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アフターコロナ・パンデミック

萬歳淳一

チーム「ええじゃないか」



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  この本はタチヨミ版です。

 目 次

アフターコロナ・パンデミック

或る教授の最期

不同意堕胎

蜻蛉夫人

アフターコロナ・パンデミック

「我々は新型コロナウイルスに打ち克ちました。国民のみなさんの勝利です」
 いつもは伏し目がちで覇気のなかった総理大臣が、口角に泡を飛ばしながら熱弁を続ける。
「皆様には、たいへん不自由な生活を長きにわたって我慢していただきました。よく自粛、自制を守ってくださいました。コロナの克服はまさに、全国民の努力の賜物です」
 官僚が用意した原稿を読み終えても、総理は弁舌を振るう。

「あぁ、総理は何もしなかったくせに、いい気なもんだよ」
 都心に近いK医大附属病院の食堂で、内科医の柴野俊介はテレビに向かって毒づいた。
「まだ重症感染者は生命の危険があるんだ。コロナとの戦いはまだ終わってないんだぞ」
「まあまあ、もう少しで家族に会えるようになるさ。お前は新婚だったんだろう?」
 同僚がラーメンをすすりながら俊介をなだめる。この二年間、県をまたいだ帰省は一回もできなかった。
「そうか、やっと家に帰れるのか」

「あなたー、ここよ!」
 妻の奈々子が手を振って迎える。ビデオ通話以外では二年ぶりの再会だ。
「奈々子、お前、少しやせたか? ビデオと雰囲気変わってないか?」
「そんなことないよ。俊介こそ少し太ったんじゃない?」
 病院に缶詰めでの食生活は劣悪だった。テイクアウトの出前より妻の手料理が食べたい。新婚ほやほやだったのに、二年間も会えなかったのだ。
 久々の我が家に帰ってきた。
「三年ぶりに花火大会が全面的に開催されます」
「今なら国内旅行、オール九〇パーセントオフ!」
 朝からテレビをつけていると、ニュースもワイドショーもコロナ撲滅のお祝い一色だった。
「あなたが医療従事者だからって、無料にはしてくれないのね」
 奈々子は頬を膨らませる仕草をする。
「あれ? やっぱりお前、顔やせただろう。ほら、頬のラインが。ここのところ」
「いやだ、やっぱりわかっちゃった? マスク生活が終わる前に、プチ整形をするのが流行ったのよ」
 夫婦でも離れていたら言えないこともでてくる。
「俺も奈々子に話さなくちゃいけないことがあるんだ。俺、病院、辞めるよ」
 今回、休暇をもらえたのもその理由だった。
「なんでよ? 疲れすぎちゃったの? そうなら、しばらくのんびりしてから考えても」
「内科医は、これからはもう充分足りているだと病棟医長に言われたんだ」
「ええっ? こんなに危険な目にあって身を犠牲にして働いたのに! これから、どうするのよ?」
「開業する貯金もないし、この近くで町医者にでもなるさ」
 奈々子は、不誠実な病院への文句をくどくど言い続けていた。

 俊介の再就職先は、なかなか見つからなかった。全国で医者余りが始まっていた。
「今さら、ほかの科に移るのも無理だしなぁ」
「お医者さんって、なんでも診れるんでしょう?」
「何年も臨床経験を積まないと、卒後研修で覚えた知識だけでは無理だよ」
 ソファに背もたれて、腕を組む。
「でも、俊介には働いてもらわないと困るわ」
 奈々子は自分のお腹をそっとさすった。
「さっき検査キットで確かめたの。妊娠反応陽性よ。明日、産婦人科に行ってくるね」
 俊介は嬉しさよりも驚きと無職の焦りで、その夜寝つけなかった。

 将来の計画もなく、俊介は呆然としてソファに横になっていた。
「俊介、大変よ!」
 病院を受診した奈々子が急ぎ足で帰ってきた。
「妊婦が走ったらダメだろう。いったいどうしたんだ?」
「どこの産婦人科医院もクリニックも、来年まで分娩予約がいっぱいでお産できる病院がないのよ!」
「え? そんなバカな事あるか?」
 そういえば俊介の働いていた総合病院ではここ数年、少子化の影響で産科病棟を縮小して産婦人科医を解雇していた。
「今日は診るだけは診てもらえて、妊娠二か月、間違いないって。これから、どうしたらいい?」
 ちょうどテレビ番組がニュースに切り替わった。
「全国各地で、お産難民が発生しています。今まで先行きの不安から子づくりを控えていた夫婦が、コロナ明けでいっせいに妊娠したためと考えられています」
 若い女性リポーターが、大病院の玄関前に並ぶ行列を取材している。
「主人が海外から帰ってこれて、ようやく授かったんです」
「景気がよくなって昇給して、子育てできる経済的な余裕ができたのに」
「再開した婚活パーティーで意気投合して、すぐにこうなっちゃいました」
 リポーターは並ぶ妊婦に次々とマイクを向ける。
「みなさん、やっと安心して妊娠できる世の中になったのに、この病院では医師不足を理由にお産の数の制限をしています。いったい、どういうことでしょう!」
 奈々子は、乱暴な手つきでテレビの画面を消した。
「あなた、産婦人科医になって! わたしとこの子のために。お願いだから!」
 俊介はため息をついた。内科医になって十年修業を積んだ。専門分野なら自信がある。しかし産婦人科は分娩介助も帝王切開の手術もしたことがない。自分にできるだろうか。

 次の日、俊介は奈々子にしぶしぶ促されて裏通りの古ぼけた「小田産科医院」を訪ねた。院長室で待っていたのは、昔の産婆のような風貌の老女医だった。
「柴野俊介です。医師の求人広告を見てお伺いしました。診療経験不問とあったものですから」
「院長の小田綾子です。ここで開業して三十年になります。この医師不足のときに来ていただけるとは、願ったり叶ったりですよ。明日からさっそく勤務してもらえますね」
 俊介と面談すると、院長は手放しで喜んだ。
「もちろん柴野先生の奥様のお産も、うちで引き受けさせてもらいますよ」
「しかし、私は産婦人科の経験が……」
「数をこなせば柴野先生もすぐに上手くなりますよ。なにせこの産科開院以来の大繁盛ですから」
 七十歳は過ぎている院長は豪快に笑った。小柄だが迫力のある、妊婦が頼れる好々婆といったところだ。
「困ったときは、うちの女性職員を頼ってください」
 硬い握手をされてから院長室を出ると、待合室で奈々子が待っていた。
「ほら、すぐに雇ってもらえたじゃない。『案ずるより産むがやすし』よ」
「赤ちゃんは産むも産ませるも、簡単じゃないんだけどな」

 俊介の産婦人科一日目の勤務は、初体験尽くしだった。当たり前だが、周りには若い女性しかいない。受付、看護師、助産師。患者も妊婦もすべて女性で、男は俊介だけだ。
「単身赴任中だったら、奈々子きっと妬きもち妬いていたに違いないな」
 にやけ顔でいられたのも、朝礼までだった。開院時間前から妊婦健診の患者が玄関前に列を成している。妊婦は病人ではないので、楽しみに健診にやってくる。
「えー? 今日の妊婦健診はおばあちゃん先生じゃないんですか?」
「男のお医者さんには診てもらいたくありません」
 初日から厳しい洗礼を受けた。小田産科医院は、医師もスタッフも全員が女性の医院として人気だった。俊介は自信をなくして、午前中は院長に代診してもらった。
 仕方なく産前産後の入院患者を回診したが、やはり不評だった。
「お産のときは、綾子先生に立ち会ってもらいたいわ」
「うちは旦那が心配症で、せっかく女医さんのいる病院を選んだのに」
 俊介にわざと聞こえるように囁く。内科医時代には経験したことのない、いわれのない非難だ。男性医師ということは変えようがない。信頼を得て受け入れてもらうしかない。俊介は決意した。

 午後は病棟の入院患者の処置を任された。
「この河内くんが何でも教えてくれるから大丈夫」
 院長お墨付きの河内玲子は、若いが有能な助産師だった。俊介が産婦人科独特の器具の名前が思い出せないでいると、患者に見えないようにすっと器具を差し出してくれる。
「柴野先生、クスコ式膣鏡ですね」
 口調は冷たい。早く覚えなくては。俊介は冷や汗をかいた。

 内科では、血を見ることは少ない。産科は血を見ない日はない。お産では五〇〇グラム以上ー献血一回分以上ー出血することもある。児が娩出された後、血だらけの胎盤を引っ張り出す。裂けた会陰を縫ってくるのも俊介の仕事だ。
「内科出身だからって、血を見るのが苦手なんて言ってられない」
 血の匂いのする手術用手袋を脱ぎ捨てて、俊介は一息ついた。

 深夜まで、産科の教科書と首っ引きで勉強した。ともかく妊婦の信用を得なければならない。
 産科クリニックの忙しさは、東京のコロナ病棟並みだった。外来で妊婦健診、切迫早産の入院患者の管理、昼夜問わずやってくる正常分娩に帝王切開分娩。もともと産科は二四時間年中無休なのだが、今は患者数が尋常ではない。院長は満床でも患者を断らない、仁義にもとり金儲けに長けた経営者だった。
「そういえば、同期の産婦人科医で過労で辞めたやつがいたな」
 ここで妻のお産も引き受けてもらっている以上、今さら辞めるわけにもいかない。
「コロナ肺炎で息苦しみながら亡くなる人を診るよりも、忙しくても赤ちゃんの誕生に立ち会うほうが幸せだ」
 自分にそう言い聞かせて、朝食代わりのカロリーメイトをかじりながら外来病棟に走った。

 ニュースキャスターが深刻な表情で伝える。
「いま日本は再び医療崩壊の危機にさらされています。コロナ禍を乗り切った働く世代に妊娠ラッシュが起こっているのです。
 本日の新規妊娠判明件数は、初めて一日で五〇〇〇人を超えました。このペースですと、来年一年間の出生数は二〇〇万人となりコロナ前の二倍、第二次ベビーブームを上回ります」
 画面が切り替わる。
「ここで東京都知事の記者会見をお伝えします」
 元女優の知事が明朗な声で呼びかける
「昨今の妊娠の爆発的増加に対して、都は独自の対策をとることにしました」
 フリップを指し示す。
「妊娠数を抑えるために、『三つの不』を提言します。
 まず一つ目は、『不要不急の夫婦生活の自粛』これは確実な避妊をしていただけたなら、すべてを禁止するものではありません。
 二つ目は『不妊治療の延期』を求めます。現在治療されている方は年齢の問題などあるかと思われます。しかし第三次ベビーブーム世代に生まれるお子さんは、厳しい受験戦争や就職難が予想されます。どうか将来のことを考えて計画的妊娠は控えてください。
 三つ目の『不』は、『不純異性交遊の禁止』です。コロナ後の気のゆるみで、未成年者の非行、補導が増えております。言うまでもありませんが、規律を正して秩序ある新しい日本の未来をつくっていきましょう。わたくしからのお願いは以上です」
 すでに妊娠してしまった妊婦を、社会の都合で中絶するわけにはいかない。これからお産が増えることに変わりはない。
 俊介の院内PHSが鳴る。分娩の呼び出しだ。
「俺は、コロナもお産も、いつも貧乏くじを引くハメか」
 自嘲しながら、俊介はまんざらでもない表情で分娩室へ急いだ。

 院長不在の夜、当直の俊介は初めて吸引分娩を経験した。陣痛が弱くて産道を下がってこれない胎児を引っ張り出す処置だ。トイレ詰まりのラバーカップを一回り小さくした吸盤を児頭にあてる。ホースでつながったコンプレッサーの圧力を上げると、吸盤と児頭が陰圧で密着する。そのままカップごと産道の下へ牽引して導く。
 理屈は簡単だが、産道のカーブに沿ってうまく引っ張らないと、カップが外れてしまい児の頭にダメージが残る。
 機器の準備は河内助産師が黙々と進めてくれた。
「長谷川さん、がんばって! この子は絶対元気に産ませてみせるから」
「今、今よ、いきんで!」
 コンプレッサーの轟音と妊婦の叫びが重なった。
「頭が見えたぞ!」
「柴野先生、吸引カップを外してください」
「あ、ああ」
 つるんと出てきた赤子は、大きな産声を上げた。
「長谷川さん、おめでとうございます。よくがんばりましたね」
「先生、ありがとうございます」
「赤ちゃんの頭が大きかったので、お産が進みませんでした。柴野先生の適切な吸引分娩で無事に産まれました。よかったですね」
 河内助産師が過分に褒めちぎると噂は広まり、翌日から妊婦たちの俊介を見る目が変わった。
「柴野先生が昨日、たいへんなお産を無事に取り上げたそうよ」
「最近、様になってきたわよね」
「先生の奥さんも、この産院でお産するんだって」
「旦那に自分の赤ちゃんを取り上げてもらうなんて素敵よね」
 男性産科医も、誠意と技量を分かってもらえれば信頼を勝ち取ることができる。久しぶりに早く帰宅した俊介は、奈々子とお腹の子に報告した。
「奈々子、俺案外、産婦人科医に向いているかもしれないよ」
「あら、わたしは分かっていてあなたにそう勧めたのよ」

 翌日、俊介は産科外来を担当した。妊婦健診のエコー検査は、内科のエコーとそう違いはない。子宮内の胎児は羊水の中に浮いていて、じっとしていないのが難点だ。
「妊娠五か月に入りましたね。よく動いていますね。胎動も感じるでしょう?」
「先生、男の子ですか? 女の子ですか?」
「うーん、今日は赤ちゃんのお尻が見えないので分からないですね。次の健診までの楽しみにしておきましょう」
 病気の患者を診る内科より、健康な妊婦を診る産科は明るい。妊婦はみんな喜んで帰っていく。
「そういえば、奈々子の診察を最近していなかったな。今日は早く帰るとするか」
 入院病棟の面会スペースで、お産を終えた新米ママさんたちがしゃべっている。
「お産ラッシュで、オムツも粉ミルクもどこも品切れなんですって」
「産まれる前から買いだめしておかなくちゃ。便乗値上げされそうね」
 俊介は一抹の不安を感じながら、家路についた。
 
 昼休みに俊介は院長室に呼び出された。
「柴野先生、折り入ってお話があるのですが」
 老婆の院長の迫力に、俊介はいつも圧倒される。
「産婦人科学会から『人工早産』により分娩日を分散させる計画がでています」
「まさか! 未熟児を産ませる気ですか?」
 妊婦さんたちはみんな我が子の成長を祈っている。俊介は毎日それを実感している。
「学会の指針では妊娠八か月以降で推定体重一五〇〇グラム以上の健常児に限る、とされてます」
「それでも肺が未成熟で、人工呼吸器が必要な児もでてきます」
「誠に言いにくいのですが」
 院長は窓を向いて表情を隠した。
「来週にでも柴野先生の奥さんに最初に試してもらいたいのです。医者の妻が無事に人工早産したら、ほかの妊婦も安心して後に続いてくれるようになりますから」
 俊介は今日まで産婦人科医になってよかったと心から思っていた。たくさんの子のために一部の子を未熟児で産ませる手伝いはできない。
「妻と考えてから返事をさせていただきます」
 こんなクリニック辞めてやる。院長の返事を待たずに退室した。ところが
「わたしその治療受けるわ」
 奈々子が思いもよらないことを言った。
「未熟児で産まれてくるんだぞ。分かっているのか?」
「だって予定日まで待ったら、満床でお産ができないかもしれないんでしょう? あなたがまたお医者さん辞めるって言うのも困るし」



  タチヨミ版はここまでとなります。


アフターコロナ・パンデミック

2022年5月10日 発行 初版

著  者:萬歳淳一
発  行:チーム「ええじゃないか」

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