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はじめに
私は昭和20年11月神戸生れ、終戦3か月後です。神戸は3月17日と6月5日に大空襲と連日50数回の空襲で町は壊滅、港湾、造船、製鉄、各工場があって徹底破壊されました。
私の両親は戦禍の中を逃げ回ったそうで、その話しは断片的にしか聞いてない。
もの心ついたとき、それは5歳頃、昭和25年頃だったかな、私は町のど真ん中育ち、神戸の中心地は三ノ宮,三宮駅前は広大な米軍キャンプ、焼跡、闇市、進駐軍、それに浮浪児、傷痍軍人、バラック小屋と、大変な雑踏、猥雑な町景色を鮮かに覚えています。
米兵の颯爽たる姿、外国船の船員達、格好よいセーラー服姿、ジープで風を切って通りすぎて行く眩しい光景でした。修羅の巷とモダン・ハイカラ、舶来の風が吹く、神戸は二つのカラーでした。
両極端な二つの光景、これが私のセピア色の古き昔の思い出。
父も母もモダーンな人、若かりし頃の父はタップとチャールストンが得意、家には大きな電蓄がありました。流れて来るのは、ドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」にパティ・ペイジの「チェンジング・パートナーズ」、笠置シヅ子の一連のブギもありました。この終戦直後の音楽が身に沁みついてしまった。
2、3か月に1回、阪急電車に乗って「宝塚」へ。幼児の私には宝塚行の阪急は銀河鉄道でした。
今でもレビューにライン・ダンス、パリの香りたっぷりのシャンソンが懐かしい。少女趣味ですね。
私は神戸の華僑世界の中で育つ、第三国人ですよね。終戦直後、一夜明けてみると戦勝国民。日本人は出入り禁止のP.Xにも自由に出入りできる、だから華僑達は羽振り良かった。私もパン、オートミル、コーラと進駐軍食で育った。
タンゴは廃れ行く音楽、東京のタンゴ界をのぞいて見ると、ファンは昭和10年代まで。年代毎減少して、昭和20年生れの直前でストップ、そしてギリギリ団塊世代がチラリ、ホラリ、とこれで完全にストップ。私の年齢でタンゴ界で言うなれば幼年部、タンゴは既に老人の音楽となっている。
このような老人の音楽を高校時代に知って深くのめり込む。人間がもともとアナログ人間、だから染り易かった。当時、巷で流れていたロックンロールは耳に入らず、パス。大学一年の頃ビートルズ旋風、これもパス。四年になる頃、グループ・サウンズにGパン、長髪、学園紛争、これも蚊帳の外。
つまり時代に乗れず、どっかで思考、感性が停止したのでしょう。それ以後、時代に迎合せず私は昭和30年代でストップしてしまいました。
唯、旅だけはよくした、それも一人旅、ヒッピー旅行ですね。アフガニスタン、ラオス、ネパールと後進国好み、地図と歴史は大好きでした。大学時代は一人下宿で漢詩をむしゃぶりついて読んでいました。
一方映画も大好き、これも見るにつれ古い方へ古い方へと、とうとう東京ではサイレント映画の活動倶楽部へ入会、京橋フィルムセンターへもよく通いました。それにね、ひょんなことで横道にそれる。35歳の時に、それは流行歌、最も馬鹿にしていたものが、人間って分らないものです。醍醐味を感じてしまったのです。
少し化石になりかけた私、だから6歳下の、それでも60代の貴殿を見て強いショック、新鮮味を感じたのでしょう。
今も昔も変らぬもの、それは万葉の昔から、男と女の世である以上永遠に変らぬもの、それは恋心です。歌のテーマはほとんどが男と女のこと。これは当たり前すぎる程、当たり前。
しかしその表現法が異なる。日本はサムライの国、恋のもつれで女の為に剣を汚すことはない。
ところがタンゴの国アルゼンチンは当たり前のこと、決闘がある。倫理観、道徳観が異なる。日本では恋とは、男と女の戯れ事と思われていた。“恋や恋なすな恋”である。男尊女卑の上におまけに超えることができない強固な身分制度、こうして生まれたのが近松門左衛門の世界、心中ものである。
“愛してる“なんてはっきり言えない、はしたない女と見られる、せいぜい”お慕い申し上げてます“”お側に居させてください“と言うのが精一杯。聖処女を求められる。一旦水商売の世界に入るとまともな結婚はできないものだと覚悟すべき。妾、日かげの女、昭和20年代まで当り前でした。つまり女は花嫁人形だったのです。
流行歌の歌詞をつぶさに見てみるとよく分る。勿論、健全な男女の歌もある。それは映画、歌の世界のもので現実には絵空事。昭和20年代の映画を見てみるとよく分かる。民主主義と自由恋愛の学習期間だったのです。
戦前の「小さな喫茶店」等、何と恥じらい多いことか、やっとこさ喫茶店まで行き、二人っきりになれたのに、若い二人はお茶を前にして一言もしゃべれなかった。純情男に麗しの乙女、これが当たり前の世でした。男女で喫茶店に行き、側でラジオは流れてるなんて、これだけの設定なのに何とハイカラ、隔世の観がします。
一方「並木の雨」なんか傘をさしてる見知らぬあの男、ふと思い出す、あの愛おしいお方の面影を切ない程偲ばれる、と却って詩を感じる、一幅の絵を感じる。
もう一つ「天国に結ばれる恋」二人はこの世では結ばれることがなかったが天国で結ばれる。若い二人は清い身体のまま天に召された。なすな恋、死んで成就できる恋、日本人の大好きなテーマである。
タンゴは女が男をたぶらかす、裏切りの女の多いこと。タンゴの涙は7割が男が流す。
日本は、女がだまされる。花でも摘んでポイと棄てるように処女を抱いたら男は知らん顔、傷ものと言われて、女は奈落の底へ、水商売の渡り歩き、“こんな女に誰がした”となる。
男が恋に泣くこともある。親の反対に、身分違い、兵役に送られる、恋には常に障害がつきまとう。
敗北感を背負って、人生の歯車がどこかで狂い男は奈落の底へ。ここから人生の流転がはじまる。このような題材は歌の格好の場となる。酒と女、日本は苦い酒の歌が多い。
今は、アイドル歌謡全盛時代、中味はと言えば、中高生の年代を対象、歌の上手下手は二の次、三の次、可愛い娘チャンであればそれでよし。年端のいかない子供なのに、恋だのへちまだのってチャンチャラおかしい。
その親の世代も4、50代。若かりし頃、やはりアイドル歌謡やロックで育った世代、仕方がない。
じゃ、大人が聞く演歌やカラオケ歌謡は?これ又次元が低い、情念の炎ギラギラ燃やして、何だか
いやらしい。男女の表現が直截的、聞くに耐えられない。
じゃ、ロックは?うるさいですね。よごれファッションで汚ない。彼らはミュージシャン、遊び人風情で言動に品性なし。
以上で、そもそも私は聞くものがない。昭和40年代からそもそも聞きたくない。仕方なく耳に入って来るがその頃私は20代、若さの盛りなのに背を向けていた。既にロックにグループ・サウンズにフォークの時代でした。
昭和30年代後半、つまり1960年代に入って一変した。この時代のものを懐メロと思って聞いている世代は昭和17、18年生れから団塊世代まで、つまり1940年代生まれの世代です。
私が聞くには、昭和30年代前半より前、つまり1950年代まで。ロックは登場している。しかし主流でない。レコードはLP、EPレコードは登場してた。しかし昭和33年(1958年)まではSPレコード(78円回転)の時代でした。
昭和33年を見てみましょう。この時、廿歳の人は昭和13年生れ、昭和3年生れが30歳になったところ。大正7年生れが40歳、明治41年生れが50歳、私は4月より中学一年生、テレビの普及はまだ50%になってない。
その代わり映画の全盛時代、観客動員数史上最高と同時にテレビ時代に入って、このテレビも花盛りでした。
その一年前から邦画もシネマスコープを制作するようになった、石原裕次郎がデビューして世を騒然とさせる。アクション映画、若者の非行化、そんな風俗を煽るような映画が作られるようになった。それに迎合するかのようにグラマー女優登場、洋画はヌーベル・バーグ露骨に性表現をテーマにするようになった。
つまり昭和33年は、そう言った諸々の風俗が一変しようとしていた元年と思ってよい。
歌に世界もそれに応えて、ロカビリー旋風。しかし、これは当時の流行の先端で主流ではない。若い女の子が裕次郎のアクション映画を見に行くことなかった。当時まだ中卒者の多かった時代、このような層がアクション映画を見る。平均的な層はチャンバラ時代劇に西部劇で女性は文芸作品かメロドラマを見るのが主流でした。
高学歴の男がアクション、暴力、やくざ、任侠映画を見、マンガを見るようになったのは、大学進学率が急に高まった昭和40年代からです。全体的に質的低下、若者のガキ化が一般的になったのはこの時から、つまり今の60代からです。今は若者だけでなく40代、50代、極端に言うと全世代ガキ化です。
流行歌はやっぱり東京の歌。タンゴはブエノスアイレスの音楽、シャンソンはパリ、ジャズはニューオリンズ、ニューヨーク、シカゴ、みな都会の音楽である。田舎の音楽は民謡、ウエスタン、フォルクローレ、とよく聞いてみると、山と高原の歌、穂高がよく出て来る。大体に於いて青春を謳歌してる。じゃ信州の人の歌なの?そうじゃない。やっぱり東京の人の歌。
港、それもほとんど横浜を連想する。じゃ横浜の人の歌なの、そうじゃない。やっぱり東京の人の港町、東京の外港、それが証拠に神戸の歌はほとんどない。東京の人には無縁の港だから。
函館、小樽は歌ってるじゃない、それはね、東北、北海道は東京に直結してるから。
港町なんて、西日本にはザラにある。東日本の比ではない、下関、門司、佐世保、呉、尾道、と西日本の中規模以上の都市、ほとんど港がある。東京の人にとって宮古、釜石、気仙沼は心情的に近くて、じゃ同規模の西日本の宇和島、八幡浜、相生、今治、唐津が見えてる?見えてない、見ようともしない、でも西条、因島には巨大な造船所がある。しかし知られていない。東京人には眼中にないのです。
演歌、失恋、焼酒、未練、愚痴、その舞台もほとんど北の海、際涯がある。同じ海峡でも津軽海峡の方が身にこたえる。この海峡だって西日本にはフンダンとある。関門海峡、明石海峡、鳴門海峡と、しかし瀬戸内海だと哀話にならない。陽光燦々と明るい海、悲壮感漂わない結局、演歌の舞台、焼酒、未練、失意、と虚構の舞台となるのは北の海になる。
集団就職、高度成長期前夜、中卒の金の卵、東の人は東京に流れた、西の人は大阪に流れた。でも演歌の世界は上野駅が基点、歌っている日本はほとんど東北「リンゴ村から」「東京だよおっ母さん」「哀愁列車」「別れの一本杉」「ああ上野駅」等々全て東京=東北である。
それと同じように大阪=九州、大阪=四国もいっぱい居たはず。しかし私が知る範囲、「月の法善寺横丁」しかない。九州や四国では哀愁にならない。名古屋となるとまるで眼中なし。
つまり、何も東京一極集中は今にはじまったのではない。江戸時代参勤交代からはじまっているのである。人口は江戸時代以来、ずっと江戸に流れる。近代日本、明治からは青雲の志求めて東京へ。
維新、あれは革命ですよね。発火源は長州、薩摩、土佐であっても、結局は目指すは東京。山口を見ればよく分かる。高学歴者、有名大学卒者は東京へ行ってしまった。二代目、三代目は東京生まれとなっていつしか東京人になる。安部総理を見れば分る選挙は山口でも本人は東京生れで東京育ち。西日本の人と東北人の決定的な違いは?「望郷」である。東北の人は故郷を背に抱えているが西の人、その望郷の念サラリと棄てて東京人に顔になっている。ロック、フォーク、ニューミュージック系は九州の人と広島の人が多い。
千昌夫、吉幾三、新沼謙治、と永年東京に住んでても東北のカラー濃厚。一方森進一、タモリ、松田聖子と、彼らは九州カラーを払拭、すっかり東京の顔となっている。芸能界、歌の世界、見てるだけで日本が分る。
東京は全日本人にとって花の都であり、ふるさとなのである。それは富士山と桜と一緒なのです。
「我は海の子」[海ゆかば][海][浜辺の歌]「みなと」西の海である。西の海の歌である。
明治の国策は「富国強兵」、学校唱歌、童謡も西の方に向いていた、その更に西は中国大陸と満蒙の地がある。そして「海の時代」である。
下関からは関釜連絡船、朝鮮半島は玄関口であって、その先満州を見すえている。
長崎からは上海航路、勿論目標は豊かな中国大陸、中支である。門司からは基隆(キンルン)、台湾航路である。佐世保、呉、横須賀は軍港、当時最大の軍港で人口が一番多かったのは呉である。
呉と目の鼻の先、江田島には江田島海軍兵学校があった。エリート養成教育はここで行われていた。そして広島は軍都、当時人口もほどよく40万余、地形も太田川三角州のみが平地で三方山に囲まれている。広島が原爆にねらわれたが由縁である。人口規模、地形、そして軍関係がここに集中していたからである。
戦前の長崎の人にとっては、心理的に距離が近いのは東京でなくて上海。長崎と上海は緊密な関係、往来も激しい。冗談みたいなようですが、長崎県上海市とまで言われていた。
戦前の歌を聞くと上海を歌った歌が多い、異国情緒溢れる長崎も歌の舞台になった。海の国、西日本のどん詰まりは大阪、ここに富が集積し江戸時代の天下の台所から引き継いで経済都市となった。
ところが第二次世界大戦後、満州も大陸も南洋も失って日本は四つの島に戻った。大東亜共栄圏の夢も泡のように消えた。国は復興、その象徴は東京、流行歌の舞台も東京にそそがれた。
高度成長以来、海外渡航も自由、誰でも行けるようになった。四通八達便利になった、しかしその目の向き方、行動は、と言えば「点」の結び方、「面」ではない。男女の接近も戦前とは遥かに比べものならない程、接近、夢やロマンを持たなくなった昨今の若者、これだけ安定しやサラリーマン生活が成熟すると“寧ろ鶏口となるより牛後になること勿れ”の発想が生れなくなる。マイカー、マイホーム、スマホ、インターネットに関心を持って、日常茶飯事的。
かつての東京は出世街道の到達点、青雲の志を抱く所。今若者が求める東京は、渋谷に原宿に秋葉原。銀座なんか見ていない。戦前までは花の東京の範囲内にも入ってない。田園地帯の多摩地方へ伸び、それが満タンになったので新東京人は埼玉、千葉に居住、最近では横浜北部、相模原方面が伸びている。流行歌も夢を見なくなって、ほとんど男と女の痴話ばかり。アイドル歌謡も青春讃歌で何を云い違えたのか題材は異性に関心を持つことだけ、薄ら寒い世相となりましたね。
西は、京の都を中心にして天皇家、宮様、お公家様の直轄区。当時都落ちとは西へ下るんじゃなくて東へ下ること。平安までは事実そうでした。下剋上の時代を経て江戸時代に入っても猶、江戸一点を除いてあとは東(あずま)の国。「アヅマの国」の語の響きには辺境感がある。文化果つる地、それが東夷(あづまえびす)の人々でした。
越前、越後、備前、備後、筑前、筑後、前は京に近くて後は京より遠し。近江の江は琵琶湖、遠江の江は浜名湖、琵琶湖は京に近いから近江、遠江は遠いから遠江である。
食いっぱぐれ、はみ出し者は西の人は海賊となる、東の人は山賊となる。
平清盛までの時代まで瀬戸内海は海賊の巣窟だったろう。東の国は道中山賊が出没、追剥(おいはぎ)に襲われる。
この海賊、段々発達して倭冠になる。一方山賊は統轄して武将になる。源平合戦は天下の別れ道、源氏が勝って平氏が負ける。これによって武士の時代の幕明け。
西の武将は東の武将に劣る。武田、上杉、今川、織田、豊臣、伊達、とことごとく東出身の武将。西の武将の最強は毛利氏、徳川幕府にとって目の敵、瀬戸内海に在っては危ないってことで長州の最も便利の悪い日本海の萩へ移遷。これは幽閉と同じこと、幕末その不満がいっぺんに爆発、これが維新である。
股旅、旅姿、三度笠、合羽ひろげてのスタイルは同じだったはず。ところが歌になるのは関八洲、国定忠治に沓掛時次郎、赤城山、筑波山、利根川、大菩薩峠、伊那、このあたりまでが任侠街道。ところが淀川、西国街道は股旅の舞台にならない。
伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、と宮の渡しで桑名入り、ここから伊勢詣で、一方金毘羅詣では?これも海路、今で言う豪華客船に乗って四国は多度津の湊か丸亀の湊に着く。よく繁栄したのでしょう。
尾道は明治31年、丸亀は明治32年に市制、埼玉県なんて明治にはゼロ、川越は大正11年に市政、浦和、大宮、川口なんて昭和に入ってから市政。鎌倉はやっと昭和14年に市制。
西の人はチントンシャンと遊興と雅びが好き、中国もよく似てる、黄河流域は武に強く天下を取るのはいつも北、南の揚子江、江南の里はチントンシャンが好き、中国は北と南、日本は東と西、で風土が異なる。
天皇様もお公家様も本籍地は関東ではなく京都か奈良。象徴天皇なら文化の継承者として京都に居られますが本当では。日本は流氷の海から珊瑚の海まである。大変な海洋大国である、海に浮かんだ日本列島、やっぱり「我は海の子」である。海を忘れてはいけない。
邪馬台国。まだ分ってないですよネ。いずれにせよ北九州から、大和の国まで、これが原日本?
関ヶ原を超えると景色は一変、もう一ケ所鈴鹿山脈を越える、伊賀の国を抜ける、伊勢の国となる。
関ヶ原、揖斐川、木曽川が分水嶺、景色は一変して広い河川に広い平野、そして2,000m超える高い山。西と東の分れ道、自然景観が全く異なる、お餅も形を変る。味覚も薄味、濃い味と違ってくる。
西は山あり海あり島あり、平地は乏しい。箱庭の如き風景、それから比べると東日本の風景は広大。中国地方はその中間、中つ国である。
光は西より、朝鮮半島、朝鮮海峡、対馬、壱岐、九州、ほぼ等距離、これが文明の道。
古代、文明の夜明け前、朝鮮半島南部と那ノ国、奴ノ国、伊都ノ国、末慮国は一つの世界ではなかろうか。那ノ国の港町那の津は博多の古名、今も中洲を流れる川、那珂川と称している。
伊都国は糸島郡、末盧国は松浦郡、ここから壱岐が見える、壱岐から対馬が見える、対馬から朝鮮が見える。又松浦半島のすぐ隣りは平戸、ここから島づたいで五島列島へ、この海は東シナ海、一衣帯水、中国大陸江蘇省、浙江省である。気候風土も全く日本と一緒、ここは湿潤気候、米に適応した自然環境。
浦島太郎、桃太郎、それに海彦、山彦、この話し、どう考えても西日本の話し。これが鹿島灘、九十九里浜から発した話しとは思えない。それどころか駿河湾、東海地方とも感じられない。
目の前に海がある。そこへ出てアサリを採る。そして裏山へ行って鹿を追う、兎を追う。これが原日本人(西日本)の生活形態。ところが東日本ではこうはいかない。広い平野に高い山、海は外洋で漆黒のイメージ。
気候も違う、東京に10年間住んで感じたのは、温暖差が激しい。6月と言うのに突然寒くなる。
山口の寒さは厳しい、一旦寒い季節に入るとずっと寒い。寒暖差はどこもある。しかしその差が大きいのは東京だ。つまりこれが東北になると冷害になる。岩手県と秋田県は背中合わせ、秋田の方が豪雪である。しかし秋田の海は団粒で米どころ、岩手の海は寒流で冷害に合う。
箱根が大きな自然障害となっている。東京から栃木、群馬両県と箱根を超えて静岡県の距離は、ほぼ同じ。しかし東京人、北関東からそこから先、東北に対しては何の障害もなく直結、直通であるが、箱根より東は?余り関心示さない。関ヶ原より西、大阪から一つの壁、更に西になると視界外となる。
瀬戸内海、玄界灘、東シナ海があることを忘れている。四国と山陰となると鼻から欠落している。
その反対に北海道から沖縄まで、地方の人は皆、東京を見ている。一方西の核大阪は目に入ってない。大阪の地盤沈下と東京一極集中、これが現在の日本である。

昨今の歌謡界、否テレビそのものが、何、実にくださらん、こんなのが世を席巻してるなんて許せない! 余りに視聴者を馬鹿にしてる。このことをどう考えているのか。社会的影響に対して責任を感じないのか。
ここに掲げた三人、徳山璉、松平晃は東京芸大出身、中野忠晴は武蔵野音大、この三者は知の人でもある。明治の人は歌手と言えども、知性と品性があった。又曲もよかった。
それが故、伝わるものも違う、これは日本のみならず、古今東西、世界共通、タンゴも又然りである。はやり廃れの激しい流行歌の世界、流れ行く歌、電光石火の如く光り輝き、そして歳月と共に忘れ去られる。それが流行歌の宿命としても余りに寂しすぎる。
流行歌はジャズ、タンゴ、シャンソンと洋楽と比べたら一段と見下げられている。確かに俗悪で凡庸で低俗なものが多い。これも事実である。昨今の演歌、カラオケ歌謡、アイドル歌謡、ロック等々、くだらんモノも多い。しかし「知」を感じたり「痴」を感じたり、昔のものには感動するものが多い。それも単なるヒットではなく、ヒット曲っておうおうにして凡庸、これは何故?大衆は凡庸だから、つまり感じている人には感じる、それを秘曲と言う。
徳山、松平、中野にはそれが多い。これは歌手としての才覚、技量それに人格とインテリジェンスである。こんな三人を流れ行く歌で忘れ去られてることは困るのである。
それぞれ名唱、絶唱を収めました。流行歌と侮るなかれ、と声を大にして言いたい。
そして日本人ならば自国の音楽を育てる心意気、愛が必要とも考える。であれば質も向上すると思うが、単にヒットを目指しているだけ。ヒット曲の消耗品化しているが為に今は、くだらないものばかりが世にはびこって居る。この悲しい現状はずっと続くと思いますが、せめてかつて、この三者が存在していたことを肝に銘じて欲しいと願って収録しました。
A-1 侍ニッポン 徳山璉 西城八十作詞 松平信博作曲 昭和6年
昭和9年、ディック・ミネがデビューするまで歌手のほとんどは音楽学校出身者、声優の勉強はしてるが流行歌の歌い方は知らない。つまり流行歌の世界がまだ明確に確立されていなかったのでしょうか。それ故歌い方が腹の底から歌う、つまり声楽調である。この徳山の唱法、幾分棒読み調。このことが却って、この曲調によかったのか、侍を歌ったのでしょう。
却って侍の剛毅朴訥さがよく出てて、「侍ニッポン」は大ヒット。これに依って徳山は声楽と流行歌の二足の草鞋を棄てて、流行歌手に専任した。
A2 ころがせころがせビール樽 徳山璉、オリオン・コール
北原白秋作詞 橋本国彦作曲 昭和6年
ビクターの社風文芸部は幾分アカデミック、徳山璉に四家文子、共に東京芸大出身、声楽の大御所藤原義江に浅草オペラ出身の人気スター、田谷力三、二村定一、花柳界からは格式の高い藤本二三吉、そして東京芸大の佐藤千夜子と錚錚たるメンバー。それに作曲家は御大中山晋平、作詞家は北原白秋、野口雨情、西城八十と文学者である。当時の遂を集めてレコード生産をスタートした。「ころがせころがせビール樽」の作詞は北原白秋、作曲の橋本国彦は東京芸大の教授、何か粋さを感じる。オリオン・コールは男性合唱団、つまり知の結集の意気込みを感じます。
A3 夜の酒場に 徳山璉 西城八十作詞 松平信博作曲 昭和7年
演歌である。しかし古賀調の演歌と違って、女々しく煎餅蒲団風、貧相でない、この「夜の酒場に」は、骨太で男のハラワタにジーンと響くオジサンの味がある。この時、徳山未だ28歳の青年、年齢不詳、もう男の歌である。
恐らく豪放磊落な人だったのであろう。今はこんな男、オジサンの歌がありませんね。若作りが過ぎてガキの歌ばかり。
A4 想い出のギター 徳山璉、藤山一郎 佐伯孝夫作詞 加藤しのぶ作曲 昭和8年
東京芸大を卒業した藤山一郎、ビクターに入社。先輩の徳山と組んでデュオで歌う。しかし藤山はビクターでは快心のヒットを放つことはできなかった。或いはこのままビクターに在籍しても徳山が君臨してたのでは芽が出ない、と思ったのかどうか、古賀政男の居る新生のテイチクに移籍。先輩後輩、仲の合った二人の歌は誠に素晴しい。
A5 ルンペン節 徳山璉 西城八十作詞 松平信博作曲 昭和6年
「いや~今朝も女房に叱られてネ」と頭をかきかきビクターの文芸部に出勤する徳山、愛妻家でもあり恐妻家でもある。このエピソードから分る徳山の人柄のよさが、それが歌に現れている。トクさんと社の人気者。
ユーモア溢れる人柄、今度は浅草オペラ調の歌を歌う。徳山の人間味溢れる豪放な歌いっぶり。
この人はやはり単なる流行歌手でない、表現力豊か。徳山は藤沢の病院長の御曹司。
かなりやんちゃで奔放、奇人だったと聞く。そうでしょう唯の毛並のよいお坊ちゃんで行儀のよい大人しい人で終るんだったら、こうであるはずない。どこかで常を逸した面がある。スター性とはそんなもの。
惜しむらくは昭和17年38歳の若さで夭折する。この人戦後まで生きてテレビ時代になっても懐メロ歌手として活躍してたら、恐らく歌謡界の大御所として君臨してたに違いない、誠に残念!
A6 赤い灯青い灯 徳山璉 佐伯孝夫作詞 佐々木俊一作曲 昭和9年
旅から旅へとサーカス暮し、哀愁漂よう徘徊歌謡と言いたいのですが徳山が歌うと湿っぽくならない。締めの底に落入ると却って人生、どうにかなるさと言って陽気になる。
つまりこれが徳山の人間性、アカデミックな体質、曲の理解度の深さ、つまり凡庸な歌手でないってこと。
同じく歌っても凡庸になる歌手の多い現在、流行歌と言えども徳山が歌うと品格が高まる。ここに私は賛辞し全歌謡史を通じて最高峰の大歌手と言い度いのである。
A7 百万人の合唱 徳山璉 佐伯孝夫作詞 飯田信夫作曲 昭和10年
ハリウッドのミュージシャンの向うを張って意気込まれて作られたのでしょう。そんなものを感じる秘曲。
徳山は縦横無尽、天衣無縫どんな歌でもこなせる。誠、雲表に聳え立つ一大金字塔である。
不滅の不世出の名歌手である。日本人よ、ちと自国の音楽も見直して見ろ、と声を大にして言いたい。
A8 大将閣下の名はブムブム 徳山璉
作詞者不詳 オッフェンバッハ作曲 昭和6年
大正時代はこんな浅草オペラが世を席巻してた。徳山は昭和6年この歌を歌う。
私は徳山を知ったのはこの歌より、いっぺんに大感動、以後徳山の歌と人柄を追い求めた。
A-9 ガラマサどん 徳山璉、古川緑波、江戸川蘭子
上山雅輔作詞 高木静夫作曲 昭和13年
明治の人は例えモダニストでも西洋かぶれでない和魂洋才、インテリとなると漢文の素養があり毛筆をたしなむ、バンカラであってもモダニスト、スーツを着こなすかと思えば和装もいける、昔の日本人ってこうでした。
古川緑波は喜劇役者、但し今のお笑いタレントとはそもそもレベルが違う、伯爵か男爵の子息、そして大変なインテリ。
徳山と仲がよいのでしょう、コンビを組んで舞台で弥次喜多をやってた。
この「ガラマサどん」は落語の種から拾って作られた。熊本民謡の「キンキラキンのガラマサどん」を訛っているとか。それは私にはよく分らない。江戸川蘭子はSKD出身のモダーンガール、大変な美人だったそうです。
A-10 天から煙草が 徳山璉 北原白秋作詞 飯田信夫作曲 昭和15年
「隣組」と言う歌があったでしょう、昭和15年の大ヒット曲。そのB面がこの「天から煙草が」です。戦争陣地へ慰問袋の入った品が空からプレゼントで贈られる。兵士は歓び勇む、中には煙草が入っている。「誉」「暁」とか言ったタバコが天から贈られる。
徳山はユーモア含んだ歌い方で明朗快活、思わずプイと吹き出したくなる。これが徳山の人間性、それから二年後徳山は急逝、無念でならない。
多分ビクターは重鎮を失って大きな痛手となったことであろう。この死が戦時中でなく平和裡の今日だったら多分、日本全国は涙したに違いないと思うと、又無念でならない。
B-1 サーカスの唄 松平晃 西城八十作詞 古賀政男作曲 昭和8年
松平は明治44年生れ、藤山一郎、灰田勝彦と同じ齢です。佐賀の旧家の出、武蔵野音楽学校(今は大学)声楽科に入学。翌年東京音楽学校(現東京芸大)師範科に転ず。
現在に至るまでを含めて、歌謡界一の美男子と言ってよいでしょう。その上美声、知性、家柄のよさも含めて、四つも五つも条件が整っている。昭和36年49歳にして他界、戦後はほとんど歌わずテレビ時代に入って懐メロ歌手として登場することなく活躍も戦前に限られていたので、その名を忘れられた。しかし大ヒット曲も多く、私は彼の歌が好きです。
声も美声で聞いてて非常に心地よい。歌い方はマイルドで端整で品がよくて耳に優しい。
昔の歌手、殊に昭和一ケタまでにデビューした歌手、ほとんど音楽学校出、声楽の基礎がしっかりしている。全く絶叫しない、妙なコブシでひねらない、実に率直、これが品性と言うものでしょう。売れっ子松平は多忙、それでスタジオに来て、そのまま楽譜を手渡され、その場でレコード録音しても読譜力に秀れ理解度も早いのでスラスラと歌える。つまり頭がよいのである。
今のテレビ、何だ!芸能人どもの馬鹿な遊び場ではないか。実にくだらん、下品、今と昔まるで月とスッポンである。社会常識、通念、倫理観、美学、美意識、あらゆる面がレベルダウンしている。
私は古賀政男の作品そう感動しないのです。通俗的で、それ故、大衆に受けてヒット曲多し、だからでしょうか、私は凡庸、凡庸の大家と思って、世間一般の評価とは異なり、古賀演歌を嫌う。あの種の四畳半演歌、肌に合わなくて気持ち悪くなるのです。
何ごとも但し書きがつく、この「サーカスの唄」は絶品、人生は流転、行方定まらず、彷徨する。私は私なりに分化して徘徊歌謡と称している。その徘徊歌謡の中でもこの「サーカスの唄」は最高峰に属する。
今は昔と違って、どこかに属すれば安定を得られる。それにサラリーマン社会も確立されている。昔は安心、安全が保障されてない家制度に依って、二男以下ははぐれ鳥、貧困も厳しい、男と女の距離もある、いつでも彷徨、流転の人生が生じる。
それ以前に男の本性は徘徊動物、いつも何かにさまよっている。マイホームの幸せに満されてい乍ら、横目でチラチラ横道にそれる。あてどもない旅も好きである。これをロマンと言うこともある。女性から見れば落着きのない動物である。これがオスの性なのか、今は色々と縛られることが少なくなった、男と女の距離も近くなった。オスの喪失か、ロマンも抱くことなくなった。
カアちゃんの手のヒラのもと、歌を聞いてみても年端のいかない可愛い娘チャンのアイドル歌謡、恋だの愛だのヘチマだのとか言って歌っている。まるで発情歌謡かセックス童謡、代わってオジサンの歌がない。はっきり言うと成人になるとオジサン、オバサン、幼児から見たら大人は全てオジサン、オバサン、問題は今、大人がその自覚足りないのです。
つまりオジサンの歌がない、男のハラワタにジーンと沁みる歌がない。増してや徘徊歌謡なんてある訳ない「サーカスの唄」は松平23歳の時の歌です。
B-2 急げ幌馬車 松平晃 島田芳文作詞 江口夜詩作曲 昭和8年
遠くから鈴鳴りが聞こえて来る、段々近づいて眼前を通り過ぎる、そして又段々遠去かる。
こんな作風をパトロール形式と言う。軍楽隊によく用いられる処法。作者江口夜詩は海軍軍楽隊出身、彼の作品は歌いにくくて歌手泣かせと言う。
鳴かず飛ばずヒットなし、それで郷里に帰って教員でもやろうと思って居たところ、松平に出会う。そして書いたのがこれ、大ヒットしました。
昭和6年満州国建国、軍国日本は広い大陸を手にした。地平線に赤い夕陽が沈む。陸続きで国境に接す。日本人は有史以来はじめて知った広大な天地、流行歌も変る。四畳半演歌から舞台は広い世界へ。夢やロマンを求めて大陸へ、大陸へと何とも言えぬ孤愁に敗北感、男の心は彷徨する。こうして生れたのが漂泊歌謡。流行歌は一気に気宇壮大になる。
松平晃の「急げ幌馬車」と東海林太郎の「国境の町」は双璧、漂浪歌謡の名曲と言ってよいだろう。それだけに留まらず全流行歌史の中で十指にあげられると私は断言します。
つまり大陸侵略の基地は当時下関、台湾航路は門司、上海航路は長崎、その全体を総轄しマラリア海峡を越え、世界五大州と通じ移民船の基地でもあった神戸、更にその全体を総轄していた日本の経済都市が大阪、そして軍部の広島、軍港の呉、海軍江田島兵学校、と戦前は「海軍日本」「船の時代」で西日本が大繁栄、しかし今日は東京一極集中で沈滞、西日本が手薄となり、東京一極集中で日本全体の目が東京に向っていたので暫く日本人は海を忘れていた。
政治問題だけではないと思う。長く平和ボケして、海上に浮かんだ日本であることを忘れ視界を狭くした。この問題を突かれたのが尖閣問題だと思う。高度成長期の最中である昭和40年代以来、政治は経済に酔いしれ、世相を眺めてみるとマンガにキャラクターグッズに渋谷、原宿、それにチマチマとした男女の情念燃やす四畳半演歌、とまるで女性化社会、ガキ化文化は蔓延。
あのピンク・レディー、アイドル歌謡の時代から30数年経ったのですよ。まだAKBと騒いでいる。オジサンの歌も男の歌も溌剌とした歌もない。精神文化の衰退を感じる。
幾らスマホの時代になってもメールが交換できる時代になろうとも、平成に入って以来、社会は沈滞、その長いトンネルから抜け出れないのは、この精神の衰弱にあるのではないだろうか。
日本人が早く目覚め、社会は大人になり、成熟しないと、老人大国になって日本は沈没してしまう。案外、絶滅稀種は日本じゃないだろうか。鰻と共に絶滅。こうしている間も地方は又一つと限界集落になっている。
戦前は大陸、アジア侵略とあったが日本人の視野は広かった。男は夢やロマンを持ってた。人間界なんて、アッチ取ればコッチ欠ける、何が善で何が悪かも分らない。戦前の流行歌、殊に漂浪歌謡を聞いていると、男を感じる、男は黙って、じゃないけれど寡黙で背に哀愁を漂よわす、こんな孤愁を思わせる歌を聞いていると男だからでしょうか?これこそホントウの「歌」と思うのです。
B-3 砂漠の旅 松平晃 久保田宵二作詞 竹岡信幸作曲 昭和10年
日本は海あり山あり島あり火山あり温泉あり、珊瑚の海から流氷の海まである。
おまけに毎年台風はある、洪水はある、地震津波もある。自然災害も揃っている。豊かな自然と共に表裏一体。唯ないのは広い砂漠に広い草原、だからでしょうか「アラビアの唄」とか「月の砂漠」とか、そしてシルクロードに憧れる。戦前の一時期、広い大陸を手にして、日本人の口から、大連、奉天、チチハル、大興安嶺、満蒙の地とか、ごく普通に日常会話の中で用いられた。それはパリ、ロンドン、ニューヨーク、ハワイと口にするのとは違う、前者は面の関わり合い、後者は点のつながり、この感覚は大きく相違する。
私が20代の頃、明治、大正世代は40、50代の現役、私が台湾人華僑の二世と知るや、満州、台湾引揚げ者が親しみこめて私に近づき、とてもよく可愛がってもらった。ハルピン、新京、牡丹江の話しをする。
お蔭で行ったことないのに耳学で知ってしまう。基隆(キールン)、花蓮港、新高山と台湾の地名を懐しそうに話す。私の存在から失った故郷を感じたのでしょう。それは郷愁でした。
それが鄧小平の改革解放以来、鎖国を解いた中国から、金のなる木、日本にどっと群がった中国人が津波のように押しよせて来た。既に戦後も30数年、明治、大正世代は現役から退く。
すると私に対して見る目が変わって来た。“日本語が上手なのですね”“お箸を上手に使うのですね”と言われた。“中国人ってナイフとフォークを使っていると思うのですか?”と私は切り換えして言った。
平成も25年でしょう、何も知らない若者が増えて“エッ!台湾って日本の植民地だったの?”と言われる始末。そして私を悪徳中国人と見る目、国際都市東京でですよ。台湾と中国は全然異なる、と一から説明する。在日コリアンの1/20しか満たないけど、この日本には台湾華僑が居るのですよ。
今は三世、四世の時代、私のようにそのまま帰化もせず台湾籍、つまり中華民国籍の台湾人は全国に僅か6千余人のみ。つまり私は少数民族のようなもの、7割方帰化してしまっている。
海外旅行はごく普通のこと、しかし点のつながりですね。百聞は一見にしかずじゃないけれど何度行っても旅人感覚、こんな人がごく普通、行く行かないより大切なのは、その人の視野、世界観、知識その感性だと思う。
戦前の日本の方がアジア的感性、明治、大正の人の違いと戦後生まれの違いとは、だから私は逆説的ですが侵略した過去を持つ加害者の戦争体験をした明治、大正世代の日本人の方が大好き。
懐ろ大きいし、腹を割って話しができる。そんな男子漢も明治、大正世代には多い。流行歌を聞くとは、日本人が見えるのです。時代は何を価値観で生きたかと、耳を通して肌で知ることができるのです。
漢字用法は昔の方が正確、「砂漠」じゃなくて「沙漠」が本当、松平晃の「沙漠の旅」歌声が実に明朗快活、これで人柄が分る。つまり氏素性正しい家柄の人だと。松平の人として歌手としての魅力はここ。信条、生活姿勢その精神性全てに端整さを感じます。
B-4 何日君再来 松平晃 貝林作詞 晏如作曲 長田恒雄訳詩 発売中止昭和14年
“天は二物を与えない”と言う。しかし天は松平に二物どころか四物五物も与えた。
しかし神様、悪戯好きと見えて松平に落し穴を与えたのです、それは女に弱いと。女に惚れ易い、多分優しいのでしょう。一回目は某女性にのぼせて自殺未遂、二回目は結婚したがすぐ離婚。
これに依って人気失墜、挽回できず、そのまま歌謡界から消える。これだけ才能のある人なのに惜しい、一方同年齢の藤山一郎は山頂まで登りついて歌謡界トップの座に君臨した。
二回とも相手は女優、このころサイレント末期の時代、当時俳優なんて河原乞食と言われてた。女優になるともっと地位は低い。旧家の出の松平が河原乞食にうつつを抜かすとは、世間も厳しい。
人気稼業は大変、結婚は世間からも大反対される、そして離婚。こうなると人気失墜も地について再起不能となる。最盛期から急転直下、そんなことがこれ程の大歌手なのに活動期間は短い、松平は、中国へ慰問巡業、この時中国ではこの「何日君再来」が大流行、松平は採譜して日本に持ち帰りレコード録音。しかしこれは女声の方がよいってことで松平盤はオクラ入り、代わって渡辺はま子が歌って大ヒットとなる。
半植民地下の上海、某日満映の大スター周璇がとある街角を歩いていた。すると某英国人が帰国旅費稼ぎの為、バンドネオンを奏で乍ら路上でこの「何日君再来」を歌っていた。窮状を知った周璇がフランス租界地に持って行きこれをレコード録音する。忽ち大流行、その版権で得たお金を周璇が英国人に手渡し晴れて帰国できた。
1949年人民中国誕生、赤の国となった中国、官能の色帯びた享楽文化も流行歌も御法度。
蒋介石政権も台湾へ亡命、去った蒋介石がいつの日か大陸へ戻ることができるか、と暗示した歌に違いない、と事の真偽を疑われたこの曲、マスターテープは台湾へ持ち去られた。だから残った。
そして文化大革命が起る、“何日君再来”を作った貝林(作詞)晏如(作曲)周璇はつるし上げられる。この三人の内、どこでどうなったか分かりませんが栄養失調で失明、獄死、消息不明となった。
数奇な運命を辿った「何日君再来」、周璇は李香蘭(山口淑子)とも親交あった。
焚書坑儒、粛清と続いた中国、軍歌、天皇制、靖国の残った日本は幸せ。その時の政治の色で判断されるより、事実は事実、実存は実存でよいと思う。
台湾、香港、日本で残っていたこの「何日君再来」、改革解放以後禁制を解いてみたら、大陸の全中国人、この「何日君再来」をちゃんと知ってたのです。人の心には蓋ができない。時の政治、時の為政者に左右されるもんではない、と私は思うのです。
松平晃が精魂こめて、愛情いっぱい、丁寧に歌っている心が伝わります。オクラ入りになってたのをCDで復刻されたことを聞いて私はすぐそのCDを買いました。これは稀購盤です。
中野忠晴は愛媛県出身、武蔵野音楽学校で学んでいた。その頃、徳山璉が一時教鞭を執っていた。
学校の卒業音楽会の時、三文オペラを歌っていた中野は山田耕作に見出されてコロムビアに入社、ビクターの徳山の対抗馬としてデビュー。この人大変なモダニストでして当時のさるコーラスをジャズコーラスとして養成する。
これがコロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズである。後昭和12年服部良一がコロムビアに専任、更にジャズコーラスとして発展「山寺の和尚さん」とビッグヒットを飛ばした。戦後は歌手をやめ作曲家に専任、キングへ移籍「おーい中村君」等のヒットを飛ばして昭和45年他界。徳山、松平と共にテレビ時代になっても懐メロ歌手として顔を出すことはなかったので、その名も存在も忘れられたが如く実に残念。
この三者は実は決して忘れてはならぬビッグな歌手なのです。
B-5 山の人気者 中野忠晴 本牧二郎訳詩 外国曲 昭和8年
中野は松平より一年早く、昭和7年にデビュー、中野も又、ハイカラ、モダニストでインテリである。どこかでド庶民的でないので大衆受けしない。徳山、松平と共に庶民的人気を得たのでなくて、だから忘れられた感がするが実はとてもアカデミック、当時はハイカラさん、モダニスト、大学生の間で支持され、この層で人気高かった。
戦前、大学生なんて全国の九帝大と東京六大学、或いは関西の四、五くらいしか大学はなかった。同世代の5%もない大学生と言えば末は博士か大臣か、江エリートの卵である。そんな層を対象に歌ってたのが中野忠晴。
野球、テニス、乗馬、ラグビー、etc。登山、スキー、ユースホステル、ワンダーフォーゲル、アウトドアのetc全て有産者階級、大学生から普及したもの。アチラ産の文化、車だってそうである。それが戦後になって平民化、殊に昭和30年代になってから急速に平民化、大学生なんてどこにも居る、そこらへんの油ぎったオジサンまでゴルフをする。
パチンコ、マンガ、風俗と変わりない。スピリットを失った。人は平等であるのだが人の感性レベルはそれぞれ違う。例え東大は出ても、今若者は総じてペンを執れない。人間界は矛盾している、アッチ取ればコッチ欠けるである。
戦前に粋さ、ハイカラさはこれである。中野の歌う世界は「山と高原と青春」の世界である。つまり青春讃歌である。昭和40年代の長髪、ヒッピー、フォークのカジュアルソングとはその感性、体質が異なっている。
庶民化した大学生と、エリートの卵だった頃の大学生とは異なる。中野の後を継いだ灰田勝彦までは、そのアカデミックな匂いを濃く残していた。
この「山の人気者」と別テープの灰田勝彦唄の「新雪」を聞けば一目瞭然、青春讃歌とカレッジソングの違い、よく分るはずだ。
B-6 ミルク色だよ 中野忠晴 中野忠晴訳詩 外国曲 昭和9年
原曲はアメリカ民謡「ラブレス・ラブ」ミルス・ブラザースが歌ってヒットを放つ、ナカノ・リズム・ボーイズは、このミルス・ブラザースを模倣としていた。ミルスの「ダイナ」「タイガー・ラグ」「レイジー・ボーンズ」と言った十八番もレコード化、これが日本のジャズ創世期、揺籃期であり、こうして日本はジャズを学び取得していった。
つまり中野は日本のジャズの先駆者、草分け者と言ってよいだろう。その撒いた種の上にディック・ミネや灰田勝彦が登場、戦前に於ける洋楽の興隆期を迎えたのであるがすぐ軍靴高鳴り折角出た芽が無残に摘みとられて日本は軍国の世に突入、中野は軍歌まで歌わされ次第に歌謡界から静かに遠去り、戦後は40代に入って、潔く歌手をきっぱり辞めた。
B-7 小さな喫茶店 中野忠晴 瀬沼喜久雄訳詩 外国曲 昭和10年
~二人はお茶とお菓子を前にしてひと言もしゃべらぬ、側でラジオが甘い歌を優しく歌ってた。二人はただ黙って向き合ったっけ~とロマンティックに歌っている。純情な好青年と麗しの乙女、こんな光景、今はない。
今の男女関係はもっとストレートでリアル、これも男と女の距離が遠い昔だったから、実際にあった光景、昔の歌には恥じらいがある。女の貞操は固い、その反動か今の演歌、情念ギトギト、女の方が直截的、だから歌の内容がいやらしい。
この歌、このメロディーの美しいこと、甘いこと、ロマンティックなこと。中野の歌が甘く却って上質な官能を思わせる。この曲はシャンソンでも歌われました。
B-8 バンジョーで唄えば 中野忠晴 藤浦洸作詞 服部良一作曲 昭和12年
服部が中野に良い歌を与えた。藤原洸は又洒落た作詞家、私が小六頃だったかなNHKの「私の秘密」の常メンバーとしてテレビに出ていた。シワの深い顔立ち、でもどこかバサとして市井の一介のオジサン、しかし風采はともかくも仄かにインテリジェンスが洩れていた。
私はいいなこんなオジサンは、と思って眺めていました。今も覚えている、常メンバーは外に山本嘉次郎監督に藤原義江夫人藤原あき、ゲストに堀内敬三氏が出たりと、そして司会解説者は高橋圭三アナウンサー、テレビ時代初期はごく普通に、今よりはうんと品性があるインテリが多かった。
どうでしょう今は、大学教授まで長い髪に汚ない髭、身なりが崩れていて、外見は体を現すと言いますが、これが軽薄短小、軽浮なんでしょう。今、日本は人間が尖ったように感じる。
藤浦洸は淡谷のり子の「別れのブルース」美空ひばりの「東京キッド」の作詞をしている。どれも知と痴の光を感じる。
B-9 チャイナ・タンゴ 中野忠晴 藤浦洸作詞 服部良一作曲 昭和14年
中野、藤原、服部のコンビは素晴らしい。恐らく感性が合致するのでしょうね。この三者が合体すると歌が上質になる、これが言ってみれば知の結晶、私は服部良一が日本最高の作曲家と思う。
この人の曲、どれを取っても品格がある。然もヒット曲も多い。豊かな才能に素晴らしいセンス、どのジャンルのものを書いても正しい品性がある。笠置シヅ子のブギの連発も、これ程馬鹿げたものはないと思わせる痴の力と光を強烈に感じる。そしてこの支那趣味に及んだエトランゼ、流石華僑のセンスにたけてるだけあって妖しくも官能の色を添えても俗悪でなく品を保ったエトランゼを醸し出している。流石と思って感服する。
私はこの中野を含めて、徳山、松平の三者が大好き、対して大嫌い三人組はと言えば岡晴夫、小畑実、田端義男の三人。人間性を含めて品位を感じないどころか低俗に感じる。今、歌謡界、演歌界は特に凡庸に感じる。細川たかし、千昌夫なんて嫌い、嫌い、大嫌い、気味悪い、お笑いタレントはほとんど下品で大嫌いだから、ニュース以外、ほとんどテレビを見ない。
B-10 泪のタンゴ 松平晃 奥山靉作詞 服部良一作曲 昭和12年
これは高踏的な曲調、松平はよく歌っている。もっと服部良一と組むべきだった、惜しい、スキャンダルを生んで松平の人気は失墜、服部と松平、コンビ組めばよい曲が歌われたはずなのに、と思うと残念でならない。

流行歌は低俗、否定はしません。ド庶民相手の商売ですから、でも我々だって庶民、唯の平民ですよネ。好き嫌いに関わらず我々は生活の中に飛び込んで来る、このような生活になったのはいつから?
レコードが電気録音化されて、外資系のビクター、コロムビア、が日本に上陸、ここにレコード産業成立、昭和3年からのことです。ヒット曲をどんどん作って買ってもらう、こうして次から次へと歌が誕生、作詞、作曲家、歌手、楽団、とプロが生れる。広く人々に膾炙される。我と庶民が広く口ずさむ、いつしか生活になくてならないものになる。映画もそうです。1
9世紀末に誕生したものが、こうして20世紀に入ると花開いて急速に発展した。ならば聞いてみましょう、聞くだけでなく考証してみようではないか。すると色んなものが見えて来る。時代の価値観、何を志向して生きてきたか。
信条、精神性、生活姿勢、それに美学まで、これって凄い!歴史だと思った。つまりその時代の吐息、時代の声だ!
これは音に依る生きた生の声の教材だ。学校で決して教わることのない庶民に依る通俗史、世相史だと思う。これって社会学?ひょんなことから興味を持った。それまでは8割タンゴ一辺倒、2割はジャズ、ポップス、ウエスタン、ラテン、クラシック、と何でも浅くでした。
私、35歳の時に、中国語学習の為に台湾へ語学留学、当時まだ日本統治時代の残りのカスが充満してて45歳以上の中年は日本語がしゃべれる。台湾は非常に親日的、私は或る一人の台湾人教授と親しくなった。
その先生は歴史の専門、学生と一緒に度々ゼミ旅行をする。すると先生、興に乗ると日本の懐メロを歌う。“君知ってるか”と私は??? 台湾人は、日本人が洋楽を大切に拝聴するのと同じように、日本の歌を愛す。それに対して、私は?冷たい、これには考えました。
先生のお土産を、と思って流行歌を買い求めて奔走した。当時のオリジナル盤でSPレコードの針音で、そうこうする内、ミイラ取りじゃないけれど、私の方が凝ってしまった。私って凝り性なのです。
たかが流行歌、されど流行歌、聞き方変えてみると、それなりに醍醐味を感じる。
つまり日本を知る、につながるのです。亡き人(明治、大正の人)の心を偲いつつ郷愁の日本を懐しんでいるのです。
私は87歳と言ってたご母堂様を意識してこのテープを作成した。昭和元年、2年、3年生れですよね。一番若き美空だった、女学生の頃、戦時中だった。防空頭巾に消火訓練、慰問袋に千人針、銃後の花をとして国に捧げたに違いない。私の母は大正七年生れ既に他界、戦火の中を逃げ回っていた。私は貴殿より6歳上、それでも終戦の年の生れ、戦争を知らない子供達である。なのに60代となり、私は来年末70代に突入する。
こんな年になってネ、だからこそ、歴史を知らなきゃと思う。戦後70年歩んで来た道を、高度成長以来、経済を夢見て前ばかり見すぎたたんではなかろうか、と。
後ろを見てたまにはそこから学ばなければ、それが60年余の幾星霜と思う。こうして私は温故知新、否、知新まで棄てて知古となっている。
私は男である、だから男の視点で眺めテープを作成している。女性の視線に欠けているかも知れない乞う御期待を。男の歌、オジサンの歌が多い。
A-1 国境の町 東海林太郎 大木惇夫作詞 阿部武雄作曲 昭和10年
東海林となると「赤城の子守歌」のイメージが濃い、テレビ番組は偏向している。不特定多数を対象としているので、だから若かりし頃、懐メロ番組で東海林が出て直立不動でぶっきら棒で歌う東海林がダサイと思って苦手でした。
しかし「国境の町」を知って一変感動した。先の松平晃で紹介した「急げ幌馬車」と好一対、漂泊歌謡の双頭の鷲と思った。東海林は早稲田の文学部卒業、インテリである。
この人は股旅歌謡も多く歌ってヒットを放った。凡庸な歌手が歌えば唯のやくざの歌になる。但し東海林の歌は例え三文小説でも文学になる。彼には文才と言うものがあるのでしょうネ。歌うと一幅の絵となる。
つまり歌に格調が高まる。黙して語らず、寡黙な唱法の中にその格調と重厚さを感じる。つまりこれが男の歌、オジサンの歌、ポリドール社はそんな雰囲気、女性が買い求めるのは少なかったと聞く。
A-2 椰子の実 東海林太郎 島崎藤村作詞 大中寅二作曲 昭和11年
エッ!東海林太郎が「椰子の実」を歌ってたの?それがそうなのです。「椰子の実」の創唱者は東海林太郎、そしてこれがオリジナル盤。国民に良心的な歌を、と言う運動で作られたのが国民歌謡。ラジオを通して広まり、ラジオ歌謡とも言われている。
これはテレビ時代直前まで続き良心的なよい歌が沢山作られましたが、テレビ歌謡に引き継がれましたがテレビになってからさして良い曲が生まれなくなった。
東海林は秋田県太館の出身、忠犬ハチ公と同じ故郷、親の反対で音楽学校へ進めず、仕方なく早稲田へ進み卒後満鉄に入社。当時男が軟弱な音楽の道へ進むとは親が許さない。又そんな時代でした。
しかし名門早稲田の出、満鉄の図書館長に就任、エリートサラリーマン・コースを約束されていたのに音楽の道を諦めきれず満鉄を辞めて妻子抱えて歌謡界に飛び込む。既に年齢は30代半ば、芽が出ず路頭に迷う。しかし昭和9年「赤城の子守歌」をビッグ・ヒットさせて、忽ちポリドールのドル箱スターになり、ヒットを連打する。
それまで歌手は音楽学校出身者で占められていたがそれでも大学出、当時歌謡界と言えども厳しかった。
A-3 裏町人生 上原敏・結城道子 島田磐也作詞 阿部武雄作曲 昭和12年
上原は拓殖大学を出て、製薬会社に勤める。東海林と同じく秋田大舘の出身。2、3年遅れてポリドールに入社、ヒットメーカーとなり、東海林と並んでポリドールの二枚看板、似たようなジャンルを歌い上原は東海林より若僧、田舎っぺのよさがそのまま滲み出ていたのでしょう。
ポリドールの黄金時代を築いた。人気者でして、歌い方から実直さがそのまま洩れていて私も好きな歌手です。
ところが全盛時代、徴兵される。歌手は慰問隊として優先されるの上原は敢えて、厳しい南方戦線へ志願しそのまま戦火に散った。これから人柄をよく現れている。
戦後数十年経っても死後、戦友会と共に長く上原のファンクラブは存続し熱烈なファンで支えられていたと聞く。
東海林にしろ徳山璉にしろ、上原にしろ、ファンは男が多かった。つまり男に好かれる男性歌手、戦前は男の歌、オジサンの歌が多かった。女にコビてない骨太の歌手が居ました。一方松平晃、灰田勝彦は女性ファンにキャアキャアと騒がれた。このことはルックスとも関係ありそう。
上原は多少、棄て八唱法、世をひねた、漂泊、徘徊、股旅歌謡にマドロス歌謡が多かった。
A-4 上海の街角で 東海林太郎 佐藤惣之助作詞 山田栄一作曲 昭和13年
戦前の上海は日本人にとって身近、長崎から船に乗って上海へ。日本に最も近い欧州の匂いのする国際都市でした。上海に行けば、好きなジャズが思う存分奏でられる。上海に行けば世界のトップモードを纏うことが出来る。
上海に行けば一攫千金もありえそう、と無目的に上海へ雄飛し出かける。殊に長崎と上海は密接な関係、“狭い日本にゃ住み飽きた、支那にゃ四億の民が居る・・”なんて言われた程、大陸へ、満蒙の地へ、上海へ、男のロマンを駆り立てた。
満州開拓、大陸浪人、馬賊芸者、と様々。満蒙開拓民は信州の人が多い。食いっぱぐれが開拓民に出て行く。高粱しかできない不毛の北シ荒へ送られる。戦後多くの残留孤児を生んだ女性版食いっぱぐれは下関から出航、大連、奉天へ稼ぎに行く。これは馬賊芸者と言われた。
小倉検番出身の赤坂小梅なんかは馬賊芸者歌手と称され鴨緑江、綏芬河を舞台にして歌った。
じゃ上海へ流れた者は、幾分遊び人風情、やくざな者が多かった。大部分西日本の人、これを上海ゴロと言ってた。
ところが上海は半植民地下の貧困と腐敗が渦巻いていた。阿片が蔓延し犯罪が横行、悪の温床地だった。悪事千万、スパイ合戦、浮き草のような不夜城、1930、40年代の上海はまるでデカダンス。しかし人間ってのは悪徳の匂いに誘惑され易い動物、上海に群がる。歌謡の世界なんて虚構を画くようなもの、してみると上海なんかは思い切り上海の虚構の世界ロマンを画かれる。
こうして戦前は上海が大いなる舞台となった。これが上海歌謡である。何も日本の流行歌だけでないアメリカのジャズ、ポップスも上海を多く歌った。「上海リル」「シャンハイ」「チャイナタウン・マイ・チャイナタウン」「オン・ナ・スローボート・オブ・チャイナ」等々、さては「ナガサキ」までミルス・ブラザースは歌った。
上海と長崎は同一視、戦前は長崎県上海市とまで言われていた。実際、長崎に行ってみると、そこの海は東シナ海、真っ直ぐ一直線、一衣帯水、上海と対峙としている。長崎の人にとってみると上海は東京より近い、上海の匂いが亡霊の如く鼻につく。
東海林の歌うこの「上海の街角で」は上海ゴロを歌った歌。上海ゴロのなれの果て、と言ってよいでしょう。
多くは夢破れ、背に敗北感を抱いた歌が多い。上海歌謡は支那趣味のエトランゼを歌ったものより徘徊歌謡が多い。台詞を語っているのは関口宏の父君、佐野周二。神田生れのチャキチャキの江戸っ子。松竹の二枚目スター、小津安二郎の愛した御曹司のような俳優、どこかヌーボーとして気さくでザックバラン気取ったところのないハンサム・ボーイ、どうしてでしょう。明治の人は上海が似合う人が多い。
A-5 波止場気質 上原敏 島田磐也作詞 飯田景応作曲 昭和13年
神戸でも横浜でも小樽でもよい、港町だったらどこでも似合う「マドロス歌謡」である。明るさ一辺倒でない全面溌剌ともしてない100%哀感でもない、全てその中間どころ、でも上海がやはり最も合う。
戦前はほとんど上海か長崎の匂い、上原の歌唱、好感度抜群です。
A-6 緑の地平線 楠木繁夫 佐藤惣之助作詞 古賀政男作曲 昭和10年
これも満蒙の地を連想させる。漂泊歌謡に属するでしょう。古賀作品である。古賀政男は昭和9年、テイチク設立に依ってテイチクに招かれ、昭和12年まで在籍してた。この時がテイチクの全盛時代。楠木繁夫も東京芸大出身、松平晃とは親友の間柄、大変な酒豪でして、それがたたって戦後まもなくして他界。葬儀の時、松平がこの歌を歌い涙で送ったと言う。
A-7 東京ラプソディー 藤山一郎 門田ゆたか作詞 古賀政男作曲 昭和11年
テイチクへ移籍した古賀を追って藤山もビクターよりテイチクへ移る、この時二人は乗りに乗ってヒットを連発。藤山は松平と同じく明治44年生れ、日本橋生れである。慶応幼稚園舎からずっと慶応、岡本太郎とはずっと同級生。藤山は上野の音楽学校(東京芸大)へ、岡本は上野の美術学校(東京芸大)芸能界のサラブレッドである。
藤山は東京の歌が一番合っている。藤山が歌うと東京が花の都、憧れの都になってしまう。私もつい誘われて上京、10年間の東京の休日は本当に花の都でした。藤山は古賀の退社と共にテイチクを去る、コロムビアに移籍する。しかし戦時体制に入り泣かず飛ばず。戦後になると俄然立つ鳥の如く甦る。
服部良一、古関裕而の作品に恵まれ、「青い山脈」「長崎の鐘」等々続々とヒットを連打、その全てが名唱。歌謡史に残る名曲を多く残し、結果長い芸歴と貢献或いは人格等が認められた国民栄養賞をもらった。健全で明るい、良心的な歌を残して、これ以上人格のある歌手は再び日本に生れることはないでしょう。
A-8 満州娘 服部富子 石松秋二作詞 鈴木哲夫作曲 昭和13年
服部良一の愛妹である。この人が残したヒット曲は唯一これだけ。兄服部良一の後光で生涯独身を通して生きてきたのでしょう。服部富子が愛したのは兄良一だったとどうも思える。
富子の死を喪主として送ったのも兄良一である。「支那の夜」では長谷川一夫、李香蘭と共演してたのをビデオで観ました。
B-1 上海ブルース ディック・ミネ 島田馨也作詞 大久保徳二郎作曲 昭和13年
“俺は上海に行って来たぜ!”とキザに言ってもそれが実によく似合うのがディック・ミネ。そして洋行帰りに舶来、と贅沢がこの上なくよく似合う。実際プレイボーイの伊達男、上海にも豪遊した。女もいっぱい居る、人間も型破れの破天荒。この人徳島県人、父親は学校の教員、校長である。
立教大学に入る、この時ジャズにのぼせあがる。ドラ息子ディックは卒後、父の命で故郷の徳島へ帰らされ郵便局で働く。
これで収まるディックではない、再び上京する。
テイチクへ入社して昭和9年「ダイナ」を歌ってデビュー(裏面は「上海リル」)、いきなり大ヒット、それからは順風満帆、流行歌も多く歌いましたがディックのお得意は洋楽、ジャズ、シャンソン、タンゴを歌った方が多い。
体質はモダニストでして歌声はディックの人柄に反して非常に甘い。どこか洗練されてスマート、ハイカラでダンディーなもんだから洋楽ファンの間でも人気高く大変な売れっ子。戦前の洋楽はディックの貢献度大。
それでテイチクにとっては大変な宝、多くのレコードを残し、この人以外意外と義理堅い。テイチク一本で通した。三級下に灰田勝彦が居る。この人も立教の出身、灰田も又生涯をビクター一本で通した。
B-2 月月火水木金金 内田栄一ボーカル・フォア
高橋俊策作詞 江口夜詩作曲 昭和15年
これは軍歌である。と言うより結果、軍歌になったと言うべきである。海国日本、海上に浮かぶ日本列島、海洋大国である。海は生命線、海の護りは当たり前、風雲急になると海から敵が襲来する。
昔の日本は海軍が強い、海軍はエリートが多い。陸軍とは違う、容姿端麗、頭脳明晰と江田島の海軍兵学校へ訪ねて驚いた。訪れた者でさえ何か背筋がピンとする、遺書も毛筆で18、19、20歳の青年ですよ。私は感動した。
神戸に居ると商船大学の大学生の凛々しい姿を見れる。それに船員さん、セーラー服姿の水兵さん、ごく普通に見られる。
この潮風、港風が懐しくてネ、私はどうして盆地の中、山口に居るんだろうかと考える。作曲は江口夜詩、もと海軍軍楽隊々長、江口の快心作である。
艦隊勤務は土曜の半ドンもなければ日曜の休日もなし、その刻苦勉励を義務として堂々と誇らし気に歌って居る。いや何も軍を奨励しているのではない、今の世に欠けているもの、この男気がない、と考える。
B-3 別れのブルース 淡谷のり子 藤浦洸作詞 服部良一作曲 昭和12年
若き日の淡谷のり子の歌声は美しい。正に貴婦人の香りである。昔の女声はこのように品性あった。今は可愛い娘チャンにしろ、皆んなお馬鹿さんかズベ公に見える。乙女もいなければ御令夫人も居ない。気位の高い気品ある女性はどこに居るんだろう。高価な香水がよく似合う貴婦人がどこに居るのだろうか。
右を向いても左を向いても、カジュアル・スタイル、化粧が濃すぎる眉毛も長すぎる、お洒落してるつもりだろうが下品で汚ない。これじゃまるで田舎娘、仕方ないからスクリーンで見て、ありし昔の銀幕スターに憧れ溜息つき夢見るしかない。
私の生まれ故郷神戸のお家は高台、まわりは洋館、“窓を開ければメリケン波止場が見える”誠思い出すとメルヘン。
作曲者は服部良一、作詞は藤浦洸、この歌は大当たり、大連か火がついて長崎、下関、神戸へ伝播、まるで船のコースである。この曲のヒットに依り淡谷は「ブルースの女王」と言われた。
B-4 愛国行進曲 中野、松平、伊藤、霧島、佐々木、松原、二葉、渡辺、香取
森川幸雄作詞 瀬戸口藤吉作曲 昭和12年
政治はここで語りたくない、軍歌も好きでない、しかし矛盾している。かつて日本は戦争をして居た。軍歌も存在してた。これは歴史的事実、問題は思想統一、中国のように焚書坑儒も又絶対嫌。
何も右も左もない、国を愛する心は当然、それは政治的目線からでなく、ごく自然な心として。
今の日本人に大八州、敷島なんて言ったって分らない。日本人が日本のことを分ってないのですから、戦争終結によって過去のこと全面否定された。その結果、精神文化が脆弱し、巷に氾濫してるのは男女の戯れ合いの歌ばかり、人の世はアッチ取ればコッチ欠ける、で誠単純でない。
昔こんな軍歌があった、当時に生きていた人全員歌ってた、その歴史を知ることも大切だろう。
B-5 シナの夜 渡辺はま子 西城八十作詞 竹岡信幸作曲 昭和13年
渡辺はま子、懐メロでこの歌、歌ったことありません、“いいじゃないか”と思う。しかし国の問題になると思ってか控えていたのと思う。支那とはどこから来て居る、清朝の“清“からです。
中国語でCHINと言う。スペイン、イタリア語はそのままチン、男性名詞はチーノ女性名詞はチーナ、仏語にするとシーノ、シーナになる。英語ではチャイナ、つまり日本はそれに当て字して支那、いつの間にか差別語になる。
ところが東シナ海、シナントロプスペキンズ(北京原人)となると中国は目鯨立てない、支那そばも同様、戦後G.H.Q統治「支那の夜」は没収された。
16年後返還された。復刻レコードは発売されたが渡辺自身は二度と再び歌うことはなかった。
聞いてみると明るくて意気揚々、まるで破竹の勢いで揚子江を遡上がっている様に感じる。
これが時代の声なのである。作者の意図かどうかに関係なく音として、人の記憶として、深く刻まれるのはこれなのです。これが則ち時代の声と思われる。
渡辺は浜っ子、だからはま子と言う。フェリス女学院出と言うからお嬢さん育ちなのだろう。フェリスより武蔵野音大に進む。この人「チャイナ・メロディの女王」と言われて懐メロの舞台の時、チャイナ服を着て、羽毛の扇子を持って舞台の袖から登場、それだけで「華」がある。
正に大輪の花、渡辺の艶姿は人をしてリッチにさせゴージャスにさせる。正に牡丹の花の如き。それに比べて小林幸子はまるでチンドン屋かゲテモノ、田舎娘である。こんな処に人って氏素性、育ちが表れる。
B-6 高原の旅愁 伊藤久男 関沢潤一郎作詞 八洲秀章作曲 昭和15年
「あざみの歌」だったら知っているでしょう、同じ八洲(やしま)秀章の作です。八洲の戦前の歌、この「高原の旅愁」の方が作為的でなく素直な心が表現されて名作。「あざみの歌」と同様、伊藤久男が切々たる思いで歌ってます。
ある懐メロ番組で伊藤久男がマイクを握りしめ手を震わして何かを悟ったかのように渾身の思いでこの歌を歌っていました。私は感動して涙が出てしまいました。それから伊藤は永眠しました。
在京中私は八洲の四兄弟と妹と知り合いました。次男は私と同じ年、長男は同じ本郷に住んで居て、度々家に遊びに行きました。
B-7 蘇州夜曲 渡辺はま子・霧島昇 西城八十作詞 服部良一作曲 昭和15年
映画「支那の夜」の主題歌作りの為、服部良一は中国大陸へ、蘇州を訪れた。水の都蘇州は美人の産地でもある。陽光燦々の江南の里は”江熟実れば天下足る”と言われる程天府の都。
“月落ち烏啼いて霜、天に満つ。江楓漁火愁眠に対す。姑蘇城外の寒山寺、夜半の鐘声客船に至る”と古来から日本人に最も愛された唐詩。
服部の頭にはこのイメージがある。勿論詩人西城八十にも。こうしてできたのがこの曲。蘇州で舟遊びを連想させる。誠、画中に詩あり、詩中に画あり、である。
器楽としても名曲、こんなところに服部の知とセンス感性のよさを強く感じ、私はこの服部こそ日本最高の名作曲家と思う。この曲は中国から台湾に至るまで広く愛されている。殊に台湾ではこの曲を知らない人は居ない程愛されている。
B-8 めんこい仔馬 二葉あき子外
サトウ・ハチロー作詞 仁木他善雄作曲 昭和15年
この歌は映画「馬」の主題歌、この時出演していた少女は高峰秀子。高校生くらいの乙女でした。これは国策映画、愛馬を育てるけなげな乙女のストーリー、愛馬とはつまり軍馬である。
時の少年少女は少国民、立派なお国の役立つ軍国少年を育てる、そんな国の画策がある。
しかし時代は軍国の世、国家戦略のもとでしか曲作りはっできなかった。そんなことはでうでもよい、曲は美しい。童話の名作でも読んでいる思いで聞けばよい。
やたら子供に与える曲は跳んだり跳ねたりが多い昨今、こんなメロディーラインを持ったものを聞くと頂門の一針としたい。二葉あき子は東京芸大卒広島の人である。安芸の国だからあき子とした。
兎に角、美声である。女性としてはミス・コロムビアと並ぶ美声である。

失われた日本、それは、貧困、質実剛健、品格、義理人情、律儀、侠気、純情、いっぱいある。時代の流れだから、いた仕方ないにしても、高度成長期以来の日本、私には疑問符が多すぎる。
それはテレビ時代の幕明けから始まったんではなかろうかと考える。それは私の中学入学の時からです。あっと言う間にテレビが普及、炊飯器、洗濯機、冷蔵庫と生活革命、SPレコードからLP、EPレコード、ロカビリー登場、ハイティーンからローティーンへとヒット曲の対象も変わる。
そして私が大学に入った年はビートルズ旋風、アイビールック、平凡パンチから一変して今度がグループ・サウンズにヒッピーに長髪、アングラ劇に学園紛争“近頃の若いモンは!”“戦争を知らない子供達”と言われた当時の若者が、今60代、まもなく70代も手の届く範囲内に在る。つまり全世代が子供化、ガキ化、カジュアル・スタイルである。
このかけ足で過ぎた時代の変遷と音を通して眺めてみるとよく分る。
先ず、流行歌で言えば、SPレコード時代までは演歌はほとんどない。主体は歌謡曲。歌手は絶叫しない、コブシをさほど持たない、歌声はストレートで率直、温かで耳に優しい。それに声楽の基礎を感じる。総じて言えるのは、品性がある、姿整を律している。男女の表現にも恥じらいがある。
これはラジオ時代と関係あるのではなかろうかと考える。テレビ時代に入って、歌は耳を研ぎ澄ませ聞くものだけでなくなって、歌は見るもの、ルックスとなった。
そして男女の距離が近くなった。スクリーンで女優が一枚一枚、服を脱いで行く、ヌードも当たり前になった。何もロマンティックである必要はなくなった。ヌーベル・バーグの波が結果リアリズムとなった。人の世はアッチ取ればコッチ欠けるでして、単純でない。何かと引きかえ、で人の世は移ろい行くのでしょうね。こうして足し算、引き算、計算してみると、今のアニメだのAKBだの、渋谷原宿だの、何ごとも金で換算、スマホだのメールだの、騒々しい。
ほっといて呉れ、私には私の贅沢でお洒落なライフ・スタイルがある。あれだけ成熟した大人の世界があったではないか。紳士、淑女の美しい時代があったではないか。
寧ろ失ってしまったものの大きさを感じて、切ない思いでSP時代の音を一人寂しく聞いている。
A-1 上海の花売娘 岡晴夫 川俣栄一作詞 上原げんと作曲 昭和7年
「上海の花売娘」「東京の花売娘」「ひばりの花売娘」と花売娘と名打ってヒットさせた作者は全て上原げんとです。上原げんとは外にマドロス歌謡が得意、ヒットメーカーなのですがさして内容に思想がないってことか、重厚さと渋さがない。その点吉田正夫も大なり小なり似通っているが吉田より更に軽いかな?
A-2 無常の夢 児玉好雄 佐伯孝夫作詞 佐々木俊一作曲 昭和10年
児玉は芸大を卒業して、更にイタリアまで言って声楽の勉強をした実力派。決定的なヒットに恵まれなかったのが不運。この曲大ヒットしたのだが軍当局に内容が厭世的だと言うことで戦時中発禁された。
曲、歌唱ともによいのに惜しいことである。戦後、昭和34年折しもフランク永井の「君恋し」のヒットに依って、リバイバル・ブームが起り、佐川ミツオが歌ってリバイバル・ヒットを飛ばした。
A-3 長崎物語 由利あけみ 梅木三郎作詞 佐々木俊一作曲 昭和13年
先の「無情の夢」と同じく佐々木俊一の作、この佐々木俊一、昭和一ケタから活躍している古い作曲家でかつ大変なヒットメーカー、結構よい曲を作る。しかし全方位的でとらえ難くヒットメーカーの割には、評も薄く考証も足りない。吉田正以前のビクターを支えた大作曲家と評してよいだろう。
この「長崎物語」、「ばてれん娘」として発表去れたが全々噂にもならず「長崎物語」として改訂して発売されたがそれでもヒットにつながらず、後桜井潔と言うタンゴ・バンドがタンゴの器楽曲として出したところ思いがけずヒット。それに依って由利あけみ盤が返り見られて大ヒットしたと言う変な種。
一つの曲が誕生してヒットし陽の目を見られるようになるのは難しいこと、こうして埋もれて消えてしまったものも沢山あるのでしょう。ヒットは正に時の運、水ものである。由利あけみも又東京芸大卒、歌劇「カルメン」を舞台に立って歌う実力派、結構、妖艶な女、異色のムードを持っている。「長崎物語」では声色を使って歌って居る。
妖しい紫煙くゆらす支那情緒たっぷりで歌っている。長崎歌謡としては最高の出来栄え、この頃の長崎ものはエトランゼを詩ったものが多かったが、後年昭和40年代「長崎ブルース」「思案橋ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「柳ヶ瀬ブルース」「長崎は今日も雨だった」等々この種のご当地ソングはキャバレー歌謡と言ってよいだろう。
キャバレー全盛時代を思わせる。世の中高度成長真っ盛り、社用族にモーレツ社員、会社の接待も盛ん、商談の後は夜のお遊び、その上時代は男性天国、こうして昭和30、40年代は夜の町に札束が舞う。
次、昭和50年代になるとキャバレーから健全なゴルフに向う。日本独特の接待ゴルフに移る。平成になるとキャバレー、料亭政治、男性天国もなくなり、代わって女性とギャルの抬頭、オジサンも引っ込み金目も少なくなりキャバレー、高級クラブ、料亭等が廃業、居酒屋ブーム到来、そして若いギャルが渋谷、原宿を闊歩、オバサンまでが女子会とやらと称す。
世の変遷、時代の移り変りを表わしているのがはやり歌、正に“歌は世につれ”である。
A-4 燦めく星座 灰田勝彦 佐伯孝夫作詞 佐々木俊一作曲 昭和15年
男純情の、と言う言い方が古めかしい、そう言えば、実のある男、篤志家、艶福家も死後に近い。男純情どころか、乙女も居なくなった時代。佐々木俊一の曲が続くネ、そうでしょう、つかみにくい。
どんな作風なのか、カラーなのかつかみにくい。多方面にわたって作れる。
灰田勝彦は立教卒のモダンボーイ。この人はハワイ生まれの日系二世、ハワイアンからスタートする。無色透明、体臭を感じない爽やかなダンディ・ボーイ、万年青年と言われた。
健全な青春歌謡、洋楽、ヨーデル唱法を得意としてた。ディックの遊び人に対して灰田のダンディズム、共に立教ボーイの典型である。
A-5 隣組 徳山璉 岡本一平作詞 飯田信夫作曲 昭和15年
向こう三軒両隣り、親しい近所付合いを明るく歌った国民歌謡である。それをトクさん、明るく軽妙に屈託なく朗らかに歌っている。
これは当った、大ヒットである。止まれー!実はこの歌には裏があるのです。軍が関与してた隣人愛を歌って乍ら能天気では困るのです。だから画策である。
日本は戦時体制に入った。歌でマインド・コントロールつまり、どこかにアカの本を読んでる奴は居ないか、どこかに徴兵逃れひそんでいる奴は居ないか。
慰安袋、千人針、防火訓練、防空壕作りに推進させ、町内会、常会活動を活発に行ない裏でスパイ作戦を進める。ラジオ体操、親睦の早朝野球、火の用心等々、町内会長と官庁、憲兵は通じていた。
おゝ恐ろしや、緩やかな思想弾圧と戦時体制はツーカーと通じて歌でマインド・コントロールしてた。大ヒットしたことが大当りにつながる。それにしても愛らしい歌、トクさんの歌唱が又愛苦しい、作詞の岡本一平は岡本太郎の父君、裏面は先に紹介した「天から煙草が」である。
A-6 新雪 灰田勝彦 佐伯孝夫作詞 佐々木俊一作曲 昭和15年
又佐々木俊一である。本当に作風がそれぞれ異なる。実に清々しい曲、ハイカラでタンゴである。灰田に打ってつけの曲、灰田は江戸っ子よりも江戸っ子らしい。義に堅く律儀で竹を割ったような性格、と評されている。
戦時中にも関わらず軍事色なしの歌を多く歌って活躍してた灰田、勿論ハワイ生まれの日系二世と言うことで、軍歌も多く歌わされていました。そんな時代ですから。
A-7 空の神兵 四家文子、鳴海伸輔 梅木三郎作詞 高木東六作曲 昭和17年
四家文子と徳山璉は東京芸大の同級生、一級上に橋本国彦が居た。先年102歳で亡くなった高木東六氏も東京芸大出身、全てビクター在籍、戦前の殊に昭和一ケタまでのビクターは業界きってのアカデミック、言わば白牙の塔、今のチャラチャラした芸能界と違って格調すら感じる。
当初四家、徳山の東京芸大コンビで歌う予定だったが徳山が急死、鳴海信輔に代わった。鳴海のことはよく分らない。東京芸大だったのか否か?しかし声楽の人と感じる、若いようであるが、多分新人、よく歌っている。これは大ヒット、徳山が歌ってたら更に格調高くなったはずと思うと徳山の急死が惜しまれてならない。
この「空の神兵」は軍歌である。しかし唯の国威発揚をねらっただけの軍歌とは思えない。実にハイカラ、モダーン、それにアカデミック、流石高木東六先生、威信と誇りを以って作られた曲なんでしょう。誠にセンスよい。唯の軍歌として同列に置きたくない、これは名曲であります。
上質な曲と感じますが高木先生、後年二葉あき子の「水色のワルツ」を書いている。そして美空ひばりに「あまんじゃくの歌」も書いて送っている。大先生が流行歌まで書いている、見逃せないことです。
A-8 婦系図の歌 小畑実・藤原亮子 佐伯孝夫作詞 清水保雄作曲 昭和18年
泉鏡花作の「婦系図」より、それを題材にして作られた歌、副題は「湯島の白梅」と言う。
お蔦主税の悲恋の話しは余りにも有名、“俺を取るか女を取るか”の真砂町の先生の名台詞も有名、恒例の年中行事として新派で演じられて居た。
先代の水谷八重子、花柳章太郎、保志井寛の当たり芸、時には山田五十鈴、森雅之、と新派は新橋演舞場、或いは日本橋浜町の明治座で公演された。
昭和30年代までは新劇、新派、新国劇、芸術座、帝劇、と演劇活動は盛んでした。
常に文学とつながって文学青年、青白きインテリとつながって映画化もされて、演劇、映画、文学と相乗効果を呼んでいましたが。流石、時代の流れ、今日では文学青年もいない、青白きインテリも居ない、文学全集も売れない、若者はサッカーでもしてろ、マンガでも読んでろ、と言うのか。
よく見れば大学の部活も又文化部の男の衰退が目立つ。男性合唱団がない、トランペット奏者が女性だったりと女性の進出が目立つ。何だか男は思考停止したみたい。芥川賞、直木賞と有能な若手男性ホープが現れない。アスリートにしても女性が大活躍、男は会社漬け、スポーツ馬鹿、マンガ馬鹿になって、この国はオスの喪失、男のロマンの喪失を感じて、男よ奮起せよと言いたい!
私の東京10年の生活はバラ色、本郷に住んで湯島と隣り合せ、泉鏡花の婦系図の舞台となった湯島天神も歩いて二分だけ、三番歌詞の“出れば本郷、切通しあかぬ別れの中空に鐘は墨絵の上野山”の通り、出れば本郷切通坂、下ればすぐ不忍池、向いは東大、細い路地は無縁坂、徳田秋声の「雁」の舞台、夏目漱石、森鴎外、石川啄木、と明治の文豪の足跡残したゆかりの地、本郷。
向きを変えて今度は南に向って歩くと10分でお茶の水、そこに流れる神田川も橋の畔に立っていると何故か「婦系図の歌」が流れる。そして神田駿河台の坂を下ると書店街神保町でした。
正に夢のような東京の休日の10年でした、戦雲厳しい中の小畑実のデビューヒット曲であります。
B-1 朝はどこから 岡本敦郎・安西愛子 森まさる作詞 橋本国彦作曲 昭和21年
B面からは戦後、昭和20年代となって居る。戦後は並木路子の「リンゴの唄」から始まって居る。昭和21年発表のこの曲、ラジオ歌謡でもあります。岡本敦郎は「高原列車は行く」「白い花の咲く頃」「憧れの郵便馬車」等のヒット曲がある。
いずれも清冽な曲、清潔感に溢れて岡本の風貌は芸能人と言うより学校の先生のような人でした。安西愛子は松田トシと共に「歌のオバサン」と言われています。この頃は20代も後半にていればオバサンと言ってた、又そのように言って失礼じゃなかったのです。オジサンも同じこと。
寧ろ今の方が変、こうして大人が大人でなくなる、このことの方が問題。
戦後、日本全国が焦土、食糧難、先ず食うことから、復興に励む若者とて同じこと。若者として甘やかせてもらえない。遊んではおれない、そんな世、若者が入る隙がない。歌の世界とて同じこと。
こうして大正世代昭和一ケタ世代は廿歳になれば立派に大人、生活を背負わされる。若者が若者として抬頭し若者文化が風俗となったのは復興期も終り、昭和30年代に入ってから、慎太郎の太陽族出現からである。
歌の世界もどんどん若者化が進み、大学生も増え、すると遊び世代の増加。昭和40年代になると団塊世代の青春、長髪、Gパン,Tシャツ、ヒッピー、と一般化、するとジャリタレ化に拍車がかかる。
ロックにマンガ、フリーセックス、とこうして若者文化が拡大、いつの間にか30代まで若造、今は40代まで若者、気づいてみれば結婚もしない、殊に女性の場合、長寿となった。若く見える。
じゃその分昔以上に出産年齢は伸びたかと思えば伸びてない。少子高齢化には意識の変化とか女性の社会進出とか様々の要因があって難しい問題。昔の青年、団塊世代も70に近い、60代ロックにGパン思考も意識もライフ・スタイルもカジュアル系、大正、昭和一ケタ世代は団塊世代との落差ほどには違いない。
昭和20年代世代と今の若者とは年代差の相違のみ。
こうして考えると昭和20年代の若者は廿歳になった時から大人。歌の世界も大人、戦争時代に耐えて来たモノが一気に噴出した。知らず知らずの内に音楽レベルも向上した。
こうして眺めてみると戦後の昭和の20年代、生活苦なのに名曲が多い。映画も又名画が多い。文化人も多彩だった。つまり大人の文化の花盛り、モノはなくても精神文化は高い、各界にわたって巨人も多かった。
思い切り、健全で健康的なこの歌、平和の訪れ、明るさの到来、自由で伸び伸び、風紀は乱れてない。何を志向して生きてたかが分る。
日本全国民が生活苦をかかえているのに明るく溌剌としている、これが復興の槌音であり、当時のエネルギーであり、世界の奇跡までと言われた程の早期復興を遂げた力であると感じます。
B-2 浅草の唄 藤山一郎 サトウ・ハチロー作詞 万城目正作曲 昭和22年
作詞、作曲共に「リンゴの唄」でコンビである。浅草も一面焼野原、昔の浅草はこうだったと郷愁を誘う“強いばかりが男じゃないと”頑張りすぎるなよ、つらい日もあるだろう、でも明るく生きていこうな、と応援しているようでもあり、支えて呉れているようでもある。
復興に励んでいる日々、ひと休みしようよ、と優しく微笑んで呉れているようでもある。そして前を向いて生きようと明るく夢見る気分で歌う藤山一郎の歌声、焼跡時代にこれが如何にも元気づけて呉れた。
藤山の歌声は快活で気持ちよい、これが終戦直後の時代の声、そして藤山自身の黄金時代でもあった。
B-3 夢淡き東京 藤山一郎 サトウ・ハチロー作詞 古関裕而作曲 昭和22年
憧れの東京、藤山が歌うと夢のパラダイス、花の都になる、私もつい誘われて上京した。実際東京は花の都、やはり町は生きている。何でも揃っている。緑もたっぷり、文化的にも豊か、快適である。東京は終戦直後から希望の都、何だかんだと言っても何故、東京に人が集まるのか。
文化、教育、医療に、仕事、と全てにわたって高レベルで受けられ、享楽できる。戦後になって古関が頭角を現した。良心的な佳作を多く作ってヒットを放った。
若いと若さは違う、若いと言えば年齢のみ、若さと言えば永遠性、精悍、溌剌、爽かさは年齢に関係なし。年齢は若くても不潔で清澄感のない若者はいっぱい居る。青春も等しく与えられている。
しかし青春を本当の意味で謳歌して居る人とは、全員でない。誰でも大学生になれる権利はある。しかしそうでない器の大学生も居る。若さ、青春を心から歌い上げている歌手が居る。それは藤山と灰田の二人。
この二人の若いだけのカレッジソングを歌っているのではない。永遠の若さを歌って居る。人々に元気と勇気と希望を与える。こんな歌手、芸能人は今日居ない。やはり戦争の世紀を生き抜き、平和の訪れを肌に強く感じていたのだろう。昭和20年代に佳作、名曲が多いのはこんな理由なのかなと考えるのです。
B-4 港の見える丘 平野愛子 東辰三作詞作曲 昭和22年
空襲でビクターのスタジオは焼失してしまった。コロムビアのスタジオを借り切って、昭和22年レコード録音を開始した。その時の第一号はこの「港の見える丘」である。この題にちなんで横浜の山手に「港の見える丘公園」がありますが、ここでの眺めは港がすぐ眼下に見えて素晴しい。
この作詞作曲者、東辰三は東京の下町深川出身、しかし大学は今の神戸大学、当時の神戸高等商卒業、神戸の青春時代はよっぽど記憶に深かったのでしょう。東辰三の曲は港を風景したものが多く、一説に依ると「港が見える丘」のイメージは神戸だとも言われている。
東辰三は作詞作曲もこなせる、然もオリオン・コールという男性合唱団も育てたなかなかの才媛。この人の曲想も深渕、最も女っぽいものも書ければ最も男っぽいものも書ける。つまり両性具有で鋭い才覚、私はこの人を興味持って見ているが、まだよく分っていない。
この「港が見える丘」は結構、お洒落れな曲想、それに心地よい妖しさ、平野愛子は、いやらしくない程の悩ましい歌い方、それに気持よい官能が漂よいビクター戦後第一号のヒット、然も大型ヒットを放った。
続いて「君待てども」「白い船が見える港」等の東=平野コンビで連続ヒットを放ったが東辰三の急死によって、平野愛子の歌手としての生命はあえなく断たれた。
B-5 泪の乾杯 竹山逸郎 東辰三作詞作曲 昭和22年
同じ東辰三作詞作曲の「泪で乾杯」は「港が見える丘」のB面、先に「港の見える丘」が爆発的にヒット、それからじわじわと、この「涙の乾杯」は頭を持ち上げ長くヒットし結果として大ヒットとなった。
先ほど言ったように最も女っぽい「港の見える丘」と最も男っぽい「泪の乾杯」両極端でかつこれが東辰三、然もどちらもちょろい流行歌でない。ここに私は東の才覚と人柄に興味を持つ訳である。
このような両面を兼ね持っているからこそアーティスト、然も作詩もやれるとなれば相当のインテリだと思うが急死したのが惜しまれる、カラオケなど行ってみると「泪の乾杯」が残っている。
と言うこことは、この当時の若い男性の間で相当好まれたのであろう。77、78歳以上の男には好まれていたのだろう。
潜在的なファンが結構居るんだろうと想像します。但し昭和17、18年世代からはさっぱり知られていないってことは、これが私の言う男の歌、オジサンの歌、そしてオスの喪失等と符合している。
昭和20年代に入るや否や、懐メロは「上を向いて歩こう」「明日があるさ」「いつでも夢を」「高校三年生」となる。男の哀感もロマンもなくなって歌が生ちょろくなって居る。
私もこの世代、しかし音楽的には一つ前の世代と一緒「泪の乾杯」は胸にジーンと来る。腹にジーンと沁みわたる。
竹山逸郎は、大正7年生れの慶応卒、戦争末期、空襲激しい頃にデビュー、しかし戦争に依る困窮状態でレコードも新曲も作られなくなってた。
やっとレコード生産開始でこの「泪の乾杯」でヒット、渾身の思いで歌ったのでしょう。聞いてみるとじっくりと聞かせるバリトンの骨太な歌手。
次に同じ東辰三の「熱き涙」で又ヒットを放つがここで東の急死、平野愛子と同じく東辰三の育てた歌手。東の死によって平野と同じく歌手としての生命を断たれた。歌手と作曲家も関係は、一蓮托生とつくづく思う。
B-6 胸の振子 霧島昇 サトウ・ハチロー作詞 服部良一作曲 昭和22年
この「胸の振子」もカラオケに残っている。この曲も潜在的なファンが多いのだと思う。素晴らしい、兎に角素晴らしい。実にハイカラ、モダーン、ハイセンスは曲です。何故に霧島昇が歌ってるの?と首をかしげる。
と言うのもこの霧島、「愛染かつら」のイメージが濃厚、東海林太郎と同じく。彼は@「赤城の子守唄」のイメージが濃厚、テレビの懐メロ番組ではいつでもこれを歌っている。って言うのもテレビは不特定多数を相手、総じて偏向する。
歌手は自分のビッグ・ヒットを永遠に歌い続けなければならない。それを世間は望んでいる。だかた希望に反してでも歌い続けるのが歌手の務め。
しかしだからと言って歌手は歌手で、その一曲だけってことはないはず。違う顔を持ってて当然、だけどいっぺんこびりついたイメージは濃い「愛染かつら」のイメージは払拭できない。
アメリカのヒット・ソングは競演が当たり前、タンゴもそう。タンゴは寧ろ競演を楽しみに聞いている。又それが面白いからレコードを買う。ところが日本ではその人の持ち唄を他者じゃ歌わない。
この「胸の振子」なんか松平晃が歌ってもよし、中野忠晴でもよし、灰田勝彦でもよし。私だったらそのいずれでも買いたい。面白いではないか、とそれ程「胸の振子」は素晴らしい。流行歌は低俗、凡庸、痴の楽しみ、と色々ある。
「胸の振子」は上質な流行歌、洋楽センスのよさを感じる。これが服部のカラー服部のセンス才能は一段高いところにある。これが私の尊敬する由縁なのです。
服部は、「胸の振子」以外霧島に「夢去りぬ」「サム、サンデー・モーニング」と佳作を与えた???何故と考えた。実は霧島、知る人ぞ知るビング・クロスビー・ファンであって彼のレコード、コレクターだとか。
それを知ってか知らぬか服部は自ら佳作を霧島に与え、霧島はそれをヒットさせている。誠歌手の顔はひと色でない、知らないのは我々大衆。でもその大衆の一人であると共に私は耳で秘曲を探りたいと今日も聞いている。
B-7 山小舎の灯 近江俊郎 米山正夫作詞作曲 昭和22年
米山正夫も才人、戦前には高峰秀子の「森の水車」を書く。この「山小舎の灯」と同系列の曲想、牧歌的なものが多い。「リンゴ追分」以来、ひばりとコンビを組んで多種多様の曲調を書いて、ひばりの娘盛り、黄金時代を築いた。
その割には知られてない、正当に評価されていない。残念である。
牧歌的もさること乍ら、洋風、ハイカラ、モダーンをはじめ軽妙な日本調まで何でもこいの多才。然も文学的教養もあるのでしょう。自らの作曲したものの多くの詩まで書いている。
18歳から20代までのひばりは、まるで米山の子飼い、ひばりの才能を100%引き出している、ひばりもよく応えて、この時代のひばり、軽妙洒脱、最高に魅力を富んでいる。
「柔」からがいけない。貫禄づいて、まだ27、8歳なのにひばり、もうオバチャン。軽快さと引き換えに演歌のひばり古賀と組んでからは固執してしまって私は演歌嫌い、変に歌謡曲の女王に君臨して、魔宮の怪物なった。米山もこれからひばりから遠のく、米山の新しいものとして知られているのは「三百六十五歩のマーチ」。米山自身も年老いた。
ひばりとの出会いで全精力を使い果たしたかのようである。
近江俊郎は今一歩、声量、美声、歌唱に何か欠けていると感じるがこの人、曲に恵まれている。古賀政男の「湯の町エレジー」が最大のヒット曲。昭和20年代のヒットメーカーでした。
B-8 街のサンドイッチマン 鶴田浩二 宮川哲夫作詞 吉田正作曲 昭和28年
鶴田浩二は浜松の渡世人の家に生まれる。幼少、両親が離婚、父方の祖母の尼崎で育つ。関西大学を出る。戦時中は特攻帰りだとか、事の真偽はよく分らない、しかし生き残りとかで生涯このことにこだわったのは事実。どんな経路か分らぬが、こんな言い方が当たってるだろう。
戦後拾われて高田浩吉一座に入って旅役者経験あり、その後松竹に入社、若かりし頃の鶴田、美男子で甘い風貌、二枚目のハンサム・スター、同じ松竹の岸恵子と熱烈な恋に落ちる。しかし人気スター同士の恋は御法度、会社によって引き裂かれる。これに懲りたのかどうか知らないけれど、男気の強い鶴田、以後金輪際、女性と浮名を流すことはなかった。
歌も上手くて美貌が故、義兄弟の契りを交わした灰田勝彦に勧められてビクターへ入社、レッスン室で小西潤のうまい歌声に魅せられて師と仰ぐようになった。小西が亡くなった時、人目憚らずオイオイと泣く。
後年、昭和40年代やくざ映画全盛、この時40代の渋い男盛りになってた鶴田かこの種の映画に多く出る。高倉健には背後に女の匂いは感じないが鶴田には、妙にそれが伝わって色気を感じる。
木暮美千代でもよい、“月様、雨が”と言って傘を指し出す。すると鶴田“春雨じゃ濡れて行こう、”と雨の中、未練を振り切るように去る。小暮が“あゝいゝ男!”とつぶやく溜息つく。
こんなシーンがぴったり似合いそうと想像する。そう、鶴田には孤独と寡黙と哀愁と翳りがある。男気と狭義も感じる、それに絵になる。新派の舞台ですね。高倉健にはない色気がある。
だから鶴田は俗に言う男が男に惚れる歌手というか、そんなものを感じる。そして女性ファンも多い。渡世人の子、親の離婚、旅芸人の経験、戦争の生き残り、恋愛事件を引き裂かれる、義兄弟の契り、師を仰ぐ、それにつながる翳り、若き日の美男子、中年になってからの渋味、その様々が芸のコヤシになっている。これは生いたちと天性の宿命、銀幕のスターになる諸要素、諸条件が整っている。
鶴田は並の歌手以上に歌手はプロでない、余技であるにも関わらずヒット曲が多い。その中でも「街のサンドイッチマン」は彼にぴったり、代表作である。徘徊歌謡としてもよい、鶴田のキャラクターがよく出て私自身もとても好きな曲です。

ポリドールはドイツ系のレコード会社、昭和5年にスタート、キングレコードは講談社資本、昭和6年にスタート、テイチクは昭和9年スタート、これでビクター、コロムビアと合わせて戦前のレコード五社がそろった。
老舗のビクター、コロムビアは強靭、作詞作曲家、人気歌手、ヒット曲がそろっていたがポリドールも負けていない。
東海林太郎、上原敏の二本立で股旅任侠歌謡で受けて昭和10年―13年までポリドールの全盛時代を迎えた。
テイチクは古賀政男を引っこ抜き藤山一郎と共にヒットを連続させた。キングはさして振るわず岡晴夫一人が大ヒットを放ったのみである。しかし流行の世界、浮沈み激しくヒットは水もの、結局ビクター、コロムビアは強い、業界の一、二位を不動とさせる。
順風満帆に見えたかのレコード界、昭和12年日中戦争勃発、日本は次第に軍国主義の体制に入り享楽文化の象徴である、流行歌は引き締め強化に入り、軍当局の関与が強まり、どんどん軍歌の占める率が高まり、昭和16年日米開戦世の中暗雲漂い、いつしか軍歌一色の時代に突入しました。
流行歌は全く玉石混淆、玉は少ない石が多い、心配無用、時の流れは自然淘汰する。残るものは、残る。しかし良い曲なのに忘れ去られている。これも心配無用、世の中例え少数でも好事家は必ずいる。こんなものを秘曲と言いたい。私は秘曲をさぐるのが好き、これが妙味と言うもの。
大ヒット曲なら大ヒットなりに、秘曲は秘曲なりに、その存在に何かの意味がある。一世風部したものには時代を揺り動かす何かの力を感じる。又時代に訴える力は弱くても良心的な作品もある。
つまり、これが楽しみのひとつなんでしょう。実に俗なる趣味ですね。でも考えてみるとタンゴもジャズも同じこと。
全て大衆音楽、20世紀はレコード産業が軌道に乗りヒット曲が誕生、広く深く庶民の中に入り込んだ。
アメリカは勿論のこと、タンゴも1910年代アコースティック録音時代のレコードが多く残されているが日本はこのアコースティック録音の保存が悪く、広く大衆に広がったものは電気録音開始以後、則ち1928年、昭和3年より本格的なレコード時代が始動、流行歌のはじまりである。
A-1 マイ・メランコリー・ベイビー ジーン・オースチン 1928年
ジーン・オースチンとは古い、この人は知る人は今ほとんど草葉の影で眠っている。ビング・クロスビー前のビッグ・スターでした。アコースティック録音の時代に活躍してた。
しかし電気録音時代に入って吹き直され、ここで聞けるのはその頃のもの、1920年代の後半です。1920,30年代は今と違って甘く優雅に歌う。
当時の美意識はロマンティックに歌う、だったのでしょう。誠夢見心地で甘美な世界へ魅き込まれる。「マイ・メランコリー・ベイビー」は1910年代に作られた曲で今やスタンダード・ナンバーになっています。dsc
A-2 アイルランドの微笑み オールド・タイマー
1910年代は名曲大曲が多い、「セントルイス・ブルース」「アレキサンダース・ラグタイム・バンド」もこの時に生まれた。タンゴで最も有名な「ラ・クンパルシータ」もこの時生まれた。
もうこうなるとヒット曲の次元でなくスタンダード・ナンバー、教養のレベルですよね。
小説も時と共に自然淘汰されて純文学になる。こうなると教養のレベルです。この「アイルランドの微笑み」はもうヒット曲でなくアイルランドの魂の音楽となって居ます。
A-3 君去りしのち(アフター・ユーブ・ゴーン) ジーン・オースチン 1928年
この歌は伝説の人ソフィー・タッカーがヒットさせたとなっているが私、まだ聞いたことない。多くの人に歌われジャズもスタンダード・ナンバーになっている。
曲調はどこか退廃ムードしかしジーン・オースチンが歌うとロマンティックに甘美となる。これも一世を風靡したものとして忘れてはならない曲であります。
A-4 唯一度だけ リリアン・ハーベイ 1931年
「会議は踊る」の主題歌です。ドイツ映画と言えばウーファ、サイレント時代の「カリガリ博士」「プラーグの大学生」と、何だかハリウッドともフランスとも違う、独特の表現、これを傾向映画と言ってました。
そしてウーファもトーキー時代に入る。ヴィリー・フリッチとリリアン・ハーベイ主演の「会議は踊る」は日本も大ヒット、メーテルニッヒ宰相、ロシア皇帝招いてのウィーン会議、その史実をもとにかなり脚色されて映画は作られた。
映画、歌共に大ヒット、当時のインテリ層、モダニスト達に評判となった歌、映画であります。
A-5 巴里祭 リス・ゴティ 1933年
フランスもトーキー化、その第一号はアルベール・プレシャンの「巴里の屋根の下」続いて放映されたのは「巴里祭」、主題歌名は「巴里恋しや」と言う。映画も勿論のこと歌も大ヒット、但しフランスでは今一歩大ヒットにならず、どうも耳は日本人の方が秀れているらしい。
フランス映画とシャンソンは日本にとって特別なものとなる。つまりフランスは有難い有難い先進国、パリは芸術の都となる。日本人にとってフランスは「おフランス」になる。この「巴里恋しや」は退廃ムード漂よってなかなかよい。
「巴里の屋根の下」「暗い日曜日」「人の気も知らないで」と共に戦前最もよく好かれたシャンソン。巴里祭なんてフランスにはない。フランス解放の日なんでしょう。
日本人のフランス熱が昂じて巴里祭となった。石井好子、芦野宏、高英男を思い出す。懐しい銀巴里の灯も今は消えてない。
A-6 小雨降る径 ティノ・ロッシ 1935年
1935年「マリネラ」を歌ってティノ・ロッシはデビュー忽ちにして大ヒット、甘い歌声が当時のフランスの全女性の心を虜にした。
続いて発売された「小雨降る径」「夜のバイオリン」等々フランス全土を大席巻、勿論日本にも波及、日中戦争がはじまる直前でしたからこの頃は自由。フランス映画も多く入って、ハリウッドものとどこか違って陰影がありましたでしょう。
だから知識層に評価されてその支持に支えられて一つの相乗効果でしょうか、シャンソン・ファンも一気に増えました。
但し、ここまで日本は暗い軍国主義の世に入って長いトンネル、約10年近くもシャンソンを耳にすることできなくなりました。
やっと戦後、耳にした時、ティノ・ロッシの時代は終って、イヴ・モンタンの「枯葉」が大ヒット長い空白期間を埋めるが如く、日本は「おフランス」に飛びついた。
そして平和の訪れと共にファッションに関心を持つ。至る所、ドレス・メーカーに編物教室、雨後の筍の如く林立、最新モードはパリからとピエール・カルダン、イヴ・サンローラン、シャネル、ランバン、エルメス、と続く。昭和40年代まで金の問題でなくて、人々は高級志向、男性の持ちものもモンブランの万年筆にダンヒルのライター、ロレックスやオメガの時計、背広はオーダーメイドでした。
いつの間にやら安もの志向、今はユニクロファッション、それと共にシャンソンもいつの間にか流れなくなった。
A-7 月光価千金 ポール・ホワイトマン 1928年
題名がいいですね、月光価千金とは。これ恐らく蘇軾(蘇東坡)の“春宵一刻価千金”から来ているのでしょう。明治の知識人は例えハイカラ舶来好みのモダニストであっても和魂洋才、どこかに漢文の教養がある。だから訳詩もうまい。
洋画の題名の付け方にしてもピタリとはまる。今はそのままカタカナ書き、そしてろくすっぽ漢字力は低いのに、生まれた子供の名前、変に凝って、まるで芸能人みたい。 宝塚じゃあるまいし、何だか奇妙。
この「月光値千金」「ダイナ」「タイガー・ラグ」「青空」「サイド・バイ・サイド」「レイジー・ボーンズ」等々と共に昭和一ケタ、大はやりしたジャズ・ソングです。訳詩もディック・ミネのものが一番当たった。
ポール・ホワイトマンは1920年代最も活躍したジャズメン、アメリカでは大人気、ところが日本のモダン・ジャズ・ファンは、あれはジャズではない、ポピュラーだと言う。モダン・ジャズ至上主義の人から見ると確かにポピュラー。
しかしですよ、1920年代ですよ、ジャズはまだ発展段階、モダン・ジャズどころかスイングの時代より前、白人がジャズを取り上げら最初の時代の人、それを割引いて考えてみると分る。
ジャズであってポピュラー、ポピュラーであってダンス・ミュージック、「月光価千金」はそんな古い古いヒット曲なのです。
A-8 ダーダネラ ビリー・コットン 1935年
私が大学入学したのは昭和39年、あの頃ダンパが盛んでした。部活の資金稼ぎの為、各部はダンパを催す。パー券をよく買わされましたネ。でも踊れない、先輩に習う、とりあえずブルースとジルバとマンボができさえすりゃ何とか様になる。当時全盛期が終わったとは言え、まだまだダンス・ホール大盛況、それよりずっと昔、私の幼い頃、神戸時代です。私の家に父の弟、叔父が居候してました。
悪弊かどうか分らないがこれも中国の生活文化のひとつなのでしょう。孟嘗君じゃないけれど「食客三千人」と中国人は多くの居候を置く。その居候、つまり食客ですね、食客が多い程その家は富裕と思われていた。
それに千客万来を好む、人の往来が多い程その家は盛える、と言われていた。私の父は旧中国人タイプ、支那人そのもの、悪友が多くて、いつも家に誰かが居ました。
その居候の一人、叔父はダンス気違い、折目のピシッとしたズボンでないといけない。外出の時必ず帽子をかぶる、洒落男なのです。
私もよく手を引かれて三ノ宮のダンス・ホールに行く。当時流れていたのはこの「ダーダネラ」長期にわたって流れていた「ダーダネラ」はダンス・ミュージックのミリオン・セラー、スタンダード・ナンバーと言ってよいでしょう。
昭和一ケタから30年代まで約30年余にわたって流れ続いていたこの「ダーダネラ」は、ビリー・コットン盤とポール・ホワイトマン盤がミリオン・セラーでした。
リズムはフォックストロット、フォックストロットにはスロートクイックの二通りがある。できなければブルースでよろしい。
A-9 メイキン・フーピー エディ・キャンター 1930年
ブロードウェイの名門、ジーグフェルド劇場がある。ここは超一流、ミュージカルも軽劇も出しものも全てが一流。ここの人気者、エンタテインメント、ボードビリアンはエディ・キャンター。歌えて踊れてコミックもできて色んな要素は要求される。
大正の頃の浅草オペラ、昭和のモダニズムは、どうもこれを志向してたんでしょうね。レビューが盛んだったのもその影響。ところがもともと日本にはミュージカル、ダンスの土壌がないブームが去ると閑古鳥、こうして多くは廃館、残るは唯ひとつ宝塚のみ、はっきり言うと、日本にはナイト・ライフがない、カラオケ、居酒屋、風俗があるって、あれってナイト・ライフじゃない。
レストランシアターもナイトクラブもなくなったではないですか。日本では根づかないのです。
日本の夜は酔っぱらうこととスケベエになることしかない。つまり洒落て粋でダンディな夜がない。音楽の伴ったナイト・ライフがない、パリはレビューとシャンソニエの夜、マドリードはフラメンコの夜、アテネはタベルナの夜、ナポリはカンツォーネの夜、ロンドン、ベルリンはミュージック・ホール、これが人々の生活文化になっている。
ところが今の日本、千客万来も拒絶、ナイト・ライフもない、マイホームでミカンをむしゃぶり食い乍ら馬鹿なテレビを見てるだけ、何とも寂しい光景。
このエディ・キャンター、一世を風靡してましてネ、この人のドタバタ喜劇、見ているとエノケンを思い出す。エノケンの芸もエディ・キャンターのパクリかなと思う程、エディ・キャンターは元祖ボードビリアンなのです。
探せば必ずビデオがあるはず、「メイキン・フーピー」は素晴らしい曲、粋でダンディで曲想豊か、流石、アメリカ。アメリカは超大国、密度が濃い、ブロードウェイひとつにしても密度濃い。埋もれたエンタテイナーが無数にある。その層の厚いこと深いこと芸達者も無限に居る。それに比べて、この日本、AKBによしもとなんて何と薄ら寒いことなのでしょう。
A-10 恋人よ我に帰れ ローレンス・ティベット 1929年
これは名歌です。ジャンルを問わず、ポピュラー、ジャズ、声楽家に到るまで色んな歌手が歌っています。いずれも名唱でしてどれを吹込もうかと迷いました。最後に残ったのがジャネット・マクドナルド盤とこのローレンス・ティベット。
ジャネット・マクドナルドは大変な美女、傾城ですね。美男美女が好きで軽妙洒脱なエルンスト・ルビッチ監督、小津安二郎の若き日は、かなり傾倒していましたが、そのルビッチの子飼いジャネットがモーリス・シュバリエとコンビを組んで世紀の美男美女の名画「メリー・ウイドウ」を作りましたね。
夢いっぱいの名画、勿論私が生まれる前のこと。高校時代、神戸でリバイバル放映されて、うっとりドキドキ10代の心はときめき、憧れの女優、釘づけで眺めていました。最近このような雲の上の銀幕のスターなんて居ませんね。
ところがね、一転して、ローレンス・ティベット盤にしました。ほとんど忘れ去られた声楽家これは貴重、貴重、今では稀購盤と言ってよいでしょう。絶唱です、思わず感動しますよ。
B-1 リッツで踊ろう レオ・ライスマン 1930年
実に豪華絢爛、華麗である、リッチである、これがアメリカである。そして何と贅沢、これがアメリカである。アメリカは「ジャズ・シンガー」でトーキー時代に入った、出演したのはアル・ジョンスン。
当時のトップ・シンガーでしてユダヤ人。顔を真っ黒に塗りたくって黒人に扮していました。エディ・キャンター、ジャネット・マクドナルド、モーリス・シュバリエと名を連ねておいてまだ出て来ないのはフレッド・アステアの名。
こうなると金持アメリカの贅沢病ですね。音が出るようになったのでスクリーンはより輝やしく華やかに、こうして1930年代はミュージカルの世紀。
量産、量産といささか食傷気味になるくらい。ミュージカルに大切なのはダンサーと音楽、アメリカのエネルギー、バイタリティーの凄いところはこれ。これでもかこれでもかと量産、輩出。
何のミュージカルか淀川長治氏に聞かなきゃ判らない。そしてここではレス・ライスマン盤ですが、何かの違うミュージカルでフレッド・アステアはこの「リッツで踊ろう」を歌ってましたよネ。もう胸はドキドキ心はワクワク、アメリカにすっかり酔ってしまった。
B-2 二人のカクテル デューク・エリントン 1934年
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースと言えば世紀のダンス・コンビ。「コンチネンタル」に出てました・その時の主題歌が「カクテル・フォー・トゥ」何とデューク・エリントンが演奏している。
ポピュラーもダンス・ミュージックもサロン・ミュージックもやる。固いことは言わないで、その全てがアメリカでしょう。アメリカは本場でしょう。エリントン・サウンドと言えばジャングル・サウンド。
二グロの魂を歌ってるかと思えばかなり知的で洗練された音も奏でる。そして器楽的で頭脳派、もう最高のジャズメンと言って過言ではないでしょう。
この「カクテル・フォ・トゥ」はポピュラーでダンス・ナンバー、非常にサロン的な味を醸し出しています。垢抜けしたデューク・エリントン・サウンドに乗って、踊れなくてもよい、何だかフォクストロットを踊り出したくなる。
大人だったんですね、音楽が大人のものだったんですね。そして紳士淑女の時代、ガキじゃない。これに酔いしれるとロックなんて聞いておれなくなる。
B-3 センチメンタル・ジャーニー ドリス・デイ 1944年
ボン、ボン、ボーン~こちらAFRS=WVTR、こちら進駐軍放送、と流れたのは「センチメンタル・ジャーニー」昭和20年8月15日終戦一か月後進駐軍がド、ド、ドと押し寄せて、すっかり焼き尽くした三ノ宮駅前のそごうデパートの裏、港の入口に当る神戸税関前までは一面の焼野原、ここを占拠して米軍のイーストキャンプ基地を建設。
繁華街のど真ん中なんですよ。焼きつくように鮮明に覚えている。私、まだ幼児だったのに。三ノ宮駅構内は浮浪者の寝倉、阪神三宮駅に通じる地下への階段は物乞いの叫び声に傷痍軍人、三ノ宮のガード下を颯爽と過ぎる米兵のジープ、余りにも鮮やかなコントラストに今も目に焼きついている。
そして目の前は闇市、凄い人ゴミ、雑踏、誠、阿鼻叫喚の巷である。我々台湾人華僑は8月15日までは植民地の日本国籍人、一夜明けると、中華民国籍人、当時蒋介石政権の中華民国は連合軍の一員。だから一夜明けると戦勝国民になっていた。つまりG.H.Q統治下の民族になっていた。
日本人ご法度のP.Xにも自由に出入りできた。日本の官憲に力なし、そして管轄する権限もなし、物資不足のこの頃、P.Xに行けば品も豊富、華僑達はそれを横流しして、たらふく稼ぐ。悪事千万やりたい放題の混乱期。
これ第三国人の暗躍と言う。それ神戸は港があるでしょう。中国も台湾もまるで無政府状態、上海から、香港から、基隆から不法入国者どっと入る。
よく言えば義侠心の強い父、悪く言えば悪友がつき易い「食客三千人」型の父、例えば寧波から流れついた男を呼んで居候させる。母はそれに疲労困憊、悪友の誘いに引っかからないかとヒヤヒヤして過す。華僑社会と手を切って、どうか華僑の一人も居ない田舎へそう母の決断で昭和28年秋、山口に引越した。
当時、神戸港は無法地帯、港ではニコヨン、日雇い労務者、荷役人がいっぱい居た。その手配をするのが山口組、こうして巨大な暴力団となった。麻薬の密売も大っぴら、三宮駅より東側、脇ノ浜までが一大スラム街、国際マーケットなんて称されて、ここだけは出入りするな、と言われた程の悪の巣窟でした。
「センチメンタル・ジャーニー」を聞くとまるでフラッシュバック、次から次へと思い出される。そして闇市で流れた笠置シヅ子のブギと混然一体となって思い浮べる。
一方、粋な進駐軍にセーラー服姿の水兵さんにマドロスさん、神戸はピンからキリまで日本であって日本でないまるで小上海、租界地のようでした。
昭和20年代の神戸はバタ臭さ一色。あれから60有余年の神戸、長い平和で大人しくなった。モダン・ハイカラも神戸の専売特許でなくなった。
船の時代も終わってしまった。港はコンテナ化されて、労務者も激減、船乗り、マドロスさんも白人が居なくなって、ほとんどフィリピンかインドネシア人、米兵相手の外人バーもなくなった。一方、高級感漂ようナイトクラブもライヴの店もない。舶来の匂いがする神戸、洋行帰りの匂いがする神戸はどこに行ったのでしょうか。時は変遷、寂しくもある。
B-4 オン・ナ・スローボート・トゥ・チャイナ ベニー・グッドマン 1947年
未来永劫、変わらない風景なんてない、山河だって人の手で開発、破壊される。昨日まで広い田んぼが巨大なショッピングセンターに変ず、歩いていた人々のいでたち、ファッションも一変する。時の流れが我々を浦島太郎にさせる。昨日の若人、今日老人。
“年年歳歳花相に似たり、歳歳年年人同じからず” 70を目の前にすると何だか身に沁み身にこたえる。60代前半までは感じなかった感情、ひたひたと押し寄せる年波、60代前半までは、今までの延長線だと思っていたが65歳を過ぎると一変、65歳からは高齢者、本当にそうです。
少しづつ少しづつ老人の心境に近づく、老人になったんだと自覚する。すると変ですね長く数十年も眠っていた記憶が甦える。例えば、この「オン・ナ・スローボート・トゥ・チャイナ」を聞くと懐かしくなる。
「焼跡、闇市、進駐軍の時代」も神戸を思い出す。これ、ベニー・グッドマンなんですよ。ミリオン・セラーを放ったのは、ケイ・カイザーだったかな?ベニー・グッドマンともあろう人が時のヒット・ナンバーを演奏する。
でもザラにあるのです。シャンソン、ラテンまでもジャズにしてしまう。ビル・エバンスの「枯葉」も素敵でしょ。サンバの「イパネマの娘」もジャズにしてしまう、それでいいのでは、素材よければ、全てジャズになる。
B-5 十二番街ラグ ピー・ウィー・ハント 1948年
ラグタイムだって一時すっかり忘れられたり、ふと忘れた時に思い出される。そんなことが終戦直後
「十二番街ラグ」が大ヒットした。カウント・ベイシーがやってたのを聞いたことがあります。アメリカでは競演し合って競い合っている。だから眠ったまま、そのまま埋もれてしまったものも多くあるはず。
B-6 テネシー・ワルツ パティ・ペイジ 1950年
B-7 チェンジング・パートナーズ パティ・ペイジ 1950年
マーキュリーレコードの一枚看板と言えばパティ・ペイジ。これは日本人にも好かれましたよネ。少しでも洋楽に興味ある人、そんな家なら、どこもビング・クロスビーのレコードとパティ・ペイジのレコードはありました。
そしてレコードがSPからLP時代に変った時、一斉に買い求められたのがパティ・ペイジのレコード。ロング・セラーなのです。
永遠のスタンダード・ナンバーと言ってよいでしょう。パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」が世界中をかけ回った超ビッグ・ヒット。お蔭で今テネシー州の州歌となっている。そして昭和27年江利チエミがこれを歌ってデビューヒット。15歳の少女でした。
私は「チェンジング・パートナーズ」が大好きでした。やはり幼児の頃でした。SPレコードは鉄針でしょう。かければかける程すぐすり減る。それに簡単に壊れてしまう。
私は好きで好きで何度もかけ直す。するとすり減って雑音ばかりになる。母に頼んでは5、6回は買い換えたでしょうか私、幼い頃からそんな子だったのです。
でも通俗音楽、大衆音楽の耳、感受性なのでしょう、一番凝ったのはタンゴ。クラシックはそれ程聞き込んでません。軽く全体をさらった程度です。
B-8 陽炎もえて カルア・カマアイナス 1941年 朝吹英一作詞作曲
戦時中、こんな爽やかなバンドがあったのです。それはカルア・カマアイナスです。メンバーを紹介しましょう。朝吹英一(リーダー、スティールギター、ヴィヴラフォン)明治42年生れ、東郷安正(ベース)大正4年生れ、朝比奈愛三(ギター)(雪村いづみ父君)明治43年生れ、村上徳(スティールギター)大正2年生れ、原田敬策(ウクレレ)大正8年生れ、芸小路豊和(唄・ギター)大正9年生れ、牧原芳枝(唄)。
昭和16年の年齢、朝吹32歳、東郷26歳、朝比奈31歳、村上28歳、原田22歳、芸小路21歳。皆さん当時青年、全員職業を持ってるか大学生である。つまりアマとプロの中間。昭和18年まで3年弱、活躍したのは、録音したのは全20曲、内発売されたのは半分のみ。
残りは発売中止、軍部の圧力に依ってである。長い間幻のレコードでしたが昭和60年全20曲復刻のレコード発売、私はすぐ買いました。ハワイアンを基調にカルア自身のサウンドを模索していたのでしょう。
全体的に言うと軽音楽のグループ。大学出の匂いがして、全員毛並みのよいお坊ちゃん、それだけにサウンドは爽やかに清々しくかつアカデミック。
しかしデビューした時代が悪い、戦争の世紀で徴兵に怯え、おまけに敵性音楽のハワイアンを歌い軍部からことごとく、にらまれ思う存分活躍できない。しかし技量は確か、これ程気持ち良い青春讃歌はない。
大学のサークルの匂いがし一方プロ的技量、技術を持っている。こんな清冽な音楽はあるだろうかと思って私は大感動する。それに当時21歳の芸小路君の歌、実に清潔感溢れて清き青年の樹、こんな颯爽とした若者の姿、今の世にあるだろうか。不運にも軍靴に踏みにじられた。胸が痛む思いである。
B-9 愉快なカマアイナ カルア・カマアイナス&コロムビア、リズム・シスターズ
西城八十作詞 ハワイ曲 昭和16年
西城八十の作詞が実に美しい、カルアのレパートリーの内7割は主に朝吹英一の作曲、残り二割が東郷、一曲が村上。どれもこれも佳曲で殊に「陽炎もえて」は秀作、名曲と言いたい。
これを秘曲として眠らせるのは勿体ない。洋楽にも劣らないこの洋楽的センスと光り輝く才能、戦前の、然も昭和16年のこの時点にこれだけの境地に達していたのである。
こうして軍部に踏みにじられ、才能ある芽は惜しまれることなく摘み取られたのである。どれだけの人が戦争に依って消されたであろうか。考えてみると我々の親の世代である。長い人類の営み、歴史から見てみると例え昭和20年代の世代が「戦争を知らない子供達」であろうとも、ほんの紙一重、隣り合せである。
然も全員、昭和20~29年まで、60代来年私は70代になる。考えます。遠く去った若かりし日、「若い」とはこんなに美しくて、爽やか、清らか、カルア・カマアイナスを聞いて思い知らされる。
私は感動又感動で貴重なカルア・カマアイナスのレコード何度も針を入れてとうとう傷つけてしまった。それで飛んでる箇所がある。御諒承の程を。アナログ人間の私はCDよりレコードの方が好き、面倒でも針音を入れる。この所作が快感なのです。

昭和3年以前、大正時代はアコースティック録音でした。タンゴはマニア音楽、熱心に発掘されて陽の目に当たっている。ところで日本の場合はひどい。発掘されても保存状態が悪く、使いものにならない。これは映画でも同じ、チャップリンのサイレント映画でも保存はよい。日本の場合ほとんど散逸されてしまったのか消失してしまったかである。
これは当時、日本は遥かに後進国、アルゼンチンにも劣る、まだ西洋を師として学ぶ段階、自国のものを不当に軽視していた。文化水準のレベルを計る意味で面白い。
大正と言えばほとんどレコードなんて普及されていない。一般には辻音楽師や演歌師がバイオリンを片手にギーコギーコ書生節を講釈したり、こうしてはやり唄を作った。また西洋音階に関しては不理解、庶民が歌うのは浪花節か小唄、長唄、端唄等の邦楽。しかし明治の鹿鳴館時代から確実に変わってきた。
特権者階級のものから少しづつ庶民のものへと裾野を広げていった。人々の意識も変化、これが大正デモクラシー。
第一次世界大戦は欧州は大きな痛手、しかし遥かに遠い日本は戦争に巻きこまれることなく無傷の形で戦勝国となり好景気。着々と国作りが進み近代日本の礎が固まる。演劇運動に浅草オペラ、活動写真と享楽文化も花開いた。
しかし関東大震災、世界大恐慌に見まわれ、挫折したかに見えたが一旦火の手がついた近代化の波、ラジオ放送開始、レコードの電気録音化と続き昭和はモダニズム旋風で幕明けした。
戦前を語る場合、常に戦争のことを引き出される。それは昭和12年以後、昭和一ケタはモボ・モガ、エログロ・ナンセンスと言われかなり自由でした。この時代の空気の中で時代を謳歌していたのは明治、大正一ケタのモダニスト。
流行歌の世界もそれを追うかの如く、かなりエロっぽくきわどい。大衆心理を伸び伸び表現している。欧米から学ぶ処多し、その学習期間、映画はサイレントからトーキーへ。ジャズ、タンゴ、シャンソンのヒット曲も多く取り入れられる。
ダンス・ホール、カフェの全盛時代、宝塚にSKDとレビューの華、銀座、浅草、大阪に道頓堀、神戸の新開地の赤い灯青い灯、軍国日本に暴走する前のモダーン日本、歌も自由闊達でした。
A-1 復活唱歌(カチューシャの歌) 島村抱月・相馬御風作詞 中山晋平作曲 松井須磨子 大正3年
古い、実に古い、古すぎて済みません。これが無修正のアコースティック録音からの復刻盤。歴史と思って聞いて下さい。大正7年頃、「命短し(ゴンドラの唄)」と同時期のもの。
中山晋平作曲と思います、当時、演劇が盛ん、トルストイの「復活」が帝劇で上演された。その時の大スターが松井須磨子。島根県浜田市出身の作家、島村抱月と熱烈な恋に落ちる。
今のようにさして障害もなく男と女は簡単に引っつける。昔は大変なこと。だから情念の火に燃え上げて恋は命懸けとなる。
A-2 金色夜叉 塩原秋峰 宮島郁芳作詞 後藤紫雲作曲 大正7年
金に目がくらんだお富、熱海の海岸で寛一は宮を足蹴りする。有名な尾崎紅葉の「金色夜叉」であります。これも年中恒例で新派で上演され、再三再四映画化されて広くこの物語は知られている。
しかし40代から、それ以下は知らないのが当り前、もう年代差と言うより、日本人じゃないって気がします。
A-3 船頭小唄 鳥取春陽 野口雨情作詞 中山晋平作曲 大正12年
鳥取春陽も塩原秋峰も石田一松も当時人気の演歌師、だからレコード化されたのであろう。
当時レコードは高価な代物、なのに壊れ易い。蓄音機は更に高額、普通庶民の手に届かない。じゃどのようにしてはやり歌が流行したかと言えば演歌師がバイオリン片手にギーコギーコ奏でて辻から辻へと、これが広まって、活動写真館で映画の幕間で弁士が一節唸る。こうして地方にも歌が広がる。
A-4 籠の鳥 歌川八重子 千野かほる作詞 鳥取春陽作曲 大正13年
昔は女郎に売られる、家の犠牲になる。男の出世の為、女は日蔭者になる。厳しい男尊女卑に身分制度、それで哀史は日常茶飯事にある。虐げられた女は涙す。
メロドラマに紅涙する、演歌になる。これが貧しき頃の日本、更にこれが日本の土壌となる。歌川八重子はサイレント時代の女優。多分映画化されたのであろう。歌川八重子の口上が何とも古くさい。多分弁士もこうだったのだろう。観客はこれで拍手喝采。
A-5 ストトン節 鳥取春陽 添田さつき作詞 添田さつき作曲 大正13年
この頃の歌は浪曲調、民謡風、別に音楽がどうの、芸術がどうの、ってことはない。庶民に受けるとなるとどうしてもやや稚拙、でも何か可愛らしい愛くるしいですよね。
ジャズもタンゴも、世界のどの国の歌、全て稚拙から出発、それが発展して、次第に音楽的に向上する。アコースティックのものを聞くのはこの歴史の耳で聞くこと。
A-6 のんき節 石田一松 添田唖蝉坊作詞 添田唖蝉坊作曲 大正12年
多少おふざけがあって当たり前、そして春歌も氾濫してたでしょう。酒の場で芸者あげてドンチャン騒ぎ、酒池肉林である。これがバンカラ気風でもある。
日頃のうっぷんを晴らして、春歌も声高に放歌高吟、一方演歌師を通して演説、講釈よく分りもしないのに市民人権運動などデモクラシーと言ってやがる。これが男子漢、蛮勇、悲憤慷慨、口角泡を飛ばす。早稲田大学にこの頃の大隈講堂が残っている。東大にも安田講堂がある。書生が台上にあがって一説ぶつ。
建国の志に青雲の志、神田駿河台にはこのような書生さん達が闊歩して肩で風切る。角帽、黒マント、高下駄、腰に汚れタオルぶら下げて手には一升瓶。
こうして大正時代は比較的明るく自由な気質の中で能天気に庶民は暮していた。しかし関東大震災に依って世は一変ひたひたと押し寄せる軍靴の音、こうして大正は終り昭和がはじまりました。
A-7 アラビアの唄 二村定一 堀内敬三訳詩 外国曲 昭和3年
A-8 青空 二村定一 堀内敬三訳詩 外国曲 昭和3年
今から90年近く前、電気録音開始、ヒット曲第一号輝ける第一声である。新曲誕生、これに依ってレコード産業大始動、流行歌時代の幕明けである。
但し二曲共にアメリカ産、訳詩は堀内敬三氏、堀内は今も日本橋にある浅田飴本舗の子息、ミシガン、ボストンの工科大学に進みマスター・オブ・サイエンスの学位を得る。専門の工学の道へも進まず稼業も継がず、好きな音楽の道へ進んだ。
戦後一時期NHKラジオの「音楽の泉」を担当、テレビ創成記、「私の秘密」等にゲスト出演してたので私は名とお顔と名声は知ってた。兎に角、超エリート、~砂漠に日が落ちて夜となる頃~狭い乍らも楽しい我が家、と訳詩の名文句広く人々に膾灸されて、当時蓄音機は高額商品、それ程普及してないのに台数以上にレコードは売れに売れ、幸先よいレコード産業のスタートを切った。
「アラビアの唄」は本国アメリカではヒットしてないが「青空」は「マイ・ブルー・ヘブン」と言う題でジーン・オースチン盤が大ヒット、一枚のレコードA面B面で発売され、二曲共に大ヒット。
二村定一は浅草オペラ出身の人気スター、長い顔に太い鼻、それでシラノ・ド・ベルジュラックから名付けてベーさんと愛称されました。
シラノ・ド・ベルジュラックを既に知っているとは、大正ロマンに引き続いて昭和モダニズム当時のハイカラ趣味を思い出される。芝居や演劇活動、文学を通じて当時翻訳劇が今より盛んでした。
千田是也、東山千栄子、長岡輝子、杉村春子、滝沢修、宇野重吉と続いた新劇の系譜それが森雅之、岡田英次、木村功、奈良岡朋子、千石規子と継き続きましたが、世間や大衆から知的願望がなくなり今演劇界はどうなのでしょうか。
二村は下関出身、我らがテナーの藤原義江、田中絹代、木暮実千代も下関の人。林芙美子も下関に長逗留。
日本に今のような市政が誕生したのは明治22年、その時第一号の市に入っているのは下関。名古屋、神戸は勿論のこと三重県津市も市政第一号。
ちなみに参考までに四日市、明治30年、豊橋明治39年伊勢明治39年岡崎大正5年一宮大正10年、山口は昭和4年、瀬戸も同じ。松阪昭和8年半田昭和12年。
今の豊田市、挙母は昭和26年市政。下関は源平合戦の昔から壇ノ浦は有名、北前船の渡航地として盛え明治以来港町として繁栄、関釜連絡船が出入りし大陸の玄関口。
捕鯨船基地でもありフグの水揚げ日本一そして最盛期、球団大洋ホエールズが在った。対岸の門司と共に我が世の春を謳歌、関門海峡は意外と風光明媚、宮本武蔵、佐々木小次郎の巌流島の対決もこの場に在る。
まだある乃木大将、東郷平八郎の生地、高杉晋作と奇兵隊、日清条約の為、清国全権大使李鴻章が来日して下関で調印。これが有名な下関条約、日清談判である。そして台湾が日本に割譲される。
そしてまだある、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著で知られるようになった琵琶法師耳無し芳一の話し等々名勝旧跡多し。しかし今は祭の後の後の静けさに似て、下関は斜陽の風に吹き荒らされて泣いています。
A-9 君恋し 二村定一 時雨音羽作詞 佐々紅華作曲 昭和4年
時雨音羽は元大蔵省官僚、佐々紅華は浅草オペラ界で活躍、レコード産業始動は大成功。しかし新しいレコードに依る日本産のヒット曲がない。このことが当面の緊急課題。外資系のビクター、コロムビアは大奮闘、作詞、作曲家、歌手の専属化、新曲作りに専念する。
一歩先んじて居たのはビクター。日本産の第一号ヒット曲はこの「君恋し」、時代はモダニズム旋風が吹き荒れていた。ネオンまたたく夜の巷、モボ・モガが闊歩する銀座、新風俗に酔ってた。と言うもののそれは流行の世界のこと、一般社会は 不景気と失業者、都市化の裏で田舎は苦しんでいる。
何だか平成のよう。殊に東北はひどい、まだ日本は工業国としては未熟、農業国であった。仕事はない、気候に左右される。一旦冷害に襲われると犠牲となるには農家の娘、身売りされる。
享楽文化に湧き上がるモダーン日本の都東京、娘達は赤い灯青い灯に吸われる。新しく登場したカフェそこで働く女給さん、髪に飾した花飾りにエプロン姿、夜の巷の新しいモードである。
この「君恋し」は大ヒットである。フォクストロットのリズムに合わせてステップを踏む、当時興隆したダンス・ホール、流行の世界はモダーン日本を煽る。
戦後昭和35年頃フランク永井が歌ってリバイバル・ヒットさせた。しかし「君恋し」は昭和4年、二村定一が歌った、これがオリジナル盤であった。
A-10 東京行進曲 佐藤千夜子 西城八十作詞 中山晋平作曲 昭和4年
中山晋平は大正時代から大活躍して居た大御所。流行歌から童謡に至るまで広く手がけて居た。
佐藤千夜子は東京芸大卒の全くの新人。昭和3年「波浮の港」を歌って大ヒットさせたがこれは大正に作られた曲で新曲ではない。
二村定一は既に浅草オペラの人気スター依って全くの新人ではない。レコード会社が生んで育てた第一号のレコード歌手新人はとなると佐藤千夜子になる。
ジャズで踊って、リキュールで更けて、丸ビル、地下鉄、ラッシュアワー、小田急、と東京の当時の新風俗新風景をフンダンに歌詞の中は散ばめられている。関東大震災で大打撃を蒙った。
しかし復興は早かった。ラジオ放送開始、地下鉄開通、小田急新架敷、杉並、世田谷方面に宅地造成、雑木林の続く関東シラス台地の多摩地方も急ピッチで開発される。
東京は首都機能も充実し更に広く大きく拡大した。その花の都東京の讃歌がこれ「東京行進曲」である。大ヒットして全国津々浦々に知られる。
ジャズって何?リキュールって何?ラッシュアワーって何?地下鉄にデパートに小田急も知らない地方の人々、歌は世につれじゃないけれど世は歌につれ、歌に依って世も引っ張られた。
レコード、流行歌、ヒット曲は新風俗を生み新しい生活スタイル、価値観を生んで、今迄とは違った形で社会が動きはじめた。その力が新しい文明の利器レコードである。
そして初期の揺籃期は今の馬鹿な芸能人、タレント、お笑い芸人、可愛い娘ちゃんと違って各界の知識人、これが束になって新風俗を創造する。これが知の力であり痴の力であるのです。
A-11 女給の唄 羽衣歌子 西城八十作詞 塩尻精八作曲 昭和6年
造花を指して耳かくしのヘヤースタイル、そして白いエプロン姿と言うのが当時流行の女給スタイル。私が子供の頃、バーの貼紙は麗人求ム、旅館は女中入用、それに住込店員募集なんて書かれて居ました。
不動産は斡旋屋、人材派遣所は斡旋所、ニコヨン、人足、番頭さん、丁稚、ご用聞きなんて死語になりました。ダンス・ホールで踊ってよいようにフォックストロットのリズム、昭和3、4、5、6年、レコード揺籃期はほとんどモダーン歌謡、まだ演歌でない。流行歌は演歌よりじゃないのです。
モダーン日本を志向してたのですがまだどこかで稚拙、そうでしょう、西洋音階、洋楽をまだ学習する期間、それが日本的土壌と結合して演歌になるまではもう少し時間を要した。
それも何よりも当時はモダーン志向、エーこれがモダーンなの?と思うでしょう。今の我々の耳からしてみると古い音色、楽器もどこか未熟、演奏も何か裏ぶれたサーカス小屋みたい。
でもこれが時代の音色、私にはこれが面白い。発達段階を知る歴史的な音色です。~わたしゃ夜咲く酒場に花よ、から歌い出して、三番は弱い女を騙して棄ててそれがはかない男の手柄、と何やら強くはないが女の怨みがこもって、後年の情念の炎燃やす演歌の芽が出ている。
つまり演歌は男尊女卑から出発してる。モダーン歌謡を志向し乍ら演歌に育つ。これが日本の土壌である。
B-1 道頓堀行進曲 内海一郎 日比繁次郎作詞 塩尻精八作曲 昭和3年
関東大震災で東京、横浜は荒廃、一時人口が減少する。折しも海の時代、大陸の方に目を向けていた。工業都市も西日本から発達、その富を集積する位置関係にあった大阪が江戸時代から引き継いで経済都市として大繁栄し日本一の人口を誇る大都会に成長した。
この時同じく、神戸も大阪東京に次いで日本第三位の都市となった。この時新宿、渋谷、池袋は東京でなく郡部。豊多摩郡内藤新宿町、渋谷町、北豊島郡巣鴨村大字池袋、荏原郡品川町と言ってた。
東京市は今の山の手線内、巨大ターミナルとなった新宿、渋谷、池袋は私鉄の拠点、つまりそこは町と田舎の境界線新宿、渋谷、池袋、品川、世田谷、王子、小岩、足立は東京になったのは昭和8年の大合併より。
一方大阪は今も昔も余り広く合併してなく面積は東京の1/3横浜の1/3名古屋の1/2である。神戸は六甲山系が海に狭って土地空間なし、戦前より既に満パイ飽和状態。大阪平野も濃尾平野の1/3しかない。ここに関西圏の限界がある。
東京は官の力大阪は私の力、国家資本は主に首都に投じられるから当然東京一極集中になる。経済力も東京に取られたが大阪の豊かさは今も変わりなく,沈滞したとは言えバイタリティーを秘めている。
大阪の道頓堀、心斎橋、千日前は今も繁華、塩尻精八は道頓堀の松竹座の主幹をしていた。大阪の服部良一、佐賀の松平晃、山口の松島詩子は当初大阪資本のニットーレコードに所属してた。
このニットーレコード、ドイツ系資本のポリドール進出に依って昭和5年吸収合併される。~赤い灯青い灯、の道頓堀、今も賑わっているが映画、芝居興行街の衰退によって映画館芝居小屋は減少し今も変らないのは“食いだおれ”の大阪、しかしよしもと興行は今も千日前にて健在である。
B-2 黒い瞳よ今いづこ 天野喜久代 堀内敬三作詞作曲 昭和4年
堀内敬三氏の作詞作曲、これは日本人がはじめて自ら作ったジャズ・ソングと言ってよいだろう。当時としてはかなりモダーンな曲調、学生、ホワイトカラー層にかなり愛唱されたと言う。
今の我々の耳には昔風のメロディーに感じますが80余年も昔のこと、そのことを間引いて認識すべきだろう。学生とホワイトカラーも、80余年昔と今とはかなり違う、学制も違う。
六、三、三制は戦後のこと、戦前の学制は複雑、旧制中学と言えば今の高校にあたる。高等専門学校と言えば今の大学。神戸高等商業学校と言えば神戸高商、今の神戸大学である。神戸外国語専門学校と言えば神戸外大、神戸高等商船学校は神戸商船大学、今の医学部は医学専門学校、法学部は法律専門学校、師範は教育学部、小学校の教員とそれ以上の教職の道は異なる、つまり大学と言えば旧帝大レベル、一高と言えば今の日比谷高校、東京帝大(東大)へ入る予備校と思えばよい。
学校差が明確、エリートコースは最初から決められていた。戦後旧制高校が全て大学に昇格、一県に一国立大学を置かれた。それでどっと大学が増え、大学生の平民化、これを皮肉って大宅壮一は駅弁大学と言った。
大宅壮一は新造語、新スローガンの達人。テレビの普及を皮肉って“一億総白痴化”と言った。事実今のテレビを見ても本当に馬鹿みたい。ホワイトカラーもそう、背広を着て会社に出勤なんて大手の会社のみ、サラリーマンなんて憧れの的、丸の内の大手会社何て庶民のものでない。今でこそ商店主まで社長と言ってるが昭和30年代までは親爺、大将なんて呼んで居た。全て平民化された今、と身分が明解だった昔とは、大きく違いがあると認識すべきでしょう。
となると芸能界も今と昔は違う、演劇畑から出身の俳優と単なる人気スターも又異なる。例えば杉村春子と田中絹代、世間の目は違う。幾ら人気あっても河原乞食、松平晃が某女優と結婚し離婚したとなれば身分違い、こんなスキャンダルを生めば人気が失落する、そんな時代でした。
車もゴルフも登山も当時は平民のものではない。こうしてみると流行歌なんて当時俗悪なもの。
そんな認識が今も残っている。流行歌は下品で洋楽は上品と思う、あり方。その流行歌にも差がある。ド庶民の好むものと学生層、ホワイトカラーに好まれるものとは違う。
流行歌に限ってみると長い年月で自然淘汰されるのにド庶民の好む流行歌がよく知られ残って、上質な流行歌はそのまま忘れ去り、知る人ぞ知る、好事家の間でのみ知られる秘曲になる。
つまり、これがマニアの世界となる。タンゴはマニアの世界、しかし東京は玉石混淆、人口が多いってことで一握りの好事家、マニアの人口数も多い。東京には流行歌マニアの世界もあるのです。
又サイレント映画マニアの世界もあるのです。恐る可きは東京、何でもありの東京、東京は一面享楽の都である。これが東京の魅力のひとつでしょう。天野喜久代は浅草オペラ出身、素晴らしいメゾ・ソプラノである。
まだレコード初期、一つの曲多くの人に歌わせていた、競演である。この天野盤が一番よい。これは秘曲である。当時のモダニズムを楽しんでみて下さい。
B-3 蒲田行進曲 川崎豊、曽我直子 堀内敬三訳詩 外国曲 昭和4年
昭和の初期、蒲田は荏原郡蒲田村と言って田舎でした。宅地造成の波がヒタヒタと押し寄せ乍らも田んぼがまだ沢山残っていました。ここに松竹蒲田撮影所がりました。まだサイレントの時代でした。
松坂慶子、風間杜夫出演の「蒲田行進曲」見ましたか?その映画に流れた曲がこれです。
松竹の宣伝の為にこの曲、実はオリジナル盤はアメリカの「放浪者の唄」である。川崎豊は声楽家何だろうか、堂々とした歌いっぷり、声量豊かである。この頃の映画はサイレント、小津安二郎の作品を見たがどれも名品。笠智衆、斎藤達雄、坂本武、飯田蝶子、と懐かしい顔ぶれ。松竹の好みなのか小津の好みなのか?美男美女が好きなようです。
B-4 麗人の唄 河原喜久恵 サトウ・ハチロー作詞 堀内敬三作曲 昭和5年
又堀内敬三の曲である。この歌の「麗人」とは女流歌人の柳原白蓮、事実とは少し異なって脚色されて小説化、それを映画化、その主題歌です。
“~つい騙された恋心、綺麗な男にゃ罠がある、綺麗なバラにはトゲがある。知ってしまえばそれまでよ。知らないうちが花なのよ“と何とおぞましい、怨念がこもって居る。
これが日本の当時の厳しい男尊女卑の風土と溶け合って演歌となる。ある種戦慄を感じる、日本的官能エロティズムである。情念の火、なすな恋の猟奇と妖しさの世界、何やら怪談とも通じる。
モダーン歌謡で作ったものが日本の土壌と溶け合って演歌となってしまった。モボ・モガ、エログロ・ナンセンスとはよく言った。昭和一ケタはその後すぐ来る軍国の世と比べて、かなり自由、何だかエロチックで妖気に溢れている。
私は興味津々、この世相を生んだ社会的背景、そしてモダーンを志向する目等々この時代は面白い、誠にエキセントリック。
B-5 すみれの花咲く頃 宝塚月組 白井鉄造訳詞 外国曲 昭和5年
モボ・モガの時代はレビューが飾った。レビューは都会の華である。東京有楽町の日劇、浅草のSKD、大阪千日前の大劇(OSK)、そしてこの宝塚である。
今残っているのは唯一宝塚のみ。私の幼少期の神戸時代は宝塚っ子でした。焼跡、闇市、テレビのない時代の子にとって宝塚は夢のお城でをした。
温泉あり遊園地あり動物園あり、そして華やかなレビューの大劇場、それはそれは阪神間の子供にとっては一日中家族揃って楽しめる夢のパラダイスでした。出しものが変る度に親に連れて行ったように記憶している。
宝塚はスターではない、宝塚音楽学校の生徒さんである。全寮制でみっちり仕込まれ、晴れて舞台に出ることができる。
つまり舞台は生徒さんの発表の場、はじめての舞台、制服の緑の袴を着て新人公演で整列、「すみれの花咲く頃」を歌う、そして恒例のライン・ダンスである。「すみれの花咲く頃」はもと、オーストリアの歌。フランスに渡ってシャンソンとなる。
シャンソンは「リラの花咲く頃」となっている。それを白井鉄造が持って帰った。パリはレビューの都、宝塚は多くそこから学び取った。つまり宝塚はシャンソン普及に大いに貢献した。月組、花組、雪組とあって、このレコードは月組の生徒さんが歌っている。台詞は棒読みだが天津乙女だと思われる。
B-6 ニッポン娘 バートン・クレーン 森岩雄訳詩 外国曲 昭和6年
バートン・クレーンは英字紙の記者。コロムビアのスタジオに出入りし酒の場の余興で悪ふざけで歌っていたところそれが受けてレコード録音するようになった。この原曲は「ヒンキー・ディンキー・パーレ・ブー」で第一次世界大戦の後、米兵に盛んに歌われていたそうです。
バートン・クレーンの歌声を聞いていると駄洒落れソングなのですが何かとっても素晴らしい。爽快で聞いてて気持ちよい。おふざけなんだけれどインテリジェンスを感じる。
B-7 並木の雨 ミス・コロンビア 高橋掬太朗作詞 原野為二作曲 昭和9年
何か竹久夢二の美人画でも見ているような美しい曲であります。当時の女性として歌謡界最大の美声歌手が、ミス・コロムビアと二葉あき子。この二人は共に東京芸大卒、うっとりするような美声で上品さが漂よう。
このような歌手、今は全然居ない。女性に対する美意識が異なったからでしょう。このような品性と恥らいと慎ましさを含んだ乙女の匂いを漂よわす歌手が本当に居ない。優雅はさて置いてほとんど現在の歌手あらわである。美意識、価値観が違うので仕方ないと思いますが。
どこの人やら傘さして、なんてこの一言の歌詞、何とも悩ましくて女っぽい、然も上品である。
高橋掬太郎の詩が恥らいを帯びた切ない女心、美人画の世界じゃなくて何んなんでしょう。どう表現したらよいのでしょうか。この古風さ、この抒情、たまらない魅力ですね。又曲調が素晴らしい。
タンゴであるが、洋風でなく和風の慎ましさ。実に素晴らしい感性。原田為二とは、ハラノタメニ(カマヲコシラエヨウ)と幾分ふざけた芸名、池田不二男である。
佐賀の旧制中学では松平晃と同級生、国立音大に進む。池田=松平のコンビに「花言葉の唄」のヒット曲がある。実は私、池田の曲が大好きです。曲、詩、歌手と三拍子揃って名曲名演と言えます。
B-8 王様の馬 奥田良三 西城八十作詞 作曲者不明 昭和9年
奥田良三も又東京音楽学校(現東京芸大)卒、渡欧してイタリアやドイツへ留学。ビクターの藤原義江に対して奥田はポリドール専属。「城ヶ島の雨」「叱られて」「昼の夢」「からたちの花」「この道」をヒットさせた。
「お菓子と娘」を最初にレコーディングさせたのも彼である。西城八十は純粋詩人でもあり流行歌の詩人であり童謡詞も多く書いている。つまり楽壇と文壇の重鎮である。その二人の重鎮の共演である。
この「王様の馬」は私の大好きな曲。とてもメルヘン豊かな詩心に溢れ曲も素晴らしい。格調高く気品ある曲。
王様の馬の首の鈴、
チンカラカンと鳴きわたる
陽は暖かに風もなく
七つの峠が晴れわたる
山の麓の七村は、青亜麻(あおぬめごま)の花咲けど
人に別れた若者は今日も今日とてすすり泣く
奥田の絶唱である。それに秘曲中の秘曲、作曲者不明、編曲は山田栄一である。ひょっとして外国の曲かも知れない、森繫久彌の東宝の社長シリーズの中のひとつ、その中のシーンで森繁、この曲を歌っていました。
恐らく彼の愛唱歌なのでしょう。いつもヌーボーとして、ひょうきんな森繫、ひょんなことで知性がこぼれる。この人は相当のインテリなんでしょう。稀有な存在でした。
このような重鎮と呼べる人材、今の日本、今の60代から居なくなりました。
B-9 美しき天然 奥田良三 武島羽衣作詞 田中穂積作曲 昭和5年
この曲は明治の頃に作られたものです。この曲が流れると我々は連鎖反応的にサーカスを思い浮べる。私が子供の頃、神戸の新開地に常設のサーカス小屋のテントに、“親の因果か子に移り”とかの客呼び寄せの口上で、神戸では人間ポンプなんて言われていました。
電球を喰らう男、火を吹く男、蛇と戯れる女、大男に小人、盛んな呼び寄せの口上等々、幾分怪奇趣味漂よう猟奇の場所でした。湊川新開地と言えば東京で言う浅草のような所。映画館、芝居小屋、寄席、落語の溜る興行街。すぐ隣りに福原遊郭があった。
どん詰りが湊川公園、浮浪者の溜り場。毎日大道芸人や口上師が集まる。今は一掃されて、遊興の巷はさびれ、映画館も廃館。猟奇の場もなくなりシーンと静まりかえって居る。「美しき天然」を聞くと、私は遠く60数年前の新開地を思い出すのです。


昭和20年代の神戸は一面焼野原、瓦礫の山でした。100万あった人口が30万台に激減、三宮と新開地の市街地のど真ん中に米軍キャンプがあって進駐軍がうようよ、それに混じってセーラー服姿の水兵さん達も闊歩してまるで租界地のようでした。
福原遊郭は平清盛が一時遷都した所。この時今の兵庫港は大輪田泊と言われた。開港場はその兵庫に隣接する神戸村。今の元町三宮一帯である、に設けられた。
B-10 ダイナ ディック・ミネ 三根耕一訳詩 外国曲 昭和9年
戦前はダイナが一世を風靡した、同じ頃、中野忠晴とコロムビア、ナカノ・リズム・ボーイズでも歌って、ミルス・ブラザース並の名唱を放ったが、ホームラン級のビッグ・ヒットを放ったのはディック盤である。
幾分、不良の匂いのするディックの方がジャズが似合ってて、中野忠晴はビング・クロスビーのようにアット・ホーム・ソングの方が似合っているようだ。いずれにしろ多くの人が競演した「ダイナ」はディックの方に軍配があがった。
これはディックのデビューヒット。ビッグ・ヒット故、この一曲でディックは大物歌手にのし上がり以降順風満帆。ディックにしろ東海林太郎にしろ、いずれも昭和9年のビッグ・ヒット「ダイナ」と「赤城の子守唄」を当てたが、それまでの流行歌手のほとんどは音楽学校出身、それに切り込んで来る形で以後、音楽学校出身であることが絶対でなくなった、但し昭和12年以前までにデビューした歌手はほとんど大学卒業でした。
時代逆上るにつれプロとアマの境界線が厳しい。昭和10年代半ば以後、そんな条件取り払われ、流し出身でも歌が上手ければよいになった。
三根耕一とはディックの本名、彼は自分の歌った外国曲の多くは自ら訳詩した。中野忠晴もそうでした。昔の人は偉いですね、文才も秀れている。

「ジャズ・シンガー」「モロッコ」「巴里の屋根の下」「会議は踊る」等々、洋画は昭和4、5年よりトーキー化、邦画は約3―5年遅れ、それに依って洋楽のヒット曲がどっと入り、日本でもほとんど欧米と同時にリアルタイムでヒットする時代に入った。
この時の日本人の舶来音楽に対する情熱は凄いもの、忽ち吸収、摂取、洋楽ファン、モダニストを作った。但しかように言いますが、今ほど四通八達してない。モダニズム旋風と言ったって都会のみ、じゃその都会とは、当時六大都市と言われていた、東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の六都市。100万以上の都市はこの6つのみ、次の広島、福岡、長崎はその半分の人口、六都市だけが断然に大きかった。
私鉄網の郊外電車が走っていたのはここ6都市のみ。昭和15年まで神戸は東京、大阪に次ぐ第三位の都市、但し六甲山系に阻まれて発展に限界がある。札幌はまだ中小都市規模、仙台はそれよりやや大きい程度、函館、小樽が盛えていた。
当時は海の時代、長崎、佐世保、門司、下関、呉、函館、小樽の全盛時代、輸入されるレコードに映画のフィルムも港町より、港町はハイカラ、モダーンな町でした。今は横浜、神戸を除いて、地方の港町は軒並み斜陽化している。
急速に洋楽を学習し、戦前のピークを迎えた処で、日中戦争(支那事変)はじまる。日本は軍国化の道を歩む。敵性音楽のジャズは御法度、鬼畜米英もかけ声でダンス・ホールも封鎖、洋画も禁止となる。それが解かれるのは昭和20年8月15日より。日本はG.H.Qに統治され、これから7年間は占領下、アメリカの大洪水、大氾濫である。
洋楽、洋盤、洋画に飢えていた日本人すぐ飛びつき昭和27年まで日本はバタ臭いカラーに一色、映画はチャンバラ時代劇はできない。増してや忠臣蔵なんて持っての外のこと。でもハリウッド映画はどんどん入って来る。
戦前に引き続いて美男美女のスター時代、ゲーリー・クーパー、イングリット・バーグマン、グレイス・ケリー、ジャームス・スチュアート、ジェラール・フィリップ、ダニエル・ダリュと誠、綺羅星の如く輝いていた。
流れる音楽も古き良き時代を踏襲している。ビング・クロスビー、ペリー・コモ、ドリス・デイ、パティ・ペイジ、と総じてメロディーラインが美しい。
これが昭和20年代、またロックのかけらもない、非行する若者の風俗もない。まだロマンティックな夢を見ていたんでしょうね。ヒット曲も美しくて、Gパン、Tシャツの姿なんかなし。身だしなみはキチンとして端整、紳士、淑女の時代でした。背広はテーラーでオーダーメイド、ご婦人はオートクチュールが当たり前、誠にお洒落な時代でした。
A-1 恋人とよばせて ビング・クロスビー 1934年
ビングは1920年代、ポール・ホワイトマン楽団のバンド・シンガー。そこから独立して、ミルス・ブラザースと組んで歌った「ダイナ」が世界的なミリオン・セラーを放ち、以降アメリカが生んだ世紀の歌手への道を歩む。
1934年新生のデッカレコードへ移籍、その第一号ヒットが「恋人とよばせて」。そのオリジナルヒット盤です。小津安二郎の「東京物語」の下書きとなった「明日は来たらず」のシーンの中でもこれが流れ、とても切ない思いで鑑賞したのを、今も思い出します。
A-2小さな竹の橋 ルイ・アームストロング 1937年
1930年代半ば少し前あたりからハワイアン・ブームが起りました。ビング・クロスビーをはじめサッチモまで歌う。これが大当り、世界的にハワイアンが知られる。日本もそのブームに敏感、灰田勝彦、川畑文子、ベティ稲田と言ったハワイの日系二世歌手が続々とデビュー。
この頃が戦前に於ける、日本のジャズの興隆期、ハワイアンは戦後になってバッキー白方、エセル中田が一世を風靡。日本人のハワイ好き、ハワイアン好きは今も続いています。6,70代の元気なオバチャン達がフラダンスを踊っています。
A-3 素敵なあなた アンドリュー・シスターズ 1937年
アンドリュー・シスターズはポップシンガーでもあり、ジャズコーラスでもある。アメリカにとってはジャズとポップスの境界線は曖昧、しかし日本のジャズ・ファンはうるさい。これはジャズでないとか、日本人は多分学究的民族なんでしょう、真面目なんでしょう。
A-4 虹の彼方に(オズの魔法使い) ジュディ・ガーランド 1939年
ビビアン・リー、クラーク・ゲイブル出演の「風と共に去りぬ」、ローレンス・オリビエ、マール・オベロン出演の「嵐が丘」そしてこの「オズの魔法使い」の作品は1939年、日本では昭和14年、この年は当たり年。しかしこの時日本は既に洋画輸入は禁止、日本で放映されたのは戦後のことです。
A-5 ショパンのボロネーズ カーメン・キャバレロ 1945年
カーメン・キャバレロはサロン・ピアニスト。タイロン・パワー出演の「愛情物語」あれはエディ・デューチンの伝記映画。タイロン・パワーがピアノを弾くシーンは全て、カーメン・キャバレロのピアノでした。1940年代クラシックからのヒット・ソング化が盛んに行われました。
ショパンのピアノ曲なんかことごとくヒット・ソング化、「ユーモレスク」等、クラシックでも軽いもの、スタンダードなものはヒット・ソング化しました。
A-6 ボタンとリボン ダイナ・ショア 1948年
これは終戦直後、日本で大ヒット、幼児の私だった頃「バッテンボー」と口ずさんで居たのを覚えています。当時のヒット・ソングは日本の歌手が必ずカバーする。日本では池真理子が歌ってヒットさせました。
A-7 二人でお茶を ドリス・デイ 1950年
ドリス・デイは「センチメンタル・ジャーニー」を歌ってデビューいきなり大ヒット。この時、日本中各都市どこも焼跡焦土の中、進駐軍放送から流れたのが「センチメンタル・ジャーニー」。これが日本に於ける戦後第一曲目のヒット曲。
ドリス・デイの持ち唄をカバーしたのがペギー葉山、「ドミノ」を歌ってデビュー、以後「ケ・セラ・セラ」に至るまでことごとくドリス・デイのヒット曲をカバー、「二人でお茶を」もそうです。ドリスはソバカス美人、でも美人かな?ヒット曲も多く映画主演も多し1940―50年代にかけて人気スターでした。
A-8 黄色いリボン ミッチー・ミラー合唱団 1951年
今では人種差別になるってことでインディアン襲撃となる西部劇なんて作られなくなった。西部劇となるとジョン・ウエイン、この人1960年代まで西部劇の大スター、私の高校時代までは人気スター。ジョン・ウエインの映画となると映画館は超満員、懐かしいですね、この時代が。
A-9 エデンの東 バリー・スティーブンス 1955年
私の家の真裏は洋画専門館、いつも封切が変わる度に新曲が流れて来る。「昼下がりの情事」とか「80日間世界一周」とか「南太平洋」とか。それは小五、小六の頃、田舎の山口に居ても町のど真ん中育ち、映画館は黒山の人だかり、銭湯は芋の子洗うが如し。そして喫茶店の全盛時代。「一丁目一番地」「バス通り裏」「お笑い三人組」の世界でした。兎に角、町はどこも賑やかで楽しかった。
ジャームス・ディーンも今生きてたら90代若くして死んだので今も永遠の若いままのアイドルです。
B-1 ドリーム パイド・パイパーズ 1945年
NHKに「美の壺」がありますよネ。その時このメロディーが流れる。テレビとかCM、よく懐かしのメロディーを使用する。194、50年代のもの、スタンダード・ナンバーになっている。多分永遠性を持って居るのでしょう。私には、終戦後の神戸の思い出となっている。
セーラー姿の水兵さん、進駐軍、GI、MP等々あの頃の神戸、まるで町全体が租界地のようでした。懐しい、本当に懐しい「ドリーム」は私の郷愁です。
B-2 春の如き ポール・ウエストン 1945年
194、50年代は「強いアメリカ」のイメージ。世界の政治地図も白人が中心でした。次から次へとヒット曲が誕生、そのどれもが美しいメロディー、ロックが登場する以前の白人社会、フランスもイギリスもドイツも含めて精神文化が最も成熟していたのでしょう。
だから、こんなに美しいものが生まれる。こういった旧秩序、美意識を叩き壊したのは、1960年代より、ロックの時代になってからのこと。ガキ文化のはじまりです。
B-3 モナリサ ナット・キング・コール 1950年
復興の槌音、少し落着いたところで登場したのがナット・キング・コール、進駐軍の間でも大人気、ナット・キング・コールの歌声はマイルドでソフィスケイテッドされて日本でもファン多し、今でもどこかでお店から流れてくる。ロック時代直前の良き時代のアメリカの匂い、良心と端整なアメリカの匂いが伝わって来る。
B-4 愛の讃歌 エディット・ピアフ 1949年
「バラ色の人生」「ミ・ロール」「パダム・パダム」等、私の子供時代、ピアフの歌が只今、ヒット中でよく流れていました。この頃、日本では、高英男、石井好子、芦野宏が大活躍。美輪明宏は丸山明宏と言って、シスター・ボーイと言われ、まだガキのチンピラ歌手でした。
ピアフが認知されるまでは、イヴ・モンタン、ジュリエット・グレコ、ジルベル・ベコー、イベット・ジローがよく売れて、戦前は、ダミア、アルベール・プレジャン、ティノ・ロッシ、リーヌ・ルノーの時代。まだ20代後半の年頃だった越路吹雪が既に「愛の讃歌」を歌ってた。
“私の歌売れないのよね”とこぼしてた越路。実は越路と共に久慈あさみ、淡島千景、音羽信子、八千草薫、春日野八千代と宝塚の舞台で観たことある私、神戸と宝塚は直結している。
終戦直後の宝塚は阪神間最大のレジャーセンター、いつしか女子供の見るものとなる「ベルばら」以来圧倒的に女性が支配。少女趣味、乙女チックと言われ乍ら、日本の唯一のレビューとなり宝塚は100年の歴史を歩んだ。宝塚出身のスターは年増になって頭角を現す。越路吹雪もそうでした。やっと40代になって芽を出し、この「愛の讃歌」も日本ではピアフ直通でなく越路吹雪の歌で広まった。
昭和30年代半ばがシャンソン黄金時代のピーク、以後、アダモ、エンリコ・マシヤスまでかな?シルビー・バルタンが登場する頃、シャンソンはフレンチ・ポップス化、或いはロック化、こうなるとシャンソンからパリの匂いを心地よく嗅ぐっていた日本から少しづつシャンソンに遠のく。
今もあるはず、フレンチ・ポップスとして、しかし白人の成熟した文化の世紀は終ってしまった。既に欧米が師とはならなくなった。加えるに世界の音楽のグローバル化、然も今は和製ポップスやアイドル歌謡の全盛期、こうして銀巴里も長い歴史に終止符を打つ。タンゴ界はもっとひどい。
70代以上の高齢者の音楽となって世界遺産に登録されましたがこのことは一方では過去の音楽になろうとしていることの証明である。ジャズも、ラテンも、ウエスタンも、どこに行った?あるにはあるでしょう。全てグローバル化、ロック化して、本来の姿とは異なる、こうして大衆音楽の今を牽引していた時代は終った。これは大衆音楽の宿命なのでしょうね。
B-5 詩人の魂 シャルル・トレネ 1951年
「ラ・メール」に続いて、「詩人の魂」もシャルル・トレネの大ヒット。この頃のシャンソンは詩的にも秀れ何よりもパリの香りいっぱいでした。どこか粋でハイカラでお洒落で。それから比べると今、世界中ガキですね。ラップなんて、汚ない!
B-6 ビギン・ザ・ビギン フランク・シナトラ 1946年
「ビギン・ザ・ビギン」も1930年代の古いヒット曲。アメリカは度々リバイバルして曲の体質、内容を変えてリバイバル・ヒットさせる。
シナトラの「ビギン・ザ・ビギン」のリバイバルのミリオンセラー、近くはフリオ・イグレシャスが歌って再三再四リバイバルヒットさせた。
シナトラはトミー・ドーシー楽団のバンド・シンガーから出発、女の子にキャアキャア騒がれるチンピラ歌手でしたが、いつの間にかのし上がり映画スターとしても大成。そしてラスベガスのショウ・ビジネス界へ。夜の帝王としても君臨する。
シカゴのマフィアとも手を組み、その頃の姿、「ゴッドファーザー」の中で画かれていた。つまりシナトラは「アメリカの顔」である・。熟年になってから「マイ・ウエイ」を歌って大ヒット。生涯現役でした。
エバ・ガードナーとも結婚、離婚、ゴシップ種多いハリウッドのスターでもありました。シナトラの死によって「強いアメリカ」の時代は終った象徴的である。
B-7 テネシー・ワルツ ピー・ウィー・キング 1949年
「テネシー・ワルツ」をミリオン・セラーさせたのはパティ・ペイジでした。このヒットは超大型で世界的なヒットとなった。この曲のオリジナルはもとカントリー・ウエスタン(C&W)、ウエスタンは民族音楽、アバラチア山脈へ移住したヨーロッパ人がヨーロッパ各地の古謡を持ち寄った。これが発展して、サザン・マウンテン・ミュージックとなった。
一方、ミシシッピー河を超えて西部を開拓、これがカウボーイ・ソング。この二つが合体して生まれたのがC&W。1930年代まではまだ民族音楽のレベル。1940年代になると、ヒット・ソング化。ウエスタン・ブームが到来。ハンク・ウイリアムズの時代までがウエスタンの黄金時代、日本でも黒田美治、ワゴンマスターズ、小坂一也、ウイリー沖山が登場して、ウエスタン・ブームが起きる。
1950年代半ばから、このウエスタンを母体にして、ジャズやポップスの要素が加わってロカビリー誕生。マウンテン・ミュージックは田舎の音楽として“ヒリビリー”と見下して称されていた。それとロックンロールの合成語がロカビリー、今ではロックと呼ばれている。
いつしかウエスタンはロックに吸収され一方土臭さを払拭して生まれたのがフォーク・ソング。すっかり体質を変えたC&W、しかしどっこい生きている。今でもケンタッキー、バージニア、テネシー各州ではC&Wの姿のまま残っていると聞きます。
「テネシー・ワルツ」のポップ化、その元祖C&Wの姿のまま、然も作曲家自身のオリジナル、ピー・ウィー・キング盤で聞いてみましょう。実に素晴らしい、日本では江利チエミがデビューヒットを放った。
B-8 霧のロンドンブリッジ ジョー・スタフォード 1955年
少し女性としては迫力のある声かな?それまでの女性の声は優美で繊細、これが大ヒットしていた頃小六だったかな?新しい時代が到来してと思って驚きました。
当時、裕次郎ブーム、邦画でもグラマー女優登場。太陽族、カミカゼ雷族、湘南海岸、ロカビリー旋風、そしてこの田舎町山口でも洒落た喫茶店ができる。世間は何か胎動。しかし映画館、銭湯、床屋は超満員、テレビ時代がヒタヒタと押し寄せて来る。まだ街頭テレビに人が群がっていました。
紙芝居は健在、チンドン屋にサンドイッチマン、チンジャラジャラのパチンコ屋、バスの車掌さん,赤帽にチッキ、東映の時代劇、森繁の東宝社長シリーズ、邦画にもシネマスコープ登場、新旧のライフ・スタイルが混在、今、思い出してみると誠に賑やか、活気に満ちた社会でした。
この「霧のロンドン・ブリッジ」は日本では江利が歌って大ヒット。この時、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみと三人娘の全盛期。今と違うのはこの三人娘、唯の可愛い娘チャンでない歌唱力も秀れていた。
昭和20年を境に戦前と戦後全く異なる、新生日本のスタートである。昭和30年代を振りかえってみると日本は若い。復興期を終えて愈々高度成長期へと向う。昭和40、50、60年代と10年一昔、ライフ・スタイルは変る。日本は金持国となる。明けて平成に入るや長い不景気の時代、10年で終ると思いきや既に今は26年長いトンネルから抜け出れない。
こうして日本は少子高齢化、かつてのバイタリティーは喪失、まるで人の一生と似ている。新生日本、昭和20年代生まれが全世代60代、この年代と同じように日本は年寄りの国になったのでしょうか。

日本人は好奇心旺盛、海外の先進文化に対して情熱的に摂取、吸収する。明治のあの鹿鳴館は特権者階級の為のもの、しかし大正に入ると、裾野を広げはじめ少しづつでしたが大衆に広がりはじめた。
大正に入るとまだ生まれて間がないジャズも入りこんでいた。入り込んだと言っても、ほんの一部のみ。一般大衆の耳、感性はまだまだ浪花節を唸る次元。こうして長い時間かけて洋楽の耳に慣れた。
大正末になるとタンゴも入って来た。洋楽を演奏する側のアーティスト達もまだまだ稚拙な演奏、未熟でした。こうして昭和が開けた。大正14年にはラジオ放送開始、昭和3年にはレコードの電気録音に依って、にわかにじかに洋楽を耳にすることができるようになった。今迄を紀元前にすると、これが紀元後、つまり本格的な始動です。
昭和のはじめはモダニズム旋風からはじまった、こうしてハイカラさんが育ち、ダンス・ホールが繁栄し、生活様式の洋風化が起り、東京、大阪、横浜、神戸ではハイカラさんが巷を闊歩するようになった。昭和一ケタになるとミルス・ブラザースが入って来、それに触発されて、コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズが誕生。「ダイナ」「タイガー・ラグ」「月光値千金」「青空」「レイージー・ボーンズ」「サイド・バイ・サイド」がこの頃にヒット曲。モボ・モガが口にするハイカラさんがタップやチャールストンを踊る。それにフォクストロットを踏む。
昭和9―11年、この三年間がモダニズム旋風のピーク。しかし昭和12年支那事変勃発、これを契機に戦争の世紀へと突入、軍国主義の時代に入った。洋楽の引き締め、洋画の輸入ストップと、享楽文化が花開いたところで鬼畜米英。敵性音楽の号令のもと、全てが戦時体制に入った。
それが解禁されるのは戦後のなってからのこと。今度はG.H.Q統治、日本は占領下となる。するとアメリカの大洪水、洋楽の大氾濫です。
こんな時に日本人はすさまじい勢いで学習する。スイングの時代が終わってモダン・ジャズの時代に入って居た。タンゴの古き良き時代も終わった。しかしレコードはLP時代に入って今とは比べられない物量で入って来て、しっかり学習した日本人、昭和30年代になると、今度は様々なジャンルのマニアが育った。
A-1 センチになって(アイム・ゲッティング・センチメンタル・オーバー・ユー)
トミー・ドーシー 1936年
1930年代から1940年代前半までは、スイングの時代、明けても暮れてもスイングが流れる、変化なしでビー・バップ革命が起る。丁度戦後になったところ、今度はブギウギ旋風、進駐軍の若い米兵達はジルバを踊る。こうしてモダン・ジャズの時代を迎えた。
ところがスイング全盛時代、日本人は余りリアルタイムで体験していませんでした。ジャズは敵性音楽と言われて戦争の世紀に入っていたからです。しかしプロはちゃんと知ってた。
広く大衆に知られ聞かれるようになったのは戦後になってからのこと。「グレン・ミラー物語」「トミー・ドーシー物語」が映画化、日本でも放映される、ジェームス・スチュアートが扮していました。丁度日本はG.H.Q占領下、至る所進駐軍が闊歩してた。これが昭和20年代、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシーetcと広く一般の人が口にするようになった。
トミー・ドーシーのこの曲、なかなかセンチメンタルなので大ヒットしました。ところがディキシーランドからスイングへ、とはジャズが黒人から白人に広がったってこと。白人が取り入れるとよりスマートにより洗練された音になる。反対に言い換えればアク抜き、バイタリティーを失う。紳士淑女はフォクストロットのステップを踏むこれがスイングである。
言ってみればダンス音楽、ボールルームミュージック化です。身なりをキチンと着こなして、一流のホテルで、一流のホールで奏で、聞き入ると言う、白人化したジャズと一方そのまま変りない黒人の世界。人種差別の厳しいこの時代、白人と黒人はそもそも勝負する舞台が異なる。
白人はカーネギーホール、黒人はコットン・クラブ、と。余談ですが、今のずり下げたズボン(Gパン)に野球帽、上野を歩いていると黒人が非常に多い。あのスタイルの今はやりのラップ、黒人が最も似合っている。音楽を聞く姿勢も1950年代までは「横揺れの音楽」ロック以後1960年代からは「立揺れの音楽」つまり白人の成熟文化の終焉と黒人台頭ですよネ。シャンソンのフレンチ・ポップス化、今猶「横揺れの音楽」を保持し、パーカッションを拒否しているにはタンゴだけとなりました。
A-2 タイガー・ラグ ミルス・ブラザース 1931年
A-3 ダイナ エセル・ウオーターズ 1931年
古い古いジャズです。今やご先祖様となった明治、大正世代の青年期、血を騒がした曲であります。昭和一ケタは自由でモダニズムを満喫。この頃のモダニスト、既に95%はこの世に居ない。
ミルス・ブラザースの名を知る人も微小になった。「ダイナ」の世界的ミリオン・セラーを飛ばしたのもミルス・ブラザース=ビング・クロスビー盤。ここでは名唱の誉れ高い黒人のエセル・ウオーターズを収録しました。
A-4 セントルイス・ブルース キャブ・キャロウエイ 1930年
「セントルイス・ブルース」も古くからのジャズ、ミリオン・セラーはルディ・バレー盤。キャブ・キャロウエイはボードビリアン、表情豊かで何だか滑稽。ブロードウェイを騒がしたありし昔を偲ばされます。
A-5 トリクシー・ブルース トリクシー・スミス 1938年
これが黒人の血、スピリット、ジャズの原点ってセクシーなんだなあ。耳で聞くのじゃなくて下半身で感じるもの。フィーリングである。この感度、これがセクシーでなくて何である?ニューヨークの一角ウエスト・サイドの片隅「コットン・クラブ」に居る気分になります。
A-6 ストップ・ニア・スタッフ シカゴ・ストンバズ 1931年
ジャズはニューオリンズで生れた、これは周知の如し、仮に100%黒人の音楽として終ってたら、ここまで発展してない。ニューオリンズのあるルイジアナ州はもとフランス領、ニューオリンズはフランス語でヌーボ・オルレランと言う。
ルイジアナ州はカリブ海で、西インド諸島、キューバと対峙している。一衣帯水、ハリケーンの経路である。キューバは音楽の宝庫、首都ハバナを中心にして、19世紀ハバネラが大流行。ハバナの音楽だからハバネラと言う。
150年前の「ラ・バロマ」あれはハバネラの名曲。ビゼーの「カルメン」にもハバネラが用いられている。
ハバネラはタンゴの直接の祖先、海に乗り船に運ばれて、吹き溜りのようにしてブエノスアイレスに根づく。
これが発展してミロンガになる。このミロンガを母体にして19世紀末タンゴが勃興する。一方ハバネラの風は、ヌーボ・オルレアンに伝わる。ここは黒人達が多いのだがフランス人と混血した黒人達も多い。これをクレオールと言う。
ハバネラが直接、関係したのではないが、これと黒人本来のリズム感と感性が大いに影響したのであろう。様々が要因が合体して、ラグタイム・ピアノが生まれた。一筋縄では行かない。複雑である。
教会音楽と影響し合って、リズム・アンド・ブルース(R&B)に分化したりと実に複雑。ここにニューオリンズ・ジャズ(ディキシーランド・ジャズ)が誕生、勿論一足飛びでない。
このハバネラ的、ラグタイムの影響を受けたのが、ジャズの古典「セントルイス・ブルース」とも言われている。ジャズは、ミシシッピー河を逆上ってセントルイス、カンサス・シティへ伝わる。ニューオリンズはミシシッピー河の河口港。多くの船が行き交う、長い船旅船上では楽士達が音楽を奏でる。このあたりの光景をミュージカルに画いた「ショーボート」映画化もされて居ます。数々の名曲を生みました。
当時の流行歌「ロバート・E・リー号」をご存じでしょうか、1910年代に大流行「タイタニック」「船上のピアニスト」の時代です。
この当時ジャズ界最大のアーティストと言えばジェリー・ロール・モートン。豪華客船タイタニック号の中で催された船上の楽団はこのジェリー・ロール・モートンがモデルと言われています。
「ロバート・E・リー号」は映画「ザッツ・エンタテイメント」のシーンでMGMのスター陣が一同に合して歌っていました。中に年老いたフレッド・アステアが居て私は懐かしさに感動しました。
ミシシッピー河を逆上って最終のゴール地点はシカゴ、五大湖に囲まれてイリノイ州は穀倉地帯、当時ニューヨークに次いでシカゴは全米第二位の大都会。丁度、禁酒時代で、ギャングのアル・カポネが暗躍していました。
ジャズと犯罪は、一緒にくっついていました。ストンプもシャグもジャズの一つの形式。1920年代と言えばアメリカの青春時代、大西洋を横断飛行したリンドバーグに打撃王ベーブルース、ハウッド・スター、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、グロリア・スワンソン、リリアン・ギッシュ等々、枚挙にいとまがない。正に綺羅星の如く輝かしい。
この騒乱振りを表して狂乱の20年代、ローリング・トウエンティと言います。この時大席巻したのがチャールストンであります。この時のジャズはゆっくり拝聴、傾聴するものではなく飛んだり跳ねたり大いに騒いで踊るものでした。ここに収録したストンプ、シャグもそのようなものです。狂乱に明け暮れしたアメリカの青春時代でありました。
A-7 ワン・ナワー コールマン・ホーキンス 1929年
人の一生も青春から中年、中年から老人へと変化するように国の歩みもまたよく似てる。グループ・サウンズ、学園紛争、ヒッピー、サイデリックで狂乱してた昭和40年代が日本の青春時代。
今思い出してみると大阪万博のあの熱気、青春でしたね。そして昭和50年代、高度成長期を遂げた日本、GNP世界二位と言われて金持国となった。土地は上がる、利息は高い、投資しても稼げる。
エコノミック・アニマルと言われ日本株式会社とも言われた。バブルがはじけ昭和は終り、平成の世に入った途端長いトンネルに入った。人で言うと更年期、日本は熟年期から今、老人大国に入った。
国土の狭い島国日本は猛烈に発展して、何もかもが瞬く間に普及、テレビもあっという間に普及、マイカー、マイホーム・ブームもあっと言う間、そして今はケイタイからスマホへ。全てあっという間。
青春から老人までも瞬く間、中国なんか、旧社会が崩壊するまで100年を要す。崩壊した後、腐敗と混乱が又100年要す。今GNP二位なんて言うが体制は変わらずまだ民主主義の国になっていない。
これも100年を要するだろう。あの小さな島国、台湾でさえ、血は漢民族、民族性は「慢性的」過激な変化は望まず、じわじわと中華民国の台湾化、一足飛びに台湾独立しようとしない。漢民族は実利主義で「漫漫」と変化させる。変化したら違う民族になっている。まるで脱皮動物です。
明のカラーと清のカラーは全く異なる、清のカラーと中華民国カラーも異なる。そして中華人民共和国のカラーも異なる。それに比べると日本は様変わりが激しい、明治維新と第二次世界大戦、パッパッパと変わった。
コールマン・ホーキンスはテナー・サックスの巨匠、この演奏はマウンド・シティ・ブルー・ブロウアーズであります。
メンバーはレッド・マッケンジーblue-blowing&vo、グレン・ミラーtb、ビーウィー・ラッセルcl、コールマン・ホーキンスts、エディ・コンドンbj、ジャック・ブランドg、アル・モーガンb、ジーン・クルーパds、とまるで夢の競演、大変な名演、そしてセクシーな演奏をしています。
A-8 シャグ シドニー・ベシェ 1932年
シドニー・ベシェはクラリネット&サックス奏者である。シャグとは交互に片足飛びをするダンス。私も余りよく分らない。ストンプ・スタイルと言われていますが、ストンプもシャグも、それにジャズ自体も語源が性的隠語から来ているらしい。目を見張るばかりの熱演正に白眉である。やはり192,30年代はアメリカの青春時代、生命力に溢れています。
A-9 浮気はやめた(エイント・ミス・ビー・ヘブン) ファッツ・ウォーラー 1929年
ファッツ・ウォーラーのピアノ素敵、私の大好きなピアニストであります。この人の演奏、陽性でヒューマニティに溢れている。黒人の持つ温かい血に人間賛歌に軽妙洒脱で粋なピアノ。この「浮気はやめた」「ロゼッタ」「ハニー・サックル・ローズ」「手紙を書こう」「スクイーズ・ミー」等ファッツは多くの作曲もしている。
A-10 嘘は罪よ(イッツ・シン・トゥ・テル・ア・ライ) ファッツ・ウォーラー 1936年
これはファッツ自身のピアノとボーカル入りのファッツ・ウォーラー・アンド・ヒズ・リズムのコンボであります。「嘘は罪」は大ヒットしたポピュラーソング。
しかしスイング感溢れるファッツのスピードあるダイナミックなピアノタッチに奔放に歌うファッツ、この人は1904年生れ1943年死亡余りにも短い命、惜しい惜しい本当に惜しい。サッチモと肩を並べる程の実力派なのに。
B-1 スターダスト ホーギー・カーマイケル 1927年
「スターダスト」の作者として余りにも有名なホーギー・カーマイケル。外に「オールド・ミュージック・マスター」「香港ブルース」「ロッキンチェア」「ジョージア・オン・マイ・マインド」「レイジー・リバー」「レイジー・ボーンズ」等々の作曲家としてよく知られている。
ホーギー自身の自作自演、非常に貴重である。ホーギーのピアノとボーカルが聞ける。ホーギーの歌い方は淡々として朴訥、とても滋味溢れる。1940年代大戦を挟んでホーギーは映画にも多少出演しました。
「三つ数えろ」「マルタの鷹」や或いは「キー・ラーゴ」だったか頭が混線してしまいましたがハンフリー・ボガード、ローレン・バコールと共演していました。
何と言っても印象に残るのはフレデリック・マーチ、ハンフリー・ボガード、ダナ・アンドリュースと共演した「我等の生涯の最長の年」である。テレビ時代になってからは、「ララミー牧場」にも顔を出していました。
B-2 クレイジー・ヒー・コールズ・ミー ビリー・ホリデイ 1949年
人種差別、アル中、麻薬中毒に悩み、恋に泣いた黒人女性ビリー・ホリデイの人生は波乱万丈、この人は生活に荒れ決して名声ほどには美声とは言えない。
しかし悩み多き人生を歩んだせいかビリーの歌は切々として人をして説得させるに余りある魅惑を持っている。「ラバー・マン」「狂った果実」等よく知られた名唱も沢山あるがここで歌う「クレイジー・ヒー・コールズ・ミー」は比較的安定していた頃の歌唱、女心が切々と伝わって素晴らしい名唱であります。
日本モダン・ジャズ・ファン、殊に60代以下、モダーン・ジャズ・エイジで育ったからなのでしょうか、クールなジャズを好む、つまり思索的、学究肌的民族性なのでしょう。
皆んな腕を組んで難しい顔をして拝聴する。そんなところで、ジャズ・ボーカルが好きなんて言うとモダン・ジャズ・ファンから白眼視される。私はそんなこと、どうでもよい、音楽は楽しめがよいものだ、とそう思ってファッツ・ウォーラーのピアノとボーカルを楽しみジャズ・ボーカルを聞いています。
B-3 グッディ・グッディ メル・トーメ 1954年
メル・トーメの若かりし頃、青年の頃の歌とピアノを聞いてみましょう。メル・トーメの語り弾きである。何と粋でダンディ洒落て小気味よい。それにソフィストケイテッドされている。白人の匂いである。
高級ピアノ・バーで聞いているような雰囲気ですね。ジャズは黒人だけのものでない、白人のものであると共に日本人のものである。多種多様、無限に広がって行くジャズの魅力ですね。
B-4 イッツ・オールライト・ウイズ・ミー 1957年
B-5 サボイでストンプ エラ・フィッツジェラルド 1957年
B-4は1957年シカゴ・オペラ・ハウスの実況録音、オスカー・ピーターソンP、ハーブ・エリスG、レイ・ブラウンB、ジョー・ジョーンズDR、B5は1957年ロサンゼルスのフィルハーモニックホールの実況録音。
ロイ・エルドリッジのT、J.JジョンソンTR、ソニー・スティットAS、レスター・ヤングTS、コールマン・ホーキンスTS、スタン・ゲッツTS、フィリップ・フィリップスTS、ハーブ・エリスG、レイ・ブラウンB、コニー・ケイDRも超豪華。
このレコードは、スイング・ジャーナル選定のゴールド・ディスクであります。もう何も解説つけ加えることなし。エラのホットな熱唱、スキャットを交えて白熱するエラの歌に煽られて一層燃え立つ楽団員達、それに聴衆も燃え上がる。記念すべき名盤と言えましょう。何も言うことなし、しっかり楽しんでください。
ジャズとタンゴはかみ合わないのか、片や陽で片や陰、散文、自由詩と定型詩、外向性と内向性、色々と対極に対している。アメリカ人はさほどタンゴを好まない、寧ろヨーロッパ人が好む。日本人はどっちも大好き。
日本はタンゴの第二の祖国、ジャズの第二の祖国、シャンソンの第二の祖国、誠、東西文化が見事に融和した国であります。
アルゼンチンは小国、面積は日本の8倍余、人口は4,000万人少々、タンゴ黄金時代当時は2,000万人程、歴史は浅い。インカ帝国の威力もアルゼンチンの北部、アンデス山脈の一部のみ。
広い国土のパンパは大草原、パタゴニアになると人口も稀にしかない。マゼラン海峡、フエゴ島となると南極からの冷たい風が吹き、ペンギン達の天下。つまり世界のどこからでも遠い地の果て、面積は広いが歴史、人口、様々な点で密度が浅い。それは国力も含めて小国と言う。
アルゼンチンは移民の国、6:3の割合でスペイン系とイタリア系の血、他の中南米諸国と比べてみても土着のインディオも少なく黒人もほとんどいない。そのパーセンテイジは0.0コンマ程度。多いのはヨーロッパの他の諸国から東欧も含めて、亡命ユダヤ人、ナチスの残党等々、地の果てに隠れ住む。
ヨーロッパのヴァルス(ワルツ)、ポルカ、メキシコのランチェーラ、スペインのカンション、イタリアの小唄等入り込む。タンゴ発展と同時進行されて発展する。これを総称してポルテーニャ音楽と言う。ポルトとは港、ポルテーニャとはブエノスアイレスっ子のこと。ブエノスアイレスはラプラタ川の河口港。ブエノスアイレスとは英語で言うとグッド・エアー「良い風(空気)」である。
正確に言うとタンゴはブエノスアイレスの歌であって全アルゼンチンを包括する音楽ではない。アルゼンチンにはもうひとつフォルクローレがある。アルゼンチンはフォルクローレの宝庫である。つまりフォーク・ソング、アメリカで言うサザン・マウンテン・ミュージック、C&Wである。
ブエノスアイレスは1960年代に入る前までは南半球最大の年でした。街並みはパリに似せて作っている。第一次大戦時から戦後暫くはヨーロッパの食糧庫として盛える。広大なパンパの草原はアルゼンチンの富の源でした。
その頃は富裕な国として盛えGNPも世界第八位、当時は遥かに日本の方が後進国でした。そうでないと、タンゴのような都会の音楽が生まれる訳ない。最下層の貧民達が新天地を求めてアルゼンチンに移住する。貧民と言ったってヨーロッパ人、その欧州の風と文化をたずさえて来る。
黒人のジャズとは自ずから発展段階が異なる。しかし最下層の貧民達、不可触賤民である。無教養で言動は粗野で露骨、しかし人間は虐げられても生きる為に貪欲、性欲はギラギラと煮えたぎっている。オスとメスの火花、ジャズも同じようにタンゴも又性的音楽、享楽と悪徳の音楽である。
アルゼンチンは常にヨーロッパを志向する。その中心は花の都パリである。このように志向し乍らタンゴは少しづつ発展し向上して行った。
そして花開いたのは1920年代、アメリカがローリング・トウエンティと狂乱していたこの頃、タンゴは黄金時代を迎えました。そして1930年代に入るとタンゴは巨大大国アメリカのジャズの影響を受けます。
勝原さんが如何にタンゴと出会ったか、その経路は詳細には分らない。クラシックにもシャンソンにも造詣が深い広瀬浩二君、君にもタンゴの芽を感じる、その眠ってた感性に震動かけたい。そう思って残りB面5曲をタンゴにした。門外漢としてでなくタンゴ的感性に揺さぶりかける様な選曲にしました。
B-6 デ・ロンペ・ラハ フリオ・デ・カロ 1949年
タンゴ・ファンは一般にジャズは苦手、タンゴ・ファンは感傷的(センティシエット)に傾くか情熱のリズムに傾くか、その二つの色合いがタンゴ・ファン、そしてこれが古くからのタンゴ・ファン。タンゴ・ファンでも若手となるとマストル・ピアソラ・ファンが多い。
若手と言っても団塊世代以下、世界的アーティストのヨーヨーマがピアソラのことを口出したもんだから、ピアソラ・ブームが起こる。そのピアソラをどれ程聞き込んだか。タンゴをどれ程理解したか分らないのに世の中って変。
にわかにピアソラを口にする。そのピアソラ、前衛的に進みすぎて、古くからのタンゴ・ファンは好むかと思えばそうでなし。そのピアソラに先んじてオスパルド・プグリエーセかなり高踏的なのだけれど、かなり古典的でもある。
そのピアソラ、プグリエーセの祖が、フリオ・デ・カロである。1924年から自らの楽団を結成していた。かなり頭脳的な演奏、感傷派も情熱派もそっぽを向く。
ジャズが苦手なタンゴ・ファンの中でもデ・カロ・ファンとなると少数も少数。デ・カロの演奏はシンコベーションが豊富、定型詩的タンゴの中でもジャズのジャムセッションに似た奏法をよくする。
ジャズは即興的だがタンゴはあくまで譜面にのせて熟読玩味する。つまり計算されているとは言え、ひとたび壇上に上がると名人芸に目を見はらせて、私は強く感動する。
私は少数の中の少数、デ・カロ党でしょう。つまり東京のタンゴ界では異端児、70代の多いタンゴ界に在って年齢も幼い、それで窓際族なのです。
お互い群れることが、そう性に合わない私と勝原さん、皆んなは一団となってゴソゴソと集団行動するのに私と勝原さんは群れからはずれて、ホテルの喫茶店で二人はお茶を飲んで皆が帰って来るのを待つ、と言う具合なのです。
この「デ・ロンパイ・ラハ」はデ・カロの中でも後期の演奏。1949年の演奏です。とても器楽的で通向けの演奏。このようなデ・カロが私にはたまらないのです。
B-7 降る星の如く(ジュビアデ・エストレーシャス)
オスマル・マデルナ 1948年
オスマル・マデルナはこの演奏の後急死、新進気鋭と騒がれたのにその才能惜しまれてなりません。
タンゴはジャズと言うよいクラシックに近い感性、ピアノ、バイオリン、ベースと言う構成は1910年代後半以後ほゞ100年にわたって変わってない。
フルート、ギター、チェロは楽団に依ってよく用いられる。トランペット、サックス、トロンボーンは遊び程度には用いられるがパーカッション、打楽器、ドラムじゃどこかで拒否してる。
つまり純白人音楽なのです。まわりの中南米諸国は、黒人の血もインディオの血も濃厚なのにタンゴは拒否してる。しかし将来は分らない。隣国にブラジルが横たわっている。その影響を受けないとも限らない。
B-8 ノスタルヒアス(郷愁) フランシスコ・ロムート 1936年
その代わりタンゴはジャズの影響を強く受けた。それもブラック・ミュージック的なジャズでなく幾分白人化されたスイングの影響を強く受けた。
ロムートの「ノスタルヒアス」はそれを強く感じる。ロムートの顔までベニー・グッドマンに似てるように見えるから又不思議、この当時としては新解釈の「ノスタルヒアス」これはロムートの歴史的名盤である。
B-9 カミニート カルロス・ガルデル 1926年
タンゴは1940,50,60年代と発展し続けて来た。そしてアストル・ビアソラと前衛音楽的、現代音楽的にまで向上した。詰る処もともと出発が器楽音楽、ダンスを踊る為のものだったからでしょう。
今のタンゴはマニア音楽家している。タンゴ・マニアは根強い、ファンからマニアに行き着く。
昔の20代、50年の歳月を経て70代になっている。ところが昔の20代以後、次世代が育ってないのです。老人の音楽となって居る。何故、何故?と考えるがまだ分らない。
世界全体の音楽が「立振り」になっているのにタンゴだけは今も「横振り」かなと考える。これも解答になって居ない。
タンゴ・マニア、マニアになればなる程古いものを聞く。SPコレクションになる。これも不思議な現象。タンゴって演奏云々よりも、これも大切でしょうが最も重視しているのはコランソン、つまりスピリットです。
このタンゴの心192、30年代で完成されている。演奏技術の向上とタンゴの心の一体化、心技一体とでも申しましょうか、それが192、30年代に完全無欠に完結されている。
だからマニアがこの時代のものにこだわり私も又ここに傾斜している。となるとタンゴそのものの性質が古い感性のもので、ここに帰結するからでしょうか。
「歌のタンゴ」の時代も192、30年代で完成の域に達しています。その説得力、思想、どうかするとタンゴ哲学と言ってもよい。美意識、美学も又室に深淵、その深淵さはシャンソンでさえ負ける。
その頂点に在るのがこのカルロス・ガルテル。歌唱、心、技量そのいずれもが完璧。残念乍ら1935年全盛期の時、飛行機事故死、タンゴ黄金時代はここに終焉しました。
B-10 エル・マルネ ファン・ダリエンソ 1954年
タンゴは又息を吹きかえしました。その立役者はファン・ダリエンソ。タンゴ第二期黄金時代を導きました。
1950年代は百花繚乱、豪華絢爛、今はその勢い失ってタンゴ界は1/10以下に縮小。ダリエンソの黄金時代を身に以ってリアルタイムで体験した世代は今80代、日本に於けるタンゴ界の長老です。
タンゴ・アカデミーの会長島崎長次郎氏がそうです。昭和7年生れ、この世代の重鎮達。私が65歳まで全員健在。しかしその後続々と他界、今では島崎氏のみ健在、幸いなことに今もカクシャクとしてます。
私がこの「エル・マルネ」を知ったのは高二の夏まだ16歳でした。頭のテッペンから爪先まで全身電波が走って失神寸前まで大感動しました、タンゴは魔性の音楽、悪徳の音楽、と当時説明できない子供でしたが、そう感じていたのだと思います。あれから50余年まだ私の心は淫らで不良なんでしょう。音楽なんて、タンゴなんて、麻薬です、魔法です。

美空ひばりは昭和24年12歳でレコード・デビュー。私がもの心ついた時にはもう大活躍。私の最も古い記憶では、嵐寛寿郎と共演、ひばりは杉作少年役をしていました(鞍馬天狗)
それから三年後私が小学一年の頃、江利チエミが「テネシー・ワルツ」でデビュー、その時リアルタイムの記憶はない。しかし笠置シヅ子の「買い物ブギ」幼児でも吃驚する程強烈な印象で歌っていたのを覚えている。「田舎のバス」もよく覚えている。宮城まり子もしっかり覚えて居る。
昭和28年私が小学二年の時、雪村いづみがデビュー、これで三人娘揃う。三人娘の中で雪村いづみが一番背が高くてスタイルもよい。長い髪を腰までたらしてお嬢さん風でかつ最もバタ臭いので一番好きでした。
雪村いづみを通じてポップスが好きでした。小学高学年になる頃、三人娘はお年頃、大変な人気スターでした。日本も復興遂げたかのよう、昭和30年になると“もはや戦後でない”とも言われ激変。
小学六年の時、石原裕次郎デビュー、エルビス・プレスリー、日本にも上陸。翌昭和33年にはロカビリー旋風。プレスリーの「ハト・ブレイク・ホテル」を小坂一也が歌う。
ポール・アンカの「ダイアナ」を平尾昌晃が歌う。ジーン・ビンセントの「ビーバップ・ア・ルーラ」を雪村いづみが歌う。そして浜村美智子の「バナナ・ボート」に吃驚仰天。昭和33年4月より中学生、音楽の時間に先生がはじめてEPレコード見せた。落としても割れないので驚いた、それからあっと言う間にSPレコードからEP、LPレコードに変る。
僅か一年の間で一変。その頃映画館、銭湯は超満員、パチンコ屋も床屋も人でいっぱい。ラジオ、テレビ、映画が混在、貸本屋、紙芝居もある。新旧が混在、お店屋さんも繁昌、喫茶店もブーム。当時山口の人口8万、でも子供はいっぱいで町の学校はマンモス校、町がとても賑やかでした。
人の往来も多い、向こう三軒両隣りで町が有機的に活動して生活感に溢れて居ました。映画「三丁目の夕日」の世界です。「オイッ居るか?」「居るよ、入れよ」「メシ食ったか?」「食って帰れよ」「風呂は?」「入って帰れよ!」とどの家も千客万来、男の背広は仕立屋(テーラー)へ、パーカー、モンブランの万年筆にダンヒルのライター、ロレックスの、オメガの時計にずっしり重いオーバー。男の持ち物は今より遥かに上等でした。女性もお洒落、そう言えば今はハンドバッグ持ってハイヒール穿いた淑女が居なくなりました。男女そろってユニクロ、カジュアル、スタイルですね。
A-1 別れても 二葉あき子 藤浦洸作詞 仁木他喜雄作曲 昭和21年
歯ぎしりするような凍え死にしそうな寂寥感溢れる歌。仁木他喜雄は多作でない。でも作られた曲、燻し銀の如く光彩を放つ。詩も又よい。
この曲想にぴったりはまる。歌手もよい、もう流行歌のレベルを遥かに超えた名曲。知の結晶である。二葉あき子の歌手としての実力。こんなところに東京芸大の品位と知性が出ている。情念煮えたぎる歌なのだが、演歌でない。
シャンソンか或いはクラシックのはしりでも聞いてかの様で洒落ている。歌謡界にあって、決して派手な存在でなく芸能界的存在とは程遠い。人気も今ひとつぱっとしない、つまりド庶民的歌手でない。
まるで楽壇の一人かの如くこれ程、確実な人は居ない。実は影で燦然と輝いている。こんな人が10人も居れば、いや居るはずだ。それらを育てる大衆のレベルが低い、演歌、カラオケ歌謡、アイドル歌謡、と下品である。これが日本の現実、音楽に対する日本に於いての大衆レベルである。
A-2 青い山脈 藤山一郎・奈良光枝 西城八十作詞 服部良一作曲 昭和24年
これこそ日本を代表する流行歌の最高峰である。一般に健康的で明るいものの少ない流行歌にあってこれ程極めて、レベルの高い健全、健康、明朗快活な歌があるだろうか、日本人が外国に対して胸を張って代表的な流行歌と言えるのはこの「青い山脈」である。
藤山一郎に関してはもう何も言うことなし。雲表に聳え立つ歌手であると共に広く、日本人の心に存在する偉大なる大歌手で戦前戦後、昭和一代を飾った国民的歌手である。
映画の中の池部良、大正7年生れだからこの時31歳、なのに高校生役、同じ大正7年生れの木暮実千代がもう年増役、そして二歳下、大正9年生れの原節子が池部良の先生役。実際年齢を考えるとてんでバラバラ。でも配役がよくぴったりと合い皆んな適役。肩ヒジのこらない楽しい映画。しかも名画でした。
娯楽映画であって名画、そして龍埼一郎、杉葉子、若山セツ子、伊豆肇、と出演者全てが存在感ある。こんな楽しくて、結果として名画となった。こんな映画、今あるだろうか?歌、映画共に日本人の心に永遠に残る財産である。奈良光枝、佳人薄命、若くして死去しました。
A-3 長崎の鐘 藤山一郎 サトウ・ハチロー作詞 古関裕而作曲 昭和23年
古関裕而、一世一代の名曲である。古関が渾身の思いで作曲したものと強く感じる。そこには軍歌を多く書いた古関の贖罪を強く感じる。原爆の悲惨、悲しみ、悲憤その他激しい思いを一切抑制して歌う。
これぞ偉大なる鎮魂歌と思う。この一作で古関の人柄良心を痛く感じ、彼の戦争に対する責任を背負って、これで十分使命を果たしたと思います。抑制されてるだけに深く深く心に響く。
ここに服部良一と古関裕而、この二人に日本の流行歌史上の最高最大の大作曲家と賛辞を送り度いのである。
A-4 悲しき口笛 美空ひばり 藤浦洸作詞 万城目正作曲 昭和24年
終戦から4年、昭和24年当たり年である。人々は生活苦に明け暮れ、生きるのに一生懸命。なのに良い歌、良い映画がいっぱい世に出る。これが人にどれだけ心の支えになったか、人の世ってのは不思議、幸せがよいものを生むとは限らない。
世の中、不幸であってもしっかりとしたよいものを生むことだってある。
ここに彗星の如く現れた天才少女、美空ひばりである。この時ひばり12歳、二枚目のレコード「悲しき口笛」が大ヒット、これで決まった。大歌手ひばり登場、しかし天才少女と騒がれ乍らもバッシングを受ける。
そのバッシングは、身内の業界から、こましゃくれた子供だと激しい非難。でも世間は大衆は喜んだ。その人気はすさまじいもの、物珍らしい天才少女を見る目だけでなく一方ちゃんと認めていた。その目は希望の灯でした。ひばり、12、13、14、15歳のヒット曲眺めてみても分る。
その全てが「みなし児」の歌。「東京キッド「私は巷の子」「あの丘越えて」「ひばりの花売娘」「越後獅子」等々、見渡すと戦災孤児で溢れていたこの時代、ひばりの歌声は世相を映す、焼跡キッドである。
作曲家は万城目正、大作曲家古賀政男は子供を相手にしない。大作詞家サトウ・ハチローは気持悪い化け物のような子だと批判する。皆が皆そっぽを向く。まだいじらしい子供だったひばり、批判を全面受けとめて、唯ガムシャラ与えられた仕事をこなした。
この時映画にも沢山出演。皆に可愛がられ乍ら、天才の芽はどんどん開花する。天才少女から脱皮する歳、普通なら大きな壁にぶち当りそのまま消えて行く、この年齢的なスランプの時、ジャズを多く歌う。
そして16歳、米山正夫作曲の「りんご追分」で新境地を開く。米山は、ひばりの天賦の才を感じて創作意欲に燃え実験作をひばりに与える。ひばりはよくそれに応えて、米山=ひばりコンビ、俗に言う黄金時代を築いた。
一方ひばりは「ひばりのマドロスさん」を当ててマドロス歌謡のジャンルにも当てた。横浜生れのハマっ子ひばりの面目躍如。ひばり17、18、19,20歳はお年頃娘盛り、向う敵なし、全盛時代を迎えた。
この時、東映時代劇に多く出る。若侍、美剣士、捕物帖、お姫様、オキャンな町娘と何でもござり、正に快刀乱麻、国民的アイドルに大成長。人々のあらゆる娯楽の中にひばりはしっかり存在していた。
軽快、快活なひばりちゃんの魅力に溢れていた。21~25歳までこの線を続行ひばりは大歌手に成長する。
昭和38年の「柔」からひばりは変貌する。古賀政男との出逢い、ひばり演歌のはじまり。ドスが利いて軽快なひばりの魅力は失せ、歌謡界の女帝に君臨する。
大成するのが早かった分だけオバチャンになったのも早かった。ひばりは貫禄づいて、もともと育ちが余りよいとは思えない。不肖の二人の弟、やくざとのつながりとか色々あって、その下品さが鼻について世間から嫌われ者になる。
それでもしたたかで母娘揃って一卵性親子と言われまるで魔宮の奇怪な女帝と君臨していました。しかしひばりがこんなに早く他界するとは誰も思ってはなかった。
昭和の終りと同時にひばりは平成元年に逝去。失ってひばりの偉大さを知る。名声上がる稀代の名歌手、今では私も感謝している。同じ時代に生きて、ひばりちゃん有難度うと声を大にして叫びます。
A-5 買い物ブギ 笠置シヅ子 服部良一作詞作曲 昭和25年
知性の「知」にヤマイダレが掛かると「痴」になる。知性に障害をきたした意味と、これ程馬鹿げたことがあるか、愉快痛快、これとて知性なくしてありえない痛快さ。漢字はよくできてる。
流石表意文字、今どき“お笑い”単なる下品、芸人に芸もなければ教養もなければ増してや知性なんてある訳なし。そんな人がテレビに出て世の中を席巻するなんて許せない。
日本には、おふざけ、駄洒落、コミック・ソングの系譜が昔からある。春歌、替唄もその中に含まれている。しかしそこには人を笑わせる意を得ている。妙があるから、痛快であって下品な笑いと一線を画すべきである。
この「買い物ブギ」は一世一代の笑いである、お笑いの最高峰である。服部は大阪出身、笠置は香川県出身、大阪のSOK楽劇の舞台に立ち、京マチ子もSOK出身である。ジャズのフィーリングよくて、笠置は戦前から服部とコンビを組んで活躍してた。
ところが笠置、ステージいっぱい飛び回り踊りまくって歌う。これが軍部の目に止って要注意。ブラックリストの歌手となった。仕方なく雌伏。終戦と同時にコンビ再開、ブギで当てる。日本中をブギ旋風巻き起す。「東京ブギウギ」「大阪ブギウギ」「ヘイヘイ・ブギ」「ジャングル・ブギ」と連打の上の連打。笠置は時代の寵児になった。
まるで焼跡闇市の喧騒に似て、ギラギラ噴出、時代の声となった。そして熱帯夜の如き、それはこの時代のバイタリティーとなった。
服部=笠置は正に盟友、これこそ名伯楽と言えましょう。大阪弁を駆使して大阪の底力を発揮、そして大阪と四国の合体、当時復興に励む人々の生活力旺盛したたかに生きる力である。これ程のダジャレ・ソング、後にも先にもない。空前絶後の迫力である。
A-6 田舎のバス 中村メイコ 三木鶏朗作詞作曲 昭和29年
メイコは3歳頃から芸能界にデビュー、これ又天才少女。美空ひばりと同世代、昭和12,13生れと言えば我々からの目から見ると戦争時代を知ってる世代となる。
しかし明治、大正世代から見ると戦争を知らない子供達、ガキになる。実際に世代の人の青春時代に達する頃、戦争の影なんて微塵もなく新しい時代を作っていた。
昭和25年あたりからかな、「日曜娯楽版」と言うラジオ番組がありました。三木鶏朗が主幹、森繫、轟夕起子、丹下キヨ子、坊屋三郎、久慈あさみと言う名だたる人が常メンバーだったそうです。
お話し、コントも含めて時の政治の諷刺、と人気番組だったそうな。ここから「田舎のバス」「僕は特急の機関手で」「ホップさん」「つい春風に誘われて」「毒消しゃいらんかね」等々冗談音楽を次から次へと出す。
これも世間を大席巻、三木鶏朗も又知の人であり痴の人である。暗い世相、食うのに精一杯、生きて行くのに大変だった昭和20年代、どうして日本にこんな力があったのでしょうか?貧乏人の子沢山なんて言われ、今の日本は生命体を失った、人口減少、100年後日本民族はどうなっているのでしょうか。
A-7 ガード下の靴磨き 宮城まり子 宮川哲夫作詞 利根一郎作曲 昭和30年
高架線なら今、どこにもある。新幹線なら全て高架線、しかしガード下は違う。その下は商店、新聞配達、飲み屋、三流映画館、ストリップ小屋、と生活感溢れている。終戦直後は、その二階が住宅となっていた。
住宅難だったからです。些か場末的密集を感じる。
このガード下があるのは東京、大阪、神戸のみ。密集が生んだ戦前からの100万都市。巨大都市である東京の新橋、有楽町、神田、御徒町、上野、浅草橋にはガードがある。
しかし点として。神戸は?そもそも土地空間に乏しい、神戸駅から元町を経由して三ノ宮駅まで延々途切れることなく2.5km細い狸穴の如く商店街がつらなる。神戸の人は高架下と言っている。
そのガード下を横切る幹線道路、新橋、有楽町、御徒町、と神戸の三ノ宮、元町とは余りに光景がよく似て居る。終戦直後、そこは昼間靴磨き少年と物乞いの溜り場、夜は夜のパンパンの巣窟。
ジープ通り米兵が闊歩する。丸の内の第一ビルが接収されてG.H.Qの本部が置かれ日比谷映画街の宝塚会館も接収されて進駐軍相手のアーニー・パイル劇場となる。そして銀座四丁目の和光はP.Xになる。
神戸でも同じ繁華街のど真ん中、三ノ宮に進駐軍のキャンプが建つ。銀座も三ノ宮も米兵がうじょうじょ居る。人の溜まり所、人が集まる、金の稼ぎになるから、金をねだることができるから、こうしてシューシャイン・ボーイ、ルンペン、浮浪児、パンパン、と群がる。
一気に解消される訳なく戦後10年経ってもこの光景は失わなかった。高度成長期に一時一掃、しかし平成に入ってから又長い長い不況、上野公園はホームレスの青テント村になる。
こんな終戦直後の光景を歌ったのが「ガード下の靴磨き」~風の寒さやひもじさは馴れているから泣かないが、あゝ夢がないのがつらいのさ、とこの心情、程度の差こそあれ、日本人全員が共有してた体験。
これは一級の社会歌謡である。宮城まり子はどちらかと言えばコメディアン、「夕刊小僧」「毒消しゃいらんかね」とかのコミック・ソングを飛ばす、映画やステージで活躍、ユニークなキャラクターを持っていたがその底に何か人生の泣き笑いを密ませて居た。
いつの間にやら芸能界から引き下がり孤児院、ねむの木学園を設立。ボランティアに生涯を賭けた。今頃85歳を過ぎたという。どうして居るかな?健在かな?
A-8 スイスの娘 ウイリー・中山 訳詩井田誠一 外国曲 昭和30年
A-9 峠の我が家 ウイリー・中山 アメリカ民謡 昭和30年
凄い人、兎に角歌が上手い声にバネ、艶があってよい。フィーリング抜群、上手すぎて感動してしまう。それにヨーデル唱法がいい。灰田勝彦を超えるのではと思う。
ウイリーのデビュー当時、ウエスタンの全盛時代、本場アメリカもウエスタンのピーク。ハンク・ウイリアムズの黄金時代、ところがハンクの急死。
この時、時代の大きなうねり、ハンクの急死が象徴的。ウエスタンが瞬く間に性格変えてロカビリーになって、本来のウエスタンとは違う新しい音楽ロカビリーとなった。
若者はこぞってこのロカビリーに飛びつく。昔からのウエスタンは静かに潜伏、ウエスタン・ブームはそのままロカビリー旋風に吞み込まれた。小坂一也もプレスリーのレパートリーを歌う。
ウイリー・中山はその時のウエスタンを歌い乍ら、マイナーとして存在することになった。知る人ぞ知る、少数派に転落したウエスタン、しかしマイナー乍ら今もちゃんと存在している。
ウエスタンなんか言ってみればアメリカの心、アメリカ人の郷愁ですから、今も生き続けて居る。「峠の我が家」は、戦前ビング・クロスビーが歌って、日本では灰田勝彦が歌ってたホーム・ソングです。
B-1 ウスクダラ 江利チエミ 昭和30年
昭和27年ひばりより三年後れてチエミがデビューした。この時チエミは15歳「テネシー・ワルツ」を歌って、デビューヒット。その一年後いずみが「思い出のワルツ」を歌ってデビュー。
ひばりコロムビア、チエミキング、いづみビクターと各社で競演。人気もひばり一位、チエミ二位、いづみ三位を占め、これから五年間は三人娘の全盛時代、今のアイドル歌手と違って、三人が三人とも歌唱力秀れている
チエミは幾分、ニグロ的なポップスが得意、ウスクダラは、ボスポラス海峡でイスタンブールに対峙している。
B-2 シシカバブ 江利チエミ 昭和31年
これもトルコの歌、シシカバブとは串焼のこと。チエミは明るいキャラクターで庶民的なムード。全盛時代「サザエさん」なんかになってこれが大変な当たり芸。
この時代高倉健と電撃結婚、当時としてはスターとしてチエミの方がうんと格が上、どうしてチエミが自殺したのか、それは謎のまま。高倉健も鬼籍の人となったので永遠の謎をなりました。
B-3 ビーバップ・ア・ルーラ 雪村いづみ 昭和33年
B-4 スワニー 雪村いづみ 昭和33年
チエミの二グロっぽさと比べたら、いづみは完全にアメリカナイズされている。幾分白人的、この人口蓋が広いので声量豊か。本格的なジャズが活かされる技量持っているのだが十分活かしきってないのが残念。
チエミの「サザエさん」に対していづみは「あんみつ姫」米人と結婚、娘が一人居る。三人娘の中でいづみだけが子供が居る。平成26年77歳三人娘の中でいずみが健在である。
B-5 上海 美空ひばり 昭和29年
B-6 A列車で行こう 美空ひばり 昭和29年
ひばりは天才と誰もが言う、じゃ、どこが天才なの?歌が上手いから、当たり前のこと。プロの歌手でしたら至極当然のこと。
「柔」「悲しい酒」等名唱じゃないか、名唱と思います。しかし私、古賀演歌好きじゃない。重すぎて従来ひばりの持ってた軽快な魅力が失って嫌いでした。それに「真っ赤な太陽」、歌った時丁度30歳になった処。まだ30歳ですよ、もうオバチャンで貫禄つきすぎて嫌でした。
オバチャンのくせにミニ・スカートはいてグループ・サウンズ調の歌、歌って奇怪、お化けに感じました。それから“歌は我が生命”と背負い込み過ぎて、演歌ばかり歌い、ひたすら女王の道を歩く。
弟二人の不祥事件。強力なステージ・ママとの二人三脚、そしてやくざとの関係が暴露。育ちの悪さばかりが見えて嫌でした。勿論、世間もそっぽ向く。人気も降下、それでも歌謡界の女王として君臨していました。
弟二人が死亡、母親も他界、ひばりは孤独になる。この時になってはじめて何かが溶けた。「愛燦燦」「みだれ髪」「塩屋埼」このあたりからです。
女王と言う奇怪なトゲが抜けて、まるで遺言の如く絶唱、しかし闘病虚しく稀代の大歌手鬼籍の人となる。ひばりの死と共に昭和は終った。ひばりの才能をしっかり開花させたのは米山正夫、この人は自らの才能を惜しみなく心血そそいで絞り出し実験作、試験作をひばりに与えた。
ひばりはそれをうまくキャッチ応えた。ひばり16歳「リンゴ追分」からである。「桃太郎行進曲」「アルプスの娘たち」「やくざ若衆祭り唄」「長崎の蝶々さん」「ロカビリー剣法」「花笠道中」「アンデスの山高帽子」「べらんめえ芸者」「ひばりのドドンパ」「車屋さん」「日和下駄」「テンガロン・ハット」「関東春雨傘」、に至るまで何と10年間に及ぶひばり=米山とのコンビ、この間米山は一曲たりとも二番煎じはなし曲想は全て違う。
世間はこれを評価してない。いや心ある人は評価してるに違いないが電波には乗って届いていない。テレビなんて偏向している。受けることしか発信しない、ひばり=古賀政男と引っつけようとしている。
私は寧ろ服部良一ともあろうとも人、触手が動いたに違いない。恐らく背後に笠置がストップをかけたんだと想像する。笠置の持ち唄はブギ、これをひばりに持って行かれたらアウト。笠置の強敵である。
服部はたった一曲だけ、ひばりに「銀ブラ娘」を与えた。こうしてひばり=服部のコンビはならず。ひばりは10代後半一つの壁にぶち当たった。子供から大人へ脱皮する難しい時期何となく乗り越えたが、この時、多くのジャズを歌った。
これが又上手い。英語の発音も絶妙、歌が上手いってことは人並以上耳が秀れているってこと。抜群のフィーリングで歌っている。これを知って脅威と感じる、脅威と感じられるから天才なのである。
伴奏する楽団は誰か分らないけれど、ひばりの余りの上手さに乗っている。つい乗せられたと言うか余りの上手に唖然とした、もっとこんなひばりを知ってもらいたい。
B-7 銀座の雀 森繫久弥 野上彰作詞 仁木他喜雄作曲 昭和30年
これは流行歌史上最高最大の名曲だと絶賛したい。先に言ったように仁木他喜雄、決して多作の作曲家ではない。でも書くとテキメン、最優秀作品になる。つまり頭脳がピカッとしていたのでしょうね。銀座は女の町?一流ブランドの店が軒並ならんで確かに最新モードのファッション・タウンである。
しかし昭和30年代までは確かに男の町だったと思う。丸の内のビジネス街に続いて有楽町、日比谷はマスコミ報道関係の会社が集中、朝日、毎日、読売、NHK、ビクター、コロムビアのスタジオもここにあった。つまり記者の町だったんです。
言ってみればインテリ・ゴロでしょう。市井の何気ない人がもの凄いインテリだったり、とか風采は決してよくない、どこかでバサッとしている。秋風、木枯らしを避けるようによれよれのトレンチコートの襟を立てている。片手にタバコ、もう一つの片手はポケットに突っこんで居る。どこかくたぶれた風采、後ろ姿は幾星霜の跡を感じる哀愁が漂って来る。こんな男どもが“銀座の雀”である。
ところが今は女性社会、有楽町、日比谷界隈から報道関係が散らばる。つまり男の仕事場がなくなる。映画街は衰退、残ったのは宝塚会館のみ。そこに女性が群がる。
渋谷、原宿はガキの町。男の持ち物は安いものばかりになる。仕立屋も必要なし、スーツはオール・リクルート・ファッション、お金を持ったオジサン方はマイ・ホーム・パパになり籠の鳥。銀座の高級クラブはやって行けなくなり廃業。代って進出したのは女子会。会社接待、交際費を出さなくなった。
例えエリート・サラリーマンでも自腹で割カンになる。女性が占領した有楽町から新橋の居酒屋、安い酒場に移動し新橋がオジサンの町となった・銀座からはキャバレーもナイトクラブも消滅。夜の巷を散財する人も居なくなった。銀座だけでなく新宿も、それぞれ金目が小さくなったに違いない。
飲み食い、ファッションばかりに金を使ってた時代は終った。ローン、子供の教育費、車は当たり前のこと、ケイタイ、スマホにお金がかかる、老後の年金も不安。
男盛り、遊びたい盛りの40代も、不安定要素が重なり加えて、男性天国の時代は終ってしまった。銀座は日本一の繁華街でかつ日本一の盛り場、人間模様、様々かつその坩堝である。
昭和30年代までは、ここに住民も沢山居た。泰明小学校もあったが今は廃校。路地裏に回ると子供達が遊んでいた。狭い土地空間に人々はぎっしり詰って住んでいた。
物干台に洗濯ものが風にヒラヒラ舞う軒下に雀がチュンチュン、銀座の空に燕がスイスイ飛ぶ生活感に溢れていた。今や銀座生れなんていないだろう。単なる商業、オフィス、と生活する所でなく業務センターとなった。
銀座に住民の吐く息、報道関係、記者達、忙しそうな人、くたびれた人、女子供まで含めて有機的に人の吐く息が発散された頃、銀座八丁人生悲喜こもごも人の営みに溢れて銀座わが町だった。
「銀座の雀」はそんなものを画いていた。森繁この頃、40代に入ったところ、今と違って、しっかりオジサンになっている。オジサンの渋味たっぷり森繫節で歌っている。これは確かに男の歌である。流行歌なのだが、まるでシャンソンである。そう和製シャンソン、かむ程に味が湧いて来る名曲名演である。
B-8 何日君再来 周璇 1938年
松平晃のところで語ったので重複を避けます。今から90年前のこと、そんな遠い昔と今、生活、思想、価値観、様々な面で隔世の観ありです。
日本は1868年明治維新、中国は1911年、大正元年に辛亥革命、つまり43年の差があります。私の父は明治40年生れ、中国で言うと清朝、宜統二年、ラスト・エンペラーの溥儀時代の生れ。台湾は既に日清条約締結後、下関条約に依って日本に割譲されたところ。
従って日本教育を受けたので、母国語は台湾語、日本語はできるが、現代中国語、北京語はできない。父の母、つまり祖母ですが古い清朝時代の風習に従って纏足でした。
旧中国では、も同じですが、女性の結婚年齢は異常に早い。14,5歳で結婚、古い台湾の歌で17,8歳になったのにまだ結婚してない、と言う歌詞がありますが、それは日本も同じこと童謡に姉やは15で嫁に行った、と言う歌詞があります。
実際私の叔母は14で結婚、15で第一子を生んでいます。私の母は21で結婚、この頃で言うと行き遅れ、晩婚です。戦前までの中国、台湾では廿歳過ぎればもうオバサン、嫁のもらい手がなくなる。
この周璇の歌声聞いてみると、どう考えても少女の声、まだあどけなさが残っている。可憐な声である。まだ蕾、今花が咲こうかとしている微妙な年令。
芳紀18歳、元来芳紀なんて20歳過ぎてからは使ってない、十九の春、とも言うでしょう。つまり18,9が春爛漫花盛りってこと。
タンゴでもそうです。1920年代までの女性歌手、廿歳までが花の生命、誠花の生命は短しだったのです。
そんなご時世でしたから、192、30年代まで世界中が同じ考え方、可憐な女の子の声を尊ばれていた。恐らく当時、「何日君再来」を歌っていた頃、周璇は16,7歳だったと思う。
台詞を語る男の声も18、9歳のまだ少年っぽさが抜けきれない若い青年の声だと思います。つまり紅顔の美少年の年頃。一昔どころか三昔、四昔前、この時は結婚適齢期だったのです。
それ程昔でなくても一昔前まで、40代は男盛り、47、48になるとロマンス・グレイ、50代になると初老、60歳は還暦でもう老人なのです。今は60代女性の集まりも女子会と言いますネ。
昔から考えたら15―20歳若くなった。じゃ若く見えるようになったからって、更年期が遅れたかって、いやさほど変わってない。出産年齢は伸びたかって?いやこれもさほど変わってない。見た目と、中味は違う。以上、余談でした。
B-9 あいつ 旗照夫 平岡精二作詞作曲 昭和33年
素晴らしくセンスよい素敵な曲です。平岡精二はジャズメン後年ペギー葉山の「爪」「学生時代」を作曲した人です。いづれも日本の歌謡曲とは思えない素晴らしい曲を書いています。
旗照夫はジャズ、ポップスのシンガー、活躍は地味でしたがその筋の層の人には支持されて着実に歩んでいました。歳の頃は、現在、多分80歳前後、丁度、ロックが登場した頃、しかし全員が全員それに染まっていた時代で言わゆるオーソドックスな線、ペギー葉山もそうですが、その線の最後の歌手。レコードがSPからEP,LPへ変る時期「あいつ」はSP、EP両盤で発売されました。
ペギー葉山の大ヒット曲「南国土佐を後にして」や平尾昌晃の「星は何でも知っている」が丁度SPレコードの最後。昭和35年にはSPレコード発売停止、それにもうステレオ・レコードが出回った。そしてスクリーンは70mm、テレビはほとんどの家庭に普及、私の中学三年間は生活激変期でした。
ロック・ヌーベルバーグ、アクション映画、裕次郎から小林旭の時代へ、そしてトランジスタ・ラジオにオープン・リールでしたがテープレコーダーの普及、ソニー、ダイエーの躍進、造船王国日本、「恋の片道切符」「可愛いベイビー」「月影のナポリ」「ルイジアナ・ママ」、ザ・ピーナッツ、坂本九等々、世は騒然、これがガキ文化のはじまり。そしてこれが高度成長期のはじまりでした。
私はこの頃からそっぽを向けて高校時代、タンゴと出会う。VAN,JUN、アイビールック、「平凡パンチ」には乗りましたが、ビートルズ、長髪、ヒッピー、Gパン、Tシャツには乗れなかった。微妙な時代の接点、僅か2,3年の差で団塊世代、隣り合わせでタッチの差、昭和20年生れ世代は、吉永小百合とタモリが同年齢。
団塊世代と一寸だけ違う。我々の同級生、大学時代、マンガをむしゃぶり食いついて読むってことはなかった。よく眺めてみると、まだ女子大生が少なく、急スピードで増えて行くので“女子大生亡国論”が出た程、そして大卒の同級生を見てもまだ見合い結婚の方が多いように感じる。
2歳差で団塊世代、ここで激変したのです。「あいつ」の歌詞は何とも複雑、どうにでも解釈できる歌詞、友情だとも、いやそうじゃなくて、これはどうも同性愛を暗示してるぞ、という説もある。映画の「太陽がいっぱい」と「アラビアのロレンス」もそのような説、密かな隠しごとを感じますが、ルキノ・ヴィスコンティの作品からは明確になりました。
まあそれは作者、平岡精二の意図する処、作者に直接聞いてみないと判りませんが平岡は夭折、もうこの世の人ではありません。いづれにせよ、曲よし、私の好きな曲であります。なかなか洒落れて実にスマート。本当に素晴らしい曲であります。


■歌詞
○1 侍ニッポン 徳山璉 昭和 6年
1 人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代(さかやき) 寂しく撫でて
新納鶴千代 にが笑い
2 きのう勤皇 あしたは佐幕
その日その日の 出来心
どうせおいらは 裏切り者よ
野暮な大小 落とし差し
3 流れ流れて 大利根こえて
水戸は二の丸 三の丸
おれも生きたや 人間らしく
梅の花咲く 春じゃもの
4 命とろうか 女をとろか
死ぬも生きるも 五分と五分
泣いて笑って 鯉口切れば
江戸の桜田 雪が降る
○2 ころがせころがせビール樽 徳山璉 昭和 6年
ころがせころがせびいる樽
赤い夕日のなだら坂
とめてもとまらぬものならば
ころがせころがせびいる樽
○3 夜の酒場に 徳山璉 昭和 7年
1 夜の酒場に 聴く雨の
なぜにかくまで 身には泌む
乾せども酔わぬ 盃に
浮かぶは君が まぼろしか
2 夜の酒場に 聴く雨の
なぜに昔を 偲ばする
やさしき愛の 想い出の
涙を誘う 通り雨
○4 想い出のギター 徳山璉・藤山一郎 昭和 8年
○5 ルンペン節 徳山璉 昭和 6年
1 青い空から紙幣(さつ)の束が降って
とろり昼寝の 頬ぺたをたたく
五両十両百両に千両
費(つか)い切れずに 目がさめた
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの 空財布
でも、ルンペンのんきだね
2 酔った酔ったよ 五勺の酒で
酔った目で見りゃ スベタも美人
バット一本 ふたつに折って
わけて喫うのもおつなもの
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの空財布 でも、
ルンペンのんきだね
3 プロの天国 木賃ホテル
抱いて寝てみりゃ 膝っこも可愛い
柏蒲団に 時雨を聴けば
死んだ女房(おっかあ)が夢に来た
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの空財布
でも、ルンペンのんきだね
4 金がないとて くよくよするな
金があっても白髪ははえる
お金持ちでもお墓はひとつ
泣くも笑うも五十年
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの空財布
でも、ルンペンのんきだね
○6 赤い灯青い灯 徳山璉 昭和 9年
1 赤い夕陽の 街から街へ
行方さだめぬ ララ 旅の鳥
燃える窓の灯 恋の雨
ぬれて一夜を ララ 泣きましょか
2 今朝の別れに あの娘がくれた
花は紅バラ ララ 深情け
風は野を吹く バラを吹く
どこに埋めましょ ララ 恋の花
3 秋が来たとて つばめは帰る
帰るあてない ララ 旅暮らし
街のサーカス 日は暮れて
フラやジンタも ララ 泣いている
4 国を離れて 旅から旅へ
わたしゃ蒲公英(たんぽぽ) ララ 風まかせ
今宵七日の 月の暈(かさ)
あの娘しのんで ララ 泣きましょか
○7 百万人の合唱 徳山璉 昭和10年
○8 大将閣下の名はブムブム徳山璉 昭和 6年
○9 ガラマサどん 徳山璉・古川緑波・江戸川蘭子 昭和13年
○10 天から煙草が 徳山璉 昭和15年
●1 サーカスの唄 松平晃 昭和 8年
1 旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た
2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情
3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ
4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で
●2 急げ幌馬車 松平晃 昭和 8年
1 日暮れ悲しや 荒野(あれの)は遙か
急げ幌馬車 鈴の音(ね)だより
どうせ気まぐれ さすらいものよ
山はたそがれ 旅の空
別れともなく 別れて来たが
心とぼしや 涙がにじむ
野越え山越え 何処までつづく
しるすわだちも 片あかり
2 黒馬(あお)はいななく 吹雪は荒れる
さぞや寒かろ 北山おろし
なくな嘆くな いとしの駒よ
なけば涙も なおいとし
●3 砂漠の旅 松平晃 昭和10年
●4 何日君再来 松平晃 昭和14年
1 忘れられない あのおもかげよ
ともしび揺れる この霧のなか
ふたりならんで よりそいながら
ささやきも ほほえみも
たのしくとけ合い 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつまたかえる
2 忘れられない あの日のころよ
その風かおる この並木みち
肩をならべて ふたりっきりで
よろこびも 悲しみも
うちあけなぐさめ 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつまたあえる
3 忘れられない 思い出ばかり
わかれていまは この並木みち
胸にうかぶは 君のおもかげ
おもいでを だきしめて
ひたすら待つ身の わびしいこの日
ああ いとし君 いつまたかえる
●5 山の人気者 中野忠晴 昭和 8年
1 山の人気者 それはミルク屋
朝から夜まで 唄をふりまく
牧場はひろびろ 声はほがらか
その節のよさは アルプスの華
2 娘という娘は ユーレイティ
ふらふらと ユーレイティ
ミルク売りを慕う ユーレイティ
ユーレイ ユーレイティ
さすがはのど自慢 すごい腕前
乳しぼるほかに 招きよせて
娘たちをまどわせる
3 山のミルク屋は いつもほがらか
乳をしぼる間も 歌を忘れず
のどかな山彦 丘より谷ヘ
アルプスの峰に こだまをかえす
4 娘という娘は ユーレイティ
ふらふらと ユーレイティ
ミルク売りを慕う ユーレイティ
ユーレイ ユーレイティ
乳しぼりがくれば 山の娘ら
はたおる手を休め 窓のそと
とおる歌にききほれる
●6 ミルク色だよ 中野忠晴 昭和 9年
●7 小さな喫茶店 中野忠晴 昭和10年
1 それは去年のことだった
星のきれいな宵だった
二人で歩いた思い出の小径だよ
なつかしいあの
過ぎた日のことが浮かぶよ
この道を歩くとき
なにかしら悩ましくなる
春先の宵だったが
2 小さな喫茶店に
入ったときも二人は
お茶とお菓子を前にして
ひとこともしゃべらぬ
そばでラジオが甘い歌を
やさしく歌ってたが
二人はただ黙って
向き合っていたっけね
●8 バンジョーで唄えば 中野忠晴 昭和12年
1 雲と一緒に 山を越え
心もかるく 気もかるく
悲しい恋は あきらめて
陽気な歌の ひとりたび
バンジョーを弾こうよ 歌おうよ
バンジョーは陽気な バカボンド
2 今日も昨日も 朗らかに
緑の牧場を 歌いつつ
流れ流れて 来て見れば
南の国は 夢の園
バンジョーを弾こうよ 歌おうよ
バンジョーはたのしい バカボンド
3 しずむこころの たそがれは
かわいいバンジョーを 抱きよせて
弾けばひとりで 歌が出る
歌えばたのし 気がはれる
バンジョーを弾こうよ 歌おうよ
バンジョーはうれしい バカボンド
●9 チャイナタンゴ 中野忠晴 昭和14年
1 チャイナ・タンゴ 夢の唄
紅の提灯 ゆらゆらと
風にゆれ 唄にゆれ
ゆれてくれゆく 支那の街
チャイナ・タウン 月の夜
チャイナ・タンゴ 夢ほのぼのと
チャルメラも 消えてゆく
遠い赤い灯 青い灯も
クーニャンの 前髪の
やるせなくなく 夜は更ける
2 チャイナ・タンゴ 夜の唄
深い夜空に しっぽりと
霧に濡れ 唄に濡れ
蘇州がよいの ジャンク船
チャイナ・タウン 月の夜
チャイナ・タンゴ 夢ほのぼのと
街角の 紅の窓
青いひすいの 玉ゆれて
クーニャンの 前髪に
影もたのしく 夜は更ける
●10 泪のタンゴ 松平晃 昭和12年
1 夜の幕(とばり)は いつしか迫り
青い月影 窓辺に射せば
今宵も静かに 君を偲(しの)ぶ
懐かしの面影 心に描く
2 恋の調べは 心を乱し
楽し想い出 涙を誘う
幾年(いくとせ)別れて 独りあれど
今も尚恋しき 昔の君よ
○1 国境の町 東海林太郎 昭和10年
1 橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
雪の曠野(こうや)よ 町の灯よ
一つ山越しゃ 他国の星が
凍りつくよな 国境(くにざかい)
2 故郷はなれて はるばる千里
なんで想いが 届こうぞ
遠きあの空 つくづく眺め
男泣きする 宵もある
3 明日(あす)に望みが ないではないが
頼み少ない ただ一人
赤い夕日も 身につまされて
泣くが無理かよ 渡り鳥
4 行方知らない さすらい暮し
空も灰色 また吹雪
想いばかりが ただただ燃えて
君と逢うのは いつの日ぞ
○2 椰子の実 東海林太郎 昭和11年
1 名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん
○3 裏町人生 上原敏・結城道子 昭和12年
1 暗い浮世の この裏町を
覗く冷たい こぼれ陽よ
なまじかけるな 薄情け
夢も侘しい 夜の花
2 やけにふかした 煙草のけむり
心うつろな おにあざみ
ままよ火の酒 あおろうと
夜の花なら くるい咲き
3 誰に踏まれて 咲こうと散ろと
要らぬお世話さ 放っときな
渡る世間を 舌打ちで
すねた妾が なぜ悪い
4 霧の深さに 隠れて泣いた
夢が一つの 想い出さ
泣いて泪が 枯れたなら
明日の光りを 胸に抱く
○4 上海の街角で 東海林太郎 昭和13年
リラの花散る キャバレーで逢うて
今宵別れる 街の角
紅の月さえ 瞼ににじむ
夢の四馬路(すまろ)が 懐しや
「おい、もう泣くなよ、あれをごらん、
ほんのりと紅の月が出てるじゃアないか、
何もかもあの晩の通りだ。
去年初めて君に逢ったのも
恰度リラの花咲く頃
今年別れるのも、又リラの花散る晩だ。
そして場所はやっぱりこの四馬路だったなア。
あれから一年、激しい戦火をあびたが、
今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た。
ホラお聴き、ネ、昔ながらの
支那音楽も聞こえるじゃないか」
泣いて歩いちゃ 人眼について
男船乗りゃ 気がひける
せめて昨日の 純情のままで
涙かくして 別れよか
「君は故郷へ帰って、たった一人の
お母さんと大事に暮らし給え。
僕も明日からやくざな「上海往来」をやめて
新しい北支の天地へ行く、そこには
僕の仕事が待っていてくれるのだ。
ねエ、それがおい互いの幸福だ。
さァ少しばかりだが、これを船賃の足しに
して日本へ帰ってくれ。やがて十時だ、
汽船も出るから、せめて埠頭まで送って行こう」
君を愛して いりゃこそ僕は
出世しなけりゃ 恥かしい
棄てる気じゃない 別れて暫し
故郷で待てよと いうことさ
○5 波止場気質 上原敏 昭和13年
1 別れ惜しむな 銅鑼の音に
沖は希望の 朝ぼらけ
啼くな鴎よ あの娘には
晴れの出船の 黒けむり
2 熱い涙が あればこそ
可愛いあの娘の 楯となり
護り通して 来た俺だ
波止場気質を 知らないか
3 船を見送る この俺が
流す涙は 恋じゃない
ほんにあの娘の 幸福を
嬉し涙で 祈るのさ
○6 緑の地平線 楠木繁夫 昭和10年
1 なぜか忘れぬ人ゆえに
涙かくして踊る夜は
濡れし瞳にすすり泣く
リラの花さえなつかしや
2 わざと気強くふりすてて
無理に注がして飲む酒も
霧の都の夜は更けて
夢もはかなく散りて行く
3 山のけむりを慕いつつ
いとし小鳩の声きけば
遠き前途(ゆくて)にほのぼのと
緑うれしや地平線
○7 東京ラプソディー 藤山一郎 昭和11年
1 花咲き 花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
2 現(うつつ)に夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの 鐘も鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
3 明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
4 夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
5 花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
○8 満州娘 服部富子 昭和13年
1 私十六 満州娘
春よ三月 雪解けに
迎春花が 咲いたなら
お嫁に行きます 隣村
王さん 待ってて 頂戴ネ
2 銅鑼や太鼓に 送られながら
花の馬車に 揺られてる
恥かしいやら 嬉しいやら
お嫁に行く日の 夢ばかり
王さん 待ってて 頂戴ネ
3 雪よ氷よ 冷たい風は
北のロシアで 吹けば良い
晴衣も母と 縫うて待つ
満州の春よ 飛んで来い
王さん 待ってて 頂戴ネ
●1 上海ブルース ディック・ミネ 昭和13年
1 涙ぐんでる上海の
夢の四馬路(スマロ)の街の灯
リラの花散る今宵は
君を思い出す
何にも言わずに別れたね 君と僕
ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
なぜか忘れぬ面影
波よ荒れるな碼頭(はとば)の
月もエトランゼ
二度とは会えない 別れたらあの瞳
思いは乱れる 上海の月の下
●2 月月火水木金金 内田栄一ボーカルフォア 昭和15年
1 朝だ夜明けだ 潮の息吹き
うんと吸い込む あかがね色の
胸に若さの 漲る誇り
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
2 赤い太陽に 流れる汗を
拭いてにっこり 大砲手入れ
太平洋の 波、波、波に
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金
3 度胸ひとつに 火のような錬磨
旗は鳴る鳴る ラッパは響く
行くぞ日の丸 日本の艦だ
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
4 どんとぶつかる 怒涛の唄に
ゆれる釣床 今宵の夢は
明日の戦さの この腕試し
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金
●3 別れのブルース 淡谷のり子 昭和12年
1 窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船(でぶね)は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ
2 腕にいかりの いれずみほって
やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても
恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ
●4 愛国行進曲 コロムビア歌手陣昭和12年
1 見よ東海の 空あけて
旭日(きょくじつ)高く 輝けば
天地の正気(せいき) 溌剌(はつらつ)と
希望は躍る 大八洲(おおやしま)
おお晴朗の 朝雲に
聳(そび)ゆる富士の 姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ) 揺るぎなき
わが日本の 誇りなれ
2 起(た)て一系の 大君(おおきみ)を
光と永久(とわ)に 戴きて
臣民我等 皆共に
御稜威(みいつ)に副(そ)はむ 大使命
往け八紘(はっこう)を 宇(いえ)となし
四海(しかい)の人を 導きて
正しき平和 うち建てむ
理想は花と 咲き薫(かお)る
3 いま幾度(いくたび)か 我が上に
試練の嵐 哮(たけ)るとも
断固と守れ その正義
進まん道は 一つのみ
ああ悠遠(ゆうえん)の 神代(かみよ)より
轟(とどろ)く歩調 うけつぎて
大行進の 往く彼方
皇国つねに 栄(さかえ)あれ
●5 シナの夜 渡辺はま子昭和13年
1 シナの夜 シナの夜よ
港の灯り 紫の夜に
上るジャンクの 夢の船
アー 忘られぬ 胡弓の音
シナの夜 夢の夜
2 シナの夜 シナの夜よ
柳の窓に ランタンゆれて
赤い鳥かご シナ娘
アー やるせない 愛の歌
シナの夜 夢の夜
3 シナの夜 シナの夜よ
君待つ宵は 欄干(おばしま)の雨に
花も散る散る 紅も散る
アー 別れても 忘らりょか
シナの夜 夢の夜
●6 高原の旅愁 伊藤久雄 昭和15年
1 むかしの夢の 懐かしく
訪ね来たりし 信濃路の
山よ小川よ また森よ
姿むかしの ままなれど
なぜにかの君 影もなし
2 乙女の胸に 忍び寄る
啼(な)いて淋しき 閑古鳥(かんこどり)
君の声かと 立ち寄れば
消えて冷たく 岩蔭に
清水ほろほろ 湧くばかり
3 過ぎにし夢と 思いつつ
山路下れば さやさやと
峠吹き来る 山の風
胸に優しく 懐かしく
明日の希望を 囁(ささや)くよ
●7 蘇州夜曲 渡辺はま子昭和15年
1 君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の歌
水の蘇州の 花ちる春を
惜しむか柳が すすり泣く
2 花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも
髪に飾ろか 口づけしよか
君が手折(たお)りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺
●8 めんこい仔馬 二葉あき子他 昭和15年
1 ぬれた仔馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝のつゆ
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
かけていこうかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
2 わらの上から育ててよ
今じゃ毛なみも光ってる
おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ
3 西のお空は夕焼けだ
仔馬かえろう おうちには
おまえの母さん まっている オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌
4 月が出た出た まんまるだ
仔馬のおへやも明るいぞ
よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
あしたは朝からまたあそぼ
ハイド ハイドウ またあそぼ
○1 上海の花売娘 岡晴夫 昭和7年
1 紅いランタン ほのかにゆれる
宵の上海 花売娘
誰の形見か 可愛い耳輪
じっとみつめる 優しい瞳
あゝ 上海の花売娘
2 霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売娘
白い花籠 ピンクのリボン
襦子もなつかし 黄色の小靴
あゝ 上海の花売娘
3 星も胡弓も 琥珀の酒も
夢の上海 花売娘
パイプくわえた マドロスたちの
ふかす煙の 消えゆく蔭に
あゝ 上海の花売娘
○2 無常の夢 児玉好雄 昭和10年
1 あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ
2 喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょうか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き
○3 長崎物語 由利あけみ 昭和13年
1 赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
2 坂の長崎 石畳
南京煙火に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ流れ行く
ララ流れ行く
3 平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
○4 燦めく星座 灰田勝彦 昭和15年
1 男純情の 愛の星の色
冴えて夜空に ただ一つ
あふれる想い
春を呼んでは 夢見ては
うれしく輝くよ
思い込んだら 命がけ
男のこころ
燃える希望(のぞみ)だ 憧れだ
燦めく金の星
2 なぜに流れくる 熱い涙やら
これが若さと いうものさ
楽しじゃないか
強い額(ひたい)に 星の色
うつして歌おうよ
生きる命は 一筋に
男のこころ
燃える希望だ 憧れだ
燦めく金の星
○5 隣組 徳山璉 昭和15年
1 とんとん とんからりと 隣組
格子(こうし)を開ければ顔なじみ
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり
2 とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
ご飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり
3 とんとん とんからりと 隣組
地震や雷 火事どろぼう
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり
4 とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯(ひとじょたい)
こころは一つの 屋根の月
纏(まと)められたり 纏めたり
○6 新雪 灰田勝彦 昭和15年
1 紫けむる 新雪の
峰ふり仰ぐ このこころ
麓の丘の 小草を敷けば
草の青さが 身に沁みる
2 けがれを知らぬ 新雪の
素肌へ匂う 朝の陽よ
若い人生に 幸あれかしと
祈るまぶたに 湧く涙
3 大地を踏んで がっちりと
未来に続く 尾根づたい
新雪光る あの峰越えて
行こうよ元気で 若人よ
○7 空の神兵 四家文子・鳴海信輔 昭和17年
1 藍(あい)より蒼(あお)き 大空に 大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇(ばら)の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征(ゆ)く
見よ落下傘 空を征く
2 世紀の華(はな)よ 落下傘 落下傘
その純白に 赤き血を
捧げて悔(く)いぬ 奇襲隊
この青空も 敵の空
この山河も 敵の陣
この山河も 敵の陣
3 敵撃摧(げきさい)と 舞降(くだ)る 舞降る
まなじり高き つわものの
いずくか見ゆる おさな顔
ああ純白の 花負いて
ああ青雲に 花負いて
ああ青雲に 花負いて
4 讃(たた)えよ空の 神兵を 神兵を
肉弾粉(こな)と 砕くとも
撃(う)ちてしやまぬ 大和魂(やまとだま)
わが丈夫(ますらお)は 天降(あまくだ)る
わが皇軍は 天降る
わが皇軍は 天降る
○8 婦系図の歌 小畑実・藤原亮子 昭和18年
【女】
1 湯島通れば 想い出す
お蔦主税の 心意気
知るや白梅 玉垣に
残る二人の 影法師
【男】
2 忘れられよか 筒井筒(つついづつ)
岸の柳の 縁むすび
かたい契りを 義理ゆえに
水に流すも 江戸育ち
【男女】
3 青い瓦斯燈(がすとう) 境内を
出れば本郷 切通し
あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
鐘は墨絵の 上野山
●1 朝はどこから 岡本敦朗・安西愛子 昭和22年
1 朝はどこから来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」「お早う」
2 昼はどこから来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは働く家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」
3 夜はどこから来るかしら
あの星越えて 月越えて
おとぎの国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」
●2 浅草の唄 藤山一郎 昭和22年
1 つよいばかりが 男じゃないと
いつか教えて くれた人
どこのどなたか 知らないけれど
鳩といっしょに 唄ってた
ああ 浅草のその唄を
2 可愛いあの子と シネマを出れば
肩にささやく こぬか雨
かたい約束 かわして通る
田原町から 雷門
ああ 浅草のこぬか雨
3 池にうつるは 六区の灯り
忘れられない よいの灯よ
泣くな サックスよ 泣かすなギター
明日もあかるい 朝がくる
ああ 浅草のよい灯り
4 吹いた口笛 夜霧にとけて
ボクの浅草 夜が更ける
鳩も寝たかな 梢のかげで
月がみている よもぎ月
ああ 浅草のおぼろ月
●3 夢淡き東京 藤山一郎 昭和22年
1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
誰を待つ心 可愛いガラス窓
かすむは春の青空か あの屋根は
かがやく聖路加(せいろか)か
はるかに朝の虹も出た
誰を待つ心 淡き夢の町 東京
2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
川の流れにも 嘆きをすてたまえ
なつかし岸に聞こえ来る あの音は
むかしの三味(しゃみ)の音か
遠くに踊る影ひとつ
川の流れさえ 淡き夢の町 東京
3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
風に通わすか 願うは同じ夢
ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
夕日に染めた顔
茜の雲を見つめてた
風に通わすか 淡き夢の町 東京
4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
小雨が道にそぼ降れば あの灯り
うるみてなやましく
あわれはいつか雨にとけ
せまい露路裏も 淡き夢の町 東京
●4 港が見える丘 平野愛子 昭和22年
1 あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜唯一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛咽(むせ)び泣けば
チラリホラリと花片(はなびら)
あなたと私に降りかかる
春の午後でした
2 あなたと別れたあの夜は
港が暗い夜
青白い灯り唯一つ
桜を照らしてた
船の汽笛消えて行けば
チラリホラリと花片
涙の雫にきらめいた
霧の夜でした
3 あなたを想うて来る丘は
港がみえる丘
葉桜をソヨロ訪れる
しお風 浜の風
船の汽笛遠く聞いて
うつらとろりと見る夢
あなたの口許 あの笑顔
淡い夢でした
●5 泪の乾杯 竹山逸郎 昭和22年
1 酒は飲めども なぜ酔わぬ
満たすグラスの その底に
描く幻 彼(か)の君の
紅き唇 紅き唇 今いずこ
2 暗き酒場の 窓伝(つと)う
雨の滴(しずく)も 想い出の
熱き泪(なみだ)か 別れの日
君が瞳に 君が瞳に 溢(あふ)れたる
3 さらば酒場よ 港街
空(むな)しき君の 影追いて
今宵また行く 霧の中
沖に出船の 沖に出船の 船が待つ
●6 胸の振子 霧島昇 昭和22年
柳につばめは
あなたに わたし
胸の振子が 鳴る鳴る
朝から今日も
何も言わずに 二人きりで
空をながめりゃ なにか燃えて
柳につばめは
あなたに わたし
胸の振子が 鳴る鳴る
朝から今日も
煙草のけむりも
もつれるおもい
胸の振子が つぶやく
やさしきその名
君のあかるい 笑顔浮かべ
くらいこの世の つらさ忘れ
煙草のけむりも
もつれるおもい
胸の振子が つぶやく
やさしきその名
●7 山小舎の灯 近江俊郎 昭和22年
1 黄昏(たそがれ)の灯(ともしび)は
ほのかに点(とも)りて
懐かしき山小舎は ふもとの小径よ
思い出の窓に寄り 君をしのべば
風は過ぎし日の 歌をばささやくよ
2 暮れ行くは白馬(しろうま)か
穂高(ほたか)は茜(あかね)よ
樺(かば)の木のほの白き 影も薄れ行く
寂しさに君呼べど わが声むなしく
はるか谷間より こだまはかえり来る
3 山小舎の灯は 今宵も点りて
独り聞くせせらぎも 静かに更けゆく
憧れは若き日の 夢をのせて
夕べ星のごと み空に群れとぶよ
●8 街のサンドイッチマン 鶴田浩二 昭和28年
1 ロイド眼鏡に 燕尾服(えんびふく)
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者(どけもの)
とぼけ笑顔で 今日も行く
2 嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺(おい)らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく
3 あかるい舗道に 肩を振り
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
胸にそよ風 抱いてゆく
○1 復活唱歌(カチューシャの歌)松井須磨子 大正3年
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と
神に願いを ララ かけましょか
カチューシャかわいや わかれのつらさ
今宵一夜に降る雪の
明日は野山の ララ 道かくせ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて又逢うそれまでは
同じ姿で ララ いてたもれ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
つらい別れの涙の隙に
風は野を吹く ララ 日は暮れる
カチューシャかわいや わかれのつらさ
広い野原をとぼとぼと
一人出て行く ララ 明日の旅
○2 金色夜叉塩原秩峰 大正7年
1 (男女)
熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ
共に歩むも今日限り
共に語るも今日限り
2 (男)
僕が学校おわるまで
何故に宮さん待たなんだ
夫に不足が出来たのか
さもなきゃお金が欲しいのか
3 (女)
夫に不足はないけれど
あなたを洋行さすがため
父母の教えに従いて
富山(とみやま)一家に嫁(かしず)かん
4 (男)
如何(いか)に宮さん貫一は
これでも一個の男子なり
理想の妻を金に替え
洋行するよな僕じゃない
5 (男)
宮さん必ず来年の
今月今夜のこの月は
僕の涙でくもらせて
見せるよ男子の意気地から
6 (女)
ダイヤモンドに目がくれて
乗ってはならぬ玉の輿(こし)
人は身持ちが第一よ
お金はこの世のまわりもの
7 (男女)
恋に破れし貫一は
すがるお宮をつきはなし
無念の涙はらはらと
残る渚に月淋し
○3 船頭小唄 鳥取春陽 大正12年
1 おれは河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき
2 死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに なに変わろ
おれもお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ
3 枯れた真菰(まこも)に 照らしてる
潮来出島(いたこでじま)の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ
4 なぜに冷たい 吹く風が
枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出た時は
汲んでおくれよ お月さん
○4 籠の鳥歌川八重子 大正13年
あいたさ見たさに こわさを忘れ
暗い夜道をただ一人
あいに来たのに なぜ出てあわぬ
僕の呼ぶ声わすれたか
あなたの呼ぶ声 わすれはせぬが
出るに出られぬ籠の鳥
籠の鳥でも 智恵ある鳥は
人目忍んであいに来る
人目忍べば 世間の人が
怪しい女と指ささん
怪しい女と 指さされても
真心こめた仲じゃもの
指をささりょと おそれはせぬが
妾(わたし)ゃ出られぬ籠の鳥
世間の人よ 笑わば笑え
共に恋した仲じゃもの
共に恋した 二人が仲も
今は逢うさえままならぬ
ままにならぬは 浮世の定め
無理に逢うのが恋じゃもの
○5 ストトン節 鳥取春陽 大正13年
○6 のんき節 石田一松 大正12年
學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね
成金といふ火事ドロの 幻燈など見せて
貧民學校の 先生が
正直に働きや みなこの通り
成功するんだと 教へてる
ア ノンキだね
貧乏でこそあれ 日本人はえらい
それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがつても
湯なり粥なり すゝつて生きてゐる
ア ノンキだね
洋服着よが靴をはこうが 學問があろが
金がなきや やっぱり貧乏だ
貧乏だ貧乏だ その貧乏が
貧乏でもないよな 顏をする
ア ノンキだね
貴婦人あつかましくも お花を召せと
路傍でお花の おし賈りなさる
おメデタ連はニコニコ者で お求めなさる
金持や 自動車で知らん顔
ア ノンキだね
お花賈る貴婦人は おナサケ深うて
貧乏人を救ふのが お好きなら
河原乞食も お好きぢやさうな
ほんに結構な お道樂
ア ノンキだね
萬物の靈長が マッチ箱見たよな
ケチな巣に住んでゐる 威張つてる
暴風雨(あらし)にブッとばされても
海嘯(つなみ)をくらつても
「天災ぢや仕方がないさ」で すましてる
ア ノンキだね
南京米をくらつて 南京虫にくはれ
豚小屋みたいな 家に住み
選挙權さへ 持たないくせに
日本の國民だと 威張つてる
ア ノンキだね
機械でドヤして 血肉をしぼり
五厘の「こうやく」 はる温情主義
そのまた「こうやく」を 漢字で書いて
「澁澤論語」と 讀ますげな
ア ノンキだね
うんとしぼり取つて 泣かせておいて
目藥ほど出すのを 慈善と申すげな
なるほど慈善家は 慈善をするが
あとは見ぬふり 知らぬふり
ア ノンキだね
我々は貧乏でも とにかく結構だよ
日本にお金の 殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と 文なし共の
話がロハ臺で モテてゐる
ア ノンキだね
二本ある腕は 一本しかないが
キンシクンショが 胸にある
名譽だ名譽だ 日本一だ
桃から生れた 桃太郎だ
ア ノンキだね
ギインへんなもの 二千圓もらふて
晝は日比谷で たゞガヤガヤと
わけのわからぬ 寢言をならべ
夜はコソコソ 烏森
ア ノンキだね
膨脹する膨脹する 國力が膨脹する
資本家の横暴が 膨脹する
おれの嬶(かゝ)ァのお腹が 膨脹する
いよいよ貧乏が 膨脹する
ア ノンキだね
生存競争の 八街(やちまた)走る
電車の隅ッコに 生酔い一人
ゆらりゆらりと 酒のむ夢が
さめりや終點で 逆戻り
ア ノンキだね
○7 アラビアの歌 二村定一 昭和3年
砂漠に陽が落ちて 夜となるころ
恋人よ なつかしい 歌を歌おうよ
あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビアの 歌を歌おうよ
(間奏)
あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビアの 歌を歌おうよ 歌を歌おうよ
○8 青空 二村定一 昭和3年
1 夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿るは
我が家の細道
せまいながらも楽しい我が家
愛の灯影のさすところ
恋しい家こそ 私の青空
2 夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿るは
我が家の細道
せまいながらも楽しい我が家
愛の灯影のさすところ
恋しい家こそ 私の青空
○9 君恋し 二村定一 昭和4年
1 宵闇せまれば 悩みは涯なし
みだるる心に うつるは誰(た)が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く
2 唄声すぎゆき 足音ひびけど
いずこにたずねん こころの面影
君恋し おもいはみだれて
苦しき幾夜を 誰がため忍ばん
3 去りゆくあの影 消えゆくあの影
誰がためささえん つかれし心よ
君恋し ともしびうすれて
臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや
○10 東京行進曲 佐藤千夜子 昭和4年
1 昔恋しい 銀座の柳
仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃ ダンサーの涙雨
2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘(こ)の 思い出に
3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ
4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
○11 女給の歌 羽衣歌子 昭和6年
1 わたしゃ夜さく 酒場の花よ
赤い口紅 錦紗のたもと
ネオン・ライトで 浮かれておどり
さめてさみしい 涙花
2 わたしゃ悲しい 酒場の花よ
夜は乙女よ 昼間は母よ
昔かくした 涙のたもと
更けて重いは 露じゃない
3 弱い女を だまして棄てて
それがはかない 男の手柄
女可愛しや ただ諦めて
辛い浮世に 赤く咲く
4 雨が降る降る 今夜も雨が
更けてさみしい 銀座の街に
涙落ちても 恋しいむかし
偲べ偲べと 雨が降る
5 女給商売 サラリと止めて
可愛いこの子と 二人の暮らし
抱いて寝かせて 母さんらしく
せめて一夜の 子守り唄
●1 道頓堀行進曲 内海一郎 昭和3年
1 赤い灯 青い灯
道頓堀の
川面にあつまる 恋の灯に
なんでカフェーが 忘らりょか
2 酔うて くだまきゃ
あばずれ女
すまし顔すりゃ カフェーの女王
道頓堀が 忘らりょか
3 好きな 彼のひと
もう来る時分
ナフキンたゝもよ 唄いましょうよ
あゝなつかしの 道頓堀よ
●2 黒い瞳よ今いづこ 天野喜久代昭和4年
1 黒い瞳よ 今いずこ
君を思えば 胸はもえて
夢にうつつに 仰ぎみる
愛の珠玉の かの瞳
2 黒い瞳の 思い出は
心残して 別れた宵
霧のちまたに 泣き濡れた
夜の神秘の かの瞳
楽しき恋は 過去となれど
心はなおも 君を懐(おも)う
3 黒い瞳よ 今いずこ
砕け果てたる 我が心に
求め慕うは 限りなき
恋の生命(いのち)の かの瞳
●3 蒲田行進曲 川崎豊・曽我直子 昭和4年
1 虹の都 光の港 キネマの天地
花の姿 春の匂い あふるるところ
カメラの眼に映る かりそめの恋にさえ
青春もゆる 生命(いのち)はおどる キネマの天地
2 胸を去らぬ 想い出ゆかし キネマの世界
セットの花と 輝くスター ほほえむところ
瞳の奥深く 焼き付けた面影の
消えて結ぶ 幻の国 キネマの世界
3 春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都
空に描く 白日の夢 あふるるところ
輝く緑さえ とこしえの憧れに
生くる蒲田 若き蒲田 キネマの都
●4 麗人の唄 河原喜久恵 昭和5年
1 紅い帯締め 花嫁人形
明日は売られて どこへゆく
泣いてみたとて あの人が
告げぬ想いを ああ なんで知ろ
2 夢はやぶれて 花嫁手形
はでなたもとが 恥かしや
覚めて浮世の 窓みれば
みんな泣いてる ああ 人ばかり
3 告げぬ想いを さみしくこらえ
君とゆく夜の 小糠雨
いとしお方の 肩たたく
雨がわたしで ああ あったなら
4 籠に飼われた 緋総の鳥が
強い女と なる朝は
こころ筑紫の 波の上
うかぶ白帆に ああ 虹が立つ
●5 すみれの花咲く頃宝塚月組 昭和5年
1 春すみれ咲き 春を告げる
春何ゆえ人は 汝(なれ)を待つ
楽しく悩ましき 春の夢 甘き恋
人の心酔わす そは汝
すみれ咲く春
すみれの花咲く頃
はじめて君を知りぬ
君を思い 日ごと夜ごと
悩みし あの日の頃
すみれの花咲く頃
今も心奮(ふる)う
忘れな君 我らの恋
すみれの花咲く頃
2 花の匂い咲き 人の心
甘く香り 小鳥の歌に
心踊り 君とともに 恋を歌う春
されど恋 そはしぼむ花
春とともに逝く
すみれの花咲く頃
はじめて君を知りぬ
君を思い 日ごと夜ごと
悩みし あの日の頃
すみれの花咲く頃
今も心奮う
忘れな君 我らの恋
すみれの花咲く頃
●6 ニッポン娘バートン・クレーン 昭和6年
1 What has become of Hinky Dinky Parley Voo?
What has become of Mademoiselle from Barlfe Duc?
They've gone and crossed the seven seas,
and now they sing in Japanese,
Hinky Dinky Parley Voo!
2 東京の娘さん、今日(こんにち)は
東京の娘さん、いかゞで、
銀座ガールつれない、いつでも冷淡
ポクポク小馬
3 京都の娘さん、今日、
京都の娘さん、いかゞです
舞妓はん白く塗り、赤い帯だらり
ポクポク小馬
4 名古屋の娘さん、今日は
名古屋の娘さん、いかゞです
食べることならない、金の鯱鉾(しゃちほこ)ネ
ポクポク小馬
5 横浜娘さん、今日は
横浜娘さん、いかゞです
船見て泣くの、淋しくて泣くの
ポクポク小馬
6 神戸の娘さん、今日は
神戸の娘さん、いかゞです
お酒飲んで踊ろ、笑って踊ろ
ポクポク小馬
(飯島綾子台詞)お忘れものせんように
(クレーン台詞)何置き忘れましたか?
(飯島綾子台詞)大阪
(クレーン台詞)サア小さいですから見逃しました
(飯島綾子台詞)そやけど
(クレーン台詞)けれども?
7 大阪の娘さん、今日は
大阪の娘さん、いかゞです
僕大変好きます、左様(さよ)か、阿呆(あほ)ら
ポクポク子馬
(飯島綾子台詞)わて大阪の娘だんね
(クレーン台詞)おふざけでないよ
(飯島綾子台詞)ほんまに
(クレーン台詞)そうですか、マア
8 日本娘皆さん、今日は
日本娘皆さん、いかゞです
日本娘皆さん、とっても可愛いね
ポクポク小馬
(クレーン台詞)それきり以上、終り
●7 並木の雨 ミスコロムビア 昭和9年
1 並木の路に 雨が降る
どこの人やら 傘さして
帰る姿の なつかしや
2 並木の路は 遠い路
いつか別れた あの人の
帰り来る日は いつであろ
3 並木の路に 雨が降る
どこか似ている 人故に
後ろ姿の なつかしや
●8 王様の馬 奥田良三昭和9年
1 王様の馬の頸の鈴
ちんからかんと鳴り渡る
日は暖かに風もなく
七つの峠が晴れ渡る
2 山の麓の七村に
青亜麻(アオヌメゴマ)の花咲けど
人に別れた若者は
今日も、今日とて、すすり泣く
3 王様の馬は金の馬
お供の馬は泥の馬
ほがら、ほがらの、の鈴の音の
雲に響くを何と聞く
4 山を巡れど恋人は
青亜麻(アオヌメゴマ)の花がくれ
夢と消(ケ)ぬべき銀の鈴
朧朧に行く時も
5 陽は暖かき七村に
別れし人を忘れねば
晴れて悲しき胸の鈴
ちんからかんと鳴り渡る
●9 美しき天然 奥田良三昭和5年
1 空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音
大波小波 鞺鞳(とうとう)と
響き絶えせぬ 海の音
聞けや人々 面白き
此(こ)の天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給(たも)う
神の御手(おんて)の 尊しや
2 春は桜の あや衣(ごろも)
秋は紅葉の 唐錦(からにしき)
夏は涼しき 月の絹
冬は真白き 雪の布
見よや人々 美しき
この天然の 織物を
手際(てぎわ)見事(みごと)に 織りたもう
神のたくみの 尊しや
3 うす墨ひける 四方(よも)の山
くれない匂う 横がすみ
海辺はるかに うち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の 美しさ
見よや人々 たぐいなき
この天然の うつしえを
筆も及ばず かきたもう
神の力の 尊しや
4 朝(あした)に起る 雲の殿
夕べにかかる 虹の橋
晴れたる空を 見渡せば
青天井に 似たるかな
仰げ人々 珍らしき
此の天然の 建築を
かく広大に たてたもう
神の御業(みわざ)の 尊しや
●10 ダイナ ディック・ミネ 昭和9年
おお ダイナ… 私の恋人
胸にえがくは 美わしき姿 おお君よ
ダイナ… 紅き唇 我に囁け 愛の言葉を
ああ 夜毎君の瞳 慕わしく 想い狂わしく
おお ダイナ… 許せよくちづけ
我が胸ふるえる 私のダイナ
○1 別れても 二葉あき子 昭和21年
1 空になる凩(こがらし) 雨戸うつ吹雪
冬の夜は 嵐に更けてゆく
思い出の窓辺の 青い灯火(ともしび)も
浮世の嵐に 消えてゆく
忘られぬ 思い出なつかしい昔
あの日が何時迄も 忘られましょうか
悲しみの涙を じっとこらえましょう
たとえ別れても 別れても
2 楽しかったあの日は 遠い夢に消え
冬の夜は 思いに寒々と
片隅にさびしく あの人のギター
きれた糸のあとも そのまゝに
忘られぬ思い出 なつかしい昔
あの日がいつ迄も 忘られましょうか
思い出のあのうた そっと歌いましょう
たとえ別れても 別れても
○2 青い山脈 藤山一郎・奈良光枝 昭和24年
1 若くあかるい歌声に
雪崩(なだれ)は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜(ゆきわりざくら)
空のはて 今日もわれらの夢を呼ぶ
2 古い上衣(うわぎ)よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの 旅の乙女に鳥も啼く
3 雨にぬれてる焼けあとの
名も無い花もふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ 見れば涙がまたにじむ
4 父も夢見た 母も見た
旅路のはての その涯の
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく 若いわれらに鐘が鳴る
○3 長崎の鐘 藤山一郎・奈良光枝 昭和23年
1 こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
2 召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
3 つぶやく雨のミサの音
たたえる風の神の歌
耀く胸の十字架に
ほほえむ海の雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
4 こころの罪をうちあけて
更け行く夜の月すみぬ
貧しき家の柱にも
気高く白きマリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
○4 悲しき口笛 美空ひばり 昭和24年
1 丘のホテルの 赤い灯(ひ)も
胸のあかりも 消えるころ
みなと小雨が 降るように
ふしも悲しい 口笛が
恋の街角 路地の細道
ながれ行く
2 いつかまた逢う 指切りで
笑いながらに 別れたが
白い小指の いとしさが
忘れられない さびしさを
歌に歌って 祈るこころの
いじらしさ
3 夜のグラスの 酒よりも
もゆる紅色 色さえた
恋の花ゆえ 口づけて
君に捧げた 薔薇の花
ドラの響きに ゆれて悲しや
夢と散る
○5 買物ブギ 笠置シヅ子 昭和25年
今日は朝から私のお家はてんやわんやの大さわぎ
盆と正月一緒に来たよなてんてこ舞いの忙しさ
何が何だかさっぱりわからず
どれがどれやらさっぱりわからず
何もきかずにとんでは来たけど
何を買うやら何処で買うやら
それがゴッチャになりまして
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
たまの日曜サンデーと云うのに
何が因果と云うものか
こんなに沢山買物頼まれ
ひとのめいわく考えず
あるもの無いもの手当り次第に
ひとの気持も知らないで
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
何はともあれ買物はじめに魚屋さんへととびこんだ
鯛に平目にかつおにまぐろにブリにサバ
魚は取立とび切り上等買いなはれ
オッサン買うのと違います
刺身にしたならおいしかろうと思うだけ
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
鳥貝 赤貝 たこにいか
海老に穴子にキスにシャコ
ワサビをきかせてお寿司にしたなら
なんぼかおいしかろ
なんぼかおいしかろ
お客さんあんたは一体何買いまんねん
そうそうわたしの買物は
魚は魚でもオッサン鮭の缶詰おまへんか
わてほんまによう云わんわアホカイナ
丁度隣は八百屋さん
人参 大根にごぼうに蓮根
ポパイのお好きなほうれん草
トマトにキャベツに白菜に
胡瓜に白瓜ぼけなす南瓜に
東京ネギネギ ブギウギ
ボタンとリボンとポンカンと
マッチにサイダーにタバコに仁丹
ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ
アアヤヤコシ
チョットオッサン今日は
チョットオッサンこれなんぼ
オッサンいますかこれなんぼ
オッサン オッサンこれなんぼ
オッサンなんぼでなんぼがオッサン
オッサン オッサン オッサン オッサン
オッサン オッサン オッサン オッサン
オッサン オッサン オッサン オッサン
わしゃ つんぼで聞こえまへん
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
ああしんど
○6 田舎のバス 中村メイコ 昭和29年
1 田舎のバスは おんぼろ車
タイヤはつぎだらけ 窓はしまらない
それでもお客さん ガマンをしてるよ
それは私が美人だから
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
(台詞)
皆様毎御ご乗車下さいまして
有難うございます 早速で恐れ入りますが
只今御乗車の方は乗車券のお切らせを
願います・・・
アンレ、マしょうがネー牛だナー
アーンナ道の真中で草喰いよってサ
こ、これじゃ バスが通らねえでネーかよう
チョ、チョッと待ってなヨ
おらが今おりてチョッくらどかしてくっから!
ヨーシヨーシ(モーウー)
土堤の上で草喰やエーダーそんなところで寝そべったら
バスが通らねえでネーかヨー
ホーラどけってばー
どっこいしょっと(モーウー)
嫌ーって言ったってしょうがねえでネーかホラ
どいてくれって どっこいしょっと(モーウー)
この辺でえーかネ運転手さんヨホントにマ世話の
やける牛おら汗かいちまった
皆様お待たせ致しました
ハイ後車オーライ発車オーライ
2 田舎のバスは 牛がじゃまっけ
どかさにゃ通れない 細い道
いそぎのお客さん ブーブー言ってるが
それは私のせいじゃない
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
3 田舎のバスは 便利なバスよ
どこでも乗せる どこでもおろす
たのまれものも とどけるものも
みんな私がしてあげる
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
(台詞)
皆様右に見えますのが鎮守の森
やがて左に見えてまいりますのが歴史に名高い
雷山雷山でございます
車は只今県境の境川を通過中でございます
(パン、シュッ)
皆様只今車の故障でございます
なおりますまでどなたさまも御迷惑さまながら
暫くお待ちを願います
困ったネエ 今日あたりパーンとくるんじゃないかと
思った おら
アンレ、マこのタイヤつぎの方が多いでないか
しょうがねえナ オンボロで急ぎの客はあるしヨー
ア、ソンダ アハハ
おらええこと考えついただ おらにまかしときなナ
皆様お待たせ致しました
ハイ後車出ます ハイオーライです
発車オーライ (ヒヒヒーン)
4 田舎のバスは のんきなバスよ
タイヤはパンク エンジン動かない
そのときゃ馬に ひかせて走ろ
それは私のアイデアよ
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
○7 ガード下の靴磨き 宮城まり子 昭和30年
1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」
2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ
3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ
○8 スイスの娘 ウイリー沖山 昭和30年
○9 峠の我が家 ウイリー沖山 昭和30年 ※歌詞は英語
1 空は青く 緑の野辺(のべ)
なつかしの わが窓
悲しみも 憂(うれ)いもなき
ほほえみの わが家
おお ふるさと
耳になれし ことば
むれ遊ぶ ひつじのむれ
晴れわたる この空
花のかおり 流れにそい
はなしろき みず鳥(どり)
夢のごと 静かにまた
さわやけく ましろに
おお ふるさと
耳になれし ことば
むれ遊ぶ ひつじのむれ
晴れわたる この空
空はすみて さやかに吹く
そよ風の かぐわし
なつかしき 峠の家
またとなき ふるさと
おお ふるさと
耳になれし ことば
むれ遊ぶ ひつじのむれ
晴れわたる この空
●7 銀座の雀 森繫久彌 昭和30年
たとえどんな人間だって 心の故郷があるのさ
俺にはそれが この街なのさ
春になったら 細い柳の葉が出る
夏には雀がその枝で啼く
雀だって唄うのさ
悲しい都会の塵の中で
調子っぱずれの唄だけど
雀の唄は おいらの唄さ
銀座の夜 銀座の朝
真夜中だって知っている
隅から隅まで知っている
おいらは銀座の雀なのさ
夏になったら啼きながら
忘れものでもしたように
銀座八丁とびまわる
それでおいらは うれしいのさ
すてばちになるには 余りにもあかるすぎる
この街の夜も この街の朝にも
赤いネオンの灯さえ
明日の望みに またたくのさ
昨日別れて 今日は今日なのさ
惚れて好かれて さようなら
後にゃなんにも残らない
春から夏 夏から秋
木枯しだって知っている
みぞれの辛さも 知っている
おいらは銀座の雀なのさ
赤いネオンによいながら
明日の望みは風まかせ
今日の生命に生きるのさ
それでおいらは うれしいのさ
●9 あいつ 旗照夫 昭和33年
1 ゆうべあいつに 聞いたけど
あれから君は 独りきり
悪かったのは 僕だけど
君のためだと あきらめた
だからあいつに 言ったんだ
もしも今でも 僕だけを
想ってくれて いるならば
僕に知らせて ほしいんだ
2 どんなに君に 逢いたくて
眠れぬ夜も 幾たびか
逢いに行けない 今の僕
思い浮かべる 君の顔
あいつもゆうべ 言っていた
悪かったのは お前だと
あいつに言って もらいたい
僕を許すと それだけを
それだけを
一つの曲が誕生してヒットし陽の目を見られるようになるのは難しいこと、こうして埋もれて消えてしまったものも沢山あるのでしょう。ヒットは正に時の運、水ものである。由利あけみも又東京芸大卒、歌劇「カルメン」を舞台に立って歌う実力派、結構、妖艶な女、異色のムードを持っている。「長崎物語」では声色を使って歌って居る。
妖しい紫煙くゆらす支那情緒たっぷりで歌っている。長崎歌謡としては最高の出来栄え、この頃の長崎ものはエトランゼを詩ったものが多かったが、後年昭和40年代「長崎ブルース」「思案橋ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「柳ヶ瀬ブルース」「長崎は今日も雨だった」等々この種のご当地ソングはキャバレー歌謡と言ってよいだろう。
キャバレー全盛時代を思わせる。世の中高度成長真っ盛り、社用族にモーレツ社員、会社の接待も盛ん、商談の後は夜のお遊び、その上時代は男性天国、こうして昭和30、40年代は夜の町に札束が舞う。
次、昭和50年代になるとキャバレーから健全なゴルフに向う。日本独特の接待ゴルフに移る。平成になるとキャバレー、料亭政治、男性天国もなくなり、代わって女性とギャルの抬頭、オジサンも引っ込み金目も少なくなりキャバレー、高級クラブ、料亭等が廃業、居酒屋ブーム到来、そして若いギャルが渋谷、原宿を闊歩、オバサンまでが女子会とやらと称す。
世の変遷、時代の移り変りを表わしているのがはやり歌、正に“歌は世につれ”である。
A-4 燦めく星座 灰田勝彦 佐伯孝夫作詞 佐々木俊一作曲 昭和15年
男純情の、と言う言い方が古めかしい、そう言えば、実のある男、篤志家、艶福家も死後に近い。男純情どころか、乙女も居なくなった時代。佐々木俊一の曲が続くネ、そうでしょう、つかみにくい。
どんな作風なのか、カラーなのかつかみにくい。多方面にわたって作れる。
灰田勝彦は立教卒のモダンボーイ。この人はハワイ生まれの日系二世、ハワイアンからスタートする。無色透明、体臭を感じない爽やかなダンディ・ボーイ、万年青年と言われた。
健全な青春歌謡、洋楽、ヨーデル唱法を得意としてた。ディックの遊び人に対して灰田のダンディズム、共に立教ボーイの典型である。
A-5 隣組 徳山璉 岡本一平作詞 飯田信夫作曲 昭和15年
向こう三軒両隣り、親しい近所付合いを明るく歌った国民歌謡である。それをトクさん、明るく軽妙に屈託なく朗らかに歌っている。
これは当った、大ヒットである。止まれー!実はこの歌には裏があるのです。軍が関与してた隣人愛を歌って乍ら能天気では困るのです。だから画策である。
日本は戦時体制に入った。歌でマインド・コントロールつまり、どこかにアカの本を読んでる奴は居ないか、どこかに徴兵逃れひそんでいる奴は居ないか。
慰安袋、千人針、防火訓練、防空壕作りに推進させ、町内会、常会活動を活発に行ない裏でスパイ作戦を進める。ラジオ体操、親睦の早朝野球、火の用心等々、町内会長と官庁、憲兵は通じていた。
おゝ恐ろしや、緩やかな思想弾圧と戦時体制はツーカーと通じて歌でマインド・コントロールしてた。大ヒットしたことが大当りにつながる。それにしても愛らしい歌、トクさんの歌唱が又愛苦しい、作詞の岡本一平は岡本太郎の父君、裏面は先に紹介した「天から煙草が」である。
A-6 新雪 灰田勝彦 佐伯孝夫作詞 佐々木俊一作曲 昭和15年
又佐々木俊一である。本当に作風がそれぞれ異なる。実に清々しい曲、ハイカラでタンゴである。灰田に打ってつけの曲、灰田は江戸っ子よりも江戸っ子らしい。義に堅く律儀で竹を割ったような性格、と評されている。
戦時中にも関わらず軍事色なしの歌を多く歌って活躍してた灰田、勿論ハワイ生まれの日系二世と言うことで、軍歌も多く歌わされていました。そんな時代ですから。
A-7 空の神兵 四家文子、鳴海伸輔 梅木三郎作詞 高木東六作曲 昭和17年
四家文子と徳山璉は東京芸大の同級生、一級上に橋本国彦が居た。先年102歳で亡くなった高木東六氏も東京芸大出身、全てビクター在籍、戦前の殊に昭和一ケタまでのビクターは業界きってのアカデミック、言わば白牙の塔、今のチャラチャラした芸能界と違って格調すら感じる。
当初四家、徳山の東京芸大コンビで歌う予定だったが徳山が急死、鳴海信輔に代わった。鳴海のことはよく分らない。東京芸大だったのか否か?しかし声楽の人と感じる、若いようであるが、多分新人、よく歌っている。これは大ヒット、徳山が歌ってたら更に格調高くなったはずと思うと徳山の急死が惜しまれてならない。
この「空の神兵」は軍歌である。しかし唯の国威発揚をねらっただけの軍歌とは思えない。実にハイカラ、モダーン、それにアカデミック、流石高木東六先生、威信と誇りを以って作られた曲なんでしょう。誠にセンスよい。唯の軍歌として同列に置きたくない、これは名曲であります。
上質な曲と感じますが高木先生、後年二葉あき子の「水色のワルツ」を書いている。そして美空ひばりに「あまんじゃくの歌」も書いて送っている。大先生が流行歌まで書いている、見逃せないことです。
A-8 婦系図の歌 小畑実・藤原亮子 佐伯孝夫作詞 清水保雄作曲 昭和18年
泉鏡花作の「婦系図」より、それを題材にして作られた歌、副題は「湯島の白梅」と言う。
お蔦主税の悲恋の話しは余りにも有名、“俺を取るか女を取るか”の真砂町の先生の名台詞も有名、恒例の年中行事として新派で演じられて居た。
先代の水谷八重子、花柳章太郎、保志井寛の当たり芸、時には山田五十鈴、森雅之、と新派は新橋演舞場、或いは日本橋浜町の明治座で公演された。
昭和30年代までは新劇、新派、新国劇、芸術座、帝劇、と演劇活動は盛んでした。
常に文学とつながって文学青年、青白きインテリとつながって映画化もされて、演劇、映画、文学と相乗効果を呼んでいましたが。流石、時代の流れ、今日では文学青年もいない、青白きインテリも居ない、文学全集も売れない、若者はサッカーでもしてろ、マンガでも読んでろ、と言うのか。
よく見れば大学の部活も又文化部の男の衰退が目立つ。男性合唱団がない、トランペット奏者が女性だったりと女性の進出が目立つ。何だか男は思考停止したみたい。芥川賞、直木賞と有能な若手男性ホープが現れない。アスリートにしても女性が大活躍、男は会社漬け、スポーツ馬鹿、マンガ馬鹿になって、この国はオスの喪失、男のロマンの喪失を感じて、男よ奮起せよと言いたい!
私の東京10年の生活はバラ色、本郷に住んで湯島と隣り合せ、泉鏡花の婦系図の舞台となった湯島天神も歩いて二分だけ、三番歌詞の“出れば本郷、切通しあかぬ別れの中空に鐘は墨絵の上野山”の通り、出れば本郷切通坂、下ればすぐ不忍池、向いは東大、細い路地は無縁坂、徳田秋声の「雁」の舞台、夏目漱石、森鴎外、石川啄木、と明治の文豪の足跡残したゆかりの地、本郷。
向きを変えて今度は南に向って歩くと10分でお茶の水、そこに流れる神田川も橋の畔に立っていると何故か「婦系図の歌」が流れる。そして神田駿河台の坂を下ると書店街神保町でした。
正に夢のような東京の休日の10年でした、戦雲厳しい中の小畑実のデビューヒット曲であります。
B-1 朝はどこから 岡本敦郎・安西愛子 森まさる作詞 橋本国彦作曲 昭和21年
B面からは戦後、昭和20年代となって居る。戦後は並木路子の「リンゴの唄」から始まって居る。昭和21年発表のこの曲、ラジオ歌謡でもあります。岡本敦郎は「高原列車は行く」「白い花の咲く頃」「憧れの郵便馬車」等のヒット曲がある。
いずれも清冽な曲、清潔感に溢れて岡本の風貌は芸能人と言うより学校の先生のような人でした。安西愛子は松田トシと共に「歌のオバサン」と言われています。この頃は20代も後半にていればオバサンと言ってた、又そのように言って失礼じゃなかったのです。オジサンも同じこと。
寧ろ今の方が変、こうして大人が大人でなくなる、このことの方が問題。
戦後、日本全国が焦土、食糧難、先ず食うことから、復興に励む若者とて同じこと。若者として甘やかせてもらえない。遊んではおれない、そんな世、若者が入る隙がない。歌の世界とて同じこと。
こうして大正世代昭和一ケタ世代は廿歳になれば立派に大人、生活を背負わされる。若者が若者として抬頭し若者文化が風俗となったのは復興期も終り、昭和30年代に入ってから、慎太郎の太陽族出現からである。
歌の世界もどんどん若者化が進み、大学生も増え、すると遊び世代の増加。昭和40年代になると団塊世代の青春、長髪、Gパン,Tシャツ、ヒッピー、と一般化、するとジャリタレ化に拍車がかかる。
ロックにマンガ、フリーセックス、とこうして若者文化が拡大、いつの間にか30代まで若造、今は40代まで若者、気づいてみれば結婚もしない、殊に女性の場合、長寿となった。若く見える。
じゃその分昔以上に出産年齢は伸びたかと思えば伸びてない。少子高齢化には意識の変化とか女性の社会進出とか様々の要因があって難しい問題。昔の青年、団塊世代も70に近い、60代ロックにGパン思考も意識もライフ・スタイルもカジュアル系、大正、昭和一ケタ世代は団塊世代との落差ほどには違いない。
昭和20年代世代と今の若者とは年代差の相違のみ。
こうして考えると昭和20年代の若者は廿歳になった時から大人。歌の世界も大人、戦争時代に耐えて来たモノが一気に噴出した。知らず知らずの内に音楽レベルも向上した。
こうして眺めてみると戦後の昭和の20年代、生活苦なのに名曲が多い。映画も又名画が多い。文化人も多彩だった。つまり大人の文化の花盛り、モノはなくても精神文化は高い、各界にわたって巨人も多かった。
思い切り、健全で健康的なこの歌、平和の訪れ、明るさの到来、自由で伸び伸び、風紀は乱れてない。何を志向して生きてたかが分る。
日本全国民が生活苦をかかえているのに明るく溌剌としている、これが復興の槌音であり、当時のエネルギーであり、世界の奇跡までと言われた程の早期復興を遂げた力であると感じます。
B-2 浅草の唄 藤山一郎 サトウ・ハチロー作詞 万城目正作曲 昭和22年
作詞、作曲共に「リンゴの唄」でコンビである。浅草も一面焼野原、昔の浅草はこうだったと郷愁を誘う“強いばかりが男じゃないと”頑張りすぎるなよ、つらい日もあるだろう、でも明るく生きていこうな、と応援しているようでもあり、支えて呉れているようでもある。
復興に励んでいる日々、ひと休みしようよ、と優しく微笑んで呉れているようでもある。そして前を向いて生きようと明るく夢見る気分で歌う藤山一郎の歌声、焼跡時代にこれが如何にも元気づけて呉れた。
藤山の歌声は快活で気持ちよい、これが終戦直後の時代の声、そして藤山自身の黄金時代でもあった。
B-3 夢淡き東京 藤山一郎 サトウ・ハチロー作詞 古関裕而作曲 昭和22年
憧れの東京、藤山が歌うと夢のパラダイス、花の都になる、私もつい誘われて上京した。実際東京は花の都、やはり町は生きている。何でも揃っている。緑もたっぷり、文化的にも豊か、快適である。東京は終戦直後から希望の都、何だかんだと言っても何故、東京に人が集まるのか。
文化、教育、医療に、仕事、と全てにわたって高レベルで受けられ、享楽できる。戦後になって古関が頭角を現した。良心的な佳作を多く作ってヒットを放った。
若いと若さは違う、若いと言えば年齢のみ、若さと言えば永遠性、精悍、溌剌、爽かさは年齢に関係なし。年齢は若くても不潔で清澄感のない若者はいっぱい居る。青春も等しく与えられている。
しかし青春を本当の意味で謳歌して居る人とは、全員でない。誰でも大学生になれる権利はある。しかしそうでない器の大学生も居る。若さ、青春を心から歌い上げている歌手が居る。それは藤山と灰田の二人。
この二人の若いだけのカレッジソングを歌っているのではない。永遠の若さを歌って居る。人々に元気と勇気と希望を与える。こんな歌手、芸能人は今日居ない。やはり戦争の世紀を生き抜き、平和の訪れを肌に強く感じていたのだろう。昭和20年代に佳作、名曲が多いのはこんな理由なのかなと考えるのです。
B-4 港の見える丘 平野愛子 東辰三作詞作曲 昭和22年
空襲でビクターのスタジオは焼失してしまった。コロムビアのスタジオを借り切って、昭和22年レコード録音を開始した。その時の第一号はこの「港の見える丘」である。この題にちなんで横浜の山手に「港の見える丘公園」がありますが、ここでの眺めは港がすぐ眼下に見えて素晴しい。
この作詞作曲者、東辰三は東京の下町深川出身、しかし大学は今の神戸大学、当時の神戸高等商卒業、神戸の青春時代はよっぽど記憶に深かったのでしょう。東辰三の曲は港を風景したものが多く、一説に依ると「港が見える丘」のイメージは神戸だとも言われている。
東辰三は作詞作曲もこなせる、然もオリオン・コールという男性合唱団も育てたなかなかの才媛。この人の曲想も深渕、最も女っぽいものも書ければ最も男っぽいものも書ける。つまり両性具有で鋭い才覚、私はこの人を興味持って見ているが、まだよく分っていない。
この「港が見える丘」は結構、お洒落れな曲想、それに心地よい妖しさ、平野愛子は、いやらしくない程の悩ましい歌い方、それに気持よい官能が漂よいビクター戦後第一号のヒット、然も大型ヒットを放った。
続いて「君待てども」「白い船が見える港」等の東=平野コンビで連続ヒットを放ったが東辰三の急死によって、平野愛子の歌手としての生命はあえなく断たれた。
B-5 泪の乾杯 竹山逸郎 東辰三作詞作曲 昭和22年
同じ東辰三作詞作曲の「泪で乾杯」は「港が見える丘」のB面、先に「港の見える丘」が爆発的にヒット、それからじわじわと、この「涙の乾杯」は頭を持ち上げ長くヒットし結果として大ヒットとなった。
先ほど言ったように最も女っぽい「港の見える丘」と最も男っぽい「泪の乾杯」両極端でかつこれが東辰三、然もどちらもちょろい流行歌でない。ここに私は東の才覚と人柄に興味を持つ訳である。
このような両面を兼ね持っているからこそアーティスト、然も作詩もやれるとなれば相当のインテリだと思うが急死したのが惜しまれる、カラオケなど行ってみると「泪の乾杯」が残っている。
と言うこことは、この当時の若い男性の間で相当好まれたのであろう。77、78歳以上の男には好まれていたのだろう。
潜在的なファンが結構居るんだろうと想像します。但し昭和17、18年世代からはさっぱり知られていないってことは、これが私の言う男の歌、オジサンの歌、そしてオスの喪失等と符合している。
昭和20年代に入るや否や、懐メロは「上を向いて歩こう」「明日があるさ」「いつでも夢を」「高校三年生」となる。男の哀感もロマンもなくなって歌が生ちょろくなって居る。
私もこの世代、しかし音楽的には一つ前の世代と一緒「泪の乾杯」は胸にジーンと来る。腹にジーンと沁みわたる。
竹山逸郎は、大正7年生れの慶応卒、戦争末期、空襲激しい頃にデビュー、しかし戦争に依る困窮状態でレコードも新曲も作られなくなってた。
やっとレコード生産開始でこの「泪の乾杯」でヒット、渾身の思いで歌ったのでしょう。聞いてみるとじっくりと聞かせるバリトンの骨太な歌手。
次に同じ東辰三の「熱き涙」で又ヒットを放つがここで東の急死、平野愛子と同じく東辰三の育てた歌手。東の死によって平野と同じく歌手としての生命を断たれた。歌手と作曲家も関係は、一蓮托生とつくづく思う。
B-6 胸の振子 霧島昇 サトウ・ハチロー作詞 服部良一作曲 昭和22年
この「胸の振子」もカラオケに残っている。この曲も潜在的なファンが多いのだと思う。素晴らしい、兎に角素晴らしい。実にハイカラ、モダーン、ハイセンスは曲です。何故に霧島昇が歌ってるの?と首をかしげる。
と言うのもこの霧島、「愛染かつら」のイメージが濃厚、東海林太郎と同じく。彼は@「赤城の子守唄」のイメージが濃厚、テレビの懐メロ番組ではいつでもこれを歌っている。って言うのもテレビは不特定多数を相手、総じて偏向する。
歌手は自分のビッグ・ヒットを永遠に歌い続けなければならない。それを世間は望んでいる。だかた希望に反してでも歌い続けるのが歌手の務め。
しかしだからと言って歌手は歌手で、その一曲だけってことはないはず。違う顔を持ってて当然、だけどいっぺんこびりついたイメージは濃い「愛染かつら」のイメージは払拭できない。
アメリカのヒット・ソングは競演が当たり前、タンゴもそう。タンゴは寧ろ競演を楽しみに聞いている。又それが面白いからレコードを買う。ところが日本ではその人の持ち唄を他者じゃ歌わない。
この「胸の振子」なんか松平晃が歌ってもよし、中野忠晴でもよし、灰田勝彦でもよし。私だったらそのいずれでも買いたい。面白いではないか、とそれ程「胸の振子」は素晴らしい。流行歌は低俗、凡庸、痴の楽しみ、と色々ある。
「胸の振子」は上質な流行歌、洋楽センスのよさを感じる。これが服部のカラー服部のセンス才能は一段高いところにある。これが私の尊敬する由縁なのです。
服部は、「胸の振子」以外霧島に「夢去りぬ」「サム、サンデー・モーニング」と佳作を与えた???何故と考えた。実は霧島、知る人ぞ知るビング・クロスビー・ファンであって彼のレコード、コレクターだとか。
それを知ってか知らぬか服部は自ら佳作を霧島に与え、霧島はそれをヒットさせている。誠歌手の顔はひと色でない、知らないのは我々大衆。でもその大衆の一人であると共に私は耳で秘曲を探りたいと今日も聞いている。
B-7 山小舎の灯 近江俊郎 米山正夫作詞作曲 昭和22年
米山正夫も才人、戦前には高峰秀子の「森の水車」を書く。この「山小舎の灯」と同系列の曲想、牧歌的なものが多い。「リンゴ追分」以来、ひばりとコンビを組んで多種多様の曲調を書いて、ひばりの娘盛り、黄金時代を築いた。
その割には知られてない、正当に評価されていない。残念である。
牧歌的もさること乍ら、洋風、ハイカラ、モダーンをはじめ軽妙な日本調まで何でもこいの多才。然も文学的教養もあるのでしょう。自らの作曲したものの多くの詩まで書いている。
18歳から20代までのひばりは、まるで米山の子飼い、ひばりの才能を100%引き出している、ひばりもよく応えて、この時代のひばり、軽妙洒脱、最高に魅力を富んでいる。
「柔」からがいけない。貫禄づいて、まだ27、8歳なのにひばり、もうオバチャン。軽快さと引き換えに演歌のひばり古賀と組んでからは固執してしまって私は演歌嫌い、変に歌謡曲の女王に君臨して、魔宮の怪物なった。米山もこれからひばりから遠のく、米山の新しいものとして知られているのは「三百六十五歩のマーチ」。米山自身も年老いた。
ひばりとの出会いで全精力を使い果たしたかのようである。
近江俊郎は今一歩、声量、美声、歌唱に何か欠けていると感じるがこの人、曲に恵まれている。古賀政男の「湯の町エレジー」が最大のヒット曲。昭和20年代のヒットメーカーでした。
B-8 街のサンドイッチマン 鶴田浩二 宮川哲夫作詞 吉田正作曲 昭和28年
鶴田浩二は浜松の渡世人の家に生まれる。幼少、両親が離婚、父方の祖母の尼崎で育つ。関西大学を出る。戦時中は特攻帰りだとか、事の真偽はよく分らない、しかし生き残りとかで生涯このことにこだわったのは事実。どんな経路か分らぬが、こんな言い方が当たってるだろう。
戦後拾われて高田浩吉一座に入って旅役者経験あり、その後松竹に入社、若かりし頃の鶴田、美男子で甘い風貌、二枚目のハンサム・スター、同じ松竹の岸恵子と熱烈な恋に落ちる。しかし人気スター同士の恋は御法度、会社によって引き裂かれる。これに懲りたのかどうか知らないけれど、男気の強い鶴田、以後金輪際、女性と浮名を流すことはなかった。
歌も上手くて美貌が故、義兄弟の契りを交わした灰田勝彦に勧められてビクターへ入社、レッスン室で小西潤のうまい歌声に魅せられて師と仰ぐようになった。小西が亡くなった時、人目憚らずオイオイと泣く。
後年、昭和40年代やくざ映画全盛、この時40代の渋い男盛りになってた鶴田かこの種の映画に多く出る。高倉健には背後に女の匂いは感じないが鶴田には、妙にそれが伝わって色気を感じる。
木暮美千代でもよい、“月様、雨が”と言って傘を指し出す。すると鶴田“春雨じゃ濡れて行こう、”と雨の中、未練を振り切るように去る。小暮が“あゝいゝ男!”とつぶやく溜息つく。
こんなシーンがぴったり似合いそうと想像する。そう、鶴田には孤独と寡黙と哀愁と翳りがある。男気と狭義も感じる、それに絵になる。新派の舞台ですね。高倉健にはない色気がある。
だから鶴田は俗に言う男が男に惚れる歌手というか、そんなものを感じる。そして女性ファンも多い。渡世人の子、親の離婚、旅芸人の経験、戦争の生き残り、恋愛事件を引き裂かれる、義兄弟の契り、師を仰ぐ、それにつながる翳り、若き日の美男子、中年になってからの渋味、その様々が芸のコヤシになっている。これは生いたちと天性の宿命、銀幕のスターになる諸要素、諸条件が整っている。
鶴田は並の歌手以上に歌手はプロでない、余技であるにも関わらずヒット曲が多い。その中でも「街のサンドイッチマン」は彼にぴったり、代表作である。徘徊歌謡としてもよい、鶴田のキャラクターがよく出て私自身もとても好きな曲です。
ポリドールはドイツ系のレコード会社、昭和5年にスタート、キングレコードは講談社資本、昭和6年にスタート、テイチクは昭和9年スタート、これでビクター、コロムビアと合わせて戦前のレコード五社がそろった。
老舗のビクター、コロムビアは強靭、作詞作曲家、人気歌手、ヒット曲がそろっていたがポリドールも負けていない。
東海林太郎、上原敏の二本立で股旅任侠歌謡で受けて昭和10年―13年までポリドールの全盛時代を迎えた。
テイチクは古賀政男を引っこ抜き藤山一郎と共にヒットを連続させた。キングはさして振るわず岡晴夫一人が大ヒットを放ったのみである。しかし流行の世界、浮沈み激しくヒットは水もの、結局ビクター、コロムビアは強い、業界の一、二位を不動とさせる。
順風満帆に見えたかのレコード界、昭和12年日中戦争勃発、日本は次第に軍国主義の体制に入り享楽文化の象徴である、流行歌は引き締め強化に入り、軍当局の関与が強まり、どんどん軍歌の占める率が高まり、昭和16年日米開戦世の中暗雲漂い、いつしか軍歌一色の時代に突入しました。
流行歌は全く玉石混淆、玉は少ない石が多い、心配無用、時の流れは自然淘汰する。残るものは、残る。しかし良い曲なのに忘れ去られている。これも心配無用、世の中例え少数でも好事家は必ずいる。こんなものを秘曲と言いたい。私は秘曲をさぐるのが好き、これが妙味と言うもの。
大ヒット曲なら大ヒットなりに、秘曲は秘曲なりに、その存在に何かの意味がある。一世風部したものには時代を揺り動かす何かの力を感じる。又時代に訴える力は弱くても良心的な作品もある。
つまり、これが楽しみのひとつなんでしょう。実に俗なる趣味ですね。でも考えてみるとタンゴもジャズも同じこと。
全て大衆音楽、20世紀はレコード産業が軌道に乗りヒット曲が誕生、広く深く庶民の中に入り込んだ。
アメリカは勿論のこと、タンゴも1910年代アコースティック録音時代のレコードが多く残されているが日本はこのアコースティック録音の保存が悪く、広く大衆に広がったものは電気録音開始以後、則ち1928年、昭和3年より本格的なレコード時代が始動、流行歌のはじまりである。
A-1 マイ・メランコリー・ベイビー ジーン・オースチン 1928年
ジーン・オースチンとは古い、この人は知る人は今ほとんど草葉の影で眠っている。ビング・クロスビー前のビッグ・スターでした。アコースティック録音の時代に活躍してた。
しかし電気録音時代に入って吹き直され、ここで聞けるのはその頃のもの、1920年代の後半です。1920,30年代は今と違って甘く優雅に歌う。
当時の美意識はロマンティックに歌う、だったのでしょう。誠夢見心地で甘美な世界へ魅き込まれる。「マイ・メランコリー・ベイビー」は1910年代に作られた曲で今やスタンダード・ナンバーになっています。dsc
A-2 アイルランドの微笑み オールド・タイマー
1910年代は名曲大曲が多い、「セントルイス・ブルース」「アレキサンダース・ラグタイム・バンド」もこの時に生まれた。タンゴで最も有名な「ラ・クンパルシータ」もこの時生まれた。
もうこうなるとヒット曲の次元でなくスタンダード・ナンバー、教養のレベルですよね。
小説も時と共に自然淘汰されて純文学になる。こうなると教養のレベルです。この「アイルランドの微笑み」はもうヒット曲でなくアイルランドの魂の音楽となって居ます。
A-3 君去りしのち(アフター・ユーブ・ゴーン) ジーン・オースチン 1928年
この歌は伝説の人ソフィー・タッカーがヒットさせたとなっているが私、まだ聞いたことない。多くの人に歌われジャズもスタンダード・ナンバーになっている。
曲調はどこか退廃ムードしかしジーン・オースチンが歌うとロマンティックに甘美となる。これも一世を風靡したものとして忘れてはならない曲であります。
A-4 唯一度だけ リリアン・ハーベイ 1931年
「会議は踊る」の主題歌です。ドイツ映画と言えばウーファ、サイレント時代の「カリガリ博士」「プラーグの大学生」と、何だかハリウッドともフランスとも違う、独特の表現、これを傾向映画と言ってました。
そしてウーファもトーキー時代に入る。ヴィリー・フリッチとリリアン・ハーベイ主演の「会議は踊る」は日本も大ヒット、メーテルニッヒ宰相、ロシア皇帝招いてのウィーン会議、その史実をもとにかなり脚色されて映画は作られた。
映画、歌共に大ヒット、当時のインテリ層、モダニスト達に評判となった歌、映画であります。
A-5 巴里祭 リス・ゴティ 1933年
フランスもトーキー化、その第一号はアルベール・プレシャンの「巴里の屋根の下」続いて放映されたのは「巴里祭」、主題歌名は「巴里恋しや」と言う。映画も勿論のこと歌も大ヒット、但しフランスでは今一歩大ヒットにならず、どうも耳は日本人の方が秀れているらしい。
フランス映画とシャンソンは日本にとって特別なものとなる。つまりフランスは有難い有難い先進国、パリは芸術の都となる。日本人にとってフランスは「おフランス」になる。この「巴里恋しや」は退廃ムード漂よってなかなかよい。
「巴里の屋根の下」「暗い日曜日」「人の気も知らないで」と共に戦前最もよく好かれたシャンソン。巴里祭なんてフランスにはない。フランス解放の日なんでしょう。
日本人のフランス熱が昂じて巴里祭となった。石井好子、芦野宏、高英男を思い出す。懐しい銀巴里の灯も今は消えてない。
A-6 小雨降る径 ティノ・ロッシ 1935年
1935年「マリネラ」を歌ってティノ・ロッシはデビュー忽ちにして大ヒット、甘い歌声が当時のフランスの全女性の心を虜にした。
続いて発売された「小雨降る径」「夜のバイオリン」等々フランス全土を大席巻、勿論日本にも波及、日中戦争がはじまる直前でしたからこの頃は自由。フランス映画も多く入って、ハリウッドものとどこか違って陰影がありましたでしょう。
だから知識層に評価されてその支持に支えられて一つの相乗効果でしょうか、シャンソン・ファンも一気に増えました。
但し、ここまで日本は暗い軍国主義の世に入って長いトンネル、約10年近くもシャンソンを耳にすることできなくなりました。
やっと戦後、耳にした時、ティノ・ロッシの時代は終って、イヴ・モンタンの「枯葉」が大ヒット長い空白期間を埋めるが如く、日本は「おフランス」に飛びついた。
そして平和の訪れと共にファッションに関心を持つ。至る所、ドレス・メーカーに編物教室、雨後の筍の如く林立、最新モードはパリからとピエール・カルダン、イヴ・サンローラン、シャネル、ランバン、エルメス、と続く。昭和40年代まで金の問題でなくて、人々は高級志向、男性の持ちものもモンブランの万年筆にダンヒルのライター、ロレックスやオメガの時計、背広はオーダーメイドでした。
いつの間にやら安もの志向、今はユニクロファッション、それと共にシャンソンもいつの間にか流れなくなった。
A-7 月光価千金 ポール・ホワイトマン 1928年
題名がいいですね、月光価千金とは。これ恐らく蘇軾(蘇東坡)の“春宵一刻価千金”から来ているのでしょう。明治の知識人は例えハイカラ舶来好みのモダニストであっても和魂洋才、どこかに漢文の教養がある。だから訳詩もうまい。
洋画の題名の付け方にしてもピタリとはまる。今はそのままカタカナ書き、そしてろくすっぽ漢字力は低いのに、生まれた子供の名前、変に凝って、まるで芸能人みたい。 宝塚じゃあるまいし、何だか奇妙。
この「月光値千金」「ダイナ」「タイガー・ラグ」「青空」「サイド・バイ・サイド」「レイジー・ボーンズ」等々と共に昭和一ケタ、大はやりしたジャズ・ソングです。訳詩もディック・ミネのものが一番当たった。
ポール・ホワイトマンは1920年代最も活躍したジャズメン、アメリカでは大人気、ところが日本のモダン・ジャズ・ファンは、あれはジャズではない、ポピュラーだと言う。モダン・ジャズ至上主義の人から見ると確かにポピュラー。
しかしですよ、1920年代ですよ、ジャズはまだ発展段階、モダン・ジャズどころかスイングの時代より前、白人がジャズを取り上げら最初の時代の人、それを割引いて考えてみると分る。
ジャズであってポピュラー、ポピュラーであってダンス・ミュージック、「月光価千金」はそんな古い古いヒット曲なのです。
A-8 ダーダネラ ビリー・コットン 1935年
私が大学入学したのは昭和39年、あの頃ダンパが盛んでした。部活の資金稼ぎの為、各部はダンパを催す。パー券をよく買わされましたネ。でも踊れない、先輩に習う、とりあえずブルースとジルバとマンボができさえすりゃ何とか様になる。当時全盛期が終わったとは言え、まだまだダンス・ホール大盛況、それよりずっと昔、私の幼い頃、神戸時代です。私の家に父の弟、叔父が居候してました。
悪弊かどうか分らないがこれも中国の生活文化のひとつなのでしょう。孟嘗君じゃないけれど「食客三千人」と中国人は多くの居候を置く。その居候、つまり食客ですね、食客が多い程その家は富裕と思われていた。
それに千客万来を好む、人の往来が多い程その家は盛える、と言われていた。私の父は旧中国人タイプ、支那人そのもの、悪友が多くて、いつも家に誰かが居ました。
その居候の一人、叔父はダンス気違い、折目のピシッとしたズボンでないといけない。外出の時必ず帽子をかぶる、洒落男なのです。
私もよく手を引かれて三ノ宮のダンス・ホールに行く。当時流れていたのはこの「ダーダネラ」長期にわたって流れていた「ダーダネラ」はダンス・ミュージックのミリオン・セラー、スタンダード・ナンバーと言ってよいでしょう。
昭和一ケタから30年代まで約30年余にわたって流れ続いていたこの「ダーダネラ」は、ビリー・コットン盤とポール・ホワイトマン盤がミリオン・セラーでした。
リズムはフォックストロット、フォックストロットにはスロートクイックの二通りがある。できなければブルースでよろしい。
A-9 メイキン・フーピー エディ・キャンター 1930年
ブロードウェイの名門、ジーグフェルド劇場がある。ここは超一流、ミュージカルも軽劇も出しものも全てが一流。ここの人気者、エンタテインメント、ボードビリアンはエディ・キャンター。歌えて踊れてコミックもできて色んな要素は要求される。
大正の頃の浅草オペラ、昭和のモダニズムは、どうもこれを志向してたんでしょうね。レビューが盛んだったのもその影響。ところがもともと日本にはミュージカル、ダンスの土壌がないブームが去ると閑古鳥、こうして多くは廃館、残るは唯ひとつ宝塚のみ、はっきり言うと、日本にはナイト・ライフがない、カラオケ、居酒屋、風俗があるって、あれってナイト・ライフじゃない。
レストランシアターもナイトクラブもなくなったではないですか。日本では根づかないのです。
日本の夜は酔っぱらうこととスケベエになることしかない。つまり洒落て粋でダンディな夜がない。音楽の伴ったナイト・ライフがない、パリはレビューとシャンソニエの夜、マドリードはフラメンコの夜、アテネはタベルナの夜、ナポリはカンツォーネの夜、ロンドン、ベルリンはミュージック・ホール、これが人々の生活文化になっている。
ところが今の日本、千客万来も拒絶、ナイト・ライフもない、マイホームでミカンをむしゃぶり食い乍ら馬鹿なテレビを見てるだけ、何とも寂しい光景。
このエディ・キャンター、一世を風靡してましてネ、この人のドタバタ喜劇、見ているとエノケンを思い出す。エノケンの芸もエディ・キャンターのパクリかなと思う程、エディ・キャンターは元祖ボードビリアンなのです。
探せば必ずビデオがあるはず、「メイキン・フーピー」は素晴らしい曲、粋でダンディで曲想豊か、流石、アメリカ。アメリカは超大国、密度が濃い、ブロードウェイひとつにしても密度濃い。埋もれたエンタテイナーが無数にある。その層の厚いこと深いこと芸達者も無限に居る。それに比べて、この日本、AKBによしもとなんて何と薄ら寒いことなのでしょう。
A-10 恋人よ我に帰れ ローレンス・ティベット 1929年
これは名歌です。ジャンルを問わず、ポピュラー、ジャズ、声楽家に到るまで色んな歌手が歌っています。いずれも名唱でしてどれを吹込もうかと迷いました。最後に残ったのがジャネット・マクドナルド盤とこのローレンス・ティベット。
ジャネット・マクドナルドは大変な美女、傾城ですね。美男美女が好きで軽妙洒脱なエルンスト・ルビッチ監督、小津安二郎の若き日は、かなり傾倒していましたが、そのルビッチの子飼いジャネットがモーリス・シュバリエとコンビを組んで世紀の美男美女の名画「メリー・ウイドウ」を作りましたね。
夢いっぱいの名画、勿論私が生まれる前のこと。高校時代、神戸でリバイバル放映されて、うっとりドキドキ10代の心はときめき、憧れの女優、釘づけで眺めていました。最近このような雲の上の銀幕のスターなんて居ませんね。
ところがね、一転して、ローレンス・ティベット盤にしました。ほとんど忘れ去られた声楽家これは貴重、貴重、今では稀購盤と言ってよいでしょう。絶唱です、思わず感動しますよ。
B-1 リッツで踊ろう レオ・ライスマン 1930年
実に豪華絢爛、華麗である、リッチである、これがアメリカである。そして何と贅沢、これがアメリカである。アメリカは「ジャズ・シンガー」でトーキー時代に入った、出演したのはアル・ジョンスン。
当時のトップ・シンガーでしてユダヤ人。顔を真っ黒に塗りたくって黒人に扮していました。エディ・キャンター、ジャネット・マクドナルド、モーリス・シュバリエと名を連ねておいてまだ出て来ないのはフレッド・アステアの名。
こうなると金持アメリカの贅沢病ですね。音が出るようになったのでスクリーンはより輝やしく華やかに、こうして1930年代はミュージカルの世紀。
量産、量産といささか食傷気味になるくらい。ミュージカルに大切なのはダンサーと音楽、アメリカのエネルギー、バイタリティーの凄いところはこれ。これでもかこれでもかと量産、輩出。
何のミュージカルか淀川長治氏に聞かなきゃ判らない。そしてここではレス・ライスマン盤ですが、何かの違うミュージカルでフレッド・アステアはこの「リッツで踊ろう」を歌ってましたよネ。もう胸はドキドキ心はワクワク、アメリカにすっかり酔ってしまった。
B-2 二人のカクテル デューク・エリントン 1934年
フレッド・アステアとジンジャー・ロジャースと言えば世紀のダンス・コンビ。「コンチネンタル」に出てました・その時の主題歌が「カクテル・フォー・トゥ」何とデューク・エリントンが演奏している。
ポピュラーもダンス・ミュージックもサロン・ミュージックもやる。固いことは言わないで、その全てがアメリカでしょう。アメリカは本場でしょう。エリントン・サウンドと言えばジャングル・サウンド。
二グロの魂を歌ってるかと思えばかなり知的で洗練された音も奏でる。そして器楽的で頭脳派、もう最高のジャズメンと言って過言ではないでしょう。
この「カクテル・フォ・トゥ」はポピュラーでダンス・ナンバー、非常にサロン的な味を醸し出しています。垢抜けしたデューク・エリントン・サウンドに乗って、踊れなくてもよい、何だかフォクストロットを踊り出したくなる。
大人だったんですね、音楽が大人のものだったんですね。そして紳士淑女の時代、ガキじゃない。これに酔いしれるとロックなんて聞いておれなくなる。
B-3 センチメンタル・ジャーニー ドリス・デイ 1944年
ボン、ボン、ボーン~こちらAFRS=WVTR、こちら進駐軍放送、と流れたのは「センチメンタル・ジャーニー」昭和20年8月15日終戦一か月後進駐軍がド、ド、ドと押し寄せて、すっかり焼き尽くした三ノ宮駅前のそごうデパートの裏、港の入口に当る神戸税関前までは一面の焼野原、ここを占拠して米軍のイーストキャンプ基地を建設。
繁華街のど真ん中なんですよ。焼きつくように鮮明に覚えている。私、まだ幼児だったのに。三ノ宮駅構内は浮浪者の寝倉、阪神三宮駅に通じる地下への階段は物乞いの叫び声に傷痍軍人、三ノ宮のガード下を颯爽と過ぎる米兵のジープ、余りにも鮮やかなコントラストに今も目に焼きついている。
そして目の前は闇市、凄い人ゴミ、雑踏、誠、阿鼻叫喚の巷である。我々台湾人華僑は8月15日までは植民地の日本国籍人、一夜明けると、中華民国籍人、当時蒋介石政権の中華民国は連合軍の一員。だから一夜明けると戦勝国民になっていた。つまりG.H.Q統治下の民族になっていた。
日本人ご法度のP.Xにも自由に出入りできた。日本の官憲に力なし、そして管轄する権限もなし、物資不足のこの頃、P.Xに行けば品も豊富、華僑達はそれを横流しして、たらふく稼ぐ。悪事千万やりたい放題の混乱期。
これ第三国人の暗躍と言う。それ神戸は港があるでしょう。中国も台湾もまるで無政府状態、上海から、香港から、基隆から不法入国者どっと入る。
よく言えば義侠心の強い父、悪く言えば悪友がつき易い「食客三千人」型の父、例えば寧波から流れついた男を呼んで居候させる。母はそれに疲労困憊、悪友の誘いに引っかからないかとヒヤヒヤして過す。華僑社会と手を切って、どうか華僑の一人も居ない田舎へそう母の決断で昭和28年秋、山口に引越した。
当時、神戸港は無法地帯、港ではニコヨン、日雇い労務者、荷役人がいっぱい居た。その手配をするのが山口組、こうして巨大な暴力団となった。麻薬の密売も大っぴら、三宮駅より東側、脇ノ浜までが一大スラム街、国際マーケットなんて称されて、ここだけは出入りするな、と言われた程の悪の巣窟でした。
「センチメンタル・ジャーニー」を聞くとまるでフラッシュバック、次から次へと思い出される。そして闇市で流れた笠置シヅ子のブギと混然一体となって思い浮べる。
一方、粋な進駐軍にセーラー服姿の水兵さんにマドロスさん、神戸はピンからキリまで日本であって日本でないまるで小上海、租界地のようでした。
昭和20年代の神戸はバタ臭さ一色。あれから60有余年の神戸、長い平和で大人しくなった。モダン・ハイカラも神戸の専売特許でなくなった。
船の時代も終わってしまった。港はコンテナ化されて、労務者も激減、船乗り、マドロスさんも白人が居なくなって、ほとんどフィリピンかインドネシア人、米兵相手の外人バーもなくなった。一方、高級感漂ようナイトクラブもライヴの店もない。舶来の匂いがする神戸、洋行帰りの匂いがする神戸はどこに行ったのでしょうか。時は変遷、寂しくもある。
B-4 オン・ナ・スローボート・トゥ・チャイナ ベニー・グッドマン 1947年
未来永劫、変わらない風景なんてない、山河だって人の手で開発、破壊される。昨日まで広い田んぼが巨大なショッピングセンターに変ず、歩いていた人々のいでたち、ファッションも一変する。時の流れが我々を浦島太郎にさせる。昨日の若人、今日老人。
“年年歳歳花相に似たり、歳歳年年人同じからず” 70を目の前にすると何だか身に沁み身にこたえる。60代前半までは感じなかった感情、ひたひたと押し寄せる年波、60代前半までは、今までの延長線だと思っていたが65歳を過ぎると一変、65歳からは高齢者、本当にそうです。
少しづつ少しづつ老人の心境に近づく、老人になったんだと自覚する。すると変ですね長く数十年も眠っていた記憶が甦える。例えば、この「オン・ナ・スローボート・トゥ・チャイナ」を聞くと懐かしくなる。
「焼跡、闇市、進駐軍の時代」も神戸を思い出す。これ、ベニー・グッドマンなんですよ。ミリオン・セラーを放ったのは、ケイ・カイザーだったかな?ベニー・グッドマンともあろう人が時のヒット・ナンバーを演奏する。
でもザラにあるのです。シャンソン、ラテンまでもジャズにしてしまう。ビル・エバンスの「枯葉」も素敵でしょ。サンバの「イパネマの娘」もジャズにしてしまう、それでいいのでは、素材よければ、全てジャズになる。
B-5 十二番街ラグ ピー・ウィー・ハント 1948年
ラグタイムだって一時すっかり忘れられたり、ふと忘れた時に思い出される。そんなことが終戦直後
「十二番街ラグ」が大ヒットした。カウント・ベイシーがやってたのを聞いたことがあります。アメリカでは競演し合って競い合っている。だから眠ったまま、そのまま埋もれてしまったものも多くあるはず。
B-6 テネシー・ワルツ パティ・ペイジ 1950年
B-7 チェンジング・パートナーズ パティ・ペイジ 1950年
マーキュリーレコードの一枚看板と言えばパティ・ペイジ。これは日本人にも好かれましたよネ。少しでも洋楽に興味ある人、そんな家なら、どこもビング・クロスビーのレコードとパティ・ペイジのレコードはありました。
そしてレコードがSPからLP時代に変った時、一斉に買い求められたのがパティ・ペイジのレコード。ロング・セラーなのです。
永遠のスタンダード・ナンバーと言ってよいでしょう。パティ・ペイジの「テネシー・ワルツ」が世界中をかけ回った超ビッグ・ヒット。お蔭で今テネシー州の州歌となっている。そして昭和27年江利チエミがこれを歌ってデビューヒット。15歳の少女でした。
私は「チェンジング・パートナーズ」が大好きでした。やはり幼児の頃でした。SPレコードは鉄針でしょう。かければかける程すぐすり減る。それに簡単に壊れてしまう。
私は好きで好きで何度もかけ直す。するとすり減って雑音ばかりになる。母に頼んでは5、6回は買い換えたでしょうか私、幼い頃からそんな子だったのです。
でも通俗音楽、大衆音楽の耳、感受性なのでしょう、一番凝ったのはタンゴ。クラシックはそれ程聞き込んでません。軽く全体をさらった程度です。
B-8 陽炎もえて カルア・カマアイナス 1941年 朝吹英一作詞作曲
戦時中、こんな爽やかなバンドがあったのです。それはカルア・カマアイナスです。メンバーを紹介しましょう。朝吹英一(リーダー、スティールギター、ヴィヴラフォン)明治42年生れ、東郷安正(ベース)大正4年生れ、朝比奈愛三(ギター)(雪村いづみ父君)明治43年生れ、村上徳(スティールギター)大正2年生れ、原田敬策(ウクレレ)大正8年生れ、芸小路豊和(唄・ギター)大正9年生れ、牧原芳枝(唄)。
昭和16年の年齢、朝吹32歳、東郷26歳、朝比奈31歳、村上28歳、原田22歳、芸小路21歳。皆さん当時青年、全員職業を持ってるか大学生である。つまりアマとプロの中間。昭和18年まで3年弱、活躍したのは、録音したのは全20曲、内発売されたのは半分のみ。
残りは発売中止、軍部の圧力に依ってである。長い間幻のレコードでしたが昭和60年全20曲復刻のレコード発売、私はすぐ買いました。ハワイアンを基調にカルア自身のサウンドを模索していたのでしょう。
全体的に言うと軽音楽のグループ。大学出の匂いがして、全員毛並みのよいお坊ちゃん、それだけにサウンドは爽やかに清々しくかつアカデミック。
しかしデビューした時代が悪い、戦争の世紀で徴兵に怯え、おまけに敵性音楽のハワイアンを歌い軍部からことごとく、にらまれ思う存分活躍できない。しかし技量は確か、これ程気持ち良い青春讃歌はない。
大学のサークルの匂いがし一方プロ的技量、技術を持っている。こんな清冽な音楽はあるだろうかと思って私は大感動する。それに当時21歳の芸小路君の歌、実に清潔感溢れて清き青年の樹、こんな颯爽とした若者の姿、今の世にあるだろうか。不運にも軍靴に踏みにじられた。胸が痛む思いである。
B-9 愉快なカマアイナ カルア・カマアイナス&コロムビア、リズム・シスターズ
西城八十作詞 ハワイ曲 昭和16年
西城八十の作詞が実に美しい、カルアのレパートリーの内7割は主に朝吹英一の作曲、残り二割が東郷、一曲が村上。どれもこれも佳曲で殊に「陽炎もえて」は秀作、名曲と言いたい。
これを秘曲として眠らせるのは勿体ない。洋楽にも劣らないこの洋楽的センスと光り輝く才能、戦前の、然も昭和16年のこの時点にこれだけの境地に達していたのである。
こうして軍部に踏みにじられ、才能ある芽は惜しまれることなく摘み取られたのである。どれだけの人が戦争に依って消されたであろうか。考えてみると我々の親の世代である。長い人類の営み、歴史から見てみると例え昭和20年代の世代が「戦争を知らない子供達」であろうとも、ほんの紙一重、隣り合せである。
然も全員、昭和20~29年まで、60代来年私は70代になる。考えます。遠く去った若かりし日、「若い」とはこんなに美しくて、爽やか、清らか、カルア・カマアイナスを聞いて思い知らされる。
私は感動又感動で貴重なカルア・カマアイナスのレコード何度も針を入れてとうとう傷つけてしまった。それで飛んでる箇所がある。御諒承の程を。アナログ人間の私はCDよりレコードの方が好き、面倒でも針音を入れる。この所作が快感なのです。
昭和3年以前、大正時代はアコースティック録音でした。タンゴはマニア音楽、熱心に発掘されて陽の目に当たっている。ところで日本の場合はひどい。発掘されても保存状態が悪く、使いものにならない。これは映画でも同じ、チャップリンのサイレント映画でも保存はよい。日本の場合ほとんど散逸されてしまったのか消失してしまったかである。
これは当時、日本は遥かに後進国、アルゼンチンにも劣る、まだ西洋を師として学ぶ段階、自国のものを不当に軽視していた。文化水準のレベルを計る意味で面白い。
大正と言えばほとんどレコードなんて普及されていない。一般には辻音楽師や演歌師がバイオリンを片手にギーコギーコ書生節を講釈したり、こうしてはやり唄を作った。また西洋音階に関しては不理解、庶民が歌うのは浪花節か小唄、長唄、端唄等の邦楽。しかし明治の鹿鳴館時代から確実に変わってきた。
特権者階級のものから少しづつ庶民のものへと裾野を広げていった。人々の意識も変化、これが大正デモクラシー。
第一次世界大戦は欧州は大きな痛手、しかし遥かに遠い日本は戦争に巻きこまれることなく無傷の形で戦勝国となり好景気。着々と国作りが進み近代日本の礎が固まる。演劇運動に浅草オペラ、活動写真と享楽文化も花開いた。
しかし関東大震災、世界大恐慌に見まわれ、挫折したかに見えたが一旦火の手がついた近代化の波、ラジオ放送開始、レコードの電気録音化と続き昭和はモダニズム旋風で幕明けした。
戦前を語る場合、常に戦争のことを引き出される。それは昭和12年以後、昭和一ケタはモボ・モガ、エログロ・ナンセンスと言われかなり自由でした。この時代の空気の中で時代を謳歌していたのは明治、大正一ケタのモダニスト。
流行歌の世界もそれを追うかの如く、かなりエロっぽくきわどい。大衆心理を伸び伸び表現している。欧米から学ぶ処多し、その学習期間、映画はサイレントからトーキーへ。ジャズ、タンゴ、シャンソンのヒット曲も多く取り入れられる。
ダンス・ホール、カフェの全盛時代、宝塚にSKDとレビューの華、銀座、浅草、大阪に道頓堀、神戸の新開地の赤い灯青い灯、軍国日本に暴走する前のモダーン日本、歌も自由闊達でした。
A-1 復活唱歌(カチューシャの歌) 島村抱月・相馬御風作詞 中山晋平作曲 松井須磨子 大正3年
古い、実に古い、古すぎて済みません。これが無修正のアコースティック録音からの復刻盤。歴史と思って聞いて下さい。大正7年頃、「命短し(ゴンドラの唄)」と同時期のもの。
中山晋平作曲と思います、当時、演劇が盛ん、トルストイの「復活」が帝劇で上演された。その時の大スターが松井須磨子。島根県浜田市出身の作家、島村抱月と熱烈な恋に落ちる。
今のようにさして障害もなく男と女は簡単に引っつける。昔は大変なこと。だから情念の火に燃え上げて恋は命懸けとなる。
A-2 金色夜叉 塩原秋峰 宮島郁芳作詞 後藤紫雲作曲 大正7年
金に目がくらんだお富、熱海の海岸で寛一は宮を足蹴りする。有名な尾崎紅葉の「金色夜叉」であります。これも年中恒例で新派で上演され、再三再四映画化されて広くこの物語は知られている。
しかし40代から、それ以下は知らないのが当り前、もう年代差と言うより、日本人じゃないって気がします。
A-3 船頭小唄 鳥取春陽 野口雨情作詞 中山晋平作曲 大正12年
鳥取春陽も塩原秋峰も石田一松も当時人気の演歌師、だからレコード化されたのであろう。
当時レコードは高価な代物、なのに壊れ易い。蓄音機は更に高額、普通庶民の手に届かない。じゃどのようにしてはやり歌が流行したかと言えば演歌師がバイオリン片手にギーコギーコ奏でて辻から辻へと、これが広まって、活動写真館で映画の幕間で弁士が一節唸る。こうして地方にも歌が広がる。
A-4 籠の鳥 歌川八重子 千野かほる作詞 鳥取春陽作曲 大正13年
昔は女郎に売られる、家の犠牲になる。男の出世の為、女は日蔭者になる。厳しい男尊女卑に身分制度、それで哀史は日常茶飯事にある。虐げられた女は涙す。
メロドラマに紅涙する、演歌になる。これが貧しき頃の日本、更にこれが日本の土壌となる。歌川八重子はサイレント時代の女優。多分映画化されたのであろう。歌川八重子の口上が何とも古くさい。多分弁士もこうだったのだろう。観客はこれで拍手喝采。
A-5 ストトン節 鳥取春陽 添田さつき作詞 添田さつき作曲 大正13年
この頃の歌は浪曲調、民謡風、別に音楽がどうの、芸術がどうの、ってことはない。庶民に受けるとなるとどうしてもやや稚拙、でも何か可愛らしい愛くるしいですよね。
ジャズもタンゴも、世界のどの国の歌、全て稚拙から出発、それが発展して、次第に音楽的に向上する。アコースティックのものを聞くのはこの歴史の耳で聞くこと。
A-6 のんき節 石田一松 添田唖蝉坊作詞 添田唖蝉坊作曲 大正12年
多少おふざけがあって当たり前、そして春歌も氾濫してたでしょう。酒の場で芸者あげてドンチャン騒ぎ、酒池肉林である。これがバンカラ気風でもある。
日頃のうっぷんを晴らして、春歌も声高に放歌高吟、一方演歌師を通して演説、講釈よく分りもしないのに市民人権運動などデモクラシーと言ってやがる。これが男子漢、蛮勇、悲憤慷慨、口角泡を飛ばす。早稲田大学にこの頃の大隈講堂が残っている。東大にも安田講堂がある。書生が台上にあがって一説ぶつ。
建国の志に青雲の志、神田駿河台にはこのような書生さん達が闊歩して肩で風切る。角帽、黒マント、高下駄、腰に汚れタオルぶら下げて手には一升瓶。
こうして大正時代は比較的明るく自由な気質の中で能天気に庶民は暮していた。しかし関東大震災に依って世は一変ひたひたと押し寄せる軍靴の音、こうして大正は終り昭和がはじまりました。
A-7 アラビアの唄 二村定一 堀内敬三訳詩 外国曲 昭和3年
A-8 青空 二村定一 堀内敬三訳詩 外国曲 昭和3年
今から90年近く前、電気録音開始、ヒット曲第一号輝ける第一声である。新曲誕生、これに依ってレコード産業大始動、流行歌時代の幕明けである。
但し二曲共にアメリカ産、訳詩は堀内敬三氏、堀内は今も日本橋にある浅田飴本舗の子息、ミシガン、ボストンの工科大学に進みマスター・オブ・サイエンスの学位を得る。専門の工学の道へも進まず稼業も継がず、好きな音楽の道へ進んだ。
戦後一時期NHKラジオの「音楽の泉」を担当、テレビ創成記、「私の秘密」等にゲスト出演してたので私は名とお顔と名声は知ってた。兎に角、超エリート、~砂漠に日が落ちて夜となる頃~狭い乍らも楽しい我が家、と訳詩の名文句広く人々に膾灸されて、当時蓄音機は高額商品、それ程普及してないのに台数以上にレコードは売れに売れ、幸先よいレコード産業のスタートを切った。
「アラビアの唄」は本国アメリカではヒットしてないが「青空」は「マイ・ブルー・ヘブン」と言う題でジーン・オースチン盤が大ヒット、一枚のレコードA面B面で発売され、二曲共に大ヒット。
二村定一は浅草オペラ出身の人気スター、長い顔に太い鼻、それでシラノ・ド・ベルジュラックから名付けてベーさんと愛称されました。
シラノ・ド・ベルジュラックを既に知っているとは、大正ロマンに引き続いて昭和モダニズム当時のハイカラ趣味を思い出される。芝居や演劇活動、文学を通じて当時翻訳劇が今より盛んでした。
千田是也、東山千栄子、長岡輝子、杉村春子、滝沢修、宇野重吉と続いた新劇の系譜それが森雅之、岡田英次、木村功、奈良岡朋子、千石規子と継き続きましたが、世間や大衆から知的願望がなくなり今演劇界はどうなのでしょうか。
二村は下関出身、我らがテナーの藤原義江、田中絹代、木暮実千代も下関の人。林芙美子も下関に長逗留。
日本に今のような市政が誕生したのは明治22年、その時第一号の市に入っているのは下関。名古屋、神戸は勿論のこと三重県津市も市政第一号。
ちなみに参考までに四日市、明治30年、豊橋明治39年伊勢明治39年岡崎大正5年一宮大正10年、山口は昭和4年、瀬戸も同じ。松阪昭和8年半田昭和12年。
今の豊田市、挙母は昭和26年市政。下関は源平合戦の昔から壇ノ浦は有名、北前船の渡航地として盛え明治以来港町として繁栄、関釜連絡船が出入りし大陸の玄関口。
捕鯨船基地でもありフグの水揚げ日本一そして最盛期、球団大洋ホエールズが在った。対岸の門司と共に我が世の春を謳歌、関門海峡は意外と風光明媚、宮本武蔵、佐々木小次郎の巌流島の対決もこの場に在る。
まだある乃木大将、東郷平八郎の生地、高杉晋作と奇兵隊、日清条約の為、清国全権大使李鴻章が来日して下関で調印。これが有名な下関条約、日清談判である。そして台湾が日本に割譲される。
そしてまだある、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)著で知られるようになった琵琶法師耳無し芳一の話し等々名勝旧跡多し。しかし今は祭の後の後の静けさに似て、下関は斜陽の風に吹き荒らされて泣いています。
A-9 君恋し 二村定一 時雨音羽作詞 佐々紅華作曲 昭和4年
時雨音羽は元大蔵省官僚、佐々紅華は浅草オペラ界で活躍、レコード産業始動は大成功。しかし新しいレコードに依る日本産のヒット曲がない。このことが当面の緊急課題。外資系のビクター、コロムビアは大奮闘、作詞、作曲家、歌手の専属化、新曲作りに専念する。
一歩先んじて居たのはビクター。日本産の第一号ヒット曲はこの「君恋し」、時代はモダニズム旋風が吹き荒れていた。ネオンまたたく夜の巷、モボ・モガが闊歩する銀座、新風俗に酔ってた。と言うもののそれは流行の世界のこと、一般社会は 不景気と失業者、都市化の裏で田舎は苦しんでいる。
何だか平成のよう。殊に東北はひどい、まだ日本は工業国としては未熟、農業国であった。仕事はない、気候に左右される。一旦冷害に襲われると犠牲となるには農家の娘、身売りされる。
享楽文化に湧き上がるモダーン日本の都東京、娘達は赤い灯青い灯に吸われる。新しく登場したカフェそこで働く女給さん、髪に飾した花飾りにエプロン姿、夜の巷の新しいモードである。
この「君恋し」は大ヒットである。フォクストロットのリズムに合わせてステップを踏む、当時興隆したダンス・ホール、流行の世界はモダーン日本を煽る。
戦後昭和35年頃フランク永井が歌ってリバイバル・ヒットさせた。しかし「君恋し」は昭和4年、二村定一が歌った、これがオリジナル盤であった。
A-10 東京行進曲 佐藤千夜子 西城八十作詞 中山晋平作曲 昭和4年
中山晋平は大正時代から大活躍して居た大御所。流行歌から童謡に至るまで広く手がけて居た。
佐藤千夜子は東京芸大卒の全くの新人。昭和3年「波浮の港」を歌って大ヒットさせたがこれは大正に作られた曲で新曲ではない。
二村定一は既に浅草オペラの人気スター依って全くの新人ではない。レコード会社が生んで育てた第一号のレコード歌手新人はとなると佐藤千夜子になる。
ジャズで踊って、リキュールで更けて、丸ビル、地下鉄、ラッシュアワー、小田急、と東京の当時の新風俗新風景をフンダンに歌詞の中は散ばめられている。関東大震災で大打撃を蒙った。
しかし復興は早かった。ラジオ放送開始、地下鉄開通、小田急新架敷、杉並、世田谷方面に宅地造成、雑木林の続く関東シラス台地の多摩地方も急ピッチで開発される。
東京は首都機能も充実し更に広く大きく拡大した。その花の都東京の讃歌がこれ「東京行進曲」である。大ヒットして全国津々浦々に知られる。
ジャズって何?リキュールって何?ラッシュアワーって何?地下鉄にデパートに小田急も知らない地方の人々、歌は世につれじゃないけれど世は歌につれ、歌に依って世も引っ張られた。
レコード、流行歌、ヒット曲は新風俗を生み新しい生活スタイル、価値観を生んで、今迄とは違った形で社会が動きはじめた。その力が新しい文明の利器レコードである。
そして初期の揺籃期は今の馬鹿な芸能人、タレント、お笑い芸人、可愛い娘ちゃんと違って各界の知識人、これが束になって新風俗を創造する。これが知の力であり痴の力であるのです。
A-11 女給の唄 羽衣歌子 西城八十作詞 塩尻精八作曲 昭和6年
造花を指して耳かくしのヘヤースタイル、そして白いエプロン姿と言うのが当時流行の女給スタイル。私が子供の頃、バーの貼紙は麗人求ム、旅館は女中入用、それに住込店員募集なんて書かれて居ました。
不動産は斡旋屋、人材派遣所は斡旋所、ニコヨン、人足、番頭さん、丁稚、ご用聞きなんて死語になりました。ダンス・ホールで踊ってよいようにフォックストロットのリズム、昭和3、4、5、6年、レコード揺籃期はほとんどモダーン歌謡、まだ演歌でない。流行歌は演歌よりじゃないのです。
モダーン日本を志向してたのですがまだどこかで稚拙、そうでしょう、西洋音階、洋楽をまだ学習する期間、それが日本的土壌と結合して演歌になるまではもう少し時間を要した。
それも何よりも当時はモダーン志向、エーこれがモダーンなの?と思うでしょう。今の我々の耳からしてみると古い音色、楽器もどこか未熟、演奏も何か裏ぶれたサーカス小屋みたい。
でもこれが時代の音色、私にはこれが面白い。発達段階を知る歴史的な音色です。~わたしゃ夜咲く酒場に花よ、から歌い出して、三番は弱い女を騙して棄ててそれがはかない男の手柄、と何やら強くはないが女の怨みがこもって、後年の情念の炎燃やす演歌の芽が出ている。
つまり演歌は男尊女卑から出発してる。モダーン歌謡を志向し乍ら演歌に育つ。これが日本の土壌である。
B-1 道頓堀行進曲 内海一郎 日比繁次郎作詞 塩尻精八作曲 昭和3年
関東大震災で東京、横浜は荒廃、一時人口が減少する。折しも海の時代、大陸の方に目を向けていた。工業都市も西日本から発達、その富を集積する位置関係にあった大阪が江戸時代から引き継いで経済都市として大繁栄し日本一の人口を誇る大都会に成長した。
この時同じく、神戸も大阪東京に次いで日本第三位の都市となった。この時新宿、渋谷、池袋は東京でなく郡部。豊多摩郡内藤新宿町、渋谷町、北豊島郡巣鴨村大字池袋、荏原郡品川町と言ってた。
東京市は今の山の手線内、巨大ターミナルとなった新宿、渋谷、池袋は私鉄の拠点、つまりそこは町と田舎の境界線新宿、渋谷、池袋、品川、世田谷、王子、小岩、足立は東京になったのは昭和8年の大合併より。
一方大阪は今も昔も余り広く合併してなく面積は東京の13横浜の13名古屋の12である。神戸は六甲山系が海に狭って土地空間なし、戦前より既に満パイ飽和状態。大阪平野も濃尾平野の13しかない。ここに関西圏の限界がある。
東京は官の力大阪は私の力、国家資本は主に首都に投じられるから当然東京一極集中になる。経済力も東京に取られたが大阪の豊かさは今も変わりなく,沈滞したとは言えバイタリティーを秘めている。
大阪の道頓堀、心斎橋、千日前は今も繁華、塩尻精八は道頓堀の松竹座の主幹をしていた。大阪の服部良一、佐賀の松平晃、山口の松島詩子は当初大阪資本のニットーレコードに所属してた。
このニットーレコード、ドイツ系資本のポリドール進出に依って昭和5年吸収合併される。~赤い灯青い灯、の道頓堀、今も賑わっているが映画、芝居興行街の衰退によって映画館芝居小屋は減少し今も変らないのは“食いだおれ”の大阪、しかしよしもと興行は今も千日前にて健在である。
B-2 黒い瞳よ今いづこ 天野喜久代 堀内敬三作詞作曲 昭和4年
堀内敬三氏の作詞作曲、これは日本人がはじめて自ら作ったジャズ・ソングと言ってよいだろう。当時としてはかなりモダーンな曲調、学生、ホワイトカラー層にかなり愛唱されたと言う。
今の我々の耳には昔風のメロディーに感じますが80余年も昔のこと、そのことを間引いて認識すべきだろう。学生とホワイトカラーも、80余年昔と今とはかなり違う、学制も違う。
六、三、三制は戦後のこと、戦前の学制は複雑、旧制中学と言えば今の高校にあたる。高等専門学校と言えば今の大学。神戸高等商業学校と言えば神戸高商、今の神戸大学である。神戸外国語専門学校と言えば神戸外大、神戸高等商船学校は神戸商船大学、今の医学部は医学専門学校、法学部は法律専門学校、師範は教育学部、小学校の教員とそれ以上の教職の道は異なる、つまり大学と言えば旧帝大レベル、一高と言えば今の日比谷高校、東京帝大(東大)へ入る予備校と思えばよい。
学校差が明確、エリートコースは最初から決められていた。戦後旧制高校が全て大学に昇格、一県に一国立大学を置かれた。それでどっと大学が増え、大学生の平民化、これを皮肉って大宅壮一は駅弁大学と言った。
大宅壮一は新造語、新スローガンの達人。テレビの普及を皮肉って“一億総白痴化”と言った。事実今のテレビを見ても本当に馬鹿みたい。ホワイトカラーもそう、背広を着て会社に出勤なんて大手の会社のみ、サラリーマンなんて憧れの的、丸の内の大手会社何て庶民のものでない。今でこそ商店主まで社長と言ってるが昭和30年代までは親爺、大将なんて呼んで居た。全て平民化された今、と身分が明解だった昔とは、大きく違いがあると認識すべきでしょう。
となると芸能界も今と昔は違う、演劇畑から出身の俳優と単なる人気スターも又異なる。例えば杉村春子と田中絹代、世間の目は違う。幾ら人気あっても河原乞食、松平晃が某女優と結婚し離婚したとなれば身分違い、こんなスキャンダルを生めば人気が失落する、そんな時代でした。
車もゴルフも登山も当時は平民のものではない。こうしてみると流行歌なんて当時俗悪なもの。
そんな認識が今も残っている。流行歌は下品で洋楽は上品と思う、あり方。その流行歌にも差がある。ド庶民の好むものと学生層、ホワイトカラーに好まれるものとは違う。
流行歌に限ってみると長い年月で自然淘汰されるのにド庶民の好む流行歌がよく知られ残って、上質な流行歌はそのまま忘れ去り、知る人ぞ知る、好事家の間でのみ知られる秘曲になる。
つまり、これがマニアの世界となる。タンゴはマニアの世界、しかし東京は玉石混淆、人口が多いってことで一握りの好事家、マニアの人口数も多い。東京には流行歌マニアの世界もあるのです。
又サイレント映画マニアの世界もあるのです。恐る可きは東京、何でもありの東京、東京は一面享楽の都である。これが東京の魅力のひとつでしょう。天野喜久代は浅草オペラ出身、素晴らしいメゾ・ソプラノである。
まだレコード初期、一つの曲多くの人に歌わせていた、競演である。この天野盤が一番よい。これは秘曲である。当時のモダニズムを楽しんでみて下さい。
B-3 蒲田行進曲 川崎豊、曽我直子 堀内敬三訳詩 外国曲 昭和4年
昭和の初期、蒲田は荏原郡蒲田村と言って田舎でした。宅地造成の波がヒタヒタと押し寄せ乍らも田んぼがまだ沢山残っていました。ここに松竹蒲田撮影所がりました。まだサイレントの時代でした。
松坂慶子、風間杜夫出演の「蒲田行進曲」見ましたか?その映画に流れた曲がこれです。
松竹の宣伝の為にこの曲、実はオリジナル盤はアメリカの「放浪者の唄」である。川崎豊は声楽家何だろうか、堂々とした歌いっぷり、声量豊かである。この頃の映画はサイレント、小津安二郎の作品を見たがどれも名品。笠智衆、斎藤達雄、坂本武、飯田蝶子、と懐かしい顔ぶれ。松竹の好みなのか小津の好みなのか?美男美女が好きなようです。
B-4 麗人の唄 河原喜久恵 サトウ・ハチロー作詞 堀内敬三作曲 昭和5年
又堀内敬三の曲である。この歌の「麗人」とは女流歌人の柳原白蓮、事実とは少し異なって脚色されて小説化、それを映画化、その主題歌です。
“~つい騙された恋心、綺麗な男にゃ罠がある、綺麗なバラにはトゲがある。知ってしまえばそれまでよ。知らないうちが花なのよ“と何とおぞましい、怨念がこもって居る。
これが日本の当時の厳しい男尊女卑の風土と溶け合って演歌となる。ある種戦慄を感じる、日本的官能エロティズムである。情念の火、なすな恋の猟奇と妖しさの世界、何やら怪談とも通じる。
モダーン歌謡で作ったものが日本の土壌と溶け合って演歌となってしまった。モボ・モガ、エログロ・ナンセンスとはよく言った。昭和一ケタはその後すぐ来る軍国の世と比べて、かなり自由、何だかエロチックで妖気に溢れている。
私は興味津々、この世相を生んだ社会的背景、そしてモダーンを志向する目等々この時代は面白い、誠にエキセントリック。
B-5 すみれの花咲く頃 宝塚月組 白井鉄造訳詞 外国曲 昭和5年
モボ・モガの時代はレビューが飾った。レビューは都会の華である。東京有楽町の日劇、浅草のSKD、大阪千日前の大劇(OSK)、そしてこの宝塚である。
今残っているのは唯一宝塚のみ。私の幼少期の神戸時代は宝塚っ子でした。焼跡、闇市、テレビのない時代の子にとって宝塚は夢のお城でをした。
温泉あり遊園地あり動物園あり、そして華やかなレビューの大劇場、それはそれは阪神間の子供にとっては一日中家族揃って楽しめる夢のパラダイスでした。出しものが変る度に親に連れて行ったように記憶している。
宝塚はスターではない、宝塚音楽学校の生徒さんである。全寮制でみっちり仕込まれ、晴れて舞台に出ることができる。
つまり舞台は生徒さんの発表の場、はじめての舞台、制服の緑の袴を着て新人公演で整列、「すみれの花咲く頃」を歌う、そして恒例のライン・ダンスである。「すみれの花咲く頃」はもと、オーストリアの歌。フランスに渡ってシャンソンとなる。
シャンソンは「リラの花咲く頃」となっている。それを白井鉄造が持って帰った。パリはレビューの都、宝塚は多くそこから学び取った。つまり宝塚はシャンソン普及に大いに貢献した。月組、花組、雪組とあって、このレコードは月組の生徒さんが歌っている。台詞は棒読みだが天津乙女だと思われる。
B-6 ニッポン娘 バートン・クレーン 森岩雄訳詩 外国曲 昭和6年
バートン・クレーンは英字紙の記者。コロムビアのスタジオに出入りし酒の場の余興で悪ふざけで歌っていたところそれが受けてレコード録音するようになった。この原曲は「ヒンキー・ディンキー・パーレ・ブー」で第一次世界大戦の後、米兵に盛んに歌われていたそうです。
バートン・クレーンの歌声を聞いていると駄洒落れソングなのですが何かとっても素晴らしい。爽快で聞いてて気持ちよい。おふざけなんだけれどインテリジェンスを感じる。
B-7 並木の雨 ミス・コロンビア 高橋掬太朗作詞 原野為二作曲 昭和9年
何か竹久夢二の美人画でも見ているような美しい曲であります。当時の女性として歌謡界最大の美声歌手が、ミス・コロムビアと二葉あき子。この二人は共に東京芸大卒、うっとりするような美声で上品さが漂よう。
このような歌手、今は全然居ない。女性に対する美意識が異なったからでしょう。このような品性と恥らいと慎ましさを含んだ乙女の匂いを漂よわす歌手が本当に居ない。優雅はさて置いてほとんど現在の歌手あらわである。美意識、価値観が違うので仕方ないと思いますが。
どこの人やら傘さして、なんてこの一言の歌詞、何とも悩ましくて女っぽい、然も上品である。
高橋掬太郎の詩が恥らいを帯びた切ない女心、美人画の世界じゃなくて何んなんでしょう。どう表現したらよいのでしょうか。この古風さ、この抒情、たまらない魅力ですね。又曲調が素晴らしい。
タンゴであるが、洋風でなく和風の慎ましさ。実に素晴らしい感性。原田為二とは、ハラノタメニ(カマヲコシラエヨウ)と幾分ふざけた芸名、池田不二男である。
佐賀の旧制中学では松平晃と同級生、国立音大に進む。池田=松平のコンビに「花言葉の唄」のヒット曲がある。実は私、池田の曲が大好きです。曲、詩、歌手と三拍子揃って名曲名演と言えます。
B-8 王様の馬 奥田良三 西城八十作詞 作曲者不明 昭和9年
奥田良三も又東京音楽学校(現東京芸大)卒、渡欧してイタリアやドイツへ留学。ビクターの藤原義江に対して奥田はポリドール専属。「城ヶ島の雨」「叱られて」「昼の夢」「からたちの花」「この道」をヒットさせた。
「お菓子と娘」を最初にレコーディングさせたのも彼である。西城八十は純粋詩人でもあり流行歌の詩人であり童謡詞も多く書いている。つまり楽壇と文壇の重鎮である。その二人の重鎮の共演である。
この「王様の馬」は私の大好きな曲。とてもメルヘン豊かな詩心に溢れ曲も素晴らしい。格調高く気品ある曲。
王様の馬の首の鈴、
チンカラカンと鳴きわたる
陽は暖かに風もなく
七つの峠が晴れわたる
山の麓の七村は、青亜麻(あおぬめごま)の花咲けど
人に別れた若者は今日も今日とてすすり泣く
奥田の絶唱である。それに秘曲中の秘曲、作曲者不明、編曲は山田栄一である。ひょっとして外国の曲かも知れない、森繫久彌の東宝の社長シリーズの中のひとつ、その中のシーンで森繁、この曲を歌っていました。
恐らく彼の愛唱歌なのでしょう。いつもヌーボーとして、ひょうきんな森繫、ひょんなことで知性がこぼれる。この人は相当のインテリなんでしょう。稀有な存在でした。
このような重鎮と呼べる人材、今の日本、今の60代から居なくなりました。
B-9 美しき天然 奥田良三 武島羽衣作詞 田中穂積作曲 昭和5年
この曲は明治の頃に作られたものです。この曲が流れると我々は連鎖反応的にサーカスを思い浮べる。私が子供の頃、神戸の新開地に常設のサーカス小屋のテントに、“親の因果か子に移り”とかの客呼び寄せの口上で、神戸では人間ポンプなんて言われていました。
電球を喰らう男、火を吹く男、蛇と戯れる女、大男に小人、盛んな呼び寄せの口上等々、幾分怪奇趣味漂よう猟奇の場所でした。湊川新開地と言えば東京で言う浅草のような所。映画館、芝居小屋、寄席、落語の溜る興行街。すぐ隣りに福原遊郭があった。
どん詰りが湊川公園、浮浪者の溜り場。毎日大道芸人や口上師が集まる。今は一掃されて、遊興の巷はさびれ、映画館も廃館。猟奇の場もなくなりシーンと静まりかえって居る。「美しき天然」を聞くと、私は遠く60数年前の新開地を思い出すのです。
昭和20年代の神戸は一面焼野原、瓦礫の山でした。100万あった人口が30万台に激減、三宮と新開地の市街地のど真ん中に米軍キャンプがあって進駐軍がうようよ、それに混じってセーラー服姿の水兵さん達も闊歩してまるで租界地のようでした。
福原遊郭は平清盛が一時遷都した所。この時今の兵庫港は大輪田泊と言われた。開港場はその兵庫に隣接する神戸村。今の元町三宮一帯である、に設けられた。
B-10 ダイナ ディック・ミネ 三根耕一訳詩 外国曲 昭和9年
戦前はダイナが一世を風靡した、同じ頃、中野忠晴とコロムビア、ナカノ・リズム・ボーイズでも歌って、ミルス・ブラザース並の名唱を放ったが、ホームラン級のビッグ・ヒットを放ったのはディック盤である。
幾分、不良の匂いのするディックの方がジャズが似合ってて、中野忠晴はビング・クロスビーのようにアット・ホーム・ソングの方が似合っているようだ。いずれにしろ多くの人が競演した「ダイナ」はディックの方に軍配があがった。
これはディックのデビューヒット。ビッグ・ヒット故、この一曲でディックは大物歌手にのし上がり以降順風満帆。ディックにしろ東海林太郎にしろ、いずれも昭和9年のビッグ・ヒット「ダイナ」と「赤城の子守唄」を当てたが、それまでの流行歌手のほとんどは音楽学校出身、それに切り込んで来る形で以後、音楽学校出身であることが絶対でなくなった、但し昭和12年以前までにデビューした歌手はほとんど大学卒業でした。
時代逆上るにつれプロとアマの境界線が厳しい。昭和10年代半ば以後、そんな条件取り払われ、流し出身でも歌が上手ければよいになった。
三根耕一とはディックの本名、彼は自分の歌った外国曲の多くは自ら訳詩した。中野忠晴もそうでした。昔の人は偉いですね、文才も秀れている。
「ジャズ・シンガー」「モロッコ」「巴里の屋根の下」「会議は踊る」等々、洋画は昭和4、5年よりトーキー化、邦画は約3―5年遅れ、それに依って洋楽のヒット曲がどっと入り、日本でもほとんど欧米と同時にリアルタイムでヒットする時代に入った。
この時の日本人の舶来音楽に対する情熱は凄いもの、忽ち吸収、摂取、洋楽ファン、モダニストを作った。但しかように言いますが、今ほど四通八達してない。モダニズム旋風と言ったって都会のみ、じゃその都会とは、当時六大都市と言われていた、東京、大阪、名古屋、京都、横浜、神戸の六都市。100万以上の都市はこの6つのみ、次の広島、福岡、長崎はその半分の人口、六都市だけが断然に大きかった。
私鉄網の郊外電車が走っていたのはここ6都市のみ。昭和15年まで神戸は東京、大阪に次ぐ第三位の都市、但し六甲山系に阻まれて発展に限界がある。札幌はまだ中小都市規模、仙台はそれよりやや大きい程度、函館、小樽が盛えていた。
当時は海の時代、長崎、佐世保、門司、下関、呉、函館、小樽の全盛時代、輸入されるレコードに映画のフィルムも港町より、港町はハイカラ、モダーンな町でした。今は横浜、神戸を除いて、地方の港町は軒並み斜陽化している。
急速に洋楽を学習し、戦前のピークを迎えた処で、日中戦争(支那事変)はじまる。日本は軍国化の道を歩む。敵性音楽のジャズは御法度、鬼畜米英もかけ声でダンス・ホールも封鎖、洋画も禁止となる。それが解かれるのは昭和20年8月15日より。日本はG.H.Qに統治され、これから7年間は占領下、アメリカの大洪水、大氾濫である。
洋楽、洋盤、洋画に飢えていた日本人すぐ飛びつき昭和27年まで日本はバタ臭いカラーに一色、映画はチャンバラ時代劇はできない。増してや忠臣蔵なんて持っての外のこと。でもハリウッド映画はどんどん入って来る。
戦前に引き続いて美男美女のスター時代、ゲーリー・クーパー、イングリット・バーグマン、グレイス・ケリー、ジャームス・スチュアート、ジェラール・フィリップ、ダニエル・ダリュと誠、綺羅星の如く輝いていた。
流れる音楽も古き良き時代を踏襲している。ビング・クロスビー、ペリー・コモ、ドリス・デイ、パティ・ペイジ、と総じてメロディーラインが美しい。
これが昭和20年代、またロックのかけらもない、非行する若者の風俗もない。まだロマンティックな夢を見ていたんでしょうね。ヒット曲も美しくて、Gパン、Tシャツの姿なんかなし。身だしなみはキチンとして端整、紳士、淑女の時代でした。背広はテーラーでオーダーメイド、ご婦人はオートクチュールが当たり前、誠にお洒落な時代でした。
A-1 恋人とよばせて ビング・クロスビー 1934年
ビングは1920年代、ポール・ホワイトマン楽団のバンド・シンガー。そこから独立して、ミルス・ブラザースと組んで歌った「ダイナ」が世界的なミリオン・セラーを放ち、以降アメリカが生んだ世紀の歌手への道を歩む。
1934年新生のデッカレコードへ移籍、その第一号ヒットが「恋人とよばせて」。そのオリジナルヒット盤です。小津安二郎の「東京物語」の下書きとなった「明日は来たらず」のシーンの中でもこれが流れ、とても切ない思いで鑑賞したのを、今も思い出します。
A-2小さな竹の橋 ルイ・アームストロング 1937年
1930年代半ば少し前あたりからハワイアン・ブームが起りました。ビング・クロスビーをはじめサッチモまで歌う。これが大当り、世界的にハワイアンが知られる。日本もそのブームに敏感、灰田勝彦、川畑文子、ベティ稲田と言ったハワイの日系二世歌手が続々とデビュー。
この頃が戦前に於ける、日本のジャズの興隆期、ハワイアンは戦後になってバッキー白方、エセル中田が一世を風靡。日本人のハワイ好き、ハワイアン好きは今も続いています。6,70代の元気なオバチャン達がフラダンスを踊っています。
A-3 素敵なあなた アンドリュー・シスターズ 1937年
アンドリュー・シスターズはポップシンガーでもあり、ジャズコーラスでもある。アメリカにとってはジャズとポップスの境界線は曖昧、しかし日本のジャズ・ファンはうるさい。これはジャズでないとか、日本人は多分学究的民族なんでしょう、真面目なんでしょう。
A-4 虹の彼方に(オズの魔法使い) ジュディ・ガーランド 1939年
ビビアン・リー、クラーク・ゲイブル出演の「風と共に去りぬ」、ローレンス・オリビエ、マール・オベロン出演の「嵐が丘」そしてこの「オズの魔法使い」の作品は1939年、日本では昭和14年、この年は当たり年。しかしこの時日本は既に洋画輸入は禁止、日本で放映されたのは戦後のことです。
A-5 ショパンのボロネーズ カーメン・キャバレロ 1945年
カーメン・キャバレロはサロン・ピアニスト。タイロン・パワー出演の「愛情物語」あれはエディ・デューチンの伝記映画。タイロン・パワーがピアノを弾くシーンは全て、カーメン・キャバレロのピアノでした。1940年代クラシックからのヒット・ソング化が盛んに行われました。
ショパンのピアノ曲なんかことごとくヒット・ソング化、「ユーモレスク」等、クラシックでも軽いもの、スタンダードなものはヒット・ソング化しました。
A-6 ボタンとリボン ダイナ・ショア 1948年
これは終戦直後、日本で大ヒット、幼児の私だった頃「バッテンボー」と口ずさんで居たのを覚えています。当時のヒット・ソングは日本の歌手が必ずカバーする。日本では池真理子が歌ってヒットさせました。
A-7 二人でお茶を ドリス・デイ 1950年
ドリス・デイは「センチメンタル・ジャーニー」を歌ってデビューいきなり大ヒット。この時、日本中各都市どこも焼跡焦土の中、進駐軍放送から流れたのが「センチメンタル・ジャーニー」。これが日本に於ける戦後第一曲目のヒット曲。
ドリス・デイの持ち唄をカバーしたのがペギー葉山、「ドミノ」を歌ってデビュー、以後「ケ・セラ・セラ」に至るまでことごとくドリス・デイのヒット曲をカバー、「二人でお茶を」もそうです。ドリスはソバカス美人、でも美人かな?ヒット曲も多く映画主演も多し1940―50年代にかけて人気スターでした。
A-8 黄色いリボン ミッチー・ミラー合唱団 1951年
今では人種差別になるってことでインディアン襲撃となる西部劇なんて作られなくなった。西部劇となるとジョン・ウエイン、この人1960年代まで西部劇の大スター、私の高校時代までは人気スター。ジョン・ウエインの映画となると映画館は超満員、懐かしいですね、この時代が。
A-9 エデンの東 バリー・スティーブンス 1955年
私の家の真裏は洋画専門館、いつも封切が変わる度に新曲が流れて来る。「昼下がりの情事」とか「80日間世界一周」とか「南太平洋」とか。それは小五、小六の頃、田舎の山口に居ても町のど真ん中育ち、映画館は黒山の人だかり、銭湯は芋の子洗うが如し。そして喫茶店の全盛時代。「一丁目一番地」「バス通り裏」「お笑い三人組」の世界でした。兎に角、町はどこも賑やかで楽しかった。
ジャームス・ディーンも今生きてたら90代若くして死んだので今も永遠の若いままのアイドルです。
B-1 ドリーム パイド・パイパーズ 1945年
NHKに「美の壺」がありますよネ。その時このメロディーが流れる。テレビとかCM、よく懐かしのメロディーを使用する。194、50年代のもの、スタンダード・ナンバーになっている。多分永遠性を持って居るのでしょう。私には、終戦後の神戸の思い出となっている。
セーラー姿の水兵さん、進駐軍、GI、MP等々あの頃の神戸、まるで町全体が租界地のようでした。懐しい、本当に懐しい「ドリーム」は私の郷愁です。
B-2 春の如き ポール・ウエストン 1945年
194、50年代は「強いアメリカ」のイメージ。世界の政治地図も白人が中心でした。次から次へとヒット曲が誕生、そのどれもが美しいメロディー、ロックが登場する以前の白人社会、フランスもイギリスもドイツも含めて精神文化が最も成熟していたのでしょう。
だから、こんなに美しいものが生まれる。こういった旧秩序、美意識を叩き壊したのは、1960年代より、ロックの時代になってからのこと。ガキ文化のはじまりです。
B-3 モナリサ ナット・キング・コール 1950年
復興の槌音、少し落着いたところで登場したのがナット・キング・コール、進駐軍の間でも大人気、ナット・キング・コールの歌声はマイルドでソフィスケイテッドされて日本でもファン多し、今でもどこかでお店から流れてくる。ロック時代直前の良き時代のアメリカの匂い、良心と端整なアメリカの匂いが伝わって来る。
B-4 愛の讃歌 エディット・ピアフ 1949年
「バラ色の人生」「ミ・ロール」「パダム・パダム」等、私の子供時代、ピアフの歌が只今、ヒット中でよく流れていました。この頃、日本では、高英男、石井好子、芦野宏が大活躍。美輪明宏は丸山明宏と言って、シスター・ボーイと言われ、まだガキのチンピラ歌手でした。
ピアフが認知されるまでは、イヴ・モンタン、ジュリエット・グレコ、ジルベル・ベコー、イベット・ジローがよく売れて、戦前は、ダミア、アルベール・プレジャン、ティノ・ロッシ、リーヌ・ルノーの時代。まだ20代後半の年頃だった越路吹雪が既に「愛の讃歌」を歌ってた。
“私の歌売れないのよね”とこぼしてた越路。実は越路と共に久慈あさみ、淡島千景、音羽信子、八千草薫、春日野八千代と宝塚の舞台で観たことある私、神戸と宝塚は直結している。
終戦直後の宝塚は阪神間最大のレジャーセンター、いつしか女子供の見るものとなる「ベルばら」以来圧倒的に女性が支配。少女趣味、乙女チックと言われ乍ら、日本の唯一のレビューとなり宝塚は100年の歴史を歩んだ。宝塚出身のスターは年増になって頭角を現す。越路吹雪もそうでした。やっと40代になって芽を出し、この「愛の讃歌」も日本ではピアフ直通でなく越路吹雪の歌で広まった。
昭和30年代半ばがシャンソン黄金時代のピーク、以後、アダモ、エンリコ・マシヤスまでかな?シルビー・バルタンが登場する頃、シャンソンはフレンチ・ポップス化、或いはロック化、こうなるとシャンソンからパリの匂いを心地よく嗅ぐっていた日本から少しづつシャンソンに遠のく。
今もあるはず、フレンチ・ポップスとして、しかし白人の成熟した文化の世紀は終ってしまった。既に欧米が師とはならなくなった。加えるに世界の音楽のグローバル化、然も今は和製ポップスやアイドル歌謡の全盛期、こうして銀巴里も長い歴史に終止符を打つ。タンゴ界はもっとひどい。
70代以上の高齢者の音楽となって世界遺産に登録されましたがこのことは一方では過去の音楽になろうとしていることの証明である。ジャズも、ラテンも、ウエスタンも、どこに行った?あるにはあるでしょう。全てグローバル化、ロック化して、本来の姿とは異なる、こうして大衆音楽の今を牽引していた時代は終った。これは大衆音楽の宿命なのでしょうね。
B-5 詩人の魂 シャルル・トレネ 1951年
「ラ・メール」に続いて、「詩人の魂」もシャルル・トレネの大ヒット。この頃のシャンソンは詩的にも秀れ何よりもパリの香りいっぱいでした。どこか粋でハイカラでお洒落で。それから比べると今、世界中ガキですね。ラップなんて、汚ない!
B-6 ビギン・ザ・ビギン フランク・シナトラ 1946年
「ビギン・ザ・ビギン」も1930年代の古いヒット曲。アメリカは度々リバイバルして曲の体質、内容を変えてリバイバル・ヒットさせる。
シナトラの「ビギン・ザ・ビギン」のリバイバルのミリオンセラー、近くはフリオ・イグレシャスが歌って再三再四リバイバルヒットさせた。
シナトラはトミー・ドーシー楽団のバンド・シンガーから出発、女の子にキャアキャア騒がれるチンピラ歌手でしたが、いつの間にかのし上がり映画スターとしても大成。そしてラスベガスのショウ・ビジネス界へ。夜の帝王としても君臨する。
シカゴのマフィアとも手を組み、その頃の姿、「ゴッドファーザー」の中で画かれていた。つまりシナトラは「アメリカの顔」である・。熟年になってから「マイ・ウエイ」を歌って大ヒット。生涯現役でした。
エバ・ガードナーとも結婚、離婚、ゴシップ種多いハリウッドのスターでもありました。シナトラの死によって「強いアメリカ」の時代は終った象徴的である。
B-7 テネシー・ワルツ ピー・ウィー・キング 1949年
「テネシー・ワルツ」をミリオン・セラーさせたのはパティ・ペイジでした。このヒットは超大型で世界的なヒットとなった。この曲のオリジナルはもとカントリー・ウエスタン(C&W)、ウエスタンは民族音楽、アバラチア山脈へ移住したヨーロッパ人がヨーロッパ各地の古謡を持ち寄った。これが発展して、サザン・マウンテン・ミュージックとなった。
一方、ミシシッピー河を超えて西部を開拓、これがカウボーイ・ソング。この二つが合体して生まれたのがC&W。1930年代まではまだ民族音楽のレベル。1940年代になると、ヒット・ソング化。ウエスタン・ブームが到来。ハンク・ウイリアムズの時代までがウエスタンの黄金時代、日本でも黒田美治、ワゴンマスターズ、小坂一也、ウイリー沖山が登場して、ウエスタン・ブームが起きる。
1950年代半ばから、このウエスタンを母体にして、ジャズやポップスの要素が加わってロカビリー誕生。マウンテン・ミュージックは田舎の音楽として“ヒリビリー”と見下して称されていた。それとロックンロールの合成語がロカビリー、今ではロックと呼ばれている。
いつしかウエスタンはロックに吸収され一方土臭さを払拭して生まれたのがフォーク・ソング。すっかり体質を変えたC&W、しかしどっこい生きている。今でもケンタッキー、バージニア、テネシー各州ではC&Wの姿のまま残っていると聞きます。
「テネシー・ワルツ」のポップ化、その元祖C&Wの姿のまま、然も作曲家自身のオリジナル、ピー・ウィー・キング盤で聞いてみましょう。実に素晴らしい、日本では江利チエミがデビューヒットを放った。
B-8 霧のロンドンブリッジ ジョー・スタフォード 1955年
少し女性としては迫力のある声かな?それまでの女性の声は優美で繊細、これが大ヒットしていた頃小六だったかな?新しい時代が到来してと思って驚きました。
当時、裕次郎ブーム、邦画でもグラマー女優登場。太陽族、カミカゼ雷族、湘南海岸、ロカビリー旋風、そしてこの田舎町山口でも洒落た喫茶店ができる。世間は何か胎動。しかし映画館、銭湯、床屋は超満員、テレビ時代がヒタヒタと押し寄せて来る。まだ街頭テレビに人が群がっていました。
紙芝居は健在、チンドン屋にサンドイッチマン、チンジャラジャラのパチンコ屋、バスの車掌さん,赤帽にチッキ、東映の時代劇、森繁の東宝社長シリーズ、邦画にもシネマスコープ登場、新旧のライフ・スタイルが混在、今、思い出してみると誠に賑やか、活気に満ちた社会でした。
この「霧のロンドン・ブリッジ」は日本では江利が歌って大ヒット。この時、美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみと三人娘の全盛期。今と違うのはこの三人娘、唯の可愛い娘チャンでない歌唱力も秀れていた。
昭和20年を境に戦前と戦後全く異なる、新生日本のスタートである。昭和30年代を振りかえってみると日本は若い。復興期を終えて愈々高度成長期へと向う。昭和40、50、60年代と10年一昔、ライフ・スタイルは変る。日本は金持国となる。明けて平成に入るや長い不景気の時代、10年で終ると思いきや既に今は26年長いトンネルから抜け出れない。
こうして日本は少子高齢化、かつてのバイタリティーは喪失、まるで人の一生と似ている。新生日本、昭和20年代生まれが全世代60代、この年代と同じように日本は年寄りの国になったのでしょうか。
日本人は好奇心旺盛、海外の先進文化に対して情熱的に摂取、吸収する。明治のあの鹿鳴館は特権者階級の為のもの、しかし大正に入ると、裾野を広げはじめ少しづつでしたが大衆に広がりはじめた。
大正に入るとまだ生まれて間がないジャズも入りこんでいた。入り込んだと言っても、ほんの一部のみ。一般大衆の耳、感性はまだまだ浪花節を唸る次元。こうして長い時間かけて洋楽の耳に慣れた。
大正末になるとタンゴも入って来た。洋楽を演奏する側のアーティスト達もまだまだ稚拙な演奏、未熟でした。こうして昭和が開けた。大正14年にはラジオ放送開始、昭和3年にはレコードの電気録音に依って、にわかにじかに洋楽を耳にすることができるようになった。今迄を紀元前にすると、これが紀元後、つまり本格的な始動です。
昭和のはじめはモダニズム旋風からはじまった、こうしてハイカラさんが育ち、ダンス・ホールが繁栄し、生活様式の洋風化が起り、東京、大阪、横浜、神戸ではハイカラさんが巷を闊歩するようになった。昭和一ケタになるとミルス・ブラザースが入って来、それに触発されて、コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズが誕生。「ダイナ」「タイガー・ラグ」「月光値千金」「青空」「レイージー・ボーンズ」「サイド・バイ・サイド」がこの頃にヒット曲。モボ・モガが口にするハイカラさんがタップやチャールストンを踊る。それにフォクストロットを踏む。
昭和9―11年、この三年間がモダニズム旋風のピーク。しかし昭和12年支那事変勃発、これを契機に戦争の世紀へと突入、軍国主義の時代に入った。洋楽の引き締め、洋画の輸入ストップと、享楽文化が花開いたところで鬼畜米英。敵性音楽の号令のもと、全てが戦時体制に入った。
それが解禁されるのは戦後のなってからのこと。今度はG.H.Q統治、日本は占領下となる。するとアメリカの大洪水、洋楽の大氾濫です。
こんな時に日本人はすさまじい勢いで学習する。スイングの時代が終わってモダン・ジャズの時代に入って居た。タンゴの古き良き時代も終わった。しかしレコードはLP時代に入って今とは比べられない物量で入って来て、しっかり学習した日本人、昭和30年代になると、今度は様々なジャンルのマニアが育った。
A-1 センチになって(アイム・ゲッティング・センチメンタル・オーバー・ユー)
トミー・ドーシー 1936年
1930年代から1940年代前半までは、スイングの時代、明けても暮れてもスイングが流れる、変化なしでビー・バップ革命が起る。丁度戦後になったところ、今度はブギウギ旋風、進駐軍の若い米兵達はジルバを踊る。こうしてモダン・ジャズの時代を迎えた。
ところがスイング全盛時代、日本人は余りリアルタイムで体験していませんでした。ジャズは敵性音楽と言われて戦争の世紀に入っていたからです。しかしプロはちゃんと知ってた。
広く大衆に知られ聞かれるようになったのは戦後になってからのこと。「グレン・ミラー物語」「トミー・ドーシー物語」が映画化、日本でも放映される、ジェームス・スチュアートが扮していました。丁度日本はG.H.Q占領下、至る所進駐軍が闊歩してた。これが昭和20年代、ルイ・アームストロング、デューク・エリントン、ベニー・グッドマン、カウント・ベイシーetcと広く一般の人が口にするようになった。
トミー・ドーシーのこの曲、なかなかセンチメンタルなので大ヒットしました。ところがディキシーランドからスイングへ、とはジャズが黒人から白人に広がったってこと。白人が取り入れるとよりスマートにより洗練された音になる。反対に言い換えればアク抜き、バイタリティーを失う。紳士淑女はフォクストロットのステップを踏むこれがスイングである。
言ってみればダンス音楽、ボールルームミュージック化です。身なりをキチンと着こなして、一流のホテルで、一流のホールで奏で、聞き入ると言う、白人化したジャズと一方そのまま変りない黒人の世界。人種差別の厳しいこの時代、白人と黒人はそもそも勝負する舞台が異なる。
白人はカーネギーホール、黒人はコットン・クラブ、と。余談ですが、今のずり下げたズボン(Gパン)に野球帽、上野を歩いていると黒人が非常に多い。あのスタイルの今はやりのラップ、黒人が最も似合っている。音楽を聞く姿勢も1950年代までは「横揺れの音楽」ロック以後1960年代からは「立揺れの音楽」つまり白人の成熟文化の終焉と黒人台頭ですよネ。シャンソンのフレンチ・ポップス化、今猶「横揺れの音楽」を保持し、パーカッションを拒否しているにはタンゴだけとなりました。
A-2 タイガー・ラグ ミルス・ブラザース 1931年
A-3 ダイナ エセル・ウオーターズ 1931年
古い古いジャズです。今やご先祖様となった明治、大正世代の青年期、血を騒がした曲であります。昭和一ケタは自由でモダニズムを満喫。この頃のモダニスト、既に95%はこの世に居ない。
ミルス・ブラザースの名を知る人も微小になった。「ダイナ」の世界的ミリオン・セラーを飛ばしたのもミルス・ブラザース=ビング・クロスビー盤。ここでは名唱の誉れ高い黒人のエセル・ウオーターズを収録しました。
A-4 セントルイス・ブルース キャブ・キャロウエイ 1930年
「セントルイス・ブルース」も古くからのジャズ、ミリオン・セラーはルディ・バレー盤。キャブ・キャロウエイはボードビリアン、表情豊かで何だか滑稽。ブロードウェイを騒がしたありし昔を偲ばされます。
A-5 トリクシー・ブルース トリクシー・スミス 1938年
これが黒人の血、スピリット、ジャズの原点ってセクシーなんだなあ。耳で聞くのじゃなくて下半身で感じるもの。フィーリングである。この感度、これがセクシーでなくて何である?ニューヨークの一角ウエスト・サイドの片隅「コットン・クラブ」に居る気分になります。
A-6 ストップ・ニア・スタッフ シカゴ・ストンバズ 1931年
ジャズはニューオリンズで生れた、これは周知の如し、仮に100%黒人の音楽として終ってたら、ここまで発展してない。ニューオリンズのあるルイジアナ州はもとフランス領、ニューオリンズはフランス語でヌーボ・オルレランと言う。
ルイジアナ州はカリブ海で、西インド諸島、キューバと対峙している。一衣帯水、ハリケーンの経路である。キューバは音楽の宝庫、首都ハバナを中心にして、19世紀ハバネラが大流行。ハバナの音楽だからハバネラと言う。
150年前の「ラ・バロマ」あれはハバネラの名曲。ビゼーの「カルメン」にもハバネラが用いられている。
ハバネラはタンゴの直接の祖先、海に乗り船に運ばれて、吹き溜りのようにしてブエノスアイレスに根づく。
これが発展してミロンガになる。このミロンガを母体にして19世紀末タンゴが勃興する。一方ハバネラの風は、ヌーボ・オルレアンに伝わる。ここは黒人達が多いのだがフランス人と混血した黒人達も多い。これをクレオールと言う。
ハバネラが直接、関係したのではないが、これと黒人本来のリズム感と感性が大いに影響したのであろう。様々が要因が合体して、ラグタイム・ピアノが生まれた。一筋縄では行かない。複雑である。
教会音楽と影響し合って、リズム・アンド・ブルース(R&B)に分化したりと実に複雑。ここにニューオリンズ・ジャズ(ディキシーランド・ジャズ)が誕生、勿論一足飛びでない。
このハバネラ的、ラグタイムの影響を受けたのが、ジャズの古典「セントルイス・ブルース」とも言われている。ジャズは、ミシシッピー河を逆上ってセントルイス、カンサス・シティへ伝わる。ニューオリンズはミシシッピー河の河口港。多くの船が行き交う、長い船旅船上では楽士達が音楽を奏でる。このあたりの光景をミュージカルに画いた「ショーボート」映画化もされて居ます。数々の名曲を生みました。
当時の流行歌「ロバート・E・リー号」をご存じでしょうか、1910年代に大流行「タイタニック」「船上のピアニスト」の時代です。
この当時ジャズ界最大のアーティストと言えばジェリー・ロール・モートン。豪華客船タイタニック号の中で催された船上の楽団はこのジェリー・ロール・モートンがモデルと言われています。
「ロバート・E・リー号」は映画「ザッツ・エンタテイメント」のシーンでMGMのスター陣が一同に合して歌っていました。中に年老いたフレッド・アステアが居て私は懐かしさに感動しました。
ミシシッピー河を逆上って最終のゴール地点はシカゴ、五大湖に囲まれてイリノイ州は穀倉地帯、当時ニューヨークに次いでシカゴは全米第二位の大都会。丁度、禁酒時代で、ギャングのアル・カポネが暗躍していました。
ジャズと犯罪は、一緒にくっついていました。ストンプもシャグもジャズの一つの形式。1920年代と言えばアメリカの青春時代、大西洋を横断飛行したリンドバーグに打撃王ベーブルース、ハウッド・スター、チャールズ・チャップリン、ダグラス・フェアバンクス、グロリア・スワンソン、リリアン・ギッシュ等々、枚挙にいとまがない。正に綺羅星の如く輝かしい。
この騒乱振りを表して狂乱の20年代、ローリング・トウエンティと言います。この時大席巻したのがチャールストンであります。この時のジャズはゆっくり拝聴、傾聴するものではなく飛んだり跳ねたり大いに騒いで踊るものでした。ここに収録したストンプ、シャグもそのようなものです。狂乱に明け暮れしたアメリカの青春時代でありました。
A-7 ワン・ナワー コールマン・ホーキンス 1929年
人の一生も青春から中年、中年から老人へと変化するように国の歩みもまたよく似てる。グループ・サウンズ、学園紛争、ヒッピー、サイデリックで狂乱してた昭和40年代が日本の青春時代。
今思い出してみると大阪万博のあの熱気、青春でしたね。そして昭和50年代、高度成長期を遂げた日本、GNP世界二位と言われて金持国となった。土地は上がる、利息は高い、投資しても稼げる。
エコノミック・アニマルと言われ日本株式会社とも言われた。バブルがはじけ昭和は終り、平成の世に入った途端長いトンネルに入った。人で言うと更年期、日本は熟年期から今、老人大国に入った。
国土の狭い島国日本は猛烈に発展して、何もかもが瞬く間に普及、テレビもあっという間に普及、マイカー、マイホーム・ブームもあっと言う間、そして今はケイタイからスマホへ。全てあっという間。
青春から老人までも瞬く間、中国なんか、旧社会が崩壊するまで100年を要す。崩壊した後、腐敗と混乱が又100年要す。今GNP二位なんて言うが体制は変わらずまだ民主主義の国になっていない。
これも100年を要するだろう。あの小さな島国、台湾でさえ、血は漢民族、民族性は「慢性的」過激な変化は望まず、じわじわと中華民国の台湾化、一足飛びに台湾独立しようとしない。漢民族は実利主義で「漫漫」と変化させる。変化したら違う民族になっている。まるで脱皮動物です。
明のカラーと清のカラーは全く異なる、清のカラーと中華民国カラーも異なる。そして中華人民共和国のカラーも異なる。それに比べると日本は様変わりが激しい、明治維新と第二次世界大戦、パッパッパと変わった。
コールマン・ホーキンスはテナー・サックスの巨匠、この演奏はマウンド・シティ・ブルー・ブロウアーズであります。
メンバーはレッド・マッケンジーblue-blowing&vo、グレン・ミラーtb、ビーウィー・ラッセルcl、コールマン・ホーキンスts、エディ・コンドンbj、ジャック・ブランドg、アル・モーガンb、ジーン・クルーパds、とまるで夢の競演、大変な名演、そしてセクシーな演奏をしています。
A-8 シャグ シドニー・ベシェ 1932年
シドニー・ベシェはクラリネット&サックス奏者である。シャグとは交互に片足飛びをするダンス。私も余りよく分らない。ストンプ・スタイルと言われていますが、ストンプもシャグも、それにジャズ自体も語源が性的隠語から来ているらしい。目を見張るばかりの熱演正に白眉である。やはり192,30年代はアメリカの青春時代、生命力に溢れています。
A-9 浮気はやめた(エイント・ミス・ビー・ヘブン) ファッツ・ウォーラー 1929年
ファッツ・ウォーラーのピアノ素敵、私の大好きなピアニストであります。この人の演奏、陽性でヒューマニティに溢れている。黒人の持つ温かい血に人間賛歌に軽妙洒脱で粋なピアノ。この「浮気はやめた」「ロゼッタ」「ハニー・サックル・ローズ」「手紙を書こう」「スクイーズ・ミー」等ファッツは多くの作曲もしている。
A-10 嘘は罪よ(イッツ・シン・トゥ・テル・ア・ライ) ファッツ・ウォーラー 1936年
これはファッツ自身のピアノとボーカル入りのファッツ・ウォーラー・アンド・ヒズ・リズムのコンボであります。「嘘は罪」は大ヒットしたポピュラーソング。
しかしスイング感溢れるファッツのスピードあるダイナミックなピアノタッチに奔放に歌うファッツ、この人は1904年生れ1943年死亡余りにも短い命、惜しい惜しい本当に惜しい。サッチモと肩を並べる程の実力派なのに。
B-1 スターダスト ホーギー・カーマイケル 1927年
「スターダスト」の作者として余りにも有名なホーギー・カーマイケル。外に「オールド・ミュージック・マスター」「香港ブルース」「ロッキンチェア」「ジョージア・オン・マイ・マインド」「レイジー・リバー」「レイジー・ボーンズ」等々の作曲家としてよく知られている。
ホーギー自身の自作自演、非常に貴重である。ホーギーのピアノとボーカルが聞ける。ホーギーの歌い方は淡々として朴訥、とても滋味溢れる。1940年代大戦を挟んでホーギーは映画にも多少出演しました。
「三つ数えろ」「マルタの鷹」や或いは「キー・ラーゴ」だったか頭が混線してしまいましたがハンフリー・ボガード、ローレン・バコールと共演していました。
何と言っても印象に残るのはフレデリック・マーチ、ハンフリー・ボガード、ダナ・アンドリュースと共演した「我等の生涯の最長の年」である。テレビ時代になってからは、「ララミー牧場」にも顔を出していました。
B-2 クレイジー・ヒー・コールズ・ミー ビリー・ホリデイ 1949年
人種差別、アル中、麻薬中毒に悩み、恋に泣いた黒人女性ビリー・ホリデイの人生は波乱万丈、この人は生活に荒れ決して名声ほどには美声とは言えない。
しかし悩み多き人生を歩んだせいかビリーの歌は切々として人をして説得させるに余りある魅惑を持っている。「ラバー・マン」「狂った果実」等よく知られた名唱も沢山あるがここで歌う「クレイジー・ヒー・コールズ・ミー」は比較的安定していた頃の歌唱、女心が切々と伝わって素晴らしい名唱であります。
日本モダン・ジャズ・ファン、殊に60代以下、モダーン・ジャズ・エイジで育ったからなのでしょうか、クールなジャズを好む、つまり思索的、学究肌的民族性なのでしょう。
皆んな腕を組んで難しい顔をして拝聴する。そんなところで、ジャズ・ボーカルが好きなんて言うとモダン・ジャズ・ファンから白眼視される。私はそんなこと、どうでもよい、音楽は楽しめがよいものだ、とそう思ってファッツ・ウォーラーのピアノとボーカルを楽しみジャズ・ボーカルを聞いています。
B-3 グッディ・グッディ メル・トーメ 1954年
メル・トーメの若かりし頃、青年の頃の歌とピアノを聞いてみましょう。メル・トーメの語り弾きである。何と粋でダンディ洒落て小気味よい。それにソフィストケイテッドされている。白人の匂いである。
高級ピアノ・バーで聞いているような雰囲気ですね。ジャズは黒人だけのものでない、白人のものであると共に日本人のものである。多種多様、無限に広がって行くジャズの魅力ですね。
B-4 イッツ・オールライト・ウイズ・ミー 1957年
B-5 サボイでストンプ エラ・フィッツジェラルド 1957年
B-4は1957年シカゴ・オペラ・ハウスの実況録音、オスカー・ピーターソンP、ハーブ・エリスG、レイ・ブラウンB、ジョー・ジョーンズDR、B5は1957年ロサンゼルスのフィルハーモニックホールの実況録音。
ロイ・エルドリッジのT、J.JジョンソンTR、ソニー・スティットAS、レスター・ヤングTS、コールマン・ホーキンスTS、スタン・ゲッツTS、フィリップ・フィリップスTS、ハーブ・エリスG、レイ・ブラウンB、コニー・ケイDRも超豪華。
このレコードは、スイング・ジャーナル選定のゴールド・ディスクであります。もう何も解説つけ加えることなし。エラのホットな熱唱、スキャットを交えて白熱するエラの歌に煽られて一層燃え立つ楽団員達、それに聴衆も燃え上がる。記念すべき名盤と言えましょう。何も言うことなし、しっかり楽しんでください。
ジャズとタンゴはかみ合わないのか、片や陽で片や陰、散文、自由詩と定型詩、外向性と内向性、色々と対極に対している。アメリカ人はさほどタンゴを好まない、寧ろヨーロッパ人が好む。日本人はどっちも大好き。
日本はタンゴの第二の祖国、ジャズの第二の祖国、シャンソンの第二の祖国、誠、東西文化が見事に融和した国であります。
アルゼンチンは小国、面積は日本の8倍余、人口は4,000万人少々、タンゴ黄金時代当時は2,000万人程、歴史は浅い。インカ帝国の威力もアルゼンチンの北部、アンデス山脈の一部のみ。
広い国土のパンパは大草原、パタゴニアになると人口も稀にしかない。マゼラン海峡、フエゴ島となると南極からの冷たい風が吹き、ペンギン達の天下。つまり世界のどこからでも遠い地の果て、面積は広いが歴史、人口、様々な点で密度が浅い。それは国力も含めて小国と言う。
アルゼンチンは移民の国、6:3の割合でスペイン系とイタリア系の血、他の中南米諸国と比べてみても土着のインディオも少なく黒人もほとんどいない。そのパーセンテイジは0.0コンマ程度。多いのはヨーロッパの他の諸国から東欧も含めて、亡命ユダヤ人、ナチスの残党等々、地の果てに隠れ住む。
ヨーロッパのヴァルス(ワルツ)、ポルカ、メキシコのランチェーラ、スペインのカンション、イタリアの小唄等入り込む。タンゴ発展と同時進行されて発展する。これを総称してポルテーニャ音楽と言う。ポルトとは港、ポルテーニャとはブエノスアイレスっ子のこと。ブエノスアイレスはラプラタ川の河口港。ブエノスアイレスとは英語で言うとグッド・エアー「良い風(空気)」である。
正確に言うとタンゴはブエノスアイレスの歌であって全アルゼンチンを包括する音楽ではない。アルゼンチンにはもうひとつフォルクローレがある。アルゼンチンはフォルクローレの宝庫である。つまりフォーク・ソング、アメリカで言うサザン・マウンテン・ミュージック、C&Wである。
ブエノスアイレスは1960年代に入る前までは南半球最大の年でした。街並みはパリに似せて作っている。第一次大戦時から戦後暫くはヨーロッパの食糧庫として盛える。広大なパンパの草原はアルゼンチンの富の源でした。
その頃は富裕な国として盛えGNPも世界第八位、当時は遥かに日本の方が後進国でした。そうでないと、タンゴのような都会の音楽が生まれる訳ない。最下層の貧民達が新天地を求めてアルゼンチンに移住する。貧民と言ったってヨーロッパ人、その欧州の風と文化をたずさえて来る。
黒人のジャズとは自ずから発展段階が異なる。しかし最下層の貧民達、不可触賤民である。無教養で言動は粗野で露骨、しかし人間は虐げられても生きる為に貪欲、性欲はギラギラと煮えたぎっている。オスとメスの火花、ジャズも同じようにタンゴも又性的音楽、享楽と悪徳の音楽である。
アルゼンチンは常にヨーロッパを志向する。その中心は花の都パリである。このように志向し乍らタンゴは少しづつ発展し向上して行った。
そして花開いたのは1920年代、アメリカがローリング・トウエンティと狂乱していたこの頃、タンゴは黄金時代を迎えました。そして1930年代に入るとタンゴは巨大大国アメリカのジャズの影響を受けます。
勝原さんが如何にタンゴと出会ったか、その経路は詳細には分らない。クラシックにもシャンソンにも造詣が深い広瀬浩二君、君にもタンゴの芽を感じる、その眠ってた感性に震動かけたい。そう思って残りB面5曲をタンゴにした。門外漢としてでなくタンゴ的感性に揺さぶりかける様な選曲にしました。
B-6 デ・ロンペ・ラハ フリオ・デ・カロ 1949年
タンゴ・ファンは一般にジャズは苦手、タンゴ・ファンは感傷的(センティシエット)に傾くか情熱のリズムに傾くか、その二つの色合いがタンゴ・ファン、そしてこれが古くからのタンゴ・ファン。タンゴ・ファンでも若手となるとマストル・ピアソラ・ファンが多い。
若手と言っても団塊世代以下、世界的アーティストのヨーヨーマがピアソラのことを口出したもんだから、ピアソラ・ブームが起こる。そのピアソラをどれ程聞き込んだか。タンゴをどれ程理解したか分らないのに世の中って変。
にわかにピアソラを口にする。そのピアソラ、前衛的に進みすぎて、古くからのタンゴ・ファンは好むかと思えばそうでなし。そのピアソラに先んじてオスパルド・プグリエーセかなり高踏的なのだけれど、かなり古典的でもある。
そのピアソラ、プグリエーセの祖が、フリオ・デ・カロである。1924年から自らの楽団を結成していた。かなり頭脳的な演奏、感傷派も情熱派もそっぽを向く。
ジャズが苦手なタンゴ・ファンの中でもデ・カロ・ファンとなると少数も少数。デ・カロの演奏はシンコベーションが豊富、定型詩的タンゴの中でもジャズのジャムセッションに似た奏法をよくする。
ジャズは即興的だがタンゴはあくまで譜面にのせて熟読玩味する。つまり計算されているとは言え、ひとたび壇上に上がると名人芸に目を見はらせて、私は強く感動する。
私は少数の中の少数、デ・カロ党でしょう。つまり東京のタンゴ界では異端児、70代の多いタンゴ界に在って年齢も幼い、それで窓際族なのです。
お互い群れることが、そう性に合わない私と勝原さん、皆んなは一団となってゴソゴソと集団行動するのに私と勝原さんは群れからはずれて、ホテルの喫茶店で二人はお茶を飲んで皆が帰って来るのを待つ、と言う具合なのです。
この「デ・ロンパイ・ラハ」はデ・カロの中でも後期の演奏。1949年の演奏です。とても器楽的で通向けの演奏。このようなデ・カロが私にはたまらないのです。
B-7 降る星の如く(ジュビアデ・エストレーシャス)
オスマル・マデルナ 1948年
オスマル・マデルナはこの演奏の後急死、新進気鋭と騒がれたのにその才能惜しまれてなりません。
タンゴはジャズと言うよいクラシックに近い感性、ピアノ、バイオリン、ベースと言う構成は1910年代後半以後ほゞ100年にわたって変わってない。
フルート、ギター、チェロは楽団に依ってよく用いられる。トランペット、サックス、トロンボーンは遊び程度には用いられるがパーカッション、打楽器、ドラムじゃどこかで拒否してる。
つまり純白人音楽なのです。まわりの中南米諸国は、黒人の血もインディオの血も濃厚なのにタンゴは拒否してる。しかし将来は分らない。隣国にブラジルが横たわっている。その影響を受けないとも限らない。
B-8 ノスタルヒアス(郷愁) フランシスコ・ロムート 1936年
その代わりタンゴはジャズの影響を強く受けた。それもブラック・ミュージック的なジャズでなく幾分白人化されたスイングの影響を強く受けた。
ロムートの「ノスタルヒアス」はそれを強く感じる。ロムートの顔までベニー・グッドマンに似てるように見えるから又不思議、この当時としては新解釈の「ノスタルヒアス」これはロムートの歴史的名盤である。
B-9 カミニート カルロス・ガルデル 1926年
タンゴは1940,50,60年代と発展し続けて来た。そしてアストル・ビアソラと前衛音楽的、現代音楽的にまで向上した。詰る処もともと出発が器楽音楽、ダンスを踊る為のものだったからでしょう。
今のタンゴはマニア音楽家している。タンゴ・マニアは根強い、ファンからマニアに行き着く。
昔の20代、50年の歳月を経て70代になっている。ところが昔の20代以後、次世代が育ってないのです。老人の音楽となって居る。何故、何故?と考えるがまだ分らない。
世界全体の音楽が「立振り」になっているのにタンゴだけは今も「横振り」かなと考える。これも解答になって居ない。
タンゴ・マニア、マニアになればなる程古いものを聞く。SPコレクションになる。これも不思議な現象。タンゴって演奏云々よりも、これも大切でしょうが最も重視しているのはコランソン、つまりスピリットです。
このタンゴの心192、30年代で完成されている。演奏技術の向上とタンゴの心の一体化、心技一体とでも申しましょうか、それが192、30年代に完全無欠に完結されている。
だからマニアがこの時代のものにこだわり私も又ここに傾斜している。となるとタンゴそのものの性質が古い感性のもので、ここに帰結するからでしょうか。
「歌のタンゴ」の時代も192、30年代で完成の域に達しています。その説得力、思想、どうかするとタンゴ哲学と言ってもよい。美意識、美学も又室に深淵、その深淵さはシャンソンでさえ負ける。
その頂点に在るのがこのカルロス・ガルテル。歌唱、心、技量そのいずれもが完璧。残念乍ら1935年全盛期の時、飛行機事故死、タンゴ黄金時代はここに終焉しました。
B-10 エル・マルネ ファン・ダリエンソ 1954年
タンゴは又息を吹きかえしました。その立役者はファン・ダリエンソ。タンゴ第二期黄金時代を導きました。
1950年代は百花繚乱、豪華絢爛、今はその勢い失ってタンゴ界は110以下に縮小。ダリエンソの黄金時代を身に以ってリアルタイムで体験した世代は今80代、日本に於けるタンゴ界の長老です。
タンゴ・アカデミーの会長島崎長次郎氏がそうです。昭和7年生れ、この世代の重鎮達。私が65歳まで全員健在。しかしその後続々と他界、今では島崎氏のみ健在、幸いなことに今もカクシャクとしてます。
私がこの「エル・マルネ」を知ったのは高二の夏まだ16歳でした。頭のテッペンから爪先まで全身電波が走って失神寸前まで大感動しました、タンゴは魔性の音楽、悪徳の音楽、と当時説明できない子供でしたが、そう感じていたのだと思います。あれから50余年まだ私の心は淫らで不良なんでしょう。音楽なんて、タンゴなんて、麻薬です、魔法です。
美空ひばりは昭和24年12歳でレコード・デビュー。私がもの心ついた時にはもう大活躍。私の最も古い記憶では、嵐寛寿郎と共演、ひばりは杉作少年役をしていました(鞍馬天狗)
それから三年後私が小学一年の頃、江利チエミが「テネシー・ワルツ」でデビュー、その時リアルタイムの記憶はない。しかし笠置シヅ子の「買い物ブギ」幼児でも吃驚する程強烈な印象で歌っていたのを覚えている。「田舎のバス」もよく覚えている。宮城まり子もしっかり覚えて居る。
昭和28年私が小学二年の時、雪村いづみがデビュー、これで三人娘揃う。三人娘の中で雪村いづみが一番背が高くてスタイルもよい。長い髪を腰までたらしてお嬢さん風でかつ最もバタ臭いので一番好きでした。
雪村いづみを通じてポップスが好きでした。小学高学年になる頃、三人娘はお年頃、大変な人気スターでした。日本も復興遂げたかのよう、昭和30年になると“もはや戦後でない”とも言われ激変。
小学六年の時、石原裕次郎デビュー、エルビス・プレスリー、日本にも上陸。翌昭和33年にはロカビリー旋風。プレスリーの「ハト・ブレイク・ホテル」を小坂一也が歌う。
ポール・アンカの「ダイアナ」を平尾昌晃が歌う。ジーン・ビンセントの「ビーバップ・ア・ルーラ」を雪村いづみが歌う。そして浜村美智子の「バナナ・ボート」に吃驚仰天。昭和33年4月より中学生、音楽の時間に先生がはじめてEPレコード見せた。落としても割れないので驚いた、それからあっと言う間にSPレコードからEP、LPレコードに変る。
僅か一年の間で一変。その頃映画館、銭湯は超満員、パチンコ屋も床屋も人でいっぱい。ラジオ、テレビ、映画が混在、貸本屋、紙芝居もある。新旧が混在、お店屋さんも繁昌、喫茶店もブーム。当時山口の人口8万、でも子供はいっぱいで町の学校はマンモス校、町がとても賑やかでした。
人の往来も多い、向こう三軒両隣りで町が有機的に活動して生活感に溢れて居ました。映画「三丁目の夕日」の世界です。「オイッ居るか?」「居るよ、入れよ」「メシ食ったか?」「食って帰れよ」「風呂は?」「入って帰れよ!」とどの家も千客万来、男の背広は仕立屋(テーラー)へ、パーカー、モンブランの万年筆にダンヒルのライター、ロレックスの、オメガの時計にずっしり重いオーバー。男の持ち物は今より遥かに上等でした。女性もお洒落、そう言えば今はハンドバッグ持ってハイヒール穿いた淑女が居なくなりました。男女そろってユニクロ、カジュアル、スタイルですね。
A-1 別れても 二葉あき子 藤浦洸作詞 仁木他喜雄作曲 昭和21年
歯ぎしりするような凍え死にしそうな寂寥感溢れる歌。仁木他喜雄は多作でない。でも作られた曲、燻し銀の如く光彩を放つ。詩も又よい。
この曲想にぴったりはまる。歌手もよい、もう流行歌のレベルを遥かに超えた名曲。知の結晶である。二葉あき子の歌手としての実力。こんなところに東京芸大の品位と知性が出ている。情念煮えたぎる歌なのだが、演歌でない。
シャンソンか或いはクラシックのはしりでも聞いてかの様で洒落ている。歌謡界にあって、決して派手な存在でなく芸能界的存在とは程遠い。人気も今ひとつぱっとしない、つまりド庶民的歌手でない。
まるで楽壇の一人かの如くこれ程、確実な人は居ない。実は影で燦然と輝いている。こんな人が10人も居れば、いや居るはずだ。それらを育てる大衆のレベルが低い、演歌、カラオケ歌謡、アイドル歌謡、と下品である。これが日本の現実、音楽に対する日本に於いての大衆レベルである。
A-2 青い山脈 藤山一郎・奈良光枝 西城八十作詞 服部良一作曲 昭和24年
これこそ日本を代表する流行歌の最高峰である。一般に健康的で明るいものの少ない流行歌にあってこれ程極めて、レベルの高い健全、健康、明朗快活な歌があるだろうか、日本人が外国に対して胸を張って代表的な流行歌と言えるのはこの「青い山脈」である。
藤山一郎に関してはもう何も言うことなし。雲表に聳え立つ歌手であると共に広く、日本人の心に存在する偉大なる大歌手で戦前戦後、昭和一代を飾った国民的歌手である。
映画の中の池部良、大正7年生れだからこの時31歳、なのに高校生役、同じ大正7年生れの木暮実千代がもう年増役、そして二歳下、大正9年生れの原節子が池部良の先生役。実際年齢を考えるとてんでバラバラ。でも配役がよくぴったりと合い皆んな適役。肩ヒジのこらない楽しい映画。しかも名画でした。
娯楽映画であって名画、そして龍埼一郎、杉葉子、若山セツ子、伊豆肇、と出演者全てが存在感ある。こんな楽しくて、結果として名画となった。こんな映画、今あるだろうか?歌、映画共に日本人の心に永遠に残る財産である。奈良光枝、佳人薄命、若くして死去しました。
A-3 長崎の鐘 藤山一郎 サトウ・ハチロー作詞 古関裕而作曲 昭和23年
古関裕而、一世一代の名曲である。古関が渾身の思いで作曲したものと強く感じる。そこには軍歌を多く書いた古関の贖罪を強く感じる。原爆の悲惨、悲しみ、悲憤その他激しい思いを一切抑制して歌う。
これぞ偉大なる鎮魂歌と思う。この一作で古関の人柄良心を痛く感じ、彼の戦争に対する責任を背負って、これで十分使命を果たしたと思います。抑制されてるだけに深く深く心に響く。
ここに服部良一と古関裕而、この二人に日本の流行歌史上の最高最大の大作曲家と賛辞を送り度いのである。
A-4 悲しき口笛 美空ひばり 藤浦洸作詞 万城目正作曲 昭和24年
終戦から4年、昭和24年当たり年である。人々は生活苦に明け暮れ、生きるのに一生懸命。なのに良い歌、良い映画がいっぱい世に出る。これが人にどれだけ心の支えになったか、人の世ってのは不思議、幸せがよいものを生むとは限らない。
世の中、不幸であってもしっかりとしたよいものを生むことだってある。
ここに彗星の如く現れた天才少女、美空ひばりである。この時ひばり12歳、二枚目のレコード「悲しき口笛」が大ヒット、これで決まった。大歌手ひばり登場、しかし天才少女と騒がれ乍らもバッシングを受ける。
そのバッシングは、身内の業界から、こましゃくれた子供だと激しい非難。でも世間は大衆は喜んだ。その人気はすさまじいもの、物珍らしい天才少女を見る目だけでなく一方ちゃんと認めていた。その目は希望の灯でした。ひばり、12、13、14、15歳のヒット曲眺めてみても分る。
その全てが「みなし児」の歌。「東京キッド「私は巷の子」「あの丘越えて」「ひばりの花売娘」「越後獅子」等々、見渡すと戦災孤児で溢れていたこの時代、ひばりの歌声は世相を映す、焼跡キッドである。
作曲家は万城目正、大作曲家古賀政男は子供を相手にしない。大作詞家サトウ・ハチローは気持悪い化け物のような子だと批判する。皆が皆そっぽを向く。まだいじらしい子供だったひばり、批判を全面受けとめて、唯ガムシャラ与えられた仕事をこなした。
この時映画にも沢山出演。皆に可愛がられ乍ら、天才の芽はどんどん開花する。天才少女から脱皮する歳、普通なら大きな壁にぶち当りそのまま消えて行く、この年齢的なスランプの時、ジャズを多く歌う。
そして16歳、米山正夫作曲の「りんご追分」で新境地を開く。米山は、ひばりの天賦の才を感じて創作意欲に燃え実験作をひばりに与える。ひばりはよくそれに応えて、米山=ひばりコンビ、俗に言う黄金時代を築いた。
一方ひばりは「ひばりのマドロスさん」を当ててマドロス歌謡のジャンルにも当てた。横浜生れのハマっ子ひばりの面目躍如。ひばり17、18、19,20歳はお年頃娘盛り、向う敵なし、全盛時代を迎えた。
この時、東映時代劇に多く出る。若侍、美剣士、捕物帖、お姫様、オキャンな町娘と何でもござり、正に快刀乱麻、国民的アイドルに大成長。人々のあらゆる娯楽の中にひばりはしっかり存在していた。
軽快、快活なひばりちゃんの魅力に溢れていた。21~25歳までこの線を続行ひばりは大歌手に成長する。
昭和38年の「柔」からひばりは変貌する。古賀政男との出逢い、ひばり演歌のはじまり。ドスが利いて軽快なひばりの魅力は失せ、歌謡界の女帝に君臨する。
大成するのが早かった分だけオバチャンになったのも早かった。ひばりは貫禄づいて、もともと育ちが余りよいとは思えない。不肖の二人の弟、やくざとのつながりとか色々あって、その下品さが鼻について世間から嫌われ者になる。
それでもしたたかで母娘揃って一卵性親子と言われまるで魔宮の奇怪な女帝と君臨していました。しかしひばりがこんなに早く他界するとは誰も思ってはなかった。
昭和の終りと同時にひばりは平成元年に逝去。失ってひばりの偉大さを知る。名声上がる稀代の名歌手、今では私も感謝している。同じ時代に生きて、ひばりちゃん有難度うと声を大にして叫びます。
A-5 買い物ブギ 笠置シヅ子 服部良一作詞作曲 昭和25年
知性の「知」にヤマイダレが掛かると「痴」になる。知性に障害をきたした意味と、これ程馬鹿げたことがあるか、愉快痛快、これとて知性なくしてありえない痛快さ。漢字はよくできてる。
流石表意文字、今どき“お笑い”単なる下品、芸人に芸もなければ教養もなければ増してや知性なんてある訳なし。そんな人がテレビに出て世の中を席巻するなんて許せない。
日本には、おふざけ、駄洒落、コミック・ソングの系譜が昔からある。春歌、替唄もその中に含まれている。しかしそこには人を笑わせる意を得ている。妙があるから、痛快であって下品な笑いと一線を画すべきである。
この「買い物ブギ」は一世一代の笑いである、お笑いの最高峰である。服部は大阪出身、笠置は香川県出身、大阪のSOK楽劇の舞台に立ち、京マチ子もSOK出身である。ジャズのフィーリングよくて、笠置は戦前から服部とコンビを組んで活躍してた。
ところが笠置、ステージいっぱい飛び回り踊りまくって歌う。これが軍部の目に止って要注意。ブラックリストの歌手となった。仕方なく雌伏。終戦と同時にコンビ再開、ブギで当てる。日本中をブギ旋風巻き起す。「東京ブギウギ」「大阪ブギウギ」「ヘイヘイ・ブギ」「ジャングル・ブギ」と連打の上の連打。笠置は時代の寵児になった。
まるで焼跡闇市の喧騒に似て、ギラギラ噴出、時代の声となった。そして熱帯夜の如き、それはこの時代のバイタリティーとなった。
服部=笠置は正に盟友、これこそ名伯楽と言えましょう。大阪弁を駆使して大阪の底力を発揮、そして大阪と四国の合体、当時復興に励む人々の生活力旺盛したたかに生きる力である。これ程のダジャレ・ソング、後にも先にもない。空前絶後の迫力である。
A-6 田舎のバス 中村メイコ 三木鶏朗作詞作曲 昭和29年
メイコは3歳頃から芸能界にデビュー、これ又天才少女。美空ひばりと同世代、昭和12,13生れと言えば我々からの目から見ると戦争時代を知ってる世代となる。
しかし明治、大正世代から見ると戦争を知らない子供達、ガキになる。実際に世代の人の青春時代に達する頃、戦争の影なんて微塵もなく新しい時代を作っていた。
昭和25年あたりからかな、「日曜娯楽版」と言うラジオ番組がありました。三木鶏朗が主幹、森繫、轟夕起子、丹下キヨ子、坊屋三郎、久慈あさみと言う名だたる人が常メンバーだったそうです。
お話し、コントも含めて時の政治の諷刺、と人気番組だったそうな。ここから「田舎のバス」「僕は特急の機関手で」「ホップさん」「つい春風に誘われて」「毒消しゃいらんかね」等々冗談音楽を次から次へと出す。
これも世間を大席巻、三木鶏朗も又知の人であり痴の人である。暗い世相、食うのに精一杯、生きて行くのに大変だった昭和20年代、どうして日本にこんな力があったのでしょうか?貧乏人の子沢山なんて言われ、今の日本は生命体を失った、人口減少、100年後日本民族はどうなっているのでしょうか。
A-7 ガード下の靴磨き 宮城まり子 宮川哲夫作詞 利根一郎作曲 昭和30年
高架線なら今、どこにもある。新幹線なら全て高架線、しかしガード下は違う。その下は商店、新聞配達、飲み屋、三流映画館、ストリップ小屋、と生活感溢れている。終戦直後は、その二階が住宅となっていた。
住宅難だったからです。些か場末的密集を感じる。
このガード下があるのは東京、大阪、神戸のみ。密集が生んだ戦前からの100万都市。巨大都市である東京の新橋、有楽町、神田、御徒町、上野、浅草橋にはガードがある。
しかし点として。神戸は?そもそも土地空間に乏しい、神戸駅から元町を経由して三ノ宮駅まで延々途切れることなく2.5km細い狸穴の如く商店街がつらなる。神戸の人は高架下と言っている。
そのガード下を横切る幹線道路、新橋、有楽町、御徒町、と神戸の三ノ宮、元町とは余りに光景がよく似て居る。終戦直後、そこは昼間靴磨き少年と物乞いの溜り場、夜は夜のパンパンの巣窟。
ジープ通り米兵が闊歩する。丸の内の第一ビルが接収されてG.H.Qの本部が置かれ日比谷映画街の宝塚会館も接収されて進駐軍相手のアーニー・パイル劇場となる。そして銀座四丁目の和光はP.Xになる。
神戸でも同じ繁華街のど真ん中、三ノ宮に進駐軍のキャンプが建つ。銀座も三ノ宮も米兵がうじょうじょ居る。人の溜まり所、人が集まる、金の稼ぎになるから、金をねだることができるから、こうしてシューシャイン・ボーイ、ルンペン、浮浪児、パンパン、と群がる。
一気に解消される訳なく戦後10年経ってもこの光景は失わなかった。高度成長期に一時一掃、しかし平成に入ってから又長い長い不況、上野公園はホームレスの青テント村になる。
こんな終戦直後の光景を歌ったのが「ガード下の靴磨き」~風の寒さやひもじさは馴れているから泣かないが、あゝ夢がないのがつらいのさ、とこの心情、程度の差こそあれ、日本人全員が共有してた体験。
これは一級の社会歌謡である。宮城まり子はどちらかと言えばコメディアン、「夕刊小僧」「毒消しゃいらんかね」とかのコミック・ソングを飛ばす、映画やステージで活躍、ユニークなキャラクターを持っていたがその底に何か人生の泣き笑いを密ませて居た。
いつの間にやら芸能界から引き下がり孤児院、ねむの木学園を設立。ボランティアに生涯を賭けた。今頃85歳を過ぎたという。どうして居るかな?健在かな?
A-8 スイスの娘 ウイリー・中山 訳詩井田誠一 外国曲 昭和30年
A-9 峠の我が家 ウイリー・中山 アメリカ民謡 昭和30年
凄い人、兎に角歌が上手い声にバネ、艶があってよい。フィーリング抜群、上手すぎて感動してしまう。それにヨーデル唱法がいい。灰田勝彦を超えるのではと思う。
ウイリーのデビュー当時、ウエスタンの全盛時代、本場アメリカもウエスタンのピーク。ハンク・ウイリアムズの黄金時代、ところがハンクの急死。
この時、時代の大きなうねり、ハンクの急死が象徴的。ウエスタンが瞬く間に性格変えてロカビリーになって、本来のウエスタンとは違う新しい音楽ロカビリーとなった。
若者はこぞってこのロカビリーに飛びつく。昔からのウエスタンは静かに潜伏、ウエスタン・ブームはそのままロカビリー旋風に吞み込まれた。小坂一也もプレスリーのレパートリーを歌う。
ウイリー・中山はその時のウエスタンを歌い乍ら、マイナーとして存在することになった。知る人ぞ知る、少数派に転落したウエスタン、しかしマイナー乍ら今もちゃんと存在している。
ウエスタンなんか言ってみればアメリカの心、アメリカ人の郷愁ですから、今も生き続けて居る。「峠の我が家」は、戦前ビング・クロスビーが歌って、日本では灰田勝彦が歌ってたホーム・ソングです。
B-1 ウスクダラ 江利チエミ 昭和30年
昭和27年ひばりより三年後れてチエミがデビューした。この時チエミは15歳「テネシー・ワルツ」を歌って、デビューヒット。その一年後いずみが「思い出のワルツ」を歌ってデビュー。
ひばりコロムビア、チエミキング、いづみビクターと各社で競演。人気もひばり一位、チエミ二位、いづみ三位を占め、これから五年間は三人娘の全盛時代、今のアイドル歌手と違って、三人が三人とも歌唱力秀れている
チエミは幾分、ニグロ的なポップスが得意、ウスクダラは、ボスポラス海峡でイスタンブールに対峙している。
B-2 シシカバブ 江利チエミ 昭和31年
これもトルコの歌、シシカバブとは串焼のこと。チエミは明るいキャラクターで庶民的なムード。全盛時代「サザエさん」なんかになってこれが大変な当たり芸。
この時代高倉健と電撃結婚、当時としてはスターとしてチエミの方がうんと格が上、どうしてチエミが自殺したのか、それは謎のまま。高倉健も鬼籍の人となったので永遠の謎をなりました。
B-3 ビーバップ・ア・ルーラ 雪村いづみ 昭和33年
B-4 スワニー 雪村いづみ 昭和33年
チエミの二グロっぽさと比べたら、いづみは完全にアメリカナイズされている。幾分白人的、この人口蓋が広いので声量豊か。本格的なジャズが活かされる技量持っているのだが十分活かしきってないのが残念。
チエミの「サザエさん」に対していづみは「あんみつ姫」米人と結婚、娘が一人居る。三人娘の中でいづみだけが子供が居る。平成26年77歳三人娘の中でいずみが健在である。
B-5 上海 美空ひばり 昭和29年
B-6 A列車で行こう 美空ひばり 昭和29年
ひばりは天才と誰もが言う、じゃ、どこが天才なの?歌が上手いから、当たり前のこと。プロの歌手でしたら至極当然のこと。
「柔」「悲しい酒」等名唱じゃないか、名唱と思います。しかし私、古賀演歌好きじゃない。重すぎて従来ひばりの持ってた軽快な魅力が失って嫌いでした。それに「真っ赤な太陽」、歌った時丁度30歳になった処。まだ30歳ですよ、もうオバチャンで貫禄つきすぎて嫌でした。
オバチャンのくせにミニ・スカートはいてグループ・サウンズ調の歌、歌って奇怪、お化けに感じました。それから“歌は我が生命”と背負い込み過ぎて、演歌ばかり歌い、ひたすら女王の道を歩く。
弟二人の不祥事件。強力なステージ・ママとの二人三脚、そしてやくざとの関係が暴露。育ちの悪さばかりが見えて嫌でした。勿論、世間もそっぽ向く。人気も降下、それでも歌謡界の女王として君臨していました。
弟二人が死亡、母親も他界、ひばりは孤独になる。この時になってはじめて何かが溶けた。「愛燦燦」「みだれ髪」「塩屋埼」このあたりからです。
女王と言う奇怪なトゲが抜けて、まるで遺言の如く絶唱、しかし闘病虚しく稀代の大歌手鬼籍の人となる。ひばりの死と共に昭和は終った。ひばりの才能をしっかり開花させたのは米山正夫、この人は自らの才能を惜しみなく心血そそいで絞り出し実験作、試験作をひばりに与えた。
ひばりはそれをうまくキャッチ応えた。ひばり16歳「リンゴ追分」からである。「桃太郎行進曲」「アルプスの娘たち」「やくざ若衆祭り唄」「長崎の蝶々さん」「ロカビリー剣法」「花笠道中」「アンデスの山高帽子」「べらんめえ芸者」「ひばりのドドンパ」「車屋さん」「日和下駄」「テンガロン・ハット」「関東春雨傘」、に至るまで何と10年間に及ぶひばり=米山とのコンビ、この間米山は一曲たりとも二番煎じはなし曲想は全て違う。
世間はこれを評価してない。いや心ある人は評価してるに違いないが電波には乗って届いていない。テレビなんて偏向している。受けることしか発信しない、ひばり=古賀政男と引っつけようとしている。
私は寧ろ服部良一ともあろうとも人、触手が動いたに違いない。恐らく背後に笠置がストップをかけたんだと想像する。笠置の持ち唄はブギ、これをひばりに持って行かれたらアウト。笠置の強敵である。
服部はたった一曲だけ、ひばりに「銀ブラ娘」を与えた。こうしてひばり=服部のコンビはならず。ひばりは10代後半一つの壁にぶち当たった。子供から大人へ脱皮する難しい時期何となく乗り越えたが、この時、多くのジャズを歌った。
これが又上手い。英語の発音も絶妙、歌が上手いってことは人並以上耳が秀れているってこと。抜群のフィーリングで歌っている。これを知って脅威と感じる、脅威と感じられるから天才なのである。
伴奏する楽団は誰か分らないけれど、ひばりの余りの上手さに乗っている。つい乗せられたと言うか余りの上手に唖然とした、もっとこんなひばりを知ってもらいたい。
B-7 銀座の雀 森繫久弥 野上彰作詞 仁木他喜雄作曲 昭和30年
これは流行歌史上最高最大の名曲だと絶賛したい。先に言ったように仁木他喜雄、決して多作の作曲家ではない。でも書くとテキメン、最優秀作品になる。つまり頭脳がピカッとしていたのでしょうね。銀座は女の町?一流ブランドの店が軒並ならんで確かに最新モードのファッション・タウンである。
しかし昭和30年代までは確かに男の町だったと思う。丸の内のビジネス街に続いて有楽町、日比谷はマスコミ報道関係の会社が集中、朝日、毎日、読売、NHK、ビクター、コロムビアのスタジオもここにあった。つまり記者の町だったんです。
言ってみればインテリ・ゴロでしょう。市井の何気ない人がもの凄いインテリだったり、とか風采は決してよくない、どこかでバサッとしている。秋風、木枯らしを避けるようによれよれのトレンチコートの襟を立てている。片手にタバコ、もう一つの片手はポケットに突っこんで居る。どこかくたぶれた風采、後ろ姿は幾星霜の跡を感じる哀愁が漂って来る。こんな男どもが“銀座の雀”である。
ところが今は女性社会、有楽町、日比谷界隈から報道関係が散らばる。つまり男の仕事場がなくなる。映画街は衰退、残ったのは宝塚会館のみ。そこに女性が群がる。
渋谷、原宿はガキの町。男の持ち物は安いものばかりになる。仕立屋も必要なし、スーツはオール・リクルート・ファッション、お金を持ったオジサン方はマイ・ホーム・パパになり籠の鳥。銀座の高級クラブはやって行けなくなり廃業。代って進出したのは女子会。会社接待、交際費を出さなくなった。
例えエリート・サラリーマンでも自腹で割カンになる。女性が占領した有楽町から新橋の居酒屋、安い酒場に移動し新橋がオジサンの町となった・銀座からはキャバレーもナイトクラブも消滅。夜の巷を散財する人も居なくなった。銀座だけでなく新宿も、それぞれ金目が小さくなったに違いない。
飲み食い、ファッションばかりに金を使ってた時代は終った。ローン、子供の教育費、車は当たり前のこと、ケイタイ、スマホにお金がかかる、老後の年金も不安。
男盛り、遊びたい盛りの40代も、不安定要素が重なり加えて、男性天国の時代は終ってしまった。銀座は日本一の繁華街でかつ日本一の盛り場、人間模様、様々かつその坩堝である。
昭和30年代までは、ここに住民も沢山居た。泰明小学校もあったが今は廃校。路地裏に回ると子供達が遊んでいた。狭い土地空間に人々はぎっしり詰って住んでいた。
物干台に洗濯ものが風にヒラヒラ舞う軒下に雀がチュンチュン、銀座の空に燕がスイスイ飛ぶ生活感に溢れていた。今や銀座生れなんていないだろう。単なる商業、オフィス、と生活する所でなく業務センターとなった。
銀座に住民の吐く息、報道関係、記者達、忙しそうな人、くたびれた人、女子供まで含めて有機的に人の吐く息が発散された頃、銀座八丁人生悲喜こもごも人の営みに溢れて銀座わが町だった。
「銀座の雀」はそんなものを画いていた。森繁この頃、40代に入ったところ、今と違って、しっかりオジサンになっている。オジサンの渋味たっぷり森繫節で歌っている。これは確かに男の歌である。流行歌なのだが、まるでシャンソンである。そう和製シャンソン、かむ程に味が湧いて来る名曲名演である。
B-8 何日君再来 周璇 1938年
松平晃のところで語ったので重複を避けます。今から90年前のこと、そんな遠い昔と今、生活、思想、価値観、様々な面で隔世の観ありです。
日本は1868年明治維新、中国は1911年、大正元年に辛亥革命、つまり43年の差があります。私の父は明治40年生れ、中国で言うと清朝、宜統二年、ラスト・エンペラーの溥儀時代の生れ。台湾は既に日清条約締結後、下関条約に依って日本に割譲されたところ。
従って日本教育を受けたので、母国語は台湾語、日本語はできるが、現代中国語、北京語はできない。父の母、つまり祖母ですが古い清朝時代の風習に従って纏足でした。
旧中国では、も同じですが、女性の結婚年齢は異常に早い。14,5歳で結婚、古い台湾の歌で17,8歳になったのにまだ結婚してない、と言う歌詞がありますが、それは日本も同じこと童謡に姉やは15で嫁に行った、と言う歌詞があります。
実際私の叔母は14で結婚、15で第一子を生んでいます。私の母は21で結婚、この頃で言うと行き遅れ、晩婚です。戦前までの中国、台湾では廿歳過ぎればもうオバサン、嫁のもらい手がなくなる。
この周璇の歌声聞いてみると、どう考えても少女の声、まだあどけなさが残っている。可憐な声である。まだ蕾、今花が咲こうかとしている微妙な年令。
芳紀18歳、元来芳紀なんて20歳過ぎてからは使ってない、十九の春、とも言うでしょう。つまり18,9が春爛漫花盛りってこと。
タンゴでもそうです。1920年代までの女性歌手、廿歳までが花の生命、誠花の生命は短しだったのです。
そんなご時世でしたから、192、30年代まで世界中が同じ考え方、可憐な女の子の声を尊ばれていた。恐らく当時、「何日君再来」を歌っていた頃、周璇は16,7歳だったと思う。
台詞を語る男の声も18、9歳のまだ少年っぽさが抜けきれない若い青年の声だと思います。つまり紅顔の美少年の年頃。一昔どころか三昔、四昔前、この時は結婚適齢期だったのです。
それ程昔でなくても一昔前まで、40代は男盛り、47、48になるとロマンス・グレイ、50代になると初老、60歳は還暦でもう老人なのです。今は60代女性の集まりも女子会と言いますネ。
昔から考えたら15―20歳若くなった。じゃ若く見えるようになったからって、更年期が遅れたかって、いやさほど変わってない。出産年齢は伸びたかって?いやこれもさほど変わってない。見た目と、中味は違う。以上、余談でした。
B-9 あいつ 旗照夫 平岡精二作詞作曲 昭和33年
素晴らしくセンスよい素敵な曲です。平岡精二はジャズメン後年ペギー葉山の「爪」「学生時代」を作曲した人です。いづれも日本の歌謡曲とは思えない素晴らしい曲を書いています。
旗照夫はジャズ、ポップスのシンガー、活躍は地味でしたがその筋の層の人には支持されて着実に歩んでいました。歳の頃は、現在、多分80歳前後、丁度、ロックが登場した頃、しかし全員が全員それに染まっていた時代で言わゆるオーソドックスな線、ペギー葉山もそうですが、その線の最後の歌手。レコードがSPからEP,LPへ変る時期「あいつ」はSP、EP両盤で発売されました。
ペギー葉山の大ヒット曲「南国土佐を後にして」や平尾昌晃の「星は何でも知っている」が丁度SPレコードの最後。昭和35年にはSPレコード発売停止、それにもうステレオ・レコードが出回った。そしてスクリーンは70mm、テレビはほとんどの家庭に普及、私の中学三年間は生活激変期でした。
ロック・ヌーベルバーグ、アクション映画、裕次郎から小林旭の時代へ、そしてトランジスタ・ラジオにオープン・リールでしたがテープレコーダーの普及、ソニー、ダイエーの躍進、造船王国日本、「恋の片道切符」「可愛いベイビー」「月影のナポリ」「ルイジアナ・ママ」、ザ・ピーナッツ、坂本九等々、世は騒然、これがガキ文化のはじまり。そしてこれが高度成長期のはじまりでした。
私はこの頃からそっぽを向けて高校時代、タンゴと出会う。VAN,JUN、アイビールック、「平凡パンチ」には乗りましたが、ビートルズ、長髪、ヒッピー、Gパン、Tシャツには乗れなかった。微妙な時代の接点、僅か2,3年の差で団塊世代、隣り合わせでタッチの差、昭和20年生れ世代は、吉永小百合とタモリが同年齢。
団塊世代と一寸だけ違う。我々の同級生、大学時代、マンガをむしゃぶり食いついて読むってことはなかった。よく眺めてみると、まだ女子大生が少なく、急スピードで増えて行くので“女子大生亡国論”が出た程、そして大卒の同級生を見てもまだ見合い結婚の方が多いように感じる。
2歳差で団塊世代、ここで激変したのです。「あいつ」の歌詞は何とも複雑、どうにでも解釈できる歌詞、友情だとも、いやそうじゃなくて、これはどうも同性愛を暗示してるぞ、という説もある。映画の「太陽がいっぱい」と「アラビアのロレンス」もそのような説、密かな隠しごとを感じますが、ルキノ・ヴィスコンティの作品からは明確になりました。
まあそれは作者、平岡精二の意図する処、作者に直接聞いてみないと判りませんが平岡は夭折、もうこの世の人ではありません。いづれにせよ、曲よし、私の好きな曲であります。なかなか洒落れて実にスマート。本当に素晴らしい曲であります。
■歌詞 省略
■歌詞
○1 侍ニッポン 徳山璉 昭和 6年
1 人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代(さかやき) 寂しく撫でて
新納鶴千代 にが笑い
2 きのう勤皇 あしたは佐幕
その日その日の 出来心
どうせおいらは 裏切り者よ
野暮な大小 落とし差し
3 流れ流れて 大利根こえて
水戸は二の丸 三の丸
おれも生きたや 人間らしく
梅の花咲く 春じゃもの
4 命とろうか 女をとろか
死ぬも生きるも 五分と五分
泣いて笑って 鯉口切れば
江戸の桜田 雪が降る
○2 ころがせころがせビール樽 徳山璉 昭和 6年
ころがせころがせびいる樽
赤い夕日のなだら坂
とめてもとまらぬものならば
ころがせころがせびいる樽
○3 夜の酒場に 徳山璉 昭和 7年
1 夜の酒場に 聴く雨の
なぜにかくまで 身には泌む
乾せども酔わぬ 盃に
浮かぶは君が まぼろしか
2 夜の酒場に 聴く雨の
なぜに昔を 偲ばする
やさしき愛の 想い出の
涙を誘う 通り雨
○4 想い出のギター 徳山璉・藤山一郎 昭和 8年
○5 ルンペン節 徳山璉 昭和 6年
1 青い空から紙幣(さつ)の束が降って
とろり昼寝の 頬ぺたをたたく
五両十両百両に千両
費(つか)い切れずに 目がさめた
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの 空財布
でも、ルンペンのんきだね
2 酔った酔ったよ 五勺の酒で
酔った目で見りゃ スベタも美人
バット一本 ふたつに折って
わけて喫うのもおつなもの
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの空財布 でも、
ルンペンのんきだね
3 プロの天国 木賃ホテル
抱いて寝てみりゃ 膝っこも可愛い
柏蒲団に 時雨を聴けば
死んだ女房(おっかあ)が夢に来た
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの空財布
でも、ルンペンのんきだね
4 金がないとて くよくよするな
金があっても白髪ははえる
お金持ちでもお墓はひとつ
泣くも笑うも五十年
アーハッハッハ アッハッハ
スッカラカンの空財布
でも、ルンペンのんきだね
○6 赤い灯青い灯 徳山璉 昭和 9年
1 赤い夕陽の 街から街へ
行方さだめぬ ララ 旅の鳥
燃える窓の灯 恋の雨
ぬれて一夜を ララ 泣きましょか
2 今朝の別れに あの娘がくれた
花は紅バラ ララ 深情け
風は野を吹く バラを吹く
どこに埋めましょ ララ 恋の花
3 秋が来たとて つばめは帰る
帰るあてない ララ 旅暮らし
街のサーカス 日は暮れて
フラやジンタも ララ 泣いている
4 国を離れて 旅から旅へ
わたしゃ蒲公英(たんぽぽ) ララ 風まかせ
今宵七日の 月の暈(かさ)
あの娘しのんで ララ 泣きましょか
○7 百万人の合唱 徳山璉 昭和10年
○8 大将閣下の名はブムブム徳山璉 昭和 6年
○9 ガラマサどん 徳山璉・古川緑波・江戸川蘭子 昭和13年
○10 天から煙草が 徳山璉 昭和15年
●1 サーカスの唄 松平晃 昭和 8年
1 旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た
2 昨日市場で ちょいと見た娘
色は色白 すんなり腰よ
鞭(むち)の振りよで 獅子さえなびくに
可愛いあの娘(こ)は うす情
3 あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ
4 朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
流れながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で
●2 急げ幌馬車 松平晃 昭和 8年
1 日暮れ悲しや 荒野(あれの)は遙か
急げ幌馬車 鈴の音(ね)だより
どうせ気まぐれ さすらいものよ
山はたそがれ 旅の空
別れともなく 別れて来たが
心とぼしや 涙がにじむ
野越え山越え 何処までつづく
しるすわだちも 片あかり
2 黒馬(あお)はいななく 吹雪は荒れる
さぞや寒かろ 北山おろし
なくな嘆くな いとしの駒よ
なけば涙も なおいとし
●3 砂漠の旅 松平晃 昭和10年
●4 何日君再来 松平晃 昭和14年
1 忘れられない あのおもかげよ
ともしび揺れる この霧のなか
ふたりならんで よりそいながら
ささやきも ほほえみも
たのしくとけ合い 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつまたかえる
2 忘れられない あの日のころよ
その風かおる この並木みち
肩をならべて ふたりっきりで
よろこびも 悲しみも
うちあけなぐさめ 過ごしたあの日
ああ いとし君 いつまたあえる
3 忘れられない 思い出ばかり
わかれていまは この並木みち
胸にうかぶは 君のおもかげ
おもいでを だきしめて
ひたすら待つ身の わびしいこの日
ああ いとし君 いつまたかえる
●5 山の人気者 中野忠晴 昭和 8年
1 山の人気者 それはミルク屋
朝から夜まで 唄をふりまく
牧場はひろびろ 声はほがらか
その節のよさは アルプスの華
2 娘という娘は ユーレイティ
ふらふらと ユーレイティ
ミルク売りを慕う ユーレイティ
ユーレイ ユーレイティ
さすがはのど自慢 すごい腕前
乳しぼるほかに 招きよせて
娘たちをまどわせる
3 山のミルク屋は いつもほがらか
乳をしぼる間も 歌を忘れず
のどかな山彦 丘より谷ヘ
アルプスの峰に こだまをかえす
4 娘という娘は ユーレイティ
ふらふらと ユーレイティ
ミルク売りを慕う ユーレイティ
ユーレイ ユーレイティ
乳しぼりがくれば 山の娘ら
はたおる手を休め 窓のそと
とおる歌にききほれる
●6 ミルク色だよ 中野忠晴 昭和 9年
●7 小さな喫茶店 中野忠晴 昭和10年
1 それは去年のことだった
星のきれいな宵だった
二人で歩いた思い出の小径だよ
なつかしいあの
過ぎた日のことが浮かぶよ
この道を歩くとき
なにかしら悩ましくなる
春先の宵だったが
2 小さな喫茶店に
入ったときも二人は
お茶とお菓子を前にして
ひとこともしゃべらぬ
そばでラジオが甘い歌を
やさしく歌ってたが
二人はただ黙って
向き合っていたっけね
●8 バンジョーで唄えば 中野忠晴 昭和12年
1 雲と一緒に 山を越え
心もかるく 気もかるく
悲しい恋は あきらめて
陽気な歌の ひとりたび
バンジョーを弾こうよ 歌おうよ
バンジョーは陽気な バカボンド
2 今日も昨日も 朗らかに
緑の牧場を 歌いつつ
流れ流れて 来て見れば
南の国は 夢の園
バンジョーを弾こうよ 歌おうよ
バンジョーはたのしい バカボンド
3 しずむこころの たそがれは
かわいいバンジョーを 抱きよせて
弾けばひとりで 歌が出る
歌えばたのし 気がはれる
バンジョーを弾こうよ 歌おうよ
バンジョーはうれしい バカボンド
●9 チャイナタンゴ 中野忠晴 昭和14年
1 チャイナ・タンゴ 夢の唄
紅の提灯 ゆらゆらと
風にゆれ 唄にゆれ
ゆれてくれゆく 支那の街
チャイナ・タウン 月の夜
チャイナ・タンゴ 夢ほのぼのと
チャルメラも 消えてゆく
遠い赤い灯 青い灯も
クーニャンの 前髪の
やるせなくなく 夜は更ける
2 チャイナ・タンゴ 夜の唄
深い夜空に しっぽりと
霧に濡れ 唄に濡れ
蘇州がよいの ジャンク船
チャイナ・タウン 月の夜
チャイナ・タンゴ 夢ほのぼのと
街角の 紅の窓
青いひすいの 玉ゆれて
クーニャンの 前髪に
影もたのしく 夜は更ける
●10 泪のタンゴ 松平晃 昭和12年
1 夜の幕(とばり)は いつしか迫り
青い月影 窓辺に射せば
今宵も静かに 君を偲(しの)ぶ
懐かしの面影 心に描く
2 恋の調べは 心を乱し
楽し想い出 涙を誘う
幾年(いくとせ)別れて 独りあれど
今も尚恋しき 昔の君よ
○1 国境の町 東海林太郎 昭和10年
1 橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
雪の曠野(こうや)よ 町の灯よ
一つ山越しゃ 他国の星が
凍りつくよな 国境(くにざかい)
2 故郷はなれて はるばる千里
なんで想いが 届こうぞ
遠きあの空 つくづく眺め
男泣きする 宵もある
3 明日(あす)に望みが ないではないが
頼み少ない ただ一人
赤い夕日も 身につまされて
泣くが無理かよ 渡り鳥
4 行方知らない さすらい暮し
空も灰色 また吹雪
想いばかりが ただただ燃えて
君と逢うのは いつの日ぞ
○2 椰子の実 東海林太郎 昭和11年
1 名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん
○3 裏町人生 上原敏・結城道子 昭和12年
1 暗い浮世の この裏町を
覗く冷たい こぼれ陽よ
なまじかけるな 薄情け
夢も侘しい 夜の花
2 やけにふかした 煙草のけむり
心うつろな おにあざみ
ままよ火の酒 あおろうと
夜の花なら くるい咲き
3 誰に踏まれて 咲こうと散ろと
要らぬお世話さ 放っときな
渡る世間を 舌打ちで
すねた妾が なぜ悪い
4 霧の深さに 隠れて泣いた
夢が一つの 想い出さ
泣いて泪が 枯れたなら
明日の光りを 胸に抱く
○4 上海の街角で 東海林太郎 昭和13年
リラの花散る キャバレーで逢うて
今宵別れる 街の角
紅の月さえ 瞼ににじむ
夢の四馬路(すまろ)が 懐しや
「おい、もう泣くなよ、あれをごらん、
ほんのりと紅の月が出てるじゃアないか、
何もかもあの晩の通りだ。
去年初めて君に逢ったのも
恰度リラの花咲く頃
今年別れるのも、又リラの花散る晩だ。
そして場所はやっぱりこの四馬路だったなア。
あれから一年、激しい戦火をあびたが、
今は日本軍の手で愉しい平和がやって来た。
ホラお聴き、ネ、昔ながらの
支那音楽も聞こえるじゃないか」
泣いて歩いちゃ 人眼について
男船乗りゃ 気がひける
せめて昨日の 純情のままで
涙かくして 別れよか
「君は故郷へ帰って、たった一人の
お母さんと大事に暮らし給え。
僕も明日からやくざな「上海往来」をやめて
新しい北支の天地へ行く、そこには
僕の仕事が待っていてくれるのだ。
ねエ、それがおい互いの幸福だ。
さァ少しばかりだが、これを船賃の足しに
して日本へ帰ってくれ。やがて十時だ、
汽船も出るから、せめて埠頭まで送って行こう」
君を愛して いりゃこそ僕は
出世しなけりゃ 恥かしい
棄てる気じゃない 別れて暫し
故郷で待てよと いうことさ
○5 波止場気質 上原敏 昭和13年
1 別れ惜しむな 銅鑼の音に
沖は希望の 朝ぼらけ
啼くな鴎よ あの娘には
晴れの出船の 黒けむり
2 熱い涙が あればこそ
可愛いあの娘の 楯となり
護り通して 来た俺だ
波止場気質を 知らないか
3 船を見送る この俺が
流す涙は 恋じゃない
ほんにあの娘の 幸福を
嬉し涙で 祈るのさ
○6 緑の地平線 楠木繁夫 昭和10年
1 なぜか忘れぬ人ゆえに
涙かくして踊る夜は
濡れし瞳にすすり泣く
リラの花さえなつかしや
2 わざと気強くふりすてて
無理に注がして飲む酒も
霧の都の夜は更けて
夢もはかなく散りて行く
3 山のけむりを慕いつつ
いとし小鳩の声きけば
遠き前途(ゆくて)にほのぼのと
緑うれしや地平線
○7 東京ラプソディー 藤山一郎 昭和11年
1 花咲き 花散る宵も
銀座の柳の下で
待つは君ひとり 君ひとり
逢えば行く ティールーム
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
2 現(うつつ)に夢見る君の
神田は想い出の街
いまもこの胸に この胸に
ニコライの 鐘も鳴る
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
3 明けても暮れても歌う
ジャズの浅草行けば
恋の踊り子の 踊り子の
ほくろさえ 忘られぬ
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
4 夜更けにひととき寄せて
なまめく新宿駅の
あの娘(こ)はダンサーか ダンサーか
気にかかる あの指輪
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
5 花咲く都に住んで
変わらぬ誓いを交わす
変わる東京の 屋根の下
咲く花も 赤い薔薇
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
楽し都 恋の都
夢のパラダイスよ 花の東京
○8 満州娘 服部富子 昭和13年
1 私十六 満州娘
春よ三月 雪解けに
迎春花が 咲いたなら
お嫁に行きます 隣村
王さん 待ってて 頂戴ネ
2 銅鑼や太鼓に 送られながら
花の馬車に 揺られてる
恥かしいやら 嬉しいやら
お嫁に行く日の 夢ばかり
王さん 待ってて 頂戴ネ
3 雪よ氷よ 冷たい風は
北のロシアで 吹けば良い
晴衣も母と 縫うて待つ
満州の春よ 飛んで来い
王さん 待ってて 頂戴ネ
●1 上海ブルース ディック・ミネ 昭和13年
1 涙ぐんでる上海の
夢の四馬路(スマロ)の街の灯
リラの花散る今宵は
君を思い出す
何にも言わずに別れたね 君と僕
ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
なぜか忘れぬ面影
波よ荒れるな碼頭(はとば)の
月もエトランゼ
二度とは会えない 別れたらあの瞳
思いは乱れる 上海の月の下
●2 月月火水木金金 内田栄一ボーカルフォア 昭和15年
1 朝だ夜明けだ 潮の息吹き
うんと吸い込む あかがね色の
胸に若さの 漲る誇り
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
2 赤い太陽に 流れる汗を
拭いてにっこり 大砲手入れ
太平洋の 波、波、波に
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金
3 度胸ひとつに 火のような錬磨
旗は鳴る鳴る ラッパは響く
行くぞ日の丸 日本の艦だ
海の男の 艦隊勤務
月月火水木金金
4 どんとぶつかる 怒涛の唄に
ゆれる釣床 今宵の夢は
明日の戦さの この腕試し
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金
●3 別れのブルース 淡谷のり子 昭和12年
1 窓を開ければ 港が見える
メリケン波止場の 灯が見える
夜風 潮風 恋風のせて
今日の出船(でぶね)は どこへ行く
むせぶ心よ はかない恋よ
踊るブルースの 切なさよ
2 腕にいかりの いれずみほって
やくざに強い マドロスの
お国言葉は 違っていても
恋には弱い すすり泣き
二度と逢えない 心と心
踊るブルースの 切なさよ
●4 愛国行進曲 コロムビア歌手陣昭和12年
1 見よ東海の 空あけて
旭日(きょくじつ)高く 輝けば
天地の正気(せいき) 溌剌(はつらつ)と
希望は躍る 大八洲(おおやしま)
おお晴朗の 朝雲に
聳(そび)ゆる富士の 姿こそ
金甌無欠(きんおうむけつ) 揺るぎなき
わが日本の 誇りなれ
2 起(た)て一系の 大君(おおきみ)を
光と永久(とわ)に 戴きて
臣民我等 皆共に
御稜威(みいつ)に副(そ)はむ 大使命
往け八紘(はっこう)を 宇(いえ)となし
四海(しかい)の人を 導きて
正しき平和 うち建てむ
理想は花と 咲き薫(かお)る
3 いま幾度(いくたび)か 我が上に
試練の嵐 哮(たけ)るとも
断固と守れ その正義
進まん道は 一つのみ
ああ悠遠(ゆうえん)の 神代(かみよ)より
轟(とどろ)く歩調 うけつぎて
大行進の 往く彼方
皇国つねに 栄(さかえ)あれ
●5 シナの夜 渡辺はま子昭和13年
1 シナの夜 シナの夜よ
港の灯り 紫の夜に
上るジャンクの 夢の船
アー 忘られぬ 胡弓の音
シナの夜 夢の夜
2 シナの夜 シナの夜よ
柳の窓に ランタンゆれて
赤い鳥かご シナ娘
アー やるせない 愛の歌
シナの夜 夢の夜
3 シナの夜 シナの夜よ
君待つ宵は 欄干(おばしま)の雨に
花も散る散る 紅も散る
アー 別れても 忘らりょか
シナの夜 夢の夜
●6 高原の旅愁 伊藤久雄 昭和15年
1 むかしの夢の 懐かしく
訪ね来たりし 信濃路の
山よ小川よ また森よ
姿むかしの ままなれど
なぜにかの君 影もなし
2 乙女の胸に 忍び寄る
啼(な)いて淋しき 閑古鳥(かんこどり)
君の声かと 立ち寄れば
消えて冷たく 岩蔭に
清水ほろほろ 湧くばかり
3 過ぎにし夢と 思いつつ
山路下れば さやさやと
峠吹き来る 山の風
胸に優しく 懐かしく
明日の希望を 囁(ささや)くよ
●7 蘇州夜曲 渡辺はま子昭和15年
1 君がみ胸に 抱かれて聞くは
夢の船唄 鳥の歌
水の蘇州の 花ちる春を
惜しむか柳が すすり泣く
2 花をうかべて 流れる水の
明日のゆくえは 知らねども
こよい映した ふたりの姿
消えてくれるな いつまでも
髪に飾ろか 口づけしよか
君が手折(たお)りし 桃の花
涙ぐむよな おぼろの月に
鐘が鳴ります 寒山寺
●8 めんこい仔馬 二葉あき子他 昭和15年
1 ぬれた仔馬のたてがみを
なでりゃ両手に朝のつゆ
呼べば答えてめんこいぞ オーラ
かけていこうかよ 丘の道
ハイド ハイドウ 丘の道
2 わらの上から育ててよ
今じゃ毛なみも光ってる
おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
元気に高くないてみろ
ハイド ハイドウ ないてみろ
3 西のお空は夕焼けだ
仔馬かえろう おうちには
おまえの母さん まっている オーラ
歌ってやろかよ 山の歌
ハイド ハイドウ 山の歌
4 月が出た出た まんまるだ
仔馬のおへやも明るいぞ
よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
あしたは朝からまたあそぼ
ハイド ハイドウ またあそぼ
○1 上海の花売娘 岡晴夫 昭和7年
1 紅いランタン ほのかにゆれる
宵の上海 花売娘
誰の形見か 可愛い耳輪
じっとみつめる 優しい瞳
あゝ 上海の花売娘
2 霧の夕べも 小雨の宵も
港上海 花売娘
白い花籠 ピンクのリボン
襦子もなつかし 黄色の小靴
あゝ 上海の花売娘
3 星も胡弓も 琥珀の酒も
夢の上海 花売娘
パイプくわえた マドロスたちの
ふかす煙の 消えゆく蔭に
あゝ 上海の花売娘
○2 無常の夢 児玉好雄 昭和10年
1 あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ
2 喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょうか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き
○3 長崎物語 由利あけみ 昭和13年
1 赤い花なら 曼珠沙華
阿蘭陀屋敷に 雨が降る
濡れて泣いてる じゃがたらお春
未練な出船の ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
2 坂の長崎 石畳
南京煙火に 日が暮れて
そぞろ恋しい 出島の沖に
母の精霊が ああ流れ行く
ララ流れ行く
3 平戸離れて 幾百里
つづる文さえ つくものを
なぜに帰らぬ じゃがたらお春
サンタクルスの ああ鐘が鳴る
ララ鐘が鳴る
○4 燦めく星座 灰田勝彦 昭和15年
1 男純情の 愛の星の色
冴えて夜空に ただ一つ
あふれる想い
春を呼んでは 夢見ては
うれしく輝くよ
思い込んだら 命がけ
男のこころ
燃える希望(のぞみ)だ 憧れだ
燦めく金の星
2 なぜに流れくる 熱い涙やら
これが若さと いうものさ
楽しじゃないか
強い額(ひたい)に 星の色
うつして歌おうよ
生きる命は 一筋に
男のこころ
燃える希望だ 憧れだ
燦めく金の星
○5 隣組 徳山璉 昭和15年
1 とんとん とんからりと 隣組
格子(こうし)を開ければ顔なじみ
廻して頂戴 回覧板
知らせられたり 知らせたり
2 とんとん とんからりと 隣組
あれこれ面倒 味噌醤油
ご飯の炊き方 垣根越し
教えられたり 教えたり
3 とんとん とんからりと 隣組
地震や雷 火事どろぼう
互いに役立つ 用心棒
助けられたり 助けたり
4 とんとん とんからりと 隣組
何軒あろうと 一所帯(ひとじょたい)
こころは一つの 屋根の月
纏(まと)められたり 纏めたり
○6 新雪 灰田勝彦 昭和15年
1 紫けむる 新雪の
峰ふり仰ぐ このこころ
麓の丘の 小草を敷けば
草の青さが 身に沁みる
2 けがれを知らぬ 新雪の
素肌へ匂う 朝の陽よ
若い人生に 幸あれかしと
祈るまぶたに 湧く涙
3 大地を踏んで がっちりと
未来に続く 尾根づたい
新雪光る あの峰越えて
行こうよ元気で 若人よ
○7 空の神兵 四家文子・鳴海信輔 昭和17年
1 藍(あい)より蒼(あお)き 大空に 大空に
たちまち開く 百千の
真白き薔薇(ばら)の 花模様
見よ落下傘 空に降り
見よ落下傘 空を征(ゆ)く
見よ落下傘 空を征く
2 世紀の華(はな)よ 落下傘 落下傘
その純白に 赤き血を
捧げて悔(く)いぬ 奇襲隊
この青空も 敵の空
この山河も 敵の陣
この山河も 敵の陣
3 敵撃摧(げきさい)と 舞降(くだ)る 舞降る
まなじり高き つわものの
いずくか見ゆる おさな顔
ああ純白の 花負いて
ああ青雲に 花負いて
ああ青雲に 花負いて
4 讃(たた)えよ空の 神兵を 神兵を
肉弾粉(こな)と 砕くとも
撃(う)ちてしやまぬ 大和魂(やまとだま)
わが丈夫(ますらお)は 天降(あまくだ)る
わが皇軍は 天降る
わが皇軍は 天降る
○8 婦系図の歌 小畑実・藤原亮子 昭和18年
【女】
1 湯島通れば 想い出す
お蔦主税の 心意気
知るや白梅 玉垣に
残る二人の 影法師
【男】
2 忘れられよか 筒井筒(つついづつ)
岸の柳の 縁むすび
かたい契りを 義理ゆえに
水に流すも 江戸育ち
【男女】
3 青い瓦斯燈(がすとう) 境内を
出れば本郷 切通し
あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
鐘は墨絵の 上野山
●1 朝はどこから 岡本敦朗・安西愛子 昭和22年
1 朝はどこから来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」「お早う」
2 昼はどこから来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは働く家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」
3 夜はどこから来るかしら
あの星越えて 月越えて
おとぎの国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」
●2 浅草の唄 藤山一郎 昭和22年
1 つよいばかりが 男じゃないと
いつか教えて くれた人
どこのどなたか 知らないけれど
鳩といっしょに 唄ってた
ああ 浅草のその唄を
2 可愛いあの子と シネマを出れば
肩にささやく こぬか雨
かたい約束 かわして通る
田原町から 雷門
ああ 浅草のこぬか雨
3 池にうつるは 六区の灯り
忘れられない よいの灯よ
泣くな サックスよ 泣かすなギター
明日もあかるい 朝がくる
ああ 浅草のよい灯り
4 吹いた口笛 夜霧にとけて
ボクの浅草 夜が更ける
鳩も寝たかな 梢のかげで
月がみている よもぎ月
ああ 浅草のおぼろ月
●3 夢淡き東京 藤山一郎 昭和22年
1 柳青める日 つばめが銀座に飛ぶ日
誰を待つ心 可愛いガラス窓
かすむは春の青空か あの屋根は
かがやく聖路加(せいろか)か
はるかに朝の虹も出た
誰を待つ心 淡き夢の町 東京
2 橋にもたれつつ 二人は何を語る
川の流れにも 嘆きをすてたまえ
なつかし岸に聞こえ来る あの音は
むかしの三味(しゃみ)の音か
遠くに踊る影ひとつ
川の流れさえ 淡き夢の町 東京
3 君は浅草か あの娘(こ)は神田の育ち
風に通わすか 願うは同じ夢
ほのかに胸に浮かぶのは あの姿
夕日に染めた顔
茜の雲を見つめてた
風に通わすか 淡き夢の町 東京
4 悩み忘れんと 貧しき人は唄い
せまい露路裏に 夜風はすすり泣く
小雨が道にそぼ降れば あの灯り
うるみてなやましく
あわれはいつか雨にとけ
せまい露路裏も 淡き夢の町 東京
●4 港が見える丘 平野愛子 昭和22年
1 あなたと二人で来た丘は
港が見える丘
色あせた桜唯一つ
淋しく咲いていた
船の汽笛咽(むせ)び泣けば
チラリホラリと花片(はなびら)
あなたと私に降りかかる
春の午後でした
2 あなたと別れたあの夜は
港が暗い夜
青白い灯り唯一つ
桜を照らしてた
船の汽笛消えて行けば
チラリホラリと花片
涙の雫にきらめいた
霧の夜でした
3 あなたを想うて来る丘は
港がみえる丘
葉桜をソヨロ訪れる
しお風 浜の風
船の汽笛遠く聞いて
うつらとろりと見る夢
あなたの口許 あの笑顔
淡い夢でした
●5 泪の乾杯 竹山逸郎 昭和22年
1 酒は飲めども なぜ酔わぬ
満たすグラスの その底に
描く幻 彼(か)の君の
紅き唇 紅き唇 今いずこ
2 暗き酒場の 窓伝(つと)う
雨の滴(しずく)も 想い出の
熱き泪(なみだ)か 別れの日
君が瞳に 君が瞳に 溢(あふ)れたる
3 さらば酒場よ 港街
空(むな)しき君の 影追いて
今宵また行く 霧の中
沖に出船の 沖に出船の 船が待つ
●6 胸の振子 霧島昇 昭和22年
柳につばめは
あなたに わたし
胸の振子が 鳴る鳴る
朝から今日も
何も言わずに 二人きりで
空をながめりゃ なにか燃えて
柳につばめは
あなたに わたし
胸の振子が 鳴る鳴る
朝から今日も
煙草のけむりも
もつれるおもい
胸の振子が つぶやく
やさしきその名
君のあかるい 笑顔浮かべ
くらいこの世の つらさ忘れ
煙草のけむりも
もつれるおもい
胸の振子が つぶやく
やさしきその名
●7 山小舎の灯 近江俊郎 昭和22年
1 黄昏(たそがれ)の灯(ともしび)は
ほのかに点(とも)りて
懐かしき山小舎は ふもとの小径よ
思い出の窓に寄り 君をしのべば
風は過ぎし日の 歌をばささやくよ
2 暮れ行くは白馬(しろうま)か
穂高(ほたか)は茜(あかね)よ
樺(かば)の木のほの白き 影も薄れ行く
寂しさに君呼べど わが声むなしく
はるか谷間より こだまはかえり来る
3 山小舎の灯は 今宵も点りて
独り聞くせせらぎも 静かに更けゆく
憧れは若き日の 夢をのせて
夕べ星のごと み空に群れとぶよ
●8 街のサンドイッチマン 鶴田浩二 昭和28年
1 ロイド眼鏡に 燕尾服(えんびふく)
泣いたら燕が 笑うだろ
涙出た時ゃ 空を見る
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者(どけもの)
とぼけ笑顔で 今日も行く
2 嘆きは誰でも 知っている
この世は悲哀の 海だもの
泣いちゃいけない 男だよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺(おい)らは街の お道化者
今日もプラカード 抱いてゆく
3 あかるい舗道に 肩を振り
笑ってゆこうよ 影法師
夢をなくすりゃ それまでよ
サンドイッチマン サンドイッチマン
俺らは街の お道化者
胸にそよ風 抱いてゆく
○1 復活唱歌(カチューシャの歌)松井須磨子 大正3年
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて淡雪とけぬ間と
神に願いを ララ かけましょか
カチューシャかわいや わかれのつらさ
今宵一夜に降る雪の
明日は野山の ララ 道かくせ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
せめて又逢うそれまでは
同じ姿で ララ いてたもれ
カチューシャかわいや わかれのつらさ
つらい別れの涙の隙に
風は野を吹く ララ 日は暮れる
カチューシャかわいや わかれのつらさ
広い野原をとぼとぼと
一人出て行く ララ 明日の旅
○2 金色夜叉塩原秩峰 大正7年
1 (男女)
熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人連れ
共に歩むも今日限り
共に語るも今日限り
2 (男)
僕が学校おわるまで
何故に宮さん待たなんだ
夫に不足が出来たのか
さもなきゃお金が欲しいのか
3 (女)
夫に不足はないけれど
あなたを洋行さすがため
父母の教えに従いて
富山(とみやま)一家に嫁(かしず)かん
4 (男)
如何(いか)に宮さん貫一は
これでも一個の男子なり
理想の妻を金に替え
洋行するよな僕じゃない
5 (男)
宮さん必ず来年の
今月今夜のこの月は
僕の涙でくもらせて
見せるよ男子の意気地から
6 (女)
ダイヤモンドに目がくれて
乗ってはならぬ玉の輿(こし)
人は身持ちが第一よ
お金はこの世のまわりもの
7 (男女)
恋に破れし貫一は
すがるお宮をつきはなし
無念の涙はらはらと
残る渚に月淋し
○3 船頭小唄 鳥取春陽 大正12年
1 おれは河原の 枯れすすき
同じお前も 枯れすすき
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れすすき
2 死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに なに変わろ
おれもお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ
3 枯れた真菰(まこも)に 照らしてる
潮来出島(いたこでじま)の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ
4 なぜに冷たい 吹く風が
枯れたすすきの 二人ゆえ
熱い涙の 出た時は
汲んでおくれよ お月さん
○4 籠の鳥歌川八重子 大正13年
あいたさ見たさに こわさを忘れ
暗い夜道をただ一人
あいに来たのに なぜ出てあわぬ
僕の呼ぶ声わすれたか
あなたの呼ぶ声 わすれはせぬが
出るに出られぬ籠の鳥
籠の鳥でも 智恵ある鳥は
人目忍んであいに来る
人目忍べば 世間の人が
怪しい女と指ささん
怪しい女と 指さされても
真心こめた仲じゃもの
指をささりょと おそれはせぬが
妾(わたし)ゃ出られぬ籠の鳥
世間の人よ 笑わば笑え
共に恋した仲じゃもの
共に恋した 二人が仲も
今は逢うさえままならぬ
ままにならぬは 浮世の定め
無理に逢うのが恋じゃもの
○5 ストトン節 鳥取春陽 大正13年
○6 のんき節 石田一松 大正12年
學校の先生は えらいもんぢやさうな
えらいから なんでも教へるさうな
教へりや 生徒は無邪氣なもので
それもさうかと 思ふげな
ア ノンキだね
成金といふ火事ドロの 幻燈など見せて
貧民學校の 先生が
正直に働きや みなこの通り
成功するんだと 教へてる
ア ノンキだね
貧乏でこそあれ 日本人はえらい
それに第一 辛抱強い
天井知らずに 物価はあがつても
湯なり粥なり すゝつて生きてゐる
ア ノンキだね
洋服着よが靴をはこうが 學問があろが
金がなきや やっぱり貧乏だ
貧乏だ貧乏だ その貧乏が
貧乏でもないよな 顏をする
ア ノンキだね
貴婦人あつかましくも お花を召せと
路傍でお花の おし賈りなさる
おメデタ連はニコニコ者で お求めなさる
金持や 自動車で知らん顔
ア ノンキだね
お花賈る貴婦人は おナサケ深うて
貧乏人を救ふのが お好きなら
河原乞食も お好きぢやさうな
ほんに結構な お道樂
ア ノンキだね
萬物の靈長が マッチ箱見たよな
ケチな巣に住んでゐる 威張つてる
暴風雨(あらし)にブッとばされても
海嘯(つなみ)をくらつても
「天災ぢや仕方がないさ」で すましてる
ア ノンキだね
南京米をくらつて 南京虫にくはれ
豚小屋みたいな 家に住み
選挙權さへ 持たないくせに
日本の國民だと 威張つてる
ア ノンキだね
機械でドヤして 血肉をしぼり
五厘の「こうやく」 はる温情主義
そのまた「こうやく」を 漢字で書いて
「澁澤論語」と 讀ますげな
ア ノンキだね
うんとしぼり取つて 泣かせておいて
目藥ほど出すのを 慈善と申すげな
なるほど慈善家は 慈善をするが
あとは見ぬふり 知らぬふり
ア ノンキだね
我々は貧乏でも とにかく結構だよ
日本にお金の 殖えたのは
さうだ!まつたくだ!と 文なし共の
話がロハ臺で モテてゐる
ア ノンキだね
二本ある腕は 一本しかないが
キンシクンショが 胸にある
名譽だ名譽だ 日本一だ
桃から生れた 桃太郎だ
ア ノンキだね
ギインへんなもの 二千圓もらふて
晝は日比谷で たゞガヤガヤと
わけのわからぬ 寢言をならべ
夜はコソコソ 烏森
ア ノンキだね
膨脹する膨脹する 國力が膨脹する
資本家の横暴が 膨脹する
おれの嬶(かゝ)ァのお腹が 膨脹する
いよいよ貧乏が 膨脹する
ア ノンキだね
生存競争の 八街(やちまた)走る
電車の隅ッコに 生酔い一人
ゆらりゆらりと 酒のむ夢が
さめりや終點で 逆戻り
ア ノンキだね
○7 アラビアの歌 二村定一 昭和3年
砂漠に陽が落ちて 夜となるころ
恋人よ なつかしい 歌を歌おうよ
あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビアの 歌を歌おうよ
(間奏)
あのさびしい調べに 今日も涙流そう
恋人よ アラビアの 歌を歌おうよ 歌を歌おうよ
○8 青空 二村定一 昭和3年
1 夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿るは
我が家の細道
せまいながらも楽しい我が家
愛の灯影のさすところ
恋しい家こそ 私の青空
2 夕暮れに仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて辿るは
我が家の細道
せまいながらも楽しい我が家
愛の灯影のさすところ
恋しい家こそ 私の青空
○9 君恋し 二村定一 昭和4年
1 宵闇せまれば 悩みは涯なし
みだるる心に うつるは誰(た)が影
君恋し 唇あせねど
涙はあふれて 今宵も更け行く
2 唄声すぎゆき 足音ひびけど
いずこにたずねん こころの面影
君恋し おもいはみだれて
苦しき幾夜を 誰がため忍ばん
3 去りゆくあの影 消えゆくあの影
誰がためささえん つかれし心よ
君恋し ともしびうすれて
臙脂(えんじ)の紅帯 ゆるむもさびしや
○10 東京行進曲 佐藤千夜子 昭和4年
1 昔恋しい 銀座の柳
仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃ ダンサーの涙雨
2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文(ふみ)書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘(こ)の 思い出に
3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ
4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
○11 女給の歌 羽衣歌子 昭和6年
1 わたしゃ夜さく 酒場の花よ
赤い口紅 錦紗のたもと
ネオン・ライトで 浮かれておどり
さめてさみしい 涙花
2 わたしゃ悲しい 酒場の花よ
夜は乙女よ 昼間は母よ
昔かくした 涙のたもと
更けて重いは 露じゃない
3 弱い女を だまして棄てて
それがはかない 男の手柄
女可愛しや ただ諦めて
辛い浮世に 赤く咲く
4 雨が降る降る 今夜も雨が
更けてさみしい 銀座の街に
涙落ちても 恋しいむかし
偲べ偲べと 雨が降る
5 女給商売 サラリと止めて
可愛いこの子と 二人の暮らし
抱いて寝かせて 母さんらしく
せめて一夜の 子守り唄
●1 道頓堀行進曲 内海一郎 昭和3年
1 赤い灯 青い灯
道頓堀の
川面にあつまる 恋の灯に
なんでカフェーが 忘らりょか
2 酔うて くだまきゃ
あばずれ女
すまし顔すりゃ カフェーの女王
道頓堀が 忘らりょか
3 好きな 彼のひと
もう来る時分
ナフキンたゝもよ 唄いましょうよ
あゝなつかしの 道頓堀よ
●2 黒い瞳よ今いづこ 天野喜久代昭和4年
1 黒い瞳よ 今いずこ
君を思えば 胸はもえて
夢にうつつに 仰ぎみる
愛の珠玉の かの瞳
2 黒い瞳の 思い出は
心残して 別れた宵
霧のちまたに 泣き濡れた
夜の神秘の かの瞳
楽しき恋は 過去となれど
心はなおも 君を懐(おも)う
3 黒い瞳よ 今いずこ
砕け果てたる 我が心に
求め慕うは 限りなき
恋の生命(いのち)の かの瞳
●3 蒲田行進曲 川崎豊・曽我直子 昭和4年
1 虹の都 光の港 キネマの天地
花の姿 春の匂い あふるるところ
カメラの眼に映る かりそめの恋にさえ
青春もゆる 生命(いのち)はおどる キネマの天地
2 胸を去らぬ 想い出ゆかし キネマの世界
セットの花と 輝くスター ほほえむところ
瞳の奥深く 焼き付けた面影の
消えて結ぶ 幻の国 キネマの世界
3 春の蒲田 花咲く蒲田 キネマの都
空に描く 白日の夢 あふるるところ
輝く緑さえ とこしえの憧れに
生くる蒲田 若き蒲田 キネマの都
●4 麗人の唄 河原喜久恵 昭和5年
1 紅い帯締め 花嫁人形
明日は売られて どこへゆく
泣いてみたとて あの人が
告げぬ想いを ああ なんで知ろ
2 夢はやぶれて 花嫁手形
はでなたもとが 恥かしや
覚めて浮世の 窓みれば
みんな泣いてる ああ 人ばかり
3 告げぬ想いを さみしくこらえ
君とゆく夜の 小糠雨
いとしお方の 肩たたく
雨がわたしで ああ あったなら
4 籠に飼われた 緋総の鳥が
強い女と なる朝は
こころ筑紫の 波の上
うかぶ白帆に ああ 虹が立つ
●5 すみれの花咲く頃宝塚月組 昭和5年
1 春すみれ咲き 春を告げる
春何ゆえ人は 汝(なれ)を待つ
楽しく悩ましき 春の夢 甘き恋
人の心酔わす そは汝
すみれ咲く春
すみれの花咲く頃
はじめて君を知りぬ
君を思い 日ごと夜ごと
悩みし あの日の頃
すみれの花咲く頃
今も心奮(ふる)う
忘れな君 我らの恋
すみれの花咲く頃
2 花の匂い咲き 人の心
甘く香り 小鳥の歌に
心踊り 君とともに 恋を歌う春
されど恋 そはしぼむ花
春とともに逝く
すみれの花咲く頃
はじめて君を知りぬ
君を思い 日ごと夜ごと
悩みし あの日の頃
すみれの花咲く頃
今も心奮う
忘れな君 我らの恋
すみれの花咲く頃
●6 ニッポン娘バートン・クレーン 昭和6年
1 What has become of Hinky Dinky Parley Voo
What has become of Mademoiselle from Barlfe Duc
They''ve gone and crossed the seven seas,
and now they sing in Japanese,
Hinky Dinky Parley Voo!
2 東京の娘さん、今日(こんにち)は
東京の娘さん、いかゞで、
銀座ガールつれない、いつでも冷淡
ポクポク小馬
3 京都の娘さん、今日、
京都の娘さん、いかゞです
舞妓はん白く塗り、赤い帯だらり
ポクポク小馬
4 名古屋の娘さん、今日は
名古屋の娘さん、いかゞです
食べることならない、金の鯱鉾(しゃちほこ)ネ
ポクポク小馬
5 横浜娘さん、今日は
横浜娘さん、いかゞです
船見て泣くの、淋しくて泣くの
ポクポク小馬
6 神戸の娘さん、今日は
神戸の娘さん、いかゞです
お酒飲んで踊ろ、笑って踊ろ
ポクポク小馬
(飯島綾子台詞)お忘れものせんように
(クレーン台詞)何置き忘れましたか
(飯島綾子台詞)大阪
(クレーン台詞)サア小さいですから見逃しました
(飯島綾子台詞)そやけど
(クレーン台詞)けれども
7 大阪の娘さん、今日は
大阪の娘さん、いかゞです
僕大変好きます、左様(さよ)か、阿呆(あほ)ら
ポクポク子馬
(飯島綾子台詞)わて大阪の娘だんね
(クレーン台詞)おふざけでないよ
(飯島綾子台詞)ほんまに
(クレーン台詞)そうですか、マア
8 日本娘皆さん、今日は
日本娘皆さん、いかゞです
日本娘皆さん、とっても可愛いね
ポクポク小馬
(クレーン台詞)それきり以上、終り
●7 並木の雨 ミスコロムビア 昭和9年
1 並木の路に 雨が降る
どこの人やら 傘さして
帰る姿の なつかしや
2 並木の路は 遠い路
いつか別れた あの人の
帰り来る日は いつであろ
3 並木の路に 雨が降る
どこか似ている 人故に
後ろ姿の なつかしや
●8 王様の馬 奥田良三昭和9年
1 王様の馬の頸の鈴
ちんからかんと鳴り渡る
日は暖かに風もなく
七つの峠が晴れ渡る
2 山の麓の七村に
青亜麻(アオヌメゴマ)の花咲けど
人に別れた若者は
今日も、今日とて、すすり泣く
3 王様の馬は金の馬
お供の馬は泥の馬
ほがら、ほがらの、の鈴の音の
雲に響くを何と聞く
4 山を巡れど恋人は
青亜麻(アオヌメゴマ)の花がくれ
夢と消(ケ)ぬべき銀の鈴
朧朧に行く時も
5 陽は暖かき七村に
別れし人を忘れねば
晴れて悲しき胸の鈴
ちんからかんと鳴り渡る
●9 美しき天然 奥田良三昭和5年
1 空にさえずる 鳥の声
峯より落つる 滝の音
大波小波 鞺鞳(とうとう)と
響き絶えせぬ 海の音
聞けや人々 面白き
此(こ)の天然の 音楽を
調べ自在に 弾き給(たも)う
神の御手(おんて)の 尊しや
2 春は桜の あや衣(ごろも)
秋は紅葉の 唐錦(からにしき)
夏は涼しき 月の絹
冬は真白き 雪の布
見よや人々 美しき
この天然の 織物を
手際(てぎわ)見事(みごと)に 織りたもう
神のたくみの 尊しや
3 うす墨ひける 四方(よも)の山
くれない匂う 横がすみ
海辺はるかに うち続く
青松白砂(せいしょうはくさ)の 美しさ
見よや人々 たぐいなき
この天然の うつしえを
筆も及ばず かきたもう
神の力の 尊しや
4 朝(あした)に起る 雲の殿
夕べにかかる 虹の橋
晴れたる空を 見渡せば
青天井に 似たるかな
仰げ人々 珍らしき
此の天然の 建築を
かく広大に たてたもう
神の御業(みわざ)の 尊しや
●10 ダイナ ディック・ミネ 昭和9年
おお ダイナ… 私の恋人
胸にえがくは 美わしき姿 おお君よ
ダイナ… 紅き唇 我に囁け 愛の言葉を
ああ 夜毎君の瞳 慕わしく 想い狂わしく
おお ダイナ… 許せよくちづけ
我が胸ふるえる 私のダイナ
○1 別れても 二葉あき子 昭和21年
1 空になる凩(こがらし) 雨戸うつ吹雪
冬の夜は 嵐に更けてゆく
思い出の窓辺の 青い灯火(ともしび)も
浮世の嵐に 消えてゆく
忘られぬ 思い出なつかしい昔
あの日が何時迄も 忘られましょうか
悲しみの涙を じっとこらえましょう
たとえ別れても 別れても
2 楽しかったあの日は 遠い夢に消え
冬の夜は 思いに寒々と
片隅にさびしく あの人のギター
きれた糸のあとも そのまゝに
忘られぬ思い出 なつかしい昔
あの日がいつ迄も 忘られましょうか
思い出のあのうた そっと歌いましょう
たとえ別れても 別れても
○2 青い山脈 藤山一郎・奈良光枝 昭和24年
1 若くあかるい歌声に
雪崩(なだれ)は消える 花も咲く
青い山脈 雪割桜(ゆきわりざくら)
空のはて 今日もわれらの夢を呼ぶ
2 古い上衣(うわぎ)よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの 旅の乙女に鳥も啼く
3 雨にぬれてる焼けあとの
名も無い花もふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺の
なつかしさ 見れば涙がまたにじむ
4 父も夢見た 母も見た
旅路のはての その涯の
青い山脈 みどりの谷へ
旅をゆく 若いわれらに鐘が鳴る
○3 長崎の鐘 藤山一郎・奈良光枝 昭和23年
1 こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
2 召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
3 つぶやく雨のミサの音
たたえる風の神の歌
耀く胸の十字架に
ほほえむ海の雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
4 こころの罪をうちあけて
更け行く夜の月すみぬ
貧しき家の柱にも
気高く白きマリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
○4 悲しき口笛 美空ひばり 昭和24年
1 丘のホテルの 赤い灯(ひ)も
胸のあかりも 消えるころ
みなと小雨が 降るように
ふしも悲しい 口笛が
恋の街角 路地の細道
ながれ行く
2 いつかまた逢う 指切りで
笑いながらに 別れたが
白い小指の いとしさが
忘れられない さびしさを
歌に歌って 祈るこころの
いじらしさ
3 夜のグラスの 酒よりも
もゆる紅色 色さえた
恋の花ゆえ 口づけて
君に捧げた 薔薇の花
ドラの響きに ゆれて悲しや
夢と散る
○5 買物ブギ 笠置シヅ子 昭和25年
今日は朝から私のお家はてんやわんやの大さわぎ
盆と正月一緒に来たよなてんてこ舞いの忙しさ
何が何だかさっぱりわからず
どれがどれやらさっぱりわからず
何もきかずにとんでは来たけど
何を買うやら何処で買うやら
それがゴッチャになりまして
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
たまの日曜サンデーと云うのに
何が因果と云うものか
こんなに沢山買物頼まれ
ひとのめいわく考えず
あるもの無いもの手当り次第に
ひとの気持も知らないで
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
何はともあれ買物はじめに魚屋さんへととびこんだ
鯛に平目にかつおにまぐろにブリにサバ
魚は取立とび切り上等買いなはれ
オッサン買うのと違います
刺身にしたならおいしかろうと思うだけ
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
鳥貝 赤貝 たこにいか
海老に穴子にキスにシャコ
ワサビをきかせてお寿司にしたなら
なんぼかおいしかろ
なんぼかおいしかろ
お客さんあんたは一体何買いまんねん
そうそうわたしの買物は
魚は魚でもオッサン鮭の缶詰おまへんか
わてほんまによう云わんわアホカイナ
丁度隣は八百屋さん
人参 大根にごぼうに蓮根
ポパイのお好きなほうれん草
トマトにキャベツに白菜に
胡瓜に白瓜ぼけなす南瓜に
東京ネギネギ ブギウギ
ボタンとリボンとポンカンと
マッチにサイダーにタバコに仁丹
ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ ヤヤコシ
アアヤヤコシ
チョットオッサン今日は
チョットオッサンこれなんぼ
オッサンいますかこれなんぼ
オッサン オッサンこれなんぼ
オッサンなんぼでなんぼがオッサン
オッサン オッサン オッサン オッサン
オッサン オッサン オッサン オッサン
オッサン オッサン オッサン オッサン
わしゃ つんぼで聞こえまへん
わてほんまによう云わんわ
わてほんまによう云わんわ
ああしんど
○6 田舎のバス 中村メイコ 昭和29年
1 田舎のバスは おんぼろ車
タイヤはつぎだらけ 窓はしまらない
それでもお客さん ガマンをしてるよ
それは私が美人だから
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
(台詞)
皆様毎御ご乗車下さいまして
有難うございます 早速で恐れ入りますが
只今御乗車の方は乗車券のお切らせを
願います・・・
アンレ、マしょうがネー牛だナー
アーンナ道の真中で草喰いよってサ
こ、これじゃ バスが通らねえでネーかよう
チョ、チョッと待ってなヨ
おらが今おりてチョッくらどかしてくっから!
ヨーシヨーシ(モーウー)
土堤の上で草喰やエーダーそんなところで寝そべったら
バスが通らねえでネーかヨー
ホーラどけってばー
どっこいしょっと(モーウー)
嫌ーって言ったってしょうがねえでネーかホラ
どいてくれって どっこいしょっと(モーウー)
この辺でえーかネ運転手さんヨホントにマ世話の
やける牛おら汗かいちまった
皆様お待たせ致しました
ハイ後車オーライ発車オーライ
2 田舎のバスは 牛がじゃまっけ
どかさにゃ通れない 細い道
いそぎのお客さん ブーブー言ってるが
それは私のせいじゃない
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
3 田舎のバスは 便利なバスよ
どこでも乗せる どこでもおろす
たのまれものも とどけるものも
みんな私がしてあげる
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
(台詞)
皆様右に見えますのが鎮守の森
やがて左に見えてまいりますのが歴史に名高い
雷山雷山でございます
車は只今県境の境川を通過中でございます
(パン、シュッ)
皆様只今車の故障でございます
なおりますまでどなたさまも御迷惑さまながら
暫くお待ちを願います
困ったネエ 今日あたりパーンとくるんじゃないかと
思った おら
アンレ、マこのタイヤつぎの方が多いでないか
しょうがねえナ オンボロで急ぎの客はあるしヨー
ア、ソンダ アハハ
おらええこと考えついただ おらにまかしときなナ
皆様お待たせ致しました
ハイ後車出ます ハイオーライです
発車オーライ (ヒヒヒーン)
4 田舎のバスは のんきなバスよ
タイヤはパンク エンジン動かない
そのときゃ馬に ひかせて走ろ
それは私のアイデアよ
田舎のバスは おんぼろ車
デコボコ道を ガタゴト走る
○7 ガード下の靴磨き 宮城まり子 昭和30年
1 紅い夕日が ガードを染めて
ビルの向こうに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
おいら貧しい 靴みがき
ああ 夜になっても 帰れない
(セリフ)
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」
2 墨に汚れた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ 夢のない身が 辛いのさ
3 誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘(こ)が 泣いてゆく
可哀想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを 向くんだろ
○8 スイスの娘 ウイリー沖山 昭和30年
○9 峠の我が家 ウイリー沖山 昭和30年 ※歌詞は英語
1 空は青く 緑の野辺(のべ)
なつかしの わが窓
悲しみも 憂(うれ)いもなき
ほほえみの わが家
おお ふるさと
耳になれし ことば
むれ遊ぶ ひつじのむれ
晴れわたる この空
花のかおり 流れにそい
はなしろき みず鳥(どり)
夢のごと 静かにまた
さわやけく ましろに
おお ふるさと
耳になれし ことば
むれ遊ぶ ひつじのむれ
晴れわたる この空
空はすみて さやかに吹く
そよ風の かぐわし
なつかしき 峠の家
またとなき ふるさと
おお ふるさと
耳になれし ことば
むれ遊ぶ ひつじのむれ
晴れわたる この空
●7 銀座の雀 森繫久彌 昭和30年
たとえどんな人間だって 心の故郷があるのさ
俺にはそれが この街なのさ
春になったら 細い柳の葉が出る
夏には雀がその枝で啼く
雀だって唄うのさ
悲しい都会の塵の中で
調子っぱずれの唄だけど
雀の唄は おいらの唄さ
銀座の夜 銀座の朝
真夜中だって知っている
隅から隅まで知っている
おいらは銀座の雀なのさ
夏になったら啼きながら
忘れものでもしたように
銀座八丁とびまわる
それでおいらは うれしいのさ
すてばちになるには 余りにもあかるすぎる
この街の夜も この街の朝にも
赤いネオンの灯さえ
明日の望みに またたくのさ
昨日別れて 今日は今日なのさ
惚れて好かれて さようなら
後にゃなんにも残らない
春から夏 夏から秋
木枯しだって知っている
みぞれの辛さも 知っている
おいらは銀座の雀なのさ
赤いネオンによいながら
明日の望みは風まかせ
今日の生命に生きるのさ
それでおいらは うれしいのさ
●9 あいつ 旗照夫 昭和33年
1 ゆうべあいつに 聞いたけど
あれから君は 独りきり
悪かったのは 僕だけど
君のためだと あきらめた
だからあいつに 言ったんだ
もしも今でも 僕だけを
想ってくれて いるならば
僕に知らせて ほしいんだ
2 どんなに君に 逢いたくて
眠れぬ夜も 幾たびか
逢いに行けない 今の僕
思い浮かべる 君の顔
あいつもゆうべ 言っていた
悪かったのは お前だと
あいつに言って もらいたい
僕を許すと それだけを
それだけを
2022年3月10日 発行 初版
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