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第一章 エジプト文明の発祥
ギルガメシュ叙事詩 ウトナピシュテイムの正体 エジプト文明発祥の推定年代 超古代エジプトのシオン文明 上下エジプト エジプト神話 古代エジプト王朝の基本資料
第二章 ナルメルとベス
ナルメルのパレット 上下エジプトのルーツ 日本建国と統一エジプト ベスとプント ベスとプントの正体
第三章 イムホテプの正体は預言者ヨセフだった
イムホテプの功績 クヌムの地はゴセンの地 マネト(アフリカヌス引用)のイモウテス 賢者ネフェルティと魔法使いジェディの預言 ピラミッドと賢者の石 神の右に立つイエス・キリスト 預言者の使命と反転構造のピラミッド 月とイエス・キリストの犠牲の暗号
第四章 出エジプトのファラオとヒクソスの正体
聖書外典・偽典 モーセとファラオ ヒクソスとエジプト ヒクソスの正体 重なる歴史 ファラオとプント ニトクリス 出エジプトのファラオの正体 メンカウラーピラミッドの象徴
第五章 ソロモン王とシバの女王の正体
ハトシェプストとプント ハトシェプスト葬祭殿の壁画 ソロモンの背信(列王記上11章) メギドの戦いと二人のファラオ 謎の解かれる日
第一章 オイディプス神話
明治天皇と昭憲皇太后の称号の謎 オイディプスの誕生と追放 父を殺害するオイディプス スフィンクスの謎かけ 真実を知ったオイディプス 王位継承戦争 オイディプスのモデル
第二章 異端の王イクナートン
イクナートンの腫れた脚 オイディプス神話とイクナートンの一族の相関図 オイディプス神話とイクナートンの一族の相関図 イクナートンの父殺し ツタンカーメンの兄スメンクカラー
第三章 大預言者モーセ
アメンヘテプ アメンヘテプは大預言者モーセ モーセとファラオ モーセと明治天皇の類似 明治天皇の教えは半世紀で放棄された
第四章 三大ピラミッドとかごめ歌
ピラミッドのサイズに隠された暗号 神の右に立つイエス・キリスト 太陽、月、明治天皇とピラミッド 後ろの正面だあれ 月とウサギの暗号 かごめ歌の暗号
第五章 宰相イムホテプの正体
イムホテプの功績 イムホテプはヨセフなのか クヌムの地はゴセンの地か
第六章 ツタンカーメンと出エジプト
紅白歌合戦 副葬品の製作技術の謎 消えた製作者集団 ツタンカーメンの死因の謎 殺戮の天使の呪いと過越の祭 過越の祭は大みそかの習慣か
第七章 殺戮の天使の正体
謎のゴム人間 カッパと妖精は殺戮の天使か
第八章 偉大なる象徴が示すファラオの正体
イスラエル人とエドム人の因縁 イエス・キリストとヘロデ一族 それぞれのひな形
第一章 邪馬台国への道程
朝鮮半島から不弥国を経て投馬国へ 投馬国と二つの海の道 投馬国から邪馬台国への道(由良川経由) 投馬国から邪馬台国への道(敦賀経由) 投馬国から邪馬台国への道(瀬戸内海経由)
第二章 三韓征伐と魏の使者の道程
八幡、住吉、熊野信仰 神功皇后と三韓征伐 魏の使いの旅程と神功皇后の足跡(朝鮮半島~九州) 魏の使いの旅程(九州~投馬国~邪馬台国) 伊都国(糸島)と不弥国(宇美)に残るアメノヒボコの痕跡 神功皇后の行程(九州~住吉大社)と忍熊皇子の反乱 三韓征伐の時代 神功皇后は実在したか
第三章 神武東征
邪馬台国と崇神天皇 神武天皇と崇神、応神天皇 神武東征・日向~紀国(古事記) 神武東征・日向~吉備(日本書紀) 神武東征・難波~紀国、長髄彦との最初の戦闘(日本書紀) 神武東征・熊野~宇陀、布都御魂剣と八咫烏(古事記) 神武東征・名草~熊野~宇陀、韴霊と頭八咫烏(日本書紀) 神武東征・大和での戦いと橿原での即位(古事記) 神武東征・大和での戦いと土蜘蛛、磐余の由来(日本書紀) 神武天皇の后と地名の謂われ(古事記) 神武天皇の后と地名の謂われ(日本書紀) 神武東征と魏の使いのルートの共通点
第四章 銅鐸に隠された奴国と安曇氏の謎
神武東征ルートと銅鐸 倭国大乱以前の倭と中国の記録 倭国と倭奴国 奴国(倭奴国)は中部地方にあった 倭国大乱の首謀者は狗奴国だった 銅鐸祭祀集団と安曇氏 奴国の倭人のルーツ 狗奴国の長官狗古智卑狗と安曇氏 狗奴国と魏の使いの日本海ルートの理由
第五章 崇神天皇と卑弥呼
タケミカヅチの倭国征服 葦原中国平定(国譲り) フツノミタマの剣の謎 タケミカヅチと崇神天皇と藤原氏 崇神天皇の治世 崇神天皇と紀州 箸墓古墳とヤマトトトヒモモソヒメの謎 仏教の風習に秘められた卑弥呼の死
第六章 狗奴国の王卑弥弓呼の正体と倭国大乱の真相
垂仁天皇の事績と起源説話 卑弥呼の後に立った男王は垂仁天皇だった 狗奴国の王、卑弥弓呼はトヨキイリヒコだった トヨキイリヒコの正体は神武天皇だった 応神天皇もまたトヨキイリヒコだった
第七章 ヤマトタケルの伝説
ペンローズの階段とヤマトタケル ヤマトタケルの征西(古事記) ヤマトタケルの征西(日本書紀) ヤマトタケルの東征・尾張、焼津、走水(古事記) ヤマトタケルの東征・景行天皇の賛辞(日本書紀) ヤマトタケルの東征・伊勢神宮と倭姫、焼津、相模、上総、陸奥(日本書紀) ヤマトタケルの東征・蝦夷の国、足柄、甲斐、茨城、信濃、尾張、伊吹(古事記) ヤマトタケルの東征・武蔵、上野、信濃、越、美濃、尾張、近江、伊勢(日本書紀) ヤマトタケルの薨去(古事記) ヤマトタケルの薨去(日本書紀)
第八章 ヤマトタケルの正体
古事記と日本書紀の矛盾 記紀編纂と邪馬台国論争 ヤマトタケルはトヨキイリヒコだった ヤマトタケルは神武天皇だった 邪馬台国征服は記紀に記されていた ニギハヤヒとナガスネヒコの正体 倭と日本
第一章 信長と忌部氏とスサノオ
劔神社 古事記と古語拾遺 編纂の発端 高天原の神々 国生み(大八島国の形成) 神生み 黄泉降り イザナギの禊ぎと神々の派生 天照大神とスサノオ 天岩戸隠れ 五穀の起源 八俣大蛇退治
第二章 スサノオとアメノマヒトツとツヌガアラシトとアメノヒボコ
近江のアメノヒボコの神社 藤原氏に封印された近江のアメノマヒトツ スサノオとアメノマヒトツと猿田彦は同一神だった 気比神宮の伝承 秦氏、藤原氏、賀茂氏の狗奴国同盟 神武東征と八咫烏と金鵄 秦氏の稲荷神社創建
第三章 信長と崇神・応神天皇家
第六天魔王と天台座主 スサノオと薬師如来 石山本願寺との戦い 薬師如来と藤原氏 信長の伝記の信憑性 歴史記録者の真意
第四章 イエス・キリストと信長
信長とキリシタン 織田信忠の謎 キリシタン弾圧と本能寺の変の黒幕 信長とイエス・キリスト、信忠とイスカリオテのユダ
第五章 ペテロと光秀
光秀は信長を恨んでいたのか 酒と刀 キンカ頭(はげ頭) 見殺しにされた母親 捨てられた魚 光秀は使徒ペテロだった
第六章 本能寺の変に隠された火の暗号
愛宕神社の暗号 本能寺を襲撃した本当の犯人 見つからなかった遺体
第七章 安土城に仕掛けられたイエス・キリストの暗号
見つからなかった石 礎石の暗号 蛇石の象徴 天主閣はイエス・キリストの神殿だった 安土城は天照大神の神宮だった 影向石 伴天連追放之文とカトリックの信条
第八章 卑弥呼と大平和敬神信長
天照大神の信長 聖書に記された大嘗祭の奥義 卑弥呼は天照大神であり、イエス・キリストだった スサノオと薬師如来の謎 狗奴国の王卑弥弓呼の正体 狗古智卑狗と真の藤原氏 大平和敬神織田信長 光秀の神社
ピラミッド、ツタンカーメン王墓の黄金製品、ラムセス2世、ハトチェプスト女王など、古代エジプトを彩る王族や文明遺産は、古代史を知らずとも大いに興味を惹きつけてやまない。
世界の注目を集める古代エジプトだが、遺跡に刻まれたヒエログリフ(象形文字)やパピルスといわれる歴史書から、古代エジプト史(エジプト王朝)が構築されている。しかし、未解明な部分も多い。
ペンローズの階段という不可能図形がある。表紙の絵がそれであるが、階段のどこが頂点なのか底点なのか分からなく見える図形である。これを時間軸で考えるとどうなるであろうか。四つのポイントにそれぞれ出来事を仮定して、その出来事は、何が先か後なのか分からなくなるのではないだろうか。
歴史(書)というものは一方通行で、過去・現在・未来と時系列で示されるのが当然であるといえば当然である。それが古代エジプトの歴史に関しては、ペンローズの階段のようにどこが過去か未来なのか分からなくしてあるのではないかと思われるのである。
実はこのことに気付いた人物がいる。それはロシア系ユダヤ人、イマヌエル・ヴェリコフスキーである。彼の著書「衝突する宇宙」は非常に有名だが、彼が心血を注いでいたのは古代エジプト史の再構築である。本書は彼の研究によって成り立っている。
本書はヴェリコフスキー史論と同じく、時間軸を聖書考古学に依っている。調べれば調べるほど、聖書の記述の正確さが明らかになってくる。そしてこれらのことを認めてこそ、古代エジプト史が解明できることを示そうとするものである。
古代エジプトにおいて、プントという謎の王国が登場する。また、謎の魔法使いや賢人が何度か登場する。映画「ハムナプトラ」の魔術師イムホテプは有名である。それらの奇妙な謎は、解明されるのを待っているのではないかと感じている。それらに説明がつけば、現在のところまったくの謎とされている、出エジプト時のファラオの正体が明らかになるのである。
そして、世界七不思議の一つで、唯一の現存物である三大ピラミッドにこそ、すべての謎をとく鍵があることを示したい。
ギルガメシュ叙事詩
ギルガメシュ叙事詩という古代メソポタミヤの記録がある。英雄ギルガメシュの冒険譚だが、その中に出てくる大洪水伝説が、聖書のノアの時代の洪水の元ネタになったといわれている。聖書よりもギルガメシュ叙事詩の方が古いという認識だが、大切なのはここから真実を見出すことではないだろうか。
ギルガメシュはメソポタミアのウルクという国の王であった。彼は実在の人物と考えられている。ギルガメシュが永遠の命の秘密を知ろうとして、それを得たというウトナピシュティムという人物に会いに行ったときに聞いたのが、大洪水伝説だった。このウトナピシュティムがノアのモデルになったとされている。
このウトナピシュティムはノアなのか誰であるかを、彼が住んでいた場所から予想することができるのである。以下はギルガメシュの旅路である。
ウルクの王ギルガメシュは親友エンキドゥの死を看取った後、永遠の命を求め、シュルッパクの聖王ウトナピシュティムが不死を与えられていることを知り、彼に会うため旅に出た。
ギルガメシュは地の果てにあるマーシュ山という双子の山にたどり着く。そこでは二匹のサソリ人間が門番をしていた。サソリ人間の引き留めにも応じず、暗闇の中を進み(120キロ)、ブドウの実る楽園に到着する。さらにそこから船で死の海を渡って行った。海を渡る際、120本から300本という櫂を用いた(捨てた)ともいわれる。
ようやくウトネピシュティムの住む島に到着したギルガメシュは、彼から6日間の洪水を船で生き残り、不死を神から授かった話を聞いた。その後、洪水の期間と同じ6日6晩寝ずに過ごすように勧められるが、ギルガメシュは眠ってしまった。
ウトナピシュティムに起こされたギルガメシュは帰国することとなったが、ここで手に入れた若返りの薬草も蛇に取られてしまい、泣く泣くウルクに戻った。
ウトナピシュテイムの正体
この旅程を実際の地図に当てはめると、次のようになる。
地の果てにあるマーシュ山という双子の山と、2匹のサソリ人間にぴったり当てはまるものがある。それはエジプトのギザにあるピラミッドとスフィンクスである。ギザの三大ピラミッドはクフ王とカフラー王のものがほぼ同じ大きさで、メンカウラー王のものが極端に小さい。見かけは二大ピラミッドといえるのである。
サソリ人間はまさにピラミッドの前のスフィンクスである。スフィンクスは神社の狛犬のように左右に並び立っていたはずで、スフィンクスの前足の間にあるレリーフにも2匹のスフィンクスが描かれている。ギルガメシュの時代以降に一つは崩壊してしまったのではないだろうか。
マーシュ山がピラミッドならば、その先にある暗闇の道のりと死の海はサハラ砂漠となる。砂漠の嵐はまさに暗闇となるが、その先にある死の海もまたサハラ砂漠の歴史を物語っている。サハラ砂漠の土壌には多量の塩が含まれているが、これは砂漠の上に海があったことを意味している。さらに砂漠の下には広大なジャングルがあったことが判明しており、ジャングルの上を海水と砂が覆ったことになるのである。
死の海に捨てられた120本とも300本ともいう櫂は、ここがジャングルの沈んだ海であったことを意味しているのかもしれない。ヨルダンにある塩湖も死海というように、サハラ砂漠の南もギルガメシュの時代には死の海だった可能性が高いのである。サハラ砂漠が海(難所)であったことから、その北にあるピラミッドが地の果てのしるしとされていたのかもしれない。
死の海の先にあったウトナピシュティムの島は、マリ共和国のタガーザやタウデニにある岩塩鉱床のある地域と思われる。タガーザは枯渇を意味する語で、もともと海であったところが乾いたことを示唆しているものと思われる。その中で、ウトナピシュティムがいたと思われる場所は、ギルフ・ケビールと呼ばれている地域ではないだろうか。
ギルフ・ケビールは、エジプトの南西部、リビア、スーダンとの国境付近に広がる岩山である。ここには岩壁に残る太古の壁画がある。壁画の中には泳ぐ人の姿もあり、かつては水が豊富にあった証左ともいえる。
さらにサハラ砂漠が海に覆われていたとするなら、それは川の氾濫程度の洪水ではなく、聖書に記されているように、全地球が水没した(すべて海になった)ことを示しているのではないだろうか。聖書には、洪水の水が引くのにほぼ1年かかったと記されており、サハラ砂漠上の海は岩塩鉱床ができるほど長期間存在していたと思われるのである。
また、北部にはケビール・クレーターという、世界最大の隕石衝突痕がある。宇宙規模の天変地異がこの地を襲ったことも分かる。この隕石の衝突が原因と思われる、この地域の北50キロの付近でしか取れないシリカグラスという宝石が、ツタンカーメンの胸飾りに付けられている。ここがエジプト文明において重要な場所であったことも分かるのである。
ギルフ・ケビールがウトナピシュティムの住んでいた場所であるとするなら、彼はノアではないことになる。ノアは中東近郊に住んでいたはずで、アフリカ大陸に住んだのは別の人物である。それは子供にエジプト(ミツライム)の名を付け、名前が「暑い」の意味を持つ、ノアの息子ハムである。
ノアには3人の息子がいたが、そのうちの一人セム(セム語族の祖といわれる)は長命で、600歳(洪水後500年)まで生きたとされている(ノアは950歳、洪水後350年)。それはセムの10代後の子孫であるアブラハムよりも長命であったくらいである。聖書には洪水後の人々は、世代が進むにつれて寿命が縮まっていることが記されている。
ハムの生きた年数は不明であるが、セムと同じくらいであったとすると、後代の人やギルガメシュにとってまさに不死の存在と思われたのではないだろうか。
エジプト文明発祥の推定年代
ギルガメシュの時代、サハラ砂漠が海の底であったものの、スフィンクスと二大ピラミッド付近は陸になっていたと思われる。また、この二つはエジプト文明の物ではなく、洪水以前の文明遺産ということになる。
アラブ人はこのことを知っていたと思われ、彼らは二大ピラミッドの建設者をヘルメスとアガーディモン(アガドダイモン)といっている。ヘルメスはノアの曽祖父エノクのことである。またヘルメスはエジプト神話におけるトート神であるが、ピラミッド建設の指南者とされているのである。
アガドダイモンはセトと同一とされることから、セトの音節とエノクとの兼ね合いから推測するに、エノクの5代前の先祖であり、アダムの息子であったセツではないかと思われる。
エジプト文明の基盤となった町、いわばピラミッドを中心とした宗教都市が、水没状態から姿を現していった次第を記した書物が存在する。19世紀のアメリカ人ジョセフ・スミス・ジュニアが、エジプトの地下墓地から見つかったパピルスを翻訳した「アブラハム書」と名付けられた書である。古代の預言者アブラハムが記したもので、ここには次のように記されている(アブラハム書1:20~26)。
20パロとは、王族の血統による王を意味する。
21さて、このエジプトの王は、ハムの腰から出た子孫であり、生まれはカナン人の血統を引いた者であった。(筆者注:カナンとはハムの息子である。ここでいうパロはアブラハムの時代のパロで、25節のパロはその祖である。パロはファラオと同語である。拙著内で聖典引用時はパロを用い、それ以外はファラオと表記する)
22この家系からすべてのエジプト人が出て、カナン人の血がその地に残されたのである。
23エジプトの地は最初に一人の女によって発見された。この女はハムの娘であり、エジプタスの娘であった。エジプタスとは、カルデヤ語でエジプトを意味し、禁じられたものという意味である。
24この女がその地を発見したとき、それは水の下にあったが、後に彼女はそこに息子たちを定住させた。このようにして、ハムから、その地にのろいをとどめた人種が出たのである。
25さて、エジプトの最初の政府は、ハムの娘であるエジプタスの長男パロによって設けられた。それはハムの政府に倣い、族長制であった。
26パロは義にかなった人であり、王国を設立して、生涯賢明かつ公正に民を治め、最初の世代、最初の族長統治の時代、すなわちアダムやノアの治世に族長たちによって設けられた制度を模倣しようと熱心に努めた。
ノアの時代の大洪水は聖書の年代記述をもとにすると、紀元前2350年前後と推定されている。ノアは妻と三人の息子とその妻の八人で箱舟に乗り、洪水を生き延びた。洪水からしばらく経ってエジプトは海中から姿を現し、ハムの孫のパロ(ファラオ)から王朝が始まったのではないかと思われるのである。
アブラハム書の記述を信じるならば、前エジプト文明は洪水によって一度滅んでいる。洪水後に生まれた娘の息子パロ(ファラオ)がエジプト王朝最初の王ならば、遺跡の上に築かれたファラオの統治によるエジプト文明の嚆矢は紀元前2300年前後となる。
そしてアブラハム書を記したアブラハムがエジプトに寄留した時期を計算すると、洪水から367年以降のことになり、紀元前約2000~1900年となる。(創世記は各時代の族長が何歳の時に息子すなわち次の族長が生まれたかを記しており、セムからアブラハム誕生までを積算すると367年となる。
アブラハムが神から与えられた約束の地の名をカナンと呼ぶが、これはハムの息子カナンにちなんでいる。ノアの息子たちがそれぞれ受け継ぐ地をくじで決めた際、セム族が住むべき地にカナン族が乗り込んできたためにこうなったのである(旧約偽典ヨベル10:28~34)。
ハムの息子カナンと妹の一人との間に生まれたパロは、カナンの地に住まず、自分たちに与えられたエジプトの地を受け継いだ。そういう背景もあり、エジプト人はカナンの地を特別視していた可能接もある。
超古代エジプトのシオン文明
ギザの二大ピラミッドを初めとする、洪水以前から存在していたエジプト文明を、ピラミッドの創始者エノクが築いた町の名を取って、シオン文明あるいは時代を本書での表記とする。この文明については、先述のアブラハム書を翻訳したジョセフ・スミス・ジュニアが翻訳した別の書物「モーセ書」に記されている(モーセ6:21~7:69)。
シオン時代を先述のアブラハムと同じ計算式を用いると、洪水が起こる969年前から300年間続いた文明であった。紀元前約3300年から3000年である。シオン文明は300年後、天に取り上げられ、地上から消え失せてしまったという。
この文明の規模は不明であるが、二大ピラミッドとスフィンクスは残されたものと思われる。筆者は二大ピラミッドに次ぐ大きさの赤いピラミッド(化粧石が剥がされてそうなっている)や、屈折ピラミッドもシオン文明の遺産ではないかと考えている。
これらは王墓ではなく、宗教儀式と礼拝を行っていた神殿と思われる。日本にあるピラミッド状の山は神奈備(かんなび)として、御神体や礼拝場として使われていたが、これに近いのではないだろうか。
上下エジプト
古代エジプト第1王朝は上下エジプトを統一した王権とされている。上下はナイル川の上下流のことで、上エジプトは現在のカイロ南部からアスワン辺りを占め、下エジプトはカイロ南部から地中海までのナイルデルタ地帯を占めていた。
上下エジプトの統一期には、下エジプトの最南部にあるメンフィスに都が定められた。統一王は白と赤の王冠をかぶる姿で描かれている。白が上エジプトで植物の象徴は睡蓮、赤が下エジプトで植物の象徴はパピルスを示し、両方を身につけることで統一王を表すとされる。
ナイル川と共にあったエジプト文明の各都市を俯瞰すると、熊手やあやとりのほうきのような形を成している。熊手の柄の頂部分は、上エジプトの南端にあたるエレファンティン(現在のアスワン)で、柄の中間部分にテーベ(上エジプト)、扇型の要部分にメンフィスや三大ピラミッドのギザ、そのすぐ北に下エジプトのヘリオポリスがあった。
テーベとメンフィスの中間に、ナイル川を挟んでヘルモポリスとアマルナが建設された。テーベにはナイル川の東にルクソール、西に王家の谷など(東が生、西が死という死生観が現れている)、有名な遺跡が残る。
エジプト神話
古代エジプト文明は多神教であり、他の地方や異国の神も習合していくので、ある意味日本の風習と似ている。最も知られているのが下エジプトのヘリオポリス神話である。ヘリオポリスはギリシャ語で太陽の町だが、古代名ではイヌウやオンである。
その他、ヘルモポリス神話、メンフィス神話、テーベ神話などがある。
ヘルモポリスは上エジプトの都市で、ギリシャ語でヘルメスの町といい、古代名はクヌムという。このクヌムも後述の記事に登場する。
また以下のように、エジプト文明における神が信仰されていた地域の発展と結びついていることが伺える。
ヘリオポリス:アトゥム、ラー、ホルス、イシス、オシリス、セトなど(エニアド、ヘリオポリス九柱神:九柱の神々)。ホルスは最古の最も偉大な神といわれる。
ホルスの左目:ウアジェトの目(月を表す)、下エジプトの守護神ウアジェト女神(コブラ)、王に赤い王冠を授ける役目はホルスでもある。
ホルスの右目:ラーの目(太陽を表す)、上エジプトの守護神ネクベト女神(ハゲタカ)、王に白い王冠を授ける役目はセトでもある。
有名なツタンカーメンのマスクの額にあるハヤブサとコブラの飾りは、上下エジプト両方の王であることを示している。
ヘルモポリス:アメンなど(オグドアド:八柱の神々)
メンフィス:プタハ
テーベ:アメン(テーベ勢力のエジプト統一に伴い、ラーと習合して主神アメン・ラーとなった)、アテン(一地方神)
本書ではラーが他の神と習合していることから、非常に古い歴史を持っていると推測している。そして青い睡蓮がラーの象徴であることから、上エジプトがルーツと考えられる。
古代エジプト王は王権守護神の名を付けている。
第1王朝が始まる上下王朝時代には、上エジプト王がホルスの化身を示すホルス名を用いていたが、統一後はそれにネブティ名(ウアジェトとネクベトの化身を示す)が加わり、即位名、上下エジプト王名も合わせられていった。時代によってセト名(セティなど)やアテン名(アクエンアテン、ツタンカーテン)、トート名(トトメスなど)の王もいる。
ホルスとセトは激しい戦いをした宿敵であり、ホルスは左目を失うも勝利している。その際援助したのがネイト女神であるが、後にメデューサなどに姿を変えている。
古代エジプト王朝の基本資料
古代エジプト王朝の歴史を知る手掛かりとして、いくつかのテキストがある。紀元前3世紀の歴史家マネトが記した「エジプト史(以下マネトと表記する)」、ラムセス二世の時代(紀元前13世紀と推定)に作られたと考えられている「トリノ王名表」のパピルス断片などである。マネトを元にエジプト王朝は第1から第31王朝に分類されている。
エジプトの最初の王は、マネトによるとメネスといい、トリノ王名表ではメニとなっている。歴史家のヘロドトスはミン、ディオドロスはメナスと記している。どれも同じ王を指している可能性は高い。マネトは重要な人物としているが、この名が記されていない石碑(パレルモ石など)もあり、多分に伝説的要素を含んでいる。
マネトその他の記録による第1王朝の初代王はメネスで、エジプトを統一し、ティニス(出身地)を首都とする。62年の統治後カバにさらわれて死ぬ。ヘロドトスはナイル川の流れを変え、メンフィスを首都にしたとしている。
考古資料から推定されている第1王朝の初代王はナルメルで、ナルメルのパレットが有名。ただし、2代のアハが62年の在位でカバに殺されるなど、マネトのメネスによく似る。彼が最初の統一王とする説がある。
8代のカアはアビュドスに巨大な墓が残り、入り口付近から次王ヘテプセケムイ(第2王朝初代王)の封泥が見つかったが、王権の交代を示すものと考えられる。生贄の風習を行っていた。この王が初代という説もある。
なぜエジプトは上下に分かれていたのか、いつどのように統一されたのか、初代統一王は誰なのかは不明確のままである。その中で、意外なキャラクターが解決のヒントをもたらしてくれそうである。
エジプトの絵画遺跡に見られる神や人物は、横顔が基本である。それがベスという神に限って正面を向いているのである。小人でガニマタ、あっかんべーをしたひげもじゃの顔をしている。あだ名はプントの主という。
プントといえば、ハトシェプスト女王が交易したプントの国が有名だが、ベスはハトシェプスト女王葬祭殿に描かれた、女王の出産の絵の中にもいる。ベスがプントに関係する神または人物であることが分かるが、プントが一体どこの国を指すのかが分かっていない。このプントとベスが謎を解く大きな鍵を持っているのである。
ナルメルのパレット
考古学者が初代統一エジプト王と見なす一人がナルメルである。ナルメルのパレットという貴重な遺物に描かれたナルメルの姿が、武力で上下を統一したことを表しているとされる。パレットとは化粧を調合する板のことで、裏表にナルメルが描かれている。表側とされるのが、長い首の2頭の怪物が描かれた面とされている。長い首をからませた中央が調合する箇所という。
裏側のナルメルが棍棒を持った姿で上エジプトの白冠をかぶり、下エジプト人と思われる人物の髪をつかんでいることから、ナルメルは上エジプトの王として下エジプトを武力で制したと考えられている。表に描かれたナルメルは下エジプトの冠をかぶり、首を刎ねた敵と思しき遺体群の前で、儀式の列を構成している。
ナルメルの名前はこのパレット上部の、四角い囲み(セレクという)の中に記されている。ナルはナマズ、メルは鑿(のみ)の意で、合わせて暴れるナマズとされている。
ナルメルの時代の他国との交易を示す遺物として、紀元前3000年ごろの陶器の破片がイスラエル南部で発見されたが、そこにはセレクに囲まれたナルメルの名が刻まれていた。
上下エジプトのルーツ
エジプト学だけではないが、年代などを決める考古学上の計算値は聖書考古学と大きく異なる。聖書考古学では、世界を沈めた大洪水の後、四大文明が始まったとしているからである。洪水の年代は紀元前2350年前後で、アブラハム書の記述を採用した場合、エジプト王ファラオの登場は紀元前2200年前後と推測される。
そのファラオは、祖父ハムの政府をモデルにしたという。ハムの国はギルガメシュの旅の終着点であるギルフ・ケビール近郊(リビアとスーダンの国境付近)に栄えた文明と推測している。ナイル川の西方700キロも離れた場所ではあるものの、ツタンカーメンの墓にここから採れるシリカグラスが見つかっているので、この地域との交易があったわけである。加えて、サハラ砂漠が海だった時代があり、船が使えたならば、交流はさらに活発なものであったことになる。
このハムの国が上エジプトではないだろうか。上エジプトをモデルとして下エジプトがファラオを戴いて誕生し、それぞれが発達していったのではないだろうか。ナルメルのパレットが統一の始まりを示すものだとすると、ファラオの称号は下エジプトがルーツとなる。
そして上エジプトの白と睡蓮、下エジプトの赤とパピルスの象徴と統一エジプトの姿は、何と日本人が最も身近な象徴として持っていたのである。
日本建国と統一エジプト
日本は倭国と日本という二つの国が合わさって成立した。その象徴が日の丸であり、白と赤の国が統一されたことを示している。
白とは源氏の旗色で、坂東武者すなわち東国を示している。赤は平氏の旗色で、水軍の西国を示している。そのルーツは東国を日の出の国「日本」と海の民の国「倭国(邪馬台国)」にある。日本はもともと「クニ」という名であり、九日すなわち旭の狗奴国を指していた。魏志倭人伝では邪馬台国の南に狗奴国があるとされているため、その配置は上下エジプトと同じ構図となる。
狗奴国は崇神天皇とその皇子豊城入彦の勢力で、熊野・八幡・住吉の秦氏と連合して日本全土を征服したが、天皇の正統血統は倭国の王のものであった。そのことは、日本の最高神天照大神を崇神天皇が宮中から追放し、熊野信仰を明治維新まで続けたことに示されている。
そして熊野信仰とは鎌倉仏教以前の呪術仏教であり、一膳飯に表される死者を呪い封じする儀式に邪馬台国征服の謎が隠されている。これは卑弥呼が復活(復権)しないようにする呪術である。
仏教の象徴といえば蓮であり、仏像が座しているのも蓮華の上である。この蓮華はブンダリーカといい、中国から伝わったものである。ブンダリーカには白、青、紅、黄があり、白以外は蓮ではなく睡蓮ということになる。むしろ、すべて睡蓮と考える方が理にかなっていないだろうか。
特に青い睡蓮は上エジプトのラーの象徴であるため、仏教勢力の狗奴国と象徴が同じなのである。倭国は豊葦原中国であるため、その象徴は下エジプトのパピルス(葦)と同じとなる。日本人の色表現にも、それが示されている。白く輝く月を青い月といい、ブルーホエールをシロナガスクジラといい、信号や自然の緑を青という。太陽を赤色で表すのは日本とエジプトの特徴である。
日の丸を初め、紅白まんじゅうや紅白歌合戦、源平合戦など、日本人は上下エジプトの歴史と身近に接していたのである。
ベスとプント
日本の一般大衆が信じている神は多種多様であり、しかも信仰心があるというわけではない。それに対し、日本の象徴である天皇陛下や皇族の信仰生活は、一般とは大きく異なっている。狗奴国がもたらした仏教も、一般の仏教とは全く違ったものだったと思われる。それは古代エジプトでも同じだったようである。
一般のエジプト人が信仰していた外国の神にベスがある。エジプトの壁画やレリーフのすべてが横向きに描かれているのに対し、ベスは正面を向き、ガニマタのひげ面の小人で、あっかんベーをしている。日常のあらゆる守り神とされ、特に母親や子供の守護者となっている。日本の風習と同じく、お守りやお札となっている。というより、日本のエビスや大歳神とまるで同じである。
ベスのあだ名は「プントの主」である。つまりこの神はプントから来て、しかもプントの神か王であったことが伺える。時代にもよるが、国民が国王や国家に反感を持っていた場合、外国の文化やシステムにあこがれを抱くことがままある。ベスをエジプト民衆が好んだということは、そういう感情もあった可能性がある。
外国の文化が一般に広まるのに、ある程度の時間がかかるといえる。日本の歴史を例に挙げると、織田信長の人気が高まったのはテレビドラマからであるため、信長の死後400年後経っていることになる。
ベスの人気が出てレリーフなどのデザインが固まるまでの期間を考えると、ベスがエジプトに来てから100~200年は経っているのではないかと思われる。すると、ベスが広まったのは古王国時代(第3王朝)とされることから、ベスがエジプトに来たのはナルメルの時代であった可能性もある。
なぜかというと、ナルメルのパレットに描かれた残虐性からの想像である。ナルメルは民衆にひどく嫌われていたことが予想され、そういう時期にやって来たベスの伝説がひときわクローズアップされたかもしれないのである。歴史は不思議な連鎖や謎かけをしてくることがある。ナルメルのパレットという貴重な遺産が日の目を見たのも、過去からのメッセージなのではないだろうか。
ベスとプントの正体
第3王朝のジェセル王を次章で取り上げるが、その兼ね合いでベスの正体が推定される。それは族長アブラハムか、アブラハムが王として仕えたサレム(後のエルサレム)の王メルキゼデクである。
メルキゼデクが治めたサレムはヘブライ語の「平和」に近い意味がある。ここがイスラエルやエルサレムと呼ばれるようになったのはずっと後のことである。エジプト人が偉大な王メルキゼデクのことを知っていて、その町をエジプトの言葉で神の町、すなわちプントと呼んでいた可能性が高い。
ベスはメルキゼデクとアブラハムを組み合わせたものかもしれない。メルキゼデクはサレムことプントの王であり、ベスのプントの主というあだ名がそのまま当てはまる。アブラハムはメルキゼデクに仕える立場であった。それに加えて、アブラハムの息子イサクの誕生が、何十年も待ち望んだ祝福だった逸話からも、母親と子供の守り神のベスの姿を見るのである。
先述のアブラハム書には、アブラハムがファラオに天文学を教える教師であったことが記されている。しかし、エジプト人の宗教は人身御供を伴うものであり、アブラハム自身も殺されそうになったとある。
また、創世記にはアブラハムと妻サラがエジプトに寄留した際、エジプト人はサラの美しさに魅せられた。アブラハムは妻を妹と称することにより、自身が殺されて妻を奪われるのを防いだが、エジプト人の心がけの悪さからか疫病が蔓延した。ファラオは彼らが夫婦の関係であることを知り、エジプトから追放した。
マネトによる初代王メネスや、考古学上の2代王アハが、カバの災厄にあったことが記されている。カバはセトの化身であるが、タウレトの化身でもある。タウレトはベスと同一ともされるため、カバの災厄はアブラハムの災厄ともいえるのではないだろうか。
セトはファラオの守護神ホルスの敵であり、シオン文明のピラミッドの建設者セツでもある。その後継者ともいえるメルキゼデクやアブラハムは、ファラオに反感を抱いていた一般市民にとっては英雄であったとするなら、彼を思い出してベスとしたのかもしれないのである。
イムホテプの功績
古代エジプトにおいて、偉大なる預言者であり神の人と呼ばれた人物、それがイムホテプである。イムホテプは、階段ピラミッドで有名なジェセル王(第3王朝第2代)の宰相として仕えた。
イムホテプの功績の一つにエジプトの飢饉を救った逸話がある。ナイル川の7年の渇水により飢饉となった際、ジェセル王はイムホテプに助言を求めた。そこでイムホテプは「ナイル川の水源の主であるクヌムの神殿に土地を寄進すれば、再びナイル川は氾濫するであろう」と答えた。一方、エジプトの飢饉を救った預言者ヨセフの事蹟は、イムホテプのものとよく似ている。
ヨセフはイスラエル人の祖ヤコブの11番目の男子として生まれた。弟に同母弟のベミヤミンがいて、イスラエルの十二部族を構成した。ヤコブは先述のアブラハムの孫であり、イスラエルはヤコブの別名である。ヨセフは年寄り子でかわいがられたため、兄たちに妬まれた。その妬みは頂点に達し、ヨセフはエジプトに奴隷として売られてしまった。
さらにエジプトでも奴隷の身からさらに落ちて、牢屋に2年間入れられることになった。それでもヨセフは信仰を失わず、主から恵みを受けてついにファラオの前に召しだされる。ファラオはヨセフを王の位に継ぐ宰相に任じ、エジプトの実質の統治者となった。
そのころ世界は飢饉に見舞われた。ヨセフは前もって主から7年の飢饉を知らされ、食料の備えをしていた。その食料を得ようとヨセフの兄たちがエジプトに来たが、エジプトの宰相が弟のヨセフだとは夢にも思わなかった。
ヨセフは兄たちに会い、自分が誰であるかを明かし、後悔している兄たちに告げた。「主がわたしたちの家族を救うために、先にわたしをエジプトに使わされたのです。もう悔いることも自分を責めることもしないでください。」父ヤコブもヨセフが生きていたと知って喜んだ。
その後、ヤコブ(イスラエル)の一族はエジプトへ移住した。移住先をゴセンの地といった。(創世記37章~50章)
クヌムの地はゴセンの地
イムホテプの進言にあるクヌムの地の寄進は、父ヤコブの家族へゴセンの地を寄進したことと同じであり、イムホテプは預言者ヨセフなのである。この説は、1994年にメリー・ネル・ワイアットが発表している。
イムホテプは神と人の母との間の子と言われることもあるのだが、これはファラオと同格であることを表している。これと同じような記述が聖書にも見られるのである。
そこでパロは家来たちに言った。「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」またパロはヨセフに言った。「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民は皆あなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」パロはさらにヨセフに言った。「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」(創世記41:31~41)
イムホテプはトート神からピラミッドの建造方法を学び、階段ピラミッドを建築したという。それはつまり、大ピラミッドの建造者エノクから学んだのである。アダムから続く神の預言者の系譜を、ヨセフが受け継いでいることがここからも分かるのである。
さらに、イムホテプが述べたクヌム神は、羊の姿をし、ろくろで人を創造したという。エジプトにおける唯一の創造神であり、ラーよりも古いとされている。クヌム神とは、神の小羊と呼ばれ、人を創造し、ヨセフが信仰していた主イエス・キリストのこととなる。
マネト(アフリカヌス引用)のイモウテス
マネトによると、第3王朝第2代の王はトソルトロスという。彼の時代にイモウテスという者がおり、エジプト人からアスクレーピオス神と見なされた。切り石で家を建てる方法を生み出し、書字にも秀でていたという。考古学者も、この記述がジョセル王とイムホテプを表すものとして認識している。注目すべきはアスクレーピオスであろう。
アスクレーピオスは太陽神アポロンとコロニスの子である。アポロンは一羽の白いカラスを使いとしてコロニスとの連絡係にしていた。コロニスが浮気をしているとカラスが告げたところ(その他さまざまな説があるが、カラス自身に問題があったことを伺わせる)、アポロンはコロニスを矢で射殺した上に、カラスも罰して白い羽を真っ黒に変え、天空に曝して償わせた。コロニスが身ごもっていた子がアスクレーピオスで、アポロンは彼を救い出してケンタウロスの賢者ケイロンに預け、医術を習得させた。
カラスが白から黒に変えられたという逸話は日本にもある。それは稲荷神社の創建ともかかわりがあり、カラスを黒に変えたのはトンビである(これもカラスの自己責任である)。トンビはイエス・キリストを象徴する存在である。クフ王のピラミッドはイシスの神殿であるが、イシスもまたトンビの姿である。このことは非常に大きな意味を持っている。
アポロンの子アスクレーピオスは医術の神であった。イエス・キリストの生き写しともいえるヨセフは、確かに人を癒す神の子であったことになるのである。
賢者ネフェルティと魔法使いジェディの預言
第12王朝のアメンエムハト1世の出現と正統性を喧伝するものとして作られたといわれる、エルミタージュ・パピルスという記録がある。それは「ネフェルティの預言」と呼ばれている。
賢者ネフェルティがスネフェル王(第4王朝)の要請に従い、未来に起こる災害と侵略について述べた。彼が語るに、エジプトが凄まじい破壊を受けたと同時に、アジアからの侵略者が暴虐と圧政をもたらす。しかし、アメニという王が即位し、白と赤の冠を戴く、つまり上下エジプトの統一を成し遂げるという預言である。
また、ウェストカー・パピルスにはジェディという魔法使いが登場する。後述のヒクソスの時代に記されたものと考えられている。パピルスはクフ王が9人の息子たちから話を聞く形式を取っているが、最後の3人の話だけ残されている。
最年少の息子ジェデフホルは「スネフェル王のピラミッド番人の魔法使いジェディは、トート神の知恵を知っている」と言って彼を連れてきた。110歳のジェディはクフ王の前で魔法を行い、クフ王の信用を得た。
ジェディは「クフ王の求めるトート神の秘密の聖所の部屋の数は知らないが、それが分かる文書の在り処は知っている。そのトート神の知恵を開くのは、ヘリオポリスのラー神官の息子3人の長男である。彼が王になるのは3代後のことである」と言った。
パピルスはその後、ラー神官の息子の誕生の場面を語る。母親レドジェデトの息子が生まれる日、ラーはイシス、ネフティス、メスケネト、ヘケトそしてクヌムに対し、レドジェデトを助けるように命じる。
イシスたちのお産の援助、三つ子の息子の姿の説明、母親の女中への仕打ち、女中の兄の行動について語られて記録は途中で終わっている。三人の子にはイシス神によってウセルカフ、サフラー、ネフェルイルカラー・カカイの名が与えられたという。
ヨセフがファラオの宰相となったのは30歳のときである(創世記41:46)。それから110歳までの80年間エジプトの政治を取り仕切ってきたわけである。記録から見るに、イムホテプが仕えたジェセル王から短期政権のファラオが続いており、イムホテプがスネフェルとクフの時代まで生きていた可能性が考えられる。ただし、それらの王が実在していたかどうかは不明である。
110歳であること、トート神を知っていること(ピラミッドを知っていることと同義である)、長期間エジプトの政治のトップであったことを考えると、ジェディがイムホテプであり、ヨセフであると思われるのである。
トート神の秘密の聖所とは二大ピラミッドの内部構造であり、封印されているために中には入れないので部屋の数は知らないことになる。知恵の書は聖書そのものといえるが、もちろん当時はまだ聖書は現在の形になっておらず、将来出現する聖典を預言したものとなる。
レドジェデトの出産シーンはかなりおかしな逸話だが、神々が出産を助けた長男が、ヨセフ110歳から3世代後の即位だと考えると、イスラエル人がエジプトに来てからほぼ400年後のこととなる。その王子がトート神の知恵を授かる存在ということになる。
それはヨセフの兄レビのひ孫のモーセである。預言のとおり彼はファラオの王子として育てられ、後に預言者となって神から律法を授かり、聖書の最初の五書(トーラー)を記したのである。
詳しくは第四章での解き明かしになるが、第12王朝の成立とクフが聞いた王朝交代は同じものであり、同じ預言をしたネフェルティとジェディは同一人物のヨセフとなるのである。
ピラミッドと賢者の石
預言者ヨセフはピラミッドの謎を知っており、セツとエノクが築いたシオン文明の英知を受け継いでいた。エノクはヘルメスであるため、賢者の石を作った人物でもある。
賢者の石は触れた物を金に変える石として知られているが、それは賢者の石の完成を知るための手掛かりであって、目的ではない。錬金術師が賢者の石を作ろうとしたのは、永遠の命を手に入れるためであった。
錬金術師は誰一人として賢者の石を作ることが出来なかったのだが、賢者の石の在り処はこのように伝えられている。「賢者の石はそのあたりの道端に落ちている。」すなわち、目の前にあることになる。この言葉の意味はピラミッドそのものに隠されていた。
三大ピラミッドの見方として、スフィンクスが向いている方向が正面とすると、向かって右側にクフ王のピラミッド(第一ピラミッド)があるという構造になる。三大ピラミッドと呼ばれているが、右側のクフ王のものが最も大きく、岩盤の構造から見かけ上最も高く見える中央のカフラー王のピラミッド(第二ピラミッド)と、極端に小さい左側のメンカウラー王(第三ピラミッド)という構成になっている。
三体構造のものは、たいてい真ん中が大きく(高く)、左右のものを少し小さく(低く)して左右対象のデザインとするように思われるのだが、三大ピラミッドは右側のクフ王のピラミッドが中央のピラミッドより少し大きいという、いびつな構図になっている。
これだけの建造物を作る技術があるのだから、左右対称の美麗な構造にできたはずである。しかしそれをせず、あえていびつなものにしたということは、そこには深い意味が込められているといえないだろうか。
神の右に立つイエス・キリスト
ピラミッドは一般に墓だと考えられているが、建設者とされるクフ王自身がピラミッドを女神イシスの神殿と呼んでいる。ヨセフと目されるイムホテプは階段ピラミッドを建造したことで有名であるが、イムホテプはトート神からピラミッドの技術を学んだという。いずれも神にかかわる建物であるので、墓ではなく神の宮つまり神殿であるほうが妥当ではないだろうか。
つまり、セツとエノクが神のために建てた神殿であり、ヨセフがその英知を継承したのである。神の名はエホバであり、後に人の子として降臨されるイエス・キリストのことである。エホバとイエス・キリストは別の存在として信じる宗教もあるが、イエス・キリスト御自身が、自らをエホバ(わたしは在る)であると語り、十字架の刑の後、復活して神の右に立つ御方となったのである。
キリストが教会を組織し、使徒たちが伝道している頃、ステパノという伝道者がユダヤ人に対し、モーセについて話している場面がある。このときステパノはユダヤ人に石で撃ち殺されてしまうのだが、死の直前に次のような示現を見ているのである。
しかし彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った(使徒7:55―56)。
キリスト教の神学では、天界には父なる神と、神の御子であるイエス・キリストと、御二方を証する聖霊の三神が存在している。そしてイエス・キリストは神の右に立ち、それぞれ神が太陽、イエス・キリストが月、聖霊が星の栄光の輝きに象徴されている(第一コリント15:40―41)。
預言者の使命と反転構造のピラミッド
クフ王のピラミッドが建造されたのは、イエス・キリストが降誕されるはるか昔である。にもかかわらずイエス・キリストの神殿というのには理由がある。キリスト降誕前に生きていた預言者には、将来エホバがイエス・キリストとして世に来ることが知らされていたのである。
したがって預言者セツとエノクは、イエス・キリストの神殿としてすべて見通したうえで建造したのである。さらにいえば、預言者はすべてイエス・キリストのことを証する者のことなのである。同じように、キリスト復活後に生まれた預言者にも、十字架の刑の後復活したこと、全人類の罪を背負われたことが真実であると知らされてきたのである。
だがここで大きな矛盾に突き当たることになる。イエス・キリストは神の右に立たれる。それならば、イエス・キリストの神殿(クフ王のピラミッド)は向かって左側に来なければならないのである。この矛盾は、三大ピラミッドが後ろを向いているとするなら解決できるのである。すなわち、神、イエス・キリスト、聖霊は背中を向けているのである。
この姿を表す漢字が存在する。それが「明」なのである。先述のように神の栄光の象徴は「神=太陽」「イエス・キリスト=月」「聖霊=星」として示される。「明」は左側に太陽、右側に月がある形で、しかも月のほうが大きいのは、カフラー王とクフ王のピラミッドと同じ構造である。すなわち、「明」の漢字もまた背中を向けているのである。
そしてイエス・キリストを象徴する明けの明星は、日、月、星で天界の三神を表しているのである。
月とイエス・キリストの犠牲の暗号
クフ王のピラミッドがイシスすなわち月(イエス・キリスト)のピラミッドであり、後ろの正面という構造であるとすると、そこからさらに月そのものにも象徴が隠されていることが見いだせる。
月は常にウサギの模様を地球側に向けており、その面が月の表として呼ばれている。月の裏側はウサギ模様の表と違って隕石の衝突跡だらけのあばた面になっている。しかし、このでこぼこの裏側が実際には表だとしたらどうだろうか。
神社の賽銭箱は穢れを祓うためのものである。投げられた賽銭のために、賽銭箱横の柱は参拝客側が傷だらけになっている。すなわち、人々の罪を神が背負うことを表し、神社の神が背を向けていることも示しているのである。
月の裏がなぜデコボコなのかというと、それは地球に降り注ぐ軌道にあった隕石を身に受けたからである。それはまさにイエス・キリストが背を鞭打たれ、さらに全人類のすべての苦を身に受けられたことを象徴している。
さらに表側のウサギ模様は月の内核(溶融金属)が染み出したものである。月はかつて内部に熱水を抱えていた。ところが月の地盤が裂けて水が噴き出し、粘性の高い溶融金属は月表面にウサギの模様を残したのである。その有様はイエス・キリストの十字架刑に示されている。
イエスが十字架上で死んでいるのを確認するため、ローマの兵卒が槍で脇を突き刺すと、血と水が流れ出た(ヨハネ19:34)。血はウサギ模様の海の金属、水は月内部から噴き出した水を示している。このように、預言は天界をもキャンバスとしているのである。
そして賢者の石がもたらす永遠の命とは、イエス・キリストの復活と贖いによって与えられる祝福のことである。賢者の石がそのあたりの道端に落ちているとは、イエス・キリストの教えは万人に示されていることを示している。そしてエノクが作った賢者の石とは、ピラミッドそのものなのである。
聖書外典・偽典
現在世界で使用されている聖書は標準正典といわれる。古代から遺されてきた幾多の記録を編集したものである。したがって正典として採用されなかった記録がある。それらは外典や偽典と呼ばれている。
聖書考古学は、アダムがエデンの園から追放された年を世界暦元年(紀元前4000年)とし、キリスト降誕から西暦(キリスト紀元)を数えている。
標準正典ではヨセフの死後からモーセの誕生までの歴史が省略されているが、旧約偽典のヨベル書には、イスラエル人が奴隷となったいきさつが記されている。
ヨベル書によると、ヨセフがエジプトの宰相になったのは、世界暦2162年(紀元前1838年)である。イスラエル人がエジプトに移住したのは2171年(同1829)である。ヨセフの父ヤコブは2188年(同1812年)に死んだ。
ヤコブの死後、ヨセフはファラオに父を祖先の地に埋葬したいと願い出た。そこでファラオとエジプトの有力者たち、戦車や騎兵、イスラエル人という大勢の行軍がカナンの地へ行進した(創世記50:1~14)。
ヨセフの死後21年後の2263年(同1737)、カナン王マカマロンがアッシリアの地に住んでいたとき、エジプト王と谷で一戦を交えた。
この戦争の際、イスラエル人はヨセフの遺骨を除くほかの族長、すなわちヨセフの兄弟の遺骨を祖先の地に携えて行き、埋葬した。しかし、ファラオはこの戦争で死んでしまった。マカマロンはエジプトに侵入しようとしたが、新しく即位したエジプト王が強く、望みを果たせずに退却した。エジプトは門戸を閉ざし、カナンを警戒するようになった。
新ファラオはイスラエル人がカナン出身であり、カナンへ心を向ける可能性を危惧した。彼らがカナン王と手を結び、エジプトを侵略するのではないかと考えたのである。そこで新ファラオはイスラエル人を奴隷とし、ピトムとラメセスという堅固な都市を建てさせ、城壁や壁を修復させた。
モーセとファラオ
聖書にも新ファラオの名は記されていないが、「ヨセフのことを知らない王」と説明されている(出エジプト記1:8)。イスラエルの民を恐れたファラオは、新たに生まれた男子の赤子を殺すように民に布告を出した。そのような中で生まれたモーセを母親は隠しながら育てていたが、ついに隠しきれなくなってしまった。母はモーセを葦の船に乗せてファラオの娘の水浴び場に浮かべておいたところ、ファラオの娘はモーセを自分の息子とし、乳母として実母に預けてくれることになった。
エジプト人の間で魔術師ジェディとして記憶されていたヨセフの預言を、この娘は知っていたと思われる。モーセの名は彼女が付けたものであるが、水から生まれるという意味があるとされる。水から生まれる者が、エジプトの真の王になるという預言を、ヨセフが残していたと思われるのである。それはイエス・キリストが預言した、人は水と霊から生まれなければならない(ヨハネ3:5)というバプテスマの言葉をも示している。
モーセはエジプトの王子として40歳まで過ごしていたが、同胞を殺害あるいは女性を強姦しようとしていたエジプト人を撃ち、エジプトから逃げてしまった。モーセは妻の父のもとで暮らしていたが、80歳のときにイスラエルの民の開放を要求するため、(新たな)ファラオの前に姿を現したのである。
ヒクソスとエジプト
イスラエル人がモーセに率いられてエジプトを脱出した時期、血の雨や燃える隕石に見舞われたという。第19王朝のイプワー(イプエル)という詩人が残したパピルスには、聖書と同じ災害が記録されている。残念ながらこの記録でもファラオの名は確認されていない。
イプワーはこの災害に乗じてエジプトは侵略され、奴隷となったことを記している。その支配者はヒクソスという。現在の考古学ではヒクソスの正体は不明のままだが、聖書の記述とエジプト王朝の年代尺度の矛盾を解決すると、イスラエルと深い関係があったことが判明するのである。それを解き明かしたのは、またしてもヴェリコフスキーである。この章から彼の著書「混沌時代」を中心に話を進めていくことになる。
ヒクソスの第15王朝はエジプト王朝の中で唯一ともいえる、外国の支配を受けた時代であった。誇張があったとされるが、エジプト人にとってヒクソスの支配は屈辱であり、後の記録では憎しみをあらわにしたものが多く見られる。マネトは次のように記している。
「トゥティマイオスの時代、正体不明の暴風の神が我々を撃った。そして、不意に東方から、異民族の侵略者が勝利の凱旋のように我々の国土に行進して来た。彼らの主力の軍隊は国の首長たちを圧倒し、町々を無慈悲に焼き払い、神々の神殿を大地に打ち倒した。また、現地人に対する扱いは残酷な敵意に満ち、ある者は殺され、奴隷として妻子やその他の者を連行していった。
最後に彼等は一人の男を王に指名し、その名をサリティスといった。彼はメンフィスに座し、上下エジプトから税を徴収し、最重要地点に守備隊を置いた。何よりも、彼は東方に対して要塞を築き、アッシリアに対して注意を払っていた。彼らが強くなり、彼(ヒクソス)の王国を欲して侵略してくると考えたからである。」
暴風の神とはまさに出エジプト時の災害とエホバである。その災害直後にヒクソスがエジプトに侵攻してきたのである。そのときのファラオをマネトはトゥティマイオスだとしており、考古学上のファラオはデュディメス2世だと考えられている。しかし、いずれも名前だけで詳しいことは分かっていない。
イスラエル人を追いかけて紅海に飲まれたファラオの名は、別の遺物にトムあるいはトゥムとあり、トゥティマイオスのギリシャ風のマイオスを抜けば似ていなくもない。イスラエル人がファラオに造らされた町の名をピトムとラメセスというが(出エジプト1:12)、ピトムはトムの家という意味になる。
ヒクソスの正体
聖書の中で、エジプト人が支配された、あるいは奴隷であったことを示す記述が存在する。エジプト側の記録で彼らが奴隷であったのはヒクソスの時代のみで、聖書の記述もエジプト人が奴隷になっているとあるのは一度きりである。この二つが同じものとすれば、ヒクソスの正体が誰であるかが判明する。
出エジプトから約300年後(紀元前1095年)、イスラエルの最初の王としてサウルが即位した。サウルは各国との戦争に連戦連勝したが、その中で次の記述が目を引くのである。
サウルはアマレク人を撃って、ハビラからエジプトの東にあるシュルにまで及んだ。そしてアマレク人の王アガグをいけどり、つるぎをもってその民をことごとく滅ぼした(サムエル記上15:7~8)
サウルの家来ダビデ(次王)は、サウルの戦線の中で一人のエジプト人を保護した。彼は自分をアマレク人の奴隷だといった(サムエル記上30:13)。
アマレク人はイスラエル人がエジプトを出てきた後、襲いかかってきた民である(出エジプト17:8~16)。つまり、このエジプトの傍にいた侵略者がアマレク人がヒクソスなのである。出エジプトの時の災害で大きな破壊を受けたエジプトはアマレク人の侵入を許し、奴隷となったのである。そのヒクソス(アマレク人)に壊滅的なダメージを与え、エジプトの解放者となったのはサウル王なのである。
そして悲願だったヒクソス打倒を果たした、第18王朝初代のイアフメス1世の事績は、サウルと共にあったのである。
重なる歴史
ヒクソスは第15王朝の支配者であった。その悪夢を終わらせたファラオを第18王朝初代イアフメス1世としたが、以下はその概要である。
第17王朝はヒクソスの支配下にあったエジプト人の王朝であった。その最後のファラオ、カーメスの父セケンエンラー・タア2世はヒクソスとその王アペピ(アポピス)に反旗を翻した。セケンエンラーはその戦いもしくは暗殺で命を落とし、カーメスがその遺志を継いだ。
カーメスはアペピを倒したが、その戦いの凱旋直後に死亡し、ヒクソスを滅ぼすことまでは出来なかった。カーメスの弟もしくは甥であるイアフメス1世がヒクソスをパレスチナに追い込んで滅ぼした。また、ヒクソスの支配下にあった南のヌビアも制圧し、上下エジプトの統一を成し遂げた。
ヒクソスがパレスチナに追い込まれたという点が、アマレクの王アガグがサウル王によってイスラエルに連行され、処刑されたことと一致している。
ここでポイントとなるのが、ヒクソス(異民族)による上下エジプトの支配と、ヌビアがヒクソスの支配下にあったことである。また、父王の遺志を継いで敵を滅ぼし、上下エジプトの支配という悲願を成し遂げたことである。これとそっくりな歴史が第12王朝で起こっているのである。
第12王朝初代のアメンエムハト1世は、即位直後に軍隊を率いて反対派やヌビア人を鎮圧し、前政権に対して反抗的だとされた有力者を復権させた。また、メンフィスの南に「二つの土地の征服者」新都イチ・タウィ(二つの土地の征服者の意)を建設し、前王朝が都としたテーベから遷都した(正確な位置は不明)。
息子のセンウセレト1世がアメンエムハト1世によって共同統治者に任命された。アメンエムハト1世が国政に力を入れ、センウセレト1世はシナイ半島やリビア人への遠征を行った。その後、アメンエムハト1世が衛兵によって暗殺されてしまう。
父亡き後、センウセレト1世は南方のヌビアを制圧し、共同統治者として息子のアメンエムハト2世を任命した。アメンエムハト2世はプントすなわちパレスチナにも遠征している。
先述の賢者ネフェルティの預言にある、エジプトが凄まじい破壊を受けたと同時に、暴虐と圧政をもたらすアジアからの侵略者は、出エジプト時の災害時に侵攻してきたヒクソスと同じ連中であり、アマレク人のことである。そして彼らを滅ぼし、エジプトの再統一を成し遂げた第18王朝のイアフメス1世と、第12王朝のセンウセレト1世かアメンエムハト2世は同一人物ということになる。
ファラオとプント
ヨセフからモーセまでのエジプト王が誰であったかを確定させるための証拠は、今のところ不十分である。大方の意見はラムセス2世とイクナートンが有力であるが、これも確定的なものではない。ただ、イメージとして、強大な権勢を誇った王から脱出したというドラマティックな面を期待しているといえる。
ヴェリコフスキーが主張するのはデュディメス2世だが、彼の事績はほとんどわからない。しかし、ヒクソスの正体がアマレク人であることと、エジプトの歴史が二重に記録されていることを示してきたことで、モーセの時代のファラオについても同じことが予想できるのではないだろうか。
いくつかのヒントがあり、その一つが第5王朝のサフラー王である。彼は魔法使いジェディが即位すると預言した、三人の王の一人といわれる。王はプントへ大規模な遠征を行い、莫大な量の没薬やマラカイト、エレクトロンを持ち帰ったという。
イスラエル人がエジプトを脱出した当時、プントの地は豊潤の地となっていた。しかし、彼らはその地に住む民を恐れ、荒れ野を40年間さまようこととなった。サフラーがヒクソス(アマレク人)で、まだイスラエル人が入植していないプントの地に遠征を行った可能性がある。
サフラーがヒクソスだとする根拠は、第5王朝の前の王朝に出エジプトの手掛かりが見出せるからである。
ニトクリス
エジプトの歴史家が一人を二人に演出しているとすれば、出エジプト時のファラオを特定できるかもしれない。マネトはトゥティマイオス、考古学上はデュディメス2世だが、これまで見てきたように、この人物に該当する別人物が存在するとしたらどうだろうか。その中で注目したのが、第6王朝最後の王とされるニトクリス女王である。
ヘロドトス「歴史」には、エジプトの祭司達が王の数を語る場面がある。エジプト王は330人いたが、そのうち18人がエチオピア人、土着の女性が1人、それ以外はエジプト人男性であった。その1人の女性がニトクリスであったという。
彼女は王であった兄弟(夫)が暗殺されたため、その復讐として大きな地下室に兄弟の仇を招き入れ、ナイル川の水を導入して水死させた。復讐後、彼女は火の部屋に身を投げて死んだという。
マネトの「アイギュプティカ」をアフリカヌス、エウセビオス達が引用しているが、第6王朝の最後の王であるニトクリスは、最も高貴で美しく、勇敢で、金髪色白の赤い頬の女王であった。山のような第三ピラミッド(メンカウラー王のピラミッド)を建築したという。
ここでヒントとなるのがピラミッドの建設である。メンカウラー王のピラミッドを築いたということは、彼女自身がメンカウラー王であった可能性がある。また、エジプトの女王は一人であったというが、ハトシェプストという有名な女王が数えられていないことが疑問である。ニトクリスがネチェルカラーという男王であったという説もあるが、男性であった可能性が高いのである。
これらを統合すると、ニトクリスはネチェルカラーと同一であり、その正体はメンカウラーであった可能性がある。メンカウラーに与えられた預言と、ニトクリスの逸話を加えると、一つの結論が導き出されるのである。
出エジプトのファラオの正体
ニトクリスは夫を暗殺され、その仇を水死させ、自らは火中に身を投じた。その同一人物とされるメンカウラーについて、ヘロドトスはミケリヌスの名で伝説を記している。
クフとカフラーは暴君であったが、メンカウラーは慈悲深い王であったという。しかし、神々は「エジプトの民は150年の困難に見舞われる」という神託を下していた。メンカウラーの善政は神々を否定したものとみなされ、神々はメンカウラーを許さず、6年で統治は終わると定められた。メンカウラーはその運命に抗おうと、王宮を明かりで昼のようにして昼夜を無くし、期限を伸ばそうとしたが、運命は変わらず6年後に死んだという。
水と火による死、闇夜からの逃避、神から見放された王、150年の困難という構図は、出エジプトの情景と直後のヒクソス(アマレク人)の支配そのままである。クフが会ったジェディを臨終のヨセフとすると、クフ、カフラーがヨセフの死後、暴君であったファラオであり、メンカウラーがモーセと対決したファラオであったといえるのである。
ヨセフの死後、クフと思しきファラオはカナンの王に敗れて死に、カフラーと思しき新ファラオはイスラエル人を迫害した。新ファラオはイスラエル人の幼子を皆殺しにしようとした。彼が死んで新たにメンカウラーと思しきヨセフを知らないファラオが登場し、モーセがこのファラオと対峙する。
メンカウラーはエジプトを襲った災害に耐えられず、イスラエル人のエジプト脱出を許可した。しかし、すぐ心を翻し、軍隊を率いてイスラエル人を紅海の岸まで追い詰めた。そこで起こったのが、火の柱と紅海の引き裂けである。
エジプト軍は火の柱(昼は雲の柱)に阻まれて一晩動けなかったが、水が分かれた紅海を進むイスラエル人を追いかけて、エジプト軍も紅海に入って来た。イスラエル人は向こう岸まで渡り切ったが、エジプト軍は戻った水に溺れて死んでしまった。
巨大な災害に見舞われたエジプトは、すぐにヒクソス(アマレク人)の侵略を受けるのである。このアマレク人は、イスラエル人がエジプトを脱出した後、荒れ野を行軍していたところを襲ってきた民でもある。(出エジプト1~14、17章)
ニトリクスはいわば語り手である。美しく、勇敢な女王が卑怯で惨めな死に方をするのには隠された姿がある。トゥティマイオスとデュディメス2世が同一であり、水と火で死んだファラオと、夜を恐れ、宣告通りに死を迎えたメンカウラーが同一であった。そしてメンカウラーこそが出エジプトでモーセと対峙したファラオなのではないだろうか。
メンカウラーピラミッドの象徴
メンカウラーが出エジプトのファラオであることを証明するモニュメントが存在する。それはメンカウラーのピラミッドである。ギザの三大ピラミッドのうち、最も小さい第三ピラミッドである。
ほかの二つはそれぞれセツとエノクの神殿としてきたが、彼らのための神殿というわけではなく、これらは神のための神殿である。三つがセットの神殿であるとすれば、一神教といわれるユダヤ教では説明が不可能である。これはセツやエノクが直接啓示を受けたいたエホバ、すなわちイエス・キリストの教えでなければ解けないのである。
三大ピラミッドは天界の三神を示している。すなわち、天父、御子イエス・キリスト、聖霊のである。それぞれ、太陽、月、星という栄光の階級を示している。最も小さいメンカウラーのピラミッドが聖霊のピラミッドとなる。イエス・キリストに水でバプテスマを施したバプテスマのヨハネという預言者は、キリストは聖霊と火とによってバプテスマを授けると語った(マタイ3:11)。
メンカウラーのピラミッドは洪水に沈んでから再び姿を現したが、これは水のバプテスマにあたり、キリストの埋葬と復活を意味する。メンカウラーであるニトクリスは水と火の中で死んだ。これらが水と聖霊と火によるバプテスマを意味しているとすれば、それを施したのは火の柱と紅海の水をファラオに見舞ったモーセということになる。
古代エジプト史上、最も困難に満ちた時代であった出エジプトとヒクソスの支配について、まだまだ未解明である。なぜこの時代だけが情報不足なのかが疑問ではあるが、ヒクソス(アマレク人)は侵略の際、エジプトの記録庫を襲撃して資料を奪い去ったことが関係しているのかもしれない。
その目的は、エジプト人の奴隷として登録されていたイスラエル人を、登録簿を持つことで、自分たちの奴隷として認めさせようとしたことが考えられる。また、資料の破壊そのものが目的であったともいえる。ヒクソスの侵略と略奪は、貴重な記録の散逸となったのである。
ハトシェプストとプント
第18王朝5代目のハトシェプスト女王の葬祭殿には、プントとの交易の絵が残されている。当時のエジプトの繁栄ぶりと、プントの国力の大きさがうかがい知れる。
第12王朝時代に記されたパピルスの「難破した水夫の物語」には、プント王が蛇であったと記されている。現在の学者の多くは、この記録がファンタジーではないかと考えている。エホバ(イエス・キリスト)はモーセによって青銅の蛇の姿で示されていることから、プントの蛇王はエホバを信仰するメルキゼデクであった可能性もある。
サウル王によって解放されたエジプト第18王朝である、ハトシェプストの時代のプントはイスラエルとなる。そして、3代目の王ソロモンの時代、シバの女王という訪問者の記述が聖書にある。シバの女王の貢物は他のどの国の貢物よりも多かったとあり、その国力の大きさが分かる。つまり、このシバの女王に当てはまるのはハトシェプストだけなのである。(列王記上10:1~13)
ハトシェプスト葬祭殿の壁画
ハトシェプスト葬祭殿に描かれたプント国王の王妃の姿は、病的にひどく太って醜い姿をしている。壁画にもよるが、エジプトの人物デザインは、あえて秀麗な姿としている場合が多い。となると、この王妃の姿はわざと醜くされているといえる。
プント国はエジプト人にとって神の国と呼ぶ憧れの地である。大船団を組むその重要性から、プントに対して礼節を尽くしていたはずである。確かに、資料によってはハトシェプストがプントから利益を上げようともくろんでいた節も見受けられる。
その答えは、壁画の主人公がハトシェプストであるという点と、相手がソロモンであることから推理できる。ソロモンは数多くの后がいたが、その一人はファラオの娘であった。父がトトメス1世であったとすると、ソロモンの后はハトシェプストの姉妹であったかもしれないのである。彼女はソロモンの后となった姉妹に対し、ねたみなどの思いを壁画に表したのではないかと思うのである。
シバの女王はソロモンを試そうとしてやって来たという。当初の思いはソロモンに対して非好意的であったともいえる。それがソロモンの偉大さに感服し、お互いに莫大な贈り物をしてエジプトへ凱旋したわけである。
ソロモンの背信(列王記上11章)
イスラエルの歴史において、ソロモンの治世がもっとも繁栄を極めた時代であった。ソロモンは神と語り、まさに理想の王として君臨していた。神殿という特別な建物を建て、イスラエルの民はエホバに忠実な人生を送っていた。
ところが、ソロモンは数多くの異教徒の女性に心を寄せて后とし、彼らの偶像崇拝に心を転じてしまった。しかも、仇敵であるエドムの女性も后にするほどであった。エジプトのアメン・ラーを初めとする数多くの偶像を造って拝み、民も同じようにした。
聖書の記述によると、ソロモンの敵としてエドム人の王族ハダデがエジプトへ行き、ファラオの娘を后とした。また、同じイスラエル人のヤラベアムという者が敵となり、一旦エジプトへ亡命したのだが、ファラオの名をシシャクとしている。
ソロモンはイスラエルを40年治めたが、彼の死後、北イスラエル王国と南ユダ王国に分裂してしまった。ヤラベアムは北王国の王となり、ソロモンの子レハベアムが南王国の王となった。南北は絶えず戦争をする仲となってしまった。
メギドの戦いと二人のファラオ
聖書の記述によると、レハベアム治世の5年目にパロ・シシャクがエルサレムを侵略した(列王記上14:25~26)。このシシャクは第22王朝のシェションク1世と考えられている。今回も時代が大きくずれている。レハベアムはハトシェプストの次世代、トトメス3世の治世と同じはずである。
トトメス3世とシェションク1世を比べると、非常によく似ていることが分かる。トトメス3世はメギドの戦いでカデシュ王率いるカナン連合軍と戦い、大勝した。一方シェションク1世はユダヤ侵攻を行い、メギドから出土した石碑の断片には、彼のカルトゥーシュと共に征服したイスラエルの各地名が記されている。
シェションク1世の碑文はトトメス3世にあやかったものだとするのだが、この二人、あるいは二つの事績は同じなのではないだろうか。トトメス3世の倒したカデシュは、神の国プントと同じく、エルサレムのエジプト呼称なのである。なぜなら、ソロモンの妻はファラオの娘であり、彼女の住むエルサレムは神聖な地、すなわちカデシュと呼ばれていたのである。
エジプト人がどのような方式で歴史を記録していたかは不明だが、トトメス3世とシェションク1世(シシャク)は同一人物なのである。したがって、聖書にあるシシャクの記述と年代は正確なものなのである。
前章で第18王朝が第12王朝と同じ歴史を示しているとしたが、第12王朝にはセベクネフェル女王が即位している。彼女はハトシェプストと同一人物ではないかと思われるのである。
謎の解かれる日
このように、エジプトの歴史はある意味巧みな手法で記されている。同じ人物が何度も登場し、連綿と歴史が続いているように見える。わからないのはそのようにした動機である。これは日本の記紀にもいえる。そこで、イザヤ書の言葉をもって、未来を待ち望みたいと思う。
其時我聖き山の何處にも害ふことなく滅ぶることなかるべし。蓋天主を知る知識の世界に滿つること、猶水の海に盈つるが如くなればなり。
されば諸國の民の事明に知られ、一切の事皆明に世の人に知らるべし。
凡そ秘密なる事にして公に示されざるは無く、暗き惡事にして露顕せざるは無く、世に封ぜらるる物にして開かれざるは無し。
故に既に世の人に示されたる事は其日皆明に顯され、サタンは長く人の心を司る力を得じ。(ニーファイ第二書30:15~18)
この著書はベリコフスキーの説を大きく取り入れ、新たな視点でエジプトの歴史を再考察したものである。そこで到達した一つの結論は、エジプトの歴史家が残してきた記録の特徴は、一人を複数に分けて記すというものであった。その手法が日本の史記である記紀にも取り入れられているようなのである。まえがきに記したペンローズの階段が、エジプトと日本の歴史に深く浸透していると思われる。
日本の神道と仏教はエジプトをルーツと思わせる。平泉の中尊寺金色堂はツタンカーメン王墓を思わせる。エジプトの謎、さらにいえば世界の謎は、生まれた時から不思議な習慣で生きている日本人によって解き明かせるのではないかと思う次第である。本書が謎解明の一歩となれるならば、この上ない名誉である。
明治天皇を祀った明治神宮は、初詣には百万人もの参拝者が訪れる。日本人が明治天皇をいかに敬っているかを示している。
二千十二年には明治天皇崩御百年となった。
明治維新から急速に近代化への道を進んだ日本であるが、日本人の精神的支柱であったのが明治天皇である。また、明治天皇の皇后陛下である昭憲皇太后は、赤十字の設立にかかわり、福祉と健康に尽力されたことが知られている。
明治天皇の妃を「昭憲皇太后」と書いたが、実はこれが不思議なのである。天皇陛下の妃の尊称は「皇后陛下」とするのが決まりであり、明治天皇の后は昭憲皇后となるはずである。皇太后とは天皇陛下の母をさしていう言葉であるため、これでは昭憲皇太后が明治天皇の母となってしまう。
皇后と皇太后の位階は皇后が上である。皇后は夫である天皇の崩御後、子が皇位を継承したときには皇太后というが、死後は位の高い方の皇后と表記する。したがって、明治天皇と昭憲皇后と併記するのが正しいはずだが、歴代天皇の系譜でも明治神宮でも皇太后と書かれている。
これではおかしいと、明治神宮は何度も神社本庁に訂正を進言している。ところが、天皇(神)がそういわれたので変更できないとして、そのままで現在に至っている。
たかが漢字一文字といえ、単に字を間違っただけというような問題ではない。字一つでも事は重大なのである。天皇や神社の文字や漢字の使い方は、まったく一字一句に至るまで注意が払われている。宮中で行われる歌会あわせなども、季語や掛詞など、文字や言葉の使い方は徹底している。しかも明治天皇はとてつもない記憶力の持ち主で、伊藤博文は書類や言葉の誤りをとことん注意されていたという。
それほど言語に注意を払う天皇関係の言葉であるのに、なぜ間違ったままにしておくのだろうか。神社本庁は漢字一つ訂正できないのであろうか。こういう場合、何か意味があると見なすことも出来る。突き詰めれば何らかの回答が得られるのではないだろうか。
本書は昭憲皇太后という奇妙な呼称からヒントを得て、日本人のルーツと未来にかかわる謎を解き明かそうとしたものである。
明治天皇と昭憲皇太后の称号の謎
明治天皇の皇后陛下を昭憲皇太后と呼ぶのはなぜなのだろうか。神社本庁の説明では天皇陛下の御言葉なので変更できないとしている。つまり、明治天皇がそう呼ばれたことになるが、明らかにこの表記はおかしい。
昭憲皇太后が明治天皇の母でないことは事実であり、言い方は悪いが、これでは天皇(神)が漢字を間違えた、あるいは事実誤認をしてしまったことになってしまう。日本の王として即位された明治天皇が、世界中に漢字間違えという失敗をさらけ出してしまったのだろうか。
いや、これはわざと間違えた(そうした)といえるのではないだろうか。皇族の決まりについて少しでも知識のある人なら、おかしな表記に気づくことになる。マスコミの皇族関係の報道でも、表現を少しでも誤れば猛烈な批判の対象となるくらいである。ここには明治天皇の日本人あるいは世界に向けてのメッセージが込められているように思えるのである。
ではなぜそうしたのであろうか。
明治天皇は母と結婚したという事実はない。しかし、この表記に基づいて母と結婚した人物を想定するように計算されていたとしたらどうであろうか。明治天皇に比定されるならば、その存在は世の中で王などの高い位にある人物になると考えられる。
話が飛躍しすぎているといえるが、そのような人物を探すと、この王に行き当たった。オイディプスである。以下はオイディプス神話の概要である。オイディプスの父、ライオスが神託を受ける場面から始まる。
オイディプスの誕生と追放
テーベの王ライオスは、神から子供を作るべきではないとの神託を受けた。「もし子供をもうければ、父である自分を殺し、妻が息子との間に子をもうける。」というものであった。しかしライオスは酒の勢いで妻イオカステと交わってしまい、息子が生まれた。
神託を恐れたライオスは息子を殺そうと思ったが、結局そうせずに子供の踵をブローチで刺し、従者にキタイロンの山中に連れて行かせた。しかし従者もまた子供を殺したくないと思い、山にいた羊飼いに預け、遠くへ連れて行くように頼んだ。
テーベの隣国コリントスの王ポリュボスとその妻メロペーは、子供が授からないことで悩んでいた。そこで羊飼いは子供を二人に渡すことにした。ブローチで刺された子供の踵が腫れていたことから、ポリュボスとメロペーは子供に、オイディプス(腫れた脚)と名付けた。
父を殺害するオイディプス
成長したオイディプスは、優れた能力を発揮したことから、周りの者に妬まれることになった。これらの者たちは、オイディプスはポリュボスとメロペーの間の実の子ではないとうわさした。心に一抹の不安を抱いた彼は、ポリュボスとメロペーとに問いただすものの、彼らは話をはぐらかしてしまう。
この為オイディプスは、自分がポリュボスとメロペーとの実の子であることを確かめるため、デルポイでアポロンの神託を受けた。しかしアポロンもまた彼の質問をはぐらかし、別の神託をオイディプスに与え、「故郷に近寄よってはならない。両親を殺すことになる」と告げた。ポリュボスとメロペーを実の両親と信じる彼は、故郷を離れれば彼らを殺すこともないと考え、コリントスから旅に出ることにした。
オイディプスは戦車に乗って旅をしていた。途中ポーキスの三叉路に差し掛かったが、そこで前から戦車に乗ったライオスがやって来た。互いに道を譲らず争いになり、怒ったオイディプスはライオスを殺してしまった。ライオスから名前を聞いていなかったため、オイディプスは自分が殺した相手が誰であるか分からなかった。
王亡き後のテーベは、クレオーンが摂政として治めた。オイディプスはポーキスの三叉路からテーベへと向かった。
スフィンクスの謎かけ
この頃テーベはスフィンクスという、女の顔に、胸と脚と尾はライオンで、鳥の羽を生やした怪物に悩まされていた。スフィンクスはピーキオン山頂に待ちかまえ、そこを通るものに謎を出して、謎が解けない者を喰らっていた。
その謎とは、「朝には四本足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものは何か。その生き物は全ての生き物の中で最も姿を変える」というものであった。この謎が解かれた時、スフィンクスの災いから解かれ、スフィンクスは死ぬであろうという預言をテーベ人は信じていた。
謎を解くべく知者が何人も挑んだが果たせず、多くの者がスフィンクスに殺されてしまった(ライオスはスフィンクスを倒すための神託を得るために出かけたところを、オイディプスに殺されたのである)。事態を憂えたクレオーンは、この謎を解いた者をテーベの王とし、イオカステを妻として与えるという布告を出した。
テーベに来てスフィンクスと対峙したオイディプスは、この謎を解いて言った。「答えは人間だ。人間は幼年期には四本足で歩き、青年期は二本足で歩き、老いては杖をついて三本足で歩くからである。」
謎を解かれたスフィンクスは山より身を投げて自ら命を絶った。これは謎が解かれた場合、死ぬであろうという預言があったためである。
スフィンクスを倒したオイディプスは、テーベの王となった。そして実の母であるイオカステを自分の母とは知らずに妻とした。彼らには二人の息子と二人の娘が生まれた。二人の息子の名はそれぞれエテオクレースとポリュネイケースといい、二人の娘の名はそれぞれアンティゴネーとイスメーネーといった。
真実を知ったオイディプス
オイディプスがテーベの王になると、国には不作と疫病が起こるようになった。クレオーンがデルポイの神託を求めた所、不作と疫病の原因がライオス殺害の呪いであるので、殺害者を捕らえ、テーベから追放すべしと告げられた。そこでオイディプスはライオス殺害の犯人を捕らええるため、テーベ国内に布告を出した。クレオーンはオイディプスに、盲目の預言者テイレシアースを紹介し、殺害者が誰であるかを尋ねさせた。
テイレシアースは災いの原因がオイディプスにあることを知っていた。彼は真相を王に告げるのをためらったが、クレオーンと共謀して王を退位させようとしていると疑われたため、怒って「元凶はあなただ」と告げた。
預言を聞いて不安にかられるオイディプスであったが、イオカステは彼をなだめようと、ライオス殺害のいきさつを話し、預言は外れたのだと言った。それを聞いて、自分のかつて犯した殺人が、ライオス殺害の様子とそっくりであることに気づいた。そして過去に遡って調べを進めたところ、自分がライオスを殺害したことと、自分がライオスの子であり、母との間に子をもうけたことを知る。つまりアポロンから告げられた預言が実現してしまったことを理解した。
それを知るやイオカステは自殺し、オイディプスは絶望して自らの目をえぐり、テーベの民は彼を追放した。(戦争で死んだ、娘と共に放浪の旅に出て行ったという話もある。自分の母を妻にしている事を知った後でも、そのまま王であり続けたという話もある。)
王位継承戦争
オイディプスとイオカステ間に生まれた二人の息子(ポリュネイケース、エテオクレース)は成長すると、テーベの王位をめぐって争いを始めた。その結果テーベを追放されたポリュネイケースは、七人の将軍とともにテーベに攻撃を仕掛けたが失敗に終わる。戦争中この二人はは相打ちになって死亡する。
テーベを裏切った兄ポリュネイケースの遺体は埋葬を許されず、野ざらしにされた。しかし娘の一人アンティゴネーは兄の遺体に砂をかけ、埋葬の代わりとした。そのため彼女は死刑を宣告され、投獄された牢で自害した
オイディプスのモデル
このオイディプスの物語は神話として語られているが、モデルがいると思われるのである。つまりオイディプスのような人物が実在したということである。明治天皇は教養を得る過程でオイディプスについて知っておられたと思うが、そのモデルとなった人物についてもご存じだったのではないだろうか。
その人物とはエジプト王イクナートン(アクエンアテン)である。
イクナートンの腫れた脚
ツタンカーメンの父としても知られるイクナートンは、アマルナ改革など異端の王として知られている。しかし、世にあまり知られていないさらなる異端ぶりが壁画に描かれている。イクナートンの異端中の異端ともいえる行為、それは母親と結婚したことである。
イクナートンの描かれた壁画には、初めは妃であるキヤが描かれているのだが、その後、妃のポジションには母(アメンヘテプ三世の妃)のティイが描かれることになった。このことは、イクナートンの妃が母であるティイであることを意味している。またイクナートンの姿は脚が異様に膨らんでいる。遺伝性の病気が指摘されているが、いずれにしても脚が腫れているオイディプスとの類似がある。
オイディプス神話とイクナートンの一族の相関図
オイディプス神話に登場する人物相関図は、イクナートンの家族と見事に一致する。国の名も同じテーベであり、エジプトではスフィンクスが特別な存在であることも、随所に見られる。
オイディプス=イクナートン。
母であり妻イオカステ=母であり妻ティイ
父王ライオス=父王アメンヘテプ三世
宰相クレオーン=宰相アイ
預言者テイレシアース=ハプーの息子、預言者アメンヘテプ
娘アンティゴネー=メリトアテン
娘イスメーネー=アンケセナーメン
息子ポリュネイケース=スメンクカラー
息子エテオクレース=ツタンカーメン
イクナートンの父殺し
イクナートンは父王のアメンヘテプ三世を殺してはいないのだが、その名前を王名表から削り取っている。これはエジプト人にとって人殺しに相当する行為である。また、親子婚も忌まわしい行為であり、エジプト人から相当に忌み嫌われていた王といえる。イクナートンの最期は不明だが、追放されたともいわれる。もしそうであるなら、エジプト人の憎しみの故だといえる。
ティイはイクナートンの追放か死のために悲嘆にくれ、自殺したと思われる。なぜ自殺したといえるのかは、ツタンカーメンの墓からティイの髪の毛が見つかったことによる。エジプト人にとって自殺は恐るべき呪いを伴う行為であり、通常ミイラにされることがない。しかし、自殺した人の体や身に付けていたものは魔力を持つと信じられてもいたことから、ツタンカーメンの墓に髪の毛があったのは、この風習を伝えるものと考えられるのである。
ツタンカーメンの兄スメンクカラー
イクナートンの次にファラオとなったのは、兄のスメンクカラーである。しかし、アイはツタンカーメンと年変わりで統治するように指図し、1年ほどで王はツタンカーメンに変わった。
一年後にスメンクカラーが再度王になるためにやってきたが、アイはツタンカーメンに王位を保たせるよう図った。そして、王位継承をめぐる戦争が始まった。この戦いに出陣したツタンカーメンの姿を、彼の墓の絵画に見ることができる。戦争の結果、スメンクカラーもツタンカーメンも命を落とすことになった。
アイはツタンカーメンの葬儀を盛大に行い、スメンクカラーは埋葬すら許さなかった。これは、アイがツタンカーメンを目にかけていたからではない。エジプトの民は、悪評高いイクナートンが改変したアテン信仰から、元のアメン信仰に戻したツタンカーメンを支持していた。アイがツタンカーメンに哀悼の意を示したのは、民衆受けするためのようである。
スメンクカラーはKV55の墓所に埋葬されてあった、ティイのために作られた棺の中から発見された(現在はイクナートンのミイラといわれているが、かつてはスメンクカラーのものとされていた)。棺のあった所は墓というよりただの穴で、おまけに棺は壊されている有様であった。
そして、放置されていた遺体を埋葬(儀式の執行を)したのは、彼の妹であり妻であるメリトアテンであった。しかし、この行為がもとでメリトアテンはアイに捕えられて牢屋に閉じ込められた。その牢獄の中で彼女は首を吊って亡くなったのである。KV55の墓のそばにあった謎の竪穴がその牢であったと考えられる。
ギザのスフィンクス
スフィンクスがギザの大ピラミッドの前に立つ様は、ピーキオン山のスフィンクスとみなせるのではないだろうか。オイディプスのスフィンクスは死んだが、トトメス四世が砂の下から掘り出したエピソードや、近年でも砂に埋もれている写真が残っているように、ギザのスフィンクスは砂に埋もれやすい。
イクナートンの時代に砂に埋もれていたなら、それは埋葬されていた、つまり死んでいたとみなすことができる。もしくは、アマルナ改革の一環として、スフィンクスを忌避していたのかもしれない。
このように、細部にわたってオイディプスとイクナートンの物語は一致をみているのである。
アメンヘテプ
イクナートンと明治天皇は何の関係があるのだろうか。イクナートンはアメン信仰からアテン信仰へと宗教改革(アマルナ改革)を行い、テーベからアケトアテンに遷都している。明治天皇は宗教改革ともいえる神仏分離(世の中では廃仏毀釈になってしまった)を行い、東京へ遷都している。
共通点は確かにあるが、明治天皇は脚が腫れているわけでもないし、母親と結婚もしていない。となると、明治天皇とイクナートンを結びつけるほかに、もっと別の象徴が隠れているといえるのではないだろうか。
イクナートンはもともとの名前をアメンヘテプ四世といい、父の名はアメンヘテプ三世といったが、そこに同じ名前の預言者が登場している。ハプーの息子アメンヘテプである。アメンヘテプの前に現れたアメンヘテプが対峙する形だが、よこしまな王の前に現れた同じ名前の人物という構図となる。しかも、二人とも盲目という共通事項がある。
イクナートンとは明らかに異なる面を持つ明治天皇は、この人物にもたとえられているのではないだろうか。このアメンヘテプに目を向けると、明治天皇が日本人の精神的進歩にとっての大人物であったかが見えてくるのである。
アメンヘテプは大預言者モーセ
預言者アメンヘテプは80歳でファラオの前に立ったとされている。このアメンヘテプを含め、古代エジプトでは預言者が二人いたという。そのうちの一人がアメンヘテプだが、もう一人がイムホテプである。エジプトには預言者が二人いたという話は、エジプトに滞在したことのあるイスラエル人の記録である、聖書にも記録されている。
イクナートンとほぼ同時代(紀元前約15~14世紀)と考えられる聖書の部分には、大預言者モーセが登場する。モーセはアメンヘテプと同じく80歳でファラオの前に立ったと記されている。モーセはアメンヘテプであり、イクナートンの時代に出エジプトがあったのだろうか。
研究者の意見では、出エジプトの時代のファラオはラムセス2世であるというのが主流である。出エジプトに関係すると思われるファラオのイクナートン、スメンクカラー、ツタンカーメン、アイ、ホルエムヘブの治世にモーセが現れ、イスラエルの民を脱出させたのなら、どこでそれがわかるのだろうか。
モーセとファラオ
モーセが生まれた時代、イスラエルの民はエジプトに寄留してから350年が経過していた。イスラエルの民はエジプトで大きな勢力を持つようになり、時のファラオは恐れ、彼らを奴隷として扱うように。そのファラオは「ヨセフのことを知らない王」と説明されている。
ヨセフとはイスラエル人がエジプトに来るきっかけとなった預言者で、エジプトの宰相であった。エジプトで預言者と呼ばれた人物は二人いたが、もう一人はイムホテプであるので、それはこのヨセフということになる。これは出エジプトの地理的条件に関して重要なポイントであるので後述する。
イスラエルの民を恐れたファラオはさらに、新たに生まれた赤子を殺すように民に布告を出した。そのような中で生まれたモーセを母親は隠しながら育てていたが、ついに隠しきれなくなってしまった。
母はモーセを葦の船に乗せてファラオの娘の水浴び場に浮かべておいたところ、ファラオの娘はモーセを自分の息子として育ててくれることになった。ファラオの娘は乳母として実の母を雇い、モーセはエジプトの王子として生きることになった。
モーセは40歳までファラオの王子として過ごしていたが、ファラオの王子と呼ばれることを捨て、イスラエル人の同胞を助ける道を選んだ。モーセは事件を起こしてエジプトから逃げて妻の父のもとで暮らしていたが、80歳のときにイスラエルの民の開放を要求するため、ファラオの前に姿を現したのである。
モーセと明治天皇の類似
モーセはイスラエル人(ユダヤ人)にとって、最も偉大な預言者の一人として崇敬されている。それはエジプトで奴隷の境遇で苦しめられていた民の開放者であり、ユダヤ人の宗教の要である律法を神から授かったからである。一方、日本人にとって明治天皇はユダヤ人にとってのモーセに非常に似ているのである。
江戸時代の日本人の慣習と宗教観は、聖書でいうバアル信仰と瓜二つであった。バアルという異教の神を信仰していた時代のイスラエル人は、モーセの説いた神を礼拝するどころか、説いて回る人々を迫害した上に殺してしまい、不道徳や人身御供などにふけっていた。
江戸時代には、キリシタンの禁教令で多くの処刑や迫害が行われていたり、建物を建てる際に人柱という人身御供が行われていたり、祭となれば無礼講となって誰とでも性行為に及び、大きな神社に続く街道には二階が売春宿になった店が並ぶなど、まったくバアル信仰と同じ様相を呈していた。
明治天皇の教えは半世紀で放棄された
それが明治維新により江戸幕府の支配は終わりを告げ、日本人の宗教観と慣習が刷新され、教育勅語によって勤勉で高潔な精神が推奨されるようになった。現在の日本人が持つ美徳やボランティア精神などの日本人らしさは、実はこの時代に形成されたと考えられるのである。
1948年に明治天皇のあらゆる神性が否定され、唯物主義や快楽を伴う娯楽が大量に移入された現在は、まさにモーセの偉業と、その後に起こったイスラエル人の神への反抗そのものである。モーセは罪深い状態にあるイスラエル人をまっとうな道に導き、イスラエル人が本来あるべき姿に立ち返るよう、生涯をささげたように、明治天皇もまた日本の物心両面に対する発展のために尽くされた、まさに日本における大預言者モーセなのである。
数千年もの長きにわたってその雄姿を示し続けているピラミッドは、大切なメッセージを伝え続けるために風と砂に耐えてきた。ギザの三大ピラミッドにはモーセが信じ、人々に解き教えた神の正体と、明治天皇の諡号など、共通のメッセージが隠されているのである。しかも、近代で日本の文化から解き明かせるものなのである。
ピラミッドのサイズに隠された暗号
オイディプスが出会ったスフィンクスのいたピーキオン山を、ギザの三大ピラミッドだとすれば、どんな象徴が隠れているだろうか。
スフィンクスが向いている方向が正面とすると、向かって右側にクフ王のピラミッド(第一ピラミッド)があるという構造になる。三大ピラミッドと呼ばれているが、右側のクフ王のものが最も大きく、左側のメンカウラー王(第三ピラミッド)のものが最も小さい。
三体構造のものは、たいてい真ん中が大きく(高く)、左右を少し小さく(低く)して、左右対象のデザインとするように思われるのだが、三大ピラミッドは右側を少し大きくして中央と右側がほぼ同じ大きさとし、左が極端に小さいといういびつな構造になっている。これはなぜなのだろうか。
神の右に立つイエス・キリスト
ピラミッドは一般に墓だと考えられているが、クフ王はピラミッドを女神イシスの神殿と呼んでいる。この言葉を重く受け止め、信仰の対象として建造された神殿だと考えてみる。特にモーセがピラミッドを神殿として信仰の対象としていたとすれば、そこには聖書の象徴が見いだせるのである。
ピラミッドは右側が特に強調されている。この構図は聖書の象徴を想起させる。キリストが教会を組織され、使徒たちが伝道している頃、ステパノという伝道者がユダヤ人に対し、モーセについて話している場面がある。このときステパノはユダヤ人に石で撃ち殺されてしまうのだが、死の直前に次のような示現を見ているのである。
しかし彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。(使徒7:55―56)
キリスト教の神学では、天界の神には天の父なる神と、神の御子であるイエス・キリストと、御二方を証する聖霊の三神が存在している。そしてイエス・キリストは神の右に立たれる御方として語られる。よって右側のピラミッドが大きいのは、特にイエス・キリストの栄光を表すためのデザインではないかと考えられる。
栄光の順位から示すと、カフラー王の第二代ピラミッドが神の神殿、クフ王の第一ピラミッドがイエス・キリストの神殿、メンカウラー王の第三ピラミッドが聖霊の神殿となる。
太陽、月、明治天皇とピラミッド
しかしである。
イエス・キリストが神の右に立たれるとは、向かって左側にならなければならない。つまり、メンカウラー王(第三ピラミッド)の位置が神の右側に当たり、これが最も大きいピラミッドになるはずである。この矛盾は、三大ピラミッドが後ろを向いているとするなら解決できるのである。すなわち、神、イエス・キリスト、聖霊は背中を向けているのである。
この姿を表す漢字が存在する。それが「明」なのである。聖書では天界の栄光の象徴として、「神=日」「イエス・キリスト=月」「聖霊=星」として示される。「明」は左側に太陽があり、右側に月がある形で、しかも月のほうが大きいのは、三大ピラミッドと同じ構造になっている。すなわち、この漢字もまた背中を向けているのである。
三大ピラミッドが背中を向けている構造であることは、日本のわらべ歌を思い起こさせる。それはかごめ歌の最期の歌詞である。
後ろの正面だあれ
かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつでやる
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
後ろの正面だあれ
「後ろの正面」とは変わった表現だが。これが後ろを向きながら前を向いているという意味だとすると。まさに正面を向いていると思っていたピラミッドが、実際は背中を向けている状態と同じ意味になる。
これはイクナートンもアメンヘテプも、盲目であったことを意味しているのかもしれない。スフィンクスの謎かけに「3本足」とあるが、これは年を取ったからではなく、目が見えないために杖をついていることともいえる。
モーセは盲目ではなかったが、杖を持っている姿が印象的な預言者であった。エジプトの宮廷魔術師と対決した際、杖を蛇に変え、紅海を渡る奇跡では海に杖を掲げて乾いた地が現れたシーンはよく知られている。杖を持っているイコール盲目というイメージがあったかもしれない。
ただし、ファラオの前で杖の奇跡を示したのは兄のアロンであった。はた目にはモーセは何もしていなかったため、盲目とみなされたかもしれない。また、エジプトから逃げて妻の父のもとにいた40年間は、霊的な意味で盲目であったということなのかもしれない。
月とウサギの暗号
クフ王のピラミッドが月(イエス・キリスト)のピラミッドであり、そこからさらに月そのものにも象徴が隠されていることが見いだせる。月は常にウサギの模様を地球側に向けており、その面が月の表として呼ばれている。月の裏側はウサギの模様の表と違って隕石の衝突跡だらけのあばた面になっている。
しかし、このでこぼこの裏側が実際には表だとしたらどうだろうか。明治天皇は痘瘡のため、あばた面であり、あばた面ではない御真影はキヨッソーネが描いた肖像画である。絵に描かれた御真影とはすなわち人々が明治天皇と考える表の顔であるが、絵であるので裏となり、実際の表の姿はあばた面ということになる。
月の裏がなぜでこぼこかを考えると、これは地球に降り注ぐはずの隕石を一身に背負ったからともいえ、それはまさにイエス・キリストが全人類のすべての苦を身に受けられたことを象徴している。
かごめ歌の暗号
かごめ歌の後ろの正面の人物が、イクナートン、モーセ、イエス・キリスト、明治天皇を表すとするならば、歌詞すべての意味はどうなるだろうか。
かごめとは籠を編んだ時にできる網目のことで、イスラエルの象徴である六芒星の形になる。囚われの身にあるイスラエルの民はいつ脱出できるのかという意味になる。
夜明けの晩にとは、夜明けなのに晩とは朝から晩というありえない状況ではある。しかし出エジプトの際、日中にもかかわらず全地が暗闇に閉ざされたことが記録されており、まさに夜明けの晩にの状況があったことになる。
鶴と亀が滑ったを砕けて読むと、ツタンカーメンが滑ったとなる。ツタンカーメンが不審な死を遂げた時に出エジプトが行われたことを意味する。
かごめ歌を明治天皇に当てはめると、明治天皇が持つ象徴の月にはウサギの模様があり、ウサギは一羽二羽と数えることから鳥の象徴を兼ねている。江戸時代、籠の中の鳥のように幕府によって天皇家は幽閉状態にあった。
明治天皇の「明」の字は日と月が並び立っていることから、夜明けの晩を意味し、明治天皇の代に囚われの身から解放されたことを意味している。
天皇家の住まいのあった京都の地名である葛(かつら、くず)のようなつる性植物が鶴の象徴、亀が蔵六という京都市のマークでもある六芒星の象徴だとすると、鶴と亀が滑ったとは、京都から東京への遷都を意味している。
このようにモーセと明治天皇は同じ象徴を持つ大預言者であることを見いだせるのである。それでは、出エジプトがイクナートンの時代に起こったことはどのようにしてわかるのだろうか。まずイスラエル人がどこに住んでいて、どのルートで脱出したのかの手がかりを、イムホテプの事蹟に見いだせるのである。
イムホテプの功績
古代エジプトにおいて、偉大なる預言者であり神の人と呼ばれた人物、それがイムホテプである。イムホテプは、階段ピラミッドで有名なジェセル王の宰相として仕えた人物である。イムホテプの功績の一つに、エジプトの飢饉を救った逸話がある。
ナイル川の渇水により飢饉となった際、ジェセル王はイムホテプに助言を求めた。そこでイムホテプは、「ナイル川の水源の主であるクヌムの神殿に土地を寄進すれば、再びナイル川は氾濫するであろう」と答えた。クヌムの神殿は現在のエスナにある。
イムホテプはヨセフなのか
一方、エジプトの飢饉を救った預言者ヨセフの事蹟はイムホテプのものとよく似ている。
ヨセフはイスラエル人の祖ヤコブの11番目の男子として生まれた。ヨセフは年寄り子でかわいがられたため、兄たちに妬まれた。その妬みは頂点に達し、ヨセフは奴隷として売られてエジプトへ行くことになった。
さらにエジプトでも奴隷の身からさらに落ちて、牢屋に2年間入れられることになった。それでもヨセフは信仰を失わず、主から恵みを受けてついにパロ(ファラオ)の前に召しだされる。パロはヨセフを王の位に継ぐ宰相に任じ、エジプトの実質の統治者となった。
そのころ世界は飢饉に見舞われた。ヨセフは前もって主から飢饉を知らされ、食料の備えをしていた(夢で知らせを受けたのはパロで、ヨセフはそれを解き明かした)。その食料を得ようとヨセフの兄たちがエジプトに来た。兄たちはヨセフを奴隷として売ったことを悔いていた。兄たちはエジプトの宰相がヨセフだと気づかなかった。
ヨセフは兄たちに会い、自分が誰であるかを明かし、兄たちに告げた。「主がわたしたちの家族を救うために、先にわたしをエジプトに使わされたのです。もう悔いることも自分を責めることもしないでください。」父ヤコブもヨセフが生きていたと知って喜んだ。
その後、ヤコブ(イスラエル)の一族はエジプトへ移住した。移住先をゴセンの地といった。(創世記37章~50章)
クヌムの地はゴセンの地か
イムホテプの進言にあるクヌムの地の寄進は、父ヤコブの家族へゴセンの地を寄進したことと同じであると考えられる。つまり、イムホテプとは預言者ヨセフであると考えられるのである。
イスラエル人が住んだゴセンの地と一般に考えられているのは、ナイル川の河口付近であるが、これではイスラエル人が後にエジプトを脱出した際のルートに矛盾が生じるのである。イスラエル人はエジプト軍に追いかけられたときに紅海を渡り、約束の地のパレスチナを目指したことになっている。
しかし、ナイル川河口付近に住んでいたのなら、紅海よりも目的地であるパレスチナの方が近いため、わざわざ紅海まで遠回りして行ったとは考えにくい。ゴセンの地はナイル川のもっと上流であると考えるのが自然といえる。クヌム(エスナ)はイクナートンの時代の首都であったテーベのすぐそばであり、エジプト軍から逃げる際に、紅海へ追い込まれたと考えてもよい地理にある。
イムホテプは神と人の母との間の子と言われることもあるのだが、これはファラオと同格であることを表している。これと同じような記述が聖書にも見られるのである。
そこでパロ(ファラオ)は家来たちに言った。「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」またパロはヨセフに言った。「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民は皆あなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」パロはさらにヨセフに言った。「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」(創世記41:31~41)
イムホテプが述べたクヌム神は、羊の姿をし、ろくろで人を創造したという。エジプトにおける唯一の創造神であり、ラーよりも古いとされている。クヌム神とは、神の小羊と呼ばれ、人を創造し、ヨセフが信仰していた主イエス・キリストのこととなる。
紅白歌合戦
大勢の日本人は、大みそかになると年越しそばを食べ、紅白歌合戦を見て、除夜の鐘をききながら初詣に出かける。これが出エジプトの謎を解き明かす鍵になるとしたらどうだろうか。特に、紅白歌合戦は出場する歌手に注目が集まるが、その勝敗を気にする人はほとんどいない。ここがポイントとなる。
副葬品の製作技術の謎
ツタンカーメンの王墓の発見は世界最大の発見ともいわれる。その埋葬品は非常に高度な技術で作られ、世界中の人々を魅了しているが、実は意外なことが判明している。
ツタンカーメンの棺は厨子という、部屋いっぱいに作られたいくつもの箱に入れられた状態で安置されていた。ロシアのおもちゃマトリョーシカのように、箱の中にまた箱があるという構造なのである。この厨子は部屋いっぱいの大きさのため、墓の外で一度組み立てられていたものを分解し、墓の中で再度組み立てられなければならなかった。ここに、最大の謎とその謎を解く鍵が隠されている。
ツタンカーメンの調度品は非常に高度な技術で設計され、作成されている(その作成はファラオの生存中に行われる)。しかし、この厨子は確かに設計と製作は高度な技術で作られているが、墓の内部で組み立てられた際には、非常に雑な組み立てになっており、あちこち無理に叩いて強引に組み合わされた部分がある。つまり、製作を請け負った者と、墓内部で組み立てた者が違うようなのである。
極めつけは石棺である。ツタンカーメンの棺を納めた石棺の蓋が割れていたのである。モルタルで修復されてはいたが、カーターはそれを見た瞬間、「盗掘されていたのか」と肝を冷やしたという。棺を石棺の中に入れて蓋をする際、蓋を落としたか何かして割ってしまったのである。ファラオの墓であるのに、ありえないほどの不手際である。
消えた製作者集団
時代の違う二人のファラオの黄金のマスク、ツタンカーメンとプスセンネス1世を見比べると、どちらの製作技術が高く思えるだろうか。ツタンカーメンは紀元前約14世紀、プスセンネス1世は紀元前約11世紀のファラオである。プスセンネス1世の方が300年も新しいが、ツタンカーメンのマスクの方が技術的にも芸術的にも高い水準で作られているように思う。
これらの事例を集約すると、一つの出来事が浮かび上がってくる。ツタンカーメンの生存中、墓に入れる副葬品の数々を作成した人々が、ツタンカーメンの埋葬の際にはいなかったということである。そのため、厨子の組み立ては、彼らとは違う技術の低い人々が請け負ったため雑になってしまった。
さらに300年経った技術が進んでいるはずの時代に、技術レベルの低いマスクが登場することになる。つまり、その工芸集団はツタンカーメンの生存中にはエジプトにいたが、王の死の際にはエジプトから姿を消したということである。その技術者とは、出エジプトでエジプトからいなくなったイスラエル人となる。
ツタンカーメンの死因の謎
ツタンカーメンの死は謎に包まれているが、オイディプスの神話からヒントを得ると、兄スメンクカラーとの戦闘において相打ちになって二人とも死亡したことになる。二人が戦争をしたのは確かだとしても、ツタンカーメンには目立った外傷がないため、戦闘の負傷で死んでいないとすると(負傷した傷も回復したような兆候があるとされる)、記録上戦死したと書かざるを得ないほど、ややこしい問題があったと考える事も出来る。
これまで、エジプトからイスラエル人が脱出したのはこの時代だとしてきた。ならば聖書にはツタンカーメンの死が記されているというのだろうか。
殺戮の天使の呪いと過越の祭
出エジプトの直前、エジプトには一つの呪いが下された。エジプト中の長男に当たる人間はすべて死ぬというものである。この呪いはもちろんファラオの家にも下された。
夜中になって主はエジプトの国の、すべての初子(ういご=長子)、すなわち位(くらい)に座するパロ(ファラオ)の初子から、地下のひとやにおる捕虜の初子にいたるまで、また、すべての家畜の初子を撃たれた。それでパロとその家来およびエジプト人はみな夜のうちに起き上がり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。
そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った。「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。」(出エジプト12:29~31)
主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた。「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい。『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。
(中略)小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮れにこれをほふり、その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
(中略)あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰をひきからげ、足にくつをはき、手に杖を取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越(すぎこし)である。
その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。その血はあなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災いが臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない』」(出エジプト12:1~15)
そこでモーセはイスラエルの長老をみな呼び寄せて言った。「あなたがたは急いで家族ごとに一つの小羊を取り、その過越の獣をほふらなければならない。朝までにあなたがたは、ひとりも家の外に出てはならない。主が行き巡ってエジプトびとを撃たれるとき、かもいと入口の二つの柱にある血を見て、主はその入り口を過ぎ越し、滅ぼす者が、あなたがたの家にはいって、撃つのを許されないであろう。」(出エジプト12:21~23)
夜中になって主はエジプトの国の、すべての初子(ういご=長子)、すなわち位(くらい)に座するパロ(ファラオ)の初子から、地下のひとやにおる捕虜のういごにいたるまで、また、すべての家畜のういごを撃たれた。それでパロとその家来およびエジプト人はみな夜のうちに起き上がり、エジプトに大いなる叫びがあった。死人のない家がなかったからである。
そこでパロは夜のうちにモーセとアロンを呼び寄せて言った。「あなたがたとイスラエルの人々は立って、わたしの民の中から出て行くがよい。そしてあなたがたの言うように、行って主に仕えなさい。」(出エジプト12:29~31)
そして彼らはエジプトから携えて出た練り粉を持って、種入れぬパンの菓子を焼いた。まだパン種を入れていなかったからである。それは彼らがエジプトから追い出されて滞ることが出来ず、また、何の食料も携えていなかったからである。
イスラエルの人々がエジプトに住んでいた間は、430年であった。430年の終わりとなって、ちょうどその日に、主の全軍はエジプトの国を出た。これは彼らをエジプトの国から導き出すために主が寝ずの番をされた夜であった。ゆえにこの夜、すべてのイスラエルの人々は代々、主のために寝ずの番をしなければならない。(出エジプト12:39~42)
過越の祭は大みそかの習慣か
年の終わりに寝ずの番をするとは、大晦日の年越しと同じである。そのとき、年が明ける前に年越しそばを食べるが、そばは種入れぬ粉で作ったパンともいえる。種入れぬパンは脱出する前に急いで食べるように命じられていたが、年越しそばは年が明けるまでに食べ終えなければならない決まりがある。そばは急いで食べるものでもあり、過越の食事を立って急いで食べる描写は、立ち食いそばのような印象もある。
正月から七日の間は種入れぬパンを食べるように命じられているが、日本の正月のお餅のような印象を受ける。種入れぬパンをヘブライ語でマッツォというが、餅に発音が似てなくもない。
年越しの際、視聴率は落ちたとはいえ、日本人の多くが紅白歌合戦を見る。エジプトは上下に紅白に分かれた国であり、黄金のマスクの額についているコブラと隼の飾りがこれを示している。紅白に分かれたツタンカーメンとスメンクカラーとの戦いの最中にイスラエル人がエジプトを出た様子は、紅白歌合戦を見てから初詣に出かける日本人と同じといえる。紅白歌合戦はどちらが勝つかなど、大半の日本人は興味がなく、スメンクカラーが勝つにしてもツタンカーメンが勝つにしても、見ている者にとっては勝敗など関係なかったのとよく似ている。
また、紅白歌合戦が終わると放送される「ゆく年くる年」は、かつては積雪の中を歩く人たちの姿を映し出していた。雪を水に見立てると、エジプトを脱出した後で、紅海の岸辺に追い詰められたイスラエル人が水の中の道を通った様子を思い起こさせる。
そして殺戮の天使に撃たれた、「位に座するファラオのういご」、彼こそがツタンカーメンである。ツタンカーメンは弟であるのでういごではないように思えるが、父のイクナートンには妻が複数いたため、ツタンカーメンとスメンクカラーが異母兄弟で、ういごであった可能性がある。
では、あらゆるういごが命を奪われた原因はなんだったのだろうか。エジプトを行き巡って死をもたらした存在を「殺戮の天使」または「滅ぼす天使」と呼んでいる。この正体不明の存在の正体を解き明かす鍵を、明治天皇が持っておられるのである。
謎のゴム人間
事実なのかどうか証明できないが、明治天皇を祀る明治神宮で奇妙な生物が写真撮影されたことがある。その生物はゴム人間と呼ばれている。
タレントの石坂浩二氏や的場浩司氏も目撃したと証言している。なぜゴム人間なのかというと、腕が伸びるからだという。貝類や軟体動物以外で手が伸びる生物などいるはずもないのだが、腕が伸びることを特徴とする妖怪なら太古から伝えられている。それは河童である。
河童は腕が体内で(かかしのように)つながっており、片方の手を引っ張ると伸び、もう片方の手が縮むのだという。この河童の正体を探っていくと、驚くほど殺戮の天使の行動に当てはまるのである。
カッパと妖精は殺戮の天使か
河童は人を水中に引き込んで尻子玉を抜くという危険な妖怪というイメージがありつつ、井戸など水に関する神としても祀られてもいる。天使と悪魔が混在しているような印象を受ける。これは人によって益をもたらす場合もあれば、災いをもたらす場合もあるという意味になる。
出エジプトでエジプト人に臨んだ殺戮と、イスラエル人に与えられた守りは、まさに明暗が分かれた事例といえる。日本では、一寸法師のように策略を持って姫を我が物にした話や、大歳の神のような物語も伝わっている。河童の姿はその名の通り童子という点と、幸いをもたらすという面に注目すると、世界の小人や妖精の物語もまた同じなのかもしれない。特に妖精は怒らすと怖い存在として描かれることもある。まさに河童と同じである。
妖精のスカーフという物語がある。ここに出てくる妖精ピクシーが落としたスカーフを、少年が偶然拾ったことで、さまざまな不思議が起こる。スカーフを取り戻しに来た時のピクシーの言葉が非常に重要な意味を持っているのである。
ピクシーが少年にスカーフを取り返しに来たが、家の中に入れなかった。そのわけは、少年が神に祈りをささげたからだというのだが、出エジプトでの逸話とそっくり同じである。殺戮の天使の害にあわないため、イスラエル人が行った過越の儀式はいわば神への祈りであり、その家には殺戮の天使は入れなかったのである。
河童は猿を苦手としているという。宰相アイの墓には十二匹のヒヒ(猿)が描かれている。十二匹のヒヒは、十二の部族で構成されているイスラエル人を示しているのではないだろうか。河童(殺戮の天使)が苦手な猿の逸話のルーツは、イスラエル人が一人も襲われなかったからだろうか。
殺戮の天使は長男のみ選択して殺害したというが、河童には人には見えないものが見える能力があるのかもしれない。殺戮の天使が現れる前、ナイル川が血に染まり、カエルやぶよの大発生などさまざまな災いと疫病が起こっているが、これがナイル川の環境の激変だとすると、ナイル川に住んでいた河童の群れが川にいられなくなって、テーベの町に大挙して押し寄せたのかもしれない。
河童はキュウリが大好物という。キュウリをはじめとする瓜植物の原産地はエジプトである。いまだ未知の生物ではあるが、その伝説のルーツがエジプトにあることを物語っているといえる。
イスラエル人とエドム人の因縁
宰相アイはイクナートンの母であり妻であるティイの兄であった。イクナートンの時代はこのアイの一族によって統治されていたことになる。アイの血族はミタンニ王国の出身とされている。ミタンニ族は聖書でいうところのエドム人となる。これが謎を解き明かすもう一つの大きな鍵となる。
出エジプトの時代がこの時代であるなら、イスラエル人に苦役を課したのはエドム人ということになる。エドム人に支配されるイスラエル人の構図は、後に偉大な出来事の中に現れることになる。
モーセは偉大な預言者であった。その偉大さは、彼自身が救い主のひな形として表されたことに示されている。
「主なるあなたがたの神は、あなたがたのために、あなたがたの同胞の中からわたしのような預言者を一人お立てになる。その預言者があなたがたに語るすべてのことに耳を傾けなさい。そして、その預言者に耳を傾けない者はすべて、民の中から絶たれるであろう。」(申命記18:15~19)。
この預言にあるモーセのような預言者とは、イエス・キリストのことである。モーセの生涯とキリストの生涯を見てみると、実に象徴に満ちている。それは二人が生まれ育った国の支配者にまで及んでいるのである。モーセの生涯は先述の通りであるが、キリストの生涯をモーセになぞらえるとこのようになる。
イエス・キリストとヘロデ一族
イエス・キリストは今から約二千年前に、イスラエル(ユダヤ)にいた人物である。この時代のイスラエルはローマ帝国の支配下に置かれていた。ローマ帝国はユダヤ地方を治める王として、ヘロデ王を任命していた。このヘロデ王の時代にキリストは誕生したのである。
ヘロデ王はユダヤ人の歓心を買うことに執心しており、彼らの間に伝わる救い主のの預言も知っていたと思われる。彼の妻の一人はユダヤの王族の娘マリアムネである。妻からも救い主のことを聞いていたとしても不思議ではない。
彼はイエスが世の救い主として降誕したという話を、東方からやって来た博士たちから聞き、自らの地位が奪われることを危惧してイエスの殺害を計画する。イエスが生まれた地方の二歳以下の男児を皆殺しにするよう命令したのである。
さてヘロデは(中略)博士たちから確かめた時に基づいて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。(マタイ2:16)
一方モーセの時代にも同じことが行われている。
そこでパロはそのすべての民に命じて言った、「ヘブルびとに男の子が生れたならば、みなナイル川に投げ込め。しかし女の子はみな生かしておけ」。(出エジプト1:22)
命を狙われたイエスは幼児の殺戮の際、エジプトへ難を逃れている。そしてヘロデ王の死後にユダヤ地方へ戻ってきた。モーセは葦の船に乗せられていたところをパロの娘に引き取られ、かくまわれている。
新約聖書の福音書に記されているイエスの降誕の模様は、身重のマリヤが馬小屋で出産し、乳児のイエスを飼い葉おけに寝かせるというものである。しかし、外典のヤコブ原福音書には、イエスが生まれたのは洞窟で、飼い葉おけに寝かされたのはヘロデから逃げるためであったと記されている。
この方が、モーセが葦の船に寝かされた様子と重なることから、筆者はこちらに注目している。
それぞれのひな形
イエスはイスラエルの王であったダビデの子孫であり、正当なイスラエルの王位継承者であった。モーセはパロの娘に王子として育てられており、エジプトの王位継承者であった。しかし、二人とも王として君臨するのではなく、民の救いのためにその生涯をささげる人生を送っている。
この偉大な二人の預言者に敵対する王であったヘロデとイクナートン(またはアイ)は、どちらも同じ民族であることが見いだされる。彼らの先祖はエドム人である。エドム人とはイスラエル人の祖、ヤコブの兄エサウの末裔である。
エサウは長男であったため、長子の権利と祝福を相続するはずであった。しかし、エサウは誤った人生を歩み、長子の特権を弟のヤコブに奪われてしまう。エサウは長子の権利を失った怒りを燃え上がらせ、子孫とともにヤコブの家族に戦いを挑んだ。エドム人はイスラエル人をひどく憎むようになり、常にイスラエルを脅かす民族として存在することとなった。
モーセがキリストのひな形であったように、イクナートンやアイが同じエドム人のヘロデ王のひな形であったとみなすことができるのではないだろうか。
第一部の「古代エジプトと謎の国プント」で古代エジプトの歴史と出エジプトの時代を扱ったが、そこで出た結論と本書は大きな矛盾が生じている。しかし、なぜかイクナートンはモーセと深い関わりがあるようにしか思えないのである。この不思議は、まだ私の力では遠く及ばない古代人の知恵が込められていると考えている。
昭憲皇太后という諡号は、明治天皇が日本人に対し、大預言者モーセのような偉大な指導者であることを示したものではないだろうか。
明治神宮には大御心(おおみごころ)というおみくじのようなものがある。明治天皇と昭憲皇太后陛下の謳われた御言葉に親しむために、神社のおみくじとは違ったものを参拝者に提供したいと考えられたものである。それはまさに聖書の神の言葉と同じ、人々に正しく生きる指針と希望を与えてくれるものなのである。
戦後日本は戦前の教育を悪として否定したが、それは暗に明治天皇の事蹟を否定するものとなった。一九四八年に教育勅語は廃され、明治天皇の聖跡は破棄された。そして明治天皇崩御百年を過ぎ、人々は明治天皇を忘れつつある。しかし、明治天皇の大御心は今も生きている。明治天皇と昭憲皇太后は、日本国民の希望の光なのである。
とこしへに 民やすかれと祈るなる わがよを守れ伊勢の大神
(とこしえに日本国民が安らかにいられるように祈ります。神よこの国をお守りください。明治天皇御製)
みがかずば 玉も鏡も何かせむ まなびの道もかくこそありけれ
(宝石も鏡も磨かいてこそものになるように、学問の道もそうあるべきです。昭憲皇太后お歌)
明治十四年(1881)、滋賀県野洲市にある大岩山で日本最大の銅鐸が発見された。この銅鐸は東京国立博物館に払い下げられ、今もここで展示されている。
この貴重な銅鐸が、平成二十五年(2013)十月から十一月にかけて野洲市に里帰りすることになった。二ヶ月間野洲市歴史民族博物館にて展示されていたが、この銅鐸を見る機会を逃すまいと思い、足を運んだ。本物に触れるというのは歴史を知る上で重要なものだと思うが、そればかりではなく、まったく不思議な出会いも経験した。
博物館を一通り見て回った後、何気なく図書コーナーを物色していたが、そこで一つの書籍に目がとまった。「邪馬台国消滅の謎」(日本図書刊行会)という本で、地元野洲市にある御上神社の氏子、橋本彰氏が書かれた本だった。そこに書かれていた内容は実に興味深い内容で、自分の邪馬台国についての考察にまったく新たな光を与えるものだった。
拙著は、すでに故人となられた橋本氏の説を参考にし、いまだに決着を見ない邪馬台国(の首都)がどこにあったのか、またほとんど情報のない狗奴国がどのような国であるかを解明しようとしたものである。また、倭奴国王(委奴国王)の金印で有名な奴国との関係を明らかにし、いつのまにか消滅した邪馬台国が一体どのような運命をたどったのかを推理したものである。
日本の歴史を記した記紀(古事記、日本書紀)に登場する神功皇后は、大正時代まで卑弥呼であると考えられてきた。しかし、その事績は魏志倭人伝とはかけ離れた内容であり、大和朝廷自体は邪馬台国より後に成立したというのが通説である。
しかし、記紀には邪馬台国の情報が確かに組み込まれており、またその暗号を解き明かすとき、伝説の英雄ヤマトタケルと卑弥呼は夫婦であったことが浮かび上がるのである。
朝鮮半島から不弥国を経て投馬国へ
まずは魏志倭人伝に記されている邪馬台国への行程を簡潔に見ておきたい。邪馬台国の比定地は近畿説と九州説に分かれているが、拙著は近畿説で、奈良県桜井市の纏向遺跡が邪馬台国の首都であったと考えている。
帯方郡(ソウル近郊)、韓の国々を経て、狗邪韓国(弁韓、加羅)に到着。
朝鮮半島から海を渡って対馬国(倭人伝では対海国だが、誤記とされる。長崎県対馬)、一支国(倭人伝では一大とあるが誤記とされる。長崎県壱岐)、末盧国(佐賀県松浦)、伊都国(福岡県糸島)、奴国(福岡県博多、かつての那大津)、不弥国(福岡県宇美または嘉麻市馬見)に至る。朝鮮半島から不弥国の旅程は、文字の音節から見ても現在の地域とほぼ同じであることが見て取れる。
不弥国と推定される福岡県の東にある宇美市からが、近畿説と九州説の分かれ目となっている。
魏志倭人伝には南へ水行20日で投馬国に着くとある。それから東へ水行10日の後、南へ三十日陸上を進むとあるが、それがあまりにも長い距離のため、邪馬台国は九州南の海上に存在することになってしまう。そのため、不弥国からの進行方向が南ではなく東へ向かったとするのが近畿説の主張である。
拙著では東へ向かったとする近畿説を採用し、投馬国以降の地域を順に見ていくことにする。
投馬国と二つの海の道
投馬国は5万戸の人口があったという。7万戸の邪馬台国に次ぐ規模の国である。船で二十日進む距離にあり、その規模の国力を持つと思われる国は、出雲と吉備が該当すると思われる。この二つの大きな違いは、道程が日本海コースか瀬戸内海コースに分かれることである。
出雲には出雲大社があり、多くの銅鐸が発見された地域でもある。ここが大きな国であったことは間違いない。しかし、銅鐸がここで造られていた(埋められていた)ことで、旅程から外れることになるのである。
吉備は、後の平安京から九州の大宰府との交通で瀬戸内海ルートで通った地域であり、日数もほぼ同じ計算が成り立つ。時代が下ってもそのまま使われていたことから、ここが最有力地であるといえる。
この二つの地域以外では但馬がある。発音が近い上に「馬」の字も同じである。吉備の地域には鞆の浦や播磨があり、ここも発音が似ている。魏の使いにとって、邪馬台国に行くのには瀬戸内海コースの方が楽だったはずである。だが、この三つは深いつながりがあり、その鍵を握っているのが神功皇后である。
この謎は銅鐸の意味とともに後述するが、投馬国に該当する推定地を、日本海ルートは但馬、瀬戸内海ルートは吉備と仮定して旅程を進めることとする。
投馬国から邪馬台国への道(由良川経由)
投馬国から東へ10日間水上を進み、そこから上陸して南へ陸上を30日進むと邪馬台国へ至るという。この南を不弥からの方角訂正と同じ東とするか、そのまま南と読むかでまた変わってくる。
投馬を但馬とするならば、但馬から10日進んだ上陸地点は、福岡県宇美市から但馬までの距離の半分程度となる。その推定値と陸行ルートもまた2つに分かれるのである。
但馬から舞鶴湾に進むと由良川がある。この川を上ると大江町があり、そこには天御影が祀られた弥加宜神社がある。そこからさらに上って丹波町へ至り、山を越えると桂川がある。桂川を下ると下鴨神社があり、神社の前の通りを御陰通りといい、その道は比叡山を通って琵琶湖の西岸まで通じている。
対岸の野洲には天御影を祀る御上神社があるが、このルートが天御影とかかわりがあることを意味している。但馬から丹波はすぐ近くであるが、由良川を上った日数を考慮すると、10日かかったことが説明できるのではないだろうか。
桂川を下ると木津川が合流する地点に至り、木津川を上ると、卑弥呼の鏡といわれる三角縁神獣鏡が32面も副葬されていた椿井大塚山古墳がある。この地方が卑弥呼と関係が深いことが大いに想像されるのである。
この古墳の被葬者が治めていた地域を通って陸上から進んでも、宇治川(淀川)を下って大和川に入っても、奈良の大和地域へ至ることができる。この淀川水系は奈良の都から日本海へ至る大陸との交流の道であり、邪馬台国の時代の後もそのまま使用されている。この説は橋本彰氏の「邪馬台国消滅の謎」を参考にしている。
投馬国から邪馬台国への道(敦賀経由)
由良川を上る道も確かに大陸との交流ルートではあるが、もう一つ琵琶湖水系を使ったルートが考えられる。若狭湾に沿って進めば敦賀に至り、そこから山を越えて琵琶湖を南下し、琵琶湖南端から流れ出る瀬田川(宇治川、淀川と変わる)に入れば、後は由良川ルートと同じになる。
なぜこのルートも可能性があるかというと、交通の要衝にある神社とその祭神に、邪馬台国の使者が深い関係があるように思われるからである。由良川ルートには天御影を祀る弥加宜神社があるが、敦賀ルートでは都怒我阿羅斯等が合祀された気比神宮がある。
気比神宮の祭神の伊奢沙別命(いざさわけ)とともに祀られているツヌガアラシトは、天日槍と同一神と考えられている。神功皇后は卑弥呼であるとされていたが、神功皇后はアメノヒボコの子孫であり、出身地の吾名村(現在の米原市)と但馬はアメノヒボコゆかりの地である。
吾名村の米原から南に行くと、竜王町にはアメノヒボコを祀る鏡神社がある。そのすぐ南の野洲市には天御影を祀る御上神社がある。この神社のすぐ近くで日本最大の銅鐸を初め、数の上でも出雲に次ぐ銅鐸の出土があったことも重要なポイントである。このように、琵琶湖の東岸にアメノヒボコゆかりの地域が集中しているのである。
日本海コースと瀬戸内海コース、琵琶湖水系(一般的に淀川水系と呼んでいる)の木津川や淀川を通る道には、神功皇后の事績が見え隠れしている。そこには住吉神社の影響がはっきりと見えるのである。神功皇后と三韓征伐、住吉神社とのかかわりに隠された暗号を解き明かすとき、歴史から姿を消した邪馬台国が浮かび上がってくるのである。
神功皇后を后とした仲哀天皇は敦賀(角鹿)に行宮を建てている。神功皇后の出身地が滋賀県米原の地である。仲哀天皇は皇后を筑紫に呼び寄せ、皇后は敦賀から渟田(島根県盾縫群沼田が推定値)を通り、穴門(長門)、筑紫に至っている。
三韓征伐の前に神功皇后が通った日本海ルートは、倭や魏の使いが通ったルートを解き明かす鍵ではないかと考えられるのである。
投馬国から邪馬台国への道(瀬戸内海経由)
先述のとおり、瀬戸内海ルートは後の時代にも使われており、大阪湾に注ぐ淀川を使うルートは、方角が違うだけで日本海ルートとほぼ同じであったと考えられる。このルートもまたアメノヒボコと神功皇后にゆかりの道である。
すると、投馬国について、但馬とは別の地域の可能性も考えられるのである。鳥越憲三郎氏の説(大いなる邪馬台国)によると、それは吉備国となる。氏の研究によると、後の時代にも同じルートが使われているが、所要日数は同じという。人口から考えて、確かにここが最有力地なのであるが、この地の重要性については後述する。
魏志倭人伝その他には倭国大乱のことが記されているが、その乱が始まる前は瀬戸内海ルートが使われていたのではないかと筆者個人は考えている。
八幡、住吉、熊野信仰
神功皇后の三韓征伐では住吉大神が大いに助けたとある。住吉大神は八幡、住吉、熊野というようにセットで語られることが多い。八幡神社は応神天皇と神功皇后を祀り、住吉神社は住吉大神と神功皇后を祀る。応神天皇は神功皇后の子である。熊野大社(本宮大社)は崇神天皇時代の創建であるが、祭神は熊野大神といわれる。
八幡神社や住吉神社に深く関わる氏族は、朝鮮半島からの渡来系氏族、秦氏である。応神天皇は朝鮮半島から大勢の秦氏を呼び寄せたが、これは応神天皇も秦氏であることを暗示しているといえる。また、三韓征伐の際には藤原氏の祖である天児屋根命(あめのこやね)が神功皇后を助けたとされる。秦氏と藤原氏には深いつながりが見受けられる。
熊野信仰は熊野本宮大社、速玉大社、那智大社の熊野三山という三つの神社の信仰である。祀られている神は熊野権現と総称され、スサノオともいわれるが詳細は不明とされる。山の名の示すとおり仏教色が強い。天武天皇や藤原成道の蹴鞠にちなんだ逸話があり、藤原氏の全盛期に崇敬を受けた神社でもある。
熊野大神の使いが八咫烏であり、熊野信仰のシンボルとなっている。八咫烏は賀茂建角身命の化身とされ、山城(京都)の賀茂氏の祖で下鴨神社の祭神でもある。上賀茂神社、下鴨神社、松尾大社を秦氏三所明神といい、秦氏と賀茂氏、熊野三山との深い関係が見える。
このように、八幡、住吉、熊野の神社は秦氏でつながっているといっても過言ではなく、邪馬台国と卑弥呼にも深くかかわっていた可能性がうかがえるのである。
神功皇后と三韓征伐
邪馬台国の謎を解く鍵の一つは神功皇后の三韓征伐にある。征伐に関する出来事を要約すると、次のようになる。
・住吉大神が新羅討伐の神託を下す。
・仲哀天皇が託宣を聞かずに熊襲討伐に向かい、敗れ、翌年に筑紫の香椎宮で崩御する。または熊襲に矢で討たれ、崩御されたともいう。
・神功皇后は応神天皇を身ごもっていたが、月延石(つきのべいし)を当ててさらしを巻いて出産を遅らせた。石は三つあり、それぞれ壱岐の月讀神社、京都の月読神社、福岡の糸島の鎮懐石八幡宮に奉納する。
・新羅に出征。戦わずして平定する。
・帰国後、筑紫の宇美もしくは蚊田で応神天皇を出産する。
・旗八流を対馬の木坂八幡宮に納める。
・大阪の住吉大社に凱旋する。
・軍船の軍旗(はたたぎ)は京都伏見の秦氏系神社である、真幡寸神社の御神体となっている。その神は賀茂建角身命(八咫烏)の孫の賀茂別雷命とされる。
このように、神功皇后と住吉大神、応神天皇の八幡神と、賀茂氏(八咫烏)、秦氏が深く関係しているのが分かる。そして、三韓征伐にゆかりのある場所をたどっていくと、魏志倭人伝に記された魏から九州各地への道のりが姿を表すのである。
魏の使いの旅程と神功皇后の足跡(朝鮮半島~九州)
魏志倭人伝の記述から魏の使いが朝鮮半島から九州へ行ったルートと、三韓征伐の事績とルートを見比べると、全くの一致を見せていることがわかる。
・帯方郡、韓の国々、狗邪韓国=三韓。
・対馬国(長崎県対馬)=対馬市の海神神社(江戸時代まで八幡神社であった)。
・一支国(長崎県壱岐)=壱岐市の月讀神社。京都の月読神社の禰宜は壱岐氏の後裔松室氏という。中臣氏と秦氏の縁が深い。
・末盧国(佐賀県松浦)=唐津市の鏡神社。もとは松浦宮と呼ばれていた。
・伊都国(福岡県糸島)=糸島市の鎮懐石(ちんかいせき)八幡宮。
・奴国(福岡県博多、かつての那大津)=福岡市の香椎宮。
・不弥国(福岡県粕屋郡宇美)=応神天皇出産後に宇美八幡宮(糟屋郡宇美町)が建てられたとされるが、糸島市の宇美八幡宮ではないかともいわれる。
このように、三韓征伐は魏の使いの旅程と何らかのつながりがあり、記述者が魏の使いの旅程を意識していたものと思われるのである。
魏の使いの旅程(九州~投馬国~邪馬台国)
魏の使いが九州から邪馬台国へ行ったルートは、不弥から東(倭人伝では南)へ水行20日で投馬国に至り、投馬国から水行10日、陸行1ヶ月で邪馬台国に至る。投馬国を但馬国だとすると、そこはアメノヒボコゆかりの地である。
魏志倭人伝に登場する重要人物の一人に、邪馬台国の使い難升米がいる。この人物は通常「なしめ」と呼ばれているが「たじま」に近い発音がもとになっていないだろうか。アメノヒボコの末裔に田道間守(タヂマモリ)という人物がいる。
古事記では応神天皇、日本書紀では垂仁天皇時代の人物で、不老不死をもたらすという非時香菓(ときじくのかぐのこのみ:橘)を常世の国に探しに行った人物である。彼が難升米だったのかもしれない。戦前を代表する東洋学者である内藤湖南氏がこの説を唱えている。
投馬国が但馬であることと、アメノヒボコの子孫のタヂマモリが難升米であることを裏付けるともいえる記述が魏志倭人伝にある。投馬国の長官を彌彌、副官は彌彌那利という。アメノヒボコの妻の父を太耳といい、この名にちなんだ官職名ではないかと思われるのである。また四道将軍の彦座王(後述)に倒された丹波の土蜘蛛の陸耳も、投馬国の長官であったのかもしれない。
また、古事記ではタヂマモリの弟の清日子の妻が当摩の女とあり、タヂマモリにかかわりのある地域が投馬であったことを、さらに裏付けているのではないだろうか。
はじめ播磨にいたアメノヒボコは宇治川を上って琵琶湖東岸の吾名邑(米原市に推定される)に至り、それから若狭湾を通って但馬に至ったと伝わっている。また、蒲生郡竜王町鏡もまたアメノヒボコゆかりの地である。難升米もしくはタヂマモリがアメノヒボコゆかりの地を通るのは当然ともいえるのである。
伊都国(糸島)と不弥国(宇美)に残るアメノヒボコの痕跡
神功皇后が応神天皇を出産した地は宇美とされているが、筑紫の蚊田(現在の糸島市前原長野)であるともいわれる。もし蚊田であるなら、糸島市にも宇美八幡宮が建てられている。祭神は仲哀天皇と応神天皇、神功皇后であるが、気比大神も祀られている。そして気比大神こそが、この神社のもともとの祭神なのである。
敦賀の気比神宮の伝承では、応神天皇と気比大神の名前を交換したとあり、これは王権の交代もしくは簒奪を意味している。宇美八幡宮にしても、主祭神がもともと気比大神であったのが、応神天皇に代わったことになる。応神天皇出生地の記述が二か所になっているのは、不弥国を示すための宇美と、気比大神の蚊田を示すためであったともいえる。
また、糸島市にある高祖神社には、彦火火出見命(神武天皇の祖父)と神功皇后が祀られているが、糸島地方を治めていた五十迹手という人物とかかわりの深い神社である。このイトデは仲哀天皇を迎えた際、三種の神器を掲げたという。そしてこのイトデの祖がアメノヒボコなのである。
気比大神、ツヌガアラシト、アメノヒボコが同一神であるとすると、ツヌガアラシトは朝鮮半島から穴門(長門:山口県)、出雲を通って敦賀の地に来たことから、邪馬台国から魏(朝鮮半島)への予想ルートと同じである。
魏の使いが大和地方にあった邪馬台国に行くため、九州に上陸してから日本海側を通ったことを見てきた。倭側からであるが、神功皇后も琵琶湖東岸から敦賀を経て九州に至り、三韓征伐から再度九州まで通った足取りは、魏の使いと一致を見せている。
神功皇后の行程(九州~住吉大社)と忍熊皇子の反乱
九州にて神功皇后が誉田別尊(応神天皇)を出産したと知るや、次の皇位がホムタワケになるのを恐れ、異母兄二人が反乱を起こした。その二人とは、仲哀天皇と大中姫命の皇子である、忍熊皇子と香坂皇子である。この乱の古事記と日本書紀の記述はそれぞれ次のようになっている
(古事記)
神功皇后が三韓征伐から帰還した際、ホムタワケが死んだと言い広め、喪船に乗せて帰還した。香坂皇子は斗賀野(神戸市灘区都賀野川か大阪市北区兎我野と推定される)で猪に食い殺されるが、忍熊皇子は五十狭茅宿禰を将軍にして喪船に攻撃を開始した。皇后軍は武振熊を将軍として戦い、山代(山城)に至った。
武振熊は神功皇后がすでに崩御されていると告げ、忍熊皇子の武装を解かせてだまし討ちにした。忍熊皇子は逢坂まで後退し、さらに沙沙那美(近江を指す枕詞)でも撃退された。皇子とイサチノスクネは船に乗り、琵琶湖に身を投げた。
(日本書紀)
二人は播磨赤石(兵庫県明石市)に陣地を構築し、倉見別(犬上君の祖)とイサチノスクネを将軍として挙兵した。しかし、反乱の成否を占う狩を行った際、香坂皇子は猪に襲われて食い殺されてしまった。忍熊皇子は不吉に思い、住吉の地に後退した。
対する神功皇后は瀬戸内海の各所に天照大神、住吉大神を鎮座し、紀伊に上陸した。忍熊皇子は菟道(宇治)に下がって、武内宿禰と武振熊(たけふるくま)を将軍とする皇后軍に挑んだところ、武内宿禰は忍熊皇子の軍に降伏すると持ちかけた。
しかし武内宿禰は降伏すると言って兵士に武器を捨てさせたが、実際は髪の中に弓を隠させていた。皇子軍が武器を手放したところを見計らい、髪の中の弓を使って攻撃した。忍熊皇子とイサチノスクネは敗走し、逃走の果て近江の瀬田川にて入水した。遺体は下流の宇治川で発見されたという。
このように、応神天皇出産までの神功皇后の旅程は魏の使いと同じながら(出雲の理由は後述)、応神天皇が生まれてからは瀬戸内海が戦時ルートとして使われている。そこには魏の使いが日本海側を通った理由と、邪馬台国の支配地域がどのようになっていたかを知る手掛かりが残されていたのである。
三韓征伐の時代
日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定しているものと思われる。だとすると大きな疑問が生じる。魏の使いは倭と同じ同盟国あるいは属国として三韓を通って来たのに対し、神功皇后は征伐に赴いているからである。
三韓征伐の時代を日本書紀では卑弥呼の時代としており、記紀の年代を西暦に当てはめると卑弥呼と同じ3世紀となる。日本書紀は参照あるいは編入文献として百済三書を用いている。
百済三書の年月は干支で記しているので60年で一周するが、日本書紀の編者は日本の歴史を2周(120年)繰り上げて書いているのではないかと考えられている。三書の引用も日本の歴史に合わせており、神功皇后の記述も実年代と120年ずれていると考えられるのである。それを裏付けるともいえる記録が見つかっている。
1880年に現在の中国吉林省で発見された広開土王碑(414年建立)には、倭が391年に百済、加羅、新羅を破って臣民としたとあり、2011年に発見された職貢図にも、新羅が倭に属していたことが記されている。
また、百済の歴史書である百済記には、382年に倭の沙至比跪が新羅討伐(実際には加羅を討ったという)に遣わされたとあり、この人物は日本書紀にある葛城襲津彦(武内宿禰の息子)のことであると考えられている。
葛城襲津彦の事績は神功皇后から仁徳天皇の時代にまで及び、新羅征伐かと思えば帰国しないなど、不明な点が多い。秦氏の移民を目的としていたようでもある。葛城襲津彦がサチヒコと同一人物であり、三韓征伐が彼の時世を指すとすれば、4世紀のことになる。
神功皇后の三韓征伐が4世紀のことだ日本書紀では卑弥呼より120年後の朝鮮半島の戦いと考えられる三韓征伐が記されているのはなぜだろうか。広開土王碑に記された朝鮮半島に攻め入った倭国とは邪馬台国なのだろうか。
神功皇后は実在したか
戦前の日本では神功皇后は実在の存在であり、卑弥呼と同一人物とされていた(大正15年以前は天皇とされていた)。ところがその事績は場所において共通点を見出せるものの、両者はまったく異なる人物のように記されている。
神功皇后は身重の体であるというのに先頭に立って戦う武人であるのに対し、卑弥呼は人前に姿を現すことがなく、老年に及んでも独り身であったと記されている。神功皇后は没年が記されていないが、卑弥呼は死んで葬られたという記述がある。この違いはなんなのであろうか。これでは全く別人である。
日本書紀の編者が百済の記録を用いている意図はどこにあるのだろうか。早くから暦を用いていた百済の記録は正確な時代を記しているとされる。そのため、神功皇后の三韓征伐の時代が120年ずれていることは簡単にわかることになる。そうすると、日本書紀の編者にとって、神功皇后は卑弥呼であることをことさらに強調する理由があるに違いない。
古事記と日本書紀はある共通の意志のもと編纂されている。歴史書の大半はその著述を命じた者が支配者であり、正当な統治者として世に知らしめる目的がある。しかし、支配された側にも配慮しなければ(支配される側の人口が多い場合が多い)反感を招き、反乱の可能性もある。
そこで考えられるのが、邪馬台国は卑弥呼の時代から120年の間に新たな支配者に統治され(滅ぼされ)たとする。そして邪馬台国の女王卑弥呼に最大限配慮するため、邪馬台国を征服した新たな支配者の王を神功皇后と呼び、卑弥呼に比定したのではないかということである。
記紀の編者は相当優れた知者であり、あるいは預言者ではないだろうか。1400年を超えた現代にまで届けたメッセージが、様々な象徴や暗号に隠されている。一般的に記紀の中には邪馬台国の記述がないと考えられている。しかし、記紀の記述者は複雑な暗号の中に邪馬台国の数奇な運命をはっきりと記していたのである。
邪馬台国と崇神天皇
三韓征伐が記紀に記された年代よりも120年後のことだとすると、神功皇后の120年前の記録が邪馬台国の時代を示しているという推理が成り立つ。それは崇神天皇と垂仁天皇の時代と考えられる。その時代には邪馬台国の使者難升米とも考えられるタヂマモリの時代と重なってくる。
日本史研究家の間では、崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。邪馬台国畿内説を見ると、水野正好氏による「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与の摂政だった」、西川寿勝氏の「崇神天皇は魏志倭人伝に記されている卑弥呼の男弟だった」が提唱されている。邪馬台国九州説からは、田中卓氏や武光誠氏の「北九州にあった邪馬台国は大和地方を統一した崇神天皇に滅ぼされた」が提唱されている。
崇神天皇は神武天皇と同じく初代天皇を示す「ハツクニシラススメラミコト」で呼ばれていることも、邪馬台国を征服して大和朝廷を建国したとする説を強めている。また、崇神天皇と垂仁天皇の名前にある「イリヒコ」が、彼らの実在性を強め、イリ王朝があったなどの説を生んでいる。また、卑弥呼のモデルとの考えられている倭迹迹日百襲姫命の時代とも重なってくるのである。
崇神天皇は確かに邪馬台国の謎を解き明かす鍵を持っている。記紀編者は正確な歴史を知っていながらそうしなかった理由がある。彼らが支配者から巧妙に隠した真実を読み解くとき、鮮やかに邪馬台国の姿が浮かび上がるのである。
神武天皇と崇神、応神天皇
大和朝廷建国の成った年を記紀は辛酉としているが、これを現在の年代に換算すると紀元前660年になるとされる。考古学者の間では、大和朝廷が成立したのが紀元4~5世紀と考えられているため、約1000年の開きがある。神武東征の物語は4世紀前後の歴史を記したものとする説が強い。
神武天皇から次の八代の天皇は実在しないとする研究もあり、欠史八代と呼ばれている。また、神武天皇から応神天皇までの事績を一人の王のものとし、「神」の名を持つ天皇である、神武、崇神、応神天皇(神功皇后を入れることもある)を同一人物とする説がある。
神武天皇と崇神天皇の両名が、初代天皇を表すハツクニシラススメラミコトと呼ばれていることから、神武天皇は崇神天皇と同一人物で、神武東征は崇神天皇の事績とし、大和朝廷を開いたのが応神天皇であるという説もある。
しかし、記紀の編者は正確な暦を用いていた百済の記録を引用し、自分たちが正確な歴史の年代を知っていたことをにおわせている。記紀編者は神武東征を支配者に都合よく書きつつも、暗号を読み解けば真実を知ることが出来るように書いているのではないだろうか。それゆえ、神武東征も三韓征伐と同じくその旅程に隠された情報があるに違いないのである。
古事記と日本書紀は同じ出来事を記しながら、人物の名前に相違が見られ、物事の順番が変わっている場合もある。また、片方にしかない記述もあり、その理由についていまだ不明なものもある。神武東征もまた同じで記述にかなりの相違があるが、その点も併記して流れを見ていきたい。
神武東征・日向~紀国(古事記)
イワレビコは兄のイツセと高千穂の宮で話し合い、天下を治めるべく東へ行こうと言い、日向を発った。
彼らは筑紫へ向かい、それから豊国の宇沙(宇佐)に着く。そこで宇沙都比古と宇沙都比売の二人が足一騰宮を建てて宴会をもうけた。
岡田宮(北九州市八幡西区の岡田宮が候補地)で1年過ごし、さらに阿岐国(安芸)の多祁理宮(たけりのみや、安芸郡府中町の多家神社と推定される)で7年、吉備国の高島宮(岡山県児島群甲浦村と推定される)で八年過ごした。
速水門(岡山県の児島湾または明石海峡)で棹根津彦が亀の背に乗って現れ、一行の先導者となる。
浪速国の白肩津(東大阪市)で停泊しているとき、登美能那賀須泥毘古の軍勢との戦闘となる。イワレビコの軍は船にある盾を並べたのでそこを盾津という。今の蓼津である。登美毘古(トミノナガスネヒコと同一とされる)との戦闘で、イツセは手にトミビコが放った矢を受けてしまう。
イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南へ向かい、血沼海で手を洗い、紀国の男之水門(和歌山市小野町が推定地)に着いた所で亡くなった。陵は紀国の亀山にある。
神武東征・日向~吉備(日本書紀)
カムヤマトイワレヒコ天皇の諱を彦火火出見という。ヒコナギサタケウガヤフキアエズの第四子である。母は玉依姬といい、海童の女である。日向国の吾田邑の吾平津媛を妃とし、手研耳命をもうけた。
イワレビコは四十五歳の時、兄たちや子たちに語った。
「昔、我が天神の高皇産霊尊、大日孁尊が豊葦原瑞穂国を、我が祖ニニギに授けられた。
イワレビコは塩土老翁に、東に美しい国があり、そこに天磐船に乗って降りてきた饒速日)という者がいると聞く。
イワレビコ一行は東へ旅立ち、速水門(豊予海峡)で珍彦という漁師に会い、名を椎根津彦と改めて神武軍の先導者とする。
筑紫国の菟狹(宇佐)に着き、菟狹津彦と狹津媛に一柱騰宮で接待を受ける。このとき、家臣の天種子命にウサツヒメを妻として与えた。アメノタネコは中臣氏の遠祖である。
筑紫国岡水門(福岡県遠賀川辺り)、安藝国の埃宮(多家神社と同じとされる)に至る(滞在期間は二か月ほど)。
吉備で高島宮を建て、三年滞在する間に兵と船団を備え、天下平定を望んだ。
神武東征・難波~紀国、長髄彦との最初の戦闘(日本書紀)
イワレビコの船団は難波崎についた。潮が速いので浪速国や浪花といい、難波となまったものである。
流れを遡って河内国草香邑の白肩津に至り、徒歩で龍田向かうものの峻険なため引き返し、東の膽駒山を越えて中洲(大和)に入ろうとした。
ときに長髄彦がそれを聞き「天神の子らが我が国を奪いに来るに違いない」と言った。ナガスネヒコとイワレビコの軍は孔舍衞坂で戦闘となった。その戦いでイツセは肘に矢を受けてしまった。
イワレビコは「日に向いて敵と戦うのは天の道に逆らうこと。日の神の威を背負えば血を流さずとも敵は自ら敗れる」と言った。そこで退却すると敵も追って来ず、草香津に至ったところで盾を並べて雄叫びを挙げた。それでそこを盾津といい、今は蓼津となっている。
初めの孔舍衞坂の戦いで大木に隠れて難を逃れた人がおり、その木を指して「母のごとき恩」といい、その場所を母木邑と呼んだ。
神武の軍は茅淳の山城水門に至った。イツセは傷の痛みがひどく雄叫びを挙げたことから雄水門といい、紀国の亀山に至ったところで崩御した。
神武東征・熊野~宇陀、布都御魂剣と八咫烏(古事記)
イワレビコが熊野邑まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとイワレビコも全軍も気を失ってしまった。すると、熊野の高倉下が一振りの太刀を持って来た。地に臥せっていた天神の御子はすぐに目が覚まして起き上がり、その太刀を受け取ると熊野の荒ぶる神は自然に切り倒され、兵士たちは意識を取り戻した。
天神の御子はタカクラジにどのようにしてこの太刀を手に入れたかを尋ねたところ、タカクラジは自分の見た夢の話をした。
天照大神と高木神が現れ、建御雷神を呼び「葦原中国の騒ぎのために私の御子たちは不平を言う。そなたは以前行ったように、葦原中国を平定させるために再び天降れ」と命じたが、タケミカヅチは「私が行かずとも、平定に使った太刀を降ろせばよい」と答えた。刀の名は佐士布都神、甕布都神、布都御魂といい、石上神宮にある。そしてタカクラジに「倉の頂に穴を空けて太刀を落とす。天神の御子の元に運べ」と言った。
タカクラジが夢のお告げの通り倉に見に行くと、太刀があったので持ってきたという。
高木神が「天神の御子よ、この奥は荒ぶる神がはなはだ多いため、八咫烏に先導させよう」と告げたので、八咫烏の案内で吉野川に至った。そこで魚取りをしていた贄持之子、光った井戸から出てきた尻尾のある井氷鹿、石を押し分けて出てきた尻尾のある石押分之子という国神に会った。そこからさらに山を踏み越えて宇陀に至った。それゆえ宇陀之穿という。
神武東征・名草~熊野~宇陀、韴霊と頭八咫烏(日本書紀)
イワレビコの軍は名草に至り、名草戸畔という者を殺した。それから狹野(和歌山県新宮市佐野)を越えて熊野の神邑(新宮市三輪崎)に至り、天磐盾(新宮市熊野速玉神社の神倉山が推定地)に登り、進軍を続けた。
海の上で嵐に遭い、船が漂流した時、イナイは「私の祖は天神、母は海神である。なぜ陸でも海でも災いに遭う」と言って剣を抜いて海に入り、鋤持神となった。ミケイリヌもまた「私の母と叔母は海神である、なぜ波を起こして溺れさせようとする」と言って波を踏んで常世の国へ行ってしまった。
天皇は一人皇子の手研耳命と軍を進め、熊野荒坂津(またの名を丹敷浦)に至り、丹敷戸畔という者を殺した。時に神が毒気を吐き、人も物も威勢を失い、皇軍は動くことも出来なくなった。
ここに熊野高倉下という者がおり、夢を見た。天照大神が武甕雷神に「豊葦原中国が騒がしい。行って征せよ」と言った。タケミカヅチは「私が行かずとも、私が平定に使った剣を降ろせば自然に国は平定される」と答えた。天照大神も承知し、タケミカヅチはタカクラジに「この剣は韴霊といい、あなたの倉に置く。天孫に渡しなさい」と言った。タカクラジが夢のお告げに従って倉を開けて見ると、床に剣が突き立っていたのでそれを持ってきた。
眠っていた天皇も毒気に当たっていた兵士たちも目を覚まし、中洲(大和)に行こうとしたものの、山が険しくて進めない上に道に迷ってしまった。すると夢に天照大神が現れ「頭八咫烏を遣わす。彼を先導者とする」と告げた。頭八咫烏は空から飛来し、天皇は「夢の通りだ。皇祖の天照大神はこの業を助けてくださる」と言った。
この時、大伴氏遠祖の日臣命は大来目とともに、督将(将軍)として山を拓き進み、鳥の行く先を見上げながら追いかけ、菟田下縣に到達した。菟田穿邑の由来である。日臣はその功績により道臣と名を改められた。
神武東征・大和での戦いと橿原での即位(古事記)
宇陀には兄宇迦斯、弟宇迦斯の兄弟がいた。八咫烏を先に遣わし、天神の御子に仕えるか尋ねさせたが、エウカシが鳴鏑を射て追い返してしまった。そこを訶夫羅前という。
軍勢を集められなかったエウカシは仕えると偽って御殿を作り、その中に押機(踏むと挟まれて圧死する罠)を仕掛けた。オトウカシは先に行ってこのことを知らせた。
道臣命と大久米命(久米直らの祖)はエウカシを呼んで罵倒して言った。「仕えるというなら、まずお前が御殿に入って仕える意思を見せろ」と刀、矛、矢を向けてエウカシに迫った。エウカシは言われた通り中に入り、自分が仕掛けた罠にかかって死に、すぐに引き出されて切り刻まれた。ゆえにそこを宇陀の血原という。そしてオトウカシの御馳走は全軍にふるまわれた。オトウカシは宇陀の水取の祖である。
忍坂の大室の地には、尾の生えた土雲の八十建が、洞窟に潜んでうなっていた。天神の御子は御馳走を持っていく振りをして、八十膳夫(料理人)に刀を隠し持たせて送り込み、歌を合図にヤソタケルを打ち殺した。また兄師木と弟師木を撃った。
邇藝速日命が参上し、「天神の御子が天降ったと聞き、自分も降ってきた」と言い、天津瑞を献上して仕えた。ニギハヤヒはトミビコの妹、登美夜毘売を娶り、生まれた子は宇摩志麻遅命で、物部連、穂積臣、婇臣の祖である。
こうして荒ぶる神は説得により平定し、従わぬ者は退け、畝火の白祷原宮で天下を治めた。
神武東征・大和での戦いと土蜘蛛、磐余の由来(日本書紀)
イワレビコは菟田の高倉山に登り、八十梟帥が国見丘に、兄磯城が磐余の地に布陣しているのを見た。
イワレビコはまず、シイネツヒコに卑しい服と蓑傘を着けさせて老翁とし、弟猾に蓑を着させた老女に化けさせ、天香山の土を取りに行かせた。この土で瓦や器を作り、丹生の川上にて天神地祇を祀った。
幾多の戦いの後、シイネツヒコが女の軍で陽動するなどして、タケルとエシキらに勝利した。
ナガスネヒコとの連戦は勝利を得なかった。時に突然氷雨が降り、金色の鵄が皇弓の先にとまった。その鵄が稲光のように光り輝き、それによってナガスネヒコの軍は戦う力を失くしてしまった。
長髄とはこの地の元の名で、そこから人の名とした。それを鵄の瑞兆から鵄邑と名付け、今は鳥見という。
ナガスネヒコは天皇に「昔、天神の子が天磐船に乗って天より降って来た。名を櫛玉饒速日命といい、我が妹である三炊屋姫(またの名を長髄姫、鳥見屋姫)と結婚して子がいる。その名を可美真手命という。それ故我はニギハヤヒを君として仕えている。したがって天神の子が二人いるのはおかしい。偽りではないか」と伝えた。
天皇とナガスネヒコは共に、天神の御子の印である天羽々矢と步靫を見せ合い、どちらも本物と分かったものの、ナガスネヒコは戦いを止めなかった。そこでニギハヤヒはナガスネヒコを殺してイワレビコに帰順した。これは物部氏の祖である。
新城戸畔、居勢祝、猪祝という土蜘蛛がいて天皇に従わなかった。そこで軍を遣わして皆殺しにした。また高尾張邑にいた土蜘蛛は、短い胴に長い手足をしており、侏儒(小人)に似ている。皇軍が葛の網で襲って殺したので、その地を葛城と名付けた。
磐余の旧名を片居または片立という。仇を破るために大軍を集めて地に満ちた(満めり)ことから磐余と名付けた。あるいは、天皇が討ったヤソタケルがそこに屯聚み居たので磐余と名付けた。
神武天皇の后と地名の謂われ(古事記)
日向で阿多の小椅君の妹、阿比良比売を妻とし、多藝志美美命と岐須美美命をもうけていた。しかし、ほかの美しい妃を求めていた。
そこでオオクメが「ここに美しい少女がおり、神の御子という謂われがこれです。三嶋湟咋の娘、勢夜陀多良比売の美しさゆえに、美和之大物主神が、彼女が厠にいるときに丹塗り矢に化けて彼女の富登(陰部)を突きました。驚いた彼女はイススキと走り、その矢を床の間に置くとたちまち壮麗な男性に変わって彼女を娶りました。そして生まれた子が富登多多良伊須須岐比売命で、またの名を比売多多良伊須気余理比売といいます」と言った。
七人の少女が高佐士野に来たとき、イスケヨリヒメもその中にいた。オオクメがそれを見て歌で天皇に伝えた。イスケヨリヒメが先頭に立っているのを見て、天皇は彼女を妻にすると歌で答えた。
その言葉をオオクメがイスケヨリヒメに歌で伝えたところ、姫はオオクメが黥ける利目(目の周りの刺青)をしているのを不思議に思って歌で聞いた。オオクメはあなたに会うためにそうしていると歌で答え、彼女は仕えると歌で答えた。
イワレビコは彼女を娶り、日子八井命、神八井耳命、神沼河耳命らをもうけた。
神武天皇の后と地名の謂われ(日本書紀)
天皇は正妃を迎えようと華族を求めた。するとある人が「事代主神が三嶋溝橛耳神の娘である玉櫛姫との間にもうけた、媛蹈韛五十鈴姫命といい、国色秀でた者です」と申し出た。天皇は悦び、ヒメタタライスズヒメを正妃とした。
天皇は橿原宮に即位し、この年を天皇の元年とした。正妃を尊んで皇后とし、神八井命、神渟名川耳尊が生まれた。故に古語に称して申す。
「始馭天下之天皇、名付けて神日本磐余彦火火出見天皇という。」
天皇が国の様を眺めて「国を得たことはなんと素晴らしいことか。内木綿の真迮国というが、蜻蛉の臀呫(トンボが尻につながって飛ぶ樣)のようではないか」と言われた。このことから、始めて秋津洲の名ができた、
昔、イザナギがこの国を目にして言ったのは「日本は浦安国、細戈千足国、磯輪上秀真国」である。大己貴大神が言ったのは「玉牆の内国」である。ニギハヤヒが天磐船に乗り、天空を翔けてこの国に降り立ち、言ったのは「虚空見日本国」である。
神武東征と魏の使いのルートの共通点
魏の使いの邪馬台国へのルートは、倭人伝では不弥国から南となっているが、畿内説を取った場合には東へ向かったことになる。この記述が邪馬台国の位置を確定させることのできない一つの理由となっているが、神武東征にも同じ矛盾が存在する。
神武天皇は日向の国を東へ船出したとなっているが、日向国を宮崎県とした場合、その東は筑紫ではなく四国となってしまう。筑紫に向かうには北へ針路をとらなければならない。記紀の編者はこのことを知っていたのだろうか。どうもそのような節があるのである。
つまり、この矛盾に気づくように神武東征ルートが書かれており、そこから事実を見いだせるように意図されているのである。
そのことは、神武東征の記述が邪馬台国と深い関係があることも意味している。そこで注目されるのは、魏の使いが日本海ルートを取ったのに対し、神武天皇が神功皇后と同じく瀬戸内海ルートを使っていることである。神武東征ルートを簡潔に記すと次のようになる。
・日向の国(宮崎県)で即位。
・筑紫国(福岡県)に立ち寄る。
・瀬戸内海に進み、阿岐国(広島県)にて7年滞在。
・吉備国(岡山県)にて8年間滞在。
・大阪湾を経て浪速国の白肩津(東大阪市)での戦闘と敗北。
・紀国へ撤退し、熊野へ向かう。
・宇陀、忍坂での戦闘と橿原での即位。
このルートには、確かに邪馬台国の暗号が隠されているのである。
神武東征ルートと銅鐸
神武東征の瀬戸内海ルートでは、安芸に7年、吉備に8年も滞在している。この滞在期間は、ここが神武天皇(の国)の支配下に置かれていたことをにおわせている。それは熊野にもいえることである。大和での戦闘に敗れて紀国に撤退したということは、ここもまた同じであったことを意味している。
方角を考えると出帆した日向国が実際に宮崎県だったのかが不明だが、その後の行程である筑紫、安芸、吉備、浪速、紀国で発見された出土物で注目したのが銅鐸である。銅鐸はいまだに詳しいことが分かっておらず、出土状況もまた不可思議な点が追い。明らかに何らかの祭祀道具であるため、神聖に扱われていたはずなのだが、まるで捨てたかのように穴を掘って埋めてあることが多く、壊れた破片で見つかることも多い。
銅鐸がある文明人の所有物であるとして、それを無造作に埋めたり、壊れていたりしている理由を推測するに、格好の遺跡がある。それは和歌山県新宮市にある熊野速玉大社の摂社、神倉神社である。標高120メートルの神倉山に鎮座し、山頂のゴトビキ岩という巨岩が御神体とされている。この岩の土台石の下から銅鐸の破片が発見されている。
神倉山は神武天皇がフツノミタマの剣を授かった場所とされ、神社の創建は紀元128年といわれている。伝承といい、時代といい、邪馬台国の謎を知るうえで重要な場所に違いないのである。そこで銅鐸の破片が発見されたことは、ある大きな出来事があったことを示している。
それは、ここが銅鐸祭祀集団の聖地であったものが、征服者によって奪われたことを示している。新たな支配者が聖地を奪い取り、銅鐸祭祀集団の象徴である銅鐸をその場で破壊することによって、彼らの信仰と権威を失墜させた、あるいは取って代わったことを意味する。
壊れた銅鐸は瀬戸内海沿岸各所や東大阪市(浪速)や和泉氏の池上・曽根遺跡でも発見されており、神武東征と銅鐸が深い関係があることをにおわせている。しかも青銅器である銅鐸をバラバラにするには相当な力が必要で、いわば江戸幕府のキリシタン弾圧のような意志が働いていたからこその仕業といえる。
また、土中から発見された銅鐸の状態は埋納と表現されるが、目印もなく埋められているので慌てていたとも考えられる(ただしほとんどが横倒しで埋められている)。それは征服者の侵攻が速かったためのものだとすると、半ば放棄した形であり、誰にもわからないように埋めたものだともいえる。
そして神武東征と銅鐸の関係を探っていくと、ある大きな戦争の歴史が浮かび上がってくるのである。さらにその戦争は、象徴的に記紀に記されているのである。
倭国大乱以前の倭と中国の記録
邪馬台国および卑弥呼の擁立を知る上で、2世紀に起こったといわれる「倭国大乱」がどのようなものであったかを解明することが重要である。この乱を鎮めるために卑弥呼が立てられたからである。中国の各歴史書は次のように記している(そのほかにもある)。
「三国志」魏書東夷伝(魏志倭人伝)
倭国は男王が70~80年治めてきたが、その後国は乱れ、何年も攻め合った。そこで卑弥呼という女王を共立した。
「後漢書」東夷列傳
桓帝と靈帝の時代(146~189年)、倭国は大乱となり互いに攻め合い、何年も主がいなかった。そこで卑弥呼という女王を共立した。卑弥呼は鬼道で民を惑わしていた。
「梁書」東夷伝
後漢の霊帝の光和年間(178~184年)に倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで卑弥呼という女王を共立した。卑弥呼は鬼道で民を惑わしていた。
魏志倭人伝には卑弥呼の前にしばらく王の空位期間があり、その前は7、80年男の王が治めていたことが記されている。後漢書東夷伝には、永初元年(107年)に倭奴国王師升(後述)が後漢へ使者を出し、金印を授かったとある。
倭国大乱は2世紀後半だが、その当時は邪馬台国ではなく倭国と呼ばれていたようである。卑弥呼共立と空位期間の前の王は、師升かその後継者ではないかと思われる。
というのも、倭奴国は倭の奴国(わのなこく)と訓じられ、福岡県の儺県にあったと思われている。しかし、中国の歴史書の記述を正確に読み解くと、まったく違う場所が浮かび上がってくるのである。
倭国と倭奴国
中国の歴史書にある倭国の記述には次のようなものがある。
「漢書」(前漢書)
紀元前2世紀から紀元前後にかけて、楽浪郡を介して漢(前漢)に朝貢。倭国は100か国余りの国家であったとする。
「後漢書」東夷伝
建武中元二年(57年)、倭奴国の朝貢。使人自ら太夫と称する。倭国の極南界に位置する。光武帝、印綬を授ける。
安帝の永初元年(107年)倭国王師升たちが、生口(奴婢)160人を献じ、請見を願う。
「北史」倭国伝
安帝の時代(106~125年)遣使が朝貢。これを倭奴国という。
「隋書」倭国伝
安帝の時代(106~125年)遣使が朝貢。これを倭奴国という。
「旧唐書」倭国・日本国伝
倭国は古の倭奴国という。
このように、倭国はもともと倭奴国と呼ばれていたようである。倭奴国が「わのなこく」として福岡県福岡市に比定されているが、注目したのは後漢書東夷伝にある倭奴国の位置、「倭国の極南界」である。福岡市が奴国の場合、九州の北端が倭国の南限であるとは考えられないのである。
奴国は「なこく」と読まれている。倭は「わ」と通常読まれるが、この字の読みは「委」の音節であるなら「い」とも読める。よって倭奴国の読みは「いなこく」になるのではないだろうか。もともと「いなこく」という国があり、発展に伴って多くの国が建設されて倭奴国の倭が国名となったのではないだろうか。それによって倭奴国は全体の中の一国(首都)として、倭を取って奴国にしたのではないだろうか。
奴国(倭奴国)は中部地方にあった
奴国(倭奴国)は倭国の南限にあると後漢書東夷伝にある。魏志倭人伝には奴国が二か所あると記されており、福岡市に比定されている奴国とは別に、邪馬台国の境界の尽きるところにもう一つの奴国があり、その南に接する所に狗奴国があると記されている。
一章では邪馬台国が畿内にあることを前提として話を進めてきた。魏志倭人伝には邪馬台国からその境界の奴国まで21か国の記述がある。斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国である。
対馬から邪馬台国までの国の記述が7か国なのに対し、その3倍の国がある上にその南にはさらに狗奴国があることから、かなり広い国土を想定する必要がある。狗奴国は邪馬台国と戦争状態にあり、同規模の国家であると想定するならばなおさらである。
そして奴国がもともと倭奴国であったならば、狗奴国の北にあることになる奴国もまた倭奴国(いなこく)だったのではないだろうか。
すると、長野県の伊那、愛知県の伊奈、埼玉県の伊奈という共通する音節を持つ地域が見いだせる。さらに、それらの地域の隣は群馬県と栃木県であり、群馬のもともとの呼称である「くるま」と栃木の毛野(鬼怒)という、狗奴国(くなこく)の音節に近い地域が見いだせる。
また、一つだけ漢字四文字の華奴蘇奴国があるが、これは長野県の埴科「はにしな」という地名とそっくりである。その二つ前に記述がある蘇奴国を「しな」だとすると、信濃ではないかと考えられる。中部・東海地方には多くの国があっただけでなく、倭国の首長国がここにあったのではないかといえるのである。
倭国大乱の首謀者は狗奴国だった
魏志倭人伝には邪馬台国と狗奴国が敵対関係にあり、戦争状態にあることが記されている。その支配領域は邪馬台国が中部地方以西の西日本(倭人伝の記述では北)であり、狗奴国は関東以東の東日本(倭人伝では南)と推定される。
漢書には紀元前後の倭国には100か国余りあるとしている。邪馬台国は30か国ほどであるため、残り70か国が狗奴国の規模と見なすこともできる。107年に倭の王師升の朝貢があることから、狗奴国が日本に登場するのは、倭国大乱勃発までの紀元2世紀半ばであると考えられる。
つまり、倭国大乱は狗奴国の侵略によってもたらされたと考えられるのである。その戦乱を鎮めたのが卑弥呼ということになる。これは狗奴国が倭国全体を支配下に置けなかったことを意味している。それでも狗奴国とはまだ戦争が続いており、卑弥呼の死後もまた戦乱があって、1000人が死んだという。
これらの歴史を簡潔に記すと、2世紀の倭国大乱までは倭国(倭奴国)を王が治めて7、80年経っていたが、狗奴国の侵略によって何年も戦闘が続き、王(統治者)がいない状態が続いた。そこで卑弥呼が共立されて邪馬台国が成立し、狗奴国は倭国全体の支配を諦めて境界線が定められた。卑弥呼が3世紀半ばに死去すると、再び国は戦乱となるが、卑弥呼の宗女台与を共立し、再び国は静まった。
この戦乱と和平の歴史と記紀の記述、そして銅鐸の埋納と破壊にはつながりがある。銅鐸が発見された遺跡の時代は倭国大乱の時代と重なり、九州から瀬戸内海を通って琵琶湖に至り、中部・東海にまで達していることから、狗奴国の侵略からの逃避行であったと思われるのである。
狗奴国は銅鐸祭祀集団に対してそれを破壊することで、政治的だけでなく宗教的にも統治者となることを示していたと考えられるのである。
銅鐸祭祀集団と安曇氏
倭国大乱の時代に銅鐸祭祀集団は瀬戸内海沿岸地域から長野県(奴国)まで逃げたが、その後倭国は鏡祭祀集団の国家となっている。銅鐸から鏡に変わった背景には狗奴国が深くかかわっている。
というよりも、倭国大乱の後、それを鎮めた卑弥呼が鏡祭祀集団の長であったとする方が正しいといえる。狗奴国は倭国全体の支配に失敗し、邪馬台国成立の功労者の卑弥呼が進めた鏡祭祀が、信仰の中心になったと思われるのである。
倭人の信仰や民族を知る上で、銅鐸が非常に重要なものであることは確かである。しかし、いまだに銅鐸の使用目的や使用状況は謎である。目印もなく埋められ破壊された理由は、狗奴国の意志が関係していたことは述べたが、その集団の民族を知る手掛かりが逃避ルートに隠されている。
九州から瀬戸内海を通って淀川水系から琵琶湖に至り、長野県に至る銅鐸の道と同じ伝承を持っているのが、福岡県志賀島を本拠地とする安曇氏である。安曇氏は大阪の和泉や渥美半島、熱海、山形県の飽海郡(あくみぐん)など地名にもその痕跡がみられる。本州における安曇氏の本拠地は長野県の安曇野と考えられている。また、志賀島の地名は各所にあり、滋賀県(志賀がルーツ)の安曇川(あどがわ)、信州の志賀高原、石川県の志賀など、安曇氏は非常に広範囲に住んでいた痕跡があるのである。
安曇氏のルートは、銅鐸祭祀集団の志賀島の奴国からもう一つの奴国(中部・東海地方)に至るルートとそっくりである。安曇氏の大きな拠点の一つとも考えられる和泉市にある池上・曽根遺跡の銅鐸の破片の発見や、安曇氏に関係の深い愛知県と静岡県が銅鐸の終焉地と考えられる点など、倭人の中の銅鐸祭祀集団が安曇氏であることが見えてくるのである。
また、邪馬台国の時代の奴国(福岡県)近郊の遺跡から発見された倭人の人骨も、この説を裏付けると同時に魏志倭人伝の記述をも裏付けているのである。
奴国の倭人のルーツ
魏志倭人伝には倭人の風習がいくつか述べられている。彼らは海に潜って海産物を取り、その顔や体には鯨面(刺青のようなもの)をしており、その風習は百越(ひゃくえつ)に似るとしている。
百越または越族は、長江文明(紀元前1000年ごろまで)の担い手であり、中国南方の長江以南から現在のベトナムにいたる地域(江南)に住んでいた民である。紀元前8~5世紀(春秋時代)には呉や越の国を構成していたが、この呉の人々が日本に移り住んで稲作を伝えたのではないかという研究が進んでいる。
呉が滅亡した同時期の紀元前450年ごろの大規模な水田跡が九州で見つかっている。また、長江の中流域はジャポニカ米の原産地であることがほぼ確定している。
遺伝子分析によると、筑紫地方の古代人と呉人は極めて近いことが明らかになってきた。1999年3月18日、東京国立博物館で江南人骨日中共同調査団(山口敏団長)によって、江蘇省の墓から出土した60体(28体が新石器時代、17体が春秋時代、15体が前漢時代)の頭骨、大腿骨、歯が調査された。
特に、歯から抽出されたDNAの調査結果を、福岡と山口県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較したが、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。DNA分析では、江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代末)の人骨の歯から抽出したミトコンドリアDNAの持つ塩基配列の一部が、福岡県太宰府の隈西小田遺跡の人骨のDNAと一致したと発表された。(ウィキペディア「倭人」の項より)
志賀島一帯の地名である香椎(かし、かしい)は、百越人がいた「越(こし)」が語源と考えられる(この香椎は神功皇后の三韓征伐の前に仲哀天皇が崩御した地とされ、奴国の比定地でもある)。すべてではないにしても、九州には呉から移住した百越人が倭人として国を形成していたことは確かであるといえる。そして彼らは安曇氏として伝えられてきたのではないだろうか。
日本米の最高級品であるコシヒカリの「コシ」は越後の「越」を指しているのだが、それは百越の意味をも示す、インスピレーションだったのかもしれない。
狗奴国の長官狗古智卑狗と安曇氏
魏志倭人伝は狗奴国についての記述が非常に乏しい。奴国の南にあり、男王がいてその名を卑弥弓呼といい、官を狗古智卑狗(クコチヒク)というとある。クコチヒクが菊池彦に音節が似通っているため、熊本県菊池郡に関連があるのではないかといわれている。菊池はもともと久々知(くくち)であり、雅な字にするため菊池の字をあてたともいう。
このことは、邪馬台国九州説を後押しするものと考えられてもいる。結論からいうと、狗奴国は九州にあったのである。しかし、それでは先述の狗奴国は群馬と栃木にあったという主張と矛盾する。これを説明することを可能にするのが、神武東征と神功皇后凱旋の瀬戸内海ルートである。
特に神武東征ルートが銅鐸埋納および破壊の道筋であり、瀬戸内海沿岸地域がすでに神武天皇の支配下に置かれていたことを意味していることを指摘してきた。つまり、支配下に置いていた存在こそ狗奴国だったのである。
狗奴国は瀬戸内海沿岸地域だけでなく、九州の南半分をも支配下に置いていた。かつて九州全域が倭国であったものが、狗奴国に奪われたことを示す伝承が残っている。
倭人が安曇氏であると先述したが、安曇氏の奉斎する神を海神(わたつみ)という。安曇氏はこの祭神を信濃の安曇野に移住して奥穂高岳に祀っている。「わたつみ」には別の漢字があり、「海童」の字が当てられる。これは海にいる河童を意味し、海にいる河童(海童)が山に登ると山童(やまわろ)となる。この伝承は安曇氏の海神が奥穂高岳に祀られるようになったこととよく似ている。
九州は河童の伝承が数多いが、特に熊本県の球磨川は有名である。かつて黄河に住んでいた河童が球磨川にやってきて住み着いたという。八代市に伝わる河童を記念する「オレオレデーライタ祭」の意味は「呉から大勢やってきた」という説もあり、これもまた倭人と安曇氏の伝承と同じである。いずれも河童が追い出される立場であり、河童を倭人の象徴と見るならば、南九州の倭人が狗奴国の人々に追い出された話になる。
そして入植した狗奴国人の長官こそがクコチヒクであり、その名が菊池(久々知)として伝えられたものと思われるのである。
狗奴国と魏の使いの日本海ルートの理由
九州に伝わる河童伝承は、倭人(安曇氏)が狗奴国に追い出されたことを象徴しているとした。河童が海から山に上がった話は、紀州にも伝わっている。ゴーライという河童が、山に登ってカシャンポまたは一本だたらという妖怪に変わるというのである。和歌山県新宮市の神倉神社で破壊された銅鐸が見つかったが、紀州もまた狗奴国の支配地域となっていたことを示している。
神武天皇が熊野へ退いたのは、ここが狗奴国であったことを意味していたのである。そして熊野に残る、総延長100キロにも及ぶ「猪垣(ししがき)」という謎の石垣も、倭人か狗奴国人どちらかが築いた防壁の可能性が高いのである。
このように、狗奴国の支配地域は群馬県以東(魏志倭人伝では南)の東日本だけでなく、熊野と瀬戸内海沿岸地域、九州南部という広大な地域だったのである。そのために魏の使いは瀬戸内海ルートを使えず、日本海を通ったのである。だが、もう一つ謎が残っている。銅鐸の最大の発見地(2017年現在)である出雲の存在である。魏の使いの立ち寄った投馬国の地を、大きな国家であったはずの出雲ではなく但馬であるとしてきた。
島根県雲南市の加茂岩倉遺跡では埋納状態の銅鐸が、日本最多の39個発見された。このことから、侵略を受けた出雲の民が銅鐸を埋めて脱出した可能性がある。そのため、この地域は放棄されたか狗奴国の支配地となったために、魏の使いはここに停泊せず、魏志倭人伝に記されるはずの規模を持つ出雲が記されていなかったのである。ところが神武東征では出雲を通っていないため、別の侵略があったことになる。
確かに記紀には神武東征の前にも征服があったと記されているのである。
タケミカヅチの倭国征服
ここでさらに読み解かなければならない謎がある。神武東征の際に安芸や吉備、熊野は支配下に置かれていたとしてきた。そうなれば、神武東征以前にも倭国に進出した者がおり、各地を支配下に置いたことになる。確かに神武東征の記述の中に、それをにおわせるものがあるのである。
熊野において、神武天皇のもとに高倉下が一振りの太刀を持って来た。カムヤマトイワレビコはタカクラジからその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒された。カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀のことを尋ねたところ、彼は自分の見た夢の話をした。
天照大御神と高木神が現れ、建御雷神を呼び、「葦原中国の騒ぎのために御子たちは悩んでいる。そなたは以前行ったように、葦原中国を平定させるために再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定に使った太刀を降ろせばよい」と答えた。そしてタカクラジに、「倉に太刀を落とすから、天津神の御子の元に運べ」と言った。太刀の名を布都御魂という。
神武天皇が受け取ったフツノミタマは、タケミカヅチが葦原中国を以前平定したものという。これはタケミカヅチが神武東征以前に倭国を征服したことを意味するのではないだろうか。これは葦原中国平定または大国主神の国譲りとして知られている。
葦原中国平定(国譲り)
天照大神は天津神と相談し、葦原中国を治めるべき神を選んだ。
初めに天照大神の子である正勝吾勝勝速日天忍穂耳命に天降りを命じたが、行かなかった。
高木神と天照大神は八百万の神々に問い、思金神と八百万の神の提案で天菩比命を大国主神の元に派遣した。しかし、アメノホヒは大国主の家来となり、三年たっても高天原に戻らなかった。
今度は天若日子が遣わされたが、大国主の娘の下照比売と結婚し、葦原中国の王になろうとして八年たっても高天原に戻らなかった。その後、アメノワカヒコは自ら放った矢の返し矢を受けて死んでしまった。
三番目は稜威雄走神か、その子のタケミカヅチが呼ばれたが、イツノオハバリの推薦でタケミカヅチが天鳥船神とともに葦原中国に遣わされた。
タケミカヅチとアメノトリフネは出雲国伊那佐の小濵に降り、大国主に国譲りを迫った。二神は十掬剣を抜いて逆さまに立て、その上にあぐらをかいて座り、大国主に意見を求めた。オオクニヌシは息子の事代主神に訊ねるように言い、コトシロヌシは承知した後に隠れてしまった。
大国主はもう一人の息子である建御名方神にも意見を聞くように求めたところ、タケミナカタはタケミカヅチに力比べを挑んできた(相撲の起源ともいわれる)。タケミナカタは手を握りつぶされた上に投げ飛ばされて逃げ出したが、タケミカヅチに追いかけられて信濃の諏訪湖に追い詰められた。タケミナカタはここから出ないと約束し、国譲りを承諾した。
二人の息子が従ったのを見て、大国主は天津神に匹敵するような自分の宮殿を建てる代わりに国を譲ることにした。大国主は出雲の多藝志の小濱に宮殿を建てた。タケミカヅチは葦原中国を平定し終わり、高天原に帰った。
フツノミタマの剣の謎
タケミカヅチとともに記されているイツノオハバリは、トツカ剣(十束剣、十握剣、十拳剣、十掬剣)、アメノオハバリ、天羽々斬、フツノミタマとも呼ばれ、同じ剣とされている。また剣であると同時に神でもあるように記されている。このフツノミタマが神武天皇の手に渡っている。
この剣は国譲りと神武東征だけでなく、様々な場面で登場する。イザナミの死の原因となったカグツチという火の神をイザナギが切った剣をアメノオハバリ、イツノオハバリといい、スサノオの十拳剣で天照大神が三柱の女神を産み、ヤマタノオロチをこの剣で倒している(オロチを切ったときに剣が欠けている)。
その他、神武天皇の祖父である山幸彦(火遠理命)が十拳剣を鋳潰して釣り針を作っており、仲哀天皇の熊襲征伐の際、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手が白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出している。
フツノミタマは奈良県の石上神宮の御神体として祀られているが、神格または人格を持つように書かれていたり(タケミカヅチの父として登場する)、神武天皇の祖父が釣り針にしたり、石上神宮にあるはずの剣をクマワニやイトデが持っていたりと謎が多い。
また、フツノミタマが祀られている石上神宮は、ニギハヤヒの末裔である物部氏が祭祀してきたが、フツノミタマはもともと岡山県赤磐市にある石上布都御魂神社にあったと伝えられている。また、ニギハヤヒは神武天皇に先立って天磐船に乗って降臨したとされるが、この船はタケミカヅチの乗ってきた天鳥船と同じとされるのである。
神武天皇の前に葦原中国を平定したタケミカヅチの持ってきたフツノミタマが、同じ船に乗ってきたニギハヤヒの末裔がそれを祀っているのならば、タケミカヅチはニギハヤヒと同一人物となるのだろうか。
タケミカヅチと崇神天皇と藤原氏
タケミカヅチを祀る神社で有名なのが、茨城県の鹿島神宮と奈良県の春日大社である。経津主という名で、フツノミタマは千葉県の香取神宮に祀られている。いずれも藤原氏(中臣氏)が信仰する大きな神社である。春日大社は平城京が造られた際に、鹿島神宮からタケミカヅチが勧請されている。
ただ、タケミカヅチ(鹿島神)は、もともと神武天皇の子である神八井耳命の末裔である、常陸の多氏が信仰していた神ともいわれる。同じ地域に居住していた中臣氏も古くから信仰していたと思われるが、多氏の信仰を中臣氏が自分の信仰として乗っ取ったとも考えられる。鹿島神宮にタケミカヅチが祀られるようになった経緯は不明で、もともとの祭祀族がいたことも考えられている。
大中臣神聞勝命が鹿島神から神託を受け、崇神天皇が武器や馬具を奉納している経緯がある。このエピソードは非常に深い意味がある。そのほかにも藤原氏と鹿島神宮と天皇家のかかわりは多く見いだせる。神武天皇、崇神天皇、神功皇后、応神天皇が同一人物であるという説があるが、特に崇神天皇は藤原氏とタケミカヅチとの関係に深くかかわっている。
崇神天皇がかかわったことがうかがえる神社に熊野三山がある。創建が崇神天皇の時代とされている。しかも明治天皇が伊勢神宮へ参拝するまで、崇神天皇から後の天皇家は代々熊野信仰だった。そして熊野三山というように、神社というより仏教色が非常に強い。
春日大社も興福寺とともに存在したように、やはり仏教色が強い。仏教というと聖徳太子と蘇我馬子が日本における祖のように思われているが、国分寺・国分尼寺など全国に仏寺が広まったのは、藤原氏によるところが大きい。
明治天皇の神仏分離令まで天皇家は神仏習合(神宮寺という)であった。宮中の祭祀は仏式だったのである。明治天皇の時代から宮中の仏事をなくしたが、それはまるで崇神天皇と藤原氏が広めた仏教を、明治天皇がそれ以前の信仰形態に戻したように思えるのである。
日本の歴史を知る上で、崇神天皇の治世を理解することは重要なポイントとなる。
崇神天皇の治世
崇神天皇の治世の要約は以下のようになる。
・崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮に遷都。
・5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶える。
・6年、疫病は宮中にあった二神の神威が強すぎるためだとして、一緒に祀られていた天照大神と倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移す。
・天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(奈良県桜井市の大神神社にある檜原神社)に祀らせたが、その後各地を移動した後、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座する。
・倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。
・7年2月、大物主神が倭迹迹日百襲姫命に神がかり、託宣する。
・同年11月、託宣により、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を探し出して大物主神の神主とし(奈良県の大神神社、三輪山を御神体とする)、市磯長尾市を倭大国魂神の神主とする。すると疫病は終息し、五穀豊穣となる。
・10年9月、四道将軍の派遣。大彦命を北陸道に、武渟川別を東海道に、吉備津彦を西道に、丹波道主命を丹波(山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた。
・同年10月、畿内は平穏となるが、四道将軍が再び出発。
・11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定する。
・12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、崇神天皇は御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と褒め称えられる。
・48年1月、豊城入彦命(豊木入日子)と活目入彦五十狭茅尊(後の垂仁天皇)のどちらを皇太子にするかについて、夢によって決断する。
・4月、弟のイクメイリヒコを皇太子とし、トヨキイリヒコに東国を治めさせた。
・68年11月、崩御。
崇神天皇と紀州
崇神天皇の没年を古事記は干支により戊寅年と記載しているのだが、これを258年または318年とする説がある。258年説を採った場合、卑弥呼の時代になるが、この年数をそのまま実際の歴史に当てはめられるかは確証がない。しかし、卑弥呼と最も近いのは確かであると思われることを見ていきたい。
崇神天皇の即位後すぐに疫病が流行り、宮中の二神が皇居から出て熊野信仰が始まったことなど、信仰上の大きな変化があったことがうかがえる。さらにそれは皇位の継承にも絡んでくるのではないだろうか。つまり、それまでの天皇家とは違う血統ではないかということである。
疫病の対処としてヤマトトトヒモモソヒメの託宣が下り、神社の神主をオオタタネコにしている。この二人の関係性が、魏志倭人伝の卑弥呼とその弟の記述に似ている。神主の選定が功を奏してか、平和な時代を迎えている。このことからも、崇神天皇家は宮中の祭祀を行うのに不適格であったということがいえるのではないだろうか。
四道将軍の派遣は古事記と日本書紀で記述の違いがみられる。特に吉備津彦と温羅の戦いは倭国大乱時代と考えられ、日子座王とクガミミの戦いは邪馬台国滅亡後と思われる。武渟川別命が東海に派遣されたが、安曇氏の奴国を征服した歴史を示していると思われる。
魏志倭人伝の記述を検証する上で重要なのが、二人の皇太子の継承の詮議である。異母弟のイクメイリヒコが皇位を継いだが、本来の後継者は兄のトヨキイリヒコであったと思われる。なぜなら、崇神天皇の名を御真木入日子といい、トヨキイリヒコ(豊木入日子)の名にもある「キ・イリヒコ」にそれが表れている。
この「木」は紀州の「キ」であり木の国という意味もある。トヨキイリヒコを祀る群馬県の赤城神社も、紀州と関係があるといわれる。トヨキイリヒコの母(遠津年魚眼眼妙姫)も紀州の女性であり、熊野信仰といい、崇神天皇家は紀州と深い関係があることがわかる。
箸墓古墳とヤマトトトヒモモソヒメの謎
邪馬台国畿内説の最有力地は奈良県桜井市の纏向遺跡である。そこには卑弥呼の墓と考えられている箸墓古墳と呼ばれる前方後円墳がある。
築造年代と円墳部の大きさが卑弥呼の墓の記述と非常に近く(約150メートル)、被葬者とされるヤマトトトヒモモソヒメは先述したとおり、崇神天皇の時代に登場し、巫女的な性格を持っていることからも有力視されている。箸墓古墳の前方部の撥型形状は先述の椿井大塚山古墳にも見られ、三角縁神獣鏡の発見など、大陸へのルートも含めてその関係性は非常に深い。
また箸墓古墳は吉備式の備品が見られる最古の前方後円墳だという。箸墓の後にできた古墳には吉備式の備品が見られ、それ以前には見られないのである。岡山市にある浦間茶臼山古墳は古代吉備最古の古墳だが、箸墓古墳の2分の1の縮尺だとされる。これらは箸墓古墳と吉備国が非常に大きなつながりがあったことを示しているともいえる。
箸墓という奇妙な名称は、日本書紀に記された(古事記にはない)ヤマトトトヒモモソヒメの死に関するエピソードがもとになっている。
ヤマトトトヒモモソヒメは大物主神の妻となったが、大物主は夜にしかやって来なかった。姫が昼には姿を見せない大物主に姿を見たいと願うと、大物主は明日の朝櫛笥の中に入っているので、その姿を見たときに驚かないよう約束した。姫は不審に思ったが、翌朝櫛笥の中を見たところ、小蛇が入っていたのを見た。姫が驚き叫んだため大物主は恥じて人の姿に戻り、御諸山(三輪山)に登ってしまった。
姫がこれを後悔して腰を落とした際、箸が陰部を突いたことで姫は死んでしまった。大市に葬られた姫の墓を、時の人は「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えた。
古墳の築造時期は卑弥呼と同じ3世紀とされているが、箸の伝来は仏教とともに百済から5、6世紀に入ってきたものと考えられている。出土した最古ものは7世紀の藤原京のものとされている。しかも、卑弥呼の時代は倭人伝によれば食事は手で直接食べていたとある。築造時期から考えるに、この名称には矛盾があるように思えるが、これには驚くべき謎の解明の鍵があったのである。
仏教の風習に秘められた卑弥呼の死
ヤマトトトヒモモソヒメは箸を陰部に刺して死んでしまったという。しかし、箸の伝来が5世紀だとするとこの物語は後付けであると考えられる。ここには日本書紀の編纂を命じた藤原氏に配慮した暗号が隠されているといえる。
箸に死の意味があるとするならば、それは仏教の一膳飯の風習に見出せる。死者の最後の食事として仏前に供えるご飯だが、茶碗にご飯を盛り、その上に箸を突き立てる。子供のころ、食事の際にご飯に箸を立ててはいけないと親に叱られた人もいるのではないだろうか。
一膳飯は供えた後、茶碗を割ることで、死者の最後の食事であることを示している。そして、茶碗などの器は女性器を象徴し、箸を突き立ててから割ることは、ヤマトトトヒモモソヒメの死と同じことを意味していることになる。箸の文化が崇神天皇とともに伝来し、一膳飯の風習も始まったのではないだろうか。更にヤマトトトヒモモソヒメの、箸が陰部に刺さって死んだエピソードは象徴として、崇神天皇が卑弥呼の死に関係していることを示しているのではないだろうか。
一膳飯の後、死者の棺桶は埋葬の前にぐるぐる回して方角がわからないようにする。それはまるで死者が二度と蘇らないように意図しているようである。この風習は、仏教の教えと相いれない部分がある。というより、全く別の信仰から発生したものと考えられるのである。死者の最後の食事としての一膳飯と、方向が分からないように棺桶を回したりすることは、仏となり、極楽往生を願う信仰と全く反対のことをしているからである。
死者がまた蘇らないように願う信仰は、屈葬にも表れているといえる。手足を折り曲げ、時には胸に石を置かれている人骨が各地で発見されているが、これもまた死者がよみがえってこないようにという考えが反映されたものかもしれない。これが一膳飯と死者の封印のルーツだとすると、仏教に別の信仰が組み込まれていることになる。すなわち、崇神天皇のもたらした信仰が、後に伝わった仏教に組み込まれていったのではないだろうか。
この死者の蘇りに関する信仰が謎を解く鍵になっている。それにより、記紀の崇神天皇とその皇子たちの事績が、確かに魏志倭人伝の記述と一致していることまでも見いだせるのである。
垂仁天皇の事績と起源説話
魏志倭人伝の記述によると、卑弥呼の死の際、直径150メートルほどの墓を築き、百名もの殉葬者とともに葬られたという。崇神天皇が卑弥呼と関係があるとすると、大きな転換期にあったことが分かる。崇神天皇の皇子で次の天皇となった垂仁天皇が、殉死を禁じたとあるからである。
そのほか、垂仁天皇の時代をルーツとする風習の興味深いエピソードが非常に多い。その事績は以下のようになる。
・垂仁天皇2年2月に狭穂姫を立后。サホヒメは開花天皇王子、彦座王の娘。
・同年10月、纒向に遷都。
・3年3月、新羅王子の天日槍が来朝。
・5年10月、皇后の兄狭穂彦が叛乱を起こし、皇后は兄とともに焼死。
・7年7月、野見宿禰が当麻蹴速と相撲を取って蹴り殺す(相撲の起源)。
・15年8月、丹波道主王(彦座王の子)の女たちの中から日葉酢媛を皇后とする。
・25年3月、天照大神の祭祀を託された皇女の倭姫命(日葉酢媛の娘)が各地を遷宮の後、伊勢神宮が建立される(崇神天皇6年から90年後)。倭姫は初代斎宮となる。
・28年、殉死の禁令。
・32年7月、日葉酢媛が薨去。野見宿禰の進言により、殉死に替えて埴輪の埋納とする(埴輪の起源)。
古事記によると、石祝作りと土師部を定めたという。石棺(推測)や赤土で種々の器を作る職人の部民制度。
・90年2月、天日槍の子孫である田道間守が常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ:橘とされる)を探しに行く。
・99年7月、崩御。
・景行天皇元年(垂仁天皇崩御の翌年)3月、タヂマモリが非時香菓を持ち帰るが、垂仁天皇崩御を知り、嘆いて死んだとされる。
卑弥呼の後に立った男王は垂仁天皇だった
垂仁天皇の在位期間にあった出来事として、魏の使いの旅程の候補地に浮かび上がってきたアメノヒボコやタヂマモリが登場する。また、相撲や埴輪、石職人や陶器職人の起源を伝えている。またこの時代に、邪馬台国(の首府)の候補地とされる纏向に都が移されている。その中で特に注目したのが殉死の禁令である。
魏志倭人伝は卑弥呼の死の際、100名の殉葬者があったと記している。そして男の王が立ったが、国は乱れ、1000名もの死者を出したという。それとは逆に、垂仁天皇は殉死の禁令を出している。これらを勘案するとある推測が成り立つ。
それは、卑弥呼の死後立った王とは垂仁天皇であり、埋葬の際に犠牲となった人々のことを怒って反乱が起こり、殉死の禁令を出したのではないかということである。しかも邪馬台国の使者の難升米はタヂマモリではないかという説もあり(内藤湖南)、本書はこれを支持している。
そして先代の崇神天皇は大和朝廷ではなく、狗奴国の天皇として邪馬台国と敵対していたのである。ここで邪馬台国の成り立ちについて一つの仮説を立ててみた。魏志倭人伝の記述から推測したことだが、現在の日本政府にも同じシステムが見られるのである。
邪馬台国は卑弥呼を女王とする国家として書かれているが、もう一つ、大倭という記述がある。これは、卑弥呼が鬼道を操る宗教上の王といえる存在であるのに対し、大倭は立法機関ではないかと思われるのである。江戸時代の将軍と京都の天皇、江戸城の皇居におられる天皇陛下と永田町の政府のような関係である。特に明治時代の体制が最も近いのではないかと思われるのである。
なぜそのような体制かという証拠をこれから見ていくことになる。倭国大乱で倭国を制圧した崇神天皇(仮)の狗奴国だが、第五章で見たように祭祀の資格がないために呪いを受け、国は混乱してしまう。
そこで卑弥呼という倭国側の民が納得する形で信仰の象徴となる女王を立て(ただしこの名称は狗奴国側がつけたものと思われる)、狗奴国側の政府機関を大倭として置いた。しかし、卑弥呼の死に乗じて垂仁天皇が邪馬台国の王並びに祭祀の長として立つものの、再度反乱が起こったために台与が女王として立てられた。
この推理が正しいとすると、もう一つの大きな謎が明らかとなるのである。
狗奴国の王、卑弥弓呼はトヨキイリヒコだった
垂仁天皇が一時期ではあるものの、邪馬台国の王として立ったのならば、狗奴国の王卑弥弓呼の正体が明らかとなる。もう一人の皇子であり、東国を治めるようになったトヨキイリヒコこそ卑弥弓呼だったのである。
この推理は群馬と栃木で信仰されている神社の祭神に、はっきりと示されている。その地域の最も高い格式を表す一宮である群馬県の赤城神社、栃木県の宇都宮二荒山神社はいずれもトヨキイリヒコを祭神としているのである。
宇都宮の地名は宇が宇宙や世界を表し、都は京都と同じ都を表し、宮は神宮を表しており、ここが宗教的にも政治的にも日本の中心であることを示したものである。狗奴国側からすればここが日本列島の中央政府だったのである。
先述のように「キ」の名を持つ崇神天皇の後継者はトヨキイリヒコではないかと思われる。彼らの出身もしくは強いつながりを持つ地域が紀州熊野であり、ここが狗奴国と倭国大乱において重要な場所であることを推理してきた。
つまり、和歌山県新宮市にある熊野速玉大社の摂社、神倉神社から発見された破壊された銅鐸は、狗奴国の軍事的、宗教的征服を示している。新宮と呼んだのも、宇都宮に対し、新たに設けられた宗教的中心地であることを表しているといえる。
神倉神社のある神倉山は、神武天皇がフツノミタマの剣を授かった場所であり、フツノミタマが崇神天皇ともかかわりが深いことを指摘してきた。フツノミタマを送ったのはタケミカヅチで、先に葦原中国を平定している。
これらのことを統合すると、倭国大乱とはタケミカヅチが倭国を征服した戦争で、彼の正体は崇神天皇となる、その後倭の民衆の反感を買い、卑弥呼を王とした邪馬台国が建国(分離)された。同時に狗奴国が群馬以東の東日本と西日本の南半分を、崇神天皇の皇子であるトヨキイリヒコが卑弥弓呼として統治したのである。
トヨキイリヒコの正体は神武天皇だった
卑弥呼の死をきっかけに、あるいは死を演出して垂仁天皇が立つが、再度民衆の反感を買って台与が女王となる。トヨキイリヒコの妹である豊鍬入姫命のことではないかといわれるが、確かに符号が合う。
邪馬台国が崇神天皇、トヨキイリヒコの狗奴国の影響下にありつつ、独立国のような状態にあったと思われ、台与(豊鍬入姫)を立てることで双方のメンツを保ったのではないかと思えるのである。
しかし、邪馬台国と台与の記述が消える3世紀後半から空白の4世紀にかけて、トヨキイリヒコは邪馬台国を征服することに成功したものと思われる。それが神武東征のことであり、それならば神武天皇はトヨキイリヒコだったことになる。
狗奴国を毛野地域とする説は、それを証明するような3世紀の遺跡がないために有力ではない。しかし、この地域の前方後円墳の巨大さや古さ、出土品には畿内や吉備とのつながりを示すものが多くあり、邪馬台国と吉備のつながりと同じ関係が毛野にもあることが指摘されている。
畿内における古式古墳が奈良県の三輪山麓に集中しているが、前橋市の前橋天神山古墳から出土した三角縁五神四獣鏡は、奈良県桜井市桜井茶臼山古墳、天理市黒塚古墳の鏡と同じ鋳型で鋳造されている。また、高崎市倉賀野出土の単鳳環頭大刀の金銅製柄頭は、天理市石上神宮の禁則地から出土した柄頭と同じ鋳型で造られている。
また、畿内の王墓特有の長持型石棺が、群馬県の太田天神山古墳(東日本最大の前方後円墳)などに見られる。これらは大和王権が東日本にも力を及ぼしていた証拠として考えられているのだが、逆に考えることもできるのではないだろうか。東日本には当時から有力な勢力があり、西日本から自分たちのところへ、石工などの技術者を連れていった証拠ともいえるのである。
応神天皇もまたトヨキイリヒコだった
ここで振出しに戻ることになる。卑弥呼が神功皇后と見なされていたことを示していたことはどうなるというのだろうか。応神天皇が神功皇后の息子ではあっても仲哀天皇の息子ではなかった。このことは、応神天皇が天皇家の血筋ではなく簒奪を示しているとしてきた。
そして崇神天皇もまた正当な皇位継承者ではないことを見てきた。応神天皇は秦氏、崇神天皇は藤原氏の影響下にあり、熊野、八幡、住吉神社の関係性とともに天皇家と秦氏、藤原氏の複雑な関係性が隠されていることが浮かび上がってきた。中国の記録には日本はかつて倭と日本から成っており、倭の王をアメノタラシヒコとしているが、それが天皇のことであるなら、天皇は倭の王となる。
応神天皇が名前を交換したイザサワケを祀る気比神宮の名は、吉備や筑紫にも見える。このことは、かつて倭国もしくは邪馬台国であった地域が応神天皇の勢力に征服されたことを物語っている。
吉備国は崇神天皇とかかわりの深い吉備津彦によって征服されたが、もとは気比神社があった。すると、気比神社を乗っ取った吉備津彦は応神天皇だといえるのではないだろうか。そして邪馬台国と同時代に吉備国は狗奴国の支配下にあった。卑弥呼と目されるヤマトトトヒモモソヒメと吉備津彦がきょうだいとして吉備津神社に祀られていることから、卑弥呼のきょうだいとして、狗奴国の王となった卑弥弓呼ことトヨキイリヒコは、応神天皇であり、神武天皇であったことになる。
このように、神武天皇がまったく予想外の人物とまで同一となってくるのだが、何百年も時代を超えて別と思われた人物がつながるのはなぜなのかを見ていく必要がある。
ペンローズの階段とヤマトタケル
倭国大乱が崇神天皇による侵略であり、神武東征の前に倭国を征服したエピソードがこれに当たると推理した。そして卑弥呼と同時期に存在した狗奴国の王卑弥弓呼がトヨキイリヒコであり、台与の時代以降に倭全土を征服したのが神武東征であり、トヨキイリヒコが神武天皇であるとした。
これでは神の字を持つ天皇が同一人物という説も、さらに説明が必要になってくる。まずは崇神天皇と倭国大乱がどのようなものであったかを考察したい。
倭国大乱と邪馬台国成立により、東日本と九州、四国、瀬戸内海沿岸地域を狗奴国が支配することとなった。それに加えて出雲が侵略を受けていることを見てきた。この支配地域(侵略行為)に大きなポイントがある。それはまったくヤマトタケルの事績と似通っているのである。
ヤマトタケル(古事記:倭建、日本書紀:日本武)は崇神天皇のひ孫に当たり、神功皇后の夫である仲哀天皇の父である。何らかの形で邪馬台国とかかわりがあったことを感じさせるが、日本の歴史上、伝説的とはいえ最も有名な英雄であることを考えると、記紀の記録者が彼に歴史の真実を託していたのではないかと思うのである。
歴史書は時系列に記されているものとして扱い、記紀も天皇の治世順に記されているので、そのまま中国や韓国の歴史書の年代と照らし合わせて研究が行われている。しかし、記紀がその常識に当てはまらないとしたらどうであろうか。
ペンローズの階段という不可能図形がある。4つの階段を四角形に描いたもので、どこまで行っても階段の最上段(最下段)に着けないように見えるものである。
古事記ではヤマトタケルのひ孫の迦具漏比売命(かぐろひめ)が、タケルの父である景行天皇の妃となっている記述があるが、これが記紀に隠された暗号解読の鍵の一つとするとどうだろうか。またトヨキイリヒコの子孫にしても、孫の彦狭佐島王が崇神天皇の時代に東国を統治したとある。あまりに時間軸がずれているのである。
このことから、記紀の記述は時系列になっておらず、事績を並べ替えることが可能(必要)であることを示しているのではないだろうか。また、別の人物の事績が他の人物のものと融合させることも可能(必要)なのではないだろうか。古代の記述者が現代の読者に向けて、時間軸を現代の尺度に当てはめるように意図したもの、さらに言えば、未来を予見して記していたとしたらどうだろうか。
ヤマトタケルは日本史上最大の英雄として知られる。そして邪馬台国は日本史上最大の謎である、邪馬台国の滅亡の真実を、記紀の編者がヤマトタケルに託していたとしたらどうであろうか。それならば、彼の事績を調べることで真実が浮かび上がることになるに違いないのである。
ヤマトタケルの征西(古事記)
ヤマトタケルは元の名を小碓命といい、またの名を倭男具那命といった。タケルの兄を大碓命といった。
父である景行天皇は、オオウスに朝廷の会食に来るようオウスに諭させようとしたが、オウスはオオウスを裂き殺してしまっていた。オウスの力を恐れた天皇は、西の熊曾建二人を征伐するように命じた。
オウスは叔母の倭姫から衣と剣を賜り、クマソタケル兄弟の家に行った。クマソタケル兄弟は宴を催し、オウスは倭姫の衣を身に着けて童女の姿になって女性達の中に紛れ込んだ。クマソタケル兄弟はそれを見染めてオウスをそばに呼び寄せ、二人の間に座らせた。
オウスはまず、クマソタケルの兄の胸を刺し通して殺し、逃げ出した弟は階段の下に追い詰め、尻から剣を刺し通した。その際、弟はオウスに「西に我ら兄弟より強い者はいない。しかし、我らに勝って強い者が倭にいた。これにより、そなたを倭建御子と称えよう」と言った。オウスはそれを聞くと、弟を熟した瓜を切るように殺した。
オウス改めヤマトタケルは山の神、河の神、また穴戸の神を平定して出雲に行き、出雲建を殺そうと望み、まずは友となった。そして密かにイチイの木で木刀を作り、それを携帯してイズモタケルとともに肥河(斐伊川:島根県東部)で水浴した。ヤマトタケルは先に川から上がるとイズモタケルの太刀と自分の木刀をすり替え、イズモタケルは木刀を身に着けた。
ヤマトタケルはイズモタケルと刀の試合をしようと持ちかけた。イズモタケルの刀は木刀のため抜くことが出来ず、ヤマトタケルはイズモタケルの刀をもって打ち殺した。
ヤマトタケルの征西(日本書紀)
クマソタケル(熊襲梟帥)の殺害を含め、九州でのエピソードはヤマトタケルの父の景行天皇の事績になっている。また、クマソタケルは一人の男で二人の娘があり、姉がはかりごとをもって父を酔わせ、弓の弦を切り、彼女の従者と思われる兵によって殺害させた。景行天皇は彼女の不孝を憎んで殺害し、妹を火国(肥国とされる)の造とした。
古事記において、ヤマトタケルが死の間際に詠んだ「倭は国のまほろば・・・」の歌を、景行天皇が日向の地において詠んでいる。そして九州巡幸および征伐の記述の後、武内宿禰の北陸、東方の偵察後、ヤマトタケル(日本武皇子)の熊襲征伐となっている。
熊襲国には魁という者がおり、名を取石鹿文または川上梟帥という。カワカミタケルが親族を集めて宴を催した際、ヤマトタケルは女に姿を変えて近づき、剣で胸を刺して殺害した。死ぬ前にカワカミタケルはヤマトタケルに名を尋ね、「自分は従わぬ者のないほど強い者であるのに、皇子ほどの者はいなかった。その名を称えることを許可してくれ」と言い、「皇子は日本武皇子と名乗るがよい」と伝えると、ヤマトタケルはカワカミタケルの胸を刺し通した。
熊襲の民を皆殺しにした後、ヤマトタケルは海路で倭に帰る途中、吉備の穴海(簑島近海)において、また難波の柏の渡(淀川河口)の悪しき神を殺し、水路を確保した。
ヤマトタケルの東征・尾張、焼津、走水(古事記)
景行天皇はタケルに東方十二道を平定すべしと命じた。タケルは従者として吉備の臣の祖である御鉏友耳建日子とヒイラギの矛を賜った。そして伊勢神宮へ詣でて叔母の倭姫に会い、「天皇は十二道を平定せよなどと、私に死ねというのか」と述べた。ヤマトヒメはタケルに草薙の剣と袋を与え、袋は「緊急の時に開くとよい」と告げた。
それから尾張に至り、尾張国造の祖である美夜受比賣の家に行き、彼女と結婚したいと思った。彼女と婚姻の約束をして東国を平定した。
相武国(相模)に至ったとき、その国造が「野中の沼に荒ぶる神がいる」と計略をもって野に誘い込み、火を放った。タケルが倭姫にもらった袋を開けると、火打石が入っていた。タケルはまず刀で草を刈り払い、そこに火打石で向かい火を着けて退け、国造どもを切り殺して焼き尽くした。それゆえ焼遣という(焼津は静岡のはずであり相模にしている理由は不明)。
それから走水の海(浦賀水道)を渡っているとき、その海の神が波を起こしたため、船が進まなくなった。そこで后の弟橘比売が「私が御子に代わって海に入ります。御子は使命を果たしてください」と述べ、菅畳、皮畳、絁畳それぞれ八重に波の上に敷くと、その上に降りて行った。すると荒波は凪ぎ、船は進むことが出来た。七日後に后の櫛が海辺に流れ着き、陵を作って納めた。
ヤマトタケルの東征・景行天皇の賛辞(日本書紀)
景行天皇が東国に荒ぶる神が起こり、蝦夷たちが狼藉を働いていることから、誰を遣わして平定させるべきかと言われた。そこでタケルが「この役はオオウスのものだ」と答えた。ところがオオウスは恐れて草の中に隠れてしまった。天皇はオオウスを責め、美濃の地に封じた。
タケルは雄叫びした「熊襲を平定して幾年とたたないのに、今また東国の蛮族が叛乱を起こしている。いつ太平となるのか。(征西に従事した)臣たちが疲れているとはいえ、その乱を平定すべきだ」。
そこで天皇は斧鉞を授けて言われた「東国の蛮族の性質は荒くて強く、略奪を信条としている。村に信仰する神はなく、首長もいない。お互いに境界を侵犯して盗み合っている。山に邪悪な神がおり、野にはよこしまな鬼がいて人々を苦しめている。
東の蛮族のうちで蝦夷は非常に強い。男女や父子の区別なく一緒に住んでいる。冬は穴に、夏は巣に住み、毛衣を着て血を飲み、山を飛ぶ鳥のように登り、獣のように草原を走る。恩を忘れ、仇は必ず返す。束ねた髪に矢を、太刀を衣の中に隠している。仲間とともに境を侵犯し、誘拐もする。撃てば草陰に隠れ、追うと山に入ってしまう。それゆえいまだに王に服さない。
今私がそなたを見るに、体も大きく顔立ちは立派で能力もある。猛々しさは雷電のようで、向かうところ敵なく、戦えば必ず勝つ。姿は我が子だがその実は神人だ。天下はそなたのものであり、天皇の位もそなたのものだ。行って言葉をもって荒ぶる神を治め、武力でよこしまな鬼を討て」。
タケルは斧鉞を取って言った「かつて短い剣で熊襲を討ち、ほどなく首長は罰を受けた。今また神の霊に頼り、天皇の威光を借りて徳を示しても従わないならば撃つ」。天皇は吉備武彦と大伴武日を従者につけ、七掬脛(ななつかはぎ)を料理人とした。
ヤマトタケルの東征・伊勢神宮と倭姫、焼津、相模、上総、陸奥(日本書紀)
タケルは出征すると、まず伊勢神宮へ参拝した。そこで倭姫に会い、「慎み、怠りなきように」と草薙の剣を受け取った。
それから駿河へ着き、そこの賊に「この野には吐く息が朝霧のよう、足は林のような大鹿がいます。狩りはどうでしょう」と勧められた。タケル(王とある)が野に入ると賊は火を放った。しかし火打石で向かい火を付けて難を逃れた(タケルの持っていた叢雲の剣が自然に抜けて草を薙ぎ払って難を逃れ、それで草薙の剣といったともいう)。そして賊たちを焼き殺した。この地は焼津と名付けられた。
相模を進み、上総に向かったが、海路の途中で暴風が起こり、船が漂流することになった。すると弟橘姫が「波のために船が沈んでしまいます。これは海神の仕業です。身代わりになるので自分を海に入れてください」と申し出た。そして波を分けて入って行くと、暴風は治まり、船は岸に着くことが出来た。その海は馳水(はしるみず)と呼ばれた。
上総から陸奥に入り、大きな鏡を船に掲げて葦浦(未詳)、玉浦(未詳)を渡って蝦夷の境に至る。蝦夷の族長や嶋津神、国津神たちが竹水門(未詳)で待ち構えていた。しかし、船を見てその威勢に恐れをなし、弓矢を捨てて拝し「あなたの顔を見ると人に優れています。若き神ですか。名を教えてください」と言った。タケルは「私は現人神である」と答えた。
蝦夷たちはかしこまってタケルの船を岸に着くのを助け、自ら捕囚となり、首長を配下に置いた。蝦夷を平定し、日高見国(未詳)から西南の常陸を経て甲斐に至って酒折宮に滞在し、歌を詠んだところ、付け句を詠んだ秉燭者を褒めて褒美を取らせた。宮に滞在中、靫部(ゆけいのとものお:矢筒)を大伴連の遠祖の武日に与えた。
ヤマトタケルの東征・蝦夷の国、足柄、甲斐、茨城、信濃、尾張、伊吹(古事記)
タケルは蝦夷や山河の荒ぶる神を平定した帰途、足柄の坂本に至ったとき、乾飯を食べていた。するとその坂の神が白い鹿となって現れたが、食べ残した蒜で鹿の目を打って殺してしまった。タケルは坂の上に立ち、ため息交じりに「吾妻はや(我妻よ)」と嘆いた。それゆえこの国を阿豆麻(東)と呼ぶようになった。
そこから甲斐に出、酒折の宮(茨城県)にいたときに、優れた返歌をした火の番の老人を東の国造とし、科野(信濃)国の神を平定し、尾張国のミヤズヒメのところに帰ってきた。タケルは夫婦の契りをかわそうとするが、彼女に月経があったことをお互いに歌問答した。その中でミヤズヒメは新月を月経に例えている。
タケルは草薙の剣をミヤズヒメのところに置いて伊吹山(岐阜県と滋賀県の境)の神を征しに出発した。タケルは山の神を素手で倒せると考えていたが、山中で牛のように大きな白いイノシシに出会った。タケルは言挙げ(意思表明)して「このイノシシは山の神の使いであり、帰るときに殺す」と宣言したが、これは禁忌行為であった。
すると大氷雨が降り注ぎ、タケルは正気を失ってしまった。このイノシシは神の使いではなく神そのものであったため、言挙げに対して正気を失わせたのである。それからタケルは帰ってきたが、玉倉部の清水(滋賀県米原の醒ヶ井が伝承地)に着き、泉で休息して徐々に意識を回復したが、それゆえに居醒めの清水というようになった。
ヤマトタケルの東征・武蔵、上野、信濃、越、美濃、尾張、近江、伊勢(日本書紀)
タケルは「蝦夷は従ったが、信濃と腰の国はまだだ」と言い、武蔵、上野を通って碓日坂(碓氷峠、群馬と長野の境)に来た。そこで弟橘姫を偲び、東南を望んで三度「吾嬬はや」と嘆いた。それで碓氷峠より東の国を東(あずま)と呼ぶようになった。
越国には吉備武彦を遣わし、タケルは信濃に入ったが、山谷深く、疲れてしまった。山中で食事したが、山の神がタケルを苦しめようと白鹿となって現れた。タケルはにんにくを白鹿の目に当てて殺してしまった。するとタケルはたちまち道に迷ってしまう。すると白犬が現れ、その導きで美濃に出ることが出来、越国から来た吉備武彦にも会うことが出来た。
タケルは尾張に帰り、宮簀姫(みやずひめ)と結婚して暮らしていた。近江の五十葺山(膽吹山、伊吹山)に荒ぶる神がいると聞き、剣を姫の家に置いて出発した。すると伊吹山では山の神が大蛇となって道をふさいでいた。タケルは大蛇が山の神の化身と知らず、「大蛇は山の神の使いだろう。山の神自体を殺せば取るに足らない」と言ってまたいで行った。
すると山の神は雲と氷雨を来たらせ、道は暗くなり、タケルは道に迷ってしまった。霧の中を無理に進み、酔ったようになってしまった。山の下の泉で水を飲んで醒めたが、これを居醒泉(いさめがい、滋賀県米原市醒ヶ井の地あり)と呼んだ。そこでタケルは自分が病身であることに気付いた。
なんとか尾張に戻ったが宮簀姫の家には入らず、伊勢に行き、尾津(桑名市と推定)に至る。かつてタケルが東国に向かった際、尾津浜で食事したが、このとき一本の剣を松の下に置き忘れていた。その剣がまだそこにあったのを見て歌を詠んだ。
「尾張に 直に向かえる 一つ松あはれ 一つ松 ひとにありせば 衣着せましを 太刀佩けましを」
ヤマトタケルの薨去(古事記)
玉倉部を出て当藝野(岐阜県養老)に着いたとき、「空を翔けて行きたいと思うが足が進まず、たぎたぎ(おぼつかない)になっている」と言ったことから、その地を当藝と呼ぶようになった。そこから少し進んだが、疲れて杖をついて歩いたことから、そこを杖衝坂(三重県三重)というようになった。
尾津(三重県桑名)の前(岬)にあった一松の下に置き忘れていた剣を見つけた。三重村に至り、「足が三重に曲がったように疲れている」と言ったことから三重と呼んだ。能褒野に行き、国を偲んだ歌を詠み亡くなった。
「倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
「命の 全けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白檮
「嬢子(おとめ)の 床の辺に 我が置きし つるぎの太刀 その太刀はや」
后や御子たちはそこに御陵を作り、その地の田で這い回って泣きながら歌を詠んだ。
「たづき田の 稲乾に 稲乾に 這い回ろふ 野老蔓(山芋の蔓)」。
するとタケルの魂は八尋白智鳥となって空を翔け、浜に向かって飛んで行った。后と御子たちは篠原を走り、切り株で足を切る痛さも忘れて追いかけて行った。
「浅小竹原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな」
次は海に向かった。
「海処行けば 腰なづむ 大河原の 植え草 海処はいざよふ」
さらに磯に飛んで行った。
「浜つ千鳥 浜よは行かず 磯伝う」
この四つの歌は葬送の歌で、今に至るまで天皇の大御葬の歌となっている。
そこからまた飛び立って河内国の志岐に留まり、その地に御陵を造って鎮めた。名を白鳥の陵という。しかしまたここから飛び立って行った。ところで、タケルが国を巡り平定している間、久米の直の祖であり、名を七拳脛という料理人が仕えていた。
ヤマトタケルの薨去(日本書紀)
能褒野(未詳)においてタケルの病はますますひどくなった。降伏した蝦夷を伊勢神宮に献上し、吉備武彦を天皇のもとに遣わして自分の業績と思いを伝えさせた。
「天皇の命を受けて東国の夷を征したが、神の恵みを受け、天皇の威光に頼り、背く者や荒ぶる神は自ら従いました。これにより戦は終わり、願わくは朝廷に復命し、天皇の御顔を仰ぎたいもの、荒れ野に臥してしまっています。」
タケルはこの地で崩御した。30歳であった。
天皇はこれを聞いてひどく嘆き悲しみ、何事も手がつかなかった。タケルは能褒野に御陵を作って葬られたが、白鳥となって倭国を指して飛んで行った。家臣たちが棺を開けて見ると、衣だけで遺体は見当たらなかった。
使いを出して白鳥を追わせると、倭の琴弾原(奈良県御所市に推定)に留まっていた。そこに御陵を作ったが、白鳥はまた飛んで河内に行き、舊市邑(羽曳野市に推定)に留まったので、ここにも御陵を作った。この三つの御陵を白鳥陵という。そしてついに天にまで飛んで行った。御陵にはただ衣冠を葬るだけであった。
タケルの御名を後世に伝えるため、武部を定めた。
古事記と日本書紀の矛盾
ヤマトタケルは古事記、日本書紀双方にその征服譚が載せられているが、同じ出来事を扱ったものにしてはかなりの相違が見られる。ここに謎解きがあるとしたらどうだろうか。まず主な事績を抜き書きして見比べると、次のようになる。
・兄オオウス
古事記:ヤマトタケルが惨殺する。
日本書紀:殺害されておらず、別の理由で命を落とすこともない。
・クマソタケルとの戦い
古事記:伊勢神宮の倭姫に授けられた服で女装して忍び込み、刺し殺す。倭建の名を受ける。
日本書紀:クマソタケルの娘を通して殺害したのが景行天皇となっている。
・カワカミタケルとの戦い
古事記:なし。
日本書紀:女装して殺害し、日本武の名を受ける。一族を皆殺しにする。
・イズモタケルとの戦い
古事記:山の神、河の神、また穴戸の神を平定して出雲に行き、イズモタケルの刀をイチイの刀と交換し、殺害する。
日本書紀:なし。しかし、崇神天皇の時代、出雲氏の祖という出雲振根が、弟の飯入根をだまし討ちにした場面が非常によく似る。その後、朝廷の派遣した吉備津彦と武渟川別に殺される。
吉備と難波の水路を荒ぶる神を征伐して確保。
・十二道への平定出発
古事記:伊勢神宮で倭姫に袋と草薙の剣を受け取り、嘆きながら出発。吉備の臣の祖、ミスキトモミミタケヒコを従者とする。
日本書紀:将軍として任命された兄のオオウスが草むらに隠れ、景行天皇はオオウスを美濃に封じる。タケルが雄叫びして名乗り出る。景行天皇による蝦夷の説明とタケルへの賛辞。伊勢神宮で倭姫に草薙の剣を受け取る。
・尾張、焼津
古事記:尾張でミヤズヒメと婚約する。相模の焼津での火攻め(沼に荒ぶる神がいると誘い込まれる)。草薙の剣で草を刈り払い、倭姫の袋にあった火打石で火を着け返して退け、国造りどもを切って焼き滅ぼす。
日本書紀:婚約の話なし。駿河の焼津での火攻め(野に息が朝霧、足が茂林のような大鹿がおり、狩りを勧められて誘い込まれる)。火打石で難を逃れるが、袋の記述はない。注釈で草薙の剣が自然に草を薙ぎ払ったとある。
・浦賀水道
古事記:海神のために海が荒れて船が進まなくなったため、弟橘姫が入水し海が凪ぐ。後に櫛が岸に流れ着き、御陵を作って葬る。
日本書紀:タケルが海をなめた言葉を吐いたのが海神の怒りを買い、弟橘姫が入水して海が凪ぐ。
・東(あずま)の語源
古事記:東国の蝦夷、山や河の荒ぶる神の平定。足柄坂(神奈川・静岡県境)の神の白い鹿を蒜(野生の葱・韮)で打ち殺す。坂を上って東国を望み、弟橘比売を思い出し、「吾妻はや」(わが妻よ)の三度の嘆きが「あづま」の語源となる。甲斐国の酒折宮で歌を詠み、付け句をした火焚きの老人を東の国造に任じる。
日本書紀:上総から海路で北上し、北上川流域(宮城県)に至る。船に大きな鏡を掲げて陸奥に入ると、蝦夷の首長の島津神、国津神らはその威勢に恐れをなす。タケルが「自分は現人神の子である」と告げると蝦夷らは畏れ、自ら服従する。甲斐酒折宮で歌を詠み、付け句をした火ともし人に褒美を取らせる。武蔵(東京都・埼玉県)、上野(群馬県)を巡って碓日坂(碓氷峠:群馬・長野県境)で「吾嬬はや」と三度嘆く。
・信濃、越の平定
古事記:科野(長野県)で坂の神を服従させ、尾張に入る。
日本書紀:吉備武彦を越(北陸方面)に遣わし、自身は信濃(長野県)に入る。白い鹿(信濃の山神)を蒜で殺した後、白い犬の導きで美濃へ出る。ここで吉備武彦と合流して尾張に到る。
・尾張、ミヤズヒメとの結婚
古事記:結婚の約束をしていた尾張のミヤズヒメのもとへ行く。彼女は大御食(天皇への食事の意)を奉る。彼女の衣に月経の血が付いていたのを見て歌を詠み、二人は結婚する。
日本書紀:結婚して滞在したとあるのみ。
・伊吹山の神
古事記:ミヤズヒメのところへ草薙の剣を置いて伊吹山に向かう。巨大な白猪に会うが、神の使者ごとき帰るときに殺せばよいと言挙げした。しかし、この猪は神そのものであり、大氷雨を降らせてタケルを撃った。玉倉部の清水での休息で醒めたことから、居醒の清水と名付けた。
日本書紀:古事記と同じく剣を置いて伊吹山に向かう。山の神が化けた大蛇に会うが、後でよいと言って跨いで行くと、山の神は氷を降らせ、霧を起こす。タケルは道に迷い、酔ったようになる。山の下の泉を飲んで醒めたことから、居醒泉と名付けた。
・ヤマトタケルの薨去
古事記:美濃から三重、尾津に至る。一松の下に置き忘れていた剣を見つける。能褒野で薨去。偲び歌を詠む。后や子供たちは這い回って嘆き、御陵を造る。
日本書紀:尾張に帰るがミヤズヒメの元には戻らず。伊勢の尾津で松の下に置き忘れていた剣を見つける。能褒野で病はひどくなる。蝦夷を伊勢神宮に奉る。吉備武彦に天皇への伝言を頼み、薨去。
・白鳥
古事記:八尋白千鳥に化して浜に向かって飛び、河内の志幾に留まる。その地に造った御陵を白鳥の御陵という。その地から天に昇って行った。
日本書紀:白鳥と化して能褒野の御陵を出て倭を指して飛ぶ。棺の中には衣のみ残され、遺体はなかった。白鳥は倭の琴弾原、河内の舊市邑にも留まり、いずれも御陵を造り、三つの御陵を白鳥の陵といった。そして天に昇って行った。衣冠のみ葬った。
記紀編纂と邪馬台国論争
古事記と日本書紀は同じ歴史を記したもののはずだが、この微妙なあるいは大きな相違には何かが隠されているのだろうか。後に記された日本書紀が、古事記の伝えきれていないものを補完したということも考えられる。
だが、筆者個人の考えを記すと、不思議な法則を感じるのである。神武天皇即位から記紀編纂までと、それから現代までがほぼ同じ1300年を経ている。大雑把に言うと、記紀編纂者は1300年前の歴史を扱っていることになる。
そして現在、邪馬台国の位置を巡り、様々な説が出ているが、大きく畿内説と九州説に分けられる。いずれも魏志倭人伝の記述を元に、日数や道程、地名を調査し、「ここがそうである」と発表されている。邪馬台国は3世紀の国であるので、1800~1700年前の歴史を扱っていることになる。
記紀編纂者が邪馬台国の歴史を調べる場合、500年ほど前の時代になる。現代から500年前というと、応仁の乱や本能寺の変などがあるが、なるほど解明されていない歴史がここでも見いだせる。
これらの事例から、一つの可能性を考えてみた。記紀編纂者は神武天皇から邪馬台国の時代に当たる800年間の歴史を、正確には把握できていなかったのではないだろうか。そして、現代の邪馬台国論争のように、いろいろな説を立てていた。その説をある程度取捨選択したものが、記紀の記述になったとすればどうだろうか。あるいは、それすら見越していたのかもしれない。
その証拠の一つといえるのが、記紀編纂の時代に発見された銅鐸や縄文時代の遺物を見て、誰もそれが何か分からなかったことである。ただしこれは今でも結論が出ていない。邪馬台国論争にのみ焦点を当てると、記紀編纂者も現代の学者も同じ混乱をしていることになる。
この混乱に解明の手掛かりを与えてくれる人物がいる。その名をイマヌエル・ベリコフスキーという。「衝突する宇宙」という著書で、天体規模の大激変が聖書にある奇跡を引き起こしたということを示し、世界に衝撃を与えた人物である。
彼の他の著作は主に古代エジプトの歴史を扱ったものがあり、彼の研究によると、同じ歴史が二つに分かたれて記されているというのである。例を挙げると、あの有名なラムセス二世と、旧約聖書にもその名が記されているネコ二世というファラオは、同一人物なのであるという。詳しくは彼の著書(邦訳なし)にあるが、この法則が記紀にも当てはまるのではないだろうか。
ヤマトタケルはトヨキイリヒコだった
ヤマトタケルの事績の中で、クマソタケルの殺害は景行天皇が行い、イズモタケルのエピソードとよく似た出雲の争いは、吉備津彦のものとなっている。このように、同じ(ような)出来事が別人物の事績として記されているのは、実際はすべて同一人物によるものではないだろうか。
また、ヤマトタケルが倭姫から草薙の剣を受け取ったエピソードは、剣をキーワードとすると、記紀の上でのさらに過去の歴史と重なることになる。草薙の剣が初めに登場するのは、スサノオのヤマタノオロチ退治である。
草薙の剣はヤマタノオロチが持っていた。つまり、草薙の剣を持っていた倭姫と同一とすれば、それを手に入れたスサノオとヤマトタケルは同一となる。すると、スサノオときょうだいであり、誓約を交わした、すなわち結婚した天照大神はヤマトタケルの妻と同一となる。誓約の際、天照大神は男装していることから、スサノオを女形とすれば、ヤマトタケルの女装にもつながってくる。
ヤマトタケルの妻は弟橘姫とミヤズヒメである。前者は櫛の化身となったのでスサノオと結婚したクシナダヒメであり、ミヤズヒメは草薙の剣を預かっていたので倭姫でもあり、天照大神でもある。
ヤマトタケルとスサノオが同一であるというイメージは、ヤマタノオロチを退治したのがヤマトタケルであるという、近年のファンタジー作品群にも示されている。そしてこの法則は、ヤマトタケルがトヨキイリヒコであったという結論に至るのである。
ヤマトタケルは白鳥と化したが、この鳥の神社を大鳥神社といい、祭神はアメノコヤネである。つまり、藤原氏の祖であり、トヨキイリヒコのこととなるのである。これはまたヤマトタケルが神武天皇であったことになるのである。
ヤマトタケルは神武天皇だった
東の語源が足柄峠と碓氷峠というズレや、焼津といえば駿河のはずが、後に書かれた日本書紀が相模とするなど(わざと間違えているとしか思えない)、まだまだ記紀の記述に謎が隠されていることを示している。
これまでトヨキイリヒコが邪馬台国を滅ぼした卑弥弓呼であることを見てきたが、その事績は神武天皇のものであることを示してきた。つまり、ヤマトタケルは神武天皇でもあったのである。神武天皇といえば東征である。ヤマトタケルの妻を思う気持ちが起源の「東」という言葉は、東にゆかりの深いトヨキイリヒコである神武天皇の言葉でもあったわけである。
地名のズレには時間軸のズレも含まれている。倭国は崇神天皇の倭国大乱で一度は征服された。このエピソードが盛り込まれていたとすると、その征服で通ったルートがヤマトタケルの事績にプラスされたのかもしれない。倭建は崇神天皇、日本武はトヨキイリヒコとして描かれていたのではないかと思われる。
出雲は神武東征の前にすでに征服されていたといってきたが、それがタケミカヅチによる征服のことで、イズモタケルの殺害などがある。それはまた倭国大乱の結果の一つであり、崇神天皇の征服譚はタケミカヅチの物と同じということである。タケミカヅチと野見宿禰の双方が相撲の起源譚となっている点も同じといえる。このように、神武天皇の後のはずの崇神天皇がタケミカヅチになるという矛盾も、ヤマトタケルのペンローズの階段の法則で解けることになる。
邪馬台国征服は記紀に記されていた
通説では記紀に邪馬台国の記述は認められないとされている。卑弥呼そのものの記述も名称も見当たらず、ヤマトトトヒモモソヒメが卑弥呼という説も確定されていない。しかし、記紀を読み解くと、卑弥呼の邪馬台国がはっきりと浮かび上がって来るのである。
狗奴国の王は卑弥弓呼というが、それはスサノオのことであり、崇神天皇の皇子トヨキイリヒコのことである。これまで見てきたとおり神武天皇でもある。その化身ともいえる藤原秀郷が、栃木県の佐野に住んだことが佐藤姓のルーツとなった。神武天皇の幼少時の名の狭野も同じルーツなのではないだろうか。
古事記によると神武天皇は四人兄弟で、長兄を彦五瀬命といい、次兄に稲氷命、次が御毛沼命、末弟が若御毛沼命、またの名を豊御毛沼、またの名を神倭伊波礼毘古命という。狗奴国は鬼怒川流域の毛野にあった国である。毛沼(日本書紀は毛野)と毛野が同じであるなら、神武天皇はまさに狗奴国の王だったのである。
イツセだけが長兄で固定されていて、ナガスネヒコの矢を受けて崩御している。イツセの名の五は東日本の狗奴国を示唆し、イワレビコすなわちトヨキイリヒコの兄であるため、垂仁天皇を指しているといえる。
先述したが、垂仁天皇は倭人伝にいう卑弥呼の死後、一時的に邪馬台国の王になった存在と考えられる。しかし、再度政情不安となり、台与が即位するまでの王であった。恐らく死んだものと思われるが、イツセがナガスネヒコの矢で死んだことと同じと思われる。そしてナガスネヒコの正体が分かれば、この死の意味も判明するのである。
ニギハヤヒとナガスネヒコの正体
ニギハヤヒは、神武天皇の軍が戦った登美能那賀須泥毘古(登美毘古)が仕えた天神で、トミビコの妹トミヤヒメを妻としていた。二人の子ウマシマジが物部氏の祖である。
ニギハヤヒは神武天皇と同じ天神の印を持っており、それを献上して神武天皇に仕えた。ここに大いなる矛盾がある。天神の印は一つだけであると神武天皇が言っていることから、ニギハヤヒが同じものを持っているのはおかしいのである。
トミノナガスネヒコの名は、トミ(鳥見、鵄)が名前でナガスネが地名であると記されている。しかし、ナガスネがどこを指すのかまったく分からない。日本書紀の記述である長髄が、長い脚を指すのならば、天皇(神武天皇と記していない)の言葉がヒントになるかもしれない。
天皇は「我は日神の子孫であるから、日に向かって敵を討つのは天道に逆らうことになる」と言っている。これはナガスネヒコが日神そのものであり、横から射す日の光陰でできた影が長髄を指しているのではないだろうか。
鳥見の名も鵄を指し、鵄が光り輝いた様もまたナガスネヒコの姿となる。つまり、皇弓(神武天皇の弓とは書かれていない)の先に止まった鵄も天皇もナガスネヒコなのである。「日に向かう」とは「日向」「日見」であり、日向子または日見子=卑弥呼となる。
卑弥呼は狗奴国が折衷案で擁立した架空の女王で、きょうだいと思われる男が伝令役だった。それは、ヤマトの地にいたナガスネヒコと妹のナガスネヒメが卑弥呼に相当することになる。そしてイツセ=垂仁天皇はナガスネヒコとの戦いで命を落としたが、それは卑弥呼と台与の間に王となり、おそらく戦乱で命を落とした歴史を指しているといえる。
日本書紀の神武天皇崩御の記述直前に、日本の呼び名について数種記されている。その中でニギハヤヒが告げた名は「虚空見日本国」であった。虚空の名は神武天皇の先祖である山幸彦の別名虚空津彦に通じ、日本国は狗奴国のことである。つまり、ニギハヤヒは狗奴国の王であることになる。
山幸彦と神武天皇の名はどちらも火火出見であるため、両者は同一人物である。したがってニギハヤヒと神武天皇は同一人物であり、同じ天神の印を持っていても矛盾しないのである。しかもその印は弓矢であり、トヨキイリヒコの象徴なのである。
また、神武天皇以前に倭国を征服したというタケミカヅチとニギハヤヒの降臨は、同じ天鳥船(天磐船)に乗って来たという。これも崇神天皇でつながるため、何の矛盾もないことになる。
ニギハヤヒがナガスネヒコを殺して神武天皇に帰順したとあるのは、ナガスネヒコを殺したのが神武天皇本人であり、狗奴国の王卑弥弓呼だったからである。
倭と日本
中国の歴史書「旧唐書」には、日本はかつて倭と日本の二つがあり、日の出の方にある小国の日本が倭を併合して日本としたとある。あるいは、倭が字の雅でないことを嫌って日本としたともいう。
かつて日本に二国あったという記述は、魏志倭人伝にいう、邪馬台国と狗奴国の二国に該当すると思われる。邪馬台国はヤマトのことであるので、狗奴国が日本ということになる。だが、狗奴の読みが「クナ」だとすると、日本には思われない。
しかし、一般には「クナ」と読まれているが、これを「クニ」と読めばどうだろうか。学校の授業では日本語を国語としている。また、日本を表す漢字には「邦」がある。邦人、邦訳などがその例である。日本のもともとの読みは「クニ」であったのではないかと思われるのであ
クニを別の漢字で表すと「九日」となり、「旭」の字が浮かび上がる。旭は日の昇る東の国となり、関東地方ということになる。西日本の倭(邪馬台国)に対し、東日本の旭(日本)が併合前の日本の勢力図であったことになる。
狗奴国を示す旭が九つの太陽だとすると、一つの故事が思い起こされる。中国の伝説の王、堯帝の時代に太陽が十個一度に昇り、全地が灼熱地獄と化してしまった。天から遣わされた羿という弓の名手が九個の太陽を射て、再び全地は平穏となったという。その太陽の中には三本足の烏が住んでいるという。
九個の太陽が落ちた地として、極東の日本を意識した者がいたとしたらどうだろうか。そして三本足の烏とは八咫烏のことであり、そのしるしを持つ者は崇神天皇と秦氏、藤原氏なのである。
神武天皇の事績すなわち邪馬台国征服の歴史を、そのまま記紀に記さなかった理由は何なのだろうか。邪馬台国論争のような現代と同じ混乱も想定されるが、同じ人物(神)を何人にも分けた理由はなぜなのだろうか。
記紀は日本国の正史である。国の歴史を後代に遺すのに、空想と事実を織り交ぜたような記述はなぜ生まれたのか。わざわざ邪馬台国を謎に包まれたものにする、真実の歴史を隠さなければならない理由があったのだろうか。
これまで誰一人、狗奴国に注目した研究家はいなかったのではないだろうか。卑弥弓呼を彦御子など様々な名称で読み解こうした試みもあったが、そこから先に進んだ研究を見たことがない。
人は目の前にある現実が分からない、あるいは気づかない、そして見なかったことにするという習性がある。これは自分にとって都合が悪い事実に直面したときの場合が多い。この習性すべてが狗奴国に当てはまるのである。
つまり、狗奴国のことを知ることが、日本人のうちの誰か、あるいは地位のある者にとって都合が悪いということになる。それは記紀が記された時代も同じであったのではないだろうか。邪馬台国征服の歴史は狗奴国の関係者にとって闇の歴史であり、知られてはまずい事実があることになる。
一般市民がどこまで謎に迫れるかの挑戦であったが、狗奴国について記した日本で唯一の書物になったのではないかという自負がある。天皇陛下が令和元年に即位されたが、陛下が乗っておられた車には平家の日の丸が掲げられていた。個人的に、狗奴国の謎が解き明かされる時が来たのではないかと感じている次第である。
本書がその一石を投じるものになれれば、名誉この上ないのである。
織田信長は、日本の歴史上最も有名な人物の一人である。その反面、本能寺の変で主君信長を裏切って死に至らしめた明智光秀は、日本史上最も有名な裏切り者となっている。
世の中で定着している信長の傾いたうつけ者の姿が、信長の生涯を記した信長公記に記されている。着物をはだけ、火打石や瓢箪を持ち、餅や瓜を食い、泳ぎや相撲が好きだったとある。これは信長がスサノオの化身であり、河童であったことを意味している。そしてこれこそが信長の謎を解く大きなヒントとなっているのである。
謎に満ちた本能寺の変について、これまで様々な論説が展開されてきた。その中には、明智光秀が恨みで行動したわけではないとする説や、豊臣秀吉や徳川家康が黒幕とする説もあるが、基本光秀が信長を討ったという点では一致している。そして最も有名な陰謀説は、光秀は後に家康に仕えた怪僧天海になったというものである。
拙著が伝えたいことの一つは、明智光秀ほど信長に忠実な家臣はいなかったことである。「光秀はなぜ信長を討ったのか」ではなく、「光秀は日本史上最悪の逆臣にされた」ことを本書の中で明らかにしている。いろいろな説がある中で、誰もが信じて疑わない光秀の裏切りが、実際には正反対の結論に至っている。
謎に満ちているのは本能寺の変だけではない。信長の奇行を初め、安土城にも一般常識などまったく通用しない仕掛けがある。そしてその謎を解き明かす最大の鍵、それは信長が忌部という氏族であることである。すべての謎は彼が忌部氏であることを念頭に置くと、信長の言動にはすべて意味があったことが見えてくる。
信長は自身が殺されることを知っていた。そして信長はたとえ志半ばで死んだとしても、自身の意思を光秀に託していた。信長は過去・現在・未来を見据え、何百年というスパンで日本という国があるべき姿を創り上げようとした英傑なのである。
光秀の本意は未だに不明のままではあるが、この書は、彼が日本史上最悪の逆賊などではなく、信長が計画した最も難しい計画を、唯一実行できた忠臣であることを示したものである。
劔神社
織田信長は尾張国(愛知県)の武将として知られているが、そのルーツは越前国(福井県)の劔神社(つるぎじんじゃ)にある。信長は劔神社の神官の子孫なのである。祭神は素盞嗚大神(すさのおのおおかみ)と忍熊皇子(おしくまのみこ)、気比大神(けひおおかみ)である。
神社の北にある座ヶ岳(くらがたけ)でスサノオが祀られ、その後伊部臣(いべのおみ)という人物が和泉国鳥取川上宮で造られた剣を、御霊代として祀ったのが劔神社の創始とされている。
また、神功皇后の時代、仲哀天皇の第二皇子である忍熊皇子がこの地の賊徒と戦った際、スサノオの励ましを受け、伊部臣から剣を受け取って勝利を得たことに加え、この地を開拓した功績に感謝して神として祀ったことが伝えられている。そこに気比神宮の気比大神を加えて三神を祀る神社となっている。
劔神社のある地を伊部郷(いべごう)といい、伊部郷が織田荘となり、現在は越前町となっている。伊部(いべ)は忌部(いんべ)のことであり、信長は忌部氏という氏族であるとされる。
古語拾遺という、全国の神社でその記述が採用されている神道資料を記した、忌部氏の斎部広成(斎部は忌部と同じ)を祖とする系図も残されている。
また、近江(滋賀県長浜市)にも伊部郷があり、備前国(岡山県)にも伊部(いんべ)の地がある。いずれも製鉄や鍛冶に深い関係のある地域であり、越前から近江を通って伊勢に至る、鈴鹿越えの峠には「いなべ」の地名が残っている。
忌部という氏族と、劔神社と気比神宮に祀られている祭神には、織田信長という人物の謎を解く鍵が数多く残されているのである。
古事記と古語拾遺
日本のルーツを記した国史は古事記と日本書紀である。そこでまず、日本の国史である古事記のあらすじを紹介したい。
また、本書に登場する神や人の名前に関し、初めは記紀に記された漢字をそのまま表記するが、おおよそ後の文では平易なものはそのまま用い、難解なものはカタカナ表記としていることをご了承願いたい。
古事記の原文は漢文であるが、現代語訳にする際、一般に出回っている書籍の中で意訳されている部分がある。しかし、本書ではあえて原文のままの漢字を用いている場面もある。神名の表示も現代訳は同一神の名を統一しているが、本書では原文通り違う名で表記している場合がある。
また、斎部広成が記した古語拾遺も適宜紹介していくが、古事記や日本書紀、古語拾遺は単なる読本や歴史書ではなく、権威ある国史であるとともに、筆者は預言書であると考えている。それは、信長がスサノオの化身であった理由を解き明かす鍵なのである。
編纂の発端
天武天皇は「様々な記録が伝わっているが、それぞれ内容が違い、虚偽が含まれている。この時に誤りを正さなければ歴史はすぐに失われてしまう。邦家の経緯は王化の鴻基(大基礎)である。記録を精査し、偽りと真実を見極め、後世に伝えたい」と語った。
稗田阿礼という二十八歳の舎人がいた。聡明で、目に度れば口に誦み、耳に拂れれば心に勒す人物であった。そこで阿礼に勅命して天皇の治世と先代の歴史を朗誦させた。時は移り、世は変わっても、このようなことの出来る者は現れなかった。
このような経緯で、稗田阿礼が朗誦したものを太安万侶が記したものが古事記である。天武天皇に献上したのは和銅五年(712)である。
斎部広成は、文字のなかった時代から伝わる伝承を軽んじる世の中(藤原氏の専横)を憂い、特に忌部氏に伝わる伝承を残すため、平城天皇の召しに応じて記したのが古語拾遺である。大同二年(807)に奏上された。
高天原の神々
天地が開かれたとき、高天原に成った三柱の神の名を、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神といい、独り神となって姿を隠された。
次に国は若く、クラゲのように海を漂っていたときに二柱の神が成ったが、これも姿を隠された。この五柱の神は別天つ神という天神の中でも特別な神である。
次に七代の神が成り、七代目の神が伊邪那岐と伊邪那美という夫婦(きょうだい)であった。天つ神はこの二人に国土形成を任せた。二人が天の浮橋から天の沼矛で塩水を掻き回して矛を引き上げると、落ちた塩が積もって島となった。これを淤能碁呂島という。
二人は島に天下り、天の御柱と八尋殿(大きな家か)を見立てた。まずイザナミが声をかけ、イザナギが「汝は柱の右から、我は左より回って遭おう」と答え、夫婦となった。イザナミが先に「あなにやし、愛え男よ」、イザナミが後に「あなにやし、愛え女よ」と言ったのだが、女が先に言うのは良くなかったとイザナギは言った。
すると生まれてきたのは水蛭子で、この子は葦船に入れて流してしまった。もう一人淡島が生まれたが、これも子として数えなかった。
古語拾遺の記述では、天地が初めて分かれたときに成った三神のうち、カミムスヒの子が天児屋命(中臣氏、藤原氏の祖)である。
タカミムスヒの娘が栲幡千千姫命(古事記のヨロズハタトヨアキヅシヒメ:後述)で、天祖天津彦命(ニニギ:後述)の母である。
タクハタチヂヒメの子として天忍日命(大伴氏の祖)、天太玉命(斎部氏の祖)がいる。
フトダマの率いる五神は、天日鷲命(阿波忌部の祖)、手置帆負命(讃岐忌部の祖)、彦狭知命(紀伊忌部の祖)、櫛明玉命(出雲玉作の祖)天目一箇命(筑紫、伊勢忌部の祖)という。
国生み(大八島国の形成)
二人は生まれた子が良くなかったことを天神に聞くことにした。すると、女が先に声をかけたのが良くないので、もう一度やり直すようにと言われた。そこで今度はイザナギが先に声をかけて柱を回った。
すると、淡路島、伊予の二名島(四国)、隠岐島、筑紫の島(九州)、壱岐島、対馬、佐渡島、そして大倭豊秋津島、またの名を天御虚空豊秋津根別の八島が生まれた。これを大八島国という。
伊予の二名島は身が一つで面が四つあり、伊予国は愛比売、讃岐国は飯依比古、粟国(阿波)は大宜都比売、土左国(土佐)は建依別という。
その後、吉備児島(児島半島)、小豆島、大島(山口県大島?)、女島(大分県姫島?)、知訶島(五島列島)、両児島(男女群島)の六島が生まれた。
神生み
イザナミは国を生み終えた後、三十五柱(男女一対の神を含む)の神を生んだ(この中で木の神を久久能智神、山の神を大山津見神、野の神を鹿屋野比売神、または野椎神といい、本書の妖怪に深くかかわっている)。その中の火之迦具土神(カグツチ)という火の神を生んだとき、イザナミは女陰が焼かれて死んでしまった。その死の苦しみの中で生じた嘔吐物から金属、屎から土、尿から水に関係する神が生まれた。
(最後に「この神の子は豊宇気毘売という」で締めくくられている。この神の前に記されている和久産巣日神の別名を指すように読めるが、筆者は神生みで生まれた神すべてを指すものと考えている。このことはカグツチと合わせて、本書における妖怪の正体を解明する上で大きな手掛かりとなる)
イザナミが死んだことを嘆くイザナギの涙もまた神と成った。そして死の原因となったカグツチの首を十拳剣で切り落とした。切ったときに出た血や、カグツチの体の各部分はそれぞれ神と成った。血から化成した神の一人に、建御雷之男神がいる。
切った刀の名を天之尾羽張または伊都之尾羽張といった。
黄泉降り
イザナギはイザナミに会いたいと思うあまり、黄泉の国に行った。殿(建物)の戸口で出迎えたイザナミにイザナギは「国造りは終わっていないので帰ってきてほしい」と伝えた。そこでイザナミは「黄泉の国で食事をしてしまったが、黄泉の神と相談します。姿は見ないでください」と答えた。
イザナギは長い間待っていたが、左の角髪に刺した櫛の歯に火を着けて殿の中を見てしまった。イザナミは蛆にたかられ、体の各所に八雷神がついていた。それを見て畏れたイザナギは逃げ出したが、イザナミは辱められたと言って黄泉醜女に追いかけさせた。
イザナギが鬘を取って投げるとブドウになったので、醜女がそれを食べるうちにさらに逃げたがまた追いついてきた。今度は右の角髪の櫛を投げると竹の子になり、またそれを食べている間にさらに逃げた。
さらに八雷神と共に千五百の黄泉軍が追いかけて来たが、イザナギは十拳剣を後ろ手で振りながら逃げて黄泉比良坂の坂本に至った。そこにあった桃の実を三つ投げつけると皆逃げ帰った。イザナギは桃の実に「汝が我を助けたように、豊葦原中国のあらゆる人の苦悩を助けてくれ」と告げた。
最後にイザナミ自身が追いかけて来た。そこで千引石で黄泉比良坂を塞ぎ、お互い岩を挟んで向かい合った。事戸(離別を指すとされる)を渡す際、イザナミは「我が愛しき夫よ、さればそなたの国の人を一日に千人絞り殺そう」と言った。イザナギは「愛しきわが妹よ、ならば我は一日に千五百の産屋を立てよう」と答えた。これをもって人は一日に千人死に、千五百人生まれることとなった。
これらのことから、イザナミの名を黄泉津大神というようになった。
イザナギの禊ぎと神々の派生
イザナギは黄泉の国の穢れを祓おうと、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原で禊ぎを行った。その際、身に着けていたあらゆるものを投げ捨てたが、それぞれが神と成った。
禊ぎの水からも神が成り、底津、中津、上津の名を冠する綿津見神と、底、中、上の名を冠する筒之男命が生まれた。安曇氏は綿津見神の子孫である。筒之男は墨江(住之江)の大神である。
イザナギが左目を洗うと天照大御神が、右目を洗うと月読命が、鼻を洗うと建速須佐之男命が生まれた。最後に生まれた三神をイザナギは大いに喜び、それぞれに統治する領域を与えた。イザナギは首の珠を揺らしながら、天照大神は高天原を、月読は夜の国を、スサノオは海原を任せると告げた。
ところがスサノオは海原を治めず泣き喚いた。すると青山は枯れ山のようになり、川海は乾き、悪神の声が蝿のように満ち、あらゆる妖しいことが起こった。スサノオは「亡き母の国である、根の堅洲国に行きたい」と、イザナギに泣き喚きの理由を告げた。
するとイザナギは怒り、「ならば汝はこの国に住んではならぬ」と言って追放した。イザナギは淡海(近江)の多賀に座している。
天照大神とスサノオ
スサノオは天照大神に事情を話そうと高天原に向かった。するとその際、山川はどよめき、国土は揺り動いた。天照大神は驚き、スサノオが自分の国を乗っ取ろうとする悪心があると疑った。
そして髪を角髪に結い、鬘と左右の角髪と両手に八尺の勾玉の五百箇の御統の珠を巻き付け、背に千、比良(手のひら?)に五百の矢を持ち、地面を踏み抜きながら雄叫びし、スサノオに何をしに来たのか問うた。
スサノオは自分の母に会いたいという意思を告げ、天照大神に潔白を示すため、互いに子を生む誓いを交わし、天の安川を挟んで宣誓した。
まず天照大神がスサノオの持つ十拳剣を三段に折り、天の真名井に振り注ぎ、噛み砕いて吹き出した霧の中に生まれたのは多紀理毘売(奥津島毘売)、市寸島毘売(狭依毘売)、多岐都毘売の三女神であった。
スサノオが天照大神の左の角髪にある珠を天の真名井に振り注ぎ、噛み砕いて吹き出した霧の中に生まれたのは正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、右の角髪の珠から天之菩卑能命、鬘の珠から天津日子根命、左手の珠から活津日子根命、右手の珠から熊野久須毘命の五神が生まれた。
天岩戸隠れ
スサノオは、たおやかな女を生んだことで自分は潔白で勝ちだと言い、天照大神の田の畔を壊し、溝を埋め、殿に屎をまき散らした。天照大神は特に大事とは考えなかった。
ところが狼藉は激しさを増し、天照大神が機屋で神衣を織っているときに、天井を破って皮を逆剥ぎにした天の斑馬を落としてきた。すると天の服織女が驚いて女陰を梭(横糸通し)で突いて死んでしまった。
これにより、天照大神は天岩屋に隠れてしまった。すると高天原も豊葦原中国もすべて暗闇に閉ざされ、あらゆる神の声が蝿のように満ち、あらゆる妖しいことが起こった。そこで、高御産巣日神の子である思金神から案が出され、次のような儀式が行われた。
常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命に、天の安川の川上にある堅石と鉱山の鉄とで、八咫鏡を作らせた(古語拾遺は、アマツマラをアマノマヒトツとし、鏡は銅で造っている)。
玉祖命に八尺の勾玉の五百箇の{御統}(みすまる)の珠を作らせた。
天児屋命と布刀玉命が召され、雄鹿の肩の骨を抜き、天香山にある天の朱桜で占いをさせた。
天香山の五百箇真賢木を根ごと掘り起こし、上枝に八尺の勾玉の球、中枝に八尺の鏡、下枝に白和幣(楮の白布)と青和幣(麻の青布)を掛け、それをフトダマが太御幣として奉げ持った。
アメノコヤネが祝詞を唱え、天手力男神が岩戸の脇に隠れて立った。
天宇受売命が天香山の天日影(サガリゴケ?)をたすきに懸け、天の真拆(ツルマサキ)を鬘とし、天香山の小竹の葉を手に結った。そして槽を伏せてその上に乗り、たたらを踏んで轟かせ、神懸かりして乳房をあらわにし、衣の裳緒を陰まで下げた。すると高天原がどよみ、八百万の神が一斉に笑った。
これを聞いた天照大神が訝しんで天岩戸を少し開けたときに、アメノコヤネとフトダマが天照大神に鏡を差し出した。天照大神が鏡に写る自分の姿を、もっとよく見ようと岩戸をさらに開けたところで、隠れていたアメノタヂカラオがその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。
すぐにフトダマが尻くめ縄を岩戸の入口に下がりながら張り「これより中に入らないで下さい」と申し上げた。こうして天照大神は岩戸の外に出て、高天原も葦原中国も明るさを取り戻した。
八百万の神はスサノオに償いを負わせ、鬚を切り、手足の爪を抜いて追放した。
五穀の起源
食べ物を大気津比売神に乞うたところ、大気都比売は鼻口また尻よりいろいろなおいしい食べ物を取りだして料理した。スサノオはその様子を伺ったのだが、穢れたものを進呈するのだと思い、大宜津比売を殺してしまった。
すると殺した神の実から生成した物は、頭に蚕、二つの目に稲種、二つの耳に粟、鼻に小豆、陰に麥(麦)、尻に大豆が生った。神産巣日の御祖命がこれを取って種とした。
八俣大蛇退治
スサノオが追放されて降ったのは、出雲の鳥髪というところであった。このとき箸が川上から流れてきたので人がいると思い、上って行った。すると老夫婦が女の子を中にして泣いているところに出会った。
老夫婦は国つ神の大山津見神の子の、足名椎と手名椎の夫婦で、娘は櫛名田比売であった。
泣いていたわけを聞くと、「自分たちには八人の娘があったが、高志の八俣大蛇が毎年一人ずつ食べに来て、今また来る時なのです」と語った。
その姿は、眼は赤かがち(ほおずき)のようで、八つの頭と八つの尾を持ち、その身に苔や杉ヒノキを生やしている。その長さは八つの谷と八つの丘をまたぎ、腹は常に血でただれているのだという。
スサノオは姫を妻にもらう条件で大蛇退治を請け負った。まずスサノオは姫を湯津妻櫛に変えて角髪に刺し、それから夫婦に垣と八つの門と桟敷を造り、それぞれに強く醸成した酒を入れた酒船を置いておくように言った。
すると大蛇がやって来て酒を飲み、酔って眠ってしまった。スサノオは十拳剣で大蛇の首を切り、尾も切ったのだが、そこで剣の歯が欠けてしまった。不審に思って尾を切り開いてみると、中から都牟刈の太刀が出てきたので、これを天照大神に献上した。これは草薙の剣である。
スサノオは宮を造る地を出雲の須賀に求めた。宮を造るとそこから雲が湧きたったので歌を詠んだ。
「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣をぞ」
その宮の主としてアシナヅチを召し、稲田宮主須賀之八耳神と名付けた。
クシナダヒメとの間に八島士奴美神、オオヤマツミの娘の神大市比売との間に大年神と宇迦之御魂、その後、ヤシマジヌミとオヤマツミの娘である木花知流比売を娶った。ヤシマジヌミから数えて六代目が大国主神である。
大国主は天之冬衣神と刺国若比売の子である。大国主の別名には、大穴牟遅神、葦原色許男神、八千矛神、宇都志国玉神がある。
近江のアメノヒボコの神社
信長の先祖はスサノオを祀る劔神社(越前国)の神官である。同じ越前の敦賀には、ツヌガアラシト(敦賀の語源)という朝鮮半島の加羅からやってきた人物を祀る、角鹿神社(つぬかじんじゃ、気比神宮境内)がある。このニ社は深いつながりがあり、気比神宮の祭神は劔神社と同じである。
ツヌガアラシトとは角がある人のことで、牛の角を持った牛頭天王(スサノオ)と同じ特徴を持っている。ツヌガアラシトは同じく朝鮮半島の新羅からやってきた、天日矛(あめのひぼこ)と同一人物とされている。
アメノヒボコは朝鮮半島出身なのに和名で、天の剣という奇妙な名前である。角があり、天の剣を持ち、朝鮮半島からやってきたという特徴は十握剣を持つスサノオそのものである。つまり、信長の氏神であるスサノオはツヌガアラシトであり、アメノヒボコであることになる。
アメノヒボコは神功皇后の母方の先祖であり、近江の伊部郷近郊(現在の米原市)はアメノヒボコと神功皇后のゆかりの地である。竜王町にある鏡神社では、アメノヒボコとアメノマヒトツが同一神として祀られている。劔神社の宮司が近江の地から呼ばれたこともあることから、近江の地は忌部氏とアメノヒボコを通して深いつながりがあることがうかがえる。
滋賀県草津市にある二つの安羅神社(やすらじんじゃ)は、穴村がスサノオ(牛頭天王)で野村町がアメノヒボコを祭神としている。穴村はアメノヒボコが滞在した吾名邑(あなむら)にちなんだものと思われる。
安羅は朝鮮半島にも同じ地名があり、安羅はツヌガアラシトの加羅の地にもある。野村町の安羅神社のそばにはかつて伊佐佐川(いささがわ)があり、気比神宮の祭神イササワケに関係が深いことがうかがえる。また、気比大神を導いた神として猿田彦が祀られている。
気比神宮の末社には祭神に多少の違いがあるが、劔神社と鏡神社があり、スサノオを祀る金神社(かねのじんじゃ)もある。これらの共通点からスサノオ、ツヌガアラシト、アメノヒボコ、アメノマヒトツは同一神という関係が見えてくる。
藤原氏に封印された近江のアメノマヒトツ
先述の多度大社では、天津彦根命(あまつひこね)とその御子神であるアメノマヒトツが祀られている。滋賀県野洲市にある御上神社の祭神アメノミカゲもアマツヒコネの御子神であり、アメノマヒトツと同一神といわれている。
アマツヒコネの兄弟で、滋賀県彦根市の語源になった活津彦根命(いくつひこね)は、彦根神社の祭神としてスサノオとともに祀られている。守山市にある二つに分かれた己爾乃(こじの)神社では、一方はアメノコヤネ、一方はアマツヒコネとスサノオを祀っている。
このように、神社の祭神のペアを見ても、アメノマヒトツとスサノオが同一神であることが見えてくる。ところが、多度大社は信長によって焼き討ちにされ、その後本多忠勝(賀茂氏)によって再興されている。御上神社も藤原不比等が社殿を造営している。
三上山の北方にある奥石(おいそ)神社は、鎮守の森(老蘇の森)の神が一つ目鬼のアメノマヒトツであるが、神社の祭神はアメノコヤネである。己爾乃神社も創建は中臣氏によるなど藤原氏系の神社であることがうかがえる。
信長の比叡山焼き討ちの際、忌部氏の祖フトダマを祀る、滋賀県大津市の那波加神社(なはかじんじゃ)も焼失した。一緒に祀られているのが於知別命(おちわけのみこと)といい、小槻氏の祖神である。小槻氏の神社である小槻神社の祭神は、オチワケノミコトとともにアメノコヤネが祀られていることから、この神社にも藤原氏の影響力が見られる。
神社の傾向として、本来の祭神は規模を小さくして脇に祀られていることが多い(気比神宮のツヌガアラシト、多度大社のアメノマヒトツ、彦根神社のスサノオ、己爾乃神社の祭神不詳の若宮)。先ほど挙げた神社が一例であるが、藤原氏が関わっている神社は、もともと忌部氏の神を祀る神社であったと思われるのである。
劔神社も多度大社も気比神宮も、古くから神宮寺となった仏教の影響を受けた場所であり、藤原氏のルーツにもかかわってくる。信長は気比神宮も焼打ちにしているが、信長は自らのルーツともいえる神社を狙って灰燼に帰しているようにも見受けられる。そしていずれも神宮寺としての歴史が古い。これは藤原氏によって変えられた神社の様式に対する抗議とも考えられないだろうか。焼き討ちで有名な比叡山も、そもそも忌部氏にかかわる山だった可能性がある。
信長はアメノマヒトツの聖地ともいえる近江の地に安土城を築き、首府を置こうとしたのではないだろうか。そうであるなら、彼の人生や安土城などの様々な謎に答えが見いだせるのである。
スサノオとアメノマヒトツと猿田彦は同一神だった
猿田彦は神武天皇を導いたことから導きの神とされ、そこから岐(ふなど)の神や杖の神となり、道の辻にある道祖神ともなっている。ツキタツクナドノカミやヤチマタノヒコノミコトの名でも祀られており、地面につきたてられた杖の神の姿を示している。杖は猿田彦が蛇の姿をしていることを示している。蛇の姿をしているのはオオナムチも同じで、オオナムチと同一大物主は蛇神の三輪大神として知られている。
猿田彦の姿にも特徴がある。高天原の神々が地上を見ると、猿田彦が世界を照らしていたという。その目は八咫鏡のようであったという。鏡の「カガ」も「ミ」も蛇のことである。鏡自体がとぐろを巻いた蛇の姿なのである。天岩戸の前に置かれた鏡をかけられた榊は猿田彦自身であり、その鏡に映った天照大神も猿田彦本人ということになる。波々迦木の「ははか」、賢木のあった天香具山の「かぐ」も蛇のことであり、すべてが蛇神の同一神であることを示している。
天照大神は岩戸の隙間から半身だけ出して覗いているとすれば、その姿は一つ目で一本足である。鏡と榊も一つ目で一本足であるため、いずれもアメノマヒトツである。なるほど天の岩戸隠れで中心的な役割を果たしていたのは、アメノマヒトツだったわけである。
このことは、アメノマヒトツと同一神とされる女神、御上神社のアメノミカゲとの関係にも当てはまる。鏡に映る影は性別の反転する象徴となるわけである。男女反転や夫婦の象徴を持つ神が同一であるとするならば、猿田彦と夫婦とされる裸で舞い踊ったアメノウズメも猿田彦と同一神であることがうかがえる。
アメノウズメが裸踊りで笑われたというエピソード、信長が上着をはだけて瓢箪を腰に下げ、笑いものになっていた姿と重なる。この信長の格好はスサノオの象徴であるため、猿田彦やアメノウズメ、アメノマヒトツがスサノオと同じであり、男女反転であるため天照大神とも同一であることが分かるのである。
気比神宮の伝承
信長のルーツがスサノオ=アメノヒボコ=ツヌガアラシト=アメノマヒトツ(以下都合に応じて表記を変える)にあるならば、それは古代の天皇である応神天皇とその皇太后、神功皇后に深く関係している。神功皇后は母方の先祖がアメノヒボコであるが、父方は息長氏という氏族で、アメノヒボコと同じ地域の北近江の豪族である。
応神天皇(誉田別尊:ほむたわけ)が敦賀の気比大神に参拝した際、気比大神の名である伊奢沙別(いざさわけ)と名前を交換したという。つまり、気比大神の本来の名前はホムタワケであったことになる。この出来事は、応神天皇が神功皇后の皇太子ではないことを暗示し、天皇の血統あるいは系統が変えられたことを意味している。応神天皇の出生に関しても、夫である仲哀天皇の崩御から十月十日で生まれたことになっており、その系統に疑問が出されている。
気比神宮の本来の祭神はツヌガアラシトであるが、それは応神天皇以前の天皇家がアメヒボコおよび息長氏の氏族であり、以後は応神天皇系の氏族ということになる。系統断裂があったという武烈天皇と継体天皇についても、継体天皇は息長氏の末裔として天皇になっている。応神天皇は八幡神として知られており、八幡神を氏神とする氏族が支配層として登場したということになる。
日本書紀の編纂者が、神功皇后を邪馬台国の女王卑弥呼だとしていたことから、戦前まで日本人はそのような認識でいた。戦後、教科書から神功皇后の記述が一斉に削除されたため、その名前すら忘れられている。果たして神功皇后は卑弥呼であったのか。邪馬台国の消滅と日本の歴史はどんなものであったのか。
信長にゆかりの深い劔神社の祭神である、忍熊皇子の父が仲哀天皇である。その次の天皇が応神天皇である。応神天皇が即位するまで神功皇后が摂政となっていた。神功皇后が卑弥呼であるとするならば、その時代は魏志倭人伝に記述されている、邪馬台国の時代に相当することになる。そうであるなら、記紀の記述と魏志倭人伝には共通するものがあることになるが、果たしてどうだろうか。
秦氏、藤原氏、賀茂氏の狗奴国同盟
邪馬台国と魏の使いが必ず立ち寄ったと思われる投馬国は但馬国もしくは吉備国のどちらかであったと思われる。ここが交易の中継地点であることから、かなり重要な地域であったことは容易に想像できる。しかし、数百年後のこの地域と思われる場所には秦王国があったと中国の記録にある。そこは秦氏の拠点になっていたことを示しているのかもしれない。
隋の時代は聖徳太子の時代である。聖徳太子の側近であった秦河勝は、秦氏の頭領の太秦の名をもらう人物でもあった。秦氏の拠点とアメノヒボコの神社や伝承が重なるという平野邦雄氏の研究報告もあり、藤原氏が忌部氏の神社を管理していることとよく似ている。
3世紀から7世紀までの間にやってきた秦氏という一大勢力は、邪馬台国と狗奴国に遭遇した際、どのように行動したのであろうか。八世紀の貴族藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)は母方の祖父が秦嶋麻呂といい、秦氏と藤原氏は縁戚関係になっているが、かねてより深い関係にあったことが推測される。
秦氏と八咫烏の京都の賀茂氏もその勢力地は同じであり、八咫烏は熊野大社の使いでもあることから、この三者は同族である可能性がある。崇神天皇の熊野信仰、神功皇后の住吉信仰、応神天皇の八幡信仰は同じ土台の上に立っている。
神武東征と八咫烏と金鵄
神武東征のときに現れた神の使いを八咫烏という。烏というが、賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)という鴨氏(賀茂氏)の祖である。神武天皇が熊野から大和の橿原へ案内した神とされている。熊野にいた狗奴国の賀茂氏が、邪馬台国征服を援助したことになる。
しかし、日本書紀では神武天皇を導いたのは金鵄(きんし)という金のトビであると記されている。八咫烏と金鵄は同じとされているが、どう考えても烏と鳶は違う鳥である。二つの違う鳥に、日本には二つの国があったことが隠されている。
日本建国の天皇(初代天皇)は一人であるはずが、その名を持つ(ハツクニシラススメラミコト)天皇が二人いる。神武天皇と崇神天皇である。日本の基礎を築いた英雄として描かれるスサノオも、善と悪の二つの面、いわば二人のスサノオがいる。それはフトダマとアメノコヤネが、二人で宮中の祭政を受け持った歴史とつながっている。それは天照大神とスサノオの関係と同じなのである。この歴史を倭人伝と照らし合わせると、邪馬台国の卑弥呼と、狗奴国の卑弥弓呼の関係に当てはまるのではないだろうか。
すると、天照大神は卑弥呼であり、スサノオは卑弥弓呼となる。旧唐書は、倭国と日本国が別であったと記されている。二人の初代天皇が、倭国と日本国のそれぞれの祖ということであれば、日本国は狗奴国ということになる。すると、卑弥呼が擁立される前にいた初代倭国王と、狗奴国の初代王が、二人の初代天皇の謎ではないだろうか。
天皇は万世一系というが、神武天皇と崇神天皇が別系統であるならば、神武天皇に崇神天皇の事績を重ねている可能性がある。神武天皇にフトダマが随伴したとあるが、忌部氏の神が神社の脇に押しやられた状態と同じならば、フトダマは狗奴国(日本)に組み込まれた倭国の王であった可能性がある。
烏と鳶の関係は稲荷神社の伝承に隠されている。稲荷神社は秦氏の創建であることが知られている。稲荷神社の特異性は狐を神の使いとしていることにある。ところが、もともとの神の使いは鳶であったという伝承がある。狐のことを油揚げと同義で使っている日本人であるが、狐は肉食であるため大豆である油揚げは食べない。トンビに油揚げ(あぶらげ)ということわざがあるように、油揚げが好きなのは鳶である。これは稲荷神社の使いの鳶に油揚げを供えていたことから来ているという。
稲荷神社は鳶が染物屋をしている場所であったという。当時鳥たちは全員白い色をしていて見分けがつかないため、鳶が鳥たちに色を塗ってあげたという。ある日、お供え物の油揚げを狐が横取りしようとしたところ、黒の染料が入った入れ物がひっくり返り、烏にかかってしまった。その日以来、烏は黒くなったことを恨んで鳶を追いかけ回しているといわれる。
まるで稲荷神社から烏が鳶を追い出したように見える。金鵄と八咫烏の関係も同じものといえないだろうか。鳶が祀られていた稲荷神社は秦氏の管理下に置かれ、狐が祀られるようになったが、狐が秦氏であり、烏が熊野の藤原氏となる。よって鳶は倭国王または卑弥呼となるのではないだろうか。
秦氏の稲荷神社創建
伏見稲荷神社は、和銅年間(七〇八~七一五、あるいは和銅四年(七一一))に、伊侶巨秦公(いろこのはたのきみ)が勅命を受けて伊奈利山(稲荷山)の三つの峯にそれぞれの神を祀ったことに始まる。和銅以降秦氏が禰宜・祝として奉仕している。吉田兼吉の「延喜式神名帳頭註」所引の「山城国風土記」逸文には、秦氏が稲荷神を祀ることになった経緯が記されている。
秦中家忌寸(はたのなかつへのいみき)達の先祖である、伊侶巨秦公(いろぐのはたのきみ)は稲を多く持って巨万の富を得た。彼は稲を舂いて作った餅を的にすると、その餅が白鳥となって稲荷山に飛翔して子を産み社となった。そこに稲が生った(なった)ことから稲生り(いねなり)となり、それが「イナリ」となって「稲荷」の文字が宛てられた神名となった。伊侶巨秦公の子孫は先祖の過ちを認め、その社の木を抜いて家に植え寿命長久を祈ったという。
都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺(真言宗の東寺総本山)建造の際に、秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。「二十二社本縁」では、空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。
東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させている。真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉、または、羅刹の一種で、中世には霊狐と同一の存在とみなされた。このことにより祟り神としての側面も強くなったといわれる。
稲の神であることから食物神の、宇迦之御魂神(うかのみかたまのかみ)と同一視されるようになった。後に他の食物神も習合した。現在ではウカノミタマと佐田彦(猿田彦)が主祭神となっている。このウカノミタマは伊勢神宮の外宮の豊受大神と同一とされている。また、オオゲツヒメとウケモチという食物起源神と同一とされ、それぞれスサノオとツクヨミによって斬られているエピソードが知られている。
秦氏が祀るウカノミタマという神であるが、その驚くべき正体を知るときに、秦氏という存在が藤原氏とともに、日本の歴史を根幹から変えてしまったことが示されることになる。
第六天魔王と天台座主
織田信長が名乗った第六天魔王は、まさに妖怪の大王のような名前だが、一体どんな意味があるのだろうか。仏教の敵として降臨する魔王とされているが、仏教の最大の守護者であるともされている。この名前を名乗ったきっかけは武田信玄にある。
信長の比叡山延暦寺の焼き討ちに対し、寺の再興のため、信玄が信長に立ち向ってきた。そこで延暦寺は天台座主という、在野の寺の宗主のような権限を武田信玄に与えたのである。誰でも自分の行動に正義の後押しを期待するものである。信玄は天台座主になることで信長を討つ錦の御旗を得たといったところである。信玄が天台座主につき、信長に手紙を送った際に、信長はそれに対抗するかたちで第六天魔王と書き送ったわけである。
だがこのやりとりは、信長の祖神であるスサノオ(牛頭天王)の本地仏を考えると、矛盾を感じざるを得ないのである。
スサノオと薬師如来
日本に仏教が導入されて広まるうち、神仏習合という形になった。神道の神に相応する仏があり、それを本地仏という。信長の祖神スサノオの本地仏は薬師如来となっている。薬師如来は仏の中で唯一現世利益をもたらす存在とされており、薬の壷などを持つ姿で表される。しかし、薬師如来は実に奇妙な存在なのである。
信長は延暦寺の焼き討ちを行い、第六天魔王を名乗ったが、延暦寺の本尊は薬師如来なのである。スサノオの本地仏に対し成敗するという、なんとも矛盾する行動ではないだろうか。また、安土城に隣接する形で建てられた、摠見寺の本尊は大日如来(天照大神)であることも、謎に拍車を掛けている(ただし摠見寺の安土城焼失前の姿は謎である)。
そして、薬師如来に最も関係が深いのは徳川家康である。家康は薬師如来のこの世での姿といわれたのである。ただし、家康の信仰は浄土宗であり、本尊は阿弥陀如来である。また、信玄がついていた天台座主の座は家康がつくことになった。こういった奇妙な点について、どんな結論を出すことができるだろうか。
石山本願寺との戦い
当時の仏教の最大勢力であった本願寺(浄土真宗)は、信長と政治的武力的戦闘を繰り広げていた。同じく戦闘の続いた一向一揆も本願寺の門徒宗であった。信長は最終的に石山本願寺に勝利する形となったが、これを契機に一向一揆もその勢いをなくし、全国の一揆は激減していった。この戦いは本願寺内の分裂を引き起こしていたが、信長の死後、家康は東本願寺に寺領を与え、本願寺が東西に分かれて現在に至っている。
信長は仏教を迫害したというイメージで語られる。しかし、延暦寺にしても本願寺にしても、戦いを仕掛けてきたのは寺側であり、信長はそれに対抗しただけであった。しかし、仏教の最大勢力であった本願寺(浄土真宗)と信長の戦いには、別の側面がある。忌部氏は藤原氏にその地位を奪われた(国を奪われた)と記してきたが、石山本願寺にもその因縁を感じるのである。
薬師如来と藤原氏
仏教は聖徳太子と蘇我氏が広めたとされている。その際、廃仏毀釈を主張した物部守屋を討ったというのが通説である。しかし、その後の藤原氏の隆盛と藤原氏が宴席関係を築いてきた天皇家の仏教信仰を見る限り、藤原氏が仏教を導入したとしか考えられないのである。
藤原氏の独占支配が始まった奈良時代、国分寺や国分尼寺が全国に建てられたが、その本尊は大半が薬師如来であった。また、藤原氏の頭領の名を持つ俵藤太(藤原秀郷)もまた、薬師如来信仰であった。藤原氏は薬師如来に何を見出していたのか。
藤原氏の神社である鹿島神宮や香取神宮は、フツヌシ(フツノミタマ)という物部氏の神を祀っている。また、アメノカガセオという神は、アメノマヒトツと同じとされるクエビコと同じ神とされる。また、アメノマヒトツと同一とされるアメノミカゲを祀る御上神社もまた藤原不比等が社殿を建立している。藤原氏が他の氏族の神を自分の神としている痕跡も多く、薬師如来においても同じことがいえる。
後述するが、薬師如来にはさらに深い謎を解く鍵が、滋賀県に隠されているのである。
信長の伝記の信憑性
織田信長の生涯を知る資料としてよく知られているのが、太田牛一が記した「信長公記」である。この記録が記されたのは江戸時代のことであるため、もちろん徳川幕府にとって都合の悪い部分は消されているか、変えられている。
その他の記録も同様で、徳川家の機嫌を損ねないような内容にしていると思われる。三河物語(大久保忠教)という家訓書には、信長記の3分の1は似たようなことがあり、3分の1は事実ではないといっている。3分の2(ほとんど)は信用できないとまで言える。劇や映像などで一般化している、本能寺の変における信長最期の情景やセリフは、信長公記だけでなく、その他の資料も組み合わされている。どこまで事実を反映しているのか不明な点もある。
本能寺の変は、明智光秀が信長を恨んでの謀反だという話は基本的に作り話である。明智光秀の乱心という設定は、家康にとって最も都合がよかったのだろう。
これは筆者の個人的な思いだが、明智光秀ほど信長に忠実だった武将はほかにいない。光秀は家臣を前に、「信長殿に手を差し伸べてもらわなかったなら今の自分はない、しっかり奉公するように」と諭している。また、家族思いの武将であり、妻や子供たちを愛し、戦いにおいても女性や子供は決して殺さなかったといわれている。
歴史記録者の真意
光秀が信長を討つ理由は不明な部分が多すぎる。一体あの時何が起こったのだろうか。太田牛一やほかの記録者は、本能寺の変の真相を知っていてそのまま書けなかったのではないだろうか。記紀神話も忌部氏の歴史を藤原氏に悟られないように、暗号で書かれている可能性がある。
それと同じように、信長記の3分の2が事実でないというが、それが象徴に置き換えられたことを意味するならば、象徴を解読することで真相を抽出できるのではないだろうか。象徴の抽出という観点で信長の歴史を読むと、不可思議な表現がいくつか見受けられるのである。それらの奇妙な点に光を当てると、虚構と同時に隠された真実を浮かび上がらせることができそうである。
太田牛一という名前、実に深い意味がある。崇神天皇が宮中の祭祀を執り行おうとしてそれができなかったが、それは正統血統ではないためにその資格がなかったことを示している。そこで太田田根子という、恐らく邪馬台国の祭祀職の者を連れてきて神事に当たらせたとある。また、牛一という名前、スサノオ(牛頭天王)を髣髴させる。太田といい牛一といい、彼もまた忌部の者であり、象徴を用いて信長の真の歴史を構成に託したのだろうかと思うところである。
信長とキリシタン
キリシタンを保護した信長は、イエス・キリストの教えについて深い理解があったと思われる。いや、もしかするとイエズス会の宣教師よりも、よく知っていた可能性がある。その理由は彼が忌部氏であったことにある。忌部氏は藤原氏(狗奴国)によって滅ぼされる前、イエス・キリストを信じていたと思われるからである。
これまでスサノオはアメノマヒトツであり、アメノヒボコであるとしてきたが、いずれも角のある鬼の姿をしており、最終的には日本の国づくりをしたオオナムチとスクナヒコナ、何でも知っているカカシのクエビコへ習合していく。この神は全国各地に伝わる鬼や妖怪伝説に変遷していくが、一つの共通点が見いだせる。それは一つ目と一本足である。これがすべて聖書の中にその回答を見出せるのである。
日本語ではわかりにくいのだが、キリストの言葉に「一つ目」という言葉が出てくる。
「目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう」(マタイ6:22)
「目が澄んでおれば」という部分、英語ではEye be singleとなっている。つまり一つの目である。一つ目は、イエス・キリストへの信仰に満ちた、澄んだ目または神の栄光にひたすら目を向けることを表している。
クエビコの両腕が体内でつながっているのは、十字架の横木に打ち付けられたキリストの腕を表し、一本足は柱に打ち付けられて一本足になったキリストの足を表している。また、クエビコが何でも知っているという特徴は全知全能の神であることを表している。
すなわち、日本の根源の神であるスサノオは、イエス・キリストであったのである。信長はそのことを理解し、日本に再び信教の自由を取り戻そうとしたのではないだろうか。この願いは、300年後に果たされることになる。
織田信忠の謎
三河物語は本能寺の変が起こった際、信長が発したという言葉を記している。「城介が別心か(信忠の謀反か)」この記述に何らかの意図があるなら、なぜ信長がこんなことを言ったことにしたのだろうか。織田信忠は信長の嫡男であり、生前に家督相続された信長の後継者である。信長は信忠のことを信用していなかったのだろうか。
織田信忠がどのような人物かを見ると、その行動には奇妙な点がある(幼少のころの名前は奇妙丸という)。信長は敦盛で有名な幸若舞を好んだが、信忠は能狂言を異常に好んだとされている。徳川家康に世阿弥の著作を頼んだりもしている。
また弱体化した武田氏に攻め入らないようにと信長に言われていたのだが、それを破って攻め入り、武田氏を滅亡させている。主君を失った武田家の家臣は家康に仕えるようになったが、家康にとっては好都合だったかもしれない。どうも信忠は家康と懇意にしていた節がある。本能寺の変の首謀者は徳川家康と織田信忠であったのだろうか。
キリシタン弾圧と本能寺の変の黒幕
家康は賀茂氏であるが、八幡、住吉、熊野の神社にかかわる藤原氏と秦氏は、賀茂氏とも関わりが深い。熊野や加茂の神社に見られるヤタガラスはハタガラスのことであり、秦氏が関係していることが分かる。ヤタガラスは神武天皇を導いた存在とされているが、これは崇神天皇に力を貸した秦氏のこととなる。賀茂氏の家康が関八州を手に入れた際、皮革工業や芸能などを一手に引き受ける氏族(実質上の支配者)を、秦氏の弾左衛門一族に任せている。
なぜ徳川幕府はキリシタンを弾圧したのだろうか。それは単純に日本の支配に邪魔だからというものではなく思える。また、西洋諸国の植民地支配から守るための善政という意見もあるが、それも違う。イエズス会は日本を武力制圧するのは無理と本国に書き送っているし、ローマ法王は日本を植民地にしないという約束をしているからである。
徳川家は賀茂氏であり、藤原氏と秦氏とは同族のようなものである。邪馬台国を滅ぼしたこれらの氏族は、忌部氏の神であるスサノオすなわちイエス・キリストを憎んでいたと思われる。その証拠といえるのが、キリシタンを処刑した「はたもの」という磔の道具である。まったく十字架なのだが、日ユ同祖論が事実であるとすれば、彼らはキリストを十字架につけたユダヤ人で、日本に来て同じことをやったことになる。
そして本能寺の変の黒幕は、キリシタン弾圧を指示した、崇神・応神系=藤原氏・秦氏に連なる者と思われる。すると賀茂氏の家康を裏で支える集団が信長を討ったことになるが、ここにはさらに深い暗号が隠されている。それを知るにはイエス・キリストの言葉がどうしても必要なのである。
信長とイエス・キリスト、信忠とイスカリオテのユダ
信長と同じく光秀もキリシタンに対して好意的であったとされており、娘である細川ガラシャの信仰は、西洋にまで伝わったとされるほど有名である。イエス・キリストの教えが彼らの人生に影響を与えているだけでなく、キリストとその弟子たちの生き様によく似ているのである。
信長は尾張の大うつけと呼ばれていた。武士は民衆とは接しない習慣があったにもかかわらず、町の若い衆と過ごすなど、奇妙な言動があったという。これはキリストがユダヤ人に思われていた姿に似ている。キリストはユダヤ人が接するのを避けていた人々の中に積極的に入っていき、その言葉はユダヤ人から狂人と思われていたからである。彼が革新的な人物と評されていることも、キリストがそれまでのモーセの律法に変わる新しい律法者として登場されたこととも似ている。つまり、信長(の人生)はイエス・キリストを象徴していると思われるのである。
信長をキリストに当てはめた場合、光秀はキリストを裏切ったイスカリオテのユダに当たると、誰もが考える。しかし、先述したように裏切ったのは息子の信忠と考えられる。確かに、イエス・キリストが愛し、導いた使徒に裏切られた気持ちを考えると、息子に裏切られた信長の気持ちに近いといえるかもしれない。信忠は自害を遂げたが、それはスカリオテのユダと同じである。
光秀は信長を恨んでいたのか
主君の信長を裏切った(と思われている)光秀が、イスカリオテのユダには当たらないとすれば、ほかに誰か当てはまる人物がいるのだろうか。それがいるのである。そしてその人物こそが、光秀の真の姿を浮かび上がらせてくれるのである。変の原因が光秀の怨恨によるものというのは創作されたものであるが、その根拠とされる出来事が実のところ解読の手がかりとなっているのである。
光秀が信長を恨んだ理由とされるものがいくつか挙げられている。
・下戸の光秀に酒を飲めと言い、断ると刀を飲めとつきつけられた。
・酒宴の席で「このキンカ頭め」と怒鳴られ、頭を叩かれた。
・丹波八上城の攻略の際、人質となっていた母親を見殺しにされた。
・安土城にて武田家を滅ぼした家康を接待するよう言われていたが、魚が腐っていると因縁をつけられた。そこで家臣が怒って魚が堀に捨てられ、安土城全体が魚臭くなった。
これらの言い伝えと同じ意味を持つ出来事が聖書に記されており、それに関わった人物こそが光秀の正体を明らかにしているのである。
酒と刀
酒の代わりに刀を飲めという無茶な要求は、イエス・キリストが経験した最も苦しい試練に当たるかもしれない。キリストは全人類の罪を一身に背負うため、父なる神に祈られたときのことである。
「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの重いではなく、みこころが成るようにしてください。」イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そしてその汗が地のしたたりのように地に落ちた。(ルカ22:42,44)
キリスト自身、引き下がれるものならば引き下がりたいと申し出られたその苦しみを、杯に入れられた飲み物にたとえられている。それは刀を飲めというようなものであったといえば、こじつけだろうか。後に起こる出来事の(それは日本全体のことも含めて)苦しみを思う気持ちが二人にはあったかもしれない。そのことを彼らと歴史記録者は伝えようとしたのではないだろうか。
キンカ頭(はげ頭)
聖書には、キンカ頭(はげ頭)とののしられる人物と、その後に起こった出来事について記されている。多くのキリスト教徒にとって理解不能な出来事なのであるが、本能寺の変の黒幕について考えると、深い意味をもってくるのである。紀元前850年ごろの預言者で、エリシャという禿頭の人物が旅をしていたときの話である。
彼はそこからベテルへ上ったが、上って行く途中、小さい子供らが町から出てきて彼をあざけり、彼にむかって「はげ頭よ、のぼれ。はげ頭よ、のぼれ」と言ったので、彼はふり返って彼らを見、主の名をもって彼らをのろった。すると林の中から二頭の雌ぐまがでてきて、その子供らのうち四十二人を裂いた。(列王記下2:23~24)
信長が光秀を禿頭とののしって殺されたというなら、殺したのが光秀ではなく、熊に関係ある人物としたらどうだろうか。それは熊野信仰および狗奴(熊)国(崇天皇系)の正親町天皇のこととなる。
あるいは、なぜそのように描かれるのか不明なのだが、イエス・キリストの筆頭使徒のペテロは禿頭で描かれることが多い。光秀が禿頭であったかどうかは不明だが、ペテロを意識しての記述であったとしたらどうだろうか。
見殺しにされた母親
光秀の母親が、信長によって見殺しにされたというのは史実ではないようだが、象徴を持って語られたものであるかもしれない。通常、信長の無慈悲を光秀が恨んで当然と考えてしまう。信長の選択と光秀の心情が、まったく違う思想背景を持つとしたらどうだろうか。キリストの言葉には、キリストに従うものには災難が降りかかり、それについてどうあるべきかを説いたものがある。
ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の王国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、必ずこの時代では幾倍もを受け、またきたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。(ルカ18:28~30)
光秀の気持ちは、むしろこの言葉に表されるものであるとしたらどうだろうか。そして質問して、この回答を聞いたのはまたしてもペテロである。
捨てられた魚
日本人の心情として、一所懸命に作った料理をけなされ、捨てられてしまったらどう思うだろうか。なぜこんなことを、と気分を害するに違いないが、そのことを考慮した上でこの記録が残っていとしたらどうだろうか。新約聖書のヨハネによる福音書には、魚に関して次のような出来事があったと記されている。
イエス・キリストの弟子たちが湖で漁をしていたとき、網が破れそうなほど魚が取れた。そこへ現れたイエスが、弟子の一人のペテロに、「この魚以上にわたしを愛しているか」と尋ねられた(日本語の聖書では、「魚」の部分が「これらの人々」となっている)。魚は富や成功、生活を保障する自分の生業を意味し、イエス・キリストを愛するとは、それらを犠牲にしてでも、キリストに従うことができるかという問いかけである。
捨てられた魚は、もったいなくても、安土城全体が臭くなってしまおうとも、光秀は信長(キリスト)への従順を貫いたという象徴を持つのではないだろうか。
光秀は使徒ペテロだった
光秀は本能寺にいる信長を討つべきかどうかを決めるのに、愛宕神社でおみくじを四度引き、三度凶が出たという(信長公記では四度としているわけではない)。光秀が最後まで迷ったというような解釈がなされるが、こういうあまり関心を引かない奇妙な行動の記述は、光秀の真意を隠すのに好都合といえる。
三度凶が出て四度目に出たくじに従ったということは、三度もやるべきことへの回答が出たのに、それを否定したことになる。三度否定したことで有名な逸話が新約聖書に書かれている。
イエス・キリストがユダの裏切りにあって役人に連行され、ユダヤ人の大祭司の家に連れられて行った。弟子の一人であるペテロは後をついて行き、その家の中庭に入ることが出来た。そこにいた人々に、「あなたはキリストの弟子だ」と三度聞かれたが、ペテロはいずれも否定したのである。ペテロはイエスのためなら命を捨てるとまで言っていたことを思い出して激しく後悔し、外へ出て泣いたのである(ルカ22章、ヨハネ13:36~38、18:1~27)
ペテロのこの行動などから、キリスト教徒の多くはペテロを愚か者と評している。光秀もまたさまざまな叱責や仕打ちを信長から受けたように見えるのだが、それはすべて光秀をペテロに見立てるためのものではなかっただろうか。ペテロはイエス・キリストから王国を管理する権能を授けられた筆頭使徒であり、イエス・キリストの教会を導く偉大な預言者であったのが真の姿である。このことは、光秀が信長からすべてを任されていた人物であったことを読み取れるのである。
愛宕神社の暗号
愛宕神社の祭神はイザナミである。ここにも信長の死の暗号が隠されている。愛宕神社には元愛宕があり、その祭神はカグツチという。カグツチは火の神であり(蛇神でもあるが)、イザナミはカグツチを生むときに陰部を火で焼かれて死んでしまった。怒ったイザナギはカグツチを剣で切り殺すのだが、この逸話はスサノオがヤマタノオロチを切り殺す場面と同じである。
信長は火の中で死んでいった。それはイザナミと同じである。愛宕はいわば焼死を意味する場所であり、同じくイザナミを祀る比婆神社も火場であり、イザナミの葬られた場所を意味している。また愛宕の宕は石の家のことであり、死の象徴があることを考えると、これは石の墓ともいえる。イエス・キリストは十字架の刑の後、石の洞窟に葬られたが、愛宕はイエス・キリストの死と埋葬を意味していることになる。そして信長が火炎の中で死んでいったことも、イエス・キリストの死を象徴したものともいえるのである。
また、ペテロの意味は岩である。ペテロはもともとシモンという名前であったが、イエスが愛する弟子であるシモンに、岩の称号を贈られたのである。岩はイエス・キリストが教会を建てられる堅固な基を意味しており、イエスの十字架の刑の後でペテロが教会を引き継いでいくことが示されている。それはペテロにたとえられる光秀が信長の意思を継いだことを意味していたのではないだろうか。(マタイ16:15~20)
本能寺を襲撃した本当の犯人
イエズス会の司祭フランシスコ・パシオは、200メートル離れた地点で本能寺の変を見ていたという。それによると信長は厠を出てきたところで背中を矢で撃たれ、薙刀で応戦したが左肩を鉄砲で撃たれ、その後寺に火を放って奥に入り、自害したと伝えている。
しかし、そんな離れたところで詳細が分かるものなのか。わざわざ厠に行くところが、タイミングよく見えるものなのか。もしかすると光秀は彼らに前もって情報を伝え、暗号を託していた可能性は考えられないだろうか。
信長は厠から出てきたところを矢で撃たれた。厠で陰部を刺され、子供が生まれた姫の話が記紀神話に出てくる。その矢の正体は賀茂氏の八咫烏である。八咫烏は石山本願寺と組んで信長を苦しめた、雑賀衆(さいかしゅう)の鈴木氏の家紋でもある。雑賀衆は鉄砲兵集団でもあった。信長は矢で撃たれた後鉄砲で撃たれているが、これは本能寺を襲ったのが雑賀衆であったことの暗号ではないだろうか。家康に仕えた三河鈴木氏の家紋も八咫烏である。
賀茂氏といえば家康である。家康は光秀から逃れて伊賀越えをしているが、光秀の軍隊は家康を討つための進軍と考えていたともいう。光秀は家康を討つつもりもありながら、雑賀衆が信長を狙っていることを見抜いていつつ、本能寺を攻撃した可能性がある。
そして八咫烏は熊野信仰のシンボルであることから、黒幕は熊野、八幡、住吉の秦氏であることも知っていたのであろう。しかし、八咫烏は熊野信仰においてスサノオの使いとされている。この矛盾にはさらなる暗号が隠されているのである。
また、森蘭丸が見た桔梗の紋というのは、光秀の紋ではなく、賀茂氏とかかわりの深い清明桔梗ではなかったか。つまり、神社を裏で支配している陰陽師集団が信長暗殺に手を貸していたということになる。
筆者は個人的に信忠は裏切り者ではないかと信じたいが、ユダと同じように実行犯ではなく、居場所を教えた(宿泊所が信長と入れ替わっていた)だけだったのかもしれない。
見つからなかった遺体
本能寺の変で不思議とされていることは、信長の遺体が見つからなかったことである。近くの阿弥陀時の住職が荼毘に付した話や、首塚の伝承もあるが、光秀はどうして見つけられなかったのだろうか。
光秀は家康を討つか信長の元に行くか、どうするかを迷ったのかもしれない。光秀がたとえられたと思われるペテロは、イエスの後をついていったが結局何もできなかった。しかし、イエスとペテロの言動と彼らに起こった出来事から、信長と光秀の思惑と行動を推測すると、驚くべき結論を下さざるを得ないのである。
イエスは弟子たちに、自分がユダヤ人によって十字架につけられ、殺され、三日後に復活することを伝えていた(マタイ16:21~26)。ペテロはイエスに対し、そんなことはないといさめたのだが、イエスはペテロを厳しく叱責している(光秀も信長をいさめて厳しく叱責されたことがある)。
ペテロやほかの弟子たちは復活について理解していなかったようである。イエスが十字架上で息を引き取り、岩の洞窟の墓に葬られて三日経った。イエスの熱心な信者であった女性たちが遺体に塗る香料と香油を持って墓に行ったところ、墓は空っぽで、そこにいた天使にイエスの復活を告げられた。それを聞いたペテロは墓に行って遺体がなくなり、遺体をくるんでいた亜麻布だけを見つけた(ルカ24:1~12)。
聖書の記述を信長と光秀に当てはめるとどうなるだろうか。信長は前もって自分が殺されることを光秀に伝えており、光秀はそれを聞いて狼狽していたのではないだろうか。愛宕山での連歌の会で、そぶりがおかしかったともいう。これを前提に本能寺で起こったことを推測すると、次のようになる。
信長は自分が殺されたら、遺体をどんなことをしても光秀自身が手にし、その上で遺体を捜す振りをするように言われていた。そうすれば、遺体はここにあるといううわさがあろうとも、すべてデマであることが分かる。もしかすると、光秀は信長の死を直接見届けたか、直接手を下したかもしれない。状況は何であれ、遺体が見つからないという状況が必要なのである。
イエスの遺体が見つからなかったのは、復活して栄光を受けたからである。信長の遺体が見つからないのは、キリストの復活を世に知らしめ、日本はイエス・キリストの王国であることを宣言するためではなかっただろうか。
見つからなかった石
信長は自分の死を知っていた。さらに彼は安土城に壮大なトリックを仕掛けたのではないかと思えるのである。
滋賀県は、織田信長の築いた安土城の調査を20年に渡って行った(それでも全体の20%に過ぎない)。この調査で見つかって当然のものにもかかわらず、見つからなかったものが二つある。
一つは心柱(大黒柱)の礎石である。ほかの柱の礎石は確認されているが、心柱の位置に穴はあるものの、礎石があった形跡がない。安土城は中が吹き抜けになっていたともいい、中心の大黒柱がない構造だったのかもしれない。しかし、礎石の穴があったのはどういうわけだろうか。
もう一つは蛇石といわれる巨石である。差し渡しが10メートル、重さは100トンを超えるといわれる岩で、安土山の頂上に据えられたといわれている。この岩を運ぶ際あまりの重さに滑り落ち、150人ほどが潰されて死んだといわれている。これほど巨大でしかも頂上にあるとされながら、現在に至るまで発見されていない。
礎石の暗号
安土城の二つの石が見つからないのは、見つからないのではなく、初めから存在しないとしたらどうだろうか。計画には存在するのだが現実には存在しないという構造は、安土城の天主閣には隠されたもう一つの姿があることを指しているかもしれない。つまり象徴の世界の安土城である。象徴は真理を隠すために使うものである。信長は安土城が焼け落ち、廃城となることをあらかじめ想定し、石の調査が行われる御膳立てをしていたのではないだろうか。
いずれ徳川(賀茂氏、秦氏)の支配となれば、キリシタンは弾圧されてその教えは消滅し、忌部氏の象徴も消されてしまう。そんな日本の未来へイエス・キリストの象徴を残すため、信長が安土城を使って伝えようとしたメッセージがある。存在しなかった礎石に隠されている象徴を、聖書の中に見出すことができる。
「主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとに来て、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の上に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神に喜ばれる霊のいけにえを、捧げなさい。聖書にこう書いてある。『見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。
それにより頼む者は、決して失望に終わることがない。』この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には『家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの』また『つまずきの石、妨げの岩』である。(1ペテロ2:4~8)
またキリストは神の王国をこのように言われている。「わたしの王国はこの世のものではない。」「わたしは王である。わたしは真理について証をするために生まれ、またこの世に来たのである」。(ヨハネ18:36,37)
かしら石は英語ではコーナーストーンといい、日本の建物では中心に据えられる礎石と違い、四隅に置かれる石のことである。ただ、土台という意味は同じである。人はイエス・キリストという土台の上に人格、人生を築くものという意味がある。
蛇石の象徴
蛇はキリスト教でいわれるサタンの象徴と思われがちだが、知恵の象徴でありキリストの象徴ももっている。そして蛇石はその大きさに謎のヒントがある。もし存在していればその大きさゆえに人々の注目を集めたに違いない。頂上にあったということから、人々は蛇石を見上げることになる。この象徴も聖書に見出すことができる。
イスラエル人がエジプトを脱出した後、荒野で火の蛇に咬まれたときのことである。民が蛇の毒から癒されるため、民の指導者であったモーセは青銅で蛇を造り、竿に掛けて掲げたのである。
そこで主はモーセに言われた。「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう。」モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。(民数記21:8~9)
この竿に掛けられた青銅の蛇は、十字架につけられて殺されるイエス・キリストの象徴である。毒蛇にかまれた民がこの蛇を仰ぎ見て救われたように、イエス・キリストを仰ぎ見る者は永遠の命にあずかることを意味している。安土山の頂上にあったとされる蛇石は、このエピソードを思い起こさせるのである。
天主閣はイエス・キリストの神殿だった
また安土城の特徴の一つに、その呼称がある。城の天守閣は「天守」と書くのが通例だが、安土城だけは「天主」と書く。天主とはまさに神であるイエス・キリストのことである。安土城はイエス・キリストの神殿ということになる。これが見つからない二つの石の謎解きになるかもしれない。
安土城は灰燼に帰してしまったが、イスラエルの神殿(宮)もまた跡形もなくなってしまった。そのことをイエスは次のように預言している。
イエスが宮から出て行こうとしておられると、弟子たちは近寄ってきて、宮の建物にイエスの注意を促した。そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたは、これらすべてのものを見ないか。よく言っておく。その石一つでもくずされずに、そこに他の石の上に残ることもなくなるであろう」(マタイ24:1~2)。
ユダヤ人は神殿のあった場所に残った「嘆きの壁」と呼ばれる石垣の前で、今でも再建を願って祈りを捧げている。
存在しない石が人々の注目を集めるには、安土城が焼失することが必須となる。信じがたいことだが、信長は焼け落ちることを念頭において安土城を建設したことになる。有名な吹き抜け構造は火災に弱く、非常によく燃えてしまう。これもまた燃やすためであった証拠なのかもしれない。
安土城は天照大神の神宮だった
信長の死も安土城の最期も「火」が大きな意味を持っている。愛宕神社によってここに石の墓の暗号が組み合わされている。これが信長の伝えようとしていた真理を理解する最後の鍵となっている。
愛宕神社はイザナミの死に関わる神社だが、それは女性の死を意味している。信長の死の際にも、厠にいるところを矢で撃たれ、薙刀で応戦している姿は女性を髣髴させる。また、安土城下で行われていた、信長が愛好したという左義長祭では、信長は女装して参加していたともいう。安土城の南の近江八幡市に伝わった左義長祭にも女装の風習がある。これらのことは、信長が女性であるかのように見せていることを示しているのではないだろうか。
このことから、安土城と一体構造になっていた、摠見寺の本来の姿が浮かび上がってくる。摠見寺の本尊は、信長の守護神であるスサノオの薬師如来ではなく、大日如来である。大日如来の垂迹神は天照大神である。天照大神は女神とされている。天照大神はスサノオの乱暴狼藉に耐えかねて天岩戸に隠れてしまった。岩戸とはすなわち岩の墓である。イザナミは火によって死を表したが、天照大神は岩の洞窟によって死を表している。
よって愛宕神社と本能寺と安土城の岩と火による死の象徴は、謎に包まれた摠見寺の元の姿が天照大神の神社、すなわち伊勢神宮であったことを示している。安土城は天照大神を祀る神宮だったのではないだろうか。
信長は自分が住まう安土城の下に皇居を建て、天皇の上に君臨する神となろうとした傲慢さゆえに、光秀に討たれたといわれることもある。まさにスサノオの乱暴狼藉である。信長はスサノオの化身であったが、天照大神の化身でもあったとすると、天照大神の天岩戸隠れ(信長の死)が、スサノオの狼藉つまり信長自身によるものであったことになる。
影向石
安土城の中には影向石という石が置かれていたものと思われる。この石は神が降りてくる場所とされ、日本各地の寺社内にひっそりとあることが多い。石には覆いがしてあり、直接見ることが出来ないことがほとんどと思われる。
安土城の内装は様々な宗教的絵画で彩られ、最上階が影向の場所となっていたのではないかと考えられている。ここは信長がすべての宗教を超える、あるいは統括する神として君臨する場所を示すとも考えられる。
個人的に、影向の部屋もしくは影向石は信長自身が立って神となるのではなく、そこに立つ神と対面する場所ではなかったかということである。
信長はそれまで誰も行ったことのない天下布武という偉業を、まさに神から霊感を受けたかのように成し遂げて行った。後継者の秀吉や家康は、信長以前のあらゆる為政者と同じく、天皇から権威を授かるという借り物の光を利用したのに対し、彼は天皇の威光を利用しようとはしなかった。正親町天皇が、バチカンに贈られた安土城下の屏風絵を所望した際にも、信長はにべもなく断っている。天皇(家)に対する考え方が根本的に違うようである。
これは信長が自身を神とする現れとされているが、自らを神格化したのは家康である。信長は第六天魔王を名乗った。この魔王は仏教の破壊者といわれているが、真実の姿は仏教の真の擁護者である。当時の仏教(徒)や神道は、現在でいうイスラム過激派と同じテロ組織であった。それを宗教本来の姿に戻す闘いをしたのが信長であった。まさに第六天魔王だったのである。
そして信長は弟や家来を殺した憎いはずの石山本願寺に対し、武装解除するなら信教の自由を認め、殺戮に対する罪を問わないとした。自分の感情を優先するよりも、言い換えればキリスト教精神を示し、赦したのである。
伴天連追放之文とカトリックの信条
家康は自らを神と位置づけ、その支配下に宗教があるようにした。家康から家光にかけてキリスト教は弾圧されたが、弾圧されたのはキリスト教だけでなく、日蓮宗の不受不施派という武力に訴えない宗派も含まれていた。不受不施派の宗旨はガンジーの無抵抗不服従に近いだろうか。家康の行為は治安を乱す宗教の取り締まりではなく、自分の考えに沿わない者への迫害といえるのではないだろうか。
ここで奇妙な主張を指摘したい。恐らく誰も気が付いていないのではないだろうか。江戸幕府のキリスト教禁教のために、秀忠の名で出された伴天連追放之文(秀吉の伴天連追放令と名称が似ているのに注意が必要である)を示したい。金地院崇伝が二晩徹夜で書き上げたものといわれる(参考「家康伝」中村孝也著、国書刊行会をもとに井沢元彦著「逆説の日本史」に掲載されたもの)。
天は父であり、地は母である。人はその中間に生まれ定まる。日本はもともと神国である。実体が定まらないもの、これを神と呼ぶ。聖なる霊的なものであり、ぜひとも尊崇すべきである。言うまでもなく人が生まれるのはこの神の働きであり、人は片時も神と離れない。神は他に求めるものではない。人が人として完成する時、それすなわち神となったということである。
また日本が仏の国であることも文献上の証拠がある。大日本国とはすなわち「大日(如来)の本国」であり、法華経にも仏とは世を救うために神通力を示すものであるとあり、この仏の言葉は「神と仏」がその名が異なるようなものと見えるが実は一つであることを示している。先人は遠く異国に渡り仏、儒の道を日本に伝え、それを受けた我々はそれを伝えて仏法の盛んなことは、その発祥の地すら越えるものがある。
しかしキリシタンどもは日本に商船を派遣して貿易をするだけでなく、みだりに邪教(キリスト教)を広め、正しい教えを惑わし、自らの領土にしようと画策している。これは大いなる禍いの種である。制圧せずにおられようか。
日本は神仏の国であり、神仏を尊び仁義(儒教)の道をおさめて善悪を糾している。罪を犯す者があれば五刑(墨を入れたり、鼻を削いだりする刑)に処す。刑法の適用が厳格であり五逆・十悪(父を殺すなど最大の犯罪)は斬罪など厳刑に処せられる。善を勧め悪を懲らす道である。だがそれだけやっても悪を制し善を保つのは難しい。現世ですらそうなのに、後世のことを考えると、まことに罪を犯すことは畏るべきことである。
にもかかわらずキリシタンどもは法に背き、神を疑い仏をそしっている。正義を傷付け善を滅ぼし、刑人(殉教者)を見れば喜んでその周囲に集まり、これを礼拝し、そういう死を自らの理想とする。これが邪法でなくて何であろうか。まことにキリシタンは神仏の敵である。ただちにこれを禁止しなければいずれ国家の患いとなるだろう。皆々号令してこれを禁止しなければ天罰を受けるぞ。日本国内においてキリシタンどもは寸地(わずかな土地)に存在することも許さない。すみやかにこれを一掃せよ。命令に逆らう者あれば必ず処罰せよ。
今幸いにして天の命令を受け日本を治める者がいる。外には徳をもって接し内には尊い仏の教えを持している。それゆえ国も豊かで民も安らかである。経典に言うように現世は安穏で後生も良いということだ。孔子も言うように、人の身体は親から頂いたものであり、それを傷付けないのが親孝行の第一である。(殉教などにあこがれず)その身を全うするのが、すなわち神を敬うことだ。一刻も早く邪教をしりぞけ正しい教えを盛んにしようではないか。世は既に末世とはいうが、これが神仏の道を興隆させる善政である。広く世間に知らしむるべし、決して違反してはならない。
秀忠 朱印
日本人が抱く、キリスト教徒が信仰する神のイメージは、キリスト教の神以外は神でなく、厳罰を下し、異教徒に容赦のない無慈悲な存在といえるだろうか。現在のキリスト教の神学では、神は実体がなく宇宙を占める霊のような存在で、
江戸時代のキリスト教国は、キリストを信じていない民族は神の敵であり、征服し、殺しても構わないというほどの態度であったが、家康の考え方もまったく同じであり、キリスト教徒を殺すことが神の御心であり、正義であると考えていたことが分かる。
つまり両者の根底にあるのは全く同じ、邪教は滅ぼすべしという正義感である。これは現在の宗教テロと同じ思想・行動である。家康はそのあだ名通り、同じ穴のムジナであったわけである。
現在の所、キリスト教国家を自認する国家の中に、キリストの愛を実践する国家は存在しない。キリストの教えは愛し、認め、赦すことである。世界の国家すべてで見られる、掠奪、非難、賠償を基本とした態度は、赦しのない儒教すなわち江戸幕府が国是とした朱子学の教義である。つまり世界のすべての国が信じているのはキリスト教ではなく、儒教なのである。
儒教には赦しがないが、加えて死後の生も信じない。人は先祖の罪悪を未来永劫その子孫が永遠に償い続ける必要があると説き、決して容赦しない。儒教を是とする中国や韓国の歴史的遺物や態度にもはっきりと表れている。これは信長が示した信教の自由と赦しの精神とはまったく違うことが分かる。
そしてこの信条はユダヤ人がキリストの十字架刑に際し、「その罪は子孫にかかってもよい」と誓った(マタイ27:25)こととそっくりである。キリスト時代のユダヤ教にも死後の生を否定するサドカイ派という大きな勢力があった。もちろんキリストの十字架刑に賛成していたであろう。
そして世界のキリスト教徒はユダヤ人を迫害することを続けてきた。植民地の支配域を広げ、キリストを信じない(と決めつけられた)先住民を虐待してきた。相手を悪と断罪し、いつまでも攻撃をやめない態度、異教徒は人ではないので殺しても罪にはならないという態度もまた儒教そのものである。
信長が排除したこの悪しき風習も、秦氏・賀茂氏の家康によって復権し、今に至るのである。それはイエス・キリストの純粋な教えがカトリック(当時の支配者)によって捻じ曲げられ、今に至るのと同じといえる。
天照大神の信長
女装の信長が天照大神の象徴を持つならば、天照大神自身は女神ではなく男神ということになる。女神が子供を生むというのは豊饒ではなく、同格を表すための象徴と思われる。天照大神の別名はオオヒルメムチという。ヒルメが軟体動物のヒルのこととすると、ヒルが雄雌の区別がないように(どちらにもなれる)、天照大神も男女の区別は状況に応じるものになる。このことは、誰もが女性だと思っていることが、実は男性であったことを示す象徴ともなる。
天皇陛下が即位するための儀式である大嘗祭には、「あらたえ」という麻の衣服が使われる。これは天皇陛下が天照大神との婚姻を行うためのいわば花婿の衣装である。この衣服を製作するのが忌部氏の生業である(信長を殺した黒幕である正親町天皇など、北朝(崇神・応神系)の天皇には献上されていない)。天皇陛下は男性であるので、その伴侶である天照大神は女性ということになる。だが、これは儀式の上でのいわば見かけ上の問題であり、天照大神の実態は男神となる。
「あらたえ」は忌部氏が製作するものであるが、忌部氏の信長がキリシタンを保護した最大の理由は、この儀式にあると思われるのである。
聖書に記された大嘗祭の奥義
「あらたえ」という麻の衣服と、神との結婚という儀式が、聖書にも記されている。ここに記されている預言こそが、天照大神と信長の正体を知る手がかりとなる。
「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたのである。彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」(ヨハネの黙示録19:6~8)。
ここでは、神と神に従う者との関係を婚姻にたとえている。小羊とはイエス・キリストであり、花嫁は神に従う者、すなわち大嘗祭では天皇陛下となる。つまり、大嘗祭で伴侶となる天照大神とはイエス・キリストなのである。
信長はこのことに気付き、安土城と城下町を整備し、ここをイエス・キリストおよび天照大神の聖地にしようと考えたのであろうか。高山右近に命じて、天主堂と神学校であるセミナリオも建設している。そして安土城下の皇居に迎える天皇は、邪馬台国系の天皇だったはずである。
卑弥呼は天照大神であり、イエス・キリストだった
信長が邪馬台国の民の末裔であり、忌部氏であるなら、卑弥呼のことも知っていたに違いない。卑弥呼は日本人の誰もが女王であると思っている。宮殿の奥深くにいて、千人の侍女に囲まれて暮らす独身の女王とされている。一人の男の伝令役がいたとされている(聖徳太子と推古天皇の関係にも似ているという指摘がある)。
いや、卑弥呼は天照大神であり、人として宮殿の中に住んでいるのではなく、その男にメッセージを伝えていたイエス・キリストではなかったか。そして伝令役とは預言者であり、天皇陛下ではなかったか。
聖徳太子もまた預言者であったと伝えられている。彼もまた忌部氏ではなかったか。紙幅の都合で今回は触れられないが、確かに聖徳太子にも忌部氏の象徴を数多く見つけられるのである。
卑弥呼を女性にしなければならない理由を、忌部氏だけが知っていた。大嘗祭で天皇陛下が「あらたえ」を着て婚姻に臨む儀式が、卑弥呼の時代にもあったのではなかろうか。それを義の使いは「鬼道」と呼んだ。鬼とは忌部氏の象徴である。
卑弥呼が女王となった背景には、邪馬台国と狗奴国との戦争があった。その歴史の背景をよく見ると、確かに記紀に卑弥呼と皇位の変遷が記されていたことが分かるのである。
スサノオと薬師如来の謎
信長はスサノオを祀る剣神社の神官の子孫であり、自身もスサノオを信仰していた。スサノオの本地仏は薬師如来とされている。ところが、薬師如来のこの世での姿といわれるのが、徳川家康なのである。これはどういうことなのか。この謎を解く鍵が近江に存在したのである。
滋賀県高島市の海津天神社の境外社に大前(おおさき)神社がある。琵琶湖の岸辺にある義経の隠れ岩のあたりから、山の中の道なき道を行ったところに小さな祠が残されている。祭神はスサノオであるが、合祀されている人物こそが謎を解く鍵なのである。
その祭神は豊城入彦(とよきいりひこ)またの名を宇都宮大明神という。崇神天皇の皇子の一人で、東国の支配を任された、毛野の祖となった人物である。弓で有名な三人の人物、藤原秀郷、那須与一、そして徳川家康が篤く崇拝した神である。
藤原秀郷は将門との戦いの際、薬師如来の加護で眼病を癒したという。那須与一は源平合戦の際、的を撃ち抜く前に八幡大菩薩と宇都宮大明神に祈っている。家康は宇都宮大明神に弓を奉納しているなど、その関わりは深く、日光東照宮が栃木にあるのは当然といえば当然である。
毛野とはすなわち狗奴国のことであり、豊城入彦が狗奴国の王であるなら、卑弥弓呼ということになる。その狗奴国の王を信奉する徳川家康が徳川幕府を開いたことになる。
したがって、スサノオの本地物である薬師如来とは豊城入彦のことであり、徳川家康と賀茂氏および雑賀衆は、熊野三山の使いである八咫烏でつながっているのである。
狗奴国の王卑弥弓呼の正体
魏の使者は、倭の各名称に漢字を発音で当てはめているが、それだけではなく意味も加味していたと思われる節がある。卑弥呼に檄文を持ってきたとあるが、それは邪馬台国の民が漢字を読めたことを意味している。そこで卑弥呼に一字足しただけの卑弥弓呼の名前に意味を持たせていたのではないかと考えられるのである。それによってこの王の正体が見えてくるのである。
先ほど挙げた豊城入彦は弓に関係する逸話が多い。藤原秀郷と那須与一はもちろん、徳川家康は東海道一の弓取りといわれていた。明らかに共通点が見いだせる。そして日ユ同祖論で出てくる秦氏の祖とされる、弓月氏にもそれが見え隠れする。弓月は「クンユ」と発音する。卑弥弓呼(ヒミクコ)の「弓(ク)」である。魏の使者は卑弥弓呼が藤原氏と賀茂氏、秦氏の王であり、弓月氏の末裔が関係していると見なしたのだろうか。
ほとんど名前が同じで、まったく正反対の存在が聖書に記されている。一人はイエス・キリストである。その名の意味をイエスは救い主といい、ユダヤ人の王でもあった。
そのイエスを幼少の頃に殺害を企てて同世代の幼子を皆殺しにした王がいた。その息子はバプテスマのヨハネとイエスを処刑し、使徒たちも大勢殺害した。その王はローマ帝国からユダヤ人の王に任命され、息子はユダヤ人からキリストと呼ばれていたのである。その名はヘロデである。ヘロデ王の妻はユダヤ人の王族であり、息子がユダヤの正当な王と認められるように意図したのである。
したがって、藤原氏、賀茂氏、秦氏の王卑弥弓呼は、イエス・キリストである卑弥呼に弓引く、同じキリストと王の称号を持っていたヘロデの血を引く、弓月国から来たユダヤ人の王ということになる。
狗古智卑狗と真の藤原氏
狗奴国の長官として卑弥弓呼の前に名前が挙げられている狗古智卑狗(クコチヒク)であるが、この人物が誰であるのかが、その後の歴史でもはっきりと正体が示されている。クコチヒクは菊池彦である。もとはククチと称したが、菊池の字を当てはめたのである。菊池氏は肥後の国(熊本県)球磨の藤原氏である。つまり、狗奴国の長官として、九州南部にいたクコチヒクの末裔である。
菊池氏は代々後醍醐天皇の南朝を支持した氏族である。これまで書いてきた藤原氏が邪馬台国の敵という立場とまったく逆である。しかし、これは天岩戸隠れのときの忌部氏と藤原氏の関係を忠実に守っていることになる。その証拠は時代の節目に様々に表れている。
一つは平将門と藤原純友である。この二人は比叡山にて評定を行い、将門は平家なので天皇(安房大明神なので忌部ともいえる)、純友は藤原氏なので摂関になると取り決めたという。比叡山は「ひえ」という猿田彦(アメノウズメ)の象徴を持ち、まったく天岩戸の前での出来事と同じである。
南朝の大忠臣、楠正成は熊野三山の宮司の子孫といわれている。
藤原氏の本来の姿は、純友に表されるように、忌部氏とともに祭政一致して国を統治するのであり、自分たちだけで征服してしまうものではない。そのことをクコチヒク=菊池氏は知っていたのではないかと思われるのである。
大平和敬神織田信長
明治時代になり、明治天皇はすぐさま織田信長に大平和敬神の称号を贈り、京都の船岡山に建勲神社を建てている。明治天皇は信長と同じように廃仏毀釈を行い、伊勢神宮への信仰を再開し、キリスト教禁教令を廃止している。明治天皇は明らかに忌部氏である。
その明治天皇を敬愛し、最終的には明治政府への逆賊となってしまったが、日本人が愛して止まない人物が西郷隆盛である。この関係、邪馬台国とまったく同じである。隆盛は一時菊池源吾を名乗っていたが、わが先祖は菊池であるという意味である。隆盛は菊池氏の子孫であり、自らもそのことを意識していたことが分かる。そして菊池氏は南朝支持の氏族であるゆえ、明治天皇もまた忌部氏であるといえるのである。
また、天皇として即した明治天皇に対し、主権在民を象徴する総理大臣は伊藤博文が選ばれた。その名が示すように、伊藤もまた藤原氏である。まったくこれも天岩戸の前での忌部氏と藤原氏の関係である。明治天皇を祀る明治神宮の宮司もまた伊藤姓である。
明治時代に徳川の狗奴国は倒され、邪馬台国が復活していたのである。
光秀の神社
信長の神社が建つ船岡山であるが、伊勢神宮以外で外宮内宮がそろう元伊勢、福知山大江町の豊受大神宮と皇大神宮がある船岡山と同じ名称である。そして明智光秀は福知山市の御霊神社に祀られている。御霊神社は宇賀御霊大神(ウカノミタマ)とともに明智光秀が祀られているが、ウカノミタマは伊勢神宮の外宮の豊受大神と同じ神でもある。
信長が天照大神と同神と見なされるならば、光秀とは切っても切れない関係となる。それ以上に、光秀は裏切り者などではなく、日本の未来を誠実に考えていた人物の一人ということになるのである。豊受大神はもともと丹波地方の神だったともいわれる。信長が光秀に丹波地方を治めさせたのは、彼が丹波と深い関わりがあったことを知っていたからかもしれない。
豊受大神が丹波の神ということは、トヨスキイリビメが天照大神とともにこの地に遷宮してきたことと無関係ではなく、豊受大神が邪馬台国の女王台与だったといえる。豊受大神はフトダマと同一であり、忌部氏となるが、光秀もまたそうであったのかもしれない。
そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。食卓につく人と給仕をする者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている」。(ルカ22:25~27)
信長が生きた時代の武士は、町人と会話することなどなかったという。しかし、うつけ者と呼ばれた信長は町人と親しく接し、瓜を食べ、相撲を取り、川で泳いでいたという。まるで子供と遊ぶ河童である。
河童とはイエス・キリストの化身である。信長はまたスサノオの化身でもあるが、スサノオもまた河童の化身である。信長のルーツの劔神社の祭神スサノオは、応神天皇に殺された忍熊王(異母兄)ゆかりの神である。スサノオは二人、すなわち織田家の祖神と応神天皇(豊城入彦)がいることになる。
ユダヤ人は征服王としてのキリストを待ち望んでいた。他民族を亡ぼし、自分たちだけの王国を築いてほしかったのである。しかし、彼らにとって本物のキリストは、町人と戯れ、信長のようなうつけ者にしか見えなかった。
人は生きていくのが厳しい自由よりも、圧政者のもとの安穏とした暮らしを選んでしまう。信長の時代から家康の時代にかけての、とくに宗教政策はそれを如実に表しているといえる。自分の意思で人生を築くよりも、殿様政治の方が楽なのである。日本の民衆はその方を選んだ。ユダヤ人もそうであった。
本能寺の変(天正十年六月二日)の翌日、織田信孝軍は四国の長宗我部氏への侵攻予定であった。これを阻止するために光秀あるいは明智秀満が挙兵したという説がある(八切止夫など)。これは筆者個人の勝手な想像だが、信長は光秀にこの状況を自分で判断するように語ったのかもしれないと考えている。
「光秀よ、わしは四国を征服する。貴様と長宗我部との仲は知っておる。わしの天下布武を遂行するか、長宗我部を守るか自分で考えよ。
ただし、この信長を討つならその死を見届けよ。決してわしの首を世に出してはならぬ。ましてや裏神道の者や根来衆、雑賀衆などに渡してはならぬ。そして貴様と貴様の子孫は裏切り者の汚名を着せられようぞ。いつかすべてが明らかになるときが来るまで、それに耐えられるか。貴様にはその覚悟があるか。」
光秀の動機は今も不明である。信長は光秀が天下布武の大志よりも、人心を取ると踏んでいたのではないかと思う。それは光秀に向けて語られているが、実際には日本人全体に向けたものであった。日本の民が信長が理想とする世界ではなく、安穏が約束された思想弾圧の世を選ぶことを感じ取っていたのではないだろうか。ユダヤ人が本物のキリストではなく、偽のキリストを求めたようにである。
しかし、現在は自分の都合の良い世界ではなく、真実を求める者がその意思を表明できる世の中になりつつある。信長の目的が達せられるときがもうすぐそこまで来ているのではないかと感じるのである。
2019年4月26日 発行 初版
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46歳会社員。旋盤工です。自称妖怪研究家をしています。