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この本はタチヨミ版です。
ふんわりと酵母菌で膨らんだ生地が整列した鉄板をオーブンに入れる。やっと最後の分を入れ終わったゆかは、綿のハンカチで額に伝った汗を拭った。
米山ゆかはパン工房に勤めて今年で十年になる。
十年前、二十歳だったゆかは専門学校も卒業の年になり、当然のように実家のパン屋で働くつもりでいた。しかし、卒業間近の二月に実家のパン屋で食中毒が出てしまい、ゆかの両親はパン屋を畳む決心をした。
突然進路を失ったゆかを採用してくれたのは、地元のパン工房だった。小中学校にパンを卸すこともある少し大きめなパン工房。五十を少し過ぎた健康自慢の店長も気さくで、職場の雰囲気も和気藹々としている。良い職場だと思う。
「ゆかちゃん、こっちで一緒に休憩しましょ」
午前の分の片付けをしているゆかに声をかけたのは、このパン工房で働き始めて三十年以上というベテランの箕輪だった。
箕輪は見た目のふくよかさに比例するように心の広い女性で、最近は三人目の子どもを送り出して時間ができたからと、週二回開催されているズンバというダンスサークルに入るほど活発な人だ。
ゆかは泡立ったスポンジを置いてバットを洗い流す。
「じゃあ、ご一緒させていただきますね」
ゆかは弁当を入れた鞄を持って、箕輪と他の社員を共に食堂に向かう。
こぢんまりとした食堂は昼食をとる社員たちで混雑していた。ゆかたち製作社員の他にも販売を担当する社員の姿もちらほらとある。
ゆかたちは適当に席を取ると机の上に弁当を広げる。
「ゆかちゃん、毎日お弁当作って偉いわねぇ……」
そう言ったのは工房内で最年長の藤原という目元が優しい女性だ。若い頃は相当な美人だっただろうという面影を残した顔には笑い皺がくっきりと浮かんでいる。
「でも、皆さんもお弁当じゃないですか」
ゆかが笑いながら言うと、箕輪は首を振る。
「まあ、あたしたちは朝食と旦那の弁当を作るついでだしねぇ。子どももいたから作るのも慣れてるし」
「ひとり暮らしだと面倒で、私も結婚するまでは作ってなかったなぁ」
箕輪に続いてそう言ったのは、ゆかより五つ年上の立花だった。二十六歳で結婚し、今は小学生の息子さんがいるらしい。
ゆかは弁当箱の中から卵サンドを取り出して一口かじる。
「やっぱり、今日もパンなんですね。 毎日パンで飽きませんか?」
最年少で昨年入社したばかりの春子が、日替わり定食のトレーをゆかの隣の席に置く。今日の日替わりはハンバーグらしい。
「さすがにちょっと飽きるけど、家で練習した分を無駄にするのは嫌だから。具材とか変えれば美味しくは食べれるし」
ゆかはいつか実家のパン屋を復活させたいと思っている。そのためにはパン作りの技術が必要不可欠で、ゆかは休日には亡くなった両親が残したレシピをもとにパンを作っている。
それ以外にも地方でのパン作りの交流会に参加してみたり、美味しいと評判のベーカリーに出かけてパンの研究などもしている。
「あたし、ゆかちゃんのそういうとこ、ホントに尊敬するわ。あたしは帰ってからはもう、パンを作るどころか食べないもの」
旦那が米派ってのも理由にあるけど、と箕輪は付け足す。
「でも、それがゆかちゃんの夢だものねぇ。ご両親のパン屋さん、本当に美味しかったもの……あんなことあって、残念だったわ。私、今でも何かの間違いじゃないかと思わずにいられないのよ」
藤原はゆっくりとした所作で水筒から緑茶を注ぐ。それを飲み込んで、息を吐くように「真面目なご両親だったもの……」とつぶやいた。
藤原の言葉に、ゆかは当時のことを思い出す。
食中毒のことがニュースに取り上げられて、実家のパン屋の前には嫌がらせの貼り紙や落書きがされた。小さな田舎町は閉鎖的で団結力がある分、そういったことが起こりやすい。
問題はそれだけでなく、当時は店と厨房を広げて新しい機械を導入したばかりだった。ある程度の返済はしていたものの、両親は借金を背負ってしまった。
周囲からの風当たりも強く、マスコミなども押しかけたりと、様々なストレスが重なったある日、両親はゆかを残して心中した。
遺書にはゆかに対する謝罪と、生きがいであったパン屋を続けられないという苦悩、生命保険で借金の返済や手続きを頼むという旨が書かれていた。
両親の生命保険で借金を返した。そして残ったのは実家とパン屋といくらかのお金、両親の店で提供していたパンのレシピだった。
ゆかは両親の性格をよく知っている。真面目で几帳面で、厨房での衛生管理は特に気をつけていた。そんな真面目な両親の経営するパン屋から食中毒が出てしまっただなんて、今でもゆかは信じられない。
ゆかは両親のパン屋を、あの味を復活させたいと思っている。その反面で、時間が経っていたとしても食中毒がでたという事実は変わらない。世間はそんなに甘くない。
食中毒のイメージを払拭できるほどに美味しいパンを作る技術と自信が今のゆかには必要なのだ。
そのためにパン工房でも率先して動いている。パン工房の仕事は朝早く、立ちっぱなしの作業が続くので辛くはあったが、それでも両親のパン屋を復活させることや自分の技術が向上していることを実感するのが嬉しくて、ゆかは頑張ることができた。
そのおかげか、パン工房では社員と仲良くやっているし、信頼されていると感じることも多い。
次の日、朝会のために事務所に行くと、線の細い小柄な男の子を藤原から紹介された。
「この子は桑野浩太くん。今年の新人さんなんだけどね、料理とか農業やってる分校あるでしょ? そこの……今年の卒業生さんで、製作班に入るんだって」
ゆかが浩太に目線を向けると、大きくて丸い瞳と視線がぶつかる。浩太は「桑野浩太です、よろしくお願いします」とはにかみながら言うと、きちんと背筋を伸ばしてから最敬礼をした。
小さな鼻と桜色の唇、短く切りそろえられた黒髪は艶がある。桑野浩太という名前を聞いていなければ、女の子と見間違えてしまうところだった。
「米山ゆかです。パン工房では桑野くんと同じで製作班だから、これからよろしくね」
ゆかが微笑むと、浩太ははにかみながら頷いた。
「浩太くんの教育係はゆかちゃんにやってもらおうと思って。本当は男の子だし男性陣に指導してもらってもいいんだけど、口下手な人が多いし……ゆかちゃんなら仕事も完璧だし若いから、浩太くんもそっちの方が良いかなって思ったのよ」
藤原は浩太の方を向いて、ゆかちゃんは優しくて真面目だから頼りになるのよと言った。浩太は元気よく頷くと、ゆかをじっと見た。
突然褒められたことが嬉しくも恥ずかしくて、ゆかは少し視線を逸らして笑う。
「そんなこと言われると責任重大ですね」
ゆかがそう言うと、藤原もそうよぉとおどける。
浩太はゆかが想像していたよりずっと飲み込みが早く、器用だった。顔が小さいせいで帽子を被ると少し大きくて、それが少女のような可愛らしさで、比較的年齢層が高い職場だからか、孫のように可愛がられた。
性格も素直で、特にゆかには親しみを持ってくれているのがわかった。ゆかちゃんの子犬みたいねぇ、と藤原は浩太を見てよく笑った。
「ゆかさん、今晩一緒にご飯食べに行きませんか?」
仕事終わりに厨房の掃除をしていると、担当箇所の掃除を終えた浩太がゆかのもとにやってくる。
「いいよ、じゃあこの前浩太くんが言ってた美味しい洋食屋さん行っちゃう?」
「いいですね! じゃあ仕事終わったら入り口で待ってますね」
嬉しそうに言う浩太を見ながらゆかもつられて微笑む。浩太はゆかに勝るとも劣らないパン好きで、性格も合うのかすぐに仲良くなった。
浩太のおすすめの洋食屋は住宅街にあって、一見すると普通の住宅にも見えた。店内に入ると小さいながらに綺麗で雰囲気が良い。全室個室だからゆったりと過ごせるのも良かった。
ゆかは浩太のおすすめだというマカロニグラタン、ワインを頼むと、その他に、ミニカンパーニュも頼んだ。浩太も同じものを頼みながら小さく笑った。
「どうかしたの?」
浩太がなぜ笑ったのか分からず首を傾げると、浩太は気を悪くしないでくださいねと言った。
「ゆかさん、本当にパンが好きなんだなって。グラタンとパンは合いますけど、マカロニ……入ってるから」
「でも、浩太くんもカンパーニュ頼んだじゃない」
「僕もゆかさんと同じくらいパンが好きなので。僕というより、僕の一家全員パン党で……朝晩パンも当たり前なんです。 特に僕が小さい頃はとても美味しいパン屋さんがあって、僕はそこのパンで大きくなったと言っても過言じゃありません」
ふふん、と背筋を伸ばす浩太。その割には小柄だけど、という言葉は胸にしまっておく。
「でも、そのパン屋さんはなくなっちゃったんです。食中毒が出たって親からは言われたんですけど、それでもなくなって欲しくなかったなぁ……本当に美味しくて、ゆかさんにも食べてほしいくらいなんです。 僕がパン職人を目指したのもそこのパン屋さんがきっかけなんです」
熱く語る浩太の言葉にあった、食中毒を出したパン屋が引っかかる。浩太は地元の高校出身で、このあたりで食中毒を出したパン屋と言ったらゆかの実家のパン屋しか思い浮かばないのだ。
「ねぇ、それってもしかして――」
まさかと思ってゆかが実家のパン屋の名前を出すと、浩太の瞳がみるみるうちに見開かれていく。元々大きかった瞳はもうほとんどまん丸だ。
「嘘っ、ゆかさんのご実家だったんですか……?」
「うん、そうみたい」
不思議な縁だと笑うと、なぜか浩太の眉間にしわが寄った。どうしたのかと問うと、浩太は少し迷いながらも口を開く。
「……隣町の増田ってパン屋さんがあるんですけど、昔ゆかさんのところで売っていたケーキパンにそっくりなパンを見かけたんです。それに……〝田舎の米屋さんのパン便り〟に似たパンとかも……」
浩太の言葉にゆかは背後から殴られたような衝撃に襲われる。
ケーキパンは小さい頃にゆかのために両親が作ってくれたパンで、ゆかの誕生日は決まってこのパンを食べた。また〝田舎の米屋さんのパン便り〟はゆかの母の実家が米屋で、そこと提携して売り出し始めたオリジナルのパンだ。ちゃんと商標登録もしてある。
元々、そのパンが美味しいとテレビで取り上げられたことをきっかけに人気が出て、このままでは供給が追いつかないからと店を広げることにしたのだ。
常連さんや地元の人に届かなくなっちゃうのは問題だから、と微笑む両親の顔を今でも鮮明に思い出すことができる。
ゆかは、そんなことあるはずもないと思いながらもとなり町のパン屋の事を疑わずにはいられない。真実が知りたい。もしかしたら、両親の汚名を晴らせるのではないだろうか。
とはいえ、十年前のことだ。証拠を探すのも難しいだろう。
「あの、ゆかさん……」
考え込むゆかに、浩太は恐る恐る声をかける。
「ご実家のパン屋さん、そのまま残ってますよね?」
「え……? う、うん」
浩太の問いに戸惑いながらも答えると、浩太は逡巡した後に勝手な意見なんですけど、と切り出した。
「他の社員の方から聞いたんですけど、ゆかさんはご実家のパン屋さんを復活させるために頑張って、貯金もしてるって……だったら、復活させませんか?ご実家のパン屋さん」
浩太が何を言おうとしているのか、ゆかにはすぐに分かった。浩太もゆかと同じように疑っているのだろう。
決めつける訳ではないが、もし食中毒の件を仕組んだのが増田だったとしたら、ゆかがパン屋を復活させたら不都合だろう。
ゆかの貯金でリニューアルと運転分の資金は賄える。実は以前からそろそろ独立するべきではないかとも考えていたのだった。
もし増田が犯人であったとして、また同じことをするとは限らない。しかし、増田が犯人でもう一度同じことをした場合には、両親の冤罪の証拠を手に入れることができる。何もなかったとしても、もともと独立するつもりだったゆかには不都合はない。
「分かった……私、やってみようと思う。貯金もあるし、機械もあるし……あとは、手伝ってくれる友達とかあたってみるよ」
ゆかがそう言うと、浩太はほっとしたように顔を緩ませた。
「……良かった、出過ぎたことを言ってしまったなあって、言った後にすぐ後悔しました。僕でよければですけど、お手伝いさせてください。言い出したのも僕ですけど、と言っても仕事の後とか休みとかにはなってしまうんですけど」
頬をかく浩太に、ゆかは大歓迎だと伝える。むしろ経験者である浩太が力を貸してくれるのは有り難いし、浩太が親身になってくれることも嬉しかった。
「本当? 嬉しい、ありがとう……!」
ゆかが微笑むと、浩太の頬が心なしか赤くなった。
最初は浩太に食事に誘われて、それから一緒に食事をしたり気になった映画を一緒に観に行ったりするぐらい仲良しになった。
ゆかが実家パン屋を復活させると友人たちに話すと、地元でOLをしている横田薫が手伝いをしてくれるという。仕事の空きなどになってしまうけどと言う薫に、忙しいのではないかと問うと、前夫の世話がなくなったから時間に空きがあるのだと明るく笑った。
ゆかが工房に退職届を出すと、どの社員も惜しんでくれたが、ずっと夢だったものねと送り出してくれた。「上手くいかなかったらすぐ戻ってきていいからね!」と言いながらゆかの肩を叩く箕輪に「縁起でもない」と立花が苦笑しながら言った。
ゆかは引き継ぎをしながら、店内のリニューアルの手配をした。厨房と機械類はゆかがパン作りの練習で使うこともあったので、問題なく使うことができた。
「うん、どれも美味しいよ……! 本当、小学生、中学生、高校生の頃に毎日食べてたあの味と同じ! もう二度と食べられないと思ってたのに!」
ゆかは両親の残したレシピをもとに作ったケーキパンと田舎の米屋さんのパン便りを完成させ、薫に試食を頼んだ。パンを食べた薫は飛び跳ねて懐かしいと喜んだ。
両親の残したレシピと、ゆかがこの十年で考えたうちで良い出来だったパンを販売用として作ってみた。いくつか試食しながら薫の意見も聞きつつ、時間やその他コストを考えて販売用のパンの最終選考をする。
「すみません、遅くなってしまって……」
大方候補が絞れたところで、工房での仕事を終えた浩太がやってきた。言い出したのは自分だから仕事を辞めてパン屋を手伝ってくれると言っていたが、入社一年目ですぐに辞めるのも良くないと思い、それについてはゆかが断った。
「……じゃ、私はここで失礼するよ。 懐かしい味も堪能できたことだしね」
ニヒルな笑みを浮かべて、手を振りながら薫は去っていく。元々さっぱりした性格だったが、離婚を経験してからより逞しくなった友人の後ろ姿を見つめる。
「ゆかさん、これ食べていいですか?」
「え、ああ、うん」
試食用に切り分けたパンの中から田舎の米屋さんのパン便りを手に取って浩太は口に運ぶ。ごくりとつばを飲んだあとに、パンが口の中に消えていく。
いくらか咀嚼して、浩太の頬がほころんでいく。そして、その頬に一筋の涙が伝う。
「……えっ、浩太くん!?」
浩太の涙に驚いてゆかが立ち上がると、浩太は違うんですと手でゆかを制した。
「違うんです、懐かしくて……最後に食べたあの味と全然変わってないから。もう二度と食べられないと思ってたのに」
その言葉にほっとしてゆかは再び椅子に腰を下ろす。確かにゆかもかなり自信があったけれど、浩太が涙を流すほどに味を再現できているのだと思ったら安心した。
それから一週間ほどして、ゆかの店はオープンした。田舎町で新しいお店がオープンすることはあまりないことから、開店して一週間は目が回らないほど忙しかった。パン工房の人たちも来てパンを買っていってくれたし、意外にも食中毒については誰も言及せず、パンが美味しいと良い声ばかりが届いて、かえって不安に思ったほどだ。
怒濤の一週間を過ごし、その後は少し客足も落ち着いたが、それでも店は忙しかった。開店からゆかの友人や浩太、薫が手伝ってくれなかったらどうなっていたことか。
薫はOLを辞めてパン屋を手伝ってくれるようになった。アルバイトも雇い、ゆかはパン作りに専念できるようになった。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年10月18日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス