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海 月(くらげ)
一 海の底
思い出すことがある。母の背におぶさり、その頃荒尾市郊外を走っていた市電に乗り込んだ。人はわりに多く、その中に座れたか立っていたか、それとも座席が空いていたにもかかわらず母は腰を下ろさずにいたのか、どちらかと言えば後者のような気がする。母は、席があっても立つことをえらぶような人だった。市電はかつて尾形山の麓本村にあった軍需工場と四山、三池港を結んでいたものだ。その工場で戦時中、父は学徒動員で働いていた。連合軍の戦闘機が一度撃墜され、その現場を雑木の中へ競って見にいったときのことを話してくれたことがある。操縦士の遺体の白い肌が生々しく、不気味なほど光って見えたそうだ。少年から青年へなりかかっていた。
父は、そのとき何を感じたのか。俺たち昭和四年生まれは、戦争で一番損をした。戦争中は、ぎりぎり兵隊にいける年ではなかったばかりに志願しろと周囲にけしかけられ、やむをえず軍需工場で働き、戦争が終わると今度は兵役からもどってきた先輩たちにいじめられた。父の話を聞いているといつも感じることがある。どの時代もそうだが、境目の人間たちは、痛い思いをするものだ。だが、曲りなりにも戦地に行くこともなく生き残れたということは、なによりも幸運なことだったのかもしれない。そういう意味では、少し言葉を変えなければならない気もする。境目は、いつも辛い思いをした記憶が後になっては鮮烈に残るが、ふり返ってみればそれほど不幸なことばかりだったわけではないと。境目……そう、わたしの生まれ育った荒尾もまた、熊本と福岡、海を渡れば長崎との県堺、まさしく境目だ。これまで時代の中で様々な痛い思いをしてきただろうが、たしかに今に照らして見れば嫌なことばかりだったというわけではないだろう。境目であるだけに享けてきた僥幸さえある。わたしもそんな中で生きてきたような気がする。だが今はまだ、ような、というにとどまっているにすぎない。
荒尾はまさしく境目の町だ。三つの県にまたがるというのがどうもしっくりこなければやはりこう言うしかない。大牟田は諏訪川と島原は雲仙、熊本は小岱山に囲まれた町、海底と海上に挟まれ、江戸期になされた地上とも地中ともつかぬ海抜数メートルの干拓地にしがみつき生きてきた場所、それが荒尾である。現代になってからは、そのことはさらに明確になってくる。海底では黒いダイヤと呼ばれる石炭が堀られ、有明の海ではさまざまな海の幸が豊富だった。その他にはわずかな農作地以外これという産業はない。つまりは、これまではどうにかそれだけでやってこれた、それが荒尾だったのだ。だがそれも数十年前のことになってしまった。そう。わずかに数十年だ。だがこの数十年がわたしにとってはあまりにも遠く、大昔のことのように思えるし、夢の世界の出来事のようにも思えてくるのはなぜだろうか。わたしは海の底とも海面ともいえぬゆるやかな海流を漂う一匹のクラゲになったような気分だ。その数十年に生命をもらい生きてきたわたしは、まさしくそのクラゲのように海底下の冥く冷やかな静けさも海上の荒波立つ激しい時化も知らず、ときにうまく身をくねらせ躱しながら漂ってきた境目にさえなりきれぬ、境目のそのまた境目、ともいうべき存在なのかも知れない。
そんなわたしが物心ついたとき、時代はすべて終わっていたように思えるのはなぜなのか。オーバーにではなく、確かにである。それには否応なく時がすべてを教えてくれるものだ。時とは残酷で、あらゆるものを曖昧にしごまかすかわりに、ほんとうはこちらが知りたくもなかった真実を、横腹をじりじりとえぐるように示してくるときがある。
わたしの生まれた一九六一年は、高度経済成長期の幕開けであり、その前年には嵐のような激しい争議と合理化がこの荒尾と大牟田を中心に城砦を奪い合いながら吹き捲った。わたしは言わば、その燃え滓ともいうべき数多くの破片が地中でガラスのように鈍く光を放ちながらも、その一かけらさえ感じ取れぬままそのときどきを無邪気に生きてきたようにも思える。今からふり返れば、すべてが真実をつつみもっていた、と言えば大袈裟であろうか。 わたしの通った校区にも、宮内社宅と大平社宅という炭鉱住宅があった。そしてわたしを幼稚園から小学までの八年間、いじめぬいた山田という子もその住宅に住んでいた。あれは小学四年のときだった。わたしは一度かれの家に連れていかれたことがある。縦横真っ直ぐに碁盤の目のように整理された場所に同じ向きで軒先を並べ建てられた家屋の群れは、それ自体明らかに別の町のようだった。かれはその炭住に入ると同時に、さらに態度を大きくし自信に満ちた姿になった。わたしは、いよいよ逃げ出すにも容易にはできぬ地点にきた気持ちでそわそわし、内心胸が張り裂けそうだった。実際彼に何をされるかわからない、そう思った。その数日前、わたしはかれに歯向かい、「帰るな」というのに黙って家に戻っていたため、次の日、朝学校でコンパスの針で腿を刺されるという酷い目にあわされていたのだ。そのとき教師はわたしがしくしく泣いているのに気づき理由を聞いたが、わたしはさらなる仕返しが怖く黙っていた。その日はそんなかれが、わたしの改悛ぶりを試すためのテストだったのかもしれない。かれは開き戸の扉をガラガラっと勢いよく開け框にランドセルを投げ出すと、突然糞がしたいと言い出し、わたしはそのひと言に逃走のチャンスができた、そう思った。まさか便所にいるときまでかれの目がわたしに注がれることはないだろう。それはまさしく本能的なものだった。そんなときは目の前の危険を避けることに必死で、後のかれの報復など考えてもいない。いやそれほど状況はこれまでにないほど切迫していたのかもしれない。わたしはけっしてオーバーではなく、もしかするとかれにこの家の中で殺されるのではないか、そう思っていたのだ。
とにかくその場からできるだけ遠くへ逃げ出したかった。
だが半面、なんともわざとらしいかれの表情とその言動に密かに訝かしさを抱いていたのも確かだった。わたしは退路を断たれた獣のように息を潜め、その後のかれの行動をじっと見守った。今から思えば、すべてはあちらの計算どおりの、わたしの心理を弄ぶためだけのゲームのようなものだったのかも知れない。山田はじろりとわたしをふりかえると、たしなめるように「逃げるなよ」とどすの効いた声でつぶやいたのだ。それから向こうのとった態度はさらに酷かった。わたしがそのまま玄関に座っていたためか、入口のすぐ真向かいの場所にあった便所の扉を開け放ったまま、今度はのうのうと糞をたれだしたのだ。ニヤニヤと嗤い監視しながら、さもお前の逃げ場はもうどこにも残ってはいないのだぞと言いたげにである。わたしは仕方なく、かれの胸の下に跨がれ垣間見れる尻部から、黒いものが押し出されてくるのを黙って見ているより他なかった。そのときだ。幸運にも同じ炭住に住む二つ年上の透という子が遊びにやってきたのは。かれは、玄関に入りしなその情景を見て呆れ、「おい、戸ぐらい閉めたらどげんや」と山田に告げたのだ。わたしは正直透の思いがけぬ出現に胸を撫で、かれがただ単に山田のとっていた態度を非難したのではなく、わたしとかれとの両者の関係を素早く見てとったのではないかと、その一瞬のまなざしと言葉から救いの匂いを嗅ぎとった。体はさほど大きくないが、住宅の小学生の中ではリーダー格の存在であり、その社宅の中ではだれもかれに口答えできぬことをわたしは前から知っていた。そしてつい最近のことである。透がまだ幼いときかれの父親が炭塵爆発事故で長期入院患者となり、苦しんだ末亡くなったことを新聞の記事で知ったのは。その事故に対する心的慰謝料としての損害賠償を会社側に求める裁判の結果が報道され、訴えた側に透の名字と母親と隣り合わせで写るかれの成長した顔写真があったのだ。わたしは歳月を越え、しばらくその写真に見とれていた。もしあのときかれが現れなかったとしたら……。
わたしはあのとき透がいるかぎり、今日はなんとか乗り越えられるにちがいないそんな微かな期待を抱いたのだ。記憶はそれから山田が多少恥ずかしそうな顔になり、おもむろに尻を拭き便所から立ち上がったことを覚えている。それから、三人でやった遊びはゴム飛びだった。ゴム飛びは最初女の子から始まっていたが、男の子の中にもかなり当時流行っていた。二人が持ちひとりが飛びながら順繰りに交替し、少しずつ高くしていく。季節は日の短い秋だった。市役所から五時の鐘がなり、しばらくすると太陽は藍色に染まり、有明海の方角に仄かな光をたたえながら傾いていった。わたしの家はその社宅からふつうに歩いても四十分はかかる。
「おい、まだよかろう、ねっ」
山田は執拗にわたしに帰ることを延ばすよう、つよく低くくぐもった声で求めた。わたしは輪ゴムをつなげた指先をもどかしげに持ったまま、引きつった顔で承諾した。そのときだった。またしても透が、わたしがいったいどこの地区の子であるのかを山田に聞き、「そりゃあ、遠かやっか。もうやめようや」気の毒そうにささやき、その日の遊びの終焉を告げたのだ。山田は無念な顔をし、わたしを見た。わたしは状況が変わらないうちにと、だれにともなくとにかく区切りのようなとってつけた挨拶をし、家路についたのだ。藍色から今度は紅に暮れなずむ深く濃い色あいに染まってきていた炭住地を抜けたとき、わたしの足取りは次第に軽くなり、やがて駆け足になっていった。それよりもなによりも早く家に帰り着きたかった。まさしく一日の役目を負え解放された気分ではあったが、同時に惨めな自己への悲しみも消えなかった。母や父、それに姉の顔が浮かび、初めていとおしさを覚えたのはそのときだ。途中、ガードレール上から有明海が一望できる。海苔網の張られた竹の一本一本までがはっきりと見てとれ、その中にはわたしの家の竹もあるはずだった。深夜、海に出かけ、明け方網からとった黒々とした海苔をコンテナに入れ、リヤカーに積んでもってくる母と父の顔が浮かび、自分の弱々しい存在を知ればどんなにかれらが悲しむだろうかと切なく、そして情なかった。夕日は今にもその紅の姿の一部を数千の竹の影を映しとった稜線の向こう側に、ゆっくりと沈み込ませようとしているかのようだった。そのとき海はそれ自体が巨大な生物のように横たわり、薄闇の中に濃い翳りをおびた雲仙岳だけを妙に鮮明に浮き上がらせて見せていた。海の底に沈みきることもなく海面に上がることもできなかったクラゲも、ときには何かの拍子に昼日中、自らの脆弱な身体を晒さねばならないときがやってくる。それが果たして死を意味するのか、それとも新たな生の到来を孕んでいるのかはだれにもわからない。
中学になるとわたしは山田とは距離が保てるようになった。というより山田がすでにわたしに飽きてしまったのだ。わたしは無表情になり、山田と言わずだれからも距離を置いた。心を開かなくなったのだ。皮肉なことに山田のいじめがなくなったとき、今度はわたし自身があらゆることに反応を鈍らせるそんな子どもになっていた。山田は、わたしをいじめていた過去も忘れたかのようにぬくぬくと野球部のピッチャーとして活躍していたようだ。わたしの冷めた感覚は、教師からも気に入られていなかった。そのことがわかっていながらも、どうすることもできなかった。
そんなとき、わたしには気になる視線があった。いつもその視線はわたしをどこかで見、どこかで呼んでいた。かれの名前を彰夫と言った。あるときだった。わたしが教室で壁に貼られている世界地図をぼんやり見ていると向こうから近づいてきて耳もとでかれは囁いた。「この地図、なんて言うか知ってるや?」わたしはすぐさま首をふった。「船で使うメルカトール図法」わたしは虫の好かないやつだとその場を離れようとした。すると彰夫は「今度、海いってみんや。うちん船があるけん、遊ぼうや」そう慌てて訂正でもするように早口で喋ったのだ。
「船って?」
「ああ、綱つけたまんまにしとけば、たいがい大丈夫だけん」
わたしは、一瞬なんのことかわからずきょとんとしてしまった。彰夫もそんなわたしの態度に戸惑いを隠しきれないふうだった。それでもわたしは、次の土曜の午後、さっそくかれに勧められるままに海岸へ遊びに行った。かれの言う船はたしかに岸壁にくくりつけてあった。ちょうど満潮になる手前の時間で、さほど恐怖は感じなかった。わたしたちは船に乗り込み、波に少しばかり揺れる甲板の上に縁をつかみながら腰を下ろした。だが満潮になってくると船底が確かに板一枚で生きた海面と接しているそんな感触を伝えてきた。するとかれはいきなり立上がり船首にいくと、ぐるぐると巻いてあった纜をほどきそれをどんどん伸ばし始めたのだ。二十メートルにはなったかと思う。当然、船の動きはそれに比例するかのように激しさを増していった。有明海の満潮の勢いは凄まじいものがある。だが、かれはまたもとの場所に座り正面に目を向けると、悠然と海岸を眺め始めたのである。「おもしろかろ?」彰夫のそのひと言に、わたしもさすがにテンションを上げ「流さるっことはないどね」うわずった声で念を押した。久しぶりに潮風が軋んだ心の隙間に入ってくる感覚があり、それが潤滑油のように心地好かった。「ああ。何回も俺やりよるけん心配せんでよか」纜は、それで長くしてあったのだ。それからわたしたちは、しばらく有明海を漂った。わたしが海がやはり巨大な生物であると実感したのはそれが最初だった。波の背鰭にのり、右へ左へいともたやすくもっていかれる有様は、まさしく海上に姿を見せた一匹のクラゲが、大地の隙間に寝そべった柔らかな肢体の上をたなごころにのった水滴のように転がされているようなものだった。わたしはしばし呆然とし、胸の収縮を覚え緊張した。湾曲した堤防は一層奥まって見え、ときどき船腹を小さな木切れがつかまえては引っ掻いた。カモメの鳴き声だけでなく、潮風や跳ねてくる海水の音まで聞き取れるようだった。そのとき彰夫にも、そしてわたしにも周囲に何かを求める意識は微塵もなく、ただ黙ってそれぞれに静かに佇むまなざしがあるだけだったように思う。そうやって海上遊泳を楽しんだ後、彰夫とわたしはふたりで綱をたぐり寄せ、またもとの位置にまで戻した。わずか二十メートルを巻くのに三十分はかかったであろうか。掌に湿った綱は食い込み、ざらざらとした感触はひりひりし重たかった。最後にはズボンのまま太腿まで海へ漬かり、足を潟の沼地にとられながら船を岸壁に固定した。
家に帰り、わたしは彰夫のことを何げなく母に話してみた。同じ漁業仲間で親同士知っているのではないかと思ったからだ。というのも、彰夫のいる地区は母の実家と同じだった。母は、「ああ彰夫かい」と素気なかった。だがそこには、今から思えば明らかに何かを隠しているそんな不誠実な香りがあった。何事にも正直な母には珍しい躊躇の色が口もととはいわず目もとの辺りにほんのりと垣間見えたのだ。その証拠に、わたしは彰夫の真実を後でそんな母からようやく最近聞いて知ったのだった。母はいろいろとぽつりぽつりと溜めていたものを、この頃話し始めてくれている。彰夫には母親がいなかった。小さいとき事故で死んだと、わたし自身も本人から聞いていた。しかし、事実はちがっていた。自殺していたのだった。有明海に身を投げて。しかも小さな妹といっしょに。妹は生まれながらに心臓がわるく入退院を繰り返し、しかもそのことが厳しい家計を圧迫した。ただそれだけの理由で彰夫の親族は母親を攻め、父親もその状況をどうすることもできぬまま母親はしだいに追い込まれ孤独の中、妹といっしょに轟くように咆哮する真冬の荒れた有明海に身を投げたのだった。母親と妹は事故で死んだと聞かされていた彰夫は、その後耳にはいってきた風評をもとに父親につめ寄り、真実を知ることになった。それが中学、わたしに声をかけてきた頃だったのだ。その母と幼子の心中を知ったとき、わたしの母の一番上の姉、つまり伯母は彼女と知り合いだったこともあり、彰夫の家に怒鳴り込んで行ったという。
「あんたたちは、いったいなんばしよったつかい! 人ば殺して、なんばしよったつかい」
一本の綱をたよりに、クラゲかもしくは凧のように海面を漂っていたとき、かれはいったい何を見、考えていたのだろうか。何ゆえかれはわたしに声をかけてきたのか。もしかすると自分の母と妹の死とわたしの伯母との一件をだれかから聞き、知っていたのかもしれない。あるいは、ひとりの人間にいたぶられいじめられつづけてきた暗い影をわたしのどこかによみとり、自らの姿と重ねていたのかもしれない。いずれにせよ、その耳もとには冷たい海の底から傷口を静かにまさぐるような、そんなかれの母と妹の悲しみの声が聞こえていたような気がする。
暗澹とした有明海の海の底には、今もまだ痛みや軋みをもちながらも漂白するしかないそんな死者たちの無数のまなざしがあるだけだ。透の父も、彰夫の母も妹も、この海の底で死んでいった。わたしはと言えば、ただひたすら、それらに射竦められまいといつまでも海中をのらりくらりと彷徨う一匹のクラゲであるより他仕方ないのかもしれない。
二 細れ波
思えばここ十数年、生きる場所がずいぶんと変わってきたように感じられる。有明海の潮風を受け生まれ育ってきたわたしが、いつのまにか阿蘇の麓で山肌から吹き下ろす風の中で生活している。その前に熊本市内の味噌天神、そして大津と住んできているからだんだんと荒尾から東へ入ってきたことになる。海岸の景色は遥か彼方へいってしまった趣きさえある。だが、有明海の生成に阿蘇山のこれまでの活動が深く結びついており、地下の水脈もやはりつながっていることを、知人が阿蘇の山麓に家をつくる際、飲料水をボーリングするかしないかで悩み、浄水機の会社にいっしょに相談に行き耳にしたとき、正直言って安心した。有明海と阿蘇とはやはりこの熊本にとり天と地との裏返しなのだ。この両者のエネルギーにより熊本のほとんどといっていい地形はつくり上げられた。
職業もずいぶんと変わった。塾講師を三年半、大学入学資格検定の専門予備校で職員を一年半、それから小学校の教諭を五年、今は障害者やその保護者らと小規模作業所を始め、ようやくどうにか軌道にのり四年目に入る。そんな中にも結婚し、二人の子どもの父親となり、さらに家族と離れ今は再び一人暮らしを始めているこのわたしは、いったい何を求め生きてきたというのか。そして、何がつかめたというのだろうか。考えあぐんでいると、今もそんなわたしに思い浮かぶのは、あの有明海の暮れなずむ風景だ。漣ひとつ立たない大きな入江のように広がる干上がった潟とそこに沈みこむ夕日を背に、濃い影となって戻ってくるアサリ漁の女たちがそこにはいる。その中にはわたしの母が決まっていて、ゴム長のダバ靴を西日に照らされ光を吸い込む蒼黒い鉛のように重く引きずりながら、歩いてくる。海苔漁のない季節にも母にとり有明海は、なくてはならない仕事場だった。ガン爪と素手で干潟の泥をこしゃぎとり、だれよりも貝を採っていた母。その母があのときはおいおいと泣いた。他人の目も憚らずに。わたしが教師を辞め、そのことを告げに行ったそのときだ。母は病院のベッドで病に伏していた。潰瘍性大腸炎という難病にである。
「なぜ、せっかくなった教師を辞めたね。あんた、あんなに苦労してなったのに、どうして……」
ようやく長期の点滴を終え、峠を越えた矢先だった。
「こんなことなら、死んでおけばよかった……」
他の同室の入院患者のことも気にせずに、母はぼろぼろと涙を零し、言葉は容易に聞き取れぬほどに崩れ散った。それから枕もとに置いてあった孫の写真を示し、「二人が泣きよるよ」またシーツを握りしめ嗚咽した。堪り兼ねたわたしが二、三辞めた理由を言うと「あんたはいつも自分のことしか考えん」くしゃくしゃの母の顔は仁王のように険しさを増し、わたしを睨みつけた。母の痩せさらばえた胸から見える肋骨が痛々しかった。母さんちがう、母さんちがうんだ……そう何度も言葉に出し説明したかったが、それ以上苦しめることもできず、わたしは胸の中で虚しく何度もそう叫ぶ以外なかった。
「また、明日来るから」
わたしはその一言だけをなんとか絞りとるように声にし、その場を去ったのだ。母を看病していた父もその病院にいて、本人も胃腸科で診察してもらっていた。待合室に座っていた父に話すと「お前がきめたっだけん」と何も言わなかった。その半年ほど前、ちょっとした出来事があっていた。母の容態があまりよくないことを知り、それならば入院する前に孫の顔でも見せてやろうと出かけたときだった。その頃、わたしはまだ妻と子と大津に住んでおり、妻が仕事の研修のため県外へ行ったため、わたし一人が娘と息子を連れ実家に向かった。車を置いてもだれも迎えに来ないのはいつものことなので、慣れている。荷物を下ろしている間にも子どもたちは先に降り、駆け足で玄関から入っていった。母の喜ぶ姿が目に浮かんだ。わたしも着替えの荷物などをもって、やや遅れて家に入った。しかし、状況はちがっていた。奥の部屋からは、耳が痛くなるほどの音量が溢れかえっていた。音は、父がラジオを聞いてるものだった。わたしは、玄関口で立ち止まり、上がろうか上がるまいか迷っている子どもたちの横顔を見た。瞬間、娘もわたしの顔を見、怯えた表情になった。下の息子も、肩口の動きから身の置き場がなくそわそわしていることだけは確かだった。母がゆっくりと、細く筋と血管ばかりが浮き出たからだを動かしやってきた。
「よく来たね。リンゴむいたから上がって食べんね」
母も、孫たちに話しかけ、気をくばりながらも父親のその作業が終わるのをただひたすら待っている様子だった。
「ちょっと遊園地に行ってくるよ」
わたしは、さりげなく母に告げた。思ってもいない変更に、二人の子どもはにわかに顔色を変え、「おばあちゃんもいっしょに行く?」下の子がはしゃぎ、娘はそれでも心配そうにわたしの顔を見つめていた。「おばあちゃんは、お腹の具合がわるいからいけないんだよ」母の変わりにわたしが説明し、「そうね、少し遊んでから来るたい」母も納得したふうにつぶやいた。「夕方になったら帰ってくるから」わたしは、再び今降りたばかりの車に子どもたちを乗せ出発した。
わたしは自由気ままで自己中心的なところが強い父とあまり気が合わず、小学校の高学年ごろからできるだけ顔を合わさないようにして過ごしてきていた。そんな父とわたしは大学一年のときちょっとした争いを起こしており、ラジオの音を聞いた瞬間、その記憶が重なったのだ。それも、ちょうどその日と同じわたしが久しぶりに下宿先から帰省してきてすぐのことだった。そのとき父は、近くに住む叔父から借りてきた演歌のカセットをダビングしようと、もうずいぶん旧い機種のラジカセを操作していたのだった。内部音量は外の音を小さくしても変らないにもかかわらず、かたくなに小さくなると信じ込んでやっているようだった。だが、今から思えばその父の真剣さからほんとうに器材は壊れていたのかもしれない。最初からなんだか気が立っている様子だった。もしかすると父は、わたしの知らないうちに激しい惚けでもやってきて、思考回路のねじが切れてしまったのではないかとさえ思ったくらいだ。それと直感で、いつかこんな日がくるであろうとも思っていた。テーブルに着くと「ちょっと、どかんか。今書きよっとだけん」邪険に手で払いのけ、父は歌詞カードを写し始めた。わたしはあまりの音の大きさに閉口し、ラジカセの方に歩み寄り「大丈夫て。音ば小さくしても」できるだけ相手を刺激しないよう柔らかな口調で、宥めるように言いながらレベルを下げた。するとすかさず父の怒鳴り声が聞こえた。
「いらんこつするな。これはできんとやけん。いらんこつすんな。あああ、できんごつなったやっか……」
ラジカセに歩み寄り、また音量を最大限に大きくする父。わたしはしばらく新聞を見ていたが、そのまるで吹き曝しのような状況に、とにかく堪らえきれなくなってきた。なんでこぎゃん我慢せにゃならんのか。そう思ったのだ。ほんとうに怒りが怒濤のように湧いてきた。母は黙って食事のしたくをしていた。母の顔、父の顔、この家を見ているうちにこれまでどこかで堪えわたしの内側に溜めてきたものが一度に暴れ出し、吹き出してきたようだった。
わたしは新聞を乱暴に折りたたみ投げ捨て、「もう、帰る」そう一言叫ぶくやいなや、「こぎゃんとこおれるか、うるさくて」わたしはドスドス床を響かせ、持ってきたばかりの荷物を手に玄関へと向かっていた。そのときだ。父親の怒声が聞こえてきたのは。「ああ、帰れ、帰れ」あっちも負けずに腹の底からがなり立てていた。「なんだと」その声を聞いたときこれまで嫌というほど耳にしてきたその声が聴覚をとおしていくつかの記憶を甦らせ、全身の血液がすべて心臓へ集中するそんな憤怒を覚えた。もう我慢の限界だった。わたしはくるりと翻り、廊下をさらに増して音立てて踏み鳴らし父親の座っているテーブルに突き進んでいた。そのときすでに頭の中には様々な思いが錯綜していた。これまで何度、このことで苦しんできたというのか。幼いときから父親の我が儘と気の短かさにどれほど嫌な思いをしてきたことか。暴力が怖く、そのたびに逃げ込んでいたミシンの下に膝を抱え蹲っている自分の小さな無力さがリアルな映像となって浮かんだ。母親が狸のように目に丸い痣をつくり、それでも抵抗できなかったひ弱な姿もあった。
もう繰り返したくはなかった。どうなってもかまわない、とにかくぶん殴ってやることしか頭にはなかった。そして、わたしは相手の顔を見るやいなやそのとおり思いっきり拳をふるったのだった。すべての力を固く握りしめた指先に込め。眼鏡がふき飛び、父の顔は真っ赤になると同時にたちまち歪んだ。父は一瞬驚いたのか、目からは涙のようなものが吹きこぼれ、「なんも、そこまでせんだっちゃよかじゃっか」苦しげな、唸るような声を上げた。何かとてもその姿がわが父ながら哀れに思え、それでもここまでさせているのはいったいだれなのか、そう思うと悔しく、また苦しかった。今度はわたしが力まかせにがなり立てる番になった。
「お前なんか、どげんでんしてやる。かかってくるならかかってこい」ところが、そこへ予想もしない人間が割って入ってきた。母だった。
「なんね、それが親に対する態度ね」
わたしは母の気迫に押され、その場でしこたま殴られるんではないのかと気が気ではなかった。今、ふり返ってもそのときの母のたじろがぬ、一歩一歩にじり寄ってくる姿は恐ろしいものがある。だがよくよく考えて見れば、母はそんなわたしと父親とを引き離すのに必死だったのだ。立つ瀬のなかった父の側についたのも今だったら痛いほどわかる。しかし、そのときはわたしも興奮していた。なぜ俺の側に立たない、そう焦るように叫ぶしかなかった。俺はようやくあんたの敵をとってやったのだ。なぜ、いっしょに攻撃しない。わたしは面白くなくなり、すぐに外に出た。そのとき持っていたバッグを小屋の扉に投げつけへの字に壊し、上着を脱ぎ捨て地面に叩きつけると、それでも治まりがつかなかったわたしは後を追ってきていた母親とさっそく立ったままの激しい口論になった。
「なんやあんたは。あんたどれだけあいつに泣かされてきたつか。俺がどしこ我慢してきたつか知っとっとか。あんたによく、この家ば出ていけ出ていけいよらしたろうが」
「最近は、もう言よらっさん。それにお母さんの好いたごつさせよらす」母のその返事に、わたしはますます腹が立ってきた。結果良ければそれでよし。すべては水に流そうというのか。わたしの言葉は終わらなかった。
「なんであぎゃんでかい音ば立てて、しかも俺に帰れ言わなんとか」
「そら、あんたが悪かけんたい」
母の表情に、さらに深い陰影が宿ってきた。もしかするとその頃から彼女の中では病魔が暴れていたのかもしれない。わたしは怯んだ。「わたしは、これからも長くいっしょにおらないかんと。ほどようしていかないかんとたい。あんたはほんとうに親不幸。またそうやってお母さんば心配さする」わたしは自分でも情けなかった。母はこうして生きてきたのだし、これからもそうやって生を終えるしかないのだろうか。そんな彼女の立場も切ないほどわかる。だが、とにかく腹が立ってしょうがなかった。それでも、今さらようやく着いたばかりの道をもどるのにも気が引けた。わたしは、自分でもどうしていいのかわからなくなってきていた。そのとき、父が窓から顔を出し、叫んだのだった。最初、また追い落とすような言葉を吐いているのかと思い、そうなれば、と覚悟を決めたがそうではなかった。
「中へ入れ。俺がわるかった」
「お父さんが、中へ入れ言よらすよ。せっかく帰ってきたつじゃけん、入れって……」
母が素早くその言葉を聞き取り、救われたように顔全体の筋肉を緩め、わたしの瞳をのぞき込むように見た。わたしも父のいる窓に歩みより、殴ったことを素直に謝った。父は泣いていた。きっと母との口論の中身も聞いていたのにちがいない。「はよせにゃん、はよせにゃんて思うて、俺がちゃんとしておけばよかったたい」父は、カセットのことをそう何度も繰り返し説明した。昔から自分の世界を荒らされるのが嫌いな性格で、それをやっているときはだれも寄せつけなくなる人だった。青春期を戦争に奪われ空白を抱え、中学を出てしばらくはあちこちを放浪した父だ。海苔も機械化についていけず、三年前にやめていた。そのことは充分にわかっている。
わたしも心の奥を掻きむしりたかった。それから指に強烈な痛みを覚え、小指がへし曲がったまま動かないのに気づいたのはすぐのことだった。その小指はわたしに何か訴えるように吠え、指先を見つめれば見つめるほど疼きは酷くなり、堪え切れなくなった。救急病院に行きレントゲンを撮ると骨の間の小骨が見事に欠けていた。痛み止めをもらい、その夜わたしはまんじりとせず夜を送ったのだった。 何千という炭住をつぶしつくられた遊園地は人でごったがえしていた。わたしは、なぜか駐車場に着くとその記憶を払うように子どもたちを精一杯抱きしめていた。かれらの存在が愛しかった。胸が締めつけられ苦しい思いが走った。しかし子どもたちは何食わぬ顔でキョトンとしていた。
「パパ痛いよ、おひげが当たって痛い」息子が身をくねらせた。
「ねえ、わたしメリーゴーランド乗りたいな」
娘は吹っ切れたようにさばさばしていた。
夕方家に帰ったとき父は一人先に食事をすまし、部屋に入っていた。その夜のことだ。母は、おそらくいつもそうであるように何度も何度も便所に立った。その足音と扉の開閉の音がわたしの耳に冴え、夜闇の中に生々しく響いてきた。潰瘍性大腸炎は、その多くがストレスがもとで起るといわれていた。激しい下腹の痛みとともに便の抑制が効かなくなり、それが治るまで容赦なく排便は繰り返される……。わたしは教師を辞める決心を既にそのときしていた。そのことを知れば母はどんなに苦しみ、病は追い討ちをかけるだろうか。わたしは早く一人になりたかった。とにかくその日という日が終わり、次の日、子どもたちを今度は連れ合いの実家にあずけたらだれもいない大津へ早く帰ろう。そう思った。「もう、わたしは捨てられたつやけん、よか。とにかく始めたからには人に認められるまでやらんね」
それから半年後、見舞いにいった二日目の日、病院のベッドで母は最後にこうつぶやいた。その表情には何かを決断した思いつめた深い翳りがあった。
わたしは阿蘇へ帰る前に海を見たくなり、いつも行く堤防に車を止め、そこにくくりつけられている梯子から浜辺へ下りた。干潟には、カモメが群れをつくり飛んでいた。砂浜から遠い岸で光を浴びた波がちょろちょろと湧きあがり、針のようにチカチカと輝いていた。やがてあの波が、わたしの足もとまで打ち寄せてくるのは時間の問題だった。遥か彼方であるように見えながら、有明海の波の速度が思いの他速いことをわたしは、これまでの生活や遊びの中で充分知っていた。もちろん、あの彰夫とのこともその中には含まれていた。それから風に煽られただけの薄っぺらな波ではない、地表を這うように細かく湧き起こる生きた触手のような波だった。まるで海全体が巨大な生き物なら、それはまさしくその体内を流れる温かな血そのものだった。わたしはその波に向かって母の顔を思い浮かべた。曲がった小指の先に、わすれかけていた痛みが甦ってくるようだ。わたしはその疼きとともに深く頭をたれ、祈るしかなかった。
三 茜さす
今、わたしは久しぶりに荒尾に車を走らせている。二日前に熊本県下は十数年ぶりの積雪となり、もちろん阿蘇は真っ白い銀世界だった。透明な大気の中で冷気が肌を突き刺し、妖精のような羽根を持った光の粒が舞っていた。ダイヤモンド・ダストだ。肌にとまると溶けることなく、またつぎの風を待っている。羽ばたくためひそやかに、凛然とまるで生命を持った証をこちらに見せつけるかのように、薄い柔らかな銀の鋼を交互に行ったり来たりさせながら、軽やかに宙を飛びまわるのだ。
わたしのアパートの裏の土手にはあちらこちらに猿の足跡がついていた。獣も餌を求めかなり民家の近くまで下りてきている様子だ。すべてが、少しずつ生命の存在を示し始めているのがわかる。白い雪は、それまで気づかなかったそれら鼓動のような熱い息吹を、うっすらと残る痕跡として大気と大地の上に重ね合わせながら視覚としてもたらしてくる。
それでもどうにか道路の凍結も溶け、車で出られることができるようになった頃、わたしはまず、従姉妹で同じ年の恵美を見舞いにいかねばならなかった。正月から市民病院のICUに入っている。里帰りの際、クモ膜下出血で倒れたのである。最近つぎつぎと倒れていくのは皆、わたしと近い年代の母や父の兄弟の娘や息子ばかりである。わたしの母を始め、その親たちもあれやこれや病になり、そのたびにどうにか持ち直してはいっているが、若いわたしたちはそれにも増して、倒れたらかなり厳しい容態でそのまま入院ということが多い。その最初として三年前には、あの彰夫のところへ怒鳴りにいった伯母の長男が息をひきとった。
長男正則は、幼いときから神童と呼ばれ、近所の子を集めては勉強を教える町内では有名な子どもだった。だが一回り違うわたしの記憶は、もちろんそんなところにはない。 あれは秋深い夜のことだ。わたしは姉と二人、正則の家にいて、炬燵の中に横になっていた。気がつくといつのまにか言い争いが始まっている。正則と、その弟の祐治だった。「俺が車を運転して送ってってやるけん」
正則の表情は厳しく、真剣だった。
「できんて。兄ちゃんは免許ばもっとらんどが」「免許がなかったって、俺はちゃんとでくっとぞ」
正則は、高校卒業後大学に入ったもののそこが第一志望ではなかったため再受験を狙い、アルバイトをしながら勉強していた。そのときの無理がたたり腎臓を悪くし、せっかく行っていた大学まで中退するとともにやがて人口透析を必要とする体になっていたのだ。それからは何をやっても根気がつづかず、自動車免許も数回試みていたのだが、そのたびに途中でリタイアしていたのである。神経が過敏になり、精神も少しずつ病み始めていたちょうどそんなときだった。その夜は、わたしの母のすぐ下の妹が伯母の家のそばに新築をしたため、建ち家の宴が行われていたのである。酒の席ということもあり、わたしは姉と二人伯母の家に残り眠っていたのだった。だが、そのめでたい場所とはちがいそこから数百メートルと離れていない正則の家では、二人の従兄弟の声が明らかにだんだんと嫌悪な雰囲気にたかまってきていたのである。わたしたちは身に迫ってくる恐怖を感じ、二人を横目に避けるように起き上がると玄関から出て、外の暗闇の中に飛び出した。その後は知らない。ただ少しでも早く離れられるように、近道である田んぼの畦道を選び、一足一足恐る恐る踏み入れながら用心深く歩くしかなかった。柔らかな土の感触が、今にも次の一歩から地の底へ果てしなく崩れ落ちそうな、そんな不気味さを抱かせた。宴が行われている新築の家にようやくたどり着いたとき、ちょうど何もかもが終わったと見え、ぞろぞろ親戚たちが出てきているところだった。
「なんね、歩いてきたつね?」
わたしたちを目敏く見つけた母は、いかにも寂しく待ち遠しさに駆られやってきたと思しき二人の子どもを、温かな口調で迎えた。だがわたしは、そんな母の顔を見ても心穏やかにはならなかった。何かがこの後起こる、そんなキュッと胸が締めつけられる不吉な予感が去らなかったからだ。しかも途中で姉とコソコソ逃げ出してきた自分の行為にも子どもらしくもない良心の呵責を覚え、なんとも言えず後ろめたい心境でもいた。まだ耳もとでは、さっきの従兄弟たちの言い争いがざわざわと竹藪で聴く葉擦れのようにこだましてきているように思えた。そしてまもなくして、その予感は見事に的中した。一台の車がヘッドライトを煌々と照らしやってき、急ブレーキで停車したかと思うと運転席から大きな声が轟いたのである。
「おい、俺が送っていくけん、乗らんな」
それは、正則にいちゃんだった。目もとが吊り上がり興奮し、尋常でないことはだれの目からも明らかだった。わたしは、そのときは何が何やらわからなかったが、しかし今だったらすべてが納得できるような気がする。伯母はおそらく、わたしたちが寝ている間に電話か何かで酒に酔った遠方の親戚を車で送っていってほしいことを弟の祐治に頼んだのだ。それを受けたのがどちらにせよ、正則は自分が行くことを弟に言い張ったのにちがいない。長男として、このような席で役に立てないことが自分でももどかしく、やり場のない憤りを持ったのだろう。たぶん、口論の中身はそれだったのだ。「あんたできんよ。むちゃ言うちゃ。免許ももっとらんで、あぶなかろが」伯母と伯父はあらんかぎりの声を張り上げ、正則を叱った。
「大丈夫て。俺はちゃんとでくっとだけん」
正則は、頑固としてまったくそれを聞き入れようとはしない。「俺が真面目にしよったっちゃ、通さん学校がいかんとた」
それどころか、だんだんと自分本位な理屈まで持ち出し始めていた。それ以上の口論はますます正則から平常心を奪いとり理性を失わせるだけであることが、その激した状態から明瞭だった。
「俺が乗ろう」
そんなとき、先頭をきって名乗りを上げたのは、意外にもわたしの父だった。それからは、「俺も乗ろだい」それにつづくように数名の叔父たちが車に乗り込みたちまちシートは一杯になった。正則は上機嫌になり車のエンジンをさらに吹かし、何やらもぞもぞ吐き捨てると、すぐに出発した。わたしにとっていつまでも消えぬ、闇と鈍い光にかこまれた陰画紙のような光景は、これだ。
その日から二十年が経過した今からちょうど三年前の春先、わたしは今日車を走らせている病院と同じICUに、正則を見舞っていたのである。透析を受けつづけていた正則にいちゃんの肌は、どす黒く、しかもカサカサに乾いていた。まるでさわれば一枚ごと皮膚が軽く剥げ落ちていくようなそんな感じを受けた。鼻や口それに二の腕からは大小様々なパイプが差し込まれ、大きなオムツを履かされていた。膀胱も爛れきってしまい使いものにならなくなり、人工肛門というにはあまりに簡単な応急処置がとられていた。呼吸器の管とマスクの影からかろうじて外に覗く目には真っ赤な滴が溜まり、瞬きを何度もしては、こちらに大丈夫だから心配するなと合図でも送っているような錯覚を与えてきた。だが、正則にいちゃんは、あの車の一件以来、ノイローゼがますますひどくなり、精神病院に入院せねばならなくなっていたのである。ときおり発する言葉はもはや身内の者さえ意味不明となり、辻褄が合わなくなっていたらしい。それから二十年精神病院に入ったままの透析生活が始まったのだ。わたしたち子どもは、精神科としては地域にただ一つあったその病院を『キチガイ病院』と言っては囃し立て、ふざけ半分に恐れる真似をした。その中に正則にいちゃんがいることをわたしは母から重々聞き知っていながらも、それに加わった。
正則にいちゃんが死んでから、かれが一度、病院を抜け出しわたしの家に来たことがあるということを母から聞いた。透析を受け終わってちょっとした隙を盗み、病棟を逃げ出して来たらしかった。人工透析はわたしの家のそばの専門のクリニックで行われていたのだ。パジャマの上にガウンを着、スリッパのまま走ってきたと言う。家につくやいなやすぐにかれにとって叔母であるわたしの母に、自分の家に帰りたいことを切々と訴えたらしい。だが母は、そんな正則をなんとか説得し、そのまま病院に帰したと言う。
正則にいちゃんの葬式のとき伯母と伯父はしみじみと、ICUに来てからどうしても一度家に帰りたいとうわ言のように何度もつぶやく息子を見て、実家に連れていってやりたいことを担当医に申し出たことを話してくれた。病院側はそれならばもしものときは命の保証はできないとキッパリとした態度で断言したという。さすがの二人も、我が子の命と引きかえには無理と決っすることができず、諦めたらしい。だが死んでしまった今となってはそのことを二人とも深く悔いている様子だった。正則がもし意識があったとしたら、果たしてどちらを選択していたであろうか。わたしには素直にわかるような気がする。たったほんのひとときでいい、正則は生まれ育った我が家に帰りたかったはずだ。臘のように固まった綺麗な顔立ちをした正則のデスマスクを何度も見ながら、わたしはそこに流れ去ったわたしの知ることもできない累々と積み重なる孤独な病室での年月のことを思った。
地形が平坦になり、有明海の堤防が見えてきた。
病院へ寄る前に、わたしはあるところに車を止めた。そこは父方の実家の祖先が葬ってある県道沿いの墓地だった。建立されまだ間がないその中の墓の一つには、これまでに死んでいった多くの親戚の名が刻まれ、遺骨が眠っている。墓はその一人、父の叔父である通称、貝塚のじいさん、の金で五年前建てられたものである。貝塚、まさしく干拓地荒尾にふさわしい名前だ。
貝塚のじいさんは、戦地から帰るとある政党に入党し党員として活動した。そのためかどうかは知らないが親戚中からやたらと爪弾きにされ、それでもしぶとく機関紙を配って回っていたようである。夜、突然やってきては飯をよばれ、しこたま酔っては帰っていくのがじいさんの日課だった。そのたびに米粒は散らかり、うちは父に気をつかってか、母は怒ることもなくいつも丁寧に相手をし、きちんともてなしていた。貝塚のじいさんは帰り際決まったように、せいちゃん、しっかり勉強せにゃつまらんばいと、ろれつの回らなくなった舌を絡ませ、ちぎれるように握手を求めてきたものだ。幼かったわたしはそのたびにうろたえ、しどろもどろでうまく話すことができなかった。そんなわたしと姉は、どこかで父と母が貝塚のじいさんの訪問を疎んじていることをきちんと知っていた。親の態度というものは、どんなに繕っていたところで空気のように身の回りをつつみ、徐々に子どもらには浸透していく。
ある夜、わたしは姉と留守番をしていた。そのとき玄関にだれか来た気配がした。やがて聞こえてきたのは、貝塚のじいさんの甲高い叫ぶような声だった。わたしたちは慌てて明りを消し、息を噛み殺しその気配が去るのを待った。そうしてしばらくし、どこかへ行ったらしいことがなんとはなくわかってくると姉と二人、隣の父の本家へ逃げたのである。そのとき、貝塚のじいさんがわけもなく恐ろしかったことだけは覚えている。理由はわからない。ただ近づきたくない、離れたかったのだ。ちょうどそんな折り、小学校でのことだった。学校へ行くと、貝塚地区の子が嬉々として何やら喋っていたことがあった。
「うちん近所に、夕方になると歌いながら素っ裸かで歩きよらすじいさんがおらすもんね」
場所といい、その話といい、それが貝塚のじいさんであることはまちがいなかった。わたし自身、何度か自転車で通りかかったとき、褌ひとつで上半身裸になって、ふらふら道を歩いているじいさんを見かけたことがあったからだ。そのときも明らかにじいさんは酔っていた。わたしは物珍しそうに奇異の目を向ける近くの小学生を尻目に、他人のようにペダルに力を込め、猛スピードで自転車を漕ぎ駆け抜けたのだった。そして教室でその話を耳にしたときもじいさんの存在を、自分とはまったく関係のない者として聞き流すのにひたすら努めたのである。だが、心のどこかでは自分と貝塚のじいさんとの間柄を実はすでに知っている者がいて、ニヤニヤ笑いながら見ているのではないのかと気が気ではなかった。肌にはじっとりと冷や汗さえかいていた。
そんな貝塚のじいさんが死んだのを知ったのは、わたしが小学校の教員になってすぐのことだった。結婚せず一人で生きぬいてきたじいさんは、だれにも見取られず、後は取り壊されるのを待つだけの長屋の中で息をひきとっていた。預金通帳には、多額の年金が使われぬまま残っていたらしい。それでつくられたのが、今わたしが目の前にしているこのまだ真新しい墓なのだった。立派な御影石で、不容易に触れれば指先の皮膚が切れるのではないかと思えるほど鋭い角と平面を空に突き出している。正則にいちゃんのときも、貝塚のじいさんのときも逃げだしたわたしがここにはいた。こんな自分もまた、性凝りもなく、死ねば何食わぬ顔でこの墓に入るのだろうか。そのことを考えると心苦しかった。死んだら葬儀や告別式など儀礼的なものはいっさいいらない。骨は有明海に撒いてほしい。わたしはいつか母にそう告げたことがあった。母は一瞬呆れたように笑い、「あんたはそれでよかろばってん、親戚や親はそういうわけにもいかんとたい」口をつぼませ、後は相手にさえしてくれなかった。貝塚のじいさんがこんな墓をつくることを望んでいなかったことだけは自明の事実だった。まして自分の残した金が自分の墓どころか、生きている頃は白い目で見つづけた親戚一同の墓になるなどとは露ほども思ってはいなかっただろう。わたしはその墓を、残った者がじいさんには何の許可も得ず建てた事実を知り、それからは荒尾に帰るたびにそこだけは参るようにしているのだった。貝塚のじいさんに遅らばせながら意識の中ででも会い詫びたい、そう思ったのだ。有明海に面した県道沿いだけあって、そこは風がべたつく潮風に変わっている。わたしはその風をうけながらじいさんを思い、再び車を病院へ走らせた。
ICUの待合室には数人の見舞い客がいた。その中にわたしの母と父もいた。伯母たちもいた。どれもこれもどことなく顔が似ている。それら骨格の瓜二つの者らが集い、わたしが来たことも意外ともまた当然ともとっている様子だった。わたしは、規定の二名に母といっしょに組み、治療室へと入った。密閉されたその部屋は正則にいちゃん以来のことだった。ベッドの上で恵美は、思いの他元気そうに微笑んだ。一言二言、母が励ますと、小さい声でありがとうと礼を言った。わたしは言語もはっきりし、意識もしっかりしていることに隣でただただホッとし、胸を撫で下ろしていた。もう親しい者の煩悶も死を見るのも懲り懲りだった。だがそれらはいつでもここにあって、確実にまたやってくるのだ。わたしは母の顔を見た。息がまたできなくなった。そこにそれ以上いることは、わたしにはきつかった。
その日、しばらく実家で休んだ後一人で阿蘇へ帰る前に、わたしはいつものことながらやはり海を見たくなった。梯子が結わえられた場所からまた砂浜へと下りた頃には、日は西へかなり傾いていた。その大きな姿態が水平線へ沈む頃、小さいときよく茜色に染まった迫り来る夕日に向かい、姉や恵美らと石の投げ合いをしたことを思い出した。正則にいちゃんはまるでそんなわたしたちの保護者のようにニコニコしながら後ろを着いてきていた。祐治もいた。総勢十名を越す甥や姪の数だつた。だがそれも、今となっては遠い昔のこととなってしまった。海はその思い出を消すように静かに鳴っている。母と父が働き、育まれてきた海だった。雲仙岳がすぐ近くにあるようだ。干潟は記憶の場面と同じようにまた茜色に染まろうとしている。ここには多くの親しい者たちの生があり、そして死があった。裏切りや憎しみもあったであろう者たちだった。だが、荒尾は確かにわたしの中にある。
ふらふらしていたクラゲもいつかは岸に上がるときがやってくるものだ。そこが、波に打ち寄せられた場所なのか、それとも自ら泳ぎ着いた先なのか、それはだれにもわからない。干涸びれば、そこがまた同時に死ぬ場所でもあるのだ。生と死はともにそこにあり、行き着いたところがまた、生きた場所でもあるのだ。たとえそのからだが砂浜に埋め込まれ、肉ごと擦り切られても、クラゲは土へとかえり、やがては海へと沈むだろう。この深き茜に彩られた不知火の海へと。
わたしは車に乗り込むと、まるで目には見えない巨大な地下の水脈を今度は地上からたどりなおすかのように、南の島の峰々とつうじるであろう阿蘇の山へ向け出発した。夕日はめらめらと燃え上がり、今しもわたしの影さえもわからぬかのようにつつみ込み、呑み込もうとしているかのようだ。潮騒が血のようにどこからか湧いてくる気がし、わたしは大きく息をのみそれを感じると、アクセルを踏む足に力を入れていた。
2022年2月6日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。