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【無料】沿革を中心とした京都の各社寺の随想100 第三巻

坪内琢正

瑞洛書店



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簡易目次
※ 第三巻・第四巻は合わせてのあいうえお順となります。

簡易目次

五一 化野念仏寺
五二 一言寺
五三 因幡薬師
五四 今熊野観音寺
五五 梅宮大社
五六 大原野神社
五七 蚕ノ社
五八 元慶寺
五九 上賀茂神社
六〇 清水寺
六一 地主神社
六二 銀閣寺
六三 高台寺
六四 革堂
六五 京都霊山護国神社
六六 興正寺
六七 三十三間堂
六八 清浄華院
六九 白峯神宮
七〇 下御霊神社
七一 常寂光寺
七二 下鴨神社
七三 随心院
七四 祟道神社
七五 鈴虫寺

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沿革を中心とした京都の各社寺の随想 100 第三巻 五一 化野念仏寺




   五一 化野念仏寺



 鳥居本停

 山号を華西山と称する浄土宗の寺院です。化野(あだしの)は古来より、徒然草第七段をはじめ、東山の鳥辺野と並ぶ風葬の地として知られてきました。
 最古の伝承を紐解くと、弘仁二(811)年、空海がこの地に野ざらしになっていた無縁仏の遺骸らを埋葬し、その供養のために約千体の石仏を埋め、さらにそこに、五智如来の石仏を建て、如来寺を建立したことによるとされています。
 浄土思想の強い社寺であるため、法然がここを整備したことの方がよく知られているようです。
 ここの無縁仏らはおおよそ中世、室町期などが多いようです。とはいえ、この賽(西院)の河原の整備は意外と遅く、明治三六(1903)年頃とのことです。
 なお石仏とは言え無縁仏という仏像に相当するため、現代でも撮影は禁止です。
 さて、ここ鳥居本は嵯峨野の風致地区を散策しながらたどり着けますが、一方で京都バスも毎時一本あります。このバスは阪急嵐山発着、嵐電嵐山経由ですが、丸太町通と清滝道への交差点の嵯峨小学校前も経由します、ここが事実上『JR嵯峨嵐山駅西口』にもなりますので、JR利用の方もご参照ください。



五二 一言寺




   一言寺

一言寺停

 壇ノ浦の戦いにて、「海の底にも都がある」と安徳天皇に告げ、彼を抱き入水した建礼門院ですが、天皇は救われなかったものの、彼女自らは源氏の兵士らによって救われました。その後彼女は大原の寂光院に隠棲することとなります。
 彼女に仕えたのが、藤原信西の娘、阿波内侍です。かの大原女の衣装は彼女がモデルになっているとも言われています。その阿波内侍自身も隠棲のため、ここ醍醐の地に創建したのがこの一言寺(いちごんじ)と伝わっています。
 寺名の由来は本尊の千手観音の通称、「一言観音」にあります。その言われは、沢山は無理であるものの、たった一つの願いであれば叶えるという民間伝承にあります。
 近代に入り寺院は衰微し、明治八(1874)年同じく衰微していた醍醐寺の三流派のうちの一つ、金剛王院(あと二つは三宝院と理性院)に吸収合併となります。そのためこの寺院は真言宗醍醐寺派の別格本山金剛王院が正式の名称となりますが、本尊が一言観音であることもそのままであり、引き続き一言寺の通称の方で広く知られることとなります。


五三 因幡薬師




   五三 因幡薬師



四条駅/烏丸駅

 真言宗智山派です。平安時代には、東寺、西寺を除き、都での寺院建立は禁じられていました。但し持仏堂の建立は認められていました。このため、平安期創建の京都の寺院の多くはそのスタイルを取りました。
 これらが今日まで「町堂」と呼ばれるものとなります。それらは堂宇とストリートとの距離が近いものでした。その結果、中世など後々、これら町堂は、京都市民にとって、集会所などの機能を果たすこととなっていきます。
 「町堂」の類は、革堂、六角堂などが代表的ですが、この因幡薬師もそれに属するものです。
『因幡薬師縁起』などによると、この寺院は橘行平によって長保五(1003)年に建立されたものです。
 村上天皇の天徳三(959)年、橘好古は国司として因幡に赴きます。しかしその道中で、好古は病にかかります。
 このときの夢枕に一人の僧が現れ、『当国(因幡)の賀留(かる)の津に浮いた木がある、その木は衆生化度のために、天竺からやってきたものだ、これを祀れ』とのことです。
 行平は早速因幡国のその地に赴き、薬師如来像を引き上げます。因幡薬師縁起によると、それは釈迦が自ら掘ったもので、行平は因幡に大豆桑寺(まめくわでら)を建立しこれを
祀りました。
 このようにして行平は京都へと還りますが、四月八日、行平の邸宅の門をたたく音がしました。その客人とは、まさにあの引き上げた薬師如来でした。このようなことがあったため、行平も薬師の願いを聞き入れ、自分の邸宅に薬師を祀ることとしたのでした。
 このようなことがあったため、因幡薬師は貴賤の信仰を集めました。町堂は持仏堂のスタイルを長らく取っていましたが、承安元(1174)年、高倉天皇により平等寺の寺号を下賜されます。
また、後白河法皇も病気治癒祈願のため、熊野に言われるままにここを参拝しています。三十三間堂の本尊が薬師如来であることもこれに依っています。



五四 今熊野観音寺




五四 今熊野観音寺



泉涌寺道停

 西国三十三ケ所の一であり、また皇室菩提寺である泉涌寺の塔頭でもあります。大同二(807)年、唐から帰国した翌年に空海がこの地に一尺八寸の十一面観音を彫り、一宇を建てて祀ったことが端緒とされています。
 伝承によると、東山から光が出ているのを見て空海はこの地に赴き、老人の姿をした熊野権現に会った。熊野は天照大神が造った一寸八分の十一面観音像を空海に渡し、この地に観音菩薩を祀るよう告げたとのことです。
 空海伝承は日本各地にありますが、熊野権現云々はともかく、空海が開基であるとのことはこの寺院では誤りではなさそうです。というのは空海に親しい嵯峨天皇も弘仁三(812)年からこの寺院の創建に協力しているためで、天長年間(824-833)にそれは完成します。
 白川法皇以降熊野信仰が流行します。洛域にもその勧請がなされ、修験道の聖護院付近の熊野神社の他、そもそも熊野伝承の在ったこの東山南東の地も熊野信仰の地として発展、この寺院も東山観音寺と、観音の名称ではあるもののその拠点として知られるようになります。
 後白河法皇の時代、永暦元(1160)年にはこの寺院にも熊野権現を勧請、新那智山観音寺に山号、寺号が改称されます。またこの寺院での祈祷により彼の頭痛が治ったことから、それ以降頭痛封じでも知られるようになります。
 応仁の乱による荒廃の後、天正八(1580)年に再興、現在の本堂は正徳二(1712)年のものです。



五五 梅宮大社




   五五 梅宮大社



【名神大社】【二二社下八社】

梅宮大社前停

 さほどの規模があるわけではないのですが、式内名神大社、また、明神二二社下八社の一、近代社格では官幣中社です。というのもここは平安中期頃までは要職も多数輩出していた橘氏の氏寺であるためです。
 平安期以前は今の井手町の辺りに鎮座していました。奈良時代、橘諸兄の母であった県犬養三千代(橘三千代)の創建とされ、子であった橘諸兄も後に祀られました。なお県犬養三千代は藤原不比等の妻であったため、梅宮社は藤原氏からも崇敬を集めることとなりました。
その後各地への遷座が続きますが、嵯峨天皇皇后であり、仁明天皇の母でもあった橘嘉智子によって現在の地に遷座されました。
 まずは本殿に四柱が祀られています。即ち酒解神、大岩子神、小岩子神、酒解子神で、ここと大山崎町の酒解神社以外には見られない独自の神であり、神社側の解説では、それぞれ、大山祇神(おおやまづみのかみ)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、木花昨夜姫命(このはやさくやひめのみこと)に比定されるとしています。
 続く相殿は仁寿年間(八五一~八五四)の創建で、この神社の建立にゆかりの深い人物、嵯峨天皇、橘嘉智子、仁明天皇、橘清友(橘嘉智子の父)の四柱が祀られています。
 すぐ近くに秦氏の氏寺で有り、酒造の神でもある明神第四位の松尾大社があることから、それとの関連も指摘されがちです。
 また、『酒解』は当て字でもあると言われています。例えば『辟』という字は意味も天皇のことからよこしまであることまで、またその読みも多数ありますが、そのうち『さ(ける)』という読みがあり、悪霊を祓うの意味であるとも、あるいは、『境解』として、産土神的性格を有しているとも言われています。
 現代の社殿は主に元禄一三(1700)年のものです。但し拝殿は文政一一(1828)年、随身門は文政一三(1830)年です。



五六 大原野神社




五六 大原野神社



【明神二二社第七位】

南春日町停

 名称は『大原野』ですが、左京区大原ではなく、右京区にあります。また、洛西ニュータウンから比較的距離があり、のどかな風景の中にあります。
 長岡、平安遷都に際して、春日社も勧請されたことが端緒です。長岡京遷都の際にも今の地の周辺に勧請されましたが、その後の平安遷都に際して、やや遅れる形で嘉祥三(850)年、今の位置に遷座されました。このため『京春日』の別称を持っています。
 二二社中、中七社の筆頭ともなっている他、近代社格でも官幣中社とされています。
 境内には奈良の猿沢池を模したと言われる鯉沢の池があります。但し神苑と呼べるほどのものにはなっていません。おおよそ今日庭園と呼ばれるものができつつあったのは室町期以降のことで、それ以前のものは造りとなると見劣りがしてしまうのはやむを得ないことではあります。



五七 蚕ノ社




   五七 蚕ノ社



【名神大社】

蚕ノ社駅

 蚕ノ社、もしくは木島(このしま)神社との通称が一般的です。正式名称は木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社です。社名から、天照御魂神(あまてるみむびのかみ/あまてるみたまのかみ)という祭神が鎮座しています。この神は関西などでしばしば祀られており、天照大神とは別の太陽の神と考えられています。
 また境内では珍しい三柱鳥居が見られます。この鳥居は松尾、稲荷、双ヶ岡三つの方を向いていると言われています。また水への信仰もあり、下鴨神社の糺の森に対し、『元糺の森』があります。
 創建年も経緯もわかりませんが、推古天皇一二(604)年、広隆寺の鎮守として勧請されたとも言われています。『続日本紀』大宝元(701)年には既に記載されています。また、広隆寺、松尾大社等、当時は秦氏がこの近辺で活動していることから、同社も秦氏との関係が指摘されます。
 平安後期成立の『梁塵秘抄』においても、伏見稲荷や石清水八幡宮などと並んで、参拝者の絶えなかった神社として紹介されています。



五八 上賀茂神社




   五八 上賀茂神社



【名神大社】【明神二二社第三位】【三社】【官幣大社】【勅祭社】

上賀茂神社前停

 正式名称は賀茂別雷(かもわけのいかづち)神社で、同名の神を祀っています。賀茂氏は八咫烏に比定されることが多く、奈良県御所市には鴨都波神社他、いくつか賀茂を称する神社があります。
 そこから賀茂氏は神武天皇と共に移動していきます。まずは現在JR加茂駅のある木津川市で、ここに岡田鴨という神社があります。
 さらにそこから、現在の下鴨神社付近、さらには上賀茂神社の周辺へと移動しています。賀茂氏の移動はそこまでで止まりますが、この一連の経由地を、結果的に日本の首都が後追いしていくことになります。賀茂社の由緒もあまりに古く、神武天皇まで登場します。
 宗教的な側面を中心に、王城鎮護には、そこにそれまで住んでいた一族の支えが必要となります。洛北や洛東は賀茂氏がいましたが、洛西には秦氏がおり、こちらの松尾大社も、四神相応のうち、『北の賀茂、西の松尾』として特に重視され、明神二二社第四位となっています。一方祇園祭であまりに知られる東の八坂神社は実はこの二社と比べると明神社としての順位はかなり下がるのです。
 とはいえ第三位と第四位との扱いの差はかなり開いています。伊勢の他、国家鎮護として皇室中興の祖である応神天皇を祀る石清水八幡宮を合わせて二所宗廟と呼び、王城鎮護を司る下上賀茂社を合わせて三社と呼びます。
 九州などでは、初詣を三か所にする風習が残っているそうですが、私も最近は、下上賀茂社を終い詣で、石清水八幡宮と、伊勢の代参として日向大神宮とを初詣にする年が多いです。
 さて文献によっては、伊勢を別格扱いとしたうえで、上賀茂神社が官幣大社筆頭、また、勅祭社筆頭であることを強調しているものも多いです。つまり近代に入ってから、石清水八幡宮と下上賀茂社のランクが入れ替わっているのです。
 八幡神は軍神としての側面がしばしば指摘されますが、石清水八幡宮では仏教との習合が強く、明治まではその例祭は放生会で、今もそれは石清水祭のプログラムの中に組み込まれています。こういった経緯か、近代からは、事実上第二位と第三位とが入れ替わったとも言えるでしょう。
 また政経の分野では、神社本庁と全日本仏教会とはもはや水と油のような対立をしています。一方京都、関西を中心に神仏霊場の道という霊場が整備されるなど、政経のことはおいといての神仏の再習合の動きも見られます。
 これには、社寺に対し単なる観光地、イレギュラーな存在、といった見方への反発も含まれているのではないでしょうか。どの社寺や、その周囲での人々の物語も、長い歴史の中で自然にこれだけの量となっていったのです。
 社寺は現代の建物と比べると焼失しやすいものです。癒しの感覚というのは、実はペットなどと同様、それが弱いから来るものでしょう。またその周辺で発生した数多の歴史の物語も、他者を知るということになり、それは思いやりなどに結び付くものでしょう。
 それらはどれも観光名所として見るのではなく、我が国の日常の中に溶け込んでいるものです。それらが数多蓄積されている場所を見るとき、我々は相互の人権の重要さにも気づくことになるでしょうし、それは反抗心などで反故にしてよいものではありません。
 京都にはそのメッセージが自然と込められています。乾いたビル街をもってその精神で動くことの危険さももちろんあると言えるでしょう。
 話を上賀茂神社に戻します。ここには伊勢に近いことがいくつかあります。まずは式年遷宮で、これは伊勢より一年多い二一年です。
 また弘仁元(810)年、嵯峨天皇から、鎌倉期の後鳥羽天皇に至るまで、伊勢の斎宮の制度にならった、斎王の制度があり、皇女が仕えることとなっていました。
 嵯峨天皇による斎王制度の設置は、当時の薬子の変に際して、これに勝利した場合に賀茂に約束したものでした。
 また宇多天皇も臣籍降下をしていた時期に、賀茂より、「春だけでは寂しいので秋にも臨時の奉幣などをしてほしい」との夢告を受け、これを上奏しましたが、これを受け朝廷は寛平元(889)年より臨時祭を開始し、これも明治まで続きますが、この功も影響し彼は帝位につくことができました。賀茂に縁を持つ天皇には聡明な人物が目立っていると言えるでしょう。
 さて、賀茂社は行事も重要です。伊勢での最重要祭祀は神嘗祭で、これは近代に別格とされましたが、賀茂社の葵祭も筆頭勅祭です。
 下鴨神社の御蔭祭と同様、上賀茂神社にもみあれ祭というものがあります。御蔭神社は八瀬の山中にあり、移動距離も関係して、おおよその祭儀は公開されていますが、上賀茂神社のみあれ祭は同社の御生所(みあれどころ)でなされるため非公開です。
 但し内容として、神威の『発電機』のようなところから、『新しいバッテリー』を持ってきて充電という趣旨は同じです。これを前祭として、王城鎮護のバッテリー充電が無事に終了したことを帝が歓び、勅使を派遣するというのが本祭です。
 葵祭では、御所、御苑、堺町御門、下鴨神社、上賀茂神社と祭列が続きます。洛域を練り歩くのが『路頭の儀』、境内での祭儀が『社頭の儀』で、後者は関係者のみの参列です。斎王が復活されたため、そちらが有名となってしまいましたが、『路頭の儀』は勅使代です。 
 なお本物の勅使は『社頭の儀』にのみ参加しており、仏教の御修法など、京都にあって勅使を招く他の宗教行事と同様、宮中祭祀を司る天皇の私的な使用人としての立場の賞典ではなく、宮内庁京都事務所長が担当することが通例です。
 最近では上皇陛下が事実上の譲位予定の報告(相談?)のために参拝していますが、過去に至るまで、勅使に限らず貴賤の参拝の足が絶えないところです。
 葵祭の路頭の儀が他に類を見ない風雅、穏やかで、身体に危害の及びにくい祭礼であることから意外と思われる方も多いかもしれませんが、実は上賀茂神社では、どちらかというと地方でなされていそうな荒々しい神事もあります。その代表が『競馬(くらべうま)』や『烏相撲』です。
 しかも競馬は歴史が古く、『山城國風土記』によると、欽明天皇の時代からなされていたとのことです。また『続日本紀』によると文武天皇二(698)年、これを禁止する詔が出ており、これが国史上同社の初見ともなっていますが、詔の効果もさほどなく、『競馬』はなされてきました。
 今一つは『烏相撲』と言われる相撲です。元は斎王の前で催されていたもので、純潔を保たねばならない斎王への慰めのショーのような性格がありました。鎌倉期以降斎王は廃止されましたが、相撲は継続して続けられました。但し少なくとも近世の頃からこれは男児がすることとなり、今に至っています。



五九 元慶寺




   五九 元慶寺



御陵駅

 貞観一〇(868)年に、陽成天皇の母藤原高子が発願し開基、六歌仙の一人僧正遍昭が開山です。当初は付近の山の名から花山寺と呼ばれました。元慶元(877)年に元号名を取って元慶寺に改称されますが、花山寺の通称も引き続きしばしば用いられます。
 著名な事件として寛和の変があります。寛和元(985)年、花山天皇は女御に迎えた藤原忯子が夭折したことにショックを受け、出家を検討し始めます。
 この出家に際し天皇の優柔不断が伝えられていますが、実際のところ、天皇が出家することにより、周辺の家臣の地位にも変動が生じるので、天皇の出家を利用して地位向上を図る者はそれを勧め、また、地位が危ぶまれる者たちはやはり反対するでしょう。もちろん出家自体は天皇自身の自由であるべきでしょうが、それを貫くとなると強い意思が必要となります。
 権中納言でありながら天皇の外叔父であった藤原義懐や、権左中弁でありながら天皇の乳母の子であった藤原椎成など、若い天皇が即位したことで、その親近者として摂関をも凌駕する実権を握ることになった者たちや、時の関白藤原頼忠は出家を阻止すべく天皇を説得する側でした。
 一方、右大臣であり、皇太子懐仁親王(一条天皇)の外祖父であったことから、皇太子の即位により実権が増す立場にあった藤原兼家は天皇の出家を後押しする側に回りました。
 寛和二(986)年六月、花山天皇は密かに内裏を抜け出し、この元慶寺にて出家します。『大鏡』では天皇の優柔不断や、兼家側の策謀を描き、出家に反対の視点から述べられています。
 花山天皇には、兼家の三男であり、蔵人であった道兼が随行します。道兼は天皇を慰めつつ、自身も共に出家すると言います。一方天皇は、月明かりがあり、出家を見られるのは恥ずかしいと躊躇するも、月が雲に隠れると出家を再度決めます。続いて天皇は内裏を出る前に、亡くなった忯子の手紙を持ち忘れていたことに気づき、一旦戻ろうとしますが、道兼は、また天皇が迷い出したと思い嘘泣きをして、そのまま天皇を内裏から連れ出すことに成功、これを見届けた兼家は、子の道隆や道綱に命じて内裏全門を封鎖します。
 この後、道兼は出家することを父兼家に伝えると言い元慶寺を去り、それが嘘であったことがやがてバレます。その一方で、権威を失った義懐や惟成は元慶寺で花山天皇を見つけ、彼と共に出家することとなります。
 元慶寺がその名を知られる最大の理由は西国三十三か所の番外であることです。西国三十三か所観音霊場は日本最古の霊場で、奈良時代に徳道が、三十三ヵ所の宝印を摂津の中山寺にて石棺に納めたことから始まりますが、花山法皇の時代には既に伝承と化していました。法皇はその宝印を中山寺を捜索して発見し、同三十三ヵ所を巡礼し、その中興の祖となりました。
 花山法皇の評価は大きく分かれます。奇天烈な行動が目立ち、とりわけ、即位礼の最中に、高御座の中に女官を連れ込み、そのまま情事を実行した件は知られます。
 また出家後、長徳二(996)年の長徳の変も有名です。かつて自身の出家を後押しした藤原兼家の孫、また道隆の子伊周は、故太政大臣為光の娘の三の君のもとに通っていましたが、法皇も同じ邸宅に住む四の君であり、自分の出家の原因となった藤原忯子の妹であった藤原儼子のもとに通い出します。これを伊周は謎の男性が三の君のもとに通っていると錯誤し、弟の隆家と相談し、隆家が彼に矢を放ってしまうこととなり、二人は太宰府、出雲へと左遷となります。
 出家後の情事自体がそれなりに禁止であったのは江戸時代くらいのもので、それより以前はさほど厳格ではなく、出家後であっても公然と情事をしていた者も多いですが、これらの天皇の行為を見て、『大鏡』などは『内おとりの外めでた』と厳しく評しています。
 一方、現代に繋がる西国三十三か所霊場は実質的に法皇が整備したものです。また法皇は晩年の寛弘三(1006)年頃の成立となる『拾遺和歌集』について、藤原公任の撰と言われる『拾遺抄』からと言われる勅撰(天皇が作成を臣下に命じること)を命じ、さらにその親撰(天皇自身が和歌集を作成すること)にも加わったとまで伝わっており、文化人として、『大鏡』とは逆の評価もあります。
 花山法皇は西国三十三か所の整備以後、その途中にあった三田の東光山にて隠棲していたと言われており、そこには現在、花山院菩提寺という西国三十三か所番外の寺院があります。とはいえ晩年や、長徳の変の時期など、しばしば京都に還ってきており、その際にはこの元慶寺も拠点になっていたのではとも指摘できるでしょう。
 また批判する側も『内おとりの外めでた』との用語を用いていますが、これが現代にも伝わっているということは、即ちこの慣用句は都が京都であった時代に広く人間への戒めの言葉として受け継がれており、それが現代にあっては、急速に、誤った賛美の言葉と化していることも指摘しなければならないでしょう。
 中世には今より広大な境内を有し、また今より北西の北花山の中腹にあったと言われていますが、応仁の乱により荒廃します。現代に伝わっている伽藍は安永年間(1772-1781年)に再建されたものです。



六〇 北野天満宮




   六〇 北野天満宮



【明神二二社下八社】【国宝建造物:本殿・石の間・拝殿・楽の間(合一棟)】

北野天満宮停

 北野が創建されるに至るまでの間、菅原さん道真の怨霊と言われる事件が相次ぎます。昌泰の変が昌泰四(901)年に起こり、その二年後に道真が死去します。実は後世、摂関による介入が少なかったとして神聖化される延喜の治とは醍醐天皇と藤原時平の治世、即ち道真左遷後のことで、また実際に実績として古今和歌集の編纂や、延喜式の整備などもなされています。そのため昌泰の変は『聖代の瑕』との見方を採られることが多いです。
 いずれにせよ、藤原時平は延喜九(909)年に死去、また、皇太子であった保明親王が延喜二三(923)年に死去するなど、朝廷要人の死去が相次ぎます。そして延長八(930)年には清涼殿落雷事件が発生し、そのショックにより醍醐天皇も死去するなどのことが続きます。
 天神信仰は貴賤を問わず広がりますが、この特徴の一つは、民衆が端緒を切ったという点です。天慶五(942)年、右京の七条に住む少女の巫女多治比文子(たじひのあやこ)に、我を我を北野右近馬場に祀れとの夢告が折ります。とはいえ一般庶民であった多治比にそのような力はなく、止む無く自宅に道真の霊を祀りますが、これが今に続く天神信仰の端緒です。
 また、それから五年後の天暦元(947)年、近江比良宮の禰宜神良種(みわのよしたね)の七歳の男児太郎丸にも動揺の夢告が降ります。これらのことを受け、現在洛陽三三観音の一ともなっている、北野天満宮入口付近の小さな神宮寺東向観音、当時朝日寺と呼ばれていた寺院の住職最鎮、多治比、神らが夢告について相談し始めます。すると、彼らが集ったところ、一晩でその周囲に、梅と同様、道真が好んだ樹木、松が付近に多数生え始めました。これを見て三名は神社創建を決意、協力し合い、一般民衆でありながら、北野天神を創建させました。
 時の摂関家藤原忠平・師輔らがこの話を聞きつけます。忠平は時平の弟に当たり、道真の左遷には反対していたと言われますが、元はと言えば自分たち摂関家がもたらした災厄の数々です。これを受け、忠平、そして彼の死後は師輔が中心となり、天徳四(961)年頃までには北野天満宮は大幅な拡張がなされることとなりました。これにより、当初は御霊社的な性格を有していた北野天満宮は、学問の神としての側面も持っていくこととなりました。
 永延元(987)年は初の勅祭となり、一条天皇は『北野天満宮天神』と勅号します。実はこの勅号以前から『天神』は少彦名命(すくなひこなのみこと)の別称でもあり、道真と無関係な天神も、松原の五条天神などとして存在していました。
 ですがそのすぐ付近には、道真生誕の地の候補の一つに上げられる菅大臣神社があります。下京松原はこの他にも、親鸞、道元入滅の地などがあり、『天神様の細道』こと菅大臣神社に続く細道もあり、大きな名所などはないものの、古くからの京都の町並の光景を比較的よく残すところでもあります。
 一条天皇による天神の呼称により、天神とは道真になりました。また、後に、現代宮門跡の一つとして名高い曼殊院の元となる、比叡山西塔の東尾坊(とうびぼう)を創建した僧是算が菅原氏の出身があったため、寛弘元(1004)年、彼は北野別当に任命され、以後、現代は左京区修学院離宮付近に閑静かつ格の高い宮門跡として佇む曼殊院住持が、北野白梅町に近く、参拝客や、屋台などで賑わいを見せている北野天満宮別当を兼ねるという、興味深い現象が続いていくこととなります。
 明治維新の際、人間の天皇を祭神とする神社は官幣大社に、家臣を祭神とする神社は別格官弊社となりました。また、後にここに護国神社、靖国神社なども加わりました。ところが北野の場合、官幣中社となっています。この異例の厚遇も北野の特徴です。
 しかし実は北野は、参道などは長く続くものの、楼門内部を廊下で固めた本殿域内が比較的コンパクトで、同じような造りとなっている石清水などよりもかなり狭く見えます。
 これは錯覚ではありません。実は近世初期、慶長一二(1607)年、本殿再建の際意図的にコンパクトにしたものです。このため本殿は拝殿と石の間で繋がり、さらに拝殿左右にも楽の間で繋がり、本殿から拝殿、あげくはその附属の建物までもが一体と建物という扱いになり、現代、これらは一棟の扱いとして国宝建造物になっています。
 とはいえ北野の境内は広大で、西側を中心に、旧御土居を活用した紅葉などの散策路や、梅園などが展開しています。これに感化されてか、北野は秀吉による北野大茶会(天正一五年、1587年)の舞台ともされています。
 また北野の例祭は毎年八月に実施され、応仁の乱までは延暦寺と合同で執り行う御霊会が組み込まれていました。慶長期に再興されますが、御霊会はなくなり、代わりに瑞饋で飾った神輿が登場する瑞饋祭となりました。
 ところが二〇二〇年、新型コロナウイルスの流行に伴い、延暦寺と協力して、応仁の乱以来の北野御霊会が復活しました。これが一時的なものなのか、この後も続くのかは現在は未定となっています。



六一 貴船神社




   六一 貴船神社



【名神大社】【明神二二社下八社】

貴船口駅

 式内名神大社、明神下八社、また近代も官幣中社という由緒ある神社です。勧修寺と似たこととして、地名は『きぶね』ですが、神社名は『きふね』であるということが挙げられます。
 平安遷都以前からの鎮座で、神武天皇母玉依姫命が、黄色の船(=きふね)に乗って淀川からこの地までやってきたと言われており、反正天皇の時代の創建とも言われています。この他にも社名は木生根、気生根などの言われがあります。
 賀茂川水源近くにある水の神で知られます。また、社殿よりもここに続く、左右に赤い燈籠を並べた石段の方がよく紹介されています。この石段にとくに特徴などはないので、なぜそちらの方が広まっているのかはわかりません。
 また古来、朝廷は、干ばつのときは黒い馬を、長雨のときは白い馬を奉納していましたが、しだいにこれがその色の馬の板に代わり、これが後に神社で知られる『絵馬』になったと言われています。
 神社の性格上、上賀茂神社との関りが深いです。とはいえそれはさほど良好なものではなく、貴船側からの分離独立志向が目立ちます。
 既に平安期には、天喜三(1055)年貴船の再建に際し、上賀茂へも使者が派遣されており、両者は近接した関係にあったと見られます。
 史料にない箇所は、少なくとも表面上の対立はなく、実は貴船は長らく上賀茂の境外摂社でしたが、例えば『続史愚抄』では、応安五(1372)年、両者間の境界争いがあり、後光厳上皇の詔勅により上賀茂社社地との裁定が下されています。
 近世にも、元和二(1616)年、及び翌元和三年、貴船と上賀茂とは同じ社地の帰属を巡って江戸幕府に安堵朱印給付を要請、寛文四(1664)年まで実に江戸期半世紀を要し、貴船は上賀茂の末社となります。
 これは明治維新に入り解除、貴船は法的に独立した神社となりますが、独立していきなりの官幣中社列格です。ここからも貴船神社の信仰の篤さが窺えるものと言えるでしょう。



六二 京都霊山護国神社




   六二 京都霊山護国神社



東山安井停

 慶応四(1868)年五月、詔勅により、明治維新を前にして死去した志士たちの招魂社が東山の霊山(りょうぜん)に建立されました。官社としては日本初の招魂社となります。坂本龍馬、中岡慎太郎、木戸孝允、高杉晋作といった幕末初期に活躍し、維新を目にすることのできなかった志士たちの墓碑が東京の靖国神社ではなく京都霊山護国神社にあるのも、こちらが初の招魂社であるためです。
 ホタルの飛び交う夏の夜などは、少しは眺望も効くこの霊山から、竜馬たちが人間界を俯瞰しているかのようなイメージも感じられることでしょう。もちろん幕末に限らず、第二次大戦での戦没者までの英霊がこちらに祀られています。
 またここは、社寺の性格から、周辺諸国との間で、信教の自由に関わる問題が発生しやすい場所でもあります。とはいえそれらの国も、『一般市民が縁故者などを偲ぶのは構わない』が、『特別公務員(政治家)はダメ』といった、かなりあやふやな線引きをしています。
 日本の場合、民主主義の制度は安定しており、元首が天皇であっても、十分に、いわば市民政府という扱いができ、市民と政府との間の線引きが難しくなっているためです。
かくいう私も、日本人市民の信教の自由の権利に危うさを感じ、二〇〇八年以降、毎年の終戦記念日の参拝を続けているところです。
 さて、近年訪日需要が増加しており、日本の各地域は海外へのPRに力を入れていますが、その戦略として私個人は『京都プラスアルファ』というものを掲げています。例えば、京都にやってきた外国人らに、坂本龍馬について興味を持ってもらい、そして彼の出身地である高知を紹介するといった趣旨です。
 残念ながらこの手法を取り入れている自治体はさほどありません。一方、主に西日本を中心に維新の志士たちの出身地となっている各県などは、ここ京都霊山護国神社に地元の県のパンフレットなどを取り揃えていて、公的な観光案内所などよりも、一足早く、『京都プラスアルファ』の戦術を取っていて、各地方の魅力の紹介が多数なされています。これらを見るだけでも心を寄せらせる場所も多いのではないでしょうか。
 戦前・戦後の動きとして、1939年、招魂社は内務大臣布告によって護国神社に改称、別格官弊社とされます。戦後は国を手を離れての神社となります。
 1970年には資料館として『霊山歴史館』が開館します。また1997年には、特に昭和期にスポットを当てたエリア『昭和の杜』が造営され、パール判事顕彰碑などが設置されています。
 また付近には、帝産バスの創設者によって1955年に建立された霊山観音があります。同じく戦後、方広寺の半身像が焼失してしまったため、比較的新しいものの、京都における代表的な大仏となっています。




六三 清水寺




   六三 清水寺



【北法相宗大本山】【国宝建造物:本堂】【国指定名勝:月の庭】

五条坂停

 山号は音羽山(おとわさん)です。戦後に北法相宗となりましたが、元は法相宗という南都六宗の一つで、唯識を論じている宗派であり、薬師寺が本山でした。また平安期以降は真言宗も兼ねていました。
 数多の社寺や歴史的建造物は観光のために作られたものではなく、我が国の思想の歴史そのものであり、パリ、ローマ、北京などと同様、それこそが首都としての風格を持っています。
 ところが訪洛する者は、金閣寺、銀閣寺、清水寺など、構造に個性のある建物にばかり注目し、ここが思想の中枢であることを忘れ、そのために日本という国から思想自体が、いわば反抗期のような内容のものが主流となり、それは結果として、少子化という、競争の結果の全滅を招こうとしているといえるでしょう。
 さて清水寺の沿革は、奈良時代末期に遡ります。宝亀九(778)年、興福寺出身の僧賢心(後に延鎮と改名)は夢告により音羽山に赴きます。彼は金色の水の小川を見つけ、それを辿っていくと、千手観音を口唱念仏していた白衣の修行者と出会いました。
 彼は行叡と名乗り、「汝が来るのを待っていた。我はこれから東国に赴くので、我の代わりにここに千手観音を彫り祀ってほしい」と告げて去りました。賢心は言われた通りに千手観音を祀ります。これが清水寺の端緒です。
 さて、しばらくは行叡の帰りを待ちましたが、彼は戻ってきません。そこで賢心は行叡の後を追うと、山科に彼の草履がありました。状況から、行叡は失踪したのではなく、その場で仏界に戻ったのであり、彼は観音の化身であったと賢心は気づきました。
 次いで宝亀一一(780)年、病気の妻の薬として、鹿の生き血を求めて坂上田村麻呂が音羽山に入りますが、彼は賢心と出会います。賢心に諭され、坂上は鹿を採ることを止め、代わりに自宅を清水寺として寄進します。
 さらにその後、坂上田村麻呂が東北を平定した際にも、延暦一七(798)年、彼は、自分の祈りを叶えてくれた存在として、観音に加え、毘沙門天、地蔵も清水寺に祀ります。このように清水寺の開基には複雑なものがあるため、同寺では、行叡を『元祖』、延鎮を『開山』、坂上を『本願』と独特の名称で呼んでいます。
 この後、弘仁元(810)年には嵯峨天皇詔勅により、『北観音寺』という名の正式な寺院となります。そして平安期からすでに今日のような賑わいがあったことが『源氏物語』、『今昔物語集』などに記載されることとなります。
 つまり清水寺のあまりに特徴的な本堂こと『清水の舞台』は創建当初頃よりあったということです。諸堂は音羽山に主に石垣を用いて造られていますが、本堂はそうはいかず、その結果多数のケヤキを組み合わせ、釘を使わない『懸造』として、『清水の舞台』を構成しています。本堂前のスペースを、『清水の舞台』を設けてまで広くとっていますが、これは石山寺他の観音堂でも同じ造りとなっています。
 当時は法相宗に属していたとはいえ、近世にもその賑わいは多かったため、清水寺の運営は独特のもので、『三職六坊』と言われていました。この『三職』のうち、住職に相当するのが『執行』で、塔頭宝性院から、副住職たる『目代』が同慈心院から、会計が『本願』と呼ばれ成就院から選ばれていました。『六坊』は当時あった各塔頭から、彼らを補佐する役として設けられ、現在は延命院のみが残っています。



六四 興正寺




   六四 興正寺



【真宗興正派本山】

七条堀川停

 寺伝が、越後配流後、関東布教に赴く前、いったん親鸞が帰洛し創建したとありますが、親鸞がいったん帰洛したとの説はほぼ否定されているので、これもほぼ全ての資料が否定しています。
 史実として可能性が高いのは、元亨元(1321)年頃、五条西洞院にあった、親鸞の入滅の地でもあった住房を、第七世住持とされている了源が山科に移転して寺院としたことに始まるという説でしょう。その後了源はこの興正寺を、嘉暦三(1328)年頃に東山七条付近、汁谷(しるたに、現渋谷(しぶたに))に移転、後醍醐天皇より『阿弥陀佛光寺』の寺号を賜ります。
 現在でも西本願寺の南側に位置し、比較的大きな堂宇でありながら、西本願寺のそれがさらに巨大であることから、その堂宇の一部と錯覚されやすい興正寺ですが、沿革についてもここは本願寺との融和、対立などを何度か発生させています。
 真宗の場合、宗派の分派は主に親鸞の弟子の世襲によるもので、仏教上もっともわかりやすいその教義はほぼ変わらないことが特徴です。このため融和や対立は運営上のものも多いと言えるでしょう。
 まず、真宗中興の祖とされる本願寺八世住持蓮如による、御文の発行と念仏講の組織による布教拡大に伴い、文明一三(1481)年、第一四世経豪が蓮如に帰依します。これにより興正寺派は分裂します。経豪は蓮教に改名、本願寺派と合流し、山科本願寺に隣接する、本願寺の末寺としての興正寺を建立します。一方残存した佛光寺は経豪の弟経誉が中心となりますが、寺勢は大きく削られることとなります。
 この後、本来の興正寺の勢力は佛光寺となり、本願寺の末寺としての興正寺が今の興正寺へと繋がっていくこととなります。永禄一二(1569)年、興正寺住持に、本願寺の顕如の次男顕尊が入り、このとき、興正寺は大坂に避難していた本願寺の脇門跡に任じられます。
 脇門跡とは、端的に言えば門跡寺院のサポート的な性質を持つ寺院のことで、末寺の中でも別格としての意味があります。但しこの場合、そもそも本願寺が親鸞、即ち日野家からの法脈であり、家柄で言えば門跡と呼べるほどのものではありません。とはいえ本願寺は勢力としても大きく門跡を名乗ることを要望し続けたため、江戸期には玉虫色の策として准門跡との扱いとされます。
 ちなみに明治維新に際し親鸞は見真大師の大師号を授かることとなり、見真の額を東西本願寺は御影堂に掲げるに至りますが、戦後、額は残るものの、東西本願寺とも見真大師の呼称を宗制や宗憲から削除するなど、時代迎合的な動きが目立っています。
 さて、桃山時代の天正一九(1591)年、興正寺は本願寺と共に、大坂から今の七条堀川へと移転されます。
 しばしば興正寺は本願寺からの自立志向が強かったと言われていますが、それはおおよそ近世以降が中心の話となります。
 真宗の教義は歎異抄にあるようにパラドックスであり、『悪人正機』と、その二つの誤りである『自力作善』、『本願埃り』の三つを理解すれば、一見難しそうに見えて、ここまで簡明な教えもなく、親鸞初期はともかく、蓮如以降教義による論争というのは考えにくい印象を受けます。実際、興正寺による本願寺との対立は、その激しさは伝わっていますが、その論争の内容まではなかなか把握できにくいところです。
 いずれにしても興正寺と西本願寺の間の近世における対立はしばしば激しいものとなりました。まずは、承応の鬩牆(じょうおうのげきしょう)と呼ばれる事件です。鬩牆とは、『兄弟(けいてい)、牆(かき)に鬩(せめ)ぐ』、つまり、『詩経』にある、『兄弟、牆に鬩げども、外、その務(あなど)りを禦(ふせ)ぐ』という、兄弟は内部では争っていても、外部とは協力して防衛する、という故事の前半部分、内部における激しい争いの喩えのことです。
 寛永一六(1639)年、西本願寺が学寮を設立し、その第二代能化に西吟(さいぎん)が就任します。西吟の教学には、自力唯心と、やや禅宗の影響を受けたところがありました。真宗の他力と禅宗の自力とはもはや同一であることは、蓮如と一休という、両宗派有数の思想家の親交からもわかる通りですが、これに対し、承応二(1653)年、西吟と能化職を争った月感が批判を展開します。
 この月感を、興正寺住持の准秀が支持、能化西吟に対する批判である『安心相違覚書』を著します。これに対し西本願寺門主良如が翌承応三(1654)年『破安心相違覚書』を著し、興正寺と西本願寺との対立に発展します。
 准秀は東本願寺同様、興正寺の分派を企図していました。摂家九条、二条家や、幕府も和解を斡旋しますが不調に終わり、承応四(1655)年、幕府の沙汰の結果、准秀は越後高田、月感は出雲玉造に流罪、西本願寺学寮も取り壊しとなりました。
 二人は三年後の万治元(1658)年、赦免され、月感は東本願寺に転じます。また西本願寺も学林と呼称を変え、教育活動を再開することとなりました。
 そして、真宗全派から見ても最大の法論事件として、三業惑乱があります。
 もともと、宝暦年間、越前浄願寺住職の龍養を中心に、弥陀の成仏時に、その誓願は成就しており、よって誰であろうと成仏し、それを忘れないことが信心であるとの教えが広まっていました。
 私個人としてはこれはさほどオリジナルとは変わらないものと思量しますが、当時西本願寺はこれを「無帰命安心」と呼び、やや異安心(異端)の側面があるとしました。即ち、私たちの側にも成仏したいとの願いがあり、それは「弥陀に頼む」との側面があまりない、とのことでした。個人的にはこれは補足のようなもので、わざわざ弥陀に頼むことを強調したがったのは、宗派の世俗化によるものではないかと思量することもできます。
 いずれにしろ宝暦一二(1762)年、西本願寺は浄願寺に功存を派遣し、その指摘をさせることとしました。二年後の宝暦一四(1764)年、功存はこのときの問答をまとめ、『願生帰命弁』を著しました。
 ところがこの中において功存は、意業(心)、口業(口)、身業(体)の三業を通して弥陀の救済を求めるという内容でした。
 私個人の解釈ですが、真宗最大の特徴は、名号口唱も不要、完全に内面の問題としていることです。真宗がお札やお守りをなしとしているのもそのためです。
とはいえ一方で真宗もあれやこれやの作法を導入しています。これについてはいろいろな説があるため、ここでは私個人の感想を述べます。
 というのは、私自身も、観光として社寺参拝を実施した際に、一時は、神社での二礼二拍(合唱)一礼や、寺院での一礼及び合掌を省略していました。とはいえこれだと「OK、到着した」という感じがあまりしないので、今では復活しています。
これについて私は、祈念とは記念である、社寺とは古来のメモリアルホールに近い、との解釈をしています。
例えば、商工業の発展が乏しかった古来、旅行とはイレギュラーかつ危険な行為でもありました。集落の外部への移動の必要性など滅多に発生しませんでした。このため、旅行の必要性が発生した場合、その者はもちろん、旅の安全と、無事の帰着とを願うこととなります。
 そしてまたその者は、集落を離れるに当たって、その集落のシンボル的な場所へも行っておきたいと願うはずです。シンボル的な場所には、方位であれば集落のメインの交差点から見て北側の端など、時間であれば集落の代表的な存在が祀られている場所などが選ばれるはずです。これが神社はもちろんのこと、寺院の成立にも関わっているのではないかと考察します。
 なおメモリアルホール的な位置づけとして作法と願い(祈り/祈願)が発生しますが、私個人の場合、作法はしますが、願い(祈願)は省略しています。
 鈴虫寺の鈴虫説法などで、以前、お祈りは『努力したら叶いそうなレベルのものがよい』とのアドバイスがあり、それは一理ありますが、私の場合はいちいちそれを考えていると結構な量になってしまうためでもあります。
 端的に言ってしまうともはや社寺での記念としての作法は、仕事で頑張った後にデザートを食べるようなものに近いです。ここまで言ってしまうと怒られそうでもありますが。
 いずれにしても、作法に教義のあれこれ結び付けすぎると、とくに内面完結の真宗にとってはすぐに異端になります。
 話を江戸期に戻すと、越前から帰った後功存は明和六(1769)年から寛政八(1796)年まで学林能化を務めましたが、彼の教えは既に「三業帰命説(三業安心説)」として、異端の疑いがありました。
 これは西本願寺内部でのトラブルでしたが、西本願寺本山にしばしば対立する最大勢力であった興正寺もこれの批判に回っており、同学頭大麟(だいりん)は天明四(1784)年に『真宗安心正偽編』を著します。これに対し功存の弟子崇廓(そうかく)が『傍観正偽編』を著し反論、さらにそれに対し大麟は『正偽編後編』を著し再反論をするに至りました。
 1796年功存は学林のまま死去、翌寛政九(1797)年、智洞がその後を継ぎ、三業帰命説も引き継ぎ、それを広めようとしました。
 これに対し真宗僧侶、門信徒らの間に混乱が発生し、安芸の大瀛、河内の道隠らが三業帰命説への批判を展開しました。彼らは自身らを古義派と呼称しました。
 淳和二(1802)年一月、美濃大垣藩の門徒農民らが一揆の出で立ちにて、西本願寺に詰めかけようと集結する事件が発生し、大垣藩主戸田氏教はこれを鎮めるため西本願寺に宗旨整理の要請を出しますが、西本願寺本山側が何も講じなかったため、同年七月同様の事件が発生、代官が鎮圧する事態となり、藩主戸田はこれを幕府に届出します。
 これを受け寺社奉行脇坂安董は一一月、西本願寺本山に警告書を送付します。一方、三業帰命説派もこれに対し、淳和三(1803)年一月本山に詰めかけます。翌二月には古義派も本山に論戦を挑みます。
本山は自所での対処が困難となり所司代に連絡し、同年四月、二条城にて、大瀛、道隠と智洞との間で討論が実施されます。さらに所司代は彼らとその関係者らを監禁、翌文化元(1804)年一月、江戸に護送、寺社奉行所にて討論を実施させます。
 同年五月、大瀛が築地本願寺にて死去、翌文化二(1805)年には智洞も獄中にて死去、さらに翌文化三(1806)年、寺社奉行脇坂は、三業帰命説を異安心と採決し、西本願寺は宗門不取締としての一〇〇日の閉門処分の後に、門主本如の名で『御裁断御書』を発表、寺社奉行採決を受理します。
 この事件の場合、本山の能化の解く説を各地の僧侶、門信徒が批判し、寺社奉行処理事案となったこと、さらに寺社奉行裁決が、後者を正統としたことが特徴的です。また西本願寺本山において門主以上の権威を持ってしまった能化は翌文化四(1807)年廃止、文政七(1824)年に一年任期制の勧学が設置されることとなりました。
 一方これとは別に、興正寺と西本願寺とでは、本山称号問題も発生しています。明和九(1772)年の興正寺本堂造営に端を発し、寛政二(1790)年、西本願寺は、脇門跡として、独自の末寺を言わば二段階で持っていた興正寺に対し、その末寺を本山直轄にしようとして興正寺と対立し、両寺院とも幕府に訴訟となり、文化八(1811)年、興正寺は西本願寺の末寺であるとの裁決が下りますが、最終的な妥結はさらにその後の文政二(1855)年まで要することとなりました。
 その後も興正寺は独自の末寺を持ちながら推移しますが、完全分離の事態が訪れます。
 明治初期の明治六(1873)年、維新政府は東京の増上寺に本部を置く、神道と仏教との融和統一を目指した大教院という施設を設置しました。ところがその運営を巡って早速神道側と仏教側とが対立、とりわけ仏教側からの反発が激しく、この施設はわずか二年後の明治八(1875)年には解散となりました。
 東西本願寺も大教院からの離脱を早期に決定しますが、このとき興正寺の本寂即ち華園摂信住持の子、本常こと華園沢称がこれを糾弾し、これをきっかけとし、明治九(1876)年、西本願寺から分離独立となりました。
 本寂は摂家鷹司政通の次男で、彼が住持のときに興正寺は摂家門跡となっており、門跡である以上、寺院でありながら神社に近い側面を有していることが関係しているのではと考えられます。なお、親王が継続して住持をしていなくてもその称号の付く宮門跡とは異なり、摂家門跡の場合は住持の出身としての呼称であって、寺院にはその称号は付きません。
 但しこの時、江戸後期には妥結し維持していた独自の末寺、即ち西本願寺全末寺約一万のうち約二五〇〇のうち、興正寺派となった寺院は約二三〇程度に激減し、以後は香川県などが勢力の中心となります。



六五 革堂




   六五 革堂



神宮丸太町駅

 革堂(こうどう)の正式名称、行願寺としての創建寛弘元(1004)年、一条小川にて、行円の開基によるものですが、それ以前にはこの地には、一条北辺堂という寺院がありました。この堂の由緒は不明なことも多いのですが、『日本紀略』によると、永祚元(989)年、この堂は鴨川氾濫のために倒壊してしまい、一五年後、行円がそこに別の名称の寺院を建てたことになります。
 この行円という僧は、元は猟師でしたが、ある日鹿を射たとき、その腹から子鹿が生まれ出るのを見、殺生の酷さを悟り、仏門に入ったとのことです。
 鹿の一件があって以降、彼は仏道修行に励みましたが、その際、常にその射た鹿の皮を着用していたため、行願寺も革堂との通称の方で知られるようになりました。
 この寺院に限らず、現世名利の追求に敗れたものの出家は、言わば現代では卑下されがちな引きこもりではありますが、出家し仏道修行に励んだところ、そのことやその舞台となった寺院が、出家する以前より知られることとなり、現代では大規模な寺院となっているものも数多いです。これは古来からの日本人には周知の現象でしたが、今の一時に限り、それを蔑視する、広い目で見ればかえってイレギュラーとなる風潮が流れていること、そしてそれへの危惧すらも蔑視の対象となっていることには、さらにそれへの危惧をせざるにはいられません。
 一条小川にあった頃から堂宇の規模は今とさほど変わらなかったのではと思われます。というのは、その、通りに近い場所に堂宇がある構造は、六角堂同様、市民との心理的距離が近く、コミュニティセンターである町堂としての機能を持ち始めたためです。
 鎮座の場所自体は、天正一八(1590)年に寺町荒神口、宝永五(1708)年には現在の寺町竹屋町に移転となりますが、どこに移転しても、引き続き、町堂としての機能が注目され続けてくることとなります。




六六 三十三間堂




   六六 三十三間堂



【国宝建造物:本堂】

博物館三十三間堂前停

 近世以降は、東山七条にて智積院の北側にある妙法院の境外塔頭という扱いです。妙法院はこの近辺の社寺の中では一番知られていない可能性がありますが、宮門跡の一であり、また、本堂でも他の諸堂でもなく庫裏が国宝となっているという点もポイントです。
 正式名称は蓮華王院です。蓮華王とは千手観音の異称です。もともとは、後白河上皇の院政の拠点であった法住寺殿の建物の一つでした。後白河上皇は三十三間堂の正面に今も小さく残る法住寺にて祀られています。また日本では珍しく、祭神の陵墓も付近にあります。
 平清盛の寄進により、長寛二(1165)年に完成します。その後火災にて焼亡、御嵯峨上皇が再建に尽力し、文永三(1266)年に本堂のみが再建されています。千本釈迦堂と同様、洛内では珍しい、応仁の乱の影響を受けていない建物です。
 『三十三間』というのは、距離の単位から取ったものではなく、柱の数が本堂の内陣に三三本あることに由来しています。
 内部は本尊千手観音坐像を安置し、その左右に五〇〇ずつと、本尊の裏側に一体、計一〇〇一体の千手観音立像を安置しています。
 このうち創建当初からのものが一二四、再建時に再度造られたものが八七六体、室町期に」追加されたものが一体です。
 千体の立像の前には二八部衆像二八体があります。また、本殿の左右両脇は風神雷神像がいます。二八部衆についてはそもそも何の像なのかも不明ということも多く、2018年、配置変更、名称変更がなされています。
 

六七 慈照寺




   六七 慈照寺



【特別名勝:庭園】【国宝建造物:観音堂、東求堂】

銀閣寺道停

 応仁の乱の元として将軍家の後継争いがあります。将軍足利義政には当初子がなく、寛正五(1464)年、弟足利義視が還俗、第九代とされる予定となり、細川家がこれをサポートしました。
 ところがその翌寛正六年、足利義尚が生まれ、日野富子の子でもあった、山名家を中心とする彼の派と対立することになりました。
 さらに好ましくないことに、最終権力者であった足利義政は弟義視と、妻富子との間で仲裁するだけの気力がありませんでした。結果的についた、最初から優柔不断だったという見方とは異なり、義政もこれを仲裁しようとしたのですがうまくいかなかったようです。義政は造園、書画、茶などに優れた芸術家ではあり、優美の大切さを知っている者だったでしょうが、仲裁ができなかったことに対する強い遺憾は彼自身の頂相からも感じさせられるものです。
 応仁の乱の収束後京都は焼け野原にされましたが、義政は自分の隠居の地に、自分の芸術センスの結晶というべき邸宅を建てることを企図し、嵯峨や岩倉などを検地し、そして今の、かつて浄土寺があった場所を選び出し、文明一四(1482)年その着工を開始します。
 そしてまだ御常殿など一部しかできていなかった翌文明一五年には、早くもここ東山殿に移り住み、自ら建築の指導をしたと言われています。それはよほどの遁世感があったためだろうと推測されます。
 七年後の長享三(1489)年、東山殿は完成、安堵しながら義政は翌延徳二年に死去、東山殿は彼の遺言通り寺院になります。
 当初は他にも数多の堂宇がありましたが、現代に残るのは、銀閣の通称を持つ観音堂と、東求堂だけです。また最初から銀箔は貼られていませんでした。
 観音堂こと銀閣は、初層には『心空殿』、二層には『潮音閣』と命名されています。当時から洒落た名称を付ける慣例がありましたが、これらは義政が、周辺の高僧を呼び寄せいくつか候補を出させたうえで決めたもので、義政自身、政治には殆ど見せなかった強い情熱を感じさせます。
 さて現在も慈照寺に残っている建造物はこの観音堂と、もう一つ、東求堂です。こちらは持仏堂として建てられましたが、常御殿のような日常居住的な要素が強いです。そしてこの二つの建物や周囲の庭園は、義満の金閣寺に対して、確かに優雅ではあるものの、シンプルさを見せ、そしてそれが今日まで続く書院造のベースともなっています。
 金閣寺と比べるとき、銀閣寺は義政の政治的力量の弱さも確かに感じさせますが、にもかかわらず後々まで続く住居文化の元となったのは銀閣寺のほうであるということには留意が必要であると言えるでしょう。



六八 清浄華院




   六八 清浄華院



 府立医大病院前停

 知恩院を総本山に仰ぐ浄土宗鎮西派が設置する七大本山、京都四大本山の一です。寺伝は大きく分けて二つの沿革の説を伝えています。読み方は『しょうじょうけいん』です。
 寺伝である『清浄華院誌要』によると、清和天皇の勅願により、貞観二(860)年、円仁が内裏内部に内裏内道場として創建、当初は四宗(円:法華教、密:密教、浄:浄土教、戒:戒律)兼学としてスタートし、平安後期、当時はまだ天台宗の僧侶だった法然が、後白河、後鳥羽、高倉の三天皇への受戒を実施したことの功によりこの道場を賜り、法然以降は浄土宗になったとのことです。
 そして、このような由緒が影響し、朝廷と緊張状態になることも多かった浄土宗の中では、異例にも皇室との良好な関係が目につく寺院として長く続いているとのことです。
 例えば天台宗にあって無形文化財的な側面を有する千日回峰行の万行者は、その儀式の一つとして、内裏土足参内を実施しますが、その万行者の取次は、宗派が違い、過去には対立していたにもかかわらず、浄土宗のここ清浄華院が行います。
 宗派が過去には対立していたもの同士であるということも、この儀式の性格をより強めるものとなっていると言えるでしょう。
 また、通常であれば由緒ある名称を冠し、それを誇りにする山号がないことも、ここが元内裏内道場であり、加えてその後も内裏に隣接しての建立が続いたためで、この寺院では山号がないことがかえって誇りとなっています。
 ちなみに近代以前に内裏内道場として知られていたものは真言院です。これは承和元(834)年、空海の上奏によって創建されました。位置として、もともと、内裏の紫宸殿の西側に、新嘗祭を執り行う中和院(ちゅうかいん)があり、その南側に、平安神宮が八分の五のサイズで復元した朝堂院がありましたが、真言院は中和院のさらに西に隣接されました。
 ここで正月に、天皇の衣服を依代にしての祈願をする、御修法(みしほ)が実施されていました。より具体的には後七日御修法といい、これは前七日が神道方式で実施されていた
ことに対する呼称です。
 近代以降は前七日の神道方式は引き続き皇居で実施となり、後七日は東寺の灌頂院にて、真言宗全派の代表が集っての実施となりました。
 灌頂院に隣接して、応接用の小子房があり、その門は勅使門ですが、ここは勅使門の中でも珍しく、定期的な稼働がなされている勅使門ということになります。依代にされる御衣は勅使が持参しますが、この勅使は、皇室にて宗教関係を取り扱う、現代では私的な使用人としての扱いの掌典ではなく、宮内庁京都事務所長です。
 また、近代、御修法が内裏内から東寺に実施場所を移したことで、地理的に興味深い構図が発生しています。
 即ち、一月、京洛の南方の東寺にて、真言宗最重要の行事である御修法が執り行われ、これに対するような格好で、五月、三社勅祭である葵祭が北方の上下賀茂社で執り行われます。また、鬼門天台宗延暦寺でも四月に御修法大法(みしほたいほう)が根本中堂にて執り行われ、それに対して、九月に裏鬼門石清水にて三社勅祭の石清水祭(旧放生会)が執り行われるといった格好となっています。
 さて、逸れてしまいましたが、話を清浄華院に戻しましょう。
 実は、平安・鎌倉期の沿革は、それ自体の信憑性について議論が分かれています。乾元二(1302)年、三井寺出身の僧向阿が、現在の御池高倉付近にあった専修院の住持となり、それを後に浄華院に改称しました。これが清浄華院の端緒であるという説もあります。
 山号を持たないことは稀なことで、確かにそれが、過去の内裏内道場であったことに依ると言えるかもしれません。しかし一方で、内裏にそのような施設があったとの記載は、ここの寺伝にしかありません。国宝でもある『法然上人行状絵伝』にすらその記載はありません。寺院を帝より賜るなど、事実であれば大きな見せ場となるはずでしょう。
 逆に、向阿の入寺以前の沿革が全て虚構、向阿個人の願望であるとすると、向阿という僧侶は、『今から私が入る寺を、かつて内裏内部にあったものの後身にします』という壮大な虚構を言ったわけで、時代の状況によっては非常な不敬とも言われかねない行為をしたことになりますが、それは当時の情勢がおおらかだったためとの単純な反論でも通りそうです。
 虚構であったとして、当時からどの程度それが虚構ではないかと疑われたのかも不明ですが、『単なる開基者個人の願望』が原因で、浄土宗という、比較的皇室から遠い存在であるはずの宗派のこの寺院は、中世以降皇室との関係も深親なものとなっていきます。
また清浄華院では、国指定重文の、『紙本着色泣不動縁起絵巻』を所蔵していますが、このことも、結果的に向阿という僧侶による虚構説を補強するものとなっています。
 この縁起は、向阿の出身である三井寺の伝承です。平安中期、師証空が不治の病を患います。それを見て、さほどの名望があるわけでもない弟子智興が不動に祈り、自分が師の身代わりとなりたいと願います。なお文献により差異があり、今昔物語集では安倍晴明が取り次いでおり、また鴨長明の発心集では、弟子は極楽浄土への往生を祈っています。
 さてその願いを聞いた不動は深く感銘し、涙を流しながら、弟子智興にさらに代わって、自身が身代わりになると告げ、地獄に赴きますが、不動の姿を見た閻魔は驚愕し、再び不動を三井寺に還します。
 これは三井寺の話ですが、向阿が浄華院を建立した後、そこにて絵巻物を作成させたり、不動像を祀ったりしてこの縁起を伝えた結果、舞台になっている天台宗の三井寺以上に、浄土宗の清浄華院がこの話を広く伝える場となりました。
 向阿にまつわる話は『真如堂縁起』にもあります。所用で真如堂に赴いた向阿は夢の中で若い僧侶と老僧とが会話しているのを見、二人の語っている時代が不自然なため、再度真如堂へと赴き、その老僧から嵯峨釈迦堂に行くように言われ、そして嵯峨釈迦堂にて、夢で見た若い僧侶とは嵯峨釈迦堂の釈迦であり、老僧は真如堂の阿弥陀であったと知ったというものです。
 また向阿自身も『三部仮名鈔』という著書を残していますが、そこでは、「天皇も乞食も同じ」とか、「遁世した人に向かって人間以下などと言うな(但し昨今多い、追いやられての引きこもりではなく、本来は高貴なものが自分からの)」とかなど、かなり気骨のある文章が見られます。
 これらを観るに、向阿の発信力や創造力には並々ならぬものを感じさせられます。その結果かえって、『山号をなしにしてまでの、内裏内道場説』など並の人間には作れず、実在ではないかという論も、向阿ならやりかねない、という指摘を招くことになるまでになっていると言えるでしょう。 
 さて、その後、室町初期、足利家の菩提寺である等持院の創建もしくは拡張に伴い、土御門室町へと移転します。現在の内裏も土御門東洞院御所ですので、このときにも内裏のすぐ近くにあったと言えます。
 先ほども述べた通り、歴史的には朝廷と対立もしていた浄土宗ですが、室町期には、この寺院の等煕と、称光天皇、足利義教らとの親交などがありました。これらのこともあり、現在の浄土宗鎮西派では、後に江戸幕府・家康によって第二の二条城的な機能を持つに至った総本山知恩院をもしのぐ、鎮西派の筆頭寺院となっていました。
 応仁の乱以降は衰微し、天正年間(1573-1592)に秀吉の命により現在地に移転となります。また近世からは幕府により整備された知恩院が浄土宗の総本山とされたため、清浄華院はその傘下に組み込まれることとなります。
 三二世住持道残がくろ谷の住持となったことに端を発し、慶長一五(1610)年にくろ谷が清浄華院から独立します。
 江戸期には、直接の皇室との関係はなくなりましたが、御所に近いため、先述の天台宗の行者などだけではなく、参内する幕府の要人や諸大名の宿所ともなっています。
 また、皇室には、夭折した皇子は母方の菩提寺に祀られるならわしがあり、ここを菩提寺としていた公家も多かったことから、多数の皇子・皇女の墓所になっています。




六九 白峯神宮




   六九 白峯神宮



【官幣大社】

堀川今出川停

 保元元(1156)年に勃発し敗れ讃岐に配流となった崇徳上皇について、慰霊のため、幕末慶応二(1866)年孝明天皇が、その神霊を京都に戻すよう詔勅を発し、次いで明治天皇も讃岐の白峯陵に勅使を派遣します。
 勅使は旧暦八月二六日に陵墓前にて宣旨を読み上げますが、明治天皇はその翌日に即位します。また勅使は旧暦九月六日に上皇の神霊を白峯宮に移しますが、明治天皇はその翌日に白峯宮を参拝、さらにその翌日旧暦九月八日に明治への改元がなされました。
 続く明治六(1873)年、天宝勝宝九(757)年、藤原仲麻呂の乱によって流罪となった淳仁天皇(淡路廃帝)の神霊についても合祀がなされます。
 長らく白峯宮という名称の官幣中社でしたが、唱和一五(1940)年、官幣大社に昇格、また名称も白峯神宮に改称されます。
 なお怨霊鎮魂の神社であることがメインですが、もともとこの地にいた飛鳥井氏が蹴鞠の宗家だったため、外国の類似したスポーツであるサッカーなどの神との性格も帯びることとなりました。但し蹴鞠はサッカーとは異なり、如何に相手が返しやすい鞠を蹴られるかという、相手への配慮・思いやりも含んだスポーツです。
 これが外来のサッカーに取り代わったことと、近年、創作文化を嗜む人たちを蔑視し、サッカー、そしてそれを好むタイプの労働者が不祥事のシンボルのようになっていることとに強い関連性を感じさせられざるを得ません。


七〇 下御霊神社




   七〇 下御霊神社



神宮丸太町駅

 地下鉄鞍馬口駅付近にある上御霊神社に対する名称で、こちらは現在は丸太町寺町、町堂として知られる革堂(こうどう)のすぐ北に鎮座しています。
 市民との距離の近い革堂に対し、こちらも小規模な社であり、通常であればこのサイズの神社は日本各地で産土神、空間神として敬意を払うにはちょうどいいサイズです。ここも確かに産土神としての性格を持っていますが、その対象は御所で、敬意を払ったのは皇室です。
 しかし大規模な神社のような堂々としたものかというとそうでなく、また諸経緯から、あたかも革堂の鎮守社のような存在であり、そこからの類推として、近世以前の、比較的皇室と国民との距離が近かった時代を想起させそうです。
 とはいえこの神社は、その名の通り怨霊らの鎮魂を目的とした社です。そのため現代ですら、怪談スポットのような扱いを受けることもあります。周辺の市民も、皇室も、このことはもちろん承知のことでしょう。従ってこの神社は、市民、皇室、さらには怨霊らとの距離がやたら近い、本朝にあっては京都独特の民間信仰を生みやすい場所でもあると言えるでしょう。
 神社の端緒は、承和六(八三九)年、仁明天皇の勅により、桓武天皇の第三皇子にして、謀反の疑いをかけられ憤死した、伊予親王、並びに彼の母藤原吉子の鎮魂のため、今の上御霊神社の元であり、その周辺を根拠地としていた出雲氏の氏寺であった出雲寺に、境内社として御霊堂が創建されたことに始まります。
 後の貞観年間(八五九―八七七)には、上高野に早良親王を祀った祟道神社が創建されますが、その貞観期、貞観五(八六三)年、疫病鎮魂のため、御霊会が開催されました。このときに鎮魂された怨霊たちが、隣接する上下の出雲寺の御霊堂に祀られました。
 怨霊は『八所御霊』と呼ばれる八柱からなります。そのうちの二柱、吉備聖霊(吉備真備)は怨霊ではなく、また、火雷天神(菅原道真)については、天神信仰が発生するのが神社創建の後であるため、それぞれ、神社側では、残り六柱の和魂、荒魂との扱いとされています。
 なお和魂、荒魂との分類は、神の行為の分類で、前者が人にとって好ましい行為、後者が人にとって困る行為を指します。
 とはいえこのように神が人間と同じく善も悪も為すということは、神仏習合の過程で、善しかなさない仏の影響を受け減っていきます。このため、基本的には神は祟りなどは為さず、概ね神仏習合の度合いが薄いことが多い、それを為すような神を取り上げて荒神と呼ぶ分類もあります。
 さて、残りの六柱は祟道天皇(早良親王)、伊予親王、藤原大夫人(藤原吉子)、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、いずれも政争などによって憤死した者の怨霊です。
 平安時代には上御霊神社の位置に、上出雲寺、下出雲寺がそれぞれ御霊堂を境内社として鎮座させていましたが、室町期の応永三四(1427)年、下御霊神社は、今の京都府庁の東側に当たる新町出水へ、さらに桃山期の天正一八(1590)年、現在の地へ移転しています。
 もともと御所の産土神と呼ばれるほど皇室からの崇敬を受けており、特に霊元天皇は宝永七(1710)年、『朝廷復古之儀』を祈願した宸翰願文を納めており、これは現在国重文となっています。さらにこの後享保一三(1728)年には、修学院離宮からの帰途に、彼の参拝があり、その縁から、彼の死後、霊元天皇を配祀しています。
 霊元天皇による下御霊神社への崇敬には、当時の宮司出雲路信直の影響がありました。この宮司氏が、実は、尊皇思想の強い垂加神道の創始者山崎闇斎の弟子でした。山崎闇斎は明暦五(1655)年、堀川出水に闇斎塾を開いています。
 山崎がここを拠点としたのは寛文五(1665)年までの一〇年間ですが、そのさ中、寛文二(1662)年、儒学者であった伊藤仁斎が堀川通の反対側に古義堂を開いています。ちなみに、同じ儒学者でありながら、山崎が説いたのは尊皇思想など、武家や支配者向けの、その在り方といった内容、一方伊藤が説いたのは古義、つまり儒学の原点であり、一般向けの内容です。
 また、この山崎の弟子出雲路は、下御霊神社に垂加社という、山崎闇斎を祀る摂社を創建しています。
 さて現在の社殿は寛政二(1790)年、光格天皇により、御所内侍所を下賜されたものです。実はこの二年前、天明八(1788)年、天明の大火により前の御所が焼失、幕府老中首座松平定信が御所再建の総奉行となり、再建に合わせ、御所の旧景復古がなされました。松平定信自身も比較的尊皇色の強い人物であり、霊元天皇の宸翰願文は、一定の叶いがあったのではと言えるのではないでしょうか。
 この後、御所は安政期にも焼失、再建をしています。問題は現代以降で、第二次大戦による延焼防止のため給仕機能が取り壊され、御台所「跡」になったままです。加えて、交通の関係から、大典の機能のみが残留、補足建築されましたが、現代であれば交通の便は新嘗祭も可能ですが、その機能もありません。それがもたらしていることはマイナスばかりが目立っているといっても過言ではないでしょう。




七一 常寂光寺




   七一 常寂光寺



嵯峨嵐山駅

 JR嵯峨嵐山駅から最終的には化野念仏寺までに至る道沿いにはこの常寂光寺の他、二尊院、祇王寺など多数の社寺が続いています。常寂光寺自身の沿革はさほど長くありませんが、ここは小高い丘になっており、京都市街方面が望め、古くから風光明媚な場所として知られてきました。
 小倉百人一首収録、藤原忠平に『小倉山 峰のもみじ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ』とありますが、これは、彼が宇多法皇の嵯峨野行幸に同行した際、法皇がその美しさを讃え、醍醐天皇にも見せたいと言ったことに対し、忠平が、『紅葉よ、もし心あれば次の行幸のときまで散らないで待ってほしい』と言ったもので、権力などではどうにもならない自然の偉大さをも歌ったものです。
 後に藤原定家が百人一首を撰じた際はこの小倉山に隠棲して実施したことから小倉百人一首の名が付いています。
 時代は下って桃山時代、方広寺の落慶法要に日蓮宗不受不施派は参加しませんでした。本圀寺をメインとする日蓮宗六条門流の日禎もその一人で、彼はその後本圀寺を離れ、小倉山に隠棲します。江戸期に入り、彼と親交のあった小早川秀秋や角倉了以の寄進により、伏見城の客殿が本堂にされるなどの改築がなされています。



七二 下鴨神社




   七二 下鴨神社



【名神大社】【三社】【明神二二社上七社】【勅祭社】【官幣大社】【国宝建造物:東本殿、西本殿】

下鴨神社前停 

 正式名称は賀茂御祖(かもみおや)神社です。賀茂別雷命を祀る上賀茂神社と合わせて賀茂社と呼ばれ、東本殿に賀茂別雷命の母玉依姫命(たまよりひめのみこと)、西本殿に玉依姫命の父賀茂建角身命(かもかけつねみのみこと)を祀ります。
 また、賀茂氏の移動は、『山城國風土記逸文』によれば、今も賀茂の名の付く神社の多い奈良県御所市、葛城の辺りにおり、神武天皇の東征に際し、賀茂建角命の化身、八咫烏としてそこから東北へ向かいます。
 八咫烏は、神武東征の別の場面で、大和地域制圧の際に登場する金鵄(きんし)と同一とも言われています。この金鵄はかつては日本の象徴的な事物の一つで、近代には、昭和六年乃至九年事変従軍記章、唱和一七年発行開始の五〇銭紙幣(桜、靖国神社の鳥居とともに)などにも描かれているものです。
 橿原付近に留まった神武天皇とは別に、賀茂氏は移動を続けます。まずはJR大和路線の終点でもある加茂駅のある木津川市で、『岡田の賀茂』とあり、ここには岡田鴨神社があります。
 続いて『瀬見の小川』に着きます。ここが現在の下鴨神社周辺です。また、神武天皇の時代に、八瀬の御蔭山に賀茂建角命が降臨したともあるので、このときに高野川を少し登り、八瀬の方へも勢力を伸ばしたとも考えられます。
 そして最後が『久我の北の山基』で、これが上賀茂神社と考えられています。
 この賀茂氏の古代の移動は、我が国における首都の移動に類似しており、そこから両者の関わりも指摘されることがあります。
 いずれにしろ神話レベルの古社です。その後も、崇神天皇の時代の頃の創建や、天平年間に上賀茂神社から分離したとの説などもあります。
 上賀茂神社は賀茂川を遡った京都北方にありますが、下鴨神社は賀茂川の漢字が鴨川と変え、高野川と合流する地点、出町柳から北に、東の糺の森と並びながら参道があります。
 横に参道があるのでさほどの静寂さはないですが、糺の森は神社によく見かける原生林です。名称は玉依姫命の異称多々洲(たたす)玉依姫命からと言われています。また、『新古今和歌集』によると、平貞文『いつはりを 糺の杜のゆふだす きかけつつ ちかへわれを思うはば』と、偽りを「正す」という意味に派生し、さらにそこから、八咫烏自体が、偽りを正す、また現代に入ってからは、当今の上皇さんが譲位前に参拝したことから、何か重大な決意をしたときの祈願の対象、などの性格を持たされるようになっています。
 
 また、上賀茂神社同様、嵯峨天皇から後鳥羽天皇の時代まで、伊勢同様に斎王が置かれていました。加えて式年遷宮も二一年ごとに本殿が実施されていましたが、現代は本殿が国宝建造物に指定されたため、それは中止され、他の建物の修復などに代わっています。



七三 随心院




   七三 随心院



小野駅

 真言宗善通寺派の大本山です。仏教宗派では、例えば真宗であれば単なる『本山』(西本願寺など)が中央、浄土宗では『大本山』の上に『総本山』(知恩院など)を置くなどバラバラですが、この真言宗善通寺派も空海生誕の地である善通寺を総本山としており、随心院はその下に置かれる『大本山』となっています。
 また門跡としても知られますが、法親王が入った一三宮門跡ではなく、一条家、九条家などが入った摂家門跡に相当します。
 平安前期の正暦二(991)年、仁海による開山です。仁海はしばしば神泉苑にて雨乞いの祈祷を実施していますが、偶然にも九回実施したところ九回とも降雨したことから『雨僧正』とも呼ばれています。彼は一条天皇から、醍醐地域東部の氏族であった小野氏の邸宅の隣を下賜され、そこを寺院としました。
 仁海が建立した寺院は当初は『牛皮山曼荼羅寺』という名称でした。これには伝承があります。彼は亡き母が牛に生まれ変わっている夢を見、それと思しき牛を飼いましたが、やがてその牛が死を迎えます。仁海はそれを悲しみ、その牛の皮に両界曼荼羅図を描き、その牛皮を本尊としました。
 さて、現在寺内には、歌人であり、また美女として知られる小野小町(生没年不詳)にまつわる遺跡がいくつかあります。小町が化粧に用いたと言われる『化粧井戸(けわいのいど)』や、深草少将など、送られてきた千束もの恋文を埋めたと伝わる『小町文塚』、晩年の小町の姿と伝わる卒塔婆小町像などがそれです。小野小町が活躍した時代は、仁海による曼荼羅寺建立から約一五〇年前、仁明天皇(810~850、在位833~850)の時代でした。曼荼羅寺は後に小野氏の邸宅をも取り込みますので、ここでは小野小町についても叙述することにしましょう。
 深草少将に知られるように、小野小町は異性からの求愛を断り続けたことで知られています。一方『古今和歌集』には、彼女が、誰かは明記されてはいませんが、異性に対しての叶わぬ恋慕を詠っているものがいくつか収録されています。
  
思ひつゝぬればや人のみえつらん
   夢としりせばさめざらましを(『古今和歌集』恋歌二 552)
  うたゝねにこひしき人をみてしより
   ゆめてふ物はたのみそめてき(同恋歌二 553)
  ゆめぢにはあしもやすめずかよへども
   うつゝにひとめ見しごとはあらず(同恋歌三 658)

 こうしてみると小町には慕っているものの会うことの叶わない異性がおり、それが夢ではしばしば会えることから、夢に掛けての歌が多いようです。この異性については諸説ありますが、個人的には、深草少将の主君でもあった仁明天皇との説が有力ではないかと感じるところです。
 小町は仁明天皇を慕い続け、そのため他の異性の恋文は全て断り続けました。そしてその後は尼僧に近い行動を取るようになります。全国各地に小町が訪れたとの伝承が残っていますが、彼女は全国を遊行し、そしてまた京都へと還ってきました。
 人によって感想は様々でしょうが、前述の小町像は確かに老いてはいますが笑顔を浮かべています。また気品も感じられます。なお、卒塔婆小町像は随心院に伝わっていますが、彼女が隠居の地として選んだのは左京区の市原でした。ここは集落などもありますが、鳥辺野、仏野などと同様葬場としても知られていて、言わば生者と死者とが共存している場所です。ここに補陀洛寺という寺がありますが、通称小町寺と呼ばれており、小町がいたのはここではないかと伝わっています。
 能本に『通小町(かよいこまち)』というものがあります。その内容は、市原の小町寺から、八瀬の聖社まで、晩年の小町が毎夜参拝するというものです。また、西から市原に現れる霞は八瀬、そして大原へと北上しますが、それはあたかも大蛇のくねりのようであり、そこから、この霞に『小町霞』との名が付き、小町は霞に化ける大蛇、即ち怨霊となったとも言われています。先ほど私は卒塔婆小町像を見て微笑んでいると述べましたが、一方でそのような伝承もあり、多面性を感じさせられるところです。
 そのような小野小町を偲び、毎年ちょうど薄紅(はねず)色の梅の見頃となる三月の最終日曜日に、随心院では薬医門前にて『はねず踊り』が開催されます。これは赤から白までいくつかの桃色に染められた風流傘を中心に、同じく様々な桃色で染められた衣装を纏った、小町に扮した地元の女子児童らが、小町を偲ぶ童歌と踊りを披露するものです。
 さて、話を沿革に戻します。曼荼羅寺は第五世住持増俊のときに塔頭として随心院を建立します。第七世親厳(しんごん)のとき、寛喜元(1229)年後堀川天皇により摂家門跡とされ、随心院が曼荼羅寺の本寺となります。
 応仁の乱に際し荒廃し場所を転々としますが、慶長四(1599)年にこの地に戻り、本堂が再建され、その後諸堂も徐々に再建されていきます。
 近代に入り、明治四〇(1907)年に真言宗小野派として分離し、唱和六(1931)年には真言宗善通寺派に改称、唱和一六(1941)年には、善通寺が総本山、随心院など三寺が大本山とされます。



七四 祟道神社




   七四 祟道神社



三宅八幡駅

 藤原種継暗殺事件は、七八五年、長岡京遷都の翌年に発生し、それによる早良親王の幽閉、憤死もその年に発生しています。早良親王の祟りの噂は平安遷都の後も続いていたため、彼への祟道の天皇号の追号は延暦一九(800)年になされ、奈良南部八嶋陵への改葬も実施されました。
 一方、京都の鬼門に当たる北東、高野川、八瀬を経て比叡山方面に向かうこの上高野の地へ祟道天皇を祀るこの社の創建はそれからしばらく経った貞観年間(859~877)とのことです。それ以降、高野御霊の鎮魂社としての性格と、高野の産土としての性格とを合わせ持つ社となっていきます。
 かつては三月五日、現在は五月五日に行われる例祭では、神輿の他、青竹に、白い布を、着物の形にした布鉾が出現し、これが怨霊を顕しています。また、行路は定められておらず、怨霊が行きたい方向を重くして示すのでそれに従うのみで、かつては家屋の軒下の破壊もやむを得ないとされ、近代でも、叡山電車の踏切の途中で急に重くなることもあったそうです。
 産土としての性格もあることから、中世に周辺の小社を統合、そして近代の大正一四(1915)年にも、式内社として記録に残る伊多太(いただ)神社、出雲高野神社、小野神社を摂社として再興しています。また、神社の奥から、江戸初期の慶長一八(1613)年、小野毛人の墓所が発見され、同時にその石棺から文武天皇(在位697~707)の頃の墓誌が発見され、国宝となり、京博に寄託されています。

七五 誓願寺




   七五 誓願寺



【浄土宗西山深草派総本山】

三条河原町停

 現在、新京極六角にあり、繁華街の中で、噴水などのあるレストスペースの前にあり、繁華街から一枚障子を開ければ静謐な本堂の内部になる、町堂のような性格を持っていますが、実はこの寺院は日蓮宗の本圀寺などと同様、近現代までは広大な敷地を持った寺院でした。
 寺伝である『洛陽誓願寺縁起』によると、誓願寺自体の創建は飛鳥時代にまで遡ります。天智天皇の勅願により、阿弥陀像とそれを祀る堂宇が形成されたとのことです。この阿弥陀像は幕末の禁門の変により焼失しますが、縁起は奇想天外です。
 これを彫ったのは二人の大工、賢問子(けんもんし)という者とその子でした。賢問子は優れた大工であり、入唐しての活動もありました。ところがその作業の出来があまりによかったため、唐の皇帝から帰国の願いを拒否されました。悩んだ末この大工は、木製の飛行機を作って日本に帰国したという凄まじさです。
 そして唐に生まれたその子も船で渡来し、賢問子が唐に残した残した鑿を見せ、子であると明かします。
 天智天皇はこの親子に阿弥陀像建立を命じます。不思議なことに、夜になっても多数の者が像を彫っている音がするので、ある者が見たところ、二人はそれぞれ、六本の腕、六臂(ろっぴ)を腕を持った地蔵と観音の姿になっており、多数の眷属たちが光を放ち、集って阿弥陀像を彫っていました。この時期にはまだ春日大社は創建されていませんが、この二仏は春日の祭神の本地であったと言われ、その伝承は長らく続いていました。
 長岡遷都の際、その近辺である乙訓に移転、さらに平安遷都の後、誓願寺は深草、その後一条小川に移転します。『百錬抄』によると、承元三(1209)年に罹災した記録があるので、それ以前には深草から一条小川に移転したと見えます。
 その後法然の出現により、浄土宗の寺院となります。法然以前に浄土信仰が盛んとなったのは、平安中期ですが、この時期にはまだ阿弥陀を祀る寺院は洛内には少なく、誓願寺がその中心となりました。浄土信仰自体が、後に真宗の思想を生み出すほど優れたものであり、また易行中の易行であったことから、誓願寺も平安期から貴賤を問わず多くの者の参拝がありました。
 一例として、常慶(じょうけい)という僧侶がいます。彼は一条院の御代に、五〇〇名もの集団からなる盗賊の頭領でしたが、誓願寺に入ったときに懺悔し盗賊を止め僧侶になりました。やがて元部下が捕まったことから、彼の過去が公になり、和泉式部の再婚相手であった藤原保昌(やすまさ)が帝の命により彼を斬ろうとしたときに、首から掛けていた小型の仏像が彼を守り太刀を割ったと言われています。
 また藤原保昌の妻和泉式部も、歳を重ねるにつれ仏法に関心を抱きましたが、彼女はまず姫路・書写山の性空(しょうくう)を尋ねます。彼から、石清水に行くように言われた和泉式部は言われた通り石清水に赴きますが、夢で八幡神は、春日に造られた阿弥陀のいる誓願寺に行くように伝えます。
 この時、明神第二位にして神仏習合の頂点に立っていた石清水が、第六位の春日を推したのは、自分では「自分は神事も多くするので実は仏法には疎いから」と謙遜していますが、推した誓願寺は女人救済を重視する浄土教の寺院であり、彼女により適切な場所を勧めたとも言えます。和泉式部は誓願寺にて老尼の夢告を聞き、ここで尼となり専似(せんい)と名乗ります。
 女人救済と言えば、『洛陽誓願寺絵巻』は清少納言のことも伝えています。元は誹謗の民であった清少納言が、後に比丘尼となり、念仏の行者となったのもこの誓願寺です。
 さてさらにその約二六〇年後、鎌倉期の健治二(1276)年に一遍が誓願寺を参拝します。そのとき女人が現れ、誓願寺の額に『南無阿弥陀仏』の名号を加筆してほしいと彼に頼み、『我は和泉式部である』と名乗り、二五菩薩を引き連れ、阿弥陀となって空へ消えていきます。その額は今は北区の別の寺院、金蓮寺(こんれんじ)にあります。
 この他、醍醐天皇が当寺に浄土三部経を奉納、源信が参篭、藤原道長の娘上東門院が追善供養のため七日間参篭したなどの記録があります。
 さて寺院の側では、法然の弟子証空がここに入ります。知恩院を総本山とする、いわば本流ともいうべき浄土宗鎮西派の他に、忘れてはならない重要な浄土宗の他派として西山三派がありますが、証空はその西山派の始祖に当たります。
 証空に続いて西山派はさらに三つの派が生まれます。それらの総本山が、長岡京にある光明寺(西山浄土宗)、平安時代からの紅葉の名所に近いことで知られる永観堂(浄土宗西山禅林寺派)、そしてここ誓願寺(浄土宗西山深草派)です。
 さて、誓願寺も応仁の乱の戦火を免れることはできませんでしたが、乱の重要人物たる足利義政は、ここ誓願寺に入った後亀山天皇の皇子真阿に帰依し、寄進や勧進への協力をしています。
 桃山時代に入り、天正一九(1592)年に現在地に移転します。この時の伽藍は実は壮大で、三条通まで続いていました。意外と京都の中心部から少し離れないと大規模な社寺はないのですが、かつての誓願寺はそう言った風聞を吹き消すのに充分なものでした。
 この他、慶長一八(1613)年、『醒唾笑』の著者安楽庵策伝が住持に就任します。彼は説法に笑いを取り入れることで知られ、それは後に落語として独立し、彼は落語の祖と言われるようになりました。
 ちなみに『醒唾笑』は下らなさの連続から成り立ってできていると言われています。そこには実は一連性をつけるという高尚さがあり、それは現代の単なる悪ふざけとはもはや、演じる者もそれを好む者ももはや別物となっているとも言えるのではないでしょうか。
 明治に入り京都府の都市計画において、寺町通の東にもう一つ繁華街の通を設けることとなり、新京極が誕生しました。これに伴い、大伽藍を誇った誓願寺も、他の町堂のような存在に近くなっています。
 また明治以降、西山三派はいったんは統合しますが、1919(大正八)年に再び分裂し、浄土宗西山深草派総本山となり今に至っています。



【無料】沿革を中心とした京都の各社寺の随想100 第三巻

2021年6月29日 発行 初版

著  者:坪内琢正
発  行:瑞洛書店

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坪内琢正

※ 改行多数のため、ツイプロ及びブログメッセージボードをご参照ください。 〇ツイプロ:http://twpf.jp/sigure_pc 〇ブログメッセージボード: http://blog.livedoor.jp/t_finepc/ ※ アイコンは好きな二次キャラの着せ替えです。但しもしかしたら小説のキャラの外見が似ているかもしれません。左上から右に、珠洲ちゃん、美濃くん、耐ちゃん、司くん、左下から右に、雲雀ちゃん、弘明くん、唯ちゃん、淡水ちゃんです。

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