赤い八角形の木箱と係りの男が、特設会場にされた空き店舗で待っていた。男に券を一枚渡して木箱のハンドルを握り、おもいきり廻したが一回転ではなにも出ず、もう一度ゆっくり動かすと、想像していたよりも手元に近く、だらしない放物線を描いて黄色い玉が転がり出た。わずかな沈黙のあと、係りの男が大袈裟にハンドベルを振った。
「三等です。おめでとうございます」
シャッターを落とした店が三割くらいはある商店街で、人通りも皆無な中、ハンドベルの音は虚空へ反響する。私は思わず目を泳がせた。対面する男の背後に、景品の一覧が掲示されている。一等・炊飯器、二等・図書カード五千円分、そして三等・コオロギ。
疑問に思う間もなく、男が足元から一抱えほどの紙袋を持ち上げ、こちらへ差し出す。はずれを引き、ポケットティッシュをもらって済ますつもりだったのに、予想外だった。彼は満面の笑みで、こんないいものが当たるとはなんて運のいい人だろう、と言葉にせずとも語っていた。その笑顔に気押されるようにして受け取る。釣りこまれて薄笑いも浮かべてしまう。
きびすを返し歩きながら、手元の袋を窺った。プラスチックの青い籠目が見え、昆虫用のケージだとわかった。かすかに鳴き声も聞こえる。コオロギという商品名の日用品かなにかかもしれないと期待したが、本当に生きている、昆虫の、コオロギなのだ。
福引きに当たったこともそうだが、景品にコオロギがあるとは思いもよらなかった。虫など飼ったことがないし、そもそもほとんどの虫を触れもしなかった。黒い、それから羽を震わせて鳴く。私が思い出せるコオロギの特徴はそんなものだ。
戸惑ううちに家に帰り着き、私は玄関の片隅に、紙袋ごとケージを置いた。ケージは沓脱ぎを半分ほども占領する大きさで、出しっぱなしだった靴をいくつか脇へ押しやらねばならなかった。
冷蔵庫に買ってきたキャベツをしまおうとしてふと、コオロギはキャベツを食べるのでは、と考えつく。少しだけちぎってケージに入れておくことにする。青い籠目の蓋についていた透明の跳ね上げ窓から、キャベツの欠片を放り込んだ。覗くと、黒い土の上に紙カップのようなものがいくつかうつ伏せてあるのが見え、コオロギの姿はなかった。鳴き声だけはさっきからずっとしているので、どこかに隠れているのだろう。飼いたくなくてもさすがに餓死させるのは気が引け、餌をやったのでひとまずはよし、ということにして、私は自分の食事に取りかかった。
部屋に入れたときから薄々感づいていたが、夜になるとコオロギの鳴き声はより響くように思えた。何重奏だか見当もつかないほどの一大オーケストラが、睡眠を妨げる。ケージに背を向け布団にもぐって耳を塞いでも、あまり効果はなかった。
外へ出してしまいたいが、ベランダは人の足幅もない、柵と呼んだほうがふさわしい広さだし、玄関前の共用廊下にものを置くと、火事が起きて逃げなくてはならないときにきっとつまづくという理由で隣人に文句を言われる。私はケージを紙袋ごと部屋の真ん中に移動して、暗闇の中、しばらく思案した。
コオロギは場所などにはまったく構わず、朗々と歌を鳴り渡らせている。この声の様子だとケージにいるのは数匹では済まないだろう。とりあえず、何匹いるか見てみることにした。
灯りをつけ、ケージの蓋に手をかけて持ち上げる。下の透明なプラスチックケースが袋からすべて姿を現したところで、パカリと間の抜けた音がした。ケースは畳へ横倒しになり、あっけなく外れた蓋だけが私の両手に残る。黒い土と、白い紙カップと、キャベツの欠片が撒き散らされた。もちろんコオロギも。
コオロギは跳んだ。蓋を手にしたまま呆然とするだけの私を尻目に、危険な事態になったことを一匹残らず察知し、落ちたケースから放射状に、脇目もふらず散開した。足がもつれるような愚鈍な者は一匹もいない。数は予想していたよりもずっと多かった。しかし一跳びで彼らはあらゆる暗がりに消え、何匹いたかなどわからなくなった。
部屋が静まりかえる。さっきまであれだけ盛んに鳴き交わしていたのに、急に事切れたかのように沈黙を守っている。
私はとりあえず床に腹ばいになり、ベッドの奥の暗がりに目を凝らした。なにも動く気配はない。埃の塊が二、三、目につくだけだ。
しばらく監視していれば、油断してひょっこり顔を出すのではないか。そう思ってじっと辛抱した。しかしたいした時も経たずに、体を支えている腕がわずかに震えだし、そばにこぼれたままの土の匂いが鼻につき、部屋の静けさが妙に耳へ沁みてくるのも気になった。コオロギが背後に忍び寄っているかもしれないと余計なひらめきが起こり、ついに堪えきれず、体を起こした。
プラスチックケースの底がひび割れていた。土は畳を一畳ちかく汚し、編み目に入り込み、ひどく冷たく湿っている。ほじり出そうとして爪の間に詰まらせ、うまく洗い落とせず、いつまでも手には土の匂いが残った。
以来、コオロギは私の目に触れることなく部屋に住み続けているらしい。夜に鳴き声だけがする。彼らは控えめで礼儀正しく、私の生活を脅かさない。もっと静かにしてくれるとよりよいのだが。
2021年11月1日 発行 初版
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