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この本はタチヨミ版です。
庶民的な家が建ち並ぶ中、一際異彩を放つ大きな屋敷があった。地元でも有数の名家。だが、その評判はいいものではなかった。毎日のように男の怒鳴る声と何かが割れる音が響き、その後には必ず女の悲鳴や泣き声が聞こえてくる。ただ、今となっては誰も気にしない。これが日常なのだ。たまに遠方からやってきた人間が「警察を呼ばないと!」と騒ぎ出すことがあったが、警察もろくに対応しない。「この家とは関わらないほうがいい」と警察が諭す始末だった。
その屋敷の当主は、容姿に恵まれていた。もともと金も権力もある名家。そこに容姿に恵まれた長男が生まれたらどうなるか。容易に想像がつくだろう。蝶よ花よと育てられ、誰かに叱られることも怒られることもない。問題を起こせば、周りの大人たちが勝手に金と権力で解決する。その結果、顔がハンサムなだけの性格破綻者ができあがった。不幸なことに、容姿が良いというだけで女には困らなかったし、金と権力があればたいていのことはどうにでもなった。それが今の当主であり、真矢の父親でもあった。
真矢はそんな父親が大嫌いだった。血のつながった実父であることすらおぞましい。ただ、逆らえばもっと恐ろしいことになる。だからこそ、耐え続けていた。家にいるときの唯一の楽しみは食事の時間だったが、誰かに何かを吹き込まれたらしい父親が「食事は家族全員でともにすべきだ」と言い出し、その唯一の楽しみも奪われてしまった。それからと言うもの、食事の時間は真矢にとって苦痛でしかなかった。
「真矢、今日の飯はまずいか?」
「いえ、おいしいです。お父様」
「なら、もっとうまそうに食え」
「はい、すみません……」
「……」
「……」
しばらくの沈黙の後、じわじわと当主の表情は不満げに歪んでいった。その場の空気がひりつき、誰も当主のほうを向くことができない。静かに、それでも確実に早く食事を済ませてしまおうとその場にいる全員が黙々と箸を口に運ぶ。張りつめた空気の中で、突然ガチャンと大きな音が響いた。全員が当主のほうを振り向くのと同時に、当主は膳をひっくり返した。
「お、お父様……」
「うまそうに食えと言っただろう! なんだその顔は! 俺と飯を食うのがそんなに嫌か!」
「そ、そんな……」
「あなた、真矢は今日体調が悪いんです! ね、そうよね? 真矢」
「うるさい! どいつもこいつも!」
荒れ狂った当主は立ち上がり、今しがた自身がひっくり返した膳を見やるとそれを我が子に向けて蹴りつけた。蹴られた膳は空中でくるくると回転し、ちょうどその角が真矢のこめかみに当たった。傷口から流れる血が真矢の服に染みていく。我が子の、それも年頃の娘の顔に傷がつき、流血しているというのに当主は気にする様子もない。母親が慌てて真矢に駆け寄り、血を拭う。
「ああ、大丈夫よ。傷は大したことはないわ。頭の傷はね、大袈裟なくらい血が流れるものなのよ。でもすぐにお医者さんに診てもらいましょう」
「はい……」
当主はその一連のやり取りすらも気に入らなかったのか、今度は娘に駆け寄った自分の妻の髪をむんずとつかみ、畳の上を引きずった。抜け落ちた髪が畳の上に散らばり、目の前では自分の母親が苦悶の表情で涙を流している。地獄絵図……いや、目の前に広がっているこれこそが地獄そのものなのだろうと真矢は思っていた。まさにその地獄の中に自分自身もいるというのに、どこか他人事のような感覚だった。
暴れ回ってすっきりしたのか、当主は悪びれる様子もなく「ちょっと出てくる」とふらっと出ていった。当主が玄関を出たらしい音を確認してから、女中たちは慌てて真矢と母親のもとへと駆け寄った。てきぱきと畳の上を片付け、真矢と母親を別室に連れて行き、すぐに医者を手配した。幸いなことに、真矢も母親も体に負った傷は大したものではなかった。
「お母様……大丈夫?」
「ええ、私は大丈夫よ。真矢のほうが……その……顔に傷が……」
「大丈夫よ。こめかみだもの。仮に傷が残っても髪できっと隠れるわ」
「そう……ごめんなさいね。本当にごめんなさい……」
こんな家に生んでごめんなさいという意味なのか、それとも何もできない母親でごめんなさいという意味なのか。どちらにしても、今の真矢はその謝罪にどう答えればいいのかわからなかった。母親が悪いわけではないのはわかっている。母親を含めて、今この家にはあの傍若無人の当主をどうこうできる人間はいないのだ。だが、あの許しがたい所業にただ耐え続ける母親に何も思わないわけでもなかった。
真矢の両親は、いわゆる政略結婚だった。両家は祖父母、曾祖父母の代からの商売仲間だったが、母方の家に裏切者がいて商売敵に情報を流していたという噂が立ち、母方の家は一気に傾いた。そこで若い頃から美人で評判だった真矢の母親をこの家に嫁がせることを条件に援助を受け、母方の家は持ち直したのだった。人身御供にされたのだ。
ただ、これは最初からすべてが仕組まれていたことだった。そもそも母方の家には商売敵に情報を流すような裏切者はいなかった。その噂を流したのは父方の家の人間だったのだ。たかが噂、されど噂。母方の家は作られた噂で傾き、母親は「お家のためだ」と当時愛を誓い合った恋人に別れを告げ、この家に嫁いだのだ。
仕組まれた理由はたったひとつ。この家の当主が「あの女を嫁にしたい」と言ったから。ただそれだけだった。夫婦になり、初夜を迎えたときにすべてが仕組まれたことだったと嬉々として明かされ、その日からすべてを諦めて生きてきた。そんな中で生まれてきた真矢は心のよりどころであり、希望でもあった。
この家に嫁ぐまでのことを直接真矢に話すことはなかったものの、だいたいの経緯は真矢の耳にも入ってくる。だからこそ「こんな家に嫁いでしまった以上、どうしようもない」「でも、私を連れて逃げ出してもよかったのでは」「逃げ出したのでは母方の家が……」と出口のない問答を頭の中で繰り返してしまうのだった。
翌朝、父親のわめきたてる声で目が覚めた。物音を立てずに声のするほうへと向かっていくと、部屋には正座をさせられている母親とその母親を見下ろしながら怒鳴り散らしている父親がいた。
「お前は本当に陰気な女だな! 陰気な女が生んだ子どもだからあいつも陰気なんだ! どうせ俺の悪口でも吹き込んでるんだろう!」
「そんなことは……」
「俺に口答えするな!」
パァンと平手打ちの音が響いた。よろめいた母親が座り直すと、頬が真っ赤になっていた。その後も父親は聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせながら、近くのものに当たり散らし、その場で地団太を踏んでいた。母親は途中で真矢が隙間から覗いているのに気づいた様子だったが、視線を落とし、真矢のほうは見ないようにしていた。真矢がいることに気づけば、この男は何をするだろうか。矛先が真矢に向かないように、必死だったのだ。
そんな親心に気づいたのか、それともたまたまなのか真矢はその場を静かに離れた。自室に戻る途中、気まずそうにしている女中が目に入ると「あんな男が当主だなんてね」と自虐的に言った。女中に話しかけたのか、独り言だったのか、真矢自身にもよくわからなかった。女中も困った顔でぺこりと頭を下げるだけだった。
その日、真矢は体調が悪いと自室にこもった。途中で頬を腫らした母親が様子を見に来たが、本当に体調が悪いわけではないということがわかるとほっとした様子で「ゆっくり休みなさい」とだけ言った。自室にこもっていても、当主が暴れ回っている声と音だけは嫌というほどに響いてきた。不快ではあったものの顔を見なくて済む分、気は楽だった。
今のうちに……と、真矢は大きな鞄を出してきて、その口を目一杯広げた。その中に着替えや財布など必要だと思うものをどんどん詰め込んでいく。どこか住み込みで働けるところを探そう。うまくいかなかった場合にはどこかに泊って、最悪の場合には野宿。もうこの家を出るしかない。あんな男がいる家で耐え続けるのは絶対に嫌だ。
その日の深夜、まず真矢はロープに括り付けた鞄だけを窓からゆっくりとおろしていった。鞄が地面についたのを確認して、ロープを切る。机に向かうと、母親に向けて「ごめんなさい」と一言だけの書置きを残した。あとは裏口から抜け出すだけ。途中で誰かに見つかっても、お手洗いと言えば怪しまれない。足音を立てないように慎重に裏口まで移動し、音を立てないように裏口の戸を開閉する。裏口から出たらすぐ横にさっき窓からおろした荷物がある。それを抱えて、音を立てないように家を出た。敷地から完全に出てから、真矢は全速力で駆け出したのだった。
突発的な家出ではあったものの、真矢は運よく住み込みで働ける割烹を見つけることができた。割烹の女将も若い頃は苦労したらしく、真矢の様子で訳ありだと察し、「仕事さえ真面目にやってくれればいい」と深くは追求してこなかった。おそらく「文子」という名が偽名であることにも気づいていたはずだ。
最初のうちは、やはり仕事は大変だった。ただ、真矢はもともと食べるのが好きで、人が楽しそうに食事をしているその姿を見るのも好きだった。そんな真矢にとって割烹での仕事というのはこれ以上ないほどにやりがいがあった。それから少し時間が経ち、昭和十八年。戦争の真っ只中の夏、その頃には真矢はすっかり慣れた様子で働いていた。ただ、その日はなぜか女将が落ち着かない様子だった。
「女将さん、どうしたんです?」
「ああ、文子ちゃんは初めてかしらね。今日はね、政治家の先生方が来るのよ」
「政治家、ですか?」
「そう。偉い政治家の先生方が来てね、密談するのよ。密談」
「密談……」
「もちろん、うちはただ場所をお貸しして、お食事を出すだけなんだけどね。こんなご時世だからやっぱり緊張しちゃうのよ」
その日の夜、ひとりの政治家が割烹にやってきて奥の部屋に通された。そこからそう時間を置かず、別の政治家が若い秘書を連れてやってきた。政治家は同じく部屋に入っていったが、秘書は控えの間に通された。
「文子ちゃん、秘書さんのほうにお茶をお願いね」
「はい、わかりました」
割烹の仕事に慣れている真矢ではあったが、正直なところ、不安があった。政治家の密談というだけでも構えてしまうのに、その政治家の秘書にお茶を運ぶなんて……。そもそも政治家にも政治家の秘書にも良い印象はない。秘書なんてプライドだけ高くて神経質そうな奴に決まっている。
覚悟を決めたように大きく息を吐くと、真矢はその秘書のもとへとお茶を運んだ。ただ、そこにいたのは政治家の秘書からイメージされる人物像とはまったく真逆の気弱そうな、穏やかそうな青年だった。真矢が呆気にとられていると、その青年は不思議そうに真矢のほうを見た。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ……失礼しました」
真矢がお茶を置くと、「ありがとうございます」と本当にありがたそうにお茶を飲んだ。あまりにも秘書らしくないその青年を見て、今度は部屋を間違えたのではないかという不安が出てきた。
「あの……失礼ですが、秘書の方ですか……?」
「ええ、ええ。そうですよ」
「ああ、よかった」
「よかった、というのは?」
「いえ、私、部屋を間違えてないか不安になったもので……その、こういう政治家の先生方が来るのを間近で見るのは初めてなんです」
「そうなんですか。まぁ、僕は本当に付き添いのおまけみたいなものですよ」
「まぁ、でも将来はやっぱり政治家になられるんでしょう?」
「なれればいいんですが……それでなくとも、僕は今ですら秘書らしくないと言われるので」
「あー、えーっと……」
「あはは、大丈夫ですよ。お姉さん、嘘がつけないタイプですね。部屋を間違えてないか不安になったのも、僕が秘書らしくないからでしょう?」
「……そうなんです。でも、次からは大丈夫ですよ!」
「あはは、そうですね。きっとまた次も来ると思うので、そのときは不安にならないでくださいね」
ただお茶を運ぶだけだったのに、思っていた以上に長居してしまった。ちょうど会話が途切れたタイミングで真矢は頭を下げ、控えの間から厨房のほうへと戻っていった。厨房に戻ると、女将が慌てて真矢のところに駆け寄ってきた。
「文子ちゃん、大丈夫!?」
「えっ、何がですか?」
「だって、秘書さんのほうにお茶をお願いしてから戻ってこないんだもの! 何かあった?」
「いえいえ、本当に何も。ちょっとお話したら、盛り上がってしまって」
「あら、まぁ、そう……ふふふ、そうなのね。文子ちゃんったら隅に置けないわね」
「あ、違いますよ! そういうのじゃないですから」
「はいはい! さぁ、今日はまだまだ働いてもらいますよ」
「もう、女将さんったら……」
しばらくして、また政治家の密談とやらであの秘書の青年が控えの間に通された。「秘書さんのところにお茶を運ぶのは文子ちゃんの仕事だからね!」と他の従業員にも言い含めていたため、真矢が前と同じようにお茶を運んだ。戸を開けると、お互いに意味ありげな笑みを浮かべる。
「ふふふ、今日は不安になりませんでしたよ」
「それはよかった」
真矢がお茶を置くと、秘書の青年は以前と同じように「ありがとうございます」と本当にありがたそうにお茶を飲んだ。まるで一番風呂にでも入ったかのように「はぁ~」と大きな息を吐くその姿に、真矢は思わず笑ってしまった。
「はぁ、おいしい。この前のお茶もおいしかったけど、これはお姉さんが?」
「ふふふ、そうですよ」
「お茶を淹れるのがお上手なんですね」
「あら、ありがとうございます」
「そうそう、次に来たら聞こうと思ってたんですけど……」
「何をです?」
「その……お姉さんのお名前を」
「えっ、えーっと……文子です」
「文子さんですか。僕は沢田達二といいます。改めまして、よろしくお願いします」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」
偽名を教えてしまったことにはやはり罪悪感があったものの、お互いに名前で呼べる関係性というのはとても嬉しいものだった。それからも達二は政治家に連れられては、控えの前に通されていた。気づけば、真矢も達二がやってくるのを楽しみに待つようになっていた。
「どうも沢田さん。今日も素敵ですね」
「どうも文子さん。文子さんも素敵ですよ」
「今日はどんな話をしてくれるんです?」
「そうですねぇ……」
政治家の秘書という仕事の厳しさ、やりがい、失敗談……達二はいろいろな話を真矢に聞かせた。話を聞くたびに、真矢は達二というひとりの人間の魅力に気づかされた。達二のことを「沢田さん」と呼んでいた真矢が「達二さん」と呼ぶようになるのに、そう時間はかからなかった。
ただ、あるときから達二たちがあまり顔を出さなくなった。真矢は相変わらずよく働いていたが、女将は「政治家の先生方はいろいろあるのよ」とそれとなく真矢を励ました。大失恋をしたようなショックを受けているわけではないものの、やはり寂しい気持ちはあった。だが、同時に真矢の中にこれ以上を求めなくても済むという、どこかほっとしている自分もいた。
達二のことを知れば知るほど心惹かれていくのに、真矢自身は「文子」という偽名しか教えていない。今以上の関係になってしまえば、いつかは本当のことを打ち明けなければいけない。受け入れてもらえればいい。でも、もし受け入れてもらえなかったら……? きっと立ち直れない。期待して突き落とされるくらいなら、最初からどん底でじっとしていたほうがいい。
それから数か月ほど経って、久々に政治家に連れられて達二がやってきた。ただ、政治家も達二もその表情には陰りが見えた。「お久しぶりですね」と努めて明るく振る舞ったが、達二の反応は芳しくなかった。いつもは味わって飲むお茶も、無理に体の奥へと流し込むように飲んでいた。
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年3月21日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス