棋士は一局の戦いのなかに自己の思いを結実させるべく、一手に呻吟する。
封じ手にはその思いが結晶している。
その秘められた一手にはどのように生み出されたのか。
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この本はタチヨミ版です。
真新しい畳が敷き詰められた和室の中央にどっしりと構える碁盤を挟んで、和服姿の二人の棋士が盤上に散らばる石に命を吹き込むべく全精神を集中していた。手番となっていた若い方の棋士は幾分前屈みになって細い顎の先に右人差指を軽く当て、時おり顎をつんつん叩くようにして、次の一手の読みに耽っているように見えた。上座に座る今を時めくタイトルホルダーは、腕組みをしたまま若い挑戦者とは対照的に背を反らし、挑戦者ごと見下すような格好で盤上を睥睨していた。二人の真摯な姿勢が対局室に醸し出す厳粛な雰囲気にかかわらず、当の両人は至ってリラックスしているように見えた。床の間には『喫茶去』と書かれた墨書の額が掛けられ、その前には信楽の小ぶりの花瓶に一輪の椿の花が生けられていた。短い冬の日がとっぷりと暮れ、二日間にわたる七番勝負第一局の会場となった老舗旅館にもようやく一日目の対局の終わりが近づいていた。対局室の窓の外に広がる日本庭園の小径を照らす庭園灯の灯りがぼんやりと周囲の草木を浮き上がらせ、その幽玄な雰囲気は、遠くから微かに聞こえてくる琴の音とともに、一日の終わりを迎えようとする対局室にも漂っていた。
さて、その日その場に二人を引き合わせたものは何であったのか。実力と言ってしまえばそれまでだが、予選から勝ち上がり、強豪ひしめく挑戦者決定リーグに名を留め、その中でただひとつの挑戦権を勝ちうることが棋力だけでなしえないものであることは、リーグに所属したことのあるプロ棋士なら誰もが感じていることであった。
両対局者を真横に見る位置で惹きこまれるように盤面を見つめていた背広姿の若い記録係が、我に返ったようにテーブルに置かれた腕時計を見た。それとほぼ同時に、記録係の後ろの襖が音もなくスーッと開いて、しばらく席を外していた立会人の高楠九段が腰を屈めるようにして対局室に入ってきた。和服を着た高楠は、記録係の若い男女二人の棋士の間に割り込むように座を占めると、腕時計を外してテーブルの上にそっと置き、羽織の両袖口から手を入れて腕組みをしたままその時計をじっと見つめていた。
経験豊かな立会人の高楠九段は、厳しい勝負の世界の荒波の中で、トップ棋士として長年囲碁界の第一線に君臨し続けた高名な棋士であった。初老に差し掛かり、さすがにタイトル戦への登場は遠ざかっていたものの、額には幾度も修羅場を潜り抜けてきた歳月を思わせる深い皺が刻まれ、白いものの勝った頭髪は茫々と乱れて、野武士のような風貌を漂わせていた。怖いものなど知らないかに見える立会人であったが、いま自分に任されているその大切な時を迎えて、さすがに緊張のせいかこめかみがピクリと動いたようだった。時間を見計らっていた立会人は、一呼吸入れると両手を袖口から出して膝の上に置き、背筋をすっと伸ばして両対局者に封じ手の時間が来たことを告げた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年10月29日 発行 初版
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