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挽歌
一
いっこうにかわりなかった。ちょっと油断すればたちまち足をすべらしそうなリノリウムのアーケードを、コロナの落ち着いた隙をぬうように、けばけばしく看板を彩らせ、キラキラ目も眩む照明の中、私は何人かの男女とやや距離をとりながら歩いていた。前を移動しているのは高校の同窓生である。
私は大学の四年生だった。同級生の親類が経営しているという中華料理屋へ入った。二階の宴会場にはカラオケも置いてある。幹事の挨拶後、元担任の音頭で乾杯し、宴は徐々にたけなわとなっていった。ある者は歌いはじめ、ある者は酌をしあっては熱心に話はじめた。
私は機械じかけの演奏や悦に入った歌いぶりに聴き入ることもできず、かといって酒の力で呼び起こされた衝動に身をまかせ適当に場をやり過ごすこともままならぬまま、多少からだをもてあまし気味だった。
まるで場ちがいなところにひとり迷いこんできたように、深刻めいた私の顔を、おそらくはその夜、どんな酒も和ますことはできなかっただろう。せいぜいすっかり濁ってしまった絞り滓のようなものが澱となって胃の中へ落とし込まれていくのが関の山だ。
錯覚ならまだしも幸せだった。すべてがまちがいならそれに越したことはなかった。だが、それも単なる余計な心配ごとであることに私は早くから気づいていた。余計な気持ちはその日の私にとって最大の敵だった。それでも私は、その夜、この余計な気持ちになかなか踏ん切りをつけることができずにいた。この余計な気持ちがあるうちは酒に酔えないことも知っていた。なにかやけに冷たい風が、私の心の中を吹き荒んでいっているような気がした。閉めきった広々とした店内は人の数でうめつくすことはたやすくとも、肝心の私のからだの中は、ただ空虚さだけがくるくると円をえがき、旋回しているようだった。先手をうって早目にどうにかしようと思えばできぬこともなかったが、ただなにかしなければという気持ちからは遠い場所に私はいた。
二
そんなとき、私の向かい側にそれまで申しわけなさそうな顔で、ひかえめに腰を落ち着けていた女性が私の隣へ寄り添うように座ってきた。彼女は外見とはちがい、いかにもそのような場には慣れしたしんでいるといった口調で声をかけてきた。
「こんにちは」
私はだまってかるく会釈することにさえもわずかながら戸惑いをおぼえた。というのも、私はとっくの昔にその相手の名前をわすれてしまっていたのであるが……。
その女性は腫れぼったい両瞼の下に大きな瞳をすえ、やや厚めの眉との不均衡なつりあいを比較的ひろい額が無難にたすけ、これまでの彼女のささやかな人間関係に貢献しているようだった。そして、顔の中心を高く左右にわけている鼻嶺は、全体的な彼女の表情の雰囲気を貴賓に満ちたものに仕上げていた。
「あのー、私の名前、おぼえてる?」
彼女は、私のコップに冷えたビールをそそぎながら、肉ぼったい唇を悩ましく動かし、何か前々からたのんでいたことを催促でもするようにたずねてきた。
「一応、思い出すまで、ビールを一杯ずつのんでもらうことになっているんだけど……」
そう言うと彼女は、いくぶんしつこいと思われるほどの執着をこめ、正座した膝をゆるめさらににじり寄ってきた。
「こまったなあ……」
私は二日前に短く刈ったばかりの頭の毛を二、三度かるく掻くしぐさを見せ、さっそくコップのビールを一気にのみほした。
「それはじゃあ、もう一杯ね」
彼女は、アルコールであかく火照った頬をよりいっそう紅潮させ、空になった私のコップを泡だらけのビールでふたたびうるおした。
私はたいして思い出そうともしていないのに、声だけはわざとらしく大きなうなり声を上げ、大袈裟に首を何度も傾げてみせた。
そうこうしているうちに二杯、三杯とその液体は私のからだの中を適度な刺激をもって突き抜けていき、やがて四杯めになろうかとしているとき、私は自分の頭の中にひとりの女性の名前を思い出すことができた。
『西山…… 』
そうだ、たしかに西山という名の女性がうちのクラスにはいたはずだ。
私は、それが彼女でなければならないという、不思議な信念にからだごと抱きすくめられていくような感覚をもった。それに、その名前を記憶の中からひとつだけ浮かび上がらせたときの気持ちと、今、目の前にいる女性の悩ましやかな面持ちとが、私のわすれていた暗い意識の回路の中でぴたりと結びあったのも確かだった。
しかし、私は相変わらずだまっていた。なぜなら、私にとってそのことは、あえてここでオーバーに驚きさわぐことでもなかったし、それに何よりも、私がこのまま彼女のことを思い出せなかったとして、反対に彼女がどんな反応をしめしてくるかの方が興味をそそる問題となっていたからだ。
私はまたしても、考え込むような偽りの表情を憶念もなくつくりだしていた。
酒量には多少の自信があった。しかし、今の私を内側からささえているものは、そんな具体的なものではなく、結果的に名前を口にださず、ビールを一杯ずつ口にはこぶたびに深まっていく彼女との関係性そのものだった。
三
私は、体内にしみてくるアルコールによって、使いふるされてきた私の繊弱な観念が靄にかかっていくのをじっと待ちながら、俄かに迫りくる彼女とのささやかな言葉のやりとりのクライマックスにある種の緊張を覚えていた。
そして、まもなくすると彼女の方から降参したようにきりだした。
「最初は、『中』ではじまるんだけど……」
いくぶん舌ったらずな声で、語尾をやけにあげていた。額には半分あきらめにも似た皺が一本、くっきりと刻まれていた。崩した膝をさらにななめに倒し、彼女の方も、もうずいぶんとアルコールがまわってきていることがうかがえた。
「中?」
頓狂にも私は、そう叫び、彼女が今まで私の抱いていた名前、つまり『西山』ではなかったことに少なからず肩の力を落とす思いだった。しかし、彼女のひと言で、私との関係がよきにしろわろきにしろ一歩ふみだしたことも確かだった。
そろそろ私の方から近づいていくときかもしれない。私は、ずうずうしい質問を気にもせずやってみた。
「おれの名前は覚えてる?」
「益山くんでしょう。私、ちゃんとおぼえてるのよ。あなたのこと」
すかさず彼女は、そう答えるとまたしても得てしたりとばかりになみなみと私の空いているコップにビールをそそいだ。私は、いっきょに自分の意図したもくろみが、逆方向へと大きく歩みだしたことに対して、一瞬だが冷やりとなった。
車座になった他の者たちは、立ち騒ぎ、打ち騒ぎ、やけになって酒をのんだり、これまで満足のいくように外に出れなかった鬱憤を追い払おうとでもするかのように、親密に相手の話に耳を傾けたりと様々だった。
私は柄にもなく、彼女の名前を思い出すことに必死になった。
「中村、中山、そうだ、中川さんだ。ねえ、そうだろう、中川さんだろう」
彼女の反応もよく見ぬうちに、私は既に正解者のつもりでいた。だが、その心配は無用だった。彼女はその名前が私の口から出たとたん、ホッとひと息ほんのりと酒気のこもった吐息をつくといくらかの安心を得た様子だった。
「やっぱりそうだ、中川さんだ」
私はビールに満たされたコップを右手に取り上げ、そのとき初めて、一杯を心ゆくまで飲み干すことができた。
会は既に場末にきていた。これ以上の鎮座からは、もはや退屈だけしか生まれそうになかった。相変わらず店内からは、酒に酔った客たちのくりだす手拍子が打ち鳴らされ、この座敷でも顔に濡れたおしぼりをかけて眠りこける者も出てくる始末だった。
会が終え、私たちふたりは集団から離れ、別行動をとった。世話役に一言挨拶したとき、後ろから二言、三言、冷やかしの声が響いたが、不思議と気にもならなかった。
四
暗闇の中から手探りでもするように、彼女は私に話しかけてきた。
「ねえ、私、かわったでしょう?」
人気のない、ひっそりとした薄暗い細い道から広々としたアーケードに出ると、客引きの男がこちらを振り向きざま、ちぇっ、アベックかとひと言つぶやき、舌打ちすると同時にたまりかねたように淡く濁った啖をそのまま目の前に吐きすてた。
「ねえ、私、かわった?」
彼女は尚も私の肩に吸いつくように寄り添ってきては、力のぬけた甘ったるい声でたずねることをやめようとはしなかった。
彼女はかなり酔っていた。
「ああ、かわった、かわった」
私も仕方なく彼女といっしょに出てきた手前もあって、いかにも義務的に答えた。そして、自分でも予期できぬほどの紳士づらを下げて彼女の方を振り向き説教でもするように言葉をつづけた。
「君の下宿、近くなんだろう。おくっていくよ」
私は、我ながらこの白々しい言葉に唾棄したいような不快を感じ、そのときの自分のすべてを嫌悪せずにはいられなかった。自分の存在そのものをどこか手のとどかぬところへ葬り去りたい、そんな強い不快感を抱いた。
私は何もかも知っていたはずではなかったか。彼女の名前も、彼女がここから通りを出て、神社の境内をぬけた後、小さな下町の商店街を横切り、その向かい側をとおる道路ぞいのアパートにひとり下宿生活をしていることも。
私は、初めから本気で思い出そうとおもえばたやすく彼女の名前を思い浮かべることができた。私は彼女の姓が中川、いや、それどころか名前もミチ子、中川ミチ子であることを知っていた。ところが、自分自身、その名前を彼女に問われたとき、不思議なほど直接、口に出すことができなかった。なぜか? 私は彼女を一度好きになったことがあった。高校三年のときだ。だが、その思いは告げられることなく、胸にしまったままでおわってしまった。
もしや、彼女という存在が、この会を機に私の知らぬまに、またしても大きく膨れ上がっていたとしたら……。
なんという惨めさだろう。なんというずるがしこさであろう。自分の本性を一度もさらけだすこともなく、私は、またしても彼女に自分の否定しようとするところへはこばれていくことを戸惑いながらも楽しんでいたというのだろうか。彼女が言い寄ってきたことをいいことに、すべてを彼女へ一任し、相手の鞘の中におさめようとするこのやり方、それは私がいつのまにかこの四年間に身につけたもっとも卑しむべきげすな処世術ではなかったのか。
そして、まだあるのだ。まだ最後の、決定的なことが残っていたのだ……。私を今日、ここまで影となって導いてきたものが……。
五
アパートに着くと彼女は疲れきったように部屋に身を投げ出した。膝を曲げ、かるく片手をつき、身を支えている。息の喘ぎが胸から背中をとおして後ろを向けるからだ全部につたわってきていた。
彼女の肩口から見る顔の半分は、相変わらず腫れぼったい両瞼を開けたり閉じたりしていた。私はそんな彼女を見ながら、何か胸につまるような寂寥をおぼえ、熱いものがからだの内部からゆっくりと、しかし確実にのぼってきていることに気づいた。
彼女は泣いていた。
言葉にならない小さな声で、とぎれとぎれに、まさしく今の自分の記憶の中にある消しわすれた残像をひとつひとつたしかめ、いたわるかのように話しだした。
「死んじゃったんだね。慎ちゃん……。ほんとうに死んじゃったんだね……。この部屋にも何回もきたことがあったのに……いっちゃった……」
それは、死者を弔うにはあまりに悲しすぎる息づかいと言葉づかいだった。
私はだまって聞いていた。それどころか、なにかを言葉にだして言おうとすれば、たちまち熱くやけつくものが胸をこみあげ、瞼をこがしながらこぼれ落ちそうだったからだ。
慎ちゃんとは私の幼馴染みのことだった。
同じ小学から中学、そして高校へすすみ、クラスこそいっしょにはならなかったが、かれが卒業後、同じ大学に入った彼女とつきあっていることは直接聞いて知っていた。アパートのある場所もかれの口から耳にしていたのだ。就職も無事決まっていたにもかかわらず、突然、車ごと海へ飛び込んだかれの死は事故死とはされていたが、これという原因もわからず自殺の可能性もあり、まだはっきりとはしていなかった。
「今日はほんとうにありがとう……。慎ちゃんもよろこんでいると思うよ」
そして、その日の会こそは、その慎ちゃんのお別れの宴だったのだ。
だが、お互いあまり表に出たがらない彼女と慎ちゃんとが付き合っていたことを知る者は、私の他、そう多くはないはずだった。
「このアパートも、もうじき引っ越すの……。さようならね、こことも」
私は胸がしめつけられる思いがし、唇をつよくかみしめていた。
まるで目を閉じれば、今すぐにでもかれの飛び込んだ海面の静かな波音が聞こえてきそうな静寂がたちこめていた。
「中川さん……オレね……」
だが、そこからはふるえる喉につまる言葉でうまく言いあらわすことができなかった。
彼女の瞳からは大粒の涙が静かにこぼれ落ち、頬をつたってゆっくり胸をおりていく。ひと粒、ふた粒、シーツにうっすら、その影は残されていった。
今日ここまで私を導いてきてくれたものが、もし、今彼女から流れ落ちたものと同じ、熱いものであったなら。
やがて、ふたりの心が平静にもどると夜のとばりはようやく長い幕をおろしたようだった。すぐに暗闇の中に、彼女の寝息が室内の冷えた大気をつたってじかに聞こえてきた。
四年、四年……
私は胸の中でそうつぶやきながら、音をたてぬよう扉をしめ外の空気を吸った。
もう二度と彼女と会うこともないかもしれないな。
そう思いながら、煙草に火をつけ、来たときとは反対にゆっくりとした足どりで自分の帰路についた。
2022年2月6日 発行 初版
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1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。