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欲を出し過ぎた男

さら・シリウス

さら・シリウス出版



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  この本はタチヨミ版です。

 
目 次

 第一章

 第二章

 第三章

 第四章

 第五章

 第六章

 おわりに




第一章

 カーテンをひらくと、そこにはあざやかな青空が広がっていた。
 見事なまでに雲ひとつない朝の秋の空は、高くどこまでも綺麗に爽やかに晴れわたり、まるで理恵子の現在の境遇のようだ。
「ママ、お腹すいたぁ」
 理恵子の寝室に駆け込みながら、元気な声でとても健康的なおねだりをしてくる由美子も、もう十歳。末っ子ならではの無邪気さで幼くも見えるが、上の娘や二人の兄と同じく学業の成績は優秀で将来も楽しみだ。
 目を細めた理恵子は娘に優しく微笑みかけた。
「今朝は加代さんがキッシュを焼いてくれるって」
 加代さんは、夫の実家の口ききで新婚当初から馴染みの無口で働き者の家政婦だ。この家に来てくれてからもうずいぶん長い。今朝は理恵子と由美子、二人分の支度だけなので、娘の好物を用意してくれたのだろう。
「やった!」
 それを聞いて、少し茶色がかった瞳を輝かせてガッツポーズを取り、踵を返してぱたぱたと階下のダイニングルームに向かう後ろ姿すら可愛らしい。
 喜びも悲しみも屈託なく自由に感情表現できるあの素直さは、由美子が誰にでも愛される理由のひとつかもしれない。
『それでもそろそろもう少しばかり、行儀作法をきちんとさせるべき時期かしら』
 理恵子はそんなことを考えながら、もう一度窓の外へとその目を向けた。

 奥田理恵子は政治家の妻だ。
 夫の定春は大学を卒業してしばらく普通に勤め人をした後に、親から継いだ会社の社長を長く務めていたが、五十一歳で心機一転、長男の定之にあっさりと会社を譲り政界へと転身した。
 社長時代の人脈も駆使して、まずは次期県知事を狙っている。だが彼の野望はまだそこで終わりではない。
 元々が美男子とまでは言わないものの長身で整った顔立ちで、恵まれた坊ちゃん育ち特有の表情の柔らかさ豊かさはもとより、趣味のヨットやゴルフを長く続けていたこともあり、定春は年齢の割に若く健康的でカメラ映えする容姿をしている。
 アイドル化だと批判されるむきもあるが、それでも昨今の政界の現状における『見栄えのする、人気ある政治家』の需要は高い。既にバックアップを受けているさる政党からの声がかりもあり、定春のさらなる目標である国政へと至る道筋もすでに目の前に見えている。
 末は総理大臣。
 男なら一度は見る夢だと、定春は繰り返し理恵子に語る。そして、
「僕らの子供たちが優秀だったからだよ。特に定之になら安心して会社を任せられる」
 幸せそうに理恵子の肩に手をかけながら告げる、定春の顔は明るい。
「ありがとう。君が僕の妻でいてくれるからこそ、僕は僕が望むままに生きていられる」
 だから夫のそんな言葉を聞きながら、理恵子は美しく微笑んで見せるのだ。
「あなた自身の努力があったからこそよ」
 こうした振舞いや言葉が何より定春を喜ばせると知っているからこそ、常に理恵子は一歩後ろから定春を立てるように、理想の妻を演じ続けている。
 穏やかに控えめに慎ましく、まるで良妻賢母の見本であるかのように。
 そう。理恵子は傍から見ればこの上なく豊かで幸福で恵まれた人間に見えるだろう。
 親から会社を継いで金銭的にも不自由ない社長であった頃も、政治家として大成することが約束されているかのような今も健康的で魅力的な夫をはじめとして、授かった四人の子供たちもみな健康に優秀に育っている。
 夫によく似たスポーツ万能、学業も最高学府できちんと修め、今は夫の会社を継いでいる出来の良い長男の定之。
 真面目一方の性格ではあるが、ひとつのことを突き詰める姿勢を買われ、大学に残って研究職を目指しており、将来は教授になることも嘱望されている次男の定理。
 長女の美祢子は留学中であと数年は外国暮らしを続けることになっているが、それだけ見聞をしっかりと広め、帰国後には語学の才も駆使しつつ、将来的には国政に携わるだろう夫の秘書として務めてくれる予定だ。
 上の三人とは少し年が離れて生まれた次女の由美子ももう十歳になり、末っ子として皆に可愛がられるせいか、やや幼さがまさる様子ながらも少女らしい魅力あふれた娘に育ちつつある。
 そして理恵子自身はといえば。
 壁の大きな鏡の中にその目を向ければ、そこにいるのは栄養もたっぷりと行きわたっているかのようなふっさりとした濃い栗色のセミロングの髪を柔らかくカールさせて、あでやかに微笑む優雅な婦人。
 すっきりとのびた背筋。和服も洋服もよく似合うすらりとした立ち姿が今日まとっているのは、何の飾り気もないシンプルな普段着の上下なのに、まるでどこかの高級ブランド物と見紛うほどの見事な着こなしだ。
 我ながらその美貌とスタイルの良さに惚れ惚れしながら理恵子は思う。
 結婚生活も順調。素晴らしい人生に、素晴らしい生活。
 誰から見ても、きっと理恵子は人生を謳歌しているように見えるのだろう。
「……」
 理恵子はぬけるような青空を黙って眺めながら、抗うようにゆっくりと唇に力をこめた。
 絶対に、誰にも知られてはならない幾つもの秘密が、理恵子の胸の中には潜んでいた。
 悲しい過去。
 汚された過去――そして現在。
 郷里の福岡で小学生の頃に受けた無残な傷も、その後に起きた残酷な出来事も、そしてそこから今に至るまで続いている悪夢も、普段は理恵子のその体や心の奥底に、誰にも見せることなく重い鉄の鎖でも巻かれているかのように沈んでいる。
 穏やかで平穏な日常生活のなか、理恵子自身ですら通常はそれを意識しない。いや、あえて意識しないようにして過ごしている。
 だが、こんなに気持ちの良い日には。理恵子が今の自分の人生の、豊かさや美しさを自覚するような時には。そんな過去がぼんやりとした不穏の影をまとわせながら、意識の表層にまで浮かび上がってこようとするのだ。
 まるでそれに後押しされるかのように、理恵子は自分のスケジュールを確認した。
「……今日も、行かなきゃね」
 そして自分に言い聞かせるかのように小さく低く呟いた。
 財布の中には札も入れてある。途中、誰かに見咎められることのないように、変装とも言えないような変装ではあるが、地味で目立たない衣類もクローゼットの片隅に準備してある。
 今日の約束の時間は十一時だった。






第二章

 幼い頃、理恵子の家は貧しかった。
 戦後間もなく乱雑に建てられたバラックそのままのような、トタン屋根の長屋住まい。
 子供部屋どころかキッチンすらない。水道も、汲み取り式のトイレもすべて共同で、お風呂に入るのにも銭湯まで歩いてゆくのが普通だった。
 それが当然のことだと幼い理恵子は思っていた。
 水洗のトイレがあったり、タイル張りの綺麗なお風呂があったりするのは、お金持ちのお家にだけ。いいなと思う気持ちはあったけれど、どうすればそんな所に住めるのかまではわからなかった。
 漠然とはしていたけれど、そんな生活への憧れという感情を、その時間違いなく理恵子は抱いていた。
 だから今も理恵子はその日のことを鮮明に覚えている。あれは小学校四年生、十歳になったばかり。蝉の声がうるさい夏の、夕方にさしかかった頃だった。
「理恵ちゃん」
 汗を流しに、ちょうど銭湯に行こうとした理恵子のことを呼び止める声があった。
 裏の家のおじさんだった。
 理恵子たち家族が住む長屋の大家だったその男の顔は、理恵子もちゃんと見覚えていた。だから疑いもなく足を止めた。
「なあに?」
「お風呂ば行くとかね? ならちょうど風呂ば焚いとるとよ。おじさんのとこで入らんかね」
 裏の家。そう理恵子たちは呼んでいたが、その家は長屋と比べるまでもなくしっかりと建てられた一軒家で、瓦の屋根もあり、漆喰の壁もあり、もちろんきれいなお風呂もあることを理恵子は知っていた。
 理恵子の目が輝いたのを、きっとおじさんは見逃さなかったのだろう。
「よかと? 本当によかと?」
「もちろんさぁ。おじさんと一緒に入りゃ、湯ももったいなくなかばい」
 おずおずと尋ねた小さな声に、おじさんは我が意を得たとばかりににっかりと笑って見せて、そして続けた。
「銭湯代も使わんで済むしね。理恵ちゃんが取っとけばよか」
 何かを疑ったり迷ったりすることももうできなかった。理恵子の頭の中には、降ってわいたような幸運への喜びしかなかった。
 こくりとひとつ頷いて、理恵子は差し伸べられたおじさんの、太くて大きな指をそなえたその手を取った。
 連れてゆかれた裏の家の、玄関を入って左手の廊下の奥に風呂場はあった。
 おじさんの家にはいつも、おばさんがいる。台所仕事をしていたり、庭の花に水をやっていたり、縁側で針仕事をしていることもあるから、理恵子もよく知っている。
 それなのに今日は、この家にはおじさんしかいないようだった。
 買い物に出ているのかと深く考えずにいると、なぜかまるで言い訳でもするかのようにおじさんは自ら話しはじめた。
「今日あれは、娘ん家の子守にいっとるとばい。明日にならんと帰ってこんと」
「…ふうん」
 何とも思わず頷いた理恵子の顔を探るように見ると、おじさんはがらりと風呂場のガラス戸を引いた。
「わあ、本当にお風呂ばい」
 夏場なのにむわむわと立ち上る湯気。銭湯の、夕方ではだいぶ人も入ってぬるくなったりした湯とは違う、綺麗に澄んだ湯が浴槽いっぱいに満たされている。
 おじさんは笑う。
「ほれ、はよ入れ」
 その声を聞き、理恵子は急いで服を脱ぎ捨てた。そんなことはないだろうけれど、もしここでおじさんの気が変わったりしたら大変だと思い、早く、早くと気がせいた。
 夏の理恵子の服は薄っぺらのワンピース一枚きりだ。それでも汗で肌にはりついて、なかなか脱げないのがもどかしい。下のパンツまでいつもより脱ぎにくく感じる。
 焦ってぐいぐいと布をひっぱりながら服を脱いでゆく姿を、おじさんが黙ってじっと見ていることに、そのとき理恵子は気づかなかった。
「タオル、持ってくるから。そしたらおじさんも入るで」
 全裸になった理恵子に、おじさんはいつもより少し早口でそう告げた。
 洗い場に立った理恵子は手近な蛇口近くにひっくり返され置かれていた手桶を取ると、銭湯でいつもそうするようにかけ湯をして、体を洗おうとした。
 そのときちょうど戻ってきたおじさんは、湯のしずくを全身にまとわせている理恵子の姿を見てうんうんと満足気に頷く。
「洗ってやるばい。じっとしとれな」
 だいぶ使われてちびた石鹸をくるくるとその両手になすりつけてから、おじさんのまるまるとした太い腕がぬうと理恵子にのびた。
 毛むくじゃらだ。とか、なんだか動物みたい。と、ぼんやり考えながらその腕を見つめつつ、何を疑うこともなく理恵子はじっとその場に立っていた。
 よく肥えたイモムシのような指は理恵子の肌に触れたその一瞬だけ、まるで緊張したかのように止まったが、すぐにそのままするすると動き出す。
 くすぐったさに軽く身をよじった理恵子を、おじさんはどう見ていたのだろうか。
 ふん。ふん。と、なんだかおじさんの鼻息が荒いことに気づく頃には、理恵子の全身はぬるぬるとした石鹸の泡にまみれていた。
「きれいになったな。うん。もうきれいになったばい」
 まるで自分に言い聞かせるようにおじさんはそう呟くと、理恵子に自分で湯をかけて流すように指示した。
 そして立ち上がり、理恵子に背を向けると、おじさんは脱衣所に戻るでもなく、その洗い場で自分の服を脱ぎはじめた。
 背中も足も、おじさんの全身が毛むくじゃらなことに気づいて、なぜか理恵子は妙におかしくて仕方がなかった。でもおじさんの機嫌をそこで損ねてはいけないと思い、頑張って笑いをこらえながら理恵子は手桶で肩から湯を流した。
 服を脱ぎ終わって振り返ったおじさんは、その手に何枚かのタオルを重ねて持っていた。
 なんだろう、と、不思議に思う間もなく、おじさんはそのタオルを理恵子のおしっこをするところに当ててきた。
「えっ」
 そのまま、腰に回されてきた太い腕に抱えられるようにして、理恵子は洗い場の床に座らされた。あてがわれたタオルはちょうどその下にも来て、理恵子の小さな尻の下で簡単なクッションになった。
「なに? え、なに?」
 理恵子の戸惑いも意に介さず、理恵子の手を掴んだおじさんは、さらに理恵子の上半身を後ろに倒そうとする。
 抵抗は無駄だった。理恵子が抗おうとすると、おじさんは掴みつぶそうとするかのような強い力で、理恵子の手を握りしめてくるのだ。
 痛い。痛い。――怖い。
 痛いのは怖い。でも、理恵子がじっとしていれば、おじさんは決して手を放してはくれないものの、その力はいくらか緩んでいる。理恵子は体の力を抜いた。
 抵抗を諦めたことを察したのか、おじさんは理恵子の上に乗りかかってきた。
「ええ子や。ええ子にしてな」
 荒い息づかいとともに、生臭さを音にしたような言葉が耳に入り込んでくる。
 理恵子は自分の肌に擦りつけられる、何か変な感触のものがあるのを感じた。何なのかさっぱりわからない、その奇妙なものの正体を探るのは無理だと悟った頃から、ただあたたかな湯のしずくが時々自分の肌を伝って落ちてゆく感触だけに意識を集中するようにしていた。
 おじさんは唸るような声をしきりにあげながら、理恵子の上で激しく腰を動かしていた。
 やがて大きく体を震わせてその動きを止めたかと思うと、次には鼻から大きく満足気に息を吐いた。そしてそのまま、タイルの床に寝転がった。
「……」
 理恵子には、何が何だかわからなかった。
 でもこれで何かが終わったのだということだけは直感的に理解していた。
 やがておじさんは起き上がると、何も言わずに理恵子の体を引き起こした。
 おとなしく立ち上がった理恵子の体に何度か無造作に湯をかけて、その手でざっと撫でまわすように洗った。
 体は自分で拭けと言わんばかりに乾いたタオルを渡してきたので、理恵子はおとなしくそれを受けとって、水滴もおじさんの指の感触も拭いさるように強く自分の体を擦った。
 風呂場を出て、着てきた服をそのまま着なおした理恵子をちらと見ると、おじさんはコーヒー牛乳と二百円を理恵子に手渡してきた。
「くれると?」
 特に何の感情もないまま尋ねた理恵子に、おじさんは黙って頷いた。
 理恵子はまったくの無知だった。
 使わずに済んだ銭湯のお金は二百円。そこにいま、新たに加えられた二百円とコーヒー牛乳が何の対価だったのか、そのときの理恵子にはわからなかった。
 それでも、今、おじさんの家の風呂場で起きていた何かの代償として理恵子はこれを与えられたのだということだけは理解できた。
 これが、理恵子がその体を使って得た最初のお金だった。
 そしてそれから何度か、おじさんは理恵子を呼び止めて同じことをした。
 決まっておばさんがいない時。そしてどうやってそのタイミングを察するのか、必ず理恵子がお風呂に行こうとしている時だった。



  タチヨミ版はここまでとなります。


欲を出し過ぎた男

2022年4月12日 発行 初版

著  者:さら・シリウス
発  行:さら・シリウス出版

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さら・シリウス

 私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。  いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。  最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。  自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。  暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。  けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。    そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。  小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。  私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。  勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。  宜しかったら応援してくださいね(#^.^#)               さら・シリウス

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