本文を入力します
───────────────────────
───────────────────────
その場にとどまるためには、全力で走り続けなければならない
ルイス・キャロル「鏡の国のアリス(赤の女王)」
進化とは非日常である。少なくともこの世界を二分する人種のうちの一つ、ロトカ種にとっての進化とは限定的なものだ。なにせその進化は、陽が沈んだと同時に始まり日が昇ると同時に収束する、一夜限りのものだからである。
それはある満月の晩のことだった。時刻はちょうど丑三つ時を回った頃、人通りのない路地裏。ゴミ袋が散乱して不格好なベッドを作り上げているところに、一人の女性が倒れていた。どうやら泥酔して眠り込んでいる様子である。締まりのない顔は厚化粧で塗られており、胸元の大きく空いたワンピースを着ていた。もし彼女の様子を一目でも見た者がいるならば、彼女をホステスかなにかだと断じたことだろう。そんな規則正しいながらも酒臭い寝息を立てている彼女の元に、一つの人影が忍び寄る。
この世界には大きく分けて二種類の人間がいる。
一つは、人間の遺伝子と共に別の動物の遺伝子も併せ持つロトカ種。彼らは世界人口の三割にも満たない少数の人種だが、先天的に有能で身体的にも心理的にも恵まれている者が多く、生まれながらに社会での成功を約束されているとすら謳われる人間という種族のエリートだ。極度の興奮状態や、反対にリラックスした状態だと、ロトカ種の持つ遺伝子に回帰した原初の姿「獣化」となる特徴を持つ。人によって個人差はあるものの、ガータ時には耳や指の形が獣の形に変形したり、毛や尻尾が生えてきたりする。しかし、ロトカ種にとってのガータとは常人にとっての裸体のようなものであり、ロトカ種が人前でガータになるのは問題である。場合によっては公然わいせつ罪に該当することも少なくない。またガータは意識的にコントロールできるものではなく、基本的に時間経過でしか収束しない生理現象なのだ。
もう一つは人間の遺伝子しか持ち合わせていない人種、ヴォルテラ種という。能力としてはロトカ種には遠く及ばない一般人だが、その人口数はロトカ種よりも多く、個人志向を好むロトカ種に比べて協調性に優れている者が多いという特徴がある。
特徴も、性質も、性格も、全く異なるロトカ種とヴォルテラ種。しかし、現代日本において、人種による職業差別、参画差別をなくすべきだという声が高まってきた。そして、それは警視庁内部も例外ではない。
「ではまず、試験という形で、刑事部特殊機動捜査隊にロトカ種を配属するということに決定しました。しかし……」
「しかし。これはあくまで導入試験にすぎない。まず一年。それでもし問題が起こるようなことがあれば……理解っているね、雲居くん?」
「はい、お任せください墨染理事官」
厳格な顔をした捜査員たちが一堂に会する会議室。その中で、より一層厳しい顔が向けられているにもかかわらず、雲居見浪警視はたじろぐことなく頷いて見せた。ノンキャリア組の代表として、女性ながらに凶悪犯及び凶悪犯顔負けの捜査員たちを相手してきた雲居にとっては、この針の筵のような状況すら何とも思っていないようにも見える。
事実、雲居は会議が終わった直後にはケロッとした様子で顔なじみを捕まえ、喫煙所へと連れ込んでいた。
「と、いうわけでロトカ起用計画第一段階進んだわよ。ご忠告どうも」
「あぁ全く、実にめでたいな。わざわざ起用を特機捜にしたのも俺への当てつけってわけか」
雲居に連れ込まれた筑波嶺峰人警部が、重々しい息とともに煙を吐き出した。きれいに整えられたスーツを着こなす雲居に対し、筑波嶺のスーツはよれていて全体的にくたびれている。喫煙所にいる二人は、外見も性格も人種も全く正反対のようだった。肺から吐き出された濃厚なタールの匂いが室内に充満している。
「あら、それは違うわよ。どうせ上層部はロトカ種の起用って言っても、私みたいに管理職に据えて終わるつもりだったろうし。実際に現場で動く捜査員として起用するには、カグヤのシステムを利用するのが一番だと思って」
「カグヤ? なんだそりゃ」
「知らないの? 特殊機動捜査隊の別称よ。一晩経てば月に帰ってしまうお姫様みたいだって、誰かが」
「はっ」
表情一つ変えることなく、筑波嶺は鼻先で笑った。しかし、それを気にすることなく雲居は言葉を続ける。
警視庁刑事部特殊機動捜査隊とは、月に一度だけ発足される特別な機動捜査隊のことだ。それは満月の夜である。
そもそも、ロトカ種は先ほども言ったように人間以外の動物の遺伝子も持ち合わせている。その影響もあってか月の光に精神を左右されやすく、満月を見ると「リューネ」と呼ばれる一種の興奮状態に陥ってしまう特徴を持つのだ。リューネに陥ったロトカ種は我を失い、意図せずガータになってしまったり、理性の効かない本能的な行動をとったりすることもある。ヴォルテラ種にリューネは存在しないが、それでも満月の日は世界中のどこの国であってもどんな業務であっても、昼までもしくは最低限の営業にとどめている、人類共通の休日となっていた。しかし、満月の夜にはロトカ種による偶発犯罪は平日の約三倍にまで増加する。それを取り締まるために、警視庁のあらゆる部署から人手をかき集めてできた一晩限りの警ら隊が特殊機動捜査隊なのだ。カグヤと呼ばれる由来は、その一夜限りの刹那性からきているらしい。
「ともかく、来月の満月には早速試験捜査員が投入されているわよ。筑波嶺と宇治くんはカグヤ続投なんだから、新人とバディを組んでもらうからそのつもりで」
「そうかよ」
煙草の火をもみ消しながら、もう用は澄んだとばかりに筑波嶺は雲居に背を向けて喫煙室を出ようとした。しかし、ふとなにか思い立って足を止める。振り返ることなく、まだ一服を続けている雲居にむけて疑問を投げかけた。
「なぁ、なんでお前そこまで、ロトカの起用にこだわるんだ?」
「決まってるじゃない、一晩たりとも足を止めたくないのよ、私」
それを聞いた男は、理解したのかしていないのか、聞いておきながらも気のない態度で喫煙室を後にした。白い煙が彼の背中にかかり、揺らいで消えた。
三室椛は久々に自宅で朝を迎えていた。昼夜を問わず持ち込まれる仕事の数々、落し物の届け出や失くした物の捜索、小中学校の避難訓練の指導に酔っ払いの介護などをこなし、いくつかの報告書もまとめ上げて、ようやく得た久々の気持ちの良い朝だった。今日もまた仕事はあるものの、その仕事までには十分休息できるだけの時間が与えられている。彼は小奇麗に身だしなみを整えたあと、習慣としているランニングの準備を始めた。初めは、この地に越して来た時に土地勘を身に着けるため始めたことだったが、現在では純粋な趣味のようにもなっている。まだ人も車も少ない景色をまっすぐ見据えて乾いたアスファルトを強く蹴るのが心地よく、いい気晴らしになるのだった。
しばらくの間、三室は無心で白い息を吐き続けた。ふと、静寂を斬り裂き鳴り響くアラームの音に足を止め、ポケットからスマホを取り出す。今日の日付、現在の時刻、そして現在の月の周期が載った画面を一通り眺め、暗転させてから再びスマホをしまい込んだ。いつの間にかたどり着いていた隣町の河川敷は先ほどまでと打って変わって、犬の散歩をする男性や、三室と同じく早朝からジョギングをしている女性の姿がちらほらと視認できる。三室は朝日を受けて眩しくきらめく川面に背を向け、自宅へと足を進めた。陽光でかすんでいる白い満月が、その存在をちらつかせていた。
平日に比べて減便している車内は当然のように乗客の数も多かった。
いくつかのショッピングバッグを抱えた家族連れに、楽しそうに談笑している恋人たち、ラフな格好でスーツケースを従えている男性など。本来、外出を控えるためにと設けられた休日だが、せっかくの休日なら謳歌したいとなるのが人間の性質らしい。不要不急の外出禁止が厳しく叫ばれるのは日没後の十八時からのため、今の時間に電車に乗る彼らは帰宅途中なのかもしれないと三室は考えた。ロトカ種に限ったことではないが、満月の休日では家族や恋人、パートナーや一人きりなど信頼できる少人数でいることが推奨されている。たまたま三室と同じ車両に乗り合わせた家族連れや恋人たちや男性もまた、電車を降りた先では静かに夜を過ごすのだろう。
そんなことを考えていた三室の背後で、貫通路の扉が開く音がした。その瞬間、車両にいた数人がほぼ同時にその人物を振り返る。三室も例外ではなく、思わず目を惹きつけられてしまった。その人物は、二人の子どもを連れた母親と思しき女性だった。
抱っこ紐をつけた乳児を片腕で支え、もう片手で少年の手を引き歩いている。彼女は三室たちの注目に気付いた素振りを見せたが、何も言わずにこの車両を通り抜けようと歩を進めた。女性が三室の横を通りかかった瞬間、彼女のトートバッグについた柔らかな黄緑色のカードが視界の端に揺れる。
「あの」
それを確認した三室は、おもむろに女性に声をかけた。声をかけられるとは思っていなかったのか、女性は驚いた様子で体をこわばらせる。彼女に手を引かれていた三歳児ぐらいの少年が、つぶらな瞳で不思議そうに三室を見つめてきた。三室はその視線を一身に横顔で受けつつ鞄の内ポケットを探り、やがて目当ての物を取り出して女性に差し出す。
「これ、どうぞ」
三室が彼女に渡したのは絆創膏だった。女性は驚いた表情をしていたが、やがて少し俯いて礼を言い、細い指で絆創膏を受け取る。そして、再び少年の手を引いて足早に歩き出した。もはや車内に誰も彼女を気にする者はおらず、三人の親子はそのまま後方車両へと姿を消した。
女性の持っていた黄緑色のカードは、持ち主がドロマであることを示すものだった。ドロマとは、ヴォルテラ種が後天変異した三種類目の人間のことだ。
ドロマ種はヴォルテラ種と同じで平均的な能力しか持たず、満月に惑わされることもないが、ロトカ種に対して被支配欲求を持ち、彼等を惹きつける特殊な血肉を有するようになる。ドロマとして変異したその日から、徐々に身体の性質やホルモンバランスまでもが変貌してしまうのだ。一昔前まではこの唐突な変貌を病気だと考える者も多くいたが、現在では個性の一つであり第三の人種である、と科学的に証明されている。ドロマ種はその血肉の匂いから意図せずロトカ種を惑わしてしまうため、どうしても社会的に冷遇されやすく、被支配欲求を持つため身を護る術も持たないことから、あのようなカードを持ち歩くのが通例となっていた。
電車に揺られ、通り過ぎてゆく景色を眺めながらも、三室は先ほど絆創膏を手渡した時の、か細く震えていた彼女の指が忘れられなかった。女性が車両に入ってきた瞬間、そちらを意図せず見つめてしまったのは三室自身がロトカ種だからである。女性のかぐわしいほどの血の匂いに、本能的に反応してしまったからだ。
ロトカ種が匂いでドロマ種を判別できるように、ドロマ種もまたロトカ種を判別できる能力を持っている。女性が怯えていたのは、間違いなく見知らぬロトカ種が声をかけてきた所為であった。たとえその行動が善意によるものだとしても、女性を怖がらせたのは三室自身なのだ。その事実に、三室は今まで幾度となく体験してきた言いようのない無力感を募らせていた。
三室が向かっていた行き先は警視庁本部だった。何度か来たことがあるとはいえ、あまり行き慣れない場所であることには変わりない。首筋を焦がすような強い午後の日差しに押され、三室はおずおずと中に足を踏み入れた。室内はまだ多くの人が行き来しており、昼に終了しているはずの業務にどたばたとまだ追われている人もいる。三室はそんな彼らの邪魔にならないようにと、壁に沿うようにして受付を訪ねた。
「すいません、第七会議室というのはどこにありますか」
「第七会議室ですか? 突き当りのエレベーターを使って四階にありますが……失礼ですが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
女性は怪訝そうな表情で三室を見つめた。三室は比較的ラフな私服をまとい、顔にはお世辞にも似合っているとは言えないほど大きなサングラスをかけていた。そうでなくとも、平日と比べて警備が薄い満月の日の訪問者は警戒されるのだ。三室はその問いを想定していたかのように「三室です」と短く名乗った。
果たして、三室は晴れて中へ通された。エレベーターに乗るようにと言われたのでその前のエレベーターホールまで来ると、ちょうど一基が下りて来たところだった。三室は横にずれて人が下りてくるのを待つ。中にいたのは、いかにも刑事っぽい風貌の男性二人組だ。
一人はいかにもベテランといった、くたびれたオーラを持つ男だった。しかし、隈のできた双眸だけはいやに鋭い。もう一人の男はベテランに比べると若く、身なりもほどほどに整えられていたが、無造作に掻き上げた髪の隙間から覗く瞳は氷のように冷たかった。その男は心なしか、去り際に三室を睨んだようにも感じる。緊張からの見間違いかもしれないが。それでも心臓がばくばくと鳴り響くのを感じながら、三室は固まったまま彼らを見送った。三室が仕事に就いて初めて学んだのは本庁の捜査員は怖いということだったが、二年経った現在でもそれは変わっていないらしい。
第七会議室は廊下の突き当りに位置する、小ぢんまりとした会議室だった。声を発すれば反響してしまうほどの静けさからあまり使われていないような印象を受けるものの、整理整頓を意識する警察組織の一室であるため備品は埃をかぶっていない。ぴかぴかの机が蛍光灯の白い光を反射して、前に立つ雲居の顔を照らし出した。
「網代木晴。五年目、交通部所属です」
「三室椛。二年目、立田山署所属です」
きりりと敬礼する二人の捜査官。一人は三室で、室内といえどもサングラスを外していなかった。警察に入って二年目などは素人同然で、通常は所轄の交番に勤務し任務を請け負うのだが、今回は初めて特殊機動捜査隊に呼ばれたのだ。一夜に限り、各所から捜査員を募る特殊機動捜査隊といえども、本庁ではなく所轄から捜査員を頼む事態は今回が初である。
もう一人の網代木は、ぱりっとしたスーツを着こなした女性警官だった。歳は若く、三室と同じぐらいかに思われる。手足が長くすらりとした体型で、長い髪をひとつに結んでいた。瞳は先ほど見た刑事たちほど鋭いわけではなかったが、どんな事態にも対応できる冷静さと正義感が映し出されたような強い光があった。三室はちらりと彼女を横目で見つめ、眩しそうに視線を逸らしてしまう。
「特殊機動捜査隊の隊長である雲居です。今回初めて、貴方たちに今日の十八時から六時まで特殊機動捜査隊員として働いてもらいます。主な任務は街中の警ら活動、初動捜査、そして偶発犯罪の取り締まりです」
偶発犯罪とは、偶発的な事情や過失による犯罪のことだ。「たまたま」や突発的に罪を犯してしまう被疑者も多く、犯意がないこともある。特にこの満月の日には、リューネの影響もあってか偶発犯罪が多発するのだ。
「犯罪は連鎖する性質を持ちます。偶発犯が罪を重ねないよう、早期発見、早期逮捕が要求される任務です。その重要性をよく理解して取り組んでください」
三室と網代木の返事が重なった。それに満足げに頷いた雲居は、ちらりと壁にかかった時計を見つめる。日没まであと二時間といった具合だ。なお、この会議室にはこの三人の姿しかなく、どうやら他の捜査員たちは元の仕事か別の業務に当たっているらしい。人類共通の休日であるはずの今日は、捜査官たちにとってはただ就業時間が短く忙しいだけの一日のようだ。
「では、各自任務に取り組むように。網代木巡査部長は一課の筑波嶺警部とバディを組んでください。ベテランで頼りになる人です。捜査車両はこれを」
「わかりました」
「三室巡査にはこれを渡しておきます」
「……これは、」
網代木に車の鍵を、三室にコンタクトレンズケースを渡す雲居。それを見た三室は思わず声を出してしまった。これは最近開発された、特殊なガラスを利用して月光をシャットアウトするコンタクトレンズだ。まだ一般に流通するほど量産されておらず、とてつもなく高額なものである。これを着けていれば、理論上はロトカ種であってもリューネを発動しない。満月下であっても外を出歩くことが出来る、世紀の大発明なのだ。
しかし、それはあくまで理論上だけの話だ。ロトカ種がサングラスという目に見える形の安全策を取っていない、というだけで恐怖を感じるヴォルテラ種やドロマ種は多い。国が推奨しているにもかかわらず、量産化が進められていない理由はそこにもあった。
「念のため、サングラスの下に装着しておいてください。いいですか、貴方はロトカ初の外勤捜査員です。貴方の行動がこれから先のロトカの働き方を左右すると言っても過言ではありません。くれぐれも自覚を持った行動をお願いしますよ」
「はい」
三室は大きく頷いた。三室にとっても、人種に左右されることなく働ける環境を作ることは重要なことだった。むしろ、そのために警察官を志したと言っても過言ではない。
だからこそ、雲居の期待に応えるべく厳しい採用試験をパスしたのだ。言われずとも彼のやる気は十分だった。
「あれっ」
手帳を持ち、コンタクトレンズもつけて、諸々の準備を済ませてから三室は地下の駐車場へとやって来た。雲居に教わった番号の場所はちょうどそこだけぽっかりと空いていて、周囲に三室以外の人影もなかった。バディ相手だと教わった、宇治という強行犯捜査係の刑事の姿ももちろんない。
どうするべきかと思案し、立ちすくんでいると、にわかにエレベーターの近くが騒がしくなった。数人の警官たちがやって来て、何やら話している。どうやら彼らは上司に呼び出されたようだ。
キィイッ、とその瞬間。駐車場というのに猛スピードの車がハイビームを煌めかせながら突っ込んできた。コンクリートを踏みしめたゴムが軋んで、まるで悲鳴のような声が鳴る。けたたましい音を出しながらも警官たちの直前で制止した車の後部座席から、どこか見覚えのある男性が出てきた。あのくたびれた風貌は、エレベーターホールで出会ったあの刑事に違いないと三室は思い出す。彼は自分の隣に座っていた女を連れ出し、警官たちに連れて行くように指示していた。警官たちの態度を見るに、男はその見た目に違わずベテランの刑事らしい。
「あとはウチの奴らに適当に引き継いどいてくれりゃあいい。報告書はまた今度で」
「はい、お疲れ様です筑波嶺さん。宇治さんも」
「確か今からカグヤ……特機捜の捜査ですよね」
宇治、という言葉が聞こえて、三室は思わずその車に近づいた。どうやらそう呼ばれたのは運転席の男性の方らしい。つまり、あの時エレベーターホールで出会ったもう一人の男性、無造作髪の方だろうか、と三室は考えた。その時に睨まれたことを思い出して、少しだけ気分が下がってしまいそうになる。
あまり人気のない駐車場で、一人近づいてくる三室の姿はそれなりに目立ったらしい。車の傍に寄る前に筑波嶺と目が合った。三室は慌ててその場で敬礼する。
「あの、本日より特殊機動捜査隊に所属しました三室です。階級は巡査で、普段は立田山署に勤務しています。よろしくお願いします」
「……お前がそうか。おう、俺は筑波嶺だ。よろしく」
「はい。あの、宇治さんがどこにいるかご存じないですか? 確か一緒の部署だと伺ったのですが」
「あぁ、確かに知ってる。辰己を探してるってことはお前が新しいバディか。そりゃあ災難だったな」
「えっ。ど、どういう意味ですか」
三室の問いには答えず、筑波嶺は後ろ手にばたんとドアを閉めた。そのまま、ぽんと三室の肩に手を置いてエレベーターへ向かっていく。望んでいた答えが返ってこず、三室は途方に暮れたまま筑波嶺を見送ることになった。残されたのは、アイドリング中の車とその中にいるはずの運転手、そして外にぽつんと立たされている三室だけだ。
意を決して、窓越しに運転席を覗き込んだ。中にいたのはもちろんあの無造作な髪形の男で、外で様子を伺っている三室を気にする様子もなく悠々と一服していた。細い煙が天井に沁みこんで行くのがうっすらと見える。しかし、純粋に地下駐車場であるこの場所が薄暗いからか、車内に充満する煙のせいか、彼の横顔に浮かぶ表情が良く見えなかった。
「あの、」
三室が声を上げても、車の中に動きはなかった。ドアを隔てているとはいえ、この至近距離で声が聞こえないということはさすがに無いだろう。三室は、かつて仕事で交通整理を手伝ったときのことを思い出していた。非協力的なドライバー相手ならしつこく声をかけ続けなければならないが、同業者相手ならそこまでの気遣いも不要のはずだ。三室は半周周って助手席側のドアを開き、「あの」と再び声をかけた。車内にはタールの匂いとそれに混ざる香水の甘さが充満していて、鼻の奥がツンと痛んだ。
「遅い、早く入れ」
「えっ? あ、えっと」
「早く。ぐずぐずするな行動が遅い。始業時刻まであと十分もないんだぞ」
ドアを開けた瞬間、やいのやいのと降ってきた冷たい声に三室は反論する暇もなく従った。ばたんと少々乱暴に扉を閉じるとほぼ同時にアクセルが踏まれ、この車が駐車場に入って来た時と同じような猛スピードで、大して広くもない駐車場内を一周する。タイヤがコンクリート上を空滑りするような音が聞こえ、背筋に冷たいものが走った気がした。
最初こそその荒々しい運転に身体を縮こませた三室だったが、気を取り直したようにシートベルトを着用した。普段から染みついている真面目な行動は非常時でも発揮されるらしい。車が地上へ出ると、緊張をほどいて窓の外の景色を伺った。この辺りの道を覚えるためだ。
「あ、紹介が遅れました。僕は……」
「いい、さっき聞こえていた。所轄の巡査が何の役に立つのかはわからないが、足を引っ張ったら容赦しないぞ」
「わ、わかりました……」
ぴしゃり、と言い放たれた厳しい言葉に三室はうなだれた。彼はその眼光と同じく、態度も物言いも冷たく厳しい人間のようだ。しかし、別に何一つとして間違ったことは言っていない。彼の言っていることは全て正論だった。
「俺は宇治辰己だ。言っておくが、俺はロトカ嫌いだ。ロトカ初の外勤捜査官だか何だか知らないが、人種を理由に所轄の人間が出しゃばれると思うなよ。お前の評価は俺次第だということを忘れるな」
「出しゃばるだなんて、そんな……ただ僕は、雲居隊長の期待に応えたいだけで」
「隊長もロトカだからな、あの人の考えはよくわからん。満月時のロトカ起用なんて面倒なことを考えたもんだ。まァ、その企画は幸いにしてまだ試験段階。俺が潰してやることも可能だが」
「……それは脅迫ですか」
三室の言葉に宇治は答えなかった。それが答えのように思われた。
三室の内心を表すかのように、夕日は分厚い雲によってかき消され、普段よりも暗い空ではいち早く満月が存在を主張し始めていた。時報が鳴り響き、彼らの始業時刻を告げる。都内を走る数多の覆面パトカーたちが、その仕事を開始した。
とっぷり夜も更けた街中を、どこででも目にするようなシルバーのセダンが走り抜けていく。普段ならどこにでもあるデザインが街に溶け込むのだろうが、今の時間に道路を走るのはこの車だけだった。それではどんなデザインだろうと否応なく目立ってしまう。
この時間になるまで果たして何人と何件の事件を取り締まったか、もうとっくの昔に数えるのをやめたほどには、三室の身体に疲労がたまっていた。慣れない初仕事というのもあるが、普段の交番勤務より純粋に仕事量が多いというのが直接的な理由だ。夜遅くまで飲み歩いているヴォルテラ種の若者たちへの注意や、リューネになってしまったロトカ種たちによる喧嘩の仲裁、普段に比べて街に人気のないことから起こったひったくり犯の逮捕に、封鎖間際の高速道路で起きた煽り運転の対応など。満月の夜は偶発犯罪が三倍に増加するとは聞くが、体感では三倍では足りず十倍ほど増加しているのではないかと疑ってしまうほどだった。しかし、そんな三室に対して宇治に疲労感は一切見えなかった。
宇治は優秀な刑事だ、と三室は悔しいながらもこの短時間で彼の実力を認めていた。しかし、それは考えるまでもなく当然のことで、特殊機動捜査隊に集められるのは元の業務と並行して警ら活動も行える優秀な捜査員だからだ。思い返してみれば、三室が最初に宇治と出会ったとき、彼らはまだ警視庁内部にいた。しかし、三室が雲居たちと話して駐車場に向かったその二時間足らずの間に、一人の被疑者を連れて帰ってきていたのだ。その事件解決の速さは、特殊機動捜査隊で求められる早期発見、早期逮捕に通じるところがある。宇治と共にいた筑波嶺の存在が大きいためかき消されてはいるのかもしれないが、彼もかなりのベテラン刑事であった。
「降りるぞ。この辺りは入り組んだ道が多い」
「わかりました」
本部に無線で報告しながら、宇治は児童公園の駐車場に車を停めた。警備が目立つのは牽制にもつながるが、ただ目立つだけでは警備の本質が果たされないのもまた事実だ。車から降りた三室は、肌に当たる生暖かい風や足につく地面の感覚に安堵した。先ほどまでの車という密室空間にいたときには、やはり若干とはいえ緊張していたのだと思われる。
固くなった身体をゆるりとほぐしながら宇治について行くと、周囲には閑静な住宅街が広がっていた。三室の住宅がある立田山に似た雰囲気のある、都心から少し離れたベッドタウンだ。コツコツと夜道を歩く二人分の足音だけが響く。
しかし、不意にどくりと三室の心臓が大きく鳴った。驚いてその足を止めてしまう。
なにが起こったのかわからない。しかし、今この瞬間に自分の身に何かが起こっていることだけは理解できた。しかし、その何かの内容がわからない……そんなぐるぐると終わりの見えない焦燥に駆られ、思わず地面にしゃがみ込んだ。とりあえず鼓動を落ち着かせようと、大きく息を吸い込む。息を吸い込んでいるにもかかわらず息苦しさが募るばかりで、酸欠のせいか脳がくらくらする。さすがに三室の異変を感じたのだろう、前を歩いていた宇治が立ち止まり声をかけた。
「だい、丈夫っです……」
「貧血か何かか。ロトカのくせに軟弱だな」
何か言い返そうとしたが、咳き込んでしまって言葉が出なかった。激しく咳き込んだせいで息が止まり、その瞬間、一瞬だけふわふわとしていた意識が急激に取り戻されたような気がした。ぞくっと背筋に冷たいものが走って、三室は反射的に鼻と口を手で押さえる。指の隙間からくぐもった息を漏らしながらも、身体を無理やりに落ち着かせた。三室はすっとサングラス越しに宇治を見上げ、宇治は読めない表情でそれを見下ろした。三室の身体が徐々に落ち着いていくとともに、住宅街の静寂が取り戻されていく。
「……ドロマの、匂いがします」
「ロトカの発作か。厄介だな」
舌を鳴らし、宇治は表情を大きく歪めた。三室を見下ろす瞳がいつになく冷ややかだ。
リューネという生理現象に対する対策がいくら講じられても、根本的にロトカ種がドロマ種やヴォルテラ種を襲いかねない危険な人種であることに変わりはない、というのが宇治の見解だった。それは自身の経験則でもある。彼の自他ともに認めるロトカ種嫌いはそこからきていた。現に、彼が無理やり組まされたロトカ種のバディは現在、まるで獣のように惨めな恰好でへたり込んでいる。サングラス越しに自分を見るその瞳が、なぜだか無性に腹立たしかった。
しかしそんな宇治の内心を知ってか知らずか、三室は微かに首を振ってから尚もたどたどしい言葉を続けた。
「この匂いは少量の出血ではありません、大きな怪我をしてる可能性が高いです。危険な状態かもしれません」
「……なんだと」
ロトカ種嫌いの宇治だが、ロトカ種の先天的に恵まれた能力は信頼に値すると理解していた。それは科学的にも歴史的にも証明されていることだった。ロトカ種が身体能力に優れていることは周知の事実だが、その身体能力には五感などの感覚も含まれている。歴史的に有名なとあるクマのロトカ種などは、何百種類という薬草を匂いだけで区別できるほどの嗅覚を持っていたというエピソードまであるぐらいだ。
そのため、宇治は三室に匂いのする方向を尋ねた。ふらふらの状態のまま立ち上がった三室は宇治を追うので精いっぱいだ。何度も角を曲がり、時折変わる風向きに苦戦しながらたどり着いた路地裏では、一人の男性が塀にもたれかかるようにして地面に座り込んでいるのが見えた。彼がただの酔っ払いで眠り込んでいるだけ、というには、ぱっくり割れた首筋から滴り落ちる液体が不似合いだ。その惨状に眉をひそめた宇治は、しかしその路地の奥に走り去る足音を聞き逃さなかった。
「宇治さん、」
「動くな。この男性がドロマに違いないな、ロトカ種がなにか疑わしい行動をしたら即座に撃つ。いいか」
「け、けど、犯人が……」
それでも宇治は足音の主を追いかけることもなく、油断なく手を腰のホルスターに伸ばしただけだった。まるでこの惨状の被疑者よりも三室の方を疑っているようだ。
その態度に驚愕した三室が詰め寄ると、宇治は素知らぬ顔でスマホを取り出してどこかへと連絡を取りだした。通話はすぐに繋がったらしく、手短に現状の報告と先ほどの足跡の主の捜索を頼んでいく。その相手はどうやら筑波嶺のようで、その短いやり取りを聞いているだけでも互いへの信頼が感じられた。
それに比べ、三室は宇治がした自分への態度を思い出した。脅迫まがいの発言や差別的な態度。三室は比較的温厚な性格だと自覚しているが、不条理な対応に黙っていられる性格でもなかった。宇治が通話を切るのを待ってからまっすぐ睨みあげる。
「どうして僕にこの場を任せて追わなかったんですか。僕がロトカだからですか」
「そうだ。死体がロトカに食い荒らされたんじゃ、捜査のしようがないからな」
「……信用なりませんか、僕は捜査員ですよ?」
「どうだかな、現にさっきは発作を起こしていたじゃないか。ドロマの血と満月の光に中てられて我を失ったって不思議じゃない。ロトカはそういう人種だからな。それを危惧した俺の判断は間違っていないだろう」
「それは……」
三室はそれ以上の言葉に詰まった。宇治への苛立ちと、その正論へ言い返せない罪悪感、雲居の期待を裏切る不甲斐なさで、上手く言葉が出てこなくなったのだ。もうずいぶんと血の匂いには慣れて、身体の調子も安定してきている。しかし、思考回路は相変わらずぐしゃぐしゃのままだった。
押し黙った三室から視線を逸らし、宇治は男性の様子をそっと観察する。男性は背広を着こんでおり、ネクタイが若干曲がっていた。傍にはこの男性のものと思われる鞄が落ちており、それらを総合して考えると男性はどうやら仕事後のサラリーマンのようだった。しかし、口臭にアルコールは感じられない。流れ出た血液が固まりかけていることまでを確認して、宇治は唸った。先月にも似たような事件が起こったことを思い出したのだ。こうして現場が路地裏であることと、満月の日であること、そして被害者がドロマであること。それらの共通項に嫌な予感を隠せなかった。
しかし、宇治がそこまで考え切らないうちに三室は黙って駆け出した。制止が間に合わず咄嗟に「おい」と怒鳴りつける。三室はそれでも速度を緩めなかった。
「今からでも被疑者を追いかけてきます」
「は、無理に決まってるだろそんなの。あれから何分経ったと思っているんだ。筑波嶺さんに応援を頼んでいるからそれを……」
「その間に、犠牲者が増えたらどうするんですか!」
三室は、犯罪は連鎖するという雲居の言葉を思い出していた。特殊機動捜査隊の理念である早期発見、早期逮捕を行うために三室たちはパトロールをしていたのだ。やはり、被疑者を追いかけないというのは間違っている。そう結論付けて宇治の制止を振り切った。幸いにして、宇治が拳銃を持ち出すことは無かった。
三室は勢いよく夜の街を走り抜けた。今夜が満月で人の気配が少ないことも救いだったし、なにより足音の主が、おそらく被害者男性の血液を踏んでしまっていたらしいことも幸いだった。風に乗って、わずかに甘い血の香りが運ばれてくる。それを頼りに追いかけ、自販機の横で荒い息を整えている人影を発見した。「待て」と声をかけると、弾かれたように慌てて走り出す。裾の長いコートのようなものを着こんでいるため、人影が男か女かは判断できなかった。
追い詰めるにつれて、徐々に路地裏から大通りの方へとルートが変わっていった。
ロトカ種はそれぞれが人以外の動物の遺伝子を持っているが、その動物によってある程度得意な能力を分けられる傾向がある。例えば、ライオンなどの三次消費者とよばれるロトカ種たちは獲物を狩っていた頃の名残りで咄嗟の瞬発力が優れている。二次消費者であるキツネのロトカ種などは物事の引き際をわきまえるバランス感覚に優れており、一次消費者であるウサギのロトカ種などは長距離を走る持久力に優れていることが多い。三室は一次消費者のロトカ種だった。本来追いかけるより追いかけられてきた種族のため、加速が足りずあとちょっとの距離がなかなか縮まらない。
次第に空が白み始めた。距離が縮まらないとはいえ、持久力を誇るロトカ種に追いかけられ続けた人影はその疲労からか若干ふらついていた。ついに足がもつれ、地面に倒れこむ。三室はそこで、ようやくその人影の正体が無精ひげを生やした男だということに気付いた。男性は三室を見つめ、震える唇で何かを呟く。
「……っ、はぁ、先ほど、路地裏で何かをされていましたよね。あそこで何があったのか、ご存知なら教えていただけませんか」
「うあぁぁあっ」
その瞬間、ぷつりと何かの糸が切れたかのように男性は突然奇声を上げた。三室を追い払うかのように両手を滅茶苦茶に振り回す。咄嗟に一歩下がった三室の瞳には、男性がなにやら注射器のようなものを持っているのが写った。細い針をまるでナイフかのように振りかざしながら、男は何やらぶつぶつと口の中で呟いている。彼の瞳の焦点はまるで定まっておらず、目の前にいる三室ではない何かに怯えているようでもあった。言葉による説得が通じそうにないことを悟り、三室はじりじりと後退しながらどうするべきかと考える。
そのとき、三室の視界に見知った顔が写った。
「オラ、大人しくしろォ。暴行罪の現行犯で逮捕だ」
「イタイ、おかあさんイタイぃぃ」
「早く、お前も押さえろ三室」
「は、はい!」
男性の背後からぬっと出てきた筑波嶺が、手慣れた様子で手首をねじり上げた。悲鳴を上げる男性の手から注射器が落ち、次の瞬間には男もまた地面に押さえつけられていた。三室は慌てて男性の左腕を押さえ、車から飛び出してきた網代木が手錠をかけた。暴行罪の現行犯逮捕だ。手錠をしてもなおも暴れる男性を押さえつけつつ、筑波嶺と三室で男を車まで連行する。
「三室さんお一人ですか? 宇治さんと一緒だったのでは……」
「あっ、え、はい。まぁ、その……宇治さんは現場の方で」
「おう、現場には別の捜査員が応援に行ったそうだ。俺たちは身柄を引き渡しに先に本部へ戻るぞ。三室もこのまま来てくれ。宇治に許可はとってある」
「わかりました」
網代木に運転を任せ、彼らは警視庁へと戻った。案の定、男は薬物中毒者でありまともな意思疎通ができないそうだ。取り調べを強行犯捜査係に引き継いだときにはもう完全に陽が昇っており、三室たちの特殊機動捜査隊の初日は幕を閉じたのである。
警視庁内にある機動捜査隊本部、それは満月の夜だけ特殊機動捜査隊本部という名称に変わる。しかし頭に『特殊』という文字が付くか付かないかの違いだけで、その役割や責任者はあまり違わない。そのため宇治の用があった相手は、特殊と付いていようがなかろうがほぼ毎日この場所にいる雲居だった。
「以上が、三室椛に関する報告になります」
「そうですか、ご苦労様です。あなたから見て三室巡査はどうですか?」
無表情な雲居にまっすぐ瞳を射抜かれ、おもむろに視線を逸らした宇治はデスクの上のデジタル時計を盗み見た。今の時刻は05:49。あと十分と少しで終業時刻が迫っていた。
「ロトカとして能力の高さは普通に優秀ですよ。数百メートル先から血の匂いをかぎ分ける嗅覚に、タイムロスをものともせず被疑者に追いつく脚力。追いつけたのはただ脚力だけの問題ではないとも思いますが。あと三年、いやもっと早くても、優秀な人材に育つと思います。ただ……」
「ただ?」
「俺の相手には向いていません」
至極真面目な表情をした宇治はまっすぐ雲居の瞳を見返す。最初に目を逸らしたのは雲居の方だった。くすりと笑みを漏らし、「それは彼がロトカだからですか?」と意地の悪い質問で返す。その問いにはさすがの宇治も言葉を探したらしく、普段饒舌な彼には珍しいほど長考した。
「……いえ。ただ、彼は特機捜に向いています。もし隊長が彼を引き続き起用するつもりなら、バディは俺ではなく筑波嶺さんのほうがいいでしょう」
「……ふふ、そう。宇治くんがそんなこと言うなんて、案外三室くんを気に入ったのね。それは良かったわ」
「うわ」
突然がらりと雰囲気を変えた雲居の物言いに、宇治は思わず顔をしかめてしまった。即座に確認したデジタル時計は06:02を示している。
雲居は別に宇治をからかっているわけでも解離性障害というわけでもなく、ただストイックに仕事のモードを切り替えているだけだった。特殊機動捜査隊の間は慇懃な態度で接するが、特殊機動捜査隊の時間が終われば明るく人懐こい態度になるのである。それが今回のように、他人と喋っている最中でも切り替えてくるのだから驚いてしまう。
「てかもう、後輩いじめちゃダメでしょ。そろそろ差別発言で炎上するわよ。ロトカのくせに~とか言っちゃダメ。わかった?」
「……三室ですか」
「うん? あ、違うわよ。三室くんはあなたにされたことを一切話してない、ただ私が勝手に聴いてただけ。この盗聴器、雑音がカットされて聴きやすいのよね。私のお気に入り」
にこにこと屈託なく微笑みながら、雲居はショートカットヘアをかき分けて耳につけたワイヤレスイヤホンを指さして見せた。宇治はなんと言うべきかわからず、ただ意味もなくデスクの上を睨みつけるしかない。人懐こい人柄といえば聞こえはいいが、ずけずけと人の領域に踏み込んでくるこの状態の雲居を少々面倒だとも思っていた。だからこそ時刻を確認して早々に報告を終えようとしていたのだが、どうやら自分のやり方は甘かったらしいと宇治は猛省する。
「三室くんが言ってたわ、いつか宇治くんみたいな捜査官になりたいって。なぜかカグヤを抜ける前提で話をしていたけど。おかしいわよね、上官の指示に逆らったなんて報告、私は受けていないのに」
「……被疑者確保に貢献した、その結果を加味したまでです」
苦虫を嚙みつぶしたような表情の宇治。彼の隠そうともしないその表情に、雲居は笑いをこらえながら話を続けた。
「三室くんにはこれからもカグヤを続けてもらうわ。その相手は引き続きあなたに」
「どうして俺なんですか」
「あなたが一番報告者として公正な人間だからよ。このロトカ起用計画が進んだら、警察内部にも大きな革新が起こるわ。我が国初となるロトカ種の警視総監が出てきてもおかしくないし、それを私欲に利用しようとする輩もでてくるはず。あなたならそういうのに左右されないでしょ?」
「……」
黙りこくる宇治に対し、とんとんとデスクの上の資料を整えながら話す雲居。手早く仕事道具を片付け、話は終わりと言わんばかりに席を立った。宇治は一つ息を吐き、一礼してから本部長室を後にする。機動捜査隊は交代制のため、特殊機動捜査隊からの引継ぎも終わったこの時間では正規の機動捜査隊員たちが早くも出勤していた。宇治もまた、一度自宅へ戻らなければならないと考え、そこから早く立ち去ろうとする。
「宇治さん」
しかし、予想外にも見知った声が聞こえて足を止める。その声の主は、先ほどまで話題にあがっていた三室だった。おそらく宇治の報告が終わるのを待っていたのだろう、ということは予想がつくが、向こうから声をかけてくるとは予想外だった。
三室は宇治に対して、真っ先に頭を下げて謝罪した。上官である宇治の指示を無視して独断に走ったことを、弁明も釈明もせずにはっきりと。
宇治はそれを見ながらぼんやり考える。宇治はロトカ種のことが嫌いで仕方なかったが、だからこそ今まで無関心を貫いてきた。この社会や組織においてロトカ種と関わらずに生活することは不可能だ。ならば心を消して感情を消して、一定以上離れた距離から不干渉を貫いておけばいいと考えてきた。しかし、月に一回限りとはいえバディを組むなら話は変わってくる。
「いい、わかった。もういい。バディを続ける気なら、必要最低限のこと以外俺に話すな。関わってこようとするな。いいな?」
「えっ……僕バディを続けられるんですか?」
「残念なことにな」
「……っ」
その瞬間、三室の表情がぱっと華やぐ。それと対照的に宇治は舌打ちした。雲居に注意されたはずの、三室に対する素行の悪さを改める様子はさらさらないらしい。
不愛想に去っていった宇治を見送り、三室はほっと息を吐いた。もしかしたら、今日限りで特殊機動捜査隊を異動になるかもしれないとすら考えていたのだ。しかしそれは杞憂に終わり、次回もまたこの場所へ来ることが許された。三室が雲居に伝えた、宇治に憧れているということは真実だ。宇治は性格や素行はともかく、捜査中に見せた能力や手際の良さなどは文句の付け所がないほど優秀極まりない男だった。ロトカ種として、一人の警察官として、宇治を超える手柄を立てること。それが昨日からの三室の目標となっていたのだ。それは彼にとって、これから始まるレースのスタートラインに立つような気分だった。
「きゃあっ!」
「ど、どうしたんですか?」
その後、三室は機動捜査隊本部の仮眠室を借りることになった。慣れない満月の日の徹夜業務後というのもあって、少しでも疲労を回復してから帰るようにと雲居に勧められたのだ。幸いにして、元の業務である立田山署への出勤時間までは余裕があるため、少しでも身体を休めようと言葉に甘えたその時だった。先ほどのような悲鳴を聞いたのは。
慌てて悲鳴が聞こえた仮眠室の中を覗いてみると、そこに居たのは網代木だった。捕らえた男を引き渡した後、報告書の作成があるからと彼女らは三室と分かれたのだ。筑波嶺の姿が見えないところを見るに、網代木も三室と同じく一人で仮眠室へ訪れたらしい。
「あ、み、三室さん……ごめんなさい。少しびっくりしちゃって……」
「な、何があったんで……うわっ」
網代木の視線の先を三室も覗いて見ると、言葉を失う光景が広がっていた。ヘッドホンが置かれた仮眠室のベッドの一床に、半裸になった筋肉質の男が横になっていたのだ。いや、それだけならまだ叫ぶほどではなかったかもしれないが、その男の背には本来人間にあるはずのない背びれがあったのだ。間違いなくロトカ種の生理現象、ガータである。
「んん……み、むろ……?」
「あ、起きましたか。ダメですよ、こんな公共の場でガータになったら」
「そうですよ。あ、ちょっと二度寝しようとしないでください。ほら起きて!」
「うぅ、三室、って言った……?」
ガータとは、ロトカ種が持つ動物の遺伝子に回帰した姿のことだ。リューネなどの極度の興奮状態や、反対に極度のリラックス状態のときに起こる生理現象の一つである。しかし、ガータとはヴォルテラ種やドロマ種でいうところの裸であるため、公共の場でなることは基本禁止されているのだ。といっても、普通なら公共の場、それも職場で、ガータになるほど興奮したりリラックスしたりすることはないはずなのだが。
三室と網代木の声かけにより、眠そうな男はようやくのそりと上体を起こした。思わず目を逸らす二人。半裸のため、鍛え抜かれた色白の上半身はむき出しになっており、彼がヘッドホンをつける緩慢な動きに合わせて背びれが揺れている。二人の反応を心底不思議そうにしながらも、男は一切服を直そうとしないまま口を開いた。
「……で、どっちが三室?」
「いやまず服を着てくださいよ。そんな恰好で他人と喋るなんて非常識じゃないですか」
網代木の注意に、男は煩わしそうに瞳を細めた。彼の瞳は珍しくも両目の色が異なり、右目が淡い紫色で左目は鮮やかな黄色なのだ。その所為か、ただ瞳を細めるという何気ない動作でも他人の目を惹きつけてやまない。思わず彼に見とれてしまっていることに気付き、三室は慌てて再び目を逸らした。
「そう言わないでよ、ガータが治まるまで待って。今の状態じゃ服着れないんだ」
「失礼ですが、海洋生物のロトカの方……ですか?」
「そうだよ。オレはイルカのロトカ。海洋生物全般のガータの特徴として筋肉量が増量しちゃうんだよね。おまけに背びれも生えてくるから、下手したら服破けちゃうの」
そう話しながらも、三室の瞳には男の身体が徐々に縮んでいくのがはっきり見て取れた。男の放つ圧迫感が少しずつ和らいでいき、たくましかった上半身から次第に肉が削げ落ちていく。彼がシャツに手を通した時には、さっきまでとはまるで別人なほどに線が細い美青年が現れた。そのあまりの変貌に、三室と網代木は顔を見合わせるしかない。
「はい、ちゃんと着たよ。で、三室ってのは?」
「あ、はい。僕です。三室椛と申しま……」
「キミかぁ! そうか、キミがあの珍しい一次消費者のロトカなんだね。雲居サンがわざわざ所轄から呼び寄せたっていう」
「……珍しい? ロトカの中でも珍しさがあるんですか?」
感極まった様子で三室の手を取る男。雲居の名前を出すということは特殊機動捜査隊の一員らしいと三室は推測した。その勢いに若干引き気味な三室だったが、網代木の言葉に男の動きがぴたりと停止する。そしてゆらり、と視線を網代木に向けて「当ったり前だろう!」と叫んだ。そのあまりの音量に網代木は黙って顔をしかめる。
「世界総人口の三割にも満たないロトカ種。それは草食動物の一次消費者、それを食べる雑食動物などの二次消費者、、それらすべてを食べる肉食動物などの三次消費者、という三種類から成り立っていて基本的に数字が大きいほど社会的地位が高い傾向があるんだ。これは先天的な優秀さを示すとともにロトカ種特有の個人志向の強さを表しているとも言われている。そして何と言っても不思議なことは三次消費者と二次消費者の割合はほぼ拮抗しているが一次消費者だけはその数が極端に少ないということだとある学者はロトカ種の複数遺伝子を種として優れている捕食者の遺伝子を取り入れた進化の一つだと述べたがそれは実に興味深いことで、」
「わかった、わかったもういい! いいから!」
とんでもない熱量で語られる話を慌てて制止する網代木。途中から息継ぎを忘れたのではないか、と疑ってしまうほど彼の語りはすさまじかった。すさまじすぎて、途中から何を言っているのかよく理解できなかったほどだ。それでも、男のロトカ種に対する興味と知識を見た三室は素直に称賛の言葉を投げた。
「凄く詳しいんですね。科学者の方ですか?」
「いや、それはただの趣味だ。オレの仕事はコッチ」
空中でキーボードを叩く真似をして見せる男。おそらく、サイバー犯罪対策課の捜査員ということだろう。今月から隊長の雲居を含むロトカ種たちが特殊機動捜査隊に配属されたが、特殊機動捜査隊本来の任務である外勤が許された捜査員は今のところ三室ただ一人。そのため、この男も雲居と同じく内勤の捜査員だということだ。
「と、いうことは。あなたが今日遅刻したというあの捜査員ですか! 私たちと同期にあたる⁉」
「あぁ、同期か。そういうことになるかもねぇ。オレは魅好小夜。さっきも言ったけどイルカのロトカで、普段はサイバー犯罪対策課にいるよ。よろしく、お二人さん」
にこにこと屈託なく笑いながら、二人に握手を求める魅好。昨日、雲居の元でおこなった自己紹介とは似ても似つかないほど適当なそれに、二人は思わず吹き出してしまった。敬礼ではなく握手を求めるとは、まるで警官ではなく友人同士のようだと三室は思った。
「さっきも言いましたが、僕は三室椛です。普段は立田山署に勤めています。シカのロトカです。よろしくお願いします」
「シカのロトカだって! それはとても興味深いなぁ、出身が奈良だったりするかい? あぁそれと、せっかくの同期なんだから敬語はいらないよ。オレは気にしないからね」
「私も大丈夫。ふふ、私も敬語外しちゃおうかな。私は網代木晴。ヴォルテラで、普段は交通部にいるわ。よろしく」
「交通部、ですか! 交通整理の応援の時はとても助かり……あっいや、助かったよ」
魅好の手を握り返す三室と網代木。今回が初の任務で、歳も近い、三人は見る間に意気投合した。今回の業務内容の報告から始まり、それぞれの普段の業務の話にまで広がって、次第に話が遡ってきた。「そういや、」と網代木が口火を切る。
「結局どういう意味なの? 三室が珍しいロトカだって言うのは……」
「あぁ、要はシカなどの一次消費者のロトカは、他のロトカに比べてなぜか数が少ないってことだよ。ドロマと同じぐらいの数と思っていいんじゃないかな。特に日本に少なくて、平安時代に書かれたという書物に載っていた数を含めて計算しても、現在までの間日本に確認された一次ロトカの数は一〇〇を下回る」
「へぇ、そうなんだ。だけど、そんなに短く説明できるなら最初からそう言ってくれればよかったじゃん」
「二人の頭を計ろうと思ったんだよ」
「なにそれ性格悪いわね」
容赦ない二人の応酬に、三室はやんわりと制止をかける。三室は経験的にあまりこういったノリに慣れていないのだ。そのため二人の会話のどこまでが遊びで、どこまでが本気なのか、判別がつかないでいた。思い返せば、それは小学生のころから三室がやってきたことだ。人の輪の中に入ってもどこか一人、周囲の顔色を窺ってばかりなのは幼いころから変わっていないのかもしれないと三室は感じた。
しかし、不意に話を振られて三室は我に返る。
「……だから、一次ロトカはリューネになりにくいと言われてるんだ。雲居サンが椛クンを呼んだのはそのためさ。万が一この試験が失敗して、リューネになっても被害が最小に抑えられるように」
「なるほどね。けど、三室ならきっと大丈夫よ。バディ相手は宇治さんなんだし。ね?」
「えっ、あぁ、うん。もちろんリューネなんかにはならないよ。絶対だいじょうぶ」
何事も、人間がやることに『絶対』ということは無い、と三室は知っていた。リューネとは生理現象で、到底意識的にどうこうできるものではなくて、万全を期していても最悪の事態が起きることはある。しかしそれを全部わかったうえで、三室は雲居の誘いを受けたのだ。こんなところでネガティヴになっている場合ではない、と自らを奮起させた。
しっかりと頷く三室に安心したのか、二人が釣られたように微笑む。そのまま、誰かが時計を見る時まで話は続いた。しかし、始業時間は刻一刻と迫ってくる。次に出会うのは一月後、次の満月の晩だ。
「次の満月の晩、と思われます」
一方、こちらは場所が変わって捜査本部。幾人もの刑事、警官、鑑識官などの視線の先には中年の刑事が立っていた。資料のようなものを見ながら、朗々と読み上げる彼の声だけがその場所に響く。
「一件目の事件の被害者であるホステスの高坂珠代と、今回の事件の被害者である会社員の斎藤勝久。検死の結果、二人ともがドロマ種であると判明しました。また、高坂珠代の死因である毒物ですが、シガトキシンであるとのことです。神経毒の一つで、藻や魚などに付着していることが多いことから、比較的容易に手に入れることが出来るそうです。また、今回の現場にも多数の足跡や指紋が残されており……」
この場所にいる誰しもが、険しい表情で話に耳を傾けていた。それは、急いでこの捜査本部に出席した宇治と筑波嶺も例外ではない。刑事たちの間でいくつかの応答が行われたあと、不意に宇治に声がかかった。
「宇治巡査部長。たしか君が二件目の発見者だったな。君にも意見を伺いたい」
「はい。ご存知の通り、ロトカはドロマの血の匂いに敏感です。私が発見した時にはすでに血液が固まりかけていましたから、死傷してから時間が経っていたことは明白でした。我々が発見するまでの間、近隣に住むロトカたちがそれに気づかなかったとは思えません」
「つまり、何かしら情報を持っているかもしれない、と。わかった。聞き込みの際には意識しよう。他の者は?」
この本部の責任者である墨染理事官の声が徐々に遠のいていく。それほどまでに、宇治は内心怒りで我を失いそうだった。この世界には三つの人種が存在するが、それを初対面などの一度見ただけで判別するのは至難の業だ。しかし、ドロマ種ならば一目で判別する方法がある。それが、ドロマ種が携帯を推奨されている黄緑色のカードだった。
あのカードは自身をドロマだと申告し、他者にいざというときの助けを求めるもの。つまり、自分が弱者であるというネームプレートにもなり得るのだ。今回の被害者たちは全員、所持物にカードが入っていた。ロトカ種たちがドロマと知って狙った可能性が高い。少なくとも宇治はそう考えていたのだ。
薄く靄がかかったような白い空が東京の頭上に広がっている。役目を終えた満月は、次の満月に向けて消えかかっていた。しかし、また来月になれば嫌でも月は満ちる。血なまぐさい事件もまだ全容が見えていない。まだまだ謎が多く残って消えなかった。
「次の満月に同様の事件が起こる可能性は高い。各員、気を引き締めて捜査に当たれ」
重なり合った大きな声が反響し、どたばたと本部がにわかに騒がしくなる。これからのことを考えながら宇治は席を立った。
2021年9月5日 発行 初版
bb_B_00170361
bcck: http://bccks.jp/bcck/00170361/info
user: http://bccks.jp/user/150613
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp