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七六 千本釈迦堂
七七 梨木神社
七八 錦天満宮
七九 西本願寺
八〇 二尊院
八一 蛸薬師堂
八二 智積院
八三 等持院
八四 東本願寺
八五 日向大神宮
八六 百万遍
八七 平野神社
八八 藤森神社
八九 伏見稲荷大社
九〇 法住寺
九一 本圀寺
九二 本隆寺
九三 松尾大社
九三 松尾大社
九四 妙蓮寺
九五 八坂神社
九六 矢田地蔵
九七 宥清寺
九八 要法寺
九九 蘆山寺
一〇〇 六角堂
一〇一 御所・女御御所
一〇二 仙洞御所・大宮御所
一〇三 桂離宮
一〇四 修学院離宮
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七六 千本釈迦堂
【国宝建造物:本堂】
上七軒停
正式名称は大報恩寺、山号は瑞応山、宗派は真言宗智山派です。最大の特徴として、洛中では唯一応仁の乱の戦火を免れ、本堂は鎌倉時代の創建、もちろん国宝となっていることです。また重要文化財指定の仏像も二〇近くあり、霊宝殿にて安置されています。
安貞元(1227)年、藤原秀衡の孫義空によって創建され、嘉禎元(1235)年俱舎、天台、真言の三宗派兼学とされました。
また、北野天満宮の神宮寺であった北野経王堂が、明治の神仏分離令により、当寺に移設されています。北野経王堂は足利義満が、自身が鎮圧した明徳の乱の、山名氏清らを始めとする戦没者の追悼のため、応永八(1401)年に創建したものです。
江戸初期に真言宗智山派に改宗し、智積院の能化の隠居先とされました。
またこの寺院には、創建の造営に際してのおかめの伝承が残っています。大工の棟梁、飛騨匠守高次が、四本ある天柱のうちの一つを誤って短く切ってしまい苦悶します。それを見た妻おかめは、本尊に祈ったところ、斗栱(ときょう)、即ち接ぎ木というアイデアの啓示を受け、それを高次に伝えます。
すると高次はそれに従い、残りの三本も切断し、四本全ての天柱に組み物を接続し、無事竣工を見ます。しかしおかめは、妻の提案で造営がなされたことが知られると夫の名誉に関わると嘆き、竣工の前日に自害します。それを知った高次はおかめ塚を建てその冥福を祈ります。この時に高次はおかめの名にちなみ福面を付けた扇の御幣を供えたと言われており、その後お多福の面は現代に至るまで厄除、招福の信仰を集めています。この寺の二月二、三日の節分はおかめ節分と言われています。
この他、一二月七、八日の成道会は大根焚きと言われています。これは鎌倉期に当寺の慈禅という僧侶が、大根に梵字を綴り、それを法要に用いたことに由来すると言われています。
七七 梨木神社
府立医大病院前停
近代創建で、人物神を祀る旧別格感弊社の一つです。創建の令旨名義は久邇宮朝彦親王、当初の祭神は、明治維新の太政大臣三条実美の父、三条實萬、明治一八(1885)年の創建です。続く大正四(1915)年、三条実美も祭神になりました。
実質的な明治維新の裁定者であった岩倉具視が、極力自身の痕跡を目立たなくさせているのとは対照的でもあります。またその政敵であり、岩倉に匹敵する策略家であった徳川慶喜も、維新後、自身の身を使われての騒乱を危惧し、極力目立たない動きに徹していました。
御所の西側には平安遷都時の忠臣和気清麻呂を祀る護王神社がありますが、梨木神社は東側に位置します。
境内は多数の萩が植えられており、その名所としても知られています。
また境内の井戸は染井の水と呼ばれ、未だに枯れることなく、直接飲料可能な水を湧き出しています。
近代創建のため、歴史は短いのですが、資金不足から二〇一三年に敷地の一部をマンション業者に事実上売り渡し、その関係で単立になっています。
このマンションが参道の隣にありますが、かつては参道が今の倍近くあり、御苑に隣接して木漏れ日が続く参道は、その風景を好む者もあり、隠れた名所であったようです。
七八 錦天満宮
京都河原町駅
錦小路通のうち高倉通から新京極通までは錦市場として知られています。その東端新京極通に鎮座しているのが錦天満宮で、その性質上、学問と商売繫盛とを合わせ持った神社となっています。
菅原道真の父是善の旧邸は歓喜寺という寺院になっていましたが、これを現在の烏丸天神こと菅原院天満宮にするに当たり、歓喜寺は六条河原町に移転しました。その際に境内社として創建された天満宮が錦天満宮の発端です。
正安元(1299)年、時宗六条派本山であった善導寺がここに移転、合併し、時宗六条派本山は歓喜光寺という名称となりました。このときに天満宮は引き続き境内社になり続けました。
なお時宗各派が形成されたのは江戸期に入ってからのことです。それ以前、そもそも時宗は、一編の踊念仏に端を発するものですが、他の宗派のような教団を形成してはいませんでした。
踊念仏、遊行、賦算(ふさん、名号の書かれた札を頒布すること)など、各種の技を用いて念仏を勧進する僧侶、念仏勧進聖という、芸能集団としての側面が強かったのですが、江戸幕府の宗教統制は時宗の実情にあまり合っていない、他の宗派と同じような、清浄光寺を総本山とする時宗として束ねました。
もちろん念仏勧進聖らにとっては清浄光寺などどうでもよいもので、彼らは引き続き自分たちのやり方で、念仏勧進の行を続けていきました。この結果、『時宗一二派』という分類がなされました。これらは他の宗派の派の関係よりも浅い関係でしたが、一応彼らは各派を名乗っていました。現在ではその派を名乗ることなくどの派も単なる時宗と名乗っています。
従って時宗○○派という分類がなされるのは江戸期からですが、ここでは便宜上、時宗六条派としてご説明します。これは一編の異母弟聖戒が始め、この歓喜光寺を本山とする派で、遊行を中心としています。
応仁の乱の後、歓喜光寺は境内社天満宮とともに烏丸高辻へ、さらに天正一五(1587)年、現在地に移転しました。続いて明治に入り、神仏分離令により、既に錦天満宮の名称で定着していたこの神社は歓喜光寺から分離します。また歓喜光寺は1907(明治四〇)年に東山に、戦後1975(昭和五〇)年には山科区大宅に移転したため、錦天満宮だけがここに残り続け、前述の通り錦市場の鎮守となっています。
七九 西本願寺
【浄土真宗本願寺派本山】【国宝建造物】
西本願寺停
広く知られるように、『西本願寺/お西』は江戸期以降に分離した東本願寺との区別のための通称です。正式名称は本願寺、山号は龍谷山です。
江戸幕府による本願寺の分割は、勢力の弱体化のためとしばしば説明されますが、信長との石山戦争の和睦以降、本願寺内部では既にその処理を巡っての対立があり、弱体化はメインの目的ではなくオマケで、また分割により、かえって真宗全派は、日本最大の仏教勢力として安定した存在になったとの指摘もできるでしょう。
東西本願寺は基本対等ですが、東本願寺は正式名称は『真宗本廟』であり、また宗派は『真宗大谷派』と、名称の誇大さからかえってやや分派的な印象を受けます。しかしながらこちらも御影堂が世界最大の木造建築(拝観無料)で、またそれが京都駅から徒歩で行ける箇所にあり、京都、ひいては日本の象徴的な存在となっているとも言えます。
もちろんお東以外にも、内裏をはじめ、京都を象徴する箇所は数多くあります。このため民族宗教などにおいても京都は日本の中では別枠として論じさせられる機会の多い場所、即ちイレギュラーな場所です。
ですがそれは京都が観光都市だからではありません。数多ある社寺の中から五ケ所くらいを周ればそれで十分というわけでもありません。
例えば、創作文化において東京での日常描写は、他の地方のそれと大して変わりありません。ですが、京都を舞台にしてしまうと、確かに日常生活では歳時記の影響はさほど変わりありませんが、通りを一つ取って一キロほど歩いただけでも、他の地域であれば記念館などが建てられていてもおかしくないはずの、何らかの歴史上の重要な舞台となった場所などがあり、否応なしに、その都市の特別さを感じさせられます。
例えば親鸞入滅の地は諸説ありますが、松原西洞院もその一つです。ところがそこからひとつ上の高辻西洞院には道元の入滅の地があります。その周辺の仏光寺新町にも菅原道真生誕の地の候補のひとつである菅大臣神社があり、これらは例示でしかありません。ですがこれらを『観光名所』と呼ぶだけでは違和感があります。
また、世界遺産となった社寺のうちの五、六ヶ所を周っただけで、単なる観光地として扱うことにも違和感を覚えます。
創作において東京で描かれる、ビルもあれば、数十分ほど電車に乗れば住宅街や田畑もある光景というのは、別に東京でなくても、沖縄と北海道以外ならどこでも同じです。
そして実は京都も、沖縄や北海道と同様のイレギュラーな地域に属するのではないかと思います。確かに、地元民も多くは地元の社寺のことについて詳しくはありませんし、年中行事も廃れています。
とはいえ日常生活に溶け込んでいる多くの記念碑的なものや、公共交通機関に占める地元民の比率など、自然とイレギュラーさを感じさせられるものが多数あります。それは、観光都市だからというわけではなく、今にも生き続ける、キャピタルとしての特徴ではないだろうかという指摘もできるはずでしょう。
さてあらためて、真宗という、日本最大規模にして、また、完全に内面だけで完結する、仏教としても、もっとも思想に近い教義を伝え続けるこの宗教団体の、もっともオーソドックスな、この寺院の沿革を見ていくことにしましょう。
親鸞当人はあくまでも法然の弟子であるとの認識を持っており、また、鴨川での風葬を望んでいました。また歎異抄の条にある通り、自身の教義は師弟の関係を築くようなものではないとも言っていました。
確かに悪人正機論は、実は真宗のオリジナルではありません。法然も論じており、その法然も、七世紀新羅の元暁の論からの引用であると言っています。
とはいえ仏教の教義の中で、悪人正機と、その間違いである自力作善や本願誇りに注目し、この箇所をとりたてて強調して説いた親鸞の教えは、やはりオリジナル度合いが強く、もちろん重要さも強くありました。
開祖には開祖の自覚がなく、またその必要もなく、『煩悩具足の凡夫』を称しながら教義を説くことができました。
しかし開祖の称号は不要と言っているのは開祖本人くらいのものでした。残された弟子たちの力では、あまりにその教えは、簡単であるにも関わらずの誤解を多発させてしまい、彼への開祖の称号と、自分たちへの独自教団としてのグループがないと、その教えを伝え続けることが難しいという認識が強まっていきました。
なお、真宗の黎明期、伝唯円著とされる歎異抄が書かれています。これはそのあまりの誤解の多さを矯正する目的でできたものでしたが、図らずも聖書並みの名著となりました。
ですがその『嘆き』の聖書が効力を発揮できるのは、『嘆き』に人の心が反応できた、中世からここまでの話です。二一世紀、東京の者は人の『嘆き』に対して自然災害のような反応しかしません。ここから先は新たな歎異抄が必要となってきていると言えるでしょう。
さて、話を本願寺に戻しましょう。開祖の墓所を重視するというのは日本ではあまりありませんが、真宗は当初教団も専用の寺院もなかったため、それがシンボル的な存在となっていきます。弘長二(1263)年、親鸞は松原西洞院にて死去し、当初は鳥辺野の北、大谷の地を墓所とします。
この大谷の地が墓所とされたのはわずか約一〇年間でした。即ち文久九(1272)年、親鸞の末娘覚信尼らにより墓所は、吉水の北の辺に改葬され、廟堂が建立されました。ですがその名称は『大谷廟堂』といい、引き続き大谷の名称が用いられることとなりました。なお吉水の辺りはそもそも法然が草庵を結び、今は知恩院となっているところです。
建治三(1277)年、大谷廟堂の維持、管理のための役職として『留守職(るすしき)』を設置、覚信尼がこれに当たります。
弘安三(1280)年、関東や陸奥などで布教を続けていた親鸞の孫如信が名目上留守職も継承します。その三年後の弘安六(1283)年に覚信尼が死去し、如信と同じく親鸞の孫であった覚恵が留守職を継承します。
覚恵のとき、永信三(1295)年、親鸞の木像が安置され、『大谷影堂』となります。
続く正安四(1302)年、覚恵とは異父弟であった唯善が留守職就任を要求しますが、七年後の延慶二(1309)年、教団ですらない親鸞の弟子たちが所属していた青蓮院により、覚恵の留守職の後継は、その子覚如とするよう裁定されます。これにより翌延慶三(1310)年に覚如が留守職に就任し、さらに翌延慶四/応長元(1311)年に、唯善によって破壊された大谷影堂を再建します。
彼らが青蓮院に所属していながらも、独自の寺院である本願寺を持ったのはこの覚如のときです。覚如はまず、大谷影堂が再建された翌応長二(1312)年、そこに専修寺の額を掲げますが、これは延暦寺の反対に遭い撤去となります。
その後、留守職は覚如の子存覚に譲られますが、この時期に覚如は大谷影堂の寺院化を再度目論見、元亨元(1321)年、本願寺と号し、青蓮院・延暦寺側も黙認、ここに同寺院の成立を見ます。このとき、留守職と、新寺院の住持を兼ねた別当は存覚でした。
とはいえ存覚は、覚如から、血脈継承(世襲)や東国の門徒らに対する意見の相違から、翌元亨二(1322)年に義絶され、覚如が別当となります。そして元弘元(1331)年、覚如は『口伝鈔』を著し、その中で、親鸞を本願寺第一世、如信を第二世、自らを第三世とします。ちなみにその後の存覚は覚如と義絶、和解を繰り返しています。
また本願寺の成立の後も、延暦寺側から、観応三(1352)年、嘉慶二(1388)年などに攻撃を受けています。
そして第八世蓮如のとき、寛正六(1465)年、寛正の法難が発生、大谷にあった初代本願寺が破却され、文明三(1471)年、蓮如は越前の吉崎に避難します。蓮如は『御文』を発行、また『講(念仏講)』を組織させるといった独自の布教活動を開始します。実はこれは共産主義者による赤旗の発行や、党委員会の組織に通じるものがあります。
蓮如による布教活動による教線の拡大により、彼は真宗中興の祖ともされています。また一般的には、それ以前の本願寺は、天台宗青蓮院の末寺であり、しばしば弾圧に遭い荒廃し、他の、真仏・顕智の高田専修寺や、了源の仏光寺などの分流の方が発展していたと言われます。
しかし個人的には、この説に違和感を覚えます。確かに蓮如による布教のおかげで、本願寺が再興されるどころか、真宗が日本最大の宗教団体と化しました。しかし専修寺や仏光寺が発展している以上、本山の危機に際し何もしようとしなかったとも思えません。
潜在的には、本願寺はいつでも天台宗から離れることもできたのではと推測します。初期の本願寺の発展は概ね常に受身的です。
親鸞の教えの伝達さえできれば、もとは開祖も教団も不要と言っていた集まりです。弟子たちでは抑えきれないほどの誤解の発生や、天台宗側からの弾圧などにより、初めて本願寺の建立となり、また、本願寺の破却により、初めて天台宗青蓮院から離れ、吉崎に赴きます。
つまり本願寺教団は、あくまで天台宗との和解を常に意識しており、親鸞の教えは天台宗にも通じるとの見解を持っており、彼らの最大使命である、親鸞の教えの伝達が困難になったときに限り、いわば正当防衛として、独自に寺院を建立したり、天台宗から離れたりし、その過程で、その本来の姿である、日本最大の宗教団体との姿を顕していったのではないかと指摘します。
新時代の教えたる御文の発行される拠点となった吉崎では、次第に民衆らが集まっていきました。この動きに対し、加賀守護職の富樫利親が注目、自家の内紛を依頼します。蓮如は当初、政治介入に積極的で、これに協力し、富樫幸千代らを攻撃します。
とはいえ次第に政親は真宗を警戒、また門徒の一部が一揆を煽動したりしたため、文明七(1475)年、蓮如は吉崎を退去します。
これに懲りたのか、御文では、比較的現実的、穏健な内容のものもあります。即ち、真宗の教義は言うまでもなく、身分などに関わらず人は仏の前では対等ですが、だからといって、当時存在する身分や朝廷・幕府などについて、殊更に争いごとを招くようなことは慎むべきであるとの趣旨のものです。
御文は後に編纂が進み、『五帖御文』としてまとめられたものが有名となりますが、その大半が吉崎期のものです。このため吉崎は、親鸞が教行信証を執筆した茨城の笠間同様、真宗の重要な地とされています。
但し、笠間の西念寺が殆ど知られていないことよりはマシで、記念館などがあるものの、タクシーを利用するしかなく、また吉崎に伝わる伝説として、蓮如の念仏によりカニ等の妖怪が退治された等、蓮如本人が嘆きかねない民間信仰の類が、関東甲信越各地に残る親鸞伝承同様に残る事態になっています。
吉崎退去の後、蓮如は帰洛を企図するかのように畿内に戻り、河内の出口、今の枚方市光善寺に三年程留まり、文明一〇(1478)年ようやく山科に着き、山科本願寺の着工となります。
同寺建設中、文明一三(1481)年には、分派となって一定の勢力を持っていた、仏光寺派の経豪が仏光寺派を存続させながらも合流し、興正寺を建立します。また翌文明一四(1482)年、出雲路派の善鎮も本願寺派に合流します。
文明一五(1483)年、山科本願寺が落慶し、寺内町が形成されるようになります。
さてその後、明応六(1497)年蓮如は隠居の地として閑居な大坂石山を選び、ミニマムな一宇、大坂御坊を建立します。但し蓮如がそこに住んだのはわずか二年で、明応八(1499)年死去に際しては山科に戻っています。
この大坂御坊が後に山科本願寺の避難先となり、そこでも巨大な寺内町を形成したことが、後の大坂の基盤となっていきます。
蓮如の時期、政治介入をしたことで教団が混乱したことから、それを慎む方針が示されましたが、教団は再び同じ轍を踏むこととなります。即ち享禄五(1532)年六月、細川晴元の要請を受け、本願寺一〇世の証如は畠山氏・三好氏らと交戦(飯盛山の戦い)します。
ところが、前回同様、教団の力を借りた依頼者細川氏がその潜在能力を危険視し、近江の六角氏や法華宗門徒らを動員し、山科本願寺を焼亡させます(山科本願寺の戦い)。このため本山は、かつて蓮如が隠居のために一宇を結んだ閑静な土地、大坂に避難、大阪(石山)本願寺が建立され、ここでも巨大な寺内町が形成されることとなります。
直接的にはこれが今の大阪の走りですし、南北の御堂を結ぶ通り、即ち御堂筋は大阪のメインの通りとなっています。ですが、直接これをもって大阪の走りとするには、あまりに大阪は寺内町、宗教都市とは言えない、むしろそれへの反動、反抗をその精神とした都市となっています。
ちなみにこれは江戸魂などの言葉のある東京も同様で、○○地方魂というものはおおよそ首都への反動・反抗を正当化する言葉であることは注目されます。
永禄二(1559)年、正親町天皇により、門跡に列せられます。真宗勢力の格付けによるものです。但し、そもそも本願寺は門跡の要件を満たしておらず、後年にはこの宣下は疑問視されます。
永禄九(1568)年、織田信長が入洛、二年後の元亀元(1570)年、真宗への統制を目論み、本願寺一一世顕如の石山本願寺からの退去を命じたことに端を発し、石山合戦が勃発します。合戦があまりに長期化したため、信長は正親町天皇に仲裁を依頼し、天正八(1580)年、顕如は紀伊に退去します。
ところが長期に及ぶ合戦の最中から、教団は和睦派と、顕如の子教如を中心とした強硬派とに内部分裂の兆しを見せるようになり、これが後の東西分裂のきっかけとなります。
教如も渋々和睦に応じ、顕如に五ケ月ほど遅れて石山本願寺から退去、同寺院は焼亡します。この地に豊臣秀吉が目を付け、天正一一(1583)年、大阪城が築城されます。なお、秀吉は天正一三(1585)年、関白に任じられ、翌天正一四(1586)年からは京都の聚楽第を関白の政庁として設置、また、天正一九(1591)年、関白職を英次に譲り太閤となってからは、伏見桃山城をその政庁としていますので、大阪城はあくまでリリーフであることに注意が必要です。
この秀吉による大阪、京都(関白)、伏見桃山(太閤)の移動と時期を合わせる格好で、貝塚などに避難していた本山は、天正一三(1585)年、秀吉による寄進により大阪の天満に、天正一九(1591)年には、七条堀川への帰洛を果たします、
翌天正二〇(1592)年、今の西本願寺は竣工、程なくして顕如が死去し、教如が跡を継ぎます。ところが石山合戦による内紛はまだ続いており、教如による人事も露骨な論功行賞でした。
また、顕如の三男准如が、顕如の遺言である『留守職譲状』を示し、次期宗主は自分であると秀吉に訴えます。これを受け秀吉はまず、文禄二(1593)年、一〇年後に准如に譲位するよう命じます。
教如自身はこれに従おうとしたものの、教如周囲の者が秀吉に譲り状の真贋を問うなどし反発したため、秀吉の怒りを買い、教如は即座に准如に譲位することとなりました。
教如は本願寺境内に隠居の形を取っていたものの、あろうことか引き続き『本願寺宗主』を名乗っての布教活動を続け、『裏方』と称せられることとなります。そして、関ケ原以後の慶長七(1602)年、後陽成天皇の勅許を取り、家康により、七条烏丸に東本願寺の寺地が寄進されることとなります。
教如による、宗主職を退職してからも、引き続きその職名を名乗るという行為の時点で、事実上本願寺の分裂はなされていました。しかし教如の立場は分裂ではなく、あくまで自身が正当な宗主であるとのものでした。これが分裂として東西ともに公認となるのは、教如の次世、宣如のときからです。
この流れを見る限り、通説である、本願寺勢力の力を削ぐために幕府が二分した、というのは後付けです。いわば放っておいても分かれていたでしょう。
ですが、『単なる本山の分裂』では後味も悪いでしょう。そこで幕府があえて『泥を被り』、幕府の支配の安定化のために、強制性をもって分裂させたとの通説を流したことで、かえって東西本願寺は、内部では大きな論争などもありましたが、双方は比較的安定した二山としてその後の時代を進むこととなったと言えるでしょう。
戦国期、他宗や権力者の弾圧から逃れるため、真宗は本来の武力量を発揮し、要塞と化した寺内町を形成し内部自治を敷きました。もちろん、朝廷や幕府が戦国期を招いていなければそのようなことにはならなかったわけで、これはやむを得ない措置でありました。
このため、幕府の裁定によって一定の安定が築かれるようになった江戸期に入っても、京都にある東西の本願寺は引き続き寺内町を有し、また一定の自治権を持っていました。
即ち、京都において司法は京都町奉行の担当ですが、これとは別に本願寺寺内町区域では、門主の任命による町奉行が設置され、行政や民訴などを担当していました。但し、寺内町のが本山に任命されたときの誓詞に『刑罰ハ公儀ヘ差出シ候事』とあるように、刑訴に相当するような犯罪については京都町奉行に引き出すこととされていました。
寺内町が、その周囲に何もなかった山科や大坂、また戦国期などであれば、その自治の方が安定していたと言えるでしょう。ですが洛中に寺域を構え、平和な時代を迎えてからは、ちょうど二重行政のようなものとなってしまい、還って煩雑さを招いたとも言えそうです。
また、本朝においても自治組織を有する勢力の存在というのは稀なものです。中古以降に一般的となった荘園は、朝廷や幕府の支配を逃れた完全な私有地ではなく、あくまでそれらの認定した私有地です。
そして、私有地を認めたことにより、訴訟案件が増大したため、行政から司法警察機構が分離し、武士階級ができました。
ちなみに行政から立法が分離するのは、さらに行政業務が煩雑となる産業革命以降の話で、立法組織の選出する執行部門が、行政の執行部門でもある『内閣』となりました。同時に内閣・朝議だけではなく、立法を担う国会までもの代表を務めないといけなくなったことから、王権等は権能が大幅に縮小されることとなりました。
いずれにしても、行政と司法の分離されている社会は、それ以前の社会、たとえばアニメ映画もののけ姫のたたら場のように、組織運営から司法までもを統合している社会よりも、安定した裁判、裁定が受けられるという点で優れていると言えます。
例えば日本統治下における朝鮮、台湾などは、住民をいわば全員二〇歳未満とみなし、参政権は付与されませんでしたが、司法権は保障されていました。このため治安が維持され、そしてその結果、たとえ参政権がなくとも、植民地でありながら、高度な経済成長を遂げていたと言えるでしょう。
逆に言うと、行政と司法とが分離されていないのは、私有地が殆どない奈良時代のようなものです。しばしば共産主義者などが、奈良時代も戦前も天皇による独裁であったと同一視しますが、これはかなり強引な理論です。王や天皇がいるか否かとは別に、司法権が分離しているか否かは社会にとって大きな違いです。逆に言えば、そのような違いを理解できない、奈良時代レベルの地域だからこそ、共産主義の統治を受け入れ、また、全てを公有化するという理論も受け入れられたのではと指摘できるでしょう。
さて、話が逸れましたが、ここからは西本願寺の国宝建造物について述べましょう。それには、御影堂、阿弥陀堂、書院(対面所、白書院)、北能舞台、黒書院(及び伝廊)、飛雲閣、唐門があります。
このうち唐門、御影堂、阿弥陀堂は無料自由拝観、その他は予約制となっています。また、国宝指定を受けていながら、黒書院は現在も門主のプライベート空間とされています。これらの多くは、文献には伏見桃山城や聚楽第からの移築とあるものも多いですが、実際には江戸初期に西本願寺自身が建立したものです。
開祖像を安置する御影堂が阿弥陀堂よりも大きくなっていることは東本願寺や知恩院と同じ、また、本堂に相当する建物へは無料自由拝観となっていることは、京都の浄土系の他禅宗の本山と同じです。御苑同様これらは市民の憩いの場ともなっています。
対面所、白書院、黒書院の順にオフィシャルからプライベートへと変化していくことは、首相官邸と公邸のようなもの、また、内裏で言えば、紫宸殿、清涼殿、御常御殿の順の類に相当します。
白書院は一の間から三の間までが並んでいますが、対面所も合わせ、その障壁画は、対面所、一、二、三の間と続くにつれて、中国の皇帝の事蹟を参考にしたものから、次第に動植物の踊るアットホームな雰囲気となるように描かれているように窺えます。
八〇 二尊院
嵯峨嵐山駅
山号は小倉山、正式名称は二尊教院華台寺といいます。承和年間(834-847)、嵯峨天皇の勅命により、円仁が建立した後建立します。本尊はその名称の通り、釈迦と阿弥陀の二体ですが、以後荒廃します。
鎌倉初期に法然が譲り受け、彼とその弟子の湛空により再興されますが、阿弥陀だけではなく釈迦も並立して本尊であることから、浄土の他、天台、真言、律の四宗兼学の寺院となります。
法然の死後、嘉禄三(1227)年、天台宗門徒らが法然の廟所を攻撃し、浄土宗門徒が法然の遺骸を長岡京、粟生の光明寺に移設するという、嘉禄の法難が発生しましたが、その際、浄土宗が主流となっているものの、天台宗も入って四宗兼学、また、土御門天皇や後嵯峨天皇の戒師を務めた湛空が住持であったここ二尊院が一時避難所となりました。
『法然上人絵伝』ができる以前、湛空は『本朝祖師伝記絵詞(ほんちょうそしでんきえことば)』、通称『四巻伝』を著し、そこにこの嘉禄の法難と、そのときの二尊院の活躍も詳しく述べています。
さて、御所清涼殿の北側に細長い部屋がありました。そこの襖が黒色であったことからこの部屋は黒戸と呼ばれましたが、そこは仏間となり、歴代天皇の念持仏が安置されていました。
南北朝期以降明治維新までの間、この黒戸は京都の四か所の寺院が管理することになりました。それが蘆山寺、般舟三昧院(廃絶)、遣迎院、そしてここ二尊院で、この四つは御黒戸四箇院と呼ばれました。
中でも二尊院は小倉山の中腹に位置していることから境内の拡張が容易だったためか、多くの公家らが菩提寺として選び、江戸期の四摂家のうち近衛家を除く鷹司家、九条家、二条家がここを菩提寺としています。宮門跡ではないため宸殿はありませんが、本堂の造りは宸殿同様、本朝のシンボルでもある御所の正殿、紫宸殿を模して造られています。
この他境内には、藤原定家が百人一首を撰じたと言われる時雨亭跡があります。但し近接する常寂光寺にもこれはあります。
また公家のみならず、江戸期の京都の思想家伊藤仁斎の墓所もここにあります。
なお江戸後期以降、当寺は天台宗になっています。
八一 蛸薬師
京都河原町駅
山号を浄瑠璃山、正式名称を永福寺と言います。
創建から名称の由来の縁起まで、ミラクルな話が多く見られます。平安末期の養和元(1181)年、比叡山延暦寺の僧侶林秀の夢枕に、当時同根本中堂の本尊であった薬師が現れ、「最澄が彫った石仏が付近に埋められているので掘り出すように」と告げられます。林秀はそれを掘り当て、二条室町に永福寺という小堂を建立しこれを祀ります。
さて、中世頃よりこの小堂には蛸薬師堂との通称が定着します。これには二つの由来があり、片方はありがちですが、もう片方はミラクルです。
先に述べる方は、二条室町付近に当時池があった、または神泉苑があったため、『沢薬師(たくやくし)』との名称が次第に変化し『たこやくし』となったというものです。
もう一つは、当寺のとある僧侶の母が病気に罹り、その母が蛸が食べたいと言ったため、僧侶は蛸を買い求めますが、僧侶が魚介を食べようとしているのではと怪しがった周囲の人々が僧侶を咎めます。そのときこの蛸は光を放つ経典となり、またその光によって彼の母の病気も回復したというものです。
天正一八(1590)年、現在地に移転します。この時から蛸薬師通ができます。その後明治の新京極通の新設に伴い、本堂は同通に面することとなり今に至っています。
八二 智積院
【真言宗智山派総本山】【国指定名勝】
東山七条停
真言宗智山派総本山です。東大路通は、四条通とはT字路になっており、四条通の東側は祇園感神こと八坂神社の楼門ですが、七条通も同通とはT字路になっています。そこに、普段は閉鎖されている智積院の正門があります。
京都ではしばしば見かける仏教宗派の本山等で、国指定名勝の庭園があることも含め、さほど珍しいというわけではありません。
しかしこの寺院は殊更東京人にとっては重要な寺院です。というのは、関東の著名寺院である川崎大師、成田不動、高尾薬師の三山は全てこの智山派に属するからです。
これについては後述するとして、まずは沿革を見ていきましょう。
平安時代後期、高野山真言宗の座主覚鑁(かくばん)が現れ、宗派の改革に着手、大伝法院などを建立しますが、守旧派との対立に敗れ、根来山に今の根来寺、新義真言宗となる大伝法院を再建します。その塔頭であるとともに教育機関でもあったのが智積院です。
根来寺は秀吉と対立し一時焼亡します。教育機関であった智積院は後に長谷寺を賜り、真言宗豊山派として新たに出発します。
ところが、秀吉と対立する以前から根来寺内部でも対立がありました。その対立は教育機関であった智積院においてもありました。それは主に学侶らの出身地によるもので、豊山派となった、専誉ら、主に関西出身の学侶から成る常住方(本来は、元から根来寺で修業をしていた学侶の意)と、玄宥ら、主に関東出身の学侶らから成る客方(本来は、他の寺院で修業をしてから根来寺に来た学侶の意)との対立で、専誉、玄宥の双方がともに教育機関の長である能化を名乗っていました。
秀吉は能化が二人いるという事態を認めず、専誉を能化とみなしましたが、玄宥らはそれにつくことを拒み、ひとまず神護寺に移り、家康に接触、慶長三(1598)年、京都の北野に智積院として再興されます。
すると全国各地に散らばっていた客方が再度集い、その地が手狭となったため、関ケ原直後の慶長六(1601)年、豊国神社の神宮寺を割譲し、そこに移築となりました。
続く慶長二〇(1615)年、豊臣氏滅亡に伴い、隣接して在った、秀頼より先に生まれながらも三歳にして夭折した秀吉の子鶴松の菩提寺であった祥雲寺を併合し、今に通じる、『五百佛山 根来寺 智積院』の名称となりました。本来は当時衰微していた根来寺が智積院の寺号ですが、根来寺も再興しているため、こちらは智積院の名称の方が一般的となります。
続く天和二(1682)年、旧祥雲寺エリアが焼失したため、幕府は、秀忠の娘であり、後水尾天皇の女御であった東福門院の御殿が移築されました。なお、旧祥雲寺にあった長谷川等伯らによる障壁画は焼失を逃れ、現在国宝となっています。
名称からもわかる通り、本来は根来寺の教育施設の塔頭であったため、智積院は学問を重視しており、宝永五(1708)年には敷地を拡大し、現大阪市茶臼山にあった陣所を移し、智山勧学院を設置、最盛期には七〇もの学寮が置かれました。
現在の金堂は比較的新しく、昭和五〇(1975)年再建のもので、こちらなどのエリアへは無料、障壁画収蔵庫や、国指定名勝庭園とその脇に建つ宸殿などは有料となっています。
またこの東山七条周辺地域は、あらためて書きますが、平家の栄華を今に伝える三十三間堂、豊臣氏を祀る豊国神社、江戸幕府肝いりの智積院、明治政府の威光を示す京都国立博物館、同平成知新館と、抗争をしながら栄華や衰退をみた各時代の象徴的な建築物が穏やかに立ち並んでいます。
さて冒頭に書きましたが、根来寺に在った頃には思いもよらなかった、智積院のもう一つの顔として、関東の著名寺院の元締め的存在というものがあります。即ち初詣の混雑で有名な川崎大師、成田不動、高尾薬師の三山は、全て真言宗智山派に属するものなのです。このため真言宗全体でも智山派はその傘下寺院などは自然と多くなります。
根来寺教育機関の時期の内部対立から、家康に近づいたところ、豊国神社の境内を賜るなど、確かに智積院は、政治的な抗争に巻き込まれる格好での発展となりましたが、一方、関東の三山を傘下を置くこととなったのは、天台宗寛永寺の創建と同様、江戸幕府による純粋な、江戸での仏教興隆の意図もあったと指摘できるでしょう。
ではその純粋な願いは果たして叶えられたのでしょうか。
ある年の元旦、私が訪れた智積院は、名勝庭園を含め、普段と変わらない落ち着いた佇まいを見せ、東山七条の洛中にある総本山は確かに新年を迎えるに相応しい場所でありました。
ですが、かの三山はというと、さほどのものもないにもかかわらず、初詣の混雑の話ばかりが聞こえています。その場所は新年を迎えるにあたって、むしろ殺伐としてはいないでしょうか。
真言宗は、確かに豊山派と智山派は過去には対立を元にできたものでしたが、かつては内裏の真言院で、今は洛域南部の東寺にて、その小子房に毎年、天皇の私的使用人として宮中祭祀を担当する掌典ではなく、宮内庁京都事務所所長が務める勅使を招き、天皇の御衣を依代に新年の祈りを捧げる御修法を全派合同で実施するなど、派間の関係はさほど悪くもありません。
しかし智山派には烏合巣、いわば中国人のようなイメージがあるとの噂もあります。それは仏教の宗派の問題に限定されない、日本社会全体に対して私が危惧しているものとも似ていると言えるでしょう。
個人の研究よりも、多数の会議などの方が、かえっておかしな判断を招く現象として、集団浅慮というものがあります。別にそれが合理的であればいいのでしょうが、『理の無き力』が発生し、それを阻止するすべもないというのであれば、それは本朝にとってはマイナスになると言えるでしょう。
八三 等持院
等持院道駅
足利尊氏が苦悶の最中、夢窓疎石の勧言により天龍寺を建立したことは有名です。彼は征夷大将軍となった歴応元(1338)年の翌歴応二(1339)年から天龍寺建立に着手しますが、それと同時に、自身の邸宅のある高倉御池付近に、一族の氏寺として等持寺という寺も建立しました。これが等持院の端緒です。
加えて、観応の擾乱など、その後の戦乱に巻き込まれた人々をも弔うために、歴応四(1342)年、今の等持院の地にも等持寺を建てました。この二つの寺院はそれぞれ、南唐う寺寺、北等持寺と区別されました。
鎌倉時代や江戸時代に比べて、室町時代の将軍各々のインパクトが薄いとはよく言われることです。実際室町期は、太政大臣と征夷大将軍を初めて兼ねた足利義満のような栄華を極めたものも多かった反面、各将軍の優柔不断な印象も強く、初期は観応の擾乱、最後には応仁の乱を迎えています。
これについてはいろいろな説があり、幕府を朝廷と同じ京都に置き、時代にそぐわない権力一極集中を作ってしまったこと、足利尊氏の、外見とはそぐわぬ温和仁徳の性格が影響したことなどがあげられています。但し前者はともかく後者については、それで周囲が勝手にバサラになったり戦を始めたとして、それはその連中の教養の低さこそが問題なのであって、仁愛の性格を持った者を悪評だてて言うなど、昨今の奠都東京を中心とした、誤った風潮がなす悪しき行為とみなすのが自然でしょう。
延文三(1358)年、尊氏の死去に伴う葬儀は北等持寺で、それを機に等持院に改称されました。その後等持院が足利幕府の菩提寺として定着し、歴代将軍の像も安置されていきました。一方の南等持寺も存続しますが、応仁の乱に伴い等持院に合併となります。その後は豊臣秀頼により安堵となります。
現在の日本の皇統は、南北朝期について南朝を正統としています。厳密に言うとこれだと首都が吉野山中にあったことになってしまうという深刻な問題があります。大日本史は朱子学に基づいて南朝正統を説きましたが、朱子学は江戸期はともかくその後はさほど興隆していません。個人的には、南朝正統は、足利尊氏の、観応の擾乱の規模をしばらく放置してすらの天龍寺建立の懺悔の日々から続く、レクイエムの側面が強く、ひとたび何らかの危機が我が国に訪れた場合、これは北朝にすぐに変えられやすいものととらえています。
さて幕末、尊王攘夷思想が興隆します。例によって江戸は何もできず、本朝の混乱期は結局京都が舞台にされ、禁門にすら銃弾を諸藩の田舎武士たちが撃ちこみます。そこに集うのは足利尊氏のような京都、そしてそこを基盤に全国支配をする足利尊氏のような仁愛の人物ではありません。ただの急進派たちばかりです。
文久三(1863)年二月、北朝を奸臣の朝とみた地方志士たちが、ここの、尊氏、義詮、義満参内の首を切り取り、三条河原にさらす事件が発生します。
また近代に入り、作家水上勉が若き日をここで過ごしていますが、彼は後にここをテーマとした作品を発しています。
それによると、端的に言えば、「かつては風格もあった寺院だったのに、今は寂れてしまった」ということです。
ですが私はそんな、著名作家が寂れたと言っている寺院にすら趣きや心の鎮まる感覚を覚えます。寺院にしては珍しく、立命館大学の校舎が庭園から見えてしまっており、足利義政が矯正させたという庭園も、確かに余計なものが入っていますが、それを差し引いてもここの庭園は、東京奠都期の一時の今にあって、優れたものを有していると思えます。
ここの庭園は市指定文化財で、重文ではありません。ですが私が同じように優れていて、不相応と感じた仁和寺庭園は今年国指定重文となりました。ここもそれに劣るものではないと考えます。
我が国の歴史分類は、江戸、明治、大正、昭和、奠都でいいでしょう。最後は本来明治から続いていますが、その悪質さが発揮されているのは現代のみと言えます。この一時的で、それでありながら過去千年の本朝の歴史思想を無視し悪と善とをすりかえる奠都時代というおぞましいまがいものがいつまで続くのか、その断末魔はいかに見苦しいものなのか、それは次第に人々の目に鮮明に映るものとなってあらわれているようです。
八四 東本願寺
【真宗大谷派本山】【国指定名勝】
京都駅
正式名称は真宗本廟、愛称はお東、山号はありません。ご承知の通り、信長との戦いを巡る路線の対立や、江戸幕府の意向もあり、江戸期に西本願寺から分裂した、『もう一つの巨大真宗宗派』です。
また、親鸞を祀るその御影堂は阿弥陀堂よりも大きく、世界最大の目族建築である他、国指定名勝庭園渉成園と合わせて、京都駅から徒歩一〇分程度で赴くことができ、乗り換え客らにとっても、数多ある京都の象徴的存在の一つともなっています。
実は東西宗派自身でも、この時の分裂は、通説である幕府の介入がメインだったのではなく、幕府が介入してくる以前から、もはや分裂状態にあったと認めています。
信長との戦争を指揮した一一世顕如は信長と和睦、紀州や大坂天満を経て、天正一九(1591)年、今の西本願寺の地に辿り着きます。
このとき後継で、顕如の三男であった准如と対立、また、信長とも徹底抗戦派であった、顕如の長男、教如はその敷地内北側にあった隠居所にいました。
顕如は秀吉に、「一〇年後に法主の座を准如に譲る」と署名しますが、弟子たちの反発を受けます。それを見た秀吉は、一〇年後ではなく直ちに譲るよう命じたのです。
ところが、北側の部屋に隠居しているはずの教如も、准如同様、本願寺法主名義で書状を送るなどし布教活動を続けます。同一の建物内でありながら法主が二名おり、本願寺は既に分裂状態にありました。
これを見かねた江戸幕府から、慶長七(1602)年、教如の派に今の東本願寺の地が認められます。但し初期の東本願寺はあくまで教如の隠居を目的とした、比較的小規模なものでした。
とはいえこのときから本願寺は東西に分離されます。これはあくまで東西本願寺の調停措置でしたが、『真宗の力を削ぐために幕府が強制的に分離させた』との通説の方が広まりました。
しかし東西本願寺とも、結果的にそれでよかったのではとも言えます。『寺院内部の対立により分離した』というより、『時の権力者によって分けられた』と喧伝することで、真宗全体の対立は少なかったように見せらせるためです。いわば幕府はその泥を被る形で両者を分裂させ、その争いを軽減させたとみることもできるのではないでしょうか。
さて東本願寺は教如の隠居のみならず、西本願寺に並ぶ巨大寺院となっていき、結果的に分裂した結果東西全体としての規模は拡大されていきます。
特に寛永一八(1641)年、家光からの寄進が大きく、ここは現在飛び地境内として、承応二(1653)年、詩仙堂にいた石川丈山によって渉成園が造られます。庭園各地の建物や池、橋などは丈山が命名したもので、日本庭園に多い、日本庭園でありながら、各名称はそのままでは意味が分からない中国風となっています。
その後江戸期に四度も火災に遭いましたがそのたびに再建され、近代には清沢満之などの近代真宗学派が生まれ歎異抄の喧伝がなされるなどし今に至っています。
八五 日向大神宮
蹴上駅
社殿によると、顕宗天皇の時代にまで創建年代が遡ってしまいます。
近代に入り明治政府によって各府県に神宮が創建されました。中には県神社庁付近の小さな祠のようなものもありますが、京都大神宮はその中にあっては比較的規模の大きい稀代創建社です。ですがこの京都大神宮が出来る以前から『京伊勢』として知られ続けてきました。境内は、伊勢同様に外宮、そして石段の上に内宮を配しています。また、付近の山中をくりぬいて作った天岩戸や、伊勢の方に鳥居を向けた伊勢遙拝所があります。
延喜式には宇治郡に日向神社という小社を記していますが、これは別の社と言われています。また室町期、宝徳三(1451)年、湯立起請がなされた記録があります。
もともと東海道の三条大橋の東にあり、近代に入ってからは、琵琶湖疏水のインクラインの発車地が参道への入り口になりました。
とはいえこの神社最大の特徴は伊勢遙拝所からの京都市街の眺望で、鳥居の正反対に、一直線に平安神宮の大鳥居、そして御所の紫宸殿付近とが並んでいることです。
時代の変遷を見れば、日向大神宮創建、現御所(東洞院土御門御所、1331年建設)、平安神宮の順なので、史実通りに行けばこの並びは偶然となります。
と はいえ室町時代の記録が一番信憑性が高いことから、御所と日向とはなんらかの調整があったと考えられます。
さらに、その間に平安神宮の大鳥居がすっぽりはまっていることも、資料では確認できませんが、これも偶然にしては出来過ぎており、何らかの調整があったと考えてもおかしくはないでしょう。
八六 百万遍
百万遍停
知恩院を総本山とするノーマルの浄土宗は鎮西派と呼ばれますが、いくつかの大本山をその傘下に置いています。京都にはそれはくろ谷、清浄華院、百万遍の三箇所があります。
浄土真宗の方が東西本願寺を単に『本山』としか呼んでおらず、その傘下の主要寺院を『別院』と呼んでいる一方、浄土宗鎮西派は『総本山』の下に、他宗ではトップに当たる呼称である『大本山』を置いている辺りは、宗派の分類の際に要注意事項となります。
その浄土宗鎮西派大本山百万遍こと百万遍知恩寺(総本山の知恩『院』の傘下です)は、元は天台宗の比叡山功徳院の里坊で、円仁が創建したものと言われています。鴨川に近く『賀茂の河原屋/賀茂の釈迦堂』などと呼ばれ、また、後に禅寺である相国寺を義満が建てる際に移転したと言われていますので、今の出町柳駅・下鴨神社の対岸、河原町今出川周辺にあったと推定していいでしょう。
法然は下鴨神社に招かれる際などにこの賀茂の河原屋に滞在していました。法然の死後、彼の代表的な弟子であった源智がここを引き継ぎ、名称を功徳院神宮堂と改称し、法然を勧請開山としたうえで正式な寺院としました。ここでの神宮とは下鴨神社を指しています。続く源智の弟子如空のとき、さらに、功徳院知恩寺に改称されました。
続く第三世住持信慧のときに、鎮西義の良忠が入洛しました。もともと、法然の弟子に勉強という者がおり、彼は九州善導寺を中心に活動していたので、彼の派を鎮西義と呼んでいましたが、その弟子良忠は九州に留まらず、全国で布教を展開していました。
信慧と良忠とは東山の赤築地(あかつじ)の地で会合し、互いの教義に全くの差異が見られなかったため、知恩寺、さらにはノーマルの浄土宗である知恩院も、今日まで鎮西派の名称を用いています。
建武の新政期に当たる元弘元(1331)年、第八世住持空円のときに、京都で疫病が流行したため、後醍醐天皇の勅命により空円は念仏百万遍を敢行し、疫病を退散させたため、このときに百万遍の号が下賜され、現在に続く著名な寺号となっています。なお、正式名は知恩寺で、百万遍とは長らく通称でしたが、二〇一九年からは『百万遍知恩寺』を正式名称としています。
その後、義満による相国寺建立に際し、一条小川へ移転します。応仁元(1467)年による焼亡の後、文明一一(1479)年に再建されます。
ところが応仁の乱の後も知恩寺は他の社寺と比べ罹災が多いようです。永正元(1508)年に、大内義興と三好之長との戦いに巻き込まれて焼亡し、永正一六(1519)年に再建されます。また天文五(1536)年の天文法華の乱は、日蓮宗系の寺院の罹災として応仁の乱と共に知られますが、浄土宗であった当寺院も焼亡しています。再建後も永禄九(1566)年にも焼亡、再建されています。
その後文禄元(1592)年、寺町荒神口にて再建されるも、江戸期の寛文元(1661)年にも焼亡、翌寛文二(1662)年、現在の東山今出川に移転してきました。
なお戦国期の大永三(1523)年に知恩院と本末の係争が発生していますがこれには敗れ、鎮西派総本山は知恩院で確定しています。
八七 平野神社
【明神上七社第五位】【名神大社】【官幣大社】
衣笠校前停
『日本紀略』天徳四(960)年に始まり、永保元(1081)年に指定された明神二二社は、早くもその後は衰退を始めたと言われています。しかし、明神二二社のうち、その頂点に立つ上七社、即ち、伊勢、石清水、賀茂、松尾、平野、稲荷、春日の特別視は、その後も、若干の形を変えながら脈々と続いています。
中世、足利将軍家の菩提所とされた等持院の境内社としてあった六請神社は、上七社から平野を省いた形で創建されました。また、近代明治四年の近代社格制度制定に当たり、伊勢を別格、寺院との影響の大きかった石清水と賀茂との順序を入れ替え、それは終戦まで続きました。
名目上近代社格における官幣大社同士は同等となっています。しかしノミネートの順番が与える影響は大きく、勅祭社と同様、明治四年の初回制定時の順序は各社の公式の宣伝にも使われています。
さて現代では伏見稲荷大社が連続五年で外国人に人気の観光地第一位に選ばれており、それはもはや不動の地位となっており、この社はこれまでとは違った姿、即ちそこに参集する人々からは国際空港のような雰囲気が感じられ、休憩に入った茶店でも日本語を話している人の方が少ない、といった光景もみられます。
そのような現場を知っている者だからこそ、近年のオーバーツーリズムによる物理的な輸送力のひっ迫、一方、外国人らのマナーは風評被害的側面が強く、境内でも駅でもどの国の人々も日本人と大差ない、もしくは地方からの大学生よりも整然とした秩序を維持しており、彼らが成す秩序の下での自由は、無政府状態などではない、理想郷のような光景を発していると言えるでしょう。
このような伏見稲荷大社をも抑え、平安初期、明神第五位となったのがこの平野神社です。原因として、祭神が桓武天皇生母高野新笠であったこと、またさらにその後も皇太子の守護神としての性格を持っていた時期が続いたことが考えられます。そしてそこからさらに、臣籍降下により現れた源氏や平氏などの平安初期の貴族らの統合的な氏神との性格をも帯びるようになります。
しかし時代が進むにつれ桓武天皇の個人的な崇拝の社としての性格が強まっていき、中世足利将軍家の六請神社の祭神からは除外、王政復古に伴う近代社格では復活したと考えられます。
高野新笠は元は和氏という渡来系の一族で、皇室に入るのは稀だったため、平城京時代からその祖先を祀る社が出来、それが京都に移ってきたと言われています。長岡京遷都二年前の延暦元(782)年、奈良の田村後宮の今木神に従四位上の神階が奉叙されたとの記録が初見です。
当今の上皇さんがこのことに注目し、皇室の祖先の中には渡来系の人もいると発言したことで、韓国が大騒ぎしたことがありましたが、時代は奈良時代末期の話で、渡来人が来てから一世紀以上は経っており、とっくに日本人としての感覚を持っていたのではと思われます。
当社境内は普通の旧県社や郷社ほどの広さで、それが明神上社であるとは言われないと気付かないほどのものです。但し京都の場合近代社格の官幣大社であっても白峯神宮程度のサイズのもの、また、山科神社など、旧名神大社であったもののその後そこにいた一族が衰退し、氏神から産土神化し、小さな祠程度の大きさになっているものも数多くあるのでそういった現象自体は珍しいことでもありません。
拝殿は一カ所ですが、その奥に本殿が四つ並んでいます。これらはそれぞれ、今木神、久度神、古開神、比売神という独特の神で、それぞれ由来については諸説があります。このうちの主神が、高野新笠の父方、母方の両方の祖霊との説が有力な今木神です。
八八 藤森神社
墨染駅
社伝では大和朝廷以前まで遡り、神功皇后摂政三(203)年、三韓征伐から無事帰国した神功皇后がこの地に轟旗を立て、兵具を治め祀ったことが創始とされています。
これが現在の本殿ですが、藤森神社は他に東殿と西殿、計三殿から成る神社です。
東殿は舎人親王を祀っています。永享一〇(1438)年、御花園天皇の勅令により、将軍足利義教が、稲荷山の山頂にあった本殿を今の麓まで降ろしました。このときにもともと麓にあった藤尾社という社が舎人親王を祀る神社で、これが藤森神社に移転となり、東殿となりました。この関係上、伏見稲荷周辺の氏子は藤森神社を氏神としています。
藤尾社は天平宝字三(759)年、舎人親王の死から二〇年後に、その第七皇子だった淳仁天皇の即位の翌年に、おそらくはこれを祝う趣旨で建立されたと言われています。また、天皇の父となったということから、祟道尽敬皇帝の追号がなされています。
舎人親王と稲荷の関係については不明な点も多いです。しかし淳仁天皇は周知の通り、天平宝字八(764)年に淡路廃帝とされ、後に著名な怨霊となっています。
一方、西殿の元は、稲荷山よりやや北の、今の東福寺の辺りにあった社を移転したもおのですが、あろうことかその社とは、延暦一九(800)年、怨霊として名高い早良親王を祀っていたものでした。
『都名所図絵』によると天応元(781)年蒙古襲来に伴い早良親王が征討将軍となり出陣し、その際に元々崇敬していた当社に参拝したとありますが、これはもちろんモンゴルではなく、また海外でもなく、陸奥ではなかったかと指摘されています。
左京区上高野に祟道神社が創建される貞観年間(859~877)よりも早く、まさに延暦一九年、祟道天皇の追号が彼になされたときから、もともと彼にゆかりの深い場所であった伏見区東部に彼を祀る神社があったということです。しかもその追号は舎人親王への追号に被る名称となっており、両者の関連性は強いと言わざるを得ません。
舎人親王が藤森神社に祀られるようになってから約三〇年後の文明二(1470)年、その早良親王の社も藤森神社に合祀、西殿となりました。
祟道神社は怨霊鎮魂の神社ですが、ここ藤森神社は神功皇后を祀るもともと武神的な側面を持っていた神社でした。このためか、早良親王が祈願に訪れた日とされている五月五日に駆馬神事が行われることで知られるようになり、京都には珍しい軍神的な側面の強い神社となりました。
さて桓武天皇は平安京造営に際し各所に様々なモノを置いたと言われています。今の将軍塚に埋めたと言われる将軍像、白川丸太町となるべきはずの交差点名に、東天王町として残る四方の四天王、西ノ京円町に近い大将軍八神社が残る、陰陽道に基づく八方面の大将軍などがそれです。
ここに仏教の六地蔵やその後の観音、薬師など様々な霊場を挙げるときりがなくなりますが、西ノ京円町にある大将軍はここ藤森神社に合祀されており、元は本殿と並んでいたと言われています。
さらに興味深いことに、初夏には紫陽花が境内に多数咲くことから、優雅な花の社としても知られています。怨霊鎮魂社、軍社、陰陽道、花の社…と、歴史的経緯から藤森神社の顔は今日も多彩なものとなっています。
八九 伏見稲荷大社
【名神大社】【明神上七社第六位】【官幣大社】
稲荷駅
神社本庁所属の神社約八万社のうち、八幡社は約四万社ありますが、稲荷社も約二万社あります。また、所属しない稲荷社も約一万ほどあります。総本社である伏見稲荷大社は単立ですが、特に神社本庁と仲が悪いというわけではありません。京都特有のもう一つの法人団体、神社本教の発生に伴い、中立の立場から単立を選択したという経緯です。約二万もの加盟社を擁していながら、総本社に対し中立せしめるという点で、京都の神社本教の勢力は侮りがたいものがあると言えそうです。
参拝者数西日本第一位、全国第四位、外国人人気観光地五年連続第一位、明神第五位……の大社で、それでありながら、由緒が伝承に依るしかなく不明というのも伏見稲荷の特徴です。
伏見稲荷に関する端緒について最も著名なものは『山城国風土記』です。
秦氏は松尾大社を氏神とし、右京区を中心にしていた渡来系一族ですが、この伏見深草の地にも秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)らがいたようです。その遠い先祖の一人に、秦伊侶具(はたのいろぐ)という者がいました。彼は裕福で、餅を的にして弓矢に興じていたところ、矢の刺さった餅が白鳥となって逃げ出し、その降りたところに「稲が成った」ため、その山をイナリと呼ぶことにしました。
後に彼の子孫はその過ちを悔い、山の杉を抜き、家に祀りました。他の者もこれを真似たところ、木を植えて根付けば豊作、根付かなければ凶作になったと言われています。
この『山城国風土記』の記述が稲荷の端緒ですが、この伝承が示唆していることについて諸論があります。まずは前半の、餅を的にして遊んでいたところ、矢が刺さった餅が山へ飛んでいったということから、狩猟から水稲への変化を示しているとしばしば言われています。
ですがそれそのものの変化だと時代が遡りすぎとなります。弥生時代に入ってからであっても、狩猟自体は続いています。従ってここでの狩猟から稲作への変化とは、もともとここに住んでいた秦氏による職種の変更、もしくは新たにここにやってきた秦氏によっての変更と考えられます。
後半部分は単なる贖罪と、祀るべき神の発生とも読み取れますが、これにも諸論があり、山の木を抜くという行為は、新田開発を指しており、この後半部分も、狩猟から稲作への変化を示しているという論者もいます。
また社伝によれば、先の餅の矢が山に降り立ち、神となり、それを受けて同時に社を設け、秦氏がその社家となったのは和銅四(712)年の二月の初午の日とされています。そのため現在でも伏見稲荷では創建祭として、二月に初午祭を催し、またその際に『験(しるし)の杉』を振舞います。伝承の通り、この杉が根付けば豊作、根付かなければ凶作と言われています。
但し社伝と『山城国風土記』とではタイムラグがあります。『風土記』編纂の詔は、『続日本紀』によると和銅六(713)年に出されており、社伝と示し合わせれば、稲荷山に神が降り立ち、同時に祀り始めたのは、つい最近、秦中家忌寸の時代になってしまいますが、さすがにそれでは秦氏の移動や稲作の開始には遅いため、奈良時代よりはるか昔(但し弥生~大和時代には既に入っている)との『山城国風土記』の記述に信憑性があるといえるでしょう。
ちなみに名称の由来として「稲が成った」と『山城国風土記』は言っていますが、漢字表記は伊奈利で、『稲荷』との文字は『類聚国史』によると天長四(827)年の淳和天皇の詔まで待つことになります。
またこの時、伏見稲荷は初めて東寺と結びつき、その鎮守社となります。具体的には、淳和天皇が病を患い、その原因として、東寺建立の際に稲荷山の木を材料として用いたことに対し、稲荷神が祟っているとされ、これを受けて従五位下の神階が下賜されます。
しかし一方で、一四世紀に入り『稲荷大明神流記』ができますが、そこでは空海と稲荷神との関わりが説かれています。
それによると平安初期の弘仁七(816)年、空海は熊野山で修業の最中、田辺の宿を利用しますが、そのときに、身長が八尺(約2.42メートル)もあり、威厳もありながらそれを表に出さない顔立ちの翁の姿をした神と出会います。実は二人は過去にも出会っており、神が自分の弟子となることを勧めたところ、空海は東寺建立と、それによる密教興隆のことを話し、その神に鎮守を担うよう願います。
それから七年後の弘仁一四(823)年一月に東寺が建立されますが、三ヶ月後の四月、紀国の神が、稲を担ぎ、二人の女性と二人の子どもを連れ、東寺南大門に顕れます。空海は彼らを厚くもてなし、また神々はしばらく東寺にいた後、稲荷の諸神に混じったと言われています。
しかしこの文献以前には、空海と紀伊の神との交流の話は見当たりません。中世に新たに付加された伝承ではないかと考えられますが、これが制作された理由はいくつか考えられます。
まず、真言宗系は密教ですので、修験道にも近く、大寺院の端緒に、その山の神が関わっていることがしばしばあります。例えば、金剛峯寺や醍醐寺の上醍醐の創建に際しては、開基者が、自分の山に建立することを勧める山の神と出会う伝承が残っています。
ですが東寺は国によって作られた寺院であり、そういった伝承はないことが前提でした。東寺は五重塔でも知られていますが、その他にも、密教を絵図ではなく仏像の配置で示した立体曼荼羅などで知られる密教の根本道場であり、世界記憶遺産に指定される東寺百合文書を残し、毎年正月には、近世までは御所の真言院にて実施されていた御修法を、宮内庁京都事務所長が担う本物の勅使を呼び実施している安定した寺院ではありますが、現代に至るまで高野山金剛峰寺との確執が続いています。
鎌倉期以降に『教王護国寺』との呼称が発生し、現代これが正式名称となっていること(一方宗教法人の正式名称は『東寺真言宗』です)も、そのイメージアップを目論んだものではと思われますが、『神による鎮守』も、祟りを発端としたものではなく、開基者と神との話し合いによるもの、との伝承も、より東寺、及び稲荷の神威を高めるのには好都合な内容ではないかと言えるでしょう。
また、『稲荷大明神流記』の成立から約一世紀遅れますが、永享一〇(1438)年、御花園天皇の勅命と、将軍足利義教により、稲荷山の神々の、同山麓への合祀と、そこにあった藤森神社の移転とがなされます。
藤森神社の項でも述べた通り、現代に至るまで伏見稲荷の周囲は藤森神社の氏子区域であり、伏見稲荷の氏子区域とは東寺の周囲です。山麓への合祀は、醍醐寺などと同様、参拝者の利便向上を目的としたものと思われますが、醍醐寺とは異なり、創建からはあまりに時間が経っていて、氏子区域も既に別のものが有り、いくら天皇・将軍が判子を押したとはいえ、実質的には参拝者、周辺住民との間で議論を呼んでいたのではないかと察せられます。これは観光客の利便性と、地元住民の住みやすさとの間で議論を呼ぶ現代の京都の在り方とも似ていると感じられます。とはいえ、移築を望む側が、新たな伝承として「弘法さんの鎮守」というものを用意したところで、現代では通じそうにはありませんが。
その他にも、そもそも神仏習合色が強くなった神社では、祟りの伝承はあまり語られなくなっていくという性質があります。逆に民間信仰の強い地域では、真宗などですら民間信仰の伝承の素材にされてしまいますが。
神仏習合が進むにつれ、神による祟りという伝承は好ましからざるものとなっていきます。ところが、密教は修験道との繋がりが強く、また、東寺の鎮守が稲荷であったことから、その顕現であるはずの狐は修験者にとっても安易に祟りの原因にしやすかったのか、狐、ひいては稲荷が祟り神の代表のようにされてしまうようになっていきました。
稲荷には空海と長い親交を持っていた神もいるとの伝承は、稲荷は祟らないとの喧伝として用意されたとも指摘できそうです。
いずれにしても、稲荷は東寺の鎮守ともなりました。近代の神仏分離以降も、稲荷祭の神輿の神幸の際、東寺南大門では、神輿は東寺僧侶らから奉具を受け続けています。
一方、秦氏と並ぶ伏見稲荷の社家、荷田氏の端緒については、東寺側に残る『稲荷大明神縁起』で触れられています。
それによると、東寺建立から一〇〇年も前の和銅時代頃から、頭が龍のようであり、またその先は夜でも光り輝いていた山の神が住んでおり、耕した稲を背負っていた姿から、荷田竜頭太と名乗っていました。荷田氏はこの神の子孫と言われています。また、この神は東寺ができてからも生きており、空海はその顔の形の面を作り、これを神体として東寺に祀ったtと言われています。
そもそも秦氏の主力は右京区にあり、深草はやや離れています。繫栄していたこともあったとはいえ、やはり他の一族と確執しながら伏見稲荷を支えていたようです。
いずれにしろ、平安遷都、及び東寺の建立に伴い、稲荷は名称としては永く続くものの、田の神から、都の商工業の神へと変貌を遂げ、天徳四(960)年の各社奉幣に端を発する明神上七社第六位の地位を授かります。また明神社の順序に関わらず、賀茂社、八坂社などと同クラスレベルで貴賤の信仰を集めていきます。
また平安初期頃から、眷属を狐とする信仰が広まっていきます。空海の弟子真雅が著した『稲荷流記』によると、弘仁年間(810―824)、洛北の船岡山に、銀の針を毛とする狐の夫妻がいました。夫妻は獣の身でありながら神仏への信仰が篤く、その興隆に努めたいとの願いを抱き、稲荷神にそれを祈り、稲荷神はそれを受け入れ、以後狐を眷属としたとのことです。前述の通り、狐は次第に祟りの主因にされることが多くなっていきますが、それは狐にとっては風評被害のようなもので、元は船岡山に住む信仰の篤いモノだったのです。
この後前述の通り、永享一〇(1438)年、山上にあった、五柱の神を祀る各社殿が山麓に遷座されます。また応仁の乱による荒廃に際しては勧進が活躍し、桃山期の天正一六(1588)年、秀吉による寄進がなされます。
さて、伏見稲荷最大の特徴は全山の参道などに展開する千本鳥居ですが、実は鳥居を奉納する習わし、即ちあの千本鳥居の光景は近世、江戸期に入ってからのものであることは意外と知られていません。
現代、近世は江戸の動きに注目が集中していますが、伏見稲荷の信仰の最大の拡張、また今日まで全世界にその光景を知らしめるその最大の特徴とも言うべき千本鳥居は江戸期を発祥としています。即ち、幕府が江戸にできたので、そちらに集った者たちもいたはずですが、当時の人々は稲荷神のことを忘れることができなかったのです。
ちなみに「宗教」が、より重要箇所だけを抜き出した「思想」へと変化したのも近世以降ですが、この時期以降、近代に至るまで、京都からは江戸、東京を圧倒的に凌ぐ思想家が発生しています。なお、もし彼らが稲荷神のことを忘れたらどうなるかということについては、現代社会が如実に示している通りであると言えそうです。
この千本鳥居は多くは企業名が記されています。商売繁盛の祈願として見ると、ここまであると拝金主義の趣向が強く、目をそむけたくなってしまいそうですが、実はこれらはそのために建立されたのではなく、その奇岩が成就したときのお礼として建てられたものだそうです。つまりこれらの千本鳥居は人々の神への感謝のしるしでもあります。
さて、参道を千本鳥居が覆うようになってから、伏見稲荷の宗教施設は大きく様変わりしました。稲荷山は千本鳥居の参道だけでなっているのではありません。気分転換するにはちょうどいい休息地として、元社殿地こと神蹟地等が間隔をあけてあります。神蹟地等では、巨石などが今でも代わりの神体として祀られています。中には小川や滝を配した箇所もあります。
また、神蹟地等の周囲に集中的に、こちらも奉納された小さな鳥居群が所狭しと乱立しています。中には連続して建てているのではなく平積みになっているところすらあります。また、鳥居の奥に、稲荷塚と呼ばれる小さな祠を置いているものもあります。
いずれにしても、山麓の本殿等、千本鳥居の参道、神蹟地等とその周囲の小型の鳥居や稲荷塚等を合わせ、神体稲荷山は、まさしく世界第一の観光地の名を欲しいままにする光景を供えています。
近年、オーバーツーリズムが問題となっていますが、それは需要過多の問題がメインであって、マナーの問題は風評被害です。稲荷駅は確かに国際空港のように多数の民族が集まっていますが、マナーは下宿の学生などと比べても一般的には穏やかで、さながら神体の山の麓の駅では国際平和の理想的な光景が広がっていると言えるでしょう。
九〇 法住寺
七条駅
後白河天皇ゆかりの寺院であり、彼の陵墓と隣接、また彼自身も像を造られ、祀られています。
そもそもは、平安時代中期、藤原為光が、寛和元(985)年、妻と、娘であり、花山天皇の女御であった藤原忯子を立て続けに亡くしたことから、政治から一線を引き、法住寺を建立し、事実上の出家となったことに始まります。
為光が建てた法住寺はその後、長元五(1032)年に罹災し、しばらくは、再建の記録はなくなります。
その後保元三(1158)年、上皇に即位した後白河さんがこの地に目を付け、自らの院政の根拠地とすべく、伽藍の復興に着手、やがてそれは『法住寺殿』しました。またこの時期に、当寺の境内社として新日吉(いまひえ)、新熊野(いまくまの)の二社が勧請されました。現在の本堂である法華堂の向かい側に建つ三十三間堂も、この時期の清盛による寄進です。
嘉応元(1169)年、上皇は出家し法皇となります。この時に、比叡山にあった妙法院を法住寺付近(現在、智積院の北側に隣接)に遷座させ、自らの法住寺をこの妙法院の末寺とし、妙法院を門跡(綾小路門跡)としています。
隣接する智積院の方が真言院智山派総本山として知られていますが、実は妙法院も門跡であり寺格は高いのです。また経緯の関係上、妙法院は本堂などではなく庫裏が国宝となっていることも特徴の一つです。
ところが、その法住寺殿の栄華もさほどの長さではありませんでした。寿永二(1183)年平家追討のため京都に来た木曾義仲は法皇の住む法住寺殿をもその手にかけ焼亡させます。これ以降法皇は法住寺殿を再建することなく、六条西洞院の長講堂に住み、そこを拠点として活動します。
建久三(1192)年、崩御に際し法皇の廟所は法住寺とされ、また、法華堂が建立されました。この法華堂が今日まで続く本堂となり、また、先述の通り、現代に入り1991年以降、法皇自身もその像が造られ祀られています。
九〇 本圀寺
御陵駅
他の日蓮宗系寺院のときにも書きましたが、日蓮宗系の宗派は多数に分かれています。あらためておさらいすると、それらは、『一致派』と『勝劣派』とに分かれます。
これはどういうことかというと、日蓮宗系では法華経を最重要経典としていて、その要旨は後半部分に書かれているのですが、このことを受けて、法華経を前半部分と後半部分とに分け、前後の差に注目し、前半部分は、メインディッシュのある後半部分よりも劣った内容であるということを強調するのが『勝劣派』、一方、メインディッシュが後半部分にあることは認めるものの、法華経全体というひとつのコース料理の姿を重視し、前後の差を特に意識しないのが『一致派』です。
日蓮宗系のうち、身延山久遠寺を総本山とする一番ノーマルの日蓮宗は『一致派』です。そこから多数の分派ができています。おおよそ分派には『勝劣派』が多いです。また、総本山は富士山の周辺の静岡・山梨と、京都の二か所に特に多いですが、久遠寺を総本山とするノーマルの日蓮宗の他は、富士山方面には勝劣派、京都では一致派が目立っている傾向にあるとも言えます。
その京都にあって日蓮宗系の最大勢力は、久遠寺を総本山とするノーマルの日蓮宗で、その中でも特に二つ、『四条門流』と『六条門流』が代表的です。『四条門流』は妙顕寺を中心とし、創建当時に四条通の一つ下、綾小路通大宮にあったためその名で呼ばれていますが、今は同寺は上京区に移転しています。
そしてもう一つの京都の主流日蓮宗系である『六条門流』の中心寺院が本圀寺です。こちらも長らく六条堀川にあったためその名で呼ばれますが、今は山科疏水付近に移転しています。
日蓮が鎌倉で活躍していた頃、建長五(1253)年、鎌倉の松葉ヶ谷の地頭であった石井長勝という者が彼に帰依し、自邸に法華堂を建立し、日蓮に寄進します。ここで日静も日蓮に師事していました。なおこの法華堂は後にその地頭の名を取り長勝寺に改称されます。
室町時代初期の貞和元(1345)年、日静は京洛での布教を企図し入洛します。彼は光明天皇より六条堀川の寺地を賜り、寺名を本国寺としました。
本国寺は創建当初から大規模な寺院で知られ、最初は六条坊門(現五条)から七条、大宮から堀川までを寺域としていました。
室町初期は浄土宗の知恩院は小規模、真宗もまだ天台宗から完全に分離しておらず、鎌倉仏教としては武家、公家らの支援のあった禅宗が先行して大伽藍を設けていましたが、日蓮宗であった本国寺がそれに比類する存在として知られるようになりました。
天文五(1536)年の天文法華の乱により堺に避難、天文一一(1542)年の法華宗帰洛の綸旨に伴い、天文一六(1547)年再建されます。
その後永禄一一(1568)年、信長の支持によって入洛した足利義昭の仮御所となりますが、翌永禄一二年に本圀寺の変が発生、三好三人衆が本圀寺を襲撃したため、信長は二条城の建設を進めます。
天正一九(1591)年、西本願寺の建立が決まったため、本圀寺は花屋町通より南側の寺地を西本願寺に割譲します。一方でその後、五条通(旧六条坊門通)から松原通(旧五条通)まで北側に寺地を拡張しています。当初は五条通を塞いでいました。
近世に入り、水戸藩主徳川光圀が本圀寺にて生母久昌院の追善供養を行ったことから、貞享二(1685)年に光圀の圀の字を下され本圀寺に改称しています。
幕末には、文久三(1863)年、本圀寺事件が発生します。当寺院に宿泊していた鳥取藩の重役らを、同藩の尊攘派藩士らが暗殺しています。
明治に入ってから近隣住民らの要望もあり、五条通を開放し、本圀寺は五条通を挟む格好の境内になります。そして戦後一九六九年、係争処理等の関係から本圀寺は山科への移転を実行することとなりました。現在その土地は西本願寺の聞法会館などになっています。但し一六ケ所の塔頭は今も現地の五条猪熊周辺に残っています。
その後一時期、各伽藍が黄金尽くめの装飾にされていましたが、2010年代に入り装飾はなくされ、閑静な佇まいを戻しています。
九二 本隆寺
【法華宗真門流総本山】
今出川大宮停
応仁の乱の後、既に戦国時代になっていましたが、京都の二大ノーマル日蓮宗のうち、四条門流妙顕寺(当時は妙本寺)にいた日真という僧侶が勝劣派に傾倒し、長享二(1488)年、四条大宮に建立、もしくは、まず六角西洞院に草庵を結び翌延徳元(1489)年に四条坊門に建立されたとされています。
天文五(1536)年の天文法華の乱により焼亡、天文一一(1542)年の法華宗帰洛の綸旨に伴い、現在の上京区の地に再建されました。
現在の本堂は明暦三(1657)年のものです。この後享保一五(1730)年と、天明八(1788)年にも周囲で大火がありましたが、ともに焼亡を免れています。
ちなみに現在の地は、当寺院が移転する前には、景愛寺という禅寺がありました。この禅寺の開山であった無外如大という僧侶が、その後年に生まれた、安達泰盛の娘安達千代野の法名であった如大無着と混同され、いつの間にか彼女が開山であったという伝承ができました。
禅寺期の遺物やそれにまつわる伝承は、日蓮宗系の寺院ができた後も継承されました。境内には千代の井という井戸の跡がありますが、この井戸で千代野が水を汲もうとしたときに、たまたま桶の底が抜け汲むことに失敗しますが、そのような日常の出来事から、彼女は悟りを得たと言われています。但し、悟りを得てから寺を建てるというのが順序のはずなので、少しおかしさもありますが。
また前掲の、江戸期の大火を免れ続けたことから、『不焼寺(やけずのてら)』との信仰が発生し、それは境内に祀られている鬼子母神の加護であり、その鬼子母神は千代野と同一視されることもあります。
禅寺であった景愛寺はその後宝鏡寺、大聖寺などに分かれていきますが、これらは尼門跡になりました。とくに大聖寺は尼門跡筆頭であることからか、2015年より皇嗣妃紀子さんが、同寺院の支援団体である『大聖寺文化護友会』の名誉総裁に就任し、毎年参拝をされています。
ちなみに夫の皇嗣さんは以前から御寺泉涌寺を護る会の総裁として、毎年同寺院を参拝してはります。
九三 松尾大社
【明神上七社第四位】【名神大社】【官幣大社】
松尾大社駅
八咫烏として、奈良県御所市、京都府木津川市などを移動した鴨氏は京都盆地の主に左京方面に着きましたが、その後と推測されますが、主に右京方面に、渡来系であった秦氏がやってきます。
秦氏は氏神として松尾山山頂の巨石を磐座(いわくら)として、氏神の依代として祀ります。その神は大山昨神(おおやまくいのかみ)という比叡山を根拠地とする日吉大社の神と、中津島姫命という、九州の宗像大社を根拠地とする神の二神です。前者は土着の神ですが後者は渡来系の守護神であり、その両方を祀ったことになります。
また、神話では、上賀茂神社祭神の賀茂別雷命の父とは乙訓の火雷神とありますが、これを大山咋神とする説もあり、古来からの鴨氏と秦氏との確執や共存状態を比定させるものもあります。
神社としての創建は、現在地である松尾山の麓に社殿が設けられた大宝元(701)年からで、大宝律令の完成時期と一致することから、飛鳥時代の朝廷から、神社として創建するよう指示があったとの説も考えられています。
なお、先掲の勧修寺とも似たような現象ですが、当社の正式名称は『まつのお』で、略称からいつの間にか正式名称となった周辺地名の『まつお』ではありません。
近代官幣大社の筆順にまで影響を与え続けた明神上七社のうち、平野神社は桓武天皇の個人的な繋がりの多い神社で、それらしさは早くから失われ、足利将軍家菩提寺であった等持院の境内社であった六請神社からは外されてしまっていました。
一方、近代に至るまで、明神第四位としての神威を持ち続けていながら、現代に至っては、特徴の多彩さで知られる第六位の稲荷、唯一の京域外部である第七位の春日と比べ、急速にその尊厳が忘れ去られているのではないかとも観測されるのがここ松尾大社です。
立地の立場上、神話時代から賀茂社との関わりが深く、平安遷都以降、第三位の賀茂とともに、『東の厳神、西の猛霊』と並び称されています。ここでは東とは、松尾橋を渡って四条通の東端に、言わば松尾の真正面に鎮座する祇園感神こと八坂神社ではなく、その北にある下鴨神社を指します。
右記の出典は時代を大幅に戻した江戸時代中期のもので、宝永二(1705)年、大島武好が著した『山城名勝志』に、『或る古記に云う。平安の京は、百王不易の都なり。東に巌神あり、西に猛霊を仰ぐ。巌神は賀茂の大神宮、猛霊は松の尾の霊社これなり。二神の鎮護によりて、万代の平安を期す。然らば則ち永々に迁宮すべからず、と云々』とされています。
この永々に遷宮すべからずという『宮』は賀茂、松尾の両社を指しますが、その間にある『宮中』を遷してしまっては元も子もないことは言うまでもありません。
ここに故事の重みがあり、近世にも松尾の神威は知られ渡っていたと推測され、それも受けての近代社格制度の創設がありましたから、現代の松尾の衰退は、山城名勝志が指摘するように、『宮中』の奠と、それに伴う、現代独特の現象である、万代の平安の消失と直結していると言っていいでしょう。
そもそも京都は『社寺の多いことで知られる特徴のある』都市という見方が逆なのです。帝都であるからこそ歴年そこに集う人々の祈願が形となって社寺となっただけのことであり、社寺の存在は人々にとってより親しい身近な存在であり、それは今日のようなイレギュラーな扱いを受けやすいものではありませんでした。
逆に社寺にそのような扱いをすると、それらが伝えている思想(思想がないことで知られる神道にあっても、時間軸、空間軸への畏敬の伝教や、一定地域の『祈願所』としての役割があったと考えます)が悪化しますから、『万代の平安』が損なわれることにも結び付くことは言うまでもありません。
おりしも松尾には、一条天皇の行幸に際して、『後拾遺和歌集』巻二十神祇六にて、『ちはやふる松の尾山の陰みればけふそちとせのはしめなりける』(松の尾山の姿を見れば、行幸のあった今日こそがこれから千年も続く帝の御世の始まりですよ)との歌が残されていますが、一条天皇の行幸は寛弘元(1004)年であり、その『千年』のリミットがちょうど切れている時代こそが現代となっていることに注意をしなければなりません。
さて、そのような松尾と賀茂との神威のパワーアップですが、これは平安遷都との相乗効果と言えるでしょう。即ち、「王城鎮護を課せられているから凄い神社である」ということと、「凄い神様だから王城鎮護を課せられている」ということでしょう。
とは言え、これは賀茂を含めた他の社寺にも言えることですが、京都では社寺や皇族も「さん」づけが基本であり、大規模な神社であっても、町堂と似たような親しみも感じさせます。これは他にも官幣大社のような類のものが多くあるからではと思量します。
また伝承に留まらず、松尾祭の遷幸祭に於いて、神輿列は葵葉を付けたり、松尾山が別雷山と呼ばれていたりしており、現在にあっても松尾は賀茂との関わりを想起させる事柄が多くあります。
一方で松尾神独自の伝承もあり、その眷属は亀と鯉であり、その姿を駆使して桂川、保津川などに顕れるとされています。
また渡来系であった秦氏の技術伝承として酒造があり、酒神としても知られます。『日本書紀』には『秦酒公』との記載が見られます。但しその次は、中世の狂言『福の神』まで、酒神としての活躍まではその信仰が見られことにも注意が要ります。社殿によると、境内にある『亀の井』の水を酒に混ぜると防腐されるとの信仰があります。
また特筆すべきこととして、松尾大社は、知恩院や城南宮と同様、戦後(1975年)に造られた神苑があります。この神苑は松風苑の名があり、『上古の庭』、『曲水の庭』、『蓬莱の庭』から成り、うち後者二つが池泉式となっています。
九四 妙蓮寺
【本門法華宗大本山】
堀川寺之内停
分派のさらに分派を辿る話となりますが、日蓮宗系のうち洛中にあっては、四条門流妙顕寺、六条門流本圀寺(ともに一致派)の二箇所が比較的著名です。四条門流からのさらなる分派としては、法華宗真門流の本隆寺、法華宗本門流の本能寺、また現代本能寺が分かれる前に所属していた本門法華宗の妙蓮寺など多くがあり、概ね勝劣派です。
京都での布教を初めて実行したのは四条門流の祖日像でした。彼は元亨元(1321)年大宮綾小路に妙顕寺を建立する以前にも、永仁二(1294)年五条(現松原)西洞院に妙法蓮華寺という小堂を設けており、ここが京都初の日蓮宗系寺院でした。
時代は下り、五条の妙法蓮華寺こと妙蓮寺は衰退していきますが、四条門流第四世住持の日隆が勝劣派に傾倒し、第五世の住持と対立し、応永一七(1410)年、弟子らを引き連れて、妙本寺(当時一時的に妙顕寺から改称)を出ます。
彼らが拠点としたのが、その妙蓮寺でした。日隆は住持に就かず修行に専念したため、弟子の日慶が寺院の運営、妙蓮寺中興の中心になりましたが、彼は公家の庭田氏出身の日応を住持に迎えました。その後の応永二二(1415)年、日隆は妙蓮寺を日慶に託し、自身は本応寺(後の本能寺)を建立することとなります。
その後妙蓮寺も、天文五(1536)年の天文法華の乱で焼亡し、天文一一(1542)年の法華宗帰洛綸旨により再建、天正一五(1587)年に現在地に移転します。また天明八(1788)年の天明の大火でも焼亡し、翌寛政元(1789)年年に再建されています。
九五 八坂神社
【官幣大社】
祇園停
「祇園」自体が交差点の名称となっていますが、座標で言えば東山四条にT字で、朱塗りの西楼門が建っています。南北朝時代以降御所は東洞院土御門殿となっていますが、四条通はそこに近い繁華街で、この西楼門は社寺に詳しくない者が入洛しても、僅かに京都らしさを感じさせる建造物であると言えるでしょう。
なお京都周辺にあっては、「八坂さん」との呼称の他、「祇園さん」、さらには近世までの名称であった「感神(かんじん)さん」との呼称も見られます。
伝承は飛鳥時代にまで遡り、斉明天皇二(656)年、高句麗から来た使者がこの地に牛頭天王を祀ったことが創始であるとされています。
但しこの伝承は信憑性に欠けており、実際には平安初期、貞観一一(869)年に神泉苑で実施された御霊会の実施場所が移転してきたものとの説が有力です。
具体的には、最初の御霊会が実施されてから七年後の貞観一八(876)年に、円如という僧が、松尾大社と正反対の東のこの地に、薬師如来を本尊とする観慶寺(かんぎょうじ)という寺院を建立したとのことです。
なお『日本紀略』によれば、東山の周囲の林の神、即ち、仏教の聖地である祇園精舎にちなみ、祇園の名を付けた「祇園林」の神が薬師と習合し、「祇園天神」との呼称も発生しているとのことです。
山中に寺院を建立する際、その山林の神が自分の山を開基の地として勧め、そして境内社となることは高野山の縁起などでも知られるところですが、この場合は境内社に鎮座したのではなく、さらに強く結びつき、神は本尊に習合していることが特筆されます。
祇園とは祇園精舎のことですが、これもまだ略称であり、正式には祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎゅこどくおんしょうじゃ)という中国語で、これは釈迦が説法を行った根拠地の一つである、旧コーサラ国舎衛城こと、現ウッタル・プラデーシュ州シュラ―ヴァスティー県を指します。
式内社が成立した延長五(927)年には、この社は省かれていることから、当時は寺院と見られていたと言えます。しかしその一方で、延喜二〇(920)年、藤原忠平が神道の儀式である幣帛を実施していることから、神道式の呼称である「祇園社」との呼称も早くから発生していたと見られます。
さて、承平四(934)年、塔頭として感神院が建立されると、本堂のある観慶寺との立場が逆転し、ここから仏教式の呼称としては「感神院」/「祇園感神院」への改称がなされます。
続いて、前述の御霊会の実施が天禄元(970)年頃から例祭としてなされ始めています。おおよそ御霊会のコンセプトは、天候の不振を怨霊の影響と考え、雨乞いなどの祈願をするものですが、この影響により祇園の神は、東山の森林の神としての側面だけではなく、天候の神、即ち天神(道真ではなく単純な自然の天候、とりわけ火雷の神)としての側面をも強調されていくことになります。
また、奈良の法相宗興福寺と、天台宗延暦寺との間で帰属争いとなった結果、『日本紀略』によると天延二(974)年、『天台座主記』は天元二(979)年、祇園感神院は天台宗帰属となりました。
さて、明神社、とりわけ近代まで影響を与え続けた明神上七社の端緒は天徳四(960)年の一二社奉幣ですが、『定二十二社次第事』、『二十二社註式』によると、長徳元(995)年、二一番目の明神として祇園が追加され、朝廷も祇園社という神社の側面を公認しました。
但し『祇園』との仏教風の呼称は、あくまで自然崇拝的な周囲の林の神につけた名称です。
仏教上も重要な信仰対象である薬師如来(如来は菩薩よりも上位)に、林や天候の神を習合させている時点で、既にかなり激しい神仏の習合と言えますが、これだけではこの神社・寺院は終わりませんでした。
平安中期から、遅くとも鎌倉期にかけて、さらなる神仏習合の流れが現れ、その結果、薬師如来の化身であり、仏教の聖地であったインドの祇園精舎の守護神でもあった牛頭天王、それに合わせて、牛頭天王の神道側の習合であるスサノヲも信仰の対象となりました。
牛頭天王の由緒は不明ですが、朝鮮半島の新羅に牛頭山という山があり、その山の神との説もあります。渡来系の神なので、神仏ともまた異なる、道教的な側面も持っています。
ところが肝心の朝鮮半島では、牛頭天王などという神は見当たらず、この神は日本国内特有の神でした。「外国で信仰されている大事な神様」として祀ったものの、実はそれは日本でしか定着しなかった、というのはよくある話ではあります。
さて、渡来系の神である以上、それがわざわざ日本の京都までやってくるとなると、その神話・伝承も壮大なものとなります。それは『祇園牛頭天王御縁起』に詳しいですが、この壮大な縁起が、同じく壮大な神話を持つスサノヲと習合したとしてもおかしくはありません。
なお、そんなに単純でよいのかとも言われそうですが、そもそも倫理思想を説く仏教と、自然物や時空間への畏敬から成る神道とは直接ではなく間接的な結び付きであり、どれとどれとが習合したかは意外と適当であったりしています。
また、創建初期から祇園の名称がありますが、これはあくまで円如ら草創期の者たちが、仏教の聖地である祇園を模したいとの意向から付けられたものだったのではないでしょうか。それがいつの間にか、祇園を名乗っている以上、その守護神たる牛頭天王が祭神なのではないかとの信仰が生まれていったのではないかと推測します。
あるいは、この京都の祇園の地に鎮座している神であるということから、逆転現象として、京都の祇園の神は実はインドの祇園精舎の守護神であると言われ始めた可能性も考えられます。しかし、他に祇園と牛頭天王とを結びつける伝承があるのなら問題はないですが、ないとすれば、渡来系で道教に近い牛頭天王は登場にしくいです。
ここであらためて、信憑性に欠けるとされている、飛鳥時代の渡来人の創建の伝承を見て見ます。時期や人物名などは疑わしいとしても、平安初期に観慶寺が出来る以前に、祇園の地には渡来系、もしくはそれを感じさせる神が微力ながらも居て、それを観慶寺が取り込んだのかもしれません。
それであれば、薬師如来と、渡来系の道教的性格を持つ神であり、またインドの祇園精舎を守護する牛頭天王、そしてそれが渡日するにあたってのストーリーの壮大さの連想からの怨霊スサノヲ神、これらの、いかにも日本、そして京都らしいごった煮状態の聖地が、四神相応による東方神の鎮座する場所として成立していったことも理解できると思われます。
こうして複雑な性質の信仰を形成していった祇園社・祇園感神院は、四神相応の神として広大な社領を有しながらも、鎮座の場所なども影響し、町衆との心理的距離の近い社となっていきました。
その一方、後宇多上皇と御二条天皇とが嘉元二(1304)年、仁王経上下二巻の宸筆経を奉納しています。それに続いて、後伏見上皇、花園上皇、後醍醐天皇もこの例に倣い、鎌倉時代後期から南北朝期にかけて宸筆経典の奉納がなされることとなり、朝廷からも崇敬を受けていた様子がうかがえます。
至徳三(1384)年、足利義満の命により、祇園感神院は延暦寺から分離、独立しました。これにより仏教サイドの側面はやや薄れますが、そこを埋めた主力は朝廷や幕府ではなく町衆でした。
とくに祇園御霊会は、怨霊を鎮め天候の良好を祈る側面が薄れ、現在のように山鉾、花傘が祭列を彩るようになっていきます。四条高倉にある著者の実家も、送り火のあるお盆ではなく、祇園祭の宵山などを、見物も兼ねて里帰りの日にしていました。
今の本殿は承応三(1654)年の再建です。拝殿とその奥にある本殿とを一つの屋根で覆っている独特の建物で、祇園造と呼ばれ、2020年に国宝になりました。
明治の神仏分離に際し、この一際各宗教の混淆の強い祇園社/祇園感神院は、付近の地名を採り「八坂神社」となり、スサノヲ神を祀る神社となりました。また祇園御霊会の名称も祇園祭となりました。四神相応としては、北方の賀茂(明神第三位)、西の松尾(同第四位)のように、明治四(1871)年の近代社格の最初から官幣大社とはならず、遅れて大正四(1915)年の官幣大社列格です。
さて、例祭祇園祭はあまりにも有名ですが、大晦日深夜のおけら詣ででも知られています。おけらという薬草で炊いた火を火縄に移し、それを各家に持ち帰り、その火を用いて鍋で雑煮等を炊くと健康に良いと言われています。このため大晦日から元旦深夜にかけて、四条通の四条大橋から東側は車両通行止めとなり、参拝者で埋め尽くされます。
とはいえ長距離の移動は公共交通が主体となった今日、おけら参りの火縄の持ち帰りは難しいことになりつつあります。
祇園祭に話を移すと、祭列の順序を決めるくじ取り式自体も歴史が古く、第一回は応仁の乱後の明応九(1500)年、当時の幕府奉公衆の松田頼亮の自邸にて実施されています。
くじ取り式は長らくは町堂の代表的存在でもあった六角堂にて実施されていましたが、興味深いことに戦後、政教分離の徹底された現代1953年からは、革新色も強いはずの京都にあって、市会議場で行われることになっています。
また、くじの内容は古来からかなり複雑な内容となっています。一番目が長刀鉾であることは比較的知られていますが、その他にも詳細な決まりがあります。
例えばコロナの最中休止中の2021年現在、前祭では一番目から二三番目までを決めますが、単純に二から二三を決めるわけではありません。五番函谷鉾、二三番船鉾のように、長刀鉾同様くじ取らずがいます。
くじ取らずでない三つの鉾、菊水鉾、鶏鉾、月鉾の一番、二番、三番は、通し番号では九番目、一三番目、一七番目が指定されており、その中のいずれかとなります。またくじ取らずではない二つの傘鉾、四条傘鉾、綾傘鉾の一番、二番は、通し番号では七番目、一五番目が指定されています。
そしてくじ取らずではない一三基の山は、通し番号では二番目から二〇番目までのうち、鉾、傘鉾の順番を飛ばした順番が当てられます。
さて、この著作において日蓮宗の寺院を取り上げるたびに出てくる天文二(1533)年の天文法華の乱に際し、幕府は御霊会の中止を命じましたが、町衆らが『神事ナクトモ山鉾渡シタシ』と迫り、結局その通りに山鉾巡行に限り認められました。
そのような沿革も持っており、山鉾自体が重要有形民俗文化財、その山鉾巡行は重要無形民俗文化財となっていて、神事以上に、本来は余興的性格を帯びていたものが重視されている典型例でもあります。
とはいえ一般的には、日本の祭礼では、舞の奉納や神輿の巡行はあくまで余興であり、あげく屋台などは余興ですらありません。メインは神前での儀式であり、特にその最中もしくは終了後に、その年の収穫物から成る供物、もしくはそれに代わるものを神前にて振る舞う(少量の神酒であることが多いので、代物はつまみものであることが多いです)、即ち、いわば神と共に食す直会(なおらえ)の重要性を忘れてはいけないでしょう。
祇園祭に再び話を戻します。先述の通り、室町期には今のような華やかなスタイルが出来ており、『都名所図会』はこれを「天下第一の奇観」と評しています。
宵山期間中は山鉾へは内部見学ができます。これは無料の箇所、有料の箇所、性差で分けている箇所などがあります。また鉾の上では法被を着た男子がお囃子を演奏し、その下周辺で浴衣を着た女子が童歌を歌いながら当該鉾のお守りや蘇民将来伝承に纏わる粽の販売をします。
歌詞は、山鉾によって後利益や売っているものが異なりますが、おおよそは、
「○○(山鉾名)のお守りはこれより出ます。常は出ません、今晩限り。ご信心のおん方様は、受けてお帰りなされましょう。蝋燭一丁献じられましょう」
などとなっており、現代ではこの後「○○の粽どうですか~」などのフレーズが追加される傾向にあります。
祇園祭では、山鉾巡行の開始の際、長刀鉾からの稚児(男子)による縄切りが知られていますが、宵山期間中も、革新政党も強い地域でありながら、性差、あげくは児童労働までしている次第です。
一方、巡行中の鉾の上から粽を投げる行為は、厄除けどころかかえって重傷になることもあるので中止となっています。
性差で分けていることは、大事な神事の際に乱れた感情をなくべく取り除くためで、いわばトイレを分けているようなものでしょう。また稚児らの作業もさほどの過酷、危険というわけでもなく、その年齢・性別であること自体が文化財的側面を有しているので継続されています。
つまり祇園祭の優雅さは、同時に、伝統と人権との両立を追求した姿でもあるということです。それが曲がりなりにも本朝有数の怨霊であるスサノヲの総本社がしていることです。
地方においては、伝統と人権のどちらかに偏重しすぎ、欲情から離れた清浄さを損なう行為がなされたり、あるいは逆に、祭神の名の下に重傷者を出し続けている祭礼もありますが、我が国有数の怨霊を祀る、我が国最大の奇観を構築する祭礼は、伝統と人権の両立を目指しており、あらためて、ここが単なる社寺の町ではない、文化・思想の中心地であることを思い知らされるものと言っていいでしょう。
九六 矢田地蔵
三条河原町停
京都市内随一の繫華街である新京極通の御池―四条間は、繁栄会ではありますが、同時に多数の町堂が集う通りでもあります。繁栄会の賑やかさが、そこから一歩入っただけで、狭いスペースではあるものの、薄暗い静謐な空間であったり、多数の提灯や蝋燭が灯る畏敬の空間が広がっている……、他の都市の繁華街にはない、かといって単に独特という言葉で表すには惜しい、まさにこの国の文化と思想の中心の繫華街の自然な姿と呼ぶべきではないでしょうか。
多数の提灯が灯る矢田地蔵の境内の光景はその中でも格別です。目の前の繁華街からの変化が強烈なため、その光景だけでも既に、あたかも異界との接点であるかのような錯覚を抱かされます。
ところがそれは光景だけに留まらず、沿革までもがそれに相応しいものでした。この寺院は小野篁、及び彼が冥府に通う際に使っていた井戸のある六道珍皇寺とも関わりがあるのです。
矢田寺という寺は、奈良県大和郡山市にあります。これは白鳳四(700)年の建立です。その後承和一二(845)年、五条坊門に、満米という僧侶が、その末寺として建立しました。彼は小野篁の仏教の師であったので、小野篁とともに地獄を視察したと言われています。
矢田地蔵の本尊の地蔵は火を被った姿でいます。これは、満米が地獄を視察した際に見た、自分自身まで時折火を浴びながらも、堕ちたものを救済している地蔵菩薩の姿と言われています。
この寺院は後に綾小路西洞院へと移転、さらに天正七(1579)年に現在地に移転してきます。
また、小野篁を介して六道珍皇寺との縁も深く、同寺の「迎え鐘」に対し、ここの鐘を「送り鐘」と呼びます。
第二次世界大戦最中に金属供出の対象となったため、今の鐘は1973年に鋳造されたものです。ちなみに供出された方の鐘は正平一四(1359)年に作られたと言われており、止む無きとは言え、文化財としての保護がなされなかったことは悔まれます。
九七 宥清寺
【本門仏立宗大本山】
北野天満宮前停
宥清寺(ゆうせいじ)は、この寺名としての沿革と、日蓮宗系の一宗派である本門仏立宗の大本山としての沿革とに分けられます。
宥清寺という寺院そのものは、日蓮の弟子であり、藤原定家の末孫で、元は禅宗であった日弁が、定家の旧宅を寺院とし、本門寺と名付けたことに端を発します。この本門寺は江戸期の元録七(1694)年、現上京区一条天神に移転、そこにあった天台宗寺院に代わり宥清寺となり、またもともとから四条門流の分派で勝劣派であった本門法華宗妙蓮寺への所属が明確となります。
一方、幕末の安政四(1857)年、蛸薬師新町にて、日扇(長松清風)は、本門法華宗内部の改革運動として、華洛本門仏立講を開始します。勝劣派寄りの思想であることの他、在家と出家の区別を問わないことが真新しい視点と言われます。
但し当の日扇自身も出家をしており、また弟子の出家を認めたりもしており、僧侶という職業そのものを否定したわけではなく、僧侶と在家信者との間柄の近代化を目論んだ運動であったとも言われています。
とはいえ日扇の活動はそれまでの本門法華宗との対立も多く、当初大津市追分や本能寺などを転々とし、明治二(1869)年、宥清寺に入ります。
この後宥清寺は本門法華宗内部にあって、独自の活動である本門仏立講を実施することとなります。1933年、一条天神から少し離れた現在地へ移転し、戦後は1946年、本門法華宗から分離独立し、勝劣派、本門仏立宗の大本山となっています。
九八 要法寺
【日蓮本宗大本山】
東山駅
京都の日蓮宗系は、一致派でノーマルの日蓮宗である四条門流妙顕寺、六条門流本圀寺がまずあり、それらからの分派(法華宗本門流、法華宗真門流など)、そこからのさらなる分派(本門仏立宗宥清寺)などの他、京都での布教を目指した四条門流・六条門流以前から関東に拠点を置いていた分派(主に勝劣派)が京都に進出してきたパターンもあり、日蓮本宗要法寺もこれに当たります。
延慶元(1308)年、関東の有力分派であった富士門流日興の弟子日尊は京都を目指し、まずは洛外の山城国内に法華堂を建立します。これが要法寺の端緒です。この法華堂は建武三年/延元元年(1336)洛中、六角油小路に入ります。
興国三(1342)年、日尊は会津にいた弟子の日印に自らの法華堂を継がせます。一方、正平一七(1362)年他の有力な弟子の一人であった日大という人も冷泉西洞院に法華堂を建立します。
この二つの法華堂はそれぞれ、「上行院」、「住本寺」と名付けられます。同じ日尊の系統の寺院でしたが対立は激しかったようです。
和解のきっかけとなったのは、法華宗全体の危機であった、天文五(1536)年の天文法華の乱と、天文一七(1548)年の法華宗帰洛綸旨です。これにより両寺院はようやく和解、統合し、新たに今の名称である要法寺と改称され、天文一九(1550)年五条坊門堀川に建立、旧住本寺の日辰がその住持となりました。
天正一一(1583)年に二条寺町へ移転し、さらに宝永五(1708)年に焼亡した後に今の東山三条に移転し今に至ります。
九九 蘆山寺
【天台圓淨宗本山】
府立医大病院前停
延暦寺の良源が京都側の里坊として、天慶元(938)年、船岡山の南側の山麓に一宇を設けますが、それは後に興願金剛院と名付けられました。
また一方、寛元三(1245)年、法然の弟子の覚瑜という僧が出雲路に小堂を設け、夢告で中国の廬山の僧侶と出会ったため、寺名を蘆山寺としました。
覚瑜は、今では長岡京の光明寺を総本山とする西山浄土宗の系統でしたが、同時に、浄土宗を含めた鎌倉仏教の基である平安仏教の天台宗にも傾倒した僧でした。
この両寺院は天台宗と、それに近い寺院でした。そのため、蘆山寺側の第三世住持であった明導照源はこの二つを統合し、場所は興願金剛院の方を継ぎましたが、名称は蘆山寺となりました。なお正式には、山号は日本廬山、寺名は廬山天台講寺、二つを合わせると、「日本廬山天台講寺」となります。また宗派は四宗兼学(円(天台)、密(真言)、戒(律)、浄(浄土))としました。その後、天正年間、現在の寺町御門付近に移転します。
またこの寺院も近代まで、二尊院などと同様、宮中において仏事を司る御黒戸四箇院の一つでありました。
明治初期に天台宗に入りますが、戦後に入り、四宗兼学に復し、単立となっています。
1965年、考古・歴史学者の角田文衛がこの場所を紫式部によって源氏物語が執筆された場所と特定しました。
紫式部は藤原宣孝の妻ですが、宣孝とは結婚してから三年で死別し、実家の藤原為時のもとに戻り、一条天皇中宮彰子の侍女をしながら源氏物語を執筆しています。その為時の邸宅がこの蘆山寺の付近であったとのことです。
寺院側としてもこれは想定外のことでしたが、その縁により、源氏物語への関心が強かった、広辞苑の編者であった新村出氏の筆による『紫式部邸宅址』の碑が用意されました。
また境内には、絵巻物に描かれる雲をイメージした苔を白州の上に植えた『源氏庭』と呼ばれる庭園が設けられました。なおここには桔梗が多く植えられており、その名所としても知られています。
一〇〇 六角堂
【単立寺院】
烏丸御池駅
町堂の定義は特にありませんが、例示を見ると、この六角堂はその代表的存在で、他には因幡薬師、革堂、蛸薬師、矢田地蔵などが挙げられます。
いずれも通りから階段などを上がることなく、鐘の紐、賽銭箱などは通りに面して外にあり、小堂の内部の本尊もそのままの目線の位置にあり、通りから数歩も入れば拝むことができる造りです。六角堂は本堂の他にも堂宇や庭もありますが、他の大半はそれらもありません。このため参拝者とは、物理的にも心理的にも距離が近く、住民からの崇敬が集まりやすい寺院となっています。
伝承の話になりますが、六角堂は平安遷都以前からこの地にあり、遷都に際しての官寺以外の移転の命令が出たにも関わらず、ミラクルな内容でそれを回避しています。このため六角堂は、町堂であれば洛中であっても建立される先駆けとなりました。
また古来における公民館的な役割も果たしており、今は京都市会の議場で実施されている祇園祭のくじ取り式も長らく六角堂で実施されていました。
発掘調査などによると、六角堂の創建は一〇世紀後半で、史料も、『御堂関白記』、『小右記』など、一一世紀頃から登場します。
しかし一方で、六角堂の創建は伝承では飛鳥時代とされています。
具体的には、敏達天皇の時代に、淡路国に黄金の観音像が漂着し、聖徳太子がこれを持念仏とします。四天王寺の建立に際して、太子は小野妹子と共にこの地を訪れ、池で水浴びをしていたところ、その持念仏が突然重くなり動かなくなります。持念仏は、「自分は今後この地で布教活動をしたい」と告げたので、太子は観音像のための堂を建立しようとします。現在鎮守社となっている唐崎明神が老婆の姿をして顕れ、周辺にあった、上部が紫雲の中に隠れるほどの高い杉の霊木を案内したので、太子はその霊木を用いて六角堂を建てました。正式名称は頂法寺、山号は紫雲山と名付けられますが、紫雲とはこの時の雲から採られたとのことです。
また平安遷都に際し、六角堂は街路の真ん中にあったため廃絶の危機を迎えましたが、そのとき黒雲と共に六角堂は自ら北へ約五丈(一五メートル)移動したため難を逃れたともいわれています。
これらは先述の通り伝承の域を出ていません。ですが一方、六角堂の庫裏は、太子が沐浴をしたと言われていた池にちなみ池坊と言い、またそれは住持の代わりの名称ともなりましたが、この池坊は、代々小野妹子の子孫が継いできたと言われています。
このため、時期は平安時代と、後のことになりますが、この地域はもともと小野妹子に関わる氏族の地域であって、巨大な木を用いて観音堂を祀っていた、といった、伝承の中から幾分かの史実を推測することもできると言えます。
また六角堂は親鸞の伝記上も重要な場所です。求道中、親鸞は六角堂にて百日参籠の修行を試みます。すると一〇〇日を待たずして、九五日目にここの観音より、『法然のもとへ行け』との夢告を得、さっそく言われる通り、親鸞が法然と出会うという出来事に至ったのです。
さらにそれから二年後、親鸞は再び六角堂の観音の夢告を得ます。その内容は、『もしも親鸞が、女性との性行為を望むのであれば、それを禁じたと言われている仏である私が美しい女性となって、お前の相手をしよう』というものです。これが浄土真宗が、中世から既に婚姻を許す宗教となった重要な原因です。
さて、親鸞が求道する平安末期もそうですが、院政期にも六角堂は平安京内部の寺院として公認されていました。今昔物語集にも六角堂は登場し、そこの霊譚を伝えています。
それによると、大晦日の夜、一条堀川の西の方に多くの明かりが見え、それを見た一人の男性が、貴人が来るので大人しくしていようと橋の下に隠れ、その様子をうかがったところ、行列は鬼たちの行列で、男は怯えながら隠れ続けていました。ところが最後の鬼が彼を見つけ出し、鬼たちの前に連れ出します。男は殺されると思いましたが、唾を吐かれただけで済みました。
ところがそのせいで、彼は他の人から姿が見えず、声も聞こえない状態にされてしまいました。彼は嘆きながら六角堂に参籠します。すると二週間目の未明に夢告があり、「お前は明日の朝最初に出会った者についていきなさい」と言われます。男が朝から通りを見ていると、牛飼いがそこを最初に通ります。牛飼いには彼が見えたようで、自分についてくるように言われます。
そして二人で西の方へと進み、牛飼いはとある邸宅の中に勝手にどんどん入っていきました。男もそれについていき、二人は高貴な姫君が病に臥せ、侍女たちがその世話をしていた部屋に入ります。姫君や侍女には、男はもちろんのこと、牛飼いの姿も見えない様子でした。
一方牛飼いは小槌を使って姫君の頭や腰を殴打し始めました。その小槌の痛みだけは通じたようで、姫君は苦痛を訴え、それを見た侍女たちは悲しみ、涙を流し始めます。
そこに、予め呼ばれていた修験者が来て、般若心経を唱えます。すると牛飼いは男のことを放置して逃げてしまいます。続いて修験者は不動明王の経を唱えます。すると不動の火が男の衣服につき、燃えた服とともに男の姿も見え出し、一方で火傷などはありませんでした。そしてまた、姫君の病も回復していました。
牛飼いは悪さをなす神、妖怪の類の仕業で、男を自分の身代わりにするつもりだったのでしょうが、修験者にはそれも見抜かれていました。修験者は姫君の病を治すとともに、現れた男も妖怪の牛飼いに騙されただけで、牛飼いが彼を騙すことから、修験者も、六角堂の観音も見通していたということです。
さて話は変わりますが、六角堂は生け花の総本山でもあります。
室町前期、池坊専慶が立花を始めます。もともと仏事の一つでしたが、それが独立し、一つの芸術になりました。室町末期、専応の立花は好評で、彼は『池坊専應口傳』を現しまます。それによると、おおよそ同じ時期には確立された日本庭園などと同様、生け花は、花が諸行無常、松や檜などの木材が仏法の不変を指すと、背景に仏教の思想があるとのことです。
その後の文禄三(1594)年、秀吉が前田利家の邸宅を訪問した際に、専好がそこで立てた『砂之物立花』は、池坊一代の出来物との評を得ています。
一〇一 御所・女御御所
【皇室財産】
今出川駅
『御所』という名称は、烏丸、寺町、丸太町、今出川に囲まれたあの区域を指す呼称として定着していますが、まずはここであらためて名称を整理します。
右記の区域は確かに過去にはこの全体を指して内裏、禁裏と呼ばれることもありましたし、あるいは今でも場所として東洞院土御門御所、京都御所等と呼ぶことも多いですが、この区域全体は、環境省の管轄する『京都御苑』です。その南側の中央、丸太町通に面した堺町御門が、葵祭や時代祭などでも巡行コースとなっており、規定にはありませんが正門としてのイメージがある印象を受けます。
堺町御門をくぐると、白砂利の大通りは緩やかに二つに分かれて北を目指します。東の道は仙洞御所・大宮御所の西側に通じています。一方西の道は、まさに正式に無印の『御所』、もしくは右に列挙したような名称で呼ばれる建物の正門である建礼門に向かっています。
ちなみに御所はさらに、建物は連続しているものの、皇后の居所を指して特に女御御所と分かれて呼ばれることもあります。
女御御所も御所の一つとしてみると、京都御苑の中には、天皇の在所である無印の御所と、それに隣接している、皇后の在所である女御御所、また少し距離を置いて、上皇の在所を指す普通名詞である仙洞御所、それに隣接し、上皇の正室を指す皇太后(現在の上皇后)の在所を指す普通名詞である大宮御所、合計四つの御所があることになります。
さて、これを吹上・赤坂御所と見比べてみます。平成までは上皇、上皇の正室としての皇太后は廃止されたため、仙洞御所はありませんでした。天皇の未亡人という意味での皇太后は置かれたため、吹上に大宮御所は置かれていましたが、香淳皇后の崩御により、大宮御所は施設としては無いことになっています。
また、天皇・皇后が、日本国民統合の象徴として、二人で行動することが増えたため、女御御所も吹上にはありません。代わって皇太子の活動が注目されるようになり、東宮御所が赤坂に置かれました。
続いて令和以降では、上皇、皇太后(上皇后)が復活したため、赤坂に仙洞御所も復活しました。なお、女御御所がない例に倣って、大宮御所もありません。但し上皇が崩御した場合、赤坂仙洞御所は、赤坂大宮御所に改称される可能性は高いです。
さて、話を戻します。『京都御苑』にも、旧閑院宮邸や、内閣府が管理する京都迎賓館など、見どころは多いですが、ここでは御所を中心に見ていきます。
先ほどの建礼門は、上部から内部を覗き見ることもできます。すると、建礼門の奥に建つ、中国風、朱塗りで瓦葺の承明門を介して、御所の正殿、紫宸殿の扁額がちょうど見えるように出来ています。
建礼門は南を向いており、正門的役割を果たし、滅多に開くことはありません。この建礼門の他、女御御所の区域を合わせて御所には合計で六カ所の門があります。各方面に一つずつ、そして西側にのみ三か所あります。
その三か所のうち、一番北は皇后門、即ち女御御所区域に向かう門です。中央の清所門と南の宜秋門が御所への普段から使われていた門で、南、即ちより紫宸殿に近い宜秋門の方が清所門よりも格上で、使用できる者に区別がなされていました。
現代の通年公開は清所門を出入口にしています。近年、この付近に中立売休憩所という施設も設けられるようになりました。清所門を目標とした場合、公共交通は地下鉄今出川駅が最寄りで、烏丸通を南下し乾御門から入るのが最も近道であると言えます。
また御所の北東角は塀が凹んでいます。北東は鬼門なので、鬼門除けとしてこの形となっています。これを猿が辻と呼びます。猿は、京洛の鬼門である比叡山の鎮守である日吉大社の眷属であり、鬼門を守護すると言われていますのでその名がついています。ちなみに、これと同様に、京都周辺では、民家から、最新の鉄筋コンクリートのビルに至るまで、鬼門を凹ませ、そこに白砂利を敷いたり、ナンテンなどの植物を植えたりしている建物が比較的多く見られます。
あらためて御所の沿革を述べます。
平安遷都当時、メインストリートは今の千本通、JR嵯峨野線沿いでした。平安京内部に大内裏という区域があり、さらにその中にあった、朝堂院(八省院)が政務の中心で、それは現在平安神宮に、実物の八分の五のサイズで復元されています。
その朝堂院の北面、平安神宮の拝殿に相当するのが大極殿で、かつての紫宸殿の機能は、高御座の安置も含めそちらが担っていました。
大極殿のさらに北方には、神嘉殿と、それを塀で囲んだ中和院(ちゅうかいん)という施設がありました。賢所は御所内部の春興殿が用いられることが多かったのですが、新嘗祭に当たってはこの中和院が宗教上の最高の施設として用いられました。
またこの中和院は長岡京以前には見られない、平安京独自の施設です。平安京にあっては、新嘗祭という宗教上の儀式を、政務の中心であった朝堂院、天皇の住まいであった内裏の双方から分離し、かつその位置は、朝堂院の北であり、また紫宸殿とは東西に並んでおり、さらに同時にそこは、大内裏の中央部でもあったのです。
この中和院の東側、朝堂院の大極殿から見て北東に、天皇の住まいを指す内裏があり、現在の紫宸殿や清涼殿なども同じ配置でありました。かつては紫宸殿が儀式のための場所で、清涼殿が天皇の日常生活の場でありました。
ところが、時代を追うごとに朝堂院は衰微し始めます。摂関期には既に政務は清涼殿でなされていました。また、大極殿と紫宸殿の施設の目的の近似も問題となってきました。
この他、延喜の治の頃には、遣唐使廃止、延喜式とその神名帳(延喜式内社)の成立など、国風文化が発展し、その中で大極殿が採用している瓦葺よりも、紫宸殿の檜皮葺の方が上位とされる風潮も生まれました。
最終的に朝堂院は、安元三(1177)年の安元の大火による焼亡以降再建されず、以後は紫宸殿、清涼殿など、天皇の日常の住まいと、国の政務の場所とは、ともに内裏にて執り行われるようになりました。
現在の御所、こと東洞院土御門御所、こと京都御所は、南北朝時代の始め、元弘元(1331)年に、光厳天皇が、自らの即位と北朝の成立を以って御所とした場所です。
幾度かの火災に見舞われていますが、その度に再建されています。特に寛政二(1790)年(寛政度)の再建に当たっては老中松平定信が再建の奉行となり、紫宸殿、清涼殿について平安期の様式での再建が企図され、少ない史料の中で大幅にそれがなされ高く評価されています。
但し外観(例えば屋根は現状のようなこう配の高いものではなかった)や細部は必ずしも完全に平安期の様式になったとは言えません。なお現在の建物は安政二(1855)年(安政度)の再建で、寛政度をほぼ踏襲したものです。
さてでは、通年公開における参観コースに沿って、御所内部の建物を大まかに見ていきます。
通常用の御所への出入り口であった清所門から入り、上位の者の出入り口であった宜秋門を右にすると、左には玄関である御車寄(牛車用)が見えてきます。御車寄の奥には諸大夫の間があります。ここは参内した者の控室で、三室あり、位などによって使用する部屋が分けられていました。この諸大夫の間で待機した参内者は、直接、紫宸殿の他、天皇の政務の場である清涼殿や、小御所などに迎えるようになっています。
諸大夫の間からさらに南に向かうと新御車寄(自動車用)があります。こちらは大正の即礼に合わせて建てられたもので、紫宸殿や諸大夫の間などと繋がっています。また玄関でありながら比較的広いため、フロア的な機能も有しており、現代でも天皇主催の茶会などが行われる場所となっています。
新御車寄からさらに南側は白洲となっていて、西に紫宸殿の塀と、その出入り口である月華門とがあります。実は新御車寄もなかった時代、ここに新嘗祭のための神嘉殿がありました。
平安京では宗教儀式の頂点の施設である中和院とその内部の神嘉殿と、政務儀式の頂点の施設である紫宸殿とが分離並立していることが大きな特徴の一つですが、その伝統は遷都したときからずっと変わりませんでした。現在神嘉殿は近代創建の橿原神宮の創建に当たり、その拝殿として下賜、さらに同神宮の改築に伴い同神楽殿として存続しています。
ちなみに大嘗祭の場合、近代においては仙洞御所で実施されましたが、それに用いられる大嘗宮は一時的なもので、祭礼終了後は解体されることになっていてありません。
さて、前掲のように、内裏内部にあって、紫宸殿はさらに三方を朱塗り、瓦葺の塀で囲まれています。門は東、南、西に計三カ所あり、それぞれ、日華門、承明門、月華門と呼ばれています。参観コースでは日華門をくぐることができます。また前掲のように、承明門のすぐ南には内裏の正門である建礼門が建っており、中央から北が紫宸殿の中央に来るようになっています。
さて承明門前を通って、日華門の側に周ると、そこに春興殿があります。春興殿は長らく賢所であったため、近代の大典に際してこの場に同じ名前で賢所として再建されました。神嘉殿がない今、御所においてもっとも宗教的色彩の強い施設となっています。
日華門から、紫宸殿の南庭(だんてい)に入ることができます。言わずと知れた日本のシンボル的建物で、寛政期以降、平安期の様式が復活し、形状や屋根など、随所に、日本の建物において最上位とされた技術が用いられています。
入母屋造とは、下部は四角錐、上部は二方向に向かって斜めの屋根があり、もう二方向は切妻形となっている建築様式で、東アジア地域に広く分布し、また各地域で最上位として好まれたスタイルです。国内の住居でも、屋根が二方向に向かって下がるものは多くあると思われますが、東アジア地域でも、北京の天安門や、ソウルの景福宮など、シンボル的存在の建物に好まれて用いられています。
檜皮葺は国風期以降、瓦葺よりも上位の技術とされました。また紫宸殿ではそれは二重となっていて、紫宸殿が他の建物よりも上位であることを示していると言えます。
南庭は、紫宸殿そのものと合わせて儀式に用いられることも多く、白洲でできています。紫宸殿の前には左近桜と右近橘とが置かれています。
平安初期、仁明天皇のときに左近桜は、それまでの、中国を代表する花である梅に代わって取り入られました。四季により変化を見せる左近桜と、常緑の右近橘とで仏の教えを示していると言われます。
また、仁和寺に端を発する、皇族が住持を務める宮門跡が全国に一三カ所あり、それは大津の円満院や、日光の輪王寺なども含まれますが、京都の宮門跡ではしばしば宸殿という独自の建物が見られます。これは宮門跡の証の建物でもあり、紫宸殿を模して端正な前庭を設け、その左右に左近桜と右近橘を置いています。
紫宸殿中央には、形骸化が激しいものの、天皇の在所を示す高御座が安置されています。
また、大正期からはその右側に、皇后の御帳台が置かれています。ここで不自然さに気づく人はどのくらいいるでしょうか。そう、「左近桜」と「右近橘」とでは、「左前の原則」により、「左近桜」が上位に来ます。ところがその「左近桜」の側に皇后の御帳台があり、「右近橘」の側に天皇の高御座があるのです。
これはどういうことかと言うと、大正期に、欧米の右側上位の原則に倣い、左前の原則を放棄したのです。ひな祭りが一般庶民にも広まるのも近代以降のことですが、ひな祭りのひな壇でも、「お内裏様」は右側にいます。
しかし京都では「お内裏様」を左側に置くひな人形も多いです。そもそも皇后用の御帳台を紫宸殿に置くこと自体が近代化によるものですが、それはまだしも、「左前の原則」は、今日あらためて見直してもよいのではないかと言わざるを得ないことでしょう。
さて、紫宸殿の西側と北側には壁があります。明治神宮には、明治天皇臨席のもと、副総裁三条実美が紫宸殿に設けられた祭壇の天神地祇に向かって五箇条の御誓文を読み上げる様子を描いた絵画がありますが、これは西北方向を向いて描かれたものです。
この北側の壁には、賢聖障子があります。賢聖障子とは、中国の伝説・古代の忠臣ら三二名を描いたものです。これが紫宸殿の北側に描かれ始めたのは弘仁年間(810~824)とも、寛平年間(889~898)とも言われ、左近桜と右近橘同様、紫宸殿の大きな特徴の一つとなっています。
さて、あらためて日華門に戻り、清涼殿に向かいます。
平安時代初期には、紫宸殿が政務用の区域、清涼殿が天皇の日常生活の場でしたが、平安中期には早くも清涼殿にて政務がなされ始め、中世以降は御常御殿が天皇の日常生活の場所となり、小御所や清涼殿が小、中クラスの政務や儀式の場となりました。
このため清涼殿はいわばオフィシャルとプライベートの両方の機能を備えています。清涼殿は紫宸殿のような巨大なフロアではなく、小規模で多数の部屋から成っています。その中には、紫宸殿では皇后の座席であった御帳台が、天皇の座席として置かれています。
また東庭は紫宸殿南庭に類似し白洲で、左近桜と右近橘の代わりに、左右二カ所に唐竹が植えられています。
さらにこの清涼殿の南西、裏鬼門には鬼の間があります。かつてはここに、古代中国の王が、自ら太刀を取り、鬼を退治している絵画が置かれていました。
清涼殿鬼の間は内裏外部の塀の猿が辻と同様、鬼門、裏鬼門対策としての施設と考えられます。また、猿が辻と鬼の間との間はかなりの距離があるため、猿が辻にて鬼にダメージを与え、鬼の間でとどめを刺す作戦で、内裏内部のみならず、京洛全体に対する鬼への攻撃を、内裏自らが行う役目を担っていたとの説もあります。
清涼殿からさらに北に進むと、より小規模な公的空間である、小御所、御学問所があります。謁見、対面など、小規模で頻度が高い公的な政務は小御所で行われました。また両者の間は蹴鞠庭と呼ばれ、儀式的な側面も持つ遊戯の場としても用いられました。
このエリアからは庭は池泉庭園となります。ここの前の庭は御池庭と呼ばれます。紫宸殿、清涼殿のように、そこに人が立ち入って儀式をするような白洲の庭ではなく、プライベート度合いが増したため鑑賞用の庭となっているのです。
さらに北に向かうと、内裏最大の建物である御常御殿があります。ここは天皇の私的な空間でした。その前にもまた池泉庭園があり、こちらは御内庭と呼ばれています。また御常御殿と連続して御三間という三つの部屋から成る建物があり、ここでは七夕、盂蘭盆など、小規模でプライベートな度合いの高い行事がなされていました。
御常御殿から北側は内裏であっても、細かい分類では女御御所に相当するエリアで、皇后御常御殿などがあります。
一方参観コースでは御三間を抜けると、清所門までは広々とした空間がありますが、ここはかつて御台所があったところです。第二次世界大戦時に類焼防止のため取り壊しとなり、内裏から給仕宿泊機能がなくなってしまい、それ以降天皇の京都での宿所として大宮御所が注目されるようになりました。
話を私の個人的なことに向けますと、明治一六年、明治天皇は大典の京都実施の詔勅を下します。現代、明治天皇の詔勅は散々に踏みにじられることとなりましたが、私はこの詔勅は交通的な制約を受け妥協した跡を感じています。
大典のうち、儀礼行為である即位礼、大嘗祭の後、披露宴に相当する饗宴の儀(大饗の儀)は当時離宮であった二条城で実施されることとなっていましたが、自動車で堺町御門から二条離宮大手門に移動することと、ヘリで内裏から吹上御所まで移動することとは大して時間は変わりありません。私はこの明治天皇の詔勅は、将来交通の問題が改善されたときには、新嘗祭も京都にて実施したいとの意向があったのではと感じています。
そのための施設として、先ほど述べた神嘉殿の再建及び、それに塀を設けた、平安京独自の施設であった中和院の再建、春興殿に塀を設けグレードを上げ春興院への改称、そして新御車寄の移設、並びにそれと一体化した、御台所の再建による給仕宿泊機能の復活などを提唱しています。
さて話を内裏の細部に戻します。
寝殿造りの特徴として、幾つかからなる建物・部屋を独立させ、それらを廊下で結ぶというものがあります。離宮などもその手法が取られている他、寺院であっても諸事情により堂宇や庭園の数が増えてくると廊下も増え、大覚寺の村雨の廊下のようにちょっとした迷路のようになってきます。
内裏もその影響を受け廊下の数が多く、殿舎や廊下で囲まれた箇所が出来、それらが小さな庭、壺庭と呼ばれるようになりました。現在でも一部にそれは残っており、清涼殿の西側の萩壺などが知られます。
また絵画では、紫宸殿の賢聖障子が有名ですが、オフィシャルな場所ほどあのように漢画による伝説の賢人などの鑑戒的な題材が選ばれ、プライベート度合いが上がるほど、大和絵による花や鳥などの穏やかな風景が描かれるようになっています。
一〇二 仙洞御所・大宮御所
【皇室財産】
府立医大病院前停
仙洞とは元は仙人などの意で、そこから上皇の住居、さらには上皇そのものを指すこととなった普通名詞です。大宮はそれに対し上皇の正室である皇太后の意を持つ普通名詞です。
京都御苑の南中央の門である堺町御門から西の大通りを北に進むと内裏の正門である建礼門に着きますが、東の大通りはしばらく進むと、内裏の南東方角にある仙洞・大宮御所の西の塀と並行します。
仙洞・大宮御所自体は古来から里内裏などが当てられてきました。近世に入り、後水尾天皇が譲位の意向を示すと、その在所として、寛永四(1627)年に今の仙洞・大宮御所が建てられます。また所在地からは桜町仙洞・大宮御所、京都仙洞・大宮御所とも呼ばれます。
天保一一(1840)年の光格上皇の崩御の後上皇が発生せず、嘉永七(1853)年に焼失してからは再建されず、代わりにその広大な敷地から、近代では大嘗祭の実施場所とされました。
一方の大宮御所は、夙子皇太后がいたため安政二(1855)年に再建されます。また第二次世界大戦による御台所の取り壊し以降、皇室の京都での宿泊施設、京都迎賓館ができるまではその代わりの施設としても機能していました。
現在、新聞報道などでは大宮御所、参観案内などでは仙洞御所の名が主に用いられていますが、両施設は隣接していて、参観コースでも両方の施設に赴くことができます。
一〇三 桂離宮
【皇室財産】
桂離宮前停
近世における名称は桂別業でした。造営は、八条宮の初代、智仁親王と、その子八条宮智忠親王によって長期にわたってなされました。八条宮家は後陽成天皇の弟智仁親王が創設した宮家で、後の桂宮家です。
桂別業は広大な敷地を持ち、日本庭園の最高傑作と呼ばれています。
そのうちメインの建物の部分は「古書院」、「中書院」、「新御殿」の三つを合わせて成っています。このうち、一番初期の段階、元和元(1615)年頃には古書院が設けられたと言われています。
そこから約半世紀、概ね三つの期間をかけて今の施設が作られていきます。八条宮智仁親王による整備は寛永元(1624)年頃までにはなされていました。
その後の整備は八条宮智仁親王の子、智忠親王によって受け継がれます。寛永初期には彼はまだ幼少であったため少し期間を開けて、寛永一八(1641)年頃、中書院が設けられました。
最後の段階は、八条宮智忠親王の晩年、寛文二(1662)年、新御殿が完成し、翌年に後水尾上皇の行幸を控えて完成しました。なお、この新御殿は、時期としては後水尾上皇の行幸のために造られたと言われており、もちろんその用途になされたでしょうが、一方その後も使用できるよう、八条宮家の御座所としての機能を目論んだものとも言われています。
その論拠として、新御殿には、御化粧の間、御衣紋の間などと言った、化粧や整髪など、よりプライベートの度合いの強い施設が多く用意されたことなどが挙げられています。
主要な建物はその三つを連続させて建っています。この他に広大な庭園の中に松琴亭、園林堂などの茶室が点在しています。
さて、三期にわたって建物が造営されたとはいえ、建物の面積は広大な庭園から見れば通常の町屋などとさほど変わりないと言えます。このため、警備なども必要な権力者の住居として用いることは難しいと考えられます。かといって権力を失った者の隠居用の住居としては、今度は庭が広大すぎます。
また、将軍家の御三家と同様、宮家は四親王家、摂家は五摂家が設けられましたが、ここまでの別業があるのは八条宮家だけで、八条宮家がこれを個人的に楽しむにしてはやはり規模が大きくなりすぎています。
戦前から離宮は下賜が進み、近年では、御所や離宮の公開の度合いも強まりました。また個人が建てた規模の大きい建築物は、その後さほどの期間を置かずして京都府市に帰属される事例も多いです。京都府市の所有となったそれらは、有料の市民公園となり、鑑賞の他、建物を利用して公民館、サロン的な役割を果たしています。
近世においては識字率の問題などもあり、住民全部に開放というのは難しかったのかもしれませんが、名目上は八条宮家、桂宮家の所有であったものの、ある程度の水準の者たち以上にとってのサロン的な場所としての機能が重視されたのではないでしょうか。
また建物の面積が少ないことは実は内裏ですら同じではとも指摘できます。役割上、多くの従業員もいましたし、公務の区域も多数ありますが、それらを除くと、その主である天皇のプライベートの空間は結局は町屋程度です。内裏だけでなく、広大な敷地面積を持つ社寺の宮司や住持のそれもまた同じであることが多いです。
京都周辺においては確かに大きな広さの建物は多いですが、その殆どにおいて、そこの主がプライベートとして用いる空間は市民らのそれと変わりないのです。広大な敷地を欲するということは、奪い合いの世界を想定してのことでしょうが、これはその度合いが相対的に少ない風土があるということではないでしょうか。
思えば京都周辺の公共交通では、比較的優れた設備を持つ列車であっても別料金がかからないことが特徴でした。上下に関係なく多くの人々が小欲知足のものを持っていれば、その分争いの種は少なくなります。
広い邸宅云々が言われ始めたのは近代以降ではないでしょうか。それは戦後には海外製の自動車となり、そしてあろうことか現代のそれとは「子ども」になるという、普通に考えて国の存亡に関わる状態となっています。
京都周辺にあっても、公共交通の設備を金銭で分ける風潮が持ち込まれ始めました。その元凶の東京では、列車の車内は通り魔事件の格好の現場となっています。悪い方向の流れは放置すると悪くなる一方であることが多いので、より具体的、実務的で地味ながらも、効果的にこれを改善することが私たちに求められているのではないかと言えます。
一〇四 修学院離宮
【皇室財産】
修学院駅
万治二(1659)年、後水尾上皇の指示により造営されました。独特の敷地や景観を有しながらも、日本を代表する庭園の一つです。ちなみに「修学院」とは単に当時付近にあった寺院、及びその周囲であるこの地域の名称で、皇室との関りはさほどありません。
下御茶屋、中御茶屋、上御茶屋の三つの区域から成っています。入り口はもちろん普段は門で閉められています。ところが面白いことに、この離宮の三ヶ所の区域はバラバラの位置にあり、近代に入ってからひとまずはそれらを結ぶ道は両側に松並木が植えられたものの、それ以前は完全に水田の中のあぜ道でした。
つまり、水田経由で離宮に忍び込めてしまうのです。この警備の緩さでも問題がなかったことはある意味近世京洛の平和さを現しているとも言えます。
その水田も離宮の借景の一つとなっているため、今は宮内庁が購入し、もともと所有していた農民に引き続き稲作をするよう要請することで引き続き維持がなされています。
表総門を入ってすぐのエリアが下御茶屋です。ここは寿月観という建物を中心に池泉庭園が展開しています。
そこから、驚くべきことに、松並木が植えられているものの単なる水田のあぜ道を進み、分岐路を直進すると中御茶屋に辿り着きます。ここはもともとは寛文八(1668)年、後水尾天皇の第八皇女光子(てるこ)内親王のために造営された朱宮(あけのみや)御所がその前身で、上皇の死後は林丘寺(りんきゅうじ)という寺院になりました。近代に入り、林丘寺の区域も正式に修学院離宮の一部となりました。楽只軒などの建物から成っています。
そしてあぜ道をバックし、先ほどの分岐路を東、山の方に登っていくと上御茶屋の区域になります。ここは浴龍池という池を中心とした池泉庭園です。この池の最大の特徴は池そのものではなくその借景で、隣雲亭という、標高の最も高い位置から右を向くと池がありますが、左を向くと、眼下に内裏が望めるようになっています。
即ち、『池の下に内裏を望む』という奇観を天下髄一の眺望としているのです。山の中腹に池を配置してまでこれをわざわざ成していることに、京洛が自然と共にあるという仏教・神道的な教えも含まれているとも言えそうで、図らずも「修学院」の名に相応しい場所であるとも言えます。
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2021年8月5日 発行 初版
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※ 改行多数のため、ツイプロ及びブログメッセージボードをご参照ください。 〇ツイプロ:http://twpf.jp/sigure_pc 〇ブログメッセージボード: http://blog.livedoor.jp/t_finepc/ ※ アイコンは好きな二次キャラの着せ替えです。但しもしかしたら小説のキャラの外見が似ているかもしれません。左上から右に、珠洲ちゃん、美濃くん、耐ちゃん、司くん、左下から右に、雲雀ちゃん、弘明くん、唯ちゃん、淡水ちゃんです。