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この本はタチヨミ版です。
きょうもまた、悦楽にも陶酔にもひたれないうちに型どおりのセックスが終った。
九条さやかはアルコールが少し残ったけだるい身体を半分起こし、栗林真也の肩をつついた。指先の、グレイッシュなピンクのマニキュアが少し剥げかかっている。
「ねえ、さっきの話だけど……ほんとに、どうしたらいいと思う?」
「…………」
真也は無言でリモコンのスイッチを入れると、目をテレビに向けたままベッドの脇のサイドテーブルに手を伸ばし煙草を探している。
「ねえ、聞いてるの? もうテレビ消してってば! いっつも、わたしの話なんかちっとも聞いてくれないんだから」
セックスが終ったとたん、おまえに用はないとばかりの真也の態度に、さやかは少しいらだった声をあげた。先月離婚したばかりのさやかだが、真也とは結婚前から続いている仲である。真也はついさっき彼女の中でくねらせた細長い指で煙草を探し当てるとジッポーで火をつけた。
深呼吸をするようにひとくち吸い、ため息といっしょに煙を吐いた。
「聞いてるってば……このままOLをだらだら続けるのは厭だから、どうすればいいかって話だろ? ほら、ちゃんと聞いてるじゃない?」
煙草とベンジンの入り混じったにおいがさやかのむき出しの肩にしみ込んでくる。真也はその油臭さがたまらなく好きだと言って、いくら彼女が嫌がってもやめようとはしない。
「聞くだけじゃなくて、将来のために転職した方がいいとか、スキルアップのための勉強をすればいいとか、なにかいいアイデアだとか、真也の意見を言ってほしいの。聞くだけなら猫でも聞くでしょ。もう、いっつもいい加減なんだから!」
聞こえているのかいないのか、目はテレビに向けたままで、真也は煙草ばかりふかしている。
「もうー」
彼は二つ下の三十二歳。事務機器の営業をしている。頼りない真也の態度からは想像もつかないほど営業成績はいいらしい。色白の甘いマスクとやわらかな物腰。お得意先のお局様たちに気にいられているのだろう、営業はすこぶる順調だという。確かに、真也の憂いを含んだ切れ長の美しい目でじっと見つめられ、お願いされたら、つい注文書にサインをしてしまいたくなるのも頷けるが。
八月の誕生日で三十五歳になるさやかは、四か月前に寿退社したばかりの会社に再就職はしたものの、毎日の仕事の中にやりがいを見いだすことができないでいる自分を持て余していた。なにも真也と結婚したいと言っているわけではないが、たまには真剣に将来についての悩みくらい聞いて欲しいと思う。
さやかの勤める星野家具は、創業百五十年を誇る高級家具専門の製作会社である。昨今では厳しいと言われているこの業界で長い間トップを走り続けているおかげで、友人に羨ましがられるくらいのサラリーはある。しかし、彼女は只の事務員で、家具のデザインをしているわけでもなく、企画に口を出せる立場でもない。このまま何十年か勤めあげたところで、お茶くみと接客とコピーの取り方がうまくなるくらいが関の山だろう。
真也は、さやかのことをバリバリのキャリアウーマンだと思っているらしいが、実際のところ、商談に来るバイヤーたちへのお茶出しや簡単な事務が主な仕事である。
さやかは最近、得体のしれない衝動が自分の内部からわき上がってくるのを感じていた。毎日、毎日、同じことの繰り返し……。毎朝決まった時間に起きて朝食をとり、身支度を整えて会社に行く。そして、気が向けばこうして真也と肌を合わせる。
高校を卒業して三十四歳になる今日まで、繰り返された日常……。
先月離婚したばかりの結婚生活はたったの二ヶ月足らずだったから、ほとんど十六年もの間、この生活を続けたことになる。
十六年間、確かに生きてきた。
生きてきたのは確かだが、砂漠のようになにも生み出さない不毛の生活……。
もう結婚しようとは思わない。いや、思わないと言えば嘘になるだろう。本心から添い
とげたいと思う男はほかにいるのだから。
しかし、その男はさやかの中で、結婚の対象ではない相手として位置付けられている。だからこそ、知り合ったばかりの男と結婚したり、将来を共に歩こうとは思わない真也との情事におぼれたふりをしてきたのかもしれない。
――このまま十年一日……代わり映えしない毎日を送って、どんどん年を取って、人生の幕を閉じるのかな――
そう思うとやりきれない。
このままではいけない。魂が、血が、沸き立つような、達成感を感じるなにか……。なにかわからないけれど、手を伸ばせばすぐそこにあるような気がして、一生懸命に手を伸ばしているけれど届かない……。そんなもどかしさといらだたしさに、このところ焦燥をおぼえていた。
一人で悶々としていても仕方がないと、一週間くらい前に親友の藤木美咲と丸山智恵に相談に乗ってもらうべく電話をかけた。 美咲は歯科医院の受付、智恵は証券会社のOLをしている。二人とも婚活で忙しいというのはいつものことだけれど……。
「ハーイ」
と、いつにも増してのハイテンションの美咲の電話は、今年に入ってすぐにたいそうなセレブと知り合ったという向こうの報告から始まった。〝デートにお買い物にエステ! それに彼がお仕事辞めてもいいって言うんだけど、代わりの受付がなかなか入らなくて。時間がいくらあっても足りないのぉ〟と、のろけと自慢の入り混じった話を、華やいだ声でひとしきり聞かされたものだから、相談する気も萎えてしまった。
もう一人の親友、智恵は仲良し三人組の中でただひとり彼氏いない歴十年とあって婚活はもっと切実である。
全国的にチェーン展開している結婚相談所の会員になって久しい。二ヶ月ほど前に会ったときも、この八年間で五十三人の男性とお見合いしたのよ、と妙な自慢をしながら大き過ぎる眼をクリクリさせて笑っていた。
しかし、さやかは、いつも眉間に皺を寄せている心配性の母親を知っているだけに、智恵の内心は穏やかであろうはずはないと思っている。智恵のほうも近況を聞かされているうちに話が終わってしまった。
さやかはこのふたりと高一の時に同じクラスになり、そのとき以来、大の親友になった。小学校や中学時代の友人もいるにはいるが、美咲と智恵ほどなんでも言える友達は他にはいない。それに他の同級生のほとんどは既婚者である。
共働きで家のローンに追われているか、子育ての真っ最中で髪を振り乱しているかのどちらか……。相談したところで相槌を打つ端から忘れてしまうだろう。バツイチ女の漠然とした〝将来の不安ばなし〟など、風に飛ばされた洗濯物の行方よりどうでもいい話に違いないのだから。
さやかは壁にかかっている時計に眼を遣った。安普請の板張りの部屋にそぐわない洒落た黒いメタリック塗装の壁掛け時計は、五・六年前の真也の誕生日に彼女がプレゼントした物である。
まだ十時をちょっと過ぎたところ。真也のアパートとさやかのアパートはバスで六停留所の距離だ。今から帰ってもゆっくりくつろげる時間は取れるだろう。明日は土曜で会社は休みだけれど、今夜はなんだか真也の男臭いアパートに泊まる気がしない。彼女は、背中を向けて肘枕をしながらテレビを見ている真也の腕を、両手を使って思いっきり外してやった。
それでも真也は何事もなかったかのように腕を戻してテレビを見続けている。お笑い芸人とその妻たちが暴露話をして馬鹿笑いしている番組である。
――なにが面白いんだか――
彼女はベッドに腰掛けて、床に落ちているバスタオルを拾いあげると身体に巻いて立ちあがった。止め方が悪かったのか、バスルームに着く前にバスタオルがするりとすべり落ちてしまった。真也の方をちらりと見ると、相も変わらずテレビを見ながら声を上げて子供のように笑っている。さやかはタオルを素早く拾い上げると、バスルームに向かった。
――よかった……見られたら、また言われるところだったわ。『昔は小さくても魅力的なおっぱいだったのに、今は肩甲骨とおんなじだね』って――
自嘲気味に笑った拍子に、またバスタオルがはらりと落ちた。
電気をつけていないバスルームの鏡は十四年前と変わりなくそこにある。
寝室から洩れてくる薄明かりが、すっかり張りを失った乳房を意地悪に映し出し、確実に時を刻んだことを証明していた。
小柄で童顔のさやかは、実際の年より若く見えるとよく言われる。しかし、化粧も髪も乱れたうえに、かくす物もなく、あらわになったやせぎすの身体を見れば、そんなことを言う者はいないだろう。横からの灯りが顔に嫌な陰影をつけ、彼女の顔を年齢以上に老けて見せている。
若い頃、アイドルの松田ひかるに似ていると言われた黒目がちの大きな目も心持ち小さくなり、法令線も深くなったような気がする。ふっくらとはじけそうだった頬も弾力を失い、最近は化粧水さえはじかなくなった。ハート型のセクシーな唇は男の子たちの視線をひとりじめにしたものだった。が、今はそれもたてじわが目立ちはじめ、熟れ過ぎてしなびたサクランボのように見える。
明るめの栗色に染めた髪も艶がなくなり、肩先に当たる感触もパサついて、肌に突き刺さる感さえある。十代、二十代と、弾ける若さの只中にいた頃は、年老いた自分の姿など想像だにしたことはなかったけれど……。それがそんなに遠い未来ではないことを、時の流れは確実に、残酷に、鏡のなかにその片鱗を映し出している。
彼女は手を伸ばしてバスルームの照明のスイッチを入れた。
バスルームから出たさやかは、ベッドの真也に眼を遣りながらブラウスの袖に手を通した。まだ少し湿り気を帯びた身体が服を着るのに抵抗する。
「だからぁ、さっきの続きだけどさあ……俺と結婚すればいいじゃん。何ヶ月か前に、おまえがわけわかんない男と急に結婚するって言いだしたときも、俺と結婚すればいいじゃんって言っただろ? 俺だってさあ、さやかと十年以上もつき合ってんだから、そろそろ年貢を納めたっていいと思ってんだぜ。なんで俺とじゃ、ヤなの?」
眼は相変わらずテレビに向けたままで、真也がのんきに尻を掻きながらそんなことを言う。
「君と結婚しても、わたしきっと魂が喜ばないと思うの……真也と結婚したら、半年もしないうちにきっと今と同じことを言うと思うわ。このまま結婚生活をだらだら続けるのは厭だから、どうすればいいかって!」
「なあに言ってんだか……セックスのとき、あんなに気持よがってアヘアへ言うくせに、終わったとたん、ワタシなんにもしてません! って顔してんだからよォー。それともゆるくなっちゃって、もっと大きいのが欲しいわ! ってか」
次々と卑猥なジョークを言い続けている真也の声を背中で聞きながら、彼女は通いなれたアパートのドアを閉めた。真也とは彼女が二十歳の頃からの付き合いである。
ある日、街でばったり出会った中学の同級生が連れていた男の子。それが当時十八歳の真也だった。姉である同級生の女の子とは全く似ていない美少年。姉からアドレスを聞いたのだろう、その日の夜にメールで告白された。
高校を卒業と同時に一人住まいをしていた真也のもとに、さやかはときおり通うようになり、またたく間に長すぎた夫婦のような間柄になってしまった。
現在、真也にはさやかも入れて九人のセフレがいるという。
――まっ、いまはセフレのひとりにされてるってことね――
ひとり妙な得心をして、さやかは坂道をくだりながら腕時計を見た。バス停は真也のアパートの坂道をくだったすぐ角にある。真也のアパートで会うときはいつもさやかが買ってきたビールとおつまみで乾杯する。だからここへは車を置いてバスで来ることにしている。おかげで、一時間に三本あるバスの時刻表も覚えてしまった。
――ラッキー! あと一、二分でバスが来るわ――
真也は今もテレビを見ながら笑っているに違いない。行き過ぎる車のヘッドライトに浮かぶバス停の脇の白いつつじが、今はすっかり枯れ果てて醜い姿をさらしている。
――この坂道を、わたしはいつまでのぼってくるのかしら――
さやかの頭の方隅で、〝別れ〟という言葉が浮かんでパチンとはじけた。
六月はじめの週末に、さやかは親友の山中玉雄とお気に入りの居酒屋で会っていた。玉雄とは実家が隣どうしで、物心ついたときからの親友である。
東京から電車で一時間ほどの、このA市にある建設会社で営業をしている玉雄は、サラリーマンには珍しい坊主頭だ。幼い頃から高校までずっと坊主頭がトレードマークだった。その彼が高校を卒業してすぐにアメリカに渡り、三年くらい放浪して帰ってきたときには、口の悪いさやかの母が〝まるで北京原人みたいね〟と言ったくらい髪も髭も伸び放題で、皆が驚いたものだった。
それから数ヶ月の間は社会人らしく七三分けにして就職活動をしていたが、就職を機にまた徐々に髪を切りだした。それも巧妙に毎月数センチずつ切ったせいで社長も気づかなかったのだろう、やっと気づいた社長に何度か髪を伸ばせと言われたらしいが、頑固な玉雄のことだ、言うことを聞くはずもない。
〝髪を伸ばさんとクビだって! 半分脅しだよ。まあ、それならそれで、会社辞めて親の手伝いでもするかな〟と、当時言っていたのを覚えている。しかし、すでに顧客の人気者になっていたものだから、社長のほうが折れたとみえて坊主頭についてなにも言わなくなったらしい。
百九十三センチ、百キロの体躯と坊主頭。一重まぶたの細い目が、玉雄をはじめて見た人間に畏怖の念さえ抱かせてしまうが、いったん玉雄を知ってしまうと、それがとんでもない誤解だったと気づきたちまちファンになってしまうらしい。
さやかの幼い頃のおぼろげな最初の記憶は、玉雄といっしょに水色のビニールプールに入って笑っている場面である。
夏の盛りの照りつける太陽の下、板塀とミンミン蝉と窮屈なビニールプールが置かれた小さな庭。プールにはなぜか不揃いの真っ赤なトマトがいくつも投げ入れられていた。そして、まわりにはたくさんの子供たち。
ホースで水をまく年長の男の子。なにが面白いのか、歯のない口を開けて笑い転げている小さな女の子、ケンカをしている男の子と女の子。今から思えば、あれは全部玉雄のきょうだいたちだ。
それでなくても目の細い玉雄が顔中笑っているものだから、目が線になっていたっけ。
ひとりっ子のさやかは子だくさんの玉雄一家といっしょに、三日に一度は夕食をとった。玉雄の両親は裕福とは言い難い野菜農家をしていたが、十三人も子供がいれば一人くらい増えてもわからなかったのか、はたまた寛大なのか、おかげでさやかは共働きの両親の帰りが少々遅くなっても、ひもじい思いも寂しい思いもしたことがない。
もっとも知らないのはさやかだけで、親同士の話はついていたのかもしれないけれど。さやかの母親のはるかは保険会社の支店長で帰りはいつも真夜中近く。
父の九条健吾は大工で、仕事は通常五時に終るのだが、仕事柄もあってか、つき合いでの飲みごとが多かった。それでも何日かに一度早く帰った日には、下げて帰ったスーパーの袋を広げて器用に夕食を作ってくれた。
父との暗黙の了解で、夜六時になっても玄関の扉が開かないとき、さやかは即座に隣家の十四人目の子供になってニコニコと食卓に座っていた。
同じ年の玉雄とは小、中、高とずっと同じ学校で、いつも仲のいい二人を、いとこか親戚だと同級生の大半が思っていたらしい。もっとも、玉雄は半年だけ東京の高校に通っていたことがある。
野球少年が多い中、何を思ったのか玉雄は中一の夏からバスケットをはじめ、バスケットボールで有名な東京のN高に入った。しかし、高一の秋にはさやかのいる地元の男女共学の高校へ転校してきたのである。
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年5月11日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス