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新宿若松町

藤原洋

モリタ出版



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その1 服部良一さん

仕事の関係で神田駿河台から 新宿若松町に来た。住んだ家の 隣が 服部良一さんだった。
服部さんは 家をよく 転居されたようだ。
ここは 若松町である。最寄り駅は 都電の河田町だった。
服部さんは この三区物語の 一区 澁谷編で 触れた 高峰さんと 歌の関係があった。
因みに 1区は 渋谷南平台 2区は 神田駿河台 3区は 新宿若松町である。

というのは 服部さんの還暦パーテイがあった。此の時 遅い時間だったが高峰さんが 来られた。高峰さんと服部さんと言えば 「湖畔の宿」になった。
以後 忘れられない曲になった。それは 服部克久さんは 良一さんとテレビで ご一緒の所をよくみた。良一さんの 克久さんを 見る目は とても優しそうだった。克久さんも 隆之さんが 活躍するのを 嬉しく 思われていたことだったろう。
隆之さんは 百音さん 同様 現在ご活躍を されている。 4代に亘って応援していく。


その2 国立第一病院


新宿の家は 若松町70番地のような 場所だった。
昔は 戸山が原と連動した感じがする。
以前は ナンバー病院は 格式が有ったのだろう。
玄関も いかにも 昔に出来たような 道路から 入って来る。
若松町の街並みを 通過して 病院に辿り着く。
診察を 受けるまでもなかったが そこにあるだけで 安心感が有った。


その3 統計局


家から出て 西にいくと 統計局があった。その隣の床屋に行った。
床屋は 以前は 家で母親がバリカンで やっていて 初めて行ったので 思い出がある。
毎月行くのかな 思っていたが 慣れると 自然な事となった。
統計局は 珍しい名前で 言いにくい感じがしていた。これも 
慣れると 自然になる。
第一病院といい 統計局といい 昔の時代を彷彿していた。
それは 苦しい戦争の時代をも 思わせていた。  


その4 漱石記念館


新宿は昭和30年代 中間だった。
漱石記念館は その前は漱石山房だったのだろう。後に整備され開館されたのだろう。
若松町からは 下った位置になる。
漱石が 早稲田方面にいた 話はそれとなく聞いていた。
それで だらだら坂はこの辺り と 想像して 通過していた。
漱石の書斎というのか 小説を書いたという 机などは 簡単な作りの感じがする。
しかし 火野葦平の文机もそうだったが 素朴でこの机で よく書けたものだと 思わせた。


その5 戸山ケ原


昔は 陸軍関係の 施設が有ったのだろう、演習もやったのだろう。
現在では 考えにくいが 当時は大変だったようだ。蒲鉾のような 半ドームの長い
兵舎は 昔の映画でよく見た。その後 昭和30年の時代は 都営住宅があった。場所は 良い所なので
通勤 通学には いい場所だったろう。


その6 陸軍


教習所のような 施設をつくっていて 訓練もされたのだろう。
昔であろうが 大正生まれの 男性は 兵役で 戸山に上京し 訓練をうけていたようだ。
小生が 移り住んだ頃は まさに テントが 取り外された感じがする 風情だった。
厳しい時代に 戻ることが無いよう 祈っている。ここから 代々木の練兵所や ワシントンハイツ辺りは セットだったのだろう。そういえば 第一病院も射程距離内である。 
市ヶ谷の参謀本部も ほど近い距離だった。
極東国際軍事裁判は市ヶ谷台の 本部跡で行われた。その講堂を見せて貰った。法廷は部屋を
横に使った感じの設営だった。最初奇妙な向きだと思ったが、この方法しかなかったのだろう。記録映画等では この向きは あまり変には感じない.この講堂を 案内があり 一人で見た時 言いようのない苔むした 静かさを感じた。この向きとは 説明が悪いので分かりにくい
と思う。もう一度言うと ホールで 壇上と 観客席は 縦に並ぶものである。此の縦のラインに対して 直角に裁判の席は 造られた。横向きの方が 被告や 陪審員か裁判官が 配置し易かったのだろう。
もう写真しか残っていないのだろうが 一抹の虚しさは 消えない。
地下の防空壕は 大きな部屋だった。空襲等の際 幹部以下全員 退避したのだろう。


その7 高等学校


戸山も 名門高校を 残した。当初新宿がトップだった。
トップクラスの学校は 歴史を確り受け継いでいた。
第2学区も T大にむけて GOGOだった。その昔は 士官学校に向かっていたのだろう。
昔に帰って欲しくない 現代である。


その8 サントーク


このページは 大勢の人に聞いて欲しい。
昔大久保の角にスーパーがあった。
場所は大久保通りと 明治通リの 交叉した所と思う。
「三徳」といい スーパーだった。夕刻主婦が大勢集まっていた。格安にもしていたのだろう。
お使いで 行ったことも有るのでよく覚えている。懐かしくて 或る時その場所に行ってみた。
驚いた、サントークといい 高層ビルが 立っているではないか。名前から、場所と言い、
恐らく経営者が 関係するのであろう。 お店は 今もビルの一階に有ったので、中に入った。男性に様子を聞いたが、時代がはるかに違っていた。ただ もう高齢の方が引退して居られるようだった。羨ましいなんてもんでは無かった、当時夕刻大きい声で叫んでいたのが、店主だったのだろう。努力そして 親切等々 その結集が今の ビルだろう。いくつもの教訓が渦まいていた。


その9 柳町の楽しみ


都電の駅だった。若松町から下って 谷底に有るのが 柳町である。
さらに 飯田橋方向に上ると 漱石の言う矢来町である。
柳町は 交叉点だった、四方に伸びる。早稲田町も近い。
都電は 柳町で電車が溜まらないよう ゆっくり降りて来た。1台が 顧客を載せ 出発する
すると 次の電車が 上から降りて来た。そして前の電車は電力で 力を得たら 徐に登って行った。通学で使ったので、この坂もよく覚えている。
此れだけの 上り下りの 箇所は 23区内でも 少ないのではないだろうか。


その10 都電13番


4とか 9とか 13も 出来たら避けたい番号の気がしていた。
新宿から 秋葉原・水天宮前行だった。
角筈にでて 河田町から 矢来町 飯田橋 水道橋 お茶の水 を 経由した。
通学で いつも河田町で 大久保方向から 来る電車を 穴のあくほど見て
待ったものだった。


その11 矢来町


柳町から 登って来て 最初の電停が山伏町だった。
漱石の小説には矢来町が出て来ると 思った。漱石の言う矢来町は情緒がある。
いつも車掌は 牛込界隈を 走るとき 何か長閑な感じがした。矢来町の駅が山伏町
や牛込北町の感じがしていた。
乗ったのは 朝行は河田町 若松町 牛込柳町 山伏町 牛込北町 神楽坂 飯田橋 水道橋
水道橋で 乗り換えていた。
牛込台地の 中心的場所だったのだろう。


その12  飯田橋


13番も 牛込を 越すと 飯田橋に出た。一応上り電車として置こう。
飯田橋 水道橋 神田橋 お茶の水橋 聖橋 万世橋 このラインの橋は
趣と同時に 守りが 絡む気がする。橋は切り落とせば 相手は通過できない。
勿論 自分も渡れないが。
その手前は 神楽坂だったが 裏手から行く感じだった。
朝は 早く飯田橋から乗り換えの水道橋に 行きたかった。
帰りは 飯田橋を出ると 築土八幡に上って 行った。
牛込を超えるのだった。
早稲田方向から 靖国に向かって行き、帰りが 交叉するのが、飯田橋交差点だった。
飯田橋は 国電の方が 特色があった。それは急カーブした プラットホームだった。


その13 水道橋


お茶の水博士は 手塚治虫だった。
水道橋は タレントかも知れない。
都電水道橋は 13番都電から 乗り換えた。神保町方面に行くのである。
後楽園があり 講道館も近く 楽しい場所でもあった。
今では 裏の方に 能の舞台も有る。野球場は 常勝ジャイアンツの ホームグラウンド、
長く 野球界をリードしてきている。


その14 箱根山


戸山が原の箱根山
嘗て 漱石も近くを 歩いたのかなと 思う。
子供なら 鬼ごっこや かくれんぼに 最高だったろう。
大人なら スケッチに最高なのだろう。
小説家なら 散策に向いているのだろう。
小生は 前に書いたように シェパードの散歩で 大変だった。
このワン君 猫にはとっても 強いが 犬には からっきし駄目だった。
いくら小さくても 逃げるのだった。
 

その15 早稲田祭


大隈公の銅像は やはり貫禄あった。
大学祭は あまり行ってないが いい経験だった。
早稲田文学も あるなと 感じていた。大隈公は 爆弾を投げつけられたことが有る。
その時、こんな事をする人間は お金が無いのだろう。そこで 犯人側に お金を
渡したと言うのだ。驚いた、と同時に明治の頃 他にも例が有る様だった。


その16 角筈のイメージ


角筈は 新宿の隣の感じだった。
昔は 動物や農作業で 大事な所であるような 感じがする。
厚生年金会館も近い感じがした。
角筈は都電が通過していたと思う。分岐点になっていた感じだった。
その昔は新宿駅の東側が 角筈1丁目 西側が 角筈2丁目だったという。
やはり 何かある名前だとは思っていた。


その17 新宿のデパート


デパートは新宿三越が 小さいが メインだった。
勿論 デパートに順位が 有るわけでは無い。
伊勢丹が 隣のイメージ 丸井も有った。小田急デパートが 西口で 京王ストアーも あった。
現在と大分違っていたが 地形だけは どうしようもない。
京王もやりくりして 京王デパートとなる。
どのビルか 屋上でビール飲み放題をやっていた。1000円、おつまみは 乾きもの の他
中華関連である。料理は 種類は少ない。難をいえば、同じものは 飽きてくる。
10名強で行った。ビール飲み放題だから スポーツ系は トップを競った。
おつまみも そこそこに 飲むは飲むは・・・何杯か数える。
10杯までは あと言う間、20杯を越す。
トップは26杯だった。中ジョッキだが 杯を重ねると やはり人により 目を白黒する感じである。割安だったのかどうか、1000円で元を 取るには 10杯くらいだったろうか。
今とは 物価が 違うが 意外と飲んで 食べないと 元は取れなかったようだ。
此の時は 舞台で女の子が 踊るという時ではなかった。


その18 K高校



海城高校である。
偏差値の話や進学の話では無く、歴史を振り返る。それも昭和30年代中間からである。
男子校 中に入ったのは 夏季補習の口座だった。
校庭は 広めで 野球チームも 東京大会上位に 進出していた。
隣の H高校と 近く こんなに 隣同士か 珍しいと思っていた。
歴史をさかのぼれば いろんな話が有るのだろう。
今は グローバル化しているので 先ずアジアから 交流をさらにしてほしい。 


その19 H高校


保善高校である。
云うまでもなく ラグビーの名門高校である。
海城と 隣り合わせも珍しかった。
玄関にあたる グランドは 雨の日など グランドが グシャグシャだった。
練習のきびしさを物語っていた。
しかし 花園や秩父宮などで 好成績の時は 街に小旗が 棚引いた。
M高校や K高校・・など 都内でも強力校は 続いていた。


その20 厚生年金会館ホール


都内もまだ ホールが整備されている感じでは無かった。
それは時代と共に 発展してきたので 仕方無かった。
 クロードチアリの「夜霧のしのび逢い」など この時期だった。
開始時間の待ち合わせ調整 に苦労したが 懐かしい思い出である。


その21 アラビアのロレンス


ロレンスもこの時期だった。場所は有楽町だった。
素晴らしい映画だった。
ただ 内容や言いたいことは 別にして 砂漠が 上手く表現されていた。
アレック・ギネス だったかアンソニー・クインが ロレンスに 「俺と一緒に 砂漠に帰ろう。」
この セリフ 顔は 忘れない。勿論主役ピータ―・オトゥールも オマ―・シャリフも良かった。


その22 新大久保駅


大久保通り は先に書いたように K高校や H高校等 また三徳等 おなじみの
道路だった。
ところが 小生は別の土地に住んでいたが 大事件が起きた。
李秀賢君が被災した。関根カメラマンと共にである。
聞くと 酔客がホームから落ちたのを救おうとしたようだ。
あの駅のプラットホームはよく覚えている。とても狭い しかも高い、電車が来なくても
上がるのは容易ではない。しかも 夕刻ラッシュであろう。
残念でならない。
そして 李秀賢君の 隣人を愛する気持ちは 模範中の模範で有って 世界に説明したい。


その23 新宿駅


あずさ号など 有名になる前には 中央線もひたすら信州に向かって 長距離列車が
走る感じだった。
狭い駅の為 列車はゆっくり出発を 待つ余裕は無かったのではないか。
当時 引き込み線の余裕は なかったろうから、上手く貨物線等を 上手にやりくりされたのだろう。 その後東京駅方向から 始発を変えて出たようだ。お茶の水や 四ツ谷を ゆっくり走る特急は あれっという感じはしたものの 此れも有りか・・と思った。
東京を離れて いろいろ知恵を絞っているのが 嬉しい。偉そうに言うが・・・・
羽田の手前 京急鎌田 などそうだ 昔は横浜から 羽田直通 は有ったのだろうか。反対もしかりだ。


その24 若松町の管理人


母屋の裏に 管理人用の家が有った

もうだいぶ 前に廃墟したのだろう。朽ちていた。
聞く所では 自立され家をたてて 夫婦で別に住まれているそうだった。
伺うと 小さいが1軒屋で 住んで居た。丁度 大相撲中継があってた。
小さいが 生活のものが 揃い 不自由ない感じだった。
明るく 夫婦は 北陸から来たと言っていた。東京は 1軒屋を持つのは 難しい。
その点 努力されたのだろう 個人で家を持ち 楽しそうだった。
何か お手本のような 我慢と 強い努力を 感じて 別れた。



その25 鼠


或時 鼠が走っていた。
これは困る 捕まえよう。
洗面室に入ったので、ドアーを 入り口 風呂側 とも 閉めた。
一旦電気も消した。
勿論 中にいる。電気もつけ 迫った。捕まえるぞ タオルか何かは 持っていたと思う。
もう逃げられない 壁に上りかけているが 無理だ、それっ。
その時だった 思いがけないことが起きた。
「チュウ」 そう言ったかと思うと 小生の方に 飛び掛かって来るではないか。
 驚いた 一寸の虫にも ・・というが 吃驚して 捨て身について 考えさせられてしまった。驚いている隙に 逃げていた。窮すれば 通じるの例えだろうか。


その26 S高校


新宿高校である。
第2学区では トップ校だった。
機会が有って 中に入ったことが有る。
吃驚したのは 机の大きさである。特別だったのかどうか とても小さく感じた。
勿論 座り机だった。秀才たちも 机には 拘らなかったのか 臨時の何かなのか 判らない。


その27 ダンス教室


歌舞伎町に有った。
ダンスはレッスンと 交流の練習があった。
男性が 誘いに行く 女性は断われる。女性から誘われたら 男性は 断れない。
こんな ルールだと思った。
その時は 如何かと思ったが よくできているルールかも知れない。
ブルースから 始まる ワルツは 楽しそう。ルンバ そして タンゴ チャチャチャ
クイックステップ 等が あり 一応 形は 説明していた。
素質が有るのか ワルツに なかなか 進めない。
年齢に関係なく 此れからでも 出来るのかもしれない。


その28 スケート場


リンクは 空いている時期は あまりなかった。
同じ方向に 回る。時々 掃除が有る。
アベックで行くのが 楽しいのだろう。
都会のリンクは 意外と 便利が良い。ビルの 上にある場合も有るが
その点有難い。新宿編は 住んだ時代から 他の時代も入っている。
スケートは スケールで言えば 山中湖の湖上スケートが 面白かった。


その29 朝潮関


服部良一さん の還暦パーティー
そういえば 朝潮関が 車で駆けつけていた。
力士2名で ハイヤーも大きく揺れていた。若前田力士と一緒の様だった。
力士は こんなに大きなものかと 感じた。
服部さんも パーテイーはお好きの様だった。この日も朝から 順にパーテイーを開催されたようだ。そして 見習いの弟子など 広く誘われるのも 好きのようで お人柄が素晴らしい。


その30 ギター


ギターは好きだった。
クラシックである。会社務めになった頃 倶楽部の代表になった。早速部員の募集である。クラブ員の募集は、昼休み 短い時間を最大限活用する。「アルハンブラ宮殿」「アストリアス」
が 頭に上った。それぞれK大と G大の 上手なものが入社していたので 出演を依頼した。
時間が足りなかったが 見事に演奏して呉れた。お陰で2名 入部して呉れた。


その31 セゴビア


云うまでもなく 大御所である。
セゴビアが日本に来た。
ギター部の先生が 教わりに行った。かなりの人数だったようだ。
僅かの時間で、順序指導を受けたようだった。
「いいでしょう。」
それが 指導だったとのこと。
それを励みに 練習していくこととなったそうだ。


その32 イエペソ


「禁じられた遊び」
だれでも 聞いた事のある 曲である。
イエペソは 曲の演奏が 早いというより 普通なのだろう。
しかし セゴビアが ゆっくりなので 早くかんじるのだろう。
この2名は 大御所である。好みは それぞれだが 偉人であることは
間違いなさそうだ、


その33 ギター部の合宿


練習は 音が出るので
ホテルや 旅館など 条件をクリアーするため いくつか探すのだった。
練習は 嫌な面もあるが 苦労しないと いい演奏は出来ない。
イスや 譜面台など 整えて 和室で 練習も有った。
宿泊先は あまり遠くは 行かなかった。
練習を頑張っている人は 合奏だけでなく 独奏も上手になっていた。


その34 ベンハー


チャールストンヘストン
素晴らしい俳優で 名演技だった。

ベンハーは 戦車の格闘のシーン を初め 体格を生かした スケールの大きな俳優だった。
「十戒」は もう神と人間の 世界から 画面を みて恍惚となっていた。
新宿コマ劇場 も 全盛時代ではなかったろうか。
その後、ヘストンはライフルとの 接点が現出しているが アメリカ史に 残る
好リードを して欲しいものだ。


その35 武蔵野館


西口にある 数少ない映画館だった。

武蔵と小次郎の映画を 思い出す。
チャンバラを代表する この映画は 相当の興行だった。
吉川英治の傑作だろうが 巌流島は 時代に乗り 知らない人はいない と言う位
強いブーム となって行った。
当時 まだ「葉隠れ」は 理解できていなかった。その後も 簡単には判らなかった。
最近になって やっとこれではないか と思う。
「武士が 死ぬため」ではない 死が ある物が有る。それは死で 良いものではないか。

 
その36 甲州街道


甲州街道は 新宿から 見ると その方角は 山梨 甲府になる。
花形は 先の東京オリンピックの マラソンコースだろう。

アベベが 走った。調布の 飛田給が 折り返し点だった。
生活面からみると 街道は山梨の 物産を運ぶ イメージが強かった。
モモや葡萄ワインなど 果実は特に 美味しいものだった。
交通では便利だったのですが、時代によっては江戸は 防御の必要な 幹線だった。
家康の頃 甲州街道の行き着く先は 服部半蔵の半蔵門に至った。
家康は 甲斐源氏を大事にしたが 油断できない天領にしたのかも知れない。


 その37 平成天皇 御結婚式


権田原にて ご成婚後の パレードを 見た。
殿下そして美智子様の 輝いたお姿には 目を見張った。
道路は 馬車が走るため 砂が敷かれた。パレードの始まる前に 1頭の馬が 走った。
乗馬の係官か 物凄く 緊張していた。馬の上下動に 合わせて 上体を動かしている。
此の一頭の 馬が行った後 暫くして 錦の馬車が来た。何処とは知れず 万歳が 沸き起こった。
昭和34年4月10日のことだった。


その38 三島由紀夫


市ヶ谷では自決の時 大騒動だった。
昭和45年だった。新宿にも様子が伝わって来た。後日市ヶ谷のホテルを訪問した。
三島や森田が 集結してこのホテルから 出発した。
いま ロビ-は何も語らないが 経験したくない話だった。


その39 新宿と外国出身者


新宿区の成人式で 歌舞伎町地区か 半数以上が外国出身者という。
江戸川区の葛西では インド出身者の方が 活躍しているようだ。
それぞれ 日本良さを受け継いで 貰って 将来にいいものを 残して欲しい。


その40 東西線


その葛西方面に 東西線は走る。
東中野から 立川には 直線の電車道が伸びている。
その直線は 日本一かと思っていた。何となく違うかと思ったら、案の定北海道にあった。
その中野から 東西線の地下鉄が出来ると言う。
ある意味 都心を東西に結ぶ 画期的なものだった。


その41 淀橋浄水場


都民の水がめ 淀橋浄水場 長く役目を持って来た。
夕刻は 池面に 夕日が長く 棚引いた。
その最後は ビル群にバトンタッチした。東京都庁も その一角だった。
新宿以西は 江戸の水源の役目を 長く持って来たのだろう。
それは 東京を 色々の面で 支えて来た その一つなのだろう。
淀橋浄水場は 新宿の歴史を よく知っていた。
この水で いい仕事をした人が 多い筈だった。


その42 中央線


云うまでもなく 東京駅と高尾駅を 結ぶ。
東京を 東西に 斬る。

殆どの駅は 利用している。乗り降りしている。厳密に考えると 1~2外れるかもしれない。
神田から代々木は 総武線と一緒に考える。従って使っている。以西で  西国分寺が 残った駅で 乗車降車した駅だろう。すると恐らく全部使っている。一度に乗った距離で長いのは 東京 豊田間 かも知れない。
各駅 思い出が有るので 本に したら いいのだろう。勿論 期間は 65~70年有るから
時代は説明できるかもしれないが 薄っぺらになる感じがしてきた。


その43 梓2号


何故2号なのだろう。
1号では 歌いにくい と言って欲しい。
梓は 梓川から 来たら 嬉しい。
梓は デートで使うより 自然と親しむ方が 強くないか。
新宿から 出発から 東京駅など 変わったのではないか。
信州から帰って来るのも 新宿や東京でなく いろいろあって いいかもしれない。
それにしても 狩人 とてもいい歌だ。
新宿を よいしょ して呉れたとすると ベスト1か2ではないだろうか。


その44 荻外荘


近衛文麿の旧宅である。てきがいそう
最寄り駅が荻窪とは 知らず残念だった。
歴史に何度か 登場したのだろう。
大変な時代だったことが判る。
歴史は 時代と共に研究されるだろう、しかし 現代また 難しい時代に入ろうとしている。
昔に学び 新の時代を 無事に乗り切りたいものだ。


その45 マラソン


先のオリンピックは アベベが 優勝した。最初 西に走る過ぎる意見が 有ったと思う。
しかし、実際は素晴らしい東京オリンピックに なった。昭和39年。
その記録映画を I監督に任された。しかし 内容が S首相にクレームされた。
内容は 試合に関係ない中継があった。例えば選手が 国立競技場の外で 静かに座って下を見ている。雨が降って来た。その時は 競技場では別の競技が 決勝を迎えていた。
そんな 内容に対して 映画の作り直しが 指示された。 


その46 荻窪ラーメン


昭和初期から 作家文人が 荻窪他に 住み、お店も古くから 有ったようだ。
有名なったのは 昭和中期以降のようだ。
意識して お店を歩いたことが無かった。
いつか 訪れたいと思う。


その47 杉並公会堂


この辺りのシリーズは 新宿の親戚と 思って見てください。
日本フィルの シューベルトの未完成を聴いた。
渡邊暁雄の 指揮だった。優しいそして 丁寧な指揮は いい思い出である。
日本フィルも 頑張って居られるようだ。
この公会堂も 杉並合唱団などともに 忘れがたい。

その48 吉祥寺


井の頭公園は 有名で 駅名になっても不思議でない 気がした時が有る。
友人が 住んで居たので、思い出深い。
北口駅から ぐるりと回って 駅に帰って来る。
昔を 思い出すと 現在の駅界隈は 隔世の感っがある。
何処がどう 変わっていくのか 全く考えられない。
それ程 文化の発展は 力強いものなのだ。


その49 中野


中野プラザの出来る前は 戦後のイメージで 駅北を見ていた。
それは 陸軍中野学校 や 憲兵教習所などが 頭に有ったのだろう。
小野田さんも 生徒だったのだろう。
大変な時代、中野学校の 経験が前線で生きたのだろう。
小野田寛郎さんの 無事な脱出は 鈴木青年の活躍が無いと 目前で
悲しい結果を 迎える可能性が有った。
助かった状況と 中野学校が 妙な感慨を齎していた。
226など 時として 思い出す。しかし 絶対不幸な 時代を再現してはならない。


その50 中央線 2階建て

今では 当たり前だが 中央線が 2階を走る?
ピンとこなかった。それも 中央線と総武線双方が 乗る。
イメージが掴めないまま 徐々に出来る 姿を見ていっていた。
1階は 殺風景と思ったものだった。2階は 眺めがいい。
そして4車線が 見事に 揃ったのだった。
しかも東西線も 走れば 便利さは 相当なものだった。
そして 立川まで 2階建てになる様だ。
問題は1階を 活用に 知恵を絞っていきたい。災害対策 また 防衛である。


その51 ウナギや


南口から線路を越して 東側へ降りてきたところ。今の高島屋の前を東に行く。
そこに うなぎ屋が有った。
大きな ウナギで 草鞋わらじと 言っていた。
あじもよく こんな 大きなうな丼は 他にはないだろうと思っていた。
ちちに プレゼントした。
「西部戦線異状なし」こんな映画のあと 行った。
父は 一言言った。
「戦争って するもんでは無いな。」


その52 新宿の雪

高校卒業の時の パーテイと言うのか 食事会のとき 異常な降雪だった。
東口も 片づけの雪をうずたかく 重ねた。そんな感じの 思い出を作ってくれた天気は 今も鮮明な記憶を 残してくれている。新宿駅も 通過点の生徒に 後押しを忘れていなかったのだろう。
新宿は不思議な町で 澁谷と趣きを 変えている。
それは 夜叉であり 毘沙門であり 普賢菩薩である。
此れから一周して 文殊菩薩に 至るかもしれないし 走っていくままの 新宿かもしれない。


その53 アルタ


テレビの森田 タモリが 一気に名前を 上昇現出した。
上手な タレントというのか 好感度なのだろう。
最初テレビで アルタ ってどこだ と思った。
そして 新時代を 作ってくれて来ている。
 

その54 紀伊国屋


もともと 紀の国から来た名前だろう。
上部階の ホールに入りたい。
書物は 専門書ごとに 各階は 買いやすくなっている。
お店が 出来た頃は 神田の書店街に対して 新宿も変わるなと思った。


その55 新宿三越


日本橋に比較すると 可愛い感じだった。
友人が 就職した関係で 良く行った。
店舗が 各階四角だった。買いやすいのは 商品が 良かったのだろう。
世の中の 動きが デパート系を 変えて来た。
此の時 伊勢丹他は リードしていた。

その56 小田急百貨店


西口の一角を 弓なりに 盛り立てた。
只、店舗は狭い感じだった。特に地下の通路は とても苦心された感じがする。
新宿の地下道は 勢いのある流れの 構造になっている感じがする。
なので 小田急方向へは 昔は少し寂しかった。
今は 大江戸線など また西武線の変化等から いい方向になっているのだろう。
小田急線と デパートが もう少し近い関係なら お店も違っていたのかもしれないが 
それでも 工夫の跡は 創設以来 見受けられて 将来さらに 伸びるのだろう。


その57 京王デパート


京王ストアーと 言っていた時を 思い出す。
京王線が 都電と 結びたかったので それが実現したら 恐らく店舗は
変わっていただろう。
京王だと思った 屋上に1000円で 飲み放題のビヤーガーデンを 作った。
会社から 10数名飲みに行った。最高26杯中ジョッキ・・がいた。勿論体育会系だった。
それも ラッグビーでなく テニスの選手だった。
小田急に比べれば 京王は 私鉄線との関係で 有利だろう。
しかし 敷地というか 土地は もっと広く 欲しいのだろう。


その58 伊勢丹


伊勢丹は 4つ角にある。
新宿駅からは 遠かった。昭和30年代終わりころ 三越など から 営業成績で水が開いていた。
将棋のK九段(元名人)が ご家族で来られたりした。大学もW大で 新宿は射程距離だったのだろう。ラグビーに力が入り また 何かと努力され 今日になったのだろう。
伊勢丹 1階の 商品を じっくりみて 購入 上の階で うんと美味しいものを
食べるのも いいのでは無いだろうか。 例え夢でも。


その59 ビッグカメラ


昭和時代なら ここに お店は出せなかっただろう。
時代が ビッグ等 量販店では無かったし デパート系の 販売は 長く 強かった筈だ。
今や ネット時代になり 空中戦も 世界的になった。
東京は 世界のやはり 中心の筈であろう。
各国のスパイは どうするのか 議論をして安全な 道を探る必要あろう。
そうしないと 男は勿論だが 女性は たまったもんでは無いだろう。


その60 新宿西口 生保A社


既に 会社は そこにない 移転している。
東京 先のオリンピックの頃
当時は9階建てで 高さ制限が有ったのだろう。
地下は5階まであった。これは 珍しい筈だ。地下階には 和室 小体育館 書物保管庫 床屋 
小喫茶店 1階にも小喫茶店が有った。駐車場も持つ。
地上8階は 数百人の 大食堂 中喫茶店。1階はに ピロティあり そして ホールは数百名入るものあり等 当時は画期的なビルだったろう。
現在は 特殊なビルが 出来ている。当時も 地下道が 新宿駅西口から 延びて 地下2階で
会社の 地下入り口になっていた。
ビルの外観は 重厚な 落ちいた雰囲気だった。隣のS学園は ひばりさん 吉永さんのゆかりの学校だった筈だ。


その61 五胡めぐりの前に富士登山


富士山は 1988年8月8日8時8分8秒8
この前の日に登った。前日山から 降りてくると何故かこれから上る人が多い。
しかも前の日は 日曜日だった。なぜ月曜日にかけて 上るのか 後で分かった。
8月8日を 期して富士と名の付く 山々の石を 持ち寄ったようだ。
従って 祈念の石は いまも 有るのだろう。
やはり 富士は ごつかった。特に下りに 閉口した。ジグザグの 長く 多い事。
終わる頃 横に歩く場所が有ったが 落石の危険を 考えて 歩きぬけた。
見上げると いつ落ちても不思議のない 石石が 口をあけたようだった。


その62 山中湖



山中湖で スケートを した事を 書いた。
この湖は 大きいと同時に 富士を確り 掴んで居る。
富士山の上から見ると 湾曲しているのが 良く判る。独特の形である。
箱根側から 来ると御殿場を経由して 山中にはいる。
河口湖と 対照的な面がある。娯楽的ではないが、ゆったり別荘気分を味わうのに いいのだろう。山中湖の山荘で 肉を焼いたのは 懐かしい思い出である。それも バケツの大きさの
いれもの しかも ニンニクを入れているものだから。電車で 運んだ時ハラハラ した。



その63 河口湖



5湖では 一番観光的な感じがする。
富士の写真もいろいろ撮れるようだ。
山本丈晴さんも 縁が有ると思った。
ゴルフ場も 近い コンサートなどが有る 花火も有る。

山中湖と 違う 夜を迎える 感じがする。
そして 残る 3湖へ 誘うのである。

河口湖番外編であるが こんな話が有る。
或時 銀座で お芝居が有った。山本富士子さんが 出演する。
山梨から 観客がくる。バスで出たのだが 渋滞に巻き込まれた。開始に間に合わない。
観客とは ある会社の招待者の人達、開始以後に入っては 興ざめだった。
ところが 観客が 着いてホールに入る。人数は数十名だった。
拍手が起こった。観客は 吃驚した。ホールに着いてはいると
「拍手が迎えたの」という。
ここから先は 山本富士子さんに聞かないと 本当の事は判らないのだが、・・・
山梨は 山本丈晴さんの 故郷である。確か 河口湖近く。富士子さんは 館内で時間が来て
開始を待っている 顧客に こう話したのではなかろうか。
「只今 開始の時間でございますが お客様で 少し遅れた方が
御座います。山梨からです。御承知のように 山梨は 私も ご縁がございます。
皆様の お許しが 頂けましたら 開始を少し遅らせていただけましょうか。」
此れが 拍手になり 到着後の 開演に成ったのではないだろうか。

 そう考えて 一人でジーンときた。そして エンターテナーは凄いものだと 想像していた。

その64 西湖


河口湖から 車で走ると 直ぐ西湖に入る。
この5湖は 名前が 独立的で 面白い。
スケッチが 一番特色を 掴めるのだろう。その為には2~3泊した方が良いのだろう。
さいこ は 言いやすい。5湖めぐりは あわてて 通過する 感じがした。


その65 精進湖


西湖の絵と 比較すると 水面が 確り 横に太い線で
 描ける気がする。精進したのだろう 今も 昔も。
言葉で言えば 濁点のついた 文字で 書く感じだ。
海抜が 同じの湖 同志。特色は 好みに合わせて ネット検索もいいのだろう。
今は いい時代で ユーチューブなど 資料が十分だ。


その66 本栖湖


本栖湖は 深いと思った。
そして 紙幣か 硬貨のデザインになっている筈だ。
その同じ 背景で 写真を撮る。
本栖湖は 時間を 取って 短歌でも 作ったらいいのだろう。
本栖から すすきを 背景に入れて 絵を描いたら いいのだろう。
詳しいものは テントや バンガロウ キャンピイングカー を 上手に 使って
雰囲気を 楽しむのだろう。治安に 気を付けて。
拙い経験では 本栖湖は 縦のラインの生きた 絵を 想像した。
文章も 書きやすく 題材を 得やすい感じがする。


その67 禁じられた遊び



ギターの音色を 最初聞いた時
どこから 来るのか この音局
そして心は 締め付けられた

禁じられた遊びが お墓に関係しているとは 思わなかった。
そして イエペソの写真は 東京に貼ってあった。
最初の メロデイは 上から 下がってくる
この 流れで 始めて 進める 流れは 殆ど 他の曲は無いだろう。名曲だ。


その68 「十戒」 


この映画も 凄かった。
チャールストンヘストンも ユルブリンナー も 良かった。
絵になる。というより 絵の連続だった。
海が割れるシーン は 観客は 皆 口を 開けていたのではないだろうか。
ヘストンさんの 変身も見たいし アメリカ社会の平穏を 願い もって
日本も 平和で 侵略されない 国に なりたい。
モーゼ と言いながら 平和安心への願いを 込めている。


その69 ツタンカーメン



金色のカーメン王の マスクは 目を見張った。
埋葬の時 将来の 21世紀を 見越していた感じである。
その神秘さは 埋葬者が 涙を こらえて仕度したのが 想像できる。
この頃 美術品の展示が 続いた。
それは 長い行列で 時間を掛けても 作品を 見た瞬間 疲れは ふっとんでいた。


その70 ミロのビーナス


ビーナスは 見学者の 都合を よく考えて 貰っていた。
広い部屋に 台座を 高くして ゆっくり やや下を 見おろす。
この部屋は 見る人は 回って欲しかったようだ。
小生は ビーナスを見ながら 自分の人生を振り返っていた。
何故かは判らない。心は 地中海に行っていたのだろう。
ビーナスの 傾きは 愛情を示しているのだろう。
その白色は あくまでも 純粋だった。秘めた 真の強さを 学ばせてもらっていた。
主催者は 嬉しかっただろう。コメント集を 作って貰ってそれを 読みたかった。


その71 「考える人」ロダン


上野の西洋美術館に ロダンが 常設された。
考える人は 学生には受けが良かったのだろう。
なぜなら 努力中で 励みに 成った人も多いだろう。
もう調子にのって 銅像を想像するより 前を走っている人間は 気にしなかったろう。
カレーの市民 地獄の門 接吻 など 名作が 出来て行った。
大分経ってのこと カミーユ・クローデル を知る
事実か どうか 判らないことも有るが 芸術の前で 思わぬ展開を
神は 与えるのだろうか。
上野の森に ロダンが 出た頃から 上野の森も 新展開を見せたのだろう。


その 72 新宿から横浜へ


従来 横浜へは 新宿からは 不便だった。
渋谷か 品川に出ないと 直通は無かった。
その点 成田エクスプレスもいい。
もともと 山の手線の 貨物ラインは もったいない気がしていた。
それが 第二環状とも言える 発想の転換に なったのだろうか。
新宿から 横浜に 乗り換えなしで行けるとしたら 昔
ロマンは 果てし無かっただろう。と同時に 中華がもっと 口に入っていただろう。

 
その73 三島由紀夫


このニュースも 新宿勤務時代に 聞いた
市ヶ谷で蜂起した時だった。まさか 三島がさて、何をどう考えているか
全く分からなかった。ただ、小説家としての立場は昔と違っている感じはしていた。
それは芝居など現場では、厳しい見方も有ったのだろう。
三島が文学者だと思う、一つに「天国から届いたバースデーケーキ」が有る。
天獄からとは 三島自身が送ったのだろう。
実際は 存命中に ケーキ屋さんに いついつ 届けてくれと 言っていたようだ。
これは 同じことを して見たくなるものだが 危険な考えだろうか。


その74 青梅街道


甲州街道は 信玄を連想するし 山梨の果物
また 観光地に繋がる 表のイメージが強い。しかし 表とか裏 陽と陰
過去には 屈託なく使った言葉も 見直すべきものは多い。
青梅街道は いぶし銀の感じがする。上手に 青梅街道沿いを 住まいにしたなら
通勤と 買い物を クリアーしたら 満足ではないか。住むには 一般の喧騒は少ないのかもしれない。或る時車で、いわゆる下りの甲州街道を避けて 青梅街道を走った。大分感じは違った。
何より ぼつぼつ甲州街道に出よう。何度も考えて 先になって戻ったが 都会は
環状方向には 弱いと実感した。
しかし立川辺りから 青梅 先の大菩薩を連想するに この青梅街道は貴重な感じがした。
市川雷蔵の「眠狂四郎」を 思い出すのだった。
柳沢峠 松姫峠 詳しく歩いておけばよかった。

その75 市ヶ谷自衛隊


先の太平洋戦争は 大変なものだった。
様々なもんだいが有ると思う。
一つだけ誰でも 考えると思う。もう二度と戦争はあってはならない。この事だ。
市ヶ谷台は参謀本部があった。東條の責任は 極東裁判でも 記録されている。
しかし 東條も最初からの 姿勢と後の姿勢は 全く違っていたようだ。
戦争の責任論もあるが、誰でもその場では、素の道しか選べない何かがるのではなかろうか。
市ヶ谷の中を 歩かせてもらうと、幾つか将軍の自決跡があるようだ。
東條も 難しいかじ取りを担ったのだろうか。


その76 令和天皇 雅子様ご成婚式パレード


パレードを 見ようと 大勢の人が 街に繰り出した。イギリスでもある、花嫁さんを
一目見たいのである。
皇居から 赤坂方面にパレードは 道順が 組まれた。
週刊誌でも 雅子様が右側 左側 いずれかから 良く拝見出来ると 大騒ぎだった。
お車の進行方向の 左側が 雅子様だった。桜田門辺り 地下鉄から出るのは 雅子様の
座席側に 人々は 集まって行った。地下鉄もパレードの進行に併せて
臨時口など 開設そして 閉鎖していた。従って 雅子様側が殆どの人で 地上に出たら
反対側に引き返すのは もう無理だった。
そして 地上に出た人はもう 雅子様側に拘る人は少ない筈だった。
実際に パレードが 通過しても 見える事は 殆ど無かった。それ程人で大きく
膨らんでいたのだ。反対側をみると 人が少なく自由に行き来していた。羨まし・・
もうどちら側が 妃殿下どころでなかった。
勿論 雰囲気は十分で 天気も良かった。
物事とは 人の考えないことを 考えれるものだと 痛感した。

その77 歌舞伎町の未来


歌舞伎町は昭和30年代後半から 見ている。
辛い歴史も経験した。世界中の人が 集まる状態になった。
歓楽街は 都市にはつきものである。
先ずは 英語からそして インターナショナルの 健全な町になって欲しい。
そのためには 渋谷も含め 健全のPRそして コンペをしてほしい。
オリンピック 世界選手権を 開催しても 何かが変わらないと意味が無いと言って
良いのではなかろうか。
歌舞伎町は 日本の歓楽街の 健全の リード 率先垂範を 取って欲しい。


その78 大江戸線



若松町は 最初転居の際 あまり便利が良くないと感じた。
実際に住むと 都電やバスしかないが 静かでよい所だった。
勿論 東京は徒歩を活用すると 凄い町なのだ。
今は コロナ 治安で 良くないが 昔のいい面の 時代に戻る必要が有る。

そいう話から 大分経って大江戸線が出来た。
構想 ルート 将来性 など吟味の必要が有る。それはそれとして 河和田町若松町としては
将来を睨み 素晴らしい街区を 造って欲しい。
嘗て 陸軍の関連施設 国立第一病院 学校 放送施設など リードしてきた。
現在は 世界の人間がくる 大久保 そして 李秀賢君の 理想を
体現したいものだ。
 

その79 更に西へ


新宿は 山の手線では 西寄りで有り 3区の住まいを 経験したものとしては
もう転居はいらない筈だった。
しかし これまた 中央線を西に乗ることとなった。
日野市が その町だった。最寄り駅は豊田だった。
土方歳三が 縁の有る町のことは 後に知る事となった。
日野市を 団扇の 手元とすれば 3区 渋谷・千代田・新宿7は 団扇の先、モミジ手
だった。
日野から 新宿は 甲州街道の メイン道路 そして 服部の半蔵門へ 続く 大動脈である。
それは 家康の 心臓の 防備に当たる 元も大切な 花道であった。
東海道に比較して 天領とした甲斐の国の 力 運 健 を全身で
甲州街道を 経由して 受けて 真の 実力の 覇者になりたかったのではないか。


その80 西へ



若松町を 離れて 3年経たないうちに 勤めで新宿に
戻って来た。従って ここからは 新宿から 見る目で 世界を 書いて行きたい。

新宿若松町

2022年8月6日 発行 初版

著  者:藤原洋
発  行:モリタ出版

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