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この本はタチヨミ版です。
鍋山琴絵は、大きな風呂敷包みを抱えて、ごめんください、と大きく声を掛けた。
夫の悠太郎は下級藩士で、正直なところ、それほど稼ぎはよくない。
幸いだったのは、悠太郎がそれでも威張り散らすような下卑な男ではなく、苦労を掛けるな……、と普段から琴絵を労ってくれる気のいい男だったことだろう。
見合い結婚ではあったけれど、琴絵はそんな悠太郎のことを心から慕っていたし、彼と共になら、少しくらいの苦労は屁でもないと思っている。
針仕事を受けて家計の足しにしようと思っている、と言い出したのは、琴絵の方からだった。
悠太郎は「すまない」と謝ったけれど、琴絵にとっては謝られることなんてちっともなかった。
元々、針仕事は嫌いではなかったし、家にいてもそれなりに縫物はするのだから、その数が少し増えたところで大した負担でもないのだ。
この家の老夫婦は、時折琴絵に針仕事を頼んでくれる、いわゆる常連客だった。
奥さんの目が悪くなってきて、そろそろ針を持つのが大変だから、とよく琴絵に声を掛けてくれるのだ。
ふたりが家を空けることはあまり多くはないから、琴絵がこうして声を掛ければ、すぐに返事が来るのが常だった。
珍しいな、と思いながら、琴絵はもう一度「ごめんくださーい」と声を掛けてみた。
やはり、返事はない。
名前を呼んでみても、結果は同じだ。
出かけているのだろうか、と一瞬考えて、けれど琴絵は自分の考えを否定するように首を横に振った。
奥さんの方が買い物に出ることはあるけれど、ふたり揃って家にいない、というのもおかしい。
ふたりとも結構な年だから、なんて不安が頭を擡げれば、触発されるように悪い考えばかりが琴絵の頭を駆け抜けていった。
もし本当に留守だったら、返事がないのが珍しかったから心配した、と素直に言えば許されるだろう。
そんな考えで、琴絵は玄関の引き戸へと手をかけた。
ガラガラ、と音と立てて引き戸を引いて、駄目もととばかりにもう一度「ごめんください」と声を掛けてみたけれど、やはり返答はなかった。
家中がシンと静まり返っていて、人の気配も感じられない。
やはり留守だったか、と引き戸を閉めようとした瞬間、琴絵は陰になった暗がりに二本の棒を見つけた。
「ひっ!」
その棒が、人の足であると気付いた瞬間、琴絵は思わず大きな悲鳴をあげてしまった。
「きゃあああっ!」
救いを求めるように叫びながら家から転がり出た琴絵に、近所の者たちが驚いて大勢駆けつけてきてくれた。
数人が中を覗きこみ、役人を呼んで来い、なんて声が飛び交う。
琴絵は仕立て直したばかりの奥さんの着物をしっかりと抱きしめたまま、地面にへたりこんでいることしかできなかった。
暫くして役人がやってきたが、一番偉そうな役人は他の者が家の中に入ることを許さずに、散々家の中を歩き回った後、老夫婦の遺体を確認しながら、ふん、とひとつ鼻を鳴らして琴絵を振り返った。
「おまえが犯人だな。……来い」
「えっ?」
強い力で肩を掴まれて、せっかく仕立て直した着物がポロリと道に転がった。
驚いている琴絵に構うことなくその体を引き摺ろうとする役人に、琴絵はせめて、と足を突っ張ろうとしたけれど、男の力に敵うはずもない。
「あれっ? ヘソクリがない……」
どこかから、そんな声がした。
老夫婦が玄関の棚にヘソクリを仕込んでいることは、近所の者なら誰でも知っていた。
隠し場所を咎められる度に、ふたりは「いい人ばかりだから大丈夫だよ」と答えていたのだ。
それなのに。
近所に住む男たちからそのヘソクリの話を聞いて場所を確認した役人は、呆れたような視線を琴絵へと向けた。
「殺しただけでなく、金にまで手を付けていたのか」
「違っ、違いますっ! 私は着物を届けにきただけで……珍しく返事がなかったので、心配して中を覗いたんです! 家の中には、一歩だって入っていません!」
「口ではなんとでも言えるからな」
琴絵は本当のことしか言っていないのに、役人は耳を貸してもくれなかった。集まってきていた近所の者たちも、琴絵を見ながらヒソヒソと話をしている。
その中に、幼い女の子の姿もあることに気付いて、琴絵は愕然とした。
その少女は、老夫婦の四件隣に住んでいるチエという五歳の女の子だ。
琴絵とも、何度か挨拶を交わしたことがある。
そんな幼い少女すら、琴絵が老夫婦を殺したと考えて噂話をしているのだと思うと、琴絵は悔しい思いでいっぱいになった。
その知らせを受けて、悠太郎は飛び上がって驚いた。
悠太郎に知らせに来てくれた近所の者も、信じられない様子だった。
琴絵が、悠太郎の妻が、泥棒として役人に連れていかれたというではないか。
よくよく話を聞けば、殺人の罪も負っているという。
琴絵に限ってそんなことがあるわけがないと確信した悠太郎は、着の身着のまま、奉行所へと駆けだした。
あろうことか、琴絵が連れていかれたのは近所の誰もが知っていたへそくりがなくなっていた、という理由らしい。
誰もが知っていたのであれば、誰もが奪うチャンスを持っているにも関わらず、だ。
どんなに貧しくても、清く正しく生きてきた。
もちろん、子供たちにもそれを言い聞かせて育ててきたつもりだ。
琴絵が罪を犯すわけがないと、悠太郎は自信を持って言うことができる。
だからこそ、悠太郎は絶対の自信を持って奉行所の前で「妻に会わせろ!」と叫んだ。
怒鳴った、と表現しても差し支えはないであろう乱暴さになってしまったけれど、大切な妻が無実の罪で狼藉を受けているのだ、冷静になれという方がおかしな話だろう。
いかほど、叫び続けていただろうか。
ついに、門の奥からひとりの役人が出てきた。
ようやっと願いが叶えられるのだ、と喜び勇んで役人の元へ駆け寄ろうとした悠太郎を門番が羽交い絞める。
やってきた役人は、どこか勝ち誇ったような顔をしていた。
「おまえの妻が、罪を認めたぞ」
「……えっ?」
そんなバカな! そう叫びたいのに、喉が引きつったように声が出なかった。
「罪人に会うことはできない。さっさと帰るんだな」
シッシッ、と犬でも追い払うように手を振られ、門番に投げ出されるように道に追い立てられて、けれど悠太郎はすぐには動けなかった。
情けないことに、予想外のことに驚きすぎて腰が抜けてしまっていたのだ。
早く行け、と足腰を蹴られながら、なんとか立ち上がった悠太郎はよろよろと奉行所の前を離れた。
琴絵が罪を認めたと聞かされても、悠太郎は琴絵を信じていた。
罪を犯すわけがない、と信じられるくらいには、長く隣で過ごしてきたのだ。
失意のどん底で肩を落として歩く悠太郎を誰もが避けて歩いたけれど、たったひとり、幽鬼のような悠太郎に駆け寄ってくる小さな影があった。
「おじちゃん!」
幼子特有の、少し高い声。
悠太郎がそちらに目を向けると、チエが肩で大きく息をしていた。
息せき切って、悠太郎の元まで駆けてきてくれたらしい。
「どうしたんだい?」
残念ながら、幼女が相手とはいえ優しくするほど悠太郎に余裕はなかった。
優しさのカケラもない悠太郎の声に、チエは少しだけ怯んだようだったけれど、それでも意を決したように話しはじめた。
「おばちゃんは、犯人じゃないの!」
「えっ?」
悠太郎は詳しい話を聞こうと、道に膝をついてチエと視線の高さを合わせた。
「わたし、見たの。隣のおじさんが、おじいさんとおばあさんの家に入っていくところ。しばらくすると、中から『助けて』って声がして、そのあとすぐにおじさんが家を出て行ったわ。懐が膨らんでいたけれど、なにを持っていたかはわからないわ。わたし、怖くてジッと様子を見ていたの。そしたら、風呂敷包みを持ったおばちゃんがやってきたの。おばちゃんの悲鳴でたくさんの人が来て、お役人も来たわ……そして家じゅうをあちこち見回った後、玄関の棚から何かを引っ張り出して懐に入れたのよ。お役人もおじいちゃんたちのヘソクリを盗ったの。あのお役人も泥棒なの!」
なんてことだ、と悠太郎は天を仰いだ。
お役人が犯人だなんて、奉行所に行って主張したところで、誰も聞いてくれるわけがない。
逆に、お役人を侮辱した、と罪に問われる可能性だってある。
もしも悠太郎まで捕まったら、子供たちはどうなるというのか。
「かあちゃんにはお話したんだけど、わたしがこれをお役人に言ったら、もうかあちゃんのところへは帰ってこられなくなるって言うの。わたし、怖くて……。でも、おじちゃんにだけは本当のことを言わなくちゃ、って思ったの」
「……ありがとう」
悠太郎は心からの礼をチエに告げた。
大人が子供に向けるには不適切だと思える程の、深い感情をこめた礼だった。
チエは、どれだけの勇気を持って悠太郎に伝えに来てくれたのか。
さよなら、と手を振って去っていくチエに手を振り返して、悠太郎は嘆息した。
今の話でなによりも悠太郎を打ちのめしたのは、老夫婦を襲撃した犯人だ。
隣のおじさん、とチエが呼ぶのは、ひとりしかいない。
悠太郎の父の弟……つまりは叔父……の弥一である。
金にがめつい男で、悠太郎の父と金のことで喧嘩になって以来、関係は疎遠になっている。
このままでは、琴絵は死罪になってしまうだろう。
それも、冤罪で、だ。
こうなれば、なんとか弥一に自首をしてもらわなければならない。
かといって、親しくもない悠太郎が突然赴いたところで警戒されるに違いないし、下手をすれば物言わぬ骸にされてしまう可能性だってある。
「……よし!」
悠太郎はパチン、と自らの頬を叩いてやる気を現した。
悠太郎の立てた作戦は、酷く単純だった。
弥一の部屋の下に細工をすることにしたのだ。
布団を敷くあたりに届くように竹の筒を用意して、外から声を掛けると、布団の下あたりで竹の筒の先に付けたほら貝を通った声が聞こえてくる、という仕組みである。
毎夜毎夜、この仕組みを使って恨み言を囁こう、というのが、悠太郎の立てた作戦だ。
ゴソゴソと弥一の部屋から音がして、次第に静かになっていく。
寝入る直前のような気配を感じ取った悠太郎は、静かにそっと、声を送った。
「弥一さん、私たちをよくも殺しておくれだね。あれだけ、よくしてやったのに!」
ひっ、と小さく息を呑むような音が、部屋の中から聞こえた。
「まったくだ。二日に一度は飯を食わせてやって、たまには小遣いまでくれてやったというのに! この、恩知らずめ! このままのうのうと暮らしていけると思うなよ。毎晩、こうして呪ってやるからな!」
竹からホラ貝を通った声はよく響いた。
部屋からは、許してくれ、なんて悲痛な叫びまで聞こえてくる。
弥一は日に日にやせ細っていった。
こうしている間にも琴絵は無実の罪で手酷い扱いを受けているのだと思うと、悠太郎の毎晩の演技にも力が入る。
そしてついに弥一が自首をしたのは、琴絵の逮捕から十日ほど経った頃であった。
奉行所からは、金一封が添えられた詫びの手紙が届き、それと同時に、琴絵はついに無罪放免となったのだ。
琴絵は、何故か悠太郎が一足先に受け取ったものとは異なる詫びの手紙と金一封の封筒を手に自宅へと帰ってきた。
「おまえ、なんだい、それは?」
悠太郎が聞くと、琴絵はひらり、とその手紙を揺らしてみせながら、お役人からの詫びの手紙と金一封よ、と答えた。
意味がわからずに首を傾げる悠太郎に気付いたように、琴絵は「お役人も、自分がヘソクリの巾着を盗んだと自分から告白したようよ」と教えてくれた。
弥一はともかく、お役人の方にはなにもしていないのに、と不思議に思いながらも、とりあえず悠太郎は琴絵と手を取り合って再会を喜んだ。
「だけど、おまえさんもやるもんだねぇ。お奉行さまの手紙と、あの泥棒役人の手紙に書いてあったけど、毎晩夫婦の幽霊をふたりの枕元に立たせたんだって?」
「……え?」
「誰か雇って、幽霊役を頼んだのかい? ひとを雇うお金なんてうちにはないっていうのに……まさか、借金でもしたのかい?」
「幽霊役を雇える金なんか、あるわけがないだろう? 借金だって、俺みたいなのには誰も貸してくれないよ」
「え? そうなのかい?」
「そうだよ。それに、俺は弥一の家の畳に竹の拡声器は仕掛けたけど、お奉行さまと役人にはなにもしていないよ。……そんな勇気もない」
悠太郎が臆病なことを知っていた琴絵も、確かに、と頷いた。
であれば、答えはひとつしかない。
悠太郎と琴絵は、視線を見交わして、そして。
「ひぇー!」
どちらからともなく悲鳴をあげて、抱き合うようにして畳へとへたりこんだ。
齢十二ながら、大人顔負けの舞と唄を披露する娘がいる。
そんな噂を聞いた男は、噂を頼りに娘を探した。
旅商人や旅役者などに話を聞けば、それは隣の国に住む少女だという。
幼さ故の野心の無さか、家事や内職をする時に楽し気に唄ったり、あいた時間に遊ぶような気安さで舞ってみたりしているだけで、それを飯のタネにしているわけではないらしいが、道行く人々が思わず足を止めてしまうくらいには、洗練された舞と唄だとか。
素人の言葉ではなく、時は金なりを体現する旅商人や、自らも芸の道をひた走る旅役者からの噂だという事実が、その娘の実力への裏付けだろう。
生まれの運と生来の器用さで国の中腹まで上り詰めた男は、けれどそれより上へはいけないだろう、という自覚があった。
けれど、もし。
タチヨミ版はここまでとなります。
2021年12月3日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス