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この本はタチヨミ版です。
窮屈な階段を駆け上る。アパートの外廊下の床は黒いカムがへばりついたコンクリート、壁はとげとげのモルタル。一月の外は寒い。家の鍵を持っていない鉄平はランドセルを降ろして床に置くとその上に座った。中でガシッと厭な音がした。筆箱が潰れたのかもしれない。
母はきっと伊藤さんのところで内職の手伝いをしているのだろう。お茶飲み友達の伊藤さんは母の高校の同級生だった。もとより伊藤さんは多趣味で、たくさんの仕事や趣味をやっていた。母は伊藤さんのところでおしゃべりの相手をしながら、内職の手伝いをして働いた分のお小遣いをもらっていた。 家の前の鉄平は、壁の隙間から見える夕日に反射する風景を見ていた。街に並ぶビルの窓は、夕日に目を細めてまぶしそうにしているようだ。急にランドセルが可愛そうになり、ランドセルから降りてコンクリートに直に座った。半ズボンのお尻からコンクリートの冷たさが伝わってきて、しばらくするとお尻が無性に痒くなってくる。いてもたってもいられなくなると立ち上がり、玄関のドアノブを回した。意に反してドアノブを回すとドアがすんなりと開いた。家の中に入れる。誰かいたのだろうか、家の中に声をかける。
「お母さん」
誰もいない。お尻の冷えが腰まで届いて、がに股歩きで家の中に入った。ランドセルを置き場所に置く。夕方の家は薄暗くて不気味で嫌な感じだ。照明からぶら下がる紐を引っ張って明かりをつける。 まだ誰も帰ってきていない。こんな時鉄平の一番の楽しみは、テレビをつけることだ。つけると、誰かがNHKを見ていたのだろう、最初に映ったのは大相撲中継だった。誰かが帰ってきたらすぐにわかる場所に移動する。外の様子もわかるし、テレビも見えるそのポジションが絶好だ。テレビの色が徐々に濃くはっきりしてきた。音はほとんど出していない。大きな音で鳴らすわけにいかないからだ。チャンネルをひねるときだけテレビに近づく。ガチャガチャと音がするのでそれも注意して行う。外を伺いながら一つ一つチャンネルを変えていく。夕方は地域のニュースばかりで、まるで見るものがないけれど、鉄平は一人でテレビをつけていること自体に邪悪な幸福を感じていた。チャンネルを変えては窓の外が眺められる位置についてテレビを見る。
薄いのに長い不思議な髪をした男が踊っている番組を見つけた。NHK教育。クラッシックコンサートなのか。 鉄平は指揮者のフリまねをしてみた。指揮者はオーケストラを前にして指揮棒を振る。沢山の音楽家がその指揮者を見つめ、その一挙手一投足に全神経を注いでいる。あれだけ大勢の、しかも天才みたいに音楽が上手い人たちを思い通りに操って、素晴らしい音の世界を作り上げている指揮者。それを見た鉄平は唐突に、なんの根拠もなしに指揮者になりたい、いや、なるんだ! と強く心に決めた。
誰かが帰ってくる音がした。玄関の鍵が開けられ玄関ドアが急に開いた。父が酔っ払って帰ってきたのだろう、慌ててテレビを消す。
「なんだ、勝手にテレビ観てたのか。お前が今観てたのは指揮者って言うんだ。俺だってそれぐらいわかってるんだよ」
父はことあるごとに中卒でも俺はそんなに馬鹿にされる存在ではないと敵意をむき出す。鉄平は社会がしてしまった父への攻撃の反撃をくらい、ひとりうつむいて耐えていた。父は昔自衛隊にいたことがある。その頃つけた足の傷をかばいながらゆっくりと畳の上に座るのが父の仕草だ。
「おい、鉄平酒買ってこい! タバコねーな。鉄平、タバコ探してくれ」
外に出られると、命令に合わせて動こうとした鉄平は面食らい振り返った。
「どっちだよ!」
父の前ではしょんぼりしていなくてはいけないが、情けない口ぶりをするとそれもまた怒られる。父が好きな、お笑い番組のような口調でツッコミをして見せると、父はケタケタと笑い転げた。父のおめがねにかなうように、いつも自分の発言や態度を修正しながら行っていた。
鉄平は中学を出るとすぐに近所の小さな工場に働きに出た。母が作ったおかずは佃煮だけの弁当を持って、来る日も来る日も工場に通った。六畳と四畳半の二間の部屋で自分の好きなテレビを見る事さえ出来ない。鉄平は家に金をちゃんと入れるからアパートを借りていいかと母に訊いた。給料の三分の二を入れるなら何をしてもいいと父が言った。
給料の三分の一で生活するために三畳のアパートを借りて生活を始めた。お金が足りないので、一日一食しか出来ない。工場の社長が月に一度だけ近所の居酒屋に連れて行ってくれる。今の鉄平にとって、それだけが楽しみだった。その居酒屋に里美という可愛い女の子が働いている。まだ二回しか会ってはいないが、初めて会った時からこの二ヶ月、気がつけばその子の事を考えている自分がいた。薄幸そうなやせた子だ。女の子を見て胸の鼓動が高鳴ったのはいつぶりだろう。
今日も月に一度の楽しみの日だった。上機嫌の社長の横で、鉄平が里美を見つめていると目と目があった。彼女は恥ずかしそうに頬を染め、下を向いた。
可愛い。話してみたいな……と強く思った。
それは彼女も同じだと思う……。
いや、同じだろう……。
いや、同じであってほしい……。
鉄平はまだ酒を飲める年ではない。
「鉄平、内緒だぞ! 明日は工場も休みだし一杯ぐらいどうってことない」
社長の押しで焼酎四:六の水割りを飲んだ。見た目は水にしか見えないが猛烈に酔ってしまった。
鉄平は自転車で居酒屋からの帰りに派手に転んでしまった。そこに仕事が終わった里美が通りかかった。
「鉄平……さん」
社長が店の中で、なにかにつけ鉄平、鉄平と言うので覚えてくれたのだろう。鉄平のズボンが破れて血が出ている。里美はカバンからハンカチを取り出して傷口に当てた。里美に肩を貸してもらいアパートまで帰ると、里美は息を切らす鉄平の代わりに鍵を開けてくれた。鍵を返して帰ろうとする里美の腕にしがみつき、鉄平はもう少し一緒にいてくれと頼んだ。
あまりよく知らない男の人の部屋に入るなんて……と里美は戸惑いをあらわにしたが、鉄平は信じてくれと里美の目を覗きこんだ。
「絶対何もしないから」
その夜、鉄平のアパートに泊まった里美。鉄平は傷と酔いでうめきながら小さい頃からの夢を語った。里美は鉄平の叶わない夢に同情した。
「鉄平さん、年はいくつ」
「まだ十六だよ」
「夢って、そんなに簡単にあきらめていいものじゃないわ」
「あきらめてなんかいないよ。ただこの先どうしたらいいのか、時々不安になるんだ」
「頑張って、応援してる。きっとうまくいくから」
「でもな、給料の三分の二は親に渡さないといけない。今だって一日に一食にして我慢してる。
月に一回、社長が里美ちゃんの働いてるお店に連れていってくれるときだけ、その時だけ腹いっぱい食えるんだ」
鉄平はそう言って力なく下を向いた。
「鉄平さん、私あなたのために働く。今はおばさんの家にお世話になってるんだけど、ここに来て働く。だからいっしょに夢叶えよう。私、夢なんてなかったけど、鉄平さんの夢が私の夢になったよ」
「本当にいいのかい」
「鉄平さんの夢が私の夢!」
鉄平は喜んだ。でも目の前の里美がどうしてそんなに嬉しそうなのかが分からなかった。そんな夢みたいな事出来るはずがないのに。
「里美ちゃん、ありがとう」
里美を抱きしめた。
翌日、昼過ぎに目覚めた鉄平はおどろいた。
「おはよう」
きちんとした食事と荷物、嬉しそうな里美。
「出て来ちゃった!」
楽しそうに里美は言った。鉄平は嬉しいよりも大変なことになったと、責任の重さにつぶされるような気持ちになった。それから里美は昼と夜働き出した。二人で食べるだけなら居酒屋の給料だけでも充分だけど、鉄平の学校の為にお金が必要になる。少しでも貯金しないといけない。居酒屋が終わるまで働いて帰ってくると、里美は居残りの客が帰らなかったとべそをかいて訴えたり、酔客にからまれた話を鉄平に聞かせた。鉄平はいつも約束した。
「僕が早く指揮者になって里美に楽させてやる」
里美はそれを聞くと安心していつもすぐに眠ってしまった。
中学しか出ていない鉄平を夜間高校に送り出した後、里美は三畳の部屋で一人うなだれた。鉄平の夢を後押ししたいと思うが、あまりにも遠すぎる。ところが鉄平はその他の夢を持ったり、自分の夢に迷いがあったりはしない。いつか必ずゆっくりとでも夢は叶うと信じているのだ。
いつの頃からか、鉄平は〝夢は叶うん種〟という種を心の中に持っていると事あるごとに言い出した。その種を持っているから、夢は叶うん種! 絶対、ふたりで幸せになれるん種! と、眼を輝かせて言う
鉄平は純粋すぎるところがある。だが現実に考えると絶対的にありえない。今でも鉄平は昼間、工場で働いている。そして里美に出会ってから、ようやく夜間高校に通いだしたところだ。まだ音楽の勉強を一から始めるそのきっかけすらつかめていない。里美にもどうやって勉強したらいいのか、誰に頼ったらいいのかさっぱりわからない。だが不思議と鉄平のことを思い出せば、鉄平の近くにいれば、人生はなぜだかうまくいく、そう信じられる勇気が湧いてくる。だからこそ里美は鉄平が好きだった。鉄平がもたらしてくれる勇気が好きだった。また鉄平が作り出す音楽を里美が一番聴きたいと願っていた。
里美は居酒屋のアルバイトへの準備を整えると、家の掃除をして外に出た。帰りは鉄平より遅くなる。今日は予定ではアルバイトの人数が少ない。その分だけ仕事は忙しくなるが、まかないの残りが多く出れば鉄平の晩御飯に充てることができる。そのことも期待しながら里美はアルバイト先へ向かった。
風が強い、空は暗く雲はもう既に夜の闇に紛れて見えない。雨でも降ってきそうな気配だ。お客さんは来ないだろうか。それならば片付けてない倉庫の中をもう一度掃除し直さないといけない。長い横断歩道の向こう側、歩行者信号の青が点滅しはじめる。里美は渡るのを止めて横断歩道から離れたビルの影に入った。この長い信号のために、ずっと吹きさらしの風に吹かれるわけにはいかない。影に隠れるとそこには何名かの先約がいた。小さく会釈すると里美は信号が変わるのを待った。
「すみません」
伺うように下から顔をのぞかせる女性がいた。
「もしよろしければお伺いしたいことがあるんですけれど、少し時間いただけませんか」
里美は信号が変わるまでの時間だと思って返事を返す。
「どうかしましたか」
「テレビの、あなたの夢叶えまショーと言う番組なんですが。今あなたは何か夢はありますか」
少し大変なことになった。里美は早く変わってくれないかと信号の方をすがるように見るが、 まだ信号は赤のまま。
その様子を察したディレクターはさらに頭を低く下げてお願いする。
「すいませんお時間を取らせませんので、少しの時間でいいので」
「あなたはどこにお住まいですか。この近くですか? どういったお仕事されてるんですか」
こちらがまだ了解していないのに矢継ぎ早に質問を重ねてくる。里美は仕方なく返事をした。
「この近くのお店でアルバイトしています」
そう答えるとディレクターはほっと安心したように里美に笑顔を向けた。ディレクターとは思えないキレイな顔立ちをした女性だった。
「何か叶えて欲しい夢がありませんか」
「私にはないです」
「私には、と言う事は他の誰かにはあるんですか」
そう聞き返してきた。なかなか勘の鋭い女性だ。
「一緒に住んでいる彼が将来指揮者になりたいって」
「オーケストラの?」
「そうです。彼が指揮者になりたいって言ってるんです」
「すごい。かっこいい! 指揮者目指してる彼とか、めちゃかっこよくないですか」
わざとらしく女性ディレクターが驚くと、カメラマンもカメラを縦に振って同調する。なんだか気持ちが良くなってきて、里美は自分の手柄のような気持ちになってきた。(夢がある鉄平を選んでよかったー!)心の中で叫んだ。
「なかなかなれないのは分かっているんですけど。途方もない夢で」
「男らしいですよ」
「だけど彼、中学しか卒業してなくて。お恥ずかしながら」
「いえいえ、素晴らしい夢です」
「そうですか?」
「では今言った事を、カメラに向かってお願いします。スタジオにはタレントの原さんがいますので、そちらに向かってお願いの形でおっしゃっていただけませんか」
気がつくと数名の野次馬がいた。居酒屋のお客さんかもしれない。猛烈に恥ずかしくなってくる。
「いや私ちょっと、もうアルバイトの時間が」
本当はアルバイトの時間にはまだまだ十五分以上の余裕があるが、恥ずかしくてこれ以上関わるのもいやだ。
「でもあなたの彼の夢が叶うかもしれませんよ。途方もない夢だからこそここでお願いしてみませんか」
里美はしぶしぶ、まるで神社の神様に祈るように手を合わせて頭を下げた。
「原さん、スタジオの皆さんお願いします。私の彼はろくに学校も行ってないんですが、オーケストラの指揮者になりたいんです。私の彼の夢を叶えていただけませんか。どうかよろしくお願いします」
深々と頭を下げた。
アルバイトが終わり、ほんの少し残ったまかないの残り物をぶら下げてアパートに戻ると鉄平はテレビの音を消していた。音がないから何の番組かわからないが荒々しい山肌がずっと続いている。風景の番組だろうか、それとも地理の教育講座だろうか。里美はまかないの食べ物を鉄平の座っている横に置くと狭い部屋のゴミを片付けた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年11月19日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス