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この本はタチヨミ版です。
蕎麦の香りを堪能し、それからつゆに付ける。最初は薬味を舞台に上がらせない。それが扇日向流である。
頃合いは三分の一ほどをすすってからだ。まずは本わさび。ちょうど良い刺激。次は葱。食感が出る。最後には生姜。これの風味が加わることで完成する。
「美味いな、おやじ。これなら番田屋にも敵うぞ」
「褒めすぎですって」
「いや絶品」
店主は照れたのか、少しだけ笑って奥へと下がった。店内には日向ともう一人。隻腕の侍だ。無心で蒸篭を食べている。
二人のすする音が静寂さと張り合う。
「橋さん、段さんいるかい」
入って来たのは男女四人組。
「おう、盛吉。喜三朗は買い出しだ」
「そうかい。じゃあいつのも貰ってくよ」
そう言うと四人は店の奥へ行き、手持ちには少し大きめの硝子瓶に酒が注がれる。その音は店内を静かに漂い、日向と隻腕の男の耳に注がれる。
四人は瓶の蓋を閉め、笑顔で店主に別れの挨拶をすると、嬉しそうに会話をはずませ帰っていった。
「おやっさん、俺も同じの頼む」
隻腕の男は酒の肴に蕎麦を堪能していたようだ。飲酒の残骸が転がっている。
「ずっと気になってたんだけどよ、その赤いのなんだい」
「ああ、これな、向こうの大陸の酒だ。ぶどう酒だとよ」
「ぶどうと来たか」
「美味いぜ。喜三朗のお墨付きだ」
「なら瓶ごと。釣りはいい」
男は懐から多めの銭を取り出し、店主に渡す。店主はあからさまに嬉しそうな笑顔だ。男は慣れた手つきで通い徳利と瓶を腰に巻きつけると、店を後にした。
「あんたはいいんですかい」
「酒はだめでな」
「そうですかい。甘酒ならあるが」
「もらおう」
日向は甘酒の徳利を受け取ると、店主に代金を渡す。
「釣りはいるぞ」
希望と期待に満ちていた店主の顔は、脆くなった落雁に変わった。
雷松園の文字が見えてきた。日向の泊まる宿だ。外観は伝統的建造物で、門構えも宿自体も圧倒的である。
「扇様、貴女をお待ちしておりました。こちらでございます」
宿の案内人が、日向を今宵の部屋へと誘う。風格が染みついた階段と廊下の先に、赤松の間と書かれた部屋。その部屋の戸が開かれると、まず見えたのは神々しくも荒々しい、龍の掛け軸だった。
「蘇我山観鐵の作にございます」
「迫力や良し」
眺めもよく、もうすぐ大洋と惹かれ合う夕日が拝める。期待に胸がおどる日向は、外で同じく日没を待つ男女たちにさえも、寛容になっていた。
贅沢な懐石料理を全て平らげた後、一休みすることにした。それ程明るくはないはずの、生暖かい行燈の灯りが、部屋を包むように灯っていた。
夜の露天風呂を楽しむため、日向は部屋を後にした。風呂に向かう前に、愛刀である天雷を預けるため宿の主人のもとへと向かった。
いかにも豪商という風貌の男と何やら話していた主人は、日向が近づいた時にちょうど話し終えたようで、休む間もなく日向に話かけた。
「刀でございますね」
「出来れば手放したくないが」
「しかし盗まれては大変でございますので」
丁重に刀を受け取った主人は、そのまま慎重に持って行った。
長い廊下の先に、大浴場がある。宿の主人の言った通りだ。廊下には等間隔で行燈が置かれ、外に広がる庭には燈籠がある。夜ではあるが冷たい暗黒ではなく、その健気な光は暖かだ。
大浴場にはまばらに人がいる。歴史好きの宿の主人の趣向か、浴場に鷹姫の彫刻がある。日向はその向こうの露天の湯へと向かう。
静まり返る夜の虚空に湯気が呑まれていく。
流れる湯の音と、周囲の自然の音が心も癒していく。
「先客がいたか」
「やっぱり。貴女は昼間の」
「それにしてもすごいお傷で」
「ただの古傷だ。時々ぶり返してな。おかげで湯治巡りが楽しめる」
「侍も大変なのですね」
「お主こそ町娘にしては、体中に生傷が多いな。力仕事か、それとも」
複数人の近づく気配や音がすると、二人の会話は自然消滅した。町娘はすぐ退却し、日向も程なく湯を後にした。
まだ残る名湯の感触と、体にそそぐ夜風の均衡は万全なまま、日向は釣り人たちを見つめている。併設された釣り堀は、一日中開放的だ。
「あんたやっぱ、扇日向だな。あそこの蕎麦美味いだろ」
片腕の男が竿を持ちながら、日向に話しかけてきた。
「知っているのか」
「知らない奴に会わせてもらいたいね。扇家の現当主の名前は、お飾りじゃねぇってことだよ」
「十年以上経つ。そろそろ飾りにしてしまってもらいたいものだ」
「言うなぁ。あんた」
「口も武具。そんなものよ」
「ところで鯉釣りがそんなに楽しいのか」
「暇人にはちょうど良すぎるってもんよ」
男は夜の水面に糸を垂らす。その波紋が広がると同時、女の叫び声が響いた。二人は周りが騒ぎ出すよりも速く、その悲鳴の方向へ走り出した。
すでに野次馬が群れをなしていた。部屋の中を覗き現実を目の当たりにしては、また一人、また一人と群れから旅立つ。
日向と男は、その光景に察しはついていたが、思わず体が動いた手前、確認せずにはいられない。しかし人の中を泳ぐのは、容易ではない。かき分けれど、また別の波が来る。
どうにか岸に着いた二人は、野次馬たちに真実を告げた。ざわめきが一気に空気を震わせたが、日向が戸を閉める音で一瞬止んだ。
その後は聞こえた声からするに、宿の主人がどうにかなだめているようだ。
部屋には四角い卓に突っ伏した男。瓶と徳利。肴を楽しんだ跡。
「手馴れてやがる」
「隙をついたか」
「しかも正確にな」
隻腕の男は突っ伏す男の上体を起こした。心臓をひと突きにされていた。
「短刀か短剣か」
日向は、瓶を持ち上げた。まだ酒の残り香がふらつく。
「やはりこれは」
「同じだな。あんたも一度」
「飲まん。それより、暗殺者はまだ近いはず。しかもこの瓶」
「狙いはあんただったりしてな」
「人の恨みはなるべく買わないようにしているつもりだ」
「俺もだよ」
遺体は宿の知らせで来た、役人たちによって運ばれていった。相変わらず、宿泊客はその話題で盛り上がっている。あれやこれや、嘘か誠か、様々な噂が飛び交う。果ては、殺されたのが、日向の弟だという言葉も聞こえた。弟はいないというのに。
日向は宿の主人に会いに行った。聞くべきことがあるからだ。
宿の主人は、役人に聞き取りされていた。
「特に怪しい者はいなかった、と」
「さようです」
「いや、検討はついている」
日向が割って入ったことで、視線は全て日向に向けられた。
「あなたは扇さんでなないですか」
「やはり、綾川殿か。なぜこっちに」
「応援と言う名の、使いっ走りです」
一気に疲れた顔をした綾川を見て、それ以上の質問を止め、日向は本題に入った。
「おそらくは四人組。実行は一人だろうが、四人とも絡んでいる」
店で見た四人組の特徴を伝える。伝えられた宿の主人は、宿の者を集め、心当たりを募る。
人海戦術を日向は思い知った。すぐに四人組の部屋は特定された。そしてすぐに向かう。綾川もまた、数人の部下を召集し、捜索に向かう。
隻腕の男はその様子を、少し離れて見ていた。夜でも今の時間帯なら、宿にはそれなりの灯りがある。
「さすが。朝廷御用達ともなりゃあ、信頼厚いねぇ」
男は独り言を置き去りに、尾行を始めた。
部屋の戸の前を取り囲むは、侍たち約十人。それは誰が見ても、異様極まりない。実際、その部屋の前を通ろうと試みた者は、皆諦めるか、違う経路を模索するかだ。
「綾川殿、某が開ける」
「承知。後はお任せを」
最小音量にした小声のやり取り以外、全員音を抹殺した。
消していた音を取り戻すかのように、勢いよく戸を開放した。突然の音で、怯ませる算段だ。
侍たちは、一気に中に突入した。
だが、中は空っぽだった。部屋の外から漏れ出す灯りが、ぎりぎり部屋を灯す。だがそれが余計に、中の暗さを際立たせている。
「無駄足か」
「そのようですな」
「潜んでいても、驚きで僅かに音を生むかとも考えたが」
日向は神経を研ぎ澄まし、集中して部屋の中の気配を探ったが、らしきものは何もない。
「気配なしか」
それよりも綾川の視線が気になり、我慢していたが、思わず振り向く。純真無垢な尊敬の眼差しだ。
「いやそれにしても、扇さん。刀無しで先陣切るとは、天晴れ」
「あ、ああ、そうだ。剣とは気」
「気概で打ち負けてはいけない。たとえ刀なくとも、敵と相対する覚悟。それが真の剣の道だ」
日向はそこで、己の大失態を知ることとなった。たいそうな出任せもおまけされたからには、冷えた視線も堪えるというもの。皆、氷のような空気を醸し出している。ただ一人、綾川を除いて。
日向は咳払いすると、今後の方針を述べる。
「四人組。この意味するところ、少なくとも標的は四人」
「つまり全て手練れ、と」
「最低でも、十人は始末してきただろうな。迅速だ」
「綾川殿、ここからは分かれよう」
「標的の見当も付いている。最善かと」
侍たちは四つに班分けされ、それぞれ違う方向に散った。さらに応援も呼ぶらしく、伝令係らしき一人が、走り去る。
硝子に囲まれた火が煌めく。そして、男の顔を照らす。
「申し訳ありません。数倉様」
「構わんよ、由乃。まだ機運はある」
「扇日向と同じ日、同じ宿とは。何たる強運」
「かの剣豪の首あらば、奴らも黙ろう」
男は、静かに長く息を吐く。
「しかし騒がせ過ぎたな、護郎」
「返す言葉もありません。次こそは」
「頼んだぞ」
四人は音を消し立ち上がり、またもや音を消し、部屋を去った。痕跡は、外から入った灯りだけだった。
数倉は昨日、趣味で買ったばかりの、好浜焼の壷を磨いている。磨かれた部分に火から放たれる光が当たり、より艶を出す。
「もしもの時は、頼みますよ」
「この白山可了、見事果たしてみせましょう」
剣客は刀を持ち、刀身を剥き出しにしてみせる。
「麒麟殺しの名にかけて」
日向は突風の如く、宿を進む。目を見開く宿の主人にお構いなく、天雷を要求。受け取ると、正に天に走る雷、日向は瞬く間に駆け抜けた。
ちょうど綾川の部下が廊下を走っていた。
「な、なんと」
「急ぐぞ」
戸を開けたそこに居たのは、やはり心臓をひと突きにされた、派手な着物の女だった。闇の中の、その異形な鮮やかさが、二人の心を握り潰そうとする。
「無念極まりない」
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年4月15日 発行 初版
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