───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
雨は、嫌いだ。
広いリビングルームで出窓のガラスに叩きつけられる雨粒を見つめながら、祐子はひとり、ため息をついた。
空は薄暗く、家の中では昼間でも電気を点けなければならない。
こんな日は、どうしても思い出してしまう。子どもたちを連れて、夫の暴力から逃げて家を出たあの日のことを。
あの日も、薄暗い灰色の空から雨が降り続いていた。
夫が仕事に行っている間に、荷物をまとめ、二人の子どもと一緒に家から出た。そして夫の職場とは反対方向の電車に乗り、なるべく遠くまで行って、その晩はビジネスホテルに泊まった。
翌日、DV相談センターに電話をして保護してもらい、DV被害者専用シェルターに入居した。
だが、すぐに夫が迎えに来た。夫は外面が良いので、相談センターのスタッフをうまいこと丸め込んだのだろう。
家に帰ると、また殴られた。何度も、何度も……。
その頃、友人のともえが葉山に別荘を建てたと連絡があった。彼女は資産家の娘だった。
そこで祐子は彼女に相談し、その別荘に管理人として住ませてもらうことになった。掃除と換気をするなら家賃は無料でいいという好条件だ。
それが、今住んでいるこの別荘である。白い外観、青い屋根。南向きの二階建てで、二十畳もある広いリビングの他に部屋が五つもある。
ここに鞄ひとつで引っ越してきた日も、空は雨模様だった。
そして季節は本格的に梅雨入りとなり、毎日毎日、雨は降り続く。
青い空が恋しかった。
夫と結婚したばかりの頃は、彼はまだ優しくて、幸せに過ごしていたのに。いったいいつから彼は変わってしまったのだろう?
自分にばかりでなく子どもたちにまで手を上げる夫に、祐子はもう愛情なんてなかった。
テーブルの上に開いた家計簿を見て、祐子はまたひとつため息をつく。
家賃がタダとはいえ、光熱費や食費はかかるので、祐子のわずかな貯金はどんどん減っていくばかりだった。
このままではいけない。何か職を見つけなければ。しかし、祐子には特技も資格もないどころか、職歴さえもない。
大学を卒業してすぐに専業主婦になったからだ。夫は祐子が外で働くことを許してはくれなかった。
ここに来てから仕事を探しはしたけれど、近所のスーパーや飲食店なども今は人手がいっぱいで雇う余裕がないという。
ハローワークにも登録したが、デスクワークをするにはパソコンを使えなければならないし、働いた経験のない祐子を雇ってくれる所はなかった。
「やっぱりパソコンかなぁ」
祐子は呟いた。手に職を付けるなら、それが一番いいのではないだろうか。
そう考えたとき、玄関のチャイムが鳴った。
「ママー、開けて」
息子の三郎の声だ。祐子は立ち上がり、玄関に行ってドアを開ける。
「おかえり、三郎」
「ただいま。今日ね、テストで百点取ったよ!」
「あら、すごいじゃない」
黒いランドセルを背負った息子を、祐子はぎゅっと抱きしめた。すると三郎の頭はちょうど祐子の胸の下に埋まる。
「えらい、えらい」
祐子が三郎の頭を撫でていると、ちょうど娘の真由も帰ってきた。
「ただいま、ママ」
「おかえり、真由。ちゃんと鍵閉めた?」
「あ、閉めてない」
「しっかりしなさいよ。もう四年生なんだから」
「はーい」
真由は玄関に戻ってドアの鍵を閉めた。
「手を洗ってうがいしてきなさい。おやつにパンケーキ焼いたから」
「やったぁ!」
息子と娘、二人同時に声をあげた。
この子たちは祐子の大事な宝物だ。この二人を育て、大学まで行かせてあげるためには、パートではなくできるだけ給料の高い仕事につかなければならない。
「よし、決めた」
子どもたちと一緒にパンケーキを食べ終えると、祐子はスマートフォンを手に取り、通販サイトを開いた。そこでノートパソコンの値段を調べる。だが、どれも高くて手が出ない。
そこで中古のパソコンの値段を見てみた。これなら手が届きそうだが、どれを選べばいいのかさっぱりわからない。もし粗悪品を掴まされたら、と考えると不安だ。
誰か教えてくれる人がいればいいのに……そう思ったが、祐子にはパソコンに詳しい友人などいない。パソコン教室なども調べてみたが、通うには少し遠いうえに月謝が高い。
その悩みを、祐子はインターネットの質問サイトに書き込んでみた。
すると、後日「詳しくお教えしましょうか?」というコメントが寄せられていた。
祐子はそこに書いてあったメールアドレスに連絡をすることにした。
数日後、無事中古のノートパソコンを購入した祐子は、ラインで通話をしながらセッティングをしていた。
「できました、先生」
「先生はよしてくださいよ。小山でいいですよ」
通話の相手は、質問サイトにコメントを寄せた東京に住んでいる男子大学生で、小山という。
祐子は彼に有料でパソコンのリモート講師を依頼したのだった。
ビデオ通話の画面を覗き込むと、小山は爽やかな笑顔を見せている。
彼はとても容姿の整った男で、テレビで有名な若手俳優によく似ていた。
しかも、落ち着いた穏やかな声で、とても優しく丁寧に教えてくれる。
「祐子さんはパソコンを使って具体的には何がしたいの?」
「何がって……ええと、仕事を探すのにパソコンができないと不利だから……」
「就職に有利になるようなスキルを身につけたいってことですね? じゃあ、まずはワードとエクセルかな」
「はい、お願いします」
パソコンの授業が終わってからも、二人は他愛もない会話をした。そんな中でお互いの身の上話なども話すようになり、次第に二人の仲は深まっていった。
「へえ、祐子さん、昔は絵を描くのが好きだったんだ?」
「ええ。本当は美大に行きたかったんだけど、入試で落ちちゃって。結婚してからはもう全然描いてないの。もう十二年になるかなぁ」
「じゃあさ、パソコン使って絵を描いてみたら?」
小山のその言葉がきっかけとなり、祐子はパソコンで絵を描くことを教わり始めた。
ある日のリモート授業の終わりに、小山は言った。
「パソコンで絵を描くのにすごくいい本があるから、あげるよ。僕はもう読んじゃったからいらないし」
「え? そんな、いいの?」
「もちろんだよ。送るから、住所教えて」
祐子が住所を教えると、小山は「へえ〜、葉山の別荘地に住んでるなんて、祐子さんってお金持ちのお嬢様なんだね」などと言う。
「そんな、お嬢様だなんて。私なんて二人の子持ちのオバサンだよ」
「オバサンだなんて。祐子さんはまだ若いし、きれいだよ」
その言葉に、祐子の胸はときめいた。きれいだなんて言われたのは、夫との結婚式のとき以来だ。
「小山くん……ありがとう」
「そうだ、この本、直接渡しに行くよ」
「えっ? でも、遠いし、悪いわよ」
「いいんだ。君に直接会ってみたいし」
祐子は断らなかった。こんなどんよりとした薄暗い空のような心に、少しでも陽が差すんじゃないかという淡い期待があったからだ。
翌日は朝から雨が上がり、よく晴れた土曜日だった。祐子はとてもソワソワしていた。
『もうすぐ着くよ』とのラインが届いてから数分後、玄関のチャイムが鳴った。
祐子が玄関のドアを開けると、そこに小山が立っていた。映像よりも生で見た方がかっこいい、と祐子は思った。
「いらっしゃい、小山くん。さあ入って」
「こんにちは。お邪魔します」
小山は軽く頭を下げて中に入り、靴を脱ぐ。
「子どもたちに紹介するわね」
祐子は子どもたちを手招きして呼んだ。子どもたちが祐子の元にやってくると、彼女は小山を手で示して言った。
「真由、三郎、この人は小山さんといって、ママのパソコンの先生よ。小山くん、この子たちが真由と三郎。小四と小一なの」
「こんにちは、真由ちゃん、三郎くん」
小山は少し屈んで、さわやかな笑顔を見せた。
子どもたちは少し照れたように小さな声で「こんにちは」と返す。
「三郎くんは、仮面ライダーは好き?」
「うん、好きだよ!」
小山の問いに、三郎は瞳を輝かせ、元気な声で返事をする。
「そう。僕も好きなんだ。三郎くんはどのライダーが一番好きなの?」
「セイバー!」
「そうか。良かった。おみやげにフィギュア買ってきたんだ」
小山はバッグの中から紙袋を取り出し、三郎に渡す。
「開けてみてごらん」
そう言われて三郎が袋を開けてみると、仮面ライダーの小さな人形が入っていた。
「わあ! セイバーだ! ありがとう、お兄ちゃん!」
三郎の顔に満面の笑みがこぼれる。
「真由ちゃんには、これ。はいどうぞ」
小山はもうひとつ袋を取り出し、真由に手渡した。
「……ありがとうございます」
真由が開けてみると、そこにはキラキラした可愛らしいヘアアクセサリーと文房具が入っている。真由の口元が自然とほころぶ。
「気に入ってくれたかな?」
「はい! うれしいです!」
「敬語じゃなくていいよ。気軽に話してね」
小山はすっかり二人の心を掴んでしまったようだ。
「おみやげなんて、わざわざありがとう」
祐子が言うと、小山ははにかんだ笑顔で答える。
「いいんだよ、僕がしたくてしてるんだから。祐子さんには、はいこれ。月並みだけど、東京で流行ってるお菓子です」
「あ、これ知ってる。食べてみたかったの。ありがとう」
それはテレビで紹介されていた珍しい洋菓子だった。小山から菓子折りを受け取って、祐子は微笑んだ。
その後、家族揃ってテラスでお茶を飲みながら、いろいろな話をした。
「夜は庭でバーベキューしない?」
祐子が言うと、小山は「いいね、賛成」と頷いた。
彼はとても気さくな若者で、子どもたちもすぐに彼になついてくれた。
「真由ちゃん、三郎くん、バーベキューやるからおいで! 一緒に準備しよう」
夕方になり、庭で小山が呼ぶと、二人は元気よく返事をして駆け出していく。
「ねえ、小山さん、今日は泊まっていくの?」
真由が尋ねると、小山が答える。
「いや、泊まらないで帰る予定だよ」
すると三郎が「ええ〜、泊まっていってよぉ」と駄々をこねる。
「そうよ、部屋も余ってるんだから、ぜひ泊まっていって」
祐子が後押しすると、小山は「そこまで言うなら、そうさせてもらおうかな」と微笑んだ。
子どもたちが寝静まった後、祐子と小山はテラスでワインを飲みながら、星を眺めた。
「すごいな。満天の星だ」
「きれいでしょう?」
祐子が言うと、小山は耳元に顔を近づけてきて、甘い声で囁いた。
「でも、祐子さんの方がもっときれいだ」
トクン、と祐子の心臓が音を立てた。
「そんなこと……」
祐子の言葉を、小山の人差し指が遮る。
彼は言った。
「僕、祐子さんが好きです。つきあってください」
祐子は驚いた。十二歳も歳が離れているのに、こんなことってあるんだろうか。
「私なんかでよければ……」
戸惑いつつも控えめに答える祐子を、小山はきつく抱きしめた。
満天の星空を背景に、二つの影が重なる。
その夜、二人は結ばれた。
次の日の昼過ぎに、夏休みにまた来る、という言葉を残して、小山は帰っていった。
梅雨が明け、大学が夏休みに入るとすぐに小山は別荘を訪れた。
休みの間じゅう居座るつもりらしく、大きな荷物を背負っていた。
「リモートより直接会った方が教えやすいからね……なんていうのは、口実だけど」
そう言って、小山はいつものはにかんだ笑みを見せた。
その日からは、毎日が祐子にとって夢のように幸せな日々だった。
強引で自分本位な夫とは違い、小山はとても優しく丁寧に祐子を抱いた。
昼間はパソコン授業の合間に子どもたちと遊んだり宿題を教えてくれて、夜は祐子と二人きりの甘い時間を過ごす。
そんな彼を祐子はいつしか深く愛するようになった。
「愛してる、祐子。僕にはきみだけだ。僕が大学を卒業して就職したら、結婚しよう」
小山は毎晩のように祐子の耳元でそう囁いた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年8月16日 発行 初版
bb_B_00170211
bcck: http://bccks.jp/bcck/00170211/info
user: http://bccks.jp/user/149942
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス