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絵 摂津正

人を喰う話 2 『進撃の巨人』論

菅原 正樹



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 目 次


0 はじめに
1 前提となる仮定
2 年号問題
3 自明な時間
4 さまざまな世界観
5 現実とはなにか
6 世界のあり様
7 生命という思想
8 おわりに
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  脚注

     0 はじめに

 「威力偵察」の任務をもって潜入していたパラディ島から、ひとり生還した鎧の巨人ライナーは、大陸の帝国マーレの生地レベリオ収容区で過ごしていたある日、銃口を口にくわえた。自殺をはかろうとしたのである。やっと生き延びて来たのに、何故だろうか?

 ライナーは、いわゆるPTSD、心的外傷後ストレスと呼ばれる病に襲われたのだろう。

 この後遺症は、精神分析学を創始したフロイトが、第一次世界大戦での帰還兵の診察にあたって直面した人間の現実だった。フロイトはその強迫反復される症状分析から、人は、エゴイスティックな生の欲動だけでなく、無機物に還りたいという、死の衝動をも根底に抱えこんでいるのではないかと、推察した。(脚注1

 この「死の衝動」に襲われているのは、ライナーだけではなかった。進撃の巨人のエレンもまた、そうであることが提示される。

 人喰いの巨人たちから解放され、平和を取り戻した島国から、海を隔てた大陸の帝国マーレへと潜入したエレンは、戦士として徴兵されるエルディア人の収容区にある病院施設で、「傷痍軍人」に変装する。そしてマーレでの戦闘開始の直前、ライナーを呼び出し、俺もおまえも同じだ、俺はおまえがわかる、と言うのだ。

 エレンは、何を了解し、「同じ」だと言ったのだろうか? 何がわかったと言うのだろうか? たんに、同じ病気だね、ということだろうか? エレンは5回、「同じ」だと繰り返すのだが、その都度、この「同じ」の意味が、「PTSD」からそれを乗り越えていく認識に変わっていく。そのライナーとの対話のあと、エレンは世界を「地鳴らし」するために、始祖の巨人の能力を発揮していった。社会心理学的には、これは他人を巻き込んで実行される「拡大自殺」と言えなくもない。

 最近の日本社会でも、京アニや渋谷ハロウィン騒ぎ中における京王線での、大阪の精神科クリニックでの放火事件などがある。(脚注2

 おそらく、そんな社会的な出来事の考察もが、この若い作者の思考射程にはいってはくるだろうが、そこにとどまらない広さ、大戦後議論されている哲学的な世界観、戦後の世界を推進させている科学的な自然・宇宙観もが、この作品から読みこめるだろう。

     ※

 『人を喰う話』は、戦場のイラクへと観光に行き、いまはテロリストと世界から名指されるゲリラに捕捉され斬首された、当時24歳の香田証生さんの事件に刺激されて描かれたものである。(脚注3

 事件を受けてまもなく、私的なホームページ上に掲載されたその絵本に、近未来の破局世界を背景にしたともいえる『新世紀エヴァンゲリオン』をめぐる論考を付記して、昨年2021年、電子出版ものとして再提示された。(脚注4

 『人を喰う話2』は、まさに人を喰っている話であるコミックを知るにおよんで啓発されたものだ。テレビでアニメ化された『進撃の巨人』を、中学生の息子と一緒によく見ていたものだ。が今回、高校を卒業する息子が進学なり就職なりと社会へと出てゆくにあたって、初老を迎えた父から、その世代の少青年たちに向け、この10歳から20歳くらいまでの子供たちの葛藤を描いた物語への考察を、世間に落としておきたい衝迫をもった。(脚注5

 香田証生さんの死後、戦場のイラクやインド洋での給油活動へと派遣されていた自衛隊員から、50人を超える自殺者が出ていたことが報道され、国会でも議論された。ライナーやエレンの自殺願望は、他人事でも絵空事でもない、日本に生きる若者にとっても身に迫る、人間や歴史の現実が反映されているのだ。(脚注6

 以下は、そうした社会、歴史的な問題をも加味して考察されたものだが、その背景にある自然科学的な認識も、現在の知見とも対照させて試みてみたものである。世や人の裏側にまで配慮を張りめぐらせる諌山氏の構成力は驚くべきものだが、その基になる構想に、昆虫の捕食生態や、遺伝子・ウィルス的な、生命の根源へとおもむく直観らしきものが提示されているからである。

 まだ若いはずの作者に、ここまでのことが洞察できてしまうのか、という驚きには、諌山氏の才能をこえて、それだけ世界や人間の駄目さ加減が目立ってきている、ということのような気がする。だからこの試論は、年長者からの、申し訳なさとしてもなされているのかもしれない。

※原則的に、出版されたコミック本34巻を参照対象にして考察する。引用においては、コミックでは付けられている全漢字の振り仮名は省き、適宜、読みやすいよう、コミックでは付けられていない句読点を、こちらで付記した場合もある。

     1 前提となる仮定

 諌山氏は、作者にとって「巨人」とは何か、と問われて、東京に出てからやっていたネットカフェでのアルバイトのさい、からんできた「酔っぱらい」のようなものかもしれない、と答えている。要は、仕事帰りに酒を飲んで憂さを晴らしている、私たちとあまりかわらない凡人、単なるサラリーマンみたいな者、ということだろう。(脚注7

 この作品が、「その日 人類は思い出した ヤツらに支配されていた恐怖を… 鳥籠の中に囚われていた屈辱を……」という書き出しではじまることを考慮すると、作者の思考の前提となっている枠組みが浮き彫りになってくる。日常的な人との関係が、巨人が象徴していくような人類という大きな枠での関係に、そのままのように移行し、重なっていくということである。

 書き出しを、こう変えてみよう。「その日 私は思い出した サラリーマンに支配されていた恐怖を… 会社の中に囚われていた屈辱を……」まさに、私たち普通の生活者の、日常実感みたいなものとして、主張が明確になってくるだろう。が、それは何故なのか? 個と類の重なりを、平然と受け止められる思考があるとは、どういうことなのか?

 コミック第21巻から、おまけのように、『進撃の巨人』登場人物と重ね合わせた、いじめ問題を材料にしたような学園物語「進撃のスクールカースト」が付録されている。NHKでのテレビ放映「The Final Season」のオープニングテーマには、「神聖かまってちゃん」というグループの『僕の戦争』という曲が使われていたが、その歌詞をきくと、戦争の話かとおもうと、学校でのいじめの話なのだった。

 日常の出来事が、戦争というような人類の大きな出来事とつながっている……この感覚は、時空を超えて、いま現在の歴史を超えて当たり前にあるものではない。個人的な恨みによる殺人は、その場での関係においてのみ悪であって、社会への影響が考慮されても、人類に対する犯罪などとはなりえないとみなすのが、むしろ常識的な思考になろう。がそう思う一方、たとえば、あなたが学校や会社で誰かをいじめ、それは、人類における大犯罪につながるのだ、と指摘されたなら、変だとはおもいながらも、人が一般にやらかしてしまうことを自分がやってしまったのだから、大げさでもそうなるのかな、という気にもなるだろう。マイバックが地球規模の環境問題につながるとか、私たちは、日々の行いをマクロに気にするようにもなっていないか? そう気になるようになったのが、私たちのいるこの歴史である、という一方の思考前提を、作者はとっている、ということではないだろうか?

 そしてそう前提的に考えるのは、この作者に特有なわけではない。

 そうした思考の枠が自覚されるようになったのは、第二次大戦中における、ヒトラー率いるナチスのユダヤ人大虐殺という現実を理解しようとした哲学的な営みにおいてだった。自身ユダヤ人であり、かろうじてナチスの手を逃れたハンナ・アーレントという女性学者の追求も、その一つだ。なぜ、人はこんな残虐なことを続けられたのか? 彼女は、ガス室でユダヤ人を殺し、その死体から石鹸なりなんなりを生産していた、アウシュヴィッツ収容所に連なる責任者の言動を探り、そこに、凡庸な、普通の家庭人を見だした。彼はただ、実務をこなしていただけだ。会社の中では、良しとされた、合理的な作業を。だから、悪や、罪の意識も希薄だった。(脚注8

 『進撃の巨人』も、この人類史上最悪の惨事とされる歴史を扱っている。後編で明るみにされる、ライナーらがいたマーレでの収容所の描写が、それにあたることは見やすい。作中で描かれたエルディア人を印す腕章が、関連グッズとして販売されたとき、ダビデの星の腕章を付けさせられていたナチス下のユダヤ人への仕打ちを想起させ、不快な思いを当事者にあたえると指摘がおき、回収しもされた。たしかに、それで商売しようとするのは安易であり、不謹慎であり、不道徳である。が、作品中に、その歴史をとり入れて人間の現実を再考していく作者の真摯な態度には、非はないだろう。

 ではここで言う、この歴史の前提とはなんだろう? 喧嘩が戦争に値し、会社での事務的な作業が、そのままより大きな、国家規模的な事柄へと結び付いていくという、ような仮定だ。それは言い換えれば、社会が官僚的なひとつの組織になっているということである。ナチスが実現を目指したその社会システム思想のことを、全体主義(ファシズム)ともいう。しかし、一人の一票が国政を変える、という理想を前提としている民主主義も、それと無縁ではない。ヒトラー政権は、民主的な憲法から合法的に出てきたのだ。その現実は、大戦後の、この日本の民主主義下でも変わらない。すでに大枠の支えが、官僚組織だからである。皆が直面している問題を、皆が勝手ばらばらに対処しているより、一致団結して、協同分業して対処したほうが効率的だろう、そんな考えだ。

 が、対処方が間違っていたらどうするのだ? 小回りは効かない。間違っているかもと不安が広がれば、意見を一致させるのも難しくなる。だからより強いリーダーシップのもとに、となると、また独裁に似た悪しき全体主義への逆戻りになるだろう。が、そうなっていくのは、その前提においてである。「一致団結して対処したほうが効率的だ」という前提。

 が、そういう前提では対処できなくなっているのではないか、という疑いがでてくればどうか? 前提を、変えればいいだろう、となる。

 そういう前提だから、こうなる。そういう前提だから、単なる人殺しが人類的犯罪になる。そういう前提だから、いじめが戦争につながる。そういう前提だから、そんないじめが、戦争が繰り返される……ならば、私たちは、その前提を、くつがえせるのか?

     2 年号問題

 『進撃の巨人』第1話は、「二千年後の君へ」とタイトルをもっている。そして第1巻から第4巻までに、845、850、844、847という年号のような数字が四回登場することから、世界を自滅させそのことで救うという選択をしたような、進撃の巨人たるエレンという「君」へとつながるかもしれない、二千年間の年表が、愛好家のあいだで作られ、議論されたりしているようだ。

 しかし、作者の思考枠の前提が、この歴史であり、現代社会であるとしたら、愛好家の、物語内部で完結させていく推論は、あくまでファンタジーな世界にとどまる。私たちを拘束しているかもしれない前提から、どう私たちを解放させていくのか、その「自由」が作者にとってこの作品を書く動機であり、問題意識であるならば、読者側も、オタクにはとどまらない読解を要請されている、ということにならないか? エレンらは、「戦え!」と鼓舞する。何と? まずは、私たちを拘束している、その思考の前提からであろう。

 ならば、ここでの「君」とは、二千年後の私たち、でなければならない。第30巻122話は、「二千年前の君から」とタイトルされ、その「君」は、始祖の巨人になっていく少女のことだとされている。このユミルという王の奴隷だった少女は、それでもなのか、それゆえなのか、殺されてもなお王への愛に服従していた。巨人と化してもなお。ならば、その姿は、サラリーマン(官僚組織下で卑小悪が人類悪に繋がれている)でしかありえないような、私たち現代人と重なる。(その類比があるからこそ、作品に感情転移できるわけでもあるだろう。)

 つまりは、第1話で提示された年号を考慮するならば、その二千年後とは、2845年だ。今の2022年からしてみれば、それは未来のことであろう。私たちが、自分たちを拘束している前提に囚われているままであるならば、状態は変わらない。2845年を生きる「君」たちも、私たちと同じ「鳥籠」のなかにいるだろう。(脚注9

 私たちが前提と戦い、そこから解放されるなら、未来もまた変わるのかもしれない。物語では、巨人と巨人化の力が失せたはずの世界のなかで、思い出の樹木の下へと埋葬されたエレンの墓の傍らで、幼なじみのミカサが静かに時をすごしている。が、木の成長とともに、また近代科学的な世界が現れ、戦争が繰り返していく様が小さく描写される。今が変わらなければ、今が前提としているものを今の私たちが壊せないならば、未来においても、それは繰り返されるのだ、そう作者は暗喩しているということだろう。

 が、その反復は、昔から人はそうだったとか、いつの時代もそうだったという前提ではない、ということに注意しよう。今の前提が変われば未来が変わるだろうように、過去も変わるのである。過去というもの、未来というもの、そして現在という時間が、時計のように客観的に存在している前提もまた、疑いの対象になってくるからである。

 しかしいくらなんでも、今の体制が800年後も続いていると前提することができるのか? とあなたは問うかもしれない。なるほど、今につながるとされる、客観的ともされる歴史の教科書でも読めば、そんなものは壊れているはずだ、と予測するだろう。今から800年前なんて、日本では、鎌倉時代だぜ、今の前提なんて、ないはずだ……しかしその推測思考自体が、鎌倉時代を今の前提に編入していないだろうか? だとしたら、今を変えるということは、鎌倉時代を変える、ということにつながっているのだ。作品でも、エルディア人の歴史教科書とマーレでの教科書は違う。お互いが自分の現在に都合のいいように過去を編纂しているため、客観性というものが疑われる視点が提示されている。

 客観性を疑うだけなら、誰でも容易に気づけることではあろう。が、作品は、自分の信じていたそれを変えるということが、いかに困難であり、身を削られるようなことであることなのかが、子供たちのすさまじい葛藤を通して描かれている。

 なぜ、そんなにも、深刻な困難さを引き起こすのか?

 実は、この現在において過去も未来もが存在している、という時間の考え方は、私たちが日常的に自明視してきていることである。がゆえに、自明なものを、私たちは問わない。だから、自明とはいえないはずの、近代科学的な、時計の時間という客観性に囚われてしまう。が、それを疑い、そこから抜けるということは、私たちが存在していることそのものの自明性への問い詰めをも、引き越してしまう。寝た子を起こす、という事態に発展してしまうのだ。マーレの戦士候補、少女ガビの苦闘によって、その事態が描写されているだろう。

※ なぜ時代設定を、850年前後らしきにしたのかはわからないが、レイス家につながる第145代目の王は、カール・フリッツと呼ばれている。人類を巨人から守る壁を築いた、とされる王である。その名は、ヨーロッパ中世、フランスのカール大帝、神聖ローマ帝国の初代皇帝ともされる人物(戴冠式800年)を連想させてくる。この時代のヨーロッパは、作者が引用している北欧(巨人)神話を抱くヴァイキングとの戦いが激しくなった頃だ。また、それは西暦なのか、という問いかけもできるが、作品が現代社会の寓意として受けとれること、また、自ら切り落としたエレンの首を抱くミカサの絵の構図が、聖書のサロメを連想させてくることからも、キリスト教的な救世主・預言者の歴史と重ね合わされているとも考えられる。サロメは、イエス出来前の預言者ヨハネの首をはねさせたわけだが、となると、後から来たイエスの役割は、アルミンが担うことになる、という話になっていくだろうか。

     3 自明な時間

 この作品物語の進行が、時間軸を頻繁に前後し、むしろ現在進行形に少しまえの過去が回想されて反復されていることが多い展開のために、一読して出来事の順列を把握することが、できてるようなできていないような、不安な感じにさせられる。まして、最終巻まで読み終え、はじめから散りばめられていた伏線が腑に落ちてくると、コマの一つ一つに、これから起こることや、すでに起こっていたことへの暗示が刻印されていることに、再度読み込むたびに気づかされてくることになる。そういう意味では、この34巻のコミックが、さまざまな場面が同時に描きこまれた、ひとつの大きな絵画空間、一枚の壁画のように提出されているのではないかと思えてくる。

 出来事の起こる年も、敢えて不透明にされている。

 漫画テクニック的には、わざと不透明さや物語矛盾を挿入させておくことで、読者に突っ込みをいれさせ、そこに読者側の二次創作などの欲望を喚起させてコミュニティーを形成させ、堅牢な層を消費者として抱えこむという、マーケティング手法があるそうなのだが、ここではあくまで、作品に即して考えている。(脚注10

 物語内容においても、エレンや獣の巨人たる義兄のジーク等が、父や他の友人たちの過去に干渉しているらしく展開されていることもあるから、この作品はパラレルワールドの世界観なのでは、と議論もでてくる。
 
 パラレルワールドとは、20世紀初頭くらいから明るみになってきた、量子的現象を探究していったさいに提出されてきた仮説理論からきているだろう。原子以下の物質のミクロな世界では、マクロの世界での振る舞いとちがい、決定論的世界から、確率論的な世界へと変わってしまう、と発見された。前者をニュートン物理学や古典物理学、後者を新物理学とも呼んだりする。
 
 たとえば、時速40kmで走る自動車がA地点から出発したら、1時間後には40km先のB地点にいると計算予測できるのは、そうに決まっていると均質的な世界を前提するからだ。が、量子論的な考え方はちがう。あくまでAからBに移動してあるのは、確率的にそうなのであって、だから、Bにいない場合も想定する。それどころか、いろいろな経路、無限通りな行き方があるのだから、それらをも考慮して計算するのだ。実際に、電子などミクロな物質では、どういう経路を通ってそこに出現したのかも不明どころか、途中、電気を通さないはずの絶縁体の壁を素通りして、ワープするような経路が選ばれる確率が存在するのだ。この幾通りものことを念頭においての計算式のほうが、だから、精度は高い。日常世界がニュートンの計算式ですむのは、誤差を気にせずとも生活できるからである。が、ミクロな世界では、1ミリの誤差も、実質、地球と月との間の距離のような値になってしまうので、分子構造を突き止めるなどの水準では、量子力学の計算式を使うのである。

 この二つの世界観の違いを説明するのに、コイントスの例がよく使われる。コインを上空に投げてからつかみ、表か裏かを当てる。決定論的世界観では、掌の中で、コインが表か裏かは決まっている。まだ見てないだけだ。しかし量子論的な世界観では、開けて見て、はじめて表か裏かが決まるのである。掌の中では、つまり観測以前では、表と裏が確率的に、この場合なら、各々同じ50%の割合で存在していると考える。というか、そう想定しないと、先ほどあげた電子の経路など、つじつまがあわない観測結果がミクロ世界で発見証明されてしまったのだ。(脚注11

 現在開発中の量子コンピューターとは、この観測以前の表裏同時存在の現象を利用する。いま使用されているコンピューターは、A地点からB地点へ行ける二つの経路の、どちらが早いかを計算するのに、まず一つ目を計算し、それから二つ目を計算し、そして比較するという手順をふむが、量子コンピューターでは、二つあるいはそれ以上の世界が同時にありうるので、一つ目の経路をこっちの世界で、二つ目の経路はあっちの世界で、と経路をいっしょに計算できてしまうのだ。手順がはしょられるので、答えが早く導ける、というわけだ。そしてそれがいま、ちょっとした計算では実現され、今のコンピューターでは万年かかるところを、数分で処理した、とか報告されている。(脚注12

 コイントスの例にもどれば、私たちの見えない、観測できないところで、表の世界と裏の世界が、同時存在、並行している、と考える。それが、量子現象から考案仮説された、多宇宙理論と呼ばれるもので、そこからマルチバースなパラレルワールドな世界観がでてくる。この理論は、とくにはSFの作品世界でだいぶとりあげられているが、『進撃の巨人』も、この宇宙・世界観を下敷きにしているのではないか、と議論されているわけだ。(脚注13)

 しかし、この観測以前、見るまえは複数世界で、観測後、見てしまうと、見てしまった世界へと一つになり、他の世界はこの世界から見えなくなる、という現象は、本当に、神秘的な謎なのだろうか? 

 私、のことを考えてみよう。私は、他の誰でもない私である。頭が一つで、という外的な特徴、こんな性格で、といった内面的な特性、こういったものをいくらあげていっても、それらは他の誰かにもあてはまってしまう一般的な記述にしかならない。が、私も他の人も、私が他の誰でもない私、固有な私であり、そういうふうに私がある、と感じ、知っている。なぜなら、そういうものとして、私は、「私」という言葉を、概念を理解してきたからである。それを理解して、私ははじめて、「私」という言葉を使えるようになった、ということなのだ。逆にいえば、他があって、他とともにしか、私はない、のである。(脚注14

 当たり前かもしれない。が、では、あなたはいま、他を意識してますか? 見えてますか? と自分に問うてみたらどうだろう? もう曖昧になる。他が消えて、見えなくなっているのが常態だからだ。それを普通として自明化させるとは、私の人生を、運命として必然化してしまうことと同じである。あんな顔にも、こんな性格でもないはずなのに、親の遺伝だし、事故でケガしたし、ひねくれて自分がゆがんでしまったし……たまたまこの親であり、偶然の事故であり、そのための心理的な外傷であっても、そのたまたま偶然性が思考から忘れられて、これが私、と絶対化される。他にあった可能性が考慮の外においだされ、必然化される。が本当は、他でもありえたであろう人生(過去)と、他でもありえる人生(未来)とが、この固有の私(今)を支えているのである。

 しかしこの本当は、科学的にいえば、量子的な現実のあり方は、日常化した生活の中では意識しえなくなっている。だから、その本当が直面されてくるのは、非日常的な世界、出来事の中においてになりやすいのである。以上のような考察は、やはりユダヤ人の親族をナチスに殺害されながらも兵士として戦い、捕虜になりながらも生き延びた、レヴィナスという哲学者によって考察されてきた。彼の言葉に、私であるということは、「他人の身代わりである」というものがある。他の誰でもない私のあり方が、「他人のための身代わり」として置かれている、との洞察を示したのだ。(脚注15

 「身代わり」とは、私が彼であったかもしれない可能性を孕んでいる、ということだ。

 巨人に襲われる、という非日常となった世界の中で、エレンは悩み、自分の世界を選択していった。その物語は、本当に、他にもあった可能性を排除し、一つの人生としてその選択を必然として運命化し、受け入れていくものだったのだろうか? パラレルワールドの世界観では、たしかに、他の世界の可能性が考慮されているが、それらは並列的に存在し、どの世界に重みが、大切さがあるのかは考慮されない。他ならぬこの、というこの世界、この私という固有性がないのだ。しかし、エレンや、この世界の者たちが切実なのは、他あっての他ならぬ私、を強烈に意識させられているからではないだろうか? 

 巨人の秘密にふれはじめた、分隊長のハンジは言う。

だとすればエレンは器であって 交換可能な存在なんだ

 エレンは、他と替えられえる、身代わりである。私が死んでも彼が死んでもおかしくない世界……破壊されたままの一番外側の壁、ウォール・マリアを奪還することになる壁内最後の戦いへ向かう途上、アルミンは、巨人の口の中で嚙み砕かれる寸前に、身を投げうって自分を助けたエレンにきく。「…何で君はあんなことができたの? 君が僕の身代わりになるなんて…あってはならなかったんだよ…」エレンは、あの時、思い出したのだという。幼なじみのアルミンが楽しそうに本をもって走って来たときの、生き生きしていた目を。「それまで壁の外のことなんて考えたこともなかったんだ…」「そこで初めて知ったんだ オレは不自由なんだって」「オレはずっと鳥籠の中で暮らしていたんだって気付いたんだ 広い世界の小さな籠でわけのわかんねぇ奴らから自由を奪われてる それがわかった時 許せないと思った」

 この回想が、自分は特別だ、いや特別じゃないんだ、と悩んでしまう回路から、エレンを飛躍させる。壁を飛び越え、戦いのために巨人化していくエレンは思うのだ。

オレにはできる …イヤ オレ達ならできる なぜならオレ達は 生まれた時から 皆 特別で 自由だからだ

 皆が特別とは、誰もが同じ、ということである。それは、交換可能ということであるが、それだからこそ、交換不可能な私の自由があるというのである。他とかわらないからこそ、かけがえのない私がおり、ゆえに、私は他の身代わりなのだ。

 心理的な我執とはちがう、他との存在的なあり様が、エレンの葛藤を通して描かれている。しかしその認識は、異常時こそが日常化した、平和が崩れた戦場の世界でであった。それが、日常の普通のあり様であるというのに。作者の諌山氏にとって、この認識が、酔っぱらってからんできたサラリーマンの日常や、幼少のころの、子供たちのいじめある世界がきっかけなのだとしたら、これまでの島国日本の平和な世界は、異常に近い、ということにならないだろうか?

 これから、進撃の巨人エレンの選択した世界をみていく。

 そのまえに、小憩として、エレンを取り囲む、他のものたちの世界観をみていこう。20代はじめにこの作品を描き始めた作者が、これだけの世界観を紡いでいただけでなく、生き生きとした設定でもって実感ある言葉として提出しえていることは、私には驚きである。

     4 さまざまな世界観

ミカサ・アッカーマン「そうだ……この世界は…残酷なんだ。」

ドット・ピクシス「巨人に地上を支配される前、人類は種族や理の違う者同士で果てのない殺し合いを続けていたと言われておる。その時に誰かが言ったそうな。もし…人類以外の強大な敵が現れたら人類は一丸となり争いごとをやめるだろうと…お主はどう思うかの?」

住民「巨人も見たことのねぇ憲兵隊が…よくもあそこまで胸を反らせるもんだ。これ以上 老いぼれと子供に何をやれと言うのかね…お前達…今年、訓練兵を受ける年だろう? あんな兵士になるんじゃないよ…」

ハンジ・ゾエ「本当は…私達に見えている物と実在する物の本質は…全然違うんじゃないかってね。憎しみを糧にして攻勢に出る試みはもう何十年も試された。私は既存の見方と違う視点から巨人を見てみたいんだ。」

リヴァイ・アッカーマン「俺にはわからない。ずっとそうだ…自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…結果は誰にもわからなかった…だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ。」

アルミン・アルレルト「大して長くも生きてないけど、確信してることがあるんだ…何かを変えることのできる人間がいるとすれば、その人はきっと…大事なものを捨てることができる人だ。」

アニ・レオンハート「いいや…実際クズだと思うし悪いヤツに違いないよ。到底正しい人間とは言えないだろうけど…それも普通の人間なんじゃないの? あんたの言うように本来人間が皆、良い人であればこの組織はこんなに腐ってないでしょ? この組織の仕組みが人間の本質がよく表れるような構造になってるだけで。だから…私は…ただ、そうやって流されるような弱いヤツでも、人間と思われたいだけ……」

ニック司祭「そもそも私などは酒に溺れて家族を失った…ろくでなしにすぎない…神にすがることでしか生きられない男だ…そんなろくでなしの口ひとつ割れんようでは、私以上の教徒にどんな苦痛を与えようと到底聞き出せまい‼ 私を殺して学ぶが良い‼ 我々は使命を全うする‼」

サシャ・ブラウスと狩猟民の父 サシャ「嫌やって! 私達はご先祖様に生き方を教えてもらって生きてきたんやから‼ よそ者に受けた恩なんか無いよ! 私達にゃ私達の生き方があるんやから、誰にも邪魔できる理由は無い!」「そうか…それもいいやろ。一生この森の中で自分や同族のみの価値観で生きていくんも。けどな…サシャ…それと心中する覚悟はあるんか? これから危機に見舞われてん、助けを乞うてはならんとぞ? 義務を果さん者がその恩恵を受けることができんのは当然やからな…。伝統を捨ててでも一族と共に未来を生きたいと…思うとる。世界が繋がってることを受け入れなければならん。サシャ…お前には少し臆病な所があるな。この森を出て他者と向き合うことは…お前にとってそんなに難しいことなんか?」

ユミル「偶然にも第2の人生を得ることができてな、私は生まれ変わった! だがその際に元の名前を偽ったりはしてない! ユミルとして生まれたことを否定したら負けなんだよ! 私はこの名前のままでイカした人生を送ってやる。それが私の人生の復讐なんだよ‼ 生まれ持った運命なんてねぇんだと立証してやる‼」

ヒストリア・レイス「私は人類の敵だけど…エレンの味方。いい子にもなれないし、神様にもなりたくない。でも…自分なんかいらないなんて言って泣いてる人がいたら…そんなことないよって、伝えに行きたい。それが誰だって! どこにいたって! 私が必ず助けに行く‼」

ライナー・ブラウン「俺達はガキで…何一つ知らなかったんだよ。こんな奴らがいるなんて知らずにいれば……俺は…こんな半端なクソ野郎にならずにすんだのに…。もう俺には…何が正しいことなのかわからん…。ただ…俺がすべきことは自分のした行いや選択した結果に対し、戦士として、最後まで責任を果たすことだ。」

ハンネス「俺は…あの日常が好きだ…エレンに言わせりゃそんなもんはまやかしの平和だったのかもしれんが…やっぱり俺は役立たずの飲んだくれ兵士で十分だったよ。あの何でもない日々を取り戻すためだったら…俺は何でもする。どんだけ時間が掛かってもな…」

ベルトルト・フーバー「誰が好きでこんなこと‼ こんなことをしたいと思うんだよ‼
 人から恨まれて、殺されても…当然のことをした、取り返しのつかないことを…でも…僕らは、罪を受け入れきれなかった…兵士を演じてる間だけは…少しだけ楽だった…。嘘じゃないんだコニー‼ ジャン‼ 確かに皆騙した…けどすべてが嘘じゃない! 本当に仲間だと思ってたよ‼ 僕らに…謝る資格なんてあるわけない…けど…誰か……頼む…誰か…お願いだ……誰か僕らを見つけてくれ…」

サネス「こういう役には多分順番がある…役を降りても…誰かがすぐに代わりを演じ始める。どうりでこの世からなくならねぇわけだ…」

エルヴィン・スミス「ここ数日の私の思いは…仲間とは別の所にありました。人類を思えば、私が常日頃仲間を死なせているように、エレンやリヴァイ…ハンジ皆の命を見捨て、自分の命と共に責任を放棄し、王政にすべてを託すべきだったのでしょう。人よりも…人類が尊いのなら…」

ディモ・リーブス「お前にもいつかわかるといいが、商人ってのは人を見る目が肝心だ。」

ケニー・アッカーマン「みんな何かに酔っぱらってねぇと、やってらんなかったんだな…みんな…何かの奴隷だった…」

ジーク・イェーガー「哀れだ…歴史の過ちを学んでいないとは…レイス王によって「世界の記憶」を奪われた悲劇だ。だから何度も過ちを繰り返す。しまいには壁の中の奴ら全員、年寄りから子供まで特攻させるんだろうな…どうせ誇り高き死がどうとか言い出すぞ…発想が貧困でワンパターンな奴らのことだ…ふざけやがって」

エルヴィン・スミス「ならば人生には意味が無いのか? そもそも生まれてきたことに意味は無かったのか? 死んだ仲間もそうなのか? あの兵士達も…無意味だったのか? いや違う‼ あの兵士たちに意味を与えるのは我々だ‼ あの勇敢な死者を‼ 哀れな死者を‼ 想うことができるのは‼ 生者である我々だ‼ 我々はここで死に、次の生者に意味を託す‼ それこそ唯一‼ この残酷な世界に抗う術なのだ‼」

グリシャ・イェーガー「人間の探究心とは誰かに言われて、抑えられるものではないよ。」

グロス曹長「人は残酷なのが見たいんだよ。ほら? エルディアの支配から解放されて何十年も平和だろ? 大変結構なことだがそれはそれで何か物足りんのだろうな。生の実感ってやつか? それがどうも希薄になってしまったようだ。自分が死ぬのは今日かもしれんと日々感じて生きてる人がどれだけいるか知らんが、本来はそれが生き物の正常な思考なのだよ。平和な社会が当たり前にあると思っている連中の方が異常なのさ。俺は違うがな。人は皆いつか死ぬが、俺はその日が来てもその現実を受け入れる心構えがある。なぜならこうやって残酷な世界の真実と向き合い、理解を深めているからだ。当然楽しみながら学ぶことも大事になる。あぁ、お前の妹を息子達の犬に食わせたのも教育だ。おかげで息子達は立派に育ったよ。」

     5 現実とはなにか

 世界が残酷である、と認めることには、そう必然化されている、必然に行く、という論理過程を含んでいる。だから、何をやっても、意味が無いような感じに行きつき、地獄巡りのような現実に見えてしまう。

 が、兵士長のリヴァイが、瀕死のエルヴィン団長とアルミンの、どちらを巨人化させることで生き延びさせたらいいのか、との判断の基準は、「夢」であった。

 リヴァイが迷っているとき、エレンは幼なじみのアルミンを救いたく、訴えた。

<でもそんな…ガキの頃の夢はオレはとっくに忘れて…母さんの仇とか…巨人を殺すこととか…何かを憎むことしか頭になくて…でも、こいつは違うんです…アルミンは戦うだけじゃない。夢を見ている‼>

 幼なじみの三人組が、夢の話をしているのを、リヴァイは物陰できいていたこともある。そして、エルヴィンからも、エレンの父が地下室に隠しているかもしれないこの歴史の謎を見てみたい、という夢を聞かされていた。それらの伏線としての描写が、決断を前に、リヴァイの頭をよぎった。自分がこう団長に助言していたことも、「夢を諦めて死んでくれ」。

 リヴァイは、現実主義者としての団長を、現実で生きるそのままで死なせてやることを選び、アルミンの「夢」を生かすことを選びとったのだ。そしてその選択は、二人の夢の回想あとで現れた、自分の叔父であったケニーの死に際の言葉、「みんな何かに酔っぱらってねぇとやってらんなかった」、という認識を受け入れることでもあった。ならば、現実から逃避するために見ていた「夢」から覚めるために「夢」を選んだ、という現実選択が意味してくることは、夢が現実であり、現実は夢であり、人はそんな世界から逃れられない、ということだろう。

 巨人でいることは、「悪夢」を見ているようだった、と、マーレの収容区から巨人化の注射を打たれ、エレンらの暮らすパラディ島へと放り込まれ、60年もの間、壁の外をさ迷っていたというユミルは言う。そのユミルの述懐された言葉を振り返り、エレンは、「つまり巨人ってのは…悪夢にうなされ続ける人間…ってことなのか?」と問うていた。

 リヴァイが選択したのは、「悪夢」ではなかった。たとえ、人が夢という構造、その世界で生きていく以外にありえないとしても、どんな「夢」なのかは描ける、選択できるのではないか、ということだろう。エルヴィン団長の夢も、さらに、アルミンの夢も、それは壁の外への夢、他の世界があるのではないか、見てみたい、という夢であった。

 リヴァイはゆえに、「悪夢」という現実的な夢から、外(他)という可能的な夢への選択に切り替えようとした、ということだろう。その可能性とともに、この現実を歩むほうを選んだのだ。となれば、これは、これまで見てきた、世界のあり様、自然にあるものの在り方を自覚的に反復した、ということにもなるだろう。

 時計的に図れる時間や、物の在る場所が一様に広がっているとされる客観的な時空が一つあって、それに対する様々な、他なる解釈があり、色々な意見を持つ人がいる、ということではない。初めてウォール・マリアの壁を破壊しようとそこから顔をだし、街を覗いた超大型巨人になったベルトルトの見た風景と、第1巻で描かれたエレンたちの方からみた光景は、違うように描かれている。初めて巨人を目にした幼なじみ三人組の近くには、彼らの前に目撃し恐れおののいていた三人の大人たちがいたはずだが、のちのベルトルトの回想のように描かれた俯瞰的な風景のなかにはいないのだ(第24巻)。彼の目に焦点化されたのは、三人の子供たちだったのだ。

 これは、そう解釈された、ということではなく、ベルトルトが、そのような過去とともに今という固有の時を生きている、ということである。同時に、第1巻で、客観的に描写されたかのような幼なじみ三人のいた風景は、もちろん作者が作品として提示したものだが、それが意味してくるのも、実は、客観的でもない、ということだ。

 リヴァイは、悪夢とは違う夢を選んだ、その選択の様は、自然の本当のあり様を反復する自覚にあった、ということを作品が訴えているとしたら、私たち読者が、この作品を客観的なものとして受容しようとするとき、そのリヴァイが託した意味をも見失うことになる。そんなものは、解釈にすぎない。リヴァイも、この作品も、愛好家的な、歴史文献学的な解釈の遊戯に落ち着くことをすすめているわけではない、ということになるのだ。あなたも、この虚構作品という夢を、悪夢になってしまう現実解釈の循環構造をこえて、あなたの今という固有の時のなかで考え直し、生き直してくれ、ということになるのだ。物語内容からは「二千年後の君へ」、つまり今のあなたへ、リヴァイのように、この夢を、この作品を選択し、生きてくれ、と訴えている。悪夢ではなく、他と共にあるこの夢を生きる可能性=現実=夢を選んでくれ、と。

 エレンが、マーレ国でのレベリオ収容区に潜伏し、自身がそこで人々の生活に触れながら、戦争後遺症を克服し、ライナーと会って言った「同じ」という確認も、その認識と決意の反復である。

 ライナーは、壁をこえ、海をこえてやってきていたエレンの姿にびっくりし、きく。「お前…言っていたよな…「お前らができるだけ苦しんで死ぬように努力する」って、そのために、来たんだろう?」

 エレンはそれに、「あぁ…言ったっけ? そんなこと……忘れてくれ」と返答する。悪夢の循環、復讐という悪の連鎖から脱出させてゆくアルミンの夢の選択だ。

<ライナー…お前と同じだよ…もちろんムカつく奴もいるし、いい奴もいる。海の外も、壁の中も、同じなんだ。だがお前達は、壁の中にいる奴らは自分たちとは違うものだと教えられた。悪魔だと。お前ら大陸のエルディア人や世界の人々を脅かす悪魔が壁の中にいると…まだ何も知らない子供が…何も知らない大人から、そう叩き込まれた…一体何ができたよ、子供だったお前が。その環境と、歴史を相手に。なぁ…? ライナー、お前…ずっと苦しかっただろ? 今のオレにはそれがわかると思う…>

 エレンのこの同情を、ライナーはさえぎった。「違う‼」そして釈明する。「時代や環境のせいじゃなくて…俺が悪いんだよ。お前の母親が巨人に食われたのは俺のせいだ‼ もう…嫌なんだ自分が…俺を…殺してくれ…もう…消えたい…」

 エレンは「やっぱりオレは…お前と同じだ。」とライナーを立ち上がらせた。そして驚く彼と握手してから巨人化し、マーレへ、世界へと宣戦し、世界を破滅へと導く「地鳴らし」へ向けて行動していくことになる。このエレンの単独行動に、パラディ島の仲間たちも巻き込まれる。マーレと連合軍が逆襲してくるパラディ島での再度の決戦のしまいには、とうとう「地鳴らし」が発動されてしまい、壁の中に埋められていた巨人軍が行進しはじめ、世界を踏みつぶしてゆく。ミカサやアルミンが、始祖の巨人と化し暴走したエレンを追う。「俺を…殺してくれ…もう…消えたい…」。エレンもまた、そう追い込まれていたのではないか?

 ライナーと「同じ」そのエレンの願望は、ライナーたちが身を隠した壁内での村民の願望とも「同じ」であることが、伏線として提示されている。

 壁を取り巻いていた、実は自身と同じ人種であった人間たちの注射後の姿である巨人群に村が襲われ、唯一生き残っていたその村の男には、ライナーやベルトルト、そして女型の巨人たるアニらと同じ、10歳くらいの子供たちがいたのだという。自分だけが逃げ切って、無垢の巨人とされる者たちから食われなかったのであろう。しかしその生存自体が、自身への負い目となり、「殺してくれ」となったのだ。

 その村民がでてくる、同じ夢をずっと見るというベルトルトは、なんで彼が自殺前、自分たちに自らの事情を話したのかと幼なじみに問う。「わかるわけないだろ」と言うライナーに対し、アニは、「許してほしかったんでしょ」と言う。彼らに対し、高い壁に手をかけて中を初めて覗きこみ、自分たちと同じ三人の子供たちを見つけていたベルトルトは否定するのだ。「あのおじさんは…誰かに――裁いてほしかったんじゃないかな」、と。

 エレンやライナーも、村民と「同じ」なのだ。「特別」ではない。「皆特別」であるがゆえに、「同じ」なのだ。

 ならば、それで世界の破滅を始動させた、エレンの選択は、「悪夢」ではないのか? 憎しみの連鎖を止める方法は「文明ごと葬り去る」ことだとエレンは言う。その循環的な構造に、また舞い戻ってしまっているのではないのか? 悪循環の外に出る気がないのではないのか?

 もう一度、リヴァイの選択を、その選択に仮託した作品の意味構成を思い起こそう。

 ならば、それは、「悪夢」ではないはずである。なるほど、物語は、悪夢に違いない。が、人は、その悪の連鎖を断ち切る工夫として夢を作っていく営みを続けてきた。私たちは、その人類初期から続けられてきた想像力の営みを、「神話」と名づけている。(脚注16)

     6 世界のあり様

 2010年3月に第1巻が上梓されたこの作品の物語が、戦後の日本社会を模しているのはみやすい。大陸での「巨人大戦」に敗北したエルディア人が離れの島へと逃げ込み、「不戦の契り」という思想を受肉化して壁の中に引きこもっている様は、大戦後に憲法9条を身に受け、外交政治的な関心からは心を閉ざしてゆき、家政に専念することになっていったような現在の日本人の姿と重ね合わされる。しかも「巨人」とは、その出現の描かれ方からして、ピカドンとキノコ雲、原爆を想起させる。100年続いているという島国の平和が、巨人の襲撃によって脅かされるようになった背景には、「通常兵器が巨人兵器を上回る未来」が差し迫ってきたため、巨人兵器を手中に収めていたマーレ国の優位性が危ぶまれてきたことがあった。パラディ島、マーレ国、連合軍、という世界の構図があるわけだ。

 しかしその寓意は、図式的にそうはおさまらないように、入れ子構造的に、複雑化されている。作中世界地図での大陸は古代文明をもつ中国を連想させ、同時に、その大陸での一番の大国となったマーレ国は、大戦中のドイツから、今の帝国的な振る舞いをするアメリカをも連想させてきたりする。そしてパラディ島に追いやられたエルディア人の歴史の方こそが、戦後の帝国化したアメリカの様と重ね合わされているようにも見えたり、また、「ヒィズル国」という、世界からは人種的に孤立的な被差別の過去をもつ別の国家が登場してきたりもする。「多人種系エルディア人」が真の王に代わり政治の中枢を仕切っているとする設定などは、大陸渡来説のある天皇制をも想起させる。

 壁の真実に気づいてしまったエレンら属する調査兵団は、濡れ衣をかけられた。彼らが、犯罪人として処罰しようとしてくる王政にクーデタを起こしていく過程は、日本の戦前の昭和史とも重ねられるだろう。また「崇高な目的」のために陰謀を遂行していくイェレナは、マルクス主義史観にたって内ゲバに陥っていった、戦後の左翼学生たちの群像が反映されているようにも伺える。見え透いた嘘で自分をよいしょしたアルミンを、殺してやるという憎悪の気迫で上から睨みつけたイェレナのすさまじい表情には(第29巻)、体験心情からではなく、知的な観念性からも憎しみと殺し合いが起き得るという洞察が示唆されているだろう。

 昭和史での青年将校らによるクーデタ失敗とは違い、調査兵団は真実をあばいた。しかしそのパラディ島での成功は、この世界での戦争と残虐の歴史がまた反復されてくるのではないか、あの神がかりな人種によって脅かされるのではないか、という現実性が高まってきたという危機感を世界中に広めることになった。どうすれば、この繰り返しから脱却していけるのか、いくつかの現実的打開策が提出された。そしてそれを支持していく者らによって、謀議が実行され、世界的な政治的内乱に発展していった。

 一つは、マーレと連合国が結びついた考え、エルディア人の存在をなくし元凶とされているものを断ってしまおうとするもの、もう一つは、ジークの考え、エルディア人自身が滅却の道を選んで実行していくというもの、そしてもう一つがエレンの、文明全体を壊滅的にさせまっさらになって、もう一度はじめからやり直していこうとするもの、となる。どことなく、グレート・リセットとも称される、世界人口の削減を企んでいる隠れた中枢政府があるとする今流行りの陰謀論や、9条を固守する考えを揶揄して言われる日本の自虐史観などといった、現在ありうる陰謀思想の劇画的な類型化のようなものにもみえる。

 もちろん、エレンと同期の壁外調査兵団の仲間たちが最後まで闘うのは、それら三つが、解決にはならない、と自分たちの体験から思い至っているからである。結果はどうなるかわからないが、今わかることから判断し、選択し、実行していった。それが、ミカサが幼なじみの恋人の首を断つ、というところまでゆき、壊滅的になった世界のこれ以上の被害をとどめることになった。

 しかし、コロナ禍の2022年を生きる私たちが驚くのは、そうした物語進行の背景となっているほうの世界の提示の様である。

 ミカサは、世界から虐げられていたアッカーマン家の血をひくものとされる。その血は、「巨人化学の副産物」であるとされる。つまり、遺伝子工学的なものである。実際に、DNAという遺伝子の構造の発見は、原爆製造科学の延長でもある。エルディア人たるユミルの民は、流行り病のため危機にあったとき、当時の王が「体の設計図を都合よく書き換えた」という歴史も持っている。エレンの義兄ジークが説く「安楽死計画」というのも、「巨人化学」からヒントを得たもので、エルディア人に子供をできないよう遺伝子編集をおこなっていく、というものである。(脚注17

 エレンは、ミカサが、彼女の命を助けた自分を本能的なように守る行動をとるのは、そういうふうに遺伝子設計されてしまっているからだ、と告発する。愛なんかではないのだと。いわば、ある種の鳥が、卵からかえって最初に見たものを親と認識してついていくようになるという、動物行動学的には「刷り込み」と呼ばれる現象である。

 この説明は、アルミンの洞察や、ジークの説明によって否認されているが、この「刷り込み」という作用は、遺伝子レベルにおいてもみられる現象なのだ。父という男と、母という女との遺伝子が結合するとき、相同的な箇所で組み換えが起きるのだが、その際、どちらか一方の機能を発現させないよう制御し、全ての細胞においてそこを一致させておかなければならない。父の仕草と母の仕草を一緒におこなうのは無理であるからだ。ゆえに、そこで、「ゲノムインプリティング(ゲノム刷り込み)」という作用が起きる。そのために、遺伝子のこの部分では父の方の発現で母のものは控えておく、と、どの細胞もが右へならえするようになるのだ。

 この若い作者の描いた作品には、性のことが描かれていないという指摘がある。自我のあり方が世界への対峙と直接的な関係しかもっておらず、それを媒介させていく家族や異性といった、中間的な世界の描写が希薄である、という指摘である。(脚注18

 いわゆる、「世界系」と愛好家の間で通称される作品であろうと。

 しかしそういう傾向になるのは、まだ主人公たちが10歳の子供のころの話から始められていることにもまして、性という関係性をも、生物学的な生命の現象として提出していこうとしているような、作品世界の背景のためである方が大きい。

 パラディ島の巨人の脅威が排除されてから4年、彼らは青年期をむかえている。その過程での伏線で、アルミンとアニ、ミカサとジャン、などに思春期の芽生えが挿入されているが、そのうちの、エレンと王女になるヒストリアの伏線は意味深長に秘められている。始祖の力を発現させるには王家の血が必要だ、となれば、王女は子供を産む家畜にさせられてしまう、そんな考えは論外だと、「ヒィズル国」からの大使を交えた会合で、エレンは否定した。が、結局は、ヒストリアを無垢な巨人にさせられた誰かに食わせて、その血のみを継承させていくという政策の具体進行を防げないとなると、ヒストリアを救うため、エレンはその考え、身ごもらせるという考えを延命策として受け入れた。妊娠している間は、巨人に食われることはないからである。

 幼少のころ、自分に石を投げいじめていたという幼なじみとの間で、ヒストリアは懐妊した、という表向きの設定になっている。が、腹を大きくした彼女の表情は暗い(第27巻)。おそらく、いじめられた経験を持つものは、大人になっても、そのことを容易には許せず、忘れられない、という作者の体験なり洞察が、彼女の表情に刻印されている。彼女が、王女になってから開いた孤児院を手伝ってくれていたその幼なじみとの出会いの端で、エレンらしき青年の後ろ姿が描かれている。お互い気が合っている、という伏線があったとしても、エレンがレイプまがいのことをした、ということか? との想像も過ぎる。彼女の子は、エレンの子なのでは、と。アルミンをなぐり、ミカサに悪態をつくことによって、自分から幼なじみを遠ざけたように、エレンは、ヒストリアに残酷な仕打ちをしたのではないか、と。が、その想像はのちに、エレンがヒストリアに、自分たちが追い詰められた情勢を説明しているときの回想によって解消される。「私が…子供を作るのはどう?」そう自分からもちだしてきたヒストリアの表情は、私には、女から男を誘惑しているよう描かれているようにみえる(第32巻)。

 ならば、ヒストリアがその後、自分の妊娠に暗い表情をしているのは、その願いが断られ、突き放されたからでもあろう。アルミンやミカサのように。彼女はおそらく、不本意な結婚でも子供を作るよう、エレンに仕向けられたのだ。対幻想的な愛よりも、もっと他の使命のためにか?

 ミカサもまた、愛するエレンの首を落とした。

 しかしこれは、陰暴論家のイェレナのような、「崇高な目的」のための選択ではない。

 翼をもった鳥さえにも刷り込みがあり「自由」であるかは怪しい、という、作品の根底に設定された思想のためである。

     7 生命という思想

 あの時違う返事をしていれば、世界は変わっていたのではないか、とミカサは後悔した。エレンから、俺はおまえのなんなのだ、と聞かれ、好きだ、と勇気をもって言えなかった。「家族」、と違う言葉に置き換えた。その選択が、この残酷な世界を続けさせているのではないか、と。

 しかし、まずは人間世界の様が、作品後半では、すでにより自然の方への認識へとずらされている。それはまた、始祖ユミルの謎が解き明かされていく過程でもある。

 殺された娘サシャをめぐって、狩猟民であった父ブラウスは言う。

<結局…森を出たつもりが世界は命ん奪い合いを続ける巨大な森ん中やったんや…>

 もはや、自我という壁から、壁に囲われた世界から出れば、そこに「自由」がある、という認識ではない。だからコックのニコロも、「地鳴らし」が始まった巨人行進の戦闘のなかで、逃げ惑う子供たちに言うのだ。

<森から出るんだ でられなくても…出ようとし続けるんだ…>

 しかしこの自然の壁は、マクロな生態系としてのものだけではない。始祖ユミルの謎も、有機体発生をめぐるミクロな自然現象にかかわると、明らかにされてくるからである。

 エレンの父グリシャ・イェーガーに、進撃の巨人の使命を託したエレン・クルーガーは明かしていた。「巨人を形成する血や骨はその道を通り送られてくる。時には記憶や誰かの意思も同じようにして道を通ってくる。そして道はすべて一つの座標で交わる。つまりそれが…始祖の巨人」である。「始祖ユミルは、「有機生物の起源」と接触した少女…そう唱える者もいる」と。

 巨人化学の科学者から獣の巨人化の能力を継承していたジークもまた、ベルトルトを食って超大型巨人を継承していたアルミンに説明する。アルミンは、始祖の巨人化したエレンとの闘いで負傷し、生死の境にあるような「道」に紛れ込み、そこでエレンにはめられて捕らわれていたジークと出会ったのだ。ジークは、エルディア人滅却の「安楽死計画」に共謀してくれたと思ったエレンに裏切られていたことを、「道」の世界で知ったのだ。

 ジークは言う。

<今から遥か昔、まだこの世に物質しか存在しなかった頃、有象無象の「何か」が生じては消えを繰り返し、やがてあるものが生き残った。それを生命と呼ぶ。結果的に生命が残った理由は、生命が「増える」という性質を持っていたからだ。…(略)…つまり、生きる目的とは、「増える」ことだ>

 性という発達した進化形態をもつある種の「有機生物」が、「刷り込み」という遺伝的特質を備えているだけでなく、そもそも増殖をめざしていくだけのような細胞に、生命に、「自由」などあるのだろうか?

 いや、そこまで考えなくてもいいのでは? 考える前提を、そこまでさかのぼって検討しなくても……。

 しかしここでも、母親をアウシュヴィッツのガス室で殺されたユダヤ人の哲学者のことが想起されてくるのだ。自らはイギリスに渡り兵士となって戦ったハンス・ヨーナス。彼は、自らの体験を追求する過程において、そうした生命の水準においてもまた「自由」が問題となっており、私たちは、そこにおいてこそ生きるという意味と実践を考えていかなくてはならないと突き当たったのだ。(脚注19

 『進撃の巨人』では、この始原の有機生物が、中枢神経である脊髄を模した軟体ムカデのような形象で描かれている。その始原の生命体は、始祖の巨人を継承したエレンの死とともに死滅したかに思われたが、近代化の果てに壊滅した人間の荒廃した世界がまた、原始的な自然に覆われはじめ、二千年がめぐったのか、エレンが埋葬された樹木、北欧神話に出てくる「世界樹」のような巨大に成長した樹木の洞の中で、それはひっそりと時期を待っている、というような暗喩がなされて、作品は終わる。

 「増える」という自然目的の循環のなかで、また、残酷な世界が繰り返されていくのだろうか? 生命がつづくかぎり永遠に…。「自由」を求めて?

 作中では、それとは違う反復の様も提出されている。野球のキャッチボールである。ジークは、アルミンとの対話のなかで、この意味がありそうもない繰り返し、育ての父であるクサヴァーさんとしていたキャッチボールのことを思い出し、そこに、アルミンの言う「大切なもの」があるのに気付いたのだ(脚注1参照)。その想起は、始祖ユミルの隷属を思いやることで彼女を解放させたエレンの自由と、対置させられている。王家の血を引く義兄ジークとの接触によって、エレンの「地鳴らし」という最終的な自由が発動された。ジークは始祖ユミルに食われるという形で「道」の中で囚われていたのだが、その発動条件を解除させるために、始祖化した進撃の巨人から顔をだし、リヴァイに中枢神経が交差する自らの首をはねさせた。始祖の能力と王家の血が分離されて、「地鳴らし」は止まる。ただの進撃の巨人として孤立したエレンの首を、意を決したミカサが落とす。始原の有機生物の居場所もなくなり、世界の破滅への進行も止まった、かに見えたのだ。

 生命の自由と、そこに束縛されない人間の遊戯、ということだろうか? どちらも、増やしつづける、遊びつづける、というような、強迫反復のような循環構造をもつ。生と死の衝動、と言えなくもないこの対比は、歴史という科学的な事実の累積と、神話という想像的な克服の堆積との関係にもなるだろう。

 私たちは、以上のような関係を、たえず表裏がひっくり返るような循環の構造を、『進撃の巨人』という諌山創氏の想像によって作られた作品によって、突きつけられているのだ。

     8 おわりに

 ここまで草稿を書いてきた正月休み、若者による事件が起きた。東京は渋谷区の代々木で、28歳になる青年が、焼き肉店に爆弾装置のようなものをもって店長を人質に立てこもったのだ。(脚注20

 逮捕後、青年はこう発言しているという。「もう、死にたい。どうすれば死ねるか考えた時に、大きな事件を起こして、警察に捕まって死刑になればいいと思った」「生きる意味を見いだせず大きな事件を起こして警察に捕まればいいと考えた」「その場で射殺されれば良いと思っていたが、撃たれることなく逮捕されてしまった」

 こう陥った思考は、まさにエレンやライナーが抱いたものと同じだろう。彼らは、死への衝動を、誰かにとめてもらいたかった、裁かれたかった、と他人との繋がりにすがる。他者の身代わりとしての私という回路が、拡大自殺という構想を産んでしまったのだ。

 思春期に特有な悩み、などと還元してはならない、ということは、『進撃の巨人』を読み解いてきた私たちにはわかるはずだ。その思考が異常なものであっても、それは、日常的な現実、すぐ隠されて見えなくなる自然の謎に結びついている。夢が現実であり、現実が夢であるように、若い作者が表現した虚構が、事件となって循環する。

 だから、私たちが、この循環構造の現実を直視しないで、事件を他人事として見過ごし、作品を愛好家的な解釈ですまそうとするとき、その構造から、世界から、生命の絡繰りに陥ったままでいることをよしとする思想で生きている、ということになる。(脚注21

 コックのニコロが子供たちに言ったように、「森から出るんだ、でられなくても…出ようとし続ける」ことが大切なのではないだろうか?

 しかし、出るとは、どういうことだろうか? どうすれば、出ようとすることになるのだろうか?

 一般的に考えてはいけない。私は他者の身代わりである、という量子的な自然回路は、具体的な問いによってだけ開かれてくるものである。人類だの、世界だのという、一般的な観念に出来するものではない。エルヴィンが「人類」より顔のみえる「人」をとったように、エレンや、マーレ軍での車力の巨人たるピークが「仲間」を選んだように、生身をもった他者との固有的な関係だけが、その「近さ」だけが、生死への固着という循環構造の破れ目をみせる、ということなのだ。

 「拡大自殺」の思考に陥った若者たちは、おそらく、その具体的な関係が希薄になっていた。見えなくなっていた。金や仕事がない、住むところがない、それは大変なことだ、しかし誰かと、いや自分自身に近づき、切実な関係を回復していたら…。

 しかしまたここで、特に大人たちは、一般的な思考回路を引き受けなくてはならないだろう。なぜなら、若者たちから、他人や自分自身を大切におもう一般的な条件をなし崩しにしていったのは、私たち大人であってきたからだ。受験や就職での他者との弱肉強食的な競合社会をそのままにしてきたのは、大人である私たちである。私自身が、その社会のおかしさ、他人を思う気持ちが空しく感じられてきてしまうような現実と風潮に違和感をもちながら、私自身がそうした冷たい人間になっていきながらも、それを明確におかしいと言葉に捉えられるようになるには、数十年かかっている。いまでも、その見えてきた当たり前な価値観が、身に受けられているかはわからない。

 日本が経済的に繁栄していたバブル期に思春期を生きた私には、世の中のおかしさは後景に追いやられていた。が、その繁栄が終わり、世界の不条理が目に見えてきている若者たちには、それが巨人の壁のごとく立ちはだかっているのではないか?

 この壁を崩すのは、容易ではない。作者が言うように、「人間そのもの」でもあるからだ。しかし人間との、自分自身との戦いを、やめるわけにはいかない。

 そのことは、大人も若いものも、同意しうる合意ではないだろうか? 私たちは、「同じ」ではないだろうか?(脚注22

 今の私の世界観は、ハンネスが言うものに近いような気がする。

<俺は…あの日常が好きだ…エレンに言わせりゃそんなもんはまやかしの平和だったのかもしれんが…やっぱり俺は役立たずの飲んだくれ兵士で十分だったよ。あの何でもない日々を取り戻すためだったら…俺は何でもする。どんだけ時間が掛かってもな…>

     ―――――     ―――――     ―――――

脚注1 ジークムント・フロイト(1856~1939年)
・「激しい機械的な振動や列車の衝突など、生命を脅かす事故の後で、一つの心的な状態が発生することが以前から知られており、これは「外傷神経症」と呼ばれてきた。終結したばかりのあの恐るべき大戦のために、多数のこうした疾患が発生したが、現在では、激しい機械的な力によって、神経組織が器質的な損傷を受けたため、こうした疾患が発生したと考える試みには、終止符が打たれることになった。外傷神経症の病像は、ヒステリーに類似した運動性の症状が豊富な点では、ヒステリーに似ているが、原則として心気症やメランコリーの場合と同じように、主観的な苦悩の顕著な兆候がみられる。しかし広範かつ一般的な形で、心的な働きの衰弱と混乱の兆候がみられるという点では、ヒステリーとは異なる。戦争神経症についても、平和時の外傷神経症についても、まだ完全には理解されていない。戦争神経症は、機械的な激しい作用なしに、外傷神経症と同じ症状が発生することを明らかにした点で、啓発的な役割を果たすと同時に、新たな混乱を生むことになった。」(「快感原則の彼岸」『自我論集』 竹田青嗣編 中山元訳 ちくま学芸文庫)

 フロイトは、この「恐るべき大戦」後の「運動性の症状」を、子供の「いないいないばあ」という反復強迫的な遊戯と結び付けて考察する。

・「しかし偏見なしに観察すると、子供はこれとは別の動機から、自分の経験を遊戯に仕立てたのではないかという印象を受ける。子供は最初は受動的に経験<見舞われた>のであるが、次に能動的な役割を演じて、不快に満ちたこの経験を遊戯としてくり返したのである。この営みは、いわば<支配欲動>に駆られたものであり、思い出がそれ自体で快感に満ちたものかどうかにかかわらず行われたと考えることもできよう。しかし別の解釈もありうる。物を投げ捨てて、「いないいない」になるようにすることは、日頃の抑圧されていた母親に対する<復讐衝動>によるものかもしれない。自分を置き去りにした母親に対して、「いいとも、いなくなっちまえ。お母さんなんかいらないさ。ぼくがお母さんを自分であっちにやっちゃうんだ」という反抗的な意味をもっているかもしれないのである。わたしがこの遊戯を初めて観察した時には一歳六カ月だったこの子は、一年後にはしゃくにさわったおもちゃをいつも床に投げ捨てては、「戦争にいっちゃえ」と言っていた。その頃子供は、父親が家にいないのは戦争にいったためであると説明されていたが、父親がいなくても少しも寂しがらず、母親を独り占めにするのが妨げられないのを喜んでいるのは明らかだった。子供たちを観察すると、敵意を抱いている人間の代わりに物を投げ捨てることによって、敵意に満ちた興奮を表現できることがわかる。だから印象的なものを心理的に加工して、これを自分の制御できるものとしようとする衝迫が、一次的に快感原則から独立して発現することができるかどうかは、疑問とされるところである。ここで取り上げた事例では、この衝迫が不快な印象の遊戯において反復されたのは、それがある別の種類の直接的な快感の獲得に結びついていたからであろう。」(同上)

 この「いないいないばあ」にみられる子供の遊戯は、ジークとその育ての父親とされるクサヴァーさんとの、「キャッチボール」の様と重ね合わされてくるが、この考察過程から、フロイトは、結論的に、こう仮説することになった。

・「しかし欲動的なものは、反復強迫とどのように関わっているのであろうか。ここで、欲動とすべての有機体の生命一般にとって一般的な性格、これまで明瞭に認識されていなかったか、少なくとも明確に強調されてこなかった性格の手掛りをつかんだような印象を受ける。欲動とは、生命のある有機体に内在する強迫であり、早期の状態を反復しようとするものである。」「すると、すべての生命体の目標は死であると述べることができる。これは、生命のないものが、生命あるもの以前に存在していたとも表現することができる。」(同上)

 また、人を喰う、ということに関し、フロイトの「トーテムとタブー」の論考も、参照できよう。

・「トーテム饗宴の祝祭を引合いに出すことが、われわれに解答をあたえてくれる。ある日のこと、追放された兄弟たちが力をあわせ、父親を殺してその肉を食べてしまい、こうして父群にピリオドをうつにいたった。彼らは団結することによって、一人ひとりではどうしても不可能であったことをあえてすることになり、ついにはこれを実現してしまう(これはおそらく、新しい武器の使用のごとき、文化の進歩が彼らに優越感をあたえたのであろう)。殺した者をさらに食ってしまうということは、人喰い人種にはあたりまえのことである。暴力的な父は、兄弟のだれにとっても羨望と恐怖をともなう模範であった。そこで彼らは食ってしまうという行為によって、父との一体化をなしとげたのである。父の強さの一部をそれぞれが物にしたわけである。おそらく人類最初の祭事であるトーテム饗宴は、この記憶すべき犯罪行為の反復であり、記念祭なのであろう。そしてこの犯罪行為から社会組織、道徳的制約、宗教など多くのものが始まったのである。」(「トーテムとタブー」『フロイト著作集 第三巻』 高橋義孝訳 人文書院)

脚注2 京都アニメーション放火事件(2019年7月18日)、京王線放火刺傷事件(2021年10月31日)、大阪西梅田クリニック放火殺人事件(2021年12月7日)

脚注3 イラクでの日本青年殺害事件(2004年10月)。アメリカ有志連合とフセイン下のイラクとの戦争終結後の混乱のさなか、戦闘を続行するグループは香田氏を人質にとり、イラクからの自衛隊撤退の要求をだした。その要求拒否を受けて、香田青年は斬首された。その模様が、ネット上で動画配信された。

脚注4 『人を喰う話』(BCCKS / ブックス - 『人を喰う話』菅原正樹 摂津正 いつき著) https://bccks.jp/bcck/169149/info

脚注5 ブログ<ダンス&パンセ>ダンス&パンセ: 『進撃の巨人』をめぐる、父と子の対話 (danpance.blogspot.com)  http://danpance.blogspot.com/2019/07/blog-post.html

脚注6 どう考えても普通じゃないなんと自殺者54人! 自衛隊の「異常な仕事」(週刊現代) | 現代ビジネス | 講談社(1/3) (ismedia.jp)  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/43700

脚注7 「進撃の巨人 作者 諫山創」 - インタビュー ここから - NHK  https://www.nhk.jp/p/a-holiday/ts/M29X69KZ1G/episode/te/BVNN97R369/

 【NHK総合】インタビュー ここから「進撃の巨人 作者 諫山創」 - YouTube  https://www.youtube.com/watch?v=zXw1oJoF7Z4


脚注8 ハンナ・アーレント(1906~1975年)
・「アイヒマンにとってこの会議の日が忘れがたいものとなったについては、別の理由も一つあった。彼は最終的解決に協力するためにこれまで最善をつくして来たけれども、<暴力によるこのような血なまぐさい解決>についてのいくらかの疑念がまだ彼の心にひそんでいた。その疑念が今晴れたのだ。「今やこのヴァンゼー会議で当時の一番偉い人々が、第三帝国の法王たちが発言したのだ。」ヒットラーだけでなく、ハイトリッヒや<スフィンンクス>ミユラーだけでなく、SSや党だけでなく、伝統を誇る国家官僚のエリットたちまでもが<血なまぐさい>問題において先頭に立とうと競い合っているのを、彼は今その目で見その耳で聞くことができたのだった。「あのとき私はピラトの味わったような気持を感じた。自分には全然罪はないと感じたからだ。」自分は判断を下せるような人間か? 「この問題について自分自身の考えを持てる」ような人間か? それにしても、謙虚さのために身を滅ぼしたのは彼が最初でも最後でもなかったのだ。
 アイヒマンの記憶するところでは、その後は何もかもまずまず順調に進み、間もなく慣習的な仕事になってしまった。以前<強制的移住>の専門家だった彼はたちまち<強制移動>の専門家となった。一国が終ると次の国へという調子で、次々にユダヤ人は登録させられ、すぐそれとわかるような黄色のバッジをつけられるよう命じられ、そして狩り集められ、移送され、東部のあれこれの絶滅収容所へその時々の収容能力に応じて異なる人数が振向けられた。」(『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』 大久保和郎訳 みすず書房)

・「官僚にとっては、法律はそれ自体原理的にその執行から切り離されているがゆえに無力である。それに対し命令はただちに施行された場合にのみ、そして施行されている間だけしか存在しない。その価値を決める唯一の基準は、それが適用可能か否かということである。こうした命令が理由説明も正当化も、時には相当の予告すらもなく執行される官僚制においては、命令は権力自体の具現であるかのように、そして官僚は権力執行の機関であるかのように見える。これらの命令の背後にあるものは、誰にでも理解できる単純な原理では決してなく、専門家にしか判らない複雑をきわめた事情である。命令の支配のもとに生きる人間は、彼らを統治しているのがそもそも何なのか、もしくは何ぴとなのかをまったく知らない。なぜなら命令はそれ自体つねに理解し難く、それを理解しやすくするはずの事情や意図については、官僚制はあたかも最高の国家機密であるかのように黙して語らないからである。ある意味では自国内での官僚制は、すでに述べた植民地の帝国主義的行政よりも腐敗しやすいものだが、後者の場合には被抑圧者は相手が簒奪者であり異民族支配者だということを少なくとも知っていた。しかし帝政ロシア、またはそれよりは多少程度は軽いとしてもオーストリア=ハンガリーでは、専制的官僚制は正統レギティームなものと認められており、ほかならぬこの正統性こそ秘密主義や空威張り以上に、あらゆる官僚制支配の専横の背後に潜む根本的な便宜主義を覆い隠すのに役立っていた。」(『全体主義の起源 2 帝国主義』 大島道義・大島かおり訳 みすず書房)

脚注9 『進撃の巨人』を考察しているサイト、「進撃リファレンス」で、この2000年問題の議論詳細を検討している。
進撃の巨人【2000年問題】「二千年後の君へ(二千年前の君から)」の年数はぴったりなのか?計算式の謎を考察 - 進撃リファレンス (mono-money.com)  https://mono-money.com/attack-on-titan/considerations/year-2000-problem/

 私の推論は、上の考察の最後で、「余談」として提示されているもの、ということになろう。

・「第1話の「二千年後の君へ」の「君」ですが、2845年の君という可能性もあるのではないでしょうか。それが誰だかわからないし、全然上手くないし、面白くもないのですが。とはいえ、「君」がエレンだと信じ切っているとまんまとやられそうな気もします。」

脚注10 
・「しかし、ファン活動を含め「参加型創造」は今やイメージされたプラットフォームでなく可視化され電子化された統治システムとしてのプラットフォームの管理下にある。ハリウッドでも日本でもそして中国でもトランスメディアストーリーテリングはプラットフォームによって統治され、日本ではファンの二次創作は「空白」を埋める消費として容認されるが、いずれ何らかの著作権法上の統治(JASRACのような統一的機構によるロイヤリティー徴収)がなされる可能性は否定できない。そうでなくても二次創作者は、二次創作というイリーガルなグレーゾーンを許容されていることで暗黙のうちに統治されている。
 ルーサー・ブリセットが糾弾しようとした「敵」は今やプラットフォーム企業としてその姿を現している。角川書店の出版社からプラットフォーマーとしてのKADOKAWAへの転換はファンコミュニティのフリーレイバーを含むトランスメディアストーリーテリングの統治をビジネスモデルとした点にある。その「素人」参加者の二次創作を含めて版権の名による統治は大政翼賛会にその原型が見出されるもので、この点については別の書を参照されたい(大塚 2018)。(大塚英志著『シン・モノガタリ・ショウヒ・ロン 歴史・陰謀・労働・疎外』 星海社新書)

脚注11 量子論はなお、様々な議論が行われている先端科学的な分野だが、最近の一般向けの著作から、この小論の文脈に近い説を引用する。

・「ハイゼンベルクとボーアは当初、ある変数を測定することでもう片方の変数が変わるという事実を実体として解釈しようとした。つまり、粒状性があるので、観測する対象の状態を不変に保つような繊細な測定を行うことは不可能だと考えたのだ。ところがアインシュタインにしつこく批判されるうちに、事がもっと微妙だということに気がついた。ハイゼンベルクの原理は、位置と速度に確定値があるにもかかわらず、片方を測定するともう片方が変わるので両方を知ることはできない、といっているのではない。量子は完璧に定まった位置や速度を絶対に持ち得ない、と主張しているのだ。量子の位置や速度は、相互作用によってのみ決まるのであって、その結果、どちらかがどうしても不確定になってしまうのである。」(カルロ・ロヴェッリ著『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』 富永星訳 NHK出版)

・「事物のミクロな状況を観察すると、過去と未来の違いは消えてしまう。たとえばこの世界の未来は、現在の状況によって定まる――ただしその度合いは、過去が決まるのと同じ程度しかないのだが。よく、原因は結果に先んじるといわれるが、事物の基本的な原理では「原因」と「結果」の区別はつかない。」「「現在」という概念と関係があるのは自分の近くのものであって、遠くにあるものではない。/わたしたちの「現在」は、宇宙全体には広がらない。「現在」は、自分たちを囲む泡のようなものなのだ。/では、その泡にはどのくらいの広がりがあるのだろう。それは、時間を確定する際の精度によって決まる。ナノ秒単位で確定する場合の「現在」の範囲は、数メートル、ミリ秒単位なら、数キロメートル。わたしたち人間に識別できるのはかろうじて一○分の一秒くらいで、これなら地球全体が一つの泡に含まれることになり、そこではみんながある瞬間を共有しているかのように、「現在」について語ることができる。だがそれより遠くには、「現在」はない。」「時空も、電子のような物理的対象である。そしてやはり揺らぐ。さらに、異なる配置が「重ね合わさった」状態にもなり得る。(略)量子力学を考慮すると、異なる時空のぶれた「重ね合わせ」としてイメージすべきなのだ。(略)このため現在と過去と未来の区別までが、揺れ動いて不確かになる。一つの粒子が空間に確率的に散って不確かになるように、過去と未来の違いもが揺れ動くのだ。したがって、ある出来事がほかの出来事の前でありながら後でもあり得る。「揺らぎ」があるからといって、起きることがまったく定まらないわけではなく、ある瞬間に限って、予測不能な形で定まる。その量がほかの何かと相互作用することによって、不確かさが解消されるのだ。/このような相互作用によって、電子はある点で具体的な存在になる。たとえばスクリーンに衝突したり、粒子検知器に捕まったり、光子と衝突したりして、具体的な位置を得るのだ。」「時間は唯一ではなく、それぞれの軌跡に異なる経過期間がある。そして時間は、場所と速度に応じて異なるリズムで経過する。時間は方向づけられない。過去と未来の違いは、この世界の基本方程式のなかには存在しない。それは、わたしたちが事物の詳細をはしょったときに偶然生じる性質でしかない。そのような曖昧な視野のなかで、この宇宙の過去は妙に「特別な」状態にあった。「現在」という概念は機能しない。この広大な宇宙に、わたしたちが理に敵った形で「現在」と呼べるものは何もない。」(カルロ・ロヴェッリ著『時間は存在しない』 富永星訳 NHK出版)

脚注12 2019年10月、Googleは、独自開発した量子プロセッサー「Sycamore」により、世界最速のスーパーコンピューターでも1万年かかるとされる処理を、200秒で実現したと、科学誌「Nature」に掲載した。
Quantum supremacy using a programmable superconducting processor | Nature
https://www.nature.com/articles/s41586-019-1666-5?categoryid=2849273&discountcode=DSI19S?categoryid=2849273

脚注13 1957年に、プリンストン大学の大学院生だったヒュー・エヴェレット3世が、量子力学の数式上の波動関数を実在のものと考えたことが、多世界解釈の提起と言われる。のちにデイヴィッド・ドイッチュが、その解釈を追求していくことで、量子コンピューターへの基礎的なアイデアを形成、提出した、と言われる。

・「単一の宇宙でもっとも目を引く構造は銀河と銀河の集団である。しかし、それらの天体は、多宇宙全体にわたってそれと識別できる構造をもっていない。ひとつの宇宙では銀河がひとつしかないところでも、多宇宙では全然異なった配置をもつおびただしい銀河がつまっている。多宇宙のいたるところでそうなっているのだ。近傍の宇宙は、そのすべてに適用される物理法則が要求するように、いくつかの大まかな特徴でだけ似ている。だから大部分の星は、多宇宙のどこであっても、ごく正確に球状であり、大部分の銀河は渦巻き状か楕円状である。しかし、構造の細部をほとんど変化させることなしに、遠く他の宇宙にまで及んでいるものはない。例外は、具現された知識が存在する少数の場所だけだ。そうした場所では、事物ははっきりそれとわかるように、多数の宇宙にわたって拡がっている。ことによるとわれわれの宇宙では、目下のところ、地球がそうした場所としては唯一のものかもしれない。いずれにしてもこうした場所は、私が前に述べた意味で、多宇宙でもっとも大きい、顕著な構造を作りだした過程――生命と思考――が起きている場所として際立っている。」(デイヴィッド・ドイッチュ著『世界の究極理論は存在するか――多宇宙理論から見た生命、進化、時間』 林一訳 朝日新聞社)

脚注14 量子論において観測されてきた現象を、数学や人の意識や意味を問う哲学との関連のなかで考察してみた著作に『<現実>とは何か 数学・哲学からはじまる世界像の転換』(西郷甲矢人・田口茂著 筑摩選書)がある。

・「「元からそうだった」というのは、「同じ前提を仮定さえすれば、いつの時代もどんな人が証明したとしても、同じになるはず」という、置き換え可能性のことにほかならない。」「われわれの出発点は「数学は何をすることなのか」という問いであった。「非基準的選択」とわれわれの呼ぶ、あらかじめ決まっているのではない選択にもとづいて、はじめて何らかの普遍的な「置き換え可能性」が立ち現われるのだが、そのためには、「非基準的選択」が「それ自身を消す」のでなければならない。それがここで「一般構造」と呼んだ構造(でありかつ出来事)である。それは数学の根幹にかかわるものであるにもかかわらず、数学に固有のものではなく、むしろ一切の出来事の根本現象たる「時間」を規定している原構造であり、「空間」の成り立ちを根本から理解可能にするものでもある。これにもとづいて、「真理は永遠で無時間的であるにもかかわらず、具体的にある時点である人によって見出されることなしにはありえない」ということについても、新たな理解が得られる。」「「この私」が自分で発見した証明は、職業的な数学者の立場から見ればすでに知られている証明と「本質的に同じ」であったとしても、「完全に同じ」ものでは決してありえない。そうした意味で、すべての証明は互いに異なっているとも言える。それにもかかわらず、ある種の「同じさ」をいうことができるというのは、可逆な「自然変換」によってつながる、ということにほかならない。」「それは自己から他者を「類推する」というような、離れたものの間の関係づけではない。それよりもはるかに直接的な、「重ね合わせ」ないし「置き換え・反転可能性」によって、「いまここ」にあるローカルな個体的自己そのものが、ただそれだけで他の自己に対する「倫理」を具現していることになるのである。」(同上)

 量子論の脚注であげたカルロ・ロヴェッリも、ここでの西郷・田口も、その世界理解を表明していた哲学者として、ナーガールジュナ(龍樹・2世紀インドの仏教僧)を引き合いに出している。その著『中論』における「空」の思想が、数学や物理、そして哲学の先端において垣間見えた現実に近い、ということのようである。

脚注15 エマニュエル・レヴィナス(1906~1995年)
・「他人への自己の開け、それは何らかの始原によって自己を条件づけ、自己を基礎づけること――定住的な住人にしろ流浪する住人にしろ、住む者が有する固定性――ではなく、場所の占拠、建てること、安住することとはまったく異なる関係である。――それは呼吸であり、呼吸とは幽閉からの解法としての超越である。呼吸がその意味を余すところなく明かすのは、他者との関係において、隣人の近さにおいてであり、この近さが隣人に対する責任、隣人の身代わりになることなのだ。とはいえ、このような気息は存在しないことではない。この気息は内存在性の我執からの超脱であり、存在すること、存在と存在しないこと双方から排除された第三項なのである。」「自己を超越すること、わが家から脱出し、ついには自己からも脱出するに至ること、それは他人の身代わりになることである。自己を超越することは、自分自身を担いつつ巧みに自己を導くことではない。それは、自分自身を担いつつも、唯一無二の存在としての私の唯一性によって、他人に対して贖うことである。世界も場所も有さざる自己の開けとしての空間の開けは非場所であり、何ものにも取り囲まれないことである。このような空間の開けは、最後まで息を吸い込んで、ついにはこの吸気が呼気に転じることである。かかる開けないし呼気、それが<他者>の近さであり、この近さは、他者に対する責任、すなわち他者の身代わりになることとしてのみ可能である。」(『存在の彼方へ』 合田正人訳 講談社学術文庫)

脚注16 クロード・レヴィ=ストロース(1908~2009年)
・「天体物理学者と量子物理学が誕生してからは、その自惚れも放棄しなければならなくなった。なぜなら、新たな姿をした科学により、認識可能だと信じるものと思考の作動規則との両立不可能性に直面させられるからである。宇宙にはひとつの歴史があり、それは<ビッグ・バン>と呼び習わされるもので始まるという発想は、時間と空間が実在性を回復する一方で、それと同時に時間がまだ存在しなかった時間や、さらには――この表現がとてつもない矛盾でないとしてだが――空間は宇宙とともに現れるはずであるからまだ空間のなかにはない萌芽状態の宇宙が存在したことも認めざるをえなくなる。そして、天体物理学者たちが門外漢のわれわれに向かって宇宙は百億光年ほどの直径を持ち、われわれの銀河系と近隣の銀河系とがその宇宙のなかで秒速六百キロメートルで位置を変えていると説明をしたところで、並みの人間であるわれわれにとってそれはいかにも空虚な言葉であって、そこから何かを思い描くことはできないと白状せざるをえない。
 無限小の尺度では微粒子どころか原子さえも、こことそこに同時に存在したり、あらゆる場にありながらどこにもなかったり、あるときは波としてあるときは粒子としてふるまうことがありえると説明される。どの命題も学者だけが解釈できる数学上の計算や複雑な実験から生まれたもので、学者には意味のある命題ばかりである。これらの命題はしかしながら、論理的推論の法則どころか自同律にさえ抵触しているために、日常言語への置き換えすらままならない。
 以下のことを確認しておかなければならない。長らくその存在さえ予見されることのなかった極大あるいは極小規模の現象は、法外にみえる神話上の構築物さながら、常識と衝突する。物理学者たちが自らの流儀で描写を試みている世界は、市井の人々はもちろん非専門家に対しても、われわれの遠い先祖が超自然のものとして把握した世界のある種の等価物を回復させる。その世界では、あらゆることが日常の世界とは別なふうに、たいていはあべこべに起こる。古代の人々やもっとわれわれに近い時代の無文字社会の人々は、こうした超自然の世界を想像しようとして神話を発明した。現代の物理学者が研究結果やそこから生じる仮説をわれわれの手の届くものにしようとして考案した寓話を、これらの神話が時に先取りしているのを確かめるのは興味深いことであり、皮肉でもある。」
「人間があまりに長いあいだ自らの糧としてきた神話はおそらく、想像力という資源の踏査だったが、それは体系的なものであり、決して無駄ではなかった。神話にはありとあらゆる種類の不条理、日常的経験の対極にある創造物や出来事が登場するが、初めに神話が置かれていた尺度と共通に測れないある尺度のもとで、これらの創造物や出来事は意味を完全に欠いた状態をやがて脱することになる。ただいつの日か、神話の提示する諸々の世界像が、この世界にふさわしく、世界の相貌を描き出すのにもうってつけだと明らかになるとしたら、それは、《世界の一部である》精神の構成原理のなかに、これらの尺度がいわば点線であらかじめ刻み入れられていたからである。」(「神話的思考と科学的思考」『われらみな食人種カニバル レヴィ=ストロース随想集』 泉克典訳 創元社)

 脚注2でもあげた、京王線で放火刺傷事件をおこした青年は、渋谷スクランブル交差点近辺でのハロウィン騒ぎに参加したあとで、映画『ジョーカー』を模倣して事をおこしたと発言しているようだ。このアメリカ経由の祭りからの放火という事件は、レヴィ=ストロースのエセー「火あぶりにされたサンタクロース」(同上所収)での洞察を想起させる。サンタクロースにカニバリズム(人喰い習俗)の系譜をみながら、レヴィ=ストロースは、若者たちが引き起こしたクリスマスの放火事件に、フランス伝統社会の変遷と行き詰まりの象徴を読み込んでみせた。二次大戦後の、アメリカからの経済支援と結び付いた社会の行く末を見抜くこのエセーへの解説を、中沢新一がおこなっている。

・「レヴィ=ストロースはその行動が、とんでもない皮肉をはらんでいることを、慎む深く指摘してみせる。カトリック教会は、フランスをおおうアメリカ主義や、贈与経済が促進した商業主義の蔓延が、キリスト教の伝統を侵して、そこにさまざまな「異教の神々」を復活させつつあると考えた。しかし、そこには、いっさいの「外」なるものを、みずからの内部に組み込んでしまい、「境界」や「差異」の運動を見えなくさせようとする、近代の本質にたいする認識が欠けている。かつて、民衆の世界において、生者を死者の霊の領域につなぐ媒介者の地位をつとめていた子供組や若者組の働きを、今日のブルジョア化された世界では、あのサンタクロースなる人物がつとめることになった。象徴のメカニズムが変態していくその過程で、社会の「外」に触れていたいっさいのものが、内部に包み込まれ、かくして子供はサンタクロースからのプレゼントを受け取る位置に、転落していったのである。」(中沢新一著「幸福の贈与」『サンタクロースの秘密』 せりか書房)

 日本におけるハロウィンでの放火事件は、子供の「転落」の次なる転回を予言しているのかもしれない。

脚注17 作中の「安楽死計画」という言葉自体は、ヒトラー政権下の仕業から引用されてきたのかもしれない。

・「最初のガス室は一九三九年に、「不治の病人には慈悲による死が与えられるべきである」というこの年に出されたヒットラーの布令を実施するために作られた。(ガス殺は<医学的問題>とみなされなければならないとする驚くべき確信をセルヴァティウス博士に与えたのは、多分このガス殺の<医学的>な由来であったろう。)この着想そのものは相当古いものだった。すでに一九三五年にヒットラーはドイツ医師総監ゲアハルト・ヴァーグナーに、「戦争になったらこの安楽死の問題を引受けて実行するように、戦時のほうがやりやすいから」と言っていた。問題の布令は精神病者に対してただちに実施され、一九三九年十一月から一九四一年八月までのあいだに約五万人のドイツ人が一酸化炭素ガスで殺された。その施設のなかの死の部屋は後のアウシュヴィッツにおけるのとまったく同じように――つまりシャワー室や浴室に偽装されていたのである。この計画は失敗だった。周囲に住むドイツ人に対してこのガス殺を秘密にしておくことは不可能だった。四方八方から抗議が起ったが、この人々は医学の本質と医師の任務についての<客観的>な理解に達していなかったのだろうと察せられる。東部におけるガス殺――いや、ナツィの言葉で言えば<人々を慈悲によって死なせる>という<人道的な遣方>――は、ドイツ内でのガス殺が中止されたのとほとんど時を同じくして開始された。それまでドイツで安楽死計画に携わっていた連中が、民族絶滅のための新しい設備を築くために今度は東部へ送られた。」(ハンナ・アーレント著 『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』 大久保和郎訳 みすず書房)

脚注18 NHK番組での討論中における、高橋源一郎の発言。

・シリーズ深読み読書会 「進撃の巨人~人類再生の物語」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=sitPMPAT1Jw

脚注19 ハンス・ヨーナス(1903~1993年)
・「ここまでの議論で、知覚との関連および行為との関連で、「自由」という概念が二度登場した。通常は、この概念に出会うのは精神と意志の領域であって、それに先立つ領域においてではない、と考えられている。また、この概念にどこかで出会うとすれば、それは行為の次元であって、受容性の領域ではないと考えられている。とはいえ、「精神」が有機体的なものにおいてまったく最初からあらかじめ形成されているなら、同様に自由もまたそうである。実際私たちの主張は、あらゆる有機体的実在の基層にある物質交代がすでに自由を認識させるのであり、それどころか、物質交代それ自体が自由の最初の形式である、ということである。これはほとんどの読者にとって奇異な言葉遣いであるに違いないし、そうだろうと私も思う。というのも、私たちの肉体の内部における化学的な出来事の示す盲目的な自動運動ほどに、自由と無関係なものがあるだろうか? そして、そのような自動運動ほどに、通常の理解によれば「自由」という言葉に結びつけられる意欲や選択から縁遠いものがあるだろうか?
 しかし、太古の有機体的実体がかすかに動いた際に、恒星や惑星や原子にはない自由という原理が物理的宇宙のもつ無限に広がる必然性のなかで、はじめてきらめき出たということを示すこと、それこそがこの探究の重要な関心の一部なのである。自由という概念がきわめて包括的な原理として求められている場合には、その概念はあらゆる意識的・精神的な意味連関から遠ざけられていなければならない、ということは明らかだ。「自由」は客観的に識別可能な存在様態を示すのでなければならない。すなわち、それは、有機体的なものそれ自体に帰属しており、そのかぎりで「有機体」という範疇のあらゆる構成員に共有され、いかなる非構成員によっても共有されていない、存在のあり方でなければならない。したがってそれは、さしあたりはたんなる物理的事実にさえも適用されうる、存在論的に記述可能な概念なのである。」(『生命の哲学 有機体と自由』 細見和之・吉本陵訳 法政大学出版局)

脚注20 渋谷焼き肉店立て籠もり事件(2022年1月8日)。そしてまたすぐの1月15日、大学共通テスト試験会場の東大前で、17歳の高校生による放火未遂の刺傷事件が起きた。この青年も、自殺に他人を巻き込もうとする動機を語っている。

脚注21 思想犯として検挙され、敗戦末期の獄中で死を迎えた戸坂潤(1900~1945年)は、文献学的解釈で終わる日本の現象を、「日本イデオロギー」として告発している。

・「例えば自由主義乃至自由主義哲学によって国史を検討する、というような言葉には殆ど意味がないだろう。日本主義的歴史観に対立するものは、唯物論による、即ち唯物史観による、科学的研究と記述でしかあり得ない。だからこの点からも判るように、日本主義に本当に対立するものは自由主義ではなくて正に唯物論なのである。その証拠には、日本主義の殆ど唯一の「科学的」(?)方法である文献学主義のために余地を与えたものは、他ならぬ自由主義の解釈哲学だったのである。この意味に於て、自由主義的哲学乃至思想の或るものは、そのままで容易に日本主義哲学に移行することが出来る。日本主義哲学は所謂右翼反動団体的な哲学に限らない、最もリベラルな外貌を具えたモダーン哲学であっても、それがモダーンであり自由主義的であることに基づいて、やがて典型的な日本主義哲学となることが出来る。」(『日本イデオロギー論』 岩波文庫)

脚注22 この小論を書くにあたって参照した東浩紀の論考「悪の愚かさについて2、あるいは原発事故と中動態の記憶」(『ゲンロン11』)には、こう記されている。

・「ぼくは一年前、ひとはなぜ、かくも高い知性を備えながらもかくも残酷な悪をなしてしまうのかという問いからこの探究を始めた。
 その問いへの答えは、おそろしいことに多くの場合、たまたま、なんとなくというものである。ひとはなんとなくひとを殺す。なんとなく収容所をつくる。なんとなく原爆を落とす。そこに深い理由はない。必然はない。悪は起こらなくてもよかった。アウシュヴィッツも広島もチェルノブイリも、すべて存在しなくてもよかった。それこそが悪の愚かさである。
 博物館はその愚かさを消してしまう。いいかえれば偶然性を消してしまう。加害者はだれなのか、悪を避ける選択はどこにあったのか、悪はなぜ起こらなければならなかったのか、原因と結果、加害と被害、能動と受動の関係を明確にして、つぎの世代の人々を賢くしようとしてしまう。
 ぼくはその試みを否定しない。賢くあろうという意志がないところには、法もなければ秩序も進歩もない。
 けれども同時にぼくは、人類はどうせけっして賢くならないだろうと思う。人類はこれからも戦争をするだろう。事故も起こすだろう。虐殺すらくりかえすかもしれない。個人はたしかに賢くなる。けれども群れは賢くならない。なぜなら群れはつねに若返り続けるからである。新しく愚かな個体が補充され続けるからである。それは希望であるとともに人類の限界である。いかなるイノベーションが生まれたとしても、人類が人類であるかぎり、その条件は変わることがない。」

 本当だろうか? 私は、年長の大人である私と、まだ経験の浅い若者とは、「同じ」であると認識する。そこに、世代と呼べる断絶(忘却)や階層をみるのは、それこそ量子現実をふまえないまやかしではないだろうか? 
 東は、「その残酷さを、法と線形的な時間の外でいかに記憶するか」と問いをたて、「個人ではなく群れの記憶。大量死があっても、それでも生は大量生として続いていくという、その現実そのものに刻まれた記憶」をクローズアップする。賢くなる個人を相手にするのではなく、賢くならない群れの記憶を相手にしようという。悪(残酷さ)の問題は、超自我(父)に囚われた個人にではなく、それを欠如させた新たな個体の群れにこそあるからだ、ということだろう。しかしこの論理は、一見では奇妙だ。忘却してくる大量の若い個体の群れ(世代)が愚かな悪を継承し記憶していく、と言っているからだ。問題なのは団体なのか個体なのか? 忘却なのか記憶なのか? イメージ的には、土地の記憶(風土)と通称されもするものの時間(世代)版、みたいな感じなのだろうか? おそらく、ここでの論理の曖昧さは、東の言う「大量」の「量」が、量子論的な意味における「量」と重ね合わされているからだろう。
 量子の「量」は、団体なのか個体なのか、わからない。電子一粒にしても、それは、量なのだから。東はその曖昧さの、団体部分への傾向をとっている、ということだろう。
 が、私は、あくまで個体の傾向の方をとっている、ことになろう。たしかに、たとえば家族人類学のエマニュエル・トッドの言うように、家族という文化集団の場の方が個人の記憶よりも強いかもしれない。が、父の記憶とは、個人ではなく、共同体家族が継承する、つまりその悪を記憶しているのは、そもそも団体の性質である。が、その自然的な文化習性を破っていくものこそ個体と個体の「近さ(量子もつれ)」であり、そこでの「重ね合わせ」こそが他者に開かれた遠隔的力を持ち、自然の謎に光を当てるのではないか、と私は考える。レヴィナスのように、顔の見える関係こそが、他者への開けだと言うように。

 巨人(マクロ)化したエレンは、始原の生命と共存している。がそもそも、私たちが、体の中で、微生物やウィルスを抱えることで生きている。そのミクロな他がなければ、私たちの個体は成立しないのだ。ならば、私たち自身が、個体なのか団体なのか曖昧である。しかし、それは、事実としてみようとするからで、その曖昧さを超えて自らの固有性として理解しようとするとき、この私という他者との固有な関係が、つまり真に他者へと開かれた個体のあり方が現実する、ということではないだろうか?

 マルクスは、ギリシア芸術に、失われた子供時代の反復をみた。反復という、子供のような生き生きした更新を得ることが出来るのは個体だが、その可能性は私たち誰にでもあり、また当たり前な出来事でもある。だから、それはどこからでも生起しえる日常だ。忘却(世代断絶)が悪の起源であると言うのなら、ジークのように、子供を産ませない人類にして安楽死していったらいいだろうとなってしまう。が、賢いはずの老人集団のなかでも悪は反復される。フロイトが、戦争後遺症に、子供の「いないいないばあ」という遊戯を重ね合わせたように、更新の反復に、悪もが重なってくるのだ。老いを意識しはじめた中年男には、若い女性が一様に「同じ」にみえはじめ、その若さを取り戻したくなる衝動が発生してくるようであるが、この良くも悪くにもなりうる欲動にも、おそらくそんな反復が比例している。が、女性はどうなのだろうか? あるいは、他の性は? 私(たち)は、そうやって、他から学びなおせる。その学びは、団体ではなく、まずは個体からはじまるのかもしれないが、誰でも「同じ」はずのことではないだろうか? そういう意味で、その仕草や能力は、団体的なものなのだ。

※ 引用文献中の傍点は、省略した。

 2月24日、ロシア軍がウクライナへと侵攻した。
 「地鳴らし」が発動されないよう祈る。

人を喰う話 2 『進撃の巨人』論

2022年3月13日 発行 初版

著  者:菅原 正樹
発  行:知人書謀

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Seiki Sugawara

1967年生まれ。植木職人。 自著;『曖昧な時節の最中で』(近代文藝社)・『書かれるべきでない小説のためのエピローグ』(新風舎) *カニングハムは、「振り付けするとはダンサーがぶつからないようにすることだ」と言っている。盆栽に象徴される日本の植木の仕立ての技術とは、枝が交差し絡み、ぶつからないよう偶然を準備していくことにある。自然に気づかれないで、いかに生起してくるaccidentを馴化していくかの工夫なのだ。たとえ西洋のトピアリーのような造形をめざさないことに文化的な価値の規定を受けていようと、そこには特殊にとどまらない普遍的な対応がある。芥川が「筋のない話」として日本の私小説の困難な特異さと歴史的前衛性を洞察したことが、日本の植木職人の技術のなかにも潜在するのである。

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