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この本はタチヨミ版です。
ひとりの女が鬼気迫る表情で筆を走らせている。窓の外は真っ暗で、まるで女の迫力に気圧されたかのように静まり返っていた。女の筆は止まることなく、どんどん原稿用紙のマスを埋めていく。時間だけが過ぎ、気づいたときには窓の外は白んでいた。作品が仕上がったのだろう。女は椅子の背にもたれかかり、満足そうな表情を浮かべながらふーっと大きく息を吐いた。
いつの頃からか、川中澄美子は「作家になる」と心に決めていた。事務員で生計を立てながら他の楽しみには眼もくれず、生活のすべてを注ぎ込んでいた。作家になることを夢で終わらせる気は毛頭なく、作家になるものとして人生を進めていたのだ。その甲斐あってか、年月はかかったものの澄美子は三十五歳にしてようやく女流作家として名を馳せるようになった。
デビュー作は、時代もあったのだろうが爆発的な大ヒットとなった。重版を繰り返し、ベストセラーとして街中の書店でも大々的にコーナーができるくらいだった。出版社の人間も最初は澄美子に対して小馬鹿にした態度をとっていたものの、結果が出ると露骨に媚びへつらうようになっていった。
デビューに至るまでは、本当に苦しかった。ろくに読みもしないのにダメ出しをしてくるのは当たり前で、澄美子がこだわった表現に限って馬鹿にしてきた。言いたいことがあるのはわかるが、言い方というものがある。澄美子はこれまでのやり取りを音声で残しておけばよかった……とそのときになって思った。もし澄美子が裁判でも起こせば、その音声データでかなり有利になったはずだ。
二作目は、澄美子もかなりのプレッシャーを感じていた。すでに書きたいものは頭の中にあったが、失敗したらどうしよう……という不安がとにかく大きかったのだ。二作目から振るわない作家というのは、世の中に腐るほどいる。当然、デビュー作がヒットすればするほど、二作目との落差も大きくなる。二作目でコケれば、出版社もまた以前のような悪態をつくだろう。それだけは絶対に嫌だった。
「せめてデビュー作と同じくらいヒットしてくれ」「できればデビュー作を超えるようなだヒットになってくれ」「でも、欲を出すと振るわないかもしれない」「いやいや、無心でいたほうが傷は浅くて済む」……いろんな思いが澄美子の中で渦を巻いていた。結果として、二作目はデビュー作を超える大ヒットとなった。たった二作、されど二作。二作目の大ヒットで澄美子は不動の地位を築いたのだった。
三作目にもなってくると、プレッシャーはあるものの少し気持ちにも余裕が出てきた。仮に大コケしてしまっても、デビュー作と二作目の大ヒットがある。出版社もそれはもう大儲けしていることだろう。これは間違いなく、出版社への貸しだ。
三作目は出版社からの要望を突っぱねて、自分の書きたいものを書いた。もちろん、出版にあたって表現を修正するくらいのことはしたが、基本的に自分の頭の中にあった書きたいものを綺麗に書籍化することができた。これがまた大ヒットとなった。現代社会への皮肉を込めたのが多くの読者の心をつかんだらしい。
自分の書きたいものを書いて、それが大ヒットとなったのであればこれ以上のことはない。そう思っていた澄美子のもとへ、今度は自身の作品を原作としたドラマ化の話が舞い込んできた。企画の段階ではあるものの、キャストなどもかなり豪華だった。ただ、正直なところ、自身の作品の映像化には抵抗があった。映像化することで、面白さが半減してしまうのではないかという不安があったのだ。
澄美子が渋っていると、テレビ局のプロデューサーは何度も何度も説得にやってきた。業界の人間にはあまり良い印象は持っていなかったものの、そこまで言うのであれば……と条件つきで澄美子はドラマ化の話をOKした。澄美子の条件はたったひとつ。それは「原作に忠実に」。もちろん、それが一番難しいことは澄美子自身もよくわかっていたし、だからこそ、書面化して、なおかつ音声データでも一連のやり取りを残していた。
約束を反故にされたのではたまらないからと、澄美子も撮影現場にはよく足を運んだ。幸いなことに、スタッフやキャストに恵まれ、ドラマの撮影は澄美子としても大満足の形で進んでいった。この仕上がりでコケたら諦めも尽くし、面倒なドラマ化の話も来なくなるならそれはそれでいい……そう考えていたが、ドラマのほうも話題になり、すぐに続編や映画化の話になっていった。もちろん、澄美子の書籍もどんどん売れていった。
澄美子にある程度の影響力はあったものの、業界はすでに澄美子ひとりでは収拾がつかないほどの盛り上がりを見せていた。渋っていた映像化に関しては、「スタッフとキャストはそのままで」という要望を出すのみで、あとはもう流れに任せるしかないところまで来ていた。
書きたいことは山のようにあったのに、まったく興味のない雑誌のコラムを依頼されたり、有名人との対談をしなければならなかったり、ときにはドラマや映画の宣伝でコメントを求められたりと自分のやりたいことではない部分での仕事が増えていった。忙しいのは出版社もわかっているはずなのに、出版社は出版社で「次は何を書きます?」「次はいつ出します?」と催促をしてくる。
仕事は無尽蔵にあった。だからこそ、とりあえず目の前の仕事を必死でこなすしかない。気づいたら一週間も一か月も経っているような日々が続いた。本当に時間があっという間に過ぎていくのだ。そんなある日、澄美子はある女性週刊誌の依頼で大御所の作家と対談することになった。大御所と言ってもとても気さくな人で、対談が始まる前から雑談で盛り上がっていた。
「澄美子ちゃんは本当にすごいわねぇ」
「いえいえ、そんな……先生の足元には及びませんよ」
「まぁ、先生だなんて呼ばないでちょうだいな。桃香って呼んで」
「じゃあ、お言葉に甘えて……桃香さん」
「嬉しいわぁ。今じゃみんな先生、先生って。名前で呼んでくれないんだもの」
「確かに……私も作家になってからはあまり名前で呼ばれませんね」
「まぁ、昔から『作家先生』なんていうけど、私たち、先生じゃないのにねぇ」
「ふふふ、本当ですね」
そこに対談のセッティングをおこなっていたスタッフが慌ただしくやってきた。ふたりを見つけるとまるで舞台役者のような大袈裟な身振り手振りで声をかけてきた。
「先生方! お待たせしてしまい申し訳ございません! 準備が整いました! こちらへどうぞ!」
澄美子と桃香は顔を見合わせると、お互いにほんの少しだけ肩を上げてどちらともなく対談場所へと向かっていった。
「『先生方!』だって」
「私たち、あの人の先生じゃないのに……ふふふ」
澄美子と桃香はスタッフに聞こえないような小さな声で、コソコソと楽しげに話しながらお互いの席についた。対談は少しかしこまった形ではあったものの、お互いに話したいことを素直に話すことができて、澄美子にとっても久々に心から楽しめる仕事だった。
「ねぇ、澄美子ちゃん。このあと、何か予定はあるの?」
「いえ、今日はこの対談のためだけに出てきたので」
「あら、そうなの。もしよかったらこのままふたりでお茶しない? 私のお気に入りの喫茶店で」
「いいですね! 是非ご一緒させてください」
「よかったぁ~。作家仲間で気の合う人、なかなかいなくって。澄美子ちゃんと出会えてよかったわぁ。こんなにおしゃべりが楽しい相手、本当に久々よ」
「嬉しいです。私なんて作家仲間ひとりもいませんでしたから」
「あら、じゃあ私が一人目ね。ふふふ、嬉しい」
対談後、澄美子が連れていかれたのはレトロな雰囲気の喫茶店だった。今どき珍しい昔ながらの喫茶店で、まるで映画のセットのようだった。
「すごい……素敵な喫茶店ですね」
「そうでしょう? 私のお気に入りなの。穴場よ! このあたりじゃこういう昔ながらの喫茶店はここだけ」
「うわぁ、メニューもいいですね」
「ふふふ、そうでしょう。そうでしょう。喜んでもらえてよかった。私はね、いつもケーキセットを頼むの。ケーキは何が出てくるのかお楽しみ。紅茶とコーヒーはどっちを選んでもハズレなしよ」
「じゃあ、私もケーキセットで……紅茶にします」
しばらくして出てきたケーキは、モンブラン。それも昔、子どもの頃によく食べた黄色いモンブランだった。
「わぁ、懐かしい……」
「澄美子ちゃん、運がいいわね。モンブラン、なかなか出ないのよ」
「そうなんですか? 嬉しい!」
黄色いモンブランに舌鼓を打ちながら、お互いに思いついた話題を口にする。何でもない時間が穏やかに進んでいく。まるでお互いが昔からの友人だったかのように、自然と会話が弾んだ。
「はぁ~、澄美子ちゃんとのおしゃべり、本当に楽しいわ」
「私も桃香さんとこんなに話せて、本当に嬉しいです」
「ねぇ、澄美子ちゃん。もう次の作品、書き始めてるんでしょう?」
「そうですね。最近は他の仕事が多くて、なかなか進まないんですけど……」
「わかるわぁ……最近は作家にいろんなものを求めすぎよね」
「でも遠回しに『作家は他にもいるんですよ』みたいなこと言われると、断れなくって……」
「そう! そうなのよ! それがあいつらの手口なの。本当にやんなっちゃうわね」
「これでスランプにでもはまったら何を言われるやら……」
「澄美子ちゃんは今までスランプってあったの?」
「いえ、今のところは……その分、デビューするまでにかなり苦労はしましたけどね」
「そう……でもね、私が今まで見てきた作家は全員が漏れなくスランプを経験してるわ。私もちょうど今の澄美子ちゃんくらいの頃にスランプから抜け出せなくなってね」
「そうだったんですか? 桃香さんはデビューからずっとコンスタントにヒットを出されてる印象ですよ」
「やぁねぇ、さすがにそれはないわよ。当時は書けなくなって、それでも無理やり書いて、ボロクソに言われて……澄美子ちゃんも業界のことはもうだいたいわかってると思うけど、業界の手のひら返しは本当にすごいから。まぁ、私はそれで終わりたくなくて書き続けたんだけどね」
「……私もきっと書き続けると思います。負けず嫌いなので」
「私たち、負けず嫌い同士だから気が合うのね」
「ふふふ、そうかもしれませんね」
「スランプから抜け出せないときって、本当につらいと思うの。私も周りが全員敵に見えたし、それで余計に自分自身を追い込んじゃってね。だから、もし澄美子ちゃんがスランプから抜け出せなくなったときには私に相談して。何だったら、スランプから抜け出せるようになるまで私の家で暮らしたっていいんだから」
「ありがとうございます。何かあったらすぐ相談しますね」
「ねぇ、連絡先の交換しましょうよ」
「もちろん!」
澄美子と桃香は連絡先を交換し、その日以降もやり取りは続いた。桃香は何かと澄美子のことを気にかけていたし、澄美子も桃香のことを慕っていた。澄美子の忙しい日々は相変わらずだったものの、その中でも桃香とのやり取りが唯一とも言える癒しとなっていた。
その後も、澄美子は四作目、五作目、六作目と続々と作品を生み出し、そのすべてがヒット作となっていった。この頃には澄美子が新しい作品を生み出すとドラマ化や映画化はもう当たり前となっていた。一度だけ何を思ったのかアニメ化がなされたが、それは結果が振るわなかった。ただ、それは制作スタッフが作品をきちんと理解していなかったからだと澄美子の評判が落ちることはなかった。
七作目以降は、澄美子にも時間的な余裕ができるようになっていた。マイペースに仕事ができるようになり、桃香からお誘いがあればお茶をしに行ったし、澄美子のほうからお茶に誘うこともあった。
「私、澄美子ちゃんにはもうスランプなんてないんじゃないかと思ってるの。だって、ここまでスランプらしいスランプはないでしょう?」
「そうですね……なぜだかわかりませんけど」
「澄美子ちゃんったらずるいわぁ」
「いやいや、今までこなかった分、これからすごいのが来るかもしれませんし」
「もう、スランプ来たら絶対に私の家に来なさいよ」
「スランプ来てなくてもちょくちょく遊びに行ってるじゃないですか」
「遊びに来るんじゃなくて、私の家で暮らすの!」
「あはは、そう言えばそういう話もしてましたね」
「ほら、私ひとりでしょう? 一応お手伝いさんはいるけど、お手伝いさんはお手伝いさんで気を遣っちゃうし……澄美子ちゃんは私にとって妹みたいな、娘みたいな存在だから」
「あ、私も桃香さんのことお姉ちゃんみたいな、お母さんみたいな存在だなぁって思ってたんですよ」
「もう一緒に暮らしましょうよ~。澄美子ちゃんと一緒に暮らしたら、きっと毎日が楽しくなるわ」
「でも、私、家にいるときはひどいもんですよ。すぐに追い出したくなるかも」
「作家が家でどんな状態なのかは私だってよぉ~くわかってるもの。私だって同じようなものよ。あ、でも、そしたら私が澄美子ちゃんに愛想尽かされちゃうかもしれないわね」
「もう、そんなことあるわけないでしょ」
「ふふふ、よかった。ねぇ、今度また私たちで対談やるんでしょう?」
「そうなんですよ。私がインタビューとかで桃香さんとの話ばっかりしちゃうから巻き込んじゃってすみません」
「いいのよ。私、澄美子ちゃんとの対談ほど楽しい仕事はないと思ってるから。ちょっと前にね、朝の番組でコメンテーターしてる人と対談したのよ。名前何だっけ……」
「いつも頭が不自然な人?」
「そう! その人と対談したのよ。んまぁ、ひどかったわ。対談前にね、私の本を持ってきたと思ったら、『このページのこの表現がいただけない』とか細かいところをいきなりダメ出ししてくるの。しかも、ダメ出しするところに付箋までつけて。でも、対談が始まったら馬鹿みたいに私のことを持ち上げるのよ」
「うわぁ……でも、そこまでするって逆に桃香さんのファンなんじゃないんですか?」
「やぁよ、そんなファン。お断りだわ。もういっそのこと、澄美子ちゃんとの対談以外は受け付けませんってことにしちゃおうかしら」
「本当にそういう御触れを出したら週刊誌が食いつきそうですね」
「本当に毎回毎回あることないこと書いて……ねぇ? 私たちがどれだけ売り上げで貢献してると思ってるのかしら」
「本当に好き勝手に書きますよね。それで、『次は何を書いてくれるんですか?』なんて平気で言うんだから神経疑っちゃいますよ」
新作を書きながら、桃香の家に遊びに行ったり、桃香とお茶をしたり。その合間で対談などの仕事をこなす。そんな日々が続いた。いつかやってくるであろうスランプへの不安はあったものの、心のどこかで「デビュー前に苦労をしている分、奇跡的にスランプとは無縁でいられるのかも……」と都合よく解釈してしまう自分もいた。
澄美子の記念すべき十作目は、これまでにない盛り上がりを見せた。業界人の集まる大規模なパーティーもおこなわれ、澄美子もお偉方の前でそれらしいスピーチをしなければいけなかった。スピーチを終えてはけていくと、そこには上品な着物に身を包んだ桃香が立っていた。普段とはまるで別人だ。
「川中先生、この度はおめでとうございます」
「ふふふ、もうやめてくださいよ」
「澄美子ちゃん、スピーチばっちりだったわね」
「必死で覚えた甲斐がありましたよ~。でもこういうパーティー、正直苦手です」
「ふふふ、私もよ。でもまぁ、これも仕事のひとつよ。このパーティー終わったら、私の家でささやかなお祝いでもと思ってるんだけど、どう?」
「行く! 行きます!」
「よかった。そう言うと思ってもう準備はしてあるのよね」
「さっすが、桃香さん」
それからも平穏で幸せな日々が続いた。十一作目、十二作目も相変わらずの高評価だった。ただ、いよいよ十三作目に取りかかろうというタイミングで本当に突然、澄美子は書けなくなってしまった。買いては消し、買いては消し……「原稿はまだか」という催促に耐えかねて、とりあえずの原稿を見せると、担当は信じられないという顔をした。
「先生、調子悪いんですか? 疲れてます?」
「いえ……」
「大丈夫です。今まで頑張ってきたんですから、ちょっと休みましょう。無理しないでください。必要であれば病院も紹介しますから」
澄美子の最新作は大々的に告知がなされていたが、一旦すべてがなかったことになった。最初は体調不良を疑っていたメディアも、そのうち「とうとう枯れた才能」「女流作家、初めてのスランプ」などと好き放題騒ぎ立てるようになった。
不幸なことに時を同じくして、桃香が旅立ってしまった。桃香に改めて尋ねたことはなかったが七十五歳だったという。
――あんなに若々しくて、パワフルだったのに――
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年1月27日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス