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この本はタチヨミ版です。
監禁四日目。目覚めからの食事、一回済み。
薄暗がりの空間に、響き渡るのは小さな呼吸のみ。だがその音には生気が欠片も宿っておらず、まるで植物が風になびくかのような、感情のない自然現象と変わりない。あってもなくても問題のないものだ。
そんなものが自分の口で生み出されていると考えると、どうにも虚しい気分になる。今身体を震わせている心臓の鼓動も、流れているであろう血潮も、こんな無価値な思考を回している脳みそも、意味がないのではと勘ぐってしまう。
「…………はぁ」
いや、きっと意味がないのだろう。この閉塞感の著しいこと極まりない空間には、何も希望などないのだから。
妙に詩人じみた結論を脳裏に浮かばせながら、私——姫宮咲は、自分の底知れぬ創作意欲だけが生き残っていることに、内心驚いていた。だがきっともう私にとって創作とは、もはや私が生きているという証明となっているのだと思う。初めて作品を書き終えた時のような感動は、もう私の中にはない。
「————」
と、ここで部屋に取り付けられたベルが鳴り響き、同時に横たわっていた部屋のドアがゆっくりと開くと、私は邪魔だとばかりに蹴り飛ばされ、全身を冷たい床に殴打する。
私が拝める唯一の太陽である日差しが、部屋の入り口を微かに照らす中、その逆光で自身を黒く染めた何者かは手に持っていたトレイを地面に置くと、憐れに倒れる私を舐めるように一瞥する。そしてふと思い出したように簡易トイレに入っている黒いビニール袋を汚そうにつまんで、持ってきた紙袋に突っ込むと再び光を閉ざした。
これで今日二回目の食事。ということは、少なくとも外の時間は午後に突入しているということ。それが昼か夜かはわからないが、今はこれだけでもありがたい情報だ。
私はマイクを握る中年のように小指を立て、少し伸びた爪をベッドの木材に突き刺す。そしてこの密室において、数少ない天然物の一つである木材に、正の字の四画目を刻んだ。
四日目。たった四日でここまで精神をえぐられるとは、閉鎖空間と暗闇の同時攻撃は、本当に恐ろしい。よく創作者の中で締め切りなどに間に合わない時、缶詰めといって部屋に籠ることがあるようだが、少なくとも私には無理そうだ。
「……時間か」
小さく呟き、私は暗闇の中に置かれた机に腰を下ろすと、ぼろぼろの指でペンを掴み、原稿用紙を卓上に広げる。次にテレビとDVDプレイヤーを起動させ、あらかじめ用意していた映画を流しながら、なけなしの想像力を動かし始めた。
さぁ、今日も筆を進めよう。苦痛と絶望、そして孤独の筆を滑らせよう。それがこの残酷な環境において、唯一命を繋げることのできる術なのだから。
色映えのしない高校生活を送っていたのだと、今になってつくづく思う。だがそれでも当時の私はそんな生活に満足していたのだから、無欲というのも考えものだ。
恋愛相手や片思いの相手はおろか、同性の友人すら一人もいない花の女子高生。そんな私の唯一の人生の彩は、読書と創作だった。
初めて小説に手を伸ばしたのは、小学校の頃。外で遊ぶ気にもなれず、ただ暇をつぶしたくてやってきた図書室に、私の運命の出会いはあった。といっても、何を読んだのかは覚えていないのだが。
それから読書をライフワークに設定した私は、まるで今までの空虚な人生を埋め合わせるかのように、物語と活字の世界にのめり込んでいった。そしていつしか自分の手でも物語を書き始め、高校でもそれを続けるつもりで進学した。そう、続けるつもりで。
——全ての始まりは、高校三年の春。まだ新しいクラスにも慣れていない四月中旬頃の、とある友人との会話からだった。
「ねぇ咲。これどこかの賞とかに応募してみれば?」
彼女の名前は石塚加奈子。高校になって入部した文芸部で仲良くなった、私の数少ない友人で、成績優秀に運動神経抜群、まさに才色兼備のスーパー女子高生である。さらに、彼女の実家は相当な財閥として地元では有名で、それ故に彼女は他人を極度に怖がり、今まで最低限の交友関係だけで生きてきた人だった。
そのせいか、友人となることができた私のことを、彼女は本当に大切にしてくれた。宿題は結構な頻度で見せてもらっていたし、長距離走では最後まで互いに裏切ることなく走り切った実績もある。これは親友と呼んでも差し支えないだろう。
「な、何? いきなりどうしたの?」
「どうしたもこうしたもないよ! 前に私に見せてくれたこの小説、凄い面白かった!」
私を置いてきぼりにした怒涛の大興奮を表情に宿し、加奈子は勢いよく両手を突き出す。そして私の前に差し出されたのは、いつの日か私が加奈子に「読ませて欲しい」とせがまれ続けた挙句に渡した、殴り書きの原稿用紙だった。
「あぁ、これ面白かった?」
「うん! 特に主人公の成長過程が繊細に描かれてて、読んでいてすぐに感情移入できた! 最後は冗談抜きで泣きそうになっちゃったよ!」
そんな笑顔で言われても妙に信憑性に欠けるが、とにかく喜んでくれたことは確かなようだ。
「羨ましいなぁ、こんな文才があって。私なんて、どう頑張っても有名な作品の二番……いや、三番煎じにしかならないんだもん」
「嬉しいけど、そういうのはあまり言うもんじゃないよ。恨まれるから」
私の親愛なる忠告に対し、加奈子は首を傾げるのみ。やはりいいとこのお嬢様だからか、一般市民の情念は考えられないのかもしれない。
素晴らしい頭脳と誰もが見惚れる容姿、この二つを兼ね備えておいて他人の才能を羨ましがっては、きっと学校中の女子から言葉の刃を向けられることだろう。この話は、私のところで止めておいた方が絶対にいい。
それに、私は特に文才があるわけじゃない。加奈子が褒めてくれた表現も、恐らくは他の作品にありふれた書き方と捉え方だ。私のオリジナルではない。だから私に、才能なんてない。
それよりも私は加奈子の方が、間違いなく文才があると思う。言葉の組み合わせ方も柔軟だし、比喩の形は豊富だし、何より純粋に物語やキャラクタ―が面白い。
「とにかく、私に才能なんてないから。それより……」
「? それより?」
「え、ええっと……か、加奈子に喜んでもらえれば、それで……」
「っっっ! もう! 咲は本っ当に可愛いんだからぁ!」
私の謙遜と正直な気持ちを織り交ぜた発言に、加奈子の大はしゃぎなハグが襲いかかる。それからしばらくの間、文芸部が使用する放課後の図書室は、私達の声高な話し声に、しばしの間占拠される。
そう。この空間が楽しいのだ。たくさんの人に評価されなくてもいい。時として酷評されようと、それは個人の自由だ。私にとってはどうでもいい。
ただ加奈子にだけ喜んでもらえればいい。加奈子と二人だけで、創作の世界を楽しんでいればいいのだ。親友と一緒にいられれば、それで。
——しかし、時として才能というものは、人の人生をかえって歪ませてしまうこともある。
「今年の最優秀賞は、姫宮咲さんの『笑顔の果てに』です! おめでとうございます!」
巨大ホールにこだまする大歓声と、司会の高らかな合図の声。そしてそれを引き金に立ち上がるギャラリーに、響き渡る雪崩のような拍手。その衝撃は私の予想を超え、まるで象の群れが走っているかのような、全身を震わせる刺激を感じさせる。
その感覚の全てが今、私の下に届いている。そんな事実に、私はまだ信じられないでいた。
事の発端は、加奈子に見せたあの作品である『笑顔の果てに』を、加奈子のありがた迷惑によって、とある小説大賞に応募してしまったことにある。私の書いた作品は私の認知の外に飛び出し、業界人という肩書を持つ老人達に大絶賛され、ついには最優秀賞にまで選ばれてしまったのだ。
地元では大フィーバーが巻き起こった。今まで私のことなどオブジェクトの一つとしか見ていなかったような連中が大量に群がり、メディアミックスという金の匂いに誘われた大人達も、甘い汁を吸いにと足元を這いずり始める。あの時ほど世の中の薄汚さを目の当たりにした日はない。少なくともテレビ番組を純粋に楽しみたいのなら、絶対に見てはいけない光景だと思う。
私にとっての正しい声援は、やっぱり加奈子だけ。
「ね⁉ 最高の結果になったでしょ⁉」
「ね、って言われても、私の許可なく出されて得た結果を、どう喜べって——」
「——いいじゃん! 凄いことには変わりないんだからさ! それよりも、おめでとう!」
彼女からの祝福だけが、私の心に唯一、本物の祝福として飲み込むことができた。やはりこういう時、一番胸に刺さるのは、親友からの言葉なのだ。彼女に喜ばれているのなら、それはきっといいことなのだろう。
その後も私は彼女の言葉に押され、その作品を商業化することに決め、数日後、早速出版社の方と打ち合わせをするに至った。
そこからのことは……正直よく覚えていない。
とにかくいろんな大人達と話をした。目の前でやたらと香水を振り撒く編集者の回し者、ネクタイとスポンサーを気にし続ける編集長、作品の脚本版を下さいと執拗に願うプロデューサー。その種類は多岐に渡る。
「よし! ドラマ脚本の方、よろしくお願い致します! 姫宮先生!」
ほら、呼び方もいつの間にか「さん」から「先生」に変更され、大人達の媚びへつらう目線もその醜さを増している。ここまで来ればもう不審者と大して変わりはない。「お金が欲しいです」と言うか言わないかの違いだけだ。汚い魂胆が雰囲気と表情と仕草に現れている。
「……って、ちょっと待って下さい。今、ドラマって言いました?」
「え? はい、そうですけど……承諾されて下さいましたよね?」
当たり前でしょ、と言わんばかりに、男が素っ頓狂な声を上げる。
ということで、ついついその醜悪な所作に意識を奪われた私は、いつの間にか作品のドラマ化、同時に脚本を手掛けることになってしまった。
そしてこれからが、私にとっての地獄となる。友人への喜びを是非としない、最悪の地獄が。
脚本というものは、小説と似て非なる存在だ。一見、台詞や描写の表現を挟んでおけばいいと思えるものの、書いてみるとそんな単純な掻き分けがとても難しい。描写説明においては一切の比喩がきかないから、役者さんに明確なニュアンスを教えなくてはならないし、番組予算的にそれが実現できるのかどうかも考えなくてはならない。
そして何より重要かつストレスなのが、監督・助監督らとの意見のすり合わせだ。この点はまさにドラマ特有の関係性だと言えるだろう。あくまで作品構成を担当するのは監督ら現場の連中であり、それが全て。私の意見は全て奴らに検閲され、番組として成立するように修正が施されていく。
つまり私にとって連中は、自分の作品を穢していく悪魔なのだ。
本当に苦しかった。本当に辛かった。加奈子に喜んでもらえた作品が変わっていくその過程が。そしてその変化を、自分で書かなければならなかったあの時間が。出来上がった積み木に合わないパーツをはめていくあの作業が。
「ダメだよ、咲。どんなに嫌でも、仕事は仕事なんだから。ちゃんと最後までやり切らないと」
しかし、どんな時でも加奈子はまっすぐだ。共感して欲しかった気持ちを容赦なくへし折ってくる。
「でも……すでに完成したはずの作品に変なテコ入れ挟まれたら、どんな作者でもこういう文句出てくるよ。加奈子だってされたら嫌でしょ?」
「そりゃあ嫌だけど、それは仕事だからってことで飲み込まなくちゃ。っていうか、咲は原作者でしょ? そんなに嫌ならどうして断らなかったのよ」
さらに、加奈子はとても論理的だ。会話の流れから見えてくる矛盾点に気づき、しっかりとこちらの弱点を突いてくる。それを言われては、もう何も言い返すことはできない。出来るのは敗北の白旗を上げることだけだ。
「いい? もう私にそういう類の泣き言は言わないで。ドラマ、私も楽しみにしてるんだから」
「はぁ……わかりましたよ、お母さん」
「別にお母さんぶりたいんじゃありません」
——そして精神的な紆余曲折を挟み、私はなんとか脚本を完成させた。
結果は大成功。基本的に原作を未読の人達から好評を頂いたが、原作からの視聴者も、原作とテレビ版の違いを楽しんで視聴してくれた人が多く、相対的な評価も上々だった。
かくして私は「新進気鋭の天才作家」として、世間から望まぬ期待と、さらなる羨望の眼差しを向けられることとなる。
だが私は当然、その二つ名をもらうつもりなど毛頭なかった。ようやく地獄の作品作りが終わったのに、また慣れない環境で物語を書く気にはなれるはずがない。何より私は、世間の金儲けのために作品を書いてはいないのだから。
——しかし、現実はどこまでも理不尽だ。
「先生! 次の月曜ドラマの脚本を、是非とも先生にお願いしたいと連絡が!」
いつの間にか私の担当になっていた編集の男が、意気揚々と次なる地獄の到来を叫び、互いの間に置かれた机に、分厚い資料の束を乗せる。
「…………やります」
あぁ、もう、私は馬鹿だ。大馬鹿だ。どこまで行っても馬鹿なことしか言わない。この時のことを思い出すだけで吐き気がする。
私は結局、それから三本も脚本を担当することとなり、いよいよ小説という文学の世界からも逸脱した道に足を踏み入れてしまう。
さて、追い詰められた馬鹿な私が取る行動は、たった一つ。
「……仕方ないんじゃない? 受け入れなよ」
流石にめんどくさくなったのか、加奈子の元気な反応もついに陰りが見え始める。次はなさそうだ。
とはいえ、この日は久しぶりの文芸部。せっかく時間を作って参加したこの至福の時間を、嫌な雰囲気で汚したくはない。
だから私は、即座に話の本題を切り出した。
「ねぇ……私、この世界で生きていくしかないのかな?」
「何? いきなり」
不意を突かれた加奈子が、いつもよりやや高い声を発する。
「私、やれることと言えば創作しかないし、何かやりたいこととか、仕事にしたいこともなくて……だったら、今のこの状況を受け止めて、この道を突き進むしか——」
「——大丈夫よ。咲ならやれるって。どうせ私が止めてもやるんだし。今回も、誰かに背中を押してもらいたいんでしょ?」
まるで上等なシルクを撫でているかのような、滑らかに出てくる言葉達。それはどこか適当に流しているように聞こえながらも、そこには友人としての思いと、私の扱いを十分に理解しているからこその、余裕が垣間見れた。
「ご、ごめん……いつも加奈子にばっかり……」
「謝らないでよ、応援してるんだから。部活動のことは気にしないで、頑張ってきてね」
「……うん、ありがとう。私、本気で頑張るから!」
こうして、大きな後押しをもらうことができた私は、精一杯の感謝を込めて、加奈子へと言葉を贈った。
ここからのことは、結構よく覚えている。出版化の時と比べて意識が向いている理由は、わざわざ言うまでもないだろう。
とにかく……頑張った。本当の本当によく頑張った。もし何かの手違いであの頃にタイムスリップできたとしたら、あの時の私の頭を全力で撫で倒し、髪型が取り返しのつかないところまでぐしゃぐしゃにしてやりたいと思っている。最高に手厚い賛美だ。
このように私は、加奈子からの後押しをもらって走り、疲れて膝を突くタイミングで再び加奈子からの助力をもらう。モチベーションの自転車操業を何回も繰り返してやり続け、私はなんとか作品を書き上げ、世に送り出した。
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年3月1日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス