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この本はタチヨミ版です。
ある病院の入院患者が殺された。正確に言うとその入院患者は病院を抜け出した後、何者かによって刺殺されたらしい。
捜査一課が結成された。
被害者は元暴力団の組員で現在は日雇いをしていたという川田一郎という男だ。事件はすぐにも解決するかに見えた。しかし、そうはいかなかった。川田は天涯孤独の身で事情聴取しようにも聞きようもなく、犯人は全く目星がつかない状態で難航を極めた。
刑事の鈴木は、川田の身辺を探った。今は独り身だが川田は三度離婚していた。刑事の鈴木太一は一度目の妻とコンタクトを取ろうとしたが、彼女が住んでいるマンションに行ってはみたもののもぬけの空だったのだ。大家に話を聞いてみるが、二か月ほど前から行方がようとして知れないという。鈴木は二度目の妻と会うことにした。
マンションのチャイムを鳴らす鈴木、インターフォンから朗らかな声が聞こえてくる。ドアが開くと中からは切れ長の二重、よく鼻筋の通ったいわゆる美人な女が出てきた。
「すみません、昨日お電話しました鈴木というものですが」
警察手帳を彼女に見せる。彼女は特段驚きもせずに部屋へと招き入れる。
部屋の中は彼女の外見とは裏腹に、生活感しか感じられなかった。使い込まれたソファーに座る鈴木。
「なにもお構いできませんが」とダイニングのほうに向かい、コーヒーとお茶請けを持ってきて差し出す彼女。
酒の匂い。昼間から飲んでいるのだろうか? アルコール検知という言葉が真っ先に浮かぶほど鈴木は警察という組織にどっぷりと浸かってしまっていた。
「……あなたの元ご主人の川田一郎さんが亡くなったのはご存じですか?」
「えぇ、新聞で」
髪を耳に掛ける二度目の妻。その仕草に鈴木は思わずどきりとしてしまう。カーテンから漏れる西日が僅かに鈴木の目に入り、そっと目を細め、
「それじゃ話が早い。川田さんとは離婚後連絡は取ってらっしゃいましたか?」
「ずいぶん率直に訊く方なんですね」
「すみません。それが仕事なもんで」
強かな笑顔をつくり懐に潜り込むやり方は、鈴木が先輩から見て学んだ組織で長く生き残るための処世術だ。
「……あなたの望むような関係性は何もありませんよ。離婚してから一度もあの人とは会ってませんから」
そう二度目の妻は言うと、テーブルの隅に置いていたコーヒーを一口啜る。
どうやら彼女からは表面上とは別の何か、拒絶的な壁を感じる。それも初対面とは別の。
鈴木は「そうですか」と疑いの感情を極力乗せぬように告げると、上着を片手に持ち、礼をしてマンションを後にするしかなかった。
軽く車内で昼食をとり、三度目の妻との待ち合わせ場所へと向かう。帝国ホテルのロビー。彼女はフロントスタッフで、身なりがしっかりしている。
「すぐ業務に戻らないといけないのであまり時間は取れませんが」
と言い乍ら腰掛けた。彼女とは比較的すんなり連絡は取れたので、電話である程度の話がつけられていた。
「お忙しい所すみません、じゃあ早速ですがお話を伺います」
鈴木は二度目の妻同様、川田との関係性、事件日のアリバイを探っていく。
「川田さんとは、離婚後会ってはいましたか?」
「えぇ、何度か」
「それはどういった用件で」
「あの人との間に子供がいますので、その、養育費とかの関係で」
「なるほど」
彼女の表情を鈴木は注視する。
「では、事件のあった五月中にも川田さんと合ったということでよろしいんですね?」
「はい」
健康的でその伏し目がちな表情は変わることはなかった。
「……ところで、話は変わりますが財津由美子さんって方はご存じでしょうか?」
「あぁ……あの人から何となくは」
「それはどういった事を」
「いえ、特段目立ったことは聞いていません。あの人と付き合い始めの頃、バツ持ち同士なら良くあるじゃないですか。前の奥さんはどんな人だったのってやつ。ただそれだけですよ」
「川田さんとの間にお子さんはいらしたんですよね?」
「はい、今もう八歳になります」
「そうですか、定期的にお子さんとは?」
「私が会わないでくれと拒否しました。始めはあの人ゴネていましたけど、……あっすいません。そろそろ休憩時間が終わりますので」
「いや、お忙しい中ありがとうございました」鈴木は丁寧に礼を言うと軽くメモ帳にペンを走らせホテルのラウンジを後にした。
何もつかめぬまま既に一週間が過ぎようとしていた。捜査は完全に行き詰まりを見せ、鈴木は苛立ちを隠せないでいた。今一度川田が殺された日の繁華街を洗い直すことにする。
――午後の有楽町、アーケード街の人通りはまばらだった。パチンコ屋でスーツを着たままさぼっていると思しき営業マン、シャッターの卸された居酒屋、噴水脇で腰を降ろして携帯をいじっている制服を着た少女。
閑散とした通りに並んでいる小料理屋の裏手に入っていく鈴木。古くなった石壁に苔がへばりつき、しばらく手入れされた様子はない。まぁ、よく言えば老舗と言えるのかもな、などと考えを巡らせたまま勝手口へと着く。三度のノック。数秒後、面倒くさそうな声が奥から聞こえてきた。
「あぁい、誰?」
緩んだかっぽう着を着た無精ひげの男、店主の津山だ。ここ「山家」はおばんざいをメインにしながら割烹、日本酒を専門的扱う料亭だが、あの事件以降ネットでの書き込みや、心無い人間達の口コミで噂は広まり、経営は苦戦を強いられているようだった。
何度か連絡を取ってはみたものの出ることはなかったので、鈴木は結局アポも取れずに来てしまった。
「なんだ、あんた」
「お忙しいところすみません、こうゆうものです」
鈴木が警察手帳を見せると、とたんに津山は顔を思い切りしかめ言った。
「くどい! 今更何の用だ。アンタラいいだけウチかき回していっただろ。まだ足りねえってのか」
「すみません。もう一度だけで構わないんです。あの日の事、お話しいただけますか?」
津山は思い切り舌打ちをするが、鈴木は食い下がらなかった。思い切り頭を下げ、
「お願いします! どんな些細なことでもいいんです!」
津山は納戸をそのまま閉める。鈴木が扉に背を向け帰ろうとしたとき、ガラス越しに、
「……そういやぁあいつ、なんか医者から病気を宣告されたっつってたっけなぁ」
独り言でつぶやく大将に、
「ありがとうございます。落ち着いたら同僚連れて伺わせてもらいます。今度はちゃんと客として」
告げた鈴木はかぶりをおろし、店を後にして夏空を見上げる。巨大な積乱雲の、輪郭のくっきりとした雲がやけにまぶしく鈴木の瞳に映るのだった。
桜が舞う美しい朝、富岡里子二十三才は男の友人である塚元の見舞いに病院を訪れた。談笑しているとカーテンが開き、隣の男が顔を出した。
「よう、塚元さん、彼女かね。可愛いお嬢さんだね」
ちゃちゃを入れられ頬を赤らめる塚本。照れ隠しに口元を手で隠す癖は子供の頃から変わらない。
「いやあ、友達ですよ。彼女じゃないですよ」
「こんにちは」
里子は男に会釈しながら、頭を上げる際、ふっと男の病衣から見える腕の内側が視界に入った。入れ墨がある。里子の視線に気づいたのか男は慌ててカーテンを閉めた。
余りのショックな出来事に放心状態に里子はなっていたが、塚本の、
「どうしたの、さと。具合でも悪い?」
という心配げな声にハッとし、「ううん、なんでもない」と首を横に振る。
もう一度だけ脳裏で反芻した里子は確信した。母の腕の内側にあった入れ墨をずっと幼い頃から見ていたから。観音様の首に蛇が巻き付いた奇妙な絵柄。あんな入れ墨がふたつとあるはずがない。あってたまるものか。
――母はいつも泣いていた。この入れ墨の男のせいでひどい人生だと。実際、好きな男が出来ても母はあきらめていたようだった。男のひどい暴力のトラウマから母は心身を病み、その上男性恐怖症にもなっていたようだった。母は里子を孕んだとわかってすぐにその男の元を夜逃げ同然で逃げ出したという。逃げて二年ほど経った頃に住民票を取ったところ籍は抜かれてあったらしい。
「ほかに好きな女が出来て籍を入れてくれとせがまれたかもね、なんかもう、全部どうでもいいや……」
と母が乾いた笑いを口の端に浮かべたのを里子はよく覚えている。
母は里子の学費のために死に物狂いで働いてくれた。高熱が出ているというのに休むわけにいかないと無理を押して仕事にいった母。
そんな母を子供ながらに何とか助けようと思って里子は母と一緒に雪の日にポスティングというパートについていったことがある。母はだめだと言ったけれど、その日どうしてもひとりでいるのが嫌だったから。母と一緒に折り畳んだチラシを家やアパートの郵便受けに入れていく仕事だった。前夜から降り続いた雪がやっと止んだ朝だった。
溶けかかった雪が傷んだ長靴にしみて、足が凍るように冷たかった。母の靴も破れ、雪水が染みていた。母はポスティングだけではなく、居酒屋のパートもしていた。それでも母は一日一度の食事しかとれなかった。
どうやら母はどこでも仕事が長続きしないのだ。いじめの対象になるらしい。
新しい職場に出かけていく時はやけに嬉しそうだった。しかしやがて、日がたつにつれ母の元気がなくなる。そして目が真っ赤になった翌日は必ずその職場をやめる。そんなパターンが出来上がっていた。里子は母と一緒にいる時間が増えたので、只嬉しかったのだが。
祖父母はとうに亡くなり、父方の祖父母のことは聞いたこともない。親戚とも疎遠になっていた。今程生活保護という言葉がはやっていなかった時代、無知だった母はそんな制度があることすら知らなかったのだ。
小・中と里子は不幸な少女期を過ごした。高校へは行かず地元のパン屋で働いた。パン屋の妻は子供に恵まれなかったせいか、里子を大層可愛がってくれた。その頃の母は病気がちでパートにも一週間に一、二度行くのがやっとだった。
そんなある日、里子はパン屋の主人に犯された。レジの金が足りないと身に覚えのない言いがかりをつけられて、
「警察に突き出されたくなければ分かっているよな」と無理に肉体関係を迫られたのだ。中卒とあってはなかなか思う仕事も見つからない。
母の為にも耐えるしかないと、里子はそれからも時折関係を求めてくる男の要求に耐えていた。それをパン屋の妻に見られてしまった。
「あんなに可愛がっていたのに。子供がいないからゆくゆくは養女に貰って、身体の弱いあんたのおかあさんの面倒も見ようとまで思っていたのに!」
と激高した妻に追い出された。
里子は、又別のパン屋で働いた。幸いなことにそこの息子と仲良くなり、結婚することが出来た。只々幸せだった。初めて心の底から人を愛するということを知り、愛する人との間に子供まで授かれた。
夫が離れて暮らす母の身を心配して一緒に暮らそうと言ってくれたが、母はまだまだ働けるからと夫の誘いを頑として断った。そのうち働けなくなったらお願いね、と言う母の心情を尊重して里子もそれ以上は何も言わなかった。母はわざとだろうか、同じ県には決して住もうとしなかった。
そんなある日、何の前触れもなく母が自殺した。警察から連絡が来たとき、里子は幸せの絶頂だった。最愛の赤ん坊に乳を飲ませているときだったのだ。なにか異変を感じたのか、泣きじゃくる子をあやしながら電話に出る。
「あ、もしもし、東京本庁の岸本と言いますが富岡里子さんでいらっしゃいますでしょうか?」
「はい、そうですが」
「須賀明美さんという方はご存じでしょうか?」
とりとめもなく嫌な予感がした。
「……えぇ、私の母です」
「昨晩、須賀さんがご自宅でお亡くなりになりました」
聞いたとき、不思議と里子に動揺はなかった。母は、いつか自分で死を選ぶだろうと心のどこかで思っていたからだ。
「そうですか。では、どうすればいいでしょうか」
「つきましてはご遺体の確認と身元お引受のご署名を頂きたいと思いますので、ご都合のよろしい日に警視庁本部庁舎まで来ていただけますと幸いです」「分かりました、折を見て伺わせていただきます」
言い終わり電話を切る里子。母が死んだ事実よりもあの男が今でもまだのうのうと生きていると知ってしまったことの方が今の里子の心中をよっぽどかき乱しているのだった。
九月十二日、木曜日。東京警視庁本部庁舎にて。
「ご遺体はこちらです」
婦人警官に案内され、薄暗い霊安室の廊下をぬけてたどり着いた小部屋、 そこに棺はあった。棺の小窓をそっと開ける里子。
最後に会ったのは半年ほど前、子供を産んだ病院に駆けつけてくれたのが最後だった。その時よりも随分とやせこけてはいるが間違いない、母だ。母の死に直面したにもかかわらず、何故こうも自分の感情が動かないのか自身でも不思議でしょうがない。
「お母さまで間違いないでしょうか?」
一度首を縦にする里子。
それを確認すると婦人警官が手に持っていた紙を里子に差し出す。
「お母さまのご遺体から見つかったものです」
受け取り読んでいく里子。
遺書にはこうつづられてあった。
『あの男とバッタリ出逢って命からがら逃げてきた。あいつにあんたの事が知られたら骨の髄までしゃぶられる。どうかあんただけは幸せになって欲しい。あんたは私生児ということにしてあいつの籍には入っていないけど。もし自分の子供ということがばれたら……せっかくいい旦那さんと結婚して幸せになれたのに……私さえ死ねばなんとかなるわ。どうか幸せになってちょうだい』
母はこの日が来ることを予感して一緒に住むことを拒んでいたに違いない。
里子は男が許せなかった。母の人生をメチャクチャにした男。そして又、母の人生に現れ母を死にまで追い詰めた男。私も小さな頃からこの男のせいでさんざん苦労してきた。母の肌に自分と同じ入れ墨までして、自分のもとにひきとめようとした男。許せないと思った。
里子は母っ子で、学校を早退してこっそり母のあとをつけたりする子供だった。小さな頃から母が大好きだった。そんな母の人生をメチャクチャにした男。
里子は父親という名のあの男が許せなかった。
――十月某日。
退院の日取りはすべて把握していた。里子はあの病院に通いつめ看護師たちと仲良くなっておき、あの男の情報をそれとなく聞き出していたのだ。
小雨ちらつく病院の裏路地に隠れて川田が出てくるのを張る里子。雨脚が強まってきた。三分後トラウマじみた顔が入り口から出てくる。誰か来るのを待っているようで、川田はしばらくその場を動こうとしない。傘をさして女が近づいてきた。もしやあれが新しい妻だろうか。幸せそうな表情、里子はそれを見て心底ぶち壊したくなった。子供はいるのだろうか? いるならそれに越したことはない。
里子は二人の帰り際の後を尾けていった。しばらく歩き、薄汚れたアパートにつく。部屋の位置を確認した里子は、その場を後にした。
どのようにして里子が川田を殺害したのか、鈴木は改めて調書に目を通す。
あれからも里子は頃合いを見て川田の家を張っていた。そして女の方の外堀から攻めていこうと考えたのだ。
女はあの男に貢ぐために夜の店と昼のパートを掛け持ちしていた。里子は女に近づくため女の働いているスーパーの面接を受けて忍び込んだ。
そうして女に近づき徐々に親密になっていった里子は、男の事について聞き出すことに成功した。
川田は母と音信不通になって以降、荒んだ生活を送っていたようだった。半グレとの付き合いで危ない橋を渡りそうになっていた時にたまたまスナックで知り合ったのだという。
川田は女との出会いによってヤクザな付き合いもきっぱりと断ち、堅気に戻って溶接工として働いていた最中の女の妊娠発覚。スーパーでの休憩中、それを女から満面の笑みで聞かされていた里子の胸中はいかなるものであっただろうか想像に難くない。
里子はその瞬間、一家もろとも殺そうと決めたのだった。
狙いを定めたのは四歳の長男の満だった。里子は満を教諭の目を盗んで幼稚園から誘拐、二人の帰宅時間と警察への通報を加味したうえで夜の九時には満をマンションへと帰宅させる。そして満の園鞄のチャック部に簡易テープによる固定でクロロジフェニルアルシン液の蓋が開くようセットした。
里子の目論見通り、一時間と立たず部屋中に、仕込んでおいたクロロジフェニルアルシン液が充満していき、 川田らは、咳、 頭痛、 吐き気、 嘔吐の症状が徐々に現れ始める。里子は部屋から出てきた男を待ち伏せて買っておいたコンバットナイフで腹部を刺す。遅れて出てきた家族らも同様、めった刺しにした上での逃走だった。
事件から二か月後、インターネット上で劇薬を取り扱っていた無職不定の男を芋ずる式に引っ張ったところ、警察は富岡へと辿り着いた。
事件はその凄惨さから、ニュースや新聞にも大きく取りざたされ社会にも大きな波紋をもたらしたのだった。その後三人は病院へと意識不明の重体で搬送されたが、ほどなくして帰らぬ人となった。
里子の裁判の判決はその犯行の残忍さ、計画的犯行から、初犯でありながら極刑が下ったのだった。
――女川女子刑務所の面会に訪れる鈴木。彼女が死刑になる前にどうしても話がしたかった。 結局のところ、自身で彼女を逮捕できなかったという想いがないと言えば嘘になる。彼女は取り調べにも最期まで黙秘を貫いた。
刑事に動機を聞かれたところ一言だけ、「面白そうだったから」と呟いたという。
純粋に、折角彼女には幸せになるチャンスがあったにも関わらず、何故自らそれを全て棒に振ったのか。鈴木には彼女の行動がどうしても理解できなかった。
面会予定時刻に十分前に刑務所へと着く。鈴木は面会受付をする。
「あの、富岡里子の面会に来た鈴木と申しますが」
「少々お待ちください」
しばらく待っていると、女性看守が鈴木に話しかけてきた。
「富岡の面会ですね、こちらへどうぞ」
看守に連れられて面会室への渡り廊下を歩いていく。九月にしては暑い風が頬をなでる。面会室に一歩足を踏み入れる。ひんやりとした独特の冷たさがそこにはあった。
「こちらの席にお掛けになってお待ちください」パイプ椅子に座る。二分後、奥の方から「608番! 面会だ!」強い語気が飛んできた。腰縄で引かれ、刑務官に連れられてうつむきながら静かに着座する里子。
丸められた頭皮には小さなカミソリ負けの痕がついている。右手の赤のランプがぱっと点灯し、面会開始の合図を知らせた。
顔を上げようとしない富岡里子。
「本庁の鈴木というものです。今回の事件――」
「後悔など微塵もありません、私はあの男を殺すためだけに生きてきたのですから」
面食らい、鈴木は帰す刀もなかった。永遠とも思える時が空間を支配する。
三人を殺そうと決めたとき、何も知らず幸せに暮らしていた夫や子供に対しての未練や、それを失うという躊躇いはなかったのだろうか……。
彼女の心底にあるものは、自分には生涯理解できないだろう、鈴木はそう感じざるを得なかった。
富岡は微笑み呟いた。
「母も、それを望んでいたと思います」
どんな人生を歩めば人を殺すために生きてきたなんて言葉を吐けるのだろう、鈴木は哀れみでも憐憫でもない苦々しい何かが心の中に毒のように回っていくのを感じていた。
「本当に、それでいいんでしょうか。三人への贖罪もなく貴方は極刑に処せられる」
「どうしようもなかった殺人というものはあります」
「せめて、」関係のない子供だけには謝罪の言葉はというのを聞こうと思ったが、もうこのひとの前では言葉すらも無力だと感じた。
――あの日の事をふと思い出すときがある。刑事を長くやっていると富岡の言っていた通り、「どうすることもできなかった殺人」というものに当たる時が来る。彼女の刑が執行されて早一年。鈴木は今日みたいな節にもなく暑い日が来てしまうとふと富岡里子の事を思い出すのだ。
ようやくあの事件とけじめがつけられそうだった。
ジップに入っている彼女の残した遺留品の歯ブラシと刑務期間中の労役代四千二百円、そしてすり切れた母親の写真を丁寧に桐の箱に仕舞い込み、東京の死刑囚共同墓地場に埋葬して貰うため、鈴木は椅子の上着をそっと手に取った。
かおるは日々に追われていた。シングルマザーであることももちろんだが、中学生の息子の耕太は今が食べ盛りで、お弁当用に昨晩から漬け込んでおいた好物の唐揚げを揚げる。
手際よく作られていくかにかまのサラダ、しぐれ煮を少しだけつまんで「よし」とつぶやく。 子どもたちの用意を一通りすませたかおるは洗面所へ行き、歯ブラシと歯磨き粉を取ろうとする。
鏡を確認し、指で唇を持ち上げるが、僅かにやせ細った歯肉をみつめるとふと我に返り、
「あっ、新聞、新聞」
と歯ブラシを加えたまま玄関へと出た。
新聞を取るために玄関へと出るかおる。もともと住んでいた公営住宅から越してきた築八年目のこの戸建ては、不倫した元旦那と離婚をする前に財産分与として受け取ったものだ。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年8月26日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス