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森の遺言

宮本誠一

夢ブックス



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              森の遺言

            一、浸食

 トオルが枕元からスマホを引き寄せ、電源を入れたのは二十分ほど前だ。いくつかの画面に熱心に目をやっている最中、通話のベルが鳴った。警察からだった。父親のシンジの遺体発見の知らせで、彼が二十六歳になって三日後、二〇十四年十二月十一日の朝、九時頃だ。
 その日は、トオルがやっているパン屋が休みだった。
 なぜこの日か。
 おそらくはトオル本人も後々まで納得のいく理由は見つからなかっただろう。もちろんその根拠が成り立つには、人の行動や歴史の一コマ一コマに必然らしきものが存在するとの前提あってのことだが。
 トオルは、彼なりの習慣、というものを大事にしていた。
 毎朝、起床前、布団でスマホに向かい、その日生まれた著名人と死んだ著名人とを検索し、つらつらと眺めすがめつ各一人を取り上げ、生死の表層にふくまれる価値を彼の勝手な基準で足したり引いたりしては天秤にかけ、すぐ起きるに価するか判断材料にしているのだ。
 その日、誕生部門でまず目に留まったのがジョージ・メイソンだった。
 アメリカ合衆国憲法の父の一人で、一七七六年、かのバージニア権利章典を起草した主要な著者だ。
 信教や言論の自由など基本的人権の保障の明文化を行った点は高得点だが、あの修正第二条、連邦政府に対する潜在的な抵抗権として民衆が武器を持つことを認め、それは今なお多発する米国の銃乱射や犯罪と強く結びついているし、市民の武装権は拡大解釈されれば当然、個人から自国中心主義の軍需産業の正当性と肥大化へとつながっていく。
 数々の拳銃がらみの事件の被害者や遺族の苦悩や悲しみを鑑み負の功罪甚大、したがってプラマイゼロとした。
 忌日と言えば、これまた米国人のソウルミュージシャン、サム・クック。
 ここでトオルは溜息を一つつく。
 その最期があまりにメイソンと関係し、悲壮だったからだ。
 ワンダフルワールド。
 シンプルで明快な詩だ。
 歴史も、生物学も、科学も、フランス語もわからない、でも君を愛していることは間違いないし、君も僕を愛してくれたらきっと世界は素敵になる、そんな内容だ。
 サムは公民権運動に邁進し、マルコムXやモハメッド・アリとも親交を深めた。黒人への差別に歌だけでなく自ら音楽出版社を立ち上げ、白人からの不当な搾取を著作権を守ることで抵抗した。そう、メイソンの起草した自由の権利に則ってだ。だが十二月十一日の夜、女性とモーテルでトラブルとなったサムは、逃げた相手を追いかけた挙句、管理人に発砲され死んでしまう。
 修正第二条。
 これまた銃保持という自由の権利に基づいてだ。
 女性や管理人との間にどんなトラブルがあったか、いまだ謎が多く、サムはグルの詐欺師にまんまと嵌められたのではとも言われている。
 トオルはそこでまた一つ長い息を吐く。
 マイナス、しかも測定不能。
 トオルの見立てでは忌日者側へ大きく傾き、起きる気力がますます削がれた矢先、歯切れのいい木琴音がリズミカルに父の死という重たい知らせを告げてきたのだった。
 結局のところ、時間の流れに楔を打ち、相対的な価値を作り出し、時々の事象、こと人の誕生や死をおいそれと引き比べるなど土台無理なのだとトオルはいつも思ってはいる。
 なぜならそれらはメビウスの輪のようによじれ、最後にはどこかでいびつな因果を成しているからだ。それに、仮にどちらかに傾き、起床をずらしたところで所詮はしわ寄せされる現実の重さや煩わしさを放っておくほどの思い切りや磊落も持ち合わせてはいないことを誰よりも自分自身が一番よく知っている。
 彼は、この習慣をその日を最後に終わりにしようと思った。
 そうは言うものの、ささやかながら彼の誕生の日付けにも、いささかなりの意味が込められ、思惑が隠されていると感じぬわけにはいかない。
 師走十一日の三日前といえば、自宅マンション入り口で四発の銃弾を受け、愛する女の絶叫と絶望の眼差しに射られ、焼けつく苦痛の中、一人の男が倒れ、息絶えた日だ。
 見ていたのはオノ・ヨーコ、そして死へと連れ去られたのはジョン・レノン。
 合衆国憲法にバージニア権利章典から追加条項が批准されたのは、それとはわずか一週間違いの十二月十五日。
 またしても修正第二条。
 合掌。
 トオルは電話に神経を集中させた。
 遺体はシンジの住む山小屋から二キロほど下った渓谷にある天然の露天風呂で見つかった。発見者が一一〇番通報したが既に死亡しており、病院搬送は見送られ、現場へ来れるかの確認だった。
 もちろん、こんな知らせの予行練習をトオルがしているはずもなく、相手の坦々とした口ぶりと一語一語正確に紡がれる情報に必死に聞き入るしかなかった。当然だ。事は重大かつ深刻で、時は刻一刻過ぎていく。
 岩場で脱衣されたジャンバーのポケットに財布と免許証が入っていて、彼宛の遺言めいたものが書いてあったらしい。これから車で出発しても三時間はかかると答えると、いずれにせよ遺体は監察医に検死してもらわねばならず、その後一時的に霊安室に預かることはできるとのことだ。
 何となくジョンの死に似てないか。
 トオルがそう思ったかどうかはわからない。にしてもやはり両者は違う。全く。死因もそうだが、なにもかもが天地を裏返したほど。同伴者もないし、実に孤独な死だ。いいや、そんなことではない。あくまで本質的な意味でだ。そうだ。きっと。今のところ。
 父親が乗って来たと思われる車はもちろんリムジンでない、軽トラだった。キーをつけたまま百メートルほど下の道沿いに停めてあり、盗難防止のため署に移動しても構わないか問われ、断る理由もなく二つ返事で承諾した。
 すかさずヨーコでも前妻のシンシアでもないトオルの実の母親、里子に電話すると、最近ほとんど見せなくなった心配性な面を覗かせ、微妙に声がふるえているのが伝わってきた。
 向こうも予行なしのぶっつけ本番、待ったなし。
 自分が現場へ行く必要がない理由をできるだけ冷静に、いくつか具体的に並べてきた。
 まず、遺書が自分宛でないこと。離婚してからの年数が相当たっていること。死因を尋ね、まだ不明であるとトオルが答えると健康面を気づかいつつも、最近、具体的にどんな暮らしをしていたかまでは関心なく、つまりは顔もぼんやりとしか浮かばぬことに結びつけたかったらしいのだが、締めくくりとして死者が自分に己の最後の死に様を見られることをけっして望んでいないだろうと、そこだけは強く差し出してきたのだった。
 それはそれまでのどの理由とも異なり、どこかしら彼女自身がそうであることを常日頃から確信していたような一言だった。
 総じれば熱のこもった弁舌であったし、トオルはむしろ二人の関係がまだ終わっていないことを強く実感させられ、行きたくない一番の理由はむしろそのことなのだと合点できたのだった。
 別れて十九年、念のためもう一度意向を問うたが、態度に変化はなかった。ただ最後に、もし火葬することになったら費用は大丈夫だからきちんと弔ってあげてと宣言するように言った。
 温泉はトオルも小さいとき、シンジに連れて行ってもらったことがある場所だ。溶岩流が固まりごつごつした岩場に二人向き合える窪みがあり、イオウの匂いがたちこめ、湯船に浸かると地熱のお湯が脇腹の辺りを擽るように湧き出ていた。
 手前の吊り橋から眺めれば、全体の形状はくねり、女体の臍のように見える。もちろん当時、トオルがそれを露骨に感じたわけでなく、今、振り返れば小さな凹みから湯けむりが立ち昇るその情景はどこかしか神秘めき、多少、現在の情緒が加味されていないわけではない。
 幾つかのことを想定し身繕いした後、麓の管轄署へ着いたのは一時近くになっていた。
 空はどんより曇り、気温も低く、厚手のシャツに黒のコーデュロイのジャケットを着てもどこか肌寒かった。コートを羽織ろうか迷ったが室内で脱ぐことを考え、そのまま降りることにした。
 事故処理車が止められた屋根付きの駐車スペースの横に荷台のあおりの縁が赤錆びた、いかにも場違いな軽トラがあった。トオルが昔乗った車種とは違うが、それがシンジのものだと見当がついた。
 署は茶褐色の二階建てで、フロアの受付で要件を伝え担当職員を待っていると、隅の長椅子から中年の女性が立ち上がり、頭を下げながら歩み寄ってきた。フード付きのダウンに防寒用の長めのブーツを履き、身のこなしもそつがない。
 義務や勢い、惜別の思いなど様々な感情をどうにかコントロールしやって来たトオルも、改めて我に返れば父親のことをどれほど知っていたか自信がなくなり、しかも家族と離れた後のことともなれば、なおさら不安が頭を擡げだしていた。
「失礼ですが、シンジさんの息子さんですか?」
「ええ、そうですけど」
「初めまして。戸田薫さんの友人の松崎ミチと言います。このたびは何て申し上げたらいいか」
 相手の紹介を聞きながら、トオルの心は一瞬高ぶり、すぐにまた落胆した。
 シンジが付き合っていた女性、仕事を辞め、家族とも別れ、山小屋での生活をするきっかけをつくった女性が戸田薫だったからだ。だが、彼女が既に十七年前に亡くなっていることくらいは里子から聞いて知っていたし、亡霊のように甦るはずもない。
 実はトオルは、最初彼女が近づいてきたとき、てっきり薫の妹か親戚と思い、そうでなかったことにがっかりしたのだ。里子に代わり、恨みの一つや二つ言ってやろうと気を張ったのも無駄だったわけだ。
 ここはダコタ・ハウスではない。
 拳銃の硝煙残る惨殺現場でもない。
 これからトオルがトオルなりにトオルなりの現実を経験せねばならない場だ。
 次に何か言葉を発さねばと思っていたところ、男の職員がそそくさとやってきた。
 トオルとミチの両方に目をやり挨拶した後、改めて本人であることを確認すると簡単にこれまでの状況と連絡に至った経緯を説明した。どうやら免許証の備考欄にはトオルだけでなく、ミチの連絡先も書いてあったらしい。
 二十分ほど前に検死も終わり、ついさっき監察医も帰ったとのことで、さっそく霊安室へ案内すると告げられた。
 二人は緊張した面持ちで後ろを着いて行った。
 一階奥の廊下の突き当たりの部屋に通された。外の喧騒は届かず、ひっそりとした静寂がたちこめている。
 南の壁に冷凍庫を思わせる縦横一メートル足らずの四角のステンレスの扉が二つ並んでいた。職員は左側のレバーを動かし扉を開け、若干前屈みでストレッチャーを引き出した。湿った冷気が白い気流となってあらわれ、グレーの納体袋に入った遺体が姿を見せた。
 L字のファスナーが下ろされ、土気色の物言わぬシンジが眠っていた。三人は息を合わせるように合掌した。
 トオルは目を逸らさずにいた。浮腫みのせいか記憶にある顔より、ふっくらしているように見える。白髪が増え、両目を閉じているので二重の大きな瞳はわからないが眼尻から頬、口元にかけての輪郭と右眉下の小さな黒子が本人であることに間違いなかった。
 十数年前の山小屋での風景がみるみる甦り、少しずつ込み上げてくるものに対峙しながら耐えていた。
「父です」
 振り絞るように低い声で答えた。
 ほんの一瞬、俯いた拍子に左隣のミチに視線を向けると、まだ一心に手を合わせていた。
「検死の結果、昨夜の七時から八時頃に入浴され、上がられた直後、脳出血になられた可能性が 一番高いようですね。血液からはアルコールや薬物反応もありませんでした」
 バインダーに綴じられた書類の文字を一字一字丁寧に追いながら話す職員の横で、トオルはシンジの最後の場面を思い浮かべていた。
「よろけられるように倒れられたのか外傷もありませんし、事件性は今のところ考えられません」
 予断を挟ませないきっぱりした口調だ。
 トオルはミチのために場所を譲った。
 彼女はゆっくり二歩ほど近づき顔を覗き込み、声にならぬ声で会話でもするように小さく口元を動かしていた。
 どんな言葉を発しているのか、トオルにはわからない。
 知りたいとも思わない。
 なぜなら今、彼には彼女に興味もなければ、あまり関わりたくないとさえ思っていた。
 それが本音だ。
 遺体の膝は折れ曲がり、袋を押し上げるように盛り上がっていた。
 向かいにいた職員がトオルの眼差し気づき、すかさず説明を入れた。
「硬直は、季節も関係するんです。温泉の熱気があるとは言え真冬ですし。長く同じ姿勢でおられたものですから」
 ビニールの起伏を辿っているとさらに克明に死の直前の風景が甦るようでいたたまれなくなり、ミチが下がるのに合わせ、もう充分というように職員へ軽くお辞儀した。
 相手は了解したようにファスナーを引き上げ、ストレッチャーを押し込んだ。
「自殺じゃないですよね」
 一番に聞きたかったのはそれだった。
 状況は揃っている。何もかも。素人ながらにそう思えた。それに何よりトオルから見て父親には、その死因が最も強く結びつく気がした。
「百パーセント否定できませんが、さきほども申し上げた通り、お酒も薬も検出されず水も飲んでおられないことから、きわめて可能性は低いでしょう。それに、寒冷地での入浴事故はけっして珍しいことではないんですよ」
 最近、近場であった例をいくつかあげ、最後に「むしろ死後、半日で発見されたのは幸運とも言えます」
 早く事を進めたそうにもう一度書類をめくり、トオルを見た。
「誰が発見されたんですか」
「近所の人がたまたま散歩されていて」
 待っていたとばかり、さらりと答えた。
「では事務室で、遺体と保管物の引き取りの手続きをしていただいてよろしいですか」
 トオルが付いていくと、ミチも一緒にやってきた。
 ぶっつけ本番の二人。互いにまだ現実が呑み込めず、歩き方もどこかぎこちない。
 接客用のソファに二人、ほぼ同時に腰を下ろした。
「ちょっとお待ちください」
 職員が保管庫に出かけた隙を見計らうように声をかけてきたのはミチだった。
「シンジさん、まだお若いのにどうしてこんなことになったのか。残念でなりません」
「父とは、最近までお会いになってたんですか」
「いいえ、薫さんが亡くなってからは、こちらに来たついでに二度ほど挨拶に伺ったくらいで。 最後にお会いしたのはかれこれ五年前になるでしょうか……今朝、電話がかかってきたときはびっくりして」
 トオルは黙って頷いた。
 職員が持って来た透明なビニール袋に衣服が仕舞われ、閉じ紐のついた茶封筒には車のキーや山小屋の鍵が二本下がったキーホルダーと財布、それにそこから取り出したらしい紙幣と硬貨が入れてあった。
 千円札三枚と百円玉一個、それに十円玉二個と一円玉三個の合わせて三千百二十三円。
「現金はそれだけ入っていました。免許証は、ここにあります」
そう言って差し出され「それにしても備考欄に緊急の連絡先が書いてあって助かりました」本心か、明るい調子になった。
「車は廃車にするつもりですが、それまで置かせてもらえませんか」
「一週間ほどでしたら」
「できるだけ早く業者へ連絡しますので」
 軽く会釈しながらも目の行くのはやはり免許証のメモだ。文字は離婚して家を出て行く間際、トオルの小学入学時の学用品に名前を書いてくれた右上がりの小さな字で数行、もしもの時は葬儀は不要であると書いてある。
「ところでご遺体ですが」
 文面に目を通していたトオルに職員が、これからのことを聞いてきた。
「身内と言っても、籍を抜いてかなりになりますし…」
 言葉に詰まりながら、できれば、こちらですべて終わらせたいと申し出た。
「幸い昨年、お父さんの村とこの町は合併し、住民票も登録されていますから、こういったケースの場合、所長名で役場へ死亡届けが出せるんですよ」
 そう言って地元の葬儀社を紹介し、おそらく明日、火葬ということになるので、棺などの件はすぐに連絡するよう言われた。
 トオルは、再びシンジのメモを見た。

 山小屋は松崎ミチ、ピアノと置物は木村トオルに相続する。

 最後に二人の電話番号が書かれてある。
「置物って確かピアノの横に立ててあったやつですよね」
 今度はトオルがミチに話しかけた。
「ええ、シンジさんがご自身でつくられたんだと思います。ピアノの方は薫さんが持って来たって言ってましたけど」
「そうでしょうね。父は全然やってませんでしたから」
 それからほんのしばらく、二人は考え込むように黙り込んだ。
 職員が手配してくれたおかげで、翌朝十時半に町営の火葬場の車が迎えにくることになった。
 トオルも葬儀社に電話で諸事情を説明した。通夜も告別式もせず納棺から収骨までできるだけ簡素な形でいいと言うと急に声の調子が落ち、今は無理だが夕方なら来れるとの返事だった。
 すべての確認が終了し、職員から発見者にも早目に礼を言っておくべきだと忠告をもらい、住所と電話番号の書かれた紙を渡されたが、トオルは気が重く、署を出る寸前まで悩んでいた。
「私は、これから伺おうと思っていますけど」
 外に出るや控えめな声でミチが言った。
「もしよろしかったら、一緒に行かれませんか。実は、この近くにお付き合いのある人がいて、 今朝、事情を話したら大体のことはご存じで、家もわかったんです。正直言うと、私も二人の方が心強いし」
 手回しのよさに感心しつつ、トオルも面倒をこの際終わらせておくのも良いかもしれぬと彼女の車で向かった。
 運転しながらミチの話たところによれば、シンジの死体を最初に見つけたのは人ではなく、送信機付の首輪をしたビーグルだそうだ。
「付近ではもう有名な話になってるみたいですよ。警察も犬とは言えないでしょうしね。だってこれと同じでしょう」
 彼女はハンドルを握った片手を離し、カーナビを指差した。土産にちょっと割高だったが、自然食のドッグフードも買ってきていると教えてくれた。
「無添加で人が食べても安全だなんて、ペットも随分、待遇がよくなりましたよね」
 話しぶりから見かけほど硬くなく、思ったことを単刀直入に言う性格のようだ。もしかすると、息子ほどの相手に気をきかし、さりげなく装っているとも考えられたが、トオルにはありがたかった。
 目印の消火栓を左折ししばらく行くと、玄関やサッシ窓の他は石積み模様のサイディングがされた平屋の一角があらわれた。周囲には一メートルほどの金網のフェンスがされ、鉄門を開け、玄関で呼び鈴を鳴らした。出てきた男は想像とは違い、どちらかと言うと華奢な体つきをしていた。
 自己紹介しお礼を言っていると、匂いを嗅ぎつけた白と黒の斑な犬が、奥の庭から走ってきた。いいタイミングとばかりミチは、手に持っていたビニール袋を手渡した。
 ラッキーという名の雌のビーグルは少々肥満気味で、今は首輪を外しリラックスしているふうだった。
「ほら、お前にご褒美だぞ」
 男は底の大きいフードボールにササミのジャーキーを入れた。千切れんばかりに尻尾を振り、貪るように食べ始めた。湿気のせいか、男の額や犬の鼻先に小さな羽虫が飛んでいた。
「こいつがなかなか戻って来ないんで、行ってみてびっくりしましたよ。湯気が立ち込めていて最初はでかい猿かなって思ったんですが」
 瞬間、トオルが鋭い眼つきで相手を見た。すると言い訳でもするように、「いえね、あの辺には猿が一匹住み着いてて、以前はよくお湯にも浸かりにきてたんですよ。最近はさっぱり見なくなって、一体どうしたのか」
 トオルは、早く立ち去りたい衝動に襲われた。
 不快だった。猿と言われたことか。違う。
 猿か人間かでない。ネアンデルタールとホモサピエンスでもない。
 ループする修正第二条。
 突き詰めれば言葉。たかが法、されど法。ならば銃は言葉で言葉は銃になることもある。
 むしろ猿なら猿でよかった。
 猿にもなれず猿かもしれぬと疑われた父。存在が一瞬で消えた気がした。銃声さえ轟かぬ前に。その一言で。
 つまりは、その子である自分も。
「いきなり大きな猿だなんて、失礼な人ですね」
 車に乗り込むや怒りを露わにしたのはミチの方だった。無反応なトオルに、「私はこのまま帰りますけど、どうされますか」話題でも変えるように聞いてきた。
「葬儀屋が来る前に、一度、山小屋を見ておこうかなと」
「道はお分かりですか」
「それがちょっと自信が」
「じゃあ、教えておきますね」
 そう言って山道への入り口で停車し「ここを真っ直ぐ上がられたところです」その後、署まで送ってくれた。
 駐車場に降り立つと、ミチが歩み寄り名刺をくれた。勤務校の名が書いてある。
「最近は赴任と同時に名刺まで用意してあって、学校も随分変わりました」
 風で乱れようとする髪を軽く手で押さえ微笑み、ハンドバックからボールペンを取り出すと慣れた手つきで裏に携帯の番号を書き込んだ。
「あの、今日は色々お世話になりました。それとさっきの猿の件、僕はさほど気にしてませんから」
「えっ、ああ、こちらこそ出過ぎたこと言ってすいません」
 トオルは、相手の視線が自分の車のロゴに向かっているのを知り、「パン屋をしてるんです。いつ潰れるかわからない小さな店ですけど」
 場所を教えると、ミチの住所もさほど離れていないことがわかった。
「今度、買いに行きますね。私、パン大好きなんです」
「お客さんが一人増えちゃいましたね」
 出会って初めて、やわらいだ会話になった。
 流れに後押しされたのか、ミチは一旦離れようとしてまた近づき、「もしよろしければ、明日の火葬に参列させていただけませんか」穏やかな声だった。
「もちろんかまいませんよ」
 トオルもすぐに返事した。
 彼女が車に乗り込み、ドアを閉めようとしたときだ。今度はトオルがジャンバーの内ポケットを探りながら、
「忘れるとこでした。鍵は、あなたも持っておかなくちゃ」
 合鍵をホルダーから外した。
「ありがとう」
 笑顔で礼を返す相手を見ながら、トオルは、ミチにどうしても今日初めて会った気がしなかった。
 排気音が鳴り出発してしまうと、いよいよたった一人、森の入口に取り残された気分になった。
 シンジの運転する軽トラの助手席で山小屋へ向かうたびに不安だった幼い日のことが思い出された。人影や獣に似た木の幹や岩の塊が早くも目の前にちらつくようだ。無事、小屋まで辿りつき、鍵を開けられるか心配になってきた。
 狂気のチャップマンも銃声の鳴り響いたセントラル・パークもそこにはない。やがて確実に森へとつながる道が一本あるだけだ。
 空を見ると相変わらず濃い灰色の雲が淀んだように広がっていた。
 溜息交じりに深呼吸したトオルは、名刺と鍵をポケットに仕舞うと、今来た道を車で引き返した。

            二、砂礫

 いつどこで舞い下りたか、フロントガラスに貼り付いた銀杏の枯葉を払いのけようとミチはワイパーを動かした。黄金色の葉と入れ替わるように、アームの撓りの向こうにストレッチャーで引き出されたシンジと別れたばかりのトオルの顔が浮かぶ。
 DNAの螺旋模様。
 顎の線や目鼻立ちの共通の面影。
 根っこにあるものが数百万年つづいてきたとして、
 それだけだろうか。
 もっと何か違うものがあるという可能性の余地は残されていないのか。
 もしかして、
 魂。
 ミチは道路脇へ停車させ、ハンドルを強く握りしめた。
 それまで律していたものが解け、悲しみが波濤のように込み上げてきた。声にならぬ声が塊となり喉元へ昇っては、嗚咽をその寸前で堰き止め、息苦しさと一緒に胸奥を締めつけた。シート下からは静かにエンジンの振動が伝わってくる。ミチは、ハンドルを抱きかかえ顔を埋めたまま、押し上がってくる波が治まるのを待った
 署に着くや担当者から、もう一人身内の者に連絡してあるからと待たされたとき、おそらくトオルであろうとは予想はついた。それでもいざ対面してみると、それまで止まっていた時間が一挙に動き出したようで頭の中が掻き乱され、すぐに名乗るべきか迷ってしまった。挨拶した後も混濁した思いが顔や声に出ぬよう、あれこれ犬の話題などで誤魔化した。
 数分後、ようやく感情の治まりが見えたミチは、気分を取り直そうと車を発進させた。
 最初にあの森で木村シンジに会ったのはいつだったろう。
 ミチはまだどこか過敏な神経の糸を手繰るように記憶を辿った。
 交差点に差しかかり信号が黄色から赤に変わった。
 急いでブレーキペダルに力を込める。シグナル。そうだ、あの日、校舎にもシグナルのチャイムが授業の終わりを告げていた。小さなノイズと共に、一九九六年十月末の蒼空へ時の調べを刻むため、その音は鳴り響いていた。
 ミチは体育の授業を終え、職員室へ向かっているところだった。コンクリの土間へ下りた瞬間、右足首に疼きが走った。跳び箱の着地の際、捻ったのだ。
「わあ、先生、また跳ぶの」
「齢なんだから、やめといた方がいいよ」
 いつもなら子どもたちの冷やかしをむしろ逆手に聞くふりをし、まんまと怠けるのだが、あのときは、どうしてももう一度やってみたい気がした。
 もう一度の跳躍。
 もう限界の域を踏みとどまらせること。
 もう知らぬとしつつあれこれ横合いからの標榜。
 もういいのにと言われても敢えてやってみるだけの行動。
 そこに身体の消耗はあるか。
 疲労を表出することによって生まれる価値や生活の再生産とは違ったもの。
 そんじょそこらにある労働では得られぬ煌き。
 そもそも一回目の開脚跳びのとき、地上から離れ、落下するまでに違和感があった。どこか集中できず心と体がバラバラだった。右へ傾こうとするのを空中で修正し、どうにか事なきを得た。
「何言ってんの。先生、まだ三十四よ。見てなさい、華麗な演技を」
 マットの周りでは、三十名近い五年生の児童たちが両膝を抱え見学していた。
 ミチは競技選手のようにオーバーに片手を上げ、助走を始めた。ところが今度は、さらに悪かった。踏み出す勢いが足りず、それを補おうと力んで両腕で押し切り、前後のバランスまで崩してしまった。着地と同時に激しい痛みが神経を駆けめぐった。思わずつくり笑いで誤魔化すと、チャイムの鳴る数分前に授業を終えたのだ。なぜ、一度で止めなかったのか、そんなことを悔いながら、養護室で湿布してもらうか考えていた。
 スピーカーからはヴァイオリンの音が聴こえていた。
 パッヘルベルのカノンだ。
 通奏低音に重ね三本のヴァイオリンが二小節ごとずれながら同じ旋律を繰り返していく。
 三時間目に入る前の休み時間に毎日、流れている。
 周囲の三校が統廃合され新設された二年前の校長の提案だ。
 優雅な曲調は、まだ一日が始まってほんの序の口の合図に聴こえないこともなかった。
 ある学校とある学校とある学校が統合し、別のある学校になること。
 ある学校から見たある学校ならぬ、もう一つのある学校の出現によって、新たなある学校はどうなっていくのか。
 ある学校からある学校を通して見たある学校と、ある学校を通してある学校を見たある学校はどう違うのか。
 各ある学校の中にいるその何百倍のある児童や生徒はまたまた別のある児童や生徒を通し、さらなるある学校の児童や生徒とどうかかわるのか。
 ある学校がある学校である限り実体のない、あるの連鎖は永遠につづく。
 それぞれに同一であって異質な営みだろう。
 結局は名もなき閉ざされた空間。
 学校。
 単細胞から多細胞への進化の不可能性。
 三重のそのまた三重のレトリックの構造を維持するためのルールがつくられ、個々を繋いだ有糸は無糸へと逆戻りしていく。
 音楽のリフレインと法による支配という感染。
 個としての孤絶した誕生と個としての孤絶した死滅。
 進化もなければ退化もない。
 偽装した非生物。
 ウイルス。
 ここでもまた修正第二条。
 匿名校の中で匿名の加害者が匿名の児童や生徒へ放す銃乱射という修正不能な悲劇。
 サムとジョンは予言していたのかもしれない。
 弾道の模倣と命中率、それに追想を。
 カノンは彼女を、どこへとも知れず導くように奏でつづけた。
 弱火に落とされた灯油ストーブのため、人心地つくには暖かさが充分でない職員室には、低中高学年ごと一固まりにまとめられた机にデスクトップパソコンがずらりと並び、さながら商社オフィスの一室のようだ。OA機器実用化の実験校とは言え、これほど早くお目見えするとは思いもよらなかった。鈍い光沢を浮かべたディスプレイを前に、ワープロが主流だった初任の頃が思い出され、数年ですっかり様変わりしてしまった職場に隔世の感を抱かずにはいられない。
 教師が二人、来週ある全校での音楽会の合同練習の打ち合わせをしていた。椅子に腰も下ろさず、昏い表情だけでなくしな垂れたような肩口にも疲労の色が滲んでいる。話がつくと教材を抱え、いそいそと出て行ってしまった。それとは別に、袖をたくし上げ精気に満ち、迎えに来た係りの児童を引き連れグラウンドへ向かう若い男性教員の姿もある。
 ふと自分の机に目を落とすと、郵便物を担当する教頭が置いたのだろう、キーボード横の僅かな隙間に、一枚の絵葉書が透明なシートに挟んであった。
 ビニールを捲り葉書を抜き取ると、すすきに覆われた丘陵が夕陽を受け銀色のビロードのように輝き、波打ちながら広がった写真がプリントしてあった。丘の所々にはごつごつした岩肌が顔を出し、逆光を浴びながらも動じることのない峻厳さを示している。その上を吹く秋風が、今しも彼女の内側へ、じかに触れてきそうだ。
 ミチに懐かしい感慨が小波のように打ち寄せて来た。
 なぜなら、それは彼女がかつて勤務していた山間地の高原を、向かいの展望台から撮影したものだったからだ。当時、切り立つ崖の上につくられた十メートル四方の小さな展望台には何度か足を運んだことがあった。
 差出人は細字の筆ペンで戸田薫と書いてあった。彼女が今の市内へ来る前、その地で一番規模の大きな小学校に勤務していたとき、三年間一緒だった。ミチは初任の年だったから二十三、薫は三十三、麓の町のアパートから車で通って来ていた。記憶では夫は公務員で、子どもはいなかったはずだ。
 最初、長い無沙汰を詫び、近況を窺った後、短くこうつづられていた。

 自然食の店を始めました。ぜひ遊びに来て下さい。

 薫が教師を辞めた? 
 ミチの胸奥に、どうしてという腑に落ちぬ疑問が錘となって揺れた。だが、すぐに揺れは幅を狭め、頷けるものとなった。と言うのも薫はその頃から、例えば研修で学外へ一緒に出かけても、内容に自分なりの見切りをつけると会場をこっそり抜け出し、近くの喫茶店で寛いでしまう大胆な面があったからだ。もちろん優れた実践もしていて、手づくりの教具や教材も手早く準備し児童の学習欲を高めていたし、これはと思ったアイデアは学級経営に取り入れる柔軟さも備えていた。
 するとまた、なぜっという疑問が脳裡に浮かんだが、自然食という言葉に合点がいくところがあった。
 同勤の頃、家庭科の授業を見せてもらったことがある。東北の伝統料理のきりたんぽ鍋だった。子どもたちと一緒にすり潰したご飯を竹輪状に串に巻き付け火で炙り、棒から抜き取ったものを鶏肉や季節の野菜と煮込むのだ。キャンプで使うバーベキュー用のコンロに炭火を用意し、炙るのも鍋で煮込むのもすべて屋外で行った。ネットもなかった時代、一体、どうやってつくり方やコツを学んだのか、手捌きと指導の鮮やかさに感心した記憶がある。
 そんな薫が、身内の病気や自身の体調とか、一つのきっかけさえあれば徹底して勉強し、趣味を超えた域に達することは充分に考えられた。しかも夫の収入を当てにすれば、小さな店を開くことくらい可能だろう。
 ミチはあれこれ想像しながら、ふと微笑んだ。
 研修中、隣の席から彼女へちらりと視線を送り、会場を出るサインをしていた茶目っ気たっぷりの横顔が浮かんだからだ。薫はさも当然のように臆することなく、忘れ物でも取りに行く素振りで車へ向かった。演技は堂に入り、後を追うミチも思わず吹き出しそうになったことも一度や二度ではない。彼女なら、もしかすると教師を辞めずとも、何食わぬ顔で副業をやってのけることさえやりかねない。
 ミチは連絡しようか、悩んだ。
 当時、同勤していた学校の最後の夏休みのことが思い出されたからだ。そのとき起こった気まずい出来事を機に、翌年の春、ミチが市内へ異動したことも重なり、二人の関係はぷつりと途絶えてしまった。もしこの葉書の目的が修復を考えてのことなら、もっと早い時期でもよかったはずだが。
 あの年、日野という二十代後半の独身の男性教員がいた。
 ふっくらと頬に丸みがあり、テレビドラマの教師に憧れ職を選んだことを衒いもなく真剣に語る顔は、話すたびに大きく動く黒目が純情さと真面目さを醸していた。その男が夏休みも終盤を迎えようとする頃、ある事件を起こしたのだ。
 学校では二学期を十日後に控え、管理職を始め、学年主任と体育主任、それに教務主任が会議や日程の調整のため一度集まることになっている。中でも二学期最大の行事である運動会の位置は大きく、職員全員の会議に諮る前に、計画案に大きなミスはないか確認するのだ。
 日野は赴任四年目で体育の専科と主任をやっていた。
 その夏は猛暑で、校庭を囲んだ桜から耳をつんざくような蝉の鳴き声がしていた。標高の高い山間地でも、首筋に薄っすら汗を掻き、ミチと薫も扇風機だけが頼りの部屋にやってきていた。
 ところが、主役の日野が定刻になっても姿をあらわさなかったのだ。携帯も普及しておらず、教頭が自宅へ電話すると、普段通り出たとの母親の返事があった。体調も良さそうで、別段変わった所はなかったと言う。
 隣同士、ひそひそと囁き合い、各人が背景を探る中、淀んだ空気を揺るがすように再び電話が鳴った。
 すかさず教頭が出ると、日野本人からだった。
 出勤途中、激しい腹痛が起き車内で休んでいたとのことで、峠の一本道だったため、公衆電話まで来るのに手間取ったらしい。運動会の計画案のレジメは、机の引き出しに仕舞ってあるからそれで検討をお願いしたいとのことのようだ。
 教頭独特の嗄れ声でのやりとりや緩んだ面持ちから、受話器が置かれたときには職員から安堵の溜息が漏れるほどだった。
 会議は、日程の都合で延期するわけにもいかず、日野の要望通り進められていった。
「大したことじゃなくてよかったわね」
 休憩時、職員室後方のテーブルへ麦茶を汲みに来た薫にミチが言葉をかけた。
「でも、なにか変だとは思わない?」
 薫はミチへ体を寄せながら顔を覗き込み、不審げに眉を細めた。
「お腹が痛いくらいであの熱心な日野先生が休んだりするかしら。彼にとっても一番花形の運動会よ。ちょっと現実にはありえない気がするの。私だったら少々遅れようが、どんなことをしたって来るけど」
 現実。
 この言葉が出るときの薫は、本気モードに入っている。勘も冴え、感情が沸々と湧き上がっているのを示すように、表情だけでなく、左腕を曲げ、胸元で掌を上に向ける仕草も加えられる。
職場は一度始まってしまえば、忙しさの中で時が瞬く間に過ぎていく。まして半日の会議ならなおさらだ。
 一週間後、いよいよ二学期が始まる三日前、新学期に向けての全職員での会議が行われたとき、日野のあの日の欠勤のことは校内だけでなく地域まで広がっていた。と言うのも日野の消息は、その後もはっきりとつかめず、ある噂が囁かれ出していたのだ。
 職員室へ行くと校長と教頭が正面奥のスチール机に中腰で立ったり座ったりしながら一人、また一人とやって来る者を待ち受けていた。
「あといらっしゃらないのは、戸田先生ですかね」
「あっ、今、来られているようです」
 上体を逸らし加減に肩越しに窓に目をやったミチが答えた。
 正門横の駐車場に赤い車体が止まったところだった。数分後、シューズの音が近づくと扉が開き、薫が姿をあらわした。慌てる様子はなく、一年担任の彼女は、高学年のミチとは離れた斜向かいに座った。
 いつもなら、始業式に配る学級便りの下書きなど内職に勤しむ者もいるが、その気配はない。皆、静かに座し、朝からの校長たちの素振りに、まずは日野の件が切り出されるに違いないと待ち構えている様子だ。
「早速ですが会議に入る前に、先生方にお知らせしておかなければならないことがあります。日野先生に関してですが、既にお耳に入っておられる方もいるかと思います。地域でも色んな風聞が広がっているようですし、このままにしておくわけにもいきませんので教頭と話合いまして、先生方に今、現時点でわかっている事実をお伝えしておきたいと思います」
 職員室には俄かに緊張が走った。
 校長は、満を持したように左奥にいる四年担任の男性教員を一瞥し、そのクラスのバスケット部の男子児童の名を挙げた。日野が部活を指導していたことを言った上で「先生は、その子の母親と付き合っていたらしく、あの日は、まあその、昔で言うところの何ですか、駆け落ちをやったらしいのです」
 肝心なところで若干しどろもどろになりながらも、どうにか話し終えた。
 最後に〝駆け落ち〟という言葉が出た瞬間、職員室にはこれまで以上に重たい空気が流れた。噂では聞いていたものの、いざ実際に耳にしてみるとやはり驚きは隠せないようだ。
 しばらくは誰一人、口を開く者もなく、小さく咳払いしたり足を組み直し出した。
 駆け落ち。
 発動のモチベーションで考えられること。
 身分や職業、年収、既婚、未婚、家柄、果ては血脈、人種の問題。
 やはりここではこれか。
 世間体。
 十八世紀半ばのスコットランドのグレトナ・グリーンという小さな町。
 それまで男が十四、女が十二才以上なら親の承諾なしで結婚できたが一七五三年、イングランドのハードウィック卿の定めた婚姻法により二十一歳以上に引き上げられる。
 さらに一定期間の結婚予告通告の期間も必要となり、その間なら誰でも結婚に対する異議申し立てができ、結婚認可証のない場合、公然と妨害さえできた。
 そこで逃亡劇が開始される。
 二人の証人の元、誓いさえ立てれば誰であろうが結婚式を行えた隣国スコットランドへ多くの駆け落ち者が向かうのだ。
 国境を越え最初の町グレトナは鍛冶屋の町で、燃える金床を前に次々と誓いが立てられてい く。
 誓い。
 日野と保護者の鎖はどうなったか。
 イングランドのリヴァプール生まれのジョン。
 もちろん既に法は改正されていたが、ヨーコと出会いシンシアと離婚後、ニューヨークへ渡った。
 愛と平和と自由。
 メイソンの起草した別の法の支配する国へ。
 銃口は徐々に彼へと傾いていたのか。
 フランス革命からの叫びと伝播。
 ヴェルサイユの煙った遺産。
 それとも置き土産。
 犠牲は、
 想像以上にいつも大きい。
 担任とは、当然打ち合わせていたようで、目配せし軽く促されると立ち上がって一礼し、説明を始めた。  
 去年、両親が離婚し県外から母親の実家へ戻ってきた児童の家庭は、祖父母が農業を営み、孫の面倒見もいいとのことだ。
 日野が休んだあの日、母親が残していった置手紙を読んだ祖父から夕刻、学校へ連絡が入った。相手が日野であると手紙に書いてあったと言われたときは、さすがに唖然となったらしい。
 祖父母としては孫にはもちろん言わず、しばらく事態の経過を見たいとの考えで、ことがことだけに黙って同意した。校長へすぐに連絡した数分後、今度は再び、母親が家へ戻ってきたとの知らせが届いた。
 どうやら待ち合わせ場所へは行かなかったようだ。
 校長の助言で、翌日、ぶらりと立ち寄ったふうを装い家庭訪問してみると母子とも普段とかわりなく夕餉をとっていたそうだ。
「先生、娘がとんでもないことをしてしまって何てお詫びしたらいいのか。日野先生にも大変ご迷惑おかけしました」
 表に出てこない母親に代わり、庭先で感情を抑え必死に日野を気遣う祖父の声や表情が胸に迫ったと目を潤ませ報告したのだった。
 予期せぬ展開と臨場感のある話しぶりで鬱々したものが払拭されたのか、職員はおもむろに頭を擡げ、挙措動作にも力が入りだした。
「結局、駆け落ちはされなかったんですね」
 教務主任の年配の女性教諭が正すような声を上げた。
「はい、そうです」
 担任ははっきり答え、同時に校長が、昨夜、日野本人から自分の家へ電話があったと告げた。
「私もあまりの突然の出来事で最初は信じられず、どうにかして日野先生ご自身と話ができないものかと思っていた矢先でして」
 職員室は再び水を打ったように静まり返った。
 蝉の声だけが休むことなくカーテン越しに室内を領していた。
「結果はどうあれ、ご本人は責任を強く感じておられ、職を辞したいとのことでした」
 校長は少し間を置きつづけた。
「誰しも過ちはあるものですし、何とか慰留の方向で説得したのですが、なにせ意志が固く……。実際、もしこれが冬休みでしたら異動という形で打開も考えられますが、如何せんそれもかないませんので、苦慮の末、本人の希望通り、退職願いを受理することにしました」
 つまりは薫の勘は的中したことになる。
 再び教務主任が日野はさておき、児童に今後も大きな影響がないことを願った上で、担任はもとより全職員で配慮していく確認があった。
〝駆け落ち〟に関しては、日野だけでなく安易に関係を結んだ母親にも責任があるとの意見も出、大まかは両者に大人としての自覚が足りなかったことで一致し、誰もが早くこの話題を切り上げたい様子が窺えた。
 そこで会議は、一旦休憩に入った。
 トイレからの帰り、ミチの耳には廊下で立ち話する数人の職員たちの会話が飛び込んできた。
「あそこの母親って向こうでもいろいろ男関係で揉めて帰って来たって噂だから、大方、日野先生の方が引っかかっちゃったんじゃないかしら。御祖父さんはきっとそのことをわかってるのよ」
「でもやっぱり教員がしっかりしなきゃいけないんじゃない。だってほら、いつか部活の試合の打ち上げのときも酔っぱらって、いちゃついてたでしょう」
「あっけないわよね、先生もこれまでこつこつ頑張ってきただろうに。こんなことで何もかも棒にふるなんて」
 瞬間、そちらを見たミチは何かを言いたかったが、自分でも整理できないものがあり、踵を返すと反対方向へ歩き出していた。
 薫と言葉を交わしたかった。
 天井と壁に囲まれた矩形の廊下には外庭から差し込む日差しで生ぬるくなった空気が淀んでいるようだ。
 サッシの開く音がした。
 教室で人影が移動しながら窓を開けていた。無遠慮に入り小さな椅子や机を除けながら近寄っ たミチは、一気に思いの丈を口にした。
「皆、勝手過ぎるわ。会議のときとは全然違うことを平気で言うんだから。私は日野先生は真剣だったと思うの。だって、あの日も戻ろうと思えばできたのに、教師まで辞めるだなんて」
 すると薫は意外な言葉を返してきたのだった。
「でもやっぱり、慎重さが足りなかったんじゃないかな。私もどちらかと言うと、お母さんの方が最後は正しい判断をしたと思ってるんだけど」
 親しげな口調でも独特の裁断が込められていた。
 ミチは驚きもさることながら悶々とした思いが断ち切れず、こうなれば疑問を正直に言ってみようと思った。
「仮にお母さんが正しかったとして、必死な約束までした相手を裏切ってもいいの」
「あら、私だって恋愛の自由は認めるし、二人の思いも尊重して言っているつもりよ。でも、あっちには家庭もあるわけだし、それに何と言っても保護者と教師なんだから、色んなことをきちんとしてからじゃなきゃね。最低のモラルは守った方がいいって言っているだけなんだけど。現実はそんなに甘くないんじゃないかしら」
 そう言ってまた残りの窓を開け始めたのだった。
 現実はこうよ、現実にはちょっと、現実と結びつけなくては意味がないでしょう……。
 またしても、
 現実。
 もちろんミチ自身、日野の行動を全面的に認めているわけではなかった。だがここで一方的に母親の行為を現実的な立場ばかりで評価する気にはどうしてもなれなかったのだ。
 メイソンの書き起こした自由の権利は形を変え、相手を変え、本人を変え、持ち物は紙片の草稿から鉄の引き金となり、サム・クックやジョン・レノンの射殺へと向かう。
 一人の女の裏切り。
 一人の女の寂寥。
 一人の男の絶望。
 果たしてそうか。
 そもそもどちらが先か。
 男と女の日常の愛憎、それとも、ともに暮らしたい欲望と結合。
 歯止めを打たんする世間による命名〝駆け落ち〟
 逃走でなく、ただの始まり。
 人と人が本人の意志と関係なく、些細なことで繋がりを断つことはざらにあることだし、その一件後の二人がまさにそうだったとも言える。もしかするとミチにとり、常にどこかで依存の対象の薫が少しずつ窮屈で煩わしい存在になっていたのかもしれない。
 現実と言う経験則は、えてして後発の法の理念を丸ごと飲み込んでしまうからだ。 
 メビウスの輪の恐るべき報復。
 ねじれにねじれ裏が表となり、やがて己の尾を噛むウロボロスの蛇になっていく。
 だが、二人の場合その寸前で別れられたのは幸運だったかもしれない。
 あれこれ、そんなことを回想し、それでも礼儀だけは果たそうと、勤務が終わり、車から先月初めて契約したばかりの携帯で電話した。
 発信音が鳴り、切るなら今だと迷っていると「もしもし」聞き覚えのある声が返ってきた。
「あっ、あのー、お久しぶりです。松崎です」
 すると向こうは大きな喜びの声を上げ、
「久しぶり、元気? 絵葉書届いたのね」
 八年の歳月はどこへ行ってしまったか。第一声はミチの心配をよそに、他人行儀なところは一切なく気さくそのものだった。張りつめていた神経がいっぺんに緩み、乾いた砂礫へ水の滴が流れ込んでくるようだ。
「せっかくだから、夕食に合わせておいでよ。ごちそうするから」
 それから話は思いもよらぬ展開を見せ、受信機をバックに仕舞うときには、次の土曜日に薫のもとへ出かける約束までしていた。
 そこに食い止める〝法〟も草稿も、もちろんメイソンもいなかった。

             三、崩落

 クラウィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ。
 ピアノの正式名称。
 弱い音から強い音まで出せるチェンバロという意味だ。
 一七〇八年にイタリアの職人バルトメオ・クリストフォリによって発明され、その後、改良に改良を重ね、一七八三年、イギリスのジョン・ブロードウッドがペダルを考案し、音域も広がった。
 モーツァルトの本来の楽譜にペダル記号がないことから彼がペダルなしの、しかも当時、一部で製造されていた黒鍵と白鍵が反対のものをある時期、使っていたとも言われている。
 そもそも鍵盤の材料は象牙と黒檀が用いられていたが入手が困難なこともあり、人工物や合成樹脂が使われだし、肌触りや見やすさから今の色に落ち着いていった。
 もちろん、ピアノが徐々に市民のものになっていくには産業革命やフランス革命に代表される市民革命、それに裕福なブルジョア層の出現が必要で、この三つが長針や短針、秒針の役を担い、ある特別な位置で重なり合ったとき、ピアノは独自の道を歩んでいくことになる。
 メイソンもサムもジョンもそれぞれにあるとき、ある瞬間、時間と空間を超え、ぴたりと出会った。
 それはどこか。
 自由の極点、
 死。
 黒鍵と白鍵は何故あるか。
 五歳からピアノを習い始めたトオルは、向かうたびに不思議だった。
 二項対立による排除。
 強烈な違和感との最初の出会い。
 ピアノ教師の母親に聞いても納得のいく答えは返ってこなかった。
 ならば黒鍵が二か所、抜かれているのはどうしてか。
 やがて思いついたのが、役割の入れ替えということだった。いったんシからドになるとき半音の位置が黒鍵から白鍵へ渡され、それまで黒鍵が果たしていた役目が白鍵へと移り、黒鍵は白鍵へ、白鍵は黒鍵へと姿を変える。そしてミとファの間で再び黒鍵は消え、元の役へ戻るという寸法だ。
 トオルから見れば、ピアノは黒と白の捩じれたいびつな生き物だった。
 メビウスの輪。
 そんなピアノと自分で彫ったらしい置物を父は、遺品として残した。
 父の最後にとった行為をどこか不可解に思いながら、トオルは今、山小屋へと車を走らせていた。
 初めて運転する山道は、思いの外単調に感じられ、剥き出た岩肌や根株もさほど気にならなかった。目的地の二本の欅が並んだ平地にも思っていたより早くに着いた。むしろ憂鬱になったのは、そこから徒歩で土手を登り始めたときだ。笹や羊歯の中にツユクサやアザミが生い茂り、かなりの期間、手が入れられていないようだった。
 シンジが最後に過ごしたであろう建物がどんな顔で迎えてくれるか、トオルは一歩進むごとに不安になった。風の音も鳥の声もせず、辺りはひっそりしていた。土手の切れ目が見えだし、苔むしたトタン屋根が視界に入ると、トオルは林に取り囲まれた擂鉢状の敷地に降り立った。
 山小屋は朽ちかけた廃屋のようになっていた。
 塗装もすっかり禿げ落ち、くすんだ板壁が過ぎ去った年月を物語っていた。鍵を開け中を覗き込んだ。人気のない静寂が津々と漂ってくる。築十九年のはずだが、つくりの粗さと気象の厳しさが影響してか、内部も相当劣化しているようだ。特に床板は足を踏み入れると大きく軋み、所々、今にも抜けそうなほど湾曲した。
 カーテンを開けてみた。
 森に残っていた日差しが入り、いくらか明るくなった。
 一階を見渡しても寝具や服が見当たらず、ロフトへ上がってみた。杉の角材でつくられた梯子に一歩一歩、慎重に腕と足をかけ体重を載せて行くとなんとか支えてくれた。最後は両手を直接ロフトの床に伸ばし、一気に肘を引き体を持ち上げた。紺色の絨毯が敷かれた奥に布団が畳まれ、部屋着らしい綿の上下がハンガーに掛けられ、柱にぶら下がっていた。小さな三段のプラスチックの衣装ケースと本も数冊置いてあった。隅々にまだシンジの匂いや体温が残っているようで、今にも姿をあらわしそうだった。胸苦しさとともに無力感が襲ってくると居たたまれなくなってきて、そのまま梯子を下りた。
 そんな中、目が向いたのは、やはりピアノと置物だった。ピアノは茶褐色のアップライトで、置物はその右横に五十センチほど離れ埃除けのチェック地の薄めの布が被せてあった。トオルがそれを初めて目にしたのは二回目に来た小学四年のときで、木彫りであることは覚えていた。当時、高さはトオルの身長くらいだったが、今は胸にも届かなかった。
 ゆっくり布をめくってみた。
 艶は消え、所々、染み出たヤニが赤黒く血糊のように固まっていた。光沢のないせいか鑿の跡が鱗のように浮き上がり、槌の加減も微細に違っているようだ。節の膨らみをうまく使い、上部は前に少し突き出し、今見れば稚拙なデフォルメ感が否めないが、あの頃は口を広げた獣か妖怪に見え、どこか薄気味悪かった。当時、シンジはまったく置物の話題に触れず、説明もしてくれなかった。  
 全体を見ようと後ろへ目を移した。
 真ん中ほどの位置にガムテープが斜めに半周ほど貼られていた。干乾びて粘着力が弱まったせいか、所々水疱のように浮き上がっている。
 おそらく最初は木肌と馴染み違和感がなかったのだろう、トオルにはまったく記憶になかった。
 指で押さえると爪が入るぐらいに陥没していた。気になり剥いでみた。組成が脆くなり、途中で一度裂けてしまった。それでも隠れていたものが露わになるにつれ、トオルの眼差しは釘付けになった。
 電動鋸のような刃先で斜めに深く抉られた跡が残っていた。切断しようとしたのか、無造作に途中で止められたようで、それが却って痛々しさを増していた。
 俄かに置物を中心に部屋全体が違った色に染まって行くようだった。
 トオルは一旦布を元に戻し、気分を変えるため今度はピアノの蓋を開けてみた。ところがそこにも、仰天させるものが待っていた。
 黒鍵と白鍵が濃い油性の塗料で塗り替えられていた。あれほど幼い日にこだわっていた黒と白の逆転した世界がそこにあった。
 強烈な既視感と錯誤感が襲い、一瞬たじろごうとするのを抑えながら、体の奥に微細なふるえが起こった。
 まるで見えないロープのようなもので螺旋の世界へ引きずりこまれているようだ。どうしてこんなことをしたのか。考えようにもぐるぐると頭が空回りするだけで、黒白の織り成す模様をただ茫然と見ているしかなかった。
 どれだけたったか。
 余りの不意の出来事に気を取られ、目を向けなかったピアノの横に小さな棚があり、紙の束が詰め込まれていた。トオルはいくつか引き抜いてみた。譜面だった。コピーしてきたものを切り貼りし巻紙のように貼り付け、どれも広げれば横一列に見渡せるようにしてあった。音符にはすべて階名が仮名でつけられ、制作した年月日が記されていた。
 トオルは、次々と床に敷いてみた。
 洋曲のジャズやポップスが大半を占め、一緒に暮らしていた頃、ピアノ教室ではもちろん、アパートでもクラシックがいつもかけられていたことからすると意外だった。
 一番古いもので十六年前の九月九日につくられていた。破損も酷く、セロテープで何度か補修され、題名や音符が所々剥げていた。一番新しいのは、ビートルズの『ヘイ・ジュード』が二か月前の九日につくられていた。他にも『レット・イット・ビー』『ノルウエイの森』といったいかにもピアノ曲のナンバーや、レイ・チャールズにビリージョエルといった弾き語りに加えクイーンの『ボヘミアン・ラプソディ』もあった。
 そしてサム・クックの『ワンダフル・ワールド』にジョン・レノンの『イマジン』
 クラシックはベートーベンの『月光』に始まり、ショパンの『別れの曲』、リスト『ラ・カンパネラ』。ジャズではセロニアス・モンク『ラウンド・ミッドナイト』、ビクター・ヤングの『マイ・フーリッシュ・ハート』これは括弧書きでビル・エバンスものと記されてあり、マイルス・デイビスの『マイルス・トーン』にマル・ウォルドロンの『レフト・アローン』と続いた。デューク・エリントン楽団の『テイク・ザ・Aトレイン』に至っては即興の部分も含め、楽譜はトオルの背丈と同じくらいの長さだった。織り目は切れかかり、ブルックリンからハーレム、マンハッタンへとパンタグラフに火花を散らした地下鉄が走り抜けるには心細そうだった。
 数えると全部で五十四曲、居間の三分の一近くを占めた。
 仮にピアノを弾くため作成されたとして一年で四曲、三か月に一曲こなせば十六年かかる。もちろん、初心者のシンジが誰かに習ったとしても、それらを弾けたと考えるのは無理で、特にクラシックなど不可能だったはずだ。それでも、階名が打たれた楽譜の中でも、『ラ・カンパネラ』の最終章は、僅かな隙間に鉛筆でぎっしりと書き込まれ、感動的ですらあった。もしかすると父は仮名をふることで演奏した気になっていたのかもしれない。そんな憶測が胸を過ぎると、一音符残さず、独自の楽譜がつくられていった理由がわからないでもなかった。
 自分とピアノとの出会いはいつだったろう。トオルはふとそんなことを考えていた。
 振り返れば物心ついたときには、いつも里子のピアノ教室にいたような気がする。教室はアパートから一キロほど離れた通りに面し、幼稚園のバスから降りるのも、小学校へ上がり真っ先に帰るのもそこだった。防音の扉の向こうには、いつも里子お気に入りの重々しい交響曲かレッスン生の練習曲が響いていた。当然、生徒とも親しくなり可愛がってもらった。ただ熱が出て園を休んだときや発表会など里子が急用でいないときはシンジが傍にいてくれた。
 夕飯はシンジがつくって来ることもあった。三人で食べたり、シンジだけ口にせず先に帰ることもあった。
 両親が離婚したのはトオルが小学一年に上がったときだ。理由を聞いた記憶があるかないか。よく覚えていない。いや疑問に思うぐらいだからやはりあるだろう。
 ジュリアン・レノン。
 ジョンとシンシアとの間に生まれた一人息子。
 ジョンはほとんど一緒にいなかったらしい。なぜか。当たり前だ。ビートルズ全盛で時間が許されなかった。それだけじゃない。幼いときから両親不在で伯母に育てられたジョンはどう接していいかわからなかったのだ。
 エディプス・コンプレックスならぬエディプス・エンプティネス。
 互いの空虚と空虚の重なり合い。
 トオルの場合、仲が悪いんだろうくらいに思った。
 姓を変えると教室の看板もやり直さなければならないからしばらくそのままでいさせてと里子が頼むので、どちらでもよかったので合意した。
「お父さんとは好きな時、会っていいのよ」
 この言葉は大きかった。何だそうなんだ。急に気が楽になった。
「遊びに来ないかって言ってるんだけどどうする?」
 二年後、里子が、珍しく父親のことを話してきた。母親への気配りが生まれ、自分からはしないでいた頃だ。
「せっかくだから、行ってみたら」
 里子に後押しされる形で三年と四年生の夏休み、小屋が完成した翌年から二度、トオルは一週間ほど過ごした。
 山小屋でのことをトオルは、今でもはっきり覚えている。
 初めて来たとき、軽トラックの助手席で前方の山道を見ながら、久しぶりに父と過ごせる喜びと人気のない静まり返った雰囲気に不安を感じた。
 陽射しが木々で遮られ、夏だというのにひんやりし、たまに、これまで耳にしたことのない鳥の鳴き声がした。羽ばたきとともに梢が揺れ、枝を伝うのがわかった。
 車窓から道沿いの土手を覗くと、濃い紫色の変わった花が何本も咲いていた。シンジはわざわ ざ車を止め、正式名はマムシグサで、地元ではヘビジャクシと呼ぶと教えてくれた。コブラの頭のような部分は花びらでなく葉で、ここへ小さな虫をおびき寄せ落とし込み、食糧にするらしい。外皮を毟り、ここが花だと小さい粒がびっしり詰まった芯も見せてくれた。トオルも車から降り、掌で触るとトウモロコシの表面のようにザラザラしていた。
 説明し終えたシンジは立ち上がり、摺り足で左足を前へ出しながら脇を締め、空手の中段受けのような構えをとった。
「トオル、見てろよ」
 腰を落とし、気合を入れるつもりか奇声を上げ、マムシグサ目がけ蹴りを入れ始めた。ヘビの胴体のように黒い斑模様の入った茎は、あっけないくらい簡単に折れては飛び散った。面白そうだったのでトオルも真似し、苞を目がけ蹴り上げた。靴先に柔らかな感触が伝わり、残骸が数メートル先までゴムの破片のように点々となった。
 汗ばむほど蹴りつづけた後、火照った体で再び乗車し、最後に降りたのは二本の欅のある場所だった。そこからは徒歩だった。必要な水や食料を背負い意気揚々と歩くシンジの後ろをトオルも覚束ない足取りで付いて行った。起伏に富む二百メートルほどの道を必死に歩くうちに、到着する頃には不安はいつの間にか消えていた。
 小屋を初めて目にしたとき、人知れず建てられた謎の秘密基地めいてワクワクした。
 居間は真っ白い壁に囲まれ、目にした置物も変わった形に見えた。どこか人寂しくて、気を紛らわすためよくピアノを弾いた。発表会のために習っていたものやディズニー曲が主だった。もちろん、当時、鍵盤も普通の色の配置だった。
 食事はシンジがつくってくれた。
 トオルが麺類が好きだったので、細切りの卵焼きやキュウリを添え、中華そばやソーメンを出してくれた。
 日が暮れると、網戸の破れ目から虫が入ってくるからと一階に蚊帳を広げ、布団を並べた。高度や樹種の関係でカブトムシやクワガタでなく、カナブンや真っ黒なカミキリ、枝毛のような脚で覆われたゲジゲジ、それに何度嗅いでも吐き気がしそうな匂いのカメムシといった、トオルには、ほとんど魅力を感じぬ虫ばかりがやってきた。シンジは殺すことはせず、まるで言葉が通じるかのように一匹ずつ話しかけ、素手で払ったり指で摘み上げ、外へ投げ捨てていた。
 夜の帳に包まれ、秋の虫の音が聴こえ出す頃、流れ星が闇を横切った。寝たまま縁側に目を向けていたトオルは興奮し、天空を指差した。シンジは残念そうに首を振り、人工衛星だと教えてくれた。
「あんなところから電波を飛ばしてんだね」
「地上といろいろやりとりしてな」
「じゃあ、ここにいるのもバレてるかな」
「そうだな。マムシグサを蹴ったことも全部わかってるかもしれないぞ」
たわいない会話だった。
 会話に、たわいないも、ある、もあるのか。
 たわいない中に頑固や適当や屈折や不安や疑問や思いやりや憎しみや哀惜や怒り、その全てがある。
 自明の事実。
 マムシグサを蹴った感触。
 向こうは二人の存在を知っていたか。
 蹴られ、なじられ、放逐され、無視されたことに対して。
 だが植物に意識や感覚を求めること自体、極めて最大の虐待に近いだろう。
 それよりも人工衛星から捉えられた画像に、地面から這い出る植物から見た天空と地上との誤差を捨象した陰影がどれだけ克明に映っていたか、そちらの方が重要かもしれない。
 実像と現象の不確かさの差をどこまで詰め、修正していくのか。
 道端に点々と散らばった花弁に、今日もまた夜露が落ちている。
 山小屋でのひとときも、小学五年から部活でサッカーを始めると練習や試合で忙しくなり行かなくなった。
 六年になったトオルはピアノまであっさり止め、教室にも顔を出さなくなった。
 食事は里子が用意したものを一人で食べたり、簡単なものを自分でつくって済ませた。シンジからの連絡も週に一度が二週間に一度、やがて月に一度に減り、中学に入った頃には、季節の変わり目や学年の始まりに様子を尋ねるくらいになった。
 食べ物の番組に刺激を受け、見よう見まねでパンを初めてつくったのは高一のときだ。
それまでパンは店にある食パンや調理パンばかりと思っていたが、番組では世界にはいろんなパンがあることを紹介していた。例えば砂漠を旅するベドウィンは、小麦粉に塩と水だけを混ぜ、平らにしたものを乾燥した駱駝の糞を燃やし焼くことを知った。 
 それから次第にパンに興味を持ち、発酵に必要なイーストも、リンゴの芯や干しブドウを砂糖水に漬け何日かすれば天然酵母ができることを本やネットで学んだ。果物がいいと言うので早速、身近なものでやってみた。バナナや梨、苺、果ては蜜柑の皮まで試してみた。すると最初うまくいかなかったが少しずつ成功するようになり、発酵に必要な温度と湿度も炬燵と霧吹きでやってみると、ゆっくりではあるが充分に膨らんでくれた。
 気がつけば、パンをつくるたびに仕事から帰った里子に試食してもらい、その日のイーストのタネは何か当ててもらうのが習慣になった。
「不思議な味ね」
 まず、自分の味覚を確かめるように二度、三度噛みながら考え込む。
「今日はね、ちょっと変わったものからつくってみたんだ」
 すると決まって首を振り、降参の合図を送ってきた。
「ジャガイモだよ」
「そういえば、ポテトサラダみたいな味がするわ」
 実際にそう思っているのか、感心しながらまた一口齧ると、疲れて眠そうな声でこんなことを言うのだった。
「トオル、あなたはいつかドイツへパンの修業に行ったらいいわよ。向こうはパンとジャガイモの本場なんだから。ついでにお母さんの分までクラシックもしっかり聴いて来てちょうだい」

             四、腐葉土

 市街地は既に夕暮れていた。
 車も増え、道路際にはビルやけばけばしい看板が色とりどりのライトに照らし出されていた。交差点も多くなり、死角から飛び出してくる歩行者や自転車にも一層注意を払わなければならない。たまに街路樹が視界を掠めても、ひっそりと暗い影をたたえ、ほぼ同じ背丈で均等に剪定された佇まいは、冬とは言え様々な雑木の差し交す枝で鬱蒼としていた森とはまるで違う。
 ミチにはそれら風景の一つ一つが、わずか数時間前の出来事を遠い過去のように思わせてくる。
 フロントガラスの真ん中付近まで聳える高層ビルの向こうには、そこだけが森と繋がっていることを証明するように宵闇の中で一線を画すように、所々黒雲を滲ませた灰色の空が広がってる。ミチはウインカーの動作とともにハンドルを右へ切った。
 あの日、ミチが薫に誘われるまま、今とは逆に森へ向かったときも、空には重たい雲が垂れ込めていた。
 予報ではその年最初の寒波の到来が告げられ、肌を刺す冷たい風が吹いていたが、ミチの気分はむしろ、久しぶりに懐かしい場所へ向かうことで高ぶっていた。
 午後二時ごろに出発した。
 街中を抜け郊外へ出るとベッドタウン化が進み、間取りの同じ建売住宅が規則正しく軒先を並べている。コンビニやディスカウントの大型店舗もちらほら目につくようになっていた。それでも、そこを過ぎるとさすがにかつてと同じのんびりとした田畑の風景が心を慰めた。なだらかな上りの道路に根気よく付き合うように単線の鉄道が杉木立ちに見え隠れしながら顔を出してくる。やがてそれと交わる踏切があらわれた。
「二番目のカーブ・ミラーのところで待ってて」
 線路先で一旦車を停車させ、携帯から連絡すると、薫の陽気な声が返ってきた。
いよいよ八年ぶりに対面するのだ。夫婦で来た場合に備え、夫のことを思い出していた。一度会ったことがあった。学校の飲み会で薫を送迎した折り、彼女にもにこやかに挨拶してくれ、いかにも温厚そうだった。
 十分ほどして、甲高いエンジン音を鳴らし一台の軽トラが後ろで止まった。運転席から野球帽を目深に被った男が素早い身のこなしで降り立ち、小走りで近づいてくる。明らかに夫ではない。急いで窓を開けると、長身を屈めはっきりと通る声で尋ねてきた。
「松崎さんですね」
 意表を突かれたミチは、黙って頷くのが精一杯だった。
 痩せぎすで顎と鼻の下に薄っすら無精髭があった。肌の色が浅黒ければ精悍に映っただろうが、どこか仄白く、アンバランスな感じを与えていた。
 丸メガネはかけていない。
 長髪でもない。
 歌を口ずさんでもいなければ、辛辣なアイロニーも発さない。
 ある人物をある人物でないと否定し、ある人物と肯定する根拠はどこにあるのか。
 容姿や外形、思想、宗教。
 そんなものではない。
 生きていることと死者との区別もどこにあるかわからない。
 残るはすなわち、これ、
 勘。
 彼は、ジョンではない。
 年齢はミチと同じくらいか。裾がよれるまで着古したカーキ色のジャンバーと色落ちしたジーンズ、それに泥で汚れたナイロン地の登山靴のようなものを穿き、いかにも人里離れた所から来た感じだ。
「戸田さんの友人で案内するよう頼まれた者です。後ろを付いて来てください」
「わかりました」
 返事を聞くや、相手はまた小走りで車へ戻って行った。
 軽トラが自分の前に出るまでの間、ミチは今会ったばかりの男を以前、どこかで見た気がしないではなかった。まさか、と思いつつ、まずは運転に集中することにした。
 カーブ・ミラーを左折し、路地のような道に入った。塀や垣根越しに肩を寄せ合うようにして小さな集落があり、やがて民家が疎らに散らばりだすと屋根瓦も消え、遮蔽物のないすっきりとした農道になった。
 稲刈りが終わったままの田んぼと褪せて黄色く色づいた葉を垂らした大豆畑が長閑に広がっていた。
 トラックがゆっくり走ってくれたおかげでミチも余裕が持てた。
 荷台には自転車が横倒しにされ、赤い毛布に包まれたひょろ長いものが隅に寄せられていた。透明なポリタンクと肥料袋が隙間に押し込まれ、カーブで車が傾いでも、ほとんど動かなかった。やがて田畑も過ぎ、こんもりした林へ入ると再びウインカーが左折を示した。直進に気を奪われていたら見落としかねない曲がり口からバンパーが咥え込まれるように回り込んでいく。
 路面もコンクリの荒打ちで普通車が一台通れば一杯一杯の幅だ。ミチも慎重に付いて行った。
かなりの傾斜だった。目線より下だった左右の土手が、次第に景色が見えないほど高くなり、笹林や草地が隧道のように覆い出した。
 こんな場所に店など本当にあるのだろうか。
 次第に不安が募り窓を少し開けてみた。冷たく湿った風が車内を満たし、こちらで勤務していた頃、たまに真っ直ぐ家に帰る気が起きず、今と同じようにぼんやりドライブしていた頃を思い出した。  
 一キロほど走っただろうか。
 左右の土手が再び低まり、赤土から黒っぽい色へと変わった。道もやや平坦になった。二本の欅が聳える土を均しただけの更地に軽トラが停車し、ミチも続いた。
 男が降り立つのに合わせ、恐る恐る外に出てみた。
 郭公の鳴き声がする。
 足元には色づいた欅の葉が落ち、黄色く染まっていた。幹は大人二抱えはありそうで、ざらざらした木肌に毛羽立った蔦を絡ませ、木漏れ日の中、濃い陰影を晒していた。傍に原付スクーターが一台止めてあった。風除けのフードは埃まみれで、タイヤも摩耗し、相当走り込んでいるようだった。
 建物らしきものは見えず、目の前の土手に踏み固められた小道が際へ続き、周辺の草が邪魔にならぬくらいの高さに刈り取られていた。
 男は助手席からアルミ製の背負子を取り出し、ポリ缶をベルトで結びつけた。
「あのー、お店って」
 遠慮深げに尋ねると、猫背になった体をこちらへ向け、
「もしかして彼女、店って言ってるんですか」
 怪訝そうに口角を横へ引き伸ばした。
「自然食の店を始めたから食べにおいでって」
 すると男は呆れたように「まあ、見ればわかりますよ。どんなのかは」苦笑しながら、「もうすぐですから」と歩き始めた。
 紅葉した楓やブナが適度な間隔で生え、枝葉が重なっていないせいか暗い印象はない。それでももし、彼女に一人で歩けと言われれば到底無理だったろう。   
 土手には起伏があり、ちょうど駱駝の瘤のようになっていた。
 歩いて五分ほどたったときだ。
 視界の先が急に落ち込み、陰から黒い波板のトタン屋根の先端が見えてきた。あれに違いない。そうミチが確信した瞬間、下草の中に無造作に放置された丸太の切れ端の陰から突然、鴉が飛び立った。翼を広げゆっくり羽ばたき、どすの効いた声で群れと呼び合っている。
 郭公の囀りも頻繁に聞こえ、そこが紛れもない森の奥であることが伝わってきた。
「滑らないよう気をつけてください」
 男は、一度、背負子を担ぎ直すと前向きで器用に足を運んでいった。一歩動くごとにポリ缶の中身がたぷんと揺れた。ミチも相手の足場をしっかり目で追い、下って行った。
 建物の全貌も見えてきた。思っていたほど大きくない。五十平米あるかないかの木造の平屋だ。玄関口には縁側から下屋根が伸び、柱の長さが不揃いなせいか真っ直ぐなっていない。サッシはなく、引き戸や縁側の窓も全て木造りだが、羽目板や木枠のあちこちに僅かな隙間が見える。玄関に敷かれた煉瓦も目地が広すぎたのか、モルタルが所々はみ出したまま固まり、お世辞にも立派とは言い難かった。
 土手際に薄茶色の防腐剤で塗装された大人一人が入れるくらいの小屋があり、外壁に赤錆びた軽油のドラム缶が置いてあった。
「あの中にディーゼルの発電機があってポンプで水を汲み上げてるんです。生活で必要な電気も起こしてます」
「じゃあ、それは」
 ミチが背中のポリ缶を指差すと、
「この辺りの地下水はフッ素が強いんですよ、だから、飲み水だけは持って来てるんです」
 そんな話をしていると、南に面した縁側から人影があらわれた。
「いらっしゃい、よく来てくれたわね」
 薫だった。数年ぶりに目にする彼女は、体全体の線が細くなり、随分痩せたように思えた。紺のダウンベストの下に白のタートルネックとスリムなジーンズを穿ていたせいだったのかもしれない。
「お久しぶり。お言葉に甘え、来ちゃった」
 突然の出現に多少うろたえながらも喜びは抑え難く、満面の笑顔で返しながら「けっこう山奥だったのね」弾んだ声で言った。
「驚かせてごめんなさい。何の説明もしてなくて」片方の瞼をつぶり、研修会を抜け出ていた頃のいたずらっぽい顔で笑ってみせた。
「とにかく中へ入ってちょうだい。今日は早くから食事の準備をしてたのよ。この家ができて初めての大事なお客様だから」
 六畳ほどの土間はコンクリで、右奥では薪が積まれた木箱の隣に耐熱煉瓦の竈がつくられ鍋を炙っていた。その横に食器棚と冷蔵庫、それに手前に屋外で使うような一槽で水切りのついた流し台と一口コンロの載った木製机があった。机の下は布切れが押しピンで吊るされ、隙間から青いガス管で繋がれたボンベが見えた。
 一通り眺めていくと、一番左奥にいかにも適当に板を繋ぎ合わせた扉があった。
「そこはトイレ。昔式のポットンだけど、きっと懐かしいわよ」
 浴室はなく、麓の天然の露天風呂に行けば只だと話した。
 隣の部屋は壁と開き戸で敷居られ、板の一枚一枚はビス留めで、外観と比べればわりと小奇麗につくられていた。
「とっても素敵なお家ね」
 少し大袈裟に誉めると、薫は男の方を見、「この人がほとんど自分でつくったの」にんまり嬉しそうに顔をほころばせた。それまで二人から距離をとり、やりとりを黙って聞いていた男は照れたふうでもなく、額に皺を寄らせ、「正確には一人ってわけでもないんですけどね」言い直すのに飽いたげに言葉を吐いた。
 ポリ缶を流しの上に置いた男は薫の横を素通りし、隣のフロアへ続く扉を開けた。
 十二畳ほどだろうか、土台に根太が敷かれ数十センチ高まっている。所々摩耗した杉板がびっしりと貼られ、天井も土間と比べれば立派な梁が横に二本と縦に一本入っていた。奥はロフトになっていて、右側に梯子が掛けられ、真下では外壁へ煙突を伸ばした薪ストーブが煌々と炎を燃やしていた。
 一歩入り、前方を取り囲む壁を見た瞬間、ミチは思わず目を奪われた。波のようなうねり模様の漆喰が壁面から浮き上がらんばかりの迫力で蠢いていた。見ようによっては白濁した沼で生き物がもがいているようだ。
「あなた塗るとき、取り憑かれたようにやっていたものね。漆喰は、プロの人の二倍は使ったって言ってたし」
 いつのまにか息を呑むように見入っていたミチに、薫が当時のことを説明しても、男は頓着せず、自分の役目は済んだとばかりに土間へ下りて行った。ミチが動きを追ったとき、これまで気づかなかったベランダ側の壁際に深みのある茶褐色の木目を浮かべたものが目に入った
「ピアノ……」
 ミチが小声でつぶやき、数歩近づくと、「ああ、これね、私の唯一の財産かな。でもあの人、ここにピアノ置くの最後まで反対したのよ。元奥さんはピアノの先生だって言うのに。あっ、だからかな」
 さりげなく答えた薫は、場の雰囲気を変えるかのように日除けのレースのカーテンを開けた。
 さっき歩いてきたばかりの土手があらわれた。ミチは感嘆の声を上げた。
「この景色が気に入って、ここに決めたの」
 楓が真ん中に一本と端に上下に分かれそれぞれ一本ずつ黄色や赤紫の葉を梢の先に散りばめていた。色だけでなく幹の太さや高さまでコントラストをつけ、歩いて来るとき目にした大柄な檪やトチノキ、それに杉やブナが、まるで今年一番の景観を振る舞っているようだ。
「日照時間が短くてね、作物はなかなか育たないんだけど、下草があまり生えないぶん木にはいいんだと思うわ」
 景観。
 誰が名付けたか。
 いつ立ちあらわれたか。
 美しさの積み重なり。
 美と醜のコントラスト。
 木の葉一枚一枚の生命の彩りと影。
 ダコタ・ハウスから見下ろすニューヨークの町並み。
 遥か遠く聳え立っていたであろうツインタワー。
 潰えきった影はマンションの窓に映ったか。 
 通りを急ぐ歩行者の見上げる視線の先の高級住宅。
 刻まれた外壁の模様にどんな風景を醸すか。
 景観。
 確かに整地された前庭の奥に学校の砂場程度の畑地があったが、これと言った青葉は見当たらない。 
「この家ね、解体材でつくってるの」
「解体材?」
「タイミングよく壊される民家があってね、そこから只でもらってきたの。だから、ほらね」
 漆喰壁から半分顔を出した間柱を掌でそっとなぞった。十センチ四方のほぞ穴が残っていて、あちこちに削った跡がある。
「断熱材やシートをホッチキスで留めるから針だらけでね、それで少々荒療治だったけど鑿で削っていったの。釘もたくさん残ってて一本一本、抜いていかなくちゃいけないのよ」
 ミチと薫は、窓際にある木製の丸テーブルの木椅子に腰かけた。
「置いてある家具も、廃業したペンションや知り合いからもらって来たものばかりよ」
 テーブルの縁を愛おしむように、薫は撫ぜていた。
 ガラス窓が、何かの弾みでガタガタ音を立てた。少し風が出て来たようだ。曇の向こうで太陽がさっきより沈んだのか、植物が呼応するように翳り、立体感を失ってきた。だが、それも数分だった。突然、ざわめく風の音や梢の揺らぎがなくなると目の前が反転したようにセピア色へ変わり、鼓動までぷつりと止まったように静寂が訪れた。
 太陽が樹木の中へ沈み込むほんの僅かの間の微妙な風景らしい。
 景観。
 姿を消していた男が土間から緑のティー・カップを三つ、受け皿と一緒に木彫りのお盆に載せ持ってきた。甘いハーブティーの香りがした。
「自己紹介でいいわよね」
 薫が促すと、男はしぶしぶと言おうか、諦めたような口調で帽子を脱ぎ、名を告げた。
「木村シンジです」
 ミチはそのとき、やはりそうだったかと、予期せぬ出来事に驚いた。胸の内がざわつき、仄かに熱を持ったものが体全体に満ちて行くようだ。だが二人に気取られぬよう、できるだけ平静を装い紹介した。
「松崎ミチです。こちらの小学校にいたとき、薫さんには大変お世話になりました」
 薫は補足せず、黙っていた。
 夕暮れを迎えつつある森は相変わらず静かで、ストーブにくべられた薪が崩れ、炎が大きく揺らぐのをミチは、カップを手にどこかそわそわした気持ちで上目づかいに見ていた。

             五、地衣層

 山小屋で楽譜を広げ一つずつ眺めているうちにトオルは、少し普段の気分と感覚が戻ってきた。
 置物の傷や鍵盤の変化は思いがけなかったが、家具や小屋のどこかしらが記憶にあるもので、馴染み深い風情や匂いを醸していた。
 今では遊び程度しかやらなくなったピアノを弾いてみることにした。
 改めて鍵を見ると、色が入れ替わっていることに思わず苦笑してしまった。まるで光と闇が裏返った世界へ迷い込んだみたいだ。
 ピアノの置かれた周辺の床は補強もなく、立ったまま足裏で蹴ると根太がぐらつき、押し潰れたような鈍い音を立てた。
 慎重に椅子に腰かけ、一番古い楽譜を適当に指を動かしやってみた。なぜかそれだけ市販の五線譜ノートに手書きで音符を書いたものをそのまま切り張りし、曲目も書いてなかった。
 はっきりわかるところだけ辿って行くとメロディーがつかめてきた。ゆったりとした静かな曲だ。おそらくシンジのお気に入りなのだろう。何小節か進むうちにどこかで聴いた気がしたが、思い出せなかった。
 ピアノの勘がまだ充分残っていることを知り、他の曲も弾きたくなった。CDも一緒にかけ伴奏してみようと電気を起こしに小屋へ行ってみることにした。
 朽ちた戸口には蜘蛛の巣が天井からつららのようにぶら下がり、髪にかかった。しゃがんで発電機の燃料タンクに目をやった。まだ半分近く黄濁色の液体が残っている。腰を屈め、シンジから教わったように燃料コックを捻り、コイルを引いてみた。変化はなく、チョークレバーを思い出し、指で摘まんで再度試すと引火しかかったトルクの振動が数秒起きた。子どものときと違い、反動で引き戻されることもなかった。もう一度やると唸るような音を立て蒸気が吹き出した。レバーを元に戻し配電盤のブレーカーを上げると電燈が仄かに灯った。浮き立つ気持ちを抑えつつ、早速、山小屋へ戻りラジカセのスイッチを入れた。何にしようか迷ったがビートルズの青版を選んだ。

 ヘイ・ジュード
 
 ジョンが息子ジュリアンへの思いを込めつくった曲。ジュリアンの肩の力は抜けたか。空洞は埋めれたか。背負っていた寂しさや苦しみは慰められたか。
 だが多くの曲想や絵も本人が本人のため描くのだ。
 ジュリアンではない。
 ジョンへの癒し。
 ジョンの魂。
 ア・イ・ソ・レ・イ・シ・ョ・ン
 楽譜を見ながらFの転回形のラドファを叩いてみた。ラの両端と、ドとファはそれぞれ右上に白鍵がきている。黒鍵だと、白鍵の圧迫を感じるのはG、B、Eのフラット、それにCのシャープだ。Eのフラットを基点に叩けば、Eフラットマイナーセブンを弾いていることになる。
 だがそれも、トオルの勝手な思い込みのようだった。
 色を入れ替えても結局、動かないのは前後の配置と起伏の構造で、表面的な色彩に慣れてしまえば、さほど難しいことではなかった。
 気を楽にして、C、Cセブン、F、Bフラットと黒鍵と白鍵を跨ぐコードに入ってみた。二度、三度、繰り返し同じフレーズを叩いてみる。
 ポールが、ジョンが、リンゴが、ジョージが合唱するサビの部分、FからEフラット、Bフラットへと移行する激しくシャウトする場面だ。すると、指先から掌、肘、視覚に微妙な変化が訪れた。聞き馴れたリズムが底潮のように溢れ、変わらぬと思っていた鍵盤の凹凸や前後の位置関係がスライドのように移動したのだ。
 まるでピアノの後ろからキーを叩いているみたいで、自分の体がハンマーや弦の一部となり、向かい側から弾いている倒錯感が襲いだした。
 メビウス、DNA、ウラボノス、修正第二条、生、死。
 最初、物珍しく不慣れな体験からくる錯覚と思ったが、やがてはっきりとした感覚になり、興奮は増していった。しかし、ほぼ同時に指を離すと、演奏を止めてしまった。
 噎ぶような感情が込み上げ、胸が張り裂けんばかりに一杯になった。無理して抑え込もうとすると全身の血液が逆流し、細胞を捻り潰しそうだった。
 風が壁の隙間から唸るような音を立てていた。
山小屋を出たトオルは、警察署でシンジの納棺を済ませ、ネットで予約しておいた一番近くのビジネスホテルに泊まった。
 翌朝、灰色の雲は相変わらず重たく覆い、底冷えした天気だった。山の方ではそろそろ雪になるだろうとチェックアウトの際、フロントマンが教えてくれた。
 簡素な霊柩車の後ろに連ね、警察署から火葬場へ到着すると、既にミチがやって来ていた。いつのまに聞きつけたのか、区長と民生委員も律儀に顔を出してくれた。二人とも女性で、十七年前の戸田薫の事故死も知っていて、彼女とはたまに山菜採りに行ったり、野菜をあげる仲だったそうだ。
 右足を引きずった体格のいい初老の男性も悔やみの言葉を言って来た。今回、様々な情報をくれた吉田という人物だとミチが紹介してくれた。木工所を営み、シンジはそこで働いていたそうだ。ここ数か月、腰を悪くして工房を閉じている間に起こった出来事に意気消沈している様子だった。それでもトオルの顔が出会った当時のシンジに似ていると笑みを浮かべ、眼差しにはミチとトオル、シンジを憐れんでか長く生き別れた親子を見ている節さえあった。
 他に数名、仕事先の顧客が来てくれていた。シンジが家具作りより、廃材や間伐材を使った木彫に優れ、独特のものをつくっていたことを手柄話でもするように教えてくれた。
 火葬を終え、白布で包まれた骨箱を手にしたトオルの隣でミチがあれこれ気を回し、参列者に返礼品を配り始めた。
「余計なお世話かなとは思ったんですけど」
 会ってすぐ、黒紙で包装された小箱を見せられたときはさほど役に立つとも思わなかったが、いざ、この時になってみればそれなりの人数がいて、機転の早さに助けられた気がした。
 帰りにミチの誘いでペンションの密集する地区にある和食レストランに入った。畳敷きだが、掘り炬燵のように膝が落とせ、足元には電気ヒーターと薄茶色の絨毯が敷いてあった。
 それぞれランチを注文すると、しばらく窓の景色をぼんやりと眺めた。
 紅葉を過ぎ、落葉した楓の根元に小石が積まれ、幅一メートルほどの水無し川のように蛇行した凹みがあった。夜になると明かりが灯されるのか、竹を割って細工した灯篭がそれに沿って数個置かれていた。
「こんなこと聞いて失礼ですが、お父様の遺骨はどうされるおつもりですか」
 さり気ない質問だったが、トオルにはむしろ最も知りたいことではないかと思った。
「父方の親戚とも相談しなければならないし。当分は、僕のところに置くことになると思いますが」
 小さく頷いたミチは、それ以上は聞かなかった。予想に反し、あっさり引き下がった相手に、むしろこだわったのはトオルの方だった。
「薫さんのはどうされたんでしょうね」
「えっ」小首を傾げ、掠れたような声を出した。
「昨日、ロフトにも一応上がってみたんですが、それらしきものも見当たりませんでしたし。でもミチさんに聞いても、しょうがありませんよね」
「あのときは葬儀はせずに、シンジさんが友人だけに声をかけて、あの小屋で質素な別れの会をされたんです」
「そうだったんですか」
 小さく返事すると、さも合点したように形ばかり首を動かした。
「私もその後、どう供養されているかまでは知りません」
「だったら、なおさらあんな二人だから、森の中にお墓をつくってることだって考えられますね」
 つい口を滑らし、ばつが悪そうに「すいません。奇抜過ぎて」一言謝り、下を向いた。
「いいですよ。私も似たり寄ったりの気持ちだから」
 お互い出会ってから初めて、気が合うように顔をほころばせた。
 打ち解けてきたこともあって、これまで避けてきた質問や話題に移った。
「実は僕は父の相手の、戸田薫っていう人には会ったことがないんです」
「写真だったらありますけど、見ます?」
 そう言って、首に手をかけネックレスを外した。銀の小さな本の形をしたロケット式のものだ。
「このネックレス、シンジさんから形見分けしてもらったんです」
 表紙でも捲るように蓋を開けると、写真が入っていた。山小屋の玄関先で撮ったものらしい。
「亡くなる一年前、彼女が四十四歳のときに、あそこへ初めて行った帰り際に、私が撮りました」
「交通事故だったんですよね」
「オートバイで飲料水を汲んだ帰りにスリップしたらしくて。知らせを受けたのは私でした」
「父はいなかったんですか」
 トオルが不可解な顔をすると「たまたま外出されてたらしいです」そう言って視線を外した。
 写真の薫はセミロングで毛先が肩口で跳ねていた。細面で肌艶がよく、実年齢より若い印象を受けた。両手で黄色のパンジーの小鉢を胸まで持ち上げていた。
「写真の右半分は切ってるんです」
 見入っていたトオルは、思いがけない一言に我に返った。
「だって」
 そこでミチはクスッと笑い、
「あなたのお父さんが猿のマネをしてるんですもの」
「猿? 父が……」
 トオルは信じられなかった。
「遺体を発見された方がおっしゃってたのは本当で、あの辺りには猿が出るんです」
「それで父が猿のマネを?」
「離れ猿が一匹、山小屋の近くに来てたらしくって、お父さんはツァラトゥストラって名前で呼んでたみたいですよ」
「ツァラトゥストラ……あのニーチェの?」
「ええ」
 ペンダントの写真をまじまじと見ながら、シンジのおどけた顔が横にあることがわかると、急にそれが違ったものに思えてきた。
 トオルは満を持したように置物とピアノが、今どうなっていたか話してみた。
 ミチは目を丸くし、まったく知らなかったと大層びっくりした後、
「私も、もっと様子を見に行ってあげていればよかったんですが」
 申し訳なさそうにうなだれた。
 トオルは庭園に目を向けた。人工的に盛土や立木された敷地がフェンスの中に広がっていた。
 漆塗りの御膳に載せられた食事は、ひと品ごと色や形の違った小さな器に盛られ、細く研がれた箸を動かすたびに意識がそこへ向けられた。

             六、裸地

 まさかあの日の山小屋の訪問が、薫だけでなく木村との再会にもなろうとは思ってもいなかった。
 教員時代の彼を最後に見たのは、彼女がこの地を去る一月前、郡内で研究授業の発表が行われたときだ。
 ミチはトオルと向き合い、ゆっくり前菜を口へ運びながら、そんなことを考えていた。
紀要の中から、ある授業テーマに引き寄せられ参加していた。教師も数年やっていれば次第に自分の課題もわかり、関係あるレポートへ目が向くようになってくる。
 薫とは別行動だった。
 彼女が一体どの分科会に行っていたのかも知らない。思えば二人の距離は、かなり広がっていたようだ。
 授業は質の高いものだった。
 一人の児童の生活文を皆で読み、詳しく知りたいところを訊ね、本人と一緒に推敲することでつながりが感じられた。
 授業後、活気の残る教室で研究会は開かれた。
 担当教師は、それまでとはまるで違いどこか気だるげに机に肘を置き、参加者の顔をぼんやり見回しているかと思うと、意見に対しては、相手の根拠の甘さを鋭く指摘し、厳しい口調で返していた。
 この人をこうさせているのは一体何か。
 ミチは教室に漂うもやもやしたような抑圧感にも耐えられず発言していた。
 児童の授業態度から感じたことや日頃の取り組みに対して質問した後、
「あのー、先生のお考えはよくわかるんですが、なんだかさっきとは別人のようで。私は、授業のときの先生が素敵だなあって思ってたんですけど。すいません、失礼なこと言って」
今思えばあまりに唐突で、場違いな感想だったかもしれない。会場から微かな笑いが漏れ、緊迫した空気は緩んだものの、せっかくの会に水を注すふうでもあった。ところが司会者と顔を見合わせた教師は苦笑し、
「僕もできれば子どもたちのときと同じようにやりたいんですけどね。まあ、大人の場合、いろいろありますし。それに皆さんもこちらから見れば、けっこうおっかない顔されてますから、お互い様じゃないですか」
 意に介さぬ物言いで返してきたのだ。
 ミチは、何の臆することなく率直に自分の気持ちを披瀝する教師に驚きを持った。そしておそらくそのような性向のため、日頃は他の職員と馴染まぬであろうことを想像し、逆にどこか親しみを感じたのだ。
 その後、学校の異動などで身辺も慌ただしくなり、その一コマも記憶に残りながらも、遠い地での思い出となってしまった。
 そんな相手と山小屋で向かい合うように座っていたミチは、自分から言葉をかけていたのだった。
「木村先生でしょう?」
「ええ…」
 相手は軽く頷くと、なぜか口ごもった。
 左の顳顬に血管が小さく浮かび、ぴくりと動いた。
「私のこと覚えてますか? 八年前、研究発表で変な発言した」
「もちろんです。車で見たときピンときましたよ。前にも後にも、あんなことを言ったのはあなただけですから」
 ミチは恥ずかしさで頬が熱くなった。
「あらあら、もうお知り合いだったみたいね」
 薫が紅茶を飲みながら交互に見た。
「この人は初対面のときから、僕の二面性を指摘してきたんだよ」
「えっ、そんな大袈裟な」
「冗談ですよ」
 人懐っこい目だった。
 二面性。
 果たしてそれだけか。
 三面、四面、五面……。
 人と人、男女にも被害者にも加害者にもある。
 切断面、差し替えられた面数だけ出会いと出会い、好意と偏見、愛と憎悪、殺す側と殺される側の論理が交錯し合う。
 表と表に表と裏、裏と表に裏と裏……。
 チャップマンにもモーテル管理人にも多数の面があり、ジョンにもサムにももちろんあった。
 両者の関係はいかに。
 無数の面と無数の面がどこかで出会えば、一方が一方に銃口を向け、引き金に指を置くことに
 なるのか。
 法。
 修正第二条。
 エロスとタナトスの橋渡し。
 生と死の欲動。
 関係がどうあるかでなく、むしろどうなかったかが問題だろう。
 無関係。
 永遠に、ずっと先まで無関係。
 それこそ透徹した無垢で危険な深い関係と言えまいか。
 木村は、会ってから初めて屈託のない笑みを浮かべた。
 薫も笑っていた。だが、それもほんの数秒だった。二人は黙り込むと外の景色をぼんやりと見つめた。
 樹木一本一本に夕暮れが忍び寄り、影を一段と濃くしていっていた。
「そろそろ発電機、動かして来たら」
「そうだな。真っ暗になったら、それこそ何もできないし」
「松崎さん、せっかくだから見学してきたらいいわよ」
 ミチは、木村の後ろを付いて行った。
 大人一人入るのがやっとの小さな建物だった。
 出口から首を突っ込み見学した。内壁の配電盤と発電機が黒くて太いコードで繋がられてい た。足元には縦横五十センチほどの丸いドーム型の圧力ポンプがあって、筒型の本体から吸水管が地下へ落とされている。反対側にも一本、山小屋への給水のためのものが地面へ続いていた。
 しゃがんだ木村は、慣れた手つきで燃料コックとチョークレバーを開にし、コイルの紐を二度引っ張った。小気味いいエンジン音とともに排気口から白煙が噴き出した。
 裸電球がぶら下っていて、配電盤中央のブレーカーを上げると薄っすらと灯りがともった。ポンプ下部についている排水口のバルブを捻り、赤く濁った水が流れ、しばらくして透明になった。
「これは鉄分で、二、三日飲んでもどうってことないんですけどね」
 そう言って、もう一度締めた。
 料理の準備も終わり、テーブルに並べる段になった頃には辺りはすっかり暗くなっていた。
「さあ、今日はどんどん食べてもらうわよ」
 薫は、招待した目的をたった今、思い出したように明るい声になった。今は食べるのがあなたにとって、最も現実的なことよ。すぐにもそんな台詞が聞こえてきそうだった。
 まず、カボチャのポタージュとワイン、それに冷酒が運ばれてきた。
「これが好きだったでしょう」
 冷酒の壜を持ち上げるとミチに微笑んだ。
「あっ、まだ聞いてなかったけど、もちろん泊まっていくのよね。ロフトはお客用にできてるの」
「まいったなあ。そう矢継ぎ早に進められちゃあ、断るに断れないわ」
 有無を言わさぬ運びにミチも気分はすっかり昔に戻っていた。
「ごめんなさいね。図々しいのは変わってなくて」
「じゃあ、ちょっと母に電話しとくわね。子どもを見てもらってるから」
 ミチが携帯を取り出そうとすると、山中からは電波の状態が悪いとのことで固定電話を借りた。
 連絡も無事すむと、三人は乾杯した。
「それじゃあ、親友との再会を祝して」
 音頭をとった薫の表情は悦に入り、木村と御揃いのワイングラスにはロゼが注がれていた。
「本当に、よく来てくれたわね」
 ミチが絵葉書を見た瞬間の気持ちをどう言おうか悩み、とりあえず唇に笑みを滲ませたときだ。土間から突然、風が舞い込む音が聞こえた。
「心配ないわよ、隙間風、隙間風」薫は部屋全体を見回し、「それからちょっとだけ揺れるけど、それも心配ないから」ミチの心理を先回りするように、あっけらかんと説明した。
ホームセンターにある基礎石のアンカーに柱を載せ、ボルトで留めただけだと言う。
「つくったのはいいけど、どのくらいもつか」
「二人が死ぬまででいいのよ」
 ミチは飄々とした会話が面白く、つい笑いそうになるのを我慢しながらカボチャのポタージュを一口含んだ。舌先にまろやかさが伝わり、優しく包んでいくようだった。
「これ、塩以外、調味料は使ってないのよ」
 薫がスプーンを片手に説明した。ポタージュがなくなるタイミングで、木村が土間から次のメニューに必要な食器類を持って来た。ポータブルのガスレンジに蕾んだ鍋が置かれていた。
「採れたての野菜をテンプラで食べてもらうわね」
 皿には水に溶かした小麦粉、それにつゆと塩もあった。
「お好みに合わせてつけてちょうだい。とくにお勧めはこの秋茄子かな。焼いてお醤油つけてもおいしいんだけど、テンプラにしたら最高よ」
 ミチも冷酒を口にした。
 秋茄子の他に色艶のいい茸に数枚の丸い葉があった。
「さっき裏から摘んできたユキノシタ。けっこういけるのよ」
 食事をしながらミチは、薫と会わなくなってからのことを考えていた。
 市内に移動してからというもの日々の生活に追われ、ゆっくり昔のことを振り返る余裕はなかった。今度、薫から絵葉書が届いたときも、現実的な薫が、いかにも現実的な理由と判断で店をやり始めたぐらいにしか思わなかった。ところがどうやらそれは見当違いだったようだ。ミチは酔いが少し回ってきたのを機に直接聞いてみることにした。
「薫さん、教師辞めちゃったの」
 不躾であることは百も承知だった。
「まさか」
 鍋に箸を立て油加減を見ながら首を振った。
「私が辞めたら、ここの建築やボーリングでかかったお金、どうやって払うのよ。でも、まあ、そろそろ潮時かなとは思ってるけど」
 木村の方をちらっと見た。
「だったら、ここの経営は?」
 さらに疑問をぶつけてみた。
「週末だけの完全予約で、気に入った人だけ呼ぶつもり」
 冗談ともとれる返事に、しばらく会話は途絶えた。
 やがて薫の方から「離婚はして、もう三年かな。元々が仮面夫婦だったしね」最初から話すつもりでいたのかさらっと言った。
「木村さんとは」
 ミチも薫に乗せられ、図々しく質問していた。だがそれには返事はなく、木村の方を見て、「自分のことは自分で話したら」ワインを一口飲んだ。
「僕は、五年前に教師を辞めたんですよ」
 それは、ミチの質問を無難に避けているとも言えた。五年前……、だとするとあの発表会の三年後ということになる。たぶん当時、三十そこそこだったと思えるが、一体、なぜ? 
「心配しなくてもいいわよ。松崎さん」
 ミチが黙っていると薫はつづけた。
「この人、今は麓の木工所で働いてるの。吉田さんって言う人がやってるんだけど、案外手先が器用で向いてるみたい。この小屋もね、ほんと言うと難しい所は吉田さんに教えてもらいながらやったの。だから最初の現場実習ってとこかな」
 薫らしい気配りが感じられた。
 山小屋は教師を辞めた二年後に着工し、去年の秋に丸三年で完成したらしい。ミチが部屋を眺めていると薫が「そろそろいいみたいね」そう言いながら衣を指で掴み鍋に落とした。衣は底に一度沈むとすぐに浮かび上がって小気味よく爆ぜ、瞬く間に黄金色に変わった。
「どんどん好きなのから揚げてって」
 シメジにシイタケ、ヒラタケと串刺しの茸が行儀よく皿に盛られ順番待ちしているようだ。揚げては白いキッチンペーパーの皿の上に盛っていった。
 テーブルには受け皿のついたおろし器と蓮根も用意されていた。
「こうやって擦ってね、ユキノシタで包んでから揚げるの。固い固いって思っているものも、やりかた次第じゃ柔らかくなるんだから」
 その台詞が木村を指して言っているようで、ミチはなんだか気の毒な思いがした。蓮根は山芋のようなとろみを出していた。
「なるほどね。薫さん、料理のセンス、前からあるよね」
 ミチが感心して言うと「あら、嬉しいお言葉、心にしみるわ。あなたを最初のお客にしてよかった」満更でもなさそうに笑った。
 次の野菜が揚がる間に鰹節からだしをとったつゆに大根擦りを入れ、椎茸を食べてみた。できたてのてんぷらは喉内を香ばしい熱気で満たし、歯を押し立てると濃厚でふくよかな菌類特有の汁が滲み出た。
「茸のことを、こっちの方じゃ『ナバ』って言うじゃない」
「うんうん」
 料理や食材のことになると、薫の口は一段と軽くなった。ミチは、そんな相手に熱さを堪えながら息を吐き答えた。
「これね、地元の知り合いのおばさんにもらったんだけど。私もナバ採りに連れてってくれませんかって一度、頼んだことがあるの。そしたら、娘にだって教えてない場所を他人のあんたに教えられるかってあっさり断られたわ」
「自生している所って、少ないんでしょう」
「そうなの。きっと自分が採っているのさえ、いつなくなるか心配なんじゃないかしら」
「それだけデリケートってことか」
「でも、採れたときは只同然でドサッと置いてってくれるから大助かりだわ」
 薫は木村に冷酒のお替わりを注がせた。風も冷たくなり、窓に結露ができていた。
 木村が二本薪を足した。
 斧で割られた木片は、暖炉の中で最初燻ったように白い煙を上げ、やがて一気に表面に赤い炎を立て燃え上がった。
 てんぷらもひととおり食べ終わる頃、お釜に入った御飯が出された。玄米にトウモロコシ、それに茶色い豆のようなものも混ぜて炊き込んであった。
「むかご御飯っていうの」
 座ったまま薫が、よそった。
「むかご?」
「そう。山芋の葉の脇に出る小さなオイモの赤ちゃんみたいなものよ」
「イボのようなものだな」
「うーん、そうねえ、まあ、イボだっていいとは思うんだけど」
「だったら、イボご飯って人にすすめたらどうかな。どうぞ、山芋のイボですって」
 木村は、挑むような口ぶりになった。グラスに自分で注いで飲んでいる。
「私は正確に言いたいだけよ。むかごなんだから、むかごでいいわけでしょう」
 薫も今日初めて語気が強まった。手にしたワインが揺れていた。
 二人はこんな些細なことからでも、真剣なやりとりになるのだろうか。ミチは少々不安になった。
「僕は単なる言葉の問題じゃなくってさ、どこかで綺麗で心地いいのと汚いのを分けたがる人間の意識が影響してるんじゃないかって言いたいんだけど」
「ハイハイ、私はイボだってかまいませんよ。でもこのお芋は、今のところそうじゃないから、むかごって言っているだけ」
 そこで薫は一気にワインを飲み干した。
 木村はすかさず上司の接待でもするように、甲斐甲斐しく空いたグラスに注いだ。
 どうやら二人にはこの程度のことは日常茶飯事のようだ。
 ミチは安堵し窓の外を見た。
 対話。
 コミュニケーション。
 理解するための対話に敵対するための対話。
 支配するための対話に解放するための対話。。
 そもそも分かり合えることは無理とわかってて、つい始めてしまった対話。
 絶望の対話。
 希望の対話。
 孤独の対話。
 共生の対話。
 相手との対話と自分自身との対話。
「どうかしましたか」
 突然、トオルの声がした。
 暗闇だった彼女の瞼の裏に蝋燭のような光が灯った。
 眩しさに瞬きするとレストランの個室にトオルと二人向き合っていることに気づいた。たった今、庭の灯篭には電気仕掛けの照明が灯されたようだ。
 植樹された笹の梢が、ガサッと揺れた。
 あっ、ツァラトゥストラ……。
「何です」
「いえ、別に……」
 ミチはハッとして、もう一度目を凝らした。
 確かに、森とはほど遠い小さな敷地に密かに息づく何かが隠れている気がした。
        
             七、降雨

 火葬から五日後の日曜の午後、トオルはミチの自宅マンションを訪ねていた。二人が相続を受けた遺品をどうするか話し合うためだ。
 マンション九階から視野に入ってくる風景はパン屋の店先や山小屋とも違う。ベランダに鳩が一羽舞い下り、小休止かすぐに飛び立ち、向かいのビルの屋上へ吸い込まれるように消えて行った。羽根を広げた瞬間、胸に散りばめた紫の毛が光線で透け鮮やかだった。
「素晴らしい山小屋なんですけど、そもそも私一人じゃどうすることもできないし。それで、もしよかったらトオルさんが引き取ってくれたらと思うんですが」
 トオルは正直、気が重かった。
「傷みも激しいし、僕も自信ないな」
「もちろん補強の費用は協力します。石窯なんかつくってパンやピザを焼いたら、けっこう評判になるんじゃないかしら」
 パン屋は沙希という学生時代に知り合った女性と二人で始め、四年目を迎えていた。トオルは大学を三年で中退し、一年間店舗でパン職人の見習いをしていた。
 沙希はトオルの修業中、開業のための準備をしてくれた。
 知人の不動産屋に頼み、通りの多い道路沿いの物件を相場より安く借りれたのも彼女の力によるところが大きい。トオルが手ほどきを受けた店主も彼女の性格を気に入ってくれ、買い替え時だった中古の機材をほとんど無償で譲ってくれた。数年かかると見越していた開店が、思いがけず早くできたのもそのお蔭だ。
 だが今はそんな彼女とも別れ、トオル一人で営業していた。
 十種類ほどのパンを焼き、定期契約の客へは小まめに配達もしていた。最近は高齢者の一人暮らしが増え、店舗で売るよりむしろ好評だ。だが材料費や光水熱費、家賃を引けばほとんど残らない。
「何をやるにも、問題は水なんですよ。あの付近は火山灰質でフッ素が多く含まれているから、許可が下りるのは難しいでしょうね。保健所で調査してもらうんですが、十項目くらいチェックがあるし」
「水のことは、私もお父さんから聞きました。山の中で暮らすのってけっこう大変なんだなあって思ったのを覚えてます」
「僕も、全部、父からの受け売りですよ」
 小学校のときの山小屋体験や、シンジがポリ缶に飲料水を用意していた話をするとミチも自分の記憶と重ね、懐かしげに目を細めた。
「ところであの二人は何年住んだんですか」
「完成してから二年だと思います」
 ミチはトオルから目を移し、右肩の後ろを見た。
「解体された古民家の材木をもらって、三年かかって一緒にコツコツと」
 彼女が見上げた先の瀟洒な整理箪笥の一番上にはガラス戸の棚があって、薫の小さな遺影と造花が飾られていた。写真はトオルがレストランで見せてもらったものと同じだ。やや拡大してあり、その横に花嫁衣装を着た女性二人に囲まれた満面の笑顔のミチの写真もあった。
「双子なんですよ。小さいときは大変だったんですが、結婚式で親孝行してくれました」
 ミチは上機嫌に声を高めた。
「合同で一度に、しかも会費制でやってくれたんです。相手のご両親も、とても話の分かる方々で助かりました。高校も大学も同じだったから共通の友達も多かったみたいで」
「あれは、もしかするとそのときの引き出物か何かですか」
 トオルが指差したのは、その隣に飾ってある高さ十センチほどの小さな木彫りの置物だった。全体は丸みを帯び、花弁のような襞が三重に掘られ、中央に吸い込まれるような小さな穴が開いている。
「知り合いの人から頂いたんです」
「そうですか。どこか似てるなあと思ったものだから」
「何とです?」
「いや、別に」
 会話はそこで途絶えた。
 濃紺の鳩がベランダのフェンスに舞い下り、クーッと一声鳴き、二人を見ていた。
 山小屋の件は、とりあえず結論が出ないままトオルはいったん店に帰った。
 パソコンで仕事関係のメールチェックをした。

 まだ、駄目なようです。いつか割れるようになりたいです。

 沙希からだ。
 彼女が言っているのはパン生地に使う卵のことだ。
 数週間前から店宛に送られてくるようになった。
 トオルは有精卵を直接、農家から仕入れ使っていた。雛のときから餌や飼育環境に配慮され、洗卵されず、ときどきノコクズや薄緑の干乾びた糞が殻の表面についてきた。クチクラ層という膜がはがれると、呼吸のための無数の穴から雑菌が入りやすくなるからだ。もちろん市販より割高だが、お客の健康面を考えるとある程度のコストは仕方ないと思っていた。
 ただつきものなのは、時々、生命を宿したものにぶつかることだ。
「わっ、何これ」
 初めて遭遇したとき沙希は、怯えるような声を上げた。
「やっぱり生きてたんだなあ」
 アルミ容器の底に沈んだ枝分れした細い血管の走る赤黒い塊を見ながら、トオルはむしろ感嘆した声になった。沙希は、ぐったりと肩を落とし縮こませていた。まるで卵と同じ薄い膜が彼女の全身を包み、外部と隔てているようだった。
「これどうするの」
「体に悪いものじゃないんだろうけどな」
「まさか食べちゃうの」
「いくら何でも、それはしないよ」
「じゃあ……」
「捨てるしかないだろう」
「お墓は?」
 トオルは驚き、沙希を見た。
 相変わらずじっと容器に目を注いだままだ。その言葉を無視するように、トオルは容器を奪うと自分の方へ引き寄せた。反動で血管網はあっという間に崩れ、中心にいた雛の胎児も羊水と一緒に混ざりどろりとした固まりになった。何食わぬ顔で流しにそのまま捨て、水道で流し切った。
「あとの仕込みは、僕がするよ」
 その日から、卵の担当はトオルに移った。
 利害と損益。
 またもルールの誕生。
 両者による分担と共同の仕事。
 労働による生産と資本による搾取。
 縮小させていく拡大再生産。
 非効率と付加価値。
 効率と剰余価値。
 決定権。
 廃棄。
 無。
 それからだ。沙希に変化が訪れたのは。
「こんなものつくったんだけど、どうかしら」
 トオルの指示やレシピを無視し、自分なりの考案で次々とパンをつくるようになった。トオルも初めのうちは意欲を買ったが、決定的な問題があった。どんな分量で作ったのか記録を残さないのだ。
「きちんと書いてもらわないと、商品としては出せないよ」
「あら、どうして? 頭の中で覚えているからそれでいいんじゃない」
「じゃあ、君がいないときはどうなるんだ?」
「つくらなきゃいいでしょう」
 トオルは、そこで言葉を失ってしまった。
 それでも自分なりの考えを説明するしかなかった。
「僕も君の気持がわからないわけじゃないんだ。だって高校の頃、初めてパンづくりを始めたときは、目分量でやっていたし、適当にそこらにある物から酵母をつくって母に材料を当ててもらうのを楽しんでいたくらいだから。だけど今はこう思うんだ。君のパンはなかなかにおいしい。それは僕が保障するよ。でもそれを趣味じゃなくて仕事にするんなら、ちゃんと分量を書いて、君以外の人もつくれるようにしとく必要があるんじゃないかな」
 沙希はそんなとき硬直したように動かなくなり、何も返さなかった。そう、あの卵と遭遇した時と同じだ。トオルは相手の気を取り直す目的も兼ね、ささやかな夢を語った。
「いつか余裕ができたら、ドイツへ旅行に行かないか」
 沙希はようやく顔を上げ、疑り深そうな目で窺った。
「パンの勉強にもなるし」
「いつかっていつ?」
「まあ、一年後か二年後か、とにかく経営が軌道に乗ったらだよ」
「……」
 沙希がいなくなったのは、その後数日してからだった。
 簡単な置手紙が残されていた。

 あなたの言ったことをずっと考えていました。
 一つ一つが、もっともで、その通りだと思います。
 でも、私のどこかにそうじゃそうじゃない、そうじゃないんだって言いつづけている部分があります。
 あの卵の雛をあなたが流したのを見てから、何かが狂ってきたような気がします。
 レシピ通りにつくることも、やんなきゃと思うんだけど、どうしてもできないんです。
 私は私なりのやり方で、その日そのときの気分や思いつきを生かしながら、砂糖や塩やバターを計って、季節折々の果物をすり潰して混ぜたり、ペーストしたり、オーブンの温度を頃合いを見ては適当に上げ下げしたりするつくり方しかできません。
 結局は、商売には向いていないのでしょうね。
 わるんいんだけど、しばらく一人にさせてください。

 追伸
 せっかくそちらが提案してくれたドイツ旅行のことだけど、今の私とではきっと向こうに行ってからも喧嘩になるのが落ちだと思うよ。
 だから気持ちだけはいただいときます。    
                                      沙希
 

             八、流出
       
 トオルが帰ったマンションで一人、額に収まった薫の写真をもう一度見ながら、ミチにある思いが過った。
 彼女は、今日、薫とシンジのことを話すため会合の場をここにしたわけではもちろんなかった。それどころか最初、トオルの店を希望したが、散らかっていてゆっくり話せるスペースがないと言い出したのは向こうの方だった。だから写真へ話が移ったときも、用心しいしい最小限にとどめた。だが、ほんの一瞬、この際、自分とのことをすべて語ってみようかと思わないでもなかった。
 真剣に受け答えするトオルに、この相手ならという期待を抱いたのかも知れない。
 あのときと同じに、薫たちと再会した山小屋での一夜、お釜のむかご飯もそろそろなくなろうとしていた時だ。
 修正第二条は正確にはこうだ。
 武器保有権。
 規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるので、国民が武器を保有し携行する権利は侵してはならない。

 民兵団を〝仲間〟に、国家を〝森〟に、国民を〝人〟に、武器を〝言葉〟に変えればこうなる。

 規律ある仲間は、自由な森の安全にとって必要であるので、人が言葉を保有し携行する権利は侵してはならない。

 どこからが安全でどこまではそうでないか。
 グリーンゾーンとレッドゾーン。
 線引きするためと線を消すため。
 いずにせよ、
 だからしゃべる。                   
「私のこと話すね」
 畏まった物言いに、薫も木村もほぼ同時に顔を向けた。
「市内に行ってから結婚して、子どもができたのは知ってるでしょう」
「ごめん、ごめん。あのときは式にも出席できなくって。返信におめでとうって書いたくらいだったわね」
 薫が申し訳なさそうに右の掌を立て、謝った。
「いいのよ。今思えば一人でいい気分になってたみたいで」
 ミチは、神妙な顔で二人を見た。
「年賀状も一度くれたわよね、水遊びしている可愛い写真の、たしか双子さんだったと思うけど」
「双子か。そりゃ大変だろうね。今いくつ?」
「今年、何とか小学校に入学しました」
「だったらうちの息子より一つ下だ」
 木村は感慨深げに腕を組んだ。
 ミチは木村に子どもがいたことを初めて知った。
 一体、二人はどんな経緯で知り合ったのか。
 気分を落ち着かせるため冷酒を飲んだ。すると丁度いいあんばいで薫が「あの時期、この人が教師を辞めるか辞めないかってときで、それどころじゃなかったの」
 口調は滑らかだが、木村へさっと視線を送った目はどこか苦しげだった。
 ミチはつい我慢できずに聞いた。
「薫さんたち、その頃から?」
「あなたが出ていった次の年、私も移動した学校でね」
 なるほど、月日は合致する。
 ミチはひとまずそちらは置き、自分の話をつづけることにした。
「双子ってね、人は面白がるけど何でも同時に二度でしょう、毎日が育児ノイローゼの一歩手前だったわ」
「そうでしょうね」
「同じ時間に寝てお腹も減らしてくれたらいいけど、全然違うの。一卵性であれだから、人間のクローンなんか問題だらけだってつくづく思っちゃう」
「お連れ合いさんは元気? たしか中学校の先生だったでしょう」
「そのことなんだけど……」
 ミチは瞼を伏せ、改めて顔を上げぽつりと言った。
「今、別居してるの」
「別居って?」薫が訊ねた。
「私が子どもと実家に帰ってるのよ」
 ミチは声がつまりそうになるのを、どうにか堪えていた。
 木村は最後のてんぷらを箸でつかみ口へ運んでいた。ゆっくり噛み砕く音が暖炉の熱で膨張した大気に混ざっていく。
「夫はとにかく仕事熱心なの。日が昇るか昇らないかに出勤し、家には着替えに帰ってるだけじゃないかって思えるほどで」
「それじゃあ、この人とは正反対。だって誰より遅く行って、早く帰るのをモットーにしてたから」
 薫が木村を茶化すと「僕だって、やることはやってたよ」珍しく不貞腐れたように口を蕾めへの字にした。
「あらそう。そんなところ一度ぐらい見てみたかった」
 二人にも弾みがついてきたようだ。
「突然だったわ。ある晩、仕事から帰ってから子どもへの体罰は許されるんじゃないかって言い出だしたの。時には殴ってでもわからせなきゃいけないときがあるって」
 夫とは大学のサークルで知り合った。
 卒業真近に想いを告げられ、ミチも屈託のない明るい人柄に惹かれ付き合い出した。一緒に採用試験に通ったまではよかったが、県の両端の勤務となり、会う機会だけでなく連絡も滞りがちになってきた。次の異動で近くの勤務地にならなければ、いっそ別れ、それぞれの道を歩き直そうかと深刻な話し合いまで持ったほどだ。ところが運よく二校目で同じ市内への転勤となり、それを機に式を挙げたのだ。
 体罰という言葉を耳にしたのは育休半ばの時期で、ミチがもっぱら夫の愚痴の聞き役に回っていたときだ。思いもよらぬことに彼女は慄き、まじまじと相手の顔を見た。
「どこかいつもと違うのよね。近寄りにくいって言うか、壁をつくってる感じで。それで私は思ったの。この人は今日、生徒を殴ってきたんじゃないかって。背中に冷んやり寒気がするようだった」
 詳しく何があったか聞いても夫は、別にと顔を背け、話題を逸らそうとした。不用意に口を滑らしてしまったことをむしろ悔いているようだった。
「私もそこで終わらせておけばよかったんだけど、こだわっていることだから思わず訊ねたの。あなたは体罰されたことがあるのって」
 夫は、これまであまり話さなかったがと前置きし、親も担任もスパルタだったと胸を張った。今では殴ってくれたことに感謝していると。
「それは、あくまであなたの感覚で、随分時間も経ってるし、美化してるだけなんじゃない」
 ミチも反論した。
「そしたら?」薫が口を開いた。
「俺は親を恨むことはなかったし、担任は今でも尊敬してるって平気な顔して言うの」
 一体、自分は何を話そうとしているのか。ミチは不安になった。既に後戻りできぬ地点へ来てしまったか。彼女は、そんな思いを打ち消したい一心で問いかけた。
「でも問題は、恨まれるとか感謝されるってことじゃないわけでしょう。かりに感謝されたからって、殴ることでしか思いを伝えることができないとしたら悲劇じゃない。そうでしょう」
 悲劇。
 悲しみの本質は何か。
 対極にあるとされる喜びは。
 なぜ人はあることがらを悲しみととり、あることがらは喜びとするか。
 両者の共通前提、生きているということ。
 その隙間にひずみが生まれ、二つの極へ枝分かれしていく。
 どんなひずみ?
 私がここにいるということ。
 事実存在。
 私が私であるということ。
 本質存在。
 両者のバランスに入った罅と崩壊。
 悲しみと喜びは水漏れのように浸透していく。
 亀裂が亀裂でなく、崩壊が崩壊でない別の新たな場所探し。
 不一致と不調和、不定形を静かに厳かに抱え持ったまだ見ぬ細胞が分裂し、単細胞から多細胞へ亀裂や崩壊を包摂しながら世界を生成していくことは可能、それとも不可能か。
 ウイルスからの脱却。
 問題は、
 世界とつながることでなく、
 ただちに世界をつくること。
一本の草や樹木が水を求め、地下深くへ根を張っていく。
 それは、
 ごくこく自然。
 薫は黙っていた。
 木村もグラスをちびちび嘗めるだけで言葉を発しない。
 ミチにはそんな二人が、一見素っ気ない態度の奥で何を考えているのか知りたかった。
 それにはまだ、彼女は話をつづけるしかなかった。
 数日後のことだ。クラスで万引きした子を例に、親が晩飯もつくらずにパチンコに行くような家だからああなると批難したのだ。しかもその子がクラスでいじめにあっていることを罰が当たっているのだから仕方ないと言い捨てた。
「罰」
 初めて木村が言葉を発した。
 薫もそれに反応するように体を前へ傾けた。
 その罰は誰が下すのかミチが訊ねると、夫は悪びれた様子もなく、何を今さらといったもっともらしい顔つきになった。そして小馬鹿にしたように「世間に決まってるだろう」諭すように答えたのだ。
「それからは、日を追うごとに段々とちぐはぐになって」
 横から薫が静かな眼差しで言葉を発した。
「それって仕方ないと思う」
 ミチにはその返事は予想外だった。
 おそらく具体的に夫とのやりとりを聞かれ、一つ一つに意見を言ってくると思っていた。だが二人の反応はそれとは違っていた。
「二人のことをよく知らない私が無責任なことは言えないけど、むしろ必然だったような気がする」
 肩の力が抜けたのも確かだったが、あまりに簡単に言い切られるので不満の分子も暴れ出した。
「夫婦に限らず人って一旦奥を探りだしたらきりがないし、なるようにしかならないんじゃないかしら」
 場を和ませようとわざとそんな言い方をしていると思いたかったが、今さら見え透いた芝居をする性格でないことはミチが一番よく知っている。
 やはり話さなければよかったのか。
 後悔の念がじわじわと湧き上がって来ていた。
「だけど教育の方は深刻よね。あなたたち夫婦だけの問題じゃないもの」
 そんなミチの微妙な変化を察知したのか、今度は慎重な口ぶりになった。
「私には偉そうなことは言えないわ。だってカッとなって殴ったことあったもの。特になりたての頃なんか、女だと何かとベテラン教師や男の教師と比べられるでしょう。おまけに子どもや保護者まで甘く見てくるし、それが悔しくて、ついね。今振り返ると技術や器量の未熟さを必死にそれで補おうとしてたんだろうけど」
 ミチは軽く頷いた。
「私は体罰は嫌だけど、今以上に厳しい罰則でもしない限り、やる人はなくならないじゃないかしら。だって人類が誕生してずっと暴力や戦争は続いているのよ。学校の中だけ別にってわけにはいかないもの」
 言葉を放棄できないのと同じに武器も放棄できない。
 人間の宿命か。
 修正第二条。
 自由との表裏。
一瞬の真実。
 そのとき何を思い、何をするか。
 考える前のすべき行動。
 視界の端に入っていた雑木の枝がゆさゆさ動いた
 明らかに被さっていた何かが落ち、反動で持ち上がったようだ。
「猿よ」
 薫が平然と言った。
 ミチは最初、聞き違えかと思った。
「たまに猿が出るの」薫も窓を見ている。
「猿って、野生の?」
 毛深く身軽な肢体がミチの頭の中を駆け廻った。鋭い歯を剥き出し、長い手足を使い枝から枝へ飛び移る獰猛な姿だ。
「襲って来ないかしら」
「集団で行動するのは昼間だし、それにここの畑には何にもないから」
 薫が説明するには、そもそもこの地域には猿は生息していなかったが、五年ほど前、将来、観光の客寄せにと試験的に飼育していた数匹を事業が中止になって始末に困って、あろうことか野に放してしまったらしい。それが今では群れをつくり餌場を求め、山から山へ移動していると言うのだ。
「どうも離れ猿が一匹いるらしいの。ねっ」と薫は木村に視線を向け、含み笑いをし、「ツァラトゥストラ」と囁いた。
「ツァラトゥストラ?」
「この人が猿につけた名前よ」
 その一言でバトンを受ける形になった木村がこれまでとは違い、溌剌とした声になった。
「ここをつくってたときなんだけど、僕が一人のときに限ってあらわれるんだよな」
 ミチも興味津々だ。
「とっても思慮深い顔立ちでね。じっとこっちを見て。最初は怖くて目を合わさないようにしてたんだけど、段々、要領も覚えて、距離感っていうか、それなりに安全な範囲もつかめてきたんだよ。そうしたら、何て言うかな、相手の気持ちまでわかるような気がしてきて」
 またもグリーンゾーンとレッドゾーン。
 対話はつづくよ、どこまでも。
 属を超え種を超え、
 野も越え山越え、
 谷も越え。
「ほら、ここからが面白いとこ」
 薫が笑いながら合いの手を入れた。
「俺はこの森のツァラトゥストラだって、聞こえてきたんだよね」
「猿が?」
「ニーチェの本にあるでしょう。山に籠って思索した哲人の話。下界へ降りて、神は死んだ。天国なんかない。あるのは地上だけだって説くやつ……あの中に『ツァラトゥストラの猿』って呼ばれる道化が出てきて、どんなに演説や口調を真似ても、すぐに本人から看破され嫌われてしまうんだ。僕は若い頃、初めて読んだとき、ただの皮肉で登場させたんじゃない気はずっとしてたんだけど、じゃあ正体は何かって言われるとはっきりしなかったんだよね。でも森であいつと会ってから、いや、待てよ。こりゃあ、もしかすると実はツァラトゥストラ自身が猿だったんじゃないかって思えて来て。すると、何だかスーッとわかった気になったんですよ」
「それってもしかして猿が人間で、人間が猿だったってこと?」
 キョトンとするミチに薫がつづけるには、退職する際、木村は退任式の行われた体育館の壇上で『アイアイ』を振りをつけて歌ったらしい。
「一年生の子なんか飛び撥ねるみたいに体動かして、大反響だったものね。やっぱりあなた猿と縁があるのよ」
「あれは自分としては、学校の邪気を払うつもりでやったんだけどな」
 そこで木村はすっくと立ち、アーイアイと小声で調子を取りながら軽く握り締めた拳を左右交互に頭上へ持っていった。腰を振り、ダンスしながら颯爽と土間へ下りて行く後姿は、躍り手が袖へ退くように板につき、ミチも驚くよりむしろ感嘆してしまった。
 常識の裏返し。
 表面だけでなく、心の奥底まで合わせ鏡で見ること。
 概念のターンオーバー。
 取っては反対側へありったけの力で投げ返すスタミナはまだ残っているか。
 銃、じゅう、ゆを大きくするだけで、じゆう。
 捕らえられ、飼育され、無用になった挙句、放たれてしまった猿。
 猿は不幸か。人間は幸せか。
 今さら言うことでもないが、マダガスカルのアイアイは愛玩動物などではない。
 目玉が飛び出し、中指も異様に長く、耳や尻尾も大きい。
 おまけに夜行性で悪魔の使いとして地元では恐れられている。名前も原住民が森で見たときの叫び声からつけられているくらいだ。
 それらはすべて人間側からの視点で人間側の捉えた人間の勝手な解釈に過ぎない。
 二重、三重の歪み。
 ここにもカノンの繰り返し。
 三つの学校の消滅と統合と合併。
 メビウスのよじれのよじれのよじれ。
 表は表へ裏は裏へ、そしてまたそれぞれ裏と表への逆戻り。
 厄介で厄介で厄介な問題。
「最後は、デザートね」
 薫が、どこか呆れ顔で土間の方を見やりながら言った。
「木村さんって、あんな人だったの?」
 ミチが声を潜め耳元で聞いた。
「もっと気難しい人かなって思ってたけど」
「そうね、まあ色々よ。あなたたち夫婦と同じ」
 しばらくして木村がさりげなく持ってきたのは素焼きの皿に載った栗だった。
「マロン・グラッセ。秋って感じでしょう」
 一枚のモミジと一緒に盛り付けられていた。
 ミチは目を丸くし、喜びをあらわした。
「これに似た日本の伝統料理があるの知ってる?」
 ミチは首を振った。 
「栗の渋皮煮」
「ああ、それだったら母がたまに作ってくれてたわ」
「あれは、わざわざ渋皮を剥がさずつけたまま湯がいて、砂糖漬けにしてるんだよね」
 木村がさも何回もつくった職人のような口調で言った。
「でも初めて聞く人は、甘いものだとは思わないでしょうね」
「そうね。でもなかには、反対に渋抜きされてるってピンときて、自分の人生に似てるなって思う人もいるかもよ」
 薫がまるでそれが木村であるかのように目をやると、向こうは真顔で慌てて手で払い除ける仕草をした。
「松崎さん、アイアイもだけど、聞く人の感覚でとらえ方も変わると思わない?」
 椅子に腰かけた木村が、今度はニヤリとなった。
「教育だってそうじゃないかしら」
「……」
「私、教師でありながら、あの『教育』って言葉にずっと怯えてたの」
 薫はいかにも嫌悪に満ちたように顔を顰めた。
「いろんな当て字が流行ったことあったでしょう。共に育つで『共育』とか、今日を生きるで『今日生く』とか」
「今日、家庭訪問に行くで『今日行く』もあったわね」
「自分のクラスだけ独特の発想はないかって考えたこともあったんだけど、何かどれもね。言葉を変えればいいって問題でもないし」
「いっそのこと狂うの字で『狂育』ってのはどうだろう」木村が言うと「それは、あなたとツァラトゥストラに任せとくわ」薫はさらりと躱した。
「結局、主役は子どもたちなんだから、教師の自己中だけにはならないよう悩みながらやっていくしかないって観念したの。たまに打つか打つまいかって葛藤しながら。あっ、これは冗談」
 ミチには冗談とは思えず、真面目な眼差しで座り直し「でもそれが一番難しいのかも」
「そうね」
 薫が助かったというようにすかさず相槌を打つと「そうだね」木村も同感するように答え、「だったら、僕と付き合うのも相当な葛藤があったんだろうな」ぽつりと言った。
「当たり前じゃない。まさか、今頃気づいたの?」
 木村は一度首をかしげ、取り繕うように小さく一つ咳をした。
 咳。くしゃみ。
 体内に侵入した異物の排除。
 法という言葉の気道に差し込まれた空気鉄砲の弾。
 入口と出口。
 修正第二条。
 不規則に発射されてはウイルスをまき散らす。
 疑心暗鬼、不信と猜疑と警戒心。
 自己責任と自己治癒中毒。
 閉塞の闇と批難に避難。
 無視不問。
「あっ、またそうやって誤魔化してる。肝心な時はいつもこうなの。早くこの人にもそういうとこ卒業してほしいわ」
 薫がしてやったりとミチをちら見し、笑ったときだった。
 木村が急に我慢の限界のように体をのけぞらせ吹き出した。
 デザートをフォークに載せようとしていたミチは、思わず落としそうになったくらいだ。
 木村が謝りながら説明するには薫は、今でもヘルメットのベルトを締めずバイクに乗るとのことで、木村が何度注意しても面倒臭いの一言で片づけるらしい。
「だったらそれそろ君も、あのスタイル卒業してくれよな」
 立場逆転とばかり威勢を得た相手に「おっしゃる通りです」薫はぺこりと頭を下げた。
 微笑ましい情景の中で甘い栗の香が、ミチの口腔に広がっていった。
 ツァラトゥストラはデザートに引き寄せられ、ミチの前にも姿を見せてくれるだろうか。
 木村は、森の哲人に見せびらかすように窓に椅子を寄せ、フォークに突き刺したマロングラッセを食べている。 
 おもむろに薫が立ち上がり、ピアノの方へ行くと譜面ノートを少々わざとらしげに開きながら、腰かけた。
「では、私の友人、松崎ミチさんとの再会を祝して、一曲ご披露します。曲目は、さっきのお猿さんのテーマです。」
 ミチの知らないメロディーだった。
 不思議だ。
 森の中なのに大河の流れのようなゆったりとした鼓動が流麗な指使いから伝わってきた。木村は、どこか愁い気な顔になった。
「ねえねえ、本当は何て曲?」
 テーブルに戻ってきた薫はにっこり笑い、題名はまだついてないと答えた。
「もしかして薫さんが作曲したの」
「まさか。この人が珍しく好きなクラシックがあってね、そこから私が聴き取ってあげたんだけど、自分なりに弾きやすく変えちゃったところもあるし、まあオリジナル半々かな」
「私も、もう少しピアノが弾けたらなあ。採用試験のとき練習したくらいだから」
「上手下手は関係ないんじゃない。弾きたいって気持ちがあれば」 
 ミチは納得したように、二人を見た。

             九、草木

 マンションで話し合ってから五日後のクリスマスの翌日の昼下がり、二人は山小屋の周辺を探索していた。
 二日前の正午近く、トオルから薫の墓探しをしないかとの誘いの電話があり、都合を聞いてきたのだ。
「あれから『ツァラトゥストラ』を読んでみたら〝墓の歌〟って章があったんですよ。その最後に『万歳、俺の意志よ! 墓のあるところだけ、復活がある』って書いてあったから、やっぱり、あの森が怪しいんじゃないかな」
 ミチも学校が冬休みになり時間の余裕ができると、新年までに気持ちの整理をしておきたく今日の運びとなった。
 晴天だった。
 それでも木陰には溶けかかった霜柱が土を湿らせ、滑りやすくなっていた。防寒も兼ね厚手のズボンやジャンバー、長靴と軍手も用意していったが、枯葉やその一部が袖や襟の隙間から入り、肌に当たってチクチクした。
「やっぱりないかもな。そろそろ終わりませんか」
「随分弱気ね。探そうって言いだしたのは、そっちよ」
 かれこれ二時間が経っていた。
 先を歩くトオルがたまに股まである穴に足が嵌まり、つんのめりになりそうなった。
「気をつけてくださいね。山芋を掘った穴があるから」
「そんなことまでやってたんですか」
「薫さん、料理上手だったし、あれって最高の食材ですよ」
 枯草を分け用心しながら行くと、土を激しく引っ掻き掘り返された場所があった。
「土砂崩れかな」
「イノシシが荒らした跡です」
 ミチはしゃがみ込み、
「ほら、これがお目当て」
 そう言って足元から太い蔓を引っ張り上げた。表面に細い毛が生えいかにも丈夫そうだ。手繰っていくと、目の前の樫の木に巻き付き、色まで同化していた。
「葛の根です」
 トオルも自分の足元へ目を落とした。
 斜面を這うように四方八方にしこっている。
「これって地面の下では山芋に負けないくらい大きくて、イノシシは大好物らしいんです」
 ミチが山のことにかなり詳しいことにトオルは驚いた。
「大雨のときなんか、よく土砂崩れしませんでしたね」
「傾斜がそんなに上まで続いていないからだとは思うんですけど」
 確かに見上げると、トオルの立つ位置から斜め上に見える杉林の隙間に蒼空が透かして見え、勾配はそこで途絶えているようだ。土手の頂の木をすべて切りとれば、案外見晴らしのいい丘陵になっているのかもしれなかった。
 山中での陽の翳りは想像以上に早い。太陽も木立の向こうへ姿を隠し、清々しい蒼空に頬を刺す冷たい風が吹き出すと、夕暮れへの準備が一気に加速し始めたようだった。墓探しも、そろそろ見切りをつけねばならない。
 風を通すため開けておいた縁側のガラス戸から、二人は疲れたように中へ入った。何の収穫もなくぐったりと肩を落とし、ほぼ同時に顔を向けたのはピアノだった。
「まさか……」
 トオルは、つぶやくや四つん這いでアップライトの下へにじり寄った。下の前板の真ん中に留金があり、それを押さえ解除した状態で丸い取っ手を引くと一センチほどの厚さの板が重々しく動いた。
 二人は思わず声を上げた。
 右下隅のスペースに無地の青磁の壺と二十センチ四方の段ボール箱があらわれたのだ。壺は外部の明かりを正面に受け、艶やかに光っている。片手でつかめるほどの大きさだが、トオルは慎重に両手で捧げ持った。
 頭部は小さな波模様で縁取られていた。ミチが蓋をそっと開けた。乾燥した白い骨が詰まっていた。
 ミチの瞳が瞬く間に濡れ、一筋、涙が伝い落ちた。思いもかけぬ出来事だった。
 トオルは、次に段ボールの箱を取り出した。
 変色したガムテープを慎重に剥がしていった。色褪せた表面の紙も一緒に剥がれないよう神経を配った。蓋をめくると、ビニール袋に入った白い巾着が出てきた。
 長い年月でくすんだような染みができ、織り目が所々黒っぽかった。紐をほどき恐る恐る口を開けてみた。焦げ茶色の硬質な物体が見える。外に出してみるとオートバイの砕けたアクセルグリップとワイヤーが剥き出たレバーの部品だった。
「これ、たぶん交通事故のときのですよね」
 トオルがつぶやくと、ミチも蒼褪めた顔で、「そうだと思います。あの後、現場から拾って来たんじゃないかしら」  
 事故直前まで握られていたであろうグリップの強化ゴムの他は、かなりの範囲に錆がこびりついていた。ミチは、それらを一個一個顔の近くまで持っていくと愛おしむように掌で擦り始めた。
 そのときだった。
 満を持したようにトオルは腰につけていたウエストバックを外すと、黄ばんだ封筒を取り出した。
「ミチさん、実は僕は、今日まで誰にも言わなかったことがあるんです」 
 そもそもトオルが薫という女性の名を初めて知ったのは、中学に上がるとき、一通の手紙が彼宛てに届いたからだ。当時、里子は一日の大半をピアノ教室にいて、アパートの扉の郵便受けから配達物を取り出すのはトオルの役目だった。差出人の名前はなく、中を開くとこれまで自分のために、あなたへ寂しい思いをかけたことを詫び、父を弁護する言葉が書いてあった。そして最後に改行し、戸田薫としたためてあったのだ。
「この手紙のお蔭で薫という人は僕のことを気遣ってくれている、そう思っていました。でも高校卒業の年、小学校四年のときに既に交通事故で死んでいたことを母から聞き、最初は信じられず、随分うろたえました」
 便箋は、カサカサになっていた。
「あのとき、母にすぐに手紙のことも話せばよかったんですが、突然のことで、自分でも何だかわけがわからなくて……」
 ミチは紙面に触れようともしない。
 トオルはつづけた。
「ミチさん、もしかしたらこの手紙は、あなたが書いてくれたんじゃないんですか」
 彼女と会ってから何となくそう感じていたことを、思い切って聞いた。
僅かの間があった。
 ミチは紙面にようやく手を伸ばし、目の前に持って行った後、またそっと置いた。トオルの顔に一瞥をくれ、縁側の雑木林へもう一度目を向けるとゆっくりと首を縦に振った。
「やっぱりそうでしたか。だけどなぜ」
「ごめんなさい。あなたを困らせる気は全然なかったの。ただ、薫さんがあんなに早くに亡くなってしまって、せめてあの人の気持ちだけは伝えておこうって、つい。でも最初に会ったとき交通事故のことを知ってたので、いつかこうして追求されるのは覚悟してました」
 トオルはミチの好意は理解しながらも嘘をつかれていたことへの落胆は隠せなかった。
 森は静まり返っていた。
 静寂。
 良かれと思ってやったことへの代償。
 この世はそれで満ちている。
 ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム
 サム・クック。
 転機は必ずやってくる。
 彼にやってきたのは死以外、何だったか。
 開けられるパンンドラの箱。
 トオルの沈んだ様子に気づいたミチが、口を開いた。
「でも、この遺骨や遺品のことは、全然知りませんでした。それは信じて下さい」
「父は気でも狂ってたんでしょうか。ピアノや楽譜だけじゃなく、こんなことまで」
「お父さんの気持ちを考えれば、意外じゃない気がするんです。突然の薫さんの死はもちろんですが、あの日、ご自身がいなかったことの方がたぶんもっと苦しくて」
「なぜ、そんなに父を庇うんです」
 トオルが急につっけんどんな物言いをした。鋭い視線だ。ミチも思わずたじろいだ。
「すいません、あなたの気持ちを考えないで」
 ミチは目を伏せた。
「いいえ、別に」
 トオルは、骨壺に目をやり「できることなら二人のどちらでもいいから、もう一度会って直接聞いてみたかったですよ」
 トオルの眉間に力が入り、顔全体に険が差したように見えた。
「残された家族のことをどう思ってたのかって」
 いつの間にか正座し、微動だせず何かを堪えているようだ。ミチも言葉がなかった。トオルがハッとしたように、わざとらしく笑みをつくった。
「あっ、僕、ちょっと変になったみたいで。今さら昔が戻るわけでもないのに。もちろん悪いことばかりじゃなかったんです。ここで父と過ごしたことは今でも楽しい思い出だし、母親ともわりと垣根なくやれたし」
 ミチも祈るような口調で精一杯、答えるしかなかった。
「薫さんもお父さんも生前、ご家族のことはいつも気にしておられました。とくにトオルさんのことは」
 やがて二人は並んで合掌し、骨壺と箱をまた元へ戻した。
「こうしてあなたと会ったのも運命だったんですかね」
 全てがピアノの中へ消えてしまうと、トオルがぼそりとつぶやいた。

             十、林床

 俯くトオルを前に、ミチはロフトへ目をやった。ピアノの後ろから斜めに掛けられた梯子は十センチ角ほどの杉材で、両手で交互に掴みながら上らねばならない。
 あの夜、薫は一人でやって来た。右手にはワイングラスを持ち、ギー、ギーと軋む音がした。
ロフトは床から天井まで真ん中の一番高い所がミチの身長ほどで、両端に行くに三角形の斜辺のように低まっていた。ミチは梯子を上がってすぐに靴を脱ぎ、絨毯に腰を下ろすと奥の壁に凭れ足を伸ばしていた。真下の薪ストーブの燠火が二階の床まで温めてくれていた。
 右奥に布団と毛布が二人分畳んであり、棟木の碍子に巻き付けられた配線の先にぶら下がった白い傘の裸電球が、光の輪を落としていた。
「ねえ、ちょっと話していいかなあ」
 正面に木造りの柵があり、梁とフロア入口の扉、左にピアノが見渡せる。薫はそこから這うように近づくと、南の小窓のカーテンを指先でそっと捲った。ミチもつられるようにそちらへ目を向けた。草木や舞い落ちた枯葉の一枚一枚まで丹念に拵えた精密模型のようにひっそりしていた。
「ツアラトゥストラどうしたかしら。物陰からこっそりこっちを見てたりして」
 薫は軽く冗談を言うとミチの方を向き直り「せっかくだから、もう少しきちんと話しておこうかなあと思って」隣に座りながら、微かな笑みを浮かべた。
「別にそんな」
 ミチはできれば、これ以上知りたくなかった。
 事実を知ったからといってどうなると言うのか。耐えられるだけの自信がなかった。それに嫌な予感もした。彼女自身まだ話していないことがあり、それを告げねばならぬきっかけが生まれはしないかと心配した。今日は、八年ぶりに出会い楽しく食事をし喋った。それだけで充分だった。
「こっちが勝手に聞いてほしいだけだから、悪いけど付き合って。ねっ、お願い」
 そう言いながらグラスを傾けた。
「木村さんはいいの?」仕方なくミチも訊ねた。
「帰ったわ」
 予想もしない返事にうろたえ、思わず相手を見た。
 肌が照明でぼんやり浮き上がっていた。
「彼とは一緒に暮らしているわけじゃないのよ」
「帰ったって、どこに」
 ミチも声を低めて訊ねた。
「例の木工所の作業部屋に住んでるの」
「お酒もあんなに飲んでたのに?」
「こういうときは自転車でね」
 ミチは軽トラの荷台を思い出した。
「下りは楽よ。麓と言っても三キロくらいだし」
 それから言い訳でもするように、「二人で生活するためにここはつくったんだけど。仕方ないわ」目には見えない漂流物でもとらえるようにロフト全体を見回した。
「離婚はしたんでしょう?」
 ミチも聞かずにはいられなかった。
「ええ、でも」そこで薫はふっと息を吐き、「どうしても踏ん切りがつかないらしくって」
ミチが黙ると「怖いのかもしれないわね。お互いこれまで色んな面を見て来たから。でも、私も時々、今くらいの距離がいいかなって思うこともあるし」そう言って再び白壁を見つめた。
 風が壁越しに直に当たっているようだ。二人の息遣いが低まった唸りと混ざり、静かにロフトを満たしていた。しばらくして薫がミチの方を向き直ると話し始めた。
「あの頃、県が推し進めていた診断テストのことは、あなたも知ってるでしょう」ミチも頷いた。
 彼女が市内へ移動した年、彼女たちの勤務する県の小学校の上学年と中学校を対象とした個人学習診断テストという共通テストが開始された。
 県下すべての市町村で一斉に同じ時間に同じ問題をさせるというものだ。主旨は児童、生徒の基礎学力向上だが、担任が結果をマークシートに記入し、一覧表となって返ってくることから子ども一人一人の学力の比較競争に結びつくことは明らかだった。初め七割の教職員が反対の意志を示し、保護者とともに各地で集会や抗議行動を行ったが、結局は中止されることなく、半強制的に行われた。
「私が彼と出会ったとき、テストをするのはもう大方、常識のようになっていたんだけど、あの人は、たった一人で反対の声を上げていたわ。でも最後は孤立するばかりで……。もちろん彼のやり方や意見も一方的なところがないわけではなかったし諸手を上げて賛同できるものじゃなかったけど。そういう意味では、元々、教師っていうか、集団の職場に向いていなかったのかもしれない。よくどこにでもいるでしょう。実力はあるのに周囲とそぐわなくって、顧客とうまくいっても上司から疎んじられる人が」
そこで少し間を置き、唇をワインで湿らせた。
「でも、あの診断テストは別よ。最初は反対していた人も、いざ戒告とか処分が絡んでくると尻込みして、抗議しつづけたのは彼だけだったもの」
 当初、木村は薫にさえ厳しい目を向けていたと言う。
 他の問題には意見しても、診断テストになるとだんまりを決め込む、一貫性のない部分が許せなかったのだ。
「とにかく職場は苦しかった。息もできないくらいに。あなただってわかるわよね」
ミチは返す言葉が見つからなかった。
「教師の側にも校長のお先棒を担ぐ人が何人もいてね。勢力の差なんてものじゃないのよ。もう、どうすることもできないって感じで。惨めで、いつもそこにあるのは敗北で」
 木村の意見は学力向上を願う保護者の側に立っていないと職員たちの前で一方的に退けられた。協調性や共通認識の不足を関係もない場でいかにもすっぱ抜くように意地悪気に取り上げられ、話にもならないと叱責されたときもあった。それはまるで常識のない欠損人間と烙印を押されるようであり、教師不適合者と決めつけられる仕打ちだった。そしていつの間にか彼は沈黙を始めた。見るからにやつれ、言葉をかけることさえ憚れるほど痛々しかった。
 今でも木村は当時のことを語らない。
 伏せた瞼が怯えたようにふるえ、隅に追いやられた小動物のような神経の過敏さが体のどこかしこから発せられていた。それをどうにか最後の力で制御しているようなぎりぎりの瀬戸際にいるようだった。容易に近づきがたい鈍色の光が時折り開くわずかな瞳の奥から放たれていた。
サムにもジョンにももちろん恐怖が走った。
 当然だ。
 自分が撃たれて死ぬのだ。
 たとえそれが一瞬でも、戦慄ははかり知れない。
 もちろん心臓が凍りつくような震えが襲ったのは二人だけではない。
 モーテルへ連れだった女とヨーコ。
 だが二人は立場が違う。
 サムの連れの女、
 立ちすくむ残虐な結末と引き換えに、その先に待っていたものは。
 深夜の祝宴、
 それともさらなる暴力と収奪。
 管理人の弾を装填する指先は震えていたか。
 ヨーコはどうか。
 焼け爛れるような痛みと絶叫。
 我が身が切り裂かれるに等しい惨苦と悶絶。
 ジョンとヨーコの願いの傍らで、
 メイソンの修正第二条は今日も行く。
 教会の磨かれた講壇から町から町、森の奥や秘境まで。
 もちろん、
 世界の小さな片隅の学校の一人の男の正面にも。
 このとき、脳裡にサムやジョンがいたかは定かでない。
 しかるにメイソンも。
 この男はもしかするとこのまま、命の芯まで燃え尽きさせていくのではないか。彼女はいつのまにか目が離せなくなった。そんな中、テストは予定通り実施されていったのだ。
「ところが驚いたわ。蓋を開けると彼のクラスだけ、白紙で答案を出した子が半数もいたの。あまりの彼の消沈ぶりに管理職も油断していたのね」
 猿知恵。猿まね。猿芝居。
 チグリスとユーフラテスを跨いだメソポタミアの猿は一体、何を演じたのか。
 猿の惑星?
 真実はプラネット・オブ・ザ・モンキーならぬプラネット・オブ・ザ・ネイプス。
 類人猿の惑星。
 モンキー・プレイとは異なる退化した尾骨を毛むくじゃらの衣装の下に隠し持ったネアンデルタールの踊り。
 ホモ・サピエンス何するものぞ。
言葉への復讐、今ここに幕を開けり。
 功を成した猿芝居。
 修正第二条の修正へ。
「慌てた校長や教頭は犯人探しに躍起になったわ。絶対に彼が焚きつけたに違いないって。証拠固めのつもりで、あの人を毎朝、校長室に呼びつけて調書をとったり、拒否した子たちに聞き込みして保護者にこっそり文書を送ったりもしたの」
 薫は、じっと前を見つめ語りつづけた。
「今だから言うけど、私は逃げたのよ、あのテストから。最初にクラス決めするとき、私は、低学年を希望したの。テストは上学年だけだから。放棄することも一つの方法だって自分に言い聞かせて。でも誰かは担任しなくちゃいけないし、苦しむ教師や児童はいるのよね」
 薫は思いつめたように語尾に力を込めた。
「彼には辞めるより他、道は残されていなかったんだと思う。退任式で挨拶が回ってきたときのことよ。最初はね、型通りのこと言って、『アイアイ』まで踊って盛り上げたんだけど。拍手がまだ止むか止まないかの時、子どもや保護者にあのテストの問題点を訴え出したの。そして、もう一度話し合いの場をつくってほしいって職員の方も向いてね、切々と語った。校長のあのときの顔をあなたにも見せてあげたかったわ。まさか、あんな場で突然、部下から赤っ恥をかかされるなんて思ってもみなかったんじゃないかしら」
 そこで言葉がふっと切れ、唇を嚙んだ。
「踏み絵ってすごいね。あんなの考えだしたのは、この国だけでしょう?」
「……」
「私は最初から、踏み絵をさせられない場所を選んだんだわ。そして彼だけその場から逃げず、おかしさを言いつづけ……」
 薫は俯いてしまった。
 小さく鼻を啜る音がした。
 こんな彼女を見るのは初めてだった。どんな言葉をかければいいのか。ミチはしばらく考えた末、口を切った。
「低学年を希望して逃げたのは私も同じよ」
 薫はミチを見た。
「私も内心は反対してたけど」と考え深い顔になり、「処分ももちろんだけど、そうね、やっぱり一番嫌だったのは一人だけ浮き上がることだったかも。だから、どうせ反対しても無駄なんだから、それより使い方を考えて子どもの力を伸ばすために利用しようって言い聞かせていたわ」
 ミチは正直に話した。
「卑怯かもしれないけど、心の中で踏まない選択があっていいんじゃないかしら。表では従っても心の奥までは誰も入って来れないんだし。自分なりに抵抗する生き方があっても」
 薫は顔を上げ、厳しい視線で見た。
「でもね、相手にとっては、心の葛藤とかそんなものどうだっていいわけでしょう。ただ踏むか、踏まないか。私も最初は苦しみにも意味があると思ってた。でも、最近思うの。最後まで踏まない道を選んだ人がいるってことを。踏んだ人も悩んだ末の選択だったのかもしれない。でも結局は踏んだのよ」
 ミチの胸にもやもやしたものが過った。何かが違う、だがうまく伝えれないのがもどかしかった。
「あのね、私ね、夫のことがあったからかもしれないけど、余計に思うの。木村さんのような先生こそ、現場に残っていてほしかったって」
 もどかしさは、なぜか涙に変わっていた。
 夫をこんなふうに言わねばならぬ立場が不甲斐なく切なかった。だが教師の一人としてミチも止めるわけにはいかなかった。
「だから、木村さんがいなくなったことは、テストを薦める側にとってはむしろ願ったりかなったりのことだったんじゃないかしら。薫さんが逃げたって言うのなら」
 そこで小さく息を呑んだ。
「木村さんだって逃げたのよ」
 薫の体が大きくぶれたように思えた。ミチは咄嗟に身構えた。かつてのように自信に満ちた口調で反論されると思ったからだ。
 現実、現実、現実、そして最後にまた現実。
だが、薫の態度は違っていた。
「……そうね。あなたの言う通りかもしれないわね。昔から、敢えて踏む運命を引き受けて、隠れキリシタンになったり他の宗門に入った人たちもいたんだし……。でも、なぜ、彼らはそうしたのかしら」
「生きるためだと思う。日々苦しみながらも、やっぱり生きることを」
ジョージ・メイソンの悩み。
 彼は合衆国の権利章典を起草し、基礎を築いたが、括目すべきは、彼自身、奴隷所有者でありながら、奴隷制度廃止に賛成したことだ。
 だが、それとは逆に憲法で奴隷制に言及することは賛否の立場に関係なく反対した。
なぜか。
 メイソンにとっての踏み絵。
 踏むに踏めぬ厚い壁。
 己の存在と言う影。
 自由の女神像の炎の眩しさ。
 法と現実の隙間には理想と日常が横たわっている。
 人はパンのみにて生きるにあらず、さりけれどパンなしに生きるも能わず。
 薫は大きく息し呼吸を整えると、話しだした。
「私の苦しみは、彼が辞めたことだけじゃないの。彼の退職は事前に職員に知らされることも話し合う場もなく、ただ黙って進められていったわ。私も彼のことを知ってて何もできなかった。そして、彼が壇上で言ったことも、まるでなかったかのように新学期は始められていった」
「私ね、薫さん……」
 そのときだった。ミチに、これまで躊躇していたことを勇気を出して話す決心が生まれたのは。
「夫と別居している理由は、他にあるのよ」
 森がざわめき、薫の体も微妙に動いた。

          十一、木霊

 トオルが山小屋から店に帰り着いたのは、夜の八時近かった。運転中もずっと骨壺やバイクの部品のことが頭から離れなかった。晴れぬ気分のまま炊事場で手を洗った。軍手から染みこんだ汚れが爪の隙間に入り、石鹸をつけブラシで擦るとようやく落ちた。
パソコンに沙希からのメールが届いていた。

 突然ですが、私たち婚約しました。今、とっても幸せです。

 写真も二枚添付されていた。一枚は、ライトアップされ煌々と照らしだされた堅牢で巨大な六本の門柱の上に四頭馬に乗った杖を持った女神像がいた。
 もう一枚は門柱の下辺りのアップで、小さなバッグを肩に掛けた沙希が、赤い鬚をたくわえトレッキングでもするようにリュックを背負った肌の白い外国人と肩を寄せ合い、笑顔で写っていた。
 ブランデンブルク門。
 トオルは目を瞠った。
 間違いない。
 ナチ・ドイツやベルリンの壁の歴史がテレビで紹介されるたびに出てくるやつだ。馬車ならぬベンツのオープンカーに乗ったちょび髭の男が右腕を突き出すパレードやハンマーを振り上げた多くの若者が壁を壊す画像が浮かんだ。
 ヒトラーの熱望と破滅と再生。
 里子が聴かせてくれた曲のおかげで、名前だけは覚えていた。
 ブランデンブルク協奏曲。
 ヨハン・セバスティアン・バッハが一七二一年、当時、一帯を治めていた伯爵へ献呈したものだ。
 沙希がドイツに? しかも婚約して。
 最初は何かの冗談だろうと思った。
 旅の途中で知り合った男性とたまたま撮ったスナップに適当な嘘をつけているんだろうと。相手の心情を試す手だ。策に乗じたふりで、今すぐ電話か返信を打ってみようかとも考えた。だが、もし万一事実だったとしたら、祝いの言葉を添え、すんなり済ますことができるだろうか。次第に錯綜し、自信が持てなくなった。
 それにトオル自身、彼女が婚約したことより、今現在、ドイツにいる事実の方が衝撃は大きかった。
 彼女がいなくなる直前に語った、里子が勧めた旅行の夢。経営の忙しさにかまけ消えようとしていた思いを初めて彼女に打ち明けたあの場所へ、沙希はさっさと出かけてしまったわけだ。
卵はどうなったんだ。パン屋のことは。そして残された僕は……。
 トオルの頭にブランデンブルク協奏曲第五番の出だしが繰り返された。
 ヴァイオリンとフルートの会話のようなやりとりにチェンバロが軽快に加わり、華々しさを増していく。小春日和の陽気な日、贅の限りをつくした庭園を貴族たちが寛ぎ闊歩する情景が浮かんできた。もしかするとバッハは毎夜行われていた晩餐シーンをイメージしていたのかもしれない。
 淡い光を照らす燭台の周りにどんなパンや卵、それにジャガイモ料理が並べられていたのか。
だが、今のトオルには、一つ一つが豪華すぎた。
「ほら、これがピアノの先祖様」
 トオルが初めて山小屋へ行った小学校三年の夏のことだ。
 帰って来るや黒鍵と白鍵のことをしつこく聞くトオルに業を煮やした里子が、この曲をかけながら音楽雑誌のページを捲って見せた。そこには形はピアノに似ていても、外板や響板に花や果物や虫の絵がびっしり描かれたチェンバロが載っていた。
「音の出し方も全然違うのよ。ピアノはハンマーで叩くけど、こっちは弦を爪で引っ掻くの。だからほら響きが違うでしょう」
 そう言って再び聞けと言わんばかりに目を閉じた。
 ピアノの生みの親でチェンバロづくりの職人、バルトメオ・クリストフォリのことを調べたのは それから間もなくしてからだ。
「鍵の場所なんかより、要は音を出す仕組みが大事なの。演奏者もそれをどこまで理解して操れるかが鍵よ」
 子ども心に問題をはぐらかされた気がしないではなかったが、自分が確かに里子からすればどうでもいいことにこだわっていることもわからないではなかった。
 黒鍵と白鍵の関係。
 トオルにしてみれば、最後までいびつな楽器の正体はわからず仕舞いだった。
「この子もあの人と同じなんだから」
 突然、そんなとき里子がよく独り言のように愚痴めいた台詞を吐いていたのを思い出した。
 脳裡に甦ったその声は、耳元でしたかと思うとすぐに消えた。実際に言っていたのかも定かでなく、思い込みの可能性もあった。    
 里子に会いたくなった。
 彼女なら何かを知っている、そう思った。
 さっそく携帯に電話すると受話器から聞き慣れた声がした。
 ちょうどレッスンも終わり、アパートへ向かっているとのことだった。逸る気持ちを抑え、これから行く旨を伝え、車を走らせた。
 アパートに着くと里子もほんの少し前に帰ったということで、仕事着のまま待っていてくれた。
 会うのはお盆以来四か月ぶりで、ベージュの生地に細かいギャザーのついたサテンのロングスカートが小柄で小づくりな体や顔つきを大きく見せ、映えらせているようだった。
 寒い夜はこれが一番と言いながら、ノンカフェインの紅茶にすり下ろしたショウガと砂糖を入れてくれた。
「悪いわね。今度はあなたに何でも任せてしまって」
「別にそっちが謝ることじゃないよ。向こうが僕を指名してきたんだし」
 里子とは火葬の前と後で、簡単な確認と連絡を電話でしただけだ。
 八年前まで、毎日使っていた懐かしいテーブルに腰を落ち着けたトオルは、ミチとの出会いを皮切りに、まだ伝えていないここ一月にあったことを一気に話した。
「松崎ミチ……どこかで聞いた気がするけど」
「実は、お母さんに見せずにいた手紙を持ってるんだ」
 ウエストバックから色褪せた封筒を取り出した。里子の表情がどう動くか追ったが、大きな変化はなかった。
 読み終わり椅子から立ち上がると整理箪笥の引出しをごそごそと探し始めた。
「あったわ」
 定型の白い封筒で差出しは父になっていた。ワープロの文字だ。

 薫さんが交通事故で亡くなりました。お知らせしときます。

 封筒の消印は、十七年前、シンジが正式に離婚し家族のもとを離れていった翌々年で、これまで聞いてきた事故の年と一致していた。
「別れてからはあなたのこと以外では全然、連絡を取ったことがないのに、わざわざこれだけを知らせて来るのも変だとは思ったんだけど。もしかしたら、これも松崎って人が送ったのかもしれないわね」
 アールグレイの芳香にショウガが溶け、周辺を満たした。
「それでも当時は気になって、急いで新聞を掻き集めて探し出した記事がこれなの」
 切り抜きは、所々焦げ茶色に変色していた。日付は十二月一日、横一段で事故の様子と被害者の姓名や年齢が書かれていた。
「高校卒業のとき話したと思うけど、相手はあの人と同じ教員よ。でも、出ていった二年後にバイク事故で死ぬなんて」
 これまでトオルの前では、未練がましい態度を見せたことはない里子だったが、当時のことを話せばやはり眦に力が籠った。二人はしばらく紅茶を飲んだ。
「いつか聞こうと思ってたんだけど、お父さんとお母さんはどうやって知り合ったの」
 カップの紅茶が半分ほどになったとき、トオルがさり気なく聞いた。
「あれは私が教室を開いて一年目のときだったわ。街のホールで音楽のコンサートがあってね、偶然同じ場所へ聞きに行ったのよ。あの人、髪もぼさぼさでジーパンにサンダル履きの凄い格好だったわ」
「席が隣同士だったとか」
「それがちょっと違うの」
 会場には大ホールと小ホールがあり、違うコンサートが開かれていた。一つはマイナーなバンドによるロック、もう一つは大ホールでの交響楽団によるシンフォニーだ。
 それぞれロビーに入ったところで里子はハンドバックから、シンジは胸ポケットからチケットを取り出そうとし、ぶつかってしまった。チケットは同じ桜の花がアレンジされたイラストの紙のホルダーに入っていた。
 慌てていたこともあり、互いに頭を下げ、拾うや否や中身も確かめず、里子はトイレへ行ったため取り違えに気付くのが遅れてしまった。開演ぎりぎりまで辺りを見回したがシンジの姿はなく、仕方なくロックコンサートの会場へ入ったそうだ。
 ロックとクラシック。
 末長くしたたかで、互いの肌を逆撫でするような付き合い。
 プログレッシブ・ロック。
 プログレ……。
 なぜクラシックにはつかないのか。
 プログレッシブ・クラシック。
 進歩、進行、漸進、連続……。
 変っていくべきものは常にロックで、座布団に居座るのはクラシック。
 上層、中層、下層の現実にギターとヴォーカルで攻め入るたゆまぬ矯正。
 昇り下りのエスカレーター。
 上下の交錯と中空に生まれては消える無限の踏み台。
 終演後、シンジはホール出口で待っていた。
 里子の姿を見つけるや、つかつかと歩み寄り、もっと探せばよかったが申し訳ないと詫びて来た。しかしその態度がどこか潔すぎたので里子がそれとなく本心を聞くと、せっかくの機会だから、たまにはクラシックもいいかと、入場してしまったと正直に告げたそうだ。ついてはチケット代の差額だけでもお返しするつもりで待っていたと。
「荘厳な音楽に思わず鳥肌が立ちましたなんて、抜け抜けと言うもんだから、最初はなんて図々しい人なんだろうって思ったわ」
「父さん、何聴いたんだろう」
「マーラーよ」
 そこで里子は苦笑し、「でも私も日頃、ほとんど聴かないやつで新鮮じゃあったけど」トオルがにこやかに笑うと、里子は薄く両目を開き「だけど、本番はここからね」
「えっ、まだあるの」
「もちろんよ。このくらいで一緒になるはずないじゃない」それから少し間を置き、「でも後で聞かなきゃよかったなんて言わないでね。まっ、あなたもその年になったんだし、大丈夫とは思うけど」
「何だか急に怖いね。でも僕から頼んでるんだから気にしないでいいよ」
 トオルは里子をじっと見た。
 そうは言ったものの、里子も少し俯き加減になり、何やら意を決しているようで、トオルも身を引き締めた。
 さっきまでの打ち解けた雰囲気が立ちどころに重い空気に変っていった。
 シンジは彼の両親や家族とは関係を断っていると聞いていたが、それは父親の家族への暴力と母の対応にあった。
 三つ違いの姉もいたが、鼓膜が破れるほど殴られることもしばしばで、その腹いせかシンジをいつもいじめていたそうだ。
 始まりはいつも突然の怒声と茶器のはじけ飛ぶ音だった。
 肉と肉とが鈍くぶつかり、骨がひしゃげたような不快な音がつづいた。シンジはいつも脱兎のように裸足のまま外へ逃げ、道端にしゃがみ込み震えていた。すると決まって殴打で顔を腫らした母親が探しにきた。
「お風呂に入っているお父さんをなだめてくれって頼むらしいの。あなたが一緒に入ってくれたら、きっと気が休まるかもしれないって」
 母親もなすすべなく苦しげだった。
 余りに過酷な役回り。
 シンジにとって暴力以上に苦痛な務め。
 サクリファイス。
 生贄。
 次第に感情を外に出さなくなったシンジは、外でも虐めの対象だった。
 小学校からすでに用足しやパシリをさせられていた。
「下駄箱から靴を出して並べさせられたり、わざと忘れて来た筆箱とか取りに行かされてね。あと、一生懸命つくった工作や絵を壊されたり破られることもよくあったそうよ」
あるときそんな生活が嫌で机の下に隠れていると教師に探し出され、心配どころか大笑いされたと言う。
 そこまで話し、里子も気持ちが籠って来たか、胸の詰まりを解くため大きく一度息を吐いた。
「トイレに閉じ込められ、扉の割れ目からおしっこ掛けられたときなんか、ウソ泣きして油断した隙に逃げたら、次の日、罰として何人かに取り押えられ、コンパスで太腿や腕を刺されたって」
 そんな中、あるとき決定的なことを知ったのは、ひそかに死ぬことを考えていた中学二年の時だ。
「家でお姉さんと大げんかになったらしいの。背も伸びてて、体ごと押し倒して、これまで自分がどれだけ辛い思いをしてきたか積もりに積もった鬱憤をぶちまけたら、お姉さんもたまりかねたように叫び出したらしいの」
 話はこうだ。
 彼女は五つのとき、見知らぬ男に笹林へ連れ去られ、性的虐待を受けていたのだった。
かわいいね、かわいいねと体のあちこちを触わられた後の記憶はないという。気が付くと目の前に警察官が立っていて、次の場面では病院のベッドに素っ裸で寝かされ、医者があちこち調べ、その隣りには鬼のような形相の母親がこちらを睨み仁王立ちしていた。
 地の底から吹き上がってくるような嗚咽交じりの言葉は、辛うじて固まっていた瘡蓋を自ら剥がし、迸ってくる血を怨恨とともに浴びせてくるようだった。
「あの人も必死に返したって。どうしてもっと早く言ってくれなかったんだって」
トオルは希望のないまま服を脱ぎ、裸で風呂に向かう幼少の痩せたシンジの背中や姉の前で茫然と立ち尽くす姿を思い浮かべた。
「その告白で何もかもがわかったって言ってたわ。自分の家がどうしてどこか肝心なところが噛み合わなかったのか。父親がすぐにキレてしまう理由も、母親がそんな相手に文句一つ言えず、お姉さんがなぜ自分につらく当たっていたのか。何にも知らず蚊帳の外にいたのは自分だけだったって。それでね、そのことがあってから、あの人はあの人なりにじっくり考えたらしい。お姉さんが保護され病院のベッドにいたとき、一体、自分はどこにいたのかって。そしたら、どう考えても母親の背中におぶさっている姿しか想像できなくて、それからはベッドに横たわるお姉さんを見下ろす構図が消えなくなって、いけないことだとわかっていてもお姉さんが不潔に思えて仕様がなくなってきたらしいわ。被害者で身内なのに。家族もとにかく許せなくなって。もちろんそんな自分も許せないから、このまま家にいたら何をしでかすかわからず怖くなって、それで中学卒業すると家を出たらしいのよ」
 シンジの最期の死に場。
 お湯の湧きだす小さな温泉の窪地。
 誰もいない静まり返った森。
 彼はもはや、本当に猿でも人でもなくなっていたのかもしれない。
「私と知り合ったときなんか、どこに住んでたと思う」
「アパートとかじゃないの」
「テントよ、それも公園で」
 トオルがその場所を聞くと、一度、シンジが家を出る数か月前、連れて行ってもらった記憶があった。秋口だったろうか。樫や桜の緑に囲まれ日当たりはさほどよくなく、人が寄り付かないようなひんやりとした所だ。
 シンジが、黙ったまま悄然と一点を見ていた姿を覚えている。
「あそこか。まさかあんなとこで」
 公衆トイレもあり、手洗い場の水を使えば、十分に事足りた。
「それまでは、住み込みで働いていた新聞販売店に紹介してもらった古い貸家にいたそうだけど。取り壊されて、行く場所がなくなったんだって」
 里子はそこで神妙でありながら、雰囲気でも変えるつもりか寛いだ顔になった。
「おばあさんが一人暮らししてたらしいけど、亡くなった後、身寄りがないもんだから仏壇や遺影とかもそのままで、毎日水変えや、たまに花もお供えしてたらしいわ」
 十六から二十六まで十年間、シンジは見ず知らずの故人に手を合わせる毎日を過ごしていた。
「お母さんはテントへ行ったことあるの」
「ええ、物見遊山でね。一度は覗きに行くだけで、二度目におにぎりとか差し入れ持っていったら、どうぞゆっくりしていって下さいって言うものだから、つい長居しちゃったの。もちろん入るのには勇気がいったけど、中はかなり違う感じなのよね。なんだかそこだけ外の世界と切り離されたみたいで。寝袋とリュックが主な荷物で、あとは大したものは何にもなくて。スッキリしてたわ。さっきの話をしてくれたのもそのとき。いきなりあんな深刻なこと打ち明けられて、こっちもびっくりしちゃって。そうそう、CDのラジカセがあって音楽が流れてた」
「何が」
「ハッピークリスマス、ジョンとヨーコ。それとア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム、あなた知ってる? サム・クック」
 沈黙。
 まさか。
 ジョンとサム。
 ようこそヨーコもそこに。
 冗談、それとも嘘、作り話。
 できすぎでもどちらでもいい。
 死なないでほしいこれからもずっと。
 だが、もういない。
 銃弾の傷が鉱泉の湯で流れ落ち消えて行ってくれたら。
 ベッド・インそしてテント。
 修正第二条。
 そのまた
 修正。
 正。
「だけど、あの日から二人とも、どこかで無理していたのかもしれないわね。あの人ね、教員免許とってたのよ。新聞販売店のご主人が、お前みたいなやつは教師に向いてるって熱心にすすめてくれたらしくて、最初は絶対なりたくなかったらしいんだけど、通信教育で高校も大学も行って。私と会った後、採用試験も頑張りだして、本採用されたのは次の年。こっちもピアノ教室だけはつづけていこうと、あなたが生まれてからも子育てとの両立を必死にやってきたわ。二人とも意地っ張りなところもあったし。でも今思えば、本当に教師が向いていたのかどうか」
 トオルは再び、新聞記事を眺めた。
 里子は、立ち上がると食器棚の隣りにある緑のラックからCDを一枚選びプレーヤーにセットした。
 人差し指を添え、スイッチが入ると、ホルンが一斉に鳴り響いた。金管や打楽器の重々しい音とともにシンバルの轟きも加わっていく。トランペットがボルテージを上げ、じわじわと、格調高く室内を包んでいった。
 マーラーの交響曲第三番だ。
「ゴジラだね」
「あなた子どもの頃、これ聴くたびに、もうすぐコジラが出るよって嬉しそうに言ってたものね」
 里子は立ったまま懐かしそうに目を細めた。
 第一楽章をしばらく聴いた後、早送りした。
 アルトの独唱が流れてきた。
「この第四楽章は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の一節が歌われているの」
 またもや初めて聞く説明にトオルの胸はドキッとした。
 咄嗟に猿のことを話そうかと思ったが、今、口に出すべきか迷いが生じた。するといつのまにか動揺を覚られぬよう、わざとらしくカップを口に運ぶ自分がいた。

 おお、人間よ! 気をつけろ!
 深い真夜中が何を語っているのか?
 私は眠っていた。眠っていた。
 深い夢から私は目覚めた。
 この世界は深い。
 昼が考えたよりも深い。 
 この世界の嘆きは深い。
 喜びのほうが 深い悩みよりも深い。
 嘆きが言う。『消えろ!』と。
 だがすべての喜びが永遠をほしがっている。
 深い、深い永遠をほしがっている!

 暗記しているらしく、そらで日本語訳の歌詞を読み上げた。
「クラシックはそれほど好きじゃなかったんだと思う。でも、ここはよく聴いていたわね」
 そうつぶやくと薄っすら瞼を閉じた。
「結婚してから、あの人が楽しそうだったって感じたことはないの。当たり前よね。あんな辛い経験があるんだもの。仕事場でのことなんかも全然話してくれなかったし」
「お母さんから話しかけることはなかったの」
「それがね、いつも軽くいなしてばかりで相手にしてくれないの。口を開けば大丈夫だからの一点張りで。それでこっちもしょうがないから構わないでいたら、ある日、今年で辞めるって突然告げられて」
「止めなかったんだ」
「そうなったらもうね。言い出したら聞かないってことは知ってるし」
 トオルは頷きながら紅茶を飲んだ。
「教師を辞めた翌年だから、あなたが四歳のときだったかしら。好きな人がいる、どうしても別れられないって言われたの」
 独唱はつづいていた。
「怒りや驚きって言うより悲しかったわね。しばらくは眼の前が真っ暗で。でも教師を辞めるって言われたときよりは、楽になったのも事実よ」
 トオルは意外な言葉に驚き、耳を傾けた。
「これでようやくこの人も私以上にもっと自分の気持ちを理解してもらえる相手に出会えた、よかったじゃないかって。だってまたお互い無理して一緒にいても、そっちが悲劇だし、辛いもの」
「それで離婚することにしたわけか」
「あの人もできる限りのことはするって約束してくれて」そして声を落とし「小さかったとは言え、あなたの気持ちを無視した形になってしまって、そのことは、今でも申し訳なく思ってます」テーブルに戻って来て、畏まったように頭を下げた。
「幸い、ピアノ教室の方は順調で生徒数も安定していた時期だったから、私も柄にもなく言ってしまったの。こっちは大丈夫よ、トオルと楽しくやっていけるから。でもあなたが心配ね。また格好つけてなきゃいいけどって」
 次第に表情も明るくなり、サバサバした口調になった。
「だから、夏休みに山小屋へ行くことを熱心に勧めたんだ」
「あれはそれだけが理由じゃないけど」
 すり下ろされた固形物が底へ消えた琥珀色の液体を見つめた。
「でも、山の中で、よく一人で持ちこたえたものね」
 感心したようにつぶやき、ゆっくり紅茶を口に含んだ。
「遺書の中身のことは、まだ電話でも言ってなかったよね」
 向こうからは聞きにくいだろうと、トオルが機転を利かした。
「僕にはピアノと置物を遺すんだって」
「そう」
 里子は、すっとCDプレーヤーの方へ顔を傾け、小さく溜息をついた。
 いつのまにか首や目尻に皺が目立つようになり、年のわりに若くは見えても、時間の経過だけは示していた。
 一番話さねばと思っていた肝心の腱の色や置物の傷、それに今聴いたばかりの楽曲に纏わる猿の名前のことは、ついに決心がつかぬまま、一言も言えずに終わってしまった。
 ツァラトゥストラの独唱は、やがて終わりに近づきつつあった。
 そのとき、トオルの頭の中に、ある情景が浮かんできた。
 小学四年のあの夏、最後に山小屋へ行った日のことだ。 
   
             十二、落葉

「夫と別居している理由は、他にあるのよ」
 山小屋の探索からの帰り、ミチは何度も頭の中でその言葉を繰り返していた。あの一言からだ、後戻りできなくなったのは。あのとき薫は何かを素早く察知したように向き直り、彼女を見た。ミチにはそれが話してもいいサインに思え、勇気を振り絞り口にしたのだ。
「彼に女の人ができたの」
 平静を装いながらも、声はどこか裏返った。
「薄々気づいてはいたんだけど……」
 空になったグラスは床に置かれ、薫は両手をお腹の辺りで組んでいた。
 意見の食い違いが頻繁になり、三年たったときだ。
 当時は一戸建ての職員住宅に住んでいて、無愛想だった夫が帰宅すると妙に機嫌が良い日が増え始めた。
 元々嘘がつけない男だった。
 そんなある日、決定的なことが起こった。学校の夏休みに夫の担任する生徒が交通事故に遭ったのだ。双子の娘たちは保育園の年中になっていた。ミチも年休であれこれ溜った家事を片付け、ようやく一息つきお昼にしようとしていたときだ。
 出張で不在であることがわかっているはずなのに何故か家に学校から急用の連絡があった。
「今、外出していますが、帰り次第知らせます」
 とってつけた嘘を言い、受話器を置くと突如、視界が暗くなった。
 密閉された空間に一人、取り残されたようで圧迫感を覚え身が竦んだ。足元に亀裂が生じたようだった。夫が帰ってきたときの自分の表情が浮かんだ。おそらく今夜、自分はどんな人間より細かな観察者になると予想された。
 六時近くに帰って来た。
 いかにも出張帰りのようにショルダーバッグを肩に、手には土産のケーキも持っていた。
「お昼に電話があったわよ。あなたのクラスの子が交通事故に遭ったんですって」
 靴を脱ぎかかるや唐突に切り出した。
 ミチはそれ以上は何も言わず、磁力に引き寄せられるように視線を相手へ傾けた。片足を三和土に載せたその顔は蒼褪め、頬が引き攣り、日頃の姿とは程遠かった。
 すぐに車へ引き返し、運転席から携帯で学校へ電話を入れているようだった。何度も頭を下げる姿は外から見ていても悲愴感に満ちていた。
 その夜、二人の娘のあどけない寝顔を見ながら、彼女に苦しみがやってきた。
 小さな寝息が聞こえるたびに、一人だけ淀んだ時間の中にいるようで次第に最悪のシナリオの妄想に引きずり込まれ、底なし沼へ落ちていっているようだった。事実を突き止めるのはやはり怖かった。子どもたちが愛おしく、その存在が胸に迫った。以前、口論になったとき、夫は形相を変え大声になったことがあった。スプーンを手にしていた娘たちは食べるのを止め、両手で耳を押さえ、口は真一文字に閉じていた。
 時計の針が十一時を回った頃、車のエンジン音がし、やがて玄関が開いた。ミチは子どもの寝室から起き襖を開くと、疲れ切った夫がゆっくり廊下を渡り、ソファに沈み込むように腰を下ろした。
「どうだったの」
 向かいの絨毯に正座した。
「幸い軽い接触事故で精密検査も異常なかったから、明日には退院できそうだ」
 事務的な答えだった。
「今日、学校から直接、電話があったの」
 夫は黙っていた。
「出張じゃなかったのね」
「何から何まで知らせなきゃ、いけないのか」
 表情こそ普段のままだが軽い怒気が感じとれた。
「当たり前でしょう。私たち夫婦なのよ」
 予想外な横柄さに恐怖心は消え、むしろ奮い立つ気持ちが湧いてきた。
「正直に言ってちょうだい。あなた誰かと付き合ってるんでしょう」
 夫は視線を逸らした。
「最近の様子を見ててわかるの。あなたは嘘がつけないから。もしそうじゃないんだったら、今、この場ではっきり否定してちょうだい」
「わかりきってるじゃないか。そんな相手いるはずないだろう」
 夫は真剣だった。だが声は上ずっていた。
「だったら今日はどこへ行っていたのよ。どうして出張だなんて嘘をつく必要があったの」
 相手は怯んだように、目を伏せた。
「あなた、本当のことを言ってないわ」
 何分たったろう。重い鎖を引きずるように時間だけが過ぎて行った。
 耐えかねたように軽く腰を浮かせ、座り直した夫がようやく口を開いた。
「あんまり君が、僕をコケにするから」
 ミチは愕然とした。
 夫とは口論こそすれ、蔑む気など毛頭なかった。しかも仮にそうだとして別の女と付き合うこととどう関係があるのか。筋の通らなさと自分勝手さに呆れ果てた。
「私がこれまで気づかなかったとでも思っているの。毎晩、子どもを寝かしてから、どんな気持ちであなたを待っていたか」
 深い苦しみがその夜から始まった。
 権力との遭遇と警戒。
 自由の希求と死守。
 自己領域の擁護。
 銃保持正当化。
 修正第二条。
 それにかわるべき方法。
 復讐や憎悪心の軽減。
 疲労と徒労と虚無。
 エネルギー消費
 自己悔恨。
 懺悔録。
 嫉妬。
 あれほど心が離れているって思っていた相手に女ができたと知ったとたん、湧いてきた嫉妬と自尊心は苦しみを倍加させた。
 夫との糸を結わえ直せぬとわかっていても、したたって来る油の一滴一滴は火を煽ることを止めなかった。
 なぜ自分ばかりがこんな目に遭わねばならないのか。他人まで恨むようになった。何より子どもたちが心配だった。これ以上、影響を受けさせたくなかった
「私は考えたの。冷静に。そしたら、もうどんな形であっても一度離れて暮らす以外、あの地獄の日々から抜け出すことは不可能だって悟ったの」
 窓ガラスがガタガタ鳴っていた。
 柱の撓りと同時にロフトも揺れ、蓄電された電気で保たれた光輪と一緒に二人の影も移動した。
「別居しましょう。もうそれしかないわ」
 数週間たって、切り出したのはミチの方だった。
 夫は意外にあっさり承諾した。
「最近思うの。私は彼を愛してはいなかったんじゃないかって。怒りをもったのは戸籍上の妻であるって言う、ただそれだけだった気がして。それに……」
 ミチは言い淀んだ。
 夫の行為を責めつつ、彼女自身、最初に憤怒の熱湯を浴びせられた時点から、僅かずつ何かが変わりだしていたことも事実だったからだ。
 別居を宣言し一月が過ぎた頃、いよいよ具体的に転居先を決めるなど準備を始めていたときだ。
 仕事の合間を縫っての細々とした作業や周囲への配慮から予期せぬ壁にぶつかることもあったが、そんなとき飄然と湧き上がってくる男の面影があった。その回数は次第に増し、沈みがちな 彼女を支えてくれるようになった。
 ツアラトゥストラ。
 アイアイ。
 シンジ。
 猿。
「あなたから見たら、私や木村はとんでもない人間なんでしょうね」
 口ごもった相手を庇うように薫が低くつぶやいた。
 ミチは彼女を改めて見た。
 憔悴しきったように俯いていた。ミチもこのままでは終わりたくなかった。
「薫さんがくれた葉書に印刷してあった写真の場所、私、とても懐かしかった」
「だったらよかったわ。あなたとも何回か行った所だったし」
 相手は下を向いたまま、首だけ横にして答えた。
「よく私が落ち込んだとき、揺れるススキを見ながら言ったわよね」
 顔を上げキョトンとすると、瞼を少し大きく開けた。
「なぜ、このススキがこんなに鮮やかかって」
「ああ、そんなことあったわね」
 薫も思い出したらしく照れたように微笑んだ。
 声色を変え薫の口調を真似ると、一語一語に抑揚を込めながらミチがつづけた。
「よーく顔を近づけてみて。ほら、全部が同じように風に靡いたり光を受けて輝いているわけじゃないでしょう。風も光も受けず、陰で動かないのも何本もあるの」
 床をお尻でずるようにして互いの体を寄せ合った。
「光が通らなかったり、中には、同じ条件でも揺れず、真っ直ぐ立ちつづけているのもいるわ」
 薫も声を揃え、二人で和した。
「皆同じように見えてもね、実際はそれぞれが違うの。だからこんなに美しいの。これが現実の姿なのよ」
 薫とミチは顔を合わせ、小さく笑った。
 二人の瞳が電球に照らされ、水晶のように輝いていた。

             十三、残種

 山中での墓探しから二日後、今年も後三日になった日曜の昼下がり、トオルはミチのマンション近くの喫茶店で彼女を待っていた。入口の門松や、この時期限定の特別メニューも揃い、すっかり新年を迎えるムードは出来上がっていた。テーブルごとに下がった赤銅色のシェードから放射状に伸びた光が、窓枠に飾りつけられた派手なリボンを照らし出していた。
 彼は入口から向かって左奥のテーブルに両手を軽く置き、扉へ目を向けていた。ミチが慌てた様子で入って来、目印になるかと、片手を挙げて迎えた。
「ごめんなさい、ちょっと探し物してたものだから」
「こっちこそこないだは、何てお詫びしたらいいか。いきなりあんなものが出てきてさぞびっくりされたでしょう。僕がやろうって言いださなければよかったんですが」
 トオルも気の毒そうに頭を下げた。
 席に着きながらも彼女のどことなくそわそわした様子を気にしつつ、飲み物を注文した後、早速、呼び出した要件をトオルが切り出した。
「どうしてもあなたに話しておきたいことがあったものですから」
「それは、私もなんです」
 ミチの頬は外からやってきて間がないせいか赤みがなく、蒼白く見えた。唇も薄っすら紫がかっている。
「具合でも悪いんじゃないですか」
「いいえ、大丈夫よ」
 意識したように張りのある声で答え、トオルを見た。
 彼も自分の思い過ごしに安心した。
 コーヒーが置かれ、二人は、ほぼ同時にソーサを引き寄せ、揃いの植物の図柄の入った陶器のカップを手にとった。
「今さら僕がどうのこうのって言うことじゃないんですが」
 ミチは繕うように笑みを浮かべ、次の言葉を待った。
「薫さんが亡くなったあとの父のことなんですが」
 トオルは時間でも稼ぐように、一口コーヒーを口に含んだ。
「そのー、父はあなたと付き合ってたんじゃないんですか」
 できるだけ重たくならないよう、淡々と聞いた。
 ミチは多少戸惑いながらも、いよいよ来るべきときが来た、そんな気がした。彼女も今日、トオルにそのことについて話すつもりで、あるものを探して持って来たのだ。
 だが一体、何からどう話せばいいのか。この場になって想像以上に難しく思えた。
 あれこれ悩んでいるうちに呪文でもかけられたように体の節々が硬くなった。ワックスが丹念に塗られた床に、薄っすら二人の影が浮かんでいた。
 トオルにはそんな彼女が、いきなり事実をすっぱぬかれ、衝撃を受けていると思った。
「気を悪くされたんでしたら謝ります。僕は別に責めてるわけじゃなくて、もしそうだったとしたらそれはそれで不思議なことじゃないし、逆に父は幸せだったんじゃないかなあと思って」
店にはリストの『ラ・カンパネラ』が流れていた。
「あれ、これはヴァイオリンですね。へえ、ピアノ曲をこれほどうまく弾くなんて。でもこんなことしていいんですかね、完全なパクリですよね」
 暗い雰囲気にならぬよう少しオーバーに抑揚を強めた。すると突然、黙っていたミチが顔を上げ、訴えるような眼差しになった。
「違うんです」
「えっ?」
 トオルはてっきりシンジとの関係を否定しているのだと思い、相手の表情からその信憑を読み取ろうとした。ミチは耳元へ手の甲を持っていくと頭の先を指差した。
「違うんです。これ」
「これって」
「逆なんです。元々バガニーニっていう人がヴァイオリンの協奏曲のためにつくったのを、リストが本人の演奏を聞いてすごく感激して、ピアノ用に編曲したんです。だからこっちが本家本元なんです」
「そっ、そうだったんですね」
 トオルは力が抜け、カップを手に取った。
「なるほどなあ、それは全然知りませんでした。ミチさん、詳しいんですね」
 ミチは音源でも探すように首を回し、
「ほんの少しですが以前、習っていたピアノの先生が教えて下さったんです」
「いつ頃ですか」
「そんなに昔じゃありません」
 曖昧な言い方だった。
「まさかとは思うんですが、僕の母もピアノの教師なんですけど」
 ミチが言った場所は、里子の教室とは違っていた。トオルも気持ちを新たに曲に耳を傾けた。
ヴァイオリンならではの艶めかしさに激しさが織り交ざり、やがて独奏が終わると金管楽器の荘厳なシンフォニーへ盛り上がっていった。
「これを聴いたのは、リストが二十歳で失恋したときっていう説もあるんです」
 気を取り直すようにミチは背を伸ばした。
「へえ、もしそうなら、失恋がなかったらあのピアノの『ラ・カンパネラ』も生まれなかったわけだ」
「先生がおっしゃってました。いくつかの偶然が重なって、ほとんどの名曲や名演奏は誕生してるって」
 トオルは、巻紙のような楽譜を思い出し、軽く声を出して笑った。
「おやじも馬鹿って言うか、ちょっと普通じゃないですよね。だってこんな難しい曲を弾いてみようだなんて。まさかその偶然を期待してたわけじゃあるまいし。昔からちょっと変わってましたものね。ミチさん、あなたもそう感じられませんでしたか」
 わざと剽軽な言い方をした。
 里子から聞いたシンジの生い立ちについて話すつもりはまったくなかった。彼女がどれくらい知っているかは別として、このまま自分の胸にしまっておく以外ないと思っていた。もうこれ以上、目の前にある現実を掻き乱したくはない。
「ツァラトゥストラ……」
 彼女が急に虚ろな眼差しになり、つぶやいた。
「えっ、何です?」
 トオルは彼女が、錯乱しているのではと心配した。
 コーヒーカップを憑かれた表情で見つめていた。
 陶器には秋の草花が刷毛で梳かれたように薄い紅や緑で色づけされていた。細長い葉の先に小さな蟋蟀も一匹描かれ、羽根を振るわせ鳴いているようだ。
 彼女の脳裡にはいつの間にか十八年前の情景が甦ってきていた。
 葉群の向こうに一匹の猿がいた。心配気に、それでも何かを辛抱強く待つように、身を潜めこちらを見つめていた。
 メイソンは考えたろうか。
 二三八年後の世界というものを。
 パラダイムは変わっていく。
 力の均衡も。
 技術も。
 分配も。
 心と体の質量比も。
 銃性能の向上とそれを律する関数も。
 増していくイリアの恐怖と孤独への処方箋も。
 のっぺらぽうの他者数も。
 だからサムは歌い、
 ジョンはシャウトした。
 何を。
 当然だ。
 愛と平和、それに自由だ。
 今こそ、
 孤立をおそれず連帯せよ。
 ヨッ、
 大統領!
「こうしてあなたと会ったのも運命だったんですかね」
 二日前、山小屋でトオルはミチにそうつぶやいた。
「どういうこと?」
 あの後、ミチはすかさず問い返していた。
 トオルの説はこうだった。
 人は時計の針のようなもので、それぞれ違う動きをしていても突然、何の前触れもなく同時に止まることがある。もちろん、どこで止まるかが運命の分れ目だが、稀に三本同じ場所のときがあり、それが自分とミチ、それに父でないかと言うのだ。
 なるほどそうかもしれない。
 しかし、運命をつくりだしているのも、結局、自分たち自身でもある。
 確かめてみなければ、もう一度。
 あの日、薫に会いに出かけたときのように。
「山小屋へ一緒に行ってもらえないでしょうか、これからすぐ」
 ミチの突然の提案は、丁度トオルがコーヒーを飲み終えたときだった。
「これから? もちろん、いいですけど、どうかしたんですか突然」
「あそこでなら正直にありのままに話せる気がするんです。すいません、急にわがまま言って」
 時計を見ると三時半を過ぎていた。スムーズに行けたとしても、着く頃は日はどっぷりと沈んでいるはずだ。
 バガニーニのラ・カンパネラが終盤を迎えようとしていた。
 金管楽器の一音一音がさらに激しさを増し、超絶技と化すヴァイオリンの弓と弦の撓りに後押しされ、鐘の音を店内に高らかに鳴り響かせようとしているところだった。

             十四、堆積

 咄嗟に言い出したものの、助手席に腰を下ろしたミチは、山小屋に着いたとき何から切り出せばいいかずっと考えていた。あまりに時間も立ち過ぎていた。当時の記憶や感覚も危うかった。だがあの場所なら、それらを甦らせてくれるそんな気がした。
 ロフトで薫と話したあの夜、最後は木村と付き合い出してからのことが中心になった。熾火があるとはいえそろそろ冷えてきたこともあり、二人は布団を敷き、横になった。
「木村さん、薫さんのことを大事にしているって感じね」
 それは、ミチのそんな何気ない一言が発端だった。
「そうかな」
 右の肩越しに薫の声は聞こえた。
「私は孤立した彼と、診断テスト以外ではいつのまにか行動をともにするようになっていたの。彼と私のクラスに兄弟がいてね、よく子どもの家に一緒に訪ねたわ。厳しい環境の子たちで、ときにはお父さんの職場にも二人で出かけたりして。そしてある夜、その家で初めてごちそうになったの。彼はお酒も飲んでたから、私が車で家まで送っていった。そのときよ、この人から離れたくないって初めて強く思ったのは」
 アパートの駐車場に着いたときだ。しばらく押し黙った後、耐えきれぬようにつぶやいたのは木村の方だった。
「手に触れてもいいかな」
 薫はそっと相手の膝に手を載せた。そこへ木村の掌が重ねられ、体温がじんわり伝わってきた。肌と肌を通し血液が駆け巡り、張り詰めたこわばりをいっぺんに解かしていくようだった。闇が柔らかく二人を包み、鼓動が静かに時を刻んでいた。
 やがて薫がそっと手を抜き取ると、木村は疲れ切った顔つきで助手席のドアを開け一歩足を踏み出した。窓越しに薫を見た顔は、何かを訴えかけるように悲愴感が漂っていた。
「でも、それからだわ。本当の苦しみが始まったのは」
 薫はいつの間にか目を閉じているようだった。
「教員を辞めてしばらくして連れ合いさんに私とのことを話したって聞いて、すぐに離婚するかと思ったけど、なかなかね……」
 言葉がロフトに木魂するように響いた。
「いつも最後は連れ合いさんと子どものところに戻っていった。私は裏切られ、打ちひしがれた。この人もよくいる男と同じだって何度も思った。奥さんがいて子どもがいて、家族があってそれが基盤で好きなことがやっていける、そんな他の男たちとちっとも変わらない。私はそのことを彼にいくども投げつけた。彼は苛つき、ときには暴力さえふるった。私は信じられなかったわ。あの人にこんな面があったなんて。私は殴られ、痣は体だけじゃなく心の奥深くまで刻まれた」
 そんな木村の態度の繰り返しに薫もいつしか虚しさが広がっていった。
 言葉が空々しく思え、どんな深刻ぶった台詞も耳元を素通りしていくようになった。
 聞きながら毛布の中でミチは身ぶるいした。それでも薫はつづけた。
「とにかく女性を理解することは男にとって苦痛をともなう作業らしいのね。指示に従わされたり、言いなりになっているふうにしかとれないらしくて。でもね、あの人はどこか違ってた気がしないではないの。男とか女とかじゃなくて、人間そのものを信じてないっていうか。私の存在さえそのときは消えてしまうって言うか。誰とも繋がれないで苦しんでるみたいで。本当はそうじゃないのに」
 周りの男たちと同じと言われる屈辱は木村には大きかった。彼もどう自分を伝えればいいか足掻き苦しんでいたのだ。それが男であるがゆえ一層、困難な壁となり目の前に立ちはだかった。
「でもね、そうは言っても、やっぱりいざっていうとき土壇場で見せる態度は男のそれでしかなかった。彼もきっとそこを見逃さずしつこく指摘してくる私を相当憎んだでしょうね。この女とさえ出会わなければ、こんなに苦しまずにすんだのにって。私も何度も別れようと思ったの。今なら間に合う。今なら元に戻り、彼も家族とやり直すことができる。自分自身にそう言い聞かせ、終わりにしようとした」
 薫が木村と激しい言い争いをした翌日、彼から職場へ連絡があった。
「もしもし……、俺だけど……」
絞り出すような声だった。
 どうせこの手で、また甘えている。いつものやり口だ。二度と引っかかるものか。薫は咄嗟にそう思った。受話器を握り、相手の出方を窺っていた。しばらく沈黙があった。
「話そうと、すると、言葉が……うまく出ないんだ……昨日は、悪かった……苦しい……」
 薫も一応返事だけはしておこうと「わかったわ。私は大丈夫だから」わざと素っ気なく答えた。
「夕方だったわ。いつか二人だけの山小屋をつくろうって購入したばかりのこの土地へ来てみたの。あの人は時間が空いたときは必ずここで整地の作業をしていたから。そのときも一心に草毟りをしていた。でもどう見てもいつもの彼ではなかったの」
 周囲に奇妙な違和感が漂っていた。
 顔色や体調が悪いとかでない。
 そこにいるのに地面から浮き上がっているような、体全体が薄い繭のようなものに取り囲まれている気がした。
 手足や指先、それに眼差しに意志と言うものが感じられなかった。この男にも限界が来ている。そう思った。だがどうすればいいのか、薫にもわからなかった。
「もう、心も体もくたくただった……でも、その日を境にしてからよ。彼もようやく動き出したのは。きっぱりと離婚を前提に奥さんと話し合いを始め、吉田さんも探してきて、部屋を借りる段取りもつけてきたの」
 薫はミチの方へ寝返りを打った。
「でも心の中ではいつも思ってたわ。何で、あんなに学校でハッキリ自分の意志を示して辞めた人が、家族のことになるとこうもあやふやな態度をとるのかって。もちろん彼が子どもさんを愛していることは当たり前だし、よくわかるんだけど。結局は、私はそれ以上の存在じゃないってことかもしれないわね」
 子ども以上……。ミチは気になりつい口に出した。
「私も夫を子どもと同等に愛していたかって聞かれれば自信ないわ。でも、そもそも中身が違うだろうし、比べること自体意味があるのかしら」
「松崎さん、日野さんのこと覚えてる?」
 薫は問いを逸らすように、別のことを聞いてきた。
「私、あの人とバッタリ会ったのよ」
 遠い記憶だが、ミチにも印象深い思い出だ。
「去年、研究会で市外に出たら偶然。彼、臨時採用でまた教師をやってたわ。私の方から声をかけたら覚えていてくれてて照れたふうに笑って。簡単な挨拶だけだったけど、とてもいい顔してた」
 万物流転。
 いつかやってくる。
 内外の帆布越しに。
 テントに注ぐ雨。
 テントを覆う霧。
 テントにかかる虹。
 テントを満たす息。
 テントに浮かぶ二人の影。。
 いつでも誰でもどこからでも。
 サムは今日も奏でる。
 われ思う、ゆえに我歌うと。
「長かった筈よね。日野さんのこれまでの道も」
 ミチもしみじみと遠くを見つめるような顔になった。
「あのときわざわざ教室まで来てくれたあなたに偉そうなこと言ったけど、きっと日野さんの半分の苦しみもわかってなかったわね。私、いつかあなたに謝りたかった。だから勇気を出して招待状を出したの。……それから一つだけお願いがあるんだけど……」
 薫は上半身だけ起こし、ミチを見た。
「私にもしものことがあったとき、あの人だけじゃ心細いから、あなたも連絡先にしといていいかしら。ああ見えてもちょっと頼りないところがあるから」
「もちろんいいけど、だけどこっちが先ってこともありますからね」
 ミチも冗談っぽく答えた。薫は満足したように正面を向くと「さあ、明日の朝が楽しみね」声を弾ませた。
「あの人、意地でも絶対、また自転車で来るわよ。ヘルメットのことであれほど私に注意したし。自分の真面目さを自慢したいはずだから」
 呆れた口調ながら、ミチにはそれがどこか嬉しげに聞こえた。
 電球を消し、しばらくすると薫の寝息が聞こえてきた。
 木村は無事帰り着いただろうか。 
 猿のことは不思議と気にならなくなっていた。やはりもう一人いると心強い。ミチは素直にそう思った。

             十五、森風

 クリスマスイブと元旦の真ん中で、師走では一息つく日なのか、山間部へ向かう上りの道路は比較的、空いていた。郊外を抜けしばらく行くと田園が広がり、その中を線路だけが付きつ離れつ並走していた。
 既に日は翳りだし、傾斜のきつい道の途中でトオルはライトを照らし、アクセルを踏み込んだ。信号停止の度に、助手席に目をやった。ミチは目をつぶっているときもあり、心情はわからなかった。
 二人が出会った警察署を過ぎ、国道を左折すると日はすっかり沈み、周囲は真っ暗になった。
 雪が舞い出していた。
 粉雪が綿雪へ変わり、風に煽られフロントガラスにぶつかってはワイパーで撥ねのけた。ビーグルの集落を横目に山道へ入ると吹雪き始めた。闇が濃くなり、木立ちや土手が乱れ飛ぶ雪とともに皓々と照らし出されては、後景へと消えていった。
 駐車場に降り立つと地面は真白だった。
 トオルは常備している懐中電灯を手に外へ出た。
 雪混じりの強風が両頬を嬲り、肌を切るように痛んだ。
 ミチに手を貸しながら土手を上ると、昼でも日の差さぬ木陰の窪みで凍結してしまった溜まり水が電燈の明かりを鈍く反射させた。
 小屋があらわれた。
 吹き下ろす風と雪が一斉に襲いかかっていた。
 一週間前の長閑な風情は微塵もなく、小屋全体が暗く縁取られ、森と一緒に左右へ大きく傾いているようだった。
 今、まさに踏み越えられようとする領域がそこにある。
 グリーンからレッドへ。
 その揺れを細く小さく至るところへ配分し、消え去らない暗澹とした地響きのようなビブラートのかかった大地と空間。
 開か閉か。
 砂地の干潟に鱗を持たぬ魚はまだ生きつづけられるか。
 隔離と融合。
 鴨居にぶら下ったまま向かい合う二つの亡霊の影は、何をつぶやこうとしているのか。
 殺人と蘇生に必要とされる残された時間は。
 薬莢は飛び散ってしまった後か。
 焼け焦げた掌。
 保全のため放置された光環を囲んだ漆黒の環の揺らぎ。
 ウイルスVSワクチンでなく、コロナVSアンブレラ。
 透明な膜の波状放射。
 迫りくる冷気と闇。
 ミチに懐中電灯で照らしてもらいながら発電機を動かした。
 小屋の中は、隙間風が至るところで唸っていた。
 外気で冷え込み、カーテンの裾も揺れていた。床は軋み、日一日と寿命が終わりに近づいているのがわかった。
「こんな夜は凄い状態ですね」
 じっとしていると筋肉がガチガチになり、体の芯まで冷え込んでいくようだった。トオルは、暖炉に火をつけることにした。土間へ行き木箱を覗くと、数本薪や枯れ枝が残っていた。焚き付け用のダンボール箱を破った紙片も数枚入れてあった。流しの上にマッチがあり、コンロ下に一瞬目をやった後、それらを胸に抱え持って来た。隙間が空くようダンボールと細めの木切れを最初に組み、慎重に火を点けた。小さな炎と一緒に薄い煙が立ち、空気の流れをよくするためガラス戸を数センチ開けた。体を動かすたびにトオルの吐く白い息が不均等に大気に混ざっては消えた。
「注文通りやってきましたけど」
 炎が少しずつ薪に燃え移るのを確かめながら、トオルは縁側の木製のテーブルと椅子を暖炉の傍へ引き寄せた。
 カーテンの隙間から見える雑木が吹雪で霞んでいたが、雪明りのせいか映画か舞台セットのように仄白かった。
 ミチはテーブルに座ろうとはせず、コートのポケットからカセットを出すと、ラジカセにセットした。
 ピアノが流れてきた。
 ボロボロになっていた一番古い楽譜『ツァラトゥストラ』の独唱だ。
 トオルの表情が瞬く間に固まった。
 かじかむ体にいきなり楔が打ち込まれたように動けなくなった。相変わらず白い息だけが鼻や口から漏れていた。それでもカセットと独唱の繋がりの意味が判然とせず、相手の出方を窺っていた。
 ミチは突風とともに時々やってくる大きな揺れにも怯まず、さっきトオルが行ったばかりの土間へ下りると、コンロの置かれた机の下を指差した。
「あなたは、ここに隠れていたわね」
 立ち上がり首を伸ばしたトオルはまじまじと目を向け、気圧されたように息を呑んだ。なぜなら彼自身、今日、ミチに打ち明けようと思っていたのもそれだったからだ。
「小四の夏だったと思うけど」
 恐るべき断定。
 一寸の弁護の余地もない一方的価値の体系の創出と押し付け。
 このときこそ記憶と歴史が重要になる。
 一つ一つの擦り傷、道の大小の凹み、ぽつんぽつんと転がる石ころと辺りを覆った砂礫とその隙間に点々と散らばりと光を反射する石英の数とその年輪。
 圧縮された時間と空間。
 隠蔽と消滅、
 装填し、息を殺したままの潜伏。
 トオルの頭の中には、そのときの情景がまざまざと浮かび上がった。
 あの年、山小屋に来るのは二回目だった。
 街中との違いにもさほど緊張しなかったが、丁度激しい俄か雨の後で森全体が冷え、彼は到着と同時に酷い下痢になった。予定では水着に着替え、一度麓に下り山の谷間へ川遊びにいく計画だった。シンジが死んだあの露天風呂の場所だ。しかし腹痛は治まらず、布団に横になってはトイレへ駆け込む状態だった。
 回復はしたものの、初日でもあり、心配したシンジが薬を買いに行った。
 三十分たっただろうか。丁度トイレから出たとき、玄関口で人の気配がした。痛みも引いた矢先で悪戯心がわき、隠れて驚かしてやろうと思い立った。見つけたのがこの隙間だった。お誂え向きに、中が見えないように木綿の布が垂らしてあった。ガスボンベがあると言っても、当時小柄だったトオルは残りのスペースに難なく身を隠せた。
 布を落とすとほぼ同時に、玄関から人が入ってきた。
 息を凝らし、飛び出すタイミングを見計らった。
 だが足音が近づくにつれ、それがシンジでないことがわかってきた。もの静かで、遠慮深く、できるだけ事の用事を素早く片付けようとする足取りだった。誰なのか。トオルはさらに体を縮こまらせ窺った。汗が腿や脇の下にじっとりと滲んでいるのがわかった。
 やがて、足首が目の前に迫った。
 藍色の短めなソックスと、スカートの裾が見えた。
 それは里子以外に初めて間近に見る大人の女性の素肌だった。冷蔵庫を開けると、持ってきていたものを入れ始めた。ビニールの音がカサカサし、何かが倒れた。足の持ち主は、背伸びして直し始めた。右足を上げ、左足で体を支えると裾がほんのわずか引き上がった。脹脛に力が入り、筋が盛り上がっていた。やがてそれも終えると相手はトオルの視界から消え、一度玄関に行きかけ、また引き返し居間へと向かった。ピアノを開けているのがわかった。そして聴こえてきたのがこの曲だった。
 トオルはミチを凝視した。
 打ち明けてくれたことは嬉しかったが、なぜか裏腹に依怙地な言葉を投げ返していた。
「じゃあ、やっぱりミチさんが次の恋人だったんですね。父があなたにどうしてこの小屋を遺したか、それがずっと引っかかってはいたんですが、これでスッキリしましたよ。さあ、ついでだし、他に隠していることがあったら、今、言ってもらえませんか」
 食器棚の上に置かれた山の風景写真の額へ目を送った。
 彼女があのとき立て直したものだ。
 ミチには縺れた糸を解きほぐし、事実を伝える困難さが襲ってきた。できるだけ正確に、当時の気持ちを伝えたかった。
 時間が必要だ。
 それほどに私がこの親子にしたことは大きかったのかもしれない。
 居間へ戻って来るとテーブルに着いた。
「もしかすると、手紙だけじゃなくピアノの遺骨や遺品も、あなたの仕業だったりして」
 反応のない態度に刺激されたか、トオルは容赦しなかった。
「薫なんて人もこの世に実在したのかな。父も母もあなたも、皆、まだたくさんのことを隠してる気がするけど」
「どうして」
 ミチが悲しげに眉を寄せた。
「どうしてそんなふうに言うの。それじゃあ、あんまり」
「そんなふうに……、ふーん、じゃあどう言えばいいんです。所詮は愛情のない結婚の果ての情けない結末じゃないですか。それにあなたまで……飛んだお笑い草だ」
 トオルはそこまで言うと自嘲気味に小さく笑った。思いたくないことばかりが、ひねくれた感情と一緒にせり上がり、口に出るのを止めることができなかった。
 シンジの父親からの暴力。
 幼少時の虐め。
 母親の無力と性暴力を受けた姉の苦しみ喘ぐ声。
 そして、孤独。
 わかってるわかってる、そう何度も自分に言い聞かせても、これまで抑えつけてきた何かが暴れ出していた。
 自身を蔑みたかった。
 鞭打ち、その場から消え去りたかった。
 どうしてこんなところへ呼んだんだ。なぜ僕に遺書なんか残した。
 己へ自分自身が向けたいたぶりが、今、トオルを通して相手を見ていた。
「あなたに何がわかるって言うんです。他人のあなたに。もうなにもかもうんざりだ」
「違う、違う、そんなことじゃない」
 ミチは押し殺した声で首を振った。
「あなたも私と同じなのよ。私が薫さんのことをわかっていなかったように、あなたもお父さんやお母さんのことをまだ何にもわかっていない」
 トオルはシンジの体験や姉の件を一瞬、話してしまおうか迷ったが、まだ勇気が持てなかった。
 暖炉の炎と白熱球の光の届く範囲以外、部屋は闇に溶けていた。声は、深い洞窟で発せられたように低くくぐもり、被さるように隙間風が鳴った。
 ミチは両手を首の後ろへもっていくと、セーターの中から形見のペンダントを取り出し、トオルに手渡した。
「それを一枚剥いでみて」
 言われるまま捲ると下からもう一枚あらわれた。
 切られる前のものだ。
 右隅にシンジがいた。下顎を突き出し、黒目を上に、おどけた顔で猿の真似をしていた。両手はおねだりしているかのように薫へ向けられていた。その先に黄色いパンジーの生けられた小鉢があった。
 これまでトオルの知らないシンジの姿だった。  
「十七年前のあの日の私は、これを遺影には使いたくなかった。薫さんを僅か一日にしろ裏切った男が、しかもそんなにふざけて」
 もしあの日、そばにいてくれてたら、あんな事故に遭わなくてすんだかも知れない。
何がアイアイだ。何がツァラトゥストラだ。
 ミチにはかつて研究授業後で見せた姿も、学校を辞め薫と暮らし始めた生き方や山小屋で得々と語った森の哲人の話さえ、すべて写真と同じ猿まねとしか思えなかった。
 そしてそんな上っ面に少しでも魅かれた自分が情けなかった。
「だから他にもないかって、色々探したの。でもこんなに生き生きと嬉しそうな彼女の顔は、それしかなかった。だから私はせめて切り取って、薫さんからこの男を消し去りたかった」
 自分自身にも言い聞かせるようにつぶやいた。
「失ってからなんだと思う。人がわかろうとするのは。でも、そのときはいつも遅いの」
 苦しげにトオルを見た。
「あなたはなぜ、薫さんとお父さんが出会ったかは知ってますか?」
「同じ学校に勤めてたからでしょう」
 固い表情のまま答えた。
「そうね。少しは、お母さんが話したかもしれないわね。でも、私がお母さんと知り合いだったってことは言わなかったんじゃないかしら」
 トオルは思わず目を瞠った。
「私にこの曲を教えてくれたのは、さっきあなたが店で聞いた通り、里子さんなんです」
ゴーッと唸る音が足元でした。
 吹き込む風に床板が必死に堪えているようだった。
「事故のときシンジさんは里子さん、そう、あなたのお母さんに会いに行ってたの」
 十七年前の十二月一日、午後四時頃だった。
 職場にいたミチの元へ薫の事故の連絡が警察から届いた。
 病院へ駆けつけながら即座に思ったのは、なぜ木村からではなかったかということだった。悶々とした気持ちのまま、搬送先の救急医療室へ着くと、ベッドに仰向けにされ変わり果てた薫がいた。
 既に脳死状態だった。
 警察へ知らせたのは後続の若い男性ドライバーだった。カーブを曲がろうとしたときステップに置いていたポリ缶の重さでバランスを崩し、転倒したらしい。ヘルメットは抜け落ち、頭を路肩で強打したのだ。水の入ったポリ缶が道路脇へ投げ出されていたと、現場検証をした警察官が教えてくれた。
 木村はすっかり日が暮れてから病室へ現れた。
 薫はまだ人工呼吸器で生命を維持してはいたが、翌朝未明、血圧が下がると投薬も限界となり、ついに帰らぬ人となった。
 二人、薫の亡骸を前にベッドの脇で途方に暮れていたとき、木村の口から出た言葉にミチは愕然となった。木村は、事故当時、別れた元妻の所へ行っていたと言うのだ。理由は何か、幾度聞いても答えなかった。
 俄かに木村の本心が疑わしくなったミチは、薫の死後、どんな行動をとるか、つぶさに見ていく決心をした。
 元の鞘にあっさり収まるのではないか。結末を見とどけ、ことによっては公的に訴える覚悟だった。
 手始めに木村の名で里子に薫の死を知らせる手紙を書いた。どう動くか見てみたったからだ。ところが里子もシンジも、連絡し合う様子はなく、それどころかシンジはすぐに住居を木工所から山小屋へ移し、一人で暮らし始めた。
 そんな木村に異変があらわれたのは年も明け二月半ばの頃だ。仕事を休みがちになり、山小屋からもほとんど出なくなった。ぼんやり縁側の椅子に身を沈め一日を過ごすようになった。食も減ったようで、頬がこけ、体全体から精気が抜け落ちていっているのがわかった。
 ある日、山小屋へ行くと凄まじい音が外まで轟いた。
 急いで扉を開け居間へ駆け上がると撥ね上がる木屑や摩擦熱の焦げた匂いとともに、唇をわななかせ、半泣きの形相で丸鋸を構えた木村の姿が飛び込んできた。
 事故当日、一旦小屋へ戻った際、持って来ていた置物をまさに今、切断しようとしていた。。
 ミチは、咄嗟にコンセントを引き抜き腕をつかんだ。
「何するつもり。せっかくつくったのに。薫さんが悲しむわよ」
 そのときのシンジの見据えた目を彼女は今でもよく覚えている。
 自分を責め苛む暗澹とした色に淀んでいた。悲壮感とともに冷たい陰鬱な影が巣食い、昏く虚ろ気な表情でミチを見ていた。
「もう頼る人はあなたのお母さんしかいないと思って、縋る気持ちで会いに行ったんです。でもどんな人か確かめたい気持ちもあったから、最初は生徒になりすましていました」
 練習室に入ってすぐ感じたのは、山小屋とのあまりの違いだった。 
 天井にはスポットライトが三つ点灯し、小型のグランドピアノに艶やかな光沢を浮かび上がらせていた。
 薄いクリーム地に赤やピンクの薔薇やカーネーションをあしらった壁紙が貼られ、コレクションのCDやレコードがラックに並べられていた。リムスキーコルサコフの交響組曲『シェヘラザード』やシベリウスの交響詩『フィンランディア』、それにサン=サーンスやマーラー、それにベートーベンの『田園』もあり、主に交響曲が多かった。
 ピアノをやってはいるが元々は高校と大学のブラスバンド部でホルンを担当していたそうだ。
「週に一度のレッスンで一か月が過ぎようとした頃、里子さんが、こちらが聞いてもいないのに、どういう理由でか自分の境遇を語り出したんです。なぜだろう。最初はわからなかった。でも思ったんです。里子さんは何かを知っている、何かを感じてるって。だから私も正直に話したの。死んだ薫さんの友人であることを。手紙のことも、そのとき言いました」
 シンジの最近の様子もつぶさに語った。
「最後に、置物を切ろうとした話をしたときです。それまで表情を変えず聞いていた里子さんの顔が血の気が引くように真っ青になったのは」
 俯いたまま深く溜息をついた里子の姿は、今でも強く焼き付いている。
「頼んでみたんです。シンジさんが最初に切り張りしてつくった楽譜を見せて、この曲をあの人の前で弾いてくれないかって」
 トオルはラジカセの音に耳を傾けた。
 ピアノは風に掻き消されず鳴り響いていた。
「里子さんは、もちろん弾く気はないってはっきり言いました」
 気落ちするミチを気の毒に思ったのか、ここでならという条件で楽譜を取り上げた里子は、初見とは思えぬ流暢さで奏でて行った。そして弾き終わると、さっきまでとは違い、少し落ち着いた様子でこの曲のことを訊ねた。
「薫さんがCDから聴き取ってコピーしたって言うと、改めて楽譜を眺めながら、一言、私ならそこまではしなかったなあって」
 それから里子は、そんなに難しくないからあなたが演奏してあげたらいいと、丁寧にレッスンをしてくれたのだ。
「息子が山小屋に行ったとき、お世話をお願いねっとも頼まれました。今年もあそこへ行くの楽しみにしてるからって。練習用にカセットに録音もしてくれて。そう、今聴こえてるのは、あなたのお母さんのピアノなんです」
 曲も、ある程度弾けるようになった日、レッスンが終わってからミチは、前からはっきりさせたかったことを訊ねた。
 薫が死んだあの日、シンジはここへどんな目的でやって来たのか。
 赤の他人が口を挟むことでないのは承知していたが、聞かずにはおれなかった。
 里子は最初あまり思い出したくなさそうに視線を落とした。だがしばらく考え込み、踏ん切りでもつけるように小さく頷くと坦々と語りだした。
 あの日、木村は突然、赤い毛布に包んだものを肩に担ぎ、颯爽とやって来たそうだ。戸惑いを隠せぬ里子だったが、彼が以前から思いつくと即座に、何かに取りつかれたように自分の都合だけで行動に移すところがあり、半ば呆れながらも迎えたと言う。
 ミチには、最初に山小屋へ誘導してもらいながら軽トラの荷台で見た情景が思い浮かんだ。
 シンジがさも得意げに毛布を剥ぐとそこには奇妙な置物があった。
 何でも二年くらいかけ彫ったらしく、初め見た時、里子には素人が彫ったものには思えなかった。
 一刀一刀の深さと太さにめりはりと力強い造形で陰影もあり、どことなく寂寥感を漂わせていた。枝葉がない代わりに茎からニョッキリ流線型の花弁ともつかぬものが顔を出し、得体の知れぬ不気味さもあった。
 一週間後のトオルの誕生日にぜひプレゼントして欲しいと頼んできたそうだ。
 ただ里子には全体に親しみにくく、どうしても飾る気にはなれなかった。
 それに一緒にいるときから、そういった一方的な面についていけないことが多く、相手が悪気でないだけに指摘するのは辛かったが、この際と思い、自分の思いを告げたそうだ。
 トオルがこれを喜ぶかどうかわからないし、私も正直、置きたくはない。これからは、何かしてあげるときは、一度相手の気持ちを聞いてからやった方がいいのではと箴言したらしい。
 元妻から聞く初めての言葉に木村は反論することなく、すごすごと置物を脇に挟み込むようにして抱え上げると引き下がったそうだ。
「それがあれなんです」
 布が被さったままの置物をミチは指差した。
「マムシグサからイメージしたって言ってたそうよ。里子さんは帰ろうとするシンジさんに、言い過ぎたらごめんなさい、やっぱり飾らせてってすぐに引きとめたそうだけど、駄目だったって」
 トオルは山道で蹴った日のことを思い出した。
「花言葉って知ってるか」
 シンジが途中でトオルに聞いたことがあった。
 口元が悪戯っ子のように緩み、笑みが浮んでいた。
 トオルは首を振った。花の形や香りや色、それに生活の中での役割から、人間が連想できる言葉を勝手に結びつけたものだと説明してくれた。
「じゃあ、これにもあるの」
 シンジはトオルがそれまで見たこともないような悲愴感に満ちた顔になり、まるでその感情を自身ではどうすることもできないように首を一度大きく横に振った。

 壮大な美

 なんか変だと思わないか、トオル。
 虫の命を奪って生きてるくせに、壮大で美しいだなんて。人間に勝手につけられたこいつらもいい迷惑さ。だけどなトオル、よくよく考えれば、毎日、こいつらはこいつらに与えられた場所で必要なだけの虫を食ってるだけなんだよ。それを一々言い訳がましく説明もしなければ、他の生き物に責任をなすりつけたりもしない。毎年初夏になると黙って土から生まれ、時がたてば散っていくだけさ。でも、それがすべての生き物の本来の姿なんじゃないかな。だからこれはせめてものお父さんからの祝福の儀式さ。
 トオルから離れると、一段と力を込め蹴り始めた。
 トオルも夢中で狙いを定め、足を振り上げた。
 山小屋は床だけでなく板壁もあちこちで軋み、悲鳴を上げ始めていた。トオルはミチの顔を再び見た。
 メイソンの残した遺産。
 バスティーユに舞う遺骨と草稿。
 いざフランスへ、いざアメリカへ。
 市民は待ち望んでいる。
 剣を。
 銃を。
 逆立った茨の絡まる壁と不自由を。
 断ち切るべき鋼のような鉄鎖を。
 サムとジョンを。
 革命の凱歌を。
「いろんなことを知るにつれ、思い違いや誤解をしていたことがわかってきたの。薫さんとシンジさん、そして里子さんのことも」
 里子から習った曲を初めてシンジの前で弾いたときのことだ。旋律が進むにつれ無表情だったシンジの目にほんの僅かだが光が宿った気がした。精一杯やってはみたが、演奏に自信が持てなかったミチは、里子の録音も聴かせてみた。するとシンジの口際の筋肉や頬が急にぶるぶるとふるえだした。
 湖面。
 シンジの内面を存在の奥から映し出すものの浮上。
 薄っすらと陽炎のように立ち昇る影。
 ピアノの一音一音が硬質なプラスチックの器から出るとき、これまで跳ね除けて来たものが朧気に形を成していく。
 聞いたこともなかった和音の調べ。
 揺らぐ影はやがてぼんやり姿をつくっていく。
 里子でも、ミチでも薫でも、ましてトオルでもない。
 シンジだ。
 紛れもなくシンジ自身がシンジ自身の中からひっそりと誕生していく。
 ふと振り返れば言葉と言葉が棘をもって刺し合う毎日。
 信頼はどこに。
 面倒でも、ややこしくても、結果は見えてても、
 棘の一本一本を抜き取る以外ない。
 修正第二条の中から生まれる新たな修正第二。
 シンジの喜びと絶望。
 湖面劇。
 瞳、そして口元。
 唇を強く噛みしめ、同時に瞳が真っ赤に染まり、頬に一筋、二筋、線を辿るように滴が零れ落ちた。
 後はただ静かに見守るだけだった。
 それからは時間はさほど必要ではなかった。
 日ごとに生活にリズムが戻ってき、一月も経つ頃には木工所へも出かけるようになった。
シンジにまた、異様な行動が始まったのは、その夏、無事に山小屋での父子での一週間が終わり、トオルが帰った翌日だった。
 ミチはそれまで、山小屋へ行くと薫の遺影にお参りするのが決まりだった。生前そこの窓からの景色が一番好きだったこともあり、ロフトに小さな祭壇を置き、遺影と御骨を供養していた。もちろん、トオルが来ている間は箱に仕舞い、食器棚の上に置いていたのだが、それら一式がすっかり消えていたのだ。
「一体、どこへやったの」
 詰問しても、頑として答えなかった。
 さらに異変が起こった。
 一週間後、ピアノの黒鍵と白鍵を塗り替えてしまっていた。ミチが行った時は部屋中にシンナーの匂いが充満し、剥がされたマキシンジグテープが散乱していた。  
 今度は、できるだけ慎重に訊ねた。
 追い詰めてまた以前のような状態にさせてしまうことだけは避けたかった。
「トオルがつぶやくんだよ、ここへ来るといつも、どうして鍵盤の色ってこうなのかなって」
 ミチはいかにも同調するように頷いてみせた。
「そしたらね、やっと昨日の夜、薫さんが小屋にやって来てくれて教えてくれたんだ。ツァラトゥストラを思い出してって。あなたの親友のツァラトゥストラを。世界は皆、逆さまだって言ってたでしょう。塗り替えてみたらきっとわかるわよって。だから皆を信じてって」
 シンジは薫の存在を感じ、声も聞こえている。
 ミチは半信半疑だった。
 だがとにかく健康状態はよくなっているふうだったので、あまり刺激しないよう了解することに努めた。
 ところが奇妙な行動は、それだけでは終わらなかった。
 何かに取りつかれたように、次々と自分の好きな曲の楽譜を要求し、独学でピアノの練習を始めたのだ。
 まずは薫が譜にしてくれた曲をノートから切り取り一枚紙にしたのを手始めに、ミチがコピーしてきたものを次々と貼り付け、仮名をふっていった。そしてピアノの天屋根にCDラジカセを置き耳を近づけては、何度も再生と巻き戻しを繰り返し、音の印象と記憶が消えぬうちに楽譜で探し出しながら自分なりの指運びで覚えていくのだった。
見ていても凄まじい集中力だった。
 ミチも、たまに簡単そうな箇所は弾いてやることもあったが、黒白あべこべで引き難く、余り上手くできなかった。だがシンジは、むしろその配置の方がやりやすいようで、まるでピアノ自身と会話しているように生き生きとしていた。
 彼のどこにこんな不思議な力があったのか彼女自身、信じられなかった。
 もちろん聴いてどれもぎこちなかったが、一曲終えるごとに彼なりに納得しているようで、はなから弾けぬと思ったものは仮名をふるだけで満足している様子だった。
 そうやって十六年が過ぎた。
 ここ二か月、娘たちの結婚話が一辺に進み、式の準備に追われ、山小屋へ行けなかった。そんなとき訃報は届いたのだ。

          十六、萌芽

 誰かが呼んでいる。
 ミチは、暖炉の炎の前でトオルと向き合いながらどこかで別の声を聞いていた。
「おはよう、松崎さん」
 薫の声だ。
 導かれるようにロフトから梯子を下りた。山小屋は明け方から急に冷え込み、そこでも今と同じように暖炉には火が燃えていた。木村の声もした。二人で朝食の準備をしているようだ。
テーブルにはお味噌汁と焼きおにぎりがあった。
「これとは最後まで付き合ってもらうわよ」
 おにぎりは昨晩のむかごご飯だった。
 薫が腫れぼったい顔つきで冗談っぽく言った。外は昨夜の天気が嘘のように晴れ渡り、蒼空の彼方から鳥の囀りが聞こえていた。
「松崎さん、帰った後、むかごしか覚えていなかったりして」
 木村も昨日とは違い、初めからくだけた調子だ。ミチは薫の予想通りきちんとやってきた木村を労おうと思ったが、その話題には敢えて触れないことにした。
「心配めさるな。他にもとっておきのがあるのよ」
 薫が厨房から持ってきたのは煮物だった。
「春に採っておいたゼンマイよ」
 渦を巻いた茎が萎れて黒っぽいあずき色をし、シラタキや油揚げと一緒に皿に盛られていた。
「これってね、春に山に採りに行くより、それを干し上げるのが通の醍醐味なの」
 ブリキの缶に入った干したものを見せてくれた。
「湯がいてから、食感をよくするため日に何回か優しく揉むの。四、五日くらいして天日で干し上がったら、必ず梅雨を越させてねかせるわけ。そうするとこれがすっごくおいしくなるのよ。 松崎さん、少し分けてあげるからお土産に持って帰ってね」 
「嬉しい、ありがとう」
 配膳が終わると、さっそくミチは口に含んでみた。
 歯応えのある食感が若葉の萌芽のように舌先に伝わってくる。春が乾燥保存され、煮汁と一緒に押し出されてきているようだ。香りも鼻孔から肺の隅々まで潤していく。
「おいしいものは時間をかけないとだめなのよね」
 薫は、いかにも自信ありげだった。
「あっ、それって木工所の吉田さんの口癖そっくりだな」
 木村が絶妙なタイミングで突っ込んだ。
「あら、そう」
 薫は受け売りと思われるのが嫌なのか、木村の指摘を澄まして流し、食事をつづけた。
「木も時間かけて乾燥させないとだめなんだって」
 木村は追い討ちをかけた。
「ふつうの木材って一応やってるんでしょう」
 ミチが訊くと「それが短いらしいわ。曲がりや狂いをなくすにはもっとじっくりしないといけないんだけど」
 今度は薫が箸を握ったまま、実はちゃんとわかっているのだというように答えた。
「解体材って廃材じゃない、銘木なんですって。だって建てて何十年ってまた自然乾燥させてるわけでしょう。木って、それで本物になるって言ってたわ」
「だけど木材の再利用って、さほど聞かないわね」
「廃棄されたやつを集めて使えるようにするまでが大変なのよ。あなた、ここをつくるときかなりやったものね」
 木村にあっさり預けた。
「ああ、まず洗浄して、釘や配線の留金も抜いて、見えない部分は磁気探知機で調べていくんだよ。とにかく手間暇がかかるんだ。まだまだ再利用のことは考えて使われていないから、今のところそうするしかないんだよね」
 集めてすぐの廃材は、お世辞にももう一度使えるとは言い難かった。表面は罅割れ、ホッチキスの針の群れもあり、銘木とは程遠い。おまけに吹き曝しの場所で丸木を組んだ作業台に置かれた姿は身寄りのない哀れな姿に見えた。
「だから利用できる廃材もせいぜい二、三割らしいわ」
 薫は専門家のような話ぶりだ。
「吉田さん、今でもたまに言うんだよ。自分は解体材の釘を一本一本抜いているとそこから溜息が漏れるのが聴こえてくるって。それで思わず、これまでよくやってきたなって釘穴を掌でさすりながら話しかけるんだって」
「特にあの頃は、釘より自分の方が過去から抜けきっていない部分があったものね」
「工務店っていうか、娑婆の世界に未練がありそうだったな」
 木村は腕を組み、いかにも上目線だ。
「あなたはどうなのよ」
 薫がそんな相手を見逃す筈がない。
 お返しをされた木村ははぐらかすように首を振り、相手にしない態度をとった。だが、ズバリ急所を聞かれ、どこか心地よさそうに見えないこともなかった。
 朝食がすみ、ゼンマイの戻し方を教わったミチは手土産もでき、そろそろ帰ることにした。
 木村も一緒に送ってくれた。
「そうだ、せっかくだから写真撮らしてもらおうかな」
 ミチが携帯をバックから取り出し、玄関前で薫と木村を、次に木村がミチと薫のツーショットを撮った。
「来年の夏休みにね、息子さんがここに初めて来るの。一週間位の予定なんだけど」
土手を上りながら、薫がミチの耳元でつぶやいた。
「ようやく実現できるようになったわ。この場所ができて」
 ミチは二人に礼を言い、車に乗ろうとした。
 扉を開けようとしたとき、今下りてきたばかりの斜面に見覚えのある丸い葉が目に入った。
「あっ、ユキノシタ」ミチが叫んだ。
「この葉ねえ、雪の下に眠ってても、春まで枯れずに生きて、初夏になると蝶々の羽根のような白くて小さな花を咲かせるの。何だか健気と思わない」
 ミチは背を屈め、丈の低い花弁を見つめた。
 浮き出た葉脈に朝露が瑞々しかった。
 車に乗り込むと、車内には森とは違う大気が籠っていた。
 窓を開けてもシートやクッションに染みついたその匂いは、なかなか抜け切らない。
 日曜日だけあって紅葉目当ての行楽客が反対車線に列をつくり、次々と上って来ても、市内への道はさほど渋滞してなかった。
 木々に目を向けると、標高が低まるに従い、山とは色づきに差が生まれ、照り映えんばかりの眩しい樹木は見当たらない。
 ミチはそのまま街へ真っ直ぐに帰るつもりだった。
 最初の信号を停車したときだ。
 薫からもらった干しゼンマイ以外に、娘たちへの土産がないことに気づいた。子守してくれた母も喜びそうなものを何か買っていこうと思い立った。
 車を走らせると物産店の看板が目に留まり、立ち寄った。
 店内には地元の農家から直接仕入れられた野菜や米、果物の外に箱詰めの菓子や工芸品などが並べてあった。一通り見ていくと、隅に木製の雑貨が集められているコーナーがあった。ロッキング型の指で押すとゆらゆら揺れる一輪挿しやティートレイ、カッティングボードが置かれ、品物に貼られたシールには値段と一緒に吉田工房と書いてあった。中に一風変わったやや大き目の置物があった。
 手に取ってみた。木肌に触れ、しばらく眺めているうちに、このまま帰るのが惜しくなった。せっかくの機会に工房を見て見たくなった。木村が住み込みで働いている場所がどんなところか自分の目で確かめたくなった。
 菓子と人形を買ったミチは、さっそくそこからUターンすると工房へと向かっていた。
 
             十七、開花

「トオルさん、人は時計の針とは違うと思うの。だって止まらずに動きつづけてるんだもの。永遠に、死んでからもずっと」
 ミチは今なら正直に言える気がした。
 薫が逝ってしまった後、シンジを思い、自分なりにやってきたことを。今ならさっきまでとは違う捉え方をしてくれる、そんな気がした。
「トオルさん……」
 ミチが次の言葉を出そうとしたときだ。
 再び強風が吹き荒れ、小屋が大きく横揺れした。
 一瞬だった。
 ピアノのある壁際の三本の間柱のうち一番南側が左へたわみ、反動で右へとずれた。
 耳を劈くけたたましい音がし、二人は立っていられずしゃがみこんだ。まさかここまで脆いとは想像していなかった。山小屋は既に限界に来ていた。
 数秒後、不安を裏づけるかのように、残り二本もほぼ同時に傾いた。
 ボードが壁板から外れ、漆喰が滑るように剥げ落ちていった。瞬く間に床一面、白塊だらけになった。手足を捕らわれていた白い生き物が悲鳴を上げ、壁面から逃げ出しているようだった。
 ロフトはまだ崩落寸前だったが、梯子はへし曲っていた。
 危険を感じたトオルはミチの手を握り立ち上がると、玄関へ向かった。
だが既に建てつけが狂い開かなかった。
 急いで縁側へ引き返した。
 窓に近づこうとしたときだ。ガラス戸が突風で割れ、破片が部屋中に飛び散った。雪混じりの強風が一挙になだれ込んだ。 
 柱と根太が基礎石ごと浮き上がり、土間の食器類も次々と床に叩きつけられていた。支えを失くした梁が、いつまでもつかわからない。
 トオルはミチと割れた窓からの脱出を試みた。
 枠を通過するとき右足に激痛が走った。
 ベランダを超え、地面に降り立ち太腿を触ると、熱くぬめぬめしたものを感じた。ガラスで深く切っていた。裂けた布地から滲み出す血を掌で押さえ、しゃがんだまま堪えていた。
 そのとき、一緒にいたミチが身を翻すと再び山小屋へと駆け出していた。
 ひらりと窓枠を跨ぎ、視界の端を掠めて行った。トオルも立ち上がろうとしたが踏ん張りが利かず、できなかった。
 小屋全体が左に傾き、木立ちがマントのように靡いているようだった。
 視界が基軸を失ったように宙を彷徨っていた。
 ミチの呻き声がした。
 目を凝らすとピアノと壁に挟まれ倒れていた。 
 黄金色のペダルが、両足を鉤のように咥え込んでいた。骨壷もダンボール箱も頑強なフレームと板で鎧われ見えない。
「ミチさん……」
 トオルは叫んだ。
 痛みと強風で息が充分には吸えず、押し潰れた声になった。
 苦しげな彼女の喘ぎが聞こえてくるようだった。
 体はピアノと一緒に白く染まっていた。
「ミチさん」体が少し動いたように見えた。
「しっかりして……ぼくはあなたに、父のことも僕のことも、まだたくさん聞いてほしいことがあるんだ……」
 吹雪く森の怒号のような地鳴りに掻き消され、荒れ狂う雑木の奥へ、声は吸い込まれていく。
無惨に割れたガラス越しに明かりが見えた。
 暖炉だ。
 煙突は外れているが、耐熱ガラスの向こうでさっきくべた薪が消えず、心臓のように赤々と暖気を送りつづけていた。
 耳元に小さな音がした。
 積み上げた何かがちょっとした拍子で崩れ去るような幻聴とも思える響きだ。
 炎が燃え尽きる前に、トオルは思った。
 ミチをもう一度、連れ戻さなければ。
 トオルは雪まみれのマフラーを太腿に巻きつけると、小屋へと入って行った。
 闇を切り裂く波濤のような音が、やがて森全体に響き渡った。


引用と参考文献
・『ツァラトゥストラ(上下)』
フリードリッヒ・ニーチェ著 光文社古典新訳文庫 丘沢静也訳
・ウイキペディアより、
主にジョン・レノン、サム・クック、ジョージ・メイソン、ピアノについて。

森の遺言

2022年2月6日 発行 初版

著  者:宮本誠一
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宮本誠一

1961年熊本県荒尾市生まれ。北九州大学文学部国文科卒業後、学習塾講師、大検(高卒認定)専門予備校職員などを経て、熊本県小学校教諭に採用。二校目の赴任地(阿蘇市立宮地小学校)で、卒業生である発達障害の青年との出会いをきっかけに33歳で退職し、当時阿蘇郡市では初めての民間での小規模作業所「夢屋」を立ち上げました。その後、自立支援法施行に伴い、「NPO夢屋プラネットワークス(http://www.asoyumeya.org/)」を設立し、地域活動支援センター(Ⅲ型)代表兼支援員として阿蘇市から委託を受けながら現在に至っています。 運営の傍ら、小説、ノンフィクション、児童文学、書評などを発表してきました。部落解放文学賞に5回入選、九州芸術祭文学賞熊本県地区優秀賞2回、熊本県民文芸賞、家の光童話賞優秀賞などを受賞させていただいています。

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