spine
jacket

───────────────────────



ランプシェードになりたくない男

さら・シリウス

さら・シリウス出版



───────────────────────




  この本はタチヨミ版です。




ランプシェードになりたくない男

 恐怖とユーモアと悲劇がちりばめられた短編集
             ダークファンタジー

       さら・シリウス:あらすじ
       妖精社    :文章

目次

ランプシェードになりたくない男
メールを送れない世界
愛の血しぶき
死んだ彼が設計した家
若作りの女
水晶に込めた願い
「おわりに」



◆ランプシェードになりたくない男


 その日、山形のぼるは九州の中心地、博多に来ていた。博多はこれまでにも何度か来ているが好きな町のひとつでもある。
「県外から来た人はみんな博多市ってのがあると思ってるみたいだけど、福岡に博多市はないんだよねぇ」
 と聞いたときには、のぼるもたいそう驚いた。博多という地名の使い方は曖昧で、博多区周辺を指すこともあれば、天神エリアも含めて福岡市内でにぎわっているエリアをざっくりと博多と表現することもあるようだった。
 今回は天神エリアにある公園と階段、その横にあるデパートとの道路に光の空間を作りたいという依頼で来た。
 のぼるは光を操るデザイナーだ。光を巧みに使い、アートを作るのが仕事だ。最初から光をデザインしたり、光を使ってアートを作ったりするために特別な勉強をしていたわけではない。もともとは照明の仕事をしており、そのうち自然に光のデザインやアートを手掛けるようになっていった。
 今では「光のアートデザイナー」という立派な肩書きが名刺に刻まれ、各種メディアでも特集が組まれるほどだ。世界を股にかけるというレベルではないものの、業界ではそれなりの立場を築いている。
 昼間、のぼるは広々としたカフェで担当者と打ち合わせをした。すでにある程度の話がまとまっており、特に変更点もなかったため、お互いに結構な時間を余らせてしまった。それならばと担当者がいろいろなところに案内してくれた。
「ここ、最近新しくできたんですけど、SNSで映えるとか何とかで、若い子が多くてですね」
「はぁ……確かに若い子が多いですね」
「そうでしょう? こっちは可愛い子が多くて、こないだなんて初めて来た人が可愛い子に見とれて電柱にぶつかったんですよ。こっちまで恥ずかしい思いをしました」
「博多美人って言いますしね」
「そうなんですよ。あ、そういえばちょっと前にこのあたりで結構な事件がありましてね。そちらのほうでもニュースになりましたでしょう?」
「あー、失踪事件でしたっけ?」
「そうです。そうです。突然消えちゃったみたいで。ネットでは拉致だなんだと騒ぎになってるみたいですけど、このまま迷宮入りですかね~。山形さんも気を付けてくださいよ~」
「いやぁ、やめてくださいよ」
「まぁまぁ、冗談ですよ。あ、今度、向こうのほうも大規模な開発するらしくて。あのビル見られるのも最後かもしれませんよ」
 担当は思いのほかおしゃべりな上に、せっかちだった。ゆっくり見たかった博多の街並みもさらっと流されてしまった。仕事の付き合いだからとある程度は合わせて、程よいところで担当者の案内を切り上げた。
「え~、まだまだ案内したいところたくさんあるんですよ~」
と、心底残念そうだったが、のぼるはのぼるでやりたいことがあった。博多に来たらこれは外せない。屋台のラーメンだ。
 のぼるは百貨店前に並んでいる屋台の中でも、ひときわ古めかしさを感じられる屋台でラーメンを食べた。頑固そうなオヤジの作るラーメンは絶品だった。
 こんなうまいものが安く食べられるのかと静かに感動を覚えた。
 その後、スナックで飲もうと店を探した。というのも、以前、仕事仲間と来た折に連れて来てもらった店がこのあたりにあるはずだったのだ。だが、探せど探せど見当たらない。覚え違いか、はたまた店がつぶれてしまったのか。
 のぼるはそのときになって、おしゃべりでせっかちな担当者の誘いを断ったことを後悔した。料亭に一席設けているということだったが、どうしてもラーメンを食べたかったのと担当者のペースに少しうんざりしていたため断ってしまったのだった。
「まぁ、仕方ないか……」
 自分に言い聞かせるように独りごちると、のぼるはとりあえずゆっくりできそうな店を探す。さすがコンパクトシティーと呼ばれるだけあって、少し歩けばいくらでも店は見つかった。
 のぼるはとある居酒屋に入った。そこは古民家をリフォームした店で、路地を入った少し奥まったところにある店だった。中に入ると応接セットが三つほど、それにこたつとちゃぶ台という昔ながらの日本を再現したかのような空間が広がっていた。
 職業病なのか、のぼるのは店内の照明が気になってしまった。内装や家具などにはこだわっているものの、照明には工夫が足りない。まぁ、仕事でもないのにここで口を出すのも野暮だ。いろいろと思うところはあったものの、それらをぐっと堪えて、
「すみません。どこに座ったらいいでしょうか?」
 とだけ声をかけた。
「あー、今空いてるのが応接セットだけなんですよね。そこでもいいんですけど、もし他のお客さんが来たら相席になっちゃいます。大丈夫ですかね?」
「大丈夫です」
「ありがとうございます。じゃあ、そちらにどうぞ」
 空いている応接セットに腰かけると、マスターらしき中年男性にブランデーの水割りを頼んだ。
「ブランデーの水割りですね?」
とマスターはのぼるの注文を確認した後、せっせとブランデーの水割りを作る。その間、チラチラとのぼるの顔を確認するような様子が見られ、のぼるも気になってしまった。
「何でしょうか?」
 と尋ねようとしたまさにその瞬間、マスターから、「アートデザイナーの山形さんですか?」と声をかけられた。
 のぼるは面食らってしまい、「え、あ、はい……」と情けない返事しかできなかった。仕事の関係者や業界人であれば、のぼるの顔を知っていてもおかしくはないが、こういった仕事とは関係のない場面で声をかけられることは滅多になかったからだ。
「えぇと……なぜご存知なんですか?」
「ちょっと前に商業誌で見たんです」
「商業誌……ああ、そういえば少し前にインタビューを受けましたね」
「友人がグラフィックデザイナーをやっていましてね。その手の本をよく置いていくんですよ」
 なるほどなと思っていると、マスターがのぼるの座っている反対側に向かって手招きし、若いスタッフを呼んだ。そのまま若いスタッフがカウンターに入り、それと入れ替わるようにマスターが出てきた。マスターはそのままのぼるのところへやってきて、のぼるの隣に腰かける。
「いきなりこんなことを頼むのも申し訳ないんですがね、うちの照明どうにかなりませんかね?」
「はぁ……」
「正直なところ、これ以上ね、店のリフォームは厳しいんですよ。でも照明だけでも変えれば、もっと違ってくるでしょう? ここで出会ったのも何かの縁ですし」
 のぼるは改めて、店内を見回してみる。店に入った瞬間に感じたように、やはり照明には工夫が感じられない。三角のランプシェードの裸電球はレトロな雰囲気もあって、店内には合っている。
 ただ、レトロを気取るにはいいが、いかんせん女性を美しく見せない。
 女性は男が思っている以上に敏感だ。自分がきれいに見える店で男と飲みたいものなのに、この店は上からの光だけ。女性を美しく見せるどころか、実物以下に見せてしまう。
 自分が映えないような店というのは、女性にしてみれば論外なのだ。照明を変えない限り、この店には飲めればいいという男客しかやってこないだろう。
「確かに照明をもう少し工夫すれば店の雰囲気も変わります。女性が美しく見えるような照明だと、女性客も増えるでしょう。そうすれば、店は今以上に繁盛するはずですよ」
「そうですか。そうですか。是非ともお願いしたいんですが」
「ああ、でもあいにく今は大きな仕事を引き受けたばかりですし、そもそもこちらには仕事で来ているだけなんです。東京でもその後の仕事が控えていますので、今は無理ですね」
「えぇ……そんなこと言わずに、本当に簡単でいいですから。なんならアドバイスと簡単なメモを書いてくれたら、あとは自分たちで照明を買ってきて作りますし。そもそもわざわざお呼びするような財力もないですし」
 自虐的に苦笑いをするマスターを見て、のぼるはそれなら今の仕事と併行で……と約束を交わした。
 アドバイスとメモ程度ならそんなに時間はかからないだろうと考えたのだ。
 その晩、ホテルに戻ったのぼるはポケットウィスキーを飲みながら店の中の造作を書いた紙を取り出し、あの照明をこれに変えて、あの照明をとり外し、代わりにこれをつけて……と考えていた。
 気づいたときにはもう朝になっており、それ以上のことはできなかった。

 その翌日、少し時間ができたので仕上げるために、もう一度店を見ておこうと店に向かった。明るい時間だったためか、店はまだ閉まっていた。仕方なく出直して夜九時に来たらようやく営業中の看板が出ていた。改めてマスターに店の中を見せてもらうと、何やら昨日と少し雰囲気が違う。
「マスター、店の雰囲気が昨日と違う気がするんですが、何か手を加えましたか?」
「いえ、何もしていませんよ」
 あれぇ……と思いながら店内を改めて見直すと、やはり昨日あったはずのランプもない。
「マスター、でも昨日のランプもなくなっているじゃないですか」
「そんなことを言われても……昨日と何も変わっていませんよ」
「それに昨日の若いスタッフさんは? マスターと入れ替わりでカウンターに入った子がいましたよね。今日はお休みですか?」
 マスターからの返事がないため、のぼるはマスターのいるほうに向き直ったが、マスターはひどく困惑した表情を浮かべているだけだった。
 はて、昨日はそこまで酔っていたっけと疑問に思いつつ、それ以上は追求しなかった。
 少し気まずい雰囲気の中、のぼるは店内のソファセットに腰かけてチビチビと飲みながら照明のレイアウトやデッサンを仕上げていった。すると、マスターがやってきた。
「おお、さすがですね。すごいです」
「あはは、ありがとうございます。まぁ、これが仕事ですから」
「ついでといってはなんですが、隣の部屋の照明も変えたいと思ってるんです。ちょっと休憩がてら見てもらえますか?」
「いいですよ」
 長時間座り続けていたため、のぼるもちょうど身体を動かしたいと考えていた。隣の照明も変えるとなると仕事も増えるわけだが、ここまで来ると多少仕事が増えようがどうでもよかった。
 のぼるはマスターに言われるがままに隣の部屋に入った。薄暗い中を少し歩くと据えた臭いがして、思わず顔をしかめた。その瞬間、床がくさっていたのか床が抜け落ちて、のぼるは地下に落ちてしまった。
「マスター! マスター!」
 のぼるが大きな声でマスターを呼ぶが、一向に返事がない。もしかして一緒に落ちて、打ちどころが悪くて……と最悪の事態が頭をよぎった。
 しばらくして暗闇の中で目が慣れてくると、自分の隣に昨日の若いスタッフがいることに気づいた。
 声をかけようとしたまさにそのときに、それが死体であることがわかった。
 同時に、カビ臭い土の臭いと死臭がのぼるの鼻を刺激した。次から次へと飛び込んでくる情報に脳の処理が間に合わず、硬直していると“ガチャリ”と音がした。音のする方向を見ると、ドアのやや大き目なのぞき穴からマスターがのぞいている。その表情やひどくいやらしく、悪意に満ちており、まるで別人のようだった。
「昨日、そいつは俺の裏の稼業のことに勘付いてな。いろいろ言ってきてうるさいもんだから殺してやったんだよ。おまえさんも様子が違うだの、ランプがないだのとうるさいからねぇ。残念だけど、ここで死んでもらうよ。最後に教えてやろう。俺の裏の稼業は臓器売買さ。人間の皮のランプシェードってのもあるらしいな。おまえさん、照明のアートデザイナーなんだろう? いいデザインのランプシェードになれたら本望だろう。なんなら自分の皮で作るランプシェードのデザインでも描いておくかね? もちろん、臓器は売ったあとだがね。鯨じゃないけど全身お役に立てないとバチが当たるからなぁ!」
「いやだ! ランプシェードなんかになりたくない!」
「死んでからもずっと飾って、見てもらえるんだよ! デザイナー冥利に尽きるだろう? ありがたく思うこったね」
〝ヒーッヒッヒッヒー〟
 薄気味の悪い笑い声と足音が遠ざかり、のぼるは暗闇にひとり残されて言葉を失った。暗闇の中でこれまで手掛けた作品を思い返してみたものの、あの三角のランプシェードと裸電球ばかりが浮かんできて、のぼるは絶叫しながら自分の頭を掻きむしった。




◆メールを送れない世界


 階段から男性がゆっくりと降りてくると、
「おはよう!」
 と、明るい女性の声が響いた。パジャマ姿の男性はあくびをしながら申し訳程度の声で「おはよう」と返した。
 食卓には可愛らしい子どもが二人すでに、お行儀よく座っている。ごく一般的な家庭の風景。人によっては理想的な風景かもしれない。
「もうご飯、用意できてるわよ」
「うん、ありがとう」
「今日も遅くなりそう?」
「そうだね。後輩が結構なミスをしでかしたから、みんなそのフォローに追われてるよ」
「大変ねぇ……でも、こう帰りが遅いと不安になるわ」
「また浮気や不倫の心配かい? 君はドラマや映画の見過ぎだよ」
「だって……」
「君や子どもたちのために頑張ってるのに、そういう風に言われると傷つくなぁ……」
 男性はいたずらっぽく唇を尖らせた。それを見て、女性は思わず吹き出してしまう。
「そうね。ごめんなさい。あなたに限ってそんなことはないわよね。本当に今さらだけど、私、本当に幸せすぎて怖いくらいなの。ずっと大好きだった人と結婚できて、こんな立派な家まで持てて。子育ては大変だけど、子どもたちもいい子だし、お義母さんもお義父さんもよくしてくれるし」
「僕だって君と結婚できて幸せさ。ちょっとやきもち焼きなのが玉に瑕だけどね」
「私がやきもち焼きなのは今に始まったことじゃないでしょ」
 男性が食事を終えると、女性はせっせとバッグを持ってきて、玄関まで見送りに行く。
「今日もお仕事頑張ってね」
「うん、行ってくるよ」
 毎日当たり前にやっている〝いってらっしゃい〟のキスをすると、女性は男性の姿が見えなくなるまで手を振り続けた。男性の姿が見えなくなったのを確認して、食卓の片づけにかかる。女性の名前は、かじ。学生時代から好きだった相手と結婚し、二人の子どもをもうけ、義実家との関係も良好。持ち家で専業主婦というこのご時世では恵まれすぎているくらいの日々を送っている。
 ただ、沙緒里には秘密があった。と言っても、結婚前から隠しているような悪質な秘密ではない。愛する夫のために、秘密でアルバイトをしているのだ。そのアルバイトというのが一風変わったものだった。
 夫の稼ぎは十分すぎるほどだったが、沙緒里はどうにか自分で稼いだお金で夫にプレゼントをしたいと考えていた。だが、小さい子どもを二人も抱えた状態でできるアルバイトというのはそうそうない。
 周りに相談しても、
「アルバイトなんてする必要はない」
 と、一刀両断されてしまう。
 どうしたものかと頭を抱えていたときに、沙緒里のもとへ一通のメールが届いた。アルバイトを紹介するメールだった。
 パソコンやスマートフォンにはやや疎い沙緒里ではあったものの、迷惑メールの見分けくらいはつく。なぜ届いたのかはわからなかったが、一般的な迷惑メールに見られるような特徴はない。アルバイトを探している中でどこかに登録して、それを忘れてしまったのだろうと沙緒里は自分の中で結論付けた。
 正直なところ、そのアルバイトの内容を見たときにはちょっとばかり胡散臭いなとは思った。ただ、小さい子どもを二人も抱えている沙緒里に無理なくできるアルバイトというのは、他にありそうになかった。もしダメだったらやめればいいだけ……と沙緒里は誰にも相談することなく、こっそりとそのアルバイトを始めたのだった。
 幸いなことに、家事に育児にと専業主婦として忙しい毎日を送りながらでも無理なくアルバイトを続けられている。
 もう四か月が経っているが、その間に報酬の振り込みが滞ったことはない。銀行振り込みできちんと報酬を受け取ることができているし、アルバイトの内容を考えればかなり割はいい。
 アルバイトの内容は仮に人に話したとして、好意的に受け取られるようなものではなかった。というよりも、「え、そんなアルバイトしてるの?」「大丈夫なの?」と言われてしまうような内容だった。それでも、沙緒里にとっては自分でお金を稼ぐこと、そしてそれを愛する夫にバレずに遂行することが最優先だった。
「子育てで忙しいのにいつの間に!? 僕のためにそこまでしてくれてありがとう!」
 と、夫は感動してくれるだろう。沙緒里の頭の中では、すでに具体的なシナリオが決まっていた。
 だからこそ、夫の前では沙緒里はSNSやゲームで遊んでいる風に見せる必要があった。
 実際にはアルバイトをしているのだが、夫の前では、
「ママ友との付き合いでSNSに誘われちゃって。今の時代は本当に面倒ね」「なんか流行りのゲームがあるみたいで、話題についていけないと仲間外れにされちゃうかもしれないからとりあえずやっていこうと思って」
 と、さも大変なことであるかのように振る舞った。
「そっか……ママ友の人間関係も大変そうだね」
 と、夫は沙緒里がSNSやゲームで遊んでいるものと信じているようだった。
沙緒里がこっそりとやっているアルバイトというのは、ターゲットにメールを送るだけの簡単な仕事である。
 スマートフォンの画面を近くで覗き込みでもしない限りは、沙緒里がメールを送っているのかSNSやゲームで遊んでいるのか見分けはつかない。
 長時間張り付いていなければいけないわけでもないため、二歳と三歳の子どもたちが何かしでかしてもすぐに対応できる。沙緒里にとってはこれ以上ないほど都合のいいアルバイトだった。
 問題はそのアルバイトの内容だった。
 依頼人から指定された相手のアドレスに、嫌がらせのメールを送り続ける……それが沙緒里の続けているアルバイトの内容だ。一日五十通くらいのメールを送るだけで、月十万円くらいの収入になる。一般的なアルバイトと比較しても、かなり割はいい。
 もちろん、沙緒里に心理的な抵抗がまったくないわけではなかった。企業が営業のためにメールをしつこく送るならまだしも、明らかに悪意のある言葉をメールで送るのだ。そのメールを受け取った相手が確実に嫌な思いをするのがわかっていて、メールを送るのだからどうしたって罪悪感は出てくる。
 SNSでの心無い言葉で命を絶ってしまう人がいるのも知っている。そういうニュースはテレビで連日のように取り上げられる。
 だが、その罪悪感もずっと続くわけではない。
「もしかしたら、嫌がらせのメールを送られてくるだけのことをしてきた人間なのかもしれない」
と思うようにもなっていたし、何よりも沙緒里は報酬を受け取ってあくまでも仕事としておこなっているだけなのだ。
 今の状況では沙緒里が稼ぐ方法などあるわけもなく、どのような手段であってもお金の価値は変わらない。
 主婦がチャットレディなどに手を出すよりはよっぽどマシだろうとも考えるようになっていた。何よりも愛する夫のため……その思いが都合の悪い部分を覆っていった。

 ある日、沙緒里がスマートフォンを手に取ると何やら調子が悪い。仕方ない、今日はパソコンから……とパソコンを立ち上げると、パソコンに大量のメールが届いていた。
 ぱっと見ただけでも穏やかではないのがわかる文面のものばかりだった。
「おまえが息子を殺した!」
「おまえが妻をおかしくした!」
「金返せ!」
「泥棒!」
 どれも沙緒里には身に覚えがなく、何が何だか一切わからなかった。気持ちの悪い迷惑メールが届いたことはあったが、ここまで悪意に満ちたメールが送られてきたのは人生で初めてのことだった。
 パソコンの前でしばらく茫然としていた沙緒里だったが、ふと気づいた。というのも、これらのメールはすべてアルバイトで沙緒里自身が送っていたメールだったのだ。
 依頼人から指定された相手に沙緒里が送ったメール。それが沙緒里に届いていたのだった。
 何かの間違いか、手違いだろうとその日はパソコンを閉じた。だが、その日から毎日毎日沙緒里のもとへとあの悪意に満ちたメールが届くようになっていった。
 パソコンはもちろん、スマートフォンにもメールは届き、メールアドレスを変えても変えてもメールはやまなかった。頻繁にメールアドレスを変えてしまうものだから、これまでやり取りしていた友人や知人にも怪しまれ、孤立するようになっていった。
 なぜそうなったのかはわからないものの、アルバイトで誰かに送っていたはずのメールがある日を境に自分自身に届くようになった……。
 どれだけ考えても答えは出ないし、一方的に悪意は降り注いでくる。それも自分がどこの誰ともしらない相手に送っていた悪意が。
 沙緒里はとうとう何も手につかなくなってしまった。一番可愛い年頃の子どもたちの世話もできず、家事も一切できなくなっていった。
「どうしたの?」
「大丈夫?」
「体調が悪いなら一緒に病院へ行こう」
 ……沙緒里を心配した夫は何度も声をかけたが、沙緒里はそれに答えることができなかった。
 答えられるはずもなかった。
 アルバイトとは言え、悪意に満ちた行為をし、それが今になって自分に返ってきているのだ。すべてを話せば、愛する夫に嫌われてしまうかもしれない。
 沙緒里は夫からの声かけに一切答えず、ただただ家でじっとしているだけの日々が続いた。
母親の異常を察しているのか、子どもたちも情緒不安定になっていった。沙緒里が家事をしなくなって、家の中もどんどん散らかっていった。もちろん、夫もできる限りのことをしたが、やはり限界がある。
「沙緒里、実家に帰ってしばらく静養したほうがいいと思うんだ。というよりも、もうそうするしかないよ。君の実家はお義父さんひとりだから子どもたちを連れて帰っても、子どもたちの面倒は見きれないだろう? こっちはこっちでベビーシッターを雇うから、心配しないでゆっくり休んでおいで。小さい子が二人もいるんだ。君も頑張り過ぎたのかもしれないよ」
「はい……」
 夫からの提案を沙緒里は受け入れるしかなかった。家事もできず、子どもたちの面倒も満足に見ることができない。どうしようもなかったし、他に選択肢もなかった。だが、実家に帰ったところで何かが変わるわけでもなかった。むしろ、実家に帰ってから沙緒里の状態はどんどん悪化していったのだ。
 家にいたときは、何もできない状態でも子どもたちや夫の顔を見ることができていた。心配そうな表情を浮かべていると、少しだけほっとした。でも実家では子どもたちや夫がどのような表情を浮かべているのかわからない。見えないからこそ、どんどんと悪い方向へと考えてしまうのだった。
 ますます何もできなくなっていき、このままでは子どもたちにも合わせる顔がない。子どもたちの面倒も家事もできない妻では、夫も愛想を尽かしてしまうかもしれない。そう思うと、余計に落ち込んで心身ともに最悪の状態になっていった。
 父親のすすめで心療内科にも通い出したが、アルバイトのことを打ち明けられるわけもなく……一向によくならなることはなかった。
 ただ、ひとつだけよかったことがある。それは心療内科で薬を出してもらえたことだ。



  タチヨミ版はここまでとなります。


ランプシェードになりたくない男

2021年5月30日 発行 初版

著  者:さら・シリウス
発  行:さら・シリウス出版

bb_B_00169460
bcck: http://bccks.jp/bcck/00169460/info
user: http://bccks.jp/user/149942
format:#002t

Powered by BCCKS

株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp

さら・シリウス

私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付いた日から書き止めるように。 自力で肉付けをして書いた物が十編ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 そこで2021年の始めから、力のある人に私が書いたプロットを渡して、書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#)      さら・シリウス

jacket