライバーで水流を戻し、ブラシと塩素系洗剤を取り便器の排水を確かめながら手早く洗浄を済ませ、ブレーカーを戻し電灯を点検するうちになぜ真っ先に便所掃除を済ませたのか遅れて訝しくなり、シャワールームとキッチンに一瞥だけくれて妙にそそくさとした挙措で両手を洗う次第となった。なぜ手指用の石鹸が備え付けられていないキッチンで手を洗おうとしたのか、と重なる疑義を糊塗するように食器用洗剤とスポンジでシンクも洗う。これならば手指も洗ったことになる、という合理化も、後手後手のこじつけめくのが免れない。
思ったより少ないな、と書架を前にしてつぶやく、私よりもひとまわり背の低い後姿を眺めながら、ええ、とだけ応えて電灯をつける。学生の頃はもっとあったんだけど、引越すうちに捨てるものが増えちゃってね。と姫の横顔を見ながら呟く。そうだ、あの頃はもっと多かったっけ。大阪の大学で独文を専攻していた頃、本読み用に立てる台も買って、辞書も何冊かあった。けっきょく院に入ることもなく福岡に戻って、傷心の九三と偶さかに起居を共にすることにもなり、その後に上京し作詞家として生計を立てはじめた。その頃には学生時代の蔵書も多く手放し、本立ても譜面台と作曲編曲用のシンセサイザーに取って替わられていたが、未だに書架に鎮座しているこの、リルケのインゼル社版全集だけはどうも手放せなかった。頻りに読み直すこともないはずなのに、なぜだかこれだけは……なあ。と呼び止められ、書架へ向けて右腕を伸ばした姿勢がいきおい姫の肩を抱くような塩梅になっていることに気づき、ごめん、何。と急いて腕を引っ込める次第となった。傍らの身体は静かに苦笑し、これ、と呟きながらひとつの背表紙を指差す。こんなのも持ってるんだな。あ……シャロナー改訂版聖書。ええ、まあね。なんでよりによってこれなんだ? カトリックでもないんだろ? と問われ、英訳ならなんでもよかったんだけど、ね。と答えになっていない返し。を受けた側は、ふうん、と釈然としない息とともに本を取り出してページをめくりはじめる。会ったこともない父が遺していった本だから、と事実を打ち明けたところで、やけに感傷的な雰囲気以外の何かは齎されなかったろう。
姫に背を向け、冷蔵庫と換気扇と空調が異常なく作動するのを確かめ、そうだ買い出しに行かなくては、しかし空の冷蔵庫にいちから入れるのだから相当な量になるだろう、自動車も無いのに満足に搬入できるだろうか、やはり通販でまとめて注文するのが無難か、とすれば今日の食事は外食か近場のテイクアウトで済ませて……と思案するうちに、あ。目に留まった寝台が案外の事実を通告した。なに、どうした。と本を戻して向き直る姫に、ごめんなさい、忘れてた……と小声で応ずる。だから何が。いえ、寝具……ベッドもマットレスもひとつしかないの忘れてた。と素直に白状すると、なんだそんなことか、と静かに笑う。ごめん、すぐ準備するから、この辺ニトリあったっけ……いいよ、それでいい。えっ。そこで二人寝られるだろ、けっこう広いつくりだし、あたしもそのベッドで寝るよ。と事も無げに言うので、いや狭いよ、いくらあなただって……と狼狽えるしかなくなる。わざわざ用意してくれなくてもいい、なんだったら床で寝るし。いやそれは……客人にそんなことさせられるわけないでしょう。あなた、教授の家にいたときもそんなだったの。いや、別々に寝てたけど……でも測の部屋は一人暮らし用なんだから仕方ないだろ。と端的に言われ、なんだか手前の至らなさを突きつけられるようで、じゃあわかった、とりあえずもうひとつマットレス買わせて。と強突く張りの意地が滑稽に見えるのを承知で言い、相変わらず苦笑している姫の手を引いて玄関へ導く。城ができるまで一ヶ月もないんだから、そんな気ぃ遣わなくてもな。と後方から聞こえる声に、これは私の問題なの。と短く切った瞬間、そうだ九三を住まわせたときもこんな感じだったっけ、いきなり布団がもうひとつ入用になって……久蔵め私に無駄な出費をと思ったけれど、九三のためには仕方なかった、というか……あの時はあの時で胸踊っていたのかもしれない、自分と寝食を共にしてくれる人が加わってくれて……と無闇な回顧の念が辷るのをおしとどめ、そうだせっかくだからこのまま昼食いきましょう、どこがいいかな。と背後を振り返る。べつにどこでも……東京に来てまでアイリッシュパブってこともないよね、いい具合のメキシコ料理出してくれる店があるから、そこにしましょうか。いいけどなんでメキシコ。これから盛夏だから肉喰べて元気つけて、と思って。そうだ姫、せっかくだから美容室も行きましょう、予約入れてあげるから。これから夏だしさっぱりしないと。いいけど……そうそう、銀座にアレキサンダー・マックイーンのメゾンがあるの。あなたにもきっと似合うはず、いくつか買ってあげる。はは……なんだか測、ミッシーん家のお姉さんみたいだな。
えっ。と、玄関の靴箱の前で硬直してしまう。何くれとなく面倒見てくれる感じがさ。でもあたしも測もひとりっ娘だから、ミッシーん家のときよりも他人って感じがしないのかもな。と言いながら靴を履く姫、の銀色の旋毛を眺めながら、ああ、そうなのかも、ね。と、後手後手の返事を漏らす。先ほどまでの自分の燥ぎが他人事のように感じられ、羞恥とも狼狽ともつかない情緒を持て余す。アレキサンダー・マックイーンのシューズに爪先を通しつつ、いつもは靴篦を使うのに今は踵を踏み潰してしまっていることに気づき、慌てて屈みこむ次第となる。そんな私の栗色の旋毛を眺めながら、姫はきっと苦笑しているのだろう。どうもおかしい、かつての生活を同じように送るだけ、その連れ合いがひとり増えただけなのに。どうしてこうも浮き足立つ。靴紐を結び直し、上体を起こし、靴箱扉に備え付けの姿見に映えた、自分の風態を眺める。
早く髪を切らなくては。そう思えた。
きのう尾道から連絡きたすけど、もうだいぶできあがってるみたいっすよ。はい、豊島区。教授とはこっち来るタイミング合わせたんで、ちょうど完成した頃に着くはずっす。その頃にはヤスミンとイネスもホテル引き払ってこっち来るらしいんで。姫? はかるんとこすよ。えーだってねえさんが言ったんじゃないすかー。あはは、まー早めの夏休みってことで。はい、ねえさんも。じゃあまた。おつかれっすー。
城完成(予定)、教授到着(予定)、Innuuendo到着(予定)、とカレンダーに貼る付箋が増えていく。χορός優勝した頃はまだ実感なかったけど、いよいよって感じ。あー、またみんなとツアー周れるんだー。セットリストどうしよ、今のうちイネスと打ち合わせしとこうかな。チーフ、ご到着です。あ。インターンの子が防音扉を押し開く、ってことは。きたっすか! 立ち上がり、入口まで駆け寄る、と、あー! お久しぶり。待ってたすよーちぬん! うわっほんと久々じゃないすかー焼けたんじゃないすかー? と両手をとってぶんぶんしながら目の前の姿を眺める。ふふっ、今年はなんだか外出する機会が増えたからね。もう夏っすねー海いきたいなあー、あ、案内ありがと、もう大丈夫っすよ。とインターンの子に合図すると、重々しい音とともに防音扉が閉まる。
改めてっすけど、アルバムの完成おめでとっす。ありがとう、半年もかかっちゃったけど。そんくらいかける価値あったっすよ、まさかあたし三曲も弾かせてもらえるなんて。ボーナストラックも入れたら四曲だけどね。あの曲かわいーから大好きっす、はやくみんなに聴いてもらいたいなー。じゃこっち、真ん中どうぞ。うん、座ったままでいいのかな? もちろん。じゃ、とりあえずプリセット作っといたんで、この曲から調整していきましょ。うん。
ちぬんとχορόςの九州大会で再会して、そのとき約束したソロアルバムの制作、も滞りなく終わって、あとはマスタリングを残すだけ。やっぱすごいな、こんだけ緻密に作り込むなんて。ちぬんの作品にギターとかマスタリングで携われるなんて、あたしこの仕事続けててよかったー。と思ってるうちにワンコーラスぶんの再生が終わる。どうすか? うん、低音部はいい感じだけど、もっとサロードの高音弦がクリアに聞こえてほしい。と言うちぬんに合わせてEQを立ち上げ、あんまキンキンしないほうがいいと思ってたすけど、上げていいすか? とパラメータを操作する。うん、もう少しアタック音が際立つくらいがいいよ、ミキシングでもそう意識したから。オッケーす、じゃあ弦楽器だけになるとこループするんで、ちょうどいいとこまで上がったら。うん、合図する。
EQはこんな感じかな。そうすね、あとはコンプのオートメーション見ていきましょ。ごめんね、思ったより時間かかりそう。いやこれくらい普通すよ、とくにちぬんみたいに凝った音楽やる人なら。そうなんだ、私マスタリングに立ち会うのなんて初めてだから。ミキシングにも相当時間かけたらしいっすね。うん、ゲストで参加してくれた人たちの演奏もちゃんと聴かせたいから……あと、と唐突に切れた声の方を向き、あと? と訊いてみる。ちぬんは口籠もりながら、あと、ミキシングの作業してるときに、いきなり連絡があったから……あなたの、あの五月の。と眉を曇らせながら言う。あ。あれっすか。うん……「これで最期の演奏になるかも、もしよかったらちぬんのフォロワーにも拡散して」なんてメールがいきなり来て、検索したら大変な騒ぎになってて、私もう気が気じゃなくて……と言う声が次第に慄えを帯びはじめ、ご、ごめんっす、まさか作業の最中だったとは知らなくて。と焦って宥めても、イリチがあの船と一緒に沈んじゃうかもしれないって思ったら、どうしたらいいかわからなくて、不安で不安で、また発作が出るかもって……と涙目で続ける。あーほんとごめんなさい、そういうつもりじゃなかったんすけど。それで寝込むことになって、その日の夜にイリチは無事だってわかっても、三日くらいずっと動悸が止まらなくて……と咽びながら人差指で涙を拭う様を見て、さすがにDAWの再生を停める。
ちぬん、ほんと、ごめんなさい。イリチが謝るようなことじゃない……けど、なんていうか、九三さんはときどき常軌を逸することがあると思う……あ、ちぬんもやっぱそう思うすか? うん……いやーステージから落ちるのとかもあったし、あたしいつのまにか麻痺してたのかも。よく考えりゃ機材ごと船沈めるとか無茶苦茶っすよねー。機材は他にいくらでもある、けど、イリチは世界にひとりしかいないんだから。イリチみたいに弾ける人なんてどこにもいないんだから、もっと自分を大切にして、くれない、と困る……はい。ごめ、じゃなくて、ありがとっす。いや、ありがともちょっと違うすかね。と笑いながら言ってみても、ちぬんは眼を伏せたままで。あー……よし、じゃあ、ちぬん! と両手をとって正面から見据える。なに……? いっぱい心配かけちゃったから、今日は特別に、スーパー特別ちぬんタイムにするっす! スーパー特別ちぬんタイムって何だろう、よく考えないまま言っちゃった、と思いながら両眼を見つめていると、本当に、いいの……? と小声で返事が。はい。だって、まだ一時間ちょっとしか作業してないのに……今日はこれで十分すよ、それにずっと同じ音源聴いてると耳が慣れてきちゃうから、休憩入れたほうがいいっす。このスタジオはこれからインターンの子に使ってもらって、あたしらはちょっと出かけましょ。言うと、ちぬんの手がきゅっと小さく握り返し、頬にすこし微笑が戻るのがわかった。
じゃー行きましょ、あたし鍵とか渡すんでちぬん先に。うん。渋谷ならどのへんがいいすかねー、もしかしたらインド映画の特集とかやってるかも。それもいいけど、今日はできるだけ眼や耳は使いたくないかな……あっそうすね、忘れてた。じゃあふたりでゆっくりできるとこ行きましょ、猫カフェとかどうすか? ごめんなさい、猫はかわいいと思うけど、私アレルギーがあるから……あーいやいいすよ、じゃあもっとツルツルした生き物……魚は? ちぬん魚すきっすよね? うん。じゃあ魚いっぱいいるとこ行きましょ、築地とか! 築地……? 私は行ったことないけど。あたしもないすけど、たぶん楽しいはずっす。昼でもやってるのかな? わからんすけど、とにかく出かけましょ。一階で待ってて、すぐ行くっすから。うん、待ってる。
わかった、じゃあそのときには。マキも気をつけてね。うん、待ってる。
ビデオ通話が終わり、ありがと、とこちらへ端末を返す。あなたもスマートフォンくらい持ったらいいのに。いや、ゴールウェイから家出してきて以来ずっとだし、今更持つのも性に合わないっていうか。とよくわからない理屈をこねるので、それにしても、あの人と話してる時はやけに子どもっぽくなるね。とくすぐってみると、頬を一瞬ぴくっと引きつらせ、仕方ないだろ、親代わりみたいなもんなんだから……と小さく漏らした。親代わり、か。自分の意志で親元を離れて、それまで抑えてきた子どもっぽさを見せられる相手がいるとしたら、確かに岩走マキしかいないのかもしれない。私にも同じくらい屈託なく接してくれたら……と無体に辷る想念を、何の連絡だったの? と直截な問いで誤魔化す。姫は数秒空けて、決まったらしい、到着時期が。と糢糊な構文で言う。到着って、マキさんの? も、そうだが……と口籠ったのち、何に思い至ったのか、そうか、測たちはまだ知らなかったな。と目を見開く。もう一人来るんだよ。いや一人じゃない、二人……じゃない、もっとか。と自分の裡で算段をつけるような文言が続くので、誰が来るの? と助け舟を出してみる。ああ……姫は不承不承な面持ちで、ゆっくりと視線を合わせながら口を開いた。アーイシャ・ウムァジジ。えっ。聴き慣れない名前を頭の中で文字化しながら、イラン出身のダンサー。彼女に安全な居場所を与える、ってのが、マキの次の仕事らしいんだ。との述懐を聞く。アーイシャ……名前からすると、ムスリム。とたどたどしく問うと、女性だから、ムスリマと呼ぶのが正確かな。と糺される。安全な場所っていうのは……その人が日本に来るってこと。ああ、あたしだけ六月の時点で訊いてたんだけどな……じつは、と咳き込むような呼気ひとつ置き、あたしと同じなんだ、アーイシャも。親代わりとして、Peterlooの保護下でマキの世話になった。と躊躇いがちに言う。その子にも、何か問題があったってこと。と探ってみると、まあ、あたしとは比べものにならないほど入り組んでるけどな……と、渋味のようなものを隠さず応えた。
アーイシャ・ウムァジジ 。たしかイランのイスファハーンってとこの出身で、幼い頃からクルアーンとハディースの読解、さらに数学と幾何学の才能を認められてたらしい。歳はたしか、あたしのふたつかみっつ上かな……と姫当人にとってもおぼつかない口調で述べるので、会ったことはあるの。と問うと、一度だけな、ジュネーヴで。去年の冬にShamerockで小規模な欧州ツアーやったんだけど、チューリッヒでのライブついでにマキに会いに行ったんだ、ジュネーヴに滞在してるからと。そのときちょうど、イスラエルから脱出して身柄を保護されたばかりだった。と応えるので、イスラエルって、出身はイランでしょう。と差し挟むと、その間に色々あったんだよ。どこから始めるべきかな……と唇を噛み、まず、あの爆破事件については知ってるか。と切り出す。あの、っていうのは。やっぱり知らないか。イスラエルのテル=アヴィヴで、アーイシャがやってる「Aminadab」っていうコンテンポラリーダンスユニットの公演中に、会場で爆発が起こったんだよ。訥々と言う姫を前にして、継ぐべき言葉が見つからない。去年の一一月だから、あたしらが来日公演やる直前だな。数十名の死傷者を出した爆破に巻き込まれて、アーイシャと行動を共にするムスリマも五人が犠牲になって、イスラエルを脱出しなきゃならなくなった。ここでは表現の自由もない上に命も危険に晒されるから、って。
公演会場での爆破事件。もしニュースか何かで聞いていたとしても、記憶には刻まれていなかったかもしれない。アリアナ・グランデのマンチェスター公演をはじめとして、ここ数年で同様の事件は欧米のそこかしこで発生していたはずだから……と妙に言い訳がましく記憶を整理しながら、それが起こるまではイスラエルにいたってこと。と問うと、姫は頷き、その前にもいくつか悶着があったんだ。まず、アーイシャはイランからイスラエルに移ったんだが、そのどちらとも折り合いが悪かったらしい。と応える。もとは生まれ故郷のシーア派といざこざがあって、スンナ派に改宗してイスラエルに移ったらしいんだ。改宗。同じイスラームでも「改宗」というのだろうか、 convert がGILAffeに翻訳された結果ならわからなくもないが、と想念を弄んでいると、そのとき既に数学と幾何学で学位を取って、同時にダンサーとしての活動も始めてたんだけど、「みだりに女性の肉体を見せびらかすべきではない」と周囲からバッシングを受けるようになったらしい。イランでスンナ派のムスリマってのも、異端視される要因の一つだったろう。仕方なくアーイシャが主催していたダンスカンパニーのムスリマ何人かとイスラエルに亡命するんだけど、そこでも別の軋轢があったらしい。イスラエル当局は既にダンサーとして有名だったアーイシャを「文化人」として歓迎したんだけど、だからといって彼女が抑圧的な政策を批判しないわけがなかった。抑圧って、つまりパレスティナに対する。と問うと姫は頷き、そんな反体制的な「文化人」を排斥する動きも出てきて、ついには公演会場での爆破事件につながったと。やむなくイスラーム圏を離れてPeterlooを頼り、無国籍になってからは欧米の藝術振興基金の後押しで各国を周っていたと。あたしが聞いてるのはそれくらいだ。
姫から伝聞したプロフィールを、頭の中で筋道立ててみる。まずアーイシャ・ウムァジジは、生まれ故郷のイランにおいて少数派のスンナ派に改宗したことによって、すでに余所者だった。しかし、一般的なイスラームの理解においては、シーア派はキリスト教におけるプロテスタントのような──このような直接的な引き比べが許されるとして、だが──主流派に抵抗する分派として位置付けられるではないか。しかし彼女はスンナ派に改宗することで故郷の余所者となった。そしてイスラエルに移っても、ダンサーとしての彼女は周囲との軋轢から逃れられない。そしてついにはイスラーム圏を離脱しなくてはならなかった、という──幾重もの意味での余所者だ。アーイシャは、それでもダンスは辞めてないの。と訊くと、もちろん、それを続けるために方々を渡り歩いてるからな。と当然の応えが返る。イスラームの内部における女性として、ダンスを表現の手段とする……さすがにこのあたりの事情については不勉強すぎて察しがつかない。しかし、イスラームの教えは女性の肉体どころか顔を凝視することさえ忌むはず。そのような文化圏でダンスを創って見せる……一体、彼女は幾重の困難に囲繞されているのだろう。マイノリティと簡単に言うが、私のような外国籍の父親を持つだけの人間とは比べ者にもならない、全き意味での少数派だ。そんな人が、この地上のどこかで永らえている。永らえるための場所を求めて、この国に来る……
夕食を済ませ、何度か試すうちに上達したチキンカレーのレシピを仔細に修正し、姫がシャワールームに入ったあと洗濯機を回す。立ち上げたままのラップトップを見ると、右上にイリチからのメッセージが通知されている。クリックすると、「びっくりしたすよ、まさか地下鉄で一緒になるなんて。ちょっと検索したんすけど、93の測がShamerockの姫と銀座デート、先週も見たし今日もいた、ってツイートいくつかあったすよ。もちょっと身バレしないように気ぃつかったほうが」の文末に戯けた顔文字。「余計なお世話。あなたこそデートで築地ってセンスはどうかと思う。知念さんのためにも都内のアクアリウムくらい見繕っときなさい」とだけ返信し、アプリを閉じる。続いて惰性でwebブラウザを立ち上げるも、何か音楽をかける気にもなれず、検索窓に「アーイシャ・ウムァジジ」とカタカナで打ち込む。日本語版ウィキペディアの単独記事こそ無かったが、日本語圏のニュースサイトの記事がいくつかヒットした。これは、去年の一二月末……例の爆破事故があった数週間後、に書かれたもの。事件のあらましを報せる簡潔な記述に続き、アーイシャ本人のものと思しい発言の日本語訳が掲載されていた。このような暴力的な侵犯行為を前にしても私は表現に訴えることをやめない、という毅然たる断言に、イスラエル当局を非難する文言が続く。
「あなたがたが侵掠する以前に住まっていた人々を追い出しておきながら、その土地を約束の地と呼ぶのか。あなたがたは我々の身体の一部を切り取っておきながら、それでも強姦によって孕まされた子は産めというのか。
この国がパレスティナの人々に行っているのは、恥ずべき暴力行為であり、他ならぬアブラハム宗教の聖典に対する冒涜である。そのような不正義を前にして沈黙することは、トーラーやクルアーンのいかなる恣意的歪曲によっても正当化することはできない。私はあなたがたを前にして何度でも言う、『この地を汚すことなかれ。おそらくは、この地、汝らの先にありし国人を吐き出したるごとくに、汝らも吐き出さん』。これはあなたがたの聖典に書いてあることだ。読み書くことについての挑戦ならいくらでも受けよう。しかし暴力による侵犯行為によっては、あなたがたは我々の信念を打ち砕くどころか、かえって聖典への正義の情を燃え立たすことしかできないのである。」
この後、記事はアーイシャの発言に含まれているシオニズムへの攻撃、および「我々の身体の一部を切り取っておきながら」という文言で指弾されている女性割礼がイスラエルの地では公に行われていない事実などが広く非難を集めたと報せているが、門外者からしても重箱の隅をつつくような揚げ足取りとしか思えなかった。この記事で引用されている発言だけでも、アーイシャがシオニズムとイスラーム過激派のいずれにも与することなく、同様に批判を加えつつ同様に正義を見出そうとする人であることは明白だった。とくに、アブラハム宗教の聖典を引用しながら国民国家間で行われている暴力行為の非正当性を詳かにするときの熾烈さ。ここには、私のなれなかった人間の姿がある。自らが属する世界の宿痾を正面から見据え、それを定礎する聖典の読解自体を闘争の武器とする、真の意味で宗教的な人間の姿が。
そういやあんた、ここに来るのは初めてかね。と椅子に座りながら問うお婆に、はい、とズラミートは立ったまま応ずる。夏でよかったかもしれんね。と落ち窪んだ眼窩から向けられた視線に、ええ、ドストエフスキーの小説で読んだときはペテルブルクの夏など具体的に摂氏何度なのか判じかねたものですが、来てみるとなかなか蒸し暑いのですね。と客人は普段よりいくぶん饒舌に調子を合わせる。何か飲む? 立ったままじゃなんだし。と脇から促すと、いや、いい。用件だけ済ませたらすぐ出よう。と躱される。
ついに、逝ったかい、あいつも。はい。済まんかったね、参列できなくて……いえ、ペテルブルクからテル=アヴィヴまでは長路ですから……それに、祖母もあなたがご健在だと知って、なら大丈夫だと心安らかに逝けたようです。なら大丈夫、ねえ……訥々と弔いの辞を済ませる二人をどこか遠く眺める。ズラミートは屈み込み、キャリーケースから長方形の小箱を取り出す。遺品です、祖母の。ひとつあなたに届けるようにと。言いながら蓋を開ける姿に歩み寄り、わ、ペンダント。宝石? と手元を覗き込みながら言う。いや、ガラスだよ。ガラス。祖母は晩年、ずっとこれを造り続けていたんです。砕けたガラスの破片を磨いて、角を取って、卵のように円くしたものを首飾りにする。遺品として膨大な数が残っていたのですが、あなたにも届けるようにと遺言されていまして。言いながらお婆の首にかけるズラミート、の手を撫でながら首元のものを弄うお婆。きれいだね、と誰へともなく漏らすが、ほとんど視力が無いお婆にあのガラスの透明な輝きが見えているのだろうか。あんたももらったのかい。いえ、私は……なんでだね、あたしによこして孫娘にはくれんとは、けちくさいやつだね。違います、一族の者にも配られたのですが……私は拒否したのです。またどうして。私は……祖母のものを、相続するわけにはいきませんから。
短く切られた会話に沈黙が垂れる。あいつ、他になんか言ってなかったかね。特には……というか、私は母から縁を切られて長いですから、祖母についても与り知ること少なくて。そうかい、しかし、葬式には呼んでもらえてよかったね。はい……と微笑するズラミートの面が覆い隠しているものを忖度すること自体が冒涜のようで、ただその横顔を見つめることしかできない。あんたの母さんも因果な姓のやつと結婚したね、パールムッター、なんて。ふふっ。しかしまたなんでガラスかね、あいつ金には困ってなかったろうし、宝石でも集めりゃよかったのに。と蹌踉う話題を向けるお婆に対しても、わかりませんが……祖母は数年間、ずっと同じことを口にしていたのだそうです。と明瞭に応える。「これからずっとガラスを磨いていようと思う。鉄は頑丈だが、酸化して錆びる。錆びた鉄の臭いときたら堪ったもんじゃない。しかしダイヤモンドはもっと悪い。あれはただの炭素じゃないか、酸素と化合して塵になるだけのものを、どうして大枚叩いて手に入れようと思うのか、私にはわからない」。故人の語調を真似ているのか、先ほどよりもゆっくりと低い声で話しながら、「だからガラスがよい。これは酸化せず留まり続けるだろう。砕けやすいこのものを、誰の手に触れても傷つけないように、円く磨き続けようと思う。これが私の最後の仕事だ。」と結んだ。ふうん、とお婆は椅子に深く座り直す。一体どういう意味か、お解りになりますか。わからんね。一言で取り下げられるのを見て、ちょっとお婆それはないんじゃないの、と反射的に口走る私、を片手だけ挙げて制しながら、いえ、いいんです。故人の胸の裡など、誰にも解りませんから……と引き取る。のを見て私も黙ってしまう。ありがとうね、わざわざここまで持ってきてくれて。はい、私もあなたにお会いできて光栄です。どんどん少なくなってくね、あのことを知る人間は……そう、ですね。ああやだやだ、どんどん悪くなってくよ。まーた始まったー、お婆、また戦争が始まるよーとか言うんでしょ。ちがうよ。えっ。ちょっと前までは思ってたけどね、もはやそういうのでもない……あれとは違うことが起こるよ。あれと同じくらい悪いことが、全く別のしかたで起こるんだよ。
どういう意味だったんだろ、と空港へ向かうタクシーの中で漏らした問いが、おそらく、比喩で語っていたのだろう。鉄、ダイヤモンド、ガラス……と荘重な声音で解きほぐされる。いや、私はお婆の繰り言について訊いたのであってズラミートの祖母についてではないんだけど、と訂正するのも無粋なように思われて、酸化して錆びた鉄、は、収容所の記憶か。残忍さや暴力性、そういったもの。と五指を組んで正面を見据える人の聞き手に回る。ダイヤモンドは、金銭への執着、奢侈や華美などの虚飾……あるいは広義の偶像崇拝、か。うん、だとしたらガラスはなんだろ。ガラス……砕けやすく、人を傷つけるもの。しかしそれを円く磨きさえすれば、透き通った光を放つようになる……言ったきり沈思するズラミートの脇から、自ら努めて寛容である、ってことかな。自分の身を削ってでも、みたいな。とやけに分別のいいことを言ってみる。そうかもしれない、が……やはりわからない。わかってはいけない、ような気がする。そっか。わかってはいけない。結局は、ズラミートの祖母が死の淵にいたるまでガラス玉を磨き続けていた、その事実こそがすべて。そしてこの孫娘は、その遺品すら相続しなかった。祖母や母が根を下ろした国の系譜に連なることさえ拒んだ、この孫娘は。ゾフィア。何。君とふたたび会えて、嬉しく思う。クラクフでの日々は、私の生涯で数少ない、歓びに満ちた思い出としてあるから……ははっ、お婆たちと比べたらまだ全然生きてないでしょ、これから良いこともいっぱいあるよ。そう、か。しかし日本かー、お互い初めてだね行くの。ああ。ゴキゲンなやつらばっか集まってるはずだから、きっと大丈夫だよ。ズラミートも、その相方さんも。そうか、そうならいいのだが。
おー! つい感嘆の息が漏れる。ほんとにできちゃったんだ城! すご、新築みたいですね。同じタクシーで乗り合わせたイネスとヤスミンも燥ぎを隠さない。長らく買い手がついていなかった三階建の物件、を買って大規模な改修を加えて完成した、これがわたしたちの城。まさか豊島区にこんな立派な建物が放置されてたとは。池袋みたいな浮ついた区域とも距離があるし、ここまで来る途中に見かけた住人たちも四〇歳代以上ばっかな感じで、わたしらがやってる音楽にも興味なさそうに見えた。結果として、渋谷か新宿よりも住まいやすい環境を得たのかもしれない。これもう入っちゃっていいの? あーまだ鍵もらってないから……えーと尾道? 呼びかけると、エントランス前に懐かしい顔が投射される。尾道ですが。おーひさしぶり! お疲れだったねー全部改修作業任せちゃって。しかしありもんの物件買って尾道に改修させてって、杜さんもケチなのか贅沢なのかわかんないよなー。とエントランスの銅っぽい色の門を眺めながら言うわたしらに、もう少々お待ちください、鍵を持った私が参りますので……と応じるうちにもう一人の尾道が。向こう側に見える自動ドアを通過し、門の鍵を解錠する。はい、こちらからどうぞ。あは、あれだよ尾道、ビームで人間が出てきたり同じ顔したのが何人もいたりするの見られたらやばい噂立つかもだから、近隣住民の目には配慮しなきゃいけないよ。と言われましてもね、私は私ですので……ふふっ、みんなもう着いてるんですか? シーラ様と測様とイリチ様はお着きですが、他の方はまだ。そっか、じゃあ先に中見とこうよ。
エントランスをくぐると、六、七歩くらい先にエレベーターがふたつ。右手側の部屋には防音扉が。スタジオだ! はい、Yonahに積んでいた機材をそのまま入れました。扉を押し開くと、確かに見慣れた感じのミキシングコンソールやレコーディングブースが。いいじゃんいいじゃんー。イリチ様のスタジオから機材や人員を調達するという話もありましたが、ひとまずこれで十分かと。だねー、渋谷に建てるんだったらそうしようと思ってたけど。そうだ尾道、測と漁火ちゃん呼んできてよ。はい、と言った瞬間に目の前の姿が解れる。スタジオを出てまっすぐ歩き続けると、突き当たりに観葉植物の鉢いくつかと自販機が。おー飲み物全部¥0。そりゃそうだわたしらの城だもんなー。こっち見てみろ九三、と呼ぶ声の方を向くと、なんそれ、卓球台? そう。あはは、なんでこんなとこに。これ、한나が絶対ほしいって言ってたやつです。そっか、みんなでほしいもんのリクエスト出し合ったっけ。卓球台の向こうには、あれはたぶん緊急避難用の階段だろうか、そしてエレベーターの裏側に大きめの鉄扉が。なんか物資とかの搬入口かな。んーだだっ広くて地味な感じだけど、まあ後で絵とかタペストリーとか足せば……ねえさんー! おー漁火ちゃん。元気だったー? 相変わらずっすよおー、ねえさんも夏休みどうでしたかー? いやーのんびりしたよ、楸とかと朝まで飲んだりね、久しぶりの実家楽しかったー。ふふっ、娘が世界一になって帰ってきて、さぞかし鼻が高かったでしょうね。はは、母ちゃんも父ちゃんもわたしの音楽全然わかんないって言うけどね。ていうか測、姫は? 来てるけど、いま三階にいるはず。内装を見ときたいから、って。そっか、わたしらも上見とこうよ。あたしらの部屋二階っすよー。おし、じゃ案内して。
エレベーターから出て正面の部屋、そこにでっかく「93」のプレートが。おおー、豪勢な! 測がカードキーを近づけると、ピピっと鳴って鍵が開く。お、一間? そうね、キッチンとトイレとシャワールームが別れてる以外は。Yonahのキャビンでは広間と寝室とスタジオが分けられてたけど、これは……なんかすごいホテル然としてるというか。たしかにシステムキッチンほしいとは言ったけど、ここだけなんかむりやり備え付けたみたいな風情。そしてシャワールーム、あれ。なんか見た感じ綺麗ではあるけど……このゴテゴテした感じ、もしかして。尾道。尾道ですが。あのさ、この階って大浴場は無いの? ありません。ひとつ間取りを増やせば可能かと思われたのですが、排水路の都合で不可能でした。そっか、元々どの階にも無かったんだっけ。はい。で、尾道、この城って買い手がついてなかった宿泊施設の物件を改修したって訊いたけど……そうですが。どの階にも大浴場が無い、一間の部屋ばかりの物件、ってさ。ラブホだよね? と問うと、数秒置いて、主に日本において発達した性交を目的とするカップル向けの宿泊施設、という意味でしたら、その通りです。と律儀な返答が。だよね、やっぱり。部屋の間取り見てそうじゃないかと思ったんだよなあ……まずかったでしょうか。いやまあ、悪くはないよ。ただみんなこれからラブホの部屋で寝泊まりするのかあ……何その苦笑。いやあ、言うべきかどうか迷うじゃん。そうだ測、姫三階って言ったけど、あっちも同じ間取り? ええ、二階と三階はね。でもこのフロアで全員足りるじゃん、三階って誰が住むのかな。Peterlooの人らとか? いえ、マキ様や典午様のお部屋は一階です。そんな部屋あったっけ。救護室としてあてがわれている部屋をそのまま使う、と仰ってましたが。なんでそんなとこ……三階は、主にアーイシャ様のお連れ様が起居するフロアになるので、他の階とは分ける必要があったのだったそうです。
誰。アーイシャ・ウムァジジ。えっと、それって誰。あーやっぱりねえさんも知らなかったすか。漁火ちゃんが送る視線を受けて測も頷く。聞きかじりの要約をしてもしょうがないから一言で済ませるけど、イラン出身のダンサー。その人が主催する団体が日本に滞在する、んだって。測らしくもないたどたどしい述懐。イラン……姫と同じように、故郷に居場所がなくなって、安全な場所を求めて日本へ、ってことらしいけど。ってことはPeterloo関連か。尾道そのへん知らないの? 私はYonahに配属されて以降のことしか知りませんので、なんとも……ただ、六月にDyslexiconから通達がありましたので、ロンドン公演前にはもう予定が立っていたようです。そっか、で、わたしが城建てるって言い出したから、そこが滞在先としてお誂え向きだと。そういうことっすよね。
イランからの避難民、か。ってことはイスラームだよな、あっゾロアスター教もあるんだっけ。そんな人が元ラブホの物件に滞在しちゃっていいのかな……と思いを巡らすうちに、あなた、まさか不二良のこと思い出してるんじゃないでしょうね。と不意を衝かれる。なんそれ関係ないじゃん。あいつも確かイラン出身でしょう、あなたなら例によって関係妄想めいたことを……なんだよステージ落ちたときの話かよ、もうあんなん無いって。と言いつつ、でもダブリンには確かに不二良いたんだよな、四七もそう言ってたし、そういえば測まだ四七と不二良のこと知らないんだよな……とまた口籠るわたしに不審げな眼差しが刺さる。そうだ尾道、四七はどこ行ったの。と無理やり測以外のほうへ視線を向ける。お迎えに上がっております、アーイシャ様を。今日の夕方には着くとのことでしたが……そうなのか、もうすぐじゃん。マキさんとあともう一人は? マキ様は典午様と一緒に、ヘリコプター調達の準備を。なんそれ。あなたが欲しいって言ったんでしょう、ヘリコプター三機くらい屋上にって。えっあれ本気にしてくれたの? 杜さんが全部叶えるって言ったんだから、本気にするしかないでしょう。手続きは昨日のうちに済ませたので、夕方には戻るとのことです。そっか、じゃあアーイシャ? が到着したときにまずいことがないように、三階の点検しとこうか、とくにキッチンとか。既に姫があらかた済ませてると思うけどね。あそっか、そのために行ってたのか。
野菜、小麦、牛乳……こんな感じでいいのかな。まあ十分だろう、要るものは着いた後から買い足せばいい。なんか業務スーパーでハラール食とかあるじゃん、ああいうのだめかな。だめではないが、ハラールだからといってバクバク喰っていいわけでもないからな。とくにアーイシャはそういうの厭うほうだと思うが。そうなんだ……ていうか姫は会ったことあるの? 一度だけな。あ……ねえさん、着いたみたいっすよ。え。四七が門前に到着したようです、これから解錠しますが、よろしいでしょうか。あー、いいよね姫? ん、歓迎の挨拶はあたしがやろう。ちょっといいかな姫。なんだ。折角だから、私も立ち会いたい。これから一緒に暮らすのだし……いいかな? 許可を得ることでもないだろう、お前たちの城なんだし。ふたりはどうする? あたしも行くっす。うん、わたしも。
自動ドアが開き、四七に先導されて幾人かの影が。六……人? これで全員なのかな、アーイシャが主催する団体、とか言ってたけど。一様にヒジャブを着用した人々のシルエットが、ガラス窓からの逆光でさらに昏くなる。その中の一人、四七を通り過ぎてこちらへ歩を進める姿が、室内の電灯によってデッサンを濃くする。この人か、夏木立のような深緑の瞳。アーイシャ・ウムァジジ。
as-salāmu ʿalaykum. と、フロアに涼やかな声が響き渡る。のと裏腹に、えっとこれ、なんだっけ、どう応えるんだっけと数瞬の煩悶で背中に汗が滴る。ところに姫は歩み出で、 wa ʿalaykumu s-salām と明瞭に返した。銀髪の小柄な姿と、暗色の衣装を纏った背の高い姿が、数歩の距離を挟んで相対する。既にお聞き及びのこととは思うが、アーイシャ・ウムァジジ以下六名、今日よりPeterlooの保護下において日本に滞在する。この度は施設を提供してくれた厚遇に感謝する。と淀みない日本語で述べられた挨拶に、遠路遥々よく来たな。迎える以上、客人の滞在に一切の不便が無いよう計らうことを約束する。これから何か問題事があったら、このシーラ・オサリヴァンに言ってくれ。と姫も整然と返す。握手、するかと思われたが謎めいた沈黙が数秒あり、双方とも手を垂らしたまま佇立する。我ら啓典の民、互いに粗相なく過ごすことを誓おう。とアーイシャが言うと、姫も黙礼で報いた。
なんだろう、今まで感じたことない緊張だな、と事の次第を眺めていると、唐突に空から騒音が。えっなに。音源がこの建物の真上で静止する。ははっ、同時でしたか。と笑う四七、の口ぶりから、瞬間的に意は察せられた。ヘリ、か。到着したのかマキさんも。口には出さず、アーイシャと姫のほうへ向き直る。ふたりとも佇まいを崩さず、同じエレベーターの表示を見つめていた。三階から一階に下降し、ベルとともに停止する。扉が開き、ふたつの人影が歩み出る。
as-salāmu ʿalaykum. 日本人女性からの挨拶に wa ʿalaykumu s-salām. と客人が返す。岩走マキはアーイシャとシーラを交互に見比べ、シーラ、応接の儀ご苦労だった。と短く言う。姫の頬にほのかな微笑が灯る、のを見届けて、マキはアーイシャのほうへ向き直る。案内しよう、アーイシャと「Aminadab」の皆様。この城は只今から、あなたがたの居場所だ。
あなた、まるで除け者みたいだったね。そうだよー、わたしが建てた城なのにさー。と呻きながらベッドに倒れ込む。それにしても姫、まともに応対できてたじゃない。まあね、なんか変な緊張感あったけど。啓典の民、か。同じ一神教の、ってことだよね。そうね。もしかしたらいがみあってるんじゃないかとも思ったけど、その辺は心配しなくていいのかな。良心的なイスラームならキリスト教徒に憎悪を向けはしないでしょう、姫も硬直的な原理主義には靡かない子だし。
と、話してるうちに外からノックの音。はい。測が解錠すると、ちょーっといいか、とイネスが歩み入る。どうしたの。測なんか聞いてないか、今日の記者会見のこと。記者……会見? 身を起こしてわたしも入口まで歩み寄る。ああ、さっきプレスから問い合わせの電話があったんだけど……それも複数。どんな? 本日の会場はそちらでよろしいでしょうか、開始時刻は何時頃でしょうか、とか。えっ、やる前提。A-Primeからは何も聞いてないの? あれはラテンアメリカツアーだけの運営だからな、管轄外のはず。杜さんからは何も? ええ、昼に一通メールが来たけど、記者会見どうこうは……それくらいこっちでやっといてってことじゃないの、あの人ならありそう。それより測、今さっきすごいとこから電話かかってきたんだけど。すごいとこ、って? 東京オリンピック運営委員会、って言ってた。
え。
もしか、したら……ポケットからスマートフォンを取り出す測。この、κωμόςジャパンツアーの日程なんだけど。なんコーモスって。今回のツアータイトルじゃない、あるいは私たち一一人のユニット名。こっちで決めた憶えないけどな……えと、第一公演が? 七月一八日の東京で、会場は、新国立競技場。え。って、あれじゃん。そう、東京オリンピックの……しかも一八日って、開会式じゃん。そう……って、ことは。
入口で固まるわたしらのもとに、もうひとつ人影が加わる。姫。あ……お前らはもう知ってたか。何、オリンピックがどうとか。言うと、姫は静かに頷く。さっきマキから聞いたんだが……あたしら、κωμόςって名前で、東京オリンピックの開会式に出なきゃいけないらしい。
沈黙。
なんで。なんでって、杜の旦那が決めたからだろ……今回の来日ツアーのお膳立ては全部任せたんだし。だからってオリンピックはねーわ!! いや、ありそうな話だよ……初めて空港で会った時、やたら熱っぽく話してたでしょう、ディオニュシア大祭を現代に蘇らせる、とか。あのとき言ってたことが全部本気なら、直近のオリンピックはお誂え向きの舞台でしょう。ちょっと待って、そもそも開会式ってあれでしょ、秋元康のなんかが出るんじゃないの? だったらしいが、「一時間くらいの枠を買った」って言ってたぞ。買った。まあ……明らかだものね、オリンピック運営が利権の世界だってことは。えええじゃあ本当に出なきゃいけないの!? 「準備は全部整えたから、あとは好きなようにやってねえ」とか言ってたから……そういうことだろうな。なんでいつも直前に連絡よこすんだよ!! まともな人じゃないってことはわかってたでしょう。わかってたけど、これは……どうするイネス? んーもう仕方ないから、うちらの公式サイトに会見の予定出すしかないか。あっちの管理はA-Primeがやってるから、パンゲアに連絡しとくよ。
と、告知を出したはいいのだが、入場パス発行申請に並ぶ団体名があまりにもバラバラすぎて、一体何の目的で来るのかすら定かでない。ナタリーとかAbemaとかはわかるけど、この東京コンテンポラリーダンスフェスってのは何、わたしらのジャンルじゃないよな。見せてみろ、これは……アーイシャの取材じゃないか。え? Aminadabの公演があるんだよ、たしか一週間後。今日の夜に到着って連絡はしてるだろうから、それで来たんだろう。えっじゃあ……わたしらだけの記者会見じゃないってこと。イスラミックセンター・ジャパンみたいな名前もあるから、おそらくそうだろうな……どうしよ測。どうって、合同記者会見にするしかないんじゃないの。もしアーイシャだけ個別の取材にしてほしいってことであれば、そうするべきだと思うけど。んー……ごめん姫、アーイシャに訊いてきてくんない、取材が入ってるんだけど、って。ああ。
結局、全部いっぺんに済まそうって流れになり、わたし、測、イネス、そしてアーイシャの四人で三〇分間の会見に応じることになった。大舞台を前にして意気込みはどうですかとか、待望の日本公演ですねファンにメッセージをとか問われても、わたしらだってさっき知らされたからには通り一遍の答えしかしようがない。が、とある記者が突然、遅ればせながら九三さん、χορόςロンドン公演での優勝おめでとうございます。と慇懃に切り出した。あっこの人あれだ、『Limbo』のビデオ出したあたりから熱心に取材してくれてる人だ。ありがとうございます。ならびに、本日この城もめでたく完成したようで、祝賀の念を述べさせていただきます。まずはじめにですが、この城は「日本でいろんな表現をやりたい人たちの居場所になればいい」との展望で建てられたとのことですが。あっそうです、そういうコンセプトだったよねえ測。ええ。最初は渋谷か新宿あたりに漁火ちゃんの、うちのギタリストの所属するスタジオと合併しようかなって話だったんですけど、あんま良い建物が見つかんなくて、それでここに決めたんです。と、今日の会見で初めて事務的でない返事ができた。なるほど。それでは、今回の……アーイシャさんの滞在先としての提供も、「居場所になればいい」という理念の一環でしょうか。と不意を衝くような問いに、どう答えるべきだろう、そもそもPeterlooの名前出していいのかな、その保護下でアーイシャは来日したってことになってるんだからいいか、あっでもこの人たちそもそもアーイシャについてどんだけ知ってるんだっけ、いやそもそもわたし自身もよく知らないじゃん、と案文を練りかねるうちに、もちろんその通りです、と測が答える。理不尽な暴力で表現の場を奪われるなど、あってはならないことです。私たちも彼女たちのために場所を提供できて光栄に思います。と、優等生な回答でひとまずことなきを得た。理不尽な暴力……? ごめん測わたしその件全然知らないんだけど、の目配せを送ると、この場は取り繕っておきなさい、の眼差しが返った。
じゃあ、次の方。と記者団に促し、挙がった手の中から適当なのを指差す。東京コンテンポラリーダンスフェスの運営です、あ、さっきの。アーイシャ・ウムァジジさんに質問です。まず今回、日本が滞在先に選ばれたことに驚いたファンも少なくないと思います。あなたの主催するAminadabは既に欧州の観客から高い評価を受けていますが、この城でχορός参加者と起居をともにするということで、もしかしたらコラボレーションでの作品発表もありうるのでは、と囁かれています。その可能性に関してはいかがですか? と、初めてアーイシャ個人への質問が向けられ、記者席にも若干の緊張が走る。万座が見つめる中、アーイシャが口を開く。ご期待を頂いているのは大変ありがたいのですが、その可能性はありません。Aminadabと彼女らの、χορόςと呼ばれる興業との間には著しい懸隔が存在しますので、コラボレーションの成立は質的に不可能です。との整然とした受け答えに、そうですか、わかりました。と記者は委縮したようになり、来週に控えているAminadabでの公演、楽しみにしております。と蛇尾な感じで質問を終えた。
あーしんどかったー、なんて長い三〇分。おつかれー、とりあえずなんとかなったな。えらいとっちらかった会見だったけどねえ。そりゃ、別々の取材をいっぺんにだもんな。姫もおつかれ。ああ。アーイシャは? 夜の礼拝があるからと、もう三階に上がった。あ、礼拝。の設備もあるの? 設備って、イスラームの礼拝では儀式めいた道具なんか使わないからな。そうなの。ああ、イマームと人々が集まる部屋さえあれば、どこでもそこがモスクになる。イマーム……礼拝を執り仕切る人、ってこと。スンナ派の用法ではそうだな。それもアーイシャがやってるのか……いやーしかしGILAffeさまさまだねえ、急な取材でもどうにかなった。え? アーイシャは入れてないぞ。え。あいつも、一緒に来たムスリマたちも、誰一人GILAffeなんて入れてない。来る前にクルアーンの日本語訳を読んで、文法と発音をひととおり勉強してきたらしい。え、ひととおりであんな!? 他にもペルシア語とか中国語とか、インド・ヨーロッパ語族系の言語もほとんどできるはず。すげ……外国語訳のクルアーン読んだだけで? 亡命しながら表現活動やってるんだ、語学が達者なのは当然だろう。亡命……わたしそのへん全然なんだよ、測は知ってるの。姫から教えてもらった限りはね。まあ今日は夜も遅いし、明日からでいいだろう。打ち解けるには時間がいるさ。まあ、そう……かな。
新しい枕の感触ってのは、どうも不思議だ。ああ、これからはここで暮らすんだなって、遅れて腑に落ちる感じ。改修したばかりの部屋の匂い、いつもの歯磨粉の舌触り。変わってるようで変わってない。こうしてまた始めるしかないんだ。
おはよ測。うん。漁火ちゃん寝てる? 先に出たみたいだよ、今日はずっと渋谷らしいから。あそっか、あっちのスタジオか。行き来しなきゃいけないから大変だなー……今日はわたしらセットリストの打ち合わせ? それは教授と한나が来てからのほうがいいって。それまではずっとオフでいいんじゃない。えーでもオリンピックだよお、相当練習しないと……あのロンドン公演から一ヶ月も経ってないのだし、焦ることでもないでしょう。InnuendoやDefiantがヘタ打つとも思えないし。エリザベスとウェンダはいつ来るんだろ。そのへんは尾道が取り次ぐはずだから、心配しなくていい。
ってことは、ほんとにただのオフなのか今日。ここ一ヶ月ずっとそんな感じだけど。あそうだ今日、姪浜のわたしの部屋から私物が届くはず、蔵書とかの。とりあえず午前中はここにいないと……あっもうないわラッキーストライク。うっかりしてたな、飲み物は一階に自販機あるけどタバコは……あーこの辺で一番近いコンビニどこだろ。とか思いながら自動ドアの外に出ると、え。うわ。なんだこれ。エントランスの煉瓦造りの柱、わたしふたりぶんくらい上のとこに、ラッカースプレーで書かれたと思しい文字列が黒々と。
TELLOLIST
なにそれ。「テロリスト」って書こうとしたのかな。そんなLばっか使うのおかしいだろ、書く前に辞書くらい引けよ。どうしよ、尾道。尾道ですが、うわっ……うわって、やっぱ見てなかったの。はい、今日素体で門前に出たのは初めてで……これは、誰の仕業ですか。こっちが聞きたいよ、ちょっと尾道、シンナーかなんか無い? 塗装で使ったものがたしか……すぐ持ってきて、脚立も! はいっ。
ちくしょーなんでこんな高いとこに、どうやって吹き付けたんだ、位置からしてあの……門の縁のとこ登ったのかな。わざわざ人目を忍んであんな……九三様。おう、脚立おさえといて。はい。あっダメだ全然……尾道、長柄のやつ無い? 雑巾挟むようなやつ。はいっ、取ってまいります。くそー早く消さなきゃなのに、こんなの見られたら……
あ。
アーイシャ。お出かけですか。と戯けて声をかけても、門前の彼女の視線は柱の落書きに釘付けになっている。どうしよ、わたしが書いたんじゃないよとか言うべきか。いやかえって逆効果だろ、彼女が来て初めての午前なのに、こんなの見られちゃって……と押し黙りながら脚立を降りるこちらへ、アーイシャが歩み寄ってくる。えっ、あのっ。目の前の脚立が奪われ、横倒しにされる。接地部のストッパーのようなものが押し上げられ、脚が伸ばされる。あっそこか、まだ伸びたのか。さらに接合部の留め金を外し、A字に折り曲がっていたものが直線の梯子のようになる。えらい慣れた手つき、あ、え。押さえておいてくれ。と一言だけ放り、雑巾とシンナーの容器をとり、上方の落書き目掛けて伸びた梯子に足をかけようとする。あっちょっ、いいよわたしがやるよ。と言うも虚しく、アーイシャの靴先が梯子にかかる。あーもう、こうなったら言われた通りにするしか。七月の午前の日差しを浴びて熱を帯びてきている金属、そこから伝わる振動を両手で御する。落ちないでよ。見上げて窺うと、アーイシャは左足の爪先を梯子の端にかけ、落書きのうえに雑巾を押し当てているところだった。器用だな、やっぱりダンサーの身体って一味違う。とか呑気に眺めていると、シンナーの容器からこぼれたものが石畳に滴る。ほんと落ちないでよ。言っても梯子の上の人はこちらを窺いもせず、黙々と動作を続けている。まだ塗料が固まりきっていなかったのか、落書きの痕跡はシンナーできれいに拭い取られていった。目的を遂げると、梯子を降りてくる振動が両手に伝わる。気をつけて。と呼びかけても返事はなく、アーイシャは危なげない挙措で地上の人となった。
ほんとごめんね、見られる前に消しとくべきだったんだけど。なにか糊塗するような物言いでかえって気まずくなり、シンナー容器と雑巾を受け取る間にも所在が無い。アーイシャは脚立をふたたび二つ折りにしながら、不憫だとは思わないか? と眼を伏せて言う。え? 誰かに対して憎悪の念を表明するとして、言葉の遣い方が間違っていては、憎悪すら正しく伝わらない。そのような怯えた言葉の遣い手たちのことを、不憫だとは思わないか? と脚立を横抱えにしながら、今度は両眼の視線を合わせて言う。あ、ああ、 TELLOLIST はないよねえ。あ、それこっち。と言いつつさっき尾道が戻っていったほうへ先導する。そもそも「テロ」の語源はフランスだ。フランス革命後の、ロベスピエールの独裁政治に由来する。つまり我々イスラームに「テロリスト」の幻想を投影するなら、それは自らの血塗られた歴史の責任を外部に押し付けている、ということになる。と歩きながら筋道立てるアーイシャに、あはは、そうだね。と調子を合わせるも、ラ行の音素でLとRを混同するのはうちの国くらいのものであって、あれを書いたのは白人じゃなく日本人しかありえないんじゃないか……と思わざるを得ない。が言わない。昨日の記者会見にも、いかにもそういう錯誤を犯しそうな顔ぶれが何人か見られた。大方その手の輩の仕業だろう。そうなのかな……ごめんねアーイシャ。なぜ君が謝る? いや、見せたくないもん見せちゃって。うちにいたら安全って、思ってもらいたかったのに……と口籠るこちらへ、そのような心配は無用だ。と、歩みを止めて言う。え、だって、不安でしょ、こんな脅しみたいなの書かれて。不安? 怯えた言葉の遣い手を前にして、か? むしろ憐れだよ、あのように誤った言葉の遣い方に慣れてしまった人々は、我々の聖典に記された宝のような句の数々も理解できないのだろう、と思うとね。
表情一つ変えず言い切るのを見ながら惚けたようになるわたしに、九三様。の声がかかる。あっ尾道、もう大丈夫だわ。これとこれと脚立だけ返しといて。と雑巾とシンナー容器を渡し、アーイシャも脚立を置く。はいっ。小走りで遠のく尾道を見送り、わたしらも門前へ戻る。彼は男性か。ああ、まあそんな感じ。この城、には大浦典午氏しか男性はいない、と聞いていたのだが。うんそうなんだけど、一応あの尾道もいるかな。あと、昨日あなたを迎えに行った四七ってのも、いちおう肉体的には男。と註釈すると、明らかに眉に厭悪のようなものが浮かぶ。なんでもよいが、それらの人々は三階には近づけないようにしてもらいたい。うん、言っとくよ。あとほんとにごめんねアーイシャ、二度とこんなこと無いように、今日からはずっと見張らせとくから。先ほども言ったが君が謝るようなことではない、この手のことは飽きるほど見てきた。あっ、やっぱ前にも同じようなことされたの。落書き消すの慣れてるな、と思ったけど。まあ、欧州を周っていた頃に何度か。とくにフランスでは顕著だった、あの国はどうも慇懃無礼なのだ。とある新聞社の女性が「そのような真っ黒な頭巾を着けていて暑くないですか、不便なのではありませんか」と訊いてきたことがあった。はは……私はこう返したよ、「これは聖典に明記されている正統の衣装であり、優れて美しくこそあれ不便なことはひとつもありません。我々は我々の文化で育まれたものを着ているだけです。ところであなたはハイヒールを履いておられますが、そのように脚部への負担を強いる靴を履いていて不便ではありませんか?」と。
門前まで至り、どう返したらいいのかわからず、とりあえず笑ってみる。けっこう言うんだねアーイシャ。何かおかしなことが? と、寸毫も眉を動かさず言うので、不二良ならこういうことも笑いながら言うんだよな、アーイシャはずっと真顔だけど。ただ表情が違うけだけで根っこのところは近いのかも……と、目の前の女性と数年前の交際相手の記憶を擦り寄せてしまっていることに気づき、あっいや、そうだね、そうかも。と意味不明瞭なことを言い繕う羽目になる。のを一瞥しながら、アーイシャは背を向ける。あっ、外出? 鍵は持ってる? 言いながら門を解錠し、ああ。と短く答えるアーイシャの横に並ぶ。買い物か何か? ああ、正午の礼拝までには戻る。食料品の買い出しなら手伝うよ、ひとりじゃ大変でしょ。と言うと、君は何を? と短く問われる。ああ、わたしはタバコを……と言うと、目の前の人の肩が翻り、右目だけがこちらを向いている。あ、しまった。酒がまずいのは知ってたけど、タバコもなんだっけ。と固まるこちらへ、よい、君の手は借りない。と拒絶の言葉が放られる。
あー、しくったあー。遠のく背中を見送りながら幾許かの後悔が胸を刺す。九三このばかー、ヒジャブ着けてるから不二良ってわけじゃないんだぞ。ほんとこれから気をつけないと、変に馴れ馴れしくならないように……でも。あの人の、目の前の不正に断固として立ち向かう姿勢、かっこいいな……いやいや、こういうのが馴れ馴れしいんだってのー。あーもう尾道。はいっ。同じことが二度と起こらないように、これから毎日門番担当の尾道を置いといて、最低でも一人。サーバにはそんな負担にならないでしょ。はい、そのようにいたします。うん、あと門前に監視カメラつけといたほうがいいな、暗視もできるやつ。四七かマキさんに発注してもらっといて。はい、そのように。
あーいどうも、おつかれさまです。配送業者から段ボール箱を受け取り、エレベーターの前まで運ぶ。降りてくるのを待ちながら入口の方を向くと、あ。アーイシャ! 自動ドアを通過する姿に手を振ってみる。両手に買い物袋を提げていたので応じるわけがなかったが、こちらに視線を向けてはくれた。おかえり、荷物いっぱいだねー。ああ。茶葉とか、コーヒー? ああ。無味乾燥な会話を遮るようにベルが鳴り、床に置いた段ボール箱を持ち上げる。中に入り、肘で2と3のボタンを押す。エレベーターの中でふたりきりになり、気まずい沈黙が流れる。今から礼拝? ああ。じゃ、今から見学にいっていいかな? いや何言ってるんだわたしは、そんな気易く言っていいことなのか、と遅れて訝しくなり、いやっ、これから一緒の建物で暮らすからさ、ちゃんと理解したいと思って。と遁辞めいたことを並べる羽目になる。アーイシャはこちらに一瞥くれ、もちろん構わない。が、モスクの中は禁煙だ。と釘を刺す。あは、わかってるよ。じゃ、すぐに行くから。二階で降り、足早に部屋へ向かう。
三階へ上がるエレベーターの中で、一人のヒジャブ姿の女性と一緒になる。なんか話しかけようかな、あの挨拶なんていうんだっけ、と思案してるうちにベルが鳴る。三階のフロアに出ると、扉が開け放たれている部屋が見えた。中を窺ってみると、既に室内にはアーイシャを筆頭にムスリマたちが集まっていた。どうしよ、なんか特別な作法とかあるのかな、とまごついていると、アーイシャが向こうから歩み寄ってくる。あの、入って大丈夫? ああ、ただ礼拝の列には割り込まないように。言われるままに靴を脱ぎ、ムスリマ達の列を遠く眺めつつ絨毯に座する。さすがに余所者がひとり紛れ込んでは、女性たちも不審げにこちらを窺う。入口付近でふいに手持ち無沙汰になり、備え付けられていた本棚からなんとなく一冊取り出してみる。うわ、読めない。酷薄なまでに読めない。これがアラビア語、右から左に読むんだよな。見た感じ文字っていうよりむしろ、すごく綺麗な模様みたいな……いやいやそんなオリエンタリズム丸出しの逃げ方してどうする、聖典なんだぞこれは。クルアーンなのかハディースなのか、どっちなのかすらわからないけど……と渋面でページをめくるこちらをよそに、モスクの中に声が響く。両手を耳の高さまで上げて、あれは始めの挨拶かな。あれ……これ、アラビア語だよな、いま発話されてるのは。なのに、まったく作動しない、GILAffeの翻訳機能が効いてない。なんでだ、今まで英語とかフランス語とかドイツ語とかで話しかけられたときはちゃんと日本語に訳されてたのに。まさかアラビア語だけ特別なんてこと……とか思ってる間にも礼拝は進み、朗唱を続ける人々の背中を凝視する。アッラーフアクバルって聞こえた、それはわかったけど、やっぱり日本語には訳されてない。なんだろう、GILAffeの故障かな。いや、よく考えたらこんな猫型ロボットのひみつ道具みたいなのがまともに作動してること自体おかしいんだけど。でも、これは、前にもあったはず……そうだ、初めて한나と会った時。韓国語でラップしてるのはわかったけど、何を言ってるかは全然わからなかった。普段の会話はGILAffeの標準語である日本語で済ませてたから気にならなかったけど、それでも한나や姫やイネスが母国語で唄ってる歌詞は、翻訳されては聞こえなかった……そうだ、なんで今更こんなことに気づくんだ。GILAffeが翻訳できるのって話し声だけなんだ。唄声はなぜか無視される……ということは、これは。わたしがいま耳にしてるクルアーンの朗唱は、これも音楽なのか。少なくともGILAffeはそう判別してる、ってことになる。
あ、れ、もう終わり。なんだろう、時が飛んだのか。まさか居眠りしてたなんてこと。いや違う、聴き入ってるうちに終わったんだ、話し声のようにも唄声のようにも思われる、あの朗唱に。こん、にち、は。と、礼拝を終えて入口に戻ってきた人々を前にして、たどたどしい日本語で挨拶する。彼女らは微笑とともに、こんにちは。とにこやかに返してくれた。今のは日本語だよな、わたしに合わせて言ってくれた。じゃあ。皆さんが礼拝するのを見学させてもらっていました、ご迷惑ではありませんでしたか。と、これはアラビア語で言ってみる。GILAffeの翻訳機能がちゃんと作動してるなら伝わるはずだ。わたしの唇はわたしも何を言ってるのかわからない音声を発話する。と、女性たちは驚いたような表情で口を開く。まさか、迷惑ではありませんでしたよ。それよりアラビア語話せるんですね、びっくりしました。と聞き取れた。わたしが耳にしている日本語の訳文と彼女らの唇の動きは、もちろん合致していない。彼女らのアラビア語をわたしの中のGILAffeが勝手に処理してるだけだ。続けて、いえ、これはちょっとしたずるをしてるのであって、本当は外国語はぜんぜん話せないんです。と、今度はペルシア語で言ってみる。すると、彼女らの何人かは笑い声さえ上げて、そうなんですね、欧米の一部ではそういったものが流通していると聞いていましたけど。でも私たちは皆イランの出身ですけど、誰もがペルシア語を話せるわけではないんですよ。ええ、アーイシャみたいに語学の才能があったらいいんですけど。と、これも日本語で聞こえた。彼女らがアラビア語とペルシア語のどちらで話しているのかもわからないのに、わたしには日本語として聞こえる。彼女らの音声が外国語のはずだと判別できる根拠は、ひとえに唇の動きとわたしの聞いている訳文が一致していないという、ただ一点のみだけだ。
どうしてだろう、どうして今更こんなこと疑問に思うんだろう。もちろん、今までは専らGILAffeが入ってる人たちを相手にしていて、日本語だけを聞くことに疑問を持っていなかったから。でもGILAffeは、なぜだか唄声は翻訳することができない。そしてクルアーンの朗唱は音楽に分類されている……と筋道立てるうちに、もうよろしいかな。と、アーイシャの左手が肩に置かれているのを発見する。あっ、うん。本は所定の位置に戻しておくように。とだけ言ってモスクを出るアーイシャに続き、女性たちも辞去する。あのっ、アーイシャ。と呼びかけると、こちらを振り返ってくれる。何か。あのっ、見学を許してくれてありがとう。もっと色々教えてくれないかな。わたし知りたいんだ、イスラームと音楽とか、ダンスのこととか。と散らかった構文で言うと、アーイシャは呼気ひとつ置き、よろしい。私も色々知りたかったところだ、君たちの国について。と応えた。初めて彼女の方から積極的になってくれたように思えて、ほんとう。と間抜けた声が出てしまう。ああ、今度は私の方から伺おう。この後時間があるかな? もちろん。では、二階で待っていたまえ。すぐ向かう。
さて、と二階の共用キッチン前に備え付けの椅子に座りながら、私がいたイランともイスラエルとも、この国は因縁浅からぬ関係にある。それについて少し話したいのだが。と話題が切り出される。ああ、うん、いいよ。と答えるとアーイシャは咳払いひとつ置き、君が日本人であるならば当然知っていると思うが、日本はおよそ一五年前からヨルダン渓谷の「開発」に取り組んでいる。「平和と繁栄の回廊」、という名目でな。う、うん。この開発計画がいかなるものかというと、第二オスロ合意以降に細分化された西岸に、パレスティナ人に労働機会を与えるための農業団地を設置するというものだ。が実際は、当時の国境管理はイスラエルが行なっていたため、農業団地での産物はイスラエル側からの許可なしでは輸出することができなかった。つまり、入植地の経済を支持し、イスラエルの占領を強化することにしかならなかった。と並べられる事項を頭の中で整理しながら、うん。と頷くことしかできない。そして当時のオルメルト首相が自白しているのだが、この開発計画に携わったイスラエル人実業家は、日産自動車のビジネスパートナーだったそうだ。なんてことはない、最初から大企業との癒着による「開発」にすぎなかった。こうして君たち日本人が敷設してくれた迂回道路は、パレスティナ人にとっての移動時間の増加と燃料費の増大という恩恵をもたらしてくれた。まったく、大した「平和と繁栄の回廊」ではないかね。と、訥々とした事実の羅列からも静かな憤りが伝わってくる。うん、ごめん、それ、知らなかったよ。この事実を知ったときには、日本も米国やEUのような「白人」の一員に過ぎなかったのかと、大変落胆したのを覚えている。と短く結んだのち、先ほど図書館に足を運んでね、いくつか調べたのだが、と何枚かのコピー用紙を椅子の上に並べる。買い出しに行っただけじゃなかったのかと思うだけで口には出さず、いま君たちの国が何で知られているかというとこれだ、と指差される新聞記事のコピーを目で追う。一枚は英語の、もう一枚は日本語の。ああ、例の……医科大の。そう、とある医科大学の入学試験において、女性受験者の点数のみが不正に減点されていたという事実。もう二年前になるが、未だにこの理不尽な処遇を受けた者たちに謝罪や賠償が行われたという報道がない。どころか、この二年間に複数の大学で同様の事件が判明したそうではないか。新聞記事から目を離し、とりあえずアーイシャと目を合わせる。この記事を読んだ時には目を疑った、と懐からiPhoneを取り出しながら──あiPhone持ってるんだ──不正の調査を行う責を負っている省庁は、もう事態は改善したから再調査の必要は無いと発表しているそうだな。ここで訊きたいのだが、君たちは自らの政府の欺瞞的な態度を前にして何も思わないのか? と一直線に問いを向ける。えと、そりゃあおかしいと思うよ……と口ごもりながら言うと、ならばなぜ糾弾しない? 二年も前に起こった事だろう、再発の可能性があるどころか同種の実例が次々と明らかにされたにもかかわらず、君たちはこれらの不正に携わった者たちの責任の所在を明らかにしようと思わない? まさか、自分は医者志望では無いから関係ないとでも? これは君たちの憲法が保障している学問と職業選択の自由に対する明らかな侵犯、つまり違憲行為だろう。君たちは自らが則っている立憲主義が汚されているのを前にして、何も行動を起こさないのか? と、わたしよりもこの国の腐敗を慮っている異邦人の姿を前にして言葉を失い、そんなわたしの顔を見つめながらアーイシャも黙る。
……前もって調べておくことにしているのだ、その国を訪れる前には。と先程よりも明らかに消沈した声で言い、まずはOECDのデータに当たるのが一番早い、各国ごとの女性教員の比率だが、と液晶画面を繰り返しスワイプし、こんなに低い国は見たことがない、それも先進国で。私の生まれたイランでもここまで低いことはあり得なかった。と言いながらグラフの最低に位置しているJapanの文字列を指差す。うわあ、韓国との差……君たちはこうして、女性への差別が公然と許される国であることを世界中に公表され、あのような不正を前にしても何も行動を起こさない。以上の事実を踏まえると、こういうことにならないか。日本に住まう主権者である君たちは、エスタブリッシュメントによって公然と行われている差別を容認し、支持し、未来の人々にも同様のことが行われる体制を護持している、ということには。
そう、だね。目を合わせることすらできず、椅子の上に広げられた新聞のコピーに目を落とす。そうだ、この半年間、わたしたちはいい調子で世界をアゲ続けてきたけど、その間ずっとこの島国は変わらなかったんだ。というよりむしろ、わたしたちが音楽以外のことは何もしなかったから変わらなかった。ようは無駄かこの歌と言葉は、と、こんならしくもない沈思は振り解き、ひとまず背を伸ばし、目の前の異邦人の双眸を見据える。君たち自身もよく言うだろう、日本人は恥ずかしがり屋で自己主張をしない、控えめな民族だと。しかし私は不思議に思う、なぜそのように恥ずかしがり屋な国民が、書店や地下鉄や電気街にあれほど露骨な性的イメージの掲示を許しているのかと。男性も女性も同じだ、君たちは生きていて避けようもなく纏わってくる政治的事象をすべて見ないことにして、各々の性的ファンタジーを満たしてくれるものだけを歓迎しているのではないか。あの「アイドル」というのは一体何だ。歌唱も舞踏もあらゆる技術において著しく劣っている若人に熱狂して、あまつさえ偶像を意味する名で崇拝しているわけだろう。その一方で、芸能や表現に携わる内部者が政治的な意見を表明すると一転して悪罵や嘲笑を浴びせる。このように奇怪な精神は他のどの国でも見たことがない。教えてくれないか、なぜこのようになってしまったのか。私は理解したいのだ。と一瞬も視線を揺るがさず言われ、せめて誠実に応えなければと思うものの、うんいや、わたしもよくわかんないんだよね……そのへんとはちょっと違う分野でやってきたからさ。くらいの返事しかできない。
君の音楽はもっと悪い。
えっ。ヒップホップなどという、身を持ち崩した男性が淫猥で暴力的で文法的にも破綻している歌詞を捲し立てるだけの、あんな下劣な音楽に、まさか女性の身で参与するとは、あまつさえ自身で興行して収入さえ得ているとは! えっちょっと待てよ、いきなり何だよその典型的なステロタイプ! だいたい女がヒップホップやって何が悪いんだよ! 我々の聖典は教えている、男は女性的な行為を避けるべきであり、女は男の装いを真似てはならぬと。それはあんたらの世界の話だろ。ヒップホップだって色々あるんだよ、確かに暴力やセックスとは切っても切れないけど、でもそれだけじゃない。すんごい優れた詩人みたいなのもいるんだよ、しかもムスリムのラッパーだぞ、ラキム・アッラーとかTwiGyとか。ア、アッラー……!? 人の身でありながらアッラーの名を騙るとは……!! いやまあそれは、さすがにわたしも大胆な名前だとは思ってたけどさ。でも性別とかイメージとかで決めつけんな、あなただって言われたくないでしょ、イスラームの女がダンスなんか、とか。
ふいに舌戦めいて荒くなった呼吸を、ひとまず宥める。ダンスは、とアーイシャは静かに唇を開き、私にとってダンスは、アッラーを讃えるための手段だ。と告白のように言った。なんで……よくは知らないけど、ダンス続けてきたせいで色々ひどい目にも遭ったんでしょ。と薄く検索しただけの情報をたよりに言うと、知恵から遠ざけられた人々が如何なる誹謗を投げかけようと、知ったことではない。数学や幾何学と同じく、ダンスは私がアッラーを讃えるために磨いた手段なのだ。と口早に返される。え、数学。ああ。えっと、数学とか幾何学とかは学問であって、表現ではないでしょ。と質してみると、ダンスも表現ではない。と言下に切られる。
たとえば、ヒマワリの種。えっ。知っての通り、ヒマワリの種は黄金比に従って配置されている。さらに雪の結晶には、緻密なフラクタル構造が含まれている。数学や幾何学で扱われる叡智は、すでに自然の中にあらわれているのだ。神秘は水や花や火や石や、もちろん我々人類も含めたアッラーの被造物のなかに、既にあらかじめ仕込まれている。天や地や風や星、すべての被造物に。と筋道立てられるのを前にして、星も……? と呆けた声が漏れてしまう。星もアッラーが創ったの? もちろん。驚くべきことなどあるだろうか、この世界を創造し賜うたのはアッラーをおいて他にない。アッラーより優れた創造者など、原理的に存在し得ない。よって我々は、自らの卑小な意欲を働かせて表現などせず、ただ神秘を讃えさえすればよいのだ。数学も幾何学もダンスも、その手段のひとつにすぎない。アッラーの御業を称えるという、イスラームにとって最も枢要な奮闘努力の。
散々言われちゃったよお、と呻きながらベッドに倒れ込む。まあね、私たちも長らくこの国から遠ざかってたけど、それくらい言われて当然でしょう。そうなんだよな、彼女が指摘したこと自体は何も間違っていない……ヒップホップに対する物言いは、さすがにカチンときたけど。チョコレートとカステラどっちがいい。えーとねカステラ、なにそれ長崎の? 違うよ、姫と銀座に行ったとき買ってきたの。おーありがと、お茶も。しかしねー今までいろんな外国人と会って話したけど、さすがにあんだけ言うやつはいなかったよ。まあね、姫も教授も論戦仕掛けるようなタイプじゃないし。ね、訪れる国のことは必ず調べるって言ってたけど、あそこまで……どうしたの。いや、その辺が……似てるな、と思って。誰に。不二良、に。
言った瞬間、測の拳骨が眉間に押し当てられる。あ痛っ、やめてぐりぐりやめて。あれほど言ったでしょう、イラン出身だからって軽率に移入するなって。わかってるよお、だけど実際似てるんだよ、あのなんていうか、現実に存在する問題を見通す力、っていうかさ。もちろんアーイシャは不二良と比べてユーモアなさすぎるけど、でもあいつがよく言ってた……「この世界は変えられる」ってイズムを、アーイシャからも感じるんだよ。
言い終わるのを見て、測は黙して茶を啜る。変えられる、ね。うん。この世界を変えるために、危険を冒してまでダンスに取り組んでるのかな。それもちょっと違うみたいなんだよな、ダンスはあくまで手段で、表現ですらないって……と漏らすと、測も不審げにこちらを見つめる。たぶん、ムスリマとしての、特異な藝術観、てことなんだろうけど。付け加えても、測は釈然としない表情。ともあれ、あまり深入りしすぎないことね。あなたはいつだってお節介焼きすぎて自分が火傷するんだから。わかってるよお。
おいーす、と今日も正午の三階に歩み入る。モスクのほうを見ると、ちょうどアーイシャが出てきたとこだった。おーい、と手を振りながら駆け寄り、アッサラーム・アライクム! と言ってみる。 wa ʿalaykumu s-salām. と返してくれた。えへへーこれ覚えたんだ。あ、ムスリム以外が言ってもいいんだっけ? もちろん、日常の挨拶であるからには。ところで、この階に何の用かな。なんだよーつんけんしないでよ、あの共用キッチンの冷蔵庫の点検。君が手ずからするようなことか……? だってこの階に尾道入れちゃだめなんでしょ、じゃあわたしらがやるしかないじゃん。集団食中毒とか出したらまずいんだよー家主として、と話してると、いきなりアーイシャがヒジャブを脱ぐ。えっ、うわ、それ、いいの? いいのとは。いや、外したとこ見ちゃって……禁忌なんじゃないの? 男性の目に触れたら問題だが、君なら気遣いは要るまい。あっそうか、だから男性禁制なのか。と遅れて納得するこちらへ、今からワークショップなのだ、Aminadabの。と黒いインナーの袖をまくりながら言う。あ、ダンスの。ああ。ここにいる人たち全員メンバーなんだっけ。ダンスを研究する人員という意味ではメンバーだが、公演でパフォーマンスするのは私とズラミートのみ。へえ……わたし、そのズラミートさんと話したことあるかな。ここにはいない。えっ。諸用でテル=アヴィヴとペテルブルクを周っている、日本には今日到着するという話だ。あっそうなんだ、とアーイシャの相方さんのことすら知らず家主面してた自分の不誠実さに思い至り、というかそれを見透かすような冷たい視線が向けられていることに気づき、じゃあえっと飲み物持ってくるよ、冷房きいてても汗かくっしょ? アーイシャふくめて六人だよね、下に自販機あるからさ。と演技めいて言うわたしに、添加物なしの水で頼む。と短く返す。おっけー。
しかし、ヒジャブ着けてたときはしっくりこなかったけど、わたしよりちょっと背低いんだ。肌きれい、やっぱ食べてるものが違うからかな。しかし黒が似合うなあ、初めて見た時も思ったけど髪の黒さと眼の緑色が……おい。えっ。行くのか行かないのか。あっいや行くけど……ちょっとさ考えちゃって、どんなダンスやるんだろーって。と前より幾分下手になっている誤魔化し方に自分で呆れる、ところに、日本の暗黒舞踏、に少なからぬ影響を受けている。とアーイシャは真直な眼で言った。えっ。イスファハーン大学にいたころ、映像アーカイヴに土方巽の作品があったのだ。そこで初めて暗黒舞踏というものを知って、私のスタイルに取り入れたいと思った。Aminadabもその探求の延長線上にある。そうなんだ、意外だね。意外? いや、イランの大学に暗黒舞踏の映像があるって。自然なことだろう、今や舞踏は世界的に知られている。とくに大野一雄は頻繁にイスラエルで公演を行なっていたろう、だから知名度が高いのだ。へえ。ってあれ、なんか昨日話したような口ぶりと違う気がする。乗ってくれてる、のかな。そもそも東北の舞踏家は西アジアと親和性が高い、と常々思っていた。土方も大野も及川廣信も北の出身だろう。あの人々が産み出したスタイル、踊る身体を屍体として把握することからヒントを得て、私も仕事を続けているのだ。へえ。わたし程度の知識では合いの手すら入れられないのが見え透いているので、視線を逸らさず聞くしかない。東北地方、とくに秋田には一度行ってみたいものだな……数年前の来日公演は福岡のみだったから。えっ福岡? ああ。わたしの出身だよ、福岡県北九州市! その市ではなかったが、たしかフリンジダンスというフェスで招聘を受けて、それが初めての来日公演だった。あーなんか毎年やってるやつでしょ、行ったことないけど広告で見たことはある。と話が長引く、けどアーイシャはまんざらでもないように見える、のはわたしの勝手な思い込みか。よかったら……来てみないか。えっ。三日後に神楽坂で行う、Aminadabの公演。ええ、良いの? 住居を提供してもらっているのだ、招待券くらいの返礼はすべきだろう。ほんとーありがと、楽しみにしてるよ! ああ。その前に水を。あっ忘れてた、いま持ってくる。ふふっ、と、あれ、笑ったの見るの初めてじゃん。小走りでエレベーターの前に至り、どうしてすぐ顔背けちゃったんだろ、もっと見ときたかったな、とかいう邪念が兆すのをどうしようもない。やめとけっての、女性だからといってじろじろ見ていいわけじゃないだろ。でも何でだろ、笑ってもらえただけでどうしてこんな嬉しいんだろ。
ロシア語でないことはなんとなくわかる。が、一体何語で喋ってるのだろうさっきから。明日の夕方には到着だから迎えに来てよ、イリチ空いてないの? 九三は東京の土地勘ない? じゃあ測がいいや。航空便の詳細送っとくから、指定のゲートに来といてねー。と唐突にゾフィアから電話があり、連絡通り羽田空港国際便ターミナルで迎えたのはいいのだが、そこには彼女と一緒にもう一人……アーイシャのダンスパートナーを務める女性も同伴していた。ズラミート・パールムッターと申します、滞在中はご不便をかけると思いますが、どうぞよろしく。と明瞭な日本語の発音を受け、あっはい、國分測です、よろしく。とこちらが気後れするようになり、ちょっとカタいよーもっと砕けた感じでいいんだって、よろしくねーみたいな。と傍らの人の肩を叩くゾフィアの陽気さを憮然と眺めることになった。よろしく。そうそんな感じ。測、よろしく……こんな感じで失礼はないか? あっはい、お気になさらず。話し言葉を聞く限りでは、どうやら彼女はGILAffeの翻訳に頼っているわけではないらしい。アーイシャと同じく、前もって日本語を勉強してきたのか。などの類推も、地下鉄で豊島区へと向かう道中に聞き取れぬ言語で談笑する二人を脇に置いていては、詳かにできるわけがなかった。GILAffeを入れている九三かイリチが迎えにあがっていれば、ここで会話に割って入ることもできたのだろうか。ズラミートと名乗った女性、灰色の髪を清しく切り揃えた彼女は、始終抑揚のない語調で対話を続けているが、ゾフィアが口角を上げて漏らす二言三言に不意を衝かれたように笑いだす仕草が、やけに打ち解けて見えた。
おーここ? でかいねー! ええ、あなたはイネスと同じで二階でしょうけど、ズラミート、は三階のフロア。と言いながら解錠し、自動ドアを通り抜け、エレベーターの前まで到る。せっかくだから部屋の前まで行こうよ、とゾフィアは私に向けて日本語で言い、聞き取れぬ言語でズラミートに何か言い、頷きを受けたのちに3のボタンを押した。
そういえば、三階の部屋の配置はよく知らない、アーイシャと同室なのだろうか、と逆にこちらが不案内のようになりフロアを歩き回っていると、我が友、と後方から声が。向き直ると、開け放たれた部屋の中からアーイシャ……だろう、か? ヒジャブを脱いだ姿を初めて見たせいもあり一瞬判断に迷ったが、 as-salāmu ʿalaykum. と一歩進んで言うズラミートの背中を見て分別がついた。 wa ʿalaykumu s-salām. 先程皆とワークショップを終えたところだ、夕の礼拝を終えたら早速ゲネプロに入ろう。と相変わらず沈着な面持ちを崩さないアーイシャ、を前にしてズラミートは少し狼狽えたように、先程とは異なった響きの言語で何事かを告げた。アーイシャはにわかに目を丸くし、一瞬眉を顰めたのちに、ここに滞在する以上は日本語に慣れておくのもいいだろう、私もここ数日で妙な話し相手ができて、日本語で話す癖がついてしまった。と言った。ズラミートは左目でこちらを窺ったのち、では、そうしよう。とだけ述べた。
彼女も聖典の日本語訳で? エレベーターのドアが閉まるとともに傍らのゾフィアに言う。よくわかったね、日本語訳の聖書で覚えたって言ってたよ文法。アーイシャもそうだったと訊いていたから……しかし、そんな簡単に身につくなんて。そりゃー啓典の民は語学ができなきゃ務まんないしね。たしかに、ユダヤとイスラームの翻訳作業がなければヨーロッパ自体が成立しなかったわけだしね……あはは、何世紀前の話それ。聖書の文句と現代ヘブライ語とではだーいぶ隔たりあるんだよ。あ、やっぱりそうなの……このへんも色々あってね。シオニストが使う現代ヘブライ語と、私らアシュケナジムのイディッシュ語とでは、使い分け自体にも思想信条が絡んでくるのよ。あ、さっき話してたのイディッシュ語……いや、あれはポーランド語。あ、え……? ズラミートは私と同じクラクフの音楽院にいたからね、その頃のクセで。屈託なく笑うゾフィアの言葉に合いの手を打つようにベルが鳴り、ドアが開く。
つまり、ずいぶん前からの知り合いってこと……ほんとにずいぶんだよ。だってうちの母さんたち、娘が生まれましたってポストカード、同じ年に送りあったらしいよ。え、親戚……ではないけど、精神的には似たようなもんかな。私とズラミートのお婆ちゃん、どちらも同じ収容所の生還者でね。と言う声を受けて足が止まる。ああ……ごめんなさい。なに謝ってるの、ただの事実だよ。ズラミートのお婆ちゃんは戦後イスラエルに行って、私のお婆はアメリカのニュージャージー州あたりに移民したんだけど、やっぱり祖国が恋しくなって、そこで出会ったポーランド移民と一緒にクラクフに帰って。それぞれ違う国で暮らしつつも文通を欠かしたことはなかったみたい。だから、私とズラミートは幼馴染みたいなもん。へえ、あなたの国籍はたしかロシアよね……うん、冷戦終わったあと曽祖父が住んでたペテルブルクに戻ったらしい。私はそこで産まれたから、ズラミートと初めて会ったのもクラクフに留学してからだった。と述べられ、いくつかの疑問が兆す。ので、思いつくままに訊いてみる。音楽院ってことは、彼女もミュージシャン志望だったの。いや、全然。えっ。チェロの演奏自体は幼い頃からしてたみたいだけど、あの留学は、なんていうか……護るため、っていうか。意味を取ることができず黙り込む私へ、本当はテル=アヴィヴの大学にいたんだけど、学籍ごと剥奪されちゃってね、ズラミート……と眉に暗いものを漂わせながら言う。剥奪、って。あいつ、在学中から親パレスティナ系の新聞に記者として携わってて、イスラエルの政策を非難する論説を多く発表してたんだよね。そのせいで奨学金が打ち切られて、それでもやめなかったからついに学校を追われて。そんなことが……でも、脅されたからって思考を枉げるようなやつじゃないからさ。このままだと自壊しかねないって心配したうちのお婆が、学費は出すからクラクフに行きなさい、うちの孫も今そこにいるから、って話になってね。とりあえずイスラエルに言論の自由がないのは明白だから、あの時点でああしとかないと本当にまずかったかも。あいつ、母親の強硬なシオニズムが受け容れられなくて、絶縁されるまでいったらしいし……
いつの間にか二人とも立ち停まったまま黙っていることに気づき、ま、テル=アヴィヴに帰った後ああして相方さんが見つかってよかったよ。と何処か無理をして笑っているかのようなゾフィアを見つめる。どしたの測? いえ……ちょっと、気になってね。命を危険に曝してまで、いったい彼女が何を書いていたのか。と言うと、ああ、とポケットに手を突っ込み、たしか残ってるはず、webに掲載されたものは保存してるから、と言いながらスマートフォンの画面をスワイプし、色々あるけど、とくに印象深いのはこれかな……原文はイディッシュ語だけど、GILAffeなら大丈夫だろう。と一呼吸おいて口を開く。「מוֹלֶדֶת」、これは「母なる祖国」って意味だけど……と注釈を加えながら、「『母なる祖国』なる概念はユダヤ教の伝統には属しておらず、西洋の国民国家という概念を受けて捏造された、きわめて近代の産物に過ぎない。レビ記にもあるとおり、メシアの降臨を待たずして聖地に回帰するなどという愚挙は、他ならぬ聖典の内容によって禁じられている。」と訥々と読み上げる。ちょっと飛ばすよ、「『イディット・ハ=アーレツ』とは、二〇世紀初頭以来、シオニズム教育の欠かせぬ一環として行われている自然観察ハイキングの名である。この「ידע」という動詞には、男性が女性を肉体的に『識る』という意味も含んでいる。彼らの『母なる祖国』とは、全幅の愛をもって受け入れてくれる女性であり、またそれは絶対に処女でなくてはならない。『母なる祖国』に先住の者などいてはならない、このようにしてシオニストたちはパレスティナのムスリムを、さらにシオニスト到来以前に啓典の民として手を取り合っていたユダヤ人の存在をも除去することを正当化したのだ。」
なるほど、冷徹な筆致、なのだと思う。祖国への愛を駆り立てる民族主義的欺瞞と性的ファンタジーとの癒着、これは「美しい日本を取り戻す」とかいうイデオロギーでこの国においても膾炙している。小さく頷きながら続きが読まれるのを待っていると、ここは難しいんだけどね……と言いながら何度かスワイプを重ねたゾフィアは、ふたたび静かに話し始める。
「カフカの彷徨は」……えっ。何、別の記事。いや、さっきの記事の何段落か進んだとこ。ここが肝腎なんだ……「カフカの彷徨は、『母なる祖国』のファンタジーに耽溺するシオニストたちに決然として背を向ける。彼の日記から引用しよう──それは、逆転された荒地の旅のようなものだ、絶えず荒地へ近附いてゆきながら、『僕はまだカナンの地にいるのではないか』という子供っぽい希望を、(特に女性に関することで)抱いているのだ、だが、その間に、僕はとうの昔に荒地に入りこんでいるのだ。そしてこれは、彼処においてもやはり僕が誰よりもみじめな人間であるような時、また、人間には第三の土地などない以上カナンこそ唯一の約束の地として示されざるを得ないような時、何よりもそういう時に、絶望が生み出す幻に過ぎないのだ──ここで彼がカナンの地を女性に喩えていること、それを認めたうえで『約束の地』への愛を幻と喝破していることも含めて、我々の論旨にかなうものであろう。そして彼の『荒野』への彷徨は、国民国家という欺瞞のもとに排除と占領とを正当化するイスラエルの態度と比べて、いかに隔たっていることであろうか」。
スマートフォンから目を離し、こちらを見つめる。ということは読み終わったのだろう。彷徨……そう、途中で飛ばしちゃったけど、カフカも一度はシオニズムに魅惑されたって事実に言及した上で、ズラミートは彼の彷徨にこそ現状からの打開策を見出してたらしいんだよね。それって……あっごめん着信だ、出るね。あ、うん。おーイネス、もう着いたよ。二階二階。と話しながら、右掌を縦にしてこちらへ申し訳なさげな視線を向ける。私も頷き、気にしないで、という風情で手を振る。そうだ彼女も着いたばかりなのだ、つい立ち話に興じてしまったが……しかし、ズラミート・パールムッター。彼女の思考と試行について知りたければ、イディッシュ語を勉強するしかない……そのような学殖など私にありようもない、が、もっと直截な手段ならある。彼女がここに来た理由……Aminadabの名で取り組んでいる作品、を観ることができたら。
棚田みたいだ、備え付けの椅子が上の方までうわーって。満席でだいたい七〇人てとこか、こんな会場なんだなー。ダンスだから立って見るのかと思ってたけど、お行儀よく座って観るんだ。まあフェスによっても違うんだろうけど……あ。
隣、いい。いやいいに決まってるけど、来てたんだ。ええ。今日なんか用事あるんじゃなかったの。あれは緊急でもない打ち合わせだったから、ずらしてもらった。そうなん……そうまでして来たかったんだ。まあ、ね……どうしても気になって。アーイシャ? もだけど、彼女、ズラミート・パールムッターのほうも。あ、会ったの。そういえば空港迎え行ったんだっけ。ええ。あなたも、三階にはずいぶん頻繁に出入りしてるらしいけど。まあね、さすがに家主だし……聞いた? え? 彼女らのプロフィール、大まかにでも。ああ、姫が知ってるのと、英語版ウィキペディアで読めるぶんはね……そう。測、なんかあったの。いえ……大したことじゃないんだけど。あの二人、共通してると思ってね。なにが? 私がなれなかった人の姿だ、って。え? 世界宗教の内部に属して、身内が抱えている問題と正面切って向き合っている、真の意味で宗教的な人。ああ……測、宗教史学の研究したかったんだよね。ええ、それも断念したし、そもそもクリスチャンですらない。そんな私の不徹底を一気に思い知らされた気がして、ね……せめて、彼女らの作品には向き合ってみよう、と思って。そっか。
隣いいか。え? あっ。うおっ姫も来てたの。ああ、あんま騒ぐなよ……あと上演中もな、これはコンテンポラリーダンスなんだから。わかってるけど、教授の迎え行くんじゃなかったの。もう少し遅れるらしい、最初のリハには間に合うと言ってたから、まあ大丈夫だろう。そうなんだ……姫はAminadabの公演観たことあるの。いや、映像しか……さすがに作品も観ずにあいつのことわかった気になるのも不誠実と思ってな。そっか、測もそれで来たんだってよ。へえ、なんだか意外……あっ。おっ、始まるぞ、携帯の電源は切れよ。わかってるって。出番いつだっけ? このプログラムの最後……
満座に喝采が響いていた。前後列の観客に促されるようにして、わたしも立ち上がって拍手する。ダンスっていえばブレイクダンスくらいしか知らなかったけど、いま目にしたばかりのあれは、あれは。
幾何学みたいだったね。やっぱり、測も思った。ええ、身体の使いかた自体が作図というか、息苦しいほどに抑制された動きがラストで開放されるまでの流れが……そう、そうだよ、そういうあれだよ。ふふっ、何も言えてないぞ。姫だって観てる間ちょくちょく呻いてたじゃん。それはそうだろ、あんなの一〇分以上も見せられて……測なんだっけあれ、人間車輪みたいなのあるじゃん、ルネサンスの。ウィトルウィウス? そう、あんな感じで人体の幾何学みたいなテーマなのかなと思ってたら……ええ、ダンス自体が線になって、決して輪にはならなくて。
ダンスが神を讃える手段、しかも数学や幾何学と同列なんて、言われた時は全く理解できなかったけど。しかし彼女は、いや彼女らは、作品そのものでそれを証明している。アーイシャ、あなたは表現なんてする必要ないって言ってたけど、でもこれは、表現だよ。人が創ったもので人の心が動く、これは表現としか言いようがないよ。
フロア中央に並び立ったアーイシャとズラミートが、ともに手を取り合って一礼する。場内の歓声も勢いを増す。そうだ、この公演も爆破されないなんて保障はどこにもなかったんだよな。あんな惨事が起こった後でも、彼女たちは自分の仕事を続けている。神を讃えるという仕事を──ということは。これは、祈りか。誰も理不尽に殺されないように、という希望をつなぐための。その手段が朗唱であってもダンスであっても、彼女にとっては同じ。
ならば、絶対に護らなきゃいけない。彼女らが、いやどの国から来たどんな人であろうが、自由に生きていられる場を。今までは用意された航路に従って、それで広い世界を見たつもりになっていたけど。でも、この定まった土地でも同じことだ。学び取るだけでも不十分なんだ、あの人々がかろうじて持ちよった物を、護る人にならなきゃいけない。今のわたしにはそれができる、か。
23 何故
君だけ訛りが違ったからな。あっ、やっぱりそうでしたか。ああ。青森の者ではないね? はい、新潟で。新潟か。どのあたり? 長岡です。へえ、いいところだね。どうしてまた青森連隊に? えっと、本当は長岡造形大学に入りたかったんですけど……あの震災があって。母方の実家が被災して、戻らなきゃいけなくなって。働き手として、か。はい、もともと母が祖母の介護でつきっきりだったんですが、そのうえあんなことになって、家を回せる人間がいなくなったんです。父はとっくの昔に死んでるし……なので僕が実家に帰って、なんとか収入を得なきゃって、それで自衛隊に。そうか……災難だったね。いえ、よくある話です。大浦さんは……あっ申し訳、大浦准尉は。はは、格式張らなくていいって俺のほうから言ったろ。はい……大浦さんは青森ですか。鯵ヶ沢だな、聞いたこともないだろ。はい、失礼ですが……俺も同じだよ、君と。自衛隊くらいしか働き口が無かった。大学なんて一体どこの世界って感じだったしな……長岡の造形大か。はい。さっきの話ぶりだと、よっぽど入りたかったんじゃないのか。何を勉強しに? えと、恥ずかしいんですけど、映画の仕事がしたくて。映画。はい。あの、僕、中学の頃からずっと大林宣彦に憧れてて……へえ、珍しいな、君みたいな若い子が。はい、地元にはろくな娯楽もなくて、レンタルビデオ屋に入り浸ってて。そこで大林監督の映画に出会って、夢中になって……尾道三部作、とかか。そうですそうです、とくに『時をかける少女』。あれはもう何十回観たか……ふふっ、よっぽど好きなんだな。はい、それで僕も将来的には映画の仕事に携われたらいいなと思ってたんですけど……まあ、でも、よかったんだと思いますよ。どうせ才能なかったし。なんだそれは、決めつけるなよ、まだ何もしてないのに。いえ……じつは大林監督、震災以降に長岡を舞台にした映画を創って、それが縁で造形大の准教授にもなったみたいで。なんか僕のやりたかったこと全部やられちゃったなって、逆に諦めがついたっていうか。そう、か。そういうものかな。はい……あ、ありがとうございました、タバコ。ああ。ま、あまり気を張るなよ尾道。じゃなかった、ええと。はは、坂田です。坂田か。土気色の顔したやつが一人いるだけで隊の士気に響くからな。はい、ありがとうございました、お話聞いてもらえて。はは、こちらこそ。
いかがなものかと思われます。何が。何がではありません、あのように下士官とくだけた態度で接することが、です。いいじゃないか、部下の心身の調子を慮るのも上官の役目だろう。しかし、あのように喫煙しながら腰掛けて談笑など……肉体労働者の昼休憩ではないのですから。ははっ、意外だね岩走君、君からそんな比喩が出てくるなんて。君、そもそも肉体労働者の昼休憩の様子を見たことがあるのかな。その君、というのも止してください。陸曹と呼んでいただかなくては。すでに宿営地なのですよ、自覚を持っていただきませんと。自覚、ねえ。どのような自覚かね。国連施設の整備、道路補修、給水支援などはお題目にすぎないと君にもわかっているだろう。大浦准尉、申し上げますが……その前にこちらからいいかね、岩走陸曹。はい……思ったんだよ、あの震災の時。被災者の救援や倒壊した家屋の解体をやっていてね、ああ、この仕事にもちゃんと意味があるんだ、って初めて思えた。もちろんこれは倒錯だ、災禍において自分の仕事のやりがいを実感するなどは。でも確かに、この自衛隊というのは戦争のためじゃない、誰かを助けるための役割を果たせるんだと証明できたようで、初めて自分の仕事を誇りに思えたんだよ。はい。さて、我々はいま青森ではなく南スーダンの首都にいるわけだが……否応なく気付かされるな、これは国際的に見ても、ただの軍隊でしかないのだと。 Japan Self-Defense Forces だからな。やはり我々は、国の憲法に矛盾する存在、戦争に参与するための組織でしかないのだと。小銃を持たされて、一体何をしにきたのだろうな我々は。……お話は以上でしょうか。ああ、そんなところだ。では、すべて聞かなかったことにいたします。いま小官が耳にした会話には、端的な職務怠慢、辞任に値するほどの文言まで含まれていましたから。ははっ、君くらい真面目な子がいてくれたら自衛隊も安泰だな。すぐに俺より出世できるよ。大浦准尉、不用意な発言はそこまでにしていただきたい。宿営地において自衛隊が無駄口ばかり叩いているのを見られたら、国際上の信頼にも障ります。信頼、ねえ。どこを向いても日本語を理解できるやつなんて一人もいなそうだがねえ……ああ、もうわかったよ、そんな目で見ないでくれ。とりあえず六ヶ月間、無事に済まそうじゃないか。この国の人々も助けを必要としてるには違いないんだ。用地造成、道路補修、できることはなんでもするさ。そんなことは言うまでもありません。
しかしまったく、一週間もすれば慣れるのだから恐ろしい。ジュバでの宿営にも、一二月のアフリカの空気にも。しかし夜には夜の涼しさがある、もちろん青森のそれに比べればぬるま湯みたいなもんだが……申し上げます。ん。数分前、トンピン地区にて銃声があり、哨戒中の隊員二名が撃たれました。銃……SPLA-IOか? 発砲者の素性が認識できなかったため、詳細は不明です。すぐに応援を送るようにと……応援、銃を持って、か。大浦准尉。あ、ああ、了解。直ちに……
政府軍の反主流派による国連軍への攻撃なら、これまでに何度も起こっている。しかしよりによって自衛隊を……准尉。何だ。あの建物です、こちらに散発的な銃撃を加えたあと、あの小屋に立て籠もった模様です。あの小屋……くそっ、この暗さでは。照明は? 当てると中に立て籠もった勢力を刺激するおそれがあります、すでに小屋を囲んで警戒しておりますが、いかがいたしますか。ご指示を。指示……撃つのか。撃つのか? それはそうだ、撃たれたなら撃ち返すしかない。しかしそれは、避難民への緊急支援などとはわけがちがう。自衛隊による積極的な戦闘介入ではないか……准尉。くそっ……各官へ通達。対象から警戒を怠るな。各自あるいは部隊の判断によって、正当防衛や緊急避難に該当する場合には撃て。了解。
了解、一体何を了解したと……なん、なんだ。八時の方向! 爆発、手榴弾か。に、銃声。どちらのだ、あの音は六四式の……やめ、撃ち方やめ! 聞こえないのか! 准尉! なに、おい、誰が突撃しろと言った。警戒しろと言っただけだ、いや、その警戒が切れたのか。明らかに自制を失って……撃つな、撃ち方やめ!
二七名。と岩走が数え上げるのを、どこか他人事のように聞いている。うち、SPLA-IOの兵士と思しき武装の者は二名のみ……おそらく、と言いながら電灯で室内の宵闇を照らしている。この、薬物らしきもの……を使用した乱痴気騒ぎがあり、その最中に理性を失った一人が銃と手榴弾を持ち出し、こちらに銃撃を仕掛けてきたと……血飛沫に染まった黒い皮膚を眺めながら、なにか映画のスチルのようだと思う。では、こちらを攻撃したのも、単なる偶然。としか、考えられません。この二七名、すべてこちらの銃撃による殺害か。わかりません、すでに小屋の中で殺されていたのかもしれませんし……確かなのは、内部に突入した際、たしかに数名の女性の悲鳴のようなものが聞こえたということです。その直後に掃射が始まった以上、この小屋に生存者が何名いたのかは判断できません……と岩走が言うのも、どこか遠い国でのニュースのようにしか聞こえない。いや遠い国なのだ、そこまでわざわざやってきたのだ自衛隊は。しかし、そこで俺たちは何をやった。何をやってしまった。
どういうこと、ですか。言ったとおりだ。言ったとおりって……隊長のご判断だ、SPLAはこの程度の戦闘など意に介さないだろう、と。こちらが発砲を受けた以上は明らかな正当防衛であり、隊員の即時の対処にも何ら問題はないと。対処って……指揮系統さえ失って突入しただけじゃないですか。SPLA-IOによる戦闘行為は日常茶飯で起こっていることだから、国連も今夜の事態だけを特に取り沙汰しはしないだろう、との判断、らしい……ありえません、だいいちあの屍体はどうするんです、二七名もの犠牲者の……あれは、もう、ない。えっ。隊長から国連軍に通達済みで、もう、ない。ない、って。焼かれた。小屋ごと、無かったことになった。
犯人はふたたび犯行現場を訪れる、という法則を愚直に果たしている自分自身を幾重にも陳腐に思いながら、焼却された建物の残骸を眺める。地に黒々と象嵌されている、この四方の稜線だけが、昨夜殺された人々の存在を証し立てる唯一の痕跡なのか。准尉、と引き留められ、初めて自分が焼跡の中央に跪いているのを発見した。ここか、陸曹、たしかにここなのか。昨夜、我々があのことをしてしまった場所は。はい。夜目がきかなかったのだ、どうしようもなかったのだ、そもそも土地勘もあるわけがないし……しかたなかった……准尉……准尉。大浦准尉! と耳元で聞こえる岩走の急き立てが、徐々にその意味合いを異にしていくのがわかった。上体を起こす、と、そこには。こんにちは、ちょっといいかな。日本語、を話す、しかしどう見ても日本人とは思い難い風貌の者が。わたし、南スーダンで人道的支援を行っている者です。あなたたち、 Japan Self-Defense Forces の士官ですね? ちょっと訊きたいことがあるんだけど、いいかな? こちらの呆然を嘲笑うかのように言葉を継ぐ者に、岩走が一歩進んで相対する。なんですか。わたし、昨夜ある建物のまわりで迷子を見つけて。その子、ちょっと仕事があって出かけてたんだけど、もともとはここにあった小屋で寝泊まりしてたらしいんです。でも帰ってきたら跡形もなくなってたらしくて……昨晩ここで何があったか、詳しく知りませんか? 穏やかな物言いが耳朶を打ち、鼓動が身体の裡にこだまする。その迷子、とは……と岩走は言いながら、視線を焼跡の柱へ向ける。そこには、目の前で日本語を話している者とはまた異なる外貌の、褐色の少女が立っていた。その子、ですか。うん。あなたは、その子を、どこで見つけたんですか……その前にこちらの質問に答えてくれるかな。いかにもかわいそうじゃない、ある日突然住む場所を失うなんて。と微笑みながら言う相手に対し、岩走は応答をしぶっている、のが見えたので、代わりに立ち上がって言う。
私たちがやりました。私たちが、昨晩、この小屋の中の全員を殺害しました。
ふふっ、と、風巻きのように聞こえた音が目の前の人物の唇から発せられたと認めるのにも、数秒の時間を要した。そうだったの。まあね、よくあることだよ。微笑みながら言う相手を見据えて戦慄いている岩走の肩が見える。この地上ではよくあること。だっていつまで経っても戦争やめる気ないみたいなんだもん、しかたないよ。でも、よく覚えておいてね。そんなよくある凡庸なことにも、人間の心身は耐えられない。と笑う相手に掴みかかろうとする岩走、の手を制する。准尉。いい、いいんだ。この身を支えている二本足が本当に自分のものなのか、さえ定かでないが、言うべきことはわかっていた。どうすれば。どうすれば許されますか。誰に対して何を乞うているのか、滑稽でしかありえない物言いを受け、はは、そんなことわたしに訊かれても困るよお。もしかしてわたしのことシスターだと思っちゃった? これはヒジャブであってキリスト教のヴェールとは関係ないよ。日本人は宗教に疎いから、誤解しちゃったかもしれないけどね。と笑う姿を前にして、お前……何者だ、先程から! これ以上侮辱を弄する前に素性を明かせ! と、いかにも上官といった風情で一喝する岩走の剣幕も、目の前の人物の微笑の前では稚気めいて見えた。百済不二良。世界平和のために働いている、ただの一般人ですよ。と述べられたのち、岩走の手に長方形のカードが押し当てられる。なに……言ったでしょう、たぶんあなたたちは、自分でしたことに耐えられない。だから前もって紹介しておくね。もし自責の念で壊れそうになったら、そのNGOを頼るといい。翻る岩走の掌、そこには「Peterloo」の文字。ちょうど日本語っていうか、東アジアの言語ができる人を探してたみたいだから、相手してくれるんじゃないかな。百済不二良の紹介ですって言ってくれていいよ。そのNGOに出資してる杜って人とも、わたし知り合いだから。と、相も変わらず微笑しながら一方的な言を投げる影が、やにわに遠のく。おい、ちょっと待て。と制する岩走の声にも構わず、百済不二良、と名乗った女性は、退屈そうに立ち尽くしていた少女の手を取り、あれは──あれは何語だ──聞き覚えのない言語で二言三言交わしたのち、この子はわたしがいただくね。と鷹揚に言い、こちらに背を向けて歩き去るのだった。おい──大丈夫だよ、この小屋のことは誰にも言わないから。たぶん、国連軍の記録にも残らないだろうしね。
果たしてそうなった。国連軍どころか、当事者であるはずの自衛隊の公式記録にさえ、あの夜の惨事は影を留めなかった。大浦准尉が直々に書いたはずの日報の記録は、いつのまにか存在自体なくなっていた。あの夜に小屋を囲んだ二〇名余りの隊員は、負傷者二名を除いては平常通りの宿営に戻り、何事もなかったかのように六ヶ月の任期を終えた。
しかし、祖国の土を踏んでも、何ら現実感らしきものは戻らなかった。あれは夢だったのか。違う、私たちは確かにしてしまったはずだ。なのに誰も責めない、誰も問題にしない、そもそも記録にさえ残っていない。私たちが偶然に巻き込まれた、確かに在ったはずの流血は、跡形もなく消え去ってしまったかのようだ。当事者として居合わせた、私たちの胸の裡を除いては。
「そんなよくある凡庸なことにも、人間の心身は耐えられない」。そうなった、果たしてそうなった。夜がくるたびに、あの声が聞こえる。本当に殺されたのかもわからない、存在したのかも定かでない、無辜の人々の声が。大浦は帰国後、隊の訓練中に突如叫喚し、誰もいない方向へ向けて拳銃を発砲しはじめた。自制心を喪ったとして退官を勧められ、併せて私も辞職した。あの夜の記憶が私たちの心身を侵し始めていることは、否みようもなく明らかだった。
惨事後ミーティング──そう名付けられた集会、在任中の外傷記憶を癒すための会合への出席も、私たちにとって何の助けにもならなかった。ばかりか、ミーティングの出席者が回を増すごとに少なくなってゆくのを見て、一体どういうことかと訝りもした。ので、同時期に心身の不調を訴えて辞職した隊員の何名かに電話をかけてみた、が、「おかけになった電話番号は現在使われておりません」か、何度かけても受話されないかのいずれかだった。そしてある日、電話の向こうから隊員の家族らしき人が応えたとき、私は知らされた。あの南スーダンでの任務の後、息子は自殺しました、と。
新潟の子だったんだよ。典午。映画の勉強がしたい、と言ってたんだよ。繊細な子だったはずなんだ、自衛隊じゃなく大学に入ってたら、才能を発揮できてたかもしれないんだよ。典午。マキ、誰が殺したんだろう。あの子を自殺に追い込んだのは誰だろう。我々じゃないか。我々があの子を殺したんじゃ。典午、もうやめて。あなたとは関係のないこと。あるさ、あるじゃないか、あるに決まってる。我々が殺したんだ、当然だ、あんなことに耐えられるわけが……典午、あなただってそうでしょう。死のうとしたでしょう、首を……だって、だってしょうがないじゃないか……なくならないんだ、いつまでたっても……視え、視えて、聞こえて、あれが──典午。これは誰が悪いとかいう問題じゃない。確かなのは、踏み止まらなきゃいけないってこと。なんで、なんのために。人間でありつづけるために。あんなことが起こったと認められない、それは当然。でも、それでも持ち堪えなきゃいけない。ここで私たちまでもが潰れてしまったら──人間の世界には何も救いがないってことになってしまう。それだけは──だから典午、生き延びましょう。あのことを忘れてしまったら終わり、私たちが生き残ること自体が戦い。戦い……そう、まだ続いてる、あのことは。そして、私たちが逃げてしまえば──その戦い自体がなくなってしまう。
Peterloo。あのヒジャブ姿の女性から渡されたカードだけが、私たちの記憶をつなぎとめる唯一の物証だった。事の次第を英語で認めたメールを送るとすぐに返信があり、スカイプ通話で早々にリクルートがまとまった。あの杜という人物の、こちらとは別の症状に取り憑かれたとしか言いようがない狂躁的な言動には、さすがに気後れしたけども。しかし国籍をフランスに移し、Peterloo局員として世界中の戦災孤児や機能不全家庭に育った子どもたちを救済することになった私と大浦は、あの夜の代償行為かのように業務に没頭した。英語すらままならない典午にとっては一から何もかもを学び直す必要があったが、私が知っていることは全て教えた。
そうか、マキは祖母がフランス人だったな。ええ。そういえば訊いたことがなかったな、なぜ自衛隊に。規律が欲しくて。規律……ええ。仏文学の翻訳をやってた両親の、なんていうか気取った雰囲気に、どうもなじめなくて。二世の学者として褒めそやされるのも鬱陶しかったし、だったら親から相続するの自体放棄しようと思って……そうか。恵まれた家庭に育つのも大変だな。でも……まさかこんなかたちで、何もかも一から始めることになるなんてね。ああ。なあマキ……何。俺は、恥ずかしい……あんなことがあって、まだ聞こえるしまだ視えるのに、その一方で身体は、こう、なるなんて……それは、人間だから当たり前でしょう。むしろ何も感じなくなったら、それは人間じゃなくなりつつあるってこと。そう、なのか。きっとそう。それに、身体が、こう、なるのは、男も女も同じでしょう。そのこと自体を抑えちゃいけない。恥の意識さえ手放さなければ、それでいい……はず。そう、か。ふたりで治しましょう。どちらかだけではいけないはず、私たちがやってしまったことを忘れずにいるためには……ふたりで。そう、ふたりで。
帰ってくればそこにいる。もう三日目になるか、彼女が私の住居に居座るようになってから。おかえり、では続きをしよう。と座位のままこちらへ呼ばわるのだが、今日も礼拝の時間を除いては一日中話し続けるつもりらしい。パールムッター。ズラミート、でいい。ズラミート……いい加減にしてくれないかな、いつまで続けるつもりなのか知らないが……もちろん、君との話題が尽きるまでだ。もう十分話したろう、ガザやヨルダン西岸の現状も、イスラエルにおけるムスリムの窮状も、君がシオニズムについて胸懐することも理解した。理解したなら行動に移すまでだ。アーイシャ、君と私の問題意識は同じだろう。つまり、なぜ我らの共同体はこれほどまでに女性を侮蔑しているのか、ということだ。ああ、君の書いた記事も読んだよ……『母なる祖国』への愛、だろう。そうだ、そもそも聖典で禁じられている聖地への回帰を、あろうことか女性に見立てて正当化している。一方で現実に生きる我々の容姿や振舞に対する侮蔑は止むことがない……それはダンサーとして活動する君が一番よくわかっているはずだろう。それは確かだが……ならば行動すべきだ。内部にいる者として、内部の病巣を攻撃する。君はイランから移ってきたが、イスラーム共同体の内部者という意味では同じだろう。私もユダヤの実践者として、身内が抱えている病こそを相手取らなくてはならない。そのためには──私だけの力では足りないんだ。
そうだ、彼女はずっとこうなのだ。二日前に突然現れて私は親パレスティナ系紙の記者をしている者だ貴女はアーイシャ・ウムァジジだろう話がしたいと申し出てきたときから、ずっとこうして鬼気を剥いている。私は五度の礼拝とワークショップをこなさねばならないのに、彼女はずっと対話をやめようとしない。おそらく──後が無いのだ、彼女には。テル=アヴィヴにおいて当局を批判する、その困難を維持するための手立てが。ズラミート。と呼びかけると、顎をすこし上向きにする。どうして──私なんだ。テル=アヴィヴ在住のイスラーム「文化人」などいくらでもいるだろう。どうしてよりによって、こうして三日間も対話を続けようと思えるほど私に執着するんだ。と、それ自体不遜に聞こえてもおかしくはない問いを投げると、それは、君が──ダンサーだからだ。と、先ほどにも聞いた気がする答えが戻った。君が、表現によって変革を訴えているアーティストだからだ。ズラミート、昨日も言ったが私は自分のダンスが表現だとは──修辞を弄するのはよしてくれ。君のダンスは明らかな表現だ、人の心を動かす、真の意味においての。私は知っている、いや教えられたのだ、音楽やダンスこそ、文筆や報道よりも根本的に人の心を動かす表現だと。教えられた……ああ、クラクフで音楽を勉強していた時、親友から教わった。では、君は音楽ができるのか。作曲とチェロの演奏ならばできる。アーイシャ、私には君の力が必要だ。私一人ではだめなのだ、しかし君一人でもいけない。私たちふたりで始められる変革があるはずだ、そのことに気づいたまま目を背けるのであれば、私はもはや実践者ではないし、君も自らの奮闘努力を怠ったことになる。
息急切って呼吸を整える人を前に、数秒の沈黙が垂れる。ズラミート。なんだ……わかった、我々は共闘する必要がある。と言うと、初めて顔相に明るみが灯る。本当か。ああ、君の音楽と私の舞踏、その双方を組み合わせる方途を考えよう。アーイシャ……ありがとう、本当に──その前に、条件がある。えっ。座位の人の手を取り、起立させる。立ち眩みのようにふらつく身体を支え、両眼を見据えて言う。君、三日の間ずっと入浴していないだろう。あっ……と言いながら、シャツの襟元に鼻先を当てている。イスラームの聖典に敬意を表してくれるのであれば、清潔にも気を配ってくれないかな。「清潔は礼拝の半分である」からして。言うと、目の前の顔に気色が戻るのがわかった。そちらだ、自由に使ってくれていい。とシャワールームを指差すと、ズラミートは恐縮したように、無言で背を向けて歩いてゆく。着替えはここに置いておく。ああ、すまない。
閉じたドアの向こうから水音が聞こえる。まったく、無体な客人もあったものだ。しかし、金曜の礼拝までに話をつけられてよかった。そうだ、明日マスジドに連れて行って皆に紹介しよう、新しく仕事を共にすることになった友だと……
これは誰の血だろう。何人死んだ。何人負傷した。わからない、この爆煙と叫喚の中では。我が友、と呼ぶアーイシャの声、のほうへ向き直る。楽屋は、楽屋はどうだった。と率直に聞いても、なにも応えない。あの敏活にして闊達な友が、何も言わない。アーイシャ。視線を逸らしたままの友は、静かに口を開き、二人。とだけ応えた。二人、がどうした。友はようやく視線を合わせ、二人、死んだ。即死だったそうだ。と呻くように言った。
何故だ。何故こうなった。私は何故だと問うているのだから、誰か答えろ。何故、アーイシャと私が作品を上演するだけの場で、人が殺されなくてはならない。それもユダヤもムスリムも関係なく害する、爆破などという手段によって。何故だ。ズラミート。友が私の手をとりながら言う。ここは危険だ、すでに観衆の混乱も昂っている……皆を連れてどこかへ移らなくては。どこかって……どこだ。逃げ場所があるとでもいうのか、我々が自由に表現するための場所自体が爆破されたというのに。
私の性急な問いに、友はもはや応えない。
逃げなくてはならない、ということだけが確かだった。
それでは、君は今日からうちの子だ。と、この台詞を吐くのは二度目か。最初はそう、シーラ・オサリヴァン、彼女に対してだった。馴れ馴れしさは免れないのだろう。そもそも血の繋がりさえない、それも「無宗教」な国に育った私などには、彼女に親愛の情を示すこと自体が不相応なのだろう。しかし、それでも。アーイシャ・ウムァジジ、あなたに教えたい。この地上にはまだ居場所があるのだと教えたい。それが私の、手前勝手な贖いの途上の喘ぎでしかないとしても、それでも果たさなくてはいけない。
もう、時間がないように、思われるのだから。
24 聖者への路
マキにも観てもらえたらよかったな。え? いや、誘いはしたんだよ。と話す姫の右頬のうえで街頭が明滅し、左手に握られている九三の携帯電話がなにか異物めいて見える。でもなんか、体調悪かったみたいでな。うん、いやそれとは関係ないだろ。ほんと、この機会に観られてよかったよ。帰るの夜中になる? うん、ズラミートとふたりなら大丈夫だろうけど、何かあったら九三のほうに。ああ。と言われたのちに通話が終わる。
ありがと。タクシー中央に座する私に端末が渡され、ん、と右隣の九三に掌中のものをパスする。何か言ってた? いや、来てくれてありがとう、くらい。そっか。いやーでもコンテンポラリーダンスなんて初めて観たな、あんな席近いんだねー。開演前にトイレ行っとけばよかったーって思ったよ。はは、なんだそれ。だって一挙一動で吐きかねないっていうかさ、体温と呼吸ごと伝わってきそう感ていうか。言いながら後頭部で手を組む九三に、やっぱり、作品じゃなきゃ伝わらないものってあるね。と何とは無しに投げると、ねー、話聞くだけじゃさっぱりだったけどさ、やっぱりダンサーの理があるんだなーって。測はどうだった。えっ。あのズラミート、のこと知りたくて観にきたんだろ。ええ、まあ……ダンサーとしてはアーイシャのサポートに回る感じだったけれど、バックでかかってた音楽も彼女の作曲だとはね。そうなん。パンフレットに書いてあるでしょう、これ。あっほんとだ……あの作品もさ、イスラエルに対する異議申し立てだったのかな。はっきりとは書いてないけど、宗教原理主義と女性蔑視への抵抗ってテーマは一貫してるみたい。そっか……わたしら、全然そういうのやってこなかったな、基本パーティーラップだから仕方ないのかもだけどさ。引け目に思うことじゃないだろう。現に、ダブリンではお前らの音楽で闘えたわけだし。ああ、まあ……そうか。政治的メッセージを含む作品だけが有効ってわけじゃないか。もちろん。んーじゃあなおさらオリンピックでのセットリスト迷うな、どんな流れにしたらいいだろ。それはミッシーとInnuendoの二人が来てから考えたらいい。そうだ教授着くのいつだっけ? おそらく一週間後。そんなに? ああ、完パケしとかなきゃいけないトラックがいくつかあったみたいで。そっか、じゃあまだ猶予はあるってことか……
ふうっ、と一息つくとともにスマートフォンを置き、ヒジャブを着用するアーイシャを眺める。リハーサルの時間が足りなかったわりにはうまくいったな。と言うと、当然、初めてパフォーマンスする演目でもないからな。と返す。いや、それでも東京での公演自体は初めてだろう。もう慣れたよ、初めて訪れる土地でのパフォーマンスは。君と組む前に一度福岡にも呼ばれているのだし。会話を過ぎ行かせながら立ち上がり、忘れ物はないか、と入口に控えている皆に呼びかけると、はい、と返事が戻る。頷くとともにドアが開かれ、退出する皆の後を追う、その背中に、観に来てもらえたらよかったな、岩走マキにも。と、小声で囁いてみる。君もシーラと同じことを言うのだな……仕方ないだろう、体調が悪かったそうだ。しかし、彼女に知ってもらう最良のチャンスだったのに……私たちはPeterlooに保護してもらうに値するアーティストです、と? そういうわけでもないが……岩走マキは、君にとって、母親代わりでもあるわけだろう。
と言い、しまった、と遅れて気づく。スンナ派に改宗した際に両親との絆も絶たれた彼女にはなにか、年長者の愛情への飢えがあるのではないかと、思っていても黙っていたのに。アーイシャは左目だけこちらへ向け、ズラミート、君と一緒にするな。と抑揚なしに言う。母親に観てもらいたい、のは君ではないのか。イスラエルを追われた以上、もうあの地での公演は叶わないわけだし。かといって、君の境遇をそのまま私のうえに重ねて見られるのは……と、常からこちらの不明を指摘する際の、怜悧な眼差しで述べられ、あ、たしかに、そうだ……すまない。と間抜けな声が漏れる、のを前にして、ふふっ、と眼を伏して微笑する。なんだか今夜は君らしくもないな、それほど緊張していたか。と綻ぶアーイシャの口元を見ながら、いや、そんなことは……と語尾が萎えるのは、これほどに闊達な笑みを浮かべる我が友を初めて見たから。行こう。あ、ああ……遅れて床上の鞄を持ち上げる。やはり、九三、だろうか。私が着く前に語らいを繁くしていたらしい彼女、その影響で我が友も、少しずつ変わって。
おはよう。と、すでに正午を過ぎた時刻に言われるのは奇妙だ。私と彼女らの生活サイクルが異なっている以上は仕方がないのだが。おはようございます。と日本式の挨拶を交わしながら着席する。一階の救護室中央に据えられたテーブルから、壁際のキッチンでシーラが紅茶らしきものを誂えているのが見える。そういえば、マキが寝食しているこの部屋に入ること自体初めて。たしか救護室を部屋としてあてがわれたと聞いていたが……と思いながら間取りを眺めているうちに、卓上にパンが配膳される。マキがテーブルに着くと同時に、シーラもカップを三つ並べる。
ちょっと遅くなったけど、ブランチってことでさ。と笑うシーラに、遅すぎる、君たちが起きる前にこちらは三度目の礼拝を済ませているのだ、と糺す気にもなれず、目の前のカップに紅茶が注がれる音を聞く。それじゃ、とポットを置いて椅子に着くシーラを見ながら、そうだカトリックが食事前に行う挨拶はどんなものだったか、と一瞬判じかねるこちらへ、いただきます。の声が二重に響く。今日はマキ側の儀礼で、ということか。了承し、いただきます。とこちらも唱える。まったく、彼女もすっかり懐いたものだ。母親代わり、か。
済まなかったな、昨日は観にいけなくて。と言うマキに、いえ、もともと誘っていませんから。と返す。のを見たシーラが、そんな言い方ないだろ、前から観に行くつもりだったんだよマキは。と申し立てる。のを受けて、体調が優れなかった、と聞きましたが。と弁明めくこちらへ、ああ、昨夜急にな。予定は空けておいたのだが、済まなかった。と宥めるような声が返る。そう何度も済まなかったと言われては決まりが悪いので、いえ、こちらも最後の公演というわけではありませんから。次に出演するフェスも決まりましたし。とやや早口に述べると、えっそうなの、と口をティーカップにつけたままシーラが言う。こちらは視線をマキへ向けたまま、ええ、「踊る。秋田」という東北でのフェスから招聘があって。七月末に特別枠としてAminadabの出演が決まったのです。と告げる。今月末か、ずいぶん慌ただしいな。今年はオリンピックの都合でスケジュールが立て込んでいて、我々の東京公演を観てから判断したかったのだそうです。もちろん実地で作品にふれてくれる人が一番信頼できるので、快く承諾しましたが。そっか……アーイシャたちの場合、公演がちゃんと行われるかさえわかんないんだもんね。といささか消沈した口ぶりのシーラに、こちらも釣られるように口籠ってしまう。そうか、それはそうだ。東アジアにおいて最も言論の自由が保たれている国、というお題目で滞在先に選んだこの国でも、近頃は美術展に爆破予告が寄せられ中止だのいや開催続行だのという物々しいニュースが聞かれるようになっているのだから。沈思しながら紅茶をすすっていると、何にしても、最初の公演が成功に終わって良かった。次は私も観に行くと約束しよう。と沈黙をかき消すようにマキが言う。ええ……ありがとうございます。もちろんあたしも行くから。わー秋田って北の方だよねマキ、たしかマキもそのへんの出身だよね? 夏だけど涼しいかなあ? と身を乗り出して燥ぐシーラを前にして、ふふっ、とつい笑みが漏れる。なに。いや、なんだか君は急に幼くなるなと思って……マキと話していると。言われて不服だったのか、それはそっちもだろ、いつもそういうふうに笑わないじゃん。とむくれて返す。いつもって、まだ会って一週間も経っていないだろう。そうだけど、前々からネット上の映像は観てたし、それにジュネーヴで初めて会って話聞いた時から、色々心配だったし……とふたたび萎える語尾に、ふふっ、優しい子なんだシーラは。これから仲良くやってくれたら、私も嬉しい。とマキの微笑が纏わる。しどろもどろに視線を遊ばせるシーラへ、ありがとう。紅茶、おいしかったよ。とだけ言って起立する。えっ、パンもあるよ食べないの。ありがたいのだが、これから夏の身体を造る必要があって食事制限を課しているのだ。そっか……とシーラは椅子の脇に両腕を垂らしている。では、昼のワークショップもありますので。ああ。ねえこれから毎日昼はこうやってお茶しようよ。どうかな、君たちは朝食が遅いからな……私の夜明けの礼拝に合わせて起きてくれたら、考えなくもないが。えっ……ふふっ、冗談だ。なん、もー……それでは、マキ。ああ、壮健にな。はい、失礼します。
夏の身体を作る、ねえ。さらっと言ってたけど、やっぱアーイシャ自分に厳しいんだな。あたし、ボディメイクとかダイエットに気ぃ遣ったことさえないな……野菜食べてりゃ十分だったし。そうだあのイスラームの断食月、ラマダーンだっけ。今年はいつからなんだろ、当然アーイシャもやるんだよな。あれっイスラームのカレンダーってこっちのとどう違うんだっけ、たしか夏に断食やるはずだけど……とか思いながら外に出ると、唐突に黄色い声が迎える。なん……うわあ。尾道が門前で人だかりに応対しているのが見える。一〇名程度、か。あのTシャツとかキャップとか見る限り、ファンだよな、Shamerockの。姫ー! やっぱりきたー! わたしが歩み寄るにつれ嵩を増す声。やっぱりってことは、この時間帯に出歩くって情報が日本のファン内で共有されてたのかな、たしかにここ最近ずっと散歩してたけど……とか思いながら門前に至り、改めて向こうに見える頭数を確かめる。尾道、いいよ、解錠して。えっ、ですが……大丈夫だよ、中には入れないから。と言いつつ、この程度の人数なら直接応対したほうが穏当に散らせることもわかっていた。はい、では……尾道が解錠するとともに門をくぐり、ひとりひとり数十秒程度のミート&グリートが始まる。会えてうれしいです姫、あのっ、これ、もしよかったら。ん、なんだろ……チョコ? はい、つくってきたんです。あは、包装紙があたしらの顔になってる。きみが描いたの? はい、描いたのをプリントして。ありがとう、すごくかわいいよ。暑いのに大変だったね。あっそれ、見た目はチョコですけど中はマグネットなんです。あ、そういうこと。さすがに食べ物はまずいと思って、夏だし。なるほどね、これ譜面台に使えるかも、ミッシーにも渡しとくよ。はいっ、あの、もしよかったらサイン……ああ、もちろん。このスマートフォン、の裏でいい? はい。ありがとうございますっ。あのーところでみんな聞いてほしいんだ、今日は特別に応対するけど、ここはあたしら以外にもいろんな人が生活してるとこだから、門の前で出待ちされるのはさすがに困る。近いうちに日本のファンとも接する機会があるはずだから、それまで待っててくれ。いいかな? はいっ。あのっ、サインいいですかっ。ああ。この白いペンで。ああ、こうかな。はいっ、ありがとうございますっ。ああ、今までこうしてくれるの教授だけだったのですごく新鮮です。はは、たしかに……教授まだいないんですか? まだだけど、来週には到着してるはずだよ。わかりました、じゃあ、本当にありがとう姫! ああ、他のファンたちにもちゃんと伝えといてくれよ。
なんだろう、な。こういうのはミッシーに任せとけばいいと思ってたけど、いつのまにかできるようになってる。やっぱ九三たちと世界を周るようになってから……とか考えてるうちに、門前にごったがえしていたファンたちはそれぞれの目的を遂げて帰っていった。よし、とりあえず済んだな……あたしらのファンは身内でのマナー意識も強いし、こういうことも二度とは起こらないはず。と、振り返ると。あ、きみ、も来てくれてたの? と言い淀みながら足元の人影を認める。背が低くて気づかなかった、あたしの身長の半分くらい、ってことはさすがにないか、でも見た感じ五、六歳くらいの──東アジア人の外見年齢ってよくわからないけど──子どもが、物も言わずにあたしの腰元に纏わっていた。しゃがみ込み、目線を合わせ、お父さんお母さんと一緒に来たの? とゆっくり言ってみる。茶色の帽子をかぶった頭が横に振られる。じゃあひとりで来たってこと。頭が縦に振られる。となると……えっと、まずくないか、この年頃の子がひとりで歩いて来たって。どうしよ、まさか、さっきいたファンたちが置いていったってことはないよな……と判じかねていると、小さな手がこちらの指を握る。なんだろう、何か言うことが。と思いながら視線を合わせて待っていると、あの、姫、すごく、かっこいいです。と、たどたどしい口ぶりで言うのだった。うん。姫、すごくかっこよくて、わたしも姫みたいになりたいです。と同じ語調で続けるのだが、なんだろう、すごく無機質に聞こえるというか。いや、あたしが小さい子の声を聞き慣れてないだけなんだろうけど、なんていうかすごく……あっ。目の前の子の頭越しに、彼方から駆け寄ってくる人影を認める。立ち上がると同時に木陰が遮っていた日光が眼に刺さり、軽い立ち眩みのようになる、が、みつばっ。と、彼方から放られる声を聞き取ることはできた。みつばっ。みつば、この子の名前、かな。依然としてこちらの指を握ったままの姿を見おろしていると、帽子のリボンの部分に三つのひらがなが刺繍されているのを発見した。これがこの子の名前かな、いまだに日本語読めないからわからないけど。思いながら、駆け寄ってくるワイシャツ姿の男性に対し、あの、この子の親御さんですか。と言ってみる。と、こちらが日本語で話せることに驚いたのか一瞬両眉を引きつらせたのち、え、ええ、そうです。と息急切って応えた。どうもすみません、ちょっと目を離した隙に。この子、あなたのことネットで知ったみたいで、すっかり好きになっちゃって。と眼下の姿の帽子を押さえながら言う。そう、ですか。それで会いたくて来ちゃったみたいなんですけど、だめだろーみつばー勝手に出かけたらー。交通事故に遭ったらどうするんだー。と腰をかがめてあやしつつ、それでは、ご迷惑おかけしました。二度とないように気をつけますので、と何度も首を垂れる。ああ、いえ……みつばちゃん帰るよー。おねえさんにさよなら言おうねー。父親に右手を握られた状態で、こちらを振り返りながら小さく手を振っている。あたしも反射的に振り返しながら、父娘の背中が交差点を曲がるまで見送る。
みつばちゃん、か。あのくらいの子ってもう学校には行ってるんだっけ。いや、それより下の施設でも夏休みなのかなすでに……と、わかるはずもない想念を遊ばせながら、今日は散歩はやめとくか、晴れすぎてるし、日傘も帽子もないし……そうださっきファンからもらったもの、部屋に持ってくか。尾道、解錠して。と引き返す自分の挙動も、なにかへんにせせこましく思えた。
測のお下がりって時点でわかってたけど、でかいなあこの日傘……あたしがこれ差して歩いてたらちぐはぐに見えないかな、と思いながら門を押し開く。うん、さすがに今日はあのファンたちは……あ。みつばちゃん。眼下の姿を日傘の影に迎え入れながら、昨日と同じようにしゃがみ込む。同じスカート、同じ服、同じ帽子。ええと、今日も来たの? 言うと同時に、小さな手がこちらの指に纏わる。黙ったまま視線を合わせていると、あの、姫、すごく、かっこいいです。わたしも姫みたいになりたいです。と言う。同じだ、昨日と全く同じ。う、うん、ありがとう。よっぽど伝えたいのかな、二日連続で来るなんて。でもそうなら、もっと燥いでくれてもよさそうなのに……と思いながら応えかねていると、みつばっ。と、昨日と同じ声が背中から。立ち上がる、と、日傘の骨が脇から駆け寄ってくる男性の服を引っ掻いた。あっ、すいませ。いえ、いえ、こちらこそ。めくれたワイシャツの裾から、これはなんだろう、汗とも違う独特の臭気が……タバコ、かな。マキのそれとはちょっと違う、でも同種の臭い。みつばぁ、だめだって言ったのに……本当にごめんなさい、この子、よっぽど好きみたいで。笑いながら言うのだが、その口角が妙に引き攣って見える。じゃあ帰ろうな、みつば、もうおねえさんに迷惑かけちゃだめだぞ。との声をすでに遠くに聞きながら、背中を見送る、昨日と同じように。でもこれは、なにか──尾道。はいっ。カメラには映ってたよな、さっきのあの子。はい、あの茶色い帽子の。ああ。あの子がもし明日にもここに来てたら──保護しといてもらえないか。保護。ああ、あたしのファンみたいなんだけど……さすがに、この暑さで路上に放置しとくのは危ないだろ。あの子だけは特別に、一階のそうだな、マキのいる救護室に入ってもらっていいから。はい、では……そのように。
やっぱりだ。シーラ様、こちらです。尾道からの報告を受けて一階に降りると、救護室中央のテーブルにあの子の姿が。三分ほど前です、門の前に一人で立っているのを見つけまして……テーブルに歩み寄ると同時に、書架の影からマキが歩み出てくる。お前の判断で保護したそうだな。うん、これで三日連続なんだ、なぜかずっとうちの前に来てて……言いながら、傍らの席で静まっている子の姿を検める。今日はあの帽子すらない。みつば、ちゃん。と手を差し伸べると、またしても同じように指が纏わる。あの、姫、すごく、かっこいいです。わたしも姫みたいになりたいです。また、まただ、この無機質な声で。繰り返し言うからにはよっぽど伝えたいのかと思ってたけど……実は、逆なんじゃ。伝えたいのはこのことじゃない。本当に言えないことがあるから、こうして何度も繰り返して……みつばちゃん。言いながら、着席している彼女の膝下までしゃがみ込む。依然としてこちらの手を握っている指、を弄い、ちょっと、いいかな。と囁きながら、彼女の上腕を覆っている袖元をめくってみる。そこには、痕。なんの痕。灼かれた皮膚の。しかし陽光のそれではない、明らかに人工の火が象嵌したと思しい、小指の爪ほどの大きさの火傷。
マキ様……シーラ様。と、ドアの向こうから尾道の声。数秒遅れて押し開かれる。みつばっ、だめだっていったのに、本当にすいませ、ご迷惑をおかけしてしまって……と、いっぱしの父親を取り繕いたいのであろう、彼方の男の声を聴く。立ち上がり、傍らの小さな影を過ぎ行き、前方で小さく戦慄いて立ち止まる姿に相対する。
お前、あの子に何をした。
解離という機制は、ああいうふうに働くこともあるそうだ。と、遠のくパトカーの音とともにマキの声を聞きながら、救護室へと戻る。心身の虐待や性的暴行を受け、なんとか生命の危機には至らないよう苦痛を感じなくさせる、そういった役割を担うことがあると。武力に基づく占領や民族浄化の生還者を診療していると、同じ言葉を何度も繰り返して、自分の傷のありかを糊塗しようとする例が頻繁に見られるらしい。もしかしたらあの子も、それと同じなのではないか……テーブルについたまま動かずにいる姿を遠くに見ていると、人攫いっ、何の権利があって、ふざけるなっ、わたしの子だっ、とあの無様な父親が連行前に喚き立てていた怒声が耳元に蘇るようだった。何度も、何度も、繰り返し。そうだ、一度では済まないから繰り返すのだ。酒を飲むのも、タバコを吸うのも、その灼熱を無抵抗な実子の肌に押し付けるのも、酔態にまかせて伴侶を殴りつけるのも。繰り返し、繰り返し。その反復自体が行為の異常性を麻痺させる、加害者にとっても被害者にとっても。わたしが今していることは、されていることは、何も大したことではないのだと……
気づけてよかった、などと呑気に言えるわけもない。逆だ、あたしが気づかなかったらあの子は一体どうなっていた。助けてくれなかったのか周りの人々は。あるいは、それが察せられないほどに孤立化され、抵抗も無効化されているとしたら、それは収容所とどう違う。救護室の入口で身動きが取れずにいると、マキは室内の空調を駆動させ、採風用の窓をひとつひとつ開けていった。もう、ここでは吸えんな。言いながら灰皿を洗っている。タバコの臭いが彼女の外傷記憶をフラッシュバックさせかねないから、ということだろう。九三にも、これから一階では吸わないように言っておいてくれ。ああ……いつのまにか傾いている陽を窓から覗いていると、マキ。と背後から低い男性の声。話はついたか。ああ、母親はあの男を訴えるつもりはないと……ただ、心身の状態が落ち着くまで、しばらく時間が欲しいと。その間のカウンセリング等の費用はこちらで負担する、ということで合意が得られた。訴えるつもりはない、か。被害者なのに。あっちから暴力を加えられることがなければ、加害者・被害者って立場自体が生じないはずなのに。それでもあっちを責めるつもりはない、のか。あたしの歯軋りの音をマキは気にも留めず、わかった。ではしばらく、娘の身柄はこちらで保護する。と事務的に言うのみだった。もちろん、そのようにしてほしいと。ではご苦労だった典午、この件は任せるぞ。ああ、では。
身柄っていってもどうすんのさ。幼稚園にはここから通わせる、どのみち徒歩数分だ。そうじゃなくて、こんなことがあったあとでさ、どうやって今まで通りに振る舞うっての。マキは灰皿をキッチンの戸棚の奥にしまいながら、それは……彼女次第だとしか言いようがない。と途切れがちに言った。すくなくとも、暴力を振るわれ続ける環境からは抜け出したのだ、これからの経過を見ていくしかない。抜け出した、か。あたしがゴールウェイから家出したときみたいに。でも小さい子がさ、あんなことされた後ってどうなんの。私が担当した事例では、むしろ虐待がなくなった後で自分がされたことの正体がわかるようになり、心身の不調を訴えはじめることが多い……後で、か。今まではあの虐待自体が麻酔になってた、ってこと。ああ。その後の人生でどう折り合いをつけていくかは、彼女自身と、臨床に携わる医者次第、としか言いようがない……
この会話も、みつばはどんな気持ちで聴いているのだろう。いや、聴いてさえいないのかも。とにかく危機を脱することができてよかった、そんな安心感の中で解離が続いているのかも。しかし、いつかその機制が解けて痛みが一斉に押し寄せたら、そのときはどうなる。椅子に腰掛けている姿に手を差し伸べると、小さな指が纏わる。あの、姫、すごく、かっこいいです。わたしも姫みたいになりたいです。うん、わかってるよ。会いに来てくれてありがとう。両の瞳を覗き込む。そこにあなたはいるか。あなたの瞳に、本当にあたしは映っているか。みつば。呼びかけても応えない。みつば。これからしばらくは、あたしがいっしょにいるからね。視線だけは微塵も揺るがせない。とりあえず、ここでは誰も、何もしないから……しばらく、一緒にいようね。みつばのお母さんも……お父さんも、いなくなっちゃったわけじゃないからね。ひとつひとつ、噛んで含めるように言うと、こくっ、と、初めて頷きながら笑ってくれた。
マキ。なんだね。あたしの……部屋に、来てもらうよ。まだミッシー着いてないし、時間的にも余裕ある。たぶん、それが一番安全なんだと思うよ……一階にいたら、またいつのまにか出てっちゃうかもしれないし。そうか……そうだな。だいじょうぶ、二階でも誰もタバコ吸わないようにって、みんなに言っとくから。ああ。
チョコレートパンを牛乳で流し込むようにして遅めの昼食を済ませたみつばは、途端に安心感が訪れたのか、椅子の上でうとうとしはじめた。寝かせたほうがいい、色々あった一日だ。と思うも、安眠させるためには身体を洗わせたほうがいいのかも、とふいに直感した。とりあえずバスタブにお湯を張り、どうしようこれくらいぬるくていいんだっけ、そもそもあれくらいの子って自分で入浴できたっけ。そうだ入れたとして着替えどうしよう、母親のほうに言って送ってもらうかな、いや買いに行ったほうが早いか。と何も手につかないようになりつつ、みつば、と手招きし、ひとまず目の前の行水にけりをつけるしかなかった。おいで、おふろ入ろう、疲れたでしょ。頷き、バスルームの中に歩み入ってくる。転ばないようにね、気をつけて。
やはりというか、身体のうえに浮かぶ火傷の痕が痛ましい。沁みる? 大丈夫? と確認しながらぬるま湯をかけても、痛みは訴えない。これも解離ってやつか、それともよっぽど昔の傷痕だからもう沁みないのか、とふいに走る苦味を噛み潰し、みつばの脇腹を抱え、湯に浸す。
姫、と、こちらを振り返りながら小さく言う。うん? わたし、姫のうた、すき。ありがと。どのうたが好き? と問うと、ミッシーと初めて組んで出したアルバムの一曲目のメロディをハミングし始めるので、あたしもそれに詞を添える。ふふっ、と目と口を線にして笑ってくれた。姫かっこいい、わたしも姫みたいになりたいな。ありがと。どうしたら姫みたいになれる? 田舎町の宗教右派の家で母親からの無理解に晒されてうんざりして隣国に家出して寒さと空腹のあまりゴミ漁りしてたら若手の才能あるトラックメイカーに拾ってもらえてアルバム出せるようになるよ、と正直なところを開陳できるわけもなく、どうかなあ、唄い続けてたらなれるかもね。と無難なことを言う。うた? うん、自分でつくった歌でなくてもいいよ。誰の歌でもいい。誰に聞かせるでもなく、ただいやなことがあったりとか、すごく疲れたりとか、そんなときに唄ってみたらいいと思う。少なくとも、あたしはずっとそうしてきたよ。温みと湯煙のなかで、みつばはあたしと視線を合わせながら、わかったようなわからないような顔で頷いた。姫はどんなうたうたってた、わたしくらいのとき? そうだなあ……うーん、ドイツ語の歌なんだけどね……これはちょっと……なんで? うたいたくない? わけではない、けど……そうだ、唄えなくなったのだ、この歌は。父の挫折の経験と直接に結びついてしまった、しかし幼時のあたしがこよなく愛していた歌。もしかしたら、今なら、唄えるのかな……少なくとも、いまあたしはひとりじゃない、この子がいる。なら、この子のために唄えばいい。よし、じゃあ聴いててね。言うと、みつばは大きく頷く。この歌はね、『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』。困ってる人がいたら助けてあげましょう、って歌だよ。
ってわけで、あの家出っ娘にもよろしくねえ。だから名前で呼びなよ、もう立派なアーティストだよ姫は。あんただって名前では呼んでないじゃない。まあ、そうだけどさ。あとミッシー、忘れないでよ日本の錦買ってくるの。わかってるって、西陣織でしょ? よさそうなの見繕ってくるから。まさかうちの末娘がオリンピックに出るとはねえ。出るってもオープニングセレモニーだけどね。じゃ、気をつけて。うん、ありがと。
と、このままエディンバラ国際空港に向かえばいいのだが、チケットはロンドン発で取っているのだった。ブリテンを離れる前に、寄っとかなきゃならないとこがあるから。
サヴィル・ロウ。ロンドン全体がそうといえばそうなのだが、いけ好かない街だ。わたしのCouncil Clubみたいな、ストリートのファッションが根を下ろさない土地。ならなんで来た。もちろん、姫のいないうちに、あいつに挨拶を済ませるために。
ベルを鳴らし、三〇秒ほど数えたのちに、磨りガラスのドアが開く。よう。わたしの面を認めたウェンダ・ウォーターズは、何の用だね、とも訊かず、無言でDark Dukeのビューロー内に迎え入れるのだった。へへ、何、やけにせせこましいじゃん。わたしと一緒にいるとこ、見られたら困るってこと。何の話だね、我々はすでに同じ興行の一員だろう。いくらアポイントメント無しの訪問とはいえ、拒む理由などない。と窓際のカーテンを閉めながら言うウェンダの背中から、部屋の内装へと視線を辷らせる。ここ、あんたのお婆ちゃんの代からの。まあ、少なからず改装は加えたが。そっか。室内中央に置かれた黒檀のテーブルの上に、あれはInnuendo関連の新作衣装だろうか、鉛筆のみで描かれたデザイン画が置かれている。その脇に灰皿……あれ、はは、あんたタバコ吸うんだ。と言いながらウェンダのほうへ向き直ると、ああ、と言いながら既に一本取り出して着火していた。人前では吸わないがな、作業中には欠かせない。と言いながらジョン・プレイヤー・スペシャルの箱を懐にしまい、ふうっ、と中空に息を吐き出す。閉められたカーテンに灰色の煙が纏わり、磨りガラス越しに差し込む曇天の陽光もまた、同様の鈍い明るみを添えていた。
何の用だ、とか訊かないの。訊いて欲しいのならそうするが。はは……さっきからわたしがあんたに強請ってるみたいじゃん。みたい、ではなく実際そうなのだが。ウェンダはテーブルに歩み寄って灰皿を叩く。わたし、さ。と言っても、ウェンダはこちらへ後頭部を向けたまま。わたしさ、大嫌いなんだ、あんたのこと。投げた言葉にも向こうは動ずることなく、もちろん知っている。とだけ言ってふたたびタバコを咥えた。リオのときさ、エリザベスにあんなことしてさ。許せないと思ったよ、一緒に組んでる友達に、あんなこと……友達ではない。私とリズは明確な契約に基づく関係だ、私が衣装を作り、彼女が新たな美を引き出す、という契約の。そういう言い方が嫌いだって言ってんの。では、私も君のように馴れ合うべきかな、愛しの幼姫君と。そうすれば君のブランドのだらしない寸法にも合うようになるかもしれん。こちらを向きながら煙を吐くとともに、お互いの間に沈黙が垂れる。ところで、メリッサ。と名前で呼ばれる心地悪さをかき消すように、何。と一言で切る。君は先ほどから、まるでお前と私は違うとでも言いたげだが……同類ではないかね。とこちらを見据える双眸に、投げ返すべき言葉が詰まる。同じだろう、君と私とは。自分で調えたものをパートナーに捧げる、音楽でも衣装でも、私たちがしていることは同じだろう。ふざけん、なよ。同じなもんか、わたしはあんたみたいに大事なパートナーを痛めつけはしない。痛めつける、ね。コルセットの締め上げが虐待にあたるというなら、私のやり方もそうなのかもしれないが。ウェンダ……と、臓腑から湧き上がるものをそのまま吐き出したい衝動が、タバコを握った手の一挙動で制される。いいかメリッサ、一言で済ませるが。半分ほど燃え尽きたタバコの先を見つめながら、次が言われるのを待つしかない。君は先ほどから、私がリズに課した試練について難詰しているわけだが……そこまで執拗に問い詰めるということは、したかったのではないかね、君も? 再びタバコを咥えるウェンダに、何……したかったって。と返す声が慄えていることに気づき、一緒にするなって言ってんだろさっきから。と早口で継いだ詰りも強突く張りにしか響かない。簡単なことだよ、君がここまで私の方法に執着するのは、君が本当にやりたいことを私がやってしまっているからだ。我々が互いのパートナーにしていることが本質的に同じであることを認めたがらないのもそうだ。もし我々が全くの他人であるならば、こうして互いの違いを並べ立てるまでもなく無視で報いているはずじゃないか……違う。なにが違うのかね。違うとすれば、我々が違っていることが違うのだ。そろそろ認めたほうがいい、我々が似た存在であるということを。違う。違うのであれば、なぜ君はここに来たんだね。なぜわざわざ、君の姫やリズがいない時と場所を選んで。それは……済ませておくべきことがあったんだろう、私と君との間で。フィルターの寸前まで燃え尽きたタバコを灰皿で躙り、煙を吐き出す。メリッサ、君が苦しみ喘いでいるのを見るのは忍びない。本当にしたいことがわかっているのに認められない、いかにもスコットランド人らしいことだが……ウェンダの声と、ビューロー入口の扉が施錠される音を同時に聴く。試しにやってみたまえ、君が本当にしたいことを。それくらいの練習になら、私も付き合おう。
聖母園、か。この地区でみつばが今まで通りの暮らしを続けるなら、そこに落ち着くしかない。しかし……やっぱりカトリックなのか。結局、迷い子の生を救うには、宗教的なるものの体制にすがるしかないのか。聖母園だからといって、そこの職員が愚劣な神父たちのように幼児虐待を加えるわけがないなんて確証はどこにも無いのに。という屈託も、日本のカトリックも向こうと同じだなんて確証も、同じように無いわけでしょう。信じて、預けてみるしかない。という測の言葉に絆されたようで、もう明日の引き渡しが決まっていた。
こればかりは、Peterlooも出る幕ないもんな。救護室に真新しく貼られた「禁煙」の表示を眺めながら、向かいの席のマキに言う。その国だけで解決できるなら、それに越したことはないもんな……ああ、我々にできることはここまでだ。シーラ、よくやったよ。これ以上深入りすれば、我々は救いの押し売りで彼女の生をも歪めてしまいかねない。ここで退くのが肝要だ。うん……救いの押し売り、か。みつばも、この地上の理不尽で居場所を失ったには違いないんだ。そして迷い子の生を引き受けるのは、やっぱり宗教的なるものの役割。むしろその役割だけが、宗教的なるものの存在を許す……
マキ。なんだ。杜の旦那に連絡してくれないかな、ゴールウェイ行の航空券取ってくれないか、って。ゴールウェイ……帰るのか。うん、まだオリンピックのリハーサルまでは余裕あるだろ。それまでに、済ませときたい……会っとかなきゃいけない人がいるんだ。
これでもう三度目の着信を、ようやく受話する用意が整ったのか、メリッサは上体を起こしてパーカーのポケットの中からスマートフォンを取り出す。うん、姫。ごめん、ちょっと寝ちゃってて。うん……え、アイルランド? ゴールウェイ……いいけど、明後日? わかった、じゃあわたしは……うん、現地で、ってことね。わかった。じゃあ、また連絡して。うん……との、平静を取り繕った声が止む。航空券、無駄になっちゃったな。床に散らしたままのインナーを拾い上げる姿をテーブル上から眺めながら、明日の出発は沙汰止みになったか。と首元のボタンを留めながら言う。うん、姫がいったんアイルランド帰るからって、そこで落ち合ったあと一緒に行こうって……と事務的に述べながら、メリッサはインナーを着るでもなく茫然としている。どうしたね。いや……いやだな、って。あんたに触れられた後でこれ着ちゃったら、あんたの匂いがついたまま帰らなきゃいけない……眼下からの消沈した声に、君がしたいことに付き合わされたというのに、まるで汚されたとでも言いたげだな。と返す。うるさい……したかったもんか、あんなこと。全然よくなかった、最悪だった……最悪だった、か。三度も達しておきながらそんな不平を述べられても何ら説得力がないのだが、とまでは言わず、シャワールームを使うといい、とだけ言って電灯のスイッチを入れる。ここまであんたの世話になんなきゃいけないのか……後先考えない君のツケが回ってきたのだ、私は付き合わされているに過ぎない。それに、最後まで面倒を見るのが私の流儀だ。さあ、メリッサ。うん……タオルを受け取って歩き去る背中から、ねえ、ウェンダ。との声。なんだね。やっぱり、違うよ……わたしが姫にしたい、姫にされたいことは、やっぱこういうことじゃないよ。そうか。うん……わたしらは違うんだよ。たしかに似てることは認める。でも、それでも絶対に同じじゃない。それだけは、わかって。私に向けるというより自らを説き伏せるような言葉。君がそう思いたいのなら構わないさ。は、ほんとムカつくなその言い方……エリザベスもいつか愛想尽かすよ。ありえないことだな、私とリズが別れるなど。既にリズには伝えてあるのだ、私より優秀なパートナーが見つかったら捨ててくれと。そのために世界一周してくれてもいい、費用ならここにあるから使ってくれと銀行口座も与えてある。もちろん、リズは一度も離れたことがない。無駄足にしかならないと判っているからだ。すごいな、その自信……私だけではなくリズとの合意に基づく信念であるからには、壊すわけにはいかない。そう……じゃあ、洗ったらもう帰るよ。出立が伸びたのなら、泊まっていっても構わないが。いいよ、エリザベスに迷惑だろ……それに、整理つけたいんだ。姫がくる前に、わたしとわたしたちの、色々を。
もう四年ぶりになるのか。この家、あたしがなんの方途もなしに、スコットランド行の船に乗る金だけくすねて飛び出したこの家。ひとりで暮らすには広すぎるだろう煉瓦造りの住処に、あの懐かしい声が響いた。おかえり。うん、ただいま。
母さん、執行猶予付きで釈放になるらしいね。言いながら樫造りのテーブルに着くと、ああ、とだけ言ってジャー入りのアップルティーを出してくれた。なにか食べるかね、サラダとスコーンならあるが。いや、いい。親子として久しぶりの会話が、どこか形式ばるのを免れない。ありがと、父さん、ダブリンのとき。うん? あの公演が中止になりかけたとき、抗議の署名を募る運動があって。そのリストの中に、父さんの名前、あったからさ。ああ、と語尾をぼかす顔の表情は、頬まで覆われた髭のせいで明かでない。さすがに、この田舎町まで伝わってきたものな、あの騒ぎは。ふふっ。よそよそしさが逆に愛嬌のように思えて、微笑しながらカップにアップルティーを注ぐ。
父さん、さ。うん。もともと神学校に行きたかったんでしょ。そのためにラテン語の勉強してたけど、父さんの両親が、そう、だってことがばれて、諦めて語学教師になったんでしょ。そうだよ。ひとつ訊いていい。なんだね。どうして神学校だったの。いや、責めてるわけじゃないよ。でも父さん、ずっと言ってたじゃない、行き場のない人々を救いたいって。ああ、失敗したがね。それも、含めて、知りたくて……なんで父さんは、そういうことをしようと思ったの。
向かいの席に着く姿の、その双眸を見据えながら答えを待つ。なんで、だろうな。テーブルの上で両手を組む。カトリックでもプロテスタントでも、キリスト教のせいで数えきれないくらい悲惨なことが起こってきた、なんてのは、誰でも知ってることなのにな……でもね、パトリシア。一瞬の沈黙。ののち、父は両眉に触れながら話し始める。それでも、まだ、あると思ったんだ。人々を助けるための力は、宗教のなかに。途切れ途切れの構文、でも、胸懐するものは伝わってくる。まだ、すべてが壊れたわけじゃない。まだ、まだ、やってみるべきことは残ってるんじゃないかって……それで聖典の勉強を始めた。途中でどうにもならなくなったけど、それでも、まだ全部がだめになったわけじゃない、と……まだ。そう、まだ。結局あの試みも台無しになってしまったが……すまんな、パトリシア。妻と子がある身でこれを言うのは、本当に父親失格なのだと思うが……それでも、後悔はまったく無いんだ。こんなに決然とした声を、まさか父から聞くことになるなんて。まだ、やれることはきっとある。助けなきゃいけない人がいる限り、やれるだけのことはやらなきゃいけない……と。まだ。そう、まだ。とはいってもさすがに、母さんまでああなってしまっては、もうわたしたちの言葉に誰も耳を貸しはしないだろうがね……と自嘲に傾く頬を前にして、父さん。と投げかける。なんだね。あたしね、日本でしばらく暮らしててね……似た子に会ったんだ。生まれ育った環境に問題を抱えてる、あたしみたいな子。黙して頷く相手に続ける。同じこと考えたよ、父さんがさっき言ってたことと。まだ、やれることはきっとある、やれるだけのことはやらなきゃいけない……だからさ、父さん。うん。あたしが、やってみるよ。やろうとしたこと、父さんがやろうとしてできなかったこと。もし父さんが失敗したんだとしたら、きっと独りでやったから。ほんとに幸いなことに、あたしにはパートナーがいる。同じことを一緒にやってくれるパートナーが。うん。だから、父さん。あたしが証明してみせる。まだ、すべてが壊れたわけじゃないってこと。父さんが生まれたのも、母さんがあたしを産んだのも、間違いじゃなかったってことを。
杜の旦那がこちらの了承もなしに取り付けた、Shamerockファンミーティングのため、ひとつ小道具を発注しなきゃいけなかった。ギターケースをふたまわり大きくしたくらいの、十字架の形をした木箱。その底面に滑走用のローラーふたつ、よしちゃんと付いてるな。じゃあ、ミッシー。この、中のボタン押したら開くはずだから。はは、窒息しそうで怖いなあ。大丈夫、ちゃんと合図するよ。じゃ、さっき伝えた段取り通りに。うん、やるよ。
懐かしいな、ここで唄ったこともあったっけ。しかしまさか、ダブリンであんな騒ぎを持ち上げたあたしらがこの教会堂でファンミーティングやるなんて。杜の旦那の金の力とはいえ、放蕩娘の帰還としてはあまりにもな舞台じゃないか。会場の照明が落ち、スポットライトがステージを照らす。左肩に十字架の上部を乗せ、底面のローラーを床上に滑らせながら、一歩一歩進む。二〇〇人にも満たないファンの歓声が聴こえるが、目線はステージ中央のマイクスタンドから逸らさない。たどり着くと同時に、肩に担いだ十字架を床に下ろし、呼吸を整え、マイクに相対する。
みんな、いきなりの開催で驚いたろうが、集まってくれてありがとう。あたしの生まれ故郷のゴールウェイで、こうしてみんなと会うことができて、とても嬉しく思う。一通りの挨拶を述べると、客席から少なからず喝采が上がる。さて、始める前に……今日はひとつ、みんなに伝えておきたいことがあるんだ。と述べると、なにー? と調子を合わせるような声が返る。咳払いひとつ、数秒の沈黙を挟んで、話し始める。
今日からもう、あたしのことを姫と呼ぶのはやめてくれ。
水を打ったような静けさ、にひとつひとつ刻み込むように言う。あたしの名は、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。アイルランドのゴールウェイで、スタニスロース・オサリヴァンとブリジッド・フィッツジェラルドとの間に産まれ、聖メアリー教会で洗礼を受けた。それがあたしだ。逃げも隠れもしない、みんなと同じようにこの土地で生まれ育った、ただの人間だ。と切り、場内の観客たちの顔をひとりひとり眺める。もちろん、あたしの父や母については、みんな色々聞いてるだろう。ある意味では、あたしを応援してくれることは、父や母にまつわることを見ないふりしてくれる、そういうことでもあったろう。でも……もう、そんな気遣いはいらない。言いながら観客たちの表情を窺う。意を察しがたいという顔、それも当然だろう、しかし。父は、迷える人々を救おうとして失敗した。でも思うんだ、その試み自体は何も間違ってなかったと。この地上には、まだするべきことがある、まだ助けるべき命があると。もちろん、人間ひとりができることには限界がある。父は、独りですべてを救おうとしたから失敗したんだ。でも。さあミッシー、合図だぞ。十字架の蓋が開かれ、中からひとつの姿が転び出てくる。あたしにはパートナーがいる。同じ理想のために一緒に取り組んでくれる、最高の友達が。言いながら、立ち上がるミッシーと背中を合わせる。客席からの歓呼の声を受け、スタンドからマイクを外して続ける。あたしの名は、シーラ・パトリシア・オサリヴァン。メリッサ・マッコイと出逢っていっぱしの音楽ができるようになっただけの、ただの人間だ。そしてみんなもまた、なんの因果かあたしたちと出会ってくれた。同じように誰かから生まれて、同じように問題を抱えてるやつらしか、ここには集まってはいない。だからみんな、みんなのもやもやをあたしに寄越せ。どんな些細な悩みも、死にたいくらいの絶望も、もう独りにはしない。忘れるな、みんなのもとに暗闇が訪れたとき、その暗闇のなかにあたしはいる。最高のギラギラも最低のドロドロも、全部持ってってやる。あたしは、あたしらは、Shamerockは、その仕事を続けると決めたんだ。あたしらも失敗するかもしれないって、それが何だ。まだ全部をやってみたわけじゃない。だから、みんなの絶望を全部くれ。あたしらは詞と音楽で、それに火をつけて、天高く燃え立たせてやる。そうすれば遠くの奴らにも伝わるだろう、自分は独りじゃないんだと。それがあたしらの、Shamerockの仕事だ。
姫、じゃない、シーラ。なに。わたしさ、初めて会った時……そう、グラスゴーのゴミ捨て場で、シーラを見つけた時。うん。助けたかった、わけじゃないんだ。一目見て、あの子ならわたしのしたいこと全部させてくれるんじゃないか、って……ごめんね。なんで謝るんだ。だって、わたし、シーラが言うように正しい人間じゃないよ……自分の作品のために他人を利用してさ、それも行き場がなくて困ってる人を。わたし、なんでも思い通りになる人を欲しがってただけなんだ……それは違……違わない。えっ。違わないんだよ、シーラ。
そうだとしてもさ。えっ。腰が抱き寄せられ、目の前の右手がわたしの左手をとる。そうだとしても、嬉しかったよ。ミッシーとその家族が、あたしを受け入れてくれて。居場所を、与えてくれて。姫の、いやシーラの、初めて見る顔。こんな笑い方ができるなんて。あたしを見つけてくれてありがとう。おかげで今、こうしていられる。右手の細指が存外に力強い。振り解くことも、できそうにない。これからは、ふたりでいこう。シーラとメリッサで、どこまで行けるか試してみよう。視線を逸らしたまま、でいられるわけもない。電球の明かりだけが照らす室内で、お互いの双眸を覗き込む。両手を重ね合わせ、唇がふれる。
ふふっ、笑うなよ。あたし、これ、初めてなんだ。そう……ごめんね、わたし、初めてじゃないんだ。なんで謝るんだ。そりゃ、謝るよ……わたし、シーラに謝らなきゃいけないこと、いっぱいある。そうか。そうだとしても、お互い様だろ。うん……ごめん、シーラ。愛してる。
25 鯨
みなさん仲良くご到着ですか。なんだ、べつに示し合わせたわけじゃないぞ。久しぶりね四七。ええ、御姉様。空港までわざわざありがとね、これであと着いてないのは한나だけ? いえ、昨日到着されましたよ。お、じゃあ全員集合か。それでは早速向かいましょうか、ヘリも待たせていることですし。ヘ、リ……なんで? 九三様が欲しいと言っていたではありませんか。げっ、本当に買ったのね……まあ、杜の旦那からすればオモチャみたいなもんだろな。AIの自動操縦による最新式のヘリです、なかなか快適ですよ。自動操縦……大丈夫なの? なんだ腰が引けたかパトリシア? そっちの名で呼ぶんじゃないのパトリシア。そのAIってもしかして尾道? いえ、あんな人間臭さのない、ただの距離測定プログラムです。それはよかった、移動中もウェンダ様ウェンダ様と絡まれては鬱陶しいからな。ははっ、じゃあ飛んで行くかい、ShamerockとInnuendoで。そうね、私たちほどの人間が地下鉄で移動など考えられないものね。ロンドンでは普通に乗ってるだろ。うるさいわねえ。では、こちらへ。
でさ、션윈が言うには、カコ、GILAffeが出てきてから通訳の商売上がったりなんだって、カン、うん、カコ、でもやっぱ翻訳は別でカン、文字まで読めるようになるわけじゃないからカコ、外国語翻訳の需要はむしろ高まってるってカン、へえ、カコ、だから外国への興味が高まったこの期カン、に一気に予算出させてカコ、全アジア規模の近代女性作家のシリーズ出そうと思うカンッ、と心地良い打音とともに弾道がテーブル上の白線を射抜く。って言ってたよ。ああもう、また取られたあ。へへへ、上手いでしょーきわっきわ狙うの。床上に転がったピンポン球を拾いながら、なんで私は攻めに持ってけないのかな、ペンホルダーだからかなあ……とぼやいてみる。ラケットは関係ないでしょ、流れが大事なんだよ。今度あたし多めにロブ打ってみるからヤスミンもきめてみなよ。うん……ピンポン球をネットの向こうに投げ返すと、申し上げます。Shamerock並びにInnuendoの四名様、ご到着です。とのアナウンスが流れる。おっ。一拍遅れてエレベーターのベルが鳴り、九三と測とイネスが歩み出てくる。もう着いたんですね。うん、ていうかさっきヘリの音バルバルしてたっしょ。え、そうでしたか。あはは、あたしら卓球に集中しすぎてて気づかなかったよ。笑いながらラケットを放り出して入口のほうへ歩み出す한나、の背中を追う。あれ九三、ヘリで到着したってことはさ。とイネスに呼び止められ、あそうか、いま屋上か。じゃあ一階に来たって意味ないじゃん、と笑いながらエレベーターの上昇ボタンを押す九三。
五人で屋上まで登り、ヘリ発着場まで出ると、すでに数名の尾道が荷物を運び出しているところだった。お帰りなさい姫、じゃない……シーラ。ああ、三日ぶりだけどな。微笑みを交わす測とシーラの傍らを過ぎ、エリザベス、お久しぶりですっ。と眼前まで歩み寄る。ええ、また会えたわね。私ずっと楽しみにしてましたっ、またエリザベスと同じステージに立てるのを。これで全員集合ですねっ。振り返ると、한나と教授がいつも通りに拳を突き合わせ、ウェンダが多く出てきすぎた尾道を帰しているところだった。ふふっ、どんな夏になるかしらね。絶対すごいことになりますよ、私たち全員いるんですもん! おーし、じゃあとりあえず昼飯にしようか。わたしらのフロアは二階だからね。
あ。三階でエレベーターが停まり、フロアにアーイシャ、と多くのムスリマたちが集まっているのが見える。乗れるかな、と九三は室内のスペースに目を配り、ちょっとみんな詰めて、と言いながら人影を壁面に寄せる。いや大丈夫だ、私だけ乗れたらいい、水を取りに行くだけだから。とアーイシャは言い、後方の人影を一瞥したのちエレベーターに歩み入った。一階のボタンが押され、ドアが閉まる。今からワークショップ? というよりは、私とズラミートのリハーサルだ。秋田のあれに向けてだよね、頑張って。そちらこそな。と言葉少なくも親しげに話す二人の姿を無言で眺めるうちに二階に着き、ドアが開くとともにアーイシャが壁面に寄る。ありがと、じゃあ。ああ。足早にフロアへ出る私たちをよそに、九三とシーラだけが名残惜しげに手を振ってドアが閉まるのを見届けていた。
つうわけでセットリストはこんな感じっす。ん、もう確定でいいんじゃん。だな、四五分間にまとめるならこれしかないだろう。ホワイトボードを前にして頷きながら、ソファに着いている皆の表情も窺う。しかし、このスタジオに初めて入ったときはまた随分なものをと思ったが、一一人も集うと流石に手狭に思える。でも一発目から新曲って最高でしょー、このトラックヤバくないすかー? と満面の笑みでイリチがDAWの再生ボタンを押し、先ほどパラデータを流し込んだばかりの『B-AVALON』のトラックが流れる。はは、今日何回聴くんだよ。だってだってえ、教授と한나とゾフィアとウェンダで co-write するって話は聞いてたすけど、こんなんなるなんて思わなかったすもんー! ありがと。もちろんこれからミキシングとイリチのギター録りも残ってるけどね。気合入れてやるっすよおー! とプロデューサー組が気炎を上げるのを見ながら、なんだか、いよいよって気がするな。と九三に目配せする。だねー。みんなでホームスタジオに集まって作戦会議って、これぞクルーって感じ。じゃあ今日はリハーサルスタジオで『B-AVALON』以外の曲の確認しましょ、みんな演り慣れてるはずっすから一日あれば十分っす。だね。じゃあ早速移動……九三、日程の確認忘れてる。あそうだった、えと、まずみんな知ってるように今月の一八日にオリンピック開会式でのパフォーマンスね。そんで八月の一日に愛知、一週間後に大阪、一五日の福岡でツアーファイナル。開会式含めて四公演しかないとはなー。さすがにこのメンツだと演れる会場も限られるしね。でも愛知以降は二時間半のフルセットでやるから、休む暇ないはずだよ。だな。まずは最初のデカい山を……と賑わう室内に、突然尾道が投射される。尾道ですが。おう、どしたん。シーラ様、いえ、皆様にお伝えしなければならないことが……なに。倒れました、マキ様が。えっ。マキ様が……たった今、一階の救護室で。
ホロスクリーン上に脈拍や心拍の数値、臓器をスキャンしたと思しき画像が表示されている、のを漠と眺める。生命維持装置、こうやって使うものだったのか。初めて見たときはなんて大袈裟なと思ったけれど、現にこうしてマキの肉体が内部に横たえられているのを前にして、非現実感のようなものが避けようもなく纏わった。なに……があったんですか。と傍らに佇立している副艦長、いやもうその肩書きではないか、大浦典午と呼ばれていたはずの人に問いかける。数分前、急にだ……いつも通りデスクで庶務をこなしていたところ、急に……とおぼつかない口ぶりで答えるので、尾道、助かるのか。と率直に問い詰める。このデータから察するところ、とホロスクリーンを見上げながら、脳および神経細胞に深甚な損傷が見られます……と画像を指し示す。さらに中枢神経、内分泌器、腎臓などにも明らかな異常が……なんで、なんでだよ。マキ何日か前までは元気だったろ。ええ、ですが、実は……と言いながら尾道は黙り、大浦典午のほうへ目配せする。実は、実はなんだよ。無闇に大きくなる自分の声を他人のように聴きながら、実は……と大浦典午が静かに唇を開くのを見ていた。マキは一昨日から、つまり君がアイルランドへ帰っていた頃だが……手足の震えが激しくなり、言語障害も伴うようになっていた。えっ。今からでも処置をしたほうがいいと私は言ったのだが、マキは頑として聞かなかった……なに、どういう意味。それに今からでも、って。まさか、ずっと前から症状があるのを知ってて……
ばたん、と閉まる入口のドアのほうを室内の全員が振り向く。四七。これは皆様、ご機嫌麗しゅう。いかがなされましたか、大事な稽古があるのでは? 取るに足らない他人の健康状態などにかかずらって時間を消費していいのですか? といつもの微笑を浮かべながら歩み寄ってくる。ところに、四七、このこと、知ってたの。と九三が詰め寄る。知ってたというか、ワタシがそうしたようなものですよ。と笑いながらホロスクリーンを指差す。そうした、って。メチル水銀をね、食事に1mgくらい混ぜて、毎日出していたわけです。なに、こいつ、何を言っている。たぶん本人も気付いていたはずですよ、食事を摂る手段なんて他にもあったはずなのに、私の出したもの以外は喰おうとしませんでしたからね、今年の頭からずっと。ずっと、って。つまり、あたしたちがYonahに乗った頃から。もちろん、ワタシとマキが再び会ったのもそのときでしたから。再び、ってことは。まさか、あの話って……。と九三が四七の右肩に触れて絶句する。なんだ、なんの話だ、と二人の間で交わされている問答の仔細さえ掴めず黙り込むこちらへ、四七は鷹揚と微笑みながら視線を向けた。
そう、ですよ。自衛隊にいたころの岩走マキと大浦典午が、南スーダンの地で民間人虐殺を行った、というのは、事実です。
沈黙。
九三。と呼びかけても、応えない。九三、どういうことだ、それ。虐殺がどうとかって、あのダブリンで母さんたちが喚いてたことだろ……それと四七がどう関係あるんだ。九三は静かにこちらへ向き直り、唇を開く。いたんだよ。なに。そこに、いたっていうんだよ……四七が。当時南スーダンの首都で寝泊りしてて、ある夜いきなりその宿が、人ごとなくなってたって……その事件に関与したのが、マキさんたち、だとか……と、何もかもがおぼつかない口ぶりで言われる、のを前にして、なんだよ、なんなんだよそれ。と誰に何を訊けばいいのかもわからなくなるこちらへ、まあまあ、あれこれ邪推するより、当事者に訊けばいいではありませんか。と四七が笑う。ねえ、典午。あれはなかなか、忘れられるもんじゃないでしょうしねえ。視線を向けられ、大浦典午が眉をびくつかせる、のを見ている。
すべて事実だよ。男性の口から重々しい言が漏れる、のを前にして、誰一人身動ぎしない。四七以外は。書架の横にある窓際の棚に腰掛け、足をぶらつかせている、のを見ている。あの夜のことは、公式記録には一切残されていない、自衛隊にも国連軍にも……しかし、宿営地付近で唐突な銃撃戦に巻き込まれた我々が、発砲者の立て籠もった小屋の内部に踏み入り、一斉に銃撃を浴びせた……そのことは動かぬ事実だ。大浦典午の証言を四七は後ろから聞き届けながら、で、ワタシとアナタとマキだけが証人になって、それをネタにワタシはアナタたちに好き放題できるようになった。皆さんが各地で楽しく公演を行っている最中にね。と玩弄するように言う。おっと違った、証人はあともう一人いましたね、ワタシの母が。母……と、その一言に鋭敏に反応したのはエリザベスだった。ええ、あの地で住む場所を奪われたワタシを救い出してくれた、大恩ある女性です。と、四七はなぜか九三のほうへ視線を送りながら言う。ま、そんなことは些末なことでしょう典午? アナタは性病をなすりつけられて、マキは水銀を盛られて、あとはゆーっくり死んでいく日々しか残されてないんですからねえ。まあ人間、誰しもゆーっくり死んでいってるには違いないわけですが。これだけ玩弄されても大浦典午は四七のほうを向きさえしない。なんだ。なんなんだ。気がつけばあたしが四七の目の前に身を乗り出していた。お前、そんなことやって何が面白いんだ! 不意の叫喚が響く室内で、窓越しに差す曇り空の微光が、四七の面に昏みを刻んでいた。
とくに面白くはありませんでしたよ。
沈黙。気付けば四七の表情からも微笑が失せていた。なんでだ、お前は復讐のためにやったんじゃ。と語気が萎むこちらへ、復讐、さあね。あの宿を焼き払われても、とくに悲しくもありませんでしたしね。と相変わらず無表情で応える。人の命を思い通りにしたやつらの命を、今度はこちらが思い通りにできる……なかなか面白いだろうなとは思ったのですが、そうでもありませんでしたね。マキも典午もぜんぜん抵抗しないし、ただ弱っていくだけでしたし。まるで昆虫をガスで殺して標本にするようで、愉しみにしたって子供っぽいなと思いましたね……ふざけるなよ、お前のしたことだろ……ええ、もちろんね。ただ、この世にはもっと面白いものが在ると知っていたら。たとえば、九三様。首だけ傾けて、四七は彼方の姿へ視線を向ける。アナタが教えてくれた、音楽の歓びのようなものが在ると知っていたら……こんなつまらないことに手を染めることもなかった、のかもしれませんね。
沈黙。
だめだ。こいつ、どうにかしないとだめだ。棚の上に腰掛ける四七の脚を掴んで引き摺り下ろそうとする、その挙動を咎められる。どけ尾道。いけません。何がだ、何がいけないんだ。いけないことをやってたのはそいつだろ。お前だって知ってたんだろ、あいつの使い走りとして動いてて、全部知ってたんだろ、水銀とやらだってお前が調達してたんだろ! と押し倒そうとするこちらへ、ああそいつは無関係ですよ、典午を犯すときにちょっと手伝わせたくらいで。尾道の記憶モジュールはワタシが改竄していましたし、ろくに憶えてもいないでしょう。と淡白な説明が加えられる。ところがウェンダ様のせいで自我に目覚めて、AIのくせに人間臭くなって……リセットのためのパスワードも自分で書き換えてしまって、もういじくり回せなくなってしまいました。まったく、余計なことをしてくれましたね。こいつ、だめだ。こいつは人間じゃない。どうにか、今ここでどうにかしなきゃだめだ。シーラ様。どけって言ってるだろ。いいんだ、シーラ。ふいに後方から響く、か細い声。のほうへ向き直り、横たわっているマキの身体を見おろす。いいんだ、すべて、私がさせたことだ……と、人工呼吸器を取り除けながら、喘息めいた呼吸で続ける。拒まなかったのは、私だ。受け入れたのは……なんだよ、なんだよそれ、受け入れたってなんだよ。罰を……私たちがしたことに罰を下す、だけの権利が、その子にはある……ないよ、ないだろそんなの。ある、んだ、シーラ……もし何もなかったとしたら、それは、この世の因果には何も応報が無いことになってしまう。そのほうが、私たちにとっては……地獄だ。
沈黙。
大浦典午が、眼下の肉体の口腔に呼吸器を戻し、装置の計器を調整する、その姿を無心に眺めている、と、シュッ、の音。いつの間にくすねたのか、マキがいつも吸っていたラクダのタバコが四七の手の中にあった。口端から煙を吐きながら、さ、くだくだしい説明はもう十分でしょう。皆様お忙しいのでしょうから、冗長な愁嘆場など切り上げて稽古にお戻りなさいましな。と言いながら棚から床上に飛び降り、何しろ皆様は音楽の技術と才能をお持ちですからね、ワタシと違って。ねえ、御姉様。と歩み寄りながらエリザベスの頬へ向けて手を伸ばす、が叩き落とされる。今度その名で呼んだら殺すわ、穢らわしい。言われても四七は、ええ、申し訳ありませんでした。と綽々として退出しようとする、のを九三が遮る。四七。なんですか。返せよ。そのタバコはマキさんのだろ。タバコが握られた右手をとる九三、の左手の甲に、燼の先端が押し付けられる。あ、つっ、おい。呼び咎める九三のほうを振り返ろうとすらせず、放り投げられたタバコの箱が床上に落ちる、その音だけが無機質に響いた。
殺そう。目の前の双眸から視線を逸らさずに言う。待つ。一〇秒経ったか。それでもアーイシャは面持ちを崩さず、馬鹿げている。と目を伏せて言うのみだった。馬鹿げてるのはあいつだろ、あいつのやったことのほうがよっぽど馬鹿げてるだろ。立ち上がりながら言うと、目の前の姿はヒジャブを着けはじめる。あの淫婦が、あの男でも女でもない邪魅が愚劣なことをしていたとして、君も同格に愚かしくなっていいのかね。極めて冷静な物言いに、それは……と口籠るこちらへ、君たちの聖典にもあるだろう、復讐するのは神であって、凡夫たる民草ではない。と継がれる。神の名のもとに独善的なファトワーを下すなどは、啓典の民として最も言語道断な……だからって! こちらの大声に、さすがにアーイシャも振り返る。だからって、この世から正義がなくなっていいわけじゃないだろ! いつのまにか涙ぐんでいる自分に厭気が差し、目尻を拭いながら返事を待つ。
あるだろう。えっ。マキがしたこと、が事実であるならば、報いが下されて然るべきだ。あの淫婦に罰を下す資格があるとも思われないが、少なくともマキにとっては帳尻が合っているのだろう。片方の皿に自分の罪があり、もう片方にあの淫婦による罰がある……それがマキにとっての平衡なのだとしたら、私たちには容喙しようがない。
じゃあ。じゃあさ。なんだね。あたしにとって大事な人、マキを、あたしは一方的に奪われようとしてるんだ……ならさ、あたしがあいつを殺してもいい、ってことになるじゃないか。四七のやってることを、あたしが裁く権利もあるはずじゃないか。無い。何度言わせるのだシーラ、如何なる理由によっても人殺しは正当化され得ない。じゃあ、お前は何も思わないのかよ! 何……お前も、お前だって、マキに……ああいいよもう、どうだっていいよ!
激昂して部屋を出たシーラ、の後を追うこともできない。夜の礼拝を終え、手持ち無沙汰に一日を終える、こともできそうにない。一階へ降り、救護室の扉を叩いていた。
入れ、との声を待つこともなく入室する。ろくな照明もなしに、治療用の装置らしきものの計器だけが光彩を放っていた。マキ。呼びかけると、力なく横たわる肉体が反応を示した。アーイシャ、か。はい。すまない、心配をかけて……誰に対して何を謝っているのかもわからない。これだから日本人は嫌だ、下手に出ていれば角目立たないとでも言いたげな態度……マキ。ああ。ひととおりのことは聞きました、シーラから……あなたがしたというものごとは、すべて本当なのですね。首が縦に振られる。であれば、もう私に言えることは何もありません……ただ、ひとつだけ聞かせてください。ふうっ、と眼科の肉体が立てた息によって呼吸器が曇る。同意を示す仕草だろうか。こちらも息を整え、直截に言う。何故、ですか。何故そのような運命にありながら、仕事を続けようと思えたのですか。数十秒の沈黙。ののち、眼下のマキは右手を起こし、訥々と語り始めた。知ってほしかった……この地上には、まだ多くの居場所があると。君にも、シーラにも……知ってほしかったのだ、まだ生きられるだけの場所があると、その用意をできるはずだと……もっと、助けたいと、君、のような子たちに、もっと、安らぎを、知ってもらいたいと……言いながら、マキの五指が私の頬を撫でる。私にとって、私などよりも、君たちのほうが大事だから……そうすることでしか、贖えないと思ったから……だから、助けたかったのだ、君を。君たちを……
撫で付けられた指をとる。何が言える。何を言えばいい。出過ぎた夢想のような、あるいは贖罪への切実な渇望のようなものを述べ立てるこの人を前にして、一体何が。そんな……気付けば、私の左目から一筋の線が。これか、これを拭おうとしていたのかマキは。そんな……母親のようなことを言うな!! 吐き出した言葉の尻尾が、慄えたまま空中に霧散する。遅れて、右目からも雫が漏れてくる。これは何だ。人間の、たかが人間の。試みるに値しない行いに身を窶しているだけの姿を前にして、私は。
知ってたんですか。と一階の一隅で問う。ああ。と典午さんは目を伏して答え、あの地で出くわした女性が不二良という名で、君と浅からぬ関係にあることも、四七から聞かされていた。私たちはDyslexiconの取り計らいでPeterlooに職を得たのみで、Yonahで君と居合わせた理由などは、推し量るべくもなかったが……と述懐する。あいつが、今どこで何をやってるかも、知りませんか。あいつとは……不二良です、百済不二良。そればかりは、知りようもない……私も一度会ったきりなのだ、あの一二月に……マキも私も、君にとって有益な情報は何も持ち合わせていない。そう、ですか……
では、と言いながら典午さんは背を向ける。あの、どちらへ。救護室とは逆の、搬入口扉のほうへ歩いてゆく背中に問いかける。典午さんは振り返り、今日も私は、四七に尻穴を抉られてくる。外に贖いようがないのだ、私の罪は。と答えた。
そんなことを決然と言われてもな、と思いつつも、ふたたび背を向ける典午さんを見送るしかなくなる。それにしても不二良、一体なぜ。まさかあの出来事まで仕組んだわけじゃないだろう、そこまでする理由もありそうにない。四七と典午さんたちは偶然に出くわした。その、たった一度きりの過ちのせいで、ここまでの責務を負うことになったのか。自分が死なせた人々の代わりに他の人々を救うという贖い……
家族になれると思ったんだよ。うん。マキとも、測とも。血は繋がってなくても、さびしいどうしで身を寄せ合って、本当の家族みたいになれると思ってたんだよ……うん。でも、だめだった。結局こうして終わるんだな。あたしが思ってたのも、マキがやろうとしてたのも、ほんとになる見込みのない、ただの……シーラ、それはだめ。それだけは言わせない。会って、話してきたんでしょう、あなたのお父さんと。ああ……まだやってみるべきことがあるって思ったんでしょう。うん……なら、続けなきゃいけないよ。続けなきゃ、か。私たちはそうしてきた、いつだって。あなただってそうでしょう? シーラ……私は、あなたのこと、本当の妹だと思ってる。血の繋がりじゃない、もっと別の絆で結ばれてるって。きっとあなたにとってのマキも同じ。家族、なんだよ。家族なら、最期まで看取らなきゃいけない。どんなに悲惨な最期であってもね……そうなのかな。実はね……私、逃げてきたの、実の母親の最期から。葬式にも出ずに、私とあの人は関係ないって、逃げてきた……ああ。実は、九三から聞いてた。ふふっ、そうだったの……だから、今度だけは逃げたくない。あなたと、あなたが大切に思ってる人と、歓び以外の何かを分け合うことになったとしても……これは避けられない、逃げちゃいけないことだよ。
九三が、直接、ふれてくれた……ワタシの右手に。母さん、九三が、直接ふれてくれました。こんなの、今までは一度もなかったことですよ。アナタは笑うでしょうね、幾度となく九三と身体を重ねたアナタは……でも、いいのです。これが、あの膚の擦れこそが、ワタシにとって何物にも替えがたい宝。一瞬ふれただけなのに、なんて暖かい……いいですか、母よ。アナタが何を企んでいようと、これだけは奪えません。九三とワタシが授かった宝までも、アナタに渡しはしません。
結局、音楽だけが救いなんだ。悪い冗談としか思えないようなことも、この一週間にはあった。でも、これだけは。この仕事だけは裏切れない。世界中から集まった一一人で、オリンピックの大舞台でパフォーマンスする。不二良、これはさすがにあなたも見てるだろうな。じゃあやり切るよ。今までで最高の龍九三を見せてやる。『B-AVALON』、この日のためにみんなで創った作品を劈頭として。
ああ、これだ、この歓声。忘れてた、これがわたしたちの仕事なんだ。ウェンブリーと比べたらひとまわり小さいけど、新国立競技場、このアリーナに響いている大歓声は、確かにわたしたち全員のもの。よっしゃ次の曲い【緊急地震速報:東京都で地震発生 強い揺れに備えてください。(気象庁)】
26 庭
何撮ってんの、はやく、もう始まってるよ。まって楓、写真撮ってこあっちの、物販前で。物販って、もうなにもないじゃん。いいから、記念。もう二度とないよオリンピックなんて。あーもう、誰に撮ってもらうの、自撮りじゃスタジアム入んないでしょ。すみませーん、ちょっとカメラ持って……え!? うっ、予測震度、って。え? うわ、あ、うぁああっなになになに。やばくない? ちょ、うわあっ。つかまっ、その階段のとこ。ええなに、いきなり……うわあっ!! え……落ちた? わかんない……なんの音。あっ、え……うそ、これって。
潰れてたよ。九三。あの、崩れたとこ、ステージから見て右手側の。九三。屋根の、下にいた人たち。あれ、頭、潰れてたよ。九三、いいから。何がいいんだよ。自分の眼で見たわけじゃないんでしょう。見たよ、見えた、崩れた屋根の鉄骨が上から……はやく、こっち。
こっちって、いた、いるよな、みんないるよな。いち……に、よん、ろくはち……いる、わたしも含めて一一人。そうだ、ステージは無事だったんだ。誰も死んでない、よな。ねえさん。漁火ちゃん、これどうなってんの……わからん、すよ。地震があった、としか……ステージ袖に集められた演者も、避難の指示に当たったのであろうスタッフたちも一様に土気色の表情を浮かべている、のを見回し、傍らの測のほうへ向き直る。これ……掌中のスマートフォンの画面。そこには東京都の地図のうえに垂らされた血痕のような表示が。マグニチュード7・8とか直下型とかいうキャプションもどこか他人事めいて頭に入らず、わたしらがいるの、ここ、だよね。と二本指で地図表示をクローズアップするしか能がない。頷く測。余震に備えてください、ってどうすりゃいいの、屋根の下にいること自体あぶないんじゃ。ていうか、あの人たちはどうなったの、崩れた屋根の下にいた……九三、と向こうからヤスミンの声。なんだか、エントランスで騒ぎがあって。騒ぎって……どんな。あの屋根の、下敷きになった、人たちの……し、屍体が、識別できないらしくて。ヤスミンらしくもない綻んだ構文。識別できないって……潰れて。それも、あるのかもしれませんけど……犠牲になった人たちの家族とか友人とかと、意思の疎通が取れないらしくて。つまり、言葉が通じない。みたいで……そうか、みんながみんなGILAffe入れてるわけじゃない、とくに日本では。でもオリンピックやるとか言っといて、ろくに外国語もできないスタッフしか集まんなかったのかよ。測。なに。行くしかないんじゃないか、わたしらが。何のために。パニックの収拾つけるために。わたしらができることったらそれくらいしかないだろ。少なくとも、今この屋根の下にいるよりは安全なはず。ヤスミンも測も外国語できるだろ。言うと、飲み込めたようで、周囲に目配せを送る。不賛成の意見は無い、ように思われる。よし、行こう。
関係者入口から外部へ出るとともに、曇天の鈍い陽光が眼を刺す。駆け足で踏むこの地面が揺れてるのか揺れてないのかも不確かなままに、エントランス前に到着する。うわあ、これ、何語だ。しきゅうおうえんをおねがいします、たんかを、うけいれさきのびょういんがあれば、とかの断片的な日本語は聞き取れる。でもその後ろで、担架に積まれた血まみれの身体にすがりついている、あれは東南アジア系の人だろうか、その人がひっきりなしに叫んでいる言葉の意味が一向に取れない。GILAffeが、処理し切れてない。なんでだ、そうだ前にもあった、話し声は問題ないけど唄声は翻訳できない。てことは、これもそういうことか。声が声でなくなる極限の──うわっ。どうしてくれるんだ。どうして、こんなっ、安全だと言ったじゃないか。わたしの左腕を鷲掴む、これはラテン系の顔相だろうか。口の動きとわたしが聞き取る音声とが一致していない、てことは外国語で言っているはず。その人の腕力がセキュリティの手によって引き剥がされ、取り成すように遠く離される。なんですか、何の用ですか。と、救急車の脇で無線を操作している男性に言われる。なんって、ただでさえ意思疎通とれてないんでしょ。外国からの来賓の人たちの応対くらいならできます、だいたいあっちに控えてたって余震が来たら危ないでしょ。と早口で言うと、飲み込んでくれたようで、こちらの方、お願いできますか。と、救急車の前に控える担架の上、頭蓋骨の左半分と左肩甲骨がえぐれている女性、だろうか、髪型と体型からはそう思しい肉体を目の当たりにする。入場者パスとかIDとか無いんですか。あったはずなんですが、あの騒ぎで落としてきたようで……くそっ、どなたか、この方、ご存知じゃありませんか。って何語で言えば通じるんだ、とりあえず英語でやってみるけど。どなたか。あっ。エントランスから噴き出てくる観衆の中から、似た見た目の白人男性が歩み出てくる。いた、いました。茫然と担架の上を指差しながら、坦々と事実を確認するように言う。幻かと思ったんです、まさか私の隣に、あんなのが降ってくるなんて、見間違いかと思ったんです。でも……砕けた頭蓋骨を撫でながら、すがりつくように続ける。娘です、娘だったんです。ロンドン公演のあとあなたたちのファンになって、日本に行けば観られる、しかもオリンピックだって、楽しみにしてたんです。でもこんな、こんな……と指を血に染めながら撫でるのをやめない父親、の挙措をどうにもできず、ご親族の方ですね、今から搬送します、同伴していただけますか。と、おそらく通じるはずもない日本語でスタッフが言う。父親は依然として遺骸にすがりついている。搬送、って、したところでどうなるんだ。あの容態じゃもう助からない。ただ、この暑さで屍体をそのままにしておくわけにはいかない、どうにかして運び出さないと……でも、何人死んだ。何人負傷した。わからない、この状況じゃ何も──うわっ。九三。測から袖口を掴まれる。余震、余震だ。しゃがんで、立ってたらあぶない。あぶないって、どこにあるんだ、あぶなくない場所なんてどこに──
あの開演から、もう二時間経ってる。わたしらもエントランス付近でできることはやった、重態とは言えない負傷者を病院に搬送するための応対には貢献できたはずだ。でも、競技場周辺に集まった救急車の数は一向に減る気配がない。測どうなってんのこれ。スマートフォンの画面を気忙しくスワイプする横顔に問うと、周辺の道路交通が、完全に麻痺してるみたい……と言いながら画面を傾ける。覗くと、液状化だの津波による被害の心配はありませんだの通り一遍の情報が上滑りし、あべこべに断片的な画像データに映えた無残な有様が雄弁に語りかけてくる。ずたずたになってるよ。うん……これ、通れるの。ていうか東京都って、震災があったら交通規制とかでどうにかするんじゃなかったの。はず、だけど、パニックでそれどころじゃなくなってる……見たところ、この会場にいるのが不安で急いで車を出して帰った観客も、相当数いるみたいだしね。それで道路が詰まってるのか……考えてみたら当然だ、こんなところより安全な家にいたいなんてのは。でも、安全な場所なんて、一体どこにある。
おっ。何。通話……アーイシャ? えっ。もしもし、アーイシャ……九三、無事か。やっと繋がった。耳元からノイズ混じりの声が。うん、怪我とかはないけど……今、そ、に、ってる。えっ何、なんか周りがうるさいんだけど。なんだこの音、聞き憶えのある……あ、ヘリ。えっ。わたしが指差す上空を測も見上げる。あのヘリ、で来てくれたのか、わざわざふたつも。耳を劈くようなプロペラ音とともに、二体のヘリコプターが着陸する。周囲の観衆が呆気にとられて見守る中、アーイシャとズラミートが歩み出てくる。手伝ってくれ。えっ何を、と訊く前からアーイシャはヘリの内部からビニールバッグ入りの荷物を運び出し始める。被災時用の食料と水だ、この程度では足りないのはわかりきっているが……万が一に備えてと思ってな。頷き、救護スタッフの一人を呼び止め、あの、これ保管しといてください、どうしても必要な人がいたら渡して。と内意を伝える。はいっ。このヘリも自由に使ってくれ、怪我人を最寄りの病院に搬送する助けになるはずだ。AIによる自動操縦だから特殊な技術は必要ない、ただ目的地の設定方法だけ覚えてくれ。と、ズラミートは周囲の救護スタッフから二人を呼び止め、ヘリ内部で指示している。
わざわざ、来てくれたの。周囲の騒擾をどこか遠くに聞きながら、目の前の姿に問う。マキが行けと言ったのだ。という決然とした答えに、えっ、とふいに呆けてしまう。私の、Aminadabの門下生たちは、すでに豊島区の避難所に行っている。もっとも異邦からの女性だけでは危険だから、大浦典午も同伴してな。そうなんだ。たしかに、ただでさえ地震に慣れてない人たちが三階建の建物に居るって、めちゃ不安だろうね……アーイシャは頷き、マキと、あの四七とかいう淫婦めが建物に残るから、私とズラミートは被災地の助けに行ってやれと。その言に従ったまでだ。そっか。ありがと……と言い終わる前にアーイシャは歩き出している。えっどこ行くの。我らの朋輩を集める。って、イスラームってこと。ヒジャブはためく背中を追いながら、ああ、間もなく夕の礼拝の時間だ。との冷静至極な声を聞く。たしかに、怪我人の中にもアラブっぽい人たちいたけど……こんな緊急事態にもやんなきゃいけないことなの。と小走りのまま言うと、アーイシャは突然に歩みを止めて振り返った。こんな緊急事態だからこそ、だ。決然と見据える双眸が揺るがない。突如として平安が破れてしまった際に、最も重要なことが何か、わかるか九三。日常の営みを少なくとも維持すること、だ。祈り、清潔を保ち、餓死しないだけの糧を摂り、そして眠ること。その営みさえも維持できなくなってしまえば、必ず消えない傷が残る。ああ、そうだ、この人は。あれだけのことを経てきたんだ、自らの作品を見せるための場所を壊されて、方々を放浪して……経験者は語る、か。それでは。あっ。一言も返すことができず、悠然と歩きながらヒジャブ姿の同輩を呼び集める背中、が遠のくのを、見守ることしかできなかった。
ご協力ありがとうございます。救護室のスタッフ一同から上がる声を、いいえ、お礼ならこの人に言ってください。と画面上に映し出された션윈の顔を向ける。ありがとうございます、本当に助かりました。礼の言葉を受け、션윈は安堵したような面持ちで微笑みながら手を振る。さて、韓国語、中国語、サンスクリット語源の東南アジア諸語、ヒンディー語、アラビア語、そして英語とドイツ語はもちろんラテン語源の欧州語全般、これだけのバリエーションで「仮説避難所」「怪我を負った方はこちらへ」「道路の交通機能が麻痺しますので、指示があるまで帰宅は控えてください」などのメッセージ表示を用意することができたのだから、彼女の語学力には恐れ入る。これなら、観衆の混乱も少しは落ち着くかも。といっても、もう陽が傾きかけてるけど……慌ただしく退出するスタッフたちの背中を眺めながら、いやーほんとよかったよ、さすがあたしが惚れた人だなー。と微笑を見せる한나。また何かあったら連絡しなさい、あたしが手助けできるようなことならね。うん、ほんとありがと。無事を祈ってるわ、支援の募金もすでに始まってるみたいだから、出来る限りは拡散しとく。じゃ、션윈아。ええ、한나。
ビデオ通話を終え、ぐーっと胸をそらしながら、いやーさすが文明の利器だね、こういうときやっぱ役に立つ……と言いながら画面をスワイプする한나、の顔が、数秒ごとに歪んでゆく。どうしたの。問うても応えず、한나はただ、掌中のスマートフォンを救護室のソファに叩きつける。な、なに、どうしたの。なにか厭悪のようなものに引きつった表情、のまま한나は床に座り込む。訝りながら、跳ね返って床に落ちたスマートフォンの画面、そこに浮き上がっている文字列を読んでみる。あ、うわ……
한나。体育座りでへたりこむ姿に呼びかける。한나、大丈夫だよ、こんなデマを信じる人なんかいない。ブラウザのタブを閉じ、画面をシャットダウンして渡す。どうだかね、実際にやってんじゃんこの国、百年も経たない昔に。
もう一九時……そろそろ陽が落ちる。ニュースサイトの天気予報によれば、向こう三日間雨は降らないらしい。とすれば、外の仮説避難所で夜を凌ぐほうが無難か……あっ、ズラミート。通路の向こうから駆け寄ってくる。ゾフィア。どう、外の具合は。まだまだ十分とは言えないが、救護室で処置できない負傷者は病院に搬送している。道路の具合も数時間前に比べてましになってきたようだ。こんな時でも冷静さを失わない面持ちに安心しながら、そっか、じゃあイネス外出ようよ、また余震が来ないとも限んないし……と後ろを振り返ると、あれは……瞳孔、というのか、私のパートナーの瞳が尋常でなくなっているのが見えた。イネス。あ、ああ、わかってるよ、避難だろ。と歩き出そうとする、その足が慄えている。イネス。な、に。止まって。なんだよ、大丈夫だって。口ではそう言えても、眼は明らかに異なる何かを訴えている。イネス、正直に言って。手首の脈拍を取りながら言う。なに……いま、停まって、立ってるって自覚ある? 目の前の姿は、頻りに視線を逸らしながら、えっと……マジで? マジでこれ揺れてないの? と、口角を引き攣らせたまま漏らした。揺れてないよ、少なくともここ一時間は。そうなのか。いやあ……額の汗を拭いながら唇を震わせる。最初のでかいのが来てさ、二回目のがあって……それから、ずっと揺れてる気がして……はは、みんなそうなのかなと思ってたんだけど、はは、は。
ズラミート。ああ。イネス、救護室行こう。休んだ方がいい。えっ、なんでだよ、まだやることあるだろ。無理はしないで、こんな大きい地震に遭ったの自体初めてでしょ。いいよ、だって吾ら……イネス。両手を取り、引き寄せて言う。私たちだって被災者なんだよ。言ったところの意味は察せられたらしく、ああ……そう、そうだな。と、相変わらず硬直した笑みで応えた。じゃあ、ズラミート。ああ、こちらだ。
アーイシャ。いつのまにか仮説避難所から離れた場所にキャンプ場めいた一画ができており、そこに見慣れた姿が。シーラ。ここで一晩過ごすの。ああ、礼拝は欠かせないとは言え、男女は別の場所で起居せねばならないからな。そのためにこのテント調達したのか、すごいな。必要になるのはわかっていたから、来るとき積んでおいたのだ。そっか……さすが非常の事態には慣れてるな、なんて軽口を叩けるわけもなく、ありがと、ヘリ持ってきてくれて。病院との往復で必要な薬品も少しずつ調達できてるって、救護室の人たち言ってたよ。と言うとアーイシャは軽く頷き、どうするのだ、君たちは。と唐突に。どうする、って。君たちの公演も会場も、文字通りに壊れてしまって、これからどうするつもりだ。
沈黙。
続ける、よ。もちろん。続ける、か。一体どのようにして。どのようにって……だって続けるしかないだろ、それくらいしかあたしにはできないんだから。みんなが……マキが、あたしをほめてくれるのは、歌ができるからなんだから。途切れ途切れに返すと、アーイシャは落ちる夕陽を眺めながら、危うい、な。と一言で切った。危うい、って何が。私にはアッラーへの信がある、一神教への信という意味では君も同じだ。しかし、他の人々……「無宗教」と一言で済ませている人々は、果たしてこれだけのことに耐えられるだろうか……
逆なんじゃないの。と述べるあたしを、アーイシャは怪訝に見つめている。逆とは。あたしらのほうが、危ないんじゃないの。アーイシャ、ここに助けに来てくれてからずっと、すごい無理してるように見えるよ……とまで言えるはずがなく、口籠ってしまう。ふむ……確かに、この国で被災時にいくつもの惨事が起こってきたことは知っているが。いや、そういうことですらなくて……アーイシャ。とにかく、今夜はどうか無事でいて。と、気遣うにしても唐突すぎる言を前に、ああ、君もな。と返す面持ちを見つめながら、踵を返すのを躊躇う、が、あたしも行くしかない。どうにかして、この夜を過ぎ行かせるしかない。
灯りが落ちる。音楽も消える。ベッドの上、ワタシと尾道の肢体だけが取り残される。停電ですか。ワタシのアヌスに固みを挿し込んだままの尾道が動きを止め、みたいですね、と言いながらワタシも騎乗から降りる。勃起したままのものをしごきながら窓外を眺め、どうやら、この近隣一帯が停電したようです。と見たままのことを言ってみる。うっ、そう、ですか、とすれば一階も。と喘ぎながら尾道は言い、ええ、と視線を戻していきり立ったものを咥え込む。うぅっ。尾道、お前、どうなるんですか、サーバの電源が落ちたら。睾丸を揉みしだきながら問うてみると、サーバと同期していない状態では、んっ、素体での活動は三分が限界ですねっ、ぅ、サーバの半径1キロより外で活動した場合と、ぅんっ、同じですっ……と悶えながら応える。そうですか。雁首を唇で包むように撫で、喉奥まで咥え込んだ瞬間、紛い物の精液が流れ込んでくる。んんんんっ。尿道を吸い上げ、鈴口を噛むように舐り、眼下で果てている身体を眺める。窓外から差し込む自然光だけが、わずかな視覚を提供してくれていた。では、お前、消えるんですね。指先で下腹部を弄いながら言う。ええ……停電が回復しない限りは、ここで交わした会話も記憶モジュールとして保存されません。糸が切れた凧のように、ですか。はい。
なんの情緒もない会話。そうだ、行ってしまえばいいではないか。起き上がり、服を着て、部屋を出る。入口の上部に備え付けられているはずの「93」の表示を指でなぞる。非常灯ひとつ見えないフロアを歩き、緊急避難用の階段から一階へ降りる。
物音ひとつない。ということは、あの生命維持装置も停まったのだろう。ドアを押し開き、独り取り残された、死にかけの肉塊を見舞う。調子はいかがですか、マキ。人工呼吸器が停まってからしばらく経つのだろう、眼下ではもはや呻きとすら呼べない呼気が漏れているのみだった。その調子じゃ、もう保ちませんね。懐に手を突っ込み、小箱を取り出す。どうですマキ、死ぬ前に、一本。キャメルのタバコを差し出してみると、いや、いい。と、存外に明瞭な声が返った。いい、四七……それは、お前が持って行きなさい。なんだろう、まるで前々から慮っていたかのような口吻。持って行って、伝えなさい、不二良に……私は、マキは、決してあのことを忘れませんでしたと。最期まで……
最期まで、というその一言で事切れた。胸倉をまさぐっても、鼓動らしきものは打たない。忘れなかった、か。そんなことを伝えたところで、一体どうなる。ゴミのような人生がゴミのように終わっただけだ。それでも、そのこと自体を伝えたいと思うのか、それが凡庸極まる人の性か。
尾道、一緒に来ますか? 自動ドアを手動で押し開き、背中に迫っている気配のほうを振り向きもせず言う。一緒に、行けるだけ行ってみますか、ふたりで……いえ。私は、ここにおります。ふん、面白くもありませんね、最後の最後まであいつらの飼い犬ですか……いえ、できることなら行きたいのですが、ご覧の通りの有り様で……言われ、声のほうへ向き直って検めてみる。先ほどまで人の外貌はとどめていた素体が、ニスを塗り忘れた紙粘土のように毛羽立って頽れている。この有様で出歩いたら、さすがにパニックになってしまうでしょう……大地震の夜にお化けがあらわれた、と。ふふっ、最後まで人間臭いことですね……ドアの外から差し込む月光を背に、目の前の人形を抱き寄せる。付き合ってくれてありがとう、尾道。くちづけると、剥がれ落ちた化学物質らしきものが唇を縁取った。行かれるのですね。ええ、もう帰りません。そうですか……つらくはないでしょう、どうせこの記憶も、お前の中には残らないのですから。そうですね……また、何も憶えていない。できればもっと多くのことを、憶えていたかったですな……ふふっ、お前はきっとワタシより長生きしますよ、電気がある限りは生きられるのですから。そうですね……また会えますか。さあね、神にでも祈ってみなさい。祈り、ですか。ええ。 When you wish upon a star, と、唐突に目の前の人形が唄い出す。のに合わせて、 Makes no difference who you are. とワタシも唄う。と、既にぼろぼろに剥げ落ちていた人形は、自らの重みに耐えられず崩れ落ちた。
ツシュッ、と、Zippoのライターを行燈に街を歩く。ありふれた東京の下町は、大震災と停電の合わせ技で不穏な静まりを湛えていた。さすがに外を出歩く者はいない、かと思われたが、コンビニエンスストアや酒屋の付近では携帯端末の灯りとともに幾人かの影が見られた。もちろん商店も停電しているわけだから望みのものが手に入るはずもない。あるいは宵闇を機に略奪でもするつもりか。いや、この国の人間にそれほどの勇気などあるはずもないか……う、っ。何、伸し掛かる重みにライターが跳ね飛ばされ、背を路地の凹凸が擦る。電灯ひとつさえあれば、今ワタシを組み敷いているこの肉体が視認できるのだが……喉に冷たい何かが。刃物か、動くなということか。目と鼻の先で呼吸が荒くなり、片手に握られた刃物が慄え、もう片方の手がワタシの衣服を剥ぎ取る。上の方から、下の方へ。力任せに乳頭を摘みながら、馬乗りになって下腹部を押し付けてくる。すでに十分勃起している、か。それにしても汗臭い。この暑さで風呂にも入れず、緊張に耐え切れず外に出てきた、か。それで通りすがりの無防備な女でも犯そう、と。でも残念だったな。下半身の衣服をすべて脱がせ、とうとう望みの部分に到った、瞬間、今まで昂りながらワタシの身体を撫ぜていた相手が硬直する。犯すべく脱がせた身体に男性器が備わっていたと認識するに及んで。
路上に転がっていたライターを掴み、着火する。うわあああっ。叫喚とともに男は飛び上がり、ワタシは横たわったまま股間のものを灯りで照らした。う、うわあああぁぁっ! と、自らの眼球で明瞭りとそれを認識した男は、まるで自分が襲われたかのように喚き散らしながら、一目散に逃げ去っていった。
凡庸だ。衣服を繕い、立ち上がり、ライターでタバコに着火しながら呟く。大震災に乗じて女でも犯してみよう、かと思って押し倒した肉体が男だった、から怖くて逃げ帰った。凡庸だ、何もかもが凡庸だ。口腔から侵入する煙を迎え入れ、肺の中で遊ばせ、一息で吐き出す。今まで一体何がいいのだろうと思っていたが、こんな夜には喫煙という凡庸な嗜癖もかえって冴えるようだ。つまらない、何もかもが退屈だ、この世で為てしまえるすべてのものごとは。
母よ、はやく迎えに来てください。ワタシはもう、この今生の憂さに飽き飽きしています。生きているよりも死んだほうがましです。さあ、アナタは何かすごいことを企んでいるのでしょう。ならばさっさと来てください。はやく、この無残な堅肉の地獄から、ワタシを救い出してください。
仮説避難所に集まった全員の面持ちを眺める。イネス、具合は大丈夫? と訊くと、ああ、救護室でできるだけのことはやったよ。と代わりにゾフィアが応える。あとはちゃんと眠れるかだけが問題だと思う。そっか。한나、さっきも言ったけど、今夜は絶対に安全なままで終わるから。ここでは、何も、起きないはずだから……と形式通りのことを言っても、まるで説得力がない。わたしが請け負ったところで、誰が何をしでかすかわからないのだから。한나は話したくもないといった風情でタオルを顔にかけて仰臥する。
じゃあ、測……わたし、アーイシャのほう見てくるから。ええ。駆け足で避難所を出、振り返って周囲一帯を改めて眺める。セキュリティのスタッフも夜営に当たってくれてるし、万が一のことは起こらない、はずだ。すくなくともそう祈ろう。でも祈るって、誰に。祈って、その請願さえもが打ち砕かれたら、そのときは、どうなる。
我が友。幕屋の外でまんじりともせず彼方を見張っている、アーイシャの傍らに座する。我が友、君も休むべきだ。明日の礼拝もあるだろう。言っても、眼差しは私を捉えず、ひたすらに彼方からやってくるかもしれない脅威に備えている。やはり、何を言っても無駄か。言を継ぐ代わりに、アーイシャの足元に一本のペットボトルを置く。先ほど、救護室のスタッフがくれたのだ。私にも一本あるから飲むといい。言うと、堅く組まれていた腕が解け、指がボトルのキャップに纏わった。のを見て不意に笑みが漏れる。九〇分ごとの交代にしよう、そうだな、二一時になったら呼んでくれ。とだけ言うと、ああ。と一言返してくれた。幕屋に戻ろうとすると、我が友。と呼び止める声。なんだね。ありがとう。と、こちらを振り返りもせず言うのだった。ああ。
何も起こりませんように。そうだ、あの時もそうだった、テル=アヴィヴを離れたあの日。さしあたっては、私たちは直接には命を奪われてはいない。しかし、今日、あれだけのことが。誰が企んだわけでもない、地盤の揺らぎだけでこれほどのことが。では無駄なのか、この祈りは。あの災厄が起こりませんようにと願った端から別の災厄が。結局のところ、我々の祈りは──いや、違う。どれだけのことがあろうとも、それでもまだ持ち堪えなくてはならない。まだすべてが崩れ去ったわけではない。アーイシャ、我が友が夜警として在る姿を見守りながら、私もともに祈るしかない。何も起こりませんように、誰も死にませんように、と。
27 残品
何かは起こったのだろう。何かが起こったには決まっている。しかしまたこうして陽は昇り、地の表はあられもなく明らかにされる。堅い地べたから身を起こし、いままで背にしていたものが揺れたのか揺れなかったのかすら定かでなく、眼窩の脂をそのままに周囲を見回す、しかなくなる。何も起こらなかった、のだろうか。少なくともここでは。携帯端末を起こし、ニュースサイトに踊っている見出しをひととおり眺める。大事故や虐殺を伝える物々しい文言は、とりあえずは見当たらなかった。それでも、何かが起こったには決まっている。
夜を徹して徒歩で帰宅した客たちも多かったらしいと、スタッフたちから間遠に伝聞しながら、なるほど競技場エントランスに屯していた人影も少なくなっている、ことを確かめる。夜中に余震は何度あったのか、死者と負傷者は合計で何人に上るか、など聞いても確かな数字など寄せられるはずもなく、これから収拾をつけねばならない事柄に属するのだという救護スタッフの苦渋が言外に伝わった。ひとまず競技場から発つ車両は率先して負傷者の搬送に充て、一五時を回る頃には全員の搬出が完了した、との報告を受けることになった。
わたしらも帰ろう、と誰にともなく言う。κωμός一一人に加えてアーイシャとズラミートを加えた全員を返すためのバス一台をあてがってくれたスタッフの心遣いもどこか過分に思いつつ、これはもう帰るしか為様がないのだった。八月からの講演はどうする。そもそもこのメンバーで続けられるか。などの交わしておくべき話題も、誰ひとり口には出さなかった。かといって責められるか、昨日の今頃、オリンピック開会のために誂えられたあのステージで何が起こったかさえ、誰も本当には理解していないというのに。
ああ。避難所からはもう出たのか。私も間もなく戻る。と、Aminadabの門下生たちと通話しているのであろうアーイシャの声を隣に聞きつつ、えっ、と彼女らしくもない忙しい息が吐き出される、のを察して視線を向ける。なぜだ、どういう……なに、どうしたの。脇から声をかけると、アーイシャは端末を持った右手を慄わせながら、呻くように言った。ふたつ。えっ。屍体が、ふたつ。
生命維持装置の計器が、すべてゼロの数値を指し示している。その内部に安置された岩走マキの遺体──ということになるのだろうかこれは──が今にも起き上がりはしないか茫と眺めている。と、マキ、マキっ。と横たわる首元に掠れた声ですがりつくシーラの姿。尾道、これって……はい、お亡くなりです。と呆けたように事実を確認するだけのこちらへ、なんでだよ、昨日までは生きてたろ! と刺すような嬌声が。昨夜、自治体の発表ですと午後八時から一一時のあいだということらしいですが、大規模な停電がありまして……この建物も全階の電力が落ち、生命維持装置も停止したようです。と訥々と述べる尾道。私のサーバも落ちていたようで、その間何が起こったかは説明のしようが……四七は。と一言で問うと、それも、わかりません……私が活動を再開して一階に出てみると、もう姿はありませんでした。と答えるのみだった。
で、それ、は……尾道の足下に鎮座している、なにか大きめのゴミ袋のような黒い物体を指差す。こちらは……先ほど、まとめたものです。まとめたって、何を……遺骸を。えっ。典午様が、屋上から身を投げました。それが地上に落下して飛散した残骸を、とりあえずまとめはしましたが……何。何それ。理解が追いつかず黙り込むこちらへ、気づけなかったんです、止められなかったんです。と、アーイシャを取り囲む門下生たちの音声がGILAffeで翻訳されて伝わる。あの方、私たちを区の避難所まで連れて行ってくださって、一晩は無事に過ごせたんです。でも、つい三〇分前、一階でマキさんの死を知らされて……君たちはここにいなさい、私は用事がある、ってエレベーターで上がって。またヘリでどこかへ行くのかなと思ったのですが……あの時点で止めておくべきだったんです。と、今にも泣き出しそうな声音が翻訳ながら伝わる。それで、身を投げた、と。アーイシャの口から断片的に漏れた問いを、はい、一階で私がマキ様の事の次第を告げてから、すぐのことでした……と引き取る尾道。しゃがんで黒い物体に触れようとするわたしを、いや、見ないほうがよろしいかと……と制する声。でも、これ、どうすんの。とりあえずは、警察に報告すべきかと思ったのですが、皆様の帰還を待って判断しようと……警察に、か。報告したところでどうなる。ここで暮らしていた人がひとり衰死して、ひとり自殺しただけ。それにかたをつけるには、どうすればいい。どう弔えば。眼下でマキの遺体に顔を埋めているシーラの姿が、なにか別の要請を発しているようにも見えた。
君たちのせいじゃない。ひとまずは沐浴を済ませたまえ。あと二回の礼拝はいつもどおり行う。と、周章の色を隠せない門下生たちをアーイシャは宥め、ひとまずエレベーターで三階に帰した。なんでだろ。ドアが閉まるのを見届けて一息つく背中に問いかける。なんで死んだんだろ、典午さん。耐えられなかった、のかな。マキさんなしで生きることに……なんで、よりも、どうする、のほうが先だろう。と半ば憤ろしく振り返るアーイシャ。えっ、あ、うん、そうだよね……二人の、遺体。ふたたび救護室へと戻るアーイシャの背中を追いながら、でも彼女だって被災者じゃないか、というか、わたしらも含めた全員が。決して無傷ではありえないはずのわたしらが、それでも始末をつけなきゃいけない、決定的に破れてしまったものに、かつて人と呼ばれていたはずの亡骸に。でもどうすればいい、どう弔えばいい。
杜さんと通話が繋がり、ひとまずマキさんと典午さんの遺族の連絡先は聞き出せた。まさかこんなことになるとはねえ、といつになく他人事のように嘯く相手に、そうだ杜さん、うちらの、以降の公演はどうしますか。と問う。そうねえ、今回のは東京の直下型だったみたいだし、他の会場は問題ないんじゃない? そうじゃなくて、東京で起こったことにどう収拾をつけるのか、とか、負傷者へのケアはどうするのか、振替の公演はあるのか、とか、色々あるでしょ。と早口に述べても、電話の向こうの相手は、うん、そうなんだけどねえ……とあくびでもするように。ねえ九三ちゃん。なんですか。正直ね、もう醒めちゃった。は。やっぱ日本って地震多いのよねえ……あの競技場だってだめになっちゃったみたいだし、せっかくあたしのχορόςをオリンピックていう最良の舞台にぶっこむチャンスだったのにねえ……ちょっと杜さん、なに言ってんですか。もうね、そっちに投資するのやめようと思うの。えっ。やっぱあたしの生まれ故郷、シンガポールでやるべきよね。うすうす気付いてはいたんだけど、これでやっと決心がついたわあ。ちょっと、なに……九三ちゃんには色々あげたから十分でしょ、城とかヘリとかさ。それ全部返さなくていいから、あとはそっちでうまくやってねえ。あたしはシンガポールにオリンピック誘致してχορόςやるっていう、新たなプランの実現に向けて頑張るわあ。それじゃあね。
呆然として端末を下ろす私に、なに……と測が尋ねる。もう、ないって。えっ。もう、χορός関連で杜さんの支援、ないって……地震でもう醒めたとか、あとはうまくやって、とか。なにそれ……ただ立ち尽くすだけのわたしと測の脇をすり抜け、これか、連絡先は。と言いながらアーイシャがメモを取り上げる。あ、うん。上のが典午さんので……と説明を加える前にもう端末を起こしている。アーイシャ。あとは私が済ませる、君たちは休んでいたまえ。全部って、どうすんの……と問いかけると、彼女自身も遅れて分別がついたのか、数秒沈思したのち言った。事実を、伝えるしかない……亡くなりました、と。
大浦さんのお宅、でしょうか。はあ。私、PeterlooというNGOからの用を受けてお電話申し上げているのですが。なんて? Peterloo……ああ、あれかい、典午の就職先。はい。それがなにか。あの、申し上げにくいのですが、今日典午さんがお亡くなりに……死んだ? はい、あの……昨日の震災の影響、で。震災ってあれ東京だろ? あいついま東京にいんのかい? はい、ご存知ありませんでした、か。あいつ自衛隊辞めてから海外行ったと思ってたからねえ。東京来てたのかい。それで死んだ? はい……まあ、いつ死んでもおかしくねえと思ってたがね、気ぃ狂って自衛隊辞めた頃から。はあ……あいつから勘当してくれとか言って一方的に絶縁しやがったもんでね、もう入る墓もねえですよ……遺体はそっちですか? はい。んじゃあもう、そっちで始末してくださいねえ……遺灰くらいならまあ、こっちで引き取りますから。
岩走さんのお宅、でしょうか。はい、そうですが。あの、娘さん、マキさんについてご連絡申し上げたいことが。何でしょうか。お亡くなりになられました、昨日……えっ? 以前から体調が優れなかったようなのですが、昨日の震災のあおりを受けて、お亡くなりに……ちょっと待ってください、あなた日本人ですか? いえ、違いますが、Peterlooという団体を通じてマキさんと知り合いまして、それでお電話を。あの子じゃあ今まで東京にいたんですか? はい。なん、連絡もよこさず……あの、もしもし。はい。マキさんの遺体、についてなのですが……そっちにあるのですね? はい。じゃあ、それはもう……こちらで引き取りますよ。震災どうこう言ってましたが、まさか事故死ですか? いえ、病死……ですので、遺骸に損壊はありません。そうですか、は、損壊はありませんって、モノみたいに言うんですね。あ、いえ、そんなつもりは……あなた、マキが死んだときそこにいたんですか? いえ……なに、看取ったわけじゃないんですか? 病死って、じゃあ治せたかもしれないってことですか? それは……なんだ、なんなんですかあんた。わけがわかりません、あんた誰ですか!? 私は、マキの……馴れ馴れしく名前で呼ぶな! あんたが何を知ってるんですか、私の娘の……わけのわからん仕事のために、勝手に海外行って、自衛隊入ったときだって……あんたわかってるんですか、私の娘ですよ!! 私のあとを継ぐはずだった、あの聡明な……娘が……あの、落ち着いてください。何が落ち着けるもんですか! 娘を見殺しにしたのはあんただ、あんたが殺したんだ! あの……あんたが殺した! あんたが殺したんだ! あんたが! あんたが殺したんだ!
二台の救急車が引き上げていく。マキの遺骸は故郷の青森県弘前市に搬送し、遺族の手によって火葬場に引き継ぐ段取りがついた。人型をとどめていない典午の遺骸は、身寄りのない死者の始末を引き受ける団体のもとへ送られた。今回の震災で同様の無縁仏が多く出ているらしく、電話口で話した担当者の声音も窶れを隠せていなかった。
続けるかどうかは、と、二階の共用キッチン前に集まった全員に対して九三が言う。みんな一人一人の判断に任せるよ。あんなことが起きたけど……死者や負傷者に対する賠償や、オリンピック自体どうするのかは、あっちの運営が処理することだ。わたしたちは、わたしたちの公演にどうケジメをつけるかを考えるべきだよ。一言ごとに諭し聞かせるような九三の言葉に、ケジメ、って。と初めて教授が問いを差し挟む。わたしたちの公演で死者が出た後で、ショーを続けるべきかどうか。九三の答えに誘発されるように、答えは出てるんじゃないの、やるしかないでしょう。とエリザベスが気丈に言う。その横で、でもさっき、もうDyslexiconからの支援はないって言ってたじゃん。とゾフィアが問い質す。うん、もうあと三回の会場は押さえてあるしチケットもソールドアウトしてる、から興行自体は問題ないはずだけど、当日の経費だけこっちで持たなきゃいけないかな……と九三がたどたどしく言うと、経費っていくらくらい。と教授が問うので、私たちの交通費だけだよ、大した出費じゃない。と私が答えるが、実際はDyslexiconが諸々の関連企業にどの程度の支払いを済ませていて私たちがどの程度負担しなければならないかも、まだ具体的な金額は出ていないのだった。とにかく、わたしが訊きたいのは気持ちの問題なんだ。今回、大きな地震を体験すること自体初めてだったかもしれないし……九三は一秒ほどの躊躇を置き、肉体的にも精神的にも、もう無理だ、続けられない、って人がひとりでもいたら、わたしはもう中止にしようと思う。あの会場にいた全員が被災者なんだ、あそこで負った傷を隠してまでやる必要なんてない。でも、わたしは続けるべきだと思う……と言う九三に、なぜ。と初めてシーラが口を開く。九三は逡巡ののちに、応える。音楽は祝祭だけじゃない、弔いの面もあるはずだから。あの場で亡くなってしまった人たちを弔う、そのために音楽を行うこともできるはずだから。もしここでやめてしまったら、わたしらは音楽の明るい面だけにかまけて、もうひとつの仕事から逃げたことになる。わたしは……それだけはいやなんだよ。
慄えは、もうおさまった。Defiantの部屋に入るとともに、小声で訊いてみる。ああ、まだちょっとあるけどね……イネスは苦笑しながら返す。もし余震が不安なら、一階で寝泊りしてもいいから。と言うと、いや、揺れても一階にいればマシってわけじゃないっしょ? と笑われ、確かにそうか、とくに震災慣れしていない地域出身の人にとっては、と遅れて納得しているところに、それに、一階にはもう行けないよ……あいつがいるんだろ。と継がれ、私も黙り込んでしまう。そう、マキの遺骸がなくなった救護室で、ずっとシーラが喪に服しているのだ。
でもまあ、私とイネスはやるつもりだよ。と脇にゾフィアが侍り、じゃなきゃここまで来た甲斐がないもんね。ダブリンのときも、あれはあれで大変だったわけだし。でも、私たちは退かなかったでしょ。まあ、ね……でも、吾は本番前に一回くらいカウンセリング受けときたいかなあ。予約取っといてもらっていいかな? ええ、もちろん。はは、GILAffeの翻訳でカウンセリングって効果あるのかな。大丈夫……じゃないかな。しかし外国で臨床受けることになるなんてね、亡命ユダヤ人の精神科医みたいな。あはは。と軽口を叩ける程度には回復したように窺えて、彼女ら二人に過剰な心配は不要に思えた。
锡鼓の部屋のドアを開くと、先に九三がいた。あ、測……ええ。室内を見回すと、ヤスミンの姿がない。ごめん、一対一で話したいってことだから、と九三が小声で耳打ちすると、いやいい、測もいていいよ。とベッドに腰掛けたまま한나が言う。日本人と話がしたい、ってだけだから。との意味の取りにくい言を受け、私も後ろ手でドアを閉める。
ほんっとうんざりだよ、この国には。言いながら掌中のスマートフォンの画面を指し示す。ひっきりなしに書いてるよ、こいつら。こんなん面白いと思ってんのかよ。한나が糾弾するところのものは察せられ、ええ、そうね……と引き取るしかなくなる。あたしはまだいいよ、客として来てるだけだから。でもこの国に根を下ろして暮らしてる人もいっぱいいんでしょ、新大久保のほうとかさ。そんな人たちに向けて、こんなのナイフ突きつけてんのと一緒だよ。明らかに加害者側に回りながらヘラヘラ笑ってさ、こんなの最低じゃん、最低以下じゃん。九三も黙って頷き、室内に憤る語気が染み渡るのを聞くしかない。
あたし、龍とか測とかのことは好きだよ。こんなくだんないこと言わないし、何より一緒に音楽やれる仲だしさ。でも、普通の日本人ってこんなのばっかかよ。他の国のやつらも、ミッシーとかイネスとかいいやつばかりだったから麻痺してたけど、この国って基本こんなのかよ。画面をシャットダウンし、視線を真っ直ぐにこちらへ向ける。正直、あたしも今まで見ないことにしてたんだと思うよ。すくなくとも龍はいいやつだから、ってさ。でも……わかっちゃったよ。わかりたくないことばっかわかるよ、この国にいると。消沈した語尾で終えられた한나の言に、そう、ね……とだけ応える。한나、さっきも言ったけど、わたしは何も強制しない。もういやだって思ったら降りていいし、帰りの航空便のチケットも取る。そのときもあぶなくないように空港まで送るよ。でも……九三が訥々と言うのを前にして、続けなきゃいけない、だろ。と한나が先回る。きっと既に何度も交わしたのだろう、このやりとりは。
한나は九三に任せ、私はふたたび二階のフロアに出る。と、共用キッチンの前でひとりで座っているヤスミンの姿が見えた。あ……測。静かに頷いて歩み寄り、話してきたよ、한나と。と一言だけ添えると、ヤスミンは渋面を浮かべ、はい……とだけ漏らす。その傍らに座り、もし自分が彼女と同じ立場だったとしたら、同じことを言うと思う。と锡鼓の部屋の方を眺めながら言う。ヤスミンは頷き、あの、測。とこちらへ視線を向けるので、なに、と応える。私……帰ろうと思うんです。との申し出を、どう受け取るべきか判断に迷う。そ、う。と呆ける私に、いや違うんです、降りるってわけじゃありません。と両手を振るヤスミン。今回、こんな震災が起きて……そしてもうDyslexiconも支援してくれないって。つまり、今ものすごくお金が必要な時期だってことは確かですよね……そうね、私たちだけじゃなくこの国自体も。だから、私、一度台北に帰って、経済的な支援が取り付けられないか、色々当たってみようと思うんです。私の父はアート関連の財団とも縁が深いし、その中で私たちの興行を支援してくれる人たちがいないか、交渉してみようと思うんです。
この子、こんなに外向的な子だったか。と、一言も返せず黙り込むこちらへ、そして、このことは、한나には内緒にしてほしくて。といつもどおりの小声で言う。どうして。だって、これは私の一身上の判断だし……한나には한나の気持ちがあるはずだし。もし私の振る舞いが한나に何かを強制してしまうなら、それは本意ではないから……と、至極当然の理が述べられる。そうね、たしかに。だから、明日の出発までは内緒にしてほしくて。明日、もうチケット取ったの? はい、台北はすぐそこですから。明日の朝、한나に気づかれないようにこっそり部屋を出るつもりです。なので、私が発ったのはツアーから降りるためじゃないってことを、測からみんなに説明しておいてもらえたら……ええ、それはいいけれど。大丈夫……? と間抜けな問いを投げるこちらへ、ヤスミンは立ち上がりながら言う。ええ、大丈夫です。私たちの音楽にお金を出してくれる人は、きっといるはずです。
一階の、観葉植物と自販機がある一隅。そこに卓球台がある。でもヤスミンはいない。どうしてだろう。いや、聞いた、その理由はさっき聞いたけど。でもどうしてかな、どうしてあたしには一言も。両掌を卓球台の縁に当て、ぐっと体重を乗せ、もう片方の縁を壁に接する。どうしてだろう、どうしてひとりでやんなきゃいけないんだろう。カン、カン、とピンポン球が壁で跳ね返る、のを打ち返し続ける。どうしてだろう、カン、どうしてヤスミン、カン、あたしを置いて、カン、なにも言わないで。
なんの音だ、と思って救護室を出たところに、한나とすれ違う。階段で上がるのか、エレベーター使えばいいのに。しかし一晩中眠らなかったせいか、窓からの日差しを受けて立ち眩みのようになる。あれ、卓球台、いつもヤスミンと打ってるのに。壁に……歩み寄って検分すると、そのうえには一個のピンポン球と、グリップの部分が捻じ曲がって折れたラケット、が放置されていた。さっきの音……これを壁に叩きつけたのか。
まずいことしたわね。と、機内モードを解除してすぐに着信が通じた션윈が言う。あいつ、ひとりで放置されることに慣れてないから。えっでも、一時期はひとりで暮らしてたわけでしょ。空港内のエスカレーターを歩きながら言うと、違うのよ。と션윈は短く返す。家族ができた、って言ってたのよ、あいつ。あたしと式を挙げた時に。ヤスミンやχορόςで知り合ったみんなも含めて家族だ、って。うん、それは知ってるけど。とベストウーマンとして式辞を読み上げたときの記憶を辿りながら言うと、その家族のうちのひとりが、黙って行っちゃったとしたら……と션윈は口籠る。えっ、なに。はあ……あいつの父親のこと、あんたまだ知らなかったっけ……まあ、帰ったらわかることよ。はあ。支援してくれる財団探すんでしょ、せいぜい頑張りなさい。う、うん。えっと、なんでわざわざ電話してくれたの? まあ、ずいぶん大胆なことやるようになったわね、と思って。はは、だってまた君に言われるのはいやだからね、結局親の金かよ、って。ふふっ、どうでもいいことばかり憶えてるのね……
信義区、竹林電脳、の本社。自分が生まれ育った場所なのに、今では他所のように感じられる。エントランスを抜けると、あの、ゲストの方ですか、こちらにご用件とお名前を。と受付の女性に言われる。そっか、私が発ってから雇われた人か。苦笑しながらパスポートを提示すると、あっ、大変失礼しましたっ。と恐縮しながら引っ込んでいった。
茉莉! ああ、懐かしい声。何年ぶりだあー、この親不孝者めー! はは、ごめん父さん、でも電話は何度もしたでしょ。ちゃんと顔を見せてくれんことにはなー、なー! ふふっ、ずっとこんな調子よ、今年の一月にツアーが始まってから。母さんの苦笑を前にして、えへへ、優勝はできなかったけどね。と私も笑う。そんなのは問題じゃないでしょ、あのツアーを通じて、たくさんお友達できたんでしょ。うん、できたよ。ほんとに大切な友達。で、さっそく用件なんだけど……と改めて父さんの方へ向き直る。ああ、その大切な友達を支援するための方策、だろう。うん。父さんからもらったリストの中で、いくつか見込みがありそうな財団があるんだ。ダンスとかアートとかのフェスティバルに積極的に出資してるとこ。そっちに私から、直接交渉してみようと思うんだけど……と言うと、父さんはなにか、へんにもじもじした仕草で黙っている。えと、どうしたの。いや、ね、茉莉……お前が来る前にね、あらかじめ当たってみたんだ、このへんに……と、タブレット上のリストを指差しながら言う。うん。結論から言うが……返答は同じだった。他の国なら考えるが、日本のアーティストへの出資は行えない、と。
沈黙。
えっ、と、どういうこと。父さんと母さんの顔を見比べながら問う。藝術振興のための出資を行っている団体は、もちろんこの国にもいっぱいあるわ。父さんも知っている限り連絡をとってみた。でも……今度は母さんが黙り、この類の出資を行うにあたっては、国ごとの等級が定められているんだ……つまり、投資したところで相応の成果物を創ることができるか、という、質的な能力を計るための等級がね。と父さんが述べる。うん。そして、残念だが……日本のアーティストは、その出資に見合うだけの能力が無い、と判断されている。日本は、東アジアにおいては、藝術的に三等国なんだ。
沈黙。
三等、国。ああ。去年だったかな、日本で開催されたトリエンナーレがあったろう。えっと……あの、放火予告で中止だ続行だとか話題になってた。そう。あの一件をめぐる、とくに日本のアーティスト側の言論が問題になってね……つまり、表現の自由のために公費を出すこと自体を嘲笑するような文言が多数見られた。あの事件が決定的となり、日本には藝術を産み育てる意志もなく、そもそも藝術家たちは表現の自由を手放してもいいと考えているらしい、そんな国に金を出してもしょうがないということで、一斉に財団からの支援が打ち切られたんだ。この評価は、よっぽどのことがないかぎり覆らないのではないか、と思う……
藝術に、等級があるなんてね。頭の中でなんとか整理をつけながら、呻くように言う。ああ……こればかりは、金の問題だから仕方ないんだ。じゃあ、私はもう、交渉すらさせてもらえないってこと。こちらからも言ってみたのだよ、日本のみならず世界規模で開催される音楽イベントの一環だからと……しかしどの財団も、開催地が日本である時点で拒絶の意を示した。それくらい……もう、諦められてるってことだ。諦められてる、か。そうだ、薄々気付いてはいた。한나のもとに転がり込んで、あのソウルでの市民による抗議行動を目の当たりにしたときは、こんな政治的鳴動があるのかと驚いたけれど。でも日本の首都で暮らして、アーティストとして取材を受けてみても、なにかあの国では、根本的な諦め、のようなものが……藝術なんかに何も変えられはしないよ、アーティストは政治に口を出さず大衆を気持ちよくさせていろ、とでも言いたげな、諦観という名の侮蔑のようなものが蔓延しきっているように感じられた。それはもう見抜かれていたのか、すくなくとも藝術の何たるかを弁えている外部には。
茉莉、せっかく来てくれたが……と、ビジネスの顔か親の顔かどちらを見せるべきか判断がつきかねているような父を前にし、いいよ。と一言で切る。よかったよ、それを知ることができただけで……済まない、もちろん被災地への支援は行う。知ってると思うが、台北の企業もすでに募金を……うん、わかってる。ありがとう。茉莉、せっかく帰ったんだからもっとゆっくりしない。父さんね、さっきまでお帰りパーティーしようといろんな人に電話を……いや、いいの、もう。ありがとう。
手持ち無沙汰の酷さが骨身に染み入り、エントランスで深呼吸する。何も得られなかった、か。勝手に飛び出して手ぶらで帰ってくる、この計画性と実質のなさもいっそ私らしいか、と自嘲に傾きそうになるのを押しとどめ、それでもまだ、まだ何かやるべきことがあるんじゃないか、と携帯端末を立ち上げる。しかし誰に。もう頼る当てもないんだろう。再び不如意に苛まれる、ところへ、着信。えっ、これ、あの。大学時代の──
一階で待ってるから。という一行のテキストチャットに呼び起こされ、階段で降りる。もう夜か、今日も寝てるだけで一日を終えてしまった──誰もいないフロアを見回す、と。卓球台の上。このラケット、あたしが壊した。壁に叩きつけて折ったはずのグリップが、ビニールテープで固定されている。
カン、カン、と、向かいのテーブルに着いている姿を遅れて眺める。ヤスミン。サーブはもらうよ、とも言わず、ペンホルダーのラケットを握り、ピンポン球を打ち放つ。シェイクハンドのラケット、ビニールテープの下の軋りを指で感じながら打ち返す。カン、カコ、なんでだよ。カン、カコ、なんで、なんでさヤスミン。カン、カコ、なんで……黙ってラリーを続けるうちに、なにかがあたしの堰を切った。カンッ、とスマッシュをヤスミンの胸めがけて打つ。パシュッ、と掌で受け止められる音。なんで黙って行ったんだ!! 気付けば叫んでいた、その声音が、なんで、なんで……と擦れる。ヤスミンは受け止めたピンポン球を台に戻し、私だけで始末をつけなきゃいけないことだったから……と悪びれるような微笑を浮かべて言う。財団からは相手にされなかったけど、私の大学時代の同級生が電話をくれてね。χορόςが始まってからずっと観ていた、まさかあなたが音楽をやるとは思っていなかった、もしよければ今回の日本公演のスポンサーにしてほしい、って。ふふっ、すごくイヤミな男性だなと思ってたんだけど、まさか私もあの子が助けてくれるとは思ってなかったよ。そんなこと……そんなことどうでもいいよ! ラケットを投げ捨て、向かいのテーブルへ躙り寄る。なんで、黙って行ったの。なんで行く前に、一言もなかったの。あたし、一緒に行ってもよかったよ。あたし、それくらいヤスミンに頼りにされてないやつなの……違うよ。いつのまにか、あたしの両肩にヤスミンの両掌が。私のやることが、한나に何かを押し付けることになったら困るから……行くことは秘密にしておきたかった。逆だよ、秘密にされる方が押し付けだよ……本当にごめん、한나。私は責められるべきことをしたんだと思う。言いたいことがあれば、何でも言って。
延べられた掌を、左手で握り、もう片方の右手を拳にする。ごつっ、と目の前の身体が立てる音を聞く。ごつっ、と二発目を耐える呼気が耳元を掠める。ごつっ、と三発目をねじ込んだ、瞬間、こっちが耐えられなくなり、両腕で抱きしめる。ヤスミン。ごめん、한나。ヤスミン、ヤスミン。ごめんなさい、한나。また……また行っちゃうかと思った。また黙って行って、帰ってこなくなるんじゃないかって。また……? 私いままで一度も……と、もう嗚咽で何も詳らかにできなくなっているあたしの意を、ヤスミンは数秒遅れて察したのか、静かに両腕で抱き返した。
いなくならないよ。한나の家族は、もう、誰もいなくならないよ。もう、独りで置いてはいかないよ。
28 これを限りに
私たちに出席する権利など無い。と一言で切られ、もちろん……わかってはいたけど。と口籠るしかなくなる。マキがいなくなったこの部屋で、アーイシャは棚に残された医薬品を眺めながら、もともと私たちは家族などではなかったのだ、葬儀は血縁者に任せるしかない。と、こちらに向けるというよりは自らに聞かせるように言う。のを前にして継ぐべき何かを見つけかね、どんな人だったのかな、マキ。と、あたしも独り言のように呟く。結局あたしら、何も知らないまま別れちゃったな。青森の弘前ってとこ出身で、お母さんがフランス文学の学者で、その後を継ぐことを拒否して自衛隊に入った、なんてことも、知らなかったわけだし……そうだ、何も知らなかった。もともと自分の素性を語りたがらない人ではあった、あのスーダンでの事件を贖うためだけに、孜々としてPeterlooでの職務に取り組んでいたのだろうし。しかし、Yonahでたまに対話の場を持つようになって、マキが柔らかい笑みを見せてくれたことも、決して少なくはなかったんだ。あの人は、本当はどんな人だったのだろう。それすらも知る手がかりなど既になく、彼女の記憶は遺された者のなかで燻るしかない。
結局は、自分の仕事を続けるしかないだろう。とアーイシャはまた言下に切り、Aminadabの秋田公演は四日後に迫っているのだ、無駄にする時間など無い。と目を閉じて腕を組む。うん……そのオファー受けたことも、ここで話したよね。マキ、今度は観に行きたいって……シーラ、君は情緒に纏綿しすぎる。何があろうと続けなくてはならないのだ、この身体がある限りは。と断固として言う相手に対し、アーイシャは、なんで踊るの。と小声で訊く。アッラーの御業を讃えるため、に決まっている。ひとえにそのためだ、私が今までしてきたことすべては。そうだ、九三が言ってたな、数学も幾何学も彼女にとっては同じ、神を讃えるための手段だと。シーラ、君は何のために唄うのだね。と反問され、数秒口籠ったのち、証明するためだよ。と言ったあたしのほうへ視線を向けるアーイシャ。間違いじゃなかったって、証明するためだよ。父さんがやってたこと、マキもやってたこと……行き場のない人を助けるために働く、その理想は間違いなんかじゃないって証明するためだよ。あたしの歌で、別のしかたで。途切れ途切れの構文ながらも、謂いたいことは伝わったらしく、ならば、答えは出ているじゃないか。と言いながら背を向ける。アーイシャ……お互いに時間を無駄にすべきではないだろう。君も、この部屋でマキの喪に服すのは今日限りにしたまえ。遠ざかってゆく姿を見つめながら、そうだ、あたしたちも一週間後には名古屋公演。한나もイネスもみんな覚悟を決めたんだ、続けなきゃいけない。と分別がつく。ただ……アーイシャ。マキの死後にも気丈に振る舞う彼女の姿が、他ならぬマキその人に似通っているような……まさか、彼女も自らの裡にあるものを隠し通している、なんてこと。
お前が殺したんだ。アーイシャ。お前が殺したんだ。なに。動きが半拍ずれている。お前が殺したんだ。ああ……すまない、またか。音楽、聞こえていないのか? もっと音量を上げてみるか。いや、いい。お前が殺したんだ。どうやら、そういう問題でもないらしい。お前が殺したんだ。
一体どういうことだ、と言いながらズラミートはペットボトルの水を開栓する。まるで身についていないぞ、今までの練習が。ああ……すまない。この演目は前にも通したろう、なのに今のほうが拙劣になっているとは。お前が殺したんだ。ああ、だめだ。消えないな。どうしたら消えてくれるのだろう、これは。すまない、我が友……と座り込んだまま言う私に、どこか調子が悪いのか。とズラミートはいくらか語気を和らげて訊く。どうする、言うべきか。しかし言ったところでどうなる。いま私の中にしか響いていないこの声、その存在を打ち明けてしまったら、それは私が正気を失いつつある、ということを意味しないか。アーイシャ。急かすように言うズラミートを見上げ、唇を開く。実は……月のものが。数秒の沈黙、ののち、そういうことは早く言え。と気遣いか呆れか判別しかねる声音が。すまない……謝らなくていいと言ったろう。不調は仕方ないが、出来る限りはやってくれないと困る。わかってる。間違えたところ、もう一度やらせてくれ……ああ。よほど身体に堪えるようならすぐに言うのだぞ、万が一のことがあれば困る。いや、今まで何度もあったことだ、なんてことはない……
月のもの、ということにしてしまったため、モスクの中へ入ることはできない。よって門下生の一人にイマームの役目を任せ、私はその間仮眠をとることにする。
ええ、わかりましたアーイシャ、お大事になさってくださいね。ああ、すまないがよろしく頼む。いいえ、次の公演も近いんですものね。秋田、楽しみですね。と微笑む顔には、同時にいくらか憔悴も見られた。それはそうだろう、移ってきた土地で突然に大震災に直面し、避難所で不安な夜を明かした彼女らだ。そうだアーイシャ、わたしたち、夕の礼拝が終わったら池袋の公園に行くのです。公園。はい、都内にある他のモスクの人々と合同で、炊き出しをすることになりまして。あの震災で家ごと失った人も多いらしく、東京周辺のホームレスの人々も不安な夜を過ごされたと聞いて。ここはひとつ周囲の人々との交流も兼ねて、粥の炊き出しをしようという話になりました。と口々に言うので、そうか、素晴らしい奮闘努力だ。アッラーは必ず君たちの行いを嘉し賜う。と返す。はい。ではアーイシャ、お前が殺したんだ。そろそろ時間ですから。あ、あ。アーイシャ? どうかしましたか? いや、気にしないでくれ。
見抜かれているのだろう、と通し稽古の間もずっと雑念が離れない。少なくとも我が友は、この不調が月のものではなく精神的な問題に由来すると、見抜いてしまっているのだろう。直に膚を接してコレオグラフを進めていると、脈拍も心拍も一体となったかのような感覚に陥ることがある。もちろん錯覚以外のものではないが、それでも、私が隠し果せていると思っているものは、すべて見抜かれているのでは。
アーイシャ。次のムーヴメントに移るかと思われたその瞬間、ズラミートは握った両腕を起こして私を立位へ戻した。なん、だ。呆ける私を前にして、我が友は小さく溜息を漏らし、今日はもう休みたまえ。と諦めるように言った。なに、まだやれる。無理はするな、その体調で、これ以上の進展は見込めない。何より本番は三日後なのだぞ、このまま不調のまま続けて身体ごと壊されてしまっては元も子もない。諭し聞かすようなズラミートの言葉に、そう、か……と語尾が萎える。すまない、我が友。謝らなくていいと言ったろう。
部屋のシャワールームで身体を洗い流すのも憚られて、手持ち無沙汰のまま一階に降り、冷水のペットボトルを握りしめたまま耳を澄ませる。まだ、ない。だが次にいつ来るかはわからない。さしあたって今は……と想念を揺らしながら自販機前の椅子に座る。向こうのスタジオから、何やら騒々しい音楽が漏れ聞こえてくる。おそらく九三らもリハーサルに取り組んでいるのだろう。あれだけのことがありながら、彼女らは続けると決めた。ならば私も同等のことができなくては……アーイシャ。はっ、と反射的な吸気とともに目が開く。そこには私の門下生たち。幻聴ではなかった、か。胸の裡で安堵しながら、ああ、どうしたね。と言ってみる。あの、わたしたち、炊き出しから帰ってきたところで。ああ、夕の礼拝を終えたら、と言っていたか。もうそんな時間が経ったのか、などと思いながら、そうか、ずいぶん早かったな。とだけ返す。と、目の前の門下生たちはいずれも眦を伏せたまま、何かいわく言い難いものに喉を塞がれている、ように見える。どうした。いえ、あの、アーイシャ……わたしたち、予定通りに公園で粥を振る舞っていたんですけど。その、途中で……何やら興奮した一人の男性が、突然にわたしたちのもとに走り寄ってきて。炊き出しの鍋を、蹴倒し初めて……口々に漏れる断片的な言を、こちらは黙って聞くしかなくなる。その人、警察に連行されるまでずっと同じことを繰り返していたんですけど……日本語で、テロリストが毒を撒いている、テロリストが毒を撒いている、と。聞きながら、彼女らの表に浮かんでいる感情が如何なるものか、察しようもない。おそらく彼女ら自身にも分別がついていないのだろう。そんなことがあったので、今日のところはもうやめにしよう、って。少なくとも今日のところは……目を見合わせて沈黙する門下生たちの姿を前にして、何か、何か言わなくてはと逸る胸に、アーイシャ、ここは安全なんですよね? と、直截な問いが真一文字に突きつけられる。ここは、イスファハーンやテル=アヴィヴよりも、安全なはずですね……? 表現の自由もあるし、信教の自由も認められている、思想や信条のために弾圧されたり暴力を振るわれたりしない、安全な場所なんですよね? マキさんも、わたしたちを迎えてくれたとき、そう仰っていましたよね? マキ。お前が殺したんだ。ねえ、アーイシャ。お前が殺したんだ。ああ、安全だよ。ここならば大丈夫、現に私たちはAminadabの活動を続けられているのだ。今日の、その、炊き出しの件は、特殊な人間が起こした椿事にすぎない。そう、ですよね。もちろん、そうだとも。ありがとうございます、アーイシャ。お前が殺したんだ。わたしたち、夜の礼拝まで少し休みますね。ああ、そうするといい。ご苦労だったね。アッラーは必ず君たちの行いを嘉し賜う。
また、嘘をつきました。誰もいないモスクの宵闇に、私の声だけが響いている。慈悲深く慈愛遍きアッラー、私の祈願をお聞き届けください。ドアを閉めてしまえば、この部屋には光ひとつ差し込まない。また、嘘をつきました。今日、私は、奮闘努力を共にする友と、さらに常からイマームとして説教している教え子たちに、それぞれ異なる形で嘘をつきました。あなたを讃えるための務めを怠り、同胞たるムスリマたちに偽りの慰撫を与えました。この暗闇では、誰に対して何を打ち明けているのかすらもわからない。いやわかっている、それはひとえにこの世をお創り賜いし方、アッラーに対して。しかし……
また嘘をついたのです。これが初めてではありません。イスファハーンでも、テル=アヴィヴでも、私は幾度となく虚偽を重ねました。次に移る場所なら大丈夫なはずだ、安全な場所がどこかにあるはずだと、私に教えを乞う人々に偽りの安息を説いてきました。しかし彼女らが得たものは、謂れのない無理解による誹謗であり、愚劣な暴力行為による殺害でありました。故郷から連れ立った人々のうち、いま残っている五名以外は、私のもとを離れていきました。ダンスなどという方法で神を讃えるよりも、もっと穏当な方法があるはずだからと。あなたの信仰のありかたは特殊すぎる、ついていけない、と。
そしてアッラー、今になって思います、私は間違っていたのかもしないと。いえ、間違っていたに決まっているのです。しかし己が過ちを認めたくないがために、私は今の今まで偽りの言葉を並べてきました。あまつさえ、モスクのなかで、あなたの存在を讃えるための聖なる場所で、私はイマームとして礼拝を執り仕切っていたのです。私は、他ならぬあなたの御名を使ってイスラームを貶めていたのではありませんか。それは死に値する罪なのでは。
天地遍く統べ賜うアッラーよ、お応えください。私が故郷のイスファハーンで、辻々に立って人々の前で演説していたとき、なぜあなたは私の言葉を塞がなかったのですか。なぜあのとき、私を取り囲む家々の屋根は崩れ落ちて私の喉を切り裂かなかったのですか。テル=アヴィヴで、あなたを讃えるためと称した公演会場が爆破されたとき、なぜその炎は私でなく私の教え子たちを灼いたのですか。私がこの建物に移り住んで、親しくしてくれた者に刺々しい言葉を投げて、批判するだけの資格もないことを延々と並べ立て、あまつさえ私にはアッラーの御業を讃えることができるなどと得々と言ってみせたとき、なぜ私の身体は自ら放った毒によって腐らなかったのですか。明敏にして全知なるアッラー、お応えくださいますよう。私が真に負うべき苦役を賜わしますよう。さもなくば、私はもはや生きるに値しません。イスラームの一員を名乗る資格などありません。私はあなたの御名を騙りながら、あなたを侮辱しているからです。私をヨブより酷い目に遭わせてください。迷妄しか映さないこの眼を、偽りしか述べないこの口を、そして何が聞こえているかすら定かでないこの耳を、ただちに腐らせてください。あなたにはその力があり、私には裁きを受けるに値する罪があります。慈悲深く慈愛遍きアッラー、お応えください。なぜあなたは私をお創りになったのですか。なぜ未だに生き存えさせているのですか。もはや死以外には報いようのない私の罪を、あなたはこれ以上重ねさせようというのですか。それともこの世には罪も裁きもないのですか。アッラーよ、お応えください。
泥のような沈黙が、何秒何分続いたかすら定かでなく、ドアが開かれる音と差し込む光に感管を揺さぶられた。歩み寄る靴音が、床に倒れ伏している私の背後で静止する。
無知の言葉を並べ神の計画を昏くする、この者は誰か。我が友、ズラミートの声を、身動ぎもせず聞く。お前は言う資格もないことを延々と並べ立て、唯一全能の神に対して手前勝手な陳情を述べている。その傲慢が如何程のものか、お前とて察しはついているだろう。もはや無用の言葉を費やすな。お前は夜明けとともに日々の勤めに戻り、信徒らしくせよ。さもなくば、もはやお前を我が友と呼ぶことはできぬ。
上体を起こし、背をズラミートに向けたまま言う。そうだな。そう、するしかないのだ。だが、ひとつだけ、ひとつだけ言わせてほしい。立ち上がる、と、頬を伝って顎から滴るものが。暗闇の中では気づかなかった、これほどの涙を流してしまっていたとは。私は、もはや、全能なるアッラーの、その御業を信じることはできない。なぜなら……全能なる方がお創り賜うた、その被造物であるはずの私が、こんなにも、こんなにも……出来損なっているからだ。
どこへ行く。すまない、今日ばかりは、臥所を共にするわけにはいかない。なぜだ。月のものだと言ったろう。だからといって床を分けなくてはならないなどという記述は、君の聖典にはなかったはずだが。あるんだ。そうか。ならば止めはしない。今日は一階で夜を明かすつもりだ。一階……このフロアには他にも空き部屋があるだろう。言ったろう、礼拝のためには清潔を保たねばならない。モスクのあるフロアに私がいては困るのだ。そう、か。明朝には綺麗な身体で礼拝に戻る、問題ない。では、アーイシャ。ああ、ズラミート。
この部屋にいた、かつてマキは。今では荼毘に付されて人型をとどめず、墓石の下に埋まっているか。でも、いなくなっても、あなたは私の裡に巣喰っている。見えなくなったあなたがこの眼を塞ぐ。聞こえなくなったあなたがこの耳を劈く。ならば私は、もう沈黙しよう。もはや語るまい。その前に、この身だけは綺麗にしておかなくては。
この棚だったはずだ。そう、消毒用アルコール製剤。が、数リットルの容量で備蓄されている。このビニールの口を切り、流れ込むに任せれば、それで私は綺麗になれるだろう。
もはや異議は無い。これを限りに、私はもう何も言うまい。
29 下僕の大道
高と低にふたつの糸。片方はきぃんと鳴り、もう片方はずぅんと呻く。そのふたつを選る、と響もす、もはや平たくはない形が凝る。これが私か。いつから私だったのだろう、そうだ母に産んでもらったその時から。アーイシャ。その望外な名を授かった時から。アーイシャ。聞こえる、私のものではない音が聞こえる。外から呼ぶ声。これは。
アーイシャ、気付いた。シーラ。シーラか、私を呼んでいたのは。ここは……どこだろう。見憶えのない床で目覚めたときの、あの慣れようもない感覚。測、計器は。ええ、心拍と脈拍は正常に戻ったみたい。また声が纏わる、間遠に聞こえるも不思議に親しい、この感覚は。そうか、生命維持装置。かつてマキが横たわっていた、あの棺の中にいるのか私は。上体を起こそうとする、と、左手に据えられている管らしきものに掣された。点滴。そうだ、死のうとしたのだ、私は。救護室に備蓄されていた消毒用アルコールを鯨飲することで。しかし、これは。仕損じたか。死に損なったか私は。卒倒したあとで衣服に滴ったはずのアルコールは、もはや揮発して跡を留めていないか。一体どれほど長く昏倒していたのだろう。瞬きを繁くするうちに徐々に明瞭になる視界、そこには。九三。
よっ。と、小さく左手を挙げて微笑んでいる。九三。なぜ助けた。と、気付けば不躾に問うていた。助けたって、わたしがしたわけじゃないよ。初めに助けたのはシーラ。と、鷹揚に笑みを崩さず言うので、えっ、と、傍らの姿に視線を移す。シーラは頷きながら、今夜もマキのいた部屋で祈りを、と思ったら、床に濡れ鼠が倒れてるんだもんな。近寄ってみたら滴ってるのは水じゃなくてアルコールだったし、何をしようとしたかはすぐにわかったよ。シーラは半ば呆れたように、傍らの測と笑みを交わす。すぐに尾道を呼んで、その装置で手当てしてくれって言って、深夜の急患ってどう呼べばいいのかわかんないから93の部屋行って、とにかくこの装置で意識を取り戻すまではやってみよう、って、それが今。ということは……まだ夜は明けていないのか。茫漠とした時の隔たりを手繰りながら、なんとか上半身だけは起こしてみる。すると九三は、いやあ、今回も測さんの適切な処置が奏功しましたねえ。と笑う。えっ。言を受けた測も微笑し、昔、ね。この子も似たようなことをやったの。とこちらを見据えながら言う。似た……失恋して色々やばかったときに、もうスピリタス一気飲みして死んでやるーって。当時測と一緒に暮らしててさあ、偶然早く帰ってきたから死ぬまではいかなかったんだけど。なにを……なにを面白げに話しているのだろう、とても笑うような内容ではないはずだが。シャワーのヘッドを外して、ホースごと口に突っ込んでね。すごい勢いで水を入れて、胃の中のもの全部吐かせて。と相好を崩して続ける測を見て、そのときと同じことを……私にも。と訊かざるを得なくなる。ええ、まあね。幸い、今回はこれがあったから救急車は呼ばずに済んだけど。と装置の計器パネルのうえに手を置きながら言う。
なんでこんなこと、とは、訊かないよ。と、九三は幾分柔らかな声音で言う。アーイシャみたいな強い人でも、人に言えないことはいっぱいあるんだろうしさ。でも……わたしみたいなやつが言っても説得力ないけど、いやわたしみたいなやつだからこそ言うけど、やっぱり自殺はなんの答えにもならないよ。暗がりの中で訥々と言う面が、微弱な照明で映えている。わたしもさ、かつて愛してくれた人とか、いま愛してくれてる人とかを残してひとりで逝こうなんて、とんでもなく卑怯な思い上がりだった。すごい病気して苦しみに耐えられなくて死ぬんだったらまだしもさ……まだ使いものになる身体があるんなら、生き続けなきゃダメだよ。マキさんだって……そうしてたんでしょ。と言われ、反射的に視線を逸らす。まさかマキの後を追って、なんて考えたんじゃないだろうな。と、シーラが詰問よりは嘲弄のような調子で言う。冗談じゃないぞ、そんなのあたしが許さない。あたしら二人とも、そもそもマキのことよく知らないんだからな、大浦典午と同じようには。視線を上げ、シーラの双眸を覗き込む。ああ……と言った途端、測の携帯端末に着信。イリチ……はい、もしもし。ええ、気付いたよ。うん、救急車は呼ばなくてもいい。二階のみんなにも、もう大丈夫だって伝えて……え、行ったって、誰が? 三階? と、測の面持ちが徐々に狼狽えていく、のを見て、三階! と反射的に漏らしてしまう。九三、このこと、Aminadabの皆には。と問うと、いや、まだ言ってないよ。もうみんな寝てるだろうし、さすがに動揺が大きすぎると思ったし……と応える。すると通話を切った測は、こっちに、向かってるって……と愁眉で言う。向かってる、誰が。と問う間もなく、救護室入口の扉が開いた。
ズラミート。寝巻姿にサンダルのまま、こちらへ向かって一直線に歩み寄ってくる。その後方から、あれはゾフィア・クロソウスカか。二階から追ってきたのだろうか、と分別がつきかねるうちに、シーラと九三を押し除けて、ズラミートが装置の正面に立つ。
言い訳は聞かない。眉間に皺を集めながら、低い声で語り始める。お前もするつもりはないだろう。私だって聞くつもりもない。お前が今夜、ここでしたことが、一体どれほど馬鹿げたことか、今更噛んで含めるように教えてやる必要もない。お前がそこまで愚かだとは、さすがに私も思いたくない。怜悧な声音で剣呑に続ける。だが、これだけは言っておかねばならない。お前は、今夜、ここで、お前自身の聖典と族の両方を冒涜したのだ。吐き捨てるように言うズラミートの隣で、ゾフィアが一瞬なにか口にしかけるが、ズラミートは一睨みで制する。ゾフィアは一歩退いて、口を横に結んで立ち尽くす、のを見て九三たちも押し黙る。アルコールの摂取と、自殺……ズラミートは小さく呻きながら再び視線を戻す。よりによって、聖典で禁じられている瀆聖の行為をふたつも犯してまで、お前は解放されたかったというのか、アーイシャ。ムスリマにとって誇りであるその名を戴きながら、イマームとして日々の礼拝を執り仕切っておきながら、お前は手前勝手に自分だけ終わってしまおうとしたのか。許し難い冒涜ではないか、お前は聖典の内容に通暁しておきながら、知っていながら敢えてその禁を破ろうとしたな。明くる朝からの、お前の朋輩たちの日々さえも蔑して、イスラームとして果たすべき務めを怠けたな! 慄えた語尾で喝するズラミートを前にして、もはや誰も差し挟まない。お前はもはやイスラームですらない。全面的な神への服従、その名に値する者ではもはやない。その汚れた身体を見てみろ。お前自身が汚した身体だ。お前は、私と別れた時、清潔などと言っていたな、明朝には綺麗な身体で礼拝に戻る、と。お前の言う清潔とは、急性のアルコール中毒で生命を停止させることだったのか。酒精で消毒して綺麗になった身体で、浄められて死ぬつもりだったのか、お前は!! わかっているのかアーイシャ、もはやお前に帰る場所など残されていない。イスラームはもはやお前の宇ではない。だが行くべき場所は定まっている、地獄だ。地獄行きの運命しか残されていない。それがお前の劫罰だ、聖典と族を冒涜した者にとって当然の運命だ。地獄に堕ちるのだ、アーイシャ。お前はもはや如何なるかたちでも嘉されることなく、無に等しい塵として今生を終えるのだ。それがお前の運命だ、すべからく受けるべき罰だ! と、重なるごとに強まる語気を前にして、ちょっともう、とゾフィアが背後から左肩に手をかける。のも意に介さず、ズラミートは数秒の沈黙を置き、そして、と打って変わって静かに唇を開いた。
その地獄堕ちに私も付き合おう。
剣幕を諫めようとしていたゾフィアも、周りを取り囲んでいた九三たちも、沈黙を破りはしなかった。その運命を、私も引き受けよう。お前と同じ路を、私も行くだろう。そうだろう、アーイシャ。我が友がここまで堕落してしまったのは、私の責任ではないか。お前の失墜を止めることができなかったのは、他ならぬ私ではないか。毎日、お前の隣に立っていたというのに。数知れない夜を、お前と明かしてきたというのに。気付けなかったのは私だ。お前がイスラームですらないものになってしまった以上、私も地獄堕ちだろう。よろしい、異議はない。泣いている、のか。こんな顔で泣くのか、ズラミートは──我が友は。だが、お前にはどうあっても生き続けてもらわねばならない。もはや塵だ、神から見放された身だ。ならば醜く生き様を晒すがいい。心義しい信徒たちはその姿を見て、自分は絶対にああはなるまい、と思いを新たにするだろう。亡者には亡者なりの務めがあるのだ。アーイシャ、我が友、お前は何らの救いにも値しない者として、それでも神の被造物として生き続けねばならない。それがお前の行く路だ。今度は、決して、途中で投げ出さないと誓え。もし誓うならば──その路行きに、私も付き合おう。
右と左の頬を、交互に拭い、目の前で揺らぐ双眸を見つめる。誓おう、ズラミート、我が友。私は取り返しのつかないことをした。これで終われると思っていた、解放されると──しかし、結局は汚しただけだった、己が身体だけではなく、服従を誓っていた神とその聖典さえも。私の肉体と精神はそれほどまでに病み切っていた──ならば、もはや厭うまい。たとえ嘉されなくとも、この一つ身は神の所有物だ。これ以上、徒には使うまい。もちろん行き先は地獄だ、なんの異議もない。君が共に行ってくれるなら──なんの異議もない。
私の片手を握ったまま、我が友は泣き崩れてしまう。のを見て、ゾフィアは屈み込んでその背中を撫でている。と、救護室入口からぞろぞろと人影が。九三の朋輩たちが、一応の気遣いを見せながらこちらを窺っている。シーラ。あれはメリッサ・マッコイか、シーラの共連れが快活な笑みを見せながら、こちらへ歩み寄ってくる。今度は間に合った? 言を受けたシーラは、左目だけこちらへ向けながら、おぼろげに口端を綻ばせながら言った。ああ、間に合ったよ。
それでも三週間は痛むから覚悟しなよ、胃壁の粘膜細胞がごっそりやられてるはずだから。という九三の言葉を思い出しながら歯磨きを終え、部屋を出る。フロアの彼方には門下生たちがズラミートの周りを囲んでいる。アーイシャ。私が歩み寄ると同時にこちらを振り向く。お体は大丈夫ですか、お変わりありませんかっ。と不安げな顔たちを前にして。君たちが心配することではない、自分でやったことだ……と一呼吸おき、本当に、すまなかった。と言うと同時に両手両足と額を床に着ける。えっ、アーイシャ。動揺する声を高く聞きながら、私の行いが許されるなどとは、夢にも思っていない。しかし、ムスリマとしての君たちの務めを妨げる真似をしたことだけは、どうか、どうか謝罪させてほしい……すまなかった。と床に悔恨の言を垂らす。よしてください、アーイシャ。そうです、わたしたちだって気付けなかったんです、あなたがそこまで思い詰めていたとは……どうか、お顔を上げてください。いつの間にか両肩に手が押し当てられ、上体が起こされていた。見上げると、ズラミートは苦笑のようなものを浮かべながら、いかにも、我が友の行いは決して許されるべきではない。と漏らす。門下生たちは狼狽えて立ち上がり、でも、わたしたちの中でアーイシャほどに聖典の読解に長けている者などいません。アッラーに対する崇敬の深さも……と涙ながらに言う。アーイシャがムスリマでないとしたら、一体誰がその名に値するのですか。との門下生たちの哭びを聴きながら、立ち上がる。君たち全員が、だ。一瞬の沈黙。これからは、君たちが、礼拝を執り仕切りなさい。アッラーは善なす人々を好み賜う。ただ私だけは、酒精でこの身を汚した私だけは、もはやモスクの中に入ることは許されない。と述べると、そんな……と慨嘆の息が漏れる。のも厭わず、これは聖典に忠実である限り、当然の帰結だ。君たちはイスラームとして、アッラーへの全面的な服従を誓う者として、平常通りに務めを果たしなさい。私には……私の仕事がある。と言い切る。立ち上がり、ズラミートと視線を合わせる。では始めようか、我が友。ああ、我が友。今日も相変わらず。
やはり、呼吸がついてこない。数日前よりもさらに、挙動に伴う肺腑の制御が不如意になっている。しかし。もう一度だ、我が友。この程度の失敗が、一体なんだというのか。昨夜しでかしたあの過誤に比べれば、これくらいのこと。ああ、我が友。背中を合わせ、友の左掌に右掌を絡ませる。頭蓋で瞬いているのであろう神経と、膚の下で流れているのであろう血管、ふたつの音の波長を合わせなくては。そうか、このふたつだったのか、私が目醒めた時にまず聴いた音は。異なる二つの肉に閉じ込められた閃きを、どうにかして選り、束ねなくてはならない。できるか。できなくても、試みなくてはならない。そうだ、私たちがAminadabという名で組んだその時から、ずっと続けてきたことではないか。
おつかれ。と、リハーサルスタジオを出ると九三が立っていた。ああ……水持ってきたんだ、はい。と、言われるがままにペットボトルを受け取る。ありがとう……あれ、ほら、ズラミートも。私はいい、楽曲のデータを取りに一度部屋に戻らねば。ああ、そう。んじゃ。九三はもう一本のペットボトルを開栓しながら、遠のくズラミートの背中を見送る。
君も忙しいのだろう。と一言投げると、えっ? と九三は眼を丸くする。君たちの次の公演まで、あと一週間もないのだろう。ああ、まあだいぶ仕上がってきたし、楽器隊の仕切りは測に任せてるから大丈夫だよ。と笑っている。気遣いは嬉しいが……あまり私の心配ばかりされるのは、その……と口籠るこちらへ、いやそんなんじゃないよ、むしろこれが普通じゃん。だってさ、ここ数週間でいろんな、ほんとにいろんなことがあって……と一瞬目を伏せ、もう誰も悲しいことになってほしくない、って、みんな思ってるんだよ。とこちらを正面から見つめて言った。そう、か。うん。ありがとう、九三。えっ。またしても眼を丸くする。思えば君は、何くれとなく世話を焼いてくれたな……私たちがここに辿り着いた日から。と切り出すと、ああ、まあ、ね。と妙に照れくさそうに返す。初めて会った頃は、ずいぶん刺々しいことを言ってしまった……しかしあれは、君の厚遇に甘えてのことだったのかもしれない。済まなかった、私の不明を許してほしい。いやいいよ、あのとき言われたことだって正論だったしさ。それに、外側から見つめてくれる人がいないと、わたしってすぐにだらしなくなっちゃうから……と眼を線にしてはにかんでいる。九三は……誰に対してもそうなのか。えっ。誰に対しても、こう屈託なく接して、困っていたら助けの手を差し伸べるのだろうか。そうであるならば、私も君の姿勢を見習わなくては……と思ってな。
なんだろう、この問いは。問うたのは私だ、しかし、なぜこんなことを訊くのだろう。九三は数秒間黙ったまま、面相にいくつか異なる情を浮かべたのち、小さく溜息をつき、囁くように話し始めた。
実は……アーイシャ、似てるんだよね。わたしが、昔……付き合ってた人に。
沈黙。が、ぶふっ、と噴き出す音で破られる。えっなに、ごめ、やっぱ言わないほうがよかった? へんに狼狽える九三を前にして、さらに笑ってしまう。いや、真剣な顔をして何を言うのかと思えば。似てる? 私が? 九三の、昔の想い人に? おかしみをこらえきれず、両腕を臍の前で組んでしまう。よっぽど痩せっぽちの男と付き合っていたのだな。と言うと、ああ……うん。と九三も笑うのだが、一瞬なにか渋味のようなものが頬に兆したのは気のせいだろうか。笑いもおさまってきたので、両腕を解き、ありがとう、君の友愛の情に感謝する。と言いながら目の前の両手をとる。うん。私のAminadabも、君たちに劣ることのないよう磨き上げる。お互いに最善を尽くそう、生きるに値する仕事のために。うん。それではな。じゃあね……えっと、アッサラーム・アライクム! ふふっ、 wa ʿalaykumu s-salām.
アッラーは何人にも、その能力以上のことを課したまわない。そうだ、不可能なことを成し遂げるなどと、そのような出過ぎた考えは持ったこともない。ただ可能だと思ったのだ、数学と幾何学を修め、その過程で見出したアッラーの世界創造の神秘を、ダンスで讃えることもできるはずだと。それが私の務めだと思っていたし、今でも思っている。もはやイスラームの名に値しない、禁忌を犯した身だとしても。それでも。
この地で、土方も同じことを考えていたのだろうか。この身、いつか朽ちるこの身、与えられた一つ身だけを振り絞って、それでも何かを捧げなくてはならない、と。死すべきこの身が、別の死すべき誰かに何かを届ける、そんな営みが可能かもしれない、と。
あっ。楽屋のドアを開くと、そこには。えへへー、来ちゃった。バックステージパスをつまみながら笑う姿。九三、と測……シーラも。呆けて見回す私の傍らで、ズラミートが微笑みかける。呼んでおいたのだ、内緒でな。えっ、と気付けば楽屋内の皆が私を囲んで笑っている。あの、だなあ……君たちにもリハーサルがあるだろうと前にも……いいの、念願の秋田公演なんでしょ。私たちも、前の公演ですっかりやられちゃったしね。と調子を合わせる九三と測。溜息をつく私に、アーイシャ、わたしたち祈っています、今回の公演が何事もなく終わることを。と門下生たちが微笑みかける。何事もなく、か。はい。あなたはもうイスラームではないと仰いますけど、わたしたちは相変わらず信じています、あなたもわたしたちと同じ神に仕えていると。と言われ、返す言葉を失う私に、ああ、私も信じている。とズラミートが言う。視線を我が友へ向けると、仄かな微笑を浮かべたのち、それに、君もだろう? と言いながらシーラの方へ目配せする。ああ、もちろん。シーラは小さく胸を反らせて、大いにやれよ、アーイシャ。もう誰のためとか何のためとか考えなくていい。自分のためでも……マキのためでなくてもいい。ただやってみせろよ、お前が選び取った仕事を。柔和に言うその声を聞きながら、シーラの双眸を覗き込む。そうか、過去に存在した、果敢なくなっていった者たちの想いが、間違いでなかったと証明する。彼女はそのために唄うと言っていた。ならば、私も。
’allāhu ’ákbar.
慈悲深く慈愛遍きアッラーよ、私はなんと愚かなのでしょうか。今、ようやく解りました。なぜあなたが私をお創りになったのか。なぜ故郷から追放し、諸国を放浪させ、この遠い島国にまで送り込み賜うたのか。
務めを果たします。
プログラムの大トリだったとはいえ、ここまでの叫喚があるだろうか。数十分間の演目を支配していた、永遠のような沈黙。が、拍手として、喝采として、いまステージ上で並び立っているふたりの舞踏家への称賛として沸きかえっていた。
本当に人間なのかな。呆けて呟く九三に、シーラは微笑し、人間だよ、人間じゃなきゃできない。と返す。アーイシャとズラミートは、場内の叫喚が収まるのも待たずに、互いの手を取り、高く挙げ、目前の観客へと一礼した。いや、頭を垂れているのは、私たちのためだけではない。彼女らの信じるもの、神、と呼ばれるに値するもの。まさにその現前を目にしている、そんな気がした。有限なる彼女らの、有限なる仕事の達成によって。
Interlude III 抱擁
とは言え、どうすればよい。あんなことをしでかした友に、これからどう向き合えば。尾道。尾道ですが。急性アルコール中毒の予後に行うべき処置を教えてほしい。例えば、飲ませておくべき栄養剤などはあるのだろうか。ええと、現在のアーイシャ様のご容態ですと、あの装置による手当のみで十分と思われます。それでも何かあるだろう、先ほども九三が三週間ほどは痛むとか言っていたし……そうですが、基本的には今後もこれまでと同じ生活を維持できるようにする、以外に手はないのです。測様も同じことを仰っていましたから……測。はい。測は何か、医療系の学校にでも通っていたのか。いえ、たぶん違いますが……なんでも、経験があるのだそうです。経験とは。先ほど断片的に聞こえた程度ですが、九三様も以前、アーイシャ様と似たことをしたのだとか。アルコールを一気飲みして自殺を図って、すんでのところを測様の処置によって助けられたのだとか。実は、今回迅速にアーイシャ様を手当てすることができたのも、測様の指示によるところが大きかったのです。
何かあった? 深夜に部屋を訪れたにも拘らず、屈託なく迎えてくれる。もしかして、また人手が要りそうになった。いや、一階ではシーラも看護についてくれているから、とくには。そう。と通り一遍の会話を交わしていると。向こうのベッドから九三も身を起こすのがわかる。ので、すまない、測とふたりで話させてもらえるか。と一言だけ投げる。私だけ……いいけれど。ああ、数分で済む。
共用キッチンの前まで歩き、立ったまま話す。測、その、まずは、ありがとう。言うと、ふふっ、とくしゃみのような笑みを漏らし、私じゃなくてシーラに言うべきだよ、彼女が見つけなかったら助けようもなかったんだから。と手を腰の後ろで組みながら返す。ああ……立ち止まり、踵を返し、測……先ほど尾道から聞いたのだが。と正面から対峙する。なに。君と九三との間にも、昔、このようなことがあったのだとか……つまり、親しい友人に先立たれそうになった、と。言葉を選びながら切り出すと、ああ……と測はこちらの意を察したらしく、九三が、ね。もう四年前かな。と微笑を崩さず応えた。まさか、君と私の友がそれぞれ同じようなことをするとは……本当にね、因果な話。教えてもらえないか、測。なにを。どうすればよいのだろうか……友がああいうことをしてしまった後に、どのように計らえばよいのだろう。つまり、心身のケアについてだが。と乞うように問う。と、数秒黙ったのち測は、そうね、私があのとき気をつけたのは、今までの生活を今まで通り送れるようにすること。タバコや酒、はアーイシャとは無縁でしょうから……やっぱり食事と睡眠を毎日決まった時間にとらせる、しかないんじゃないかな。と懇切な答えが戻る。そうか、先ほど尾道も同じようなことを言っていたな……身体の器官じゃなくて精神的な失調でしょうから、どんなにゆっくりだとしても、彼女が快方に向かうまで付き添ってあげるしかないんだと思う。それはそうだが……精神的なケアというのは、どうすればいいのだろう。えっ。私はイスラエルの新聞で記者をやっていたから、ガザやヨルダンの難民キャンプで酷い処遇を受けた人々の心身のケアについては、少なからず知見がある。しかし今回の件は純粋にアーイシャ一人の問題だ、君が言った通り付き添うとして、どのように振る舞うべきかわからない。言いながら次第に陳情めいている自分に厭気が差し、教えてくれないか、測。落ち込んだ九三の状態を回復させるために、君はどのようなことをした。と直截に問うてみる。
沈黙。が数十秒ほど続く。どうしたのだろう、先程のように淀みなく答えてくれると思っていたのだが、測はずっと視線を逸らしたまま何も言わない。やはり、説明しづらいことだろうか……とこちらから伺うと、いや、そういうことでも……ないの。と返す。なんだろう、初めて見るな、この人の愁眉は。では、教えてもらえないか。君は友のためにどのようなことをした。それと同じことを、私もアーイシャのためにしてあげたい。言うと、測は沈黙を堪えかねたかのように、唇を開く。
愛してあげた……私は、あの子を。
ええと……もっと具体的に言ってもらえると有り難いのだが。と再度問い質してみると、測はいっそう眉根を寄せて、ごめんなさい、馬鹿げて聞こえるとはわかってるけど、事実だから。と視線を逸らす。その、不勉強ですまないが、日本語で「愛する」という表現にはなにか医療上の意味も含まれるのだろうか。 take care of 的な……そういうわけでもない、言葉通りの意味だよ。問い質すごとに五里霧中の感が強まり、測が黙るとともにこちらも継ぐべき言葉を失ってしまう。呆けて立ち尽くすだけのこちらへ、測は何か迷いを振り解くように、眦を決して言った。
愛してあげたの、私は、あの子を……肉体的に。
沈黙。何を言ったのだろうかこの人は。いやわかっている、いま私が聞き取った文章の意味などひとつしかない。しかし、冷静沈着で礼儀作法もわきまえていると思っていたこの日本人女性は、いきなり私に何を言ったのだろう。ズラミート。ぎりっ、と左奥歯を噛みしめる音が頭蓋に響き、気付けば踵を返していた。あのっ、ズラミート。と呼ぶ声に、左頬だけ向けて応える。君に訊いたのが間違いだった。
女はゴモラを持ち、男はソドムを持たん。そして両の街々がどのような運命をたどったかは聖典に明瞭りと書かれている。そうだ、硫黄の焔に焼かれて死ぬのだ、淫欲を弄んだ者どもは。しかし國分測、彼女までそうだったとは。そのような淪落を貪ったことを、他ならぬユダヤの実践者である私に告白するとは。
救護室に戻り、アーイシャの傍らに付き添っているシーラの面を眺める。たしか彼女も測と親しくしていたはずだ、となれば、まさか……いや、考えたくもない。異教の徒はともかくとして、同じアブラハムの宗教に連なる彼女までもがそのような……どうした? いや、すまない、なんだか疲れてしまって。無理もない、すこし寝たらいいよ。あたしは夜通し祈るから、アーイシャに何かあったとしても気付ける。そうか……すまない、先に休む。ああ、おやすみ。
夜明け前の礼拝を済ませたAminadabの門下生たちが、モスクの中から歩み出てくる。おはようございます、ズラミート。ああ、おはよう。アーイシャは……大丈夫ですか。今朝の容体を見たところ、平常時と同じ程度には回復したようだ。そうですか、よかった……と三階のフロアで話していると、エレベーターのベルが鳴る……ゾフィア。小さく手を振りながらこちらへ歩み寄ってくる。珍しいな、君がこんな時間に……と言うと、ああ、今日は通しのリハだからね、早起きして身体作っとこうと思って。と目の前で笑う顔、が、徐々に面相を変える。ズラミート、ふたりで話せないかな。ほんの数分でいいから。
聞いたのか、測から。日用品が備蓄してある空き部屋のドアを閉め、傍らのゾフィアと目も合わさず話す。ああ、さっきね。キッチンで朝食作ってたら測も来てさ。何か言いたげだったからどうしたのって訊いたら、夜中にズラミートと話して、そのときもしかしたら、取り返しのつかないことを言ったかもしれない、って。また左奥歯を噛んでしまう。どうでもよい、訊いた私が悪かったのだ。と一言で取り下げると、測も九三も眠れなかったって言ってたよ、昨晩。きっと自分たちが通ってきた路のこと、ずっと思い出してたんじゃないかな。と背中から慰撫するような声。だから何だ、私とは関係ない、彼女らがどうしてきたかなどは……と撥ねつけようとする私、の喉に、ふたつの摩擦。何、これは、腕、か。ゾフィアの。突然に温もった肉を首元に押し当てられ、反射的に右掌で阻む。何をしている、と咎めながら、ふれている膚の下の筋骨が指を介して明かだった。正しくない、とは思うよ。でも間違ってないとも思うんだよ、測がしたこと。と言う声を耳元に聞きながら、私の身体を背後から掻き抱くゾフィアの腕を引き剥がそうとする、が果たせない。放せ……ズラミート、聞いて。私も思ってたよ、死なないでほしい、って。瞬間、喉元を声ならぬ声が過る。あなたが祖国での難を逃れて、クラクフに来てくれた時。これから一緒に音楽の勉強できるんだって嬉しかった、のとは別に……死なないでほしい、ってずっと思ってたよ。この人の身の上には悲しいことが起こってほしくない、少なくとも今のような、憩えるひとときがずっと続いてほしい……って思ってたよ。測も、そうだったんじゃないかな。あなたが死なずに生きていてほしいって、わかってもらうために愛したんじゃないかな。その思いも行いも、全部間違ってたとは、誰にも言えないはずだよ。
この、胸から溢れる嗚咽は、厭悪のためか。それとも、もっと別の何か。わからない、わかるはずもない。床に膝をつき、首元に纏わるゾフィアの腕に掌を這わせ、互いの五指を重ねる。ふふっ、実はさ、うちのお婆もやってくれたんだよ、こうやってぎゅーって。耳元で柔らかな声音が聞こえる。本当に辛いことをいっぱい語ったあとでね、お前たちにはこんな思いをしてほしくない、無事であってほしい、って。ああ。声に応えるように指先に力を込める。私がお婆からしてもらったことを、あなたもアーイシャにしてあげて。それで嫌がられたら、私とお婆のせいにしていいから。もう、これ以上思い詰めないで。あなたの中に確かにあるものを、躊躇いのために消そうとするのはやめて。
やっと、できた。通しでのリハーサルを終え、アーイシャがスタジオ内の鏡の前で嘆息する。ああ、ようやく本調子を取り戻してきたな。と背中から声をかけると、本当か。と頬を綻ばせながらこちらを向く。もちろん、お世辞など言うものか。よかった、取り戻せなかったらどうしようと……瞬間、突然に下肢のバランスを崩す。アーイシャ。左肩と右脇腹を支え、傾ぐその面を窺う。大丈夫か。あ、ああ、大丈夫……軽い立ち眩みだ。小さく息を漏らしながらこちらを見上げる、その姿を前にして、ふいに鼓動が高鳴る。ふれている身体とは異なる脈拍が、両掌を介して伝わっている、伝わってしまっている。ズラミート……? もはや否応はなく、眼下の身体を正面から抱きしめる。胸の鳴りが早鐘となり、後頭部にあてがった指先も撓み慄える。ズラミート……と呆けたような声を耳元に聞き、ながら、友の髪のひとすじを梳く。アーイシャ、我が友よ。どうか死なないでくれ。どうか……継ぐべきだった言葉が喉で窒息し、これ以上続けられない。なんとか立位だけは保ちながら、目の前の身体を抱きしめることしかできなかった。
ああ、ズラミート、我が友よ。私も一緒だ……死なないでくれ。アーイシャの両手が背中に添えられる、のがわかる。ふふっ、思えば……母も父も、こんなことは滅多にしてくれなかったな。と微笑む姿を見おろし、そうか……実は、私もだ。と言いながら、掻き抱く両腕にもう一度力を込める。ああ、このふたつ身が、別箇に縫製された肉たちが、同じ拍を打つこともなく、どうしようもなく異なり続けるままに在ることができたとしたら。それは奇跡だろうか。それとも平々凡々な俗事にすぎないか。どうでもよい、なんでもよい。この願いを、祈りを、愛と呼ぶことができるなら。私はもはや灼かれてもいい。誰に咎められようと、構わない。
30 こよなき誕生
鳴らずもがなの琴を弄う
瞬く太陽の導くままに空を掘る
眼下には陸地があり
不吉な穴が 信じの砂に深く穿たれている
一緒に、か。リハーサルスタジオに集った一同の中で、イネスが一番先に応える。うん、わたしら昨日、秋田から戻る新幹線の中で話してたんだよね。とアーイシャに目配せを送ると、ああ、だしぬけな申し出だとは思うのだが、どうしても君たちと一緒の仕事に取り組みたくて……と一同を正面から見据えながら言う。いいよ、もちろん。と笑顔で受けたのはゾフィアで、この数週間で、あなたたち二人も色々なことをしてくれたもんね。逆に九三がしてあげられたこともあったみたいだし。と続けた。ただ、参加すると言ってもね……あと三日のリハーサル期間しかないのに、ものにできるかしら? とエリザベスが差し挟むと、もちろん、全曲に参加するわけじゃないぞ。セットリストの幕間にいくつか特別な演目を置いて、そこでAminadabにも出てもらう。とシーラが応える。ズラミートの曲にアーイシャが振りを付けて、そのコンセプトに合いそうなやつらをあたしらの中から何人か出す、って段取なら問題ないだろう。それとも引き出しが無さすぎて急な要請には応えられないか、女王様? なに……それくらいできるわよ、私を誰だと思ってるの。では、すぐにでも演目を決めようか。そこで使う楽曲というのは、もうあるのか? うん、とりあえず全部聴いて、この中から選んでもらうよ。そのあとでアーイシャに振り付けてもらえばいい、ね。ああ。じゃ、やってみますか。
だから違うと言っている! と、スタジオの鏡を前にしてまたもアーイシャが哭ぶ。違うって、なにが……? とイネスがおずおず訊くと、さっきも言ったろう、ここで動きが乱れては困るのだ! どうして君たちはこう、パラパラと統率もなく各々勝手に動くんだ! と振付師は憤ろしく応える。そりゃだって、わたしらのルーツってヒップホップとかR&Bだし……と教授が苦笑すると、だからといって、振付に手を抜いていいのか! 以前から君たちのライブ映像を観て思っていたが、何なのだあれはステージ上をタラタラ歩いたり停まってみたり、散歩じゃあるまいし! 客に観てもらう演目なのだぞ、もっと緊張感を持たないか! とより一層嘆かわしく言う。
ねえアーイシャ。と後ろから肩を叩く。なんだ……あのね、その意見も正しいとは思うけど、わたしらにはわたしらの舞い方があるんだよ。と諭すと、怪訝な顔で振り向く。その舞い方、とは。うん、アーイシャがAminadabでやってる、幾何学的ですごく統率された動きのダンスもあるよ、昨日観て改めて思ったけどあれはほんとに凄い。でもね、統率されてないからこそ複数のリズムを孕むような、そういうダンスもあるんだ。と話すと、複数の……と飲み込み難いような顔。ね、教授、例えばさ。と助け舟を求めると、ああ、たとえば四分の三拍子でやるとして、一六分で割った一二拍を四で取るか三で取るか、みたいなね。と筋道立ててくれる。そうそう、同じ拍子記号の中で違うリズムが同時進行するやつ。プログレみたいにカッチリしてなくて、もっとダンサブルなやつね。ていうか、わたしらが元ネタにしてる黒人音楽にはそういうのが標準で備わってるんだよ。と言うとアーイシャは、同じでも、違う……と下唇に右手の甲を当てながら考え込んでいる。何も難しいことじゃないよ、わたしらχορόςではそれぞれ別々の演目をやってた。そういうやつらが集まって一緒に組むって決めたとき、自然とそうなっていったんだ。ねイネス、個性バラバラのやつらでも問題なく調和できるようなリズム、つまり……適切な語彙が出てこなくて人差指で宙をくるくると攪拌する。のを見て、イネスは引き受けるように大きく頷いた。そう。揺らぎ、だよ。
揺らぎ……アーイシャは両眼を大きく見開いて呟く。揺らぎ、か……アッラーはそのようなものまでお創り賜うた……胸の前で両手を合わせ、蕩けたように言う。済まなかった、私の無知を許してほしい。どうか教えてくれないだろうか、揺らぎ、について。ああ、もちろん。さっきの振付、もっかいやってみよう。
小休憩の合間にも、アーイシャは九三やイネスたちと振付の打ち合わせをしている。私と合わせているときとは違う、まるで悪戯でも企てているかのような面持ちで。ああ、我が友、やはり正解だったな、彼女らの仕事に加わると決めて。多くの異なる人々と交わらなくては学び取れないこともある。
よっ、の一声とともに、私の頬にペットボトルが押し当てられる。見ると、傍らにゾフィアが座り込んでいた。水も飲まずにずーっと見てるからさー。と笑いながらボトルを床に置く。のを見て、気後れしたように私も冷水のボトルをタオルで包む。ああ、いや、面白いものだなと思って……私らと組むことが? それもだが、リハーサルを通して、アーイシャが次々と初めての表情を見せるようになって……と漏らしながら、鏡の前でなにか冗談を言うイネスにつられて噴き出す九三と我が友の姿を遠く眺める。初めて見るな……彼女の、あんな顔は。と言うと、ふふっ、と口笛のような微笑とともにゾフィアが肩を寄せる。そうだね、こんな顔、私も見たことない。と上目遣いで言う、その意味が遅れて察せられ、顔を背けてタオルをゾフィアに投げつける、その姿を見てまた笑う声が聞こえる。揶揄うんじゃない、とでも言ってしまうとまた半畳を入れられるに決まっているので黙っていると、クラクフにいたときも、こんな感じだったね。と今度はやけに淑やかな声音。誰かとセッションしたいーってやつらばっかり集まってて、譜面さえあればどんな曲でも演ってた。ああ……懐かしいな。ズラミートも最初はちゃんと編曲したやつじゃなきゃやだって言ってたけど、すぐに慣れて、チェロでミンガスの曲演ったりした。ああ。あの頃は楽しかったな、好きなことを好きなだけ学ぶ環境があって……あるんだよ。えっ。今だってあるんだよ、ここに。と笑う表情には、しかし一欠片の揶揄もなかった。世界にはもっと色んな場所があるんだよ、ズラミートにとっても、アーイシャにとっても、誰にとっても。九三がこの城を建ててふたりを受け入れたのだって、その実践だったんじゃないかな。ひとりじゃできないことを誰かと分かち合う。少なくとも私たちは、χορόςでそういうことをやってきたよ。
そう、か。とだけ言って黙り込む。そうだ、ゾフィアの祖母がクラクフに呼んでくれたのだって、岩走マキが滞在先として日本を選んでくれたのだって、つまりはそういうこと。この世界にはもっと多くの場所が……と沈思していると、で、これからはそういうことも学んでいってほしいなと思うのでありますよ、わがともー。といつもの顔で笑う。のでこちらも微笑んで返す。わかってる、もう学んでる。ねえねえ私のことはわがともって呼んでくれないのー? あれはアーイシャのためだけの呼び名だから……えーなにそれ冷たいなー。君は私と同じユダヤ教徒なのだし、取り立てて言うまでもないだろう……
百万もの鳩らが
地球の軌道を廻る 血の涙を湛えて
乙女を強いて こよなき誕生を収める
何も起こらないことを祈ろう。と、開演三〇分前に九三が言う。いや間違えた、何かが起きることは祈ろう。はは、どっちだよ。だって、何かが起きるには決まってるんだよ……でも、悪いことだけは、取り返しのつかないことだけは起こらないと祈ろう。わたしらのやってることは、どうしても他の誰かには届いてしまう、それは避けられない。でも……アーイシャたちがテル=アヴィヴで遭ったような、そしてわたしらが競技場で出くわしたような、誰かが理由もなく犠牲になってしまうような事態とは、正反対のものを出現させられるはずなんだ。と熱っぽく言うのを見て、みな聞き入っている。だから祈ろう、どんな神でもいい、自分が信じてる、なにか巨きな存在に。絶対に非暴力的で、しかし誰かの人生を圧倒的に変えちゃうようなことが、今日ここで起きることを祈ろう。いいね? 言い終わると、輪になった一三名がそれぞれに顔を見合わせ、頷く。いやーしかしまさかわたしらが円陣組むなんてねー、こういうノリとは無縁だと思ってたけど。いいんだよ、ベタなのはやっといたほうが。なんか掛け声いっとくすか? いやいい、それはさすがに恥ずい。あははー。じゃ、三〇分後、あのときと同じ曲で始めるよ。ええ、もちろん。
虚無の中で私は生まれ 大洋と素粒子の中へと入った
造られざる光の中で 神託が浮かび上がった
ってわけで、今回はAminadabのパート増えたから。ああ、滞りなくやるさ。名古屋公演であんな評判だったんだから、今日いまいちやったらツアーファイナルにも響くでー。なんだそのアクセント……九三こそ前みたいに歌詞飛ばすなよ。あーれは飛んだんじゃないって、ギリギリで即興したんだって……
百万もの鳩らが
地球の軌道を廻る 血の涙を湛えて
龍を屠り こよなき誕生を収める
うおー花輪! そうすよーあたしも着いたときびっくりしたっす。あらあーDARAHA BEATSだ、わたしが初めて音源置かせてもらった店……キョードー西日本って、これもしかして古市さんが贈ってくれたのかな……さすがに個人ではないでしょう。でも知念さんのもあるよ、ANDYOURSONGのも! うわーすげーなんか照れくさい。ちぬんも安影さんも観に来てくれてるらしいっすよ。何だったらこっちで招待券出したのにな、色々ありすぎて気が回らなかったな……ほら九三、こっち。え。肝心のものを見落としてるよ。あ……学習塾「才」代表:母里久蔵。えーあいつもかよ! ふふっ、聞かされてなかったの。だってあいつ塾あるから観に来れないって言ってたんだよ、でも花輪は贈ってくれたのか……はは、よく見りゃバラバラの色の花ばっか混ぜてるな、慣れないことしたのバレバレ。いいじゃないすか、あたしらっぽいすよ。だね。じゃ……ついにツアーファイナル、福岡。ええ。やり切ろう。あのとき怯んでも止めなかった、それが間違いじゃなかったと証明しよう。
もう泣くまいよ
やんごとない沈黙が 私の帰路を導くだろう
終わっ、た。これで全部。楽屋に集った全員、誰も口を開かない。そりゃそうだ、一体何が言えるだろう。わたしらがこの夏に閲した、あまりにも、あまりにも多くのことを、どうして分別顔で総括などできるだろう。ただ洗った顔をタオルで拭い、椅子に着いて水を飲む、その沈黙の所作だけがこの収穫を分かつ唯一の手段だった。無駄じゃなかった。
お、着信。なに……【非通知】。こんなタイミングで誰だろ、運営の人かな、それとも杜さんが考え改めて電話かけてくれたとか……にしたって非通知にする必要ないしな、とか思いながら楽屋を出て【受話】ボタンを押す。
はいもしもし。
九三、ですね。
この声……聞き憶えが。全部終わったみたいですね、お疲れ様でした。もしかして……四七。憶えておいていただけて光栄です。と抑揚のない声が返る。お前……いったいどこにいんの、今まで何してたの。答える必要はありません。九三、今からすぐに来てもらいます。来てもらうって……どこに。アナタが、初めて母と測さんを引き合わせた場所に。って……あれか、中洲川端のアイリッシュパブ。なんでそんなこと……答える必要はありません。もしアナタが応じなければ、どうなるかわかりますね? わか、んねえよ、なんだよそれ。おや、おかしいですね。なぜワタシは今こうして電話をかけることができているのでしょうね? この携帯電話、誰から奪った物でしょうか? えっ……九三、ここは福岡ですよねえ。アナタにとって大切な人々も、大勢生活している街ですよねえ。たとえば……元恋人の男性、とか。
お前……何した。お前、久蔵に何したんだよ。答える必要はありません。が、おかしいと思いませんでしたか、あの人のいい男が、よりによってアナタのツアーファイナルに顔を出さなかったなんて? つまらない仕事なんて放り出して会いに来るのが普通ではありませんか? にも拘らず姿を見せていないなら、それは何を意味するのでしょうね? 四七……教えろ、まさか殺してないだろうな。そんなつまらないことはしませんよ、マキでもう懲りましたから。ただ、アナタが応じなかった場合には……わかった、行く、すぐ行く。場所、中洲川端のHAKATA HARPって店であってるか。ええ、そこで待っているはずですよ、アナタがずっと探していた人がね。
えっ……それって、まさか。それでは。ちょっと待って四七、お前もそこにいるのか。いいえ、もういなくなるでしょうね。なに……ワタシの存在なんてどうでもいいことですよ。それより、遅くならないうちに来てくださいね。待て、その前に約束しろ、久蔵に一切手は出さないって。当たり前じゃないですか。え? 元から手なんか出しちゃいませんよ、この電話だって公衆電話からかけているんですし。は……? ふつうに話したんじゃアナタの注意を惹けませんからね、ちょっとハッタリかけてみただけですよ。アナタの元恋人とやらは、今頃いつもどおりに夜飯でも喰ってるんじゃないですか? なん……なんそれ!? それでは、九三。最期に話ができて嬉しかったですよ。また会いましょう。
あっ、切れた。なんだよ、なんだよそれ。最期、って、なのにまた会いましょう、って……思いもしない長電話に付き合わされて楽屋に戻ると、もうアーイシャしか残っていなかった。あれ……呆けて室内を眺め回すわたしに、九三……どうした? とアーイシャが衣装を纏めながら訊く。いや、みんなどこいったのかなと思って……もう搬入口に行ったよ、ホテル行きのタクシーが待っているからと。あ、そうなの。九三は何やら廊下で長電話しているからと、測たちは気を遣って先に行ったようだ。そっ、か……ねえ、アーイシャ。どうした。測に……伝えといてくれないかな。ちょっと行かなきゃならないとこがある、でもすぐに戻ってくる、って。行くって……こんな時間にか? うん、急な用事なんだ。でも必ず戻ってくるから、みんなにもそう伝えといて。
搬入口に待機していたタクシーに、ホテルではなく中洲川端まで行くよう頼み、三〇分もしないうちに到着する。HAKATA HARP……もう閉店してるよな、こんな時間だし。でも、あいつが来いと言ったからには……いやに高鳴る鼓動を抑え、階段を降りて地下の入口へ向かう。照明が落ちている店の扉の前に立ち、深呼吸ひとつ、手をかける。開い、た。鍵がかかってない、ってことは。
墨をこぼしたような暗闇、その店内の中央に一つ灯りが。蝋燭。一体誰がどこから、と怪しみながら歩み入る。あの入口側の壁面に大きく描かれている、いまいち似ていないジョイスの肖像画を懐かしく眺めながら、蝋燭の置かれているテーブルの前に立つ。と、そこには。
九三。
これが聞こえるってことは生きてるね?
あなた、なの。暗闇から這い出るようにあらわれた姿を前にして、茫然と問うしかなくなる。もうヒジャブは着けていないのか。あの髪、するりと指の間を逃げ抜ける河のような髪。大好きだった。そう、誰にも見せていないものを、わたしの前では露わにしてくれているようで。そしてその眼……深い緑が燃えているような瞳。アーイシャと似ていると思っていたけど、いま前にしているものはやっぱり違う……何度も、何度もその光でわたしを焦がした眼。あなた。不二良、なの。
目の前の姿は、無言でテーブルに上体を伸し掛ける。蝋燭の脇に両肘を突き、立ち尽くすだけのわたしを見上げながら言う。そうだよ、九三。ああ、この声。何度となく聞かされた、初めて出逢った日、会うたびに膚を重ねた日、一方的に置き去りにされた日、その後でも耳元から消え去ることはなかった、あの声。これ、わたしの幻覚じゃないのか。また不二良の姿を勝手に思い描いているだけ、なんてこと。疑いを掻き消すために、わたしもテーブルの縁に臍を当てて前のめる。不二良……わたし、訊きたいこといっぱいあるよ、ありすぎるよ。言うと、不二良は静かに右腕を挙げる。のに応えて、わたしも左腕を上げ、掌を合わせる。五指が絡み、双眸が目合う。なんで、置いてったの……あのとき、ってもう四年前になるのか……なんでわたしだけ置き去りにしたの。問うと、言ったでしょ、九三を試したかったから。と答える。あのときすでに、九三は十分いいところまで行ってた。だからわたしがいなくても大丈夫かなって。思った通りだったよ、九三。あなたはわたしなしでも、自ずからするべきことを見つけていった。音楽……わたしのできないことで、わたしと同じ仕事に携わってくれた。なに、それ。あの杜って人をけしかけてχορόςやらせたのも、そのためだったの。あれはあくまで手段にすぎないよ。九三が自分の仕事を見つけた以上、網をかければひっかかるんじゃないか、ってね。で、実際にそうなった。『桃太郎』って、すごい小説だと思わない? ってか……ふふっ、そんなことまで憶えてくれてたんだね。嬉しい、九三。
そうだ、四七、四七は……あの子はどうなったの。今、どこにいるの。もう往ったよ、あなたより先に。往ったって何処に……あなたが今から往くであろう場所に。えっ。正直ね、あんなにできのいい子だとは思わなかった。あの子も九三と同じくらい音の才能があったんじゃないかな、ある意味ね。なにそれ……GILAffeのこと。ああ、あれはね、ただの副産物にすぎないんだよ。本当はもっと別のことをやろうとしてた。GILAffeみたいなのが本当にできた以上、わたしの目論んでることは間違いじゃないって確信にはなったけどね。そしてそれが成った今、もう四七はいなくなった。
そうだ、いつもこうだった。途中の説明をすっ飛ばして結果だけ言う。今はまだわからなくていいみたいにはぐらかして、そのくせ成って果たされた物をわたしの口に詰め込んでくる。不二良……胸の裡に渦巻いているものを吐き出そうとする、のが制される。スマートフォンの画面がタップされ、SpotifyとDyslexiconのロゴマークが浮かび上がる。それよりも九三、訊くよりも先に確かめたほうがいいんじゃない。えっ。わたしが、本当に、存在するかどうか。もしかしたら、またいなくなっちゃうかもしれないよ……言いながら、プレイヤーのプレイリストを再生する。なんだろう、アンビエントのアコースティックとでも形容すればいいのか、シンプルに抑制されたギターのアルペジオ。音楽がわからないわたしにも、その場にうってつけの音楽を選んでくれる……うん、杜さんもいい仕事をしてくれたね。室内に流れる唯一の音楽が静かに唄いだし、わたしたちふたりも面を寄せる。大きな音立てちゃだめだよ、上の階のひとたちはもう閉店したって思ってるでしょうし。誰か来たら台無しになっちゃうからね……わたしたちが交わす音は、繊細でなくちゃ。悪戯っぽく微笑むその唇、に飛びつく。むしゃぶる。もう声ではない声が咽ぶ。テーブルの縁の阻みを腹に感じながら、ふたり座礁した鯨のようになって交い汲みあう。そうだ、この香り。不二良だ、忘れられるわけがない、だってこの身体が憶えてる。唇を離すと同時にテーブルに飛び乗り、蝋燭が倒れないようにスタンドを押さえながら、両腕を開いて迎え入れる。仰向けになったわたしに不二良が寝そべり、垂れる髪をそのままにしてくちづけあう。そう、耳、首筋。わたしが昂るところを指でいじめる、そのしかたですら憶えている。またあられもなくされる、愛の肢体に撫でられて。不二良。九三。不二良。九三。身体と言葉でお互いの存在を確かめあう、その営み自体が音楽のようで。音楽……? 傍らで流れている曲が朗々と唄い、そしてわたしの意識は朦朧としはじめる。不二良……なにか、したの。わたしの身体になにかした。何を言ってるの、ずっとこうしてきたでしょ。初めて出逢った夜から、何度となく膚を重ねて、口して……
行ったって、どこに。ヒルトンホテルのエントランスに到着したアーイシャから九三の不在を報され、そう問うしかなくなる。わからないが、行かなきゃいけない場所がある、必ず帰ってくるからと言っていた……まさか、家族に何か不幸があったとか。そういうわけでもなさそうだった、何かすごく個人的な事情のような……言われて何が詳らかになるわけでもなく、二人で顔を見合わせて立ち尽くす。
我が友。声の方を向くと、エレベーターの中からズラミートが。どうした。どうしたって、知らないのか。向けられたスマートフォンの画面を覗き込むアーイシャ、の姿越しに、エントランス内の様子を見回す。あれ、フロントで立ち働いていたスタッフが……いない。おかしい、さっきまで……歩み寄って見ると、二人倒れていた。まるで突然意識を失ったかのように。これは……測。背後から声が掛かる。見てくれ。向き直り、掌中のスマートフォンの画面を凝視する。これは、緊急ニュース……ですらない、単なる夜のニュース番組。なのだが、そこに在るはずのアナウンサーの姿がなかった。一方で、磨りガラス越しに映されている後方の報道部らしき区画では、何やら慌てふためく人影が見える。何……何があったの。わからないが、この国のみならず全世界で、大勢の人間が一斉に意識を失ったと……一斉に? そんなばかなことが、と思いながら背後を振り返っても、そこにはフロントに倒れたままのスタッフが二人。エントランスの向こうでは、おうい、なんですか、なにがあったんですか、とタクシー運転手たちが狼狽の声を上げている。
測。またエレベーターから歩み出てくる姿。ヤスミン、あなた無事だったの。はい、私は……ってそれどころじゃありません、한나が……한나だけじゃない、皆、皆ああなっちゃったんです。と言いながら、慄える指で倒れているスタッフを指差す。ああなった……つまり、気を失ったと。アーイシャが率直に訊くと、ヤスミンは返事もできず頷くだけ。全員、本当に全員なのね、イリチも、シーラも。と問うと、はい、さっきみんなで打ち上げどうするか話してたんですけど、そのとき一斉に……あなただけ無事だったの。はい、なぜか……あなたと、私と、アーイシャとズラミートだけ……なぜか無事だった。
この四人……なに。あるでしょう、共通項が。なんだ、なんの話だ。κωμόςの一三人の中で、私たち四人は、GILAffeを入れていない。あっ……それはそうだが、この事態と何の関係が。いまネットで収集できる限りの情報を見ても、意識を失った人々は政府高官とか報道局とか、いかにもGILAffeの助けを求めそうな人ばかり。ってことは……GILAffeのせいなのか、これは。そうとしか考えられない、少なくとも今の時点では……
測さん。
何。えっ……なにって、なにがですか。いま呼んだでしょう、私を。いえ、誰も……測さん、聞こえるかな? わたしのこと憶えてる? 何これ、私にしか聞こえてない、ってこと。ごめんなさいね、いきなりこんなことになっちゃって、びっくりしたよね。でも大丈夫、九三もちゃんと往けたみたいだから。九三……これだとちょっと話しづらいから、直接会って話せないかな? うってつけの場所も用意したんだ。あなたが初めてわたしと会った店、わかるよね? 測……おい、どうしたんだ。行く。えっ? 行かなきゃいけない、私も……行くって、九三のところか。待ってください、測……じゃあ待ってるからね、会えるのを楽しみにしてる。ごめんなさい、ヤスミン。もしみんなが目醒めたら、伝えておいて。九三と一緒に測も往きましたって。もしかしたら、戻っては来られないかもしれない、って。
宵闇にそれは立っていた。あの姿、百済不二良。忘れもしない、忘れられるわけがない。たった一度の対面で、私に多くのものを刻み付けた。そして数々の逢瀬で九三のなかにどれほど多くの創を残したか知れない、あの……いらっしゃい。嬉しい、ほんとに来てくれたんだ。電灯ひとつない闇のなかでは、溶け尽きかけている蝋燭ひとつが手がかりだった。どうする。どうすればいい。何度となく考えたはずだ、あいつに再び会うことがあれば、と。殴り倒してやる、全身の骨を折ってやる、地を舐めさせて九三にしたことを肚の底から悔悟させてやる、際限もなく考えた。しかし、今こうして生身の姿を前にしても、本来あるべき感情は湧き上がってこない。何をしたの。問うと、したっていうか、ずっとしてただけだよ、そしたらこうなっただけ。と答える。百済不二良、あなたの言葉遊びに付き合うつもりはない。外で起こってる事態にも、どうせあなたが関わってるんでしょう。説明しなさい、一体あなたが何をしたのか。これ以上しらばっくれるようなら、力づくでも聞き出す。目と鼻の先まで近寄って言う。と、不二良は相も変わらず微笑みながら口を開く。言葉遊び、ね。たしかにこれは、言葉だけで伝えるのは難しいね。だって九三は、音になっちゃったわけだから。
音……そうだよ測さん。九三だけじゃない、四七も一緒にね。なに……どこに往ったの。だから音になったんだって、肉じゃなくてね。むしろ音になるためだけに、わたしはあの子の肉に奏でさせたとも言える。何を言ってるの……すごく簡単なことだよ、測さん。一番最初に在ったものは何? もちろん、光じゃない。人間や動物たちでもない。それは世界が在ったあとで創られたものだから。光や、それを認識できる眼の備わった肉体なんかよりも先に、この世界に在ったもの。何を……言ってるの。あなたならわかるでしょ? だって、初めてここで会ったとき話したじゃない。大学でリルケの詩を専攻していたあなたなら、すぐ思い出せるはずだよ。
沈黙。を、破る。
「真に唄うこと、それはもうひとつの息吹だ、
何ものでもないものをめぐる息吹、神の中の飛翔、風。」
そう。やっぱりあなたを選んで正解だった。きっと九三だけじゃいけなかった、言葉の仕事に精通しているあなたの助けがあったからこそ、九三はちゃんと往くことができたの。真に唄うこと……それをさせるために、あなたは。それをしたから、九三は……うん、それをしてもらうために、あなたが必要だった。肉は詞々で出来ている……私もわかっているはずだった、うっすら気付いてはいたけれど。本当にそうだったの……あなたは、それを証明するためにこんなことを。そうだよ。わたしたち、同じ卓の下でこっそりと手を握り合っていた。だからあなたに九三を任せたんだから。そのおかげでわたしは、幸福な先達を二人も得ることができた。そして測さん、あなたも……往けるかもしれないよ、もしかしたら。
百済不二良。やっとわかった、なぜ私があなたと出くわすことになったのか。なぜ九三と同じ路を往くことになったのか……もう、御託は十分。教えなさい、私が何をすべきなのか。
テーブルの上で、蝋燭が燃え尽きる。自らを支えていた蝋の海が、燼に灯った最後の光を呑み込む。
夜が訪れる。
「天使に向かってこの世界を称讃しろ。」
往ってきたらいいよ、測さん。あなたがかつていたところへ、今いるところへ、そしていつかいるであろうところへ。そのみっつを同時に往く方法、あなたはもうわかってるね。
歌。
百万もの鳩らが
地球の軌道を廻る 血の涙を湛えて
砂浜の痕は消える しかし私たちはひとつ
整然たる立ち並び しかし私たちはひとつ
こよなき誕生を収める時が来た
dealofgod
へえ、そういう由来で測なんだ。と九三が言う、のを視ている。のは誰だ。いや誰もなにもない、今の私であるしかないはずだ。しかし今とはいつの。少なくとも今この眼に映っている九三と私は、一〇年前の高校生時の姿であるはず。ならば、そうだ、一学期の初日に親しげに話しかけてくれた唯一の同級生に対して、ええ。そう、こうして無愛想に応えたのだった。気に入ってる? 特には。でも親のネーミングセンスに不満なんか漏らしたところで不毛なだけ。しかし何だろう、この頃の私、こんなに髪が短かったか。たしか中学までは、女子少年院に入れられた余燼もあり、無闇に殺気立っていた気がする。掴み合いの喧嘩になったとき髪が長くては相手にとって有利、だからああして短く切っていたのだった、か。学校指定のシューズを履かず紐無しのものを選んでいたのも、殴り合いの最中に紐が解けては踏まれて足を停められてしまうかも、という慮りのゆえだったはず。まったく、なんと若々しい屈託だろう。実際のところ、私は殴られる側には一度も立たず、常に殴りつける側として思春期を終えたのだ。傷つけられるのが怖いから先に傷つけていた、そうすれば誰も近づこうとは思わないだろうから。そんな無闇な防壁で自分を護っていた、お望みどおり誰も近寄らなくなった。しかし彼女だけは、高校一年生時の龍九三だけは狎れてくれたのだ、こうして。けっこういいと思うけどなー、つかわたしの九三も相当だよ。おや、九三はこんなに髪が長かったか……今となっては93の姿と重ならない。そうだ校則は守る性質だったのだ、堂々と生徒手帳の規定に逆らう風態で通学していた私とは違って。それでも放課後には喫煙と飲酒を嗜んでいた。なんでも中学時代に校舎内でタバコを吸っていたのが見つかり内申書に書かれ両親と一悶着あった、と聞かされたのは、この日よりもっと後。であるからして、まだ打ち解けない二人の会話は、このように手探りで続くのだ。なんかうちのかーちゃんさ、思った以上にお産が延びたらしくて、取り上げられた時にはもう西暦一九九三年になってて、じゃあ名前は九三だあってそりゃないよ。もっと親らしい情緒とかねえのかよおって何度思ったか。そう、これに続く一言だ、私の胸の裡を開かせたのは。わたし那須与一の気持ちがわかるよ。今、この地上で那須与一の気持ちがわかる女なんて、そう多くないはずだよ。ぶふっ、と不意を衝かれて噴き出す。ああ、あんな顔で……よっぽど他人との対話で安らぐこと寡かったのだな、高校時代の私よ。え、何、そんな面白かった。だってねー、一一人目の子供だから与一だあってそりゃないよねえ製造番号じゃん。ふふっ、確かに。話が面白かったから。それだけで相手を特別に思ってしまう、迂闊で単純な子。あー笑うとかわいいねえ、そっちのがいいよ。と素朴に笑う九三よりも、私のほうがよっぽど単細胞だったのだろう。もう、好きになってしまっている。この子の前では無闇な警戒など要らないと、安んじきってしまっている。なんかクラスのやつらみんな一歩置いてるもん國分さんには。知ってる。少年院いたんでしょ、女子の少年院ってどんなとこだった? 女囚モノみたいな? その女囚モノを知らないからなんとも言えないけど、でも、馬鹿な人間はナメられる環境って意味では中学と同じ。どんな殺伐とした中学だったんだよ、もっとみんなゆるいっしょー。國分測、あなたはまだ知らないね。その同級生との出逢いが、あなたの人生ごと変えてしまうことを。じゃあわたしもナメられないようにしないとな國分さんに。する必要ない、あなたは馬鹿じゃないって既にわかるから。あと、測でいい。
ちょっとあの、國分さん、龍さん……と、いかにも学級委員然とした学級委員らしき子が小声で言う。これは、音楽室。床と椅子の上の二段に立たされて、聖歌隊めいた従順さでこちらを窺っている同級生たち、をよそに、私と九三は列を外れる。高校二年の二学期にもなって、合唱コンクールなどにかまけていられるでしょうか。ここは中学と違って義務教育ではないのですから、このような無駄な行事などに時間を費やさず、各々の進路のためだけに行動すべきです。と、入口から音楽室内の全員へ向かって呼ばわる私の姿。二年生、か。たしかに髪もだいぶ長くなっている。九三と過ごすうちに、あの屈託も幾分柔らいだのだろうか。それでは失礼します。と言いながら九三の手を取り、背を向けて歩き出す。
っはは、学年トップがあんなこと言ってもイヤミにしか聞こえないよー。と、マルボロの先に着火しながら九三が言う。事実を言っただけでしょう、高校生にもなってみんなでひとつのことをなしとげておもいでをつくりましょう、なんて冗談じゃない。言いながら私はWindowsXPを立ち上げる。あれはたしか、北九州の親戚にセルフメイドPCに詳しい人がいて、そのお下がりをもらったのだったか。卓上にはヤマハのシンセサイザーとタスカムのオーディオインターフェース、がMIDIとUSBのケーブルでラップトップに接続されている。さ、昨日はどこまでやったっけ。と言いながら和声学の教本と定番曲集を引っ張り出す。モーダルとコーダルはそれぞれ別の仕組みで動いている、ってとこまでですよ測先生。と九三はルーズリーフのバインダーを広げる。でもさー一応ノートはとったけど、「フリジアンドミナントとハーモニックマイナーは弾き始めの度数が違うだけで同じ音列です」とか言われてもさー。肝心のことだよ、それさえ理解できれば色んな転調も理解できる。ただ、ダイアトニックコードとドミナントモーションだけで楽曲を分析しようとすると、どうしても手に余る類の音楽もある。だからこそモードも語彙に入れておかなきゃいけないの。で、そのモードってのはダイアトニックとどう違うん。ドレミファをどの音から弾き始めたか、ってだけでしょ。音列的にはそう。でもモードはトニックに解決することを問題にしてないって言ったでしょう。ドミナントの不調和段階からトニックの制動状態に帰結する、ってエンジンがそもそも無いの。ずーっと不調和でいいってことか。精確には、調和・不調和という二分法自体を相手にしてない。だから同じ一つのモードでもいいってわけ。えー、でもそれつまんなくねえ? そんなこと無い……というか、あなたヒップホップ好きでしょう。うん。ヒップホップってモードだよ、と言うよりも、ヒップホップの骨子の一つであるファンクはまんまモードの音楽なの。JBみたいなやつ? そう。和声的解決を必要としない、永遠に踊り続けられる音楽。そのモード性をループミュージックの原理に則して発達させたのがヒップホップ……だとは言える。後付けだけどね。一発モノってそういうことか。でもさあ、『Sex Machine』ってあれ転調してない? 転調じゃなくてモードチェンジ。どう違うん。ええと、ファンクはメロが薄くてわかりづらいから……たとえば、この曲。
そうだ、こうして来る日も来る日も飽きもせずに、九三と一緒に音をいじくり回していたのだった。私はヤンキーのシュプレヒコールでしかないと見縊っていた音楽に思いのほか晦渋な非和声構造が潜んでいたことに眼を瞠ったし、彼女も実践的な学理によって音楽への興味をさらに深めたようだった。しかしこのときの私は気付いていない、自分が持っているものを九三に与えて軽い優越感に酔っていることを。この時点ではまだ無垢な生徒でしかなかった九三に、いつしか追い抜かれる日が来ることを。音楽家としても、詩人としても──
それさあ本当においしいの? と、卓上のグラスを指差しながら言う。ええ、少なくとも私は好き。ウィスキーの緑茶割りなんて、よっぽど緑色が好きな人じゃなきゃ飲まないんだろねー。と九三は揶揄うように言う。そんなことない……あなたは舌が子供なんだよ。えーなにそれー。そもそも一度飲ませたことあったでしょう、あの時点でうわーにがいーって言ってたじゃない。それは二年前の話じゃん、ね、ひとくちちょうだいよ。と強請る九三にグラスを傾ける。桃色が緑色に浸される。あ、うわー、んー、やっぱこれはわかんないね。と苦笑しながら唇がふれた部分を人差指で押す。ふふっ、無理して飲まなくていいのに……いや、でも、今のうちに済ませときたいじゃん? 何を? 今までやってこなかったことをさ。わたしは就職で、測は進学で、もうこうやって集まるのも難しくなるかもだし……ああ、そうか、これは高校三年次の冬。もう決めていたのだ、卒業したらこの土地からも離れると。まさか門司から東大受けるやつが出てくるなんてね、測ならぜったい受かるよ、受かったらうちの英雄だよー。と茶化すように笑う九三に、ああ、それね……やめることにしたの。と返す。えっ。東京じゃなくて大阪の大学にしようと思って。そうなん、どうして。あのなんか宗教? 史学? の研究室に入りたかったんじゃないの。そうだったけれど、私には荷が勝ちすぎると思ってね……だから、身の丈に合った大学でドイツ文学をやることにした。ドイツ。ええ。ふーん測がね、意外だね……ドイツ・コラールは中学の頃から好きだったから、それを専門にしてみようと思って。そっか、でもすごいよ。みんな就職までのてきとーな猶予期間として進学するじゃん、大学入る前から自分のやりたいこと決めてるってすごいことだよ。すごくもない……普通のこと。そっか。ええ。よっし、じゃ、わたしそろそろ帰るね。え、もう。うん、来月からクルマの教習所にも通わなきゃだし。ああ、そう……なにー寂しいんですか測先生? この一番弟子になんか教え損ねたことでもありますかー? ふふっ、生意気言うんじゃないの。あなたこそ気をつけなさい、教習中に飲酒運転やらかさないようにね。飲むわけないって、タバコは吸うかもしんないけど……そう、こうして暮れていったのだ。あの子と交わした三年間の思い出にもついに終止符が、といかにも思春期らしい想念を弄びもした。しかし、ここで本当に物別れになっていたら、私の人生はどれほど安穏であってくれたろう。
ただ黙々と読んで書くだけ。そのことをよしとしてくれる大学空間は、存外に居心地がよかった。もちろん、ぞろぞろと友人を連れ歩くようになったのではない。むしろ三年次になっても就職活動らしきことに全く手をつけず卒論の練り上げに明け暮れていた私の姿は、明らかに同期の連中から浮いていた。しかし自分の知性も所詮この程度でしかなかったかと、さしあさっての限界を露頭させるために四年間を費やす覚悟だった以上は、大学を出た後の生計などは思考の埒外にあった。指導教授もそのことを見抜いてか、好きなようにさせてくれた。
「リルケ晩年の詩と息の転回」。憶えている、ようやく表題がついたのは雪降る夜だった。卓上の紙束を前にしても達成感らしきものは無く、結局は精巧な名器に並ぶまでもなく砕けた土器の、鈍い破砕音にも似た苦渋だけがあった。論旨はたしか、リルケの詩に対するプロテスタンティズム然とした読解を退け、まず彼にとって「天使」と「息」とが意味するものを再検討した上で、敢えて一六〜一七世紀神秘家、つまり十字架のヨハネとジャン=ジョゼフ・スュランを導きとして結論に到る、ような内容だったはずだ。いま思い出しても、ラテン語やフランス語すらおぼつかない身で神秘家の深淵に踏み込むこと自体が無謀、身の程を知らぬ素振りだったろう。それは同時に、東大の宗教史学研究室への進路を諦めた代償行為として駆り立てられた論旨でもあったろう。いずれにせよ、論文を提出した直後に今更のようにリルケの書簡集を手に取って眺め、その中に『ドゥイノ・エレギー』における「天使」の存在はイスラームのそれに近い、とする明言を見つけるに及び、なぜキリスト教とユダヤ教のふたつを視野に入れておきながらイスラームは無視していたのか、と自らの浅慮を挫かれ、まあ二〇歳代前半で書ける内容なんてこの程度だ、私はあの偉大な詩人に対してこのような覚束ない足取りでしか近付けなかったのだ、と敗け戦を退く分別がついた。そして、まさにその苦渋を忘れつつあったころ、不二良がやってきた。
アラームが鳴る。枕元のすこし上、ベッドの壁際に誂えられた、拳骨ひとつぶんくらいの幅がある棚に、スマートフォンの振動が漫ろく。瞼を押し上げ、伏したまま右腕を差し伸べて音源のものをとらえようとする、と、寝入る前に棚に置いたままにしたらしい飲みさしの500ml缶が、蹌踉う指先に突かれて落ちる。カラン、と間抜けな音を立てて缶底は頬骨を打ち、ぬるくなった内容物が真白な枕のカバーを濡らす、その粗相めいた沁みの広がりを視ている。と、目と鼻の先の九三も眠たげに瞼を開く。ぶふっ。横っ面にビールを浴びて憮然としている私の面がよっぽど滑稽だったのか、あはっ、あっはははは、なにそれ。と目尻を拭いながら笑っている。仕方ないでしょう……何が仕方ないのかも定かでない糊塗にまかせ、ようやく捕まえたスマートフォンの画面をタップする。せっかく月曜の休みなんだからさーめざましなくてよかったじゃん。とあくび混じりに言う九三に、チェックアウトの時刻を超過したら困るから……と返しつつ身を起こす。しかし、手のすぐふれる位置に寝そべっているこの身体、高校からの親友ではあるがそれ以上ではないはずだった人の身体を、私は、本当に、昨晩……と無体に辷る想念を押しとどめ、シーツを除けて立ち上がる。どこいくの。どこも行かない、シャワー浴びるだけ。ははっ、さすがにビールまみれじゃね。ちょっと待って測、わたしも行くよ。と言いながら片腕を差し出す。いや、あなたはまだ寝てていいよ。さっぱりしたいじゃん、それになんか枕もビールくさいし。と醒めきらない眠気を纏った上体を、苦笑しながら助け起こす。
しかし、深夜と午前とでは、同じ寝室の中でもこれほどに見栄えが違うものか。バスルーム前の鏡に映えている、私と九三の裸形を茫と眺める。紗のカーテンから差し込む光源が明かにする二つ身……が、本当に数時間前、睦みあうことができたなんて。なぜこんな次第になったのか今更のように訝る私を置き、九三はバスルームに歩み入り蛇口から豪快な音を立てる。さすがにふたりで入るんだからお湯張るっしょ、この寒さだし。と二つのバルブを微調整しながら温度を加減する九三の横顔を見ながら、そうだこの子は、一ヶ月前には幻聴と性的な失調に苛まれていたのだった、不二良との野放図な旅路の代償として……苦味が肚に蟠る、が、実際のところ私は何も知らないのだ、不二良と九三との間に何があったのかすら。ただひとつ意味を成したのは、この子をもう一度ふつうの人間として立ち直らせること。そのためには必要だったのだ、あの夜の拙い戯れあいも……しかし、今あらためて思い返すと、なんと無残で滑稽な蹉跌。しかしその躓きによる傷を嘲ることも侮ることもなく付き添うことができたのは物怪の幸いだった、のだろうか。蛇口からの噴き出しとともに湯気が立ち昇る浴槽に、九三がそそくさと腰を屈める。のを見て私も続く、が、本当は必死だったのだ、寝醒めの気色に頬を染めた九三を前にして、ともすれば浴槽の中で、また事に及んでしまいはしないかと。その動揺を察してか、測、出る前に、もう一度くらい……と小声で差し向ける九三、の面相に、ばしゃりと湯をかける。っぶぁ、なにすんの。あなたこそ何を言ってるの、あの恋人ごっこは昨晩限り。今日からいつも通りの私たちに戻るんだよ。わかってるよお……でも、この部屋出るまではいいでしょ。と強請りとごねりが一緒になったような顔、の顎から滴が垂れる。はあっ、とため息ひとつ置き、目の前の左肩を抱き寄せ、後頭部に手を添え、くちづける。たった数秒の接吻で募る息苦しさを、湯気の熱のせいにする。唇を離し、欲しがっていたものをいきなり口移されて揺らいでいる双眸を見つめる。最後まではやらないよ。これだけ、だからね。
っふぁー、よし、大名のレコード屋開くまでぶらぶらしようよ。チェックアウトを済ませてエントランスを出るとともに背伸びしながら言う。おなか減ってる? とくには。なんか軽いの食べたいな、ミスドとかでいいよね。リュックサックひとつの荷物を大儀げに背負いながら歩き出す。上川端へと続く道を歩きながら、九三は「ひがしなかしまばし」とひらがなで表記された脇の階段を降りていく。なんでそっち行くの、遠回りだよ。と諫めると、なんだよ測知らないの、この橋の下って福岡市屈指の喫煙スポットなんだよ。と気色満面でポケットからラッキーストライクを取り出す。呆れながら私も階段を降り、人影ひとつない月曜午前の博多川沿いを歩く。九三は煙をふかしながら、ちょうど橋梁下の暗渠で立ち止まる。私が追いつくと同時にこちらを見つめ、へへ、いい女っぽい? と口端を歪めながら囁く。全然。と返しても素知らぬ顔で、もう一度キスしてもいいんだよ、誰もいないし。と妖しげな面相を作って言うのだが、その精一杯な役作りも滑稽にしか映らず、タバコ臭い人とはしたくありません。と撥ねつける。えー、測だって昔は吸ってたくせにー。といつも通りの声音を放りながら歩き出す、その背中を見つめる。この益体もない会話も、彼女の医しには欠くべからざるものなのだろう、と弁えはついていた。階段を上がり、歩道の向かい側に連なっているTSUTAYAとドン・キホーテの構えをどこか懐かしく眺めていると、せっかくだから乗っていこうよ、と九三は中洲川端駅の地下構内への階段を降り始める。ちょっと、ここから天神まで一駅でしょう、歩きで十分。と諌めても、せっかくだからいーじゃん、福岡市の地下鉄なんて滅多に乗る機会ないし。と笑う顔、が地下へと沈んでゆく。もう……呆れたふうを装いながらも気付いていた、こうした何てことない思い出でしか、彼女の傷は埋められないと。
日曜翌日の中洲川端駅なのだから、きっと歓楽街での勤めを終えて帰宅する男女の姿で犇いているのだろうと思ったが、構内の人々は揃いも揃って通勤通学の装いで、思いの外のっぺりとした月曜の眺めが誂われていた。せっかくだから買っとこうよ、帰りは博多駅でしょ。と言いながら五〇〇円ちょっとの一日乗車券を二枚買い、改札を抜けて電車を待つ。正確な時刻で到着する車両に歩み入ると、月曜の朝なりの混み入りに身を投じることになった。一駅分の移動で席に腰を下ろす気にもなれず、連結部付近に二人並び立つ。わたしも就職したらこうして毎朝乗ることになるのかなー。あなたの希望する職種なら車移動でしょう。あそっか、買えるかなー車、今まで親の持ってるやつ使わせてもらってたから……車ね、さすがにそこまでは出せないからね。わかってるよお。でもいいよねー測は、仕事の打ち合わせとかでも交通費出してもらえるもんね。出ないよ、会社に所属してるわけでもないんだし。えっそうなの、フリーランスでもクライアントの経費で落としてもらえるんじゃないの。めったにないよ、どこも不景気なんだから。出してもらえても打ち合わせのコーヒー代くらい。そうなのか……などと話しながらも、知り合いのツテで音楽制作会社に入るかもしれない展望については隠しておいた。私のこれからの身上よりも、いま共にいる九三の様体だけを気遣うべきだった。
おっ、もう着くよ。ええ。車両の窓ガラスから、大勢の人々が列を成しているホームが覗く。やはり天神駅は平日でも混み方が違う、と考えているうちに扉が開き、車両内の客が出るより先に構内の客が続々と歩み行ってくる。のを見て、なにか戯けた想念が脳裡で瞬く。え、測、どうしたの。構内へ出ようとする九三の袖口を掴み、引き寄せる。九三、もうひとつ行こう。もうひとつって、赤坂? なんか用あんの? いや、ないけど……袖口にあてた指をそのままに、ほぼ八割は埋まったような車両内を眺め回す。いいじゃない、人がいっぱいの電車に乗ってみるのも。えー? 九三は苦笑も浮かべずに左右を見回し、私の側らに侍る。測、たまによくわかんないこと言い出すなあ……と不平を漏らす頃にはドアが閉まり、ふたたび電車が動き始める。とともに九三が上体のバランスを崩した、ところを、抱きとめる。ぐっ、と両腕で引き寄せると同時に、ちょっ、と口走る九三の声。を耳元に聞きながら、込み入った車両内の学生やサラリーマンの数人が、抱き合う二人の女性の姿を見て呆気にとられる、その視線の一つ一つを確かめながら、私は背を扉にあずけて満悦に微笑み返すのだった。すると視線を送っていた数人は、何かまずいものを見てしまったとでも言いたげな風情で、そそくさと手元の手帳やスマートフォンに目を戻した。ちょっと測……これがやりたかっただけなんじゃないの。ふふっ、どうだかね。でもこういうものでしょう、恋人ごっこって。ええ……ホテル出たらもうやらないって言ったの測じゃん……
そんな戯れあいにも、いつか終わりがくる。年度末、九三はイベント設営会社に就職が決まり、私は東京の音楽制作会社への所属が内定した。北九州市門司区、私が母とともに移り住み、大学を出てからふたたび戻り、九三が散々な旅路の果てに匿われることになった、この土地。偶さかに越冬の暮らしを伴にした1LDKの部屋を、二人で後にする。
音楽とさほど関係のない、大学時代に買い揃えた事典類は古書店に売り、かさばるだけのノートや文献コピー類は思い切って処分した。これからは身軽でありたかった。私の荷物はすでに搬送が済み、あとは段ボールに詰め込まれた九三の私物を運び出すだけ。引越業者の到着を待ちながら、管理会社との立合も終わりブレーカーも落ちた室内に、二人で腰を下ろして脚を伸ばす。
最後だし、いいでしょ。言いながら九三はラッキーストライクの箱を取り出す。ええ。と返すと九三は箱を振って器用に一本取り出し、測も吸う? とこちらへ向ける。いいよ、あなたのでしょう。と返しながら、九三が握っている箱のパッケージを眺める。白と赤と黒、三色か。そうだ、不二良と出逢って以降だ、この銘柄を吸うようになったのは。私と出会った頃はマルボロ、あの白と赤のパッケージしか吸わなかった。それでも銘柄を変える気がないのは、つまりまだ、忘れられないってこと。不二良のことを、忘れるつもりもない……突如として流れ込む厭悪のようなものを呑み下し、頑張ってね、一人暮らし。あなたならきっと大丈夫。と親身を装ってみても、あべこべに他人行儀にしか響かない。うん、測もね。これからいろいろ大変じゃん。そんなことない、一人暮らしは慣れてるし……そうじゃなくて、いよいよプロになるってことでしょ、作詞の。まあ、ね……カーテンすら無い窓ガラス越しの春立ちに、九三の吐き出す煙が散ける。測。なに……と言った瞬間に、掌中に撓んだシュリンクフィルムと紙箱の質感が押し当てられる。あげるよ。なに、もう吸わないって。そうじゃなくて……これからさ、測が独りで、さびしくなっちゃったら、それに火をつけて。その煙の匂いを、わたしだと思って。と、目も合わせずに言う九三の側頭を眺める。ぷふっ。え、なに。笑いで返されるのが意外だったのか、九三は狼狽えたようにこちらを見据える。さびしくなっちゃったらって、それはあなたでしょう。独りで眠れなくなっても知らないよ。と続けながら掌中の箱を返す。え、いいって、ほんと持って行って……よくない。大体、誰かの不在を煙の香りで慰めるなんて、線香じゃあるまいし。あなたは生き続けるんでしょう、ならあなたが吸うべき。と意を含めると、九三は遅れて分別がついたように、そう……だね。と言いながら箱を受け取った。
測。なに。わたしたち、必ず、もう一度会おうね。絶対に、これっきりじゃない。わたし、次に会うときには、測にちょっと近づけるくらいには、立派になってるはずだから……ええ、もちろん。測に助けてもらった恩、少しずつでも、返していくから、絶対にそうするから。わかってる。また会いましょう。うん、必ず。
少しずつ、どころではなかった。東京で起居し、「プロ」と呼ばれるためだけの仕事に齷齪していた私に、突然「ラップ始めたんだ」とメールを寄越してきたときは、なるほど新しい趣味を見つけたのか程度にしか思っていなかったけれど。彼女のSoundCloudにアップロードされ続ける楽曲たちは、ラップのスキルにおいてもトラックの完成度においても、次第に見違えるほどの変貌を遂げていった。私は、いつの間にか私は、あの子に追い越されていた。音楽理論も生活の手立ても、私の助けなしには立身できなかったはずの彼女が、いつの間にか、私が持ちたくても持てなかったものを孕んでいった。二年と半年の別離ののち、今すぐ会いたいと請うた、のは私だ。強請ってごねたのは私だ。喚ばれた人は、往かなきゃいけない。そんな強ちな言い方で、私は喚ばれた側の一人である彼女にすがりついた。その結果としてどのような回り路を経ることになるかさえ覚束ないままで。
思った通り、九三は強くなっていた。自分の作ったものに価値があったら、なかったら、とかさ。わたしは、そういうのはもう、いい。その言は、「プロ」の作詞家でしかない私への死刑宣告でもあった。そうだ、書けるものしか書かないのなら、それは何も書いていないのと同じ。私は自身を生まれ変わらせるために九三を求めた。彼女を必要としていたのは、私だ。
未だに憶えている、あの初秋、中洲ジャズの百道浜会場に彼女の姿を認めた日。あのー、誰すか? そうだ、イリチにもはじめて出逢ったのだった。「何とでも呼びやがれ」、その名の通り何者でもなかった私たちが、何物でもない歌を糾った。私ひとりでは起こせなかった、しかし九三ひとりでも果たせなかった、何かを確かに掴んだんだ。
今の段階ではこの曲、この部屋の四人しか聴いてないんだな、って。まだ誰にも知られてないんだよな、って思うと……へんな感じだ。と、フローリングに腰を下ろした母里久蔵が呟く、のを視ている。そうか、東京での喰い扶持も断ち切って、93での活動に賭けることにした日。へんな感じ、わかる。わかるすー。そうかな、発表しなきゃいけないから創ってるわけでしょう。いやに不機嫌な私の顔を視ながら、まるで別人のようだと思う。そうだ、この日は久蔵を殴ったのだ。彼はそれを咎めるどころか、翌日私のメールアドレス宛に忠実忠実しい謝罪文まで寄越したのだった。いくら過去の遺恨があったとはいえ、あそこまでされる謂れもなかったろうに、と私がしたはずのことを他人事のように回想するのもおかしな話。しかし、この頃の私にあった剣呑さは、一体どこへ行ってしまったのだろう。この殺伐とした意気を捨て去るきっかけが、今までのどこかにあったのだろうか。そうだ、この時点での私はまだ、姫に、シーラに出逢っていない……
だからねえ、ブラザー・トムが果たしてブラザーであるかどうかはフッドの側が決めるべき事柄であってね、自称でどうこうなる問題じゃないんだよ!! それはおかしいだろ、だってMASTA SIMONだって最初からマスターだったわけじゃねえだろ。えっと、これは、なんの議論だ。たぶん、ANDYOURSONGと当たった予選の打ち上げ。ウエストで焼肉の席を囲んだのだったか。あっすんませ生もうひとつ。安影さんちの櫟くんが空のグラスをテーブル端に置き、手を挙げて店員を呼び止めている。えー櫟くんそれおかしいじゃん、だってクラプトンがギターゴッドとかスローハンドとか呼ばれたのだって他称でしょ、自分で名乗ったわけじゃないでしょ。あんなザコ引き合いに出すなよ、ダサすぎだろあいつの『I Shot The Sheriff』。ボブ・マーリーが天国で泣いてるわ。なんでゲイなのにレゲエ好きなんだよ。いいだろ別に、聴いたら好かったんだから。そうだ二人はこの夜、ひっきりなしに口角泡を飛ばして激論していたのだ。実際、九三と櫟くんは色々な意味で似たところがある……あのねえわたしらはねえ、ヒップホップやレゲエにいゃぃなく、いまゃ、いなみなく、否みなく存在しているホモフォビアともたたかっていかなきゃならんのですよ。んー、じゃ測ここらで、マチズモまみれのレゲエでラヴァーズロックという特異にフェミニンなジャンルが生まれた経緯について、一席どうぞ。いや、別にないけれど……なんだよーうちの参謀なのに。とにかくな、呼び名なんてのは後からついてくんだ、最初からフカしとくのがちょうどいいんだよ。フカした結果がBargainshadeかよ。なんだテメー俺のネーミングセンスに文句あんのか? ちょっと漁火ちゃんもなんか言ってやってよ。えー? っと、「楸」ってめっちゃかっこいい名前すよねー。っふ、お前の「イリチ」もな。あーほら見なよ櫟くん、このピースフルなグルーヴですよ、レゲエ好きならこういうの見習わないとー。お前がさっきから議論ふっかけてきてんだろうが! おおおこっちもなんか言ってやれ伯。あーダメだ死んでる。死んでるって、さっきからその調子だけど大丈夫……? こいつ酒飲むとすぐこうなんだよ。おーし今日はせっかくわたしのおごりなんだから終電ギリまでやるぞ。望むところだこの野郎。あっそういえばアルコール類の代金は自分で持ってね、食べ放題のプランには入ってないから。はあ!? 全部お前のおごりだっていうから付き合ってんだぞ!? そうだ、こうして刺々しく振る舞っても、結局は嬉しかったのだ、初めて同志と呼べそうな人たちに出会えたことが。
おい!! 走ってんだ!! 走ってんだぞ!! 運転席の窓ガラスを全開にし、身を乗り出して右腕を鋼板に叩きつけながら久蔵が言う。内輪差で巻き込まれかけた自転車少年は面食らったまま動かず、すぐに久蔵はアクセルを踏んで交差点を右折する。ったく、危ないったらありゃしない……自転車も免許制にしたほうがいいんですよ! と憤ろしくハンドルを捌くのだが、明らかに福岡の滅茶苦茶な道路造成と彼自身の荒い運転テクニックにも問題があるように思えた、が言わない。代わりに、次の右折路を過ぎたら、薬局の駐車場があるから。とスマートフォン画面上の表示に目をやりながら事務的な指示を投げる。はい。信号が赤に変わるとともに久蔵はコツコツコツと人差指でハンドルを三回叩き、すみませんね。と一言漏らした。いえ、九三が倒れたのは誰の責任でもないから……と返すと、いや、そういう意味じゃなくて……と今度は人差指で左頬を掻く。俺、こうして車出して入用のもの買ってくるくらいはできますけど、音楽に関することは全然わからないんで……と、何か今更のようにも聞こえることを申し訳なさそうに言う。測さんとかじゃないと、あいつには付き添えないんで……こんなことしかできなくてすんません。なに、あなたが負い目に思うようなこと。いや、でも……逆に、そこまで九三に保護者めいた感情を抱いてるってことは、未練がましくも思えるのだけど……と、要りもしない棘を刺してしまったことに気づき、反射的に右隣の男性の貌を眺める。あ、いや……はい……そうかもしんないすね……と沈痛に言うので、青信号。と前方を指差すだけにする。はい……
いや、でもね、ほんとに役立つんだと思うの。あなたが買ってきた生姜湯を飲むってだけで、家にいるような安堵があるんじゃないかって。家、ねえ……俺、そんな居場所与えられてましたかねえ……きっと九三には必要なんだよ、私以外にも昔のことを知る人が。その人が傍にいてくれるだけで違うんじゃないかな。そう、ですか……まあ、プラシーボ効果くらいの助けにもなれば、上等ですかね……と言いながら、窓ガラスを開けて駐車券を取る。
測さん。薬局の入口正面に空きを見つけると同時に久蔵が言う。なに。ほんと、よろしくお願いします、九三のこと……と、またしても保護者めいたことを言う。前にもメールで書きましたけど、今あいつが生きてくれてて本当に良かったって、俺も思ってるんで……助けなかったやつがこんなこと言うのは矛盾してると思いますけど、でもあいつが今やりたいこと、全部させてやりたいって思うんで……だから、よろしくお願いします、あいつのこと。言い終わるとともにサイドブレーキを引かれ、その音に急かされたかのように、ええ、わかってる。と私の口から漏れる。じゃ、すぐ買ってくるんで。ええ、急いで。
付き添えない、か。でも、私だけが特別だったわけじゃない。イリチも、ANDYOURSONGも、あのとき出会った知念さんも、それぞれ別の形で九三と関わっていった。つか櫟くんスーツ似合わねー、成人式以来でしょそんなん着るの。行ってねえし持ってねえよ。あー知念さん! うわーそれ超いい、漁火ちゃんとおそろいだ! そうすよー、楽器が目立つようにシャープにしてもらったやつー。お久しぶりです、あの、大丈夫でしたか? いや大丈夫ではなかったけど、まあ、大丈夫じゃないのは慣れてるよ。ふふっ、笑っちゃいけないんでしょうけど、わかる気がします。おう、あしにはなんか言うことないんか。あー楸? なんかバーカンぽいね、『シャイニング』の幽霊バーのひとがそんなの着てたよね。喰らすぞ貴様。なんだよ褒めてんじゃん。まーお前らの測が買うてくれたんやけ、大事に着たるけどな。そうだ、メイクが終わって通路に出たとき、いつも通りのあの声が聞こえて、ドアの付近に佇んでスタジオ入口付近の賑わいを窺ったのだった。私が用意した衣装で、初めてフィーチャリング楽曲のビデオを撮影する。ひとりじゃないという感覚が、病み上がりの九三の助けになればと思った、が、今思えば逆だったのでは。九三のおかげで私もこれだけの仲間と……おーもう一五分前、だいじょうぶ撮り忘れとかない? とフッテージにかじりつく九三、を見つめる私。え、うわ、こんな顔してたのか。ちょっと、ええ、他にも人がいるってのに、こんな蕩けた……う、イリチ、こんな目で見てたの。こんな私の顔をこんな目で。でも気付けるわけがない。眼は自分の外側についてない……
そう、私の存在を証し立ててくれるのはいつも他人。しかしこの日、Shamerockとの共演を経てχορός本戦へと到る猶予期間。私はずっと先延ばしにしていた墓参りに赴く覚悟を決めたのだった。この私を視るのは誰だ。もちろん私。私以外には誰も知られていないはずの道行を、こうしていま私が視ている。人影ひとつない霊園、そこに佇立する國分家の墓石。母と父がああなってしまった以上、私もこの下に埋まってしまえば、この血筋を繋ぐ者はいない。そもそも、母の葬式に参列さえしなかった娘の遺骨など、親戚一同が受け容れるだろうか。せめて私が何者かを出産したなら……などと思いもしたろうか。わからない、こうして冷たい墓跡に猪口を捧げて手を合わせるだけの女性に、その胸の裡に、如何なる情動が渦巻いていたか、もう思い出せない。まだ一年も経っていないはずなのに……しかしおそらく、私は予感に胸を躍らせてもいたのでは。そう、姫のような、シーラ・オサリヴァンのような血の繋がらない朋輩との出会いが待ち受けているかもしれない、と。
九三っ、姫ぇ、私たち、これからも友達でいましょう。このツアーが終わっても、私たちかわらず友達でいましょうっ。え……? なんだこれは。こんなの知らない。私、こんな酔態で泣き出したことなんてあったか。まさかこれ、例のダブリンの夜。イリチとゾフィアからなんとなく聞かされていたけど……わーってる、わかってるよ測、終わったらお別れってわけじゃないよ、これから先もずーっとあるって、ねえ姫。と私の右腕を首元から引き剥がしながら九三は言い、ああ。と姫は私の左腕を撫でながら苦笑するのみ。Yonah甲板でいきなり九三と姫の首を抱きながら泣き出しはじめた國分測の姿を前にして、イネスと한나は腹を抱えて笑い、ヤスミンは口をぽっかり開けて佇み、エリザベスは黙してグラスを唇に当てている。はい姫、九三も起こしてあげてー。と微笑する教授に促されるままに、べろんべろんになった私の上体が二人の手で助け起こされ、なんか、ほんとすんませんっす……とイリチがいつになく粛然とした面持ちで肩を貸す。うう、まさかこの子に面倒をかけるなんて……正体をなくした私の身体がキャビンの通路へ運び込まれ、あーじゃあ私も行くよ、酔っ払いの介抱は慣れてるし。と笑いながらゾフィアも纏わる。そうか、こんな夜もあったのか……でも、これは、ちょっとさすがに許してもらいたい。それほど多くのことがあったのだ、ダブリン公演の開催が危ぶまれて、さらに九三が船を沈めると言い出して、私たち皆で賭けに出て……結果として、あくまで結果としてだが、幸いな収穫を得ることができた。その事実が、なんだか勝利のように思われたのだ、血の繋がりがなくてもファミリーとして団結できる、長らく夢見ていた私の理想の、ひとつの成就のように……
わたしらの名は『93』。愛と音楽で殺りにきた。そう、ツアー最後のロンドン公演。ウェンブリーのような途方もない巨きさの会場でも、私がするべきことはひとつだった。ステージの真ん前に出張ってマイクを握る九三の後方、キーボードブースで、彼女の言葉を乗せるためのトラックに綾を添える。思えば、私はずっとこの位置にいたのだった。百道浜でステージを共にしたときも、χορόςの九州大会でも、ラテンアメリカツアーでも。私はいつもここから、九三の背中を見つめていた。韻律と演説における無比の才能、いや才能ではない、寡黙な鍛錬の果てに備わった技術とともに、身体ひとつで観衆に対峙する姿を、いつも私は後ろから見ていたのだった。この夏においてもそうだった。あのオリンピック開会式、を経ての三公演。そこに在ったのが歓喜であれ悲哀であれ、獲得であれ喪失であれ、私はいつも九三の背中を見ていた。すくなくとも今は、こうして見つめていられる今は、この子はどこにも行きはしないだろう、と。この子が声を嗄らす自由だけは、少なくとも守られているだろう、その限りにおいて私は同行できるだろう、と、そう思っていた。
そして今、九三はもう、どこにもいない。この世界のどこにも。
音になってしまった、と不二良は言っていた。何ものでもないものをめぐる息吹、神の中の飛翔、風……九三は、ついにそこまで往ってしまったのか。わかっていた、あの子が喚ばれた側だということは……でも、なぜだろう。なぜ今更になって、こんなに多くのことを思い出すのだろう。もう、いなくなってしまったのに。真に唄うこと、誰のものでもない歌になること、それは九三にとって何よりの望みだったのに。そして今、その望みは叶えられた。のに、なぜ私は、今更、彼女のことを懐かしく思うのだろう。
そうか。愛してたんだ。私は、あの子を。
どうしてだろう。どうしていま気付くんだろう。どうして、全て終わってしまったあとで気付くんだろう。この気持ちは、あの子と初めて出逢った日から、かわらずに在ったはずなのに。詩において、歌において、私など及びもつかないほど卓越していたあの子は、今となっては名も無い音として消えてしまって、もう戻らない。 When you hear music, after it's over, it's gone in the air. You can never capture it again.
でも。
それでも。
それでも、あなたの声じゃなきゃだめなんだ。九三。私はあなたの名を喚ぶ。何者でもない者として唄い、誰のものでもない歌になってしまったあなたへ喚びかける。九三、あなたは私に多くのことを教えてくれた。詩を書くことは、自分の名において行うことじゃないと。文体は、個人で担えるものじゃないと。唄うことは、もはや名前を失った数知れぬ人生のうちに自らを投げ入れることだと。今になってわかる、あなたは正しかった。あなたこそ正真の詩人であり唄い手だった。でも、それでも、あなたの声じゃなきゃだめなんだ。九三、あなたがいる場所は知っている。もう誰でもなくなってしまった、誰であってもいい人たちの巷だ。その中から、私は、必ずあなたを見つけ出す。これはきっと、あなたがずっと続けてきた仕事に対する裏切り。でも、それでも。そのために喚んだんでしょう、不二良。往ってしまった九三を、神域から引き戻して、また唄わせるため。あの子の声を、再びもう一度、あの子の名において響かせるため。それをさせるために私は喚ばれた。ならば、よかろう。引き受けよう。私は最初から、ここに到る定めだったのだ。かつていたところ、今いるところ、そしていつかいるであろうところ、その三つの時制が交わる三叉路、いや十字路へ。
九三、大丈夫です……ワタシが動きますから。呆けたような顔を見上げながら、自重で沈む先端を受け入れる。ここに到ってはもう、ワタシの股座に余計なものはついていない。丘の割れ目に脈打つものを咥え込み、蕩けの歔欷が漏れる。九三はまだ先端の扱いに慣れていないのか、漫ろに腰部を揺らしながら悶えている。そんな当惑の挙措すらも愛おしくなり、九三の背に両腕を這わせ、ベルトを締めるようにして抱きしめる。ワタシの胸に顔を埋めながら、九三は依然として腰を波打たせながら言う。四七……これ、どういうことなの。どうって……見ての通りですよ。言いながら、ワタシはかつて備わっていた竿からの排尿を堪えるような塩梅で力を入れてみる。と、腔内の肉襞が微細に蠕動し、九三の先端に舐りのような刺激が加えられた、のが面から察せられる。こんなん……なかったよ、わたし。四七も、そんな身体じゃなかったじゃん……掠れた声を耳元に聞き、ワタシ自身のどこかにも火が着く。いいえ、これが本当の身体ですよ……ワタシにとっても、アナタにとっても。九三、ワタシはずっとこうしたかった。ずっと、アナタの子を孕みたかった……抜き挿しされるたびに陰囊が菊座の上あたりを叩く、その野暮ったい感覚さえもたまらなくなり、ワタシは目の前の唇に吸い付き、さらに呼吸を荒らげる。四七……九三、もう言わないで。大丈夫です、ここまで来られたのはワタシとアナタ、ふたりしかいません……誰も、見てませんから……このひとときは、ワタシたちだけのものですから……九三は相も変わらず戸惑を隠さず、ワタシの締め上げに下腹部を委ねている。そろそろ、そろそろです。や、だよ四七。いいんです、抗わないで。あ、びくって……これですよ九三、遠慮しないで。アナタは昂りにまかせて吐き出すんです……ワタシはもう何千本も迎え入れてきましたから、感覚だけでわかります……言いながら耳朶を噛むと、九三は猛犬のように叫喚しながら、先端を腔の奥深くに押し当てたまま絶頂を迎えた。あ……これです、九三……わかりますか……アナタがワタシにくれたもの……言いながら後頭部を撫でてみても、おそらく初めての感覚に慣れていないのだろう、九三は喘息のように痙攣しながら歓悦の引き潮に身を委ねている。さあ、九三……言いながら目の前の身体を横倒し、今度はワタシが九三の下腹に馬乗る。あと四七手、ぜんぶ試しましょうね……
そうだ、こうしてワタシは世界と繋がったのだった。初めて身を挿し貫かれた日のことを、今なら思い出せる気がする。そこに歓びは無かったが、かといって悲嘆も無かった。ただワタシは、自分を無理強いにする相手が浮かべる表情や仕草、そして何より動作とともに漏れる声音を総身に吸い上げていたのだった。インド語、コンカニ語、シンハラ語などの区別を知るよりも前から、ワタシは厳密な言語レッスンを受けていたのだ。ひとえに、一方的な交接を強いてくる肉体たちから。挿入を控えての前戯にて狡猾そうな顔を精一杯につくりながら漏らす声、腰を叩きつけながら威しのように何度も繰り返す声、果てるまでの数秒間で急激に調子を変えて小規模に絶命するような声、それらは同じ声でもすべて違っていた、しかしどんな肌の色をした男たちも、一言も漏らさずに行為を終えられない点においては同じだった。そしてワタシは学んだのだ。嬲りの肉が立てる音声から、どの言語にも共通する要素を感得した。性的絶頂を迎える声を聴くだけで、ワタシは目の前の身体が話す言語の文法から発話までをすべて理解できるようになっていた。あらゆる命の価値が廉いあの状況で、ワタシだけが使い棄てにされず二度三度と繰り返し用命されたのは、ひとえにこの能力に依っていたろう。淫欲をなすりつけるために足を運んだ者たちは、まさか床を伴にしている少年娼婦が自らの音声から莫大な知恵を学習しているなど、思いもしなかったろう。それを嗅ぎつけてか、母が、不二良がやってきたのだ。GILAffe、あれは副産物でしかないと言っていた。事実そうなのだろう、あらゆる言語が刻み込まれた、お誂え向きの素材を無料同然で手に入れた母は、あとは他の肉々もワタシと等しくする工夫さえ拵えればよかったのだ。しかし究極の目的は別にある、人間の肉体をして喘がせしめているあの「音」、言語や文字よりも先行する劫初の「音」に接近する試み。それが成ったからこそ今、ワタシと九三はここにいる。
もっと早く出逢っていたら、なんて……言わないでください、九三……そんな優しさ、欲しくはない……言いながら、九三の固みを再び迎え入れる。ワタシがアナタから望むもの、は、これだけです……腿を左右に振りながら、腔内の脈打ちを掻き立てる。四七、いつの間に、こんな……になっちゃったの……あは、なんていじらしいことを……ずっと前からですよ九三、明瞭りと憶えているのは、あのダブリンのときですか……アナタの狂いかたが、ワタシも狂わせたんだ……人は音楽のために、こんなことさえしてしまえる、ってね……すべては九三がしたことです、アナタがワタシをこんなにしたんだ……と、何度も臀を持ち上げて打ち下ろしてを繰り返すうちに、九三は既に達していた。見てきました、いろんなものを見てきました、この世界のことも、自分自身のことも、何も感じられなくなって、もう全部どうでもよくなってしまった、と思ってたんです、アナタと出逢うまでは……背に九三の胸板を感じながら、寝かされたまま一方的に衝かれる。アナタが狂い立てる音楽は、ワタシが受け入れてきたどの肉体の喘ぎよりも、妙なる響きだった……勇敢で、流麗で、かつ滑稽で、いまだかつてない歓びとともにワタシを慰めてくれた……面を突き合わせながら、先端を下腹に受けたまま噛む。今、ワタシはアナタの音に包まれて……こんなことまで出来るようになったんです。ずっとほしかったもの、アナタの児を孕むための身体……を得て、やっと、こうして……左脇腹を床につけ、昆虫めいて開かれた両脚の間に、九三の固みが背後から衝き挿れられる。ねえ九三、アナタはワタシのために曲を選んでくれましたね、 When you wish upon a star, makes no difference who you are. ほんとうに、ほんとうにその通りのことが起こったんです。願いは叶った、ワタシも音楽を使って、アナタと同じくらいのことができたんだ……
もう何度目か、数えることすらやめてしまった。九三の生命の流動がワタシの深奥を満たす。あ、ああ、九三……愛の肢体を撫でながら、ワタシは最後の一滴まで歓待する。その中から、無数の九三たちの中から、ひとつの悪戯なものが一線を越えてくる、のを感じる。
ああ、九三……これは……当たったかもしれません……
子ども、はずっと欲しかったんだ。なぜだろう、今ではよく思い出せない。産めて当然だと思ってたんだ、久蔵となら女の子でも男の子でも、って。でもあいつとはできないって医師に知らされてから、どうしようもなくなった。無精子症とか二〇歳代の前半に三九度超の熱が何日も続いてとか、そんな説明は何の慰めにもならなかった。
だから、出歩くようになったんだ。あの早良区の物件を数日空けるのもザラだった。わたしたち二人とも、もう顔を合わせないのがお互いのためだとさえ思っていた。そして四年前の秋、わたしは不二良と出逢った……
Kieth Flackにて、映画製作チーム空族の上映会とアフターパーティーが催されるとの報せ、がフライヤーに記されている。のを見て、これ行くね久蔵、夜は帰らないから。の一言さえも無しに、半ば捨て鉢に身を運んだったのだった。そこにいた、一際目立つ褐色の肌。見惚れてしまっていた、んだな、今こうして視ていてもわかる。初めて逢った時点で、わたしは、不二良に……こんばんは。と、無遠慮に放たれた日本語に、こんばんは。と闊達に微笑んで返す姿。ひとりですか、女の子がこんなところにひとりでって、珍しいですね。と、自己言及以外の何物でもない切り出しを恥よりもむしろ懐かしさとともに眺め、それはあなたもでしょ、と図星をつく不二良の笑顔を視る。そうか、こうして始まったんだ、初めての夜は。まあね。タイのヒップホップとか好きなんですか、わたしも興味はあるんですけど全然詳しくなくて。と依然として初対面のわざとらしさを崩さずにわたしは言い、わたしも詳しくはないですよ、ただ知りたくて来たんです。広義のアジアの人々が、いまどのような詩と音楽を紡いでいるのか。と不二良は訥々と述べる。丁寧な言葉遣い、九大あたりの学生さんかな、とでも思ったろうか。しかし、えっとあの頭巾みたいなのを着ける宗教では飲酒って禁忌じゃなかったっけ、それともこの人は信者ってわけじゃないのかな。と、今となっては色々な意味で不勉強きわまる躊躇に喉を掴まれてもいたろうか。そんなわたしの視線の揺らぎを察して、不二良は肩にまでかかっているヒジャブを撫ぜながら、ああ、これ? 美しいから。と眼を細めて笑うのだった。
イランからの移民の裔だとか、九大の箱崎キャンパスにいたけど中退したとか、今は天神のスピンズで働いてるとか、通り一遍のプロフィールを断片的に拾いながら、わたしは数センチ低い姿の隣でマルボロをふかしている。じゃ、外国籍ってわけじゃないんだ。ええ、母と父が日本に移って、そのあとで生まれたから。しかし不二良って、変わった名前。百済って名字も初めて聞いたよ。ふふっ、帰化人は好きなように姓を設定できるからね。でも、あなたの龍って名字も素敵。そう? でも九三って名前は手抜きもいいとこだよ、うちの母ちゃんさあ……ごめん、ちょっといい。と言いながら、唇の前に人差指を立てている。えっ。「詩人たちの音楽は速さが基準じゃない/武器は舌であるという革命的なメッセージ/そして、すべての流れた血によって得た知識がある/新しい形の歌垣では、もっと舌が洗練される」……、すごい詞だね。え、タイ語聞き取れるの。いや、今のはタガログ語。タガ……え? どうしてわかるの、大学で勉強したとか。そうでもないのだけど、ひととおりサンスクリット語を勉強すれば、このあたりの言語の文法にも察しがつくから。ええ、すご……ねえ九三、って呼んでいい? え、うん、もちろん。このヒップホップって音楽の歌唱法は不思議だね、話し声のようにも唄声のようにも聞こえるって。いやべつに不思議ではないでしょ、歌ってそういうものだし。そうかな、話し声と唄声って、ほんとうはまったく別物のはずじゃない? たとえば、役所で手続きをするとして、ふつうに話していたところいきなり唄い出したら、ちょっとした騒ぎにはなるんじゃない? そりゃまあね。話し声と唄声は、声という共通項こそあれ、本来はまったく別のものじゃないかって思うの。それはたとえば、カナブンとモンシロチョウの違い。なにそれ。ねえ九三、カナブンとモンシロチョウは同じ虫? なに言ってんの、違うにきまってんじゃん。そうだよね、そもそも身体の色が違うし、翅や肢のつくりも違う。でもカナブンとモンシロチョウは、まず虫という生物種としてカテゴライズされ、さらに飛行能力を備えている、このふたつにおいては同じ。まあ、ね。かといって「カナブンとモンシロチョウは同じ虫だ」という結論を導いてしまうのは、もちろん明らかな誤り。他にもっと多くの差異があるんだから。でもね、「話し声と唄声は同じ声だ」っていうのも、これと同じくらい甚だしい誤謬だと思うの。え……? みんな、ある程度は話し声と唄声を自由に使い分けてしまえる、それも瞬時にね。でも、同じ人間の呼吸器から咽頭を介して発される声たちは、じつは全く異なったふたつのものが奇妙なやり方で同居している、あるいは瞬時にメタモルフォーズしているのかもしれない。カナブンがモンシロチョウになるみたいに……? モンシロチョウがカナブンになるみたいに、ね。ははは、面白いなあ不二良さんは。わたし音楽聴いててそんなの考えたことないよ。そう? わたしはそもそも、音楽自体が聴こえないんだけどね。えっ。
ねえ、九三。そうだ、こうしてビアラオ・ラガーの瓶をカウンターに置いて。わたし、探してたの。わたしと違って、音楽を味わう能力を備えている人を。ああ、この双眸から目を逸らすことなんてできなかった。もうこの時点で、わたしは。能力、って……音楽好きなやつなんて、わたし以外にもいっぱいいるでしょ。不二良は首を静かに横に振り、いいえ。おそらく、わたしには……あなたが必要かもしれない。と、奇妙に曖昧な確信を燻らせて言ったのだった。外に、出ましょうか。歩きながら話したい。
失音楽症。舞鶴から天神への道中を伴にしながら、不二良は小さく頷く。一九世紀の時点でね、すでに報告されてはいたの。歌とピアノのレッスンを受けても、隣り合うピアノの音を区別できない男性の例。たとえばヴァイオリンの弦の擦れやピアノの鍵の打ちには敏感だけど、その音のピッチは一切聴き取ることができない。そしてようやく二〇〇二年になって、「失音楽症」は先天的なもので、全般的な学習困難の結果ではないことが証明されたの。とあるカナダの医師が、音痴だと自覚している一〇〇人を面接してね。うち二二人が先に述べたのと同じ症状を示した。何度も言うけど聴力や記憶力には何の問題もないんだよ。でも、音声のイントネーションはわかるのにピッチ曲線の推移を追うことができなかった。つまり、産まれつき音楽が存在しない人々がいる、ってこと。
不二良も、そうだっていうの。天神南の橋を渡りながら、タクシーひとつ通らない夜道を行く。そう。小さい頃から語学や数学はできたんだけど、藝術……とくに音楽にまつわる分野がまったくわからなくて。だから、成人する頃にはもう自分で音楽を理解するのは諦めた。そっか……辛かった、でしょ。どうして? えっ。だって、人間ひとりが理解できることには限界がある。九三には九三の得意分野があるでしょうし、わたしにもある。自分で言うのもなんだけれど、世界の言語と宗教の歴史については、ちょっと自信があるの。あっ、うん……それと同じように、九三も色々な音楽に詳しいでしょ? いやそうでもないよ、ヒップホップばっか聴いてただけで……でも、ひとつの音楽ジャンルに通じてるだけですごいじゃない。それはおそらくわたしには理解不能なこと。わたしにできないことも、九三ならできてしまうかもしれないよ。そうか、な……
それにしても不思議、あのヒップホップって。言葉なのに音楽で、音楽なのに詩で……またその話? だってそうでしょ、これらは本来まったく別なはず。まあね、カナブンとモンシロチョウね……でも聞いた話だけど、音程無視のラップを絶対音感持ちの人が聴くと、ピッチの歪みに堪えられなくて気分悪くなるらしいよ。そう、そういうこと、わたしもある意味では同じ。えっ。絶対音感は、失音楽症の対岸に位置するとも言えるの。誰しも乳児の頃は、聴覚の認識を絶対音感に依存している。言語獲得のごく初期の段階で、相対的なピッチの変異に関心を向けるのを補うために絶対音感が必要とされる。大抵の人は三歳から六歳あたりのあいだで「脱学習」するんだけど、この時期に徹底して音楽の訓練を受けた人は、成人しても絶対音感を維持することがある。そうなの、ってことはわたしも小さい頃はあったのか。ええ、今では思い出すことすらできないでしょうけどね。逆に言えば、人間の言語獲得はそれほど音声に依存してるってこと。私の「失音楽症」は、幼時から音楽の認識能力をギブアップしてしまって、言語獲得のみに過適応してしまった結果かもしれない。つまり、絶対音感の言語版、か。その副作用として音楽がまったくわからなくなった、ってこと。ええ。これはなにも現在の人類だけの話じゃないよ。たとえばホミニド、四五〇万年前までは生きていた霊長目ヒト科はね、脳にブローカ野と呼ばれる部位を持っていたらしいの。音声言語に必須で、運動行為全般にかかわる部位。そこにミラーニューロンと呼ばれる神経細胞が発見されてね、これはヒトが音声言語に関して模倣行為を行う際に活性化される。てことは、前言語段階のホミニドは絶対音感を持っていたのかもしれない。言語を獲得するにつれて、ヒト科は音楽の認識能力を別のものに変異させていったのかもしれない。なんか……途方もない話だなあ。それくらい古いんだよ、ヒトと音楽との関わりは。その長大な歴史に比べれば、言語なんて最近になって流行りだしたおもちゃのひとつに過ぎないのかもしれない、ってこと。まあねえ。
と、いつも使わない頭の部位をフル稼働しながら話を聞いているうちに、いつのまにか春吉まで来ている。あ……このへんは。なに? 不二良、あんまこのへん歩かないんじゃないの。ええ。そっか、じゃあ知らないよな……ラブホ街、ってこと。口に出すこともできず、所在なく佇むしかない。えっとわたし、早良区のほうに部屋あってさ、今夜は適当に親不孝通りのクラブで過ごそうかと思ったんだけど、ここまで来ちゃったし……もうこのへんに泊まるよ。と、目の前の蛍光表示を見上げながら言う。不二良はどこ住んでるの? 千代。そっか、そんな遠くないね。じゃ、わたしタクシー代出すから……とのわざとらしい切り出しを、いいよ。と峻拒する声。えっ。長話に付き合わせたのはわたしだし、それにもっと話したいじゃない? いや、まあ、そうかもだけど……九三もそう思ってくれてるんだったら、一緒に泊まっちゃえばいいじゃない。な、や、まずいでしょ、不二良彼氏さんとかいないの……いないよ、お生憎というか、幸いなことにというかね。九三は? いる、けど……目の前の面から目を逸らしながら、曖昧に握った右拳を胸に当てる。こんな昂り、成人してからは一度も感じたことがなかった。わたしと一緒に夜を明かすのは、いや? 宵闇そのものに溶け込んだかのような微笑を前にして、どうして拒むことなどできたろう。そうだ、これが不二良との初めての夜……意を決して顎を上げ、大きく首を横に振る、わたし自身の姿、を視ている。
貸して、九三。初めて入ったわけでもないのに、室内のどぎつい照明に挙措を失うわたし、を気遣ってか、不二良は枕頭以外の灯りをすべて落とす。え、なにを……ライター。言うが早いか指先を胸元のポケットに滑り込ませる不二良は、小さく息を漏らすわたしを気にも留めず、金属音とともにZippoを取り上げる。ああ、あれ、久蔵からもらったやつだ……わずかな照明をたよりに、借りてきた猫のようになっているわたし自身を視る。初めてだからって、そんな緊張しないで……と言いながら枕頭のノブを回して徐々に照明を昏くする不二良に、あなたは初めてじゃないの、と訊く気遣いさえこのときはなかった。た、ばこくさいし、シャワー浴びてから、と狼狽えて口走るわたしに、ううん、これがいいの。匂うからこそ互いを近くに感じられるでしょ。とわたしの両肩を指で撫でながら、不二良は一挙動で力を込め、わたしの上体を引き寄せる。唇を結んで拒む、こともできず、ふたりで同じ息を分かち合う。初めてじゃない、のに。同性とのキスなんて遊びで何度かやったこともあったのに……ふたたび離れて顔貌を晒しあうわたしたちは、もう、これからしてされるすべてのことに同意しきっていた。
ねえ、九三。言いながら枕頭の照明を切る不二良に、なに……と小声で返すわたし。ライターの仕組み。と、まるで脈絡のないことを言われ、えっ……と頬を寄せることしかできない。まず燧石で火花を散らせて、その火種にガスを送る、でしょ。実際に着火して見せながら不二良は言う。うん……人間もこれと同じ。最初の火花があってこそ視覚的に認識される。でも、火が消えたあと、この灯りを燃え立たせていた力が存在しなくなるわけじゃない。ただ火として見えていないだけで、ガスの流れ自体は存在し続けている……掌中のZippoを弄いながら言う相手の面が、わずかな灯りに照らされ、顔貌の脈々に影が踊る、のを視ている。焦らされている、不二良はいじわるだ、わたしが堪らなくなってるのを知ってこんなどうでもいいことを言う、と思っていた、この頃のわたしは。でも今ならわかる、この時点で始まってたんだ、不二良からわたしへの、この世界の存在にまつわるレッスン。試してみましょうか、お互いの姿が見えなくなっても、それでもわたしたちは在り続けられるか。灯りが消える。息が飲まれる。闇が行う。
一度で足りるはずもなかった。ふたたび照明をつけるまでのあいだ、わたしたちがしてされたことを自覚してしまえば、もう歯止めはなくなった。いい加減真新しいこともないなと思っていた自らの身体が、今まで眠っていた箇所を激しくされ、堅く閉じていた部分をあられもなくされた。うれしかった、あの深緑の布で覆われていた黒髪が、わたしの眼の前では放恣に曝け出されているのを見て、たわいもなくうれしかったんだ。不二良も、わたしも、そこにいた。眼から入るものを遮っても、ひとつになることだけはどうしてもできなくて、ただふたつ身が床の上で立てる音を聴いていた。
枕頭のデジタル時計表示に目をやり、もう夜が明ける、とふいに焦るようになり、傍らの胸にうつぶせる。首筋を撫でながら、耳朶を食むように舐る。ふふ、と掻くような息が当たり、枕に預けられている不二良の微笑みに視線を移す。あんま、よくない? 間抜けて言うこちらに、いや、おもしろくって。いましてたとこ、全部九三の弱いとこだったから。と口元を弓のように撓めて返す。えっ。と呆気にとられてるうちに正面から押し倒され、したことを鸚鵡返しにされる。っう、ゃめっ。ふふっ、やっぱりそうでしょ。狐狸めいて戯れながら、舌先を鋭くして耳孔に挿し込む、っは、くゎ、ぁぁあっ。片手で眼前の肩を握り、足の五指を貝のように撓り、頭頂から爪先まで攣れ果てる。すごい、九三、こんなに……耳だけで、なんて。陶然としながら言う不二良の眼下でわたしも蕩然とする。ふじぁ、やめて、こわい……ふふっ、大丈夫、無理になんてしないよ。これからゆっくり慣れていけばいい。柔らかな声音を向けながら、硬ばったわたしの身体を助け起こしてくれる。これから、か。もうこの時点でわかってたんだ、この逢瀬は一度だけじゃ済まないと。でもこの夜は、わたしばかり悦ばされて、不二良に何もしてあげられなかった。のが悔しかったのか、拙い接吻を交わしたあと、ちょっと待ってて、と言いながら床に放り出されていたショルダーバッグを持ち上げ、中からiPod Classicを取り出したのだった。ああ懐かしいな、あれ、東欧からの強制送還のゴタゴタで壊しちゃったやつだ……ちっちゃいスピーカー着けて、久蔵と寝る前に聴いたりしたな。この夜もわたしは同じように、いくつかのプレイリストから一曲を選び、再生ボタンを押した。
あなたにあげられる以上の愛を捧げた
愛を捧げた
あるかぎりのものすべてを捧げて
あなたはわたしの愛を持って
持っていってしまった
ねえ、不二良。なに。この曲も、不二良とわたしとでは、違って聴こえてるんだよね……そのはず。そっか……
あなたに打ち明けたよね
わたしが信じることを?
こんな愛が続くわけない、とでも
誰かが言った?
あなたに捧げたよね
わたしがあげられるものすべてを
音程はわからなくても、声の調子はわかるんでしょ。うん。きれいな声だね、女性? いや、女性の曲を男性ボーカルがカバーしたやつ。シャーデーっていうイングランドのナイジェリア移民の曲をね、カリフォルニアのバンドが。たしかボーカルの人はメキシコと中国の混血じゃなかったかな。だからこのカバー、いろんなのが混ざり合ってる感じがして好きなんだよね……そう。
涙に暗れて
あなたのためにしてあげる、そう
わたしたちふたりにまさるものはない
音楽は不思議だね、人種も国境も性別も、軽々と超えてしまえる。時間も、でしょ。時間? そう、これだって九〇年代前半の曲だよ、それを九〇年代半ばに出てきたバンドが二一世紀に入ってからカバーして、また新しく奏でてしまえる、ってさ。それは空間だけじゃなくて、時間も超えてるってことでしょ。
これは尋常じゃない愛
尋常じゃない愛
これは尋常じゃない愛
尋常じゃない愛
そうか……どうしたの、不二良? いえ、そんなこと、今まで考えたことがなくて……簡単なことだよ、音楽好きなやつなら感覚で理解してる。でも、存在は時間の順序と関係がない……なんて。そんなに意外? いえ、もしかしたら、わかっていたのかも。でも、こんなに的確なしかたで言い当てられるなんて……
為つづけて
哭きつづけて
翔びつづけて
翔ん……で落ちていく
九三。なに。よかった、あなたと出逢えて。わたしはきっと、あなたみたいな人を探し求めていた……なんで、全然たいしたことないよわたしなんか。いえ、やっぱり、わたしにはあなたの力が必要。音楽のことを真に理解している人じゃなきゃ、わたしの仕事は果たせない。仕事……スピンズの? わたし服の趣味も偏ってるからなあ……違う、そっちじゃない。えっ。わたしね、書こうと思うの……小説を。へえすごいじゃん、作家志望。それも違う、世俗の成功なんか望んでない。ただわたしは書こうと思うの、世界を変えるための小説を。おーなんかすごい、革命的。どんな小説? それはね……決してインクで書かれてはいけない小説。なんそれ。それは歌で、音によって書かれなくてはいけない……詩や論文でもない、小説でしかできないやりかたで。どういうこと。ふふ、もう少し長話に付き合ってくれるなら、教えてあげるけど。
そうだ、こうして始まったんだ、わたしと不二良の道行は。ずっと一緒にいたい、この人とならどこへ行ってもいい、そんな想いを遊ばせながらキスで応える。でもわたしは、この時点でのわたしは、まったく弁えていなかった。不二良との旅路、途中で振り落とされ、ふたたび導かれることになった後追いの果てに、一体どこへ連れて行かれるのか……
まず、基本的なことから確認するね。
愛と言の戦争。舞と音の戦争。不二良はそう言っていた。今ならわかる気がする、わたしがシーラやアーイシャと取り結んだ、あの穏やかで途方もない日々。わたしたちは数えきれないほどの鉄火場を、暴力以外の全ての方法で闘った。そして今ここにいる、わたしと四七以外には誰もいそうにないところに。たぶんわたしは、もうわたしですらなくなるんじゃないかと思う。四七はしたいようにしてくれた。あいつも色々大変な人生だったんだろうし、それくらいはいいだろう。もう用も済んだみたいだし、じゃあわたしは往こう、不二良が導いたところ、不二良だけでは決して往けないところへ。やっとわかったよ、不二良、あなたが何を書こうとしていたのか。グダニスク湾で何を謂おうとしていたのか。なぜ、神は鏡を必要としたか。これだよ、九三。あなたがわたしに向けてくれた、あの息吹。被造物よりも前にあったもの、世界が存在するきっかけを告げたもの。それは──
「すべての本は〈本物〉となることを目ざす、実は、本は借りものの生命を生きているにすぎない。飛翔の瞬間、その生命はかつての本源へと戻ってゆく。だからこそ、本は減少し、そして〈本物〉は増大する。」
「真に唄うこと、それはもうひとつの息吹だ、
何ものでもないものをめぐる息吹、神の中の飛翔、風。」
そしてこれは──誰の声だろう──わたしの知らない声が流れ来る。
「私は隠された宝であった。
突然、私の中に自分を知られたいという欲求が起こった。
そして、私は知られるために世界を創造した。」
九三。もはやあなたではないあなたを、あなたの名で喚ぶ。喚び戻す。もはや何者でもない者になろうとしたあなたを、今ここで裏切る。誰のものでもない歌に成り果てても、それでも、あなたの声じゃなきゃだめなんだ。私があなたを聴くとき、虚空には散けず、何度でも掴みよせる、ことができる、できるはずだ、できるとも、できますように。わかったよ、九三、なぜ私も喚ばれたのか。なぜあなただけでなく、私までもが……ここまで来るには、あまりにも多くの言葉が必要だった。音と言とのあいだに、詞たちは隠されていた。しかしもう、ここにおいては、言葉は死んでいない。私たちが読み唱え書き写したあの詞たちは、もはや今まで通りではいられない。九三、あなたは世界の一まで往こうとしている。往ける。でも、往かせない。私が来たからには、二つになってしまったからには、もう純粋な一ではない。でも安心して。ひとりで往くよりも適切なやりかたで、私たちは世界の一について語る、唄うことができる。そのためには、あの詞を喚ぼう。幼少の頃からずっと私の脳裡を去らなかった詞を。ヨハネ、あなたは本当に美しい福音書を書いた。あなたの筆業への敬意は欠かさないつもりだ、でも。あなたは肝心のところを間違えた。世界は言葉で創められたわけじゃない。私も、九三も、おそらく不二良も、最初からそんなことはわかっていた。だから、こうだ。
初めに音があった。
音は神と共にあった。音は神であった。この音は、初めに神と共にあった。万物は音によって成った。成ったもので、音によらずに成ったものは何一つなかった。そうだ、かつて世界を創めたものは、あの息吹とともに唄った。言葉でも文字でもない、書かれたものでも眼に視えるものですらもない、あの息吹によって。それは死でも、生ですらもなく、ただ愛だった。
だから世界は貫かれている。愛によって。言も舞も音もすべて織り交ぜた称いの業によって。そうだ、世界はこんなにも歌に満ちている。唄うことも、舞うことも、書くことも、すべて愛による創造の神秘を解き明かすための賜物だったのだ。ひとつだけではいけない、すべてが欠くべからず求められたのだ。私たちは一に到達した、かと思えば、すかさず二つめの詩句が来る。謂れのない裏切り者が、独りで安んじたかった者の孤閨を引き裂く。だって、あなたは、そのために喚んだはずだ。ずっとひとりではいられなかった、だから唄った、自分を知ってくれる誰かへと呼びかけて。それを聞きつけたから私は来たのだ。こうして私たちは、永遠に救済から見放される。あなたへの称いの言葉を増やすほどに、永遠にあなたから遠ざかるしかない、この幸福な難破。それでもいい、私はあなたと往くことに決めた。救いの一歩手前、ついに彼岸と結ばれるかに見えたその時、袖を振る。申し訳ない、私が求めていたのはどうやらこれではなかったらしいと、絶えず救いを破談にしながら、またどこへともなく流れゆく。どこへ? 不確かなところへ。あらゆる行為の背後にあって、庭か壁なんぞのように、無関心に立っている書き割りにも似た、無縁な暖かい国の中へ。遙かに遠く、立ち去ること。なぜに? それは衝動から、その性から、焦燥から、漠とした期待から、無分別から。無知から。これら一切をわが身に引き受け、なぜとも知らずに、ただ独り静かに死んでゆくため。捉えたものを、たぶん空しく落ちるにまかせるだろう。そうだ、私たちは落ちる。ひとりではなくふたりで。幸福な者たちは下降する。九三、往きましょう、私たちが息を奪いあったあの土地へ。到着したと思ったらまだ途上、いつまでたってもたどりつかない。私たちの国は、絶え間ない流れ行きの只中にこそある。そこにしかない。一はもう、見つからない。最後というものは、無い。
九三。
なに?
九三。
もーなに、呼んでみただけ、とか言わないでよ。
呼んでみただけ。だって、素敵な名前だから。
なにいまさら、わたしは別に好きじゃないよ、こんな手抜きの名前。
そんなことない、すごく素敵な名前だよ。それにしても不思議だよね、人が人に名前をつけるって。言葉を発するだけで、その人を呼べるようになるなんて。
まあね……でも不二良ってのもきれいな名前じゃん。「不二」って、二つとない良いものって意味と、二つじゃなくて一緒のものって意味と、どっちもあるんでしょ。この前わたし調べたんだよ、辞書で。
ふふっ、ありがと。そんなにわたしのことを想ってくれてるなんて。
へへ、「不二」って、まるでわたしと不二良そのものみたい。
九三と測さんも「不二」でしょ。
もーやめてよ、今日はじめて会ったくせに。そんなに気に入ったの測のこと。
ふふっ、もちろん……測さん、も綺麗な名前。 “Der Mensch denkt - Gott lenkt”.
なにそれ。
ドイツ語の格言。「人間は類推する、神は仕向ける」。 mensch は単に「人間」って意味だけど、 messen という語には「測る」という意味もある。だからヘルダーリンやニーチェやリルケにとって、「人間」は「測定する者」でもあるの。尺度を定めて、価値判断を与えて、この地上に居場所を設える者。
あーなんか、いかにも測っぽい感じ。
彼女もドイツ文学を専攻していたなら、きっと知ってるんじゃないかな。ねえ九三。
なに。
大したことなんだよ、世界にこれだけ多くのものが存在するってことは。
まあね。私も思うことあるよ、ハードディスクの中の曲、一生で全部聴き切れるかなーって。
そういうことでもないんだけどね……九三、なぜ世界は創造されたと思う?
えーなにそんな難しい話、しかも「創造された」って何、神みたいなのがいる前提なの。
もちろん。世界が存在する以上は神も存在する、そもそも神自体が存在なんだから。たとえば辞書というものが存在する、その中の語句はアルファベット順や五〇音順で整然と並べられている。ということは、その辞書は誰かが編纂したってこと。これを世界に置き換えたらわかるでしょ、ビッグバンで宇宙が始まったなんて、印刷所で爆発が起こってバラバラに飛散した原稿がいつのまにか辞書としてまとまっていました、って言うのと同じくらい無理がある話。
それもすごい極論だと思うけどなー。
簡単なことだよ、世界の一を考えてみたらわかる。一という数字には、「純粋な一」と「堕落した一」がある。「純粋な一」は、ひとつの存在自体で成立する一。対して「堕落した一」は、二とか三とか四とか後に続く数字を内部に孕んでしまっている一。
「堕落」……?
だって一は単独で成立しているのだから、二分の一とか三分の一とか四分の一とか分割してしまえるのはおかしいでしょ、一以外の数字を前提としてしまっては。
ああ、そういう。
つまり「純粋な一」は、世界を創造する前の神。「堕落した一」は、世界を創造した後の神。「はじめに神は天と地とを創造された」、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。創世記の一行目が始まった時点で、実は神は「堕落した一」になっている、ならざるを得ないの。
そっから数を増やした、ってことか。
そう。でも肝心の問題が片付いてないよね。なぜ全能であるはずの神、「純粋な一」は、そもそも有限な生命や物質で満ちた世界を創ろうとしたのか。
うん、それに答えるためにいろんな宗教が必死こいてきたんでしょ。
もちろん。ただわたしは、一二〜一三世紀のイスラーム思想が最も完璧な答を出してると思う。イブン・アラビーは、神の世界創造の動機についてこう答えている。 “nafas raḥmānī”.
えっと、訳して。
「慈愛の息吹」。それは胸のうちにある息が口をついて漏れたようなものであって、つまり世界創造の端緒は止むに止まれぬ衝動によるとしか説明のしようがない、ってこと。
なんそれ、説明になってないじゃん。それが完璧な解答なの。
これ以上の答は考えられないよ。アラビーをはじめとするスーフィーたちは、「慈愛の息吹」による世界創造を受け入れた上で、神を讃えるために多くの詩を書いた。のみならず唄った。この時代に孕まれたイスラーム思想こそが、最も優れた存在論としてヨーロッパ世界を支えたの。キリスト教徒であるアクィナスもダンテも、もちろんこの思想の影響下にある。
うーん……でもおかしいよね。神を讃えるための詩、ってさ、そもそも人間の感覚って有限だよね。しかも一神教では、アラビア語だろうがラテン語だろうがヘブライ語だろうが、全部バベルがああなる前の純粋な言語とは違ってるんでしょ。そんなのを使って唄ったり書いたりしたところで、神を讃えたことにはならないんじゃないかな……
そう、九三、さすが飲み込みが早いね。有限な存在でしかない人間が、己の限界を知った上でそれでも数を増やし続ける、それこそがスーフィズムの神髄。どんなに的外れでも、食い違ってても、無力だとしても、どうしてもあの人を、あの存在を、自分自身の言葉で褒め称えなければならない、という情動。これって何? 恋でしょ。
あ……そうか、そういう話か。
そう、これは最初からそういう話。スーフィズムの用法においては、恋と愛は完全に区別できる。愛はもちろん神による世界創造の動機、「慈愛の息吹」。そして恋は有限な人間が「純粋な一」に近づくために、不合理と知りながら言葉を連ね続ける情動。こうして神と人間は永遠に遠ざかり続ける、でもその遠ざかりこそ、有限な生と無限の神性がつながるための縁。
そっか……測が高校生のころ十字架のヨハネの本を熱心に呼んでてさ、なんで祈りや礼拝だけじゃなくて詩を書かなきゃいけないんだろって不思議だったんだけど、それって。
そう。神秘体験を持つだけではいけない。完徳の境地、神との睦みあいは、詩として書かれなくてはいけない。有限な世界の只中に孕まれたものとして、ひとまずは場所を占めなくてはいけない。そうして神への恋は数を増やすの、絶対に届かない一を夢見て。だからわたしたちは、何度だって神の似姿である誰かを通して、この世界の愛を讃えることができる。歌によって、舞によって、詩によって、文字によって。何度だって、何度だってね。
いない。いなくなってしまった。九三はどこだ。たしかに、ワタシにふれてくれたのに。ワタシの胎に……いや、これは。なぜだ、戻ってるじゃないか。こんな穢らしい身体に……でも、まだ、ワタシが孕んだ児はここにいる。よかった、お前だけは、何があろうとも。
四七。と、あの声が響く。なぜだ、アナタは、来られないはずだろうここには。まあね、でも九三と測さんが導いてくれたから。導い……あなたもそろそろ帰らなきゃだよ四七? いつまでごっこ遊びを続けるつもり? うるさい、アナタが、アナタが送り込んだんじゃないか、それにワタシはワタシの望みを叶えた。この児だけは誰にも……
う。
あ、あ……あらあら四七、その子も外に出たがってるみたい。う、ぐ。もしかして四七、孕むだけ孕んで産むことは考えてなかったの? うる、さ……ねえ四七、さすがに無理があるよ、あなたはもう児を産める身体じゃないんだもん。あれは九三が特別に優しくしてくれただけ、そして九三はもういない。黙れ、お前なんかに……ぁあ、ら、ぉが。ほらほら四七、もう裂けそうじゃない。あなたが産みの苦しみに耐えられるとでも思ってるの? 女の肉体に生まれたわけでもない、あなたごときが? ぅう、っふ、う、あ。
四七……うるさ……突き出てるよ。耐えられなかったんだね、あなたのおなかは。これ、肋骨かな? ナイフみたいに尖ってるね。っは、さわるな……でもこのままだと死産かもだよ? あなたにとって最も望ましくない事態でしょ? だから、手伝ってあげる。ぅゎ、がは。よいしょ。ぁあがあぁああ!! 帝王切開で産まれた児なら、立派に育ってくれるかもね。もちろん、あなたに育ての親は無理だけど。あ、ぁ、あぁ……ああもう、血まみれ。いいよ四七、これくらいはしてあげる。ここまで来られたのも、文字通りあなたの献身あってこそだからね……ぅ……ほら四七、聞こえる? あなたの児の声だよ。へその緒、はもう切っちゃった。あ……じゃ、この児は連れて帰るからね。四七も、出血がおさまったら戻らなきゃだよ。大丈夫、あなたは頑丈な子だから。それじゃあ、向こうでまた会いましょう。有限な生命の世界でね。
あなたもここにいたの。と呼ぶ声が聞こえる。國分、測……なんとか声は出せるらしい、が、縦に裂けた下腹からは、かつて孕んでいた児と、収まっていたはずの臓物ぶんの体重が抜け落ちていた。不二良は。と訊く声に、知りませんよ、戻ったんでしょう……九三もとうに……とだけ返して息が詰まる。わかった、無理はしないで。と言いながらワタシの真紅の裂け目に掌を押し当てる。実は、勘付いてはいたの……あなたが不二良と関係してるんじゃないかって。九三に対する四七で、國分に対する霧島なんて、いかにも当て付けめいた命名だと思って。大方、あいつが親代わりとして世話を焼いて、その引き換えとして好き放題されたんでしょう。っは、だから何です、今更……責めるつもりですか、ワタシが母とともにしたことを、マキや典午にしたことを……まさか。言いながら、測は五指をワタシの手に絡める。責めようとは、思わない……たとえどんなに理不尽でも、母から愛されたい、って想いは、わかる気がするから。
アナタなんかに同情されるようでは、ワタシもおしまいですね……そうね。いいですか、あの世界でいちばん九三を愛したのはワタシだ、アナタや不二良じゃない……ええ、そういうことにしてあげる。じゃあ、あの世界に戻りましょうか。ごめんです、ワタシはここで死んでやる……でも。でも? ワタシの、ワタシと九三との児が、あっちに連れて行かれたはずです……ワタシが孕んで産んだんですよ、そんなことはアナタにも不二良にもできなかった、絶対に……あの児だけは無為に死なせたくない。かならず見つけてください、それがアナタの義務です……ずいぶん押しつけがましいこと。見つけようにも方法がないよ、産まれたばかりの児なんて。ワタシと九三の愛の結晶なのです、アナタならわかるはずだ……本当に一度でも九三を愛したことがあるなら……ふん、まあ、探してはみるから。それと……なに、まだあるの。これを……なに、キャメルの箱。マキが、臨終の際に寄越したものです……百済不二良に渡してくれ、私たちはあのことを忘れはしなかったと伝えてくれ、と。アナタがふたたび不二良に会うことがあれば、これで根性焼きのひとつでもしてやったらいいでしょう……ふふ、その程度じゃ済まさないけどね。じゃあ。ええ、お願いします……四七。なんですか。楽しかった? ええ、まあね……少なくとも、九三と出逢えてからは……そう。あの児には、九三と同じように、音楽とともにあってほしい……もう、ワタシのような生はたくさんだ。わかった、伝えておく、必ず。それじゃあ、おやすみ。ひとりで大丈夫? ええ、子守唄なんか要りませんよ……誰にも聴かせてやりません。ワタシのスワンソングは、ワタシだけのものです……
また秋めく。
夏は夏になりすぎて自壊する。そうか、もうあの夏から一二年経ったんだな。もう暦自体変わってしまったわけだから、この数えもさほど意味を成さないけど、まあ皮膚感覚の話だ。さて太音暦で数えれば、このゴールウェイで司教を務めるようになってちょうど一一年か。奇遇だな、この一一って数字はあの夏、κωμόςという名前で九三とツアーを回ったときの総人数なんだ。アーイシャとズラミートを入れたら一三人だけどな。ともあれ、あのとき九三と一緒にいたやつらがなんか一二聖徒とか呼ばれ称されるような事態にならなくて、ひとまず安心してるところだよ。もっとも、大異端を宣告されて世界中から追われる身になりたいとも思わないけどな、九三みたいに。
あの龍九三、調性戦争を引き起こした大悪人ということになっているやつについて、何を付け加えられるだろうかな。もう随分、みんなには話してもきたし。とりあえず、ここにはまだ一桁の年齢の子たちも沢山いることだし、あれが起こった当時のことを振り返ってみるか。まず、君たちの世代には想像もつかないかもしれないが、議論が分かれたんだよ。本当に九三がやったことなのか、って。今こんなことを言ったらカトリックでもプロテスタントでも即刻破門だろうけどな、でも事実だから仕方ないんだ。あのとき、九三と測がいなくなって、GILAffeを入れてたやつらの肉体に変異があらわれたとき、まだ世界中の全員が九三の仕業だと確信してたわけじゃないんだ。でも、我々の言葉を通じなくしたのはあいつだ、あいつが我々を欺いたんだって発奮したやつらがすぐに事を起こしてな、あとは知っての通り、世界中で調性戦争と呼ばれる事態が出来した。あのとき日本にいたからよく憶えてるよ、あのツアーの最終地だった九州は東京と遠く離れてたから、傍観の感はあったけどな。このへんについては、今でもあっちに残ってるヤスミンがちゃんとした著述をやってるだろうから、興味があればそっちを当たってくれ。
さて、肝心のことだ。ここに集まってるみんな、とくに太音暦制定以降に産まれた子たちには、当然の疑問があると思うんだよ。結局、なにが変わったんですか? って。GILAffeとかいうのがだめになっちゃったのはわかるけど、それにしたってもとからおかしな発明だったわけであって、それが使えなくなったからといってあれだけの虐殺をしなきゃいけなかったんですか? 調性戦争を経て太音暦が定められるまでの間で何が変わったんですか? って。そうだな、当事者として答えるが、何が変わったかというと、特に何も変わらなかった。ただ、これから人類は、文字が音楽と無関係であると考えるのをやめるだろう、という予感があった。それが当たったかというと、ふふ、今この教会堂に集まってくれてるみんなの顔を見れば、言うまでもないことだな。
つまり、人類は、あのときからほんの少しだけ音楽的になったんだ。
ああ、思い出したよ。今では海外への渡航なんてずいぶん珍しくなったが、あのとき、九州に取り残されたあたしらが三々五々各々の国に戻る前、やっぱ名残惜しくはあったんだ。多くの公演を共にした友だし、家族、だとも思ってたしな。でも、これはやっぱり解散しなきゃいけないって踏ん切りをつけてくれた一言。残された一一人の中の一人が、くっだんない、こうして顔突き合わせるより他にやるべきことがある、って不機嫌そうに言ったんだ。初めてだったよ、あいつのうんざり顔を見たのは。だからあたしは訊いた、やるべきことって何だ? って。そいつは答えたよ、ギターの練習すよ、決まってるでしょ。って。
そう、練習だ。今日も相変わらず始めよう。君たちは、とりあえずアイルランドで聖歌隊の存在が認可されている唯一の教会であるここで、神を褒め称える歌の技巧を磨かなくてはならない。結局これが最良の手段だ。調性戦争において、言語派と音楽派──この地帯でいえばヴァーヴとスキッズだが──の抗争で殺される側は常に後者だったという事実は、我々の歴史における数少ない誇りだ。その誇りを唄い継ごうじゃないか。神は決して、聖書に記され読み上げられるだけの存在じゃない。ではシスター・シャムロック、始めようか。みんな歌詞はちゃんと憶えてるな? 音を外すならともかく唄うための言葉すらろくに身についてないようじゃ、ヴァーヴのやつらに笑われるぞ。いいか? よし、始めよう。曲目はもちろん、『飢えたる者に汝のパンを分ち与えよ』。
相変わらず、言語派の者たちは自らの不明を恥じもせず、アッラーを讃えながらその栄誉を毀損するような言葉ばかり述べ立てています。と言うだけで、もう私に非難の声を浴びせようと準備している人々のざわめきが聞こえます。しかしどうでもよろしい。あの調性戦争のおり、カトリックやプロテスタントと同様に我々のイスラームも多くの同胞を分断させた、これは動かぬ事実なのですから。
ひとつ私の頬に笑みを添えてくれるのは、いま音楽派イスラームのあいだで行われている、歌や舞でアッラーを讃えるという実践は、私とズラミートが太音暦制定以前に行っていたことそのものだ、という事実です。ええ、あの時期から私たちは、数学や幾何学を駆使した書道と同様にダンスも奮闘努力になりうると確信して事に臨んでいました。そしてあの頃の私たちと同様に、音楽派イスラームも命の危険にさらされています。しかし彼女ら彼らは唄い踊ることを止めはしないでしょう。創造の御業はアッラーにあり、正義は彼女ら彼らと共にあるのですから。
さて、まもなく昼の礼拝なのでそろそろ切り上げますが、私を心底うんざりさせるのは、言語派の人々──これにキリスト教やイスラームなどの区別はありません──が音の力を恐れながら、一方でだらしなく欲情しているふうがある、ということです。あの人々が音を恐れるのは、実はその魅力に深く魅入られているからではありませんか。かといって我々は、歌や舞を通じて己の肉体をひけらかしているつもりは全くありません。ひとえに、アッラーがお創り賜うた被造物の神秘を讃えるためです、野の一面に向日葵が花開くように、蜜蜂が精巧な巣を営むように。その実践を阻むのであれば、我々は大と小いずれの奮闘努力にも訴える覚悟があります。言語派の人々が断行しているのは、他ならぬアッラーが創造し賜うた世界そのものへの冒涜なのですから。身内でありながらアッラーの御名を穢してやまないムスリムたちに対して、我々は藝術という名の向かい火を絶やすことはありません。我ら音楽派は、無知を盾として崇敬の念を侵す者たちと、断固として闘い続けます。
声府は相変わらず無能の吹き溜まりで、アーティストの活動を阻害することばかりやってる。と憤る한나の意気を文面から感じながら、今でもハングルを読むことができている自分を遅れて訝しく思う。あれ以降、人類は母国語以外の言語に親しまなくなった。もちろん音楽派が世界中で多くの犠牲を払って独立を認めさせた以上、言語なんて古めかしいもの──いや、実際には音楽より言語のほうがはるかに新しい産物であって、ここにも転倒があるのだが──に理解を示さなくなる固陋は、自ずと涵養されていくだろうとは思っていたけども。しかし한나のいる半島は、一〇年ちょっと前まで南北に分断されていた事実が嘘のように、世界でも類を見ないほどの藝術特区として名を馳せた。もちろん、腐敗を嗅ぎつけたら即刻の抗議を旨とするソウルの市民民主主義が根付いていたからこそ成し得たことだろう。
手紙を抽斗にしまい、返信の文面を考えながら書斎を出る。そうだ、この音楽学校も一二年前には城と呼ばれていたな。龍九三、今ではこの島国を離れてしまったあの子が誂えてくれた場所だ。エレベーターを使うのがふいに厭わしくなり、階段で二階まで降りてみる。今では資料室として当てがわれているこのフロアで、かつて私たちは笑い暮らした。配架されているレコードのボール紙を撫でながら、あの頃交わした私たちの悲喜を追想したくなる、のを抑えて、おはよう、と司書の尾道にあいさつする。おはようございます。学長、ほんとにお早いですね。すこし意外そうに返され、うん、今日から新しい子が入るからね。と伸びをしながら言う。あの子、ですか……と眉を曇らせる尾道に、大丈夫、私が責任をもって預かったんだから。と胸を張ってみても、いえ、それよりもまず……と愁眉で言うので、なに? と訊いてみる。どこか似ている気がしましてね、あの子……語尾を切ったままの尾道に、似てるって、あなたの好きなこれに? と言いながら一枚のレコードスリーヴを示してみる。と、心底いやそうな表情を浮かべてカウンターに引っ込んでしまった。あはは、一〇年以上経っても『ピノキオ』には複雑な思いがあるんだ。でもどうしてだろ、AIだからといって今更ピノキオコンプレックスもないだろうに。それにしてもこのレコードたち、換金したらいったいどれくらいになるだろうな、と今更の俗っぽい連想に傾く。世界中から阻害されたアーティストを受け入れてどんどん文化的に成熟してゆく韓国を遥か高みに見ながら、それでもこの日本列島がまだ世界有数の音楽国家として認められているのは、かつてヴァイナルやコンパクトディスクなどのフィジカル録音媒体が盛んに流通していて、現在でも太音暦制定以前の音楽を直に回顧できる場所だから、という物理的要素が大きい。あれ以降、人類はインターネットや海外旅行などのグローバルな嗜欲を厭うようになり、デジタルで保存されていた音源も多く戦禍によって潰えてしまった。よってこの東京にも少なからず海外からの移住者がいるが、そういった人々の精神性が「かつてこのような音楽があったのだなあ」的な詠嘆に流れているのは、好ましからぬ傾向だと思う。私が学長としてこの音楽学校で新進の教育に務めているのは、その退行に抗すべきとの判断にもよる。
一階へ降り、朝礼よりすこし早い時間に教室を訪れる。と、うわ。室内では仔犬めいた生徒たちが仔犬なりの猛気を発しながら、なにやら床に組み敷かれている姿に打擲を加えている。ちょっ、ちょっと、やめなさい。数人で輪になって殴る蹴るを繰り返していた生徒たちを押しやり、床でぐったりしている子に視線を落とす。ああ、やっぱり。もう、一体どういう了見ですか、新しい仲間をいじめるなんて。と周囲の生徒たちを一喝すると、だってせんせー、そいつすげー歌ヘタなんだもん。と眼下の子を指差しながら言う。そいつがおれらの仲間になるとか、冗談じゃないよ。せんせーも知ってるでしょ、歌がヘタなやつらは生きてちゃいけないんだよ。そいつ才能ないよ、今のうちに殺しちゃおうよ。駄目。いいですか、みんなには前にも話したけど、私だって最初はヘタだったんだよ。才能なくても、努力次第でどうにかなるの。私だって九三や한나に付き添えるくらいにはなったんだから。えーでも……でもじゃない。今そんな注目に値しない人でも、数十年経ったら世界を変える存在になってるかもしれないでしょ? 人間ってそういうもの、簡単に計れはしないの。さあ、みんなこの子に暴力振るったこと謝りなさい。やーだ。あっ、こら。せめておれらと同じくらい唄えるようになったら謝ってやるよ。と言いながら、生徒たちは各々席に着く。
もう……ほんと、どの時代にも極端な子たちはいるものだ。ある意味、日本という土地の国民性でもあるのかもしれない。対外的な交際において、曖昧に微笑むかいきなりキレるかの両極しかない日本人の心性は、調性戦争期にも多くの火種を蒔いた。むしろ、言語派よりも音楽派のほうが暴力的だったかもしれない唯一の言語圏がここだったのだ。現在日本の声府を構成している人々は、九三の仕業を弾劾する海外との国交を即座に閉ざし、旧態を維持する人々を言語派と決めつけ、一斉に粛清を始めた。ここの生徒たちも共有している「藝術的才能を持たない人間は殺してもいい」というアティテュードは、あの時期に醸成されたものに他ならない。私たちは九州から首都圏の動向を傍観していたが、あれほど小心翼々として変革を侮蔑するエートスの持ち主であったはずの国民は、一転してかつての世界を破壊し始めた。藝術に敬意を表さない政府、その構成員たちは、首相から末端の公務員に至るまで徹底的に虐殺された。歌唱や舞踏や演説の能力を持たない者は生きるに値しないと、国民的な草の根運動の結果として絶滅させられた。「訂正云云というご指摘はまったく当たりません」とかいう意味不明な言辞を弄したことがある政治家は、もちろん九族まで皆殺しにされた。たった一〇年ちょっとでこの国は、かつて世界中から三等国として軽視されていた事実を焼き棄てるかのようにして、圧倒的に「藝術的」な国家として変貌してしまったのだ。まったく、いつの時代にも極端な人たちはいる。そういう経緯もあり私たちは太音暦制定後にも一切の害を被らなかったのだが、かつて九三に帯同していたという理由だけでいたずらな神聖視を向けられるようになっては、さすがに座して見ているわけにはいかなかった。ShamerockもInnuendoもDefiantも한나もそれぞれの国に帰ったけど、私だけ残ると決めたのは、この国の閉塞を放っておいてはもっと悲惨な事態に繋がりかねない、という出過ぎた問題意識に拠っていた。が、こうして教室でのリンチを鎮圧しなくてはならない事態に際会しては、なるほど正しい判断をしたものだと思う。もっともこれは、暴力革命期を経た首都圏でしか共有されていないエートスなのかもしれない。漁火イリチは生まれ故郷の沖縄に帰ってしまったが、たまに届く手紙を読む限りでは、あの島の雰囲気はずいぶんのんびりしたものらしい。米軍基地も鹿児島に移されて、島民の自治が回復された現在では、かつて日本列島のみならず東シナ海に開けていた時代のおおらかさのようなものが取り戻されているのかも。日本声府は沖縄の独立だけは頑なに認めていないが、ここ数年での運動の興隆を見ると時間の問題でしかないと思う。平和裡に独立を勝ち得るための運動ならいくらでも協力する、という返信を先月送ったばかりだ。
さて、ともあれ、私の仕事はこれだ。音楽と政治は無関係などという幻想が、もはや文字通り灰塵に帰してしまった現在において、それでも音楽と暴力の結びつきは自明ではないのだと教育する、その役目を果たす。それが私なりの、かつて九三たちと過ごした時間に対するケジメ。さて、みんな知ってるでしょうけども、本日このクラスに新しいお友達が加わりました。壇上で言う私、の脇に纏わる姿に、ふん、けっ、ばーか、と心無い半畳が加えられる、のを一睨みで制する。はじめに、自己紹介とあいさつを。と促すと、はいっ、と小さく応えたのち、ホワイトボードに大きく漢字を書き、くしゃくしゃの前髪と痣だらけの頬を同級生たちに向ける。霧島一三七です。まだ皆さんと同じくらいうまくはないかもしれませんが、これからよろしくおねがいします。
すごい名前ですね、と測に率直な感想を漏らしたのも一週間前のことか。ええ、と笑いながら、測はこの一〇年ちょっとに閲したことたちを話してくれた。調性戦争期に北九州市に赴き、ひとまず九三のご両親の安全確保のために滞在したと。音楽派が圧倒的多数を占めるこの国においても、やはり騒擾のきっかけとなった九三に対する怨恨は募っているらしく、龍家も少なからず襲撃の憂き目にあったらしい。しかしそこはやはり測というか、周囲の人々を相手取り、九三の親族を邪悪視も神聖視もしないようにと意を含めたのだという。どうやって、と訊いたら、睨みを利かせた。とだけ言っていた。
その後、全国の戦災孤児擁護団体を歴訪し、ひとりの幼児の里親となることに決めたのだという。どこで誰らとの間に生まれたかも定かでない孤児は調性戦争以降どこにでもいたが、なぜその子の親に。と訊くと、似てたから。とだけ言っていた。誰に、と問いを継ぐのも憚られて、側らに行儀良く座っているその子に、お名前は? と訊いてみた。霧島一三七です。
あなたの学校に預けようと思うの、と静かに告げられ、ええ、もちろんいいですけど。でも測、今まで住んでたの九州ですよね、東京に移るってことですか。と返すと、いいえ、移ることは移るんだけれどね……もう日本じゃないの。と言う。海外、ですか。ええ。この子もいい年頃になってきたし、もう保護者がべったりついてなくても大丈夫だと思う。あなたなら間違いなく教育してくれるでしょうし。うん、それは、いいですけど……測は、これから、どこへ。と一直線に差し向けると、一瞬の躊躇もなく、九三を捜しに。と応えた。そう、です、か。意外かな。いや、むしろ今まで行動を起こさなかったほうが不思議っていうか……蟠りがあるのかな、と思ってましたから。ふふ、ないよ、ただこの子を保護するのが私なりのケジメだっただけ。そうですか。捜しに、かあ。見通しはついてるんですか、どこにいるか。まあ、定かではないんだけどね……でも実際、あなたもうっすら見当はついてるんじゃない。まあ……不思議ですよね、私たちGILAffeを入れてすらなかったのに。言語派の人たちがあれだけ血相変えて九三を追えてるのも、そういうことなんでしょうね。もちろん、あの子はかつてあった人々の存在自体を変えてしまったわけだから……悔しいでしょうね、どこの誰とも知れない人の仕業によって、一方的に発情させられてしまって。ふふっ、発情、かあ。思えば九三って、周りの人々をいつのまにかカッカさせる人でしたね。ええ。測も、ですか。九三にアツくさせられちゃった人。もちろん。
一〇年ちょっとの沈黙を埋めるには足りない、控えめな口吻を交わし、それじゃあこの子は任せてください。と落とし所を見つける。ええ、お願いね。さ、一三七も。はいっ、これからよろしくお願いします。
でも、測。遠ざかる背中を名残り惜しんで呼び止める。危なくないですか、ただでさえ追われてる九三を追うって。言語派の人たちに襲われないなんて保障も、まったくないわけですし……どうするつもりですか、これから九三と同じくらい危ない目に遭ったら。余計な気遣い、なのだろう。しかし無軌道とも取れる友人の旅程を、そのままに看過することもできそうになかった。測は振り返り、こちらの双眸を一直線に見据えながら、数秒の黙考ののち、唇を開いた。
わからない。でも……踊ればどうにかなると思う。
こちらを笑わせる、つもりで言った、のではないことは、表情と声音から察せられる。しかし、なんというか。こんな人だったろうか國分測は。常軌を逸した世界で、彼女も何らかの箍が外れてしまったのだろうか。しかし、一〇年以上の懸絶をいまさら推し量ることもできそうにない。私はただ微笑み、がんばってください、あなたの旅路に幸がありますように。と返すのみだった。ええ、ありがとう。でもね……私はもう、幸福のことなんてどうでもいいの。
だっせー名前。よろしくなんかしねーよ。と、相も変わらず野次を投げる同級生に対しても、一三七は毅然として動じない。こういうところも里親に似たのだろうか、と思いながら、じゃあ、一三七くんがこの学校で叶えたい夢を言ってもらおうかな。新入生にはみんな訊いてるの。と促すと、はいっ、と背を伸ばし、小さく息を吸い込み、唇を開いた。あの、僕は、音楽で世界を変えようと思います。そのために、まず、皆さんを変えることから始めようと思います。これからよろしくお願いします!
ぷっ、と思わず噴き出してしまった、のは私だけでなく、今まで面相を歪めていた同級生たちも一斉に笑い始める。図抜けた意気を嘲ってか、それとも存外に強気な物言いを面白がってか。いずれにしても、一様な笑顔に取り囲まれた一三七は、何かへんなことを言ってしまったのかとでも言いたげな、生真面目な表情で教室を見回すのだった。やってもらおうじゃねーの。言ったからにはやめんなよ。正面からの声を受け、はい、やりとげます! と勢いよく言い放つ新入生なのだった。
また忙しくなりそうだ。
そしてまた、始まりが終わると終わりが始まり、終わりが終わると始まりが始まる。九三、そういうことでしょ。あなたが謂っていた「ファンキー」という概念を、わたしがちゃんと理解できたかどうかは怪しまれるけど。でも、これがあなたから学びとった最大の収穫物。そう、あなたはずっとわたしを追ってくれていた。わたしがあなたにつけた愛の傷を、忘れないでくれていた。さて九三、追われる側になった気分はどう? あなたを亡き者にしたい人々、あなたを愛してやまない人々、あなたに変えられてしまった自覚もない人々、いずれにしろ、わたしたちの間にはもう距離しかない。そう、この距離を在らしめること、それがわたしの企てだった。ひとつになんてなれないよ。わたしたちはこれからも、最初の一から遠ざかり続ける。その過ぎ行きの中で、また死につつある永遠たちが数を増やす。この世界の愛を讃えるために、ひとつの数では絶対に足りない。しかしひとつの数なしでは何も始まらない。螺旋の先を走っても絶対に輪には閉じない、永遠の聖遷。さあ往きなさい、九三。どこへたどり着くことになろうとも。
これからは誰が殺されてもおかしくない。音楽自体が世界のありかたを大きく変えてしまったんだから。それでもまだ、また、わたしはわたしの子どもたちと一緒に往くつもりだ。とりあえず、生きてはいるわけだし。まあ何度も襲われたけど、とりあえず右手の指が三本飛んだくらいだ。それに、何が変わったわけでもない。そうだよ、唄うことはいつだって命がけなんだ。シーラも、アーイシャも、私が誼みを結んだ人たちはみんなわかっていた。さあ、今日もまた出立だ、わたしの子どもたちよ。この螺旋の先を走り続ければ、誰も到達しなかったところまで往けるかもしれない。
砂漠だ。言うまでもない。爪先が灼熱に泥む、いや乾燥した砂にさんずいとはおかしいか、と、相変わらず文字に囚われになっている自分自身を嗤い、目の前に開けている黄金の荒野に相対する。ここに九三はいる。だって感じている。この距離を、甚だしいにもほどがある隔たりを踏み越えて、私はあなたに逢いにいく、
どんなに高い山も、
どんなに低い谷も、
どんなに広い川も、
私の赴きを阻むことはできない。
いつだって途中だよ、九三。終着点なんて無い。あなたもわかっているはず、無限が唯一であり、遠ざかりが接近であることを。なら、また相も変わらず始めましょう。私たちはもう、止めることを止めた。諦めることを諦めた。この旅は続き続ける。一歩、二歩、三歩、から先はもう数えない。この踵が、ひたすら拍を打って、先へ進めと命じる、あなたのもとへ。
往ける。
往こう。
往く。
主要参考文献一覧
第一部
・『ファンクはつらいよ ジョージ・クリントン自伝:バーバーショップからマザーシップまで旅した男の回顧録』ジョージ・クリントン/著 押野素子/訳(DU BOOKS、二〇一六)
・『ヒップホップ東欧:西スラヴ語&マジャル語ラップ読本』平井ナタリア恵美/著(合同会社パブリブ、二〇一八)
・『詩への小路』古井由吉/著(書肆山田、二〇〇五)
・『西欧精神医学背景史〈新装版〉』中井久夫/著(みすず書房、二〇一五)
・『徴候・記憶・外傷』中井久夫/著(みすず書房、二〇〇四)
・『十字架のヨハネ研究』鶴岡賀雄/著(創文社、二〇〇二)
・『スピリチュアリティの宗教史 下巻』鶴岡賀雄/編 深澤英隆/編(リトン、二〇一二)
・『定本 夜戦と永遠:フーコー・ラカン・ルジャンドル』佐々木中/著(河出書房新社、二〇一一)
・『ツァラトゥストラかく語りき』フリードリヒ・W・ニーチェ/著 佐々木中/訳(河出書房新社、二〇一五)
・『十二世紀ルネサンス:西欧世界へのアラビア文明の影響』伊東俊太郎/著(岩波書店、一九九三)
・『マルコムX自伝』マルコムX/著 アレックス・ヘイリィ/執筆協力 浜本武雄/訳(アップリンク、一九九三)
・『憂鬱と官能を教えた学校:【バークリー・メソッド】によって俯瞰される20世紀商業音楽史』菊地成孔/著 大谷能生/著(河出書房新社、二〇一〇)
・『James Joyce: The Ultimate Collection (English Edition)』James Joyce, Big Cheese Books, 2019
・『Three Novels : Molloy, Malone Dies, The Unnamable』Samuel Beckett, Grove Press, 2009
・『エレウテリア(自由)』サミュエル・ベケット/著 坂原真里/訳(白水社、一九九七)
・『また終わるために』サミュエル・ベケット/著 高橋康也/訳(書肆山田、一九九七)
・『To the Lighthouse (English Edition)』Virginia Woolf
・『神谷美恵子著作集 4 ヴァジニア・ウルフ研究』神谷美恵子/著(みすず書房、一九八一)
・『インド音楽序説』B・C・デーヴァ/著 中川博志/訳(東方出版、一九九四)
・『シュルツ全小説』ブルーノ・シュルツ著 工藤幸雄/訳(平凡社、二〇〇五)
・『フィネガン辛航紀:「フィネガンズ・ウェイク」を読むための本』柳瀬尚紀/著(河出書房新社、一九九二)
・『ユリシーズ航海記:「ユリシーズ」を読むための本』柳瀬尚紀/著(河出書房新社、二〇一七)
・『戦争と一人の作家:坂口安吾論』佐々木中/著(河出書房新社、二〇一六)
第二部
・『歌うネアンデルタール』スティーヴン・ミズン/著 熊谷淳子/訳(早川書房、二〇〇六)
・『カルメル山登攀〈改訂版〉』十字架のヨハネ/著 奥村一郎/訳(ドン・ボスコ社、二〇一二)
・『ソウルの市民民主主義:日本の政治を変えるために』白石孝/編著 朴元淳/著(コモンズ、二〇一八)
・『シグニファイング・モンキー:もの騙る猿 アフロ・アメリカン文学評論理論』ヘンリー・ルイス・ゲイツ・ジュニア/著 松本昇/監訳 清水菜穂/監訳(南雲堂フェニックス、二〇〇九)
・『サロメ』オスカー・ワイルド/著 福田恒存/訳(岩波書店、一九八一)
・『サロメ:Cinema square Magazine No.62』南俊子/編(シネマスクエアとうきゅう、一九九八)
第三部
・『イスラーム概説』ハミードッ=ラー/著 黒田美代子/訳(イスラミックセンター・ジャパン、一九八三)
・『イスラームの理解』アブルアァラー・マウドゥーディー/著 小泉明/訳(イスラミックセンター・ジャパン、二〇〇四)
・『コーランとハディースの根本教義⦅巻Ⅰ⦆』ニサール・アフマド/編(イスラミックセンター・ジャパン、二〇〇一)
・『コーラン 改版(岩波文庫)』井筒俊彦/訳(岩波書店、一九八五)
・『ルーミー語録(イスラーム古典叢書)』ルーミー/著 井筒俊彦/訳・解説(岩波書店、一九七八)
・『井筒俊彦全集 第5巻 存在顕現の形而上学』井筒俊彦/著(慶應義塾大学出版会、二〇一四)
・『中華と対話するイスラーム:17〜19世紀中国ムスリムの思想的営為』中西竜也/著(京都大学学術出版会、二〇一三)
・『物騒なフィクション:起源の分有をめぐって』フェティ・ベンスラマ/著 西谷修/訳(筑摩書房、一九九四)
・『パレスチナ問題』エドワード・W・サイード/著 杉田英明/訳(みすず書房、二〇〇四)
・『パレスチナ:動乱の100年』エリアス・サンバー/著 飯塚正人/監修 福田ゆき/訳 後藤淳一/訳(創元社、二〇〇二)
・『ホロコーストからガザへ:パレスチナの政治経済学』サラ・ロイ/著 岡真理/編訳 小田切拓/編訳 早尾貴紀/編訳(青土社、二〇〇九)
・『トーラーの名において:シオニズムに対するユダヤ教の抵抗の歴史』ヤコヴ・M・ラブキン/著 菅野賢治/訳(平凡社、二〇一〇)
・『イラン(暮らしがわかるアジア読本)』上岡弘二/編(河出書房新社、一九九九)
・『カフカ全集 7:決定版 日記』カフカ/著(新潮社、一九八一)
・『文学空間』モーリス・ブランショ/著 粟津則雄/訳 出口裕弘/訳(現代思潮社、一九七七)
・『日報隠蔽:南スーダンで自衛隊は何を見たのか』布施祐仁/著 三浦英之/著(集英社、二〇一八)
・『ダンス・バイブル〈増補新版〉:コンテンポラリー・ダンス誕生の秘密を探る』乗越たかお/著(河出書房新社、二〇一六)
・『舞踏言語──ちいさな廃星、昔恒星が一つ来て、幽かに“御晩です”と語り初めて、消えた』吉増剛造/著(論創社、二〇一八)
・第一章末引用句:THA BLUE HERB『この夜だけが(一九九六年VERSION)「20YEARS, PASSION & RAIN(二〇一八年)」所収 ©THA BLUE HERB RECORDINGS INC.
・第二章末引用句:RHYMESTER『サイレント・ナイト』「Bitter, Sweet & Beautiful(二〇一五年)」)所収 ©starplayers inc.
全章執筆日付
01 糾歌前夜 執筆:西暦2019年7月21~29日
02 聖なる海と感化院 執筆:西暦2019年8月6~11日
03 君の弟はゲイでおまけにサグ 執筆:西暦2019年8月20~26日
Interlude I XXXmas 執筆:西暦2019年8月31日~9月1日
04 鯰は生じゃ喰えないはずさ 執筆:西暦2019年10月30〜31日
05 騙されう者は彷徨ぬ 執筆:西暦2019年11月1〜2日
06 再出立 執筆:西暦2019年11月19〜21日
07 X列車で行こう 執筆:西暦2019年11月22〜23日
08 Foul & Fair 執筆:西暦2020年2月21日〜24日
09 2 U 執筆:西暦2020年2月25〜26日
10 칠월보다 더운 執筆:西暦2020年2月28〜29日
11 ἴδιος κοινός 執筆:西暦2020年3月2日
12 三人成虎 執筆:西暦2020年3月3日
13 Sensitive Obsessed Sister 執筆:西暦2020年3月3日
14 The Family of Black Sheep 執筆:西暦2020年3月23〜24日
15 Master & Servant 執筆:西暦2020年5月3日
16 Tinker Tailor Dark Duke 執筆:西暦2020年5月4〜5日
17 Howth Castle & Environs(戯曲版) 執筆:西暦2020年5月9〜10日
17 Howth Castle & Environs(小説版) 執筆:西暦2020年5月12〜13日
Interlude Ⅱ I luv my CUMputer 執筆:西暦2020年5月16日
18 To The Bone 執筆:西暦2020年6月7日
19 Clothes to Me 執筆:西暦2020年6月10日
20 Hallowed Be Thy Game 執筆:西暦2020年6月14日
21 Hardcore Peace 執筆:西暦2020年6月16〜17日
22 我ら啓典の民 執筆:西暦2020年8月8〜11日
23 何故 執筆:西暦2020年8月29日
24 聖者への路 執筆:西暦2020年9月5〜6日
25 鯨 執筆:西暦2020年9月12日
26 庭 執筆:西暦2020年9月13日
27 残品 執筆:西暦2020年9月17日
28 これを限りに 執筆:西暦2020年9月24日
29 下僕の大道 執筆:西暦2020年9月25日
Interlude III 抱擁 執筆:西暦2020年9月27日
30 こよなき誕生 執筆:西暦2020年9月30日
dealofgod 執筆:西暦2020年10月25日〜11月1日
〔付録〕Howth Castle & Environs(戯曲版)
場所 アイルランド ダブリン湾
人物
χορός
93
龍九三
國分測
漁火イリチ
Shamerock
シーラ・オサリヴァン
メリッサ・マッコイ
锡鼓
허한나
蔡茉莉
Innuendo
エリザベス・エリオット
グウェンドリン・ウォーターズ
Defiant
イネス・ンデュマ
ゾフィア・クロソウスカ
Peterloo
岩走マキ
大浦典午
霧島四七
尾道
君臨・敬虔・改悛(3R)および聖パトリック党
ブリジッド・オサリヴァン
アンガス・アポロ
3Rの構成員たち
A-Prime
パンゲア
ジンバブウェ
ゴンドワナ
その他
港湾労働者たち
警察官たち
ファンたち
ダブリン市民たち
第一幕
第一場 ダブリン港
曇天、早朝。
ダブリン港のゲート前に、ブリジッド・オサリヴァン、アンガス・アポロ、そして「君臨・敬虔・改悛」の構成員たちが大挙して到来する。
ブリジッド よろしいですこと? 皆様、アイルランドの興廃はこの一戦にございましてよ! あのふしだらな女どもの一群を、誰一人としてこの土地に入れてはなりませんわ!
3R構成員A ええもちろん! この真正なる信仰の土地に、奴輩の淫らな歌が響くことはありませんわ、たとえ雛鳥のさえずり程度だとしても!
3R構成員B そうですとも! 穢らしい烏どもは、孵らぬうちに巣ごと叩き落としてあげるのが温情というもの。カアカアとうるさく鳴き始めてから駆除しては、そっちのほうがかわいそうですもの! ねえ党首?
アンガス もちろんですとも、高潔にして恭倹なる御婦人がた。外から来る脅威に対しては、かのハドリアヌスのごとく、あとよく知りませんが昔の中国の皇帝のごとく、高く壁を築いて防ぐのが常道です。我が聖パトリック党は皆様の抗議を全面的に支持しますぞ。あの野蛮人どもにわからせてやりましょう、土地には土地の流儀があるということを!
一同、ゲート前でシュプレヒコールを繰り返す。
騒ぎを聞きつけた主任が港内から出てくる。
港主任 なんですかこれは、いったい何の騒ぎですか?
アンガス これはこれは、尊敬に値する労働者よ! 日々の精勤ごくろうさまです、ダブリンは謹直なる皆様の働きによって成り立っておりますぞ。
港主任 それはどうでもいいんですが、すごい人数ですな。こう人垣を作られては、我々も仕事のしようがないのですがね。
ブリジッド 仕事のしようが? 不思議なことをおっしゃいますわ。皆様は今日いちにちお休みですわよ。
港主任 はあ?
3R構成員A お聞き及びでない?
アンガス 今日、正午過ぎになるはずですが、この港に一隻の船が訪れます。その船はなんとも胡乱な興行でアイルランドから木戸銭を巻き上げるのみならず、許し難い犯罪者どもがその舵を取っているのです!
3R構成員A そう! 私たち、尻尾は掴んでおりましてよ!
港主任 その船を拒むために、我々に協力しろと?
アンガス 率直に申し上げればそうなります、尊敬に値する労働者よ。
港主任 できん相談ですな、たかだか一隻の船のために港を封鎖しろなどと。だいたいなんですかその動機は、許しがたい犯罪がどうとか……
3R構成員B 確固たる証拠があるのです!
3R構成員A ええ、同志、あれを!
ブリジッド ええ、同志! 包み隠さず申し上げますわ、これから到来するYonahという船は、人殺しです、人殺しを乗せた船なのです!
港主任 はあ?
アンガス あの船を使って胡乱な商売を行っている、正確にはその後援をしているPeterlooというNGOがあります。そこに属する二名が艦長として任命されているのですが、人殺しです! かつて、PKOに従事してアフリカの地で虐殺を行った者たちなのです!
港主任 頭痛がひどくなってきましたな。いいですか皆さん、NGOだかPKOだか知りませんが、そんな出鱈目ばかり並べられると、苛立ちのあまり目の前の一人一人をTKOしたくなる衝動が抑えられませんな。
3R構成員A まあ、なんと暴力的な物言い!
3R構成員B 我々は平和的に交渉しておりますのに!
港主任 わかりましたから、もうお引き取りに……
主任の背後から、突如として喚き声が上がる。
港主任 なんだ、一体? おい君ら、いつも通りの支度はどうした?
港湾労働者A それが、私にもよくわからんのですが……
港湾労働者B 港の封鎖を求めて、ストライキが起こっているようです。
港主任 なんだと? さっきまで何事もなかったろう?
アンガス 天網恢々ですな、すでに事態は世間の知るところとなったのです。
3R構成員A おわかりでしょう、もうあなたひとりの問題ではないのです!
港主任 そのストライキというのは……
港湾労働者A なんだか、ヨナという船を追い払えとか……船ならヨナでなくノアではないのかと、いちおう問い返してはみたのですが。
港湾労働者B まったく要領を得ず……というか、その者たちもなぜ自分がストを起こしているのだか、よくわかっていないようでして……
港主任 (アンガスに向かって)貴様ら、我々の内部者を買収したな?
アンガス なんと! これはこれは、謂れなき誹謗中傷ではありませんかな! このアンガス・アポロ、白鳥もかくやの潔白さをもって今日まで生きてきましたぞ。まさか、我々の主張を通すために敬愛なるご婦人がたの夫たちにストをお願いしたなどと、そんなことが……
港主任 そこまで詳しく言っていないぞ、自分で全部告白したな。(港湾労働者に向かって)おい君ら、ストのやつらをこの厄介者どもに引き合わせて、顔見知りではないのかと……
港内での喚き声が音量を増す。
港主任 なん、なんだ、あっちでもか!
ブリジッド たいへん! これはもう事態の収拾のために我々が出向くほかありませんわ!
3R構成員A ええ、もちろん!
アンガス 尊敬に値する労働者よ、失礼しますぞ!
アンガスに先導され、港内に乱入する3R。
港主任 おい、まて、くそっなんだというんだ、宗教きちがいどもの狂気が、ついにダブリンまるごと呑み込んだか!
第二場 Yonah船内 艦長室
一三時三〇分頃 ダブリン湾。
停泊前、尾道が港内での異変を察知する。
尾道 申し上げます。
マキ 何か異変か。
尾道 はい、ダブリン港にて物資及び電源の供給を受ける予定でしたが、どうやら港が封鎖状態にあるようです。
マキ 封鎖? いつからだ?
尾道 ニュースサイト等を検索してみましたが、どうやら本日早朝に突如としてストライキが……しかもどうやら、限定的に、我々の入港のみを拒絶すべく起こされたらしいのです。
マキ Yonahのみを? わけがわからん、こちらは四ヶ月前に予定を報告済だし、諸々の費用も支払済だぞ。
尾道 それが……申し上げにくいのですが……
マキ なんだ、隠さず言え。
尾道 どうやら、Peterlooの……マキ様と典午様のお二人を弾劾対象として、騒ぎが持ち上がっているようなのです。
マキ 我々が一体何をしたと?
尾道 ええと……「君臨・敬虔・改悛」のwebサイトに記載されている文言をそのまま読み上げます。「χορός客船の艦長に一大スキャンダル」、「元自衛隊員、かつてPKOにて民間人虐殺を遂行」、「隠蔽された記録」……
第三場 Yonah船内 一番キャビン デッキ付近の談話室
室内にはDefiantの二名。
入室する93の三名。
九三 イネス、これ一体どうなってんの?
イネス どうって、見ての通りとしか言いようがない。(スマートフォン画面内の中継映像を見せる)
九三 うわ、すげえ数。桟橋まで占拠してるのか。
イリチ めっちゃプラカード立ってるじゃないすかー。
九三 なんて書いてるんだこれ、ちっさくて読めない……
ゾフィア 静止画なら結構上がってるよ、(ニュースサイトの画像を見せる)ほら。
九三 なん…… “MASS MURDERERS on that ship” 。
測 “No Place for the Wicked” , “PURIFY THEM ALL with OUR PURITY” ……なんだか、やたらと宗教的な言い回しね。
イネス どうやら、カトリックの市民団体によるデモらしいんだよね。右派っていうか、聖書原理主義な感じの。
九三 え……? それなんか聞いたことが……
入室するShamerockの二名。
シーラ やっぱりあいつらか……
九三 あっ姫、やっぱりってことは。
メリッサ あれ、だねえ……
シーラ (溜息をつきながら)初めて会ったとき話したな、あたしの母親のこと……「君臨・敬虔・改悛」のリーダー、ブリジッド・オサリヴァン。
測 あのとき言ってた……まさか、ここまで大規模な団体だったとは。
シーラ いや、今回の騒ぎは水増しされてる。3Rだけでここまでのことができるとは思えない。
九三 なにって?
シーラ あー、ニュースサイトでも略記されてるだろ……「君臨・敬虔・改悛」、その頭文字をとって3Rと呼ばれてるらしい。
九三 3Rか……たしかに審判には違いないけど。
測 (ニュースサイトの記事を読みながら)なんだか聖パトリック党の公式声明も出てるけど、これも共謀だと?
シーラ (頷きながら)そもそも、3R自体がその右派政党の支持母体として発足されたものだからな。党首はアンガス・アポロ。アポロといっても、奴の竪琴の音はひどく歪んでるようだ。
九三 え?
メリッサ 竪琴はアポロンの神具であって、それと同じ姓を冠した男が音楽による表現の自由を全く解していない、という事実を姫なりのウィットで……
シーラ (遮って)解説やめろ、恥ずかしい。まあそういうことだ、前々から言論とか音楽とか出版物への道徳的規制を推し進めてたが、まさかこうして真っ向からぶつかるとは……
イリチ でもこの人たちの言い分わけわかんないすよ、スキャンダルとかなんとか……Peterlooていう、うちの艦長さんと副艦長さんの所属組織? がディスられてるんすか?
メリッサ だし、姫が一時的に身柄を保護してもらってる組織、でもあるねえ。
測 えっ……
シーラ (頷いて)ゴールウェイから家出して、ミッシーの家族の世話になったときな。居場所のない子どもの権利を保護するNGOがあると知って。
メリッサ だから姫、国籍はアイルランドだけどソーシャルセキュリティはPeterloo持ちなんだよね。
九三 そっか……じゃあ今回3Rが出てきたのも。
シーラ あたしの家出と関係ない、とは言えないな……
第四場 ダブリン港 周辺
ブリジッド 皆さん、あれです、ついに現れました!
3R構成員A あれがあの船!
ブリジッド あれがあの船です!
3R構成員B あれがあの船!
ブリジッド あれがあの船ですね! まったく、図体ばかりばかでかくて、まるで戦艦のようではありませんか! もしかしたら、我々の国を火の海にするつもりかもしれません! いえもしかしたらではないのです、本当に焼き尽くすつもりなのです、淫靡なる劫火でもって!
3R構成員A 比喩的表現です!
ブリジッド そう、比喩的表現ですよ、本当に火を放つわけではないですけど!
3R構成員B 比喩的表現ですね! しかしむしろそっちのが恐ろしいではありませんか、せっかく独立を勝ち得て、血まみれの英国人の腕から解き放たれ、ついに純潔なるカトリック国家として立ち直った我々が、他所からやってきた罪深き船団によって侵略されてしまう、文化的に!
ブリジッド そう、文化的に!
アンガス 恐ろしいことです、奴らはそこを狙うのです! うら若き魂に、安っぽい虚飾でもって歪な性愛や邪な信仰を売り込みにくる! 文明の破滅は文化の腐敗から出来するのです!
3R構成員B 神よお慈悲を!
ブリジッド こんな災厄を呼び寄せてしまった我々にお慈悲を! しかし、彼の船にひしめく堕落した人間どもの舌には禍を! もう奴輩が二度と冒涜の言葉を吐けないように、舌の根から切り取ってしまわれんことを!
アンガス ええ、ですが我々が実際にやるわけではありません!
ブリジッド それはもちろん!
3R構成員A 復讐するのは神であって、我々ではありませんものね!
ブリジッド そうです、我々はそのことをよく知っています! しかしこの国の運命を神に委ねてばかりもいられません、我々はあくまで、あくまで平和的に、あの罪深き船団を追い払おうではありませんか!
アンガス Amen!
3R構成員A Amen!
3R構成員B Amen!
第五場 Yonah船内 艦長室
艦長室内で聞き取り調査を行う警察。
デスクにマキ、入り口付近の扉に典午。
警察官A それではまあ、訊くも憚られることですが、あの団体が弾劾しているスキャンダルの真偽については……
マキ 応えるも愚かなことだ。真っ赤な嘘だと、いちいち言わねばならんのか。
警察官B いえ、愚にもつかぬ虚言だと判ってはいるのですが、いちおう記録しておかねばなりませんので……
マキ 私と典午が、陸上自衛隊在籍中に、PKOで派遣された先のスーダンで民間人虐殺を……などと、よくもそんなでっち上げを。我々の声明だけでは信用ならんなら、国連やPeterlooや自衛隊にも諮問してみたらいい、そのような記録が残っているかどうか。私から言えることは以上だ、くだらん。
警察官A ええ、わかっております。貴重なお時間を頂戴して申し訳ありません。
警察官B 大浦氏におかれましても、岩走氏の見解に同意ということでよろしいでしょうか?
典午 ああ。
警察官A 了解しました、それではこれで……
マキ 待て、港は本当に解放されるのだろうな? この船はサン・ルイスからの長旅を経てここに着いたのだ、物資と電源の供給を受ける必要がある。
警察官A ええと、それに関しては……
警察官B まだ確言が……できかねまして……
マキ 何だと? 君たちは何の仕事をしてるんだ、今すぐ戻って、あの団体の弾劾がでっち上げだと認めさせたうえで散会させる、それだけの話だろう。
警察官A いえ、それが……3Rのデモと港湾のストは、それぞれ別の問題でございまして……
警察官B よしんば3Rを散会させたとしても、同時に港湾のストも収まるとは考えられません。
マキ ふん、二段構えというわけか……ならばこちらとしてはダブリン港を告訴するまでだ。契約を履行せず、支払済の料金に相当する待遇を拒絶したとしてな。
警察官A ええ、こちらも港の主任に伝えてまいります……ひとまず、このまま停泊したままでお待ちください。
マキ 一刻もはやく事態の収拾に努めてくれ。
警察官B はい、それではこの辺で……
警察官、退室。
典午、後ろ手でドアを閉める。
マキ 典午……
典午 ああ。
マキ 抹消された、はずだな。もし我々が取り戻そうと望んだとして、記録自体もう残っていないはずだな……
典午 ああ、そのはずだ。
マキ ならばなぜ、あの団体に……
典午 あの場に居合わせた誰かが吹聴した……以外の可能性は考えられん。
マキ 居合わせた誰か。我々の知る限り、二人しかいないはずだな。我々二人を除いては……
典午 ああ、まず、いま霧島四七と名乗っている彼。
マキ 彼女、だろ。
典午 それはどちらでもいい。四七と、彼を養子として引き取った、あの……
マキ 百済不二良、か。
無言で頷く典午。
数秒間の沈黙。
マキ ではなぜ、彼女が。
数秒間の沈黙。
マキ 裁くためか、我々を。
典午 まさか……そんなに容易い終幕を与えてくれる彼女ではない。
マキ では、何のために。
典午 試すためではないだろうか……龍九三を。
マキ 九三? なぜ彼女を?
典午 四七から聞いた話だが……百済不二良と龍九三は、かつて親しい間柄にあったという。突如として不二良のほうから袖にしたらしいが、不二良は今でも九三のために行動していると……我々がこの船に乗せられたのも、それと無関係ではないらしい、と……
第六場 Yonah船内 一番キャビン デッキ付近の談話室
한나 ああもう、うるせえなー外。
茉莉 この部屋の中まで聞こえてくるって、相当だね……
メリッサ 停泊許してもらったのも、結果としてはマズかったかもね。あの人ら、誰一人としてダブリンには入れないーっていきり立ってるし、もしかしたらギリギリのとこまで来てるかも。
シーラ 疫病かあたしらは……
メリッサ ていうか、ドラキュラ伯爵じゃん?
九三 え?
メリッサ ほら、ドラキュラって船に乗ってロンドンまで来たんでしょ?
九三 そうなん、翔んできたんじゃないの? 羽根はえてるでしょドラキュラって。
メリッサ そうだっけ。
シーラ 映画かなんかと間違えてないか?
한나 いやあれだよ、吸血鬼って水ダメでしょ確か。さすがに船には乗らないんじゃないの。
九三 だよね、危ないし。
한나 船酔いもしそうだし。
イリチ 吸血鬼って船酔いするんすかね。
한나 わかんないけど、いつも顔色悪いもんな。
九三 会ったことあるみたいに言うね。
イリチ 友達みたいっす。
한나 実はあたし吸血鬼モノのこと全然知らないんだけどね、ソン・ガンホのやつくらいしか。
九三 ソン・ガンホは顔色悪くないでしょ。
한나 確かに。
イリチ 意外っすね、クリスチャンの人って吸血鬼モノくわしそうなのに。
九三 そうかな。
한나 吸血鬼とキリストって関係あるの?
イリチ わからんすけど、十字架で殺せるじゃないすか。はかるんそのへんどうすか?
測 なぜ私に……会ったことないよ吸血鬼なんか。
イリチ いや、クリスチャンとして。
測 親がそうだっただけで、私は違うから。
メリッサ 敬虔なキリスト教徒だったけど、戦争で色々あって堕落したんじゃないっけ、ドラキュラって。
シーラ それはただの史実だろう。
メリッサ えっ、ドラキュラって史実版と脚色版があるの?
茉莉 三国志みたいな……
九三 八犬伝みたいな。
測 八犬伝は全部創作だから。
한나 姫はドラキュラくわしいのか。
九三 さすがアイルランド出身。
メリッサ えっ?
シーラ 関係ないだろう。
九三 でもアイルランド系でしょ『ドラキュラ』の作者って。「怪奇作品のオリジネーターはだいたいゲイかアイリッシュ」って、クライヴ・バーがエッセイで書いてた気がする。
シーラ え……? ミッシー、クライヴ・バーって誰だ。
メリッサ アイアン・メイデンのドラマー。
九三 あ、間違えた、クライヴ・バーカーだ。
測 クライヴ・バーカーはわかるのになんで『ドラキュラ』の作者は思い出せないの。
九三 測だって思い出せてないんだろ。
イリチ アイアン・メイデンってフランケンシュタインの敵すか?
測 違うよ。
イリチ でもどっちも強そうじゃないすか、名前も似てるし。闘ったことありそう。
測 そもそも生き物じゃないから。
九三 いや、フランケンシュタインは生き物だろ。
測 ヴィクター・フランケンシュタインは生き物だけど怪物は生き物じゃないから。
한나 でもアイアン・メイデンのTシャツの生き物いるじゃん。
メリッサ あれはエディだから、アイアン・メイデンじゃないな。
한나 え? じゃあ、アイアン・メイデンの作者って誰?
測 アイアン・メイデンの作者って何。
メリッサ そもそも小説じゃないな。
한나 『フランケンシュタイン』は小説なのに? フランケンシュタインに花嫁がいるならアイアン・メイデンに作者がいてもよくない?
九三 多分あれだよ、夫のほうのシェリー。
한나 夫のほうのシェリーって誰。
九三 いや知らないけど、確かそっちも作家だったろ。
メリッサ あれでしょ、バイロン卿と友達の。
イリチ また名前増えたっす。
九三 バイロン卿ってドラキュラの敵?
測 違うよ。
シーラ ヴァン・ヘルシングと間違えてるだろ。
九三 そうだっけ……なんの話だっけ?
한나 『ドラキュラ』の作者って誰だっけ、って話。
測 違うよ。
Defiantの二名、入室。
イネス お待たせ。結果から言うぞ、ダメだった。
九三 ええ、交渉決裂?
ゾフィア うん、電源と物資の供給さえ受けたらすぐに去るからって譲歩したんだけど、それさえも拒絶されちゃって。
測 拒絶……じゃあ、このままホウスまで行けってこと?
イネス そうなるね……アイルランド公演が終わったら、スコットランドに接岸して、それで船での移動は終わりだから、いけるっちゃいけるんだけど……
한나 いやだめだろ、酒とか食いもんとか足せないし。
九三 タバコも。
測 そもそもツアー開始前に、各地の港に契約や支払は済ませてるんでしょう。
ゾフィア そうだけど、あまりにも団体の抵抗が激しすぎて。
茉莉 (テーブル上のラップトップを操作しながら)わ、うわあ……
한나 どしたん。
茉莉 いま上がった動画ですけど……見てください、これ。
ラップトップを取り囲む九三、イリチ、メリッサ。
九三 うわ、これ……
メリッサ 埠頭、だなあ。ホウスの。
イリチ 人びっちりじゃないすかー!
イネス ああ、もうそっちまで占められてるかあ……
測 っていうことは……
ゾフィア (頷きながら)今回の公演自体が危うい、ってこと。
九三 えー!
イネス 妥協して、ダブリン中止で次のエディンバラまでなんとか漕ぎ着けたら、ってA-Primeは言ってるけど……
九三 いや駄目だろ、だって今もう連合国だろ。ダブリンで公演中止しちゃったら、味をしめてスコットランドでも同じことやられるだろ。
メリッサ こっちはカトリックの影響力がそんなに強くないとはいえ、今日のと同じ人たちが来るのは確実だねえ……
室内、数秒の沈黙。
イネス どうする、シーラ。
メリッサ はは、なんで姫に?
イネス 3Rのリーダー、つまりきみの母親だが、彼女の頑なな公演阻止の動機は、娘の存在にあるんじゃないかと思ってね。
メリッサ 関係ないよ、だって姫は……
メリッサの声を遮って起立するシーラ。
シーラ 関係ある。ここまでの事態になったのは、あたしのツケが回ってきたからだ。
メリッサ 姫……
シーラ だから妥協なんかしない。徹底抗戦だ。奴らの掲げてるお題目は、あたしが家の中で聞かされた文句と寸分も違っちゃいない。不道徳がどうとか堕落がどうとか。いつだって母はそう言って歌をやめさせてきたんだ。だからもう交渉の余地なんかない。奴らと言葉でわかりあおうなんて段階は、とっくの昔に通り過ぎてるんだ。
測 じゃあ……どうするの?
シーラ 徹底的にぶっ叩いてやめさせる。法的手段でもなんでもいい、非があるのはあいつらなんだからな。あの世迷言を黙らせた上で、こっちの要求を全部飲ませる。いかなる手段をとってもだ。
イネス By any means necessary, かい。
ゾフィア しかしシーラ、そうしたとして、火に油を注ぐ結果にならないかな。
シーラ なんでだ。
ゾフィア お母さんがあれだけムキになってる理由にあなたの存在があるってことは、さっき認めたでしょう。だからこそ、あなたが出向いて強硬的に接したら、もうお互いに退っ引きならなくなる……具体的には、流血にまで発展する可能性がある。
シーラ それが何だ。奴らが望んでるのはそういうことだろ。だったらお望みどおりにやってやる、奴らのナメきった態度に乗ったうえで、正しいのはこっちだってわからせてやる。
室内、数秒の沈黙。
九三 それは、違うんじゃないかな。
シーラ 何。
九三 もし今回のが、姫ひとりの問題だったとしても、その解決策は正しくないと思うな。
シーラ ふん、お前らしくもないな、たわごと並べる奴らになびくのか。
九三 そうじゃない……そうじゃないんだ。
ゆっくりと起立する九三。
九三 それとは別の意味で……敗けだよ。もし姫がさっき言ったことをやっちゃったら、こっちの敗けになっちゃうよ。
シーラ 敗けって何だよ、このまま引き退がるほうが敗けだろ。
九三 違う。そうしちゃったら、姫もあの人らと同じになっちゃうってこと。
シーラ 何……
九三 姫とお母さんの間に何があったか、わたしは知らない。でも3Rが明らかにおかしいのはわかる。だからこそ、これは話し合いで解決すべき。いま、わたしらの公演が脅かされてるのは確かだ。だからこそ、向こうがやってるのとは別の手段で解決しなきゃいけない。姫、あなたはいくら怒っても、憎んでもいいと思う。でも、正しくないと判ってる相手と、同じものになっちゃ駄目だよ。
室内、数秒の沈黙。
シーラ ミッシー、どう思う。
メリッサ ごめんね姫、九三が正しいと思うな。
シーラ 他のやつらは。
한나 あたしも龍に賛成。こっちもがーって行ったら、あいつら余計に調子づきそうだし。
茉莉 私も、九三に賛成です……話し合いで解決できたら、一番いいと思います。
シーラ イネス、ゾフィア、どう思う。
イネス 吾も九三だなあ。法的手段とかはもちろん取るけど、それは収拾段階で進めるべきこと。今こっちが振りかざしたら、あっちは袋小路まで追い詰められる。そしたら何しでかすかわかんないよ。
ゾフィア 私も同じく。まあ、宗教原理主義者たちのデモなんて飽きるほど見てきたけど、今回のは明らかに歯止めが効かなくなったパターンだよ。たぶん向こうも、自分たちが何を主張してるかさえ分からなくなってるんじゃないかな。あの人たちの言葉には、脅かされるくらいなら脅かしたほうがいいっていう、よくある怯えが透けて見えるから。
シーラ 怯え……か。93のふたりには……訊くまでもないな。
無言で頷く測。微笑むイリチ。
九三 じゃあ……姫。
シーラ 好きにしろ、あたしはもう一切意見しない。対話で解決できるなら、してみればいい。本当にできるなら、の話だがな。
九三 ありがとう。じゃ、イネス、そういうことでいいね?
イネス おう。じゃ、尾道。
尾道、出てこない。
イネス 尾道? 尾道!
尾道、室内入口に投射される。
尾道 尾道ですが。
イネス 艦長に伝えてくれ、交渉はまだ続けると。港に出張ってる3Rのもとへ、九三が直接話しにいく……ってことでいいよな?
九三 もちろん。
イネス ってことで、伝えたら、お前も昇降口のゲートで待っててくれ。
尾道 はいはい……
イネス 「はい」は一回でいい。あと尾道。
尾道 はい?
イネス 女王陛下と闇公爵様の姿が見えないけど、今どこ?
尾道 エリザベスとウェンダ様のことでしたら、前者はあのタコ部屋に、後者は王の御殿に、それぞれ控えておられます。
ゾフィア ウェンダは今回の事態について何も?
尾道 ええ、特に何も。というかアイルランド公演にもさほどご興味がございませんでしたようで、ブリテンでの四公演に漕ぎつけさえすればいい、とのことです。
한나 自分が勝つ前提かい、いけ好かねえなー。
ゾフィア エリザベスは保留、ウェンダは中止でも構わない、ってことね。じゃあ、尾道は言われた通りのことを。
尾道、消える。
イネス それじゃ、準備といこうか。こっから骨だぞ九三、吾らはビデオ電話での交渉だからまだよかったけど、直接会うとなると……
ゾフィア 港はもう、蜂の巣みたいなもんだと思って。
九三 そんくらい、自分で言ったことだよ。はやく行こう、もう一六時だ。
第七場 Yonah船内 艦長室
尾道 というわけで、これより昇降口に参ります。
マキ ああ、くれぐれも暴力沙汰にならないよう。
尾道 了解いたしました。
尾道、消える。
デスクの前に立ち、タバコの箱を取り出し、回頭して窓ガラス越しに空を眺めるマキ。
その後方の扉から四七が入室する。
四七 いやあ、それにしても、いい娘ちゃんたちばかり集まったものですね。あのスキャンダルが事実かもしれない、なんて、考えもしないのですから。
第二幕
第一場 ダブリン港 内部
昇降口から四七を伴って降りる九三。
警察の保護のもと先導されるが、脇道に控えた3R構成員からの罵声が飛び交っている。
九三 そいじゃ、気張らずいきますかー。
四七 はい、いってらっしゃいませ。
九三 なんでだよ、お前も行くんだろ。
四七 なぜその必要が? 船内から港までなんて、迷いようがないでしょう。
九三 いや案内役っていうよりは、通訳役だよ。四七は語学がよくできるんだろ、不二良に見込まれた程度には。
四七 それはそうですが、通訳であればなおさら要らないと思いますよ。あの人々にも皆、GILAffeは入っているようですから。
九三 えっ。
四七 Defiantのお二人がビデオ電話で交渉しているのを見ておりましたが、始終ずっと日本語でしたよ。
九三 なんそれ、そこまで急速に普及してるのGILAffeって!? まだ解禁から四ヶ月くらいしか経ってないよ?
四七 まあ、一神教徒にとっては永遠のテーマですからね。バベル以前の普遍言語、的な。そりゃあ喰いつくでしょう。
九三 えーじゃあアイルランドの人でも直接日本語で話せるわけか。それって……キ、キモいー! なんか日本が世界征服した設定みたいじゃん。
四七 現実であるからには、受け入れませんと。
九三 うう……わかったよ、それはいいけど、四七も一応ついてきて。
四七 大丈夫ですか、そんなへっぴり腰で。
九三 いやあ、さすがになんかあったら目撃者が必要だろ、あっちの言い分だけだと歪められちゃいそうだし。
四七 過ぎた心配だと思いますが。
第二場 ダブリン港 内部
背後から、硬直的な批難の声を浴びせる女性たちの声と、なんともやる気のない男性たちの声がかぶさる。
九三 (歩きながら)えっと……3Rのひとたちが怒ってるのはわかるとして、あの港湾労働者たちはなんなんだろう。
四七 買収されて、適当にやってるのでは。
九三 こんだけの人数買収するって可能か? いくら政党がバックについてるとはいえ。
四七 単に、3Rの構成員たちの配偶者が付き合わされてるだけかも。ならあのやる気のなさも納得です。
九三 そんなに港湾労働者と結婚してるのか3Rの人らって? それとも、単にタブリン市民の大半が3Rで、だから自然に港湾にも息がかかるみたいな……あー、しょうもないこと考えるなっての。
四七 (ドアの前で立ち止まって)ワタシが同行できるのもここまでのようですよ。
港主任 3R側の要請で、交渉の場にはYonah側から一人のみとなっております。
九三 んー、仕方ないか。
港主任 対話の様子は撮影するというので、既にプレス陣も控えております。ので、滅多なことはしないと思いますが……
九三 ん、わかった。じゃあ四七、ここで待ってて。
四七 はい、ご健闘を。
九三、会議室に入室。
と同時に、夥しい数のカメラによるフラッシュ。そこに被さる甲高い声。
3R構成員A 名乗りなさい!
九三 あー、福岡県から来ました龍九三です。χορόςでは93ってグループでやってます。
3R構成員B 皆さん、ついに、ついにです。準備はよろしいですね?
3R一同が目を見合わせて頷く。
プレスの撮影ラッシュが収まり、室内に静けさが戻る。
ブリジッド それでは、龍さん。そちらへどうぞ。
九三 (歩きながら)は、はい。
ブリジッドと九三との、一対一の構図。だが、ブリジッドの後方には二〇人ほどの3R構成員が控えている。
ブリジッド 我々と直接会って話がしたいとのことですが、一体どのような御用向きで?
九三 いえ、シンプルなことです。この港を解放して、うちの船に物資と電源を供給してほしいなって。
3R構成員A それを断るために私たちは立ち上がったんじゃありませんか!
3R構成員B そうです!
ブリジッド (後方を見ながら)皆さん、落ち着いて。あくまで冷静にお話ししましょう。(前方に向き直って)さて龍さん、我々と致しましては、講和に応じるわけには参りません。おわかりでしょう、どうあっても我々は、あなたがたを、一人たりとも、この地に、迎え入れるわけにはいかないのです。
九三 って……なんでですか?
ブリジッド あなたがたが世界中で行っている公演とやらは、我々の道徳と真っ向から対立するものです。
九三 歌とダンスが……? そんなん世界中にあるじゃないですか、もちろんこのアイルランドにも。トラッドとかダンスとか、優れた文化がいっぱいあるでしょ。
3R構成員B 我々の文化と、あなたがたのふしだらな催しを一緒にしないでいただきたい!
3R構成員C 無礼です、いかにも無礼!
ブリジッド (後方を見ながら)皆さん、落ち着いて。(前方に向き直って)ねえ龍さん、あなたがたがどんな音楽をやろうが勝手です、表現の自由は保障されて然るべきですからね。しかしね、どうしてアイルランドにまでそれを持ち込もうとするのか、と我々は訊きたいわけです
九三 え……? だってツアーだし……これからスコットランドとイングランドでもやるし……
ブリジッド イングランドで? 結構なことじゃありませんか、あなたがたの凶暴な風習は、血まみれの帝国にはきっと似つかわしいものと思いますわ。だから、はやくあちらに向かっては? もうこの土地に用は無いでしょう?
九三 いやだから、言ったじゃないですか、電源と物資を供給してくれって。わたしらサン・ルイスから直で来たんで、最低限のものしか残ってないんですよ。
3R構成員B 我々の施しに与るというのですか!
3R構成員C なんて図々しい!
九三 あのね、寄港については数ヶ月前に報せてるし、そのための費用も支払済のはずですけど。要するに、大人として、商売人として、まともに応じてくれって言ってるだけなんですよ。
3R構成員B そのために渡した物資や電力は、結局は何に使われるのですか!
3R構成員C あのおぞましい、悪魔的な催しのためでしょう?
3R構成員A そうです! よりによって、我々アイルランドの人間にあんなものの片棒を担げと!? それはまるで、今から戦争しに行くから武器を売ってくれと言われているようなものです!
九三 どういう理屈でそんな……
3R構成員A 同じことじゃありませんか、ねえ!
3R構成員B ええ、まったく同じことです! 我々は金のために魂を、この真正なる信仰を売り渡しはしません!
ブリジッド (後方を見ながら)皆さん、落ち着いて。(前方に向き直って)……さて龍さん、おわかりになりましたでしょう。我々は何があったって応じるわけにはいかないのです、あなたがたのふしだらな生業を後援することになりかねない以上は。もうよろしいですね。速やかにこの港から立ち去っていただきたい。
室内、数秒の沈黙。
九三 あの、ブリジッドさん。わたしの質問を、ひとつくらい訊いてくれてもいいじゃないですか。
ブリジッド もちろん、聞きますよ。どうぞ?
九三 あなたがたが主張している、あのスキャンダル、ですけど。
3R構成員A おお、口にするのも恐ろしい!
3R構成員B 悪魔の仕業です!
ブリジッド あれが……どうかしましたか?
九三 冷静に考えて、あれは根拠のない誹謗中傷でしかないと思うんです。
3R構成員B 何を、知りもしないくせに!
九三 ええ、おっしゃる通りです、わたしは何も知りません、そのスキャンダルについては。ただ不思議なのは、皆さんが先ほどから、まるで事実であると確信しているように見えることです。
3R構成員A 事実に決まってるじゃありませんか!
3R構成員B そう、直接私たちのところへ来て、教えてくれたんです!
ブリジッド (後方を見て)みなさん、静かに……
九三 (遮って)教えられた? ってことは、皆さんが独自に調査して掴んだわけじゃないんですね? 誰に教えられましたか? あなたがたにそのスキャンダルを吹き込んだのは、いったい誰なんです?
ブリジッド 答える必要はありません。大事なのは誰から教わったかじゃない、その事実が真か偽か、です。
九三 うちの岩走艦長は、はっきり事実でないと明言してますよ。
ブリジッド そんな虚言が信じられますか!
室内、数秒間の沈黙。
九三 ブリジッドさん。
ブリジッド なんですか……
九三 あなたの娘さんも、Yonahに乗ってますよね。シーラ・オサリヴァン。わたし、このツアー以前から、娘さんとは仲良くさせてもらってるんですが。
ブリジッド はあ、そうですか……
九三 あなたって、彼女が歌の道に進むことをよく思ってなくて、やめさせようとしたらしいですね。それで家出しちゃったって。
3R構成員A それが一体なんですか!
3R構成員B 交渉とはまったく関係のないことです。(プレス陣のほうへ向かって)カメラ、止めてください!
九三 つまりあなたと、うちの岩走艦長は、シーラにとって二人の母親ってことになるわけですよね。彼女は自分の意志でNGOの世話になることを選んだ。つまりあなたのところにはいたくなくて、岩走艦長のとこへ転がり込んだんです。
ブリジッド だから何だというの……
九三 だからなんじゃないですか? あなたが岩走艦長への誹謗中傷を行うのは、娘を奪われたという被害者意識を糊塗したいだけなのでは?
ブリジッド まあ、なんてことを!
3R構成員A 本当に、なんということを!
3R構成員B それこそ根拠のない誹謗中傷じゃないですか!
九三 違うなら謝ります。ただ、あなたが何故あのスキャンダルに執着するのか、疑問はまだ片付いてません。誰から聞いた話を、どういう理屈で事実と思うのか、感情的にならずに説明してください。
3R構成員C 説明する必要などありません! 事実なのです、事実ったら事実なのです!
3R構成員B そうです!
3R構成員A 我々には正当な権利があるのです、あなたがたのふしだらな生業をやめさせる権利が!
九三 あの、それがもう根本的にわかんないんですけど……いったい何なんですか、ふしだらとか堕落してるとか、さっきから一方的に言ってますけど?
室内、数秒の沈黙。
ブリジッド あなたがたのような……ソドミーの申し子が存在していること自体、我々には堪え難いことなのです。
九三 ソド……何?
ブリジッド はっきり言わなきゃわかりませんか? 女性同性愛者どもの巣窟、ということです! よりによってそんな汚辱の巷に、私の娘を拉致するなんて!!
九三 拉致っておい、姫は自分の意志であんたを捨てたって何度言えばわかるんだよ?
ブリジッド 姫などと、浮ついた名で呼ぶな! あの子はシーラ・パトリシア・オサリヴァン、私の娘です!
3R構成員A ええ、そうですとも!
3R構成員B だいたい姫などと、いかにも堕落したソドミーらしい呼び方!
九三 なんだよ、わたしがつけたわけじゃないし……しかしすごいなあんたら、さっきからホモフォビアを隠そうともしないが!
ブリジッド 道徳的に堕落した人々を軽蔑して何が悪いのです! ねえ皆さん!
3R構成員A そうですとも! 考えられません、あんな淫猥な歌を唄っている女たちが、よりによって同じ船内で過ごすなんて! きっと内部では連日連夜の乱交が行われているに違いない!
九三 なんそれ……あんたらの勝手な妄想だろ! あと女ばかりで乱交してたとして、それの何が悪いんだよ?
3R構成員A あっ! 皆さん、聞きました? 今あの人、認めましたわ! ほうらやっぱり、事実だった!
3R構成員B χορόςはソドミーたちの伏魔殿だわ!
3R構成員C なんてふしだらな!
3R構成員A 道徳的に堕落した者どもを、この神聖なるアイルランドに迎え入れるなど言語道断です!
九三 ちょっと、頼むから落ち着けよ……
3R構成員A もう宥恕などありえません!
3R構成員B ええ、わからないなら何度でも言ってあげます、我々はあなたがたの悪魔的な生業など認めません! 出て行きなさい!
九三 あんたら……心の臓までキリスト教徒だな、歌とダンスの力をそんなに恐れるなんてさ! しかしキリストも言ってたろ、ええと、わたしは剣でなく笛で踊りましたとか……
3R構成員B 「笛を吹いたのに、あなたがたは踊らなかった」でしょう!
3R構成員A なんと、我々の聖典を恣意的に歪めて引用するなんて!
3R構成員C しかもあの人、キリスト教徒のことをひとしなみに侮辱しましたわ!
3R構成員A 性的に堕落してるうえに差別主義者とは!
九三 おま、どの口でそんな……
ブリジッド 記者の皆様、この軽蔑すべき人間の顔をしっかり撮っていってくださいね!
九三 ああ、ちくしょう、そうだなしっかり撮っていってくれよ! わたしの目の前の、軽蔑すべきご婦人方の姿をな!
ブリジッド 何を……
九三 この対話をどう報道するかは、記者それぞれの自由だからな。「ジャーナリズムの力は大きい。世界を説得しうるような有能な編集者は、すべての世界の支配者ではなかろうか」。トマス・アクィナス、じゃない、カーライルの言葉だ、あんたらはそもそも知らんだろうが!
3R構成員A ほんとに、侮辱の語彙ばかり豊富な女!
九三 いいか、わたしらは正式な手続きを経て入港しようってだけだ、もう前日に全部済ませてるんだ。そんなこともわからないならもう全員……
3R構成員C モーゼモーゼと、我々の前で穢らわしいユダヤの名前を出すな!
九三 は!? な、何だよそれあんたらの聞き違いだし、キリスト教だってユダヤと同じ一神教だろ!
3R構成員C 我々の真正なる信仰はユダヤとは何も関係がない!
3R構成員B そうだ、謂れのない誹謗中傷だ!
九三 何なんだよあんたら、無茶苦茶だ! もしかして新約だけで旧約のほうは読んでないのか? そんな雑さで一神教徒が勤まるのかよ?
ブリジッド まあ、穢らわしいソドミーが、よりによって我々の信仰を云々するとは!!
3R構成員A 神よお慈悲を!
3R構成員B おお、終末の日は近い!
九三 クソッ、そうだなもうおしまいだ、こんな連中が一丁前にキリスト教徒を名乗ってるとは! いいか、あんたらは自分自身でキリストの名を汚してるんだ!
ブリジッド 出ていけ、出ていけ、悪魔め!!
九三、半狂乱の3R構成員の手によって揉みくちゃにされ、室外に放り出される。
第三場 ダブリン港 内部
四七 おめでとうございます。
九三 何がおめでとうだよ。
四七 (港の出口へと歩きながら)無事、交渉が決裂したようですので。これでおわかりになったでしょう、たとえGILAffeがあろうと、話の通じない相手には通じないと。
九三 まあ、ほんとにバベル崩壊後の大混乱って感じではあったけど……でも、ちくしょー、わたしもだいぶカッとなっちゃったな……話す前は冷静にいこうと思ってたのにさ……
四七 お気になさらず、最初から無理な話だったのですから。
九三 認めたくないけど……でもそうなんだよな、話の通じない人はいる。そういう人らが一方的に誰かを圧殺することも。ほんと、日本にいたときは気づかなかったけど、表現の自由なんて、地理的にも歴史的にもごく限られてる……
九三、足を留める。遅れて四七も立ち止まる。
四七 いかがなさいました?
九三 いや……ちょっと考えてて。こういうとき、不二良ならどうするかなって。
四七 急に……なんですか?
九三 あいつさ、口癖みたいにしょっちゅう言ってたんだよ、「この世界は変えられる」って。わたしたちが自明として受け取ってることは、実は地理的に歴史的に限定されたものでしかない、だからこそ人の手によって打開できるんだって。
四七 そう、ですか。
九三、立位の状態から大きく前屈する。
九三 不二良なら、どうするかな……あの人たちの信仰の歪みを、ひとつひとつ丁寧に指弾したかな。でも、それと同じことが、わたしなんかにできるわけないな。
四七 らしくもなく、思い詰めますね。もっとシンプルに考えたらいいのでは? あなたはあなたにできることをするしかない、とでも。
九三 わたしにしか……不二良にはできなくて、わたしにはできること……
数秒間の沈黙。
四七 九三様?
九三 ……音楽……
四七 えっ?
九三、姿勢を戻す。
九三 ……やるしかないか。
四七 えっ、あの……
九三 (駆け足で桟橋の方へ向かいながら)そうだ、シンプルに考えよう! ほらさっさと戻るぞ四七。わたしにできることなんてひとつしかなかった。わたしたちは最初から、音楽をしにきたんだ。
第四場 Yonah船内 一番キャビン デッキ付近の談話室
一七時前。室内中央のテーブルを囲み、一同が座位または立位で集っている。
イネス “Dance Dance Dance Dance Dance to the radio” 作戦……?
九三 あるいは、 “They Shoot Horses, Don’t They?” 作戦。
한나 なにそれ。
測 映画のタイトル。日本ではたしか『ひとりぼっちの青春』とかいう邦題で公開された……
イリチ どんな映画すか。
測 観客の見てる前で、死ぬまで踊り続ける、みたいな。
イリチ へえー、楽しそうすね。
測 いや、すごくダウナーな映画だったけど……
ゾフィア で、それが一体?
九三 あと “When the last ship sails” 作戦とか “Learn to swim, see you down in Dublin Bay” 作戦とかも考えたんだけど……
ゾフィア いやもういいから、作戦名は。
九三 つまりね、簡単な作戦なんだ……あいつらが、3Rが見てる前で、船が沈没するまでライブ配信をやる。
室内、数秒の沈黙。
一同 は?
九三 さっき尾道に確認してきたんだけど、この船、今は停泊状態だから問題ないけど、もう航行には二時間ちょっとの電力しかないらしいんだよ。
イネス そうだな、港からの供給を受けられない限りは……
九三 だから、それを逆手に取る。このまま出港して、ダブリン湾のあたりをぐーるぐーる回って、その間ずっと、船内でライブ配信をする。そうだな、最初にみんなでパーティーしたあの広間がいいだろう。その様子をχορόςの公式チャンネルで流すわけ。
ゾフィア ああ、ライブの代わりとして……
九三 正確には、ライブの正式な開催を求める抵抗運動として。もうホウス埠頭も抑えられてるんじゃ、この港を出たとしてもライブやれるとは限らないだろ。
イネス つまり、船内でのライブ配信を、3Rのデモを解散させるための示威行動とする……
九三 そう。いつもの公演がいつもどおりに行われないとしたら、今まで観てくれてたファンたちも不審に思うだろ。すぐに何が起こってるか知りたがるはず。だから先手を打って、わたしらがライブを通して呼びかけるんだ、電力が切れるまで。
測 ええと……九三、船には予備電源っていうものもあるんだよ。
九三 知ってるよ。それは港を出るときに置いてく。わたしらが本気だってことを思い知らせるんだ、本当に船を沈めるつもりだって。
室内、数秒の沈黙。
イネス いちおう訊くけど……正気?
九三 もちろん。
測 正気の人間は「正気です」なんて言わないけどね。
九三 もうこれしかないと思うんだ。わたしたちは全員、音楽をやりに来たんだろ。今回まさかの妨害に遭ったけど、でもよく考えたら、自由に表現できる空間なんて限られてるだろ。わたしたちも、今まさにその自由を脅かされてる。だったら戦うしかない、音楽で。
イリチ でもねえさん、さっき「沈没するまで」って言ってたすけど……
九三 言葉通りの意味だよ。もちろん、みんな一緒に沈んで死のうって意味じゃない。四七と尾道に頼んで、いまデッキのほうで避難の準備をしてもらってる。救命胴衣もボートもあるし、ダブリン湾から岸辺までは行けるはずだ。
メリッサ えっと、沈む前提で話が進んでるけど……
九三 最悪の事態を想定すべき、ってだけだよ。もちろん最良のシナリオとしては、訴えた結果としてアイルランド政府……じゃない、えっと姫なんだっけ正式名称。
シーラ スコット=アイルランド連合国、略称SIUN。
九三 それ。その政府がダブリン港での処遇が不当なものだったと正式に認めたら、3Rのデモは立ち枯れになる。そうすればYonahは無事に入港できるし、物資と電力の供給も得られる。そのあと万全の状態でホウスに向かえばいいだけだ。
한나 たしかに、それなら港の封鎖とホウスの占拠を同時に打開できるな……
九三 でしょ。
シーラ そうだが、な……九三、言っていいか。
九三 うん。
シーラ 狂ってる。
九三 あー、言われると思った……
シーラ さっき「話し合いで解決する」と息巻いてたやつの言うことがこれか。電力がなくなるまで示威行動して、駄目だったら船ごと沈めと。
イリチ で、ねえさん、これあたしが一番気になってることすけど。
九三 うん、何?
イリチ 船が沈んだとして、人はまあ脱出すればいいすけど、Yonahに積んである機材、は……
九三 ああ、それね……ごめんだけど……助けられないな。
室内、数秒の沈黙。
イリチ (大声で)やだあー!! それ無理っすー!! あんまりじゃないすかあ、機材は何も悪いことしてないのに、いきなり塩水に漬けられて死んじゃうなんてー!! 無理っす、それないすわあ、あんまりっすわあー!! (号泣しながら)あー!!
九三 ご、ごめん漁火ちゃん(イリチの前に走り寄って)、まさか泣くとは。
イリチ (涙を拭いながら)だって、わかってるはずじゃないすかあ、この船どんだけすごい機材積んでるかあ……
九三 わかってるよ、でもミキシングコンソールとかは、さすがに搬出するのは無理。もちろん全部沈めるなんて言ってないよ、アンプとかエフェクタとかは、予備電源を港に下ろすとき一緒に出すつもり。いま尾道に準備してもらってるからさ。
イリチ うー……ギターもっすかあ?
九三 もちろん、ただ配信中に使う一本は残してもらわなきゃだけど。
イリチ (息を整えながら)なんかもう、やる前提みたいすけどお……皆なんか言うことないんすかー? はかるんとかー?
測 あるけど……あるけど、もう十分わかってるからね、言ったところで思いとどまる人じゃないってことは。
九三 エヘヘ……
シーラ なんで嬉しそうなんだ。
メリッサ 嬉しそうでしかも照れてる。
イネス んー……どう思うソーニャ?
ゾフィア 時間的に考えて、根本的に事態を解決しうる案はそれしかないかもね……いや、狂ってるけどね。
イネス はは、だよなあ。いやー、最初に会ったときは思いもしなかったよ、龍九三って人がここまでぶっ飛んでるとは。沈没とか言われたときはどうしようかと思ったけど、詳しく聞いてみれば筋は通ってるし、あまつさえ準備も進んでるみたいだし。
九三 エヘヘ……
測 だから、なんで嬉しそうなの。
シーラ 照れるのもやめろ。
測 いま「気違いですね」って言われてるんだよ、あなた、端的に。
九三 いや、でもこれ以外に無いと思うんだ。わたしたちは音楽のために来た。にも拘らず正当な待遇すら受けられずに引き退がるなんて、その時点で敗けだよ。理不尽な問題に直面したら戦うべきだ。ただし絶対に武力でなく、わたしたちの仕事、音楽で。
測 音楽で、ね。
九三 漁火ちゃん……いい? もし無理だったら、先に避難しといてもいいから……
イリチ 先にって、もうやるの確定なのが怖いっすわあ。
九三 はは、まあね。でも決めたことだから。
イリチ ねえさん怖い人だなあ、最初組むときから知っときゃよかったっす。
九三 はは、ごめんね。
イリチ 謝んなくていいっすよ。仕方ないなあー、やるしかないっすね。
九三 本当?
イリチ 文字通り、乗っ掛かった船じゃないっすか。ここで降りたらKATFISHの名が廃るっすよ。ただ……条件があるっす。もし沈んだとして、みんなかならず脱出できるようにするってこと。
九三 もちろん、それ第一に考えてるよ。
イリチ あと、Innuendoのふたりの同意も得てから始めるってこと。
九三 あ……そうだったね、うん、もちろん。
シーラ 忘れてたろ。
九三 そんなわけないじゃん、尾道にどうするか訊きに行ってもらってんだよ。
室内中央のテーブル脇に尾道が投射される。
尾道 尾道ですが……
九三 おう、どうだった二人の意向は?
尾道 ウェンダ様は、そんなのは言語道断だとして、ライブ配信にも加わらないと……お荷物も既にまとめて、港に降りる準備を整えておいでです。
九三 そっか。エリザベスは?
尾道 話を聞いて、ずいぶん戸惑っておられましたが……ウェンダ様と同じく、ライブには加わらないと……
メリッサ 尾道、ずいぶんげっそりしてないか。
尾道 現在、四〇体ほどで同時に活動しておりますのでね、こんな重労働は初めてで……
九三 じゃあ、ウェンダとエリザベスは出港前に降ろすってことでいいか。
尾道 ええ、ウェンダ様に関してはそのように……ただ、エリザベスはまだ考えたいとのことで、部屋に留まっておいでです。
九三 うん。どっちにしても、避難準備だけは間違いのないように。じゃ、戻っていいよ。おつかれ。
尾道 はい……
尾道、消える。
第五場 Yonah船内 デッキ
荷物をまとめたウェンダ、昇降口に待機する。
尾道 お待たせしました……
ウェンダ ああ。では、私はもう行くからな。
尾道 はい……あの、私は船の半径1km以内での活動しかできませんので、ウェンダ様にお供することは叶いませんが……お忘れなく、この尾道、たとえAIなれども魂は常に……
ウェンダ ああ。ではな。
ウェンダ、退出。
尾道 (独白)せめて、振り向いて労いの言葉でもいただけたら……ああいや、私には休む暇など無い。ボート、胴衣……はこれで全部か。
尾道、デッキ上から消える。
同時に、九三と四七がデッキに到着。
四七 指示の通り、船の予備電源と発電機は切除し、これから港に降ろします。
九三 うん、船自体の残存電力は。
四七 今まで通りの速力で駆動させて、ライブ用の機材も使うとなれば、一時間半も保たないかもしれません。
九三 そっか……まあ、十分だよ。
四七 船の機構は尾道に任すとして、いちおう知っておいてください。電源が消失し、駆動が止まった後、船底のシーチェストを破損させれば、おそらく沈没可能となります。
九三 沈没可能、はは、まさか生きてる間にそんな言葉を聞くことになるとは。
四七 では、避難と搬出の準備は整ったようです。あとは……出港ですね。
九三 待って、その前に艦長と副艦長の同意が……
四七 あの人たち? とっくに同意済みですよ、イネス様や九三様の好きなようにと。どうせ主体性なんかあるわけないんですから。
九三 ずっと前から思ってたけど、四七ってなーんかあの二人に厳しいよなー。
四七 ふん……死んだ目をしてる輩は嫌いなのでね。
九三 じゃあわたしのことは大好きってか。
四七 いえ、鬱陶しくギラギラしてる人も嫌いです。
九三 ははは……ねえ四七。
四七 はい。
九三 今日、3Rの人らが大騒ぎしてたスキャンダル、だけどさ。あれと関係あるんじゃないの……四七が言ってたスーダンでの「解放」。
四七 まさか、あの宗教きちがいたちの妄想の所産ですよ。
九三 でもだいぶ共通点あるじゃん、PKOでアフリカで民間人虐殺で。もしかしたらあれ、事実、ってこと……
四七 そんなこと言ったら、あの時ワタシがした話だって、でっち上げかもしれないじゃないですか。
九三 えっ? ああ……まあ、可能性としてはそうだけど。
四七 人の話を容易く信じ込みすぎですよ、あなたは。人間ひとりの現実なんて不確かでしかありえません。信じたいものを信じるだけ、に決まってるじゃありませんか。
九三 いや、まあね……でもね、言葉を言葉どおりに受け取るしかないんだと思うよ。それ以外に為様なんてない。目の前に突きつけられた言葉を、言葉どおりに受け取るしか。
四七 まあ、アナタみたいな人間はとくにね……
九三 うん。そいじゃ、あとよろしく。わたしは大広間にいるから。
四七 ええ。
九三、退出。
四七 (独白)言葉を言葉どおりに、ね。だから毎回ひどく傷付くんじゃないんですか、何をしたって。だからアナタは、母と一緒にいても……
数秒間の沈黙。
四七 (独白)だからアナタは、母に、あれほどまでに……
第六場 ダブリン湾 Yonah船内 一番キャビン 大広間
六体ほどの尾道たちが、広間内にPA機器を取り付けている。
一同、広間中央に座り込み、セットリストを練っている。
九三 最初は教授と한나のB2Bでいくだろお?
한나 ん、あのパーティーみたいな感じだな。
シーラ でも駆動時間は限られてるわけだろう……配信開始から数分間、ストリーミングがちゃんと行えてるか確認する間でいいんじゃないか。
メリッサ そうだね、ここからやるのは初の試みだし。
九三 で、一曲目が始まる前から、教授と한나はDJブースに板付で。
メリッサ 一曲目以降のトラック出し担当、ってことでしょ。
九三 うん、さすがにずっと二人いてもらうわけにいはいかないから、パフォーマンスの番になったら片方が抜けるのを繰り返して。
한나 そこもB2Bなんだな、任せとけって。
九三 よし、じゃあ肝心のセットリスト一曲目だけど……
シーラ もちろん93だろう、こんな無茶を始めた当人なんだから。
九三 だね……いきなり『Grace & Gravity』かますか。
イリチ あはは、沈むかもしれない船で『Grace & Gravity』って、笑えなすぎて逆に笑えるっす。
測 そのあとで、どういう経緯でこうなったかを説明する?
九三 うん、フリースタイル混じりでね。たぶん二分もかからないよ。
測 字幕の自動生成と同時通訳機能に支障がないよう注意しておいてね、尾道。
尾道 (機材を運びながら)はい……
九三 で、次はDefiantに出てもらいたいんだ。
イネス んー、いつもみたいな大掛かりなステージセットは使えないから、やっぱ『Funky Presidenta』かねえ。
九三 そのあとの転換込みで、锡鼓はこの時点からスタンバっといて。
한나 ん、じゃあここで抜けなきゃだな。Defiant、锡鼓ときて、次にShamerockきたらゴタゴタする? あたしがすぐDJブースに戻れたらいいんだけど……それまでヤスミンのフリースタイルでつなぐかな。
茉莉 無、無理だよ。
九三 じゃあ漁火ちゃんのギターソロでいいんじゃない、暗転とともにジャーンってイントロ。
한나 お、よさそう。
メリッサ その間にわたしらが準備してShamerock、って流れか。せっかくだからイリチ、今回ギター弾いてよ。
イリチ マジすかー! 『Hell-Bent』のギターなら完コピしましたけど!
メリッサ あはは、準備万端じゃん。じゃここまでの流れで……だいたい二五分くらい?
シーラ 順調にいったらな。あとは……もうバラけてやってもしょうがないから全員集合、だろう。
九三 うん、それしかない。(Defiantと锡鼓のほうへ向けて)そうだ、実はわたしら前にやったことあるんだよ、Shamerockと一緒に『Bleed It Out』。
한나 あー、それ観られなかったやつ!
イネス リンキン・パークか、あれならすぐ憶えられるな。
ゾフィア じゃ、その場にいる全員で『Bleed It Out』……からの、DJブースからループで出す曲も欲しいね。
한나 なんのネタがいいかなあ……
イネス そりゃ、ヤバいやつらのオールドスクールだから『Live At The Barbeque』だろお。
メリッサ おお、いいね! ワンループだし、あのフックなら誰でも唄えるし。
イリチ これ演ってるころには外で大騒ぎになってなきゃいけないわけすね。
九三 そう、A-Primeにも協力してもらって、ダブリン港での待遇が不当だったことを訴えかける。連絡はもう取れたよね?
イネス 確約済みだよ、今回のが中止になったらあっちの株価もガタ落ちだからなあ。
九三 よし、このへんからは、配信画面にSIUN政府へのメッセージを出して……
シーラ それで、どうする?
九三 あとはもう、皆を信じて演り続けるしかないね……
測 皆って、この配信を見ることになるファンたち。
九三 それと、港に集まってる3Rの人たちも。
シーラ ふん……それでも、最後の一押しに欠けるんじゃないか。『Live At The Barbeque』は別にいいが、何かこっち側の主張に沿うネタがないと……
一同、沈黙。
測、手元の譜面ファイルを矯めつ眇めつする。
測 これ……かな。
九三 (測の手元の楽譜を覗きながら)おお……これだろ! イネス!
イネス (受け取る)うん……? あっは、よくこんなお誂え向きの!
ゾフィア (イネスの手元を覗き込みながら)ぷっ、ははは、学校で何度演ったかこの曲!
測 私も、定番曲集の練習してるときに何度弾いたか。
한나 (ゾフィアから譜面を受け取りながら)あー、ライブにうってつけだな! 測がピアノで、ゾフィアがサックス、あたしがビート打ってミッシーがDJ。これで成立するだろ!
茉莉 わかんないけど、難しい曲なの……?
イリチ ボーカル担当のひとは、途中でチャントが出てくるんで、それを繰り返したらいいはずっす。メロディはサックスのと同じなんで。
イネス よし……じゃ、この曲を電源喪失まで演り続けるか。いやあ、しかしよくこんな譜面持ってたなあ!
九三 実はこの曲、日本のヒップホップの名曲でもネタとして使われてるんだよね、『OVER THE BORDER』っていう。
イネス ぶはは、吾らにぴったりのタイトルじゃん!
ゾフィア じゃあ……演目の打ち合わせはこれでいいね?
一同、周囲の顔を見回し、頷く。
機材を設置している尾道とは別の尾道が、室内中央に投射される。
尾道 尾道ですが……
九三 うわっ。
尾道 予備電源、発電機、機材や私物など、排出可能な船内の荷物はすべて港に降ろしました。
九三 ん。3Rの人ら怒ってなかった?
尾道 いやあもう、大変な騒ぎで……これはなんだ、爆発物ではないのか、テロだ、一体何をするつもりだ、などと……
九三 あはは、結構結構。生憎のところ、わたしらが使うのはピースフルなフォースだけどね。
シーラ じゃ、港の熱りが冷めないうちに、さっさと出港するか。
イネス ん、それがいい!
茉莉 あの、尾道……エリザベスはどうなりましたか?
尾道 ええと、まだ部屋に残っておいでです……まもなく出港ですと、伝えたのですが……
茉莉 ……そう。
尾道 避難準備は完全に整いましたので、出港後も繰り返し注意は促します……それでは。
尾道、消える。
イネス じゃ、行くかい。
ゾフィア うん。
シーラ まったく、故郷もすっかり遠くなった……
メリッサ あはは、だよねー、祖国に入れてすらもらえないなんて。
한나 逆に考えるべきかもよ、姫たちに反対してるのはあの団体だけで、ファンたちは味方だって。
茉莉 あ、そっか……配信中にリアルタイムで行動してくれるかも。
イリチ 配信かあー、ちぬんに今のうち連絡しとこ、「これで最期の演奏になるかも」って。
測 アイルランドまで飛んできちゃうかもよ。
イリチ そしたらちぬんにも参加してもらうっす。
測 ふふっ。それじゃ……行きましょうか。
頷く九三。一同退出。
九三のみ広間に残り、回頭し、ライブの準備が整った室内を眺めまわし、息を大きく吐き、両手を腰に当てて胸を張る。
九三 これがわたしらの戦争だ。
第三幕
第一場 ダブリン港
一八時。夕陽が傾いている。
依然として港内を占拠している3Rと聖パトリック党。しかし、周囲には騒ぎを聞きつけた市民が列を成し、はやくも異変を察知したファンが押し掛けてカウンターのデモを行っている。
ファンA よう宗教右派ども、ずっと出ずっぱりらしいが、今朝のお祈りはちゃんと捧げたんだろうな?
3R構成員A なん、よくもそんな物言いができるわね、世俗に毒された享楽主義者が!
ファンB あんたらが陰謀論に取り憑かれたイカレだってのはわかったからさあ、もうさっさとどいてくんない? あたしらはね、姫たちがダブリンで演ってくれるのをずーっと心待ちにしてたの。それこそあんたらがイエスの再臨を待ち望むようにね。
3R構成員B なんという……我々の偶像とあの淫婦どもを一緒にするとは。
ファンC 同じ偶像には違いないでしょ。ひとつ決定的に違うのは、あんたらの救い主と違って、こっちには音楽とユーモアの才能があるってこと!
3R構成員C ああ、なぜこのような穢れた言葉を聞かねばならないのか! 神よお慈悲を、かの涜神の徒どもは知らないのです、自らが口にしたそのことによって、たったいま天国への道が閉ざされてしまったことを!
ファンA おー、なんか俺ら天国出禁になったらしいぞ!
ファンB いいじゃん、最初から行くつもりないし!
ファンC 天国天国って言うけどさあ、そんなものがあるとして、あんたら本当に行きたいの?
ファンA 賭けてもいいが、そんな天国に行ける奴らなんて、全員、一人の例外もなく、クソ野郎だぞ!
3R側とファン側との衝突が次第に大きくなる。
同時に、接岸していたYonahの昇降口が揚げられ、突如として駆動を始める。
ブリジッド なん……なんですか?
アンガス 不審な積荷を降ろしたと思ったら、いきなり……ははあ、これはきっと退却ですな! 我々の根気強さに屈して、尻尾巻いて逃げよったんですよ! 皆様、勝利です! 我々の誇り高い国土から、淫婦どもの船を追い出しましたぞ!
歓喜のシュプレヒコールを上げる3Rと聖パトリック党。
が、数秒後にファンのスマートフォンに通知音。
ファンB (画面を見ながら)なに……配信開始? えっだって、まだ開演時刻じゃないでしょ?
ファンC それに、船まだあそこだし……(画面をスワイプしながら)えっ!?
騒ぎは徐々に3R側にも伝播し始める。
3R構成員A 同志……
ブリジッド いったい何事ですか?
3R構成員B あの淫婦ども、どうやら船内にたてこもり、海上でライブをするつもりのようです。
3R構成員C しかも、その様子をネットで配信するなどと……
ブリジッド ふん、大したことではありません。そんな児戯めいた訴え!
アンガス (画面を見ながら)いえ、これは……まずいですぞ……
ブリジッド どうなさいました?
アンガス あいつら、ダブリン湾に……あの船を沈めるつもりです。
第二場 ダブリン湾 Yonah船内 一番キャビン 大広間
広間の西・南・東側には、それぞれフィクスのカメラを見張る尾道たちが待機しており、正面入口付近にはステディカムを持った尾道がスタンバイしており、他にも音響や照明やカメラスイッチ担当の尾道たちが位置についている。
広間では、シックの『Everybody Dance』がDJブースから流れている。
九三 (カメラ撮影範囲の外で)よし……声明文のアップも公式アカウントでの告知も完了、配信の音質と画質も整ってきた。
測 この曲が終わったらもう出番。
イリチ 尾道、あたしのギターイントロで始めるんで、それまで暗転で頼むすよ。
尾道 了解しました。
DJのプレイがバックスピンで停止し、同時に室内の照明が暗転。
『Grace & Gravity』のギターリフが始まる。
イリチ、測、九三の順でカットインし、パフォーマンスが始まる。
同時刻、港のファンたち。
ファンA なん……これ!?
ファンB まさか、あの船の中でやってるの!?
ファンC 間違いないよ、聞こえるじゃん、あっちのほうから!
同時刻、大広間。
イネス (カメラ撮影範囲の外で)尾道、外に出してるスピーカーの音量、最大まで上げちまいな。
尾道 しかし……そのぶん電力の消耗が速くなりますが。
イネス いいよ、九三も覚悟の上だ。
ダブリン湾を遊弋するYonahから、港の方向へ大音量のサウンドが伝達される。
同時刻、世界中で配信を視聴しているファンたち。
ファンD (キーボードを打ちながら)何これ、今回のχορόςってこれなの?
ファンE (フリック入力しながら)もう始まるなんて聞いてないんだけど!
ファンF アイルランドのやつらいないの? 外のあたりどうなってる?
同時刻、大広間
ゾフィア イネス……パンゲアから連絡あったよ。いつものコメント量の五倍だって。
イネス ふふん、いい調子だな。
ゾフィア あとこれはフォーラム情報だけど、ガーディアン紙の取材陣が港に到着したって。
イネス よし、どんどん広がってくれよ……じゃ、次は吾らの出番だ。
九三のフリースタイルが終わるとともに暗転。
『Funky Presidenta』のサックスのイントロとともに、ストロボ照明が明滅する。Defiantのパフォーマンスが始まる。
同時刻、港のファンたち。
ファンB きたー!!
ファンA フゥゥゥゥゥゥゥゥゥウウ!!
ファンC 何度聴いてもアガるわーこのイントロ!
ガーディアン紙の取材陣が双方のデモに殺到する。
記者A こんばんは、ちょっとよろしいですか?
ファンA えっ? あっはい。
記者A 今回、3Rおよび聖パトリック党による公演阻止運動に対し、ファンの方々がカウンターのデモを行なっていると聞きましたが……
ファンA ああ、カウンターていうか、文句言いに来ただけですけどね。(湾の方向を指差し)でもあれですよ、いきなり船が動き出しちゃって。
記者A (指差された方角を見ながら)出港して、ダブリン湾を回っているのでしょうか……?
ファンA はい、でも、声明には「沈むまでやる」って物騒なこと書いてますよ。
ファンB さっき港でたくさん荷物降ろしてたし……本気なんじゃないですかね?
記者B よろしいでしょうか。
3R構成員A なに……勝手に撮らないで、肖像権の侵害!
記者B 今回、3Rおよび聖パトリック党による公演阻止運動が、表現の自由の侵害、および港での端的な営業妨害として広く批難を集めていますが。
3R構成員B 批難って……私たちは私たちの信仰を護るために行動しただけよ!
3R構成員C これだから左派の新聞は信用ならない!
記者C リーダーのオサリヴァン氏、および聖パトリック党首のアポロ氏にもコメントを頂きたいのですが。
アンガス なんですか、嘘偽りは申しませんぞ、私は信教の自由を護るためにここにおります、もちろん表現の自由も大事でしょうがね。
記者C オサリヴァン氏、あなたの実の娘であるシーラさんはPeterlooの預かりということで、今回の抗議は私怨によるものではないかとの見方が広まっていますが……
ブリジッド よくもそんなことが! 私怨などと!
同時刻、Defiantがパフォーマンスを終える。
と同時に『锡鼓』のイントロが流れる。薄らかな照明とともに锡鼓入場。
同時刻、世界中で配信を視聴しているファンたち。
ファンG (キーボードを打ちながら)한나언니♡
ファンH (フリック入力しながら)茉莉加油!
ファンI ヤバいこれ全員ぶんやるの? すごくない? ってかいつまでやるの?
同時刻、大広間。
九三 おつかれ、もう大騒ぎって感じだよ。
イネス (画面を見ながら)ガーディアン、NME、ハフィントンポスト……よーしどんどん広がってるな。
锡鼓のパフォーマンス終了後、画面暗転。
イリチのギターソロの間、画面に大きめのフォントで声明文の字幕がオーバーラップする。
ギターソロ終了と同時に、Shamerockが入場。『Hell-Bent』のパフォーマンスが始まる。
同時刻、世界中で配信を視聴しているファンたち。
ファンJ (キーボードを打ちながら)WTF
ファンK (フリック入力しながら)えええええこんな共演なかったでしょ今まで!?
ファンL ツイッター落ちた? 落ちてない? コメント欄はまだ生きてるみたいだけど。
ゾフィア おつかれー锡鼓。(二人に飲料水を渡す)
茉莉 (受け取りながら)ありがとうございます。今、港の様子は……
イネス (画面を見ながら)3Rとファン、双方のデモが向かい合ってるなあ。
한나 (画面を見ながら)おー……たのむよ怪我人だけは出るなよ。
ゾフィア ネット上では、ファンによる署名運動も始まってるみたい。
茉莉 署名って、今回のSIUN政府に訴えかけるための、ですか?
ゾフィア もちろん。
한나 龍、残りの稼働時間どんくらい?
九三 えーと、スピーカーの音量最大にしたら思ったより減っちゃって………あと三五分くらい。
한나 ええ!?
イネス すまん、吾がそうしたんだ。
九三 いいよ、そのおかげで外部まで伝わったみたいだし。
ゾフィア 署名の数もすごいことに……このままいけば、SIUN政府も即座の対応を取らざるを得なくなる。
茉莉 うん、でも……
数秒間の沈黙。
한나 どしたヤスミン?
茉莉 ……ちょっとごめん한나、私、デッキのほう見てくる。
한나 デッキって、避難用の?
茉莉 うん、でも脱出するわけじゃないよ。ちょっと、やっとかなきゃいけないことがあるの。
第三場 ダブリン湾 Yonah船内 避難用デッキ
同時刻、デッキチェアに寝そべり、夕陽を浴びながらスマートフォンで中継の様子を視聴しているエリザベス。
茉莉がデッキに歩み出てくる。
茉莉 エリザベス!
咄嗟に画面を隠すエリザベス。
茉莉 観てくださってたんですねっ。
エリザベス ええ……良いパフォーマンスだったわ。
茉莉 ありがとうございますっ。あの、この船、あと三〇分くらいで沈んじゃうらしいです。
エリザベス 知ってるわ、数分おきに尾道が報告に来るから。
茉莉 そう、ですか……
数秒の沈黙。
茉莉 あの、エリザベス……
エリザベス (遮って)言わなくていいわ。どうせ、貴方は来ないんですかとでも言うつもりでしょう。
茉莉 そこまでわかってるなら……
エリザベス 行かないわよ。今回ばかりは、私の出る幕などない。
茉莉 そんなはずありません、貴女は今回のχορόςで一番のアーティストじゃないですか!
エリザベス 個人として、なら、間違いなくそうでしょうね。しかし……あなたがたには皆パートナーがついているじゃない。その肝心のパートナーに裏切られたばかりの私には、あなたがたの共演の中に居場所を得ることなど許されない。
茉莉 そんな……
エリザベス 実力や才能どうこうじゃないわ。これは私の……プライドの問題なの。
数秒の沈黙。
茉莉 プライドが、何ですか……
震えながら拳を握る茉莉。の方を向くエリザベス。
茉莉 プライドが、何だっていうんですか! そんなもの、ただ傷付くだけじゃないですか。プライドなんて大事にするものじゃないです! むしろ、前進するためには傷付けなきゃ、プライドを!
エリザベス 傷付ける……?
茉莉 現に、私はたくさん傷付けてもらいましたよ、貴女に。貴女に及ばないって、貴女の真似事くらいしかできないって、χορόςに参加する前からずっと傷付けられてましたよ、こんなすごい人がいるのに私は、って……でも、そのおかげでここまで来ました。もう私にプライドなんてありません。滅茶滅茶にされて、ズタズタにされて、そのおかげで今の私になったんです。価値ある傷がある限り、人は前進できるはずです。これはエリザベス、貴女が教えてくれたことですよ。
数秒の沈黙。
エリザベス 今度は、私も傷付けと。
茉莉 はい。
エリザベス 切って、傷を、開けと……ふふっ、言うようになったわね。名前を憶える価値すら無い凡人と、最初はそう思っていたけれど……
エリザベス、デッキチェアから立ち上がり、退出しようとする。
茉莉 あっ、あのっ。
エリザベス、デッキから通路への境界線上で立ち止まる。
デッキに立っている茉莉の方へ、振り向かずに言う。
エリザベス 蔡。
茉莉 はい!
エリザベス 随分なことを言ってくれたわね。お返しに、あなたにひとつ命令があるわ。
茉莉 はい、あのっ、なんなりと。
エリザベス (髪を束ねていたシニョンを外しながら)私、メイクはずっとウェンダに任せっぱなしだったの……手伝ってくれるかしら。
茉莉 ……あ……は、はいっ!
両名、デッキから退場。
第四場 ダブリン港
同時刻、ダブリン港。
もはや大混雑の様相を呈している現場に、A-Primeの三人が到着する。
パンゲア なんと、こんな規模に……
ジンバブウェ 二〇分前の画像とは比べ物にならない。
ゴンドワナ (群衆に向かって)通してください、通してください! 我々、χορόςの運営を仰せつかっているA-Primeの社員です!
パンゲア 3Rのリーダーであるオサリヴァン氏との交渉に参りました、通してください!
3R構成員A 同志、また交渉だとかなんとか……
ブリジッド (遮って)交渉すべきことなど何もありません! なんですか、あれほど我々のプライドを踏みにじっておいて! どうしてですか、どうして放っておいてくれないのですか! 我々は信仰を護り抜きたいだけなのに!
パンゲア ええ……? そもそも今回の騒擾はあなたがたの……
ブリジッド (遮って)やかましい! χορόςの運営ですって? 穢らわしい、悪魔の手先め! あの淫婦どもを利用して金儲けとは! 信じられない、そんなにも堕落した人間がこの世にいるだなんて! だれもその不正を糾そうとしないだなんて!
パンゲア だから、あの……
ブリジッド 死にたいんでしょう!! 沈みたいんでしょう、あの船と一緒に!! じゃあそうさせてあげたらいいじゃありませんか、ええ、こちらとしても望むところですよ!! 助け舟を出す必要なんてありません!! もちろん港に迎え入れる必要もね!! 死んでもらいましょう!! あの淫婦どもには当然の罰です!! もちろん、沈没によって汚染されたダブリン湾の浄化費用は、すべてそちらに出していただきますからね!!
アンガス (宥めつつ)あのう、オサリヴァン氏……記者が見ている前ですぞ……「死んでもらいましょう」などというのは……
ブリジッド (手を撥ねのけて)触らないでください!! あなたまでそんな及び腰ですか!! 道徳的に堕落した者が集団で溺死してくれたとして、それで何の問題がありますか!! 素晴らしいことじゃないですか!! 聖書にもあります、ええと……星が水源に落ちて……豚が死んで……水が苦くなったと……
アンガス あのですなあ……
パンゲア 交渉に応じなかった場合、我々としては広範にわたり不利益を被ったとして、膨大な額の賠償金を請求せねばなりません。少なくとも、港での供給拒絶に伴う賠償は不可避です。これ以上罪を重ねてもよいのですか?
ブリジッド (小声で)罪などと……
パンゲア えっ?
ブリジッド (小声で)罪などと……(急に大声で)気易く言うな!! 無神論者が!!
第五場 ダブリン湾 Yonah船内 一番キャビン 大広間
同時刻、大広間。
九三 (独白)あと二〇分、か……そろそろ、覚悟決めなきゃな。
カメラには、最後のサビに入るイリチとShamerockの姿が映し出されている。
イネス (画面を見ながら)九三、これ。
九三 (画面を見ながら)おっ……「各国大使館、χορός参加者に対するダブリン港の待遇に抗議の意を表明……」ついにここまできたか。
イネス SIUN大統領府にも、抗議の電話は殺到してるらしい。あと一押しなんだが……
九三 うん、でもここでこっちが態度を軟化させたら……
イネス 通るもんも通らない、か。やっぱ、政府が直接に港を動かすまでは。
九三 やり続けなきゃいけない……ただ、セットリストも残り少ないな。
『Hell-Bent』のアウトロとともに、『Bleed It Out』の陣形に入ろうとするDefiant、九三、測、한나。
イリチにイントロの合図を目配せするメリッサ。
しかしその瞬間、正面入口の扉が大きく押し開かれる。
侵入を察したステディカム担当の尾道が、正面入口を映す。
エリザベス マイクを寄越しなさい、貧乏人ども! 三流役者が揃いも揃って、なんのまとまりもありゃしない。こんな舞台、始まる前から失敗しているわ。肝心の主役を欠いていてはね。
茉莉のアレンジによる髪型と衣装で現れたエリザベス。
その姿を背後から眺めて陶然とする茉莉。
その姿を正面から見据えて苦笑するシーラ。
ヴァースの準備を整えていたメリッサは、にっこりと笑い、即興でエルガーの『Jerusalem』を唄い始める。
シーラも同調し、大袈裟に手を振りつつ唄う。
意を察したエリザベス、毅然とした笑みとともに入場する。茉莉もその後に続く。
シーラ ヘタレでハッタリの女王陛下、もうとっくに逃げたと思ってたが。
エリザベス ふん、沈む船から逃げ出すのはネズミだけだわ。女王たる者の風格は、如何なる苦境にも乱されないのよ、この世の終わりにおいてさえね。
メリッサ よーしじゃあ始めようか、 here we go for the 100th time!
メリッサの煽りに応える一同。
メリッサ Hand grenade pins in every line!
メリッサの煽りに応える一同。
メリッサ We gon’ … We gon’… We gon’ bleeeeeeeeeeeeeeeeeeed…
メリッサの煽りに応える一同。
メリッサ Bleed it out, Mu’tafikaaaaaaaaz!!!!!!!!!!
同時刻、世界中で配信を視聴しているファンたち。
ファンM (キーボードを打ちながら)これだけ署名を集めてもSIUN政府は公式声明を出さないのか?
ファンN (フリック入力しながら)大統領府は何をやってる! この国は表現の自由を認めないばかりか、外国からやってきたアーティストたちの、命がけの主張をも黙殺するのか!
ファンO これはχορόςがどうとかじゃない、人間性の問題だ! ただ公演を行いに来ただけの人々を見殺しにするのか、という瀬戸際だ!
同時刻、『Bleed It Out』が終わると同時に、素早くカメラからフレームアウトする九三。
第六場 ダブリン湾 Yonah船内 一番キャビン 通路
大広間を出て、すぐに四七を見つける。
九三 四七!
四七 あと一五分、というところですか。
九三 うん……あのさ、最後のお願いがあるんだ。
四七 なんですか。いまさら港に戻してくださいと泣きついても……
九三 (遮って)もう一度、港へ行ってほしい。避難用ボート使っていいから、もう一度、直接、3Rの人々と話してほしい。
数秒の沈黙。
四七 伝令、というわけですか……
九三 うん。
四七 この期に及んで、アナタは……まだ話し合いによる解決が、ありうるとでも。
九三 うん、信じてるよ。やるだけのことはやったんだ、今なら考えを変えてくれるかもしれない。
数秒の沈黙。
九三 じゃ四七、わたし戻らなきゃだから……
四七 ちょっと待ってください。
四七、九三の眼前まで歩み寄る。懐のポケットから一葉の写真を取り出し、九三に手渡す。
九三 (手の中のものを見つめながら)これって……
四七 ええ、母が、諸国を放浪するあいだずっと手放さなかったもの。
九三 わたしが撮ったやつだ、安物のポラロイドで……あれたしか職場の飲み会のビンゴゲームでもらったやつだったっけ、もう捨てちゃったなあ……
四七 母は常に肌身離さず持っていましたよ、「この写真で初めて教えられた」、「わたしがこんな姿をしているとは知らなかった」と。
九三 もーわけわかんないなー、いきなりポーランドに置き去りにしたり、そのくせ遊びで撮った写真を大事に持ってたり……
九三、苦笑しながら、渡された写真を四七の手に返す。
九三 いいよ四七、あげるよ。その写真は、あなたが持っとくべきだよ。
四七 え、なぜ……
九三 だって、わたしは沈んで死んじゃう可能性あるけど、四七はこれから戻るじゃん。わたしが死んだとしても、あなたは生き残るじゃん。なら持っとくべきだよ。これから、また不二良に逢うかもしれない。そのとき伝えといてよ、「九三は最期まで笑ってました」って。
数秒間の沈黙。
九三 てゆーか、そんなこと言ったらこっちが「なぜ」だよ。なんで今そんなもの取り出したの? なんかお別れが近くなって、寂しさみたいなの感じちゃった? 後悔したくないから、的な? なーんだ、お前もけっこう人間らしいとこあんじゃん。
四七 ……失礼します。
写真を懐のポケットに収め、九三に背を向けて退場する四七。
九三 あっ、もー……じゃ、また逢ったら、不二良によろしくね。
第七場 ダブリン湾 緊急避難脱出用ボート
ボートのエンジンを駆動させ、脱出する四七。
すでに陽が沈みかけている。
四七 (独白)ふっ、考えてみれば笑えるな。あの時と違って、今はワタシに生殺与奪の選択権がある……まったく因果な巡り合わせだ。この伝令の役目を放棄して、何もしなかったとしたら……あの船は本当に沈むのだろうな。いや役目を果たすにしても、あの宗教きちがいたちに話が通じる余地など無いじゃないか……なのにあの人は、こうしてワタシを……
ボートのモーター音だけが響く。
四七はうなだれ、ボートの舳先を見つめる。
四七 (独白)わからない……本当にわからない。すこし掴めたかと思うと、またわからなくなる……母があの人を愛した理由も。なぜあの人が、これほどまでに……音楽の力を……
四七、体育座りの姿勢で目を伏せる。
四七 (独白)どうして、ここまで……あんなに自分の命を顧みない人は見たことがない。ワタシもそうだと思っていたけど……ワタシとあの人とでは、命の捨て方が違う。ワタシは最初から、何も望んでいなかっただけ。だが、あの人は、望みすぎるあまりに……しかしわからない、何を望んでいるのだろう。自分の欲を満たすためでも、誰かの愛を勝ち得るためでもない……
四七は顔を上げ、進路を見定める。
早くも、港の桟橋が見え始める。
四七 (独白)……「この世界は変えられる」……
第八場 ダブリン湾 Yonah船内 一番キャビン 大広間
『Live At The Barbeque』を使用したサイファーも長引き、最後の曲に繋ぐため、おずおずと目配せを交わす一同。
そこに九三が入室する。
九三 (マイクを握って)Wassup! みんな楽しんでくれたかな、残念だが、次が最後の曲だ。文字通り、わたしらにとってのスワンソングになるかもしれない。どういう意味かは、まあ、この数十分後には明らかになってるだろう。
譜面台を見ながらステージを窺う測とゾフィア。
九三 もうこれ以上、言うこともないだろう……何しろ、時間がないんでね。次に演る曲、そのタイトルこそが、わたしらの言いたいことの全部だ。
DJブースで待機するメリッサと한나。
九三 それじゃあ、観てくれてありがとう。ほんの一瞬でも、わたしらの音楽があなたの人生に関わったことを、心の底から、誇りに思うよ。
マイクスタンドの前で待機するシーラとエリザベスと茉莉。
アンプの前でチューニングを合わせるイリチ。
その姿をカメラで捉える尾道たち。
室内を見回し、静かに頷く九三。右手で測の方へサインを出す。
九三の手が降ろされた瞬間、ピアノのイントロを奏でる測。
八小節分の演奏ののち、ゾフィアのサックスと한나のビートが同時に入る。
ファラオ・サンダースの『You've Got To Have Freedom』を用いた、最後のジャムセッション。測のコンピングに、한나のビートが加わり、ゾフィアのサックスがフリークアウトし、シーラとエリザベスと茉莉のコーラスが挟まれ、イリチのギターがメロディとコードを融通無碍に変奏し、九三とイネスが即興でラップを乗せる。
ゾフィア (独白)ウケるなあ。まさかこの曲をこんなふうに演るなんて、学校にいたころは思いもしなかった。沈没するタイタニック号で演奏してた楽団も、こんな気持ちだったのかな。お婆ちゃん、お母さん、もしかしたらゾフィアは歴史に名を残すかもしれません。ここで終わってもこの後生き延びても、どっちでもね。
イネス (独白)まさか沈む船で、なんてねえ。エル・パソにいた頃は色々ぶっ飛んだステージやったけど、さすがにこれは思いつかなかった。やっぱ陸地ばっかじゃな。うん、ここまで来てよかったな。しかし、砂漠で渇いて野垂れ死ぬのと、船で沈んで溺れ死ぬのと、どっちが悲惨だろ。いや、生き延びるのが一番悲惨か。いつだって死ぬのが一番簡単。だったら難しい方に挑戦するだろ。ここで最高の演奏やって、生き延びる。ん、結局いつもと同じだな。
한나 (独白)あっさりこういうことになっちゃったけど、どうしよ、沈没したら死んじゃうかな。そしたら母ちゃんには悪いことしちゃうな。いやそうでもないか、結婚相手が兵役中に死んで、そんで娘も船が沈んで死んだとなれば、母ちゃんむしろ治っちゃうかもしんない。それはそれでアリかな。あっ션윈いたわ。じゃあダメだ。션윈なら地獄まで追ってきそう。やっぱ死ぬのナシだ。生きて帰って、このステージのこと話してあげよ。きっと션윈ならこう言うんだ、「なに笑って話してんの!?」って。はは、本当そうだよなあ。またすぐに会いたいな。だから生きて帰ろう。愛してるよ션윈아。
メリッサ (独白)おー、ジャズの曲にスクラッチ加えるなんて新鮮。おもしろ、한나もいつもしない感じのビート打ってるし。こりゃいい、何時間でもできそうだ。あっでも沈んじゃうのか。あは、わたしだけ夢中になってて逃げ遅れるとかありそう。そしたらジョー姉もアニー姉も悲しんじゃうかな。悲しむ顔は、見たくないな。じゃあこれを土産話に持って帰ろう。いつだってニコニコしてるのがいいよ、ねえ姫。
シーラ (独白)ずっとループの曲だなこれ……まあいい、たまにはこういうのも。たまには、って、そうだこれ最後になるかもしれないのか。それはよくないな。うん、どう考えたって生き延びるのがいい。もう母がどうとか、正直どうでもよくなってきた。どんな状況だろうと、音楽やって生き延びる。家出した時だってそうだった。じゃあミッシー、何も望まずにあたしらは唄おう。そうだ、希望を捨てた後の歌は、いつだって最高のメロディだった。
エリザベス (独白)たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しねこの曲。退屈ではないけど、この私が添え物のバックコーラスに徹するなんてね……ふん、これくらいで傷付くプライドなら捨ててしまえばいい。蔡、あの子、なかなかいいこと言ったわね。そうだわ、いつかウェンダのプライドも傷付けてやる。私が味わった屈辱とは比較にならないものを。生きて帰って、喰いきれないほどの恥辱を馳走してやるわ。
茉莉 (独白)たりららってぃーらー、たりららってぃーらー、って、ずっと繰り返しだあこの曲。でも한나楽しそう、こんな曲もあるんだなあ。世界って広い。まだまだ私の知らない音楽でいっぱいだ……このままじゃ終わりたくないな。音楽でも、まだ訪れたことのない国でも、人間関係そのものでも、私の知らないものをいっぱい知りたい。もっと、ずっと、変わり続けたい。母さん、あなたの娘は、色々あって沈没する船の中で唄うことになりました。なんて言ったら、悲しむよりもまず笑っちゃうよね。そう、変わり続けるってそういうこと。幸せとか不幸せとかじゃない、それよりもずっと厄介なこと。でもきっと価値がある、こうしてエリザベスとも一緒に唄えるんだ。こんな日が来るなんて夢にも思わなかった。だから、もっと続けよう。生きて、生きて、傷付き続けて往き続けるんだ、どこにたどり着くかはわからなくても。
イリチ (独白)あー、ほんと、ここにちぬんいてくれたらなー。ベースライン無いの寂しいっすー。はかるんが低音部補ってくれてるけど、右手のソロが忙しくてあんま気ぃ遣ってないかも。仕方ないっすね、沈んじゃうかもしれないんだから。あ、まーたずっとねえさんのほう見てるー。もう、ほんとはかるんだなあ。でも、いいっすね。いいグルーヴじゃないっすか。これいいな、もう死んでもいいな。だけど、死んでもいいなってのは、いつだって死に損なった側の感慨なんすよね。あはは、ねえさんから学んだのってそれかも。まだまだ死ねない死ねないって言い続けて、いつのまにか逝っちゃうんだ。だからその間がずっと最高。いいな、ずっと、ずっと在ってほしいな。いや、在るしかない。とりあえず始まってとりあえず終わるしかない、演奏も人生も。じゃあ楽しむしかない。簡単だ。すごい簡単だったっす。
測 (独白)あと一〇分、か。あと一〇分で、港から何の連絡も無ければ──あっ、ちょっと、イリチ……本当にあの子は、小癪なアヴォイドノートを入れてくる。私が低音部を支えているからといって好き放題して……ならば、私も好き放題やればいい。もともとそういう曲なんだから。それにしてもこの譜面、持っててよかった。ひとりで弾くだけなら練習曲だけれど、誰かと居合わせたらセッションになる。お互いが持ち寄ったものを、ぶつけあうだけの戯れ。しかし本気の戯れ。もし私が、高校時代に九三と出会わなかったなら、一体どうなっていたのだろう。ひとりで鍵盤を叩くだけで終わっていたか。いや、どうでもいい、無意味な問いだ。少なくとも、今こうして彼女の側にある、それだけで十分だろう。死の淵においても一緒にいられたら──なんて、くだらない感傷。どうせ死に損なうに決まってるんだから。そうでしょう、九三。なら、今回も死に損ないましょう。あなたに同行すると決めたその日から、覚悟はできてる。
九三 (独白)最高。最高。最高だな。なんて楽しいんだろう。みんなで同じことをやってるはずなのに、みんな別々のことをやってる。同じように違ってて、違ってることだけはみんな同じ、みたいな。でもそうじゃん、そうやって集まったやつらじゃん。ツアー始まった当初はどうなるだろうと思ってたけど、まさか船が沈むとはねえ。とはねえってわたしがそうしたんだけど。でもこういうことだよ、完全に安全な時代なんて無いんだ。逆に言えば、完全に壊れきった時代なんてのも無い。いつだって半分は無事で、半分は壊れてて、そうしてお互いのまだ壊れてない部分を、お互いを医すために差し出しあう。それって、測がわたしにしてくれたこと。案外みんなそうなのかも。いつだって半ばで、全きものにはなれなくて。それでも、それでも、続けなきゃいけない。まだやろう。続けられる限りは続けよう。続ける自由はまだあるんだ。そうだ、この曲のライブ版で、ファラオはこう叫ぶんだ。
Freedom!
Yeah, Freedom!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!! Freedom!!!!!
You've Got To Have!!!!! Freedom!!!!!!!!
第九場 ダブリン港
四七、港に到着。
パンゲア あ……あなた確か、Yonahの……
周囲の群衆を無視し、ブリジッドの眼前まで至る四七。
四七 (高圧的に顔を寄せながら)ひとつ質問があります。
ブリジッド なん……です?
四七 あなたが昼頃ずっと喚いていた、Peterlooがらみのスキャンダルとやら、ですが。
四七、懐のポケットから写真を取り出す。
四七 もしかして、この女から聞いたものではありませんか……?
ブリジッド、四七が提示した写真をひったくる。
ブリジッド ああ! そうです、そうです、この人でした!
警察官A え……本当ですか?
ブリジッド この人です、昨日、3Rの本部に直接来て、あの艦長と副艦長が関わったという虐殺について教えてくれたのです! この頭巾? のようなものは、かぶっていませんでしたけど……
警察官B (四七に向かって)君、なぜこの写真を持っているんだ?
四七 その人とは知り合いでね……
ブリジッド 知り合い! 本当ですか、では、今この人がどこにいるか教えてくださいまし! この人の証言さえあれば暴露できるはずなのです、あの人殺しどもの許しがたい罪を……
四七 知りたい、ですか?
ブリジッド ええ、もちろん!
四七 この写真にうつっている、あなたにスキャンダルのことを教えてくれた女性について、本当に知りたいんですか?
ブリジッド お願いです。教えてくださいまし!
四七、周囲を見回す。
群衆の視線が自分をめがけているのを確認し、一呼吸おき、話し始める。
四七 (大声で)この女はな、世界中の紛争地帯で、児童誘拐や人身売買を斡旋してる、極悪非道の人非人だ!! お前は、よりによって、そんな輩から吹き込まれたデマを信じちまったのさ。宗教右派の団体に適当なデマを掴ませて、勢い余ってデモやらかして自滅するのを見て楽しもうっていう、そんな魂胆も見抜けなかったのさ、馬鹿めが!
ブリジッド、膝から崩れ落ちる。
四七、写真を拾い上げ、警察官に渡す。
警察官A ええと……あなたが仰っていたことですが、信じてよいのですか?
四七 もちろんですよ、ワタシも被害者ですからね。あのときPeterlooに助けられなかったら、一体どうなっていたことか……
警察官B わかりました。場所を設けますので、事情聴取に協力していただけますか?
四七 時間ならいくらでも割きましょう。ただ、港の封鎖を解いてあの船を迎え入れてくれたら、の話ですがね。
警察官A もちろんです……(アンガスのほうを向いて)おい。
アンガス ひいっ。
警察官A わかってるんだろうな、愚にもつかんデマに流されて、港湾労働者をたらし込んで、半日近くも港を封鎖して……然るべき処罰を受ける覚悟はあるんだろうな?
アンガス あ、え、いえっ、私の一存でやったわけでは……
アンガス、地に伏したブリジッドの背をつつくが、何の反応もない。
警察官A (警察官Bに向かって)お前はそっちのほうを頼む……(群衆へ向けて)いいですかみなさん、これをもちまして港のストライキは終了です! 今回の騒ぎを持ち上げた3R、および聖パトリック党については、我々が責任をもって調書を作成しますので、続報をお待ちください。
ファンA χορόςについては? Yonahはどうなるんだ?
警察官A、無線で本部との連絡を取る。
警察官A SIUN大統領から、公式声明です。「客船Yonahをただちに寄港させよ。船体及び乗組員の安全を確保したうえで、当初の契約通りに電力と物資を供給すること」!
カウンターのデモを行っていた側は歓喜の声を上げ、
3Rおよび聖パトリック党側は悲嘆に沈む。
警察官A ホウスへの交通網も、まもなく回復されるはずです。公演を観に行かれる予定の方は、運営側のアナウンスを確認してください。(パンゲアの方を向いて)あとはいいですね?
パンゲア あっ、はい。(群衆に向かって)それでは、今回のχορόςをお待ちいただいた皆様、これから開演時間の調整に入ります! おそらく、予定の三〇分後が目処になるかと……
それぞれの目的を達して、三三五五解散する群衆。
四七 (独白)これくらいは許されるでしょう、母よ。あれほど九三のことを想っていたあなたのことですから。そして何より、百済不二良の娘なら、これくらいのことはできないと……
警察官B それでは、署までよろしいですか?
四七 もちろん。知ってることは何でも話しますよ。(写真をはためかせながら)こいつはね、モリアーティも青ざめるほどの大犯罪人ですから、そうですね、国際指名手配くらいがちょうどいいと思いますよ……
第一〇場 ダブリン湾 Yonah船内 一番キャビン 大広間
タグボートに随伴され、接岸準備が整う。
尾道 残存電力、稼働時間換算であと三分……危ないところでした……
イネス ははは、尾道も汗かくのか。
尾道 もちろん、私は船が沈んだら即死が確定なのでね、皆様と違って……
九三 あはは、考えてみりゃそうだ。でもほんと、何から何までよくやってくれたよ、尾道が今日のMVPだよ。
尾道 はい……(小声で)できればその言葉はウェンダ様から聞きたかったですな……
尾道、消える。
同時に、船外からアナウンスが発される。
港主任 お待たせしました、客船Yonahの皆様、これより電力と物資を供給します! 可能な限り迅速に行いますが、お待たせしてしまうと思われますので、心ばかりの軽食を用意しました。よろしければ……
イリチ おー、差し入れっすよ。
한나 いいじゃん、よくわかんない緊張して腹減ったー。
茉莉 行きましょう、エリザベスも。
エリザベス ええ、ここまで付き合ったんだからしょうがないわね……それにしてもウェンダ、一体どこにいるのかしら……平気な顔で卓を囲んでたら、ただではおかないわ……
笑い声とともに退出する一同。
シーラ、広間に放置されたラップトップの前に立ち止まる。
シーラ (小声で)ファンの署名、か……
屈み込んで画面を凝視するシーラ。そこには、ファンがSIUN政府に客船Yonahの保護を求める署名のリストが、 html ファイルで表示されていた。
シーラ こんな数が……
シーラ、ctrとfのキーを押し、ブラウザ検索窓を立ち上げる。
試みに “stanislaus” と打ち込む。
そこには、彼女の実父と同姓同名である “Stanislaus O’Sullivan” の名が表示されていた。
メリッサ (船外から)姫ー? 来ないのー?
シーラ いや……(嗚咽を抑えて立ち上がり)いま行く。
第一一場 ホウス埠頭
ホウス埠頭。
Yonahの接岸から開演準備が整うまでの間、桟橋は関係者以外立入禁止となっている。
九三 (昇降口から)あ……
한나 本当にいやがった……
桟橋には、ウェンダ・ウォーターズが、一時間前に船から降ろした荷の側に立っている。
ウェンダ 遅かったな。
イネス 遅かったなじゃねーよ、なにひとりだけ先に行ってんのよ。
ウェンダ なにって、公演のために決まっている。海上で珍奇などんちゃん騒ぎがあった気がするが、目もくれず埠頭で待っていた。前乗りしたのは私で、遅刻したのは君たちだ。褒められるならまだしも、責められる謂れはない。
エリザベス (眼前に立って)ウェンダ……
ウェンダ やあエリザベス。
エリザベス 一応訊くけど、配信、観ていたのかしら?
ウェンダ 配信? 『シャーロック』最新エピソードの、か? 生憎だがもう観ていないんだ、シーズン3からいきなりつまらなくなったからね。
茉莉、エリザベスの隣に歩み寄る。
茉莉 エリザベス……どうします? ドロップキックくらいしときます?
エリザベス (掌を上げて制しながら)いえ、よしましょう。確かに、ここでこいつを海に突き落として、この(ウェンダの脇に積まれている荷を指しながら)荷でも投擲してとどめを刺したい衝動を抑えるのは難しいことだわ。
茉莉 そうですね、誰も見てませんし。
エリザベス しかし、我々は知的にも美的にも洗練された淑女。そんな酔漢めいた暴力衝動に屈するのかしら? いいえ、屈するわけがないわ。ウェンダ、あなたにはいつかステージの上でやり返す。楽しみに待っておくことね。
ウェンダ ああ、エリザベス。掛け値なしに楽しみだよ、その言葉が本当になるのであれば。
一同、埠頭に降りる。
ウェンダ (見回しながら)それでは……くだらん騒ぎで開演時間が押してしまったが、これよりχορόςアイルランド公演の開幕だ。知っての通り、ユニット単位でなく個人投票での新方式となって初の公演となる。くれぐれも観客を裏切らぬよう。以上、Dark Dukeは各員が義務を果たすことを期待する。
ウェンダ、船内に戻る。と同時に数名の尾道たちが現れ、荷を船内に運び込む。
한나 (茉莉のほうへ歩み寄りながら)ヤスミン、けっこう強くいったねえ……
茉莉 え、そ、そうかな。
シーラ (船内に戻るウェンダを横目で眺めつつ、メリッサの肩を叩きながら)代わりに怒ってくれる奴らがいてよかったな。
メリッサ えー?
一同、それぞれ船外でストレッチしたり桟橋から景色を眺めたりするが、船内に戻っていく。
会場設営準備のため、数名の尾道たちが降りてくる。
シーラとメリッサは、ホウス埠頭から感慨深げに岬を遠望する。
シーラ 帰ってきたな。
メリッサ おう。故郷に錦だねえ姫。緊張してる?
シーラ まさか、むしろほっとしたよ。色々因縁深い故郷だけど……肝心の人は、見てくれてるってわかったから。
メリッサ そっか。じゃ、今夜ばかりは一位以外の選択肢ないよー。
シーラ 当たり前だ。
シーラとメリッサ、掌で一回叩き、手の甲で一回叩き、ぐっと握った拳を突き合わせる。
両名、笑いながら船内に戻る。
第一二場 リフィー川 イースト・リンク・トール・ブリッジ
終演後。埠頭を離れたYonahは、SIUN大統領府からの特別招待を受けて、ダブリン港からリフィー川に沿って航行する。
九三 (デッキから)おおー!!
リフィー川を挟んだ両岸には、控えめな照明とともに、料理や果物を乗せた木箱が堆く積まれている。
測 これ、本当に全部……
メリッサ やるじゃんーうちの政府!
シーラ そうか……ちょうど五月祭か。
Yonahの駆動が止まり、両岸に接する。
群れ集まったダブリン市民たちが、その姿を見上げる。
ダブリン市民A 姫ー!
ダブリン市民B キュウゾーウ!
ひとまわり歳下のファンたちからの歓声に、笑顔で応える九三とシーラ。
九三 (眼下の光景を眺めながら)おっ、なんあれ、ギネス? すごい数注いでるけど。
シーラ (頷きながら)振る舞い酒だろうな、あたしらへの。
九三 やったータダ酒だー!
シーラ 喜び方に品がない……(苦笑しながら)いや、初めて一緒にやった福岡でもこんな感じだったな。
九三 そうだ姫、今のうちにあれ言っとく?
シーラ ああ……そうだな。告知はここで済ませとこう。
九三 じゃ……(尾道からマイクを受け取りながら)どうもダブリン市民の皆さん、日本語で失礼します! さっきの公演で投票一位となった龍九三とー、(シーラにマイクを向ける)
シーラ 同じく同率一位となったシーラ・オサリヴァンだ。
九三 わたしらのどっちが新ルールを起草すべきか、は保留のまま終わったけど……ここまでの道すがら話し合って、さっき決めたんだよね。
シーラ ああ。基本的には以前通り、ユニット単位のルールに戻す。だが、投票枠は個人枠を廃してユニット枠のみに絞る。もう今後、めんどくさいことをしでかす輩が出てこないようにな。
九三 ちなみに、そのめんどくさいことをしでかしたウェンダ・ウォーターズは、既にブリテン島に前乗りしてるらしいでーす。この船にはいませーん。なんでだろうね?
シーラ さあ。故郷が恋しくなったんじゃないか?
九三とシーラのMCを受けて大いに笑うダブリン市民。
その両岸から、SIUN政府からの嘱託を受けて歓待の任を受け持ったパブの給仕たちが、デッキまで上がってくる。
九三 (1パイントグラスを受け取りながら)あ、どうもお。あらあ、綺麗な泡!
シーラ (1パイントグラスを受け取りながら)ん、どうも。伝えた通り、うちの船に下戸はいないぞ。
デッキの内部が、瞬く間に五月祭の収穫物を活かした料理の数々で埋められてゆく。
九三 (南岸へ向けて)ありがとう市民! わたしらも今日いろいろなことがあった! でもどういうわけか生きてるな!
シーラ (北岸へ向けて)皆がどんな仕事に就いていようと、それはすべてこの地上を豊かにするための務めだ。誰かが土を耕し種を植えてくれたおかげで、今こうして料理が出来上がっているようにな。
両岸は(主にタダ酒目当てで駆けつけた)市民たちでひしめいている。
その中の一人、南岸側のパブの主人が、グラスを片手に歩み出る。
ダブリン市民C (デッキを見上げながら)親愛なる唄い手よ! わたしたちも皆様の日々の務めを祝福すべくここにおります。ところで、まずダブリン市民を代表して謝罪したい。どうやら港には、朝から酒もなしに酔いが回っていたようで。いくら我々と思想も信条も異なる輩の仕業とはいえ、ダブリン市民が大変な無礼を働いてしまった事実には変わりがない。すまなかった、どうか許してほしい!
シーラ 気にするな、元はと言えばあたしの母親だ。あたしらに謝罪を受ける謂れなどあるだろうか、今回の公演が実現したのは、他ならぬ(両岸くまなく掌で差しながら)君らダブリン市民のおかげだろう!
九三 ほんとありがとうー抗議とか署名とか! 助かったよ!
大いに沸くダブリン市民。
ダブリン市民C 身に余るお言葉! ところで唄い手よ、お気づきだろうか、こうして市民がグラスを片手に集っているのは……合図を待ってのことだ。つまり、酒宴開始の号令を打ち鳴らしてもらわんことには!
九三 あ、そうか! じゃ、乾杯の音頭おねがいします姫。あんたしかいないでしょ!
九三に背中を押され、デッキの舳先に立つシーラ。
眼下では、市民が思い思いの料理や酒を持ち出しながら、路上で音楽を演奏または放送している。
九三 ははは、こんな光景、数世紀前の人間からしたら悪魔の祝祭そのものだろうね。
シーラ ああ……(咳払い)じゃ、やるか。親愛なるダブリン市民よ! 我々はついにここまで来た。あとはブリテン島での四公演を残すのみだが、こうしてアイルランドで歓待を受けたことは、我々全員にとって大きな喜びだ。とくに……あたしにとってはな!
両岸の市民とYonah船上の一同から大歓声が上がる。
シーラ そして市民よ、我々は今夜、ひとつの勝利を祝すべく集っている。それは自由、音楽の自由、好きなだけ飲んで喰って騒ぐ自由の勝利だ! 堕落と呼びたい奴には呼ばせておけ。君臨・敬虔・改悛という、頭文字にみっつもRを頂いた連中の脅威は既に去った。ならば親愛なるダブリン市民よ、あたしたちも今夜、ただの友人からRを取り去って悪魔になろうじゃないか。それは天国でなく地獄への階段だが、「決して転がらない岩になる」ことにおいては同じだ! あたしを産んでくれたアイルランド、そして今あたしを預かってくれてるPeterloo、ふたつの故郷に乾杯を捧げる。そうだ、黒い水に落ちた岩は、もう決して転がることはないのだ。乾杯しよう、自由に!
両岸と船上から「自由に!」の唱和が挙がる。
唄い手たちと市民たちによる酒宴は、夜更けまで続いた。
χορός(試金版)
書いたということになっている人: 試金
発行: Integral Verse
西暦2020年12月24日
integralverse@gmail.com
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※この小説はフィクションであり、実在の人物・団体・事件等とすべて関係があります。
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2021年5月22日 発行 初版
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