spine
jacket

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神田駿河台

藤原洋

モリタ出版



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駿河台の朝は、隅田川方向から日が昇った。家の下は本郷通りが 小川町に向かっていた。小川町
方向を見ると、都電が行き交っている。駿河台も3丁目になると、淡路町が近くなった。
学校に行く時間だ。小川小学校は数分だった。狭い校舎で、校庭は夏はプールが出現した。
小学校は3校目だった。小生は6年生で転入してきた。地元の友人もいろいろ 話や相談に 乗ってくれた。
その 1
学校行事では 運動会や遠足が懐かしい。
狭い校舎だったが、都会では土地が無くて仕方ないのだろう。屋上も休憩時間に利用できるのだっ
た。屋上で徒競走の選手選びの、予選をやった。皆は手を抜いた感じが少しあった。身長順に1名ではなく、複数選んだような気がする。選ばれてしまった。運動会当日、大変だった。それは1年生から順に走ってくるのだが、6年生のプレッシャーは 凄かった。責任がずっしり来る。最終責任である。1年生がスタートした。歓声が沸き起こる。
6年生のプレッシャーは凄かった。責任がずっしり来る。最終責任である。
自然にベストで行こう。それしかない。そんな感じだった。
ところが、偶然妙な事が起きた。3年生くらいか相手の赤チームが転んでしまった。
追い上げは凄かった。それに負けられない気持ちも、否が応でも強くなっていった。
兎も角、勝つかもしれないが、何が起きるか分からない。リードしたまま白組は勝利した。
勝ってよかった。父兄も来ていた。母親が喜んで呉れた。


その2 


学校行事は 遠足も有った。
しかし、休日の神田駿河台をお話します。
駿河台から日本橋三越へタクシーで出かけた。
或る時、三越デパート屋上に力道山が来た。力動は空手チョップの誕生の話をした。
リングの上で、シャープ兄弟と闘っている時の事、相手のパンチを目に受け、目が飛び出たそうだ。しかし、外の景色は見えるのだそうだ。まごまごしていると、視神経がきれてしまう。
慌てて、飛び出た目を、片手で押さえた。残った手で、切るように振って、刀が刺さるように
相手に打ち込んだ。手は相手の体に叩きつけられる。空手チョップが生まれた一瞬であった。
力道山はこう締めくくった。
「皆さんは空手チョップは、華々しいデビューをしたと、思われるでしょうが、実際は
大変だったのです。」


その3

神田ニコライ堂
鐘の音について、夕方5時頃になると カーン カーン と鳴り始めます。
最初は カーン カーン 最後は チーン カーン ゴーン ・・・・
それはそれは 凄い音です。
「長崎の鐘」と共に 歌になっています。
今は難しい時代になってますが 早く平和を 取り戻して欲しい。
 

その4


優美堂
神田小川町1の4の2
03-3291-8341
額縁専門店を リノベーションした。
ニクイホド ヤサシイ・・・と キャッチフレーズ
ここは 友人の自宅 画商店だった。
足を延ばして 見てほしい。


その5

漱石と錦華小学校

今は お茶の水小学校になっている。
漱石の 錦華小 小川小学校 西神田小学校
3校で出来た。漱石の 歩いたと思われる場所は
とても 興味深い。


その6

漱石の歩いたと思われる 神田
その神田は 昔からの雰囲気を 上手く残している 感じがする。
それは 漱石の明治の時代の話が 小説を 通して 昭和の現代の話である。
そう思えるような 錯覚に陥るのである。


その7


漱石が藤村の「破戒」を 絶賛した。
それには とても感動した。
当時田舎に帰って教師になろう
と考えていた時期だったせいもある。
「吾輩は猫である」
と 時期が重なりそうだ とても興味深い。


その8


漱石とクラシック音楽
瀧井敬子 文芸春秋特別編 平成16年12月15日
から ワグナーの タンホイザーに興味を 持ったようである
小説「野分」に 出ているようだ 読み直してみたいものだ。


その9


漱石は 晩年 朝日新聞に入った
ロンドンからの資料も ゆっくり 読めたかも知れない
明治40年暮れに入社した.
次々と 作品が出来た。
「虞美人草」「三四郎」「満漢ところどころ」「門」「彼岸過ぎまで」
「行人」「道草」
等々である。



その 10

漱石が神田やぶ を 好んでいた。
この話は 早く知った方が 面白かったのでしょう。
後に 周恩来や 魯迅の 話しが 出来ると思いますが
「ウーン そうか。」
と感じますし、人に伝えたくなるものでございます。
やぶ から どこに食を 求めたか 追跡も面白そうです。
日比谷公園の レストランは 話しが出ていたと思います。
神田やぶ の界隈は 夕食の食材の 買い物によく行きました。
今でも 揚げ物の匂いは 覚えています。東京では 匂いも売りの 一つ
だったのかもしれません。




その11

神田そして千代田区の雰囲気を

千代田区歌
32年3月15日
作詞 佐藤春夫
作曲 山田耕筰

1 並ぶ官庁 広場 濠
帝(みかど)の宮居とりめぐり 
わが千代田区に誉あり
大東京の中心地
江戸の名城も風情にて
ここを都の都ぞと 
澄めり 千代田の城の月

2 オフイスセンター テレビ塔
世界の文化 ひしめきて
わが千代田区に誉あり
新日本の心臓部
国の要(かなめ)と他(ひと)も見ぬ
ここを都の都ぞと
住めり千代田の区民われ

1番はすっかり 忘れています
2番が 頭に何時も有ります
山田耕筰は 改めて 嬉しい気がしますね
テレビ塔など 有楽町方面が メインの感じ 神田はやや東北 はずれでしょうか

その12

同心円
日本全国どこでもそうだろうが 夕刻になると 自宅へ帰りたく
なるだろう。
神田もそうだった。この街は山の手線の外に行くと いよいよ帰りたくなる。
時には 西の三田あたり まで帰って来ると 早く帰りたい。
バス等 帰り道 引き返す時は とても嬉しかった。

その13

花火は両国の空が 見えた。さくらは上野。映画は澁谷ではチャンバラだった、のに対して
神田では文部省推薦作品とか、「砂漠は生きている」「白い山脈」など、ほかに「黄色いからす」「日露大戦争」そして「赤穂浪士」は 毎年上映していた。
映画館は 小川町の交差点辺りに 数軒あった。洋物は あまり目がいかなかったかもしれない。。


その14

昭和30年頃 東京で1日ゆっくり 過せるのは
デパートと羽田空港だった。
その後船の科学館が 加わる。
喫茶店には よく入る。「冷コ」が アイスコーヒーである。
その後の事だが いっそ高いコーヒーを 飲もうと考えた。
そこで帝国ホテルに入ってみた。
一杯 千円だった。今は もっといいのが有るのだろう。


その15

九段坂は 中学の体育の授業で 通過した
九段会館から 出発し 田安門から入り 竹橋に出た。
順位は 中間だった。
考えると 練習場所が 都心はなく かと言って家で トレーニングもしない
なので 順位は 上がらなかったのだろう。
要は心がけの 問題だろう。と言うのは 高校では練習の甲斐があって 上位入賞
していた。

 その16

雅楽
皇居の北の丸公園方向に 雅楽の舞台があった。
千代田区としては 粋な計らいをしてくれた。
それは中学の卒業に併せて 舞台を観劇させた。
千代田区内の中学 全校だった。
順番に 観劇したのだった。他校との遭遇は生徒同士いい思い出
そして、励みになった。学業の成績比較だけでない、大事な経験であった。



その17

チンチロリンのカックン
この頃 流行っていた。カックンに意味が有った。
カックンは残念 あるいは どうしようもない のような表現だった。
悪戯は アシを後ろから近づいて ツンと 突いた。それは 膝関節の裏側で
知らずに 急に押されると 足が関節で曲がり 体が 斜めに崩れる。
どうかするとバランスを失って倒れ気味になるのだった。
フイを打たれているので 悔しさも有り やられたら 犯人を追いかけたものだ。
校庭を相手は 逃げ回っていた。


その18

千代田区中学大運動会


千代田区の中学は5校
陸上競技の対抗戦をやった。
エールの交換があった。
各校とも 順番にやって行った。
とっても強い思い出は 錬成中学の応援だった。
旗は紫色である。
グラウンドに靡いた。そして「レイセー」
競争相手だったが、素晴らしい応援、思い出になっている。
セーと 伸びる応援歌が大学 関西に有るが 同じように
 響きが 似ていて 素晴らしい。
中学は 麹町 九段 一ツ橋 今川 錬成 だった。

その19

生徒は 勉強のできる子は もてるのだった。
中学は さらに 進学校の H高校へ 進んだ。
小川小からも 凄い生徒を 生んでいた。
友人の兄は H高校で 男子で トップ
姉は 女子で トップだった。
弟も 小学校時代は 目立たないようだったが
大学は 私立の名門に 進めたようだった。
近県からの 生徒も受け入れていたので 地元としては
このような 素晴らしい生徒を 生んでいたのだろう。

その20

アジア大会
オリンピックは なかなか来なかった。
昭和39年だからそうだろう。30年代最初は日本選手権とかアジア大会に目が行っていた。
住まいの斜め前は、旅館だった。家の隣も旅館だった。隣の話は後に・・
斜め前の方は、アジア大会の時選手を受け入れたのだろうか、万国旗の小旗
を 棚引かせていた。盛り上がりとしても、後のオリンピックの比では無かった。
しかしこの頃から、選手は徐々に腕を上げていた。旅館は2階やで、料亭を思わせる佇まいだった。


その21

ヘーシンク
アントンヘーシンク
アジア大会の有った頃、ヘーシンクは講道館柔道で3位くらいをいつもキープしていた。
体は細く、よく頑張るなと だけ思っていた。ところが大変なことが起きた。
武道館もできて、日本の柔道は世界にアピールできる絶好の機会を迎えた。
そして無差別の柔道決勝、何と出てきたのはあのヘーシンクではないか。
不味いとおもった。それは 痩せた万年3位のヘーシンクを知っている人なら
誰しも思うだろう。凄い努力を重ねていたのだ。体格もいい、もう別人だった。
試合が始まるまえから、開いた口はふさがることはなかった。
ヘーシンクの前に、過去の1位2位の選手はいなかった。
優勝を祝って差し上げるのが ルールだし心から の祝福が必要だろう。

その22

漱石の最期

臨終に際し、漱石は甘いものを所望したのだろう

のあと、境子夫人が 掛けつけて来て 駄菓子だろうか おせんべいか
床近くに 甘いものが有ったようで 側近に激しいお叱りが 有ったようだ。
お付きの者も困惑したろう。漱石の命に従っただけなのだろうから。

或るスター 高倉健さんにもある
健さんの インタビューに後輩の高校生が 訪問した。
健さんが聞く、君は 僕の作品を読んだり見たり したことが有るか。
「・・・・」
無いようだった。
作品も見ないで 質問できるか と言ったようだ。
この2つの話は 貴重な経験であると 考えるのが ベストのようだ。

 その23

都民の日
10月1日は 都民の日だった。
都電 都バス 博物館 等々 無料であった。
秋の1日 学校も休み だったと思う。
無料でも 敢て 行ってみることは 殆ど無かった。
ただ 秋の一日 ロマンを感じていたと思う。
何しろ ある意味で 早く20才に なりたいと 思った時も有ったので
ゆっくりした 一日は 現在の感覚と 違っていたのだろう。
現在のような イベントなどは その後発展したのだろう。

その24

数学の先生
S先生 中学 大変お世話になったし
素晴らしい先生だった。2年3年 クラス替えが あったが
持ち上がりしてくれたようだ。
数学は 好きだったし 先生の思いでは 今でも生きている。
有る時 先生は本を出されている ベテランではないか と感じた。
やはり 思いは当たった。今購入の 本は 目の前に並んでいて いつでも数学の
授業が 始められる環境になっている。

その25

剣道の稽古

中学でクラブ活動に入った。
ある時 練習で 相手が 突進してきた 逃げる余裕は無かった 上段の構えでやって来た
仕方なく 竹刀を防御に構えた 相手は 喉辺りで グっと 留められた
突進は止まり 相手は 参った。先生は 訴えて来た 参ったの相手には 正当防衛と
言っていた。家に帰る途中で 母親が 通りにでて 迎えていた。それは 運動の過激な
ものを 避けるよう医師から言われていた可能性が有った。何故か 子供の時の 怪我を
考えて 言われた様だった。小生には 内緒にしていたようだった。

その26

スモッグ

後の光化学スモッグだろう。
30年代に入った頃 スモッグは酷かった。
校庭で 休憩したり 運動している時 顔やのどに 良くないのではないかと
感じた。でも それが 自然で 誰も いやだが 文句を言う感じではなかった。

伸び行く 戦後の元気で 仕方無いと 感じていたのだろうか。


その27


神田一ツ橋中学校校歌
作詞 本校国語科
作曲 国枝重寿

千代田の杜の 緑濃く
学びの街に 生い立ち
まことの道を 求めつつ
集ひは固し 一ツ橋
理想の灯 はるかまたたき

つとむる心は 希望はあふる
朝夕を 師と共に
文の林を分け入りて
ああ向上の 径拓かん

文中 生い立ち この後 て が入っていたような
また 集い は 集ひ 地なっている辺り 古い 歌のなでしょう
朝夕は あした ゆうべを と 歌います。
向上は 判りますが 径を みちと 言うのも 古いものです。

その28

鉄腕アトム

当時アトムの連載があった。
手塚治虫の漫画である。
神田の書店でみた、シリーズ終わりの頃か アトラスと言う ロボットがいた。
アトムに敵対していたが、アトラスは 人を助けて死ぬ。
それは 火山が爆発して 火山岩の流れを変える必要が有った。
アトラスは アトムに頼んで 自分を自爆させてくれ という。
 そして、アトラスは死に 人々は 助けられた。


その29

三島の 金閣寺
映画 小説で 残念な話が 出て来ていた
特に 金閣寺が 消失するのを 見ると 辛かった。
再建したところで 元の物とは 違う。
それだけに 残念な事を するものと 強く感じた。
この頃 暗い話も いくつかあった
その一つだった。

その30

「氷壁」
井上靖
山岳ブームが 起きるころだった。
山岳小説独特の 雰囲気を持っていた。
詳しく知るのは 後になってであった。
ザイルを 切っていたような 話しだったと思う。
この後で 谷川岳等の ニュースが 有ったと思う。


その31

この頃 南極探検も 始まる頃だった。
オングル島 の名前は 日本の南極基地であったため よく覚えている。
当時 やや離れた場所の様だった。
しかし 上手に開拓されているようだ。
犬たちも大活躍した。
最初の頃、日本の砕氷船は 氷を砕く力が あまりなかった。
その為 氷に 閉じ込められることがあった。
動けなくなった 砕氷船を 助けてくれたのが ソ連の船オビ号だった。
今一度 世界平和を 迎え 健全な発展に して行きたいものである。
日本は どこか ロシア民謡 等 芸術で ロシアにいいイメージを 持っている。
そういう関係があった。
それは 行き過ぎるほどの 思いでもあった。
芸術家も 政治を超えて ロシアを 求めたことが有る。
日英同盟が 破られて ロシアに目が行った時期が 有るかも知れない。
世界大戦のあと ソ連に仲介を 依頼しようとした 時期があるだろう。
ロシアも 早く 戦をやめ 楽しい世界に 向かって行きたい。



その32

マナスル

この頃 登頂成功した。
今 詳しく見ると 戦後日本は 開拓に 待ったがかかった時が有った様だ。
華々しいエベレストなどが ある時期に、 じっとマナスルに成功する。
何か マナスルの経緯は あとで分かったことも有る。

戦争の 後遺症の為 日本は制限か 掛かったようだ。
それを 凌いで 成功したのは 少年にも嬉しかった。
記念切手は 嬉しいものだった。
切手の ブルーの 色合いが 眩しかった。
登山家 植村直己 そして 神田から 竹内洋岳 を 生んで行った。
竹内は 神田に 縁がある。
歴史として 続いてくのだろう。


その33

現在も

先の南極探検もマナスルも 共通することが有ります。
それは 現代の宇宙開発に繋がっているのです。
なにか、過去の経緯からか 開発の条件に差異が 生じているようです。
過去のものは いずれ考えるとして 現代が大事でしょう。
それは 開発研究の相手即ち エリアを決めているのですが
日本の場合 何故か 同じ条件でないようです。
例えば ある惑星なら 大国が 先ずエリアを担当決めを 先ず先にして
残りを 他国へ渡していないか。それで小惑星を 最大限活用して 研究成果を出して
日本はそれを 公表する・・それの連続の気がする。かぐや など そのようです。
大切なのは じっと我慢して 残り物でも最高の結果を出していく事でしょうか。
そして、体力 根気 経済(黒字赤字) を 確り立て直していき 幸福につなげたいですね。

その34

世界チャンピオン ルー・テーズ
 プロレスのチャンピオンでした
偉大な 選手の一人と言って 良いのでしょう
初めて テレビで見た時は 興奮しました
力道山と 対戦を しましたが 最初負けています
決して太っていませんし 体は鋼のようですが 嫌味のない選手です
勿論強いだけに 憧れや 嫉妬心や むしゃ くしゃ した気持ちも有りました
が やはり 貫禄があるのです
技は バックドロップ を 持っています。ヘッドロックした 相手を 逆に
後ろへ 山なりに落としてしまうのです。力動も 何回か 食らっています。
応援している 子供達も ヘッドロックした 力動に応援を送ります。
「危ないぞ、危ないぞ。」
そして やられるのです。すると 脳震盪でダウン。運命のカウント、アウト!
演技も有ったかも知れませんが とてもいい思い出でもあります。懐かしい❣
そして 力動 最後は ルー・テーズに 勝利 したのでした。

その35

ボクシング

プロレスと共に 歩む。
白井義男が昭和27年5月19日にマリノから 世界チャンピオンを奪取した。
この後ボクシングも グーとブームになっていく。
5月19日は ボクシングの日として 記念されている。
子供達も世界チャンピオンに目を向けられた 大事な時期でした。
テレビも28年2月1日に 放送開始し 戦後は 大きく変わっていく。
スポーツも もはや戦後ではないに 向かって行ったようだった。
しかし なのである。令和になって 何と70~80年以上前に 戻そうとするではないか。
プーチンも もうやめてもっと 賢い方へ 向かって行って欲しい。

その36

水泳の山中選手

戦後フジヤマのトビウオは 古橋だった。
そして山中が出て来た。
マレーローズとの闘いは 多いに国民を沸かせた。
それは、次の世代へ大きな バトンタッチだったろう。
勝負では 勝てなかったが 燃えに燃えたのである。
日本代表が どんなに 凄いかということである。
一般に トップ選手は 他の選手に比べると よく判るのである。
最近は アメリカ大リーグでも 活躍する選手が 現れ とても楽しみである。

その37


ガガーリン

ソビエトの宇宙飛行士
この頃 アメリカとソビエトは 宇宙開発で 鎬を削って来た。
そして 遂に ソ連は ガガーリンを宇宙に飛ばした。
アメリカも ショックだった。
「地球は青かった。」
ガガーリンは 言った。
その後 アメリカは 開発を急ぎ トップを取っていった。
問題は 宇宙ゴミ等 改善すべき事が多い。
再度 健全な 開発となるよう 世界は 望んでいるはずである。

その38

聖橋

湯島聖堂を意識した 命名ではないか。
反対の御茶ノ水橋より高さが高い。地下鉄が下を走り、JRと二重になっている。
神田川の鉄橋は 工事の時を覚えている。
お茶の水橋からは、絵になる風景である。
右手に行くと ニコライ堂になる。
この通リは 日曜日など静かなものだった。
お祭りの時 神輿が橋を 渡っていた。神田明神であるが 神輿は小川町には行かず
引き返していた。100人神輿は 見事だった。


その39

都電御茶ノ水駅

神田川北側の 路面に停車するのが 駅だった。
ここから秋葉原へは 下りになった。万世橋も近く、以前は交通博物館があった。
JRの 線路の下は 今はレトロの お店が有る様だ。
夕刻など ロマン的だろう。
下を流れる 神田川は この後しばらくして 歌になった。
ここを走る都電は 13番線で 新宿から秋葉原間を 走っていた。
お茶の水を離れて 新宿に行った時 13番線で 河和田町から 水道橋に出た。
水道橋乗り換えて 神保町に向かった。

その40

有楽町ホール

有楽町であいましょう。この歌のヒットする前だった。
有楽町ホールが出来た。その時 講演があった。小学生の小生は ホールに行った、仲間と。
山形出身の無着成恭さんが 講演した。
「今日の気温は 山形と東京が同じでした。」
それで山形と東京は 同じです。これを質問したようだった。
この様な内容だったと思う、答えはたまたま 同じである。
無着さんは 今 別府に居られるようだ。

 
その41

半蔵門

今改めて 地図を見ると 半蔵門は とても大事な 門のようだ。
新宿から ストレートに 向かってくる。防御はとても大事だろう。
そこを 任せて貰った 服部半蔵は 大変だが 自慢そのものだったろう。
最近 江戸城は 北側がメインではないかという。
嬉しい話で有る。昔の地図は 北側から見るようにできている。従って 防御もとても大事だったろう。今は二重橋を擁する 東京駅丸の内側が メイインである。
恐らく 江戸湾を開拓するたびに 丸の内側は どんどん 主役を取っていった。
それは 東京駅も一役 買ったのだろう。
この半蔵に 思いを致す時 とてもロマンがある。

その42

お茶の水 水が有る?

お茶の水に行く前に、きっと昔お茶になる 水が出たのだろう。と真剣に思っていた。
その思いは 実際に住んでも どこかにある筈だ、と 考えていた。
でなくても お茶を休んで 飲んだことは 有るだろう。
雰囲気は 充分ある。
実際 漱石が通った 今の御茶ノ水小学校、昔の錦華小学校辺りは 湧き水が少し 出そうだ。
考えて見ると 神田川自体が 水源だった。
神田上水から 流れ 江戸のまちに お茶に水を提供したのが この川で有った。
従って 命名は この川の水を お茶の水にしてね で 有ったかも知れない。
そうすると 御 茶に水 は 将軍にお茶を 立てる 御水だったのかもしれない。


その43

東京駅15番線 ホーム

長距離の列車の 発着をしていた。
松本清張も「点と線」で15番線から出る列車を 描いている。
「はやぶさ」「あさかぜ」が懐かしい。鹿児島まで 或いは長崎まで 夜行寝台で行った。
帰って来る列車は、威風堂々というか、堂々とホームに入って来た。
それは一種の凱旋だった。
昔は蒸気機関車、その後電気機関車であった。
親族を迎えに行ったのが、とても強い印象に残っている。

その44

東京駅の近くに その後 会社があり 駅にお世話になった。
これは 面白いと思うので 付き合ってください。
「東海道新幹線と東北新幹線は、東京駅で線路が繋がっているか。」
車両基地 或いは 緊急もあるだろう。列車の入れ替えも必要だろう。
しかし、答えは
繋がっていないのだ。
クイズを出し合って、答えを探しに 実際に行ったことが有る。
良くは 判らなかった。これは JR東海側が 断った様だった。

その45

日大 歯学部

歯学部は 夜間営業して呉れた。
治療に通った。この当時のこと、機械は古かった。
今でこそ 高速の回転だが当時は モータから ベルトで回転を 伝える。
ベルトは 治療用のペンを 回転させていた。
歯を削る音は 嫌だが直すことは しないと 悪くなってしまう。
今では 懐かしい感じがする。
歯学部は 駿河台のほゞ 真ん中に位置していた。

その46

明治大学 食堂

錦華小学校から 少し登った所に あった。
メニューを 見て 初めて注文したのが カツカレーだった。
とても 美味しかった。少しきついかなと つまり ボリュームを心配した。
こどもの 胃であるし どうかな 消化不良にならないか 心配した。
ところが 誰が考えたのか 素晴らしかった。

その47

中央大学 食堂

此方は ビルの4階にあった。勿論 駿河台に住んだあと だいぶたってからのこと。
土地を 買収し 高層の校舎を 建てた。
階段は 広めに作られていた。エレベーターで 移動する生徒を 分散させるためだったろう。
その4階は 丁度住んで居た ビル3階建てだったから 位置関係は その上に出来ていた。
縁あって 食堂に行った。
食事の 味では無くて 感慨がおもく 貴重な時間だった。


その48

中央大学 新校舎

先ほどの 食堂のあるビル より 前に 新校舎が 出来た。
位置関係は 住んで居た駿河台3丁目の 少し下側、即ち小川町に 下った所。
勿論 隣同士である。
この新校舎は 暫く シンボルだったろう。
住んで居た頃 工事が始まった。当時であるから 工事の音は とてもうるさかった。
これは 鉄骨であるが リベット打ちを やっていた。
鉄骨を つなぐのに ボルトナットの理屈で 熱くまっ赤になった ボルトを 下から
投げて 上まで 届けるのである。
時には 受け止めが悪く 失敗して 落ちてくる ボルトがあった。
夕刻 赤い鉄の ボルトは 光りの線を 引きつつ 落ちていた。
よく覚えている。ボルトは 鉄骨を重ねて アナに赤いボルトを指して その後
弾丸を打つがごとく ダダだっつ ダダだっつと リベット を打っていたようだ。
 
その49

これは 失敗です

トイレは 水洗だった。
都内は 水洗でないと 間に合わないのだろう。
簡易なものだったろう、ところが 珍しいので 水槽の中を見て
ツイ 手を出して、触れてしまった。
簡単に作られていたか 古くなっていたか 空球の 玉を支えている 鉄線を
折らしてしまった。すぐ手で 繋ぐ真似を するが もう遅い。
叱られた、 当然である。値が高く張ったのだろう。機械いじりから 遠ざかったかも知れない。

その50

雪まつり

神田で雪まつり?
後になって聞いたが 驚いた。
小川町 神保町で 雪が見れるとは
友人の一人が 尽力されたようだ。
昔 殆ど積もった雪は 見たことが無かった。
いまはコロナで どうしようもないが 子供たちの夢の為
頑張って欲しいものだ。

その51

神田川から隅田川へ
昔 神田川は 眺めるだけだった
その川が 隅田川に合流する絵を テレビで見る。
これは ロマンが有った。そして屋形船で 回るコースも有るらしい。
乗って見たいものである。東京湾の海から、築地や銀座等 を眺めたら最高であろう。
屋形船は ディズニー方面が メインだろうが、我々の頃は それも無く 素朴な
ものだった。お茶の水にもなった 神田川 生活用の運搬船の 航路
そして 高速が頭の上に乗り オリンピックを迎えるのは 8~9年後だった。

その52

岩波ホール

後になってホールが出来た。
素晴らしい企画だった。上京の都度 都合が付けば 寄りたい。
昔 岩波さんは 別格的だった。辞書6法などで あって 格差を言っていない。ただ
お給料も良かったようだ。固い感じも有った。
そのホールで、中国の胡堂を 紹介したような 物語があって これを見た。
北京の昔の雰囲気を連想させていた。紫禁城を 見てみたい気持ちは今も有る。


その53 

あんちょこ

これは 教科書に沿って 答をつづったものでした。
特に数学などは 使いようによっては 役に立ったのでしょう。
各教科 揃っていました。値段は そこそこ、しかし 簡単に揃えられる ものでもありません
数教科 揃えると かなりの額になります。
紙質は 悪かったのですが 上手に活用して 上位に成績を 確保した人もいるのでしょう。
今は あんちょこ あるのかな。

その54 

やぶ蚊の話

住まいが3階だったせいもあり、蚊が あまり来なかったような
記憶が有ります。
今は 高層マンションが 増え珍しい事では有りませんが、
当時は 平屋又は 2階屋ぐらいですから 蚊取り線香は必需品でした。
その昔は 蚊帳を 田舎では 使っていました。
テントの 金網版ですが 大きな部屋でも 4隅に 蚊帳の端を かけて
空間を作り その中で 寝るのです。子供が 多い時は 中でまくらを投げては
叱られたものです。

その55 

日蝕

太陽が 欠けても 肉眼で見るのは 危険でした。
工夫して 黒塗りの版とか で 垣間見たのです。目に気を付けて。
目を離し 屋上で 足元を見ました。
なんと 葉の 木漏れ日が 移っています。
葉と葉の 間から 日光が指します。
その影が 足元のコンクリートに 映っています。それは 太陽の欠けた 姿が
絵模様 の様に  小さく 同じ 形で いくつも いくつも 並んでいるのです。
日蝕の 絵の展覧会 但し 彩は 光だけです。
いきなり 気が付いた ものですから 今でも鮮明に 覚えています。
いまでも 同じ現象は 出ることでしょう。

その56

後楽園球場ナイター

回数は とても少ないです。
夕方 から 徐々に 暗くなる空 気が付くと 真っ暗
この変化は プレーに夢中なほど 驚いた変化でした。
アンチ巨人の為 我慢してください。(ジャイアンツフアンのかた申し訳ないです)
その日は 大毎か ロッテオリオンズ だったのでしょう。パリーグでした。
3塁の後方に居たのですが ファールボールが 飛んできました。
夜空を どんどん 自分に近ずいて くるのです。それは夢を 見ているようでした。
危ないと思った 位近づきました 。そして 直ぐ直前 脇に落ちて行きました。
終わって 帰る人並みも 今は懐かしい思い出です。


その57

講道館

講道館は その昔は判らなかったが 水道橋の駅をでて川を渡ったら
建物が有った。畳であったが その後プロレスもやったのではないかと思う。
移転して後楽園駅の方に移っていった。
後地は 後楽園ドームの敷地である。御茶ノ水のまえ澁谷にいた頃、友人と講道館
に来たことが有った。引っ越しして 近くなったら 意外と行かないものだった。
前の建物は 嘉納治五郎の時代と どういう接点か分からないが もし嘉納が柔道を
教えていたとしたら 大変な 経験出来ない場所を見たことになる。
東京は 意外と 歴史的に凄い場所を 知らずに通り 過ぎているのかもしれない講

その58

神田すずらん通

すずらん通リ 表の 靖国通リ 他 書店が多い。
毎週 週刊の雑誌を 店頭に置いた。
少年サンデー や 少年マンガジン が メインだった。
発行日には 少年は サッといって 立ち読みをしていた。最初は良かったが
段々 見るものが 増えたのか 雑誌が 痛み出した。そうすると店主も困った。
少年が 店の前に来ると ハタキをもって 追い出しに来た。かなりのスピードである。子供は 更に早く 逃げる。
しかし 思った 確かに 汚れた指で メックっているに違いないページがあった。
これは 不味い。だが まてよ 地元に人間かどうか。
なぜなら 我々は 商人も多い 状況は判っているはずである。こんなに 汚すだろうか。
みたいなら ここまで汚しては いけないと その時思った。

その59

藤原さん
藤原てい さんの 息子さん正彦さんが 小川小に通われたようだ
同級生の話では とても記憶力の良い方 だそうだ。
この仲間は 今でも 同窓会をやって居られるらしい。
今でも 仲間の方が 小学校の 後地を訪問して 掃除したり 見回りをされているようだ。
土地の価値は 相当のものと思うが 地震など 災害の時には 大事な空間だろうと
思った。
  
その60

火事

ある時火事が 発生した。
西となりが 旅館だった。和風の建物だった。
休日だったと思う、消防自動車がやって来た。
鎮火はしたが、上の窓から 除いた時 煙が わっと やって来て 吃驚した。
火事は怖いものだ 煙で見えなくなると 更に怖さが増す。
消防員が 一人建物に来たときは もう殆ど鎮火していた。
旅館の為 何故失火したのか 詳しく調査はされたのだろう。
中学の友人も 自宅から出火したことがあった。彼が言っていた。
「目の前で 火が出た時 布団が押し入れに有るのに 
出して 火に被せる事が 出来ない程 委縮する」 と言っていた。

その61



迷子 だったのだろう
猫を飼った。
犬は もともと無理 だった。
適当に家の中を 歩いていた。何処まで行ったか分からないが
散歩は していたようだ。勿論 しもの方は 場所を決めていた。
家族には それぞれ 応対を決めていたようだ。特に 食事の関係は確り考えていた。
母親には 一目置いていたようだ。意地悪な 人は 上手に避けていた。


その62


電柱事件

家の前は 本郷通リ 向こう側に電柱が1本あった。
歩道の脇 車道との 間 にあった。
ある時 横を向いて 歩いていた。電柱が有ったのを すっかり忘れていた。
どォんー ガチ とぶつかった。
その途端 御免なさい と 言っていた。
こんなところに あるものか。と勝手に考えてしまう。
電柱はとても 硬いです。皆さんは ぶつかりませぬように。
あとで 考えた 電柱には上るための 突起が有ります。金属性ですし 尖っています。
目にでも 当たったら大変でした。くわばら くわばら

その63

耳鼻科は順天堂大学病院

通いやすい距離だった。
神田川を御茶ノ水橋で 超えて いった。
診療は 上手だったのではないだろうか。
耳鼻科で 鼻の炎症だったのだろう。
2階屋のような 作りで 奥は 病棟が有ったと記憶している。
後に 父親も 眼科にいい先生が いて 白内障の手術を した。
経過は 良好だった。


その64

駿台予備校

確か 駿台は予備校とはいえ 競争率が高かったと思う
お茶の水の雰囲気は 予備校でも 大学の雰囲気が 有ったのではないだろうか
生徒も もしかしたら 自分は大学に来ているのではないか と 思っただろう。
 駿河台は ニコライ堂も 雰囲気を 醸し出しているのだろう。
JR御茶ノ水駅から 靖国通リへの 緩やかな坂が 程よい 空間なのだろう。
予備校は 駿河台大学を 創設 されたようだ。
昔を 考えると さもありなん と 思う。
それは 落ち着いた 駿河台の DNAを 受け継がれているのだろう。


その65

カザルス ホール

今は ロシア系の話は 如何かと思う。カザルスの 内容は 良く知らない。
しかし ホールは 1回は 行きたかった。
多分 とてもいい 雰囲気だったろうと思う。
それで オーチャード ホールが 残ってくれた感じがする。
お茶の水に 大学ホール以外に カザルスのような ホールは 将来欲しい気がしている。
能の 舞台でも 良いと思う。
昔は 映画館で有ったが・・

その66

周恩来の公園

周が日本に来たらしいと 判ったのは後になってだった。
周の住まいは 西神田 辺りか 日記を見ると 中国から来た 後輩の面倒を
よく見たことが判る。
自分の進学の勉強を 置いといて 走って行って 助けたようだ。思うような進学は
難しかったのだろう。
その周が 行ったという中華店がある。駿河台下の所である。
そこで周が 食したと言う 中華を食べる。
何ともいえない 雰囲気に包まれる。
それは これからの日中関係を 正常で 安心で 永続の状況を 願わずにいられない。
周に行った 公園は 神保町駅から 数十メートルにある。


その67

パチンコ玉の製造

神保町の交差点から 200~300メートルくらいか 入った所に 玉を製造していた。
今も有るだろうか。
パチンコの玉は 転がすことで 球を 綺麗に 仕上げって行った。
最初見た時 本屋の神田と思ったが 製造業も 立派に 有るので
吃驚した。確かに 神田で作れば どこにでも 配達できる。
昔から 地の利があったのだろう。
ゴロン ゴロン の音を しばし 見て 聞いていた。
話しを 聞けたら よかったのだろう。
今は 家内工業では無いのだろう。でも、きめの細かい作業が 出来ていたのでは なかろうか。


その68


交通博物館

以前は秋葉原に近い所に有った。
昔の 万世橋の駅の場所だったのだろう。
狭くて 移動したのだろう。暗い感じがしたが 鉄道は日本を強く 引っ張った。
蒸気機関車は その代表だった。
今から 思うと 蒸気機関車は 努力を 強く教えていた。
シュシュ ポポ 努力 努力 頑張れ 頑張れ といっている
それは 戦後の 暗い世界を 一生懸命に 引っ張って来た。
それを 確り受け止めたのが 成功者になったのだろう。
博物館では 実物と 模型が とても 良かった。
勿論 今でも 行ってみたい 気持ちが 一杯だ。

その69

三省堂

140年という
建物を改造するようだ
三省と言うだけに 反省をする。
その気持ちで 進まれたのだろう。
すずらん通りも 新しい時代を 歩むのだろう。
きっと パソコンを 生かし 新しい 開発が 望まれる。

その70

区切りの70になった


大女優のYさんに 会ったのは コンサート会場の 文京公会堂だった。
女の子が ついて行ってくれと言う。
楽屋に着いた やはり 行くだけでは無かった。
サインを もらいたい。
ドアーをノックした。
Yさんだった、すぐ お母さんに変わった。
丁寧な方で サイン帳の 端正な字は今も よく覚えている。
テレビで 映される 字である。
綺麗な たてながの字である。性格を表しているのだろう。
何と見いえない 雰囲気は 多くの人が 憧れている。


その71


Mさん
世代の近い 女優さん
小学生の 月刊誌では 毎月衣装を変えて 登場していた。
Mさんは 動物が好きのようだ。
ライオンには 2回噛まれている。
生まれは 大陸と思う。苦労されている。
以前 ソ連は芸術家をだいじにすると Mさんから聞いたことが有る。
いま大変な時期 人を大事にしてほしい。


その72

大学

中央 日大 明治 専修 電機大 YMCA 神田外語 後の駿台 その他・・・
現在は 一度郊外に行った 大学も 戻ってきている
中央大学 法学部 日本女子大学 東京理科大 などである
昔は生徒も 多い時代が有った
現在は 激しい獲得競争に 有る様だ
真理の探究は 進んでいるはずだ
AIの時代 世界情勢の難しい時代 負債の1300兆の時代
頑張って行きましょう


その73


地震
東京の地震の 多さには 吃驚した
田舎では 少なかったので 発生する都度 驚いていた。
それにも増して 友人が 驚かずに そのまま 校庭で遊んでいたので
2度吃驚
週刊は怖いものと 思った。
勿論 大地震など 普段の準備が 大事なものがある。


その74

お醤油

東京の御醤油は 関西と違っていた。
色が薄い、そして やや甘く感じた。
それだけ 関西以西で 辛い物を 食べていたのだろう。
それも 生活習慣は 強い。
いつの間にか 慣らされてしまうのが 不思議だった。

その75

駄菓子屋さん

友人の家が 開いていた。
見ているだけで 楽しいものだった。
いまの コンビニの原点ではなかろうか。
子供は 小銭で あんずやら ニッキやら アイスクリーム 等まで
続いていた。
下町風で 神田には 下町の 雰囲気が 有ったような気がする。

その76

ランチョンさん
神保町の角にある レストランだ
友人の 親が 開いていた。
その後も 続いている。
ビールもある ぜひ 一度は ご訪問下さい。


その77

山の上ホテル

長い間 確認が出来ていなかった。
226事件で 出て来る ホテルは 赤坂方面にある
このホテルは 駿河台にある。
区別が 出来ていなかった。
まして 子供の頃は 何がなんだか 判らないままだった。
大人になって このホテルに 泊まって見た。
地の利か とても便利が良い。
落ち着いた 良い感じのホテルだった。
重厚な感じがした。


その78

夜のネオン
ペトリカメラ
窓から 毎夜見えていた。
遅くまで 点滅していた。
ボーと眺めたりしていた。
勉強を忘れて 見ていた。
そのネオンの隣は もう友人の 家が繋がっていた。

その79

遠足
筑波山 
小学校の時 行っている。
ケーブルカー 四六のガマ など 覚えている。
楽しい ものだった。
茨城県の北に位置している。
行き帰りの 電車は 一心に 走っていた。
車体は クロや 茶褐色が多かったようだ。


その80

遠足2
鎌倉へ
楽しかった。珍しいのは 親が遠足について来た。(母親)
それも 少なかった。3~4名程度だったのだろう。
鎌倉大仏も 親子をうけいれて 雨を少し 弱くしてくれていた。

その81

修学旅行
転校の為 前の学校で 行った。
新の小学校は 終わっていたのだろう。
都合よくスケジュールが 合って良かった。
転校は6年生の 途中だった。
修学旅行は 日光だった。
思い出深い。温泉の 硫黄の匂いは 今も懐かしい。

その82

旅行 河口湖

家族旅行は 思い出に 親もしておきたかったのだろう。
驚いたのは 河口湖について バンガロー まで 距離があった。
歩いて行くのでも良かった。それを 何と 馬車を 注文した。
人よりも 荷物を載せるためだった。
恥ずかしい気持ちが 強かった。
ところが 歩いているうち 正解な 感じがしていた。


その83

旅行 日光
修学旅行で 行っていたが、家族でも いった。
いい経験で 写真が 大切に 残っている。
いろは坂や 明智平 華厳滝を 見ている。
泊まりは 東照宮の下だった。
杉並木の 凄い日光 家光が 頑張たのだろうか。
何れにしろ 家康の 力を 見せられているようだった。
左甚五郎は 強い 印象がある。
サルは 近い感じがして 親戚みたいだ、個人的に・・・


その84

海の家

湘南大磯に行く
これは 会社が 一括借り入れ
従業員に 順番に 貸し出した。
1泊で 行っていた。
大磯も いい雰囲気であった。
当時は 吉田茂の住まいは 近かったが 見ていなかった
向学の為には 一見も良かったのだろう。
後で 鍋島や 伊藤博文も有る様だった。
東海道の 松並木も見事 だった。

その85

台風

当時台風は 必ず九州に 上陸した
台風銀座と言っていたが とてもではない 来てほしくない
東京では 列島縦断というのか 列島沿いに来ることは めったになかった
何回か 有ったが 南北に 或いは 東西に ずれていた。
たまに来ても 威力の 弱い こともあった。
最近は どこに来ても 不思議ではない 状況になっている。


その86

神田お玉が池
千葉周作
これは 漫画で 知った。
赤胴鈴之助 や オテナノ塔や 怪人20面相 等が並んだ話だった
その中で 北辰一刀流には 興味が有った。
特に 神田お玉が池は どこなのだろうと考えていた。
詳しい人 剣道をやっている など 研究家などは 常識だったのだろう。
漫画で 千葉周作の 髭は 恰好良かったものだ。

その87
 

ラジオ中継
小学校の講堂で クイズと歌の中継があった。

 何故か2名男性に選ばれた。
出来は散々だった。皆さんに 申し訳なかった。
「灯台守」歌い始めると 2名とも キーが高すぎてしまった。
途中から 高音域が無くなった。一人は 低く歌い始めていた。
練習の時間は 全くなかった。が 自分で練習すればよかったのだろう。
クイズも 失敗。
皆さん 御免なさい。


その88


お正月
88号で記念なので お祝い事を

駿河台のお正月は静だった。
斜め向こうの旅館に 門松が有ったろうか
3丁目とはいえ 3丁目の夕日とは 程遠かった。
静に過ぎる お正月。初詣はどこも 一杯の人出だった。
むしろ 大晦日の賑わいが 凄かった。
歩いていると 国旗が掲揚されているお店も有ったと思う。

その89

清川虹子さん

小学校の先輩である。
「女侠一代」など作品がある。この作品は九州だと思う。
骨太の演出の気がしていた。他にも活躍されている。
嬉しい先輩と 感じていた。
離れていたし、時期も違っていたので 伝説的な感じだった。


その90


紅白歌合戦

毎年恒例だった。
澁谷公会堂が長かった。建て替えが検討される頃、いかにも公会堂が狭く感じられた。
司会は高橋圭三が、専門だった。
その合戦は ラジヲで聞いていた期間が 長かった。
澁谷公会堂は 予算でなかなか 抜けないと言っていた。
何時の時代も カウントダウンは 輝いていたのだった。

その91

Hさん

Hさんの中学は 合併された。Hさんとは テレビで報道関係で活躍された。
久米さんの 後と思う。
旧中学名は  今川中学、合併して一ツ橋中学である。
従って 同窓と 勝手に思わせて欲しいと思っている。
今川中学とは 運動会の対抗戦で 会ったことがある。
懐かしい 申し訳ないが 同窓としてほしい。


その92


Tさん

日本人唯一の8000メートル峰全14座登頂者
神田一ツ橋中学の卒業者。
勝手に ご縁を感じている。
執筆を 読ませていただいたが 大変な時代の ご経験のようだ。
新しく 何か企画されているようだ。
ネットで見る サインの 字が素晴らしい。
皆様も ご覧いただきたい。
夢のある 攻めの 上向くの 強さを 綺麗に感じる。

その93

Kさん・・女優

小学校中学の 先輩である。
末永く ご活躍を祈りたい。
川端康成と 会話されたり ご活躍は 広いようだ。
地元で 育たれたのだろう。


その94

Mさん

中学が同窓である。
ご活躍が 続くことを 祈っている。
司会業や ルポが 得意である。

その95

北の丸公園 
東京国立近代美術館

ずっと経ってからの事
と言うのは 昔は ここに美術館は まだ無かった
ここだったと思う
ゴッホ展が有った
「夜のカフェテラス」の展示 とても良かった
その絵の一角は 絵の中のライトの光で 観客も明かりを 取って居た。
その時の 人々の表情は 今考えても 嬉しい静寂だった。

その96

皇居一般参賀

東京にいると いつでも行けるところは なかなかいかない
皇居もそうだった。
それでも 行ってみた。大勢の人である。
お立ち台に お出ましになると 興奮そして 待ち時間など 吹っ飛ぶ
お手を ふられ 自分の方にお手が来ると 人々は 大変だった。
涙を 隠す人もいたのだろう。父と 一緒だったが とても嬉しかったのだろう
目も 声も 顔も 言いようのない 喜びが有ったのだろう 見なくても 聞かなくても
様子が 判った。
そうだろう 昭和2年か 陛下のご即位の式典が 京都であった。その時 裏門の警備を
選抜で 選ばれて 行っていた。
これは 終生誇りで 人にも語っていたようだ。
家では 殆ど聞いた事が無い。

その97

神田 東京堂

神田の書店は それぞれ 雰囲気を持っていた。
東京堂は バックミュージックが 凄かった。
といっても 雰囲気が 良かった。
クラシック系が 流れていた。
今考えると 勉強の 疲れを 癒していたのかもしれない。
あまり そういう意味では 疲れていなかったので 残念である。
が 雨の日 夕刻の頃 青春の時代として かなり 支えてくれたし 今は
思い出で 後押してくれているようだ。サンキューである。


その98

小学校の給食

工夫を凝らして いつも飽きさせなかった
廊下を 味噌汁車 おかず ごはん 車で 各教室 運んだ
終わると 食器を 戻した
狭いので 運ぶのは 混雑を別にして 簡略であった。
冬の 達磨ストーブ も思い出多い。しかし 夏のクーラ―は あまり覚えがない
設置されて いたのだろうか

その99

銭湯

あまり というより 殆ど 行ったことが無い
家に お風呂が有ったからだろう
それでも 言った覚えはある 何かで 臨時に行ったのだろう
何処でもそうだろうが 富士山の絵が ある。
雰囲気は 江戸の頃を 想定して 絵師は描いているのだろうか。
たまに 行くと 楽しいものだった。
修学旅行と違って 余裕があったものだった。

その100

記念の100 号に来た

少し暗くなるし お祝いでないが
父の寝言である

神田にいた頃は 戦後10年 経過したばかりの感覚だった
毎夜 夜明け前 寝言が始まる
隣の部屋でも うるさい。次第に 苦しくなる様だった。
その訳は 後になって あまりよくない 経験をしたのが判った。
長い年月掛けて 調べ上げた 「MASUKA]
それは 内容を のべたものだ。
宜しければ 国立国会図書館に 検索・展示させていただいている。 


その101

地下鉄

明るくいこう
神田にいた頃は まだ地下鉄は2本だった。
銀座線 丸ノ内線である。
だいぶ後になって この線は 広軌で 新幹線と 同じ幅の線路幅 と分かった。
一般には JRは狭軌である。都営新宿線は 特殊で この両者の 中間の幅。
で 銀座線と丸ノ内線が 相互乗り入れする時が あることを 知った。
今は 保安上 無いのではないか。 
この乗り入れは 赤坂見附でやっていたようだ。
初詣の 顧客を 例えば 池袋から 浅草に 乗り換えなしで 運行されたようだ。
いろいろ 面白い企画だった。
それどころか 現在の 相互乗り入れは もう 老人(とは ずっと先に事をいう)に近いものは 難解になっている。  


その102

ベーゴマ

独特のコマ
作りは 鉄のような 土のような 鉛のような 押しつぶした 独楽だった。
この独楽は ぶつけるのだった。
枠の中で ぶつけて 跳ね出た方が 負けだった。
もともと 独楽は回るものだったので 驚いた。
この発想は 実戦から 生まれたものでは無いだろうか。



その103

ホテル

中学の近くで 宿泊したい。
いつも考えていた。ある時チャンスが あった。
ネットで申し込む。
しかし、近くにホテルの敷地は 無い筈だった。
案の上 あまりいい環境で無かった。
値段は かなり高い。
心配なのは 海外からの客を入れていた。
価格が 同じなら とても とても ・・・駄目だった。
夢と 現実は こうも 違うものかと 思った。


その104

平将門

直接 感じたことは無いが
将門は 不思議だった。神田では あまりなかったが 大手町まで行くと
将門伝説が いくつかある様だ。
謀反に近いと思うのだが 祀られている。
道真のような 祟りが有るのか。
それに対しては 詳しく研究していないが
将門の 思い マインドを 研究してみたいものだ。
やはり 道真の子孫も 将門と 関連してくるようだ。
何となく そうかな と言う事は 何か あるものだ。


その105

神保町の中古マンション

現在 神保町に マンションが 有るのかと 思った。
昔 マンションは無理だと 考えていた。
懐かしいのが 一番だが 千代田区は とても 良い所です。
見ると 有るんですね もう古いものですが 有りますね。
これまで 住んだ方は ラッキーだったのでしょう。
日本が平和で 耐震を 街角整備を 整えて 住みたいものですね。



その106

記念切手

昭和30年以降
記念切手は どんどん 発行された。
当時 記憶に確りあるのは マナスルの切手だった。
綺麗な デザインだっただけでなく 登頂成功の 喜びが 後押した。
他には 「見返り美人」「雁」「ビードロ」「写楽」など 胸が躍ったものだった。
いま見返すと 頼朝も いい絵だ。
中には 佐渡島や 奥多摩か 頭に有るだけで 楽しくなるのだった。


その107

鳩山薫子さん

中学の時 お見かけした
但し 遠くからだった。
それは 一ツ橋中学の となりに共立中高があった。短大部も有ったのか。
ある日 見ていると 慌ただしい雰囲気が 見て取れた。
そして 薫子さんらしき 姿が見れた。
鳩山一郎さんを 思い出す。
昔 尊敬できる人物に 鳩山さん ネール首相の名が あった。


その108

綜合警備保障

創業者は 父と同じ仕事の 時期があった。
ある時 警備の幹部が 言っていた。
「我々は 大阪万博」に力を入れた。帰って来た時 世の中は変わっていた。
それはそれで あった。
創業者の息子さんが 赤坂で 目の前を歩かれていた時
話し掛けたい 一心だった。
戦後の スタートで 頑張っておられる ようだ。
 物的 人的 警備 その他 発展されて欲しい。


その109

伊豆七島


お茶の水時代には 遠い存在だった
その後 機会が有って 島に行った。
大島が 遠足だった。
島の魅力は とても強く その後 個人的に 宿泊で
三宅島に行った。
前夜 竹芝桟橋からでる 途中時間調整する。
舟に並んで 乗るとき おいおい大丈夫か こんなに乗せるのか
ところが 詰めて 雑魚寝すると 結構いけるものだ。
込んでいる時は 嫌な感じだなと 感じても
いざ 船が揺れると 嫌な奴は いなくなる。
大丈夫か みんな 助かるよな・・・・と 変わってくるのだ。
人間社会の 原点なのだろう。

その110

箱根

歴史的に とても重い 魅力的 で 歴史の 産物
財産 
都心からも いつでも 行きたい場所だった。
伊豆が 川端康成とすれば 箱根は 現実的だった。関所も 芦ノ湖も ゴルフも
曽我兄弟も 足柄山の金時も 入り鉄砲で 出女 も 天下の険、もとてもいい、
流石 大都市の 避暑行楽地 いつまでも 健全で有って欲しい。
昔は 囲碁の小説で 川端だろうか 囲碁「名人」で 長い長い 闘いを 箱根も 使って
闘っていた。


その111


都市はイーストサイド 物語になるか

ウエストサイドは よく聞きます。
イーストは それなりの目的があるのでしょう。
神田は どちらかと言うと やや イーストかもしれません。
しかし 千代田区では 西は番町などが有りますが
東との比較は 難しいと思います。

それでも 西に住んで居た人 寄留した人 有ったでしょう。
番町小 麹町中 H高校 T大 これを 聞いた時は 卒倒しそうだった。

その112

有楽町であいましょう

フランク永井が歌った時
西銀座は デビューだった。
そごう も 良かった。一度は 二度も 行ってみたい 場所だったのだろう。
先々 名古屋に 転勤した。
昔の名古屋で 今から語ると 嘘でしょう くらい古い話になってしまう。
夏の帰省で 切符を買う行列は すさまじいものがあった。
各駅 そうだったのだろう。
徹夜で 長い列を 駅の広場に 繰り広げた。この後 改善された。
この名古屋で 失敗や 武者行列を・・英傑行列・・楽しく見た
で 名古屋駅の まえに 「有楽町」と書いた スナック兼クラブ?があった。
懐かしい名前で よく行った。素朴な 飾りのない 外灯が 灯されていた。 


その113


西伊豆の魅力

東京にいると
あそこに行った?行ってない!フーン
が良くある会話。
別に行ったから 偉いわけでは無いが。
行ってないと 静かに 「行ってない。」となる。

で 箱根 熱海 伊豆 軽井沢 等々 あるが
西伊豆は 興味が有った。堂ヶ島であった。どうってことは 無いが 西側と言うのが 魅力を
出していたのだろう。
入り江も いいし 西日も良い 魚も良いし 夏には 持って来いだった。
今は コロナや ロシアや 核による防衛 経済赤字 等のことで 思うように行かないが
ただ 昔は 問題を忘れて 行ったのかもしれないが・・・

また 安心の 旅が 誰でも 出来る日々を 祈りたい


その114


山の魅力

都市に居ると 抜けて 山でも行ってみたくなる
谷川岳は 遭難の 思いが強い・・申し訳ありません
アルプスも いい 北・南
で 山岳部に誘われたことが有る
行かなくて 良かった気がする これは 病みつきになる
上高地に 行っただけで しびれてしまう

なんだ この 風景は 参ってしまう
そう 山の虜にならなくって 良かったのではないだろうか 

何が良いのか 孤独との 闘いが 入っているのではないだろうか



その115


皆さんは 真似しないで下さい

それは 何か
資格の学校が有る
神田の 学校名前は 伏しますね

ある資格

講座が 始まった
テキストを 先生が 書いてある通り 読む
都合2~3回 続いた読むだけが ウーン
悪い事に 最後に テストをする 次の時 答を配る
最低点から 順番に 配る
小生は トップだった 教師は ジイとこちらを見ている 目は 奥底で笑っていた
これが 2回やった所で 折れてしまった
会費は 数十万だった

学校から 連絡が来た どうしてやめたのですか
「テキストを 読んでいるだけです。」
成績順に 悪い方から 前回した問題の答を配る しかも 講座が 始まった途端 相談もなく
と・・・・ これは 言わなかった

これは チャンスを 逃がしたのだろう。
1他の口座に チェンジすれば 数十万 は生きたのだろう
2我慢して 黙って まな板のうえの 鯉で やったら 受かったかもしれなかった?

お金が 高いが 例え少なくとも 皆さんは 絶対しないでしょう
我慢で 恐らく 道は 開けるのでしょう。


その116


東京と蒸気機関車

これは どちらも 努力を 訴えているのか
田舎を蒸気機関車が 走る 昔は 昭和天皇陛下の お召列車が 走った
皆 下を 見ていなさい
この機関車は 堂々と 目の前を 通過されて行かれた。
とても思い出深い。
都会では 機関車を見る機会が あまりない。線路と離れて生活したのだろう。
それでも 澁谷の頃は 駅を 煙で通過していたような 気がする
次の御茶ノ水の頃は 少しずれるだけだが
時代が 変わっていったのだろう あまり見かけなかった。
原宿の 専用ホームは 皇室の方々の 乗り降りが 想像出来た。

この機関車は 努力 努力 努力 と 言って走ったのだろう。
聞いていた 小生は 今頃
東京も 努力 機関車も 努力 と 行っていたのだと 思う。。。遅いか❣



その117


澁谷 お茶の水 新宿

嬉しいのは 澁谷区は 吉永小百合さんも お住まいだったようだ
距離も 地図では あまり遠く無い
澁谷で 高峰三枝子さんに 会えて 新宿で 服部良一さんの 家の隣だった
のが 嬉しい。で 「湖畔の宿」になった。
お茶の水 神田駿河台は こまごま 書きましたが 芸術的には
上野に お任せ・・・という感じだった 
三都物語ならぬ 三区物語である。
今回 どうなるかと思ったが 神田駿河台の 終わりなってきました
お茶の水の ニコライ堂の 鐘が 聞こえて きそうです。チャン チャン


その118


湯島から三四郎の池

駿河台から 文京方面は 用事のある時 行く感じだった
その関係からか 神田明神や 湯島は あまり足が 行かなかった
そのT大で 大変な時期を 迎えるのは 数年後だった
学生は 大変な思いで 迎えたのだったろう
T大の講堂で ピークを迎えた頃 友人も
重い 考えから 参加されていた ようだ
その話聞いたのは だいぶたってからだった


その119


駅弁

八重洲口にも 沢山の駅弁が有る
値段はそこそこである。
よく東海道線を 帰ってくる時
横浜のシュウマイを もう少しだから
駅弁や シュウマイを 断念したものだった
でも 今地方でも 駅弁大会を やっている
この日は お客が増えると 聞いたことが有る
中には 出張で 売る方もいるのだろう
頑張って 買ってあげたいものだ
ペイして欲しいい

その120

今回何故123話か 神田駿河台

小学校の同窓で 近状を お互いに 書こうと 連絡が来た
それで だらだらと・・・・・
考えたら 岡村喬夫さんが 101話を 書いておられた
そこで 末広がりの為 123としました
ここまで お付きあい 感謝申し上げます
  
辛い時 楽しい時 帰って来て下さい。
どんぞ・・


その121


モリタ書店への 誘い(いざない)

電子図書には 深い思い入れ が有ります
一般に 自費出版は 高い物です
本屋さんも 安くできると思わないでくださいといいます・・オイオイ

電子図書を考えていて Bccksさんに 出会いました
是非 疲れた時
人間関係で 困ったとき 書店においでください
神保町の どのあたりか知りませんが 開店しましょう
皆さんも もし 作ったらと 考えて 歌って下さいね


その122


釜山へ

プーサンには 特別の思い入れが 有ります
特別な思いに チェジュウさん チェジウ どちらでしょうか

惹かれているのは 確かですが そういう意味では
李秀賢さんも 勿論です お墓に行きたい 思いが有ります
かといって 小生は 日本人ですよ

くどくど 書いても仕方ありませんね
率先垂範 
現地 レポートの 早からんことを 願って


その123

駿河台よ

素晴らしい 街だったね 懐かしさで書いてます。

失礼が有れば 趣旨に鑑み ご容赦下さい。

モリタ書店は 成績優秀な 生徒さんが 来ますよ
頑張って 良い文章作ろうね

成績優秀 そして 歌も歌える 生徒さんも 来ますよ
もう一度
頑張ろうね 

ここまで
有難うございました。
是非 
またお会いしましょう。
チェフェ サイチェン 再会 

追記
小栗上野介が 維新のとき居りました。
小栗は 神田駿河台に生まれたようです。
一説では 東京YMCA辺りとのこと。
活動は 研究の余地がありそうです。
とても 意味合いの深い 人生だった。
いつか 機会を 造りたいと思います。

神田駿河台

2022年3月31日 発行 初版

著  者:藤原洋
発  行:モリタ出版

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