───────────────────────
───────────────────────
この本はタチヨミ版です。
「——せんせー、ありがとうございましたぁ!」
昼過ぎの朗らかな陽気が辺りを占める中、玄関では快活なお礼の言葉が飛ぶ。窓口へ向けて元気いっぱいに告げる少女の笑顔を見て、室内にいた全員が笑顔を見せる。やはり子供というのは、元気が一番だ。
「こら、病院で大声出さないの」
「いいんですよお母さん。元気になってよかったね。もうあまり冷たいものばかり食べちゃいけないよ?」
「はぁい! またねせんせー!」
そうしてこの医院の主たる女医——山形なおみは、最後まで周囲などお構いなしだった少女とその母親を見送り、小さく息を吐く。これで患者の列も一応一段落だ。午後からの予約は一件も入っていないし、今日はいささか早く仕事を終えてもいいかもしれない。
「ふぅ……さて、今日は暇な時間が多くなりそうだし、溜めに溜めてたドラマやっとみられるかも! はぁぁ……田舎ってやっぱり最高ねぇ」
仕事中に今日の診察時間を適当に決め、まだ昼間だというのに終わった後の楽しみを考える。都会にいたあの頃では決してできなかった、悠々自適な生活。なんとも素晴らしいものだ。ここに子供の一人でもいればさらにいいのだろうが、それは夢物語というやつだろう。今となっては叶わぬ願いだ。
玄関から診療室へ戻り、散乱してしまったカルテやら何やらの資料を、患者さんごとのファイルに分けていく。本来なら患者さんのデータを間違っては決していけないため、こんな惨状にはならない。そこそこ大きい病院だったら、懲罰が下されて然るべき惨状だが、これが咎められることがないのも、個人経営の強みと言える。
「えっと……次郎さんはここで、美咲おばちゃんはここね。あれ? 佐久間さんのこっちに入ってる! あっぶない!」
この田舎の町に小さな医院を開院して、それからはほぼ毎日のように仕事ばかり。なおみはここまで生きてきて、ようやくこの土地に馴染めた気がしていた。他の人はそんなことないと言ってくれるだろう。だが、この感覚はきっと間違いではない。
「……まさか過去を綺麗に忘れられるまで、こんなに時間かかるなんて、思わなかったな」
作業を続けながら、なおみはふとそんな独り言を漏らした。
——元々、ここはなおみの両親が経営していた診療所だった。
父親が『男の先生』、そして母親が『女の先生』という呼び名で呼ばれていたことは、なおみの数少ない幼少期の記憶である。田舎のセンスのなさが垣間見れる逸話ではあるが、あだ名をつけられることは、辺境の地において、仲間だと認められた証でもある。実際、父と母の医者としての評判は、かなり高いものだった。
なおみも今となっては、二代目『女の先生』を襲名させてもらっている。が、あの時の両親と同じレベルに立てているとは、微塵も思っていない。純白の衣にいつも全身を包みながら、互いに協力して患者さんに寄り添う姿は、今もなおみの憧れであり、理想の医師像なのだ。
『私、東京に行きたい』
だから、なおみもまた医者を志した。自分も両親のようになりたい。両親のように誰かを救える人になりたい。その一心で。
しかし当然ながら、その道程は決して平坦なものではなかった。
東京でのスケジュールに縛られた生活は、比較的時間にルーズだった田舎から出てきたなおみには、まさに苦痛そのものであり、さらに入学した大学では、急激に速度と難易度が上がっていく学習内容に、なおみのキャパシティは脆くも崩壊し、何一つ手がつかない事態に陥ってしまう。
だが最も苦しかったのは、金銭面についての問題だ。
学費や光熱費に関しては、ありがたいことに両親の支援を受けることができた。だがそれだけでは、東京という娯楽の巣窟で生き抜くには心許なく、田舎で好奇心をくすぶられていた私は、その圧倒的なバラエティの高さに瞬く間に引き込まれ、上京の際に所持していた貯金をすぐに使い果たしてしまった。
「どうしよう……どうしよう……っ」
計画性のない金銭感覚と、開放感からの自堕落な日々。決して他人には話せない、後ろめたさの塊のような現状に、なおみは誰にも相談することができなかった。自らの力で全てをやり遂げる両親をみて育ったなおみには、誰かを頼るという手段が浮かばなかったのである。
——ひとまずはまとまったお金が欲しい。とりあえず高給のアルバイトを見つけなければ——
そうした先延ばしの意識が働いた結果、なおみが向かった場所。
それは——さらなる欲望ひしめく、夜の世界だった。
本末転倒な話だ。自分が娯楽に興じ過ぎてしまったツケを払うために、その享楽の只中に身を置こうというのだから。
だが当時のなおみには、自らの愚かさをかき消せる環境が欲しかった。今までドブに捨ててきた金を回収する中で、少しでも自分を忘れていられる時間が必要だったのだ。
幸いなことに、キャバクラでの成績は意外にもよく、新人にしてはそこそこの売上を出すことができた。しかし、そこに喜びなどは一切ない。あるのは、ただ今の生活が続けられるのかどうかわからない不安と、情けなさ過ぎる自分への嫌悪感のみ。金では満たされない感情だ。
こうなったら、もう全てを諦めて帰るしかない。両親に泣きながら土下座でもして、就職先を探すまでの間、家にいさせてもらうしかない。
かつて志した医者への道は、今にも絶たれそうであった。
そんな心のうちをふとひとりの客に漏らしたところ、思いもかけない言葉をかけられた。
「——凄いじゃないか! キャバクラで働きながら大学に通ってるのか! 医者になる夢の為に頑張ってる子なんてそうそういないよ! 僕に何かできることがあったら、遠慮なく言ってね!」
突如、彼との出会いが、なおみの疲れ果てた心に久方の希望を灯すことになる。その毛布のように柔らかく温もりの宿る言葉に、魅入られるように。
彼の名前は島田金男。東京都世田谷区に豪邸を持つ、いわゆる「お坊ちゃま」という類の男だった。
金男はなおみが働いている店の常連で、よく「新人発掘」と称して、入店したばかりのキャストと遊ぶのが通例だという客で、特定のキャバ嬢を指名しない人でもあった。後で話を聞くと、ここにいる女の全員が、あの人の接客をしたことがあるという。
なおみも例に漏れることなく、その発掘の対象となったわけだが、
「……凄い、こと」
なおみにとっては、ただの通過儀礼として捨てきれない、純粋な感激の念があった。
凄いこと。偉いこと。そんな言葉は、この欲望渦巻く夜の街に入ってから初めて……否、この東京に来てから始めて言われた言葉。不安に駆られ、明日すらまともに直視できなかった心にとって、これ以上の安定剤はない。
「また……来てくれたらいいな」
この時から金男の客とは思えない親近感と優しさに、日に日に惹かれていく自分を感じていた。それからしばらくの間、なおみにとって東京での生活で唯一ともいえる、幸せな時間が流れることになる。
「やぁナオちゃん。また隣にいてくれてもいいかな?」
「はい! ありがとうございます!」
あの後、金男は彼自身が決めていた従来のお決まりを無視し、何故かなおみだけを指名するようになった。
これがどうしてなのかは、今となっては確認のしようがない。だがこの事実は店の連中を驚愕させ、彼が太客なのも相まって、なおみのキャバ嬢としての立場と格を大いに上げる要因となる。
「あの人、また今月一位だって」
「マジで? あの変人をどう手懐けたかわからないけど、やったわねぇ~」
当然、その成長を快く思わない連中は大量に存在していた。だがなおみにとってそんな外野の文句など関係なく、むしろ日々の苦しみを忘れようと、より一層金男の懐に飛び込むようになっていった。
彼の話す話をもっと聞いていたい。彼ともっと一緒にお酒を飲んでいたい。彼ともっと同じ空間にいたい。
果たしてどちらが心地よい空間を提供していたのか、こうなってはまるでわからない。だがそれでもよかった。逢うたびに彼女の中で、金男への恋心が膨らんでいったのは確かだったのだから。
「僕と……結婚して欲しいんだ!」
——きっと、それ以上を望んでしまったから崩壊したのだと、今では振り返れる。
金男からの突然のプロポーズ。今まで何度かアフターでデートはしたことがあったが、それはあくまで営業目的の形式ばったもの。店で代々受け継がれたテンプレのデートコースだ。だから恋愛的な感情は持たれていないと思っていたのだが、
どうやら、彼の中でも真っ当な恋心が芽生えていたらしい。
「えっ? 結婚って……」
「そう、ずっと一生そばにいて欲しいんだ。そして、僕の子供を産んでほしい……」
自分は一介のキャバクラ嬢であり、彼はただの常連さん。それ以上でも以下でもなく、何かを望み合う仲になってはいけないと…………そう、わかっていた。わかっていたはずなのに。
「わ、私で……よければ……」
ここでもなおみは、わかっていながら人生最大の決断を下してしまったのだ。
それから話はとんとん拍子に進み、なおみは婚約の数日後、お世話になったキャバクラ店を潔く退店。そのまま金男の一人暮らしの家に転がり込むと、何もかも急な同棲生活を始める。
「とりあえず部屋はここ使って」
「はい……え? 金男さん、この部屋……ちょっと……」
「あぁ、元々この部屋は誰も使ってなくてさ。ちょっとゴミ溜まってるけど、少し掃除すれば問題ないよ。片付けもお願いね」
「は、はい……あ、金男さん。食事とかは何時頃にいつもされてるんですか?」
「適当だよ。食べたかったらなおみちゃんも適当に食べて。僕、ちょっと出かけてくるから」
結婚を前提の同棲だというのに、金男はなんの計画性もなくただ日々を無為に過ごしていた。これからどうしていくのか、なおみの親への挨拶はどうするのか、一番肝心な彼の両親への紹介は……。そんな質問もはぐらかされるばかりだった。正常な判断のできる女であれば、ここまで無責任な男との約束など信じるはずがない。それがわからないくらいに目が曇っていたのだろう。恋は盲目と、昔のひとはよく言ったものだ。
幾つもの夜を二人で迎えても、なおみに新たな生命が宿ることはなかった。当時はそのことを嘆き合ったものだが、今思い返せば、不幸中の幸いというべきか……。
もし身籠っていたら、今のこの自由は決してなかっただろう。
「父さんと母さんが……君との結婚を許してくれないんだ。だからしばらく、君のことを紹介することはできない」
かりそめの幸せに陰りが見え始めたのは、同棲生活を始めてから一か月ほど経った、ある日のこと。なおみがキャバクラ嬢の経歴を持っていることから、結婚を反対されてしまったという報告が入ってきた。
「じゃ、じゃあ、今までの話は——」
「——大丈夫! 君のことは本当に愛してるんだ! 両親はどうも頭が固くてさ、時代遅れなんだよ。だからなんとか説得して、一緒になれるよう頑張るから……もう少し! もう少しだけ待っててくれ!」
直面した不安材料に対する、明らかな不安と焦燥感。金男の鬼気迫る表情からは、常連客の頃から常に見えていた余裕や希望といったものは、欠片も見つけられなくなっていた。
——大丈夫……そう、きっと大丈夫よ。あの人は約束してくれたもの——
現実逃避と依存から始まった恋愛。その寿命は果てしなく短く、またこれでもかと言わんばかりに無残に消えていく。
それを目の当たりにする終幕の日は、すぐそこまで迫っていた。
「じゃあねなおみ、また明日!」
「うん、また明日ね」
報告の日から数週間後、大学の帰り道。なおみは未だ定まらない将来への不安を募らせながらも、笑顔を心がけての生活を送っていた。
キャンパス最寄り駅前のロータリーから外れ、やや細道の商店街を通り抜けると、郊外へと繋がる別の路線に乗り、揺られること二十数分。辿り着いたのはベッドタウンとなった住宅街。そして向かう先は、愛情が絶えず渦巻く優雅な住処。
「…………え」
だがその正門が見えてきたその瞬間、呼吸のために開いたなおみの口は、驚愕と絶句によって、塞がることなく固まった。
「な、なおみちゃん。お帰り……」
なんともばつが悪そうな表情を浮かべ、力のない視線を向けてくる金男。そしてその隣に立つ、一人の女性。正確なことはわからないが、少なくともなおみよりは一、二歳は年上だと思われる。そしてその左手には、まだやっと歩き始めたと思われる、二歳ほどの女の子の手が握られていた。
どうして金男の隣に女性がいるのか、どうしてその女性が自分を睨みつけているのか、その脇の子供は何者か。これらの視覚情報も、本来なら十分に驚く要因となり得るだろう。
だがこの時、なおみが最も驚嘆したのはそれらではない。
「あ、あなた……まさか……」
それは、彼女の丸く膨らんだその腹。肥満体型や栄養失調などによる変形では決してない、基本のすらりとした体型を維持したままの満月の如き輪郭。そんな特徴が女性の身体に現れる可能性は、たった一つしかない。
「ねぇ、あんた」
「あ、ちょ、ちょっと!」
威厳も余裕もない金男を押しのけて、女性は私の前に進み出る。
「この人との結婚、悪いんだけど諦めてくれる?」
——それからなおみを待ち受けていたのは、目を背けたくなるほどに悲惨な、さらなる驚愕の事実の数々だった。
まず一つ目に、金男にはなおみに隠していた女がおり、すでに一児を儲けていたこと。相手は当然、この目の前の女性だ。彼女は金男の親戚が紹介したお嬢様らしく、なおみが金男と知り合うずっと前から、縁談の話が持ち上がっていたらしい。その一児とは、もちろん隣のこの女の子だ。
そして二つ目は、これもすでにわかり切っていることだが、彼女のお腹には金男との間に作った第二子が宿っているということ。現在は妊娠九ヶ月で、もうすぐ二人目の子供としてその子は生まれてくるのだ。
それに先立って、金男の両親は、遊び好きでまだまだ結婚など考えたくないとのらりくらりの煮え切らない息子に逃げられないように、二人の結婚を強行し、彼女の実家もそれに協力。もはや結婚の話は避けようのないところまで来ているという。
要するに、なおみのような第二の女が現れたから、既成事実を見せつけてねじ伏せようという作戦なのだろう。「もう結婚したから、あなたが付け入る隙はない」とでも言わんばかりの所業だ。力技が過ぎる。
だが、その効果は絶大だ。
「じゃあ、私は…………」
物置替わりだったという豪邸のロビーで、なおみは金男を取り巻く状況と、自らの処遇を問う。だが心のどこかで結果が見えているからか、悲壮感こそあれ、涙は流れなかった。
「ごめん……本当にごめん…………別れて、欲しい……」
金男は声を震わせ、嗚咽を喉元に抑え込みながら最後通牒を叩きつける。言葉から察せられる未練は、果たして本音か演技か。どちらにせよ、今まであると信じてきた将来が完全に経たれた事実は変わらない。
なおみは考えていた。自分はこの言葉に、どう反応すべきなのだろう。ふざけるなと激怒し、妊婦と子供の前で喧嘩すればいいのか。それとも金男のことを「見損なった」と一生懸命に罵倒すればいいのか。
——違う、よね——
そう、どちらもきっと正解ではない。どんな事情があれ、これから正式な結婚を控える人達だ。そんな明るい未来が待っている二人に対して、罵詈雑言を並べるのは人としての品位を疑われてしまうだろう。そして何より、純粋無垢な子供に醜い大人の言い訳を聞かせては、耳が腐るというものだ。
ずっと逃げていたことのツケが、とうとう回ってきたのだと思うことにしよう。全ては自分の責任。自業自得だ。
「……わかった。なら最後に、これだけは約束して」
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年5月18日 発行 初版
bb_B_00173683
bcck: http://bccks.jp/bcck/00173683/info
user: http://bccks.jp/user/149942
format:#002t
Powered by BCCKS
株式会社BCCKS
〒141-0021
東京都品川区上大崎 1-5-5 201
contact@bccks.jp
http://bccks.jp
私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス