2021年度 法政大学第二高等学校3年生選択B現代文特講を選択した生徒による小説集。
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一
父が刺されたらしい。新幹線で帰ってくるはずだった父は、二度と帰って来なかった。祖母はよく仏壇の前で、父が今何をしているのかを教えてくれた。”空“にいて自分たちを見守ってくれているという父に、学校であったことを毎日報告していた。祖母の家の夜は怖かった。地面が抜け奈落へ落ちるあの恐怖から逃れるために、朝までテレビを見ていた。
二
朝日が長い影を作る。僧侶は門を開き、水平線が出迎える。緑に囲まれ鳥が鳴く境内は、彼にとって世界で最も清潔な場所であった。僧侶は水平線と空の境界に意識を集中させた。父が自分を空のどこかで見守っているとしたら、それはこの境界線上の遥か遠くに違いない。彼はいつからか思うようになった。鼻孔を突き抜ける澄んだ潮風が脳を刺激する。覚めた体で事務作業を終え、法要へ出向く。南無阿弥陀仏を唱え、故人を極楽浄土へ送り出し、遺族に仏の教えを説く。
修行を終えて十年が経つ。彼ももう一人前の僧侶になった。寺に着き、夕食までに読経を終えることができれば、今日も充実したいつもの一日を終えられるはずだった。訪問者が門を叩く。湿った夜だった。
三
老眼の母親は、目を細めずとも遠方の息子を認識できた。八年間の月日を塀の中で過ごした彼はかろうじて面影を残していた。母親は細い腕で力いっぱい息子を抱きしめた。新幹線無差別殺人事件を起こした息子を止めて犠牲になった男性に、母親は感謝していた。その犠牲によって息子が殺めた人数はその一人で済み、最低限ともいえる刑期で出所し、再開を果たすことができたのだから。母親は彼に多くを訊かなかったが、彼は多くを話した。刑務所の中で外見は確かに変わり果ててしまったが、彼の内面は痩せこけてなどいなかった。むしろ自信を得たように落ち着いた、ハッキリとした口調で、「出家したい」のだと話したその顔は、硬い決意と諦観のようなものに満ちていた。そこには、母親が引き留めるだけの隙など存在するはずもなかった。
次に母親を訪れたのは警察だった。数日前の別れ際に息子が見せた最後の顔を、母親ははっきりと覚えていた。彼の死体は崖の下で見つかったと言う。簡単な封筒を受け取る。彼の遺書には八年前の事件のことは語られず、現世への憎しみと神への想いが綴られていた。それは遺書というより手紙に近かった。
「私は自死を選びます。私は人を殺した。私は私を救えない。仏様、どうか哀れな私を救ってください。」
と書かれた最後の文章の筆跡は、情けないほどに震えていた。
彼は凶悪殺人者の器では無かった。それは参列者の誰もが思っていたことだった。黒服に身を包んだ彼らが最後に見たのは八年前の彼だ。母親は額の中で笑う息子を、不思議な気持ちで見つめていた。八年前のアクリル板越しの彼はひどく震え、後悔と謝罪をひたすら口にするばかりだった。いたずらに伸びた髭面は、狼を連想させるにはあまりにも弱々しかった。いったい彼はどこに行ってしまったのだろう。刑務所内の教誨で学んだという仏の教えを独り言のように私に、自分に言い聞かせていた彼は、誰だったのだろう。真っ白な遺骨箱は、現実味を欠いていた。
四
今夜は雨だろうか。恐ろしく生ぬるい風が二人の間を吹き抜けた。僧侶は訪問者を門の中へ招き入れた。彼のスニーカーが境内の石畳を踏みしめる。すっかり暗くなった境内の微かな照明は、僧侶の目がこの男の顔をはっきりと捉えるには不十分であった。部屋のパイプ椅子に座らせて湯を沸かす。黄緑っぽい蛍光灯に照らされる二人を邪魔する者はいない。五十歳くらいの痩せたその男は大事そうに両手で湯飲みを包み込み、出された茶を丁寧にすすった後、改まった様子で両手を膝の上にのせて口を開いた。僧侶をまっすぐに見つめる黒い瞳には、何とも言えない潔さのようなものがあった。
「私は遠い昔、過ちを犯しました。」
男の声は想像よりも少し高かった。
「それからしばらくは、自分が生きる意味が分からなくなって、そのうち自殺しようと思っていました。しかし幸福なことに、私には仏様の教えを授かる機会がありました。仏さまの教えは私の腐った心を慰めてくれたのです。」
僧侶は彼の修行への思いを、深く相槌を打って聞いた。雨の音が大きくなる。彼の話は進み、それが詳細になるにつれ、僧侶の心は八年前に引き寄せられた。この目の前で話す男が何者かであるとして、僧侶の頭に浮かんでしまったのは、考え得る中で最悪の人間だった。
遠い雷の音が僧侶の意識を目の前の男に集中させる。大丈夫ですか。と聞く彼の瞳に変化はなかった。この瞳は僧侶の動揺をとらえている。席を外さずにはいられない。トイレのドアを閉めると雨の音も遠くなり、換気扇の音に包まれる。僧侶はこの時、自分の精神の根底にあって今まで自分を動かしてきた信仰心というエンジンから発せられた不穏な音に気づいた。一刻も早くこの音をどうにかしたいが、そもそもそれを治すために手を油まみれにしたくないという思いがあった。鳴り響くその音に耳をふさぐように、僧侶は目を閉じて深呼吸した。トイレの鍵を閉める。鳴り止まないその音に心底恐怖した。忌々しく、懐かしい感覚と再会する。最近僧侶の精神はあの悲劇について恐怖する回数が少なくなっていた。神の存在に隠れてもっともらしいことを自分に言い聞かせて納得さることで精神を保っていたのだが、それ以前に、それを忘れ去りたいと強く願う一人の人間としての意志の存在が大きかった。ここで今まで遠ざけてきたそれを僧侶の指は正確にフリック入力し、表示されたモノクロの顔写真と彼の名前を瞳に写した。この長年避け続けていた数秒の一連の動作の原動力になっていたのは、信心とも神とも結びつかない、人間本来の純粋な怒りだった。
トイレのドアを開いて再び僧侶が彼の前に現れたときに僧侶がどんな表情をしていたかを知る人間はもうこの現世には存在しない。茶から立っていた湯気はもう消えた。僧侶はこの目の前の死んだ人間の前で手を合わせることもしなかった。この人間だったものを海に投げ捨て、人間だったものが人間だったころを想いながら遺書を手書きで偽造するまでの間、この僧侶が泣いていたのか、怒っていたのか、また無表情だったのかはこの時十分な明かりがなかったからわからない。僧侶はこの一連の動作を完了するまで物証を一切残していない。
五
朝日は変わらず境内に長い影を作る。はるか昔から存在して、これからも存在し続けるであろう、水平線には動揺というものがまるでない。この目の前の神羅万象に感動したとき僧侶は、久しぶりに神を思い出した。僧侶は気分がよかった。澄んだ空気に包まれ、水平線を臨み、鳥の鳴き声と遠い波の音に耳を澄ませ目を閉じる。自然と口角が強張る。僧侶は泣いた。生の実感は誕生への感謝となり、神を畏怖し、死後を委ねる。仏教徒である僧侶でなくとも、誰にとっても自然な心の動きである。僧侶はいつも通り朝の事務作業を終え、法要へ出向いた。彼の遺族と、仏の教えを交えた挨拶を交わす。遺骨に目を落とす。
「自殺、だったんです。」
腰の曲がった白髪の老婆は懐かしむようにしみじみと言った。
「でも、いまだに信じられないんです。息子は、人生のどん底を、仏教に支えられたようで、お坊さんになるって言って、彼なりの第二の人生を歩もうとしていたのに、そしたら急に警察の方が、」
この時点でもう老婆は僧侶に向かって話してはいなかった。「彼の遺書」には、彼が刑務所で世話になった教誨師の寺に葬儀を執り行ってほしいと記されていた。ひとしきり話した後、遺骨を抱きしめ泣き崩れた彼女に、僧侶の脳は手を差し伸べるという判断を下すのに若干の時間を要した。
まぶしいほどに輝く仏壇と対峙する。この”自殺“という特殊な死因の場合、読み上げる経の種類が通常とは異なる。僧侶は用意していた経本を取り出し、読経を開始した。僧侶の背後には、想像していたよりも多くの参列者がいた。この時、夜であった。参列者の黒ずくめの正装は、廊下の外の暗闇を僧侶のすぐ後ろまで招き入れ、闇は僧侶の耳元で訪問を通告する。金色の仏壇のまぶしさは、暗闇の中では黒い物体に過ぎない。僧侶は目を閉じようと思った。目を閉じたとき、瞼の裏側に広がる暗闇は、目を開いた状態で広がる暗闇とは違って、自分の意思で閉じた瞼が作りだす自分のための殻としての暗闇である。僧侶はその暗闇に期待した。現に今まで僧侶はそうして目を閉じ続け、暗闇に包んできた。目の前の暗黒から逃れよう。瞼を閉じてしまおう。僧侶は目を閉じた。僧侶は信じられなかった。瞼の裏側には、今までにないほどの深淵が待ち受けていた。僧侶はある地点から深淵を見下ろしていたのではなく、深淵の最深部の暗闇に囲まれてしまったのだ。従う重力を失った冷汗は僧侶の皮膚にまとわりつく。急いで目を開けるが、なかなか瞼は開いてくれない。僧侶は両手で瞼を開こうとした。しかし、むなしいことに僧侶の指は自分の眼球を撫でただけだった。もはや僧侶の目は接触する自分の指の前でさえ機能しなかった。完全な暗闇の中で、瞬きは何も意味しない。これが死か。僧侶は覚悟した。ものの、冷汗にふやけた手の平の感触と自分の読経の声が止まらないことに、死ねないことへの絶望に陥る。僧侶は耳を塞ぐ気力さえも奪われた。これは死ではない。神は僧侶を許さなかった。
六
「私は息子を殺した犯人を見るまで絶対に死にません。」
僧侶不審死事件のインタビューで、現場の葬式で当事者だった萩田佐規子(75)は、息子の自殺を否定し、世間に向けて力強いメッセージを発信している。「これを見た犯人に、少しでも長く十字架を背負ってほしいから」だという。彼女のこの発言は一時期大きな話題となった。この時日本は第二次金融恐慌の真っただ中であった。刑務所生活を望む者たちによる自首が相次ぎ、警察機関はその対応に追われ、国家はホームレス給付金制度を発表するも、国民の不安をさらに煽りデモが各地で相次いだ。日本は戦後最大の治安危機に陥っていた。
そんな中、僧侶不審死事件から二か月後、参列者の一人が、葬儀中に体をかきむしるようにもだえ苦しみながら、発狂しながら殺人を自供し神に許しを請いながら弱って死んでゆく僧侶の様子を撮影したビデオを警察に提出した。警察はそのビデオを非公開としたが、参列者の誰かによってTwitterに流出。(萩田佐規子ら大体の参列者は僧侶の異変の初期の時点でその場から逃げ出したため、異変後半に始まった自供を聞いていたのは残った数名のみ)この動画の存在を知った萩田佐規子は自殺を試みるも親戚に止められ施設生活を送ることになった。
一方この動画は無神論国日本において十分な衝撃を与えた。”神による裁き“が初めて客観的な動画として残ったのだ。「現代仏教」は急速に信者を増やし、 “神の裁き“を否定し僧侶殺人説を主張する保守派と対立した。現代仏教は本来の仏教の死生観をベースとし、世間の事件への関心を反映し、現代において複雑化する「死」を神の観点から解釈するという新たな若者世代向けの宗教組織である。
七
「絶対に検索してはいけない検索ワード第一位の、僧侶不審死事件ってやつ、ほんとやばい。YouTubeリンク貼っとくけど見るのは自己責任で。」
「それってどのくらいグロいんですか? やっぱ見たら後悔しますか?」
「んー、グロってゆうか、どっちかというと生々しい感じのこわさ。悪魔祓いみたいな感じかも。」
「見たけどガチでトラウマ。見ないほうがいいよ。」
「そう? なんかやらせっぽくね?」
「僧侶は暗闇を彷徨いました。地獄とは暗闇です。現世で徳を積みましょう。私たちは神によって光に満ち溢れた極楽浄土へ行くことができます。一度神を信じたら裏切るようなことはしてはなりません。神は罪人には寛容ではあられません。あの僧侶は未だ暗闇を彷徨っているのです。そして私たちも罪を犯せばまた違う暗闇の中を…」
「今話題の現代仏教を詳しく解説! 人気の理由は? アブナくない? 何をしているの?」
「現代仏教とか言ってる人さ、何時代の思考回路してんの?(笑)警察も早く動けよ。遺族の気持ち考えると心が痛い。」
「自殺と他殺と病気、選べるとしたらどれ?」
「宇宙の終わりとか死後の世界とか考えたら怖くなって寝れなかった。いろいろ調べたらさ、やっぱ仏教の考えって安心するよね。ほんとに信じるかは別として、何か思い込んでないとやってけないよ。」
「俺は死ぬとしたら彼女かばって死ぬわ。で、一生俺のこと覚えといてほしい。」
「病気はガチでやだな。なんか、人生の一番楽しいタイミングでゆっくり眠るように気づかず死んでたい。」
八
高度600mは神にはまだほど遠い。朝日に照らされ黒く光るこの塊は今から神に代わる仕事をする。地上の人間たちは、死ぬことにすら気づかず死ぬ。死後の世界は暗闇らしい。影を残す隙も与えず、白い光が世界の最期を包み込んだ。

課題提出期限まで後1日。この事実を知ったのは約一週間前。三年のこの時期は本当に一瞬で過ぎ去っていく事に今になって気づき焦っていた。あと3ヶ月で受験だというのに志望校の姿さえ見えていないからだった。しかし、受験以前に僕は高校を卒業できるかという危機的状況にたっているのでどれに集中していいのかわからない。最近はやたらと課題が多くいつも頭の中には憂鬱にその提出期限だけが残っている。毎回Googleドキュメントで文章を打ち、ある程度書いてすぐさま文字数カウントをみて足りなくてまた書いての繰り返し。今は334ワード。最低でもあと1264。その後も考えているうちに今日もまた電車は新川崎を通過した。
学校は月曜日から土曜日まであったが特に月曜日は楽しいことが多い。体育が2時間あるのもそうだけれど休日明けで友達と会えることが一番嬉しかった。学校にいる間はなんだか現実から逃げられるような安心感が得られるせいか同じ世界でも校門を境に違う世界のような感じさえする。そのため学校が終わると状況は一変する。学校から30分ほど離れた塾に着くまでにいままでの目の色を変え、コンビニで栄養補給をしすぐに机に向かう。授業の内容はますます難しくなり正答率も低い。この時期になると過去問をやりだすが毎回の過去問演習は自分のできなさを身をもって感じさせられるものだった。でもなぜか辛さを感じることはなく別に苦だと感じることはなかったし、むしろ自分の夢を実現させるために乗り越えるべき山だと言い聞かせていた。大体、4時には塾について10時に出て家に帰る。10:02の久里浜行きに乗れると一本で帰ることができるけれどいつも時間がずれてしまって結局乗り継ぎしなければならない電車に乗ることになる。そして今日もまた塾につき、筆箱を出してパソコンの電源をつけ授業を受けようと予習を始めた。予習を始めてすぐに気づいた。消しゴムがない。基本的にスタッフの先生たちはこの時間生徒との面談をしていて席を外しているため下の階に行って借りることは出来ない。僕の通う塾は個別塾で特にクラスなどないので当然同じ学校の人以外はみんな話したこともなければ関わったこともない。僕は同じ高校の友達がここには通ってなかったためだれも知り合いはいなかった。だから消しゴムを借りるとすれば左右どこかの席に座ってる人に貸してもらうしか方法はなかった。壁側に座っていた僕は必然的に左の人に言うしかなかったがその人は女の人。緊張するどころの話ではなく「貸してください」という言葉を発するまで30分もかかってしまった。
「あの、消しゴム学校に置いてきちゃってないんですけどもしあったら貸してください」
と目を一瞬だけ合わせて言い切った。
すると、
「一つしかない」
ととても大きな消しゴムを見せながらその人は笑いながら返事をしてくれた。
「あっ、わかりました! すいません。」
とだけ言ってあれだけ緊張していったのに結局消しゴムを手に入れることは出来ずに終わった。
それから10分くらいしたあと例の隣の方がすっかり消沈した僕の肩を叩いてきて、
「これ、消しゴムいります?」
と言ってきた。僕は
「ありがとうございます。」と言って見るとさっきの大きな消しゴムを少しちぎったものだった。消しゴムの重要性に気づいたのと同時にその人の優しさに驚きと嬉しい気持ちに僕はなっていた。授業が終わり、帰り際に僕はまた同じ席を明日も予約した。次の日もまたその人は中途半端な壁から一つ離れた席に座っていた。今日はちゃんと消しゴムもその他の文房具も持ってきていた。流石にもう借りられない。その日からすこし憂鬱だった塾が毎日その席にその人がいるだけで楽しくなった気がする。なにを話すわけでなくても明日も会えるか楽しみだった。今まで長く感じた1日の中の夜がここ最近は一瞬で終わってしまうような感覚で気づけば朝で、気づけばその席に座ってる。たったこれだけのやりとりしかしていないけれどもっと話してみたいと思ったのは初めてだった。でも、
「この前はありがとう」の言葉はその日から2週間たった今でもだすことは出来ない。でもこんな些細なことでも暗かった受験勉強をもう一度明るく、そして昼も夜も楽しいと思わせてくれたこの人にいつかお礼を言って話してみたいと思えた。こんな日常があと少しと考えると辛い受験生もまだ卒業したくないと思うようになった。

歌を歌うのが好きだった。小さい頃からずっと好きだったし、私が歌えばみんなが私のことを褒めてくれた。だから私は歌を歌うのが好きだったし、誰もが私の歌を口ずさむようなすごい歌手にだってきっとなれるだろうと考えていた。歌うのが好きだった私は、学校の中でも有名だった。音楽の成績だって子供の頃からずっと高かったし、音楽の先生だって「未知ちゃんはきっと将来大物になるわね。」なんて褒めてくれたりした。私の学校には他の学校と同じように学園祭というものがあった。クラスの企画や部活動の発表だけでなく、有志によるエントリー生の発表企画もあった。去年私はこの企画にエントリーした。そしてその時流行していた歌を歌い、みんなから拍手喝采を浴びた。そして高校二年生の秋、また学園祭の季節がやってきた、当然私は今年もみんなの前で歌う。去年の光景が脳裏に蘇る。会場にいる皆が私に向かって手を叩く、そんな光景だ。そしてまたきっと今年もそうなるだろうと考えていた。リハーサルの日がやってきた。去年と変わらないメンバー、これならきっとうまくやれるだろう。そう思っていたが、台本には見たことがない名前があった。「明日原まゆ…?」聞いたことがなかった。オーディションにもこんな人はいなかった。そんなことがあるのか?しかも順番は私の一つ後ろ、トリだ。奇妙だった。リハーサルにも来ないような子がトリを飾るのか?何かが引っかかったが、その日は深く考えず帰ることにした。
そして迎えた本番当日、企画が始まった。去年と変わり映えしない内容、レベル。辟易としながらも、一抹の不安が心の中にあった。そんなことを考えている場合ではない、切り替えなければ、そう思った。私の番がやってくる。いつも通りにやってみせる。私は歌手になる女なのだ、これくらいの歌いこなしてみせる。そう思って皆の前に立つ。そして歌う。流行りの曲、悪くない出来、いつも通りを心がけて歌い上げた。客席に向かってお辞儀をすると、拍手が鳴り響いた。思っていた通り、当然だ。少し安心して舞台袖に戻ると、一人の女の子とすれ違った。知らない顔、順番からしても、例のまゆという子なのだろう。小動物っぽい顔立ちをしていて可愛らしいが、どこかビクビクとしていて、いかにも気弱といった感じだ。そんな彼女がステージに立った。やはりみんなも彼女を知らないのか、いつもよりざわざわとしていた。肝心の彼女もやはり慣れていないのだろう、顔は真っ赤で俯いており、とても歌が歌える様子には見えない。ほっとした。これなら。そう思っていた。ふと彼女がまっすぐ前を見る。雰囲気が変わり、会場も静まり返る。彼女の歌が始まった。私にとっての彼女の歌は、「凄まじい」ただこの一言に尽きた。透き通るような声、正確な音程、そして何よりも人の心に訴えかける歌唱力。何もかもにおいて私よりも上だった。悔しかった。私は歌手になる女なのに、こんなに近くに、私よりもっと上がいる。呆然とするしかなかった。彼女の歌が終わり、会場は拍手喝采の嵐が巻き起こった。私への拍手が、全て彼女へのものへと変わっていく。「めっちゃ上手くない!?」「明日原さんってこんなことできたんだー!」「俺普通に黒木の歌より好きかも…」そんな声が聞こえてくる。いや本当は誰もそんなこと言っていないのかもしれない。だが少なくとも、私の耳にはそう聞こえたのだ。歌い終えた彼女が私に近づいてくる。慰めの言葉でもかけてくれるのかと思ったが、そうではなかった。「ありがとう…」消え入るような声で彼女はただ一言、そう言った。そして逃げるようにその場から去っていった。『は?』『何なんだこいつは?』『こいつは、私を笑いに来たのか? 引き立ててくれてありがとう。とでも言いたいのか?』私にはそうとしか思えなかった。その日私は、何かに怯えるように家に帰った。
帰って部屋に引きこもりながら、ずっと彼女のことを考えていた。「ありがとう」この一言が頭の中をずっとループしていた。憎い。ただ憎たらしかった。あんな事を言った彼女が許せなかった。私のプライドをズタズタにした彼女が許せなかった。台無しにしてやりたい。彼女の素晴らしい歌声も、恵まれた才能も、全部。いや、そんなことを考えるべきではない。理性ではそう考えてはいるが、胸の中にこだまする怨嗟の声を沈めることはできなかった。それから私は、彼女の事を調べ始めた。明日原まゆ、十七歳。家はそこまで離れていない。インターネットなどでも調べてみたが、彼女の名前は見つからなかった。あれだけうまいのだ、どこかのコンクールや大会に出ていてもおかしくはないと思ったが、劇団や何かのグループに所属してもいなかった。奇妙だった。彼女のクラスメイトにも色々聞いてみた。友達は多い方だったし、学園祭が終わって数日は彼女の話題で持ち切りだったので聞き出すのは難しくなかった。話によると、彼女は新しい学年が始まってから、ほとんど学校に来てはいないらしい。一年生の時のクラスメイトにも尋ねてみたが、どうやら人間関係のトラブルで、夏休み頃から不登校になってしまったようだ。私は気になってさらに詳しく調べた。調べてわかったことは、彼女には中学校から高校入学まで、とても仲の良い唯一とも言える友人がいたこと、彼女は高校入学後すぐに、クラスの女子グループにいじめられてしまっていたこと、そしてその友人は彼女を助けるどころかそのグループと一緒になって彼女をいじめていたことである。唯一の友達に裏切られてしまったことによって、心を病んでしまったのだ。そんな子が、私にあんなことを言った、無性に腹が立った、許せなかった。とてもつらく、ひどい経験をしたことには同情する。だが私はそんな彼女に利用された。鬱憤を晴らすための道具にされたのだ。そう思うと、学園祭での屈辱を全てさっぱり忘れるなんてことはできなかった。あの顔をもう一度見てみたい。そう思うようになっていた。
気がついたら、体は自然と彼女の家へと向かっていた。インターホンを押す。「黒木ですけど。」どんな返事が返ってくるだろうか。嫌な顔をされるのだろうか。それとも無視されるのか。そんなことを考えながら待っていると、玄関が開き、誰かが出てきた。彼女だった。何を言ってくるのだろうか、身構えていたが、特に何を言ってくるわけでもなかった。一瞬の静寂が訪れ、驚きと安堵の入り混じったような表情を浮かべながら、彼女が口を開いた。「黒木さん…会いに来てくれたんだ…」困惑した。彼女の表情や雰囲気から、私のことを敵対視しているだとか、邪険に扱われているような感じは全くしなかった。もし私がその時正常な判断をすることができていたら、学園祭での彼女の発言の真意を問いただしていただろう。だが、その時の私の頭には彼女を貶めることしか頭になくなっていた。彼女が本当に私を利用したのかどうかなんてもはやどうでもよくなっていた。彼女のすべてを台無しにしたい、ただそれだけになっていた。どうやら彼女は私のことを嫌っているわけではない。それなら、できる。邪悪な考えが頭の中に浮かぶ。人間の心を折るなんて簡単だ。過去にできてしまった傷跡を再びえぐってやればいいのだから。顔を覆い隠すマスクの下で、口角が上がる。「まゆちゃんの歌、とっても上手だった!」「え…?」「もしよかったら、私にも歌のコツ、教えてくれないかな?」下手くそな芝居を打つ。
それから私は、足繁く彼女の家に通うようになった。彼女の家は大きく、裕福であるように思われたが、家族と暮らしているような様子はなかった。私は彼女に色々なことを聞いた。歌のことだったり、彼女のことだったり、当然知っているような歌のテクニックをわざと教えてもらったりもした。彼女のしゃべる様子はたどたどしく、いかにも対人関係が苦手という印象を受けた。だが、私に色々なことを話す彼女は、とても緊張しているようだったが、どこか楽しげでもあった。そんな彼女に対して、私の胸中は邪悪な思いに染まっていた。そうやって過ごしているうちに私と彼女が話すようになってから、三ヶ月ほどが経った。私たちは順調に仲良くなっていった。そして仲が良くなるにつれて、不思議なことに彼女への憎悪の気持ちもだんだんと薄れていった。なぜなのか? これが分からない。あんなに腹が立っていたのに、めちゃくちゃにしてやりたいと思っていたのに。不器用ながらも一生懸命私としゃべろうとする彼女の様子がいじらしく、また愛おしく感じられたからだろうか。憎悪が消えた彼女への想いとして私に残ったのは、学園祭での彼女の発言の真意についてであった。そして私は、次にそれを彼女に尋ねた。すると彼女は一瞬驚いたような顔をした後に、どこか懐かしいものを見るような表情で独白し始めた。「わたし…ずっと一人で過ごしてきたの…」「小さい頃に両親が離婚して、お母さんはどこかに行っちゃって、お父さんも仕事で家にいなかったから…歌だけが私の生きがいだったの…」「でも私の歌は孤独の寂しさを埋めるもので、誰かに聞かせるものじゃなかった…」「高一の時唯一の友達に見放されちゃって…それから人間不信になってまともに人前に出ることもできなくなったの…」「そんな時、学園祭で黒木さんの歌を聞いたの!人前で堂々と大きな声で歌う姿を見て、衝撃を受けて心が動かされたの…! 私もあんな風になりたい! 黒木さんみたいに誰かに影響を与えられるような人間になりたいって思ったの!」彼女は今までに見せたことがないほどに嬉々とした様子で語っていた。それに反して私は、ぽかんとしていた。影響を受けた? 私の歌に? 信じられなかった。私は自分が歌いたかったから歌っているだけで、誰かの人生を変えたいなんて思ってもいなかったからだ。でも、彼女はそんな私に影響を受けた。私の歌が知らず知らずのうちに誰かを変えていた。その事実に、ただ唖然としていた。「だから、今年の学園祭にエントリーしてみたの…だけど…一番最後、よりによって黒木さんの後ろになっちゃって、邪魔になったんじゃないかって、迷惑かけちゃったんじゃないかって、ずっと不安で…」「歌い終わった後、感謝の気持ちだけでも伝えようと思ったけど…緊張しちゃってうまく伝えられなくて、その時黒木さんすごい怖い顔してたから、やっぱり嫌われちゃったんじゃないかって不安になって、逃げ出すようなことしちゃって…」「だから黒木さんが私に会いに来てくれて本当に嬉しかったの…」「だから改めてちゃんと言わせて欲しいの…」「ありがとう、私を変えてくれて…」彼女が今まで一番自然な微笑みでそう言うと、私は彼女の事を抱きしめていた。「えっ!?え!?」彼女は驚いていた。当然だ。「ごめんね…」私はそうつぶやいた。彼女は私の歌を聴いて、私のようになりたいとまで思ってくれていた。それに比べて私は彼女に嫉妬して、台無しにしようとまで考えていた、情けなかった、恥ずかしかった、嫌になった。だがそれでも、彼女が私のようになりたいと思ってくれているのなら、私はそれにふさわしい人間になりたい。そう思うようになっていた、彼女は私が自分を変えてくれたと言っていたが、それは私も同じだった。彼女という存在が私を成長させてくれたのだ。もし彼女が本当の私を知ったら、軽蔑されるだろうか。いや、きっとされないだろう。だが、私はそれを口にしたくはなかった。彼女に尊敬される私でいたかったからだ。そう心の中で思うと、ふいに頭を撫でられた。「わかるよ…」「え?」「黒木さんにも辛いこと…あるよね…」見抜かれていた。「私もいっぱい辛いことがあったから…」「そういう時は…泣いてもいいんだよ?」そして私は、彼女の胸で泣いた。
そして月日は経ち、私と彼女はさらに仲良くなった。私は彼女の本当の親友になれたのだ。まともに学校にも行けていなかった彼女に勉強を教えたりするようにもなった。私との交流を経て、学校にもだんだんと行くようになり、人とも少しずつだが話せるようになっていった。彼女もまた成長していたのだ。そして私は、私の夢、歌手になるという夢を、彼女に重ねて見るようになっていった。彼女の才能と実力なら、みんなの歌姫になれる。そう確信していた。そして私は彼女に高校三年生の冬休みを利用して、テレビでも有名なカラオケ番組のオーディションを受けることを提案した。テレビに出て名前を知られれば、将来への足がかりになると思ったからだ。彼女は「知らない人と話すので精一杯なのに、審査員さんの前でアピールしながら歌うなんて無理だよ…」と言っていたが私の必死の説得に折れ、受けることが決まった。私たちが住んでいるのは田舎なので、オーディションが開催される東京へは飛行機しかなく、観光の期間を含めて一週間程度の時間を要することとなった。私もついて行こうとしたが、そこまで迷惑をかけたくないという彼女の主張によって、一人で行くことになった。そして訪れるいっときの別れ。私は彼女ならやれるという確信があった。「頑張ってね。まゆならやれるって信じてるから。」「うん…任せて。絶対掴んでみせるから…」「未知のおかげで私…変われたから」「一週間の別れたけど…このマリーゴールド…私だと思って見守って?」そうして赤いマリーゴールドを彼女から受け取り、彼女を空港まで見送った。オーディションの日までは他愛のないメッセージをやり取りし、マリーゴールドを見つめていた。そして訪れたオーディションの日、ドキドキしながら待っていると、彼女から電話がかかってきた。「未知…私やれたよ! うまくやれた! 上手に喋れたし歌えた!」「そう…よかった…!」私は少し涙ぐんでいた。 「泣いてるの?」「そんなわけないじゃん!」私はごまかした。「そんなに寂しがらなくても…明日渋谷を観光したらすぐ戻るから安心して?」彼女が珍しく冗談を言ってきた。それが嬉しくてまだ涙ぐんでしまった。私は彼女に会うのを楽しみにしながら眠りについた。だが、赤いマリーゴールドの花はしおれてしまっていた。そして次の日、惰性でテレビを見ていると、突然ニュースが流れてきた。「番組の途中ですが速報です。渋谷のスクランブル交差点で通り魔事件が発生しました。犯人は支離滅裂な発言をしながら包丁振り回し、四人が重軽傷を負い、二人が心肺停止の状態で病院に運ばれたとのことです」嫌な予感がした、まさか、そんなことがあるわけがない。渋谷にどれだけの人がいると思ってる。その中で通り魔に会うなんて天文学的な確率だろう。そんなことあるわけがない、自分に言い聞かせた。あんないい子が、そんなことあるはずがない。そう繰り返し呟いていると、携帯に電話がかかってきた。まゆからか、そう信じたかった。だが、その電話は、ほとんど会ったことのない、まゆの父親からだった。「嘘だ…」「嫌だ…」そうなんども呟きながら、恐る恐る電話に出た。「黒木さんですか!? まゆが…あの子がっ!」その言葉を聞いた瞬間、私はその場に倒れてしまった。
まゆは本当に旅立ってしまった。ついこの間まであんなに元気に生きていたのに。あれが今生の別れなんて信じられなかった。これは夢だと思って、何度も自分の頬を叩いたが。醒めることはなかった。信じられなかった。なぜ彼女でなければならなかったのか。私が知る限りで最も優しいあの子が、なぜ? まゆを殺したの犯人は、誰でもいいから殺したかったと言っていた。なぜ私のような悪人ではなく、彼女のような子が選ばれてしまったのだろう。私のせいだ。私が彼女に歌姫になってほしいなんて思ったから、彼女にオーディションを受けろなんて言ったから、彼女を一人で行かせたから、一緒に行っていれば私が身代わりになれたかもしれないのに。私が昔彼女のすべてをめちゃくちゃにしたいなんて思ってしまったからだろうか? それが最悪な形で叶ってしまった。消えたかった。立ち直ることなんてできそうになかった、。それから約一か月ほど私は誰とも喋らず、学校にも行けなかった。何のために生きていけばいいのか分からなくなっていた。彼女の後を追おうかとも考えた。だがそれだけは彼女が望んでいないだろうということは分かっていたのでできなかった。そうやって無気力に生きていた。そうしているうちに私はある夢を見た。その夢には私がよく知っている人が出てきた。その中で彼女はこう言った。「未知が私のことを気にかけてくれるのはとっても嬉しい。だけど私のことを考えすぎて張り詰めてる未知を見るのは嫌だな…」「未知には私のことじゃなく、もっと自分のことを考えて生きていって欲しいな…」「だから、未知が本当に自分のやりたいことをやっていってほしい…」「まゆっ!!」目が覚めた。息が荒くなっていた。「今のは!?」あの感触は? 現実にしか思えなかった。彼女の言っていたことを思い出す。私が本当にやりたいこと。それは。もう一度電話をかける。例のオーディションへだ。思い出す。「そうだった…」「私…、歌が歌いたかったんだ」

いつからだろうか、僕がこの果てしない階段を登り始めたのは。
確かに僕は今この階段を登っていて、自分でもそれを自覚している。しかしこの「試練」がいつどのように始まったのかその記憶はなく、どこに向かうのかすら知らされていない。きっと他の者もそうだろう。そう思うことにしている。
そう、この階段を登っているのは僕だけではない。周りを見渡せば他にも数えきれないほどの参加者がいる。
彼らはただ一つの掟────後ろを振り返ってはいけないという掟だけを遵守して、この終わりの見えない階段を登り続けている。
階段の下はただひたすらに暗く、どこまででも落ちていきそうな気がしている。そんな危険と隣り合わせの中でも淡々と足を動かす参加者たちの姿には、まさに奇妙という言葉が似合うだろう。
もっとも、僕もその一人なのだが。
僕は物心ついた時から真面目にやってきた方だと思っている。常に緊張感を持ってただひたすらに階段を登ることだけに集中し、他の参加者に迷惑がかかる行為は決してしてこなかった。気が緩んだ奴が足を踏み外してあの暗黒の闇に落ちていったのを今まで何度も見てきたけれど、奴らがここへ戻ってきたことは一度もない。僕はそういうヘマをする奴らをもちろん見下しているし、自己責任とすら思っている。ただ巻き添えを食らって転がり落ちないように注意を払うだけだ。
「おう、久しぶり」
「久しぶりだね」
後ろから追い付いて来た彼に声をかけられた。彼とはずいぶん前から知り合いだが、僕は彼の名を知らない。聞いたことがないというより、そもそも聞こうと思ったことがないのだ。でも彼が時々僕に追い付いて来た時にはこうして言葉を交わしたし、励まし合いながらここまでやってきた。彼の存在は僕の中では大きなものだった。
「最近は調子が良くてね、またお前に追いつけて嬉しいよ」
確かに彼が僕に追いついたのは久しぶりのことだった。
「俺な、やりたいことができたんだ。誰にも言ってないんだけど君には特別に教えてやるよ。」
「うん」
「俺はな、このままどんどん登って、まだ誰も行ったことのない終着点まで駆け抜けるんだ。ほら、この階段の終着点にたどり着いたって人には誰も会ったことがないだろう?」
「そんなに急いでどうしたんだよ。僕たちは今まで助け合ってきたじゃないか。君は僕を裏切るのか?」
「裏切るなんてそんな。俺はただ、この階段を登る中で真理を見たんだよ。俺はそれを追い求める。」
「真理って、一体さっきから何の話をしてるんだ? ついにおかしくなったのか?」
「お前にはまだ分からないんだよ。参加者たちは死んだような顔つきで今も足を動かしているけれど、その繰り返しの先に一体何があるって言うんだ。俺は違う。彼らとは違うんだ。」
「僕は知らないからな。危ないことだけはするなよ。」
「お前もな。分かってるとは思うけど、決して下は見るんじゃねえぞ。」
「そのくらいずっと教えられてきたから分かってる。」
「それならいいんだよ。じゃあな。」
彼は意味深な言葉を残して僕のことを追い越していった。
僕は焦っていた。
僕にはこれまで不器用ながらも真面目にやってきた自負があって、そのお陰で自分は常に上の方にいると思い込んできた。自分の努力と実力でここまで来たのだからそれは当然の結果であるし、そうでない者たちを怠け者だと見下したりもしてきた。
でもここ最近、そうして見下してきた者たちに追い抜かれることが増えた。彼もその一人だ。僕はその目的が何にしろ、この旅に意味を見出して動き出した彼が羨ましかった。僕には一体何のためにこの終わりの見えない旅を続けているのか分からない。
僕には、何もない。
僕は自分が周りに置いていかれるのではないかという漠然とした恐怖に襲われていた。
それからどのくらいの時が流れたのだろうか。いつも通りただ足を進めていた僕は、周りにいた参加者たちの噂話を偶然耳にした。
「上の方で飛び降りた奴がいるらしい。もうじきここを落ちてくるだろうから、絶対に巻き込まれるなよ。」
「え、自分から飛び降りた?そんなことって…」
「あったらしいんだよ。しかもまだ若かったって。」
「可哀想に。でもそんなことするなんて本当に馬鹿ね。最後まで他人に迷惑かけて。」
僕はこうして周りの参加者が離脱していくのを今までも何度か経験している。だいたいこういう時、その人のことをなるべく見てはいけないというのが参加者たちの中での暗黙の了解だった。
とその時、ものすごい轟音を立てて人が転がり落ちて来るのが見えた。
僕はいつものように参加者から目を逸らそうとした。しかしそうしようとした次の瞬間、僕の目に飛び込んできたのはあまりに衝撃的な光景だった。
落ちていくその参加者は、彼だったのだ。
僕はひどい喪失感に襲われた。
周りの参加者は落ちていく彼を見て悲しむどころか、気にもとめずに通り過ぎていく。中には舌打ちをして、なにやらぶつぶつ文句を言っている者もいる。
それは特におかしな光景ではなかった。今まで自分もそうしてきたし、それが当たり前のこととして参加者に受け入れられているやり方だった。
でも今回は僕の中で何かが引っかかっていた。他の参加者たちが何事もなかったかのように急ぎ足で通り過ぎていくその光景が、急に奇妙なように思われた。今まで何故この奇妙に気づかなかったのだろう。
彼を助けなくては。僕はそう思った。
当然、彼を助けるには後ろを向いてしまうしか方法はなかった。それはつまり掟を破ることを意味している。
掟を破った者に何が起こるのかを知る者はいなかった。恐らく誰も破った者がいないからだ。
でも僕はただ彼に確かめたかったのだ。彼の見つけた真理とは一体何だったのか。僕たちは何故この階段を登っているのか。登った先で、僕らには何が待ち受けているのか。
その一心で僕はついに、後ろを振り返ってしまった。
そこには階段から引きずり下ろそうと互いに揉み合う参加者たちがいた。突然後ろから足をかけたり、背中を押したりする者もいた。その姿はあまりに醜く、見るに耐えないものだった。
僕はそれと同時に、彼も後ろを振り返ってしまったのだろうということに気がついた。
後ろには生き抜くために自分よりも醜い姿で戦う者たちがいて、上にいる者は彼らを見下し、自分はそう成り下がらないよう必死になる。
だけれどもそんな競争が何を生むと言うのだろう。この道の先に何が待ち受けているのかは誰も分からないまま、僕らは今日もいつからか強制された競走の中を進んでいる。ならばその終着点とやらを自分が確かめてやろう、きっとそんなふうに彼は考えたのだろうと思った。
彼は、この果てしない階段の終わりに辿り着くことができたのだろうか。ふいにそんなことを考えた。
そして僕は何者かに突き落とされた。
目が覚めるといつもの天井が目に入る。今日も何も変わらない、退屈な一日が始まる。
体を起こして学校へ行く支度をしながら、ぼーっと考えてみる。
いつも教室で馬鹿みたいな話をして盛り上がる中心にいる僕は、周りから見れば明るいキャラに見えているだろうか。
本当の僕はつまらないほどに真面目で、いつも誰かと比べ自己嫌悪に陥っているということをクラスメイトは知っているのだろうか。
そんなことは、きっと永遠に知られなくていい。
今日も退屈な一日が始まる。
ただ僕はそんな毎日が嫌いじゃない。
どこにでもいるような男子高校生としての生活は、退屈ながらも価値のあるものだと分かっているつもりだから。
あくびをしながら、部屋のドアを開ける。
そこには階段がある。

「あ、今日からよろしく。」僕にそう言った彼の声を今でも覚えている。あの日、不安で怯え切っていた僕は、彼の目にどんなふうに映っていたのだろう。三日月を浮かべた夜の空は、今にも雪が降り出しそうなくらい冷え切っていた。
彼の家に入るのは初めてではなかった。彼は私の"親"の友達だったから、二回ほどこの家に遊びにきたことがあったのだ。二回とも今日みたいな寒い日で、リビングに堂々と構える暖炉がパチリパチリと音を立てていた。
―――「ここは危ないからあんまり近づきすぎないで。」
無意識にも私の足はその暖炉へ向かっていたようだ。
「こっちがキッチン、俺がいる時以外は入んないで。で、こっちが風呂場ね。ここは一応物置だけど使ってないから勝手に使ってもらっていいから。えー、とあとは、あ、ここは…」
彼はご丁寧に、一つ一つ部屋の場所を教えてくれているようだ。しかし申し訳ないのだけれど僕はもう全部知っている。
この家を訪れた二回とも、僕の親と彼の会話はとても盛り上がっていた。そう、僕は暇だった。他にすることもなく、家の中をぐるぐると歩いていたのだ。その時に部屋の場所は覚えてしまった。自分で言うのもあれだけど、記憶力には結構自信があるのだ。
この家は外から見るよりも広く、キッチンとお風呂、トイレの他に、物置きや二階には書斎、寝室など六つくらいの部屋があった。一人暮らしの彼には掃除するのも大変そうだ。
部屋の紹介はやっと最後まで来たらしく、二階から「…それでここにある部屋が俺の書斎。結構大事な書類とかあるから気をつけて欲しい。」と言う声が聞こえる。しばらくして、階段を登るのが面倒で一階で耳だけ傾けていた僕を、途中まで降りてきた彼が見下ろす。彼はとても大きい。まるで巨人みたいだ。
****
予定より何日か遅れてやってきた彼は、俺を見るなり恐れの色を目に浮かべた。
「あ、今日からよろしく。」
もっと気の利いたことを言うはずだったのに、どうしていつもこう、冷たくなってしまうのか。彼は予定より数日遅れてこの家に来た。ここに来るのに緊張しすぎたせいで、高熱を出したからだ。それなのに余計に不安がらせてどうするのだ。
こんなに愛想の悪い、機械みたいな俺と長い付き合いをしてくれた彼の母親は、本当に優しい人だった。だけど彼女は変わった。時間が経てば、人は誰もが変わってしまうのだろう。(悪い方にとは限らないが)彼女は彼を傷つけ、悲しませ、つぶらな小さな瞳を、恐怖に怯える黒々とした目へと変えてしまった。きっと彼には、俺も彼女と同じように見えてるのだろう。しばらくこの目を向けられるのは辛いが耐えるしかない。
****
僕がこの家にきて数ヶ月。僕の定位置になったリビングの窓には、分厚いえんじ色のカーテンが掛けられて、それから外されて、今は外が透けて見えるような白いレースがかかっている。ふと庭を見ると、風に揺らされ、1人寂しそうなシクラメンがこちらを見ている。この花はもっと寒くなったら咲くらしい。
****
再び暖炉の音が聞こえ始めたある日、今まで鳴ることのなかったベルの音がこの家の静かな空間を突き抜けた。
「はい。あ、ちょっと待って」そう言って彼は玄関へ急ぐ。立て掛けてある鏡で自分の姿を見るを見ると、焦った様子で無造作な髪を整えた。そういえば着ているセーターも少し新しいもののように見える。
ガチャリ。
そとから流れ込んだ空気が冷たい。
「久しぶり。」
「久しぶりって、そんな経ってないでしょ。」
「そうかな。」
女性であろう、その客にも相変わらずのそっけない態度であったが二人はとても親しげに見える。
彼女は僕に近づいて、「あら、初めまして。聞いていたより幼いのね。可愛い。」と言うが、瞼がキラキラとして眩しい目は彼のほうを向いている。二人はどういう関係なのだろうか。
勿論、僕は彼には聞けないが、友人というには勿体ないような感じが、なんとなく、伝わってくる。僕は聞けない代わりに、しばらく彼の周りをひっつき回ってみた。しかし彼は
「俺はこの人と話があるんだ。向こうへ行っていてくれ。」と、さっき食べていた僕の好きなお菓子がある方を指す。それでも懲りずに「ねえ。ねえ。」としつこく彼を呼ぶけれど彼は構ってくれない。
彼女は「あなたのこと気に入っているのね。」と苦笑いする。
「そんなことないだろ。」彼は言った。僕の中で何かが切れた。堪忍袋の緒というのだろうか。というと僕はなにを堪忍していたのだろうか。
無意識に僕の足はキッチンへ向かう。
「俺がいないときは入らないで。」と言った彼の声が頭に響くが足は止まらない。
「痛っっっ!」
入り口置いてある段ボールに気づかずにあしをとられ、食器棚の角に思い切り脛をぶつけてしまった。痛い。痛い。立とうとしても立てない。だけど"涙"は出ない。次第に痛みが熱さに変わる。
「あああああぁぁぁ!」
喉の奥から込み上げてきたものが一気に出てくる。痛いのか、悲しいのか、それはぶつけたのが痛いの? それとも言われたことを無視した挙げ句こんな状況になってるのが惨め? 自分でも分からない。
だけど、だけど一つだけ確かなのはこの痛みは初めてではないということ。確かに蘇ってくる。痛い。痛い。痛い! もう味わいたくなかった"痛み"をひしひしと感じている。
僕の叫び声を聞いて彼がドタドタと走ってくる。
「どうした! 大丈夫か!」
彼から出た声がいつもよりもだいぶ大きくてこちらがびっくりしたが、それもそうだ、ぶつけた脛からは真っ赤な血がポタポタと滲み出ていた。
「だから入るなって言ったのに。ここは危ないから…」そう彼は怒るわけでもなくため息をついて僕を抱えて起こそうとした。
僕は彼の腕をすり抜けた。そして逃げた。
「おい待て、血が出てるから。」
「…」
「おい!」
僕はリビングへ逃げた。二人分のティーカップからはもう湯気は出ていない。いつのまにか彼女は帰っていたようだ。
「あっっ」
彼は僕を後ろから抱きかかえた
「なんで逃げるんだよ。」
「とりあえず、そのあし、洗うから。」
彼の腕は思ったより細かった。
****
彼は俺が思っていたより大きかった。初めに見た時のように、ずっと、小さいままだと思っていたけれど勘違いしていたみたいだ。抱き抱えて運ぶのは一苦労だった。どこかにぶつけたのだろう、脛から血が出ているが彼が逃げ回ったせいでもう少し固まっている。
風呂場に連れて行くと彼はきまって背中をこわばらせる。嫌な思い出を思い出したみたいに。彼の両足首には何かに縛られたような赤黒い痕がくっきりと残っている。
背中をさすると驚きはしたが徐々に姿勢がいつもの猫背にもどっていったりシャワーを弱めに出して、彼のあしを撫でながら血を洗い流す。
「結構しみるかも。」
「うん。」
彼の顔を覗き見ると、さっきの剣幕からは打って変わって落ち着いた顔をしている。最初にきた時は俺に近づきもしなかったのに、今では俺に触られるのは嫌ではなさそうだ。シャワーの水はもう温水に変わっていた。
「よし。これでいいか。もう逃げるなよ。」
傷口にはガーゼが必要だろう。家にあっただろうか。買いに行かないといけないかもしれない。
「うん。ありがとう。」彼は照れくさそうにそう言った。
****
傷の痛みはもう消えていた。僕はまたあの窓から外を見ようとしていた。彼が近づいてきて、僕が開けれないでいたえんじ色のカーテンをゆっくり開けてくれる。
三日月に照らされた静かな庭には初めて見る赤い花が咲いていた。僕を撫でながら彼は言った。
「あの赤い花はね、シクラメン。花言葉は……。」
ああそうか。僕は僕がようやく分かった。

「ただいまぁ~」
仕事から帰った僕が玄関の扉を開けると、彼女のペット、ロシアンブルーのルナが近寄ってくる。大人しく、きちんと躾られた猫だが、あまり僕には懐いていない。今近寄って来たのだって、きっとお腹が空いたから餌をくれという意思表示なのだろう。ああ、やっぱり。足元からこちらを見上げて催促している。あざといが可愛い。惨敗だ。
「今準備するよ」
そう一言呟くと、ルナは律儀に「にゃあ」と返事をして、いつもお皿を置く場所に戻っていく。
最初このアパートに通っていた頃は、僕もルナをかわいがりたくて、彼女を出迎えたルナの頭をわしゃわしゃと撫でようとして避けられたものだ。それを見て、彼女が
「ルナは人見知りだからねぇ」
と、穏やかに笑いながら言うので、初めて見たその顔に、ほんの一瞬だけ見惚れてしまった。たぶんその時に、聡いルナには気付かれたのだと思う。それからしばらくは近寄るだけで威嚇された。変わらないルナの可愛らしさと、彼女の元気な頃の笑顔を思い出しながら、餌を差し出して「よし」というと、ルナはガツガツと食べ始めた。ご主人と違い、元気そうで何よりだ。
今、一人入院生活を送っている彼女はどうしているのだろうか。さっき顔を見て来たばかりのはずなのにそんなことが気になってしまう。
病気は既にかなり進行しているようで、医者には「なるべく傍にいてあげて下さいね」と言われた。が、悲しいことに、僕が務めている会社はいわゆるブラック企業というやつで、いつも面会時間終了まであと十分ほどというところに、ぎりぎりで滑り込んでいるような状態だ。改善できるなら、僕だってそうしたい。
なんとなく選んだ大学の音楽サークルで知り合い、作曲話で意気投合した彼女とは、付き合って今年で五年目になる。
彼女は当初から体が弱く、日常的に薬を服用していた。デートだって近くの公園にピクニックに行くなど、遠出はしたことがなかった。それでも僕は彼女と取り留めのない話をしているだけで幸せだった。
本当は仕事の疲れもあったので寝てしまおうと考えていたのだが、いろいろ思い出していたら、なんとなく曲を作りたいという気分になった。
たかが趣味で続けている作曲だが、彼女は真剣に聴き、良かったところは褒め、違和感のあるところは指摘してくれた。作曲や作詞の才能だけで言えば、彼女の方がよっぽどあった。その才能に嫉妬し、やめてしまおうとしたこともあったが、そんな僕の作る曲が好きだと言ってくれたのもまた彼女だった。
僕の一番のファンが彼女なら、彼女の一番のファンは僕なのだ。なぜ彼女が病気に侵されなければならないのかと考えない日はない。神様は、何故こんなところで釣り合いを取ろうとしたのだろう。理不尽にも程がある。
僕は彼女のように感覚のままに曲が作れるタイプではない。すぐには完成しないだろうが、もし間に合ったら、完成した曲を一番に彼女に聞いて欲しいと思った。
ルナはとっくにご飯を食べ終え、眠る態勢に入っている。ここからは僕の自由時間だ。僕がルナを預かることになって、最初はいろいろ大変だったが、僕もルナもようやく慣れてきたように思う。明日は日曜日だ。珍しく仕事も休みなので、昼過ぎには顔を出すことを目標に曲を作り始めた。
「うぅ~ん。あんまりぱっとしないねぇ」
それが、私の率直な感想だったから許してほしいな。
酷い隈を作って今日もお見舞いに来てくれた彼が、いきなりだけど曲を聞いて欲しい、と言って音源データを渡してくれたから少し驚いちゃった。それに、いつもより必死そうだなぁ、と思ってまずは何も言わずに聞いてみたはいいんだけど、なんか、あんまりしっくりこなかった。
「どの辺りが気になった?」
「全体的に…かな? なんて言うのかな、もっとこう、君らしさを出して欲しいなぁって思ったかも?」
「そ、そっか…」
やっぱり彼は、私の言葉にあんまりぴんと来てないみたい。私は彼と違って、曲を作る時は感覚と勢いで作っちゃうからこうなることが多いんだけど、もうちょっと彼の力になってあげたいなっていつも思う。そういえば、仕事で忙しい時期のはずなのに、寝ずに作曲していたのかな。
「そういえば、今日あんまり寝てないんじゃない? 酷い隈だよ。 毎日お見舞いに来てくれるのは嬉しいけど、私みたいに倒れないでね」
「大丈夫だよ。そっちこそ、看護師さんに心配されてたよ。大人しく本読んでるかと思えば、いつの間にか庭にお散歩行ってるし、夜は遅くまでパソコンで曲つくってるからちゃんと睡眠時間取ってほしいって。まあ、元気があるのはいいことなんだけどさ」
「うぅ~ん、今の君だけには言われたくないなぁ」
「うっ。たしかに…」
そうそう、自覚して欲しい。私の寿命が残り少ないのはなんとなく分かっているけど、だからって、君に無理してほしいなんてこれっぽっちも思ってないんだから。
それに…君には知っておいて欲しいことがあったんだった。
「ねえ、曲作りの参考に、いいこと教えてあげようか」
「お! 教えて!」
「うん。えっとね、何処かの本で読んだんだけど。世の中にあるすべての歌は、ラブソングなんだって」
「…というと?」
「歌って、誰かに聞いて欲しくて生み出されるものでしょ? 恋人に向けてとか、大衆に向けてとか。とにかく、誰かに届いて欲しいっていう祈りと共に作られるの。だから、すべての歌は誰かのためのラブソングなんだって。たとえ愛を歌っていなくても」
君が今忙しい生活を送っているのは、労働時間が長くても、より給料の出る会社を選んで私の治療費を稼いでくれているからだって知っているよ。
でもね、そんなことよりも、私は君の作る曲が聴きたいの。こんな暗くて悲しい曲じゃなくて。
君の作る、少し不器用だけど、優しくて、あったかい曲を聴きたいの。
君の曲からは、いつも愛が感じられるんだよ。だから、もっと自分に自信を持って欲しい。きっと、いや、絶対に、君の想いは伝わっているから。
「君はこの曲で伝えたいことって決まっているの?」
「…まあ、一応。なんとなくは」
「なら大丈夫! 私が保証するよ!」
どうか伝わって欲しい。君なら大丈夫。君は私なんかよりよっぽど凄い作曲家だから。
「そっか。じゃあ、もう少し変えてみようかな。今週末で大きい仕事が一段落する予定だから、あんまり顔出せないかもしれないけど、曲は頑張って仕上げてみるよ。体調崩さないように気を付けてね」
「うん。楽しみに待ってるね」
もし私がいなくなっても、君には曲を作り続けて欲しい。君の想いは伝わるから。私はずっと、君の一番のファンでいるから。
彼は最後に花瓶の中身を取り換えて、手を振りながら病室を出て行った。
彼に頼んで一週間の終わりに毎回変えてもらう花は、いつも一週間もつかどうか、といったところだったはず。花瓶の中と病室の中、どちらが長生き出来るか、という勝負で今のところ私が負けたことはない。今週は私が好きな青色の花を買ってきてくれたみたい。まあ、特に何かするわけでもないけれど、どっちが長生きできるか、今までで一番いい勝負になるんじゃないかな。なんとなくそんな気がする。
さっき彼に言った通り、結局私たちは言葉で、面と向かって自分の想いを伝えられる器用な人間じゃなかった。私達に出来ることは一つだけ。
パソコンを開き、流れるようにパスワードを打ち込んで画面を立ち上げる。私と彼で、ルナを挟んで撮った写真を設定したデスクトップを眺めながら、イメージを膨らませて音や言葉が降りてくるのを待つ。
うん。やっぱり、君に送るならとびっきりの明るい曲がいいよね。今だけは、私は世界で一番自由だった。青い花が、窓から入る風で靡いていた。
その一週間は、週末にあるプレゼンに向けての準備で本当に忙しく、正直作曲の作業をする気力なんてものは残っていなかった。しかし、彼女の言葉を聞いてからというもの、僕が本当に表現したいもの、伝えたいものというのが、ほんの少しだけ見つかった気がした。使いたいフレーズやメロディーが浮かんでくるようになった。もっと良いものにしたい、と無理矢理時間を割いて試行錯誤を重ね、金曜日の夜、何とか歌を完成させた。
その翌日、土曜日の午前中だった。
彼女は息を引き取った。
僕が病院からの連絡に気が付いたのは、会社の仕事が終わった夕方の事だった。
スマートフォンを起動したとき、いつも通知欄に表示されていた彼女からの連絡の代わりに、不在着信の履歴が残っていた。
それから、自分がどうやって病院までたどり着いたのか、よく覚えていない。
聞いてもらおうと思っていたあの歌は、結局彼女には届けられなかったのだと、その時ようやく自覚した。
担当だった看護師さんから渡された彼女のパソコンには、入院中に作ったのであろう、数々の曲が遺されていた。家に持ち帰り、いつも通り餌をねだるルナへ餌を出した後、その作品達をいつからか物寂しくなってしまった部屋へ響かせてみた。
不思議なことに、涙は零れて来なかった。
代わりに浮かんで来るのは、それぞれの歌の情景だった。
温い風が頬を撫でる春の日。桜の木陰の下で花びらと共に舞うワンピースを着た小さな女の子とその家族。
入道雲の映える夏、梅雨明けの道路に残された水溜まりから見えるそれを飛び越えて駆ける遅刻しそうな学生たち。
夏の暑さから解放された秋の真夜中、日付を間違えて満月から一日ずれてしまった月をベランダから眺めて笑い合うカップル。
肌寒くなった冬。猫と一緒に暖かい毛布に包まって暖を取る女性と、そこに夜ご飯の食材が入ったビニール袋を持って帰って来る男性。
そして最後に、日常の楽しさを歌うアップテンポな曲が流れた。どれも、入院していた人物が作ったと言ったら「そんなバカな」と言われそうなほど、明るくて、生き生きしていて、日常の幸せを感じられるものばかりだった。
そうか。僕が、君の作る歌が好きな理由が、今ようやく分かった。これが君の言うラブソングというやつか。
僕は徐に、自分のパソコンも起動させた。
君は今、ここにいるのだろうか。僕も今までで一番良いラブソングを作った自信があるから、もし良かったら聞いて欲しいんだ。奇遇だけど、僕も君と似たような歌ができたから。
別に、愛を歌っているわけではない。
それでも、愛に溢れた歌がそこにあった。

街を見下ろす丘の上に咲いている一本の桜
それは見る人によって色が変わり、寿命のある人ほど桜は色濃く、寿命の少ない人ほど薄く透明に見えると言われている
「お前ら二人とも、何色に見える?」
「僕は…普通の桜だね、綺麗なピンク色の桜だよ」
「同じだな、俺もピンクに見える。奈良崎は?」
「俺も、普通の桜だな」
「やっぱりまだ俺らには分からねぇな、よし帰るか!」
「そうだね、逆に今の段階で薄く見えてたら困るし」
「だよな、透明に見えるやつは死ぬんだろ?まだ死にたくねーしな」そんな会話をしながら歩く二人の後をついていく。
後ろを振り返ると見えるのは、
「…透明、だ」
ピンク色なんて見えず、立派な木が枝を広げながら佇んでいる。
俺は、もうすぐ死ぬのだろうか。
「お兄さん前にも来てたよね、また来たの?」
あの時は何か見間違えていたんじゃないか、とかまだ透明に見えてしまった自分が信じ られなかった俺は再度、桜の元へ来ていた。
何回見ても桜の花びらは見えず、落胆していたところで耳に入ってきた幼い声。「前に来たときは誰もいなかったはずなんだけど」
「僕はこの桜を守っているんだ!」
嬉しそうにそう告げるのは白い袴を着た小さな男の子だった。
桜を守るとか怪しいことしか言っていないのに、どこか不思議な雰囲気を纏っている。信じてもいいものなのか考えていると男の子はにこにこと楽しそうに笑いながら、なおも話しかけてくる。
「お兄さんもしかして、花びらが見えないの?」
まるでこちらのことを見透かしているかのようにそう聞いてくる声に驚く。「見えなかったらやっぱり、すぐに死んでしまうのか?」
「うーん、そうだね、死んでしまった人は多いよ」
くるくると木の周りをまわりながらその子は答える。
正直、数日前までいつもと同じように生活していたのにそれが突然もうすぐ死ぬと言われても実感が沸かない。
「お兄さんは死ぬ前にやっておきたいこととかあるの?」
ただただ無心に桜の木を見ていると男の子はそう聞いてきた。
「やっておきたいこと…特にないけど、会いたい人はいる、かな」
「へー!家族とか?」
「いや、幼馴染だよ、昔仲が良かったんだ」
頭の中に数年前から会っていないあいつのことを思い浮かべる。
「そうなんだ、じゃあその人に会いに行くの?」
「会いたい、けど会えないかな」
「なんで?もう死んでるとか?」
男の子は興味があるのかぐいぐいと質問してくる。
「死んではないと思う、最後に会った日に喧嘩したんだよ、それからあいつは引っ越したし連絡も取ってないからどこにいるのかも分からない」
もう理由なんて覚えていないほどくだらないことだったのだろう、殴り合いの喧嘩なんて初めてだったのを覚えてる。
「でも君、このままだと何もせずに死んじゃうよ?」
そう無邪気に告げてきた声だけがずっと耳から離れなかった。
「なあ母さん、司って今どこにいるか知ってる?」
あれから男の子に言われた言葉が胸に残っている。
もしもう一度会えるなら、という気持ちで母さんに教えてもらった場所へ訪ねることにした。
「ここに司が…?」
母さんに教えられた場所は病院だった。頭の中に大量の疑問符が浮かびつつも受付で司の名前を伝えると三階の角部屋へと案内される。
コンコン、とノックを二回。
「はいどうぞー」
随分と久しぶりに聞いたその声は、しかしそれでも昔の名残があった。静かにスライドする扉を開けると、ベッドの上で本を読んでいた司と目が合う。「…宙?」
「…久しぶり、司」
あれから何年も経ったからか司は成長し、昔はつけていなかった眼鏡をかけていた。「久しぶりだな!宙、元気にしてたか?」
「うん、元気にはしてたよ、それよりも司、お前なんで病院なんかにいるんだよ」
「いや、ちょっと風邪をこじらせてさぁ!でももうほとんど治ってたからすげえ暇してたんだ」
なんだ、ただの風邪か。ここにいるなんて言われ来てみたら病院だったから驚いたけど、司の様子を見ている限りピンピンしていてとても元気そうだ。
「そんな事よりちょうどよかった! 宙にやってほしいことがあったんだ」
「やってほしいこと?」
「そう!このノートに書いてあるから。そうだな…今日から一週間経ったくらいになったら中身を見てもいいよ」
「なんで一週間? 今見たらだめなのか」
「だめだよ、ちゃんと一週間経ってから開いてね」
念を押すように再度告げてくる声と共に一冊のノートを渡された。それを開かないように気を付けて受け取る。
「久しぶりに会ったことだし昔の話でもしようよ」
「あぁそうだな、じゃあまずは…」
それからは面会時間が終わるまで今までの時間を取り戻すかのように俺と司はたくさんの話をした。
そして空と再会してから一週間ほど経った日の朝。
「司くん亡くなったんですって」
俺は司が死んだことを知った。
「…なんで」
この目の前に広がる花びらは何だろう。
なんで桜が、咲いているんだ。
「おい! 見てるんだろ、話が聞きたいんだ」
司が亡くなったと聞いた後、自分の中のかけらが一つ欠けてしまったような気がした。学校へ行っても身に入らなくて、何も考えられなかった。久しぶりに会って、今まで会わなかった分を埋めるかのように話したのに、また空いてしまった。
そんな中、ふと桜のことを思い出した。
そして一週間ぶりだろうか、再び桜を見に訪れると目の前に広がるのはピンクの花びらを身に纏った満開の桜だった。なんで急に見えるように…。
「君か、その様子だと桜の色が見えるようになったのかな?」
「なあ、なんであいつは死んだんだ」
「あいつって…君の幼馴染くんのこと?」
「そうだ、あいつが死んで、なんで俺は生きてるんだよ」
「知らないよ、まあ一つ言うなら、君が行動したから桜の色は変わったんだ」
「どういうことだよ…」
「君は今、もうすぐ死ぬと言われたら死ねるかい?」
桜の上から町を見下ろす。
この桜がどのように見えるのかに本来寿命なんてものは関係ない、そんなものは人間が噂で作り出したただの想像である。
この桜が表しているのは、未来への希望の思いの濃さだ。
まぁ希望のない人間が自殺してしまうため、透明に見える人ほど死ぬというのもあながち嘘ではないのだが。
どこか吹っ切れたように背を向けて去っていったあの少年は、昔幼馴染と喧嘩をし頭を打ち付けさせてしまったことをずっと後悔し罪悪感から会えずにいた。幼馴染の彼の死は持病によるものであったが、あのままだったら人づてに亡くなったことを聞いた際にあの時の怪我によるものなのではないかと後悔し後に自殺をするはずだった。
しかし生前の幼馴染に会うことで誤解は解け、代わりにやってほしいことを頼まれたことで未来を生きようとしている。彼はもう大丈夫だろう。
ひときわ大きな風が吹くとそこには誰もいなくなっていた。

俺は両親を殺害した。
キッチンにかけてある包丁で実の親を刺したのだ。何回も、何回も、俺はついに、自分の理性を押しとどめることができなくなったのだ。
俺は両親から虐待されていた、若いうちに。最低限の食事しか与えられず、娯楽品の一つすら与えてもらえない。さらには目が合うたびに罵声を浴びせられ、暴力を振るわれたりもした。そんな環境で育てられた俺には、喜びといった感情などは存在しなかった。
十五歳の頃、酒に酔いつぶれながら家に帰ってきた父親が殺気立った目でこちらを睨みつけてきた時、俺は本当に殺されると思った。死にたくない、そう思った俺は、力を振り絞りキッチンまで逃げ、反撃の一手を打ったのだ。
その後、俺は警察に連れられ、7年間の懲役刑となってしまった。
そして刑務所での地獄のような長い月日を経て二十三歳となった今、俺は猟師をやっている。俺は事件当日に両親を殺した時のあの感覚が忘れられなかった。子供の頃、なんの楽しみも感じられなかった自分には、人を殺してしまった時の感覚は、今までに全く経験したことがないものであった。だからその感覚を求めて、俺は猟師になり森に悪影響を及ぼす害獣を駆除することによって合法的にその感覚を得ているのだ。結局、自分という人間は、何かの命を奪うことでしか心の虚無を埋めることができない、そんな人間なのだ。俺はそんな自分に嫌気がさしながらも、この状況から抜け出そうという気がなかなか起きないでいる。むしろ、自分のことが嫌になった時ほど、心を埋めるために山の害獣を殺している。俺は負の循環に陥っていた。
今日もいつものように、なんの物珍しさのない、薄暗く、平坦な山の中を歩いていく。すると、遠くからでもはっきりとわかるほどの、脳を切りつけるような鋭く甲高い声が耳を刺激する。足早に音が聞こえた場所に駆け付けると、そこには、今まさに少女に襲いかかろうとしている熊がいた。少女は、熊からあと二、三歩という距離に立っており、恐怖のあまり、震えあがり立つことも困難な様子であった。俺は落ち着いて背中から猟銃を取り出し、熊を撃ち駆除した。熊に当たった銃弾から大量の血が流れるのは、少女にとってはグロテスクであるかもしれないが、助けるためには仕方がなかったので許してほしい。遺体を処理した後、仕事を終えたので帰ろうとしたら、
「あ、あのっ」先ほどの少女が声をかけてきた。
「どうしたんだい、君」
「さっきは、あの、助けてくれてありがとうございます」
「いいや、気にすることないよ。ここは危ないからさっさと帰りな」
「えっと、その…よかったら、おうちまであんないさせてください!」
少女は、自分を助けてくれたお礼に、俺を家まで案内したいそうだ。突然の誘いに、最初は戸惑ったが、俺は少女についていくことにした。少女に感謝されたことに悪い気持ちがしなかったからだ。俺は少女に連れられ山を登っていった。普段歩きなれない道なので足が重い。それに比べ、少女は軽々と登っていく。
俺は道中、少女といろんなことを話した。この少女の名前はひかりと言い七歳であること、彼女がこの山にやってきたのは食べるための食材を採集するためであったこと。俺はなぜ、わざわざ山に登ってまで食材を取りに来たのか聞いてみた。すると、衝撃の答えが返ってきた。彼女は数年前に両親を災害でなくしてしまっていたのだ。俺は信じられなかった、彼女がこんなにも若いうちに不幸で両親を亡くしていて、しかも一人で生活しているなんて。俺は、ひかりと形は違えど似たものを感じた。今はこうして明るく振舞っているが、彼女も両親を亡くして以来、ずっと孤独だったのだろうか。俺は彼女について少し興味を持ち始めた。
「ここをまっすぐあるけばおうちにつくよ!」
「はい、ありがとさん」
山の上を抜けていくと、そこには街の風景が広がっていた。街一帯に差し込む太陽の光は、あまりに眩しすぎて半目になってしまう。降り注ぐ日差しを手でかばいながら、ひたすらひかりの後をついていく。俺はじきに、彼女の家にたどり着いた。
「さぁさお入りください」
ひかりに言われ家に入った。中は空っぽで、机や椅子キッチンなど本当に必要なものしかなく、床も少しほこりをかぶっていた。
「本当にすっからかんな家だな」
「べつにいいでしょ。くらせてるんだから」
ひかりは少し不満げな顔をした。が、すぐににこりと表情を戻して、
「今日はたすけてくれたおれいにスープをごちそうします」と言い、せっせとキッチンへ向かった。
「人に料理を作ってもらうなんてひさしぶりだなぁ。いつぶりだろ」
「わたしが作るりょうりはおいしいから楽しみにしててね」
ひかりは元気な声で答える。楽しそうに料理を作っているひかりを見ながら俺は考える。彼女はいつもこのような生活を送っているのだろうか、何故こんなにも明るく振舞っていられるのか。俺は明るい彼女の態度の裏に隠れている、彼女の、心の寂しさをそこはかとなく感じ取った。俺の彼女に対する興味はどんどん強くなっていく。そんなことを考えているうちに、
「スープできました!」
無邪気な声とともに皿いっぱいのスープが運ばれてきた。中身はキャベツ、ニンジン、ジャガイモなどがふんだんに入った野菜スープだ。たくさんの不揃いな具の上には、少しパセリが乗っていて、ほんのりとコンソメの匂いがする。目を輝かせながらこちらを見てくるひかりに急かされ、スプーンを一口入れる。ひかりの作ったスープは濃い味で塩コショウが強くて少ししょっぱかった。しかし、このスープはとても温かかった。今までにないほどこのスープは温かかったのである。俺は思わず、
「すごく美味しい」と口をこぼしてしまった。
「ほんと! やった!」
満面の笑みでひかりは喜ぶ。まだ熱いスープを飲み干し、俺は再び椅子に深く腰掛ける。すると、「ねぇねぇ」
ひかりは問いかけてきた。
「お兄さんはこのあと、どうするの?」
「どうするって言ったって、山に帰るだけだよ」
「お兄さんは山でくらしてるの?」
「そうだよ。山で狩りをして、お金を貰い、山で暮らす。たまに食材を買うために降りることもあるけど」
「ならお兄さん、わたしのおうちでくらしなよ」
俺は冗談だと思ったが、少女の目はいたって真剣だった。
「わたしのおうちからなら、山に行けるでしょ。だから、」
彼女の純真な瞳が俺を捕まえようとする。俺は、彼女のまばゆいばかりの瞳から逃れることができなかった。俺は嬉しかった、こんなにも自分が必要とされているのが。そして、なにより俺は見守ってやりたいと思った。こんなにも苦境に立たされながらも、気丈に振舞い過ごしている彼女に幸せになってほしい、そう思ったのだ。
「ひかりさえよければ」
少し高くなった声に、ひかりのさらに高い声が覆いかぶさる。俺の人生には新たな目的ができた。
ひかりと過ごすようになってから、俺は日が暮れるのが早く感じるようになった。朝には共に畑作業をし、昼には狩りを、そして夕方ごろには家に帰り寝食を共にする。そんな生活は、山で害獣を駆除するだけの空疎な生活からは得られない心の充足感があった。
ひかりとの生活が始まってからひと月ほど経った。俺はいつも通り山で義務のように仕事をした後、再び街に戻った。俺が帰ろうとしていた時には、日はすっかり落ち、街灯が一つぽつんと照らし出されていた。今日はひかりに肉を振舞ってやろう。そんなことを考えながら帰路につく。家の玄関の前まで着き、
「ただいま」と扉越しに声をかける。
「……」
おかしい、いつもなら明るく元気な返事が返ってくるところが無音だ。何かの作業中であるのだろうか。そんな疑問を片隅に残し、俺は、扉を開けた。そして、一瞬にして目に映る光景を理解し、言葉を失った。顔の全く知らない男が、今、まさに、ひかりを連れ去ろうとしていたのだ。部屋はひどく荒れ、椅子や机は倒され、割れた食器の破片があたりに散らばっていた。きっとひかりは必死に抵抗していたのだろう。彼女は今、腕と脚を拘束され、口を封じられている。彼女の涙に覆われた瞳を見るだけで俺は気が狂いそうだった。醜い面を引き下げた男は、俺が返ってきたことに焦り、ひかりを人質に取ろうとした。
ひかりがいなくなってしまったら。
そんな考えが胸中を満たす。自分の見つけた新たな幸せを崩されていく恐怖に、身体が支配されていく。どうすれば彼女を救えるだろうか。考えれば考えるほど、焦りが加速する。俺は理性を保つことができなくなり、ついには腰に付けた銃でこの男を殺してしまおうかとも考えた。頭よりも先に身体が動く。銃を男に向け引き金を引こうとした瞬間、彼女の顔が視界に映った。
鈍い鉛の音が響く。弾丸は男の足元をかすめた。致命傷とまではいかないが、かなりの痛手ではあっただろう。男は悶絶した様子で、ひかりを手放し崩れ落ちた。俺はすぐさまひかりを救出した。銃声を聞きつけた街の住民が多く駆け付けた。ひかりを保護し、うずくまる男を拘束した後、警察に通報してくれた。じきに警察が到着し男を確保して、俺とひかりには何とか平穏が訪れた。
俺はこの状況に安堵する反面、焦りを覚えた。俺は純粋な少女の目の前で、一人の人間を殺しかけたのだ。もしあのまま誘拐犯を殺していたら、俺はきっと再び何かを殺して心の空白を埋める、そんな人間に戻ってしまっていただろう。ひかりが俺の制御不能となった本能に、間一髪、ブレーキをかけてくれたのだ。
俺はあの事件以降、猟師を辞めた。害獣を駆除しても何も満たされないと思うようになったからだ。俺の心は、ひかりによって満たされている。
俺は彼女に救われた。生まれた時から常に孤独で、何かを傷つけることによって埋まらない心を満たそうとする、そんな生活から俺を救ってくれた。そしてそんな生活の無意味さを俺に気づかせてくれたのだ。だから、今度は俺が彼女を幸せにしてやりたい。失った両親の分まで、俺がもらった温かさを返してやりたい。
そう思いながら、俺は、大きな歩幅でキッチンへと向かった。
「最近は一段と雪が強いな。」
小屋に住む人の姿をした生き物は朝日が昇る頃に起床し、ベッド横の窓から外を見てそう思った。しかし人が死にかねないほど強いその吹雪でさえもこの生き物にとってはほんの些細な出来事であり、生き物はいつもと同じ行動をとった。昨日に調達したものを食べ、日が高く昇る頃に今日も周辺で食べられるものを探すため小屋の外へと出る。そして日が沈むころに小屋へと戻り、食べ、また朝日が昇るまでの間眠る。そこに生命の動きはなく、ただ淡々と変化のない作業をしているようであった。そして人がもう数百年は訪れていない、こんな高い雪山の頂上にはきっとこの先も変化などあるはずがなかった。
「すみませーん、誰かいないんですかー?」
翌日、起床したその生き物は起き抜けにその声を聞いた。こんな人が来るはずもないところになぜ人が来ているのか、その生き物はその耳を疑い、夢かどうかさえも疑った。しかしどうやら事実である、と気づいた生き物は悩んだ末に何百年ぶりに他人のために戸を開けた。戸の先には、荷物を背負った一人の人間の男が立っていた。
「何の用だね。」
「あのー、食料が尽きて降りられなくなってしまったんですけど、降りられるようになるまでここにしばらく泊まらせてくれませんか?」と生き物の問いに人間は答え、事情を話した。曰く、自分は旅の者であり、人が寄り付かない雪山の奥の方には何があるか気になって、大した準備もせずに登ったところ遭難してしまった、ということだった。それを聞いた生き物はその愚かさと無計画性によって自分の日常が崩されていることもあり、「他をあたってくれ」とぶっきらぼうに返そうとした。しかし、そう言い切るよりも先に人間は
「まさか俺を見捨てるつもりですか?俺はこのままだと死んでしまうのに―――。」
「やっぱり、こんなところに住んでいる奴は人の心がないんだなあ。」といかにも残念という風に呟いた。
生き物にとってその言葉は聞き捨てならなかった。
「ならば泊まっていけばいい。何日だろうと、何年であろうと、私にとっては些細なことだ、私は君が望む限り泊まらせてやろうじゃないか!」
「さっすが。名前言ってなかったな。俺はガラン、これからよろしくな。」
怒りに任せたその言葉を待ってましたといわんばかりにガランは笑って言った。
一度言い放った言葉の責任を持たないなんてことはプライドが許さなかった。
「なあ、お前って何年ここに住んでんの?」
「最近の人間の距離の詰め方とはこうもおかしいのか。貴様をここに迎え入れてからほんの少ししか経っていないだろう。お前呼ばわりとは一体どういったつもりかね。」
机に頬杖をついて立っているガランと椅子に座っている生き物は食事の合間に会話をしていた。
―――この人間が小屋に居着いてから様々な変化が起きていた。とくにこの食事というものは大きく変わっていた。永遠の命をもつ生き物にとっては食事とは空腹という苦痛を和らげるためだけのものであり、生きるために食事をとる人間であるガランとは食についての考えが相反するものであったためである。加えてガランという人間は自己主張の激しい人間であった。プライドの高い生き物と自分の意見を曲げないガランとで言い争い、その結果として生き物と共にガランも食料調達をすることとなり、栄養に配慮したいガランが調理を担当するようになった。調理道具となる刃物はガランの荷物の中にあったため生き物もガランが器用なものだと考え、最初こそ生き物はガランに従った。しかし、ガランの刃物の扱いは見ている生き物の方が怪我をする、という驚くべき不器用さを見せていたため、それも最終的には生き物が担当することになっていた。
「少しって、半年は結構な時間だと思うけど。名前分かんないし。というかお前も俺のこと貴様っていってるだろ。とにかく、いつから住んでるか俺は気になるの。」
「……おそらく数百年は一人で住んでいるな。」
生き物はなぜそんなにガランは自分がいつから住んでいるかということを聞きたいのかとは疑問に思いながらも、ため息交じりに答えた。それを聞いたガランはとても驚いたという風に
「じゃあ不老不死なのか?」と言った。
「そういうことだ。傷ついても勝手に治ってしまう。」
そうか、と静かに呟いたガランは頬杖をつくのをやめ、少し眠いからと机から少し離れた部屋の中で唯一あるベッドの方へと向かっていった。
「もう一つ聞くけど、不老不死の力は与えたりすることはできるのか?……例えばお前の一部を食べるとかで……。」
「まあ、痛みがあるから嫌な方法ではあるがな。」
それを聞いたガランはベッドの横の窓から外を見た。窓の外の雪はまだ人間が麓に降りるには厳しかった。
それからさらに数か月が過ぎていった。その間の変化と言えば、ガランが「俺、ついていく必要なくないか?」と食料の調達についてこなくなったことぐらいであった。もちろん生き物は自分だけが外へ出るのは不公平ではないか、と反発した。だが、やはりガランはいつも通りに自分の口の上手さを活かし、自分の意見を通し切ってしまったのであった。そうしてガランは誰もいない小屋の中、特にやることもなかったからかベッドで寝ていることが日に日に多くなっていった。また、ガランと生き物の間の些細な言い争いの数も少しずつ減っていっていた。
吹雪もやや弱まってきたある日のことであった。生き物がいつも通り、二人分の食料を調達し小屋へと戻ったところ、いつもであれば返ってくるガランの反応がやや薄いことに生き物は気が付いた。
「おい、ガラン。起きろ、今日はお前が美味しいといったものがあるぞ。」
生き物はベッドのほうへと向かい、遠慮なくガランが被っている毛布を引きはがした。
そこには、明らかに体調の悪そうな様子でふせっているガランがいた。
「なんだよ……、お前帰ってきてるなら言ってよ。」
「なんだ、ではない!これはどういうことだ、私に説明しろ、ガラン。」
驚きと怒りをにじませながらガランを問い詰める生き物に対して彼はゆっくりと体を起こし、ばつが悪そうにしながらも笑って答えた。
「―――俺、多分もうすぐ死ぬと思うんだよね。」
彼は話した。自分は不治の病とされている病にかかっていることを。そしてそれはこの小屋に来る前からであることを。
「俺さ、お前が不死身だっていうこと、知ってたんだ。一年で死ぬとか言われても俺若いし、まだ死にたくないし? そんでいろんなこと調べて……、この雪山に住む不死身のバケモンの肉を食ったら不老不死になれるっていうから。」
ガランは目を伏せ、少しためらった様子を見せた。
「荷物の中にナイフ入れて、遭難したふりして入り込もうとしたんだ。いってもバケモンなら罪の意識なんてなくやれると思ったからな。」
「覚えてるか? 俺、料理中にナイフで事故を装ってお前のことやろうとしたんだ。ま、失敗したけど。」やや無理したように笑いながらガランは言う。
「……ここに来るのを誰かに止められたりはしなかったのか。」生き物は聞いた。
「いつ死ぬかもわかんない上に治らない病気の奴のことは厄介払いしたいだろ? 実際、仲いいと思ってたやつに嫌がらせは受けたりして、町で孤立するようにはなってたし。」
「……なんで私を食らおうとするのをやめようと思った。」
「お前、バケモンなんて言うほどバケモンじゃないし、意外と優しかっただろ。本当なら仲いいやつに裏切られたなんて最悪の状態で一人死ぬところだった俺は、この生活に救われたから。」
彼がゆっくりこちらの目を見て言う。
「だからこの一年、本当に満足だったよ。ありがとな。俺が死んだらどっかその辺にでも捨ててくれればいいよ。」
私は何も言えなかった。私も彼と同じく、この一年は本当に楽しかった。もちろん憎かったこともあるがそれを差し引いても小屋でただ一人のあの時間よりはずっと楽しかった。この生活が続くのであれば、私の肉を食わせることもそれに伴う苦痛だって厭わなかった。
だが、私は満足しているといった彼の言葉を反故にしてまで延々と生きさせることが彼にとって良いことには思えなかった。だから私は、彼を人間として死なせてあげなければならなかった。私は彼をここに引き留めてはならなかった。だが。
「俺が死んだら寂しいか?」
黙ってしまった私に何か思ったのか、彼はいつもと同じように笑いながら問いかけてきた。
「ああ。」
私は永遠の命はとても寂しいことを知ってしまったから。
―――ガランはその言葉を待ってましたと言わんばかりに笑って言った。
「あのお前に寂しいって言われちゃしょうがないよな?」
「なら、次もここを訪ねてやるよ。」
彼はそう約束した後に眠った。
「この頃は雪が強いな。」
私は二つあるベッドのうち古びている方のベッドから起き、朝日が昇る窓から外を見てそう思った。人が死にかねないほど強い吹雪は私にとっては大きな出来事であった。だが、私はいつもと同じ行動をとった。昨日に調達した食材を栄養に気を付けて料理し、そして食事をとり、日が高く昇る頃に今日も周辺で食材を探すため小屋の外へと出る。そして日が沈むころに小屋へと戻り、また料理をし、二つある椅子の一つに座って食事をとり、次の朝日が昇るまでの間眠った。
翌朝、もう数百年は人が訪れていなかったその雪山の頂上に私以外の声が響いた。
私は夢かどうかを疑った後、悩むことなく戸を開けた。
線香の香りがしていた。私の家は毎日線香の煙と香りが充満していた。おととしの中学に三年生の雪が降る日に、父が死んだのだ。仕事であまり家にいなかった母に代わって、私の面倒を見てくれた。自分の仕事だって忙しかったはずなのに。私はそんな優しいお父さんが大好きだった。それだけに、倒れたと聞かされた時は血の気が引いた。医師による救命措置もむなしく、父は帰らぬ人となった。
それから一年ちょっと経ち、桜が満開になった高校二年生の今も、この家は線香の香りであふれていた。
私には歌手になりたいという夢があった。中学生の時に抱いたもので、今までこっそりと練習してきた。父にはすでに打ち明けており、
「絶対になってみせるから」
「もしなれたら青いバラをあげる」と約束までしたが、母にはまだ言っていない。
母のことだ、お父さんみたいに応援してくれるわけない、といつも言わずじまいで終わってしまう。しかし今回は勇気を出して、
「ねえ、私歌手になりたいの。だから大学には・・・」
すると母は私の言葉を遮るように、
「ダメよ」と言った。続けて母は、
「何のために高いお金を払って私立の進学校に通わせていると思っているの。分かるでしょう? あなたが良い大学に行って良い会社に就職するためなのよ。大体あなたになんて歌手にはなれないわよ。あなたはこのまま勉強して大学に進めばいいの。」
母はそう言ってリビングを去った。線香の香りが強くなった気がした。
母は昔から厳しい人だった。私の幸せを想ってのことなのだろうが、母に自分の何が分かるというのか。その上、お父さんがいなくなっても、仕事が忙しい母は私とあまり接してくれず、祝福するときやおめでたい日以外は一緒に食事をすることもなかった。
ともあれ私は、歌手を諦める気はなかった。こうなればオーディションに受かって事務所に入ってやる、そうすればあの人も何も言えないよね、と奮起しつつオーディションを探した。ふと目に飛び込んできたのは、八月に開催される、私の憧れの人も所属する事務所主催のオーディションだった。
汗ばんだ身体をベッドから起き上がらせカーテンを開けると、外ではラジオ体操のスタンプカードを持った子どもが無邪気に家の外を走っていた。今日は初めてのオーディションの日だ。仏壇の前で手を合わせ挨拶する。
「おはよう、お父さん。今日歌手になるためのオーディションに行くんだ。ちょっと心配なこともあるけど、見守っていてね。」
すると線香の香りは少し弱まり、同時にガーベラの香りがした。
「お父さん、私が何かに挑戦するときにいつもくれたっけ。不器用な優しさだったな。確か前向きな意味の花言葉がつけられていたような…忘れちゃった」と心の中で笑いながら呟いた。
「行ってきます!」
ビル群に反射した太陽光は一帯を砂漠のごとく熱していた。そのせいだろうか、オーディション会場はオアシスのようだ。そう感じたのも束の間、待合室からは、さまざまな声色、さまざまなメロディー、さまざまなリズムを帯びた音が自ら意志を持つように飛び出し、耳の中に飛び込んでいく。
「まずい!」
思わず声が出た。準備しなければという焦燥感に駆られる。
三十分後、オーディションが始まった。待合室から一人ずつ呼ばれていく。高揚感と緊張感と少しの不安が、身体の中を駆け回る。気が付くと、私の番になっていた。特設会場に入ると、顔も年齢もバラバラに見える五人が、いかにも私たちが審査員ですよという雰囲気を醸し出して座っている。
「よろしくお願いします」
審査員に聞かれたことに答え、いよいよ歌唱審査。どうか、上手に歌えますように。そう思いながらマイクを持つ手は震えている。今までの成果を出さなければ、と思って口を開く。
「お願いします」
音源が流れた。いよいよ歌うんだ。
「・・・」
まずい。声が出ない。不安は現実になった。緊張からではないのはすぐに分かった。高一の五月あたりから、喉が何かに覆われているような感じがしていて、それは日に日に増していったのだ。家で歌っているときはこんなに声が出ないことはない。たださっきの一瞬、歌手になりたいと母に打ち明けた時の母を思い出した瞬間、喉は硬い何かに覆われるような感覚を覚えた。
「声が出ないんじゃ話にならない」
「すいません」
審査員も、私のために時間を取らなければよかったと思っているに違いない。震えている手は、こぶしを握ることすらままならなかった。
「わかっていると思うけど、不合格ね」
「はい。ありがとうございました」
不合格になったことをメールで伝える。すると母は、
「思ったとおりね」という七文字で私の努力を片付けた。
悔しい。今までの努力が否定されたような気がした。私じゃ無理なのかな。そう思うものの、ここで諦めたら母に負けたことになってしまうと思い、またオーディションを受けることを決めた。また、ここで止まったらお父さんとの約束を破ってしまうという考えが、駒を前に進めてくれた。
二日後、線香が充満する部屋で私は、同じ事務所主催のオーディションが十二月十日に開催されるのを知った。その日はお父さんの命日だ。お父さんとの約束のためにも合格したいという思いが強まる一方、その日までに声が治るか不安だった。けれど、私のため、そしてお父さんのため、駒は成ることを誓った。
季節はすっかり変わり冬になった。朝起きると、窓には結露、加湿器の水はほぼ空になり、スマホの画面には12月10日(日)と映っている。家はガーベラの香りのする線香が充満していた。
お墓に向かった。雪が降っていた。オーディションの前に二周忌のお墓参りを済ませるべく、花を買ってお墓に行くと、そこには家にあるものと同じ線香が置いてあり、まだかすかに日はついていた。また花瓶には、かなり豪華だが派手ではない花束が一つ刺さっていた。まさかとは思いつつ、私も線香に火をつけ入れ、花束を手向けた。すると線香から煙がたくさん出てきた。それは、ガーベラの香りがしていた。
オーディション会場に着いた。前回と同じ会場、同じ待合室で、声が出るかチェックをする。調子は前回と変わらなかった。
オーディションが始まった。前回同様、名前を呼ばれ、特設会場に入った。
「おはようございます。よろしくお願いします」
夕方なのにおはようございますってちょっと変だな、と思いつつ周りを見てみると、そこには見覚えのある五つの顔ぶれと、知らない顔が一つあった。やばっ、と思ったのも束の間、オーディションが開始した。声よ、出ろ、と祈りつつ、必要なやり取りが交わされる。
「それでは歌ってください」
「よろしくお願いします」
今までの努力やお父さんとの約束を思い出し、絶対に合格する、と意気込んだ。だがその刹那、母の言葉と前回のトラウマを思い出し、意気込みは一瞬にして空気に溶けて消え去った。それと同時に、喉を覆う何かはより強固なものになったと直感した。もう無理だ、また落ちる、と思い深いため息とともに深呼吸をした。服に着いたガーベラの線香のにおいがした。すると次の瞬間、
「自分の好きなことをしろ」
どこからか優しい声が聞こえた。お父さんの声だ。だがそんなことあるはずがない。するとさらに、
「殻を破れ」と聞こえた。
審査員の様子は変わっていない。
「お父さんなの?ねえ、答えて」
「今は目の前のことに集中しなさい」
お父さんで間違いない。涙を必死にこらえた。
「せっかく自分のやりたいことがあるんだから、他のことに縛られるんじゃない。歌手になりたいなら、その意思を貫きな」
その瞬間、喉を覆っていたものが完全に消えた。
「はい!」
どうやら今の会話は審査員に聞こえてなかったらしい。不思議なひと時が終わると、音源が流れ始めた。もうなにも不安はない。今はこの晴れた心で、この舞台で、最後まで歌いきる!
「ありがとうございました!」
歌えた。楽しかった!顔は自然と笑顔になっていた。
「では別室でお待ちください」
「わかりました。ありがとうございました!」
別室には私の他に一人先にいて、あとからもう一人後から入ってきた。三人集まったところで、前回もいた審査員の一人が入ってきた。
「みなさまお疲れさまでした。早速ですが、ここにいる三名の方々は全員、合格です。おめでとうございます。明日以降書類を配送いたします。本日はこれで解散です。お疲れさまでした」
泣きたくなるほどうれしかった。外はすっかり夜になっており、雪はやみ、満月になりかけている月は私を照らしていた。喜んでもらえるかわからないが、母に合格したとメールで伝えた。
家に帰ると、いつもとは違う香りの線香が漂っていた。青バラの香りだと確信した。お父さんと歌手になる約束をした日に、青バラの花言葉は【夢かなう】と知った。それ以来その花言葉を忘れたことはなかった。青バラの香りは知らないが、不思議と違和感はなかった。
リビングに行くと、そこには料理がテーブルに並べられていた。そして何より、母がいた。
「…ただいま」
「おかえりなさい」
「この料理どうしたの? いつもおめでたい時にしか一緒に食べないのに…」
「だから用意して待っていたのよ」
その言葉を聞いた瞬間、急に涙がほろり、またほろりと落ちた。よく見ると私の好きなカニクリームコロッケがある。いつもあまり私と接してなかったのになんでだろう。そう感じた瞬間、線香の煙が少し消え、視界が広がった。目に飛び込んできたのは、壁に掛けられていた家族写真や、私の運動会の時の写真、そして、母のパソコンに貼られている私の写真だ。他にもたくさん想い出の写真や物がある。それらを目で追っているうちに、目に入る光が乱反射し、一種の万華鏡を見ているようになった。その万華鏡からあふれ出る涙を、私は二年前と同じように必死に拭い取った。
「早く食べましょう」
その言葉からは愛を感じた。そして、どこか懐かしいような感覚にも陥った。
私は心の底から出てきた言葉をそのまま口に出した。
―――ありがとう、お母さん―――
その瞬間、線香の煙は消え去り、香りだけがほのかに残っていた。
初めて彼女に首を絞められたのは小学六年生の時。
彼女と話したのは初めてではなかったけれど、卒業式の前日に私を捉えたあの目は初めて見るものだった。やっと見つけた、と弾んだ声で首に手をかけられ思わず呻き声を漏らす。恍惚とした表情の彼女の後ろで日が沈んでいくのが見えた。
視線が合い、彼女が微笑む。中学生になると、いつの間にかそれを合図に人気の無い場所での気持ち悪い関係が始まった。
彼女の少し冷たい指先が私の首に触れる。ふと見た彼女の人間味を感じさせない恐ろしく冷たい表情に、小さく唾を飲む。私の視線に気づいた彼女は、目が合うと薄気味悪い笑顔を浮かべて、グッと指に力を入れてきた。
翌日は雨で、下駄箱で一人雨が止むのを待っていると彼女に見つかった。私の手首を掴み誰もいない放課後の教室へ向かう彼女の後ろを歩きながら、予報の外れた天気予報を恨んだ。
白くて、細くて、私より少し長い指が首を優しく包む。そして一気に、グッと、ほら。締め付けてきた。首に与えられる急な圧迫感にも慣れてきた。まだ少し、息苦しいけど。
「興奮した?」
「――頭どうかしてんじゃないの」
私が少し掠れた声で睨むと、彼女はあははっと笑いながら手の力を緩めた。ゆっくりと首から離された温かい指先は、再び首に触れたかと思うと、今度は優しく少し赤くなった首を撫でる。外ではさっきより弱まった雨がぽつぽつと音を立てていて…………濡れた。
ムワッとした空間で二人汗を流しながら。コオロギの音を聞きながら。凍えるような寒さに震えながら、気づけば毎日首を絞められていた。二年前より伸びた彼女の身長、指、艶のある長い黒髪。入学当初ほぼ同じだったはずの視線は、今は私が彼女を少し見上げるかたちになっている。
「高校、どこいくの」
私の首に手をかけながら彼女が問う。誰もいない放課後の教室。じんわりとした暑さの中、明日から半袖を着ようかなとぼんやり考える。
「教えるわけないでしょ。これを機に首絞め卒業でもしたら?」
「へ? 絞めなくてもいいの?」
「逆にどうして絞めているの?」
そんな私の問いに答えることなく彼女はパッと手を離し、少しの沈黙の後振り返ることなく教室を後にした。取り残された私はただ呆然として、それから涼しすぎる自分の首に軽く触れた。
それから彼女に触れられることはなかった。すれ違いざまに声をかけられることがなくなった。視線を逸らされたのは初めてだった。あぁ、私は解放されたのだ。私の首は私のもので彼女のものじゃない。自由なのだ。これでいいのに、これが普通なのに。どうして、どうしてどうしてどうして……。
毎晩自室で自分の首を絞める。けれど指が違う。指先が冷たくない。思うように力が入らない。どれだけ強く首を絞めても不快が募るばかりで涙が溢れた。止まらない。涙が止まらない。あなたが始めたことなのに、こんなにも私を縛り付けておいて突然捨てるなんて。
静かな部屋に突如、リビングから母と弟の笑い声が聞こえてきて私はやっと気が付いた。首から手を離しうな垂れる。確かに始まりはあなただったけれど、いつからだろう。いつから私は……。
翌日、初めて自分から彼女の教室を訪ねた。やっぱり私から顔を背ける彼女に近づき、少し乱暴に顎をこちらへ向ける。「首、絞めろ」周りに人がいるのにどうかしている。恥ずかしくなりすぐに立ち去る。彼女に聞こえたかどうか分からないが、その後もしばらく彼女に声をかけられることはなかった。
熱のこもった体育館での終業式が終わると、暑さに文句を垂れながら生徒が騒がしく教室へ戻る。揺れる視界の中、流れる汗を拭いながら歩いていると突如左腕が後方に軽く引かれ、耳元で聞き慣れた声が囁く。久しぶりに胸がざわめいた。
夏休みの予定を友達と話しながら次々とクラスから人が減っていく。
「放課後ね」
繰り返し再生される彼女の囁き声に思わず左耳を抑える。心臓がやけにうるさい。
蝉の声を聞きながら窓の外に流れる入道雲と、眩しいほど晴れ渡った夏空を眺めていると、ガラッとドアが開く音がしてパッと顔を向ける。ゆっくりドアを閉めた彼女の背中の後ろからカチッと小さく音がすると、彼女は足早に私の方へ近づいてきて手を伸ばしてきた。久しぶりに身構えると、伸びてきた右手は首ではなく私の後頭部を支えた。おかしい。次の瞬間、眼前に迫る彼女の顔。私は反射的に身体を突き飛ばす。バランスを崩し床に倒れた彼女に近付き上から見下ろす。胸が、ざわざわする。むかつく。なんで。どうして。
そのまま彼女の体の上に馬乗りになり「だいた~ん」と茶化す彼女を無視して首を絞める。グッと力を入れると、彼女は鈍い声を出して苦しそうな表情を見せたが、それも一瞬ですぐに顔に微笑を浮かべた。苦しさに悶えながらも彼女はその口角を下げようとしない。私は更に指に力を入れた。
ずっと誰かに心から愛されたかった。どれだけ友達がいても、相手からしてみれば私は所詮大勢の中の一人にしか過ぎない。休み時間話しかけてくれるあの子も、親友だよと言ってくれるあの子も、私がいなくても代わりの友達なんていくらでもいるくせに。私だけを見て欲しい。私以外の人と話さないで。私がいないと独りだって言って……。
私だけを愛してくれていた母は、五つ年下の弟ができてから私と弟の二人に愛情を注ぐようになってしまった。寂しかった。自分だけを見てくれる存在がいない私は、いつだって孤独に包まれていた。誰か、誰か――!
目……。彼女の目が私を捉える度に背筋がぞくりとした。人気の無い場所での満たされる時間。私の首しか求めない彼女。毎日私を必要としてくれる彼女。首を絞められる度に心が躍った。気持ちのいい、関係。
「興奮してる?」
している。窓から明るい太陽の日が差し込む。息遣いが荒くなり、自分でもよく分からないまま、ただ必死に彼女の首を絞め続けた。はぁ、あぁ。暑い。私の下で彼女は今、私の指に苦しめられている。はっ、はぁっ、はぁっ……。彼女の手が優しく私の頬に触れると。はぁ、はぁっ……。どこか寂しそうに、そしてどこか嬉しそうに微笑み、そして辺りは…………はぁ、はぁ……はぁ……はぁ…………。そうか、私は、彼女はずっと……。静まった教室に蝉の声だけが小さく聞こえてくる。
動かなくなった彼女の首に私はキスをした。
今日も幼なじみの俺とケンタはゲームの世界でボイスチャットをしている。
「レイス、ゲキロー?!」
「ジブラルタル、百カット」
レイスとジブラルタルは敵が使っているキャラクターの名前である。ゲキローとは激LOWからきていて敵の体力が激しく低い時に使う言葉である。つまり、こういう会話である。
「敵のレイスは体力がほとんどないぞ。」
「こちらの敵のジブラルタルも体力を百ダメージ、削ってやった。」
俺とケンタは同じチームのメンバーで今、敵と戦っている最中だ。戦いながら自分の戦況を報告しあっている。俺とケンタは仲良しで、言葉で言わなくてもお互いやってほしいことがわかっている。
しかし夜十時になるとケンタはいつもゲームをやめる。
「じゃあ次のゲームでやめるわ。」
ケンタがゲームをやめた後、俺は別の相手とチームを組むが、そいつが単独行動をしたりして、ケンタ以上の気の合うメンバーはいない。しかし俺はゲームがやめられない。
「カズシ、早く起きなさい。学校に遅刻するわよ。」
ああ眠い。結局寝たの朝の四時だったなあ。今日は学校で進路指導があったわ。
進路指導で志望校をまだ書いていないのはクラスで俺一人だけだった。担任の先生に叱られて、一週間以内には必ず決めるように言われた。
学校の帰り道、家が同じ方向のケンタと一緒になった。
「なあケンタ、お前って進路決めた?」
「俺は大学行くのやめて料理の専門学校に行くことにしたわ。」
「まじか。お前料理うまいもんな。」
ケンタのお母さんは朝早くから働いているので、学校へ持っていく弁当はケンタが自分で作っている。ケンタの作る弁当は冷凍食品は使わずに野菜炒めのような栄養バランス満点のおかずが入っている。ケンタは料理にこだわりがあり、毎日朝五時に起きて家族分の朝ご飯と自分の弁当を作っている。だからゲームは十時になると必ずやめる。
「ケンタ、お前、大学とか気にならないの?」
「人は人、自分は自分。人目ばかり気にしていたら自分のしたいことができないし。」
俺はケンタが羨ましい。俺には将来やりたいことが何もない。ゲームだけできればいいと思っている。俺なんか生きていても何の意味もない。何もかも投げやりな気持ちになると必ず、祖母の顔が浮かんでくる。
祖母は昔から俺の絶対的な味方だった。俺が親に怒られている時は必ずかばってくれた。ゲーム機を買ってくれたのも祖母である。母親は祖母が俺を甘やかすと言っていつも愚痴をこぼしている。
祖母は老人ホームで暮らしている。みんなに迷惑はかけたくないと言って自分から老人ホームに入ってしまった。俺はむしゃくしゃすることがあるといつも、祖母の所に行き、話を聞いてもらう。祖母は俺が期待してる言葉を必ず言ってくれる。
俺は進路のことを相談しようと祖母に会いに行った。俺が行くと祖母はちょうどリハビリ中だった。ウォーキングマシンの上で黙々と歩いていた。隣の部屋から、童謡を歌ってるのが聞こえてきた。
「お孫さんが来てくれましたよ。よかったですね。」
俺は看護師さんに案内されて談話室で祖母と二人きりになった。
「ばあちゃん、今日何してたの?」
「午前中は歌を歌ったり折り紙をして、午後は歩く練習をしてたよ。」
俺はショックだった。あんなにしっかりしていた祖母が、まるで幼稚園児のように扱われていた。看護師の話し方もまるで子どもに話すような話し方である。祖母は旅行が好きで海外旅行によく行っていた。祖母は本当は演歌が好きでよく聴いていた。ここで歌っているような童謡は祖母の趣味ではなかった。
「昔はよく海外旅行に行ったけど、ウォーキングマシンの上でどれだけ歩いても、全く景色が変わらないねえ。また旅行に行きたいねえ。」
俺は涙が出そうになるのをグッとこらえて言った。
「俺が海外旅行に連れて行ってあげるよ。」
「でもねえ、わたしゃ、もう長時間歩くのは無理だわ。」
「違うんだ。ウォーキングマシンの上で歩くと三六〇度周りの景色が変わっていって、まるで海外に行って歩いているようなゲームを俺が作ってあげる。老人ホームには娯楽があまりないと思うよ。俺がお年寄りが楽しめるようなゲームソフトを開発してあげるから、ばあちゃん、それまで長生きしててくれよな。」
「カズシありがとね。カズシは本当に優しい子だね。」
祖母は俺の話を信じていないようだったが、祖母の笑顔を見て、俺は初めて誰かのために頑張ってみようという気持ちになった。
次の日、俺は担任の先生に進路指導の紙を提出した。その紙には某大学の情報学部という希望を書いた。その学部に入って何がしたいかという質問には、
「私は高齢者向けの娯楽ゲームソフトの開発がしたいです。若者向けの娯楽はたくさんあるが高齢者向けの娯楽は少ないと思います。自分もいつか歳を取って老人ホームなどに入った時にも楽しく暮らせるような娯楽ゲームソフトを開発したいです。」
実際に実現するかどうかは分からないが、その夢に向かって歩き出すことに今からワクワクしている。
「あの人の夢を諦めさせてほしい。」
そんなことを喫茶店で僕に言ってきたのは、大学時代の同級生であり、あの人の妻のエリである。彼女は高そうな物は全く身に付けておらず、あの頃と変わらず綺麗だが、メイクで隠そうとしているが目の下のクマなどどこか疲労を感じさせる。そして、あの人とはエリの夫のことだろう。名をトウリという。彼は高校からの出会いで僕の親友だ。現在は、昔からの夢だった漫画家をしていると聞いている。ただし、彼の作品を書店で見たことはない。
「だけど、まあ、何で今さら?いや、そろそろ頃合いなのかな。」
僕は疑問を訊ねながら、大学卒業から六年ほど経っていることを考慮して自分で勝手に解決する。
「ええ。私なりにサポートしてきたし、応援もしてるよ。たまに、読み切りが載るから収入だってゼロではないよ。だけど、連載が近いとなっても全部ボツになるし、ずっと小さく赤字だもん。私自身の仕事は楽しくて好きだったけど、最近は楽しくないし。もういいかなって。私も楽になりたいよ。」
最後の一言は小さな声で呟くように彼女は言い、目線は手元のアイスティーに下がった。どことなくどんよりとした空気感が流れ出したので、
「確かに、李徴ならとっくに虎になってるか。」と冗談を言ってみると、
「ふふ。それも狂暴な虎でしょうね。」と笑いながら僕に言った。目線は再び僕を捉えた。
「僕が漱石なら精神的に向上心のないものは馬鹿だとあいつに言ってやるさ。」と話すと彼女は愛想笑いすらなく辛そうな目でこちらを見ていた。どうやら調子に乗りす ぎたようだ。無理やり漱石を入れようとしたのが駄目だったかなと反省しながら、僕は頼 んだコーヒーを飲み干す。
「わかったよ。できるかはわからないけど、話してはみるよ。」今回の件は了承してみる。
僕は家に帰ると、了承したけれども今回はいつもの飲み会とは違うことを意識してしまい、トウリにどう連絡するか定まらない。そこで、趣味の植物の栽培とその観察をして気分を紛らすことにした。最近の一番のお気に入りは初夏に食べたパイナップルだ。初夏のまだ夏の暑さに体が慣れていないときに、スーパーで丸々一個のパイナップルの刺々しい見た目と中の大量の水分の予感を前にして、抗うことなどできずに買ってしまったものだ。パイナップルの上の葉の部分とその下の果肉部分の少しを残して切った物を植えてから、今の秋頃までずっと世話してきた。パイナップルの全体の高さは変わらない。茎を伸ばすこともなく実る気配はまるでないが、余計な葉だけを増やし続けている。けれども、葉を増やすというパイナップルが生きている証拠を感じられることの方が嬉しく、僕の喜びになっていた。パイナップルに水をやっていると、いつの間にかパイナップルとエリを重ねて、少しでも楽に生きて欲しいと感じ、トウリと明日飲みに行く約束を取り付けていた。
そして、飲み会が始まる。トウリは、無地のシャツにジャケットをきたスーツ風の服装で現れた。顎髭を生やし髪は長めで、オダギリジョーを彷彿させる。この狙ってないけどオシャレでしょと主張してくるような雰囲気に懐かしさを感じる。つまり、昔から変わっていなかった。
「俺、お金持ってないからね。」最初に口を開いたのはトウリだった。
「ああ、そうだろうと思って今日は僕の奢りのつもりだよ。」
「最高だね。」と喜びは口だけでメニューを見つめ平然と言ってくる。
「あんまり喜ばないな。」
「ニル・アドミラリの気象だよ。因みにニル・アドミラリの起源はアナクサゴラスって人から来てるんだよ。息子の死を知らされても動じなかったんだって。」と相変わらず聞いてもない知識をひけらかし、インテリをアピールしてくる。こんな会話が、二、三続いて本題に入っていく。
「仕事はどうだ?」僕が切り出した。
「アイディアは尽きないよ。あと少しで良いものを描けるそんな予感があるんだよ。」目が輝いているとはこういう奴の目だろうなと思う。
「ただ、エリは?苦労を掛けているだろ。」
「それも素直に自覚してるよ。だからこそ、一日でも早く評価されるためのことは全てしてるよ。」
「他の仕事をする気は?」
「ないかな。俺は絵と物語しかないから。」
笑顔を消し、僕を真っ直ぐ見つめる。その目は意思を感じる。そして、何かを察し、語りだした。
「さては、エリだね。何か言われたんだろ。じゃあ、一度考えてみて欲しい。漫画家は学生時代からの夢なのは知ってるだろ。連載っていうゴールは見えてはいるんだよ。近づいているさ。走りきりたいんだよ。途中で諦められるか?それに、俗っぽいけど人生は一度きりだ。なるべく楽しく生きたいだろ。俺の人生の楽しみは漫画なんだよ。親友として頼むよ。エリにそっちからも言ってくれよ。あともう少しだけ頑張らせてくれないかって。」僕は、夢に向かって努力するなんてことはしてこなかった。そういう僕自身を嘆き、僕の分までと応援したくなってしまった。こいつにはそう思わせる力がある。
「わかったよ。僕には役不足だったことは伝えるよ。ただ、君が人生の楽しみを語るならエリの人生の楽しみは?」
「ああ。もしかしたらエリの楽しみを奪ってしまっているのかもしれない。だから、エリがどんな選択をしても全て受け入れるよ。そして、エリのためにも俺は夢のために何だってするよ。」
「最短で決着をつけろよ。今日は飲もうぜ。」
それから、読者に寄せたくない話、知識や資料を集めに出かける話、トウリはよく話してくれた。飲み会は夜遅くまで続いた。
飲み会の後、エリに今回のトウリとの話し合いで夢を諦めさせることは無理だったことを伝えるために電話をかけた。
「もしもし。トウリと話したよ。やっぱりあいつの意志は固かったよ。あいつも才能とかさ、悩んではいるんだよ。それでもやりきりたいってさ。僕もあの熱にやられちゃったよ。もう少しだけ待ってやって欲しい。」
「うん。そんな気がしてたよ。じゃあ私もやりたいことをやってやろうかな。覚悟を決めないとだ。」
彼女が笑いながら言ったのか、どんな表情だったかは、電話越しではわからなかった。数日後、ある訃報が届いた。それはエリが会社で自殺したという内容だった。彼女に僕では無理だったことを伝えたばかりだ、混乱してくる。頭がおかしくなりそうな気分のままトウリに電話をかける。トウリは落ち着いた声音で電話に出た。話を聞くと、過労による自殺らしい。彼女が勤めていた会社が相当ブラックな実態だったこと、上司と最近揉めていたこと、うつ病だった可能性があることなどを説明してきた。
「俺はエリの分まで頑張るよ。」と、最後に付け加えて僕に言ってきた。
「お前は何か変化に気が付かなかったのか? 自殺なんてまともな精神状態じゃなかっただろ。」聞かずにはいられなかった。数秒の間が空いてから、
「漫画に夢中だったからね。本当に悔しいよ。」
これの真偽は確かめようがない。ただ、自称インテリの知識人で何かと目ざといトウリが彼女の考えに気が付かない訳がないと思うが。たぶんエリはトウリが夢を諦めて違うことをすれば仕事と辞め、諦めなければ自殺を選ぶ、うつ病の正常ではない頭でそう考えていたのだろう。だから、エリは漱石のネタで笑うことはなかったし、「覚悟」なんて言葉が出てきたのだ。点が繋がりだす。すると、ある言葉を思い出す。
「だから、エリがどんな選択をしても全て受け入れるよ。そして、エリのためにも俺は夢のために何だってするよ。」
今の電話相手のこの男は、選択を受け入れるなんてご立派なことをでっち上げて、わざと見過ごしたのだ。自分の夢を諦めさせられることを嫌って彼女に声をかけなかったのだ。夢なんかのために。ただ今さら辞めたくないというプライドなだけにも思えてきて、スマホを握る手に力がより入る。
「お前は馬鹿だよ。」口からこぼれ出た。
「そうかもな。ただ、一つだけ言わせてもらうよ。もし俺が自分のルールや夢を諦めて、したくもないことをする生活をおくっていたら、俺とエリの立場は逆になっていただろうね。」
その言葉は心に残り続けた。話したところで、もう意味はないと電話をきった。すると、目の前のパイナップルに目がいった。葉だけを増やし、茎を生やさず、果実を実らせることがないことに嫌気がさしてきた。いつか誰も知らない花を咲かせる気味の悪さも思えてきた。また、実ったとしても、荒々しい肌と黄色でも緑とも言いきれない色合い、そして異様なまでに甘い果肉だ。なんともおぞましい物ように思えてきた。そこで僕のパイナップルへの興味は完全に失われた。
数ヶ月が経った。つけたまんまだったテレビが流れている。
「次にくる漫画大賞一位、虎。その作者ト…」
仕事に行く時間なので、テレビを消す。僕が世話しなくなったパイナップルは越冬することはなかった。
長ったるい髪を結い、温かいのか冷たいのか分からない水で顔を洗ったあと、味のしないパンを口に放り込む。何の代わり映えもない作業のもと私の一日は始まる。玄関に置かれた水槽の中で、腹を空かせて泳いでいる一匹の金魚に餌をやり、いつものローファーに足を通す。
「いってきます」
ぽつりと呟くように言ったその言葉に呼応してくれる人は誰もいない。
玄関を開けた先に広がる鈍色の世界を駅に向かって歩いていく。私が生きているこの世界は何もかもが楽しくなさそうで美味しくなさそうに思えて仕方ない。すれ違う人、車、自転車、景色にすらいつまで経ってもピントが合わない。視力にあった眼鏡をかけているはずなのに、いつもモーションブラーがかかっているみたいに全てのものがブレて見える。
そんなことを考えているうちに最寄りの駅に着いた。
いつも忙しなく人が行き交うこの駅だが今日はやけに人が多いように思う。電光掲示板に目をやると時刻の欄が空白になっている。一ドットずつ右から左へ移動していく発光ダイオードは人身事故が起きたことによる一時的なダイヤの乱れを知らせていた。嬉しくないニュースに朝から気が滅入るような感覚に陥る。
当たり前のように流されている人身事故だがよくよく考えてみるとどこかの駅で名前も知らない誰かが死んでいるかもしれないのに、どうしてこんなにも実感がわかないのだろう。自ら命を絶つのはどのような気持ちなんだろう。彼らが踏み出した駅のホームは今まさに私の半歩先に広がっている。そこではどんな景色が広がっているのだろう。そんなことをぼんやり考えている自分がいた。―ああここで飛び降りたら今よりも楽になれるのかな。それとも痛い思いをすることになるのかな。そんな風に考えているといつの間にか私の体はまるで風に吹かれる綿毛のように軽やかにホームの奥深くに引き込まれそうになる。
『間もなく二番線に電車が参ります』
不運にも私の最寄り駅にはまだホームドアが整備されていない。死にたい訳ではないけれど、生きていたくもない。そんな気持ちに襲われた私はいっそこのまま抗うこともせず、身を任せてしまおうかと思ったその時、
「君にとって死ぬことは本当に救済かい?」
はっきりと聞こえたその一言ではっと我に返る。私の耳が単一指向性マイクのようにその言葉だけを駅の雑音の中からクリアに抽出した。その刹那、声の主は私の半分投げ出された身を引き戻すように、右腕をぐいと掴んだ。私は態勢を崩しながらもなんとか両足で踏みとどまり、ホームに落ちることを免れた。動悸が収まらないながらも助けてくれたその人の方に振り返ると、そこにはあたかも人間のように佇むコートを着た二足で自立する猫がいた。その非日常すぎる光景に、やはり自分は死んでしまったのかもしれないと錯覚するほど猫は猫足り得た。
コートの袖から覗いている「毛深い」というより毛に覆われている手、口元にある立派な髭、そして丸まった背中は彼を猫と判断するのに必要十分だった。
唯一、人間らしい所と言ったら、眼鏡を掛けて衣服を纏っていることくらいだろう。不思議なことに彼は驚くほど自然に周囲に馴染んでいるように感じられた。誰一人としてその猫を気にしている人はいないようだった。
言葉を失っている私を見て、彼は
「まだ気が動転しているようだね、無理もない。よかったら僕の書斎に来るといい。きっと心が安らぐから。一緒に紅茶でも飲みながら少し話そうじゃないか。」
突然の提案に私はまた何も言葉を返せないでいると
「なにも死に急ぐ必要はないだろう?人はたまに立ち止まってじっくり物思いに耽る時間も必要だ。」
確かに私はさっき、ほぼ無意識下とはいえ自殺しかけたのだ。今になってどっと疲れが押し寄せてくるように感じる。こんな状況ではどうも学校に行く気にはなれなかった。
今まで学校を無断でサボったり休んだりすることなんて無かったのに大丈夫だろうかという一抹の不安はあったけれど、私は彼の提案を受けることにした。
目に見える根拠はないけれど、佇まいや雰囲気から彼は信頼できる人なように感じて、何か今の私に足りていないものを与えてくれる、そんな気がした。普段ならそんな直感に頼ることなんてほとんどないけれど、もしかしたらその直感だけではなくて単純に誰かと話すことを心から求めていただけなのかもしれない。
彼の家は私の家とは駅を挟んだ反対方向に倍くらい歩いた急な坂道に立つ家々の一角にあった。簡素ながらも綺麗に整えられている小さな庭がある平屋の一軒家だ。
「お、お邪魔します。」
私が目の前にいる相手に向かってたどたどしく挨拶をすると、
「いらっしゃい」と彼は優しく挨拶を返してくれた。
彼の書斎には一対の一人掛け用のソファがヴィンテージな木製の丸机を挟んで向かい合っている。その一つに私は案内された。辺りを見回すと、書斎の壁は一面本棚になっていて見たことの無いような分厚い本で埋め尽くされていた。他にもどこの民族が作ったのか分からないようなお面や年季の入った蓄音機やレコードが飾られていた。しんとした雰囲気の中、やわらかい光が差し込む書斎はどこか非日常的な神秘さを持ち合わせていて気持ちが落ち着いた。
「あの、まだお名前を聞いていませんでした。」
「僕の名前かい?名前はないんだ。テキトウに呼んでもらって構わないよ。」
名前が無いとはどういうことなのか、その理由について聞いてみたい気持ちもあったが、あまり深く詮索するのは失礼なのかもしれないと思い、聞き返すことはしなかった。名づけの経験などあるわけもなく、何と呼ぶのが適切なのか考えた結果、命の恩人であること、おそらく年上?であること、書斎にある数々の本などを考慮した上で「先生」と呼ぶことが無難なのではないかという結論に至った。
「『先生』というのはどうでしょうか?」
「そんなに大層な呼び名でなくていいのに。でもそう呼んでもらえると嬉しいよ。」
先生はそう言って嬉しそうに目を細めた。どうやら気に入ってもらえたようだった。
「紅茶を淹れてくるよ。」
そう言って先生が淹れてくれた紅茶は心地のよい渋みを含みながらも、のど越しの良い爽快な味わいだった。一つ難点があるとすれば少しぬるかったところだろうか。一方先生は「アチチ」と言いながらカップに向かって熱心に息を吹いている。先生は熱い飲み物にめっぽう弱いようだった。それにしても冷ますほど熱くは無いと思うけど。変なところはしっかり猫なのが先生の面白いところだと思う。
次第に先生とも打ち解けて来て、一定の落ち着きを取り戻したところで、今の私が置かれている現状について何かアドバイスや解決策を教えてもらうために気は進まないけれど自分のことについて話してみることにした。
「私の両親は共働きなんです。父は仕事でいつも家にいないし、母は私にいつも一番を求めるタイプの人でした。教育熱心と言う人もいるのかも知れないけど私にとってはそんな表現は的を得ているとは思えませんでした。私には小さい頃から夢がなくて、だからこそ母の言う通りにがむしゃらに勉強を頑張ってきたんです。でも最近になって母の理想像である私は崩壊しかけていて。この前の期末テストで学年総合得点一位を取れなかったときは酷く怒られました。その日からはいつも頭の片隅に課題やら次のテストやらがちらついて本当に心が休まるのなんか寝るときぐらいしかないんです。」
私の話をじっと聞いていた先生は一度深く頷いた後、問いかけてきた。
「今、君を動かしている心の一番奥深くにある感情はなんだと思う?」
「『焦り』かな。」
「焦りも内包する感情さ、それは『不安』だよ。今の君に必要なのはきっと『経験』じゃないかな。」
「経験?」
「僕は世界を巡るのが好きでね、今までに行った国は僕のひげの数より多いんじゃないかな。そこで経験した出来事は何にも変えられない貴重な糧となるのさ。人間は経験したことないことや見えないことに関しては本能的に消極的になってしまうからね。君はまだ狭い世界のさらに塀に囲まれた中にいる。だからこそ今から積極的に世界に関わっていける可能性を秘めているんだよ。」
先生の言葉には妙に説得力がある。驚くほどすんなりと受け取ることができた。先生は物事を俯瞰的に捉えて分析する能力に長けているように思う。それに加えて概念のような目に見えないことでさえ言語化してしまうのだからすごい人だ。
「さて少し喋り過ぎてしまったね。今日はここら辺でお開きにしようか。」
壁に掛けられている古時計は正午ちょうどを指していた。
「またここに来てもいいですか。」
「もちろんさ。いつでも来るといい。」
先生とまた会う約束をして軽く会釈し、玄関を出る。すると風に乗ってふんわりとした甘く特徴的な香りが私の鼻をやさしく刺激する。
朝ここを通ったときには気付かなかったが、どうやらそのいい匂いの元はこの庭にあるようだった。庭の奥の方にある二つの立派な木が目に留まった。一つはオレンジ色の綺麗な花を咲かせる金木犀だった。もう一つはまだ実が熟している途中で緑色のものと黄色のものが混じっているみかんの木だった。よく見るとみかんの葉にさなぎがついている。春になると綺麗な蝶へと羽化するのだろうか。
あの日以降、私は何度か先生の書斎にお邪魔しては、世界各地の土産話や今まで読んだ小説を紹介してもらうなど、沢山のことを教わった。
二度目に行ったときはふと自分がまだ先生の職業について尋ねていなかったことを思い出して、立派な書斎があることから勝手に先生は作家であると考えていたけれど実際はどうなのか尋ねたこともあった。
「先生は作家なんですか?」
「どちらかと言えばそうなるね。」
「先生が執筆している姿を見たことがないんですが、今は本を書いていないんですか?」
「僕は書くことより読むことの方が好きなんだ。本は人間が紡いだ英知が詰まっているんだよ。君は本を読むかい?」
「今まで忙しくてあんまり読む機会がなかったんです。」
「もし活字が苦手なら映画でもマンガでもいい。ジャンルに好き嫌いせずなるべく色んな種類のものに触れるといい。僕は知識とは生活を豊かにしてくれると考えているんだ。もしよかったら本棚にある僕の本の中から好きなものを一つ持っていくといい。プレゼントするよ。」
こんな風にして先生の書斎へ行くことは私の一つの生きがいとなり毎日の生活を過ごす心強い支えとなっていた。
先生の元へ通い出してから半年経ったときのことだった。いつものように先生の家へ行き、玄関で呼び鈴を鳴らそうとしたとき、横に小さなメモが貼られていることに気づいた。
『いつも遊びに来てくれる君へ いま僕は留守にしているけど書斎へ来てほしいんだ。渡したいものがあるから。鍵は秋になるといい香りがする花をつける木の下に。』
不思議な内容のメモだった。渡したいものがあるなら直接渡せばいいのに。でも今まで私が来たときに先生が留守にしていることは一度も無かったことを考えると、何か特別な事情があるのだろうか。とりあえずメモの指示に従って書斎へ向かうことにした。いい香りがする花をつける木はおそらく金木犀のことだろう。
鍵を使って中に入っても、やはり先生の姿は無かった。
先生がいない書斎はなんだか物寂しい雰囲気を感じさせた。辺りを見回すと先生の机の上に白い手紙とその隣に少し大きな茶色い箱が一つ置かれていた。
手紙の表には何も書かれていない。裏返してみると右下に綺麗な筆記体で私宛の旨が書かれていた。真ん中には真っ赤な封蝋印が押されている。今時蝋を使って封をする人なんて猫先生くらいだろうと思うと少し笑いがこみ上げてくる。
私はその場で封を開き中に入っていた手紙を読んだ。
『僕はまた世界を巡る旅に出ようと思うんだ。突然のことで直接言えなかったことを謝罪するよ。申し訳ない。二度と会えなくなるわけではないから、また再会したときには一緒に紅茶でも飲みながら話をしようじゃないか。
そうそう、君に伝えたいことがあったんだ。今の僕は自分のメガネを通してしか世界を見ることが出来なくなってしまった。でも君は違う。まだ君のフィルターは幸いにも未完成だ。僕の話なんか聞くより君自身が経験して感じとって欲しい。そんな気持ちを込めて君にプレゼントを用意したんだ。本当にささやかな物だけれど役に立てくれると嬉しい。』
隣にあった茶色い箱の中には綺麗な白いスニーカーが入っていた。シンプルなデザインながらも、とても歩きやすそうで素敵な靴だ。
私は感謝の気持ちを伝える返事を書いた。宛先の無い手紙だ。もちろん自分の家の住所も書いていない。先生の元へ届くはずが無いのは理解しているけれど、 心ではこの気持ちが届くようなそんな気がした。
今まで履いていたローファーは脱ぎ捨てて、ピカピカのスニーカーをさっそく履いてみる。初めて履いた割にしっくりきたことが嬉しい。たくさん歩いて履き慣らしたらどんなに素晴らしい靴になるだろうか。もっとこの靴で出かけたい。足取りが軽やかになった気がしてどこまでも歩いていけそうな気分になる。
まずはポストに手紙を出しに行こう。それから次はどこへ行こうか、先生の家を出て最初の一歩を踏み出す。
春風が心地よい卯月の空には、蝶々が美しく舞っていた。
私はピアノの前で呆然としていた。
本当に私の人生はこれで良かったのだろうか。いつの間にか、既に年齢は人生の折り返しであろう地点を過ぎていた。作曲家を目指して、今までやってきたが、それは私の人生に対する逃げ口上に過ぎなかったのではないだろうか。何か、自分が直面すべき人生の課題があったとき、私はいつも「作曲家」になることを理由にして逃げてきたのではないか。
「先生、どうしたの?」
幼気な声で、そう聞かれて私は我に返って「ううん、何でもないの。ちょっと考え事しちゃった。ごめんね」と応えた。
私の小さなピアノ教室、海辺の街のやや年季の入ったマンションの一室のピアノ教室に通ってくれている最年少の女の子だ。この春小学三年生になったばかりだ。
「先生、つづき弾こう」
潮風がカーテンを揺らし陽光が差し込むのを後背に無邪気に言う。
「うん、そうだね。ミキちゃんは本当に楽しそうにピアノを弾くね」
「え、どうして? 先生はピアノ楽しくないの?」
幼い子は、時に物事の本質を見抜いて、それを無自覚に突いてくる。私は、二の句を継げずに「さ、続きをやりましょうね」とごまかすように、バイエルの楽譜をめくり、促されたのは私なのに、ピアノの続きを促し返した。
ミキちゃんの弾くピアノの音色は、他の生徒さんとは何か違って、不思議と私の心の奥底を揺るがせられるのだ。いま先程もその演奏に心を奪われて、呆然としてしまったのだ。
確かに、この年齢にしては優れた才能を持っているのは確かだが、もちろん技巧的にはまだまだだ。一体何が私の心を揺るがせるのだろうか。シューマンの「楽しき農夫」を軽快に、愉しそうに弾くミキちゃんを見ながら、気がついた。
そう、こんな単純なことをどうして忘れていたのだろう。ピアノは愉しいのだ。それだけなのだ。私もかつてはそうだった。まさに、ミキちゃんの年齢ぐらいの頃、ただただ愉しくてピアノを弾いていたのだった。
たどたどしい箇所もありながらも素直な音色が流れる中で、私の意識は時間と思索の混沌の海に紛れていった。
作曲家を夢見るようになったのは、一体いつからだったのだろうか。ピアノは、幼い頃から教養として習っている程度で、腕前は普通だった。でも中学二年生の時に課題曲として弾いた、坂本龍一のピアノ曲「Merry Christmas, Mr. Lawrence」の旋律の美しさに心を奪われて以来、私は作曲家を夢見るようになった。だが、いくつも曲を作ってみたが、どれもどこかで聴いたことのある曲だった。特に、坂本龍一の曲のコピーでしかなかった。自分なりに音楽を勉強し、耳が肥えてくればくるほど、自分が作った曲の貧しさが分かってしまった。
そう、私には演奏家の才能はもちろんのこと、作曲家としての才能もなかったのだ。
今、四十歳を越えてようやくそれを認められるようになったが、つい最近までそれを認めることすらできなかった。それどころか、自分は作曲家を目指すことを言い訳に色んな事から逃げてきた。
親にすがりついて、憧れの坂本龍一と同じように東京芸大の大学院までは出たものの、まともに就職もせず、作曲活動に専念すると言って、言い訳をし続けていた。何曲か作曲したが、結局ものにはならず、徐々に作曲が苦痛になっていった。もう私の下には、音符たちは降りてこなかった。そんな二十代の頃に同じ芸大シンフォニーのバイオリニストで結婚するかもしれない男の人もいたが、「夢の妨げになるから」と言い訳して私は逃げた。その男の人の顔も今ではもうはっきりと思い出すこともできない。私は、人を愛することからすらも逃げたのだろう。実家の家事すらまともに手伝いもせず、「作曲家志願者」という心の底から本気で志願もしていない肩書を自分に言い聞かせて、あらゆることから逃げてきた。私は、ただの怠け者に過ぎなかった。
でも、私には才能はなかったが、音楽が好きなことだけは揺るがなかった。無職でしかない私を心配する親に促されるまま、やった音楽の非常勤講師も、専任にならないかと主任の先生に勧誘されるぐらいには評判が良かった。他の音楽の先生との違いは、作曲の観点からの音楽の分析で、実際に作曲もさせる授業がとても好評だったのだ。我ながら、音楽好きにした生徒の数は数えきれないと思う。それでもやはり、「作曲家を目指す私」はその誘いを断ったが。
そして、今はこじんまりとピアノ教室で何とか生活している。でも、こうして指導も忘れてミキちゃんの、本当に愉しそうにピアノを弾いているその音色に耳を傾けていると、これで良かったんじゃないかという気がしてきた。
才能がなくても、人生全て寄り道しかなかったとしても、こうして目の前で愉しそうにピアノを弾くミキちゃんのような音楽が好きな子どもたちを、一人でも増やすことができれば、その子たちの人生を少しでも豊かにすることに貢献できたんじゃないだろうか。人生の苦難を乗り越える力を音楽が与えてくれるんじゃないだろうか。それでいいんじゃないだろうか。これからも、そんな子どもたちのためにピアノを教えていこう。
最後にそう思ったところで、ミキちゃんの演奏の最後の音符が部屋を満たした。
「ミキちゃん、本当に素晴らしい演奏ね。先生、感動しちゃった。ありがとう」
「先生、ほめ過ぎだよ」
また、潮風がカーテンを揺らして入り込んで来ると同時に、小さなピアノ教室は笑い声で包まれた。
そんなとき、不思議と美しい音符たちが私の心の中に自然に流れてきたのだった。
走りゆく赤き頬撫で風光る 真尋
がらんどう美空に生るるレモン色 真尋
ありんこやそちらへ行くと水たまり 美夢
夏空にあなた映るはかげおくり 美夢
午後三時片陰探す家路かな 茉奈
交差点前髪揺らす青嵐 茉奈
夜に吹く清く涼しい夏の風 駿太
歩いたらあたりは一面銀世界 駿太
青梅もぎ未熟重ねる我が心 咲穂
桑の実のお歯黒笑う空広し 咲穂
夕立ちや試験まであと一週間 慶明
母と子の生息地域炬燵かな 慶明
桜桃忌多摩川をのぼるボート部 悠冬
高架下遠足前の保育園 悠冬
教室に靴下干したる朝驟雨 顕大
一夜漬け氷水のみとけていく 顕大
帰り道宵闇の中待つ家族 果歩
五月晴陽に包まれて船を漕ぐ 果歩
夏の空おなかを見せるくじらかな 匠良
夏めいてあくびを一つ三毛猫や 匠良
薫風や隔てた先の姿みる 瑞葵
紫陽花や白きあと残るアスファルト 瑞葵
冷房や包まる布団の外は冬 翔太
笑い声上向きの蛇口置き去りて 翔太
梅雨空や今の気持ちは火成岩 和也
夏の空進路調査は白いまま 和也
海わたり春一番の開幕戦 優
露の音止み窓見れば虹の雨 優
五月雨や置いてけぼりの水筒 明信
東風吹きぬ音楽室のリコーダー 明信
私の開講している現代文特講は丸4年となった。こうして毎年最後に生徒たちに書いてもらった短編小説を活字にして残している本も、4冊目となる。
はっきり言うが、この「現代文特講」は既に私のライフワーク=生き甲斐となっている。そのことは、おそらくこの講座を前後期受講した諸君には、良く分かると思う。毎時間、私自身が君たちの反応が愉しみでワクワクしていたことを、きっと隠しきれていないからだ。
この講座では、一部評論文を扱うこともあるが、やはり後期は小説・文学だけになる。なぜなら小説・文学(古典含む)・詩が好きで国語教師を志す者は多いが、説明文や評論文が好きで国語教師を目指す者は稀であるように、この講座が「生き甲斐」と前述した私も無論その前者の一人だからである。
今回私が書いた小説は、私自身のことを書いたのは言うまでもない。作者自身がネタばらしをするのは無粋ではあるが、「音楽」を「文学」に置き換えれば私自身そのものである。
あの小説の主人公のように、私自身には小説を書く才能はなかった。しかし、未だに文学を愛する気持ちに変わりはないし、文学が人生を豊かにすることに微塵の疑いも抱いていないし、そのことを生徒たちに教えることに、これ以上ない喜びを感じさせてもらっている。
今は、小説家になりたいなどという妄言を吐くつもりはないが、だからこそ更に純粋に文学が好きになっている。あの小説に書いたように、かえって小説のアイデアが次々と浮かんでくるようだ。
是非、現代文特講受講者諸君も、小説や文学というものを気負うことなく、人生を豊かにするエッセンスだという気構えで構わないから、携えた鞄の中にいつでも文庫本が入っているような、生き方をして欲しいと願ってやまない。
二〇二二年正月 宇野明信
2022年1月4日 発行 初版
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1980年生まれ。法政大学第二中・高等学校国語科教諭。
著書
『令和元年度現代文特講小説集』(2019.12)現文特講受講者+宇野 明信著 法政二高現代文特講出版
電子書籍『ドリーム・ランド』(2018.12)筆名:櫻山亜紀 amazon kindle
https://www.amazon.co.jp/dp/B07LCD2VKD/ref=sr_1_1?s=digital-text&ie=UTF8&qid=1544822221&sr=1-1&keywords=%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89