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この本はタチヨミ版です。
まえがき
現代社会は、科学的にはかなりの発展を成しとげました。しかし、科学の発展や便利さが、本当に私たちの人生に幸福をもたらしているでしょうか。実は、私たちが幸せのために作り上げた物質的な繁栄が、結果的に人間という存在価値を破壊することになる危険性を知る必要があります。
人間には、科学発展による外側の質も必要ですが、それだけでは真の幸せを得ることはできません。同時に、人間の内側の質を高めることがなければ、私たちは文明の豊かさの中で窒息してしまうことになるからです。この書の目的は、キリスト教や聖書を通して、人間の内側の質を高めることにあります。同時に、キリスト教に対する背景がまったくない方のためにも、できるだけ分かりやすく聖書の基本的な内容を書いてみました。宗教に関する基本知識はもちろん、キリスト教の入門書としてもお薦めします。
人間の心の奥
『人間はパンだけで満足するような豚ではない。』という有名な格言は、人間が他の動物とは異なる存在だという意味として考えることができるでしょう。また、思想家で科学者、さらに数学者でもあるパスカルは、『私たち人間は、神様によってしか満たすことのできない心の空洞を持つ霊的な存在である。』と述べています。このような言葉は、人間には絶対者へ向かう本性が存在していることを代弁しているのではないでしょうか。つまり、人間は永遠を追求し、無限なる神様を渇望する宗教的存在だということです。しかし、その宗教性自体を明確に理解することは不可能に近いと言えるでしょう。
人間が人間を求める本性を、私たちは愛ということばで表現しています。確かに、愛という存在そのものには少しの疑いもありませんが、しかしそれがなぜ存在するのかといった話しになると、混乱を極めるようになってしまうのです。同じように、人間が神を求める宗教性に対しても、存在自体はほとんどの人が認めていますが、しかしその存在理由や正体に対する深い理解は決して簡単ではないと言えるでしょう。というのは、それは人間が作り上げたのではなく、神様によって一方的に与えられた本性だからです。
大体、人間にとってある物の存在を認知するのは、それほど難しくはありません。しかし、その正体への細かい説明や存在理由を求められると、急に混乱してしまい、結局は存在そのものへの疑いまでになってしまうことがよくあります。つまり、人間の宗教性に対する説明や理解が混乱しているからといって、人間の宗教への本性そのものを否定するようなことはないように気をつけるべきです。
神に対する反応
ここでは、宗教に対する人間の一般的な反応について、大きく3つに分けて考えてみることにします。もちろん、このような考えは固定されたことではなく、その人の年齢や周りの環境などによって変化していきます。
• 不可知論者
彼らは神がいるかいないか分からないと言います。人間が神を知ることは、根本的に不可能だという考えを持っている人々です。しかし愛に満ちた神はご自信を隠すのではなく、むしろ人間が見つけやすいように現すと言われています。もし神を探し求めるならば、必ず出会えることでしょう。まず、そういう心の姿勢が必要ではないでしょうか。
• 有神論者
彼らは神を発見した人々です。ほとんどの場合、無神論者から有神論者になるのです。問題はその神が全知全能の創造主の神なのかということです。人間が作り上げた数え切れない八百万の神ではなく、人間と宇宙を造った唯一の神なのかどうかが問題なのです。
• 無神論者
この人々は、神は存在しないと主張しています。一番の理由は目に見えないからだと思いますが、人間の目は存在する物のごくわずかしか見ることができません。存在の有無の前に人間の限界を理解すべきではないでしょうか。神を探してみようという努力をしてみれば、きっと見つかるでしょう。無神論者の中に、私たちが小説や映画などを通してよく知っている天才的な文学者ルー・ウォーレスという人がいました。彼は世界の多くの人々が、キリスト教への誤った盲目的な信仰心の奴隷となっていると思い、聖書に対して激しい憤りを感じていました。そこで、彼はこのような盲目的なクリスチャンを助けるため、またキリスト教をこの世界から永遠に抹殺するために一冊の本を書こうともくろんだのです。そして、聖書の間違いや矛盾を明らかにすることが何よりも大事であると思い、世界中の有名な図書館でキリスト教の教理や聖書を論破するための資料を2年余りにわたって探し集めました。その後、彼はその資料を真剣に研究するようになりましたが、6ヶ月も経たないうちに床にひざまずき、『私の主、私の神よ!』と泣きながらイエス・キリストを救い主として受け入れるようになってしまったのです。彼はイエス・キリストが神の子でない証拠を何とか見つけ出そうとしましたが、反対にイエス・キリストが神の子であることをはっきりと知るようになったのです。聖書を論破するための本を書こうとした彼自身が、結局キリスト教史上最も有名な不朽の名作【ベン・ハ-】を世に残すことになりました。
今日でもイエス・キリストを否定している学者や有名人がたくさんいますが、私たちがこのような人々とキリストに関する話をする時、彼らのほとんどが聖書やキリスト教に関する基礎的な知識を持っていないことに驚かされます。彼らには幼い頃のキリスト教に対するマイナス的イメ-ジや批判的な大人の偏見による影響が心の奥底に残っているのです。このことに対して聖書は次のように語っています。
しかし、イエスは彼らに答えて言われた。『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。』「マタイ22:29」
長い間、多くの人々に大きな影響を及ぼしてきた無神論者であり、オックスフォ-ド大学の教授でもあったC・S・ルイスは、彼の有名な著書の中で、『イエス・キリストという存在が神の子でないならば、その方は世界で一番賢い詐欺者、または狂った人間、悪魔そのものであるしかないでしょう。私たちは、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れ、“私の主よ!”と告白するか、または悪魔や詐欺者と見なすかのどちらかでなければならない。』と語っています。本当に、キリストは世界の人達を惑わそうと、歴史的詐欺をもくろんだ一人の狂った人物に過ぎなかったでしょうか。
世界で一番偉大な本
• 世界で一番多く売られている本
グ-テンベルグの印刷機によって最初に印刷された本で年間3億冊以上売られている、いつも世界のベストセラ-第1位にあげられる本です。
• 約2500余りの一番多くの言語に翻訳された本
現在まで世界には、数え切れないほど多くの名著がありました。世界的に最も有名な文学作品を多く残した人物であるイギリスの作家シェイクスピアの作品も、わずか数十カ国語にしか翻訳されていないことを考えると、聖書がどのくらい世界的に尊敬され愛読されているかが分かります。
• 40余名の著者により1600年にわたって書かれた本
聖書は、王・医師・漁師・農夫・預言者などの40余名の人達によって書かれました。このような人たちが書いた66冊を集めた本が今の聖書です。彼らは神様の霊感を受けて独自的に聖書を書いたのです。しかもこの人たちは聖書以外には本を書いたことがなかったのです。また、彼らが生きていた地域や時代も異なり、全体として約1600年の時間差があります。これは神が人間の歴史と共に働いておられるという証拠でもあります。聖書を書いた全員が聖書を書くために前もって話し合い、分担して聖書という全体を完成させたわけではありません。地域や時代の差のゆえにそれは不可能なことでした。それにもかかわらず、聖書66巻のどの部分にも神の一貫したメッセ-ジが含まれており、しかも互いに矛盾することはまったくないということです。これはもともとの著者が神一人でなければできない話なのです。
聖書やその教えは数千年の間、東洋・西洋・古代・現代を問わず、世界の無数の人たちによって検証されてきたのです。聖書には時代や国家、民族を越えての人類最大の知恵と奥義があります。それはこの世界をリ-ドしてきた先進国のすべてが、この聖書の思想の上に建てられた国であったということからみても分かります。
新興宗教の場合は、その理念や思想などが聖書のように歴史による時間的検証はもちろん、全世界を取り込むという空間的な検証がほとんどできていません。それだけではなくほとんどの新興宗教には、金銭、性的な堕落、反道徳性や反社会性、さらに既成宗教に対する強い批判などの特徴があります。このように新興宗教は、人類普遍的な価値観を壊してしまうような思想に基づいているので、非常に危険です。特に日本においては、新興宗教の問題はかなり深刻です。人間から宗教心をなくすことができないとするならば、宗教的本能を持った人々が正しく神様に導かれるようにしなければならないのです。そうでないと、このような新興宗教の弊害はいつまでも続くことになるでしょう。
聖書が人類の歴史に及ぼした影響
• 世界の歴史に及ぼした影響
イエス・キリストは世界の歴史の流れを変えた方です。私たちが毎日使っている暦の数え方、B.C(Before Christ;キリスト以前)とA.D(Anno Domini;ラテン語で『私たちの主キリストの時代』)という分け方もその1つです。それだけではなくイエス・キリストの影響を受けたほとんどの国や個人の生涯には、人間の教育では決して起こすことのできない変化が起こっていることも事実です。
歴史(History)という意味は、もともと『彼の物語』(His story)から由来しています。したがって歴史というのはキリストの生涯に対する物語であると言えるでしょう。歴史からイエス・キリストを外すことはできないということです。2000年という長い時を経た今もイエス・キリストが人類の中心であり、偉大な指導者として尊敬されています。今まで存在したすべての武器と軍組織、またすべての国の議会や王たちの及ぼした力を全部合わせても、孤独な生涯を送ったイエス・キリスト一人以上に強力な影響を及ぼすことができなかったと言えるのではないでしょうか。
• 近代民主主義の基礎
『By the people、for the people 、of the people』というリンカ-ン大統領の有名なことばも、ウィクリフ聖書翻訳会が翻訳した英語訳聖書の序文にあったものをそのまま引用しただけでした。聖書の思想とキリスト教の影響を受けた国々では民主主義が繁栄しています。
• 各国の法律の母胎
旧約の律法はイスラエルの法律のもとであるだけでなくロ-マ12銅版法やハムラビ法典、そして今日の世界各国の法律の基礎になりました。旧約聖書を読んでみれば、それがよく分かります。
• 女性の地位向上に決定的な影響
アリストテレスは、『もし、女性の地位が自分の夫と等しくなると、奴隷が自分の主人と等しくなったときの社会のように完全にこの世の秩序が乱れてしまうでしょう。』と話しました。ソクラテスも、『あなたの妻には多くの話をしてはならない。』と語りました。さらに、プラトンは、有名な本のなかで、『女性は男性によって共同で所有され、子どもたちは国家が育てなければならない。』と提案しました。世界のほとんどの宗教や思想も女性に対する差別を認めています。しかし、聖書はこのような社会に終止符を打っています。聖書は何千年も前からキリストにあっては男性も女性も、また奴隷も自由人もその身分や存在価値に優劣はないと教えています。このようにキリスト教が土台となっている社会では、どこでも女性の権利、選挙権などが認められており、女性の高等教育、児童福祉法、労働法、奴隷制度の廃止といった数え切れない変化が起こってきました。聖書に忠実であったアメリカのリンカ-ン大統領の奴隷制度廃止もキリスト教の思想に基づいたものでした。
• 近代文明の土台
聖書は古代ロ-マから始まり、のちにヨ-ロッパ諸国に伝わることによって文学、芸術、建築などに莫大な影響を与えました。このことは世界史を少しでも理解しているならば、歴史的事実として否定することはできないでしょう。
有名人の聖書観
• 三笠宮崇仁殿下(大正天皇第四皇子)
“私は戦時中に敵国を知ろうと、キリスト教の聖書にぶつかった。最初は文明を誇る白人がなぜこんなものを信じるのかと笑ったが、聖書が歴史的事実と知ったとき、私は聖書から離れられなくなった。”
• アイザック・ニュ-トン
“いかなる世界の歴史の本よりも聖書の中には、より確かな真理がある。”
• ゲ-テ
“私が獄につながれ、ただ一冊の本を持ち込むことを許されるとしたら、私は聖書を選ぶ。”
• ト-マス・エジソン
“聖書は単なる本にすぎませんが、神の御霊によって書かれている聖書の各ペ-ジを、神の義と愛とが、プラス・マイナス2つの電流のように流れ、キリストの十字架で合流しています。聖書だけが、私たちに救い主を示してくれます。聖書は、私たちの全生涯を造り変えることができる力の泉となるのです。あなたは誘惑に遭い、疑惑と敗北と弱さに満ちたご自分の生活に疲れてはいませんか。また、不安や心配にあきあきしてはいませんか。聖書を読みなさい。”
• 矢内原忠雄(経済学者、東京大学総長)
“聖書は学者や無学者の書であり、万人によって万人に学ばれるべく、万人によって解されるところの人類の書なのです。人間が謙虚になって聖書をひもといてみれば、それは最も基本的な形において聖書に示されています。これを今の社会情勢と知識の進歩、世界の複雑性に照らし合わせて応用すればよいだけです。根本は聖書に示されている通りです。”
• 淵田美津雄(海軍パイロット、真珠湾攻撃の総指揮官)
“私は熱心に聖書を読みました。私の人生観はキリストによって完全に変えられました。”
• インマヌエル・カント
“聖書の存在は、人類がかつて経験した中で最も大きい恵みである。その価値を減らそうとのいかなる企ても、人類への罪悪となる。”
• アブラハム・リンカ-ン(元アメリカ大統領)
“聖書は、神が人間に賜った最も素晴らしい賜物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある。聖書はそれ自身の権威を裏付ける無数の証拠を持っている。”
• マハトマ・ガンジ-
“私の生涯に最も深い影響を与えた書物は聖書である。”
• ナポレオン
“聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。”
• トインビ(歴史家)
“人類の歴史を予言し、導くのは聖書である。人類の将来は聖書が提示している。”
• ヘレン・ケラ-(アメリカの三重障害者)
“私が毎日、もっとも愛読する書物は聖書です。私の辞書に『悲惨』という文字はありません。聖書はダイナミックな力であり、変わらない理想を示すものです。”
一般の本と違う聖書
• 書かれた期間において
聖書は1600年間もの長期間に渡って書かれました。分量はそれほど多くないにもかかわらずこれほど長い時間がかかったのは、イスラエル民族への予言と、その成就の証拠を確認しながら記録したからです。聖書は虚構や予測でもなければ、哲学や信念の書でもありません。予言とその成就という事実に基づいて書かれた歴史書なのです。
• 筆者において
聖書は約40名の人々によって書かれたことは、前述しました。聖書は論理、哲学、思想といった、ただの知識や教養、思想を記録した本ではありません。このような本は、基本的に歴史的・科学的な検証ができません。しかし、旧約聖書には多くの将来への予言が書かれており、新約聖書はその予言がどのように成就されたのかを証明する本です。全くかかわりのない人々によって書かれた聖書の66冊の間には、少しの矛盾もなく、まるでクモの巣のようにつながっています。聖書を読んでみるならば、その完璧性に驚かされるでしょう。
主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。「イザヤ34:16」
古代から今日まで数多くの本が書かれており、またそれぞれ自分なりに不朽の名作を書こうとした人々がたくさんいましたが、いまだに聖書のような本はありません。確かに現代人の知識の量や情報力などが、聖書が書かれた時代の人々よりはるかに優れているのは間違いありません。
• 予言が記録されているという点において
聖書は小説や一般的な本のように、虚構や架空によって書かれたものではなく事実に基づく人類の歴史を記録した本です。特にユダヤ人に対する歴史は詳細に予言されていました。さらに、それらの予言のすべてが驚くほど完璧にユダヤ人において成就されたことが、世界史によって証明されているのです。それだけではなく将来のユダヤ人と全世界の歴史までも聖書は予言として記録しています。そして、現代の私たちはこれらの聖書の予言の展開を自分の目で確認することができるようになりました。世界の歴史がそれを明らかにしているからです。
• 聖書の率直性において
聖書は歴史の記録であるため、虚構や嘘、美化のような点がありません。ありのままの事実と歴史を神の視点から記録したのです。また、深く聖書を研究してみると、聖書の率直性に驚かざるを得ません。イスラエルの人々にとって最も偉大とされる人物たちの罪悪や問題点までも一つ一つ暴いています。たとえば、ノアの不道徳、信仰の父アブラハムの不従順と嘘、勇者ダビデの姦淫や殺人の罪、知恵者ソロモン王の性的な堕落などまで、聖書は老若男女や上下を問わずすべての人を罪人とし、事実をありのまま書いているのです。
• 本の背景において
聖書は、今も生きているイスラエル民族を中心に人類の歴史や未来のことまでも詳細に書いています。世界のどこにもこのような本はありません。聖書は、全世界、全人類、全宇宙の始まりから終わりまでのすべてを記録しています。
• 聖書は決して古ぼけないという点において
聖書はすべての時代と人々の誰もが感動を受ける最高の書物です。同時に東西古今、老若男女問わず恵みと力、癒しや救いを与える不朽の神様からのプレゼントでもあります。
この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。「マタイ24:35」
2000年前のイエス・キリストの時代と今を比較してみると、人類の歴史においては想像すらできない変化がありましたが、聖書の内容は少しも変わっていません。しかし、今日のほとんどの本は、時代、潮流、流行、科学、状況などに翻弄されて消えたり、新たに修正されたりしているのです。
聖書の科学
ニュ-トンは、『自分が持っている知識というのは、海辺で一粒の砂を見つけたくらいのちっぽけなものである。』と語りました。本当に謙虚に科学を勉強していくならば、人間の弱さやこの宇宙の素晴らしさを知ることができ、人間の想像を超えた宇宙万物の秩序やその神秘の背後にいる神の存在を認めざるを得ないと言う人もいます。
知恵のない知識が大変危険な方向に走ってしまうことを、私たちは歴史を通してたくさん学んできました。科学が万能であるという風潮にはたくさんの危険性も隠されていることを知らなければならないのです。もちろん、知識をもって社会を発展させていくことによって人間が受ける益を誰も否定できません。ただし、それを正しく用いることのできる知恵が人間には強く求められるということです。知識は人間の研究活動を通して得られますが、知恵は短編的な知識をどのように使うべきかに対する力であり、それは創造者を知ることによって確実に得ることができるでしょう。
聖書は科学を教えるために書いた本ではありませんが、その中にはこの宇宙を創造した神様による様々な科学的な事実が多く散在しています。神様のすべての知恵と知識が当然のように淡々と色々なところに書かれています。実に神様にとっては、深い科学的な内容とそうでないこと、また難しいことと易しいことの違いはありません。
2000年6月、アメリカのクリントン大統領は、世界的に大きなプロジェクトの結果を発表しました。それは、人間の遺伝子に関する情報、ゲノム地図の完成についてでした。このゲノム研究の主役であったフランシス・コーリンスさんは、このゲノム研究中にクリスチャンになったと語っています。人間存在の神秘とその精巧な組織を見ると、まさに偶然に人間ができているという進化論に恥を感じるようになったと言っていました。皆さんの周りのすべてにおいても神様の知恵と本性などが反映されているはずです。
とくに科学をよく知らない人こそ、科学という名の盲目になりやすいのです。真の科学は決して聖書やその信仰を否定するわけではありません。信仰と科学の調和こそ人間をもっと説得力のある存在にすることができるでしょう。信仰は科学に正しい方向と使い方を教え、科学は信仰の根拠を提供し、盲信から信仰者を守ることができるのです。
イスラエル民族に対する予言と成就
イスラエル民族は世界史上、例のない特別な民族です。今彼らが生存しているということ自体が不思議です。彼らの歴史は、唯一の神に対する従順と不従順の歴史だとも言えるでしょう。イスラエル民族は、神の真理を全世界に宣べ伝えなければならないパイプの役割をする民族として選ばれたのです。彼らが神様に素直に従順したときには祝福を、そうでなかったときには厳しい戒めを受けることによって、全世界の人々に神の存在を知らせるようになったのです。その中でも1900年間、彼らは祖国を失い世界各地に離ればなれになり、悲惨な生活を強いられたということを、私たちは知っています。
たとえば、イスラエル民族がエジプトで400年間奴隷生活をするという予言(創世記15:13)、70年間バビロンの捕虜となるという予言(エレミヤ25:11)、そして世界各国に離ればなれになるという予言(申命記28:64)、イスラエル民族がキリストを十字架にかけるという予言(イザヤ53:5-6)、イスラエル人が散らばっていた国から今の地に帰ってきて国を再建するという予言(エゼキエル36:24)などがあり、これらが全部見事に成就したのです。
イエス・キリストに対する予言と成就
イエス・キリストがこの地上に来られる前から、聖書はその方について約350回以上詳しく予言していました。たとえば、イエス・キリストの家系、誕生地、誕生方法などはもちろん、誕生日時、目的、人々へのよい働きやどのような死を遂げられるかなども詳細に書かれていました。特に、イザヤ53章はその当時から見ると、約750年後のイエス・キリストの生まれから、生涯、そして十字架での死までのすべてのことを詳細に予言しています。実際、その予言から約750年後、イエス・キリストはその通りにこの世界に現われたのです。
参考までに、数学的な観点からみて、イエス・キリストに関するすべての予言が完全に的中する確率は一体どのくらいでしょう。仮に50個の予言が100%成就されるという数学的確率は、1.125×1015分の1であると言われています。それから考えると、イエス・キリストに関するす350個の予言が全部的中するという恐ろしさを想像することができるでしょう。
創造論と進化論
現代の科学において生物の起源には大きく二つの学説があります。一つは『進化論』で、生物はタンパク質から始まって複雑で多様な生物種に進化したという学説です。これは、ダ-ウィン、正確にはダ-ウィン学派の人々によって提唱された学説であって、特に共産主義や世界的な独裁者達の政治や理念の根拠としてもよく使われていたのです。もう一つは、『創造論』で地球上の生命体を含むすべての存在は、最初から神によって設計され、造られたという説です。これは、クリスチャンはもちろん、ノンクリスチャンの科学者や人々にも受け入れられているのです。もちろん、私たちは学問の論争や優劣をつけることや、どちらかへの選択を迫るようなことはしたくありません。その判断はそれぞれがすることではないでしょうか。これをもって論争を始めても何の結論も出せないに違いないでしょう。
私たちは『進化論』については、ある程度知っているので、ここではあまり聞く機会のない『創造論』について重点的に考えてみたいと思います。聖書には宇宙と生物の始まりについて詳しく書かれています。種類に従ってすべてを神が造ったと書いています。
神は、その種類にしたがって野の獣、その種類にしたがって家畜、その種類にしたがって地のすべてのはうものを造られた。神は見て、それをよしとされた。「創世記1:25」
また人間の起源については、下等動物から進化したのではなく初めから神様が人間を特別な形に造ったと、書かれています。
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。「創世記1:27」
人間の体は、ことばでは表現できない神秘と秩序によって造られた不思議な存在です。それを考えれば考えるほど、どうして人間がこんなに立派にできたのかその素晴らしさに感動してしまいます。このように想像をはるかに超えた神秘だらけの人間が、ただの偶然の積み重ねの結果だと言われると、何となく疑問が生じてしまいます。完全な無秩序から数百億回の偶然の積み重ねによって、今の人間になったという主張にはそう簡単に納得することはできないのです。
ここに人間の身体の神秘をいくつか紹介してみましょう。人間の脳は1,000億個の神経細胞と1,000兆個の神経細胞接合部を持っており、脳の中の相互情報交換は事実上限界がありません。神経細胞は1秒に1,000回以上放電します。その放電は神経細胞の中の小さな発電所や繊細なポンプによって作動します。血管の長さは約120,000Kmにもなります。地球を3周回れるほどの長い距離です。皮膚は約4週ごとに新しく再生されます。一生をかけて人間は約1,000回の皮膚の着替えをすることになります。車を作るのに必要な部品は約13,000個、飛行機の場合は約3,000,000個、宇宙船を作るのに約5,000,000個が必要であると言われています。しかし人間の体には60兆個の細胞組織があり、25兆個の赤血球と250億個の白血球があります。また、各細胞の中にはDNAがあり、この一つのDNAは約30億の分子ペアによってできています。ヒト1人分のDNAを全てつなぐと、その長さは約1,200億Kmにもなります。太陽系の直径が約100億Kmと言われているので、その12倍となるのです。しかし今挙げたような人間の体の神秘はごく一部であり、人間の頭ではそのほとんどを理解することができません。
進化論は目に見える形を中心とした話だけであって決して精神的な面での進化はもちろん、もっとも重要ないのちについては何の答えも出していないのです。しかし、いくら身体が今の人間のように進化できたとしても、実際、より肝心なのは精神的な面での進化やいのちの存在であって、これに対する疑問や問題は依然と残ります。人間が他の生物より優れているというのは、実は身体ではなく精神的な面や霊的な特異性であり、身体はどうでもよかったのではないでしょうか。身体だけを考えるならば、人間より丈夫で優れた動物がたくさんいるからです。もちろん、人間の身体の神秘にも驚いてしまうのですが、人間の心や精神はそれよりはるかに複雑で神秘に包まれているのです。
事実、『進化』か『創造』かという議論は、既に科学の境地を超えており、決して人間の理性や科学で証明できる問題ではありません。結局は人間の本能と直感による選択の問題であると言えるでしょう。私たちはメガネ一つさえ偶然にできるとは、少しも考えていません。誰もがメガネは偶然にできたものではなく、誰かによって作られたと考えるでしょう。メガネは確かに機械から生産されるのですが、誰もが機械が作ったとは言いません。あなたという存在もお母さんから生れたからといって、お母さんが造ったわけではありません。本当の人間の創造者は神であるとしか言えません。あなたは花や植物、動物などの自然を真剣に見つめたことがあるでしょう。自然は神の作品ですから、そこには偉大な方の力と人格が必ず隠れていて、あなたに創造者からの何らかのメッセージを発しているのではないでしょうか。
ノアの洪水
聖書には、ノアの時代に世界的な大洪水があったと書かれています。世界のいろいろな所にこのことを証明する痕跡が多く残っています。洪水の前までは、地球の空に水の層があって、地球全体は霧に包まれていたと記録されています。おそらく、温室効果によって気圧の差もなく地球は亜熱帯のようであったでしょう。しかし、ノアの時代に40日間、空の水層の雨が降り、地下からは水が湧出して、世界のほとんどの地域が水に覆われて生物が全滅したという記録があります。ただ、ノアとその家族8人と種々の動物一組ずつが乗り込んだ箱舟は、今のイラン、ロシア、トルコにまたがる国境地帯に止まり助かったと書かれています。その時、空の水層は消えてしまったのです。ここではそのノアの大洪水の証拠を中心に述べてみましょう。
聖書にはノアの大洪水を前後にして、地球上に数多くの変化があったと書かれています。その一つが『人間の寿命の短縮』です。洪水以前の人間の寿命は非常に長かったことが分かります。大体数百年くらい生きていましたが、洪水後人間の寿命が急に短くなっていることが分かります。なぜこのような急激な変化が起こったのでしょうか。それは、その時まで空に存在した水層によって人間に有害な紫外線が遮断されていたこと、また空の水層の温室効果によって地球の環境が非常によかったことが原因として考えられます。しかし洪水をきっかけに急激な変化に適応できなかった多くの動物がこの地球上から消えたのではないかと、主張する人もいます。
化石は地球の歴史を調べるのにもっとも大切な資料です。熱帯地方で生きていた広葉樹の化石が、北極地方で発見されていることなどから大洪水があったことが裏付けられます。おそらく大洪水によって流されたのではないかと思われます。最近、ある地層では魚の化石がたくさん発見されました。特に魚の化石は非常にできにくいと言われています。というのは、魚類の場合、死んでしまうとすぐ水面に浮かび腐敗してしまい、化石にはなれないからです。したがって魚類が化石になるためには、生きたまま急速に地層の中に埋められなければならないのです。確かに、ノアの洪水のような大激変によって、魚が急に閉じこめられ堆積され、化石になりやすかったのではないかと思われます。
このように、聖書は科学の本ではないのですが、人間の理解を越えた数々の事実を書いています。科学が発達すればするほど、聖書の神秘のベ-ルが剥され、その真実性が明らかになっていくことでしょう。
有名なクリスチャン科学者
科学は論理と根拠があり、証明できるものでなければなりません。信仰も例外ではありません。中世、近代や現代を通して多くの科学者達が聖書に対する揺るがない確信と信仰をもって科学研究を行いました。彼らにとって科学と信仰は、少しも相反するものではなく、互いを補い合えるものだったのです。ここに彼らの信仰に対する思いを簡単に紹介します。(参考、チョドクヨン著、 1997年、聖書と科学者達、ドゥルマリ出版)
• ケプラ-(1671-1730)
惑星の運動法則(ケプラ-の法則)を発見しました。一時牧師となるために神学授業も受けるくらい熱心なクリスチャンでした。 “神様の摂理が私を導き、私は偶然新しい発見をすることができた。その理由は、もしコペルニクスが話した地動説が正しいならば、私がそれを立証できるように知恵を下さいと絶えず祈ったからである。”(【宇宙の神秘】から)。また彼は、“私は、一時神学者になろうとしましたが、今は天文学を通して神様に栄光を崇めようとしています。”(恩師に書いた手紙から)や “神様、私は神様の御心に従って神様のことを考えています。”(彼の信仰告白から)と語りました。
• ニュ-トン(1791-1863)
重力法則、望遠鏡、数学の微分学、移項定理等を発見した偉大な数学者であり、科学者で古典物理の巨匠とも言われています。 “太陽、行星、地球などすべての秩序と神秘は、知恵に溢れている神様の計画と統治によってのみ可能である。この方は、宇宙万物の主として存在する。こういう事実から、私たちはこの方を主と呼んでいる。”(重力の法則を説明した【原理】という本の最後の部分から)。また、“私の前には未解決の真理の海が置かれている。私はその海で遊ぶ、もう少し丸く奇麗な砂利を見つけ、喜ぶ少年のような者であると思う。”ということばから、彼の信仰を覗き見ることができます。ニュートンにとって科学と信仰は少しも相反するものではなかったのです。
• ファラデ-(1791-1863)
ファラデ-の法則で有名な化学者です。“聖書の内容は一度も人間によって縮小されたり、加えられたりしたことがない。聖書はすべての時代と環境において人間に必要充分な案内書であった。”と話していました。
• モ-ルス(1791-1872)
モ-ルス符号を作った科学者、名前がサムエルということからも分かるように非常に真実なクリスチャンでした。 “私が発明したすべての作品は全部神様によるものである。ただ、その方だけが私のすべての努力を実らせ、今の私の位置に導いて下さった。栄光を受けるべき方は主だけである。”と述べた彼の信仰告白や謙遜な態度は、クリスチャン科学者としての素晴らしい証しです。
• レオナルド・ダヴィンチ(1452-1519)
潜水艦、飛行機、血液循環の原理、地動説の理論などを発見した天才的科学者であり数学者です。あの有名な【最後の晩餐】を書いた画家、そして建築家としてもよく知られています。
• コペルニクス(1473-1543)
地動説で有名な科学者です。“宇宙は神様が秩序正しく私たちのために創造された。”と主張しました。
• ガリレオ・ガリレ-(1564-1642)
地動説とそれによる宗教裁判で有名な科学者です。振り子の等時性法則、望遠鏡等を発見しました。 “神様は、私たちに2冊の本を下さった。1冊は自然という本であり、もう1冊は聖書である。私たちは神様の素晴らしいわざを、神様が下さった自然という本から見ることができる。” また、“私には確かな二つの平安がある。一つは、私の論文の中には教会や聖書と異なるという暗い影が少しもない。もう一つは、神様と私だけが分かる個人的な清い良心の証拠がある。今、私はたくさんの非難や苦しみを受けているが、神様は私の敬虔さと教会に対する熱心さが分かると確信している。”と語りました。
• パスカル(1623-1662)
有名な科学者、数学者、思想家です。パスカルの定理、物理のパスカルの原理等で知られています。 “人間は考える葦である。”、また “人間には二つの部類がある。一つは自分を罪人だと認める義人であり、もう一つは自分を義人であると思い込んでいる真の罪人である。”(【パンセ】から)ということばから聖書的思想家としての一面を見ることができます。
• シンプソン卿(1811-1870)
“私の偉大な麻酔物質の発見よりもっと偉大な発見は、私がイエス・キリストを発見したことである。ある日、私は私のために罰を受け、十字架上で死なれたイエス・キリストを発見することができた。そして、私はその方に叫び、赦されることができた。だから、私がその方を伝えるのは当然である。”と告白しています。
• ファ-ブル(1823-1915)
昆虫学者(昆虫学の父)である。 “イエス・キリストがいなかったならば、私は何も理解できなかったかもしれない。その方がおられないなら、暗黒だけがあるでしょう。 神様に対する私の信仰を奪うよりも、私の肉親を奪う方が簡単でしょう。”という告白から、科学者よりも1人の信仰者としての強い確信を感じることができます。
• ポン・ブラウン (1912-1977)
米国航空宇宙局(NASA)の元局長、世界最初の人工衛星アポロ号の月着陸を成功させた人物です。 “神様の存在を科学的に証明できないということが、ある人達が信仰を持つのに障害物になっているように見える。しかし、私たちが太陽を見るためにろうそくをつけなければならないのか、私はなぜ科学が信仰への妨害となっているかが分からない。”という20世紀最高の科学者の信仰告白は、現代の科学者たちに送るメッセージのように聞こえます。
• アインシュタイン(1627-1691)
老年になってクリスチャンになったアインシュタインは、 “私は色々な科学的現象やスペクトルには関心がない。私はそれを全部考えてみたからだ。私は神様について知りたいだけだ。神様がどのように宇宙を造ったかが知りたい。他は私にはささいなことだ。”と話しました。
• パスツ-ル(1822-1895)
微生物学者、殺菌法、生物の自然発生説を否定する実験で有名な科学者です。予防接種法も開発しました。
• メンデル(1822-1884)
メンデル遺伝法則を発見した生物学者でありカトリックの司祭。
キリスト教は世界の宗教の中でも、その中身が他の宗教に比べて全く違うということを、今までの内容を通して少し理解していただけたでしょうか。間違いなく、普通の宗教とは一線を画する中身であると言えます。しかし、こういうキリスト教に対して好感を持っている人もいれば、反感を持っている人もいます。私自身も最初は、キリスト教や聖書に対して当然反感を持っていました。しかし、聖書を読んでいくうちに、聖書やキリスト教には、他の宗教とは明らかに違う何かがあることに気づきました。根拠のない排他的主張は説得力がなく人々に受け入れられるはずがありません。この書では、キリスト教が他の宗教と何が違うのか、またなぜキリスト教が真理として多くの人に受け入れられているのか、その根拠を考えてみることにします。
• イエス・キリストは予言された特別な方
そのとき私は申しました。『今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。』(詩40:7、8)
イエス・キリストの生涯は、誕生前に既に予言されており、またその通りになったのです。イエス様が生まれる前に書かれた旧約聖書は、これから登場するイエス・キリストに対して詳細に予言しています。そしてそれらの予言が完全に成就したことを歴史は証明しています。歴史上これほどまでに一人の人生が完璧に予言され、そのまま成就したことが他にあるでしょうか。
• 処女から生まれた不思議な方、イエス・キリスト
それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。(イザヤ7:14)
イエス様はただの人間ではなく、神様から送られた救い主であることを示す出来事が、マリヤという処女からの誕生です。すべての人間は男女の性的関係によって生まれるのですが、イエス様はそのような人間の性的な関係による誕生ではなく、男をまったく知らなかったマリヤという処女によって生まれたのです。そうすることによって、イエス様は人間の生まれ付きの罪(原罪)に制限されることがなく、人間を救うことのできる、罪のない清い救い主としての資格を持つようになるからでした。
• 十字架で現われた愛の宗教
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。「イザヤ53:5」
イエス様の誕生と同じく、イエス様の死に方も普通の人間、または他の宗教の創始者とはまったく異なっています。イエス様は、自分の罪のゆえに十字架という一番厳しい極刑の刑罰を受けて死んだのではなく、人間の罪を背負って身代わりとして死んだのです。イエス様は、生まれる前から、人間の罪を背負って人間の代わりに十字架で死ぬことが予言されていたのです。人間の罪が、イエス様の十字架によって赦され、救われるようになるためです。これは、あなたが信じても信じなくても、歴史的な事実としてすでに起きたのです。キリスト教は、人間の罪のために、神ご自身が、十字架の上で自分のいのちを捨てたという、究極の愛の宗教なのです。他の宗教の誰がこのようなことをしたでしょうか。
• 十字架で死んだイエス様は3日後によみがえられた
それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。「マルコ8:31」
これは非常に重大な出来事です。イエス様が人間の罪を背負って人間の身代わりになって死んだとはいえ、本当にイエス様が神の送った救い主であるかどうか、それだけでは分からなかったのです。しかしイエス・キリストは、十字架で死んだ後、3日目によみがえることによって、ご自身が人間ではなく、本当に神の子であり救い主であることを証明されたのです。人間である以上、誰一人死を乗り越えることはできません。キリスト教以外の宗教の創始者も、普通の人間と同様に死んで、墓に入れられたままになっており、今も多くの人々は、その墓を拝んでいるのです。しかしキリストのお墓に遺骨はありません。その方はよみがえって、後に生きたまま昇天されたからです。つまり、死を支配する、死ぬことのない神だったということです。このようにイエス様の誕生や生き方、十字架での死やよみがえりなどを見ても、この方は決して普通の人間ではなく、全知全能の愛の神様であることが分かります。どうしようもない人間の救いのために、神様から遣わされた救い主だったのです。
• キリスト教はいのちの宗教
御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。「ヨハネ3:16」
キリスト教はいのちの宗教です。神を信じれば永遠のいのちを受けることができます。永遠のいのちとは、ただ今の苦痛の人生そのままを、永遠にゴムのように伸ばすということではありません。それではまったく意味がないのです。永遠のいのちをいただくということは、今まで神様から離れていたことによって味わった様々な苦痛と、罪によって死んだ枯れ木のような、希望のない苦しみの人生から解放され、完全な救いの源である神様に接ぎ木され、その方の豊かな祝福にあずかるようになるということです。この神からの新しい永遠のいのちは、人間の体の死によって制限されることはありません。生きている今はもちろん、体が死んでからも続く豊かないのちなのです。
ほとんどの宗教が、哲学や道徳的な役割に留まっています。もしキリスト教をそのような道徳の観点から考え、理解しようとするなら、それは大間違いです。イエス様は人間に良い行ないを教えるためではなく、むしろ人間に永遠のいのちを与えるためにこの世に来られたからです。
• キリスト教は救いの方法が違う
他のほとんどの宗教は、道徳的な善悪や倫理的な面を強調し、またそれが救いのための絶対的な条件であると教えています。ある意味それは自力による救いとも言えるでしょう。もちろん良い行ないは大事なことですが、それが救いの条件となると話は違うのです。人間がよい行ないや正しい行動、立派なことをして認められ、救われることは不可能に近いのです。それができたならば、人間には罪もなく救われる理由もないかも知れません
立派な行ないで認められ、救いが得られるというのは一見正しく思われますが、それは決して人間にとって救いの話ではありません。むしろ、人間をもっと深い絶望のどん底に突き落すことになってしまうのです。というのは、多くの矛盾と罪を抱えた人間自らが、良い行ないで自分を救うという話自体が矛盾だからです。汚染された空気は、自ら自分をきれいにすることはできません。その空気をきれいにするためには外からの新しい空気の導入が必要です。同じく、罪と弱点と矛盾によって制限されている人間が救われるためには、外側の神様からの助けが必要となるのです。もし人間自らが救われる方法や力を持っていたならば、神様がイエス様を通して人間の救いに介入する必要もなかったでしょう。よい行ないをしたくてもそれができず、悪や罪を犯してしまった人間に向かって、「よい行ないをして救われなさい」という論理は、解放の救いではなくその人をもっとダメにしてしまう呪いに過ぎないのです。以下の聖句もそれを語っています。
というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」(ガラテヤ3:10)
キリスト教ではよい行ないではなく信仰によって救われると教えています。その信仰というのは、あなたの罪を背負って十字架で死ぬことであなたの罪を償い、またその死からよみがえることによって、あなたの死後の恐れや滅びからの解放を、身をもって示してくださったキリストをあなたの救い主として受け入れることを意味します。
8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。「エペソ2:8-9」
イエス・キリストを救い主として、心に受け入れる者は誰でも、自分の行ないによらず救われるというのが、キリスト教の真理なのです。これが信仰によって救われるという、キリスト教の一番大事な核心なのです。つまり、自分の力によってではなく、十字架であなたの罪を背負って、あなたが受けるべき罰を、あなたの身代わりとなって受けてくださったイエス・キリストを、自分の救い主として受け入れることによって、あなたは救われるということ、これがキリスト教の救いの原理なのです。
人間は、神によって造られ、また毎日神によって支えられるなど、何らかのかかわりの中で生きています。しかし、私たちはそのことにまったく気づいていません。人間は神を意識することもないまま、生きるようになってしまったのです。
人間関係というのは、それが夫婦であれ、親子であれ、どういう関係であれ、見えなくなると、その関係が薄れ、忘れるようになり、いつかはその関係は切れてしまうのです。それは神に対しても同じだと言えるでしょう。私たち人間は神を忘れ、罪に走り、自分勝手に生きたゆえに、神の心に傷を与えたかも知れません。そして私たちは神から孤立することによって多くの恵みや祝福を失っているのです。しかし愛と創造の神は、ご自分が創造し、関わっている人間を忘れることはありません。子供が親を離れることはあっても、親がその子供を忘れることはないでしょう。人間が神を忘れたからといって両方の関係が切れることはありません。
そこで、私たち人間が、切れてしまった神との関係を回復し、その神と和解するということが、一体どういう意味なのか、またその神との和解の必要性は本当にあるのかについて考えてみましょう。
信仰の意味
信仰とは何でしょうか。それは信じることです。それでは、信じるというのは何でしょうか。それは事実を事実として認め、受け入れることです。決して信じにくいことや理解できないことを盲目的に信じ込むことではありません。信じ込むだけでは堅固なものにはならないのです。何かあればそれはすぐ崩れてしまいます。盲目は決して信仰ではありません。信仰は確かな土台と証拠があって作り上げられるものであり、無理やりに作るものではありません。
信仰が真実に基づいたとき、それは最も自然で確かなものです。そういう意味であなたが聖書を学んでみるのは、非常に意味のあることではないでしょうか。聖書を読んだり学んだりすることで、あなたは信仰の土台となる明確な真実を見つけることができるからです。決して無理やりに信じ込もうとは思わないでください。盲目的に認めようとしなくてもよいのです。事実を受け入れない人は誰もいないからです。大切なのは、それが真実かどうかです。そのために、聖書学びをするのです。
信仰はキリストを知ることから始まる
その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。「ヨハネ17:3」
人が救われるためにはまず、神様の愛を理解することが必要です。神様は絶えず人間を救うためにいろいろな形で私たちに近づいてきました。その方が人間の救いのために注いでくださった愛を知るようになると、私たちは神様に何らかの反応を示したくなるのです。神様は罪を犯し、逃げ去るアダムとエバに近づいてきて声をかけてくださいました。しかし人間はそういった神様の声に耳を傾けずに、わがままで自分勝手な道を歩んでしまったのです。それはあなたも例外ではないかも知れません。神様は、人間が存在するようになった時点から今まで絶えず預言者を送ったり聖書を与えたり、最後は自分のひとり子、イエス様を十字架にかけたりして人間への愛を示してきました。人間を愛するがゆえに絶えず人間のほうに近づいてくる神様の愛、それこそ神様が私たちを愛するという確固たる証拠ではないでしょうか。
先ほど話したように、神様は人間の救いのためにイエス様をこの世に送ってくださいました。罪のない、イエス様がどうして十字架の上で死ななければならなかったのでしょうか。それに対する明確な知識と理由を知ると、あなたは救われるようになるでしょう。その方はあなたの罪を背負ってあなたが受けるべき刑罰を十字架の上であなたの身代わりとして受けて死なれたのです。それはあなたがさばかれないようにするためであり、あなたに自分の罪から赦されるための道を与えるためでした。したがって、あなたの罪を背負って死なれたイエス様にこそ、あなたの罪の赦しと救いの希望があります。この事実をあなたが知り、そのイエス様を受け入れる時にあなたは罪から赦され、救われるようになるのです。前のChapter 04の「• キリスト教は救いの方法が違う」という所に詳細に書きましたが、行いによっては、救われるどころか、むしろ呪いをもたらしてしまうと書かれています。以下の聖句も同じことを強調しています。
しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。「ガラテヤ2:16」
自分の力では救いを得ることができないので、イエス様が私たちの罪を背負って死ぬことで、私たちの罪からの赦しと救いが可能となったのです。それは、神からのプレゼントなのです。自分の行いでできるならば、イエス様の十字架は必要ではなかったでしょう。キリスト教では、行いが救いの条件ではないが、救いの結果として自然と現れるものだと話しています。決して、救い自体を軽視するわけではありません。
信仰はキリストを受け入れることで完成する
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。「ヨハネ1:12」
あなたがある人を信じるようになれば、あなたの心は既にその人を受け入れることになるでしょう。信じてもないのに相手を受け入れるというのはあり得ないことです。イエス・キリストは、あなたの救いと赦しのためにあなたの罪を背負って、あなたの身代わりとして十字架で死んでくださったのです。もしあなたがこの方の愛を心から理解し、知るようになるならば、あなたはその方を心の中に受け入れたくなるでしょう。
確かに人間社会においても人への信頼は非常に大切です。そしてそれはある人間への一番素晴らしいもてなしであり、お金や他のどんなものを払っても買えるものではありません。人間の本当の喜びは信頼からくるのです。ただお金や物を与えるだけでは、本当の信頼や喜びが湧き出ることはありません。
私たちは良い行ないをすれば救われると思いこんでいます。しかしそれは非常に次元の低いことであり、神様がそれを最も喜ぶはずはありません。もし良い行ないや知識、お金などで救いを買えるのであれば、子供や貧しい人、無学者のような人には、希望がまったくないのです。神様は何かをすれば喜び、何かをしなければ罰を与えるような方ではありません。よい行いをする子供だから親があなたを愛するような家庭では、多くの弊害や問題が生じます。そのような雰囲気の家庭や社会は望ましい方向にはいかないことでしょう。わたしもそういう家庭では生活したくありません。
良い行ないよりはるかに優れて尊いのは信頼、つまり信じるということです。私たちは誰でも、神様に最も素晴らしく尊い信頼を贈ることができるし、それに対して神様は限りない尊い救いを無条件に私たちに与えてくださるのです。神様は私たちが何もできなくても、私たち人間の救いのために最高の愛を施してくださった神様を信頼し受け入れるとき、計り知れない恵みと罪からの赦し、永遠のいのちを私たちに与えてくださるのです。
人間は神と和解する必要はあるのか
人間は、なぜ神様を知り、その方と和解をし繋がる必要があるでしょうか。そのいくつかの理由を考えてみましょう。
• このキリストの神様は人間を造った創造主であるから
ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。「イザヤ44:21」
そもそも造られた者が、その創造者に関心を持つのは当然のことではないでしょうか。道徳的にも自分を産んでくれた親を忘れてはいけないというのは、万事の鉄則でもあります。どんなに素晴らしいことを行った人であっても、この点が欠けているならば、人間としての信頼は決して得られないでしょう。同じように、私たち人間にとって自分を形作った創造者を覚えるのは、何よりも大切なことではないでしょうか。造られた人間は、造り主の神様との関係を保つ必要があります。造られた者には造り主の知恵と力が必要になるからです。そして自分の造り主に出会うことで自分への理解はもちろん、生きる目的や理由を知ることができるのです。
• 死後の救いと永遠のいのちは一番大切であるから
人は、たとい全世界を得ても、 命を損じたら、何の得がありましょう。「マルコ8:36」
人間のいのちより大切なことはありません。まして、この世だけのいのちではなく永遠のいのちの問題であるならば、その価値はどうでしょう。多くを失ってもいのちを得ることができるならば、それは永遠に価値ある、後悔のない、賢い選択ではないでしょうか。
• 世の物事だけでは真の平安と満足が得られないから
金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。「伝道者の書5:10」
多くの人たちは、この世のことで満足を得ようと頑張っています。しかし、この世の物で完全な満足を得ることができるでしょうか。イギリスの有名な詩人バイロン、世界で一番美しい女性として注目を浴びたマリリン・モンロ-、偉大なノ-ベル文学賞作品の著者であったヘミングウェイのような人たちにおいても例外ではなかったのです。彼らも真の幸福を求め続けましたが、それを手に入れることはできませんでした。結局、彼らは自殺という最後の手段を選ぶことになったのです。この3人は、この世での幸せを求め続けている、私たちのような人間の象徴的な人物とも言えるかも知れません。
• 死んだ後には必ずさばきがあるから
そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように死後にはさばきを受ける。「ヘブル9:27」
おそらくこのような教えは、キリスト教だけではなくほとんどの宗教が教えていることでしょう。単に、人間の作り話であるとは言い難いのです。むしろ、人間の霊的な本性がそれを教えているからではないでしょうか。私たちは、わずか数十年前には単に空想映画や小説にすぎなかったことが今実現されていることをいくらでも見ることができます。したがってさばきや死後のことも完全に人間の作り話であると結論付けてしまうのは、無理があるのではないでしょうか。危険信号を無視するのは、どんでもない事故を引き起こす可能性があることを知る必要があります。
• 真理を知るとき真の自由を享受することができるから
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。「ヨハネ8:32」
すべての人間は自由を渇望しています。自由なしには生きることができないということでしょう。よく知られているように、『自由でなければ死を!』という名言もあります。それほど、人間は自由なしにはほんの一瞬も生きていくことが難しいのです。それでは、このような素晴らしい自由というのは、いったいどこから来るのでしょうか。人間を取り囲んでいる環境さえ良くなれば、本当に自由を得ることができるのでしょうか。かえって現代の人々は昔よりも多くの不自由を感じ、いろいろな痛みや症状を訴えています。つまり、次々と生まれる新しい欲、お金、迷信、恐怖、対人関係の悩みや葛藤、病気や死、死後への不安といった、数え切れない多くの鎖によって束縛されていると言えるのではないでしょうか。
私たちは事実が明らかになるとき、多くの不安がなくなり自由とやすらぎを感じるようになります。聖書には創造主である神様による真実が書かれています。それを知ることはあなたが真の自由を得るための大事なことです。
決して勝手気ままに生活することが自由ではないはずです。たしかにそのような生き方をしている人が自由人のように見えるかも知れません。それはある意味、欲の誘惑に釣られて様々なことをしてしまう欲の奴隷である可能性が高いのです。神様だけが人間に真の自由を与えることができるのです。
さらに、聖書の教えをもって生きる人は、確信の中で生きることができます。変わりやすいこの世のものだけに希望と価値を置いていては、いつも揺れ動くしかありません。しかし、絶対に変わらない聖書にあなたの人生や信仰の根拠を置くならば、あなたは確信の中で生きることができるでしょう。
受け入れる前に必要な1つのこと
イエス様を受け入れ、救いを得たいという人たちは、自分が罪や悪を犯すしかない存在であることを自覚している人であるに違いないでしょう。まったく罪も悪もないと思うならば、多分自分が救われる必要を感じないはずです。つまり、罪や悪への裁きと、それによる厳しい代価を受けるようになるということへの認識がない限り、罪への赦しや救いの必要性を感じることはなでしょう。
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。「Ⅰペテロ3:18」
実は、上記の聖句にイエス様が十字架にかかって死なれたのは、人間の罪を償う(贖う)ために、自らが私たちの罪を背負って私たちの身代わりとなって、十字架で死なれたという内容です。キリストが、あなたの罪を背負って死んだというのは、人間は、いやあなたは罪を犯した存在であり、その罪から赦される必要があるからでしょう。この聖句には、キリストが「罪のために死なれました」となっています。当然、キリストは自分の罪のためではなく、人間の罪のために、十字架で死なれたのです。
そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。「使徒行傳 3:19」
したがって、この事実を知った私たちは、自分の罪への自覚やその厳しさを認識し、悔い改める心の姿勢が必要だと、上の聖句に書かれています。というのは、自分の罪を赦していただくためには、自分の罪を認め、悔い改めるのが基本前提だからです。罪の認識がなければ、罪から赦される理由も、救われる理由もないのではないでしょう。
盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたし(キリスト)が来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。「ヨハネ10:10」
この聖句には、キリストが来た目的を語っています。罪深い人間がその罪から解放され、真の自由をもって豊かな人生を生きるようにという目的がありました。また死んでもなお生き続けれれる「永遠のいのち」を与えるために、この世に来て人間の罪を背負って死なれたのです。確かに、人間が罪の奴隷となっている限り、真の自由や満足、平安、そして豊かな生き方は難しいでしょう。救いとは、罪の代価としての永遠の滅びの地獄から救いの天国へと、自分の運命を変えていただくということです。ここで、一番カギとなっているのが罪のことです。したがって、イエス様を受け入れ、救われようとする者は、誰でも自分の罪への悔い改めと告白が求められるのです。それを具体的にどのようにするかは、次の「イエス様を受け入れる祈り」のところに示しています。
イエス様を心に信じ口で告白して救われる
9なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。10人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。「ローマ10:9-10」
上に書かれたみことばのように、あなたはまずイエス様があなたの罪の赦しと救いのために十字架の上であなたの身代わりとして死んでくださったことを理解する必要があります。そしてこのような事実をあなたの心の中で理解し認めるだけではなく、今度はそのイエス様を、あなたの罪からの救い主として、心の中に受け入れる必要があります。そうすると、イエス様はあなたの人生に入り込み、いつもあなたと共にいてくださると約束しています。つまり、2000年前のイエス様の十字架での死が、今のあなたの罪の赦しのための身代わりの死となり、あなたは救われることになるのです。神様のひとり子、イエス様があなたの罪のためになしてくださった十字架は、昔も今も、また未来にも、永遠に信じる者への素晴らしい救いの力となってくださるのです。
既に神様はイエス様を通して、人間が救われるのに必要なすべての条件や代価を払ってくださったのです。あなたは十字架のイエス様によって出来上がった救いを、信仰を持って受け入れるだけで十分なのです。救いはプレゼントとして用意されたもので決して何かをもって買うことも交換することもできない、あまりにも尊いものなのです。この素晴らしい救いを得るためには、あなたの心からの信頼(信仰)を示すこと以外、何も求められることはありません。これらのことを以下のようにまとめて神様に祈ることを通して、あなたはイエス様を受け入れることができるのです。これこそあなたができる、神様への最高のもてなしであり、誰もができる最も簡単なことではないでしょうか。ただ、前述したように、この受け入れる祈りには、自分の罪への告白が必要となります。それらを含めて、以下のような祈りを通して、私たちはイエス様を自分の罪と永遠の滅びからの救い主として受け入れ、救われるようになるのです。真摯な姿勢で以下の祈りに臨みましょう。
「イエス様を受け入れる祈り」
『イエス様、私は罪人であることを認め、自分の罪を悔い改めたいと思います。そしてイエス様が、私の罪の故に私が受けるべきさばきと罰を私の身代わりとして十字架上で受けてくださったことを知り、感謝します。今、私は私の罪の赦しと救いのために、死ぬことさえ惜しまなかったイエス様を、私の救い主として私の心にお迎えしたいと思います。どうぞ、お入りください。そして私の人生をもお導き下さい。イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン』
この祈りをするかどうかは、個人の選択です。ただ、もし真摯に自分の罪を認め、イエス様を自分の罪と厳しい代価の地獄からの救い主として受け入れたならば、あなたは自分の人生において最高のことをなさったと思います。それはきっと、あなたの人生に大きな変化の始まりであり、出発点となるに違いないでしょう。ぜひ、この小さい信仰が少しずつ実を結び、成長していけるように、聖書読みや近い教会の礼拝などにも参加してみてください。必要であれば、聖書学びも続けることをお勧めします。
しかし、まだイエス様を受け入れていない方でも、それは自分の選択ですから尊重すべきだと思います。ただ、いつかまたイエス様との出会いが与えられることを願いたいと思います。もちろん、もう少し聖書を知ってから考えてみたい方は、聖書学びを続けることをお勧めします。
皆さんのそれぞれの人生に主からの豊かな恵みがありますように祈ります。
タチヨミ版はここまでとなります。
2018年7月12日 発行 初版
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