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誰にも見せない顔・他短編集

さら・シリウス原案・ナリタマサキ執筆

さら・シリウス出版



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  この本はタチヨミ版です。

 
目 次

誰にも見せない顔

すてきなご縁

強い風に吹かれて

探偵事務所のオプション

海峡の点滅

お楽しみはこれから

おわりに



誰にも見せない顔

 真佐美はバスルームの窓を開けて空を見上げた。どんよりと曇って、今にも雨が降りそうな気配だ。まるで自分の人生のようだ、と真佐美は思う。高校を出てすぐに勤めたホームセンターを辞めてまで結婚したのに、たった三年で慰謝料もろくに貰えずに離婚する羽目になってしまった。要領が悪くて手に職もなかったから、三十半ばなのにラブホテルの部屋の清掃くらいしか仕事が見つからない。
 深い鼠色の空を呑気に飛んでいるトンビがうらやましい。自分には羽もなければ、飛び立つ勇気もない。顔も知らないカップルの生々しい欲望の後始末をして回るような人生を送ることになるなんて、思ってもみなかった。バスタブも風呂場の床もローションまみれで洗うのに手間がかかる。いったいどんな使い方をしたのかと腹を立ててみるものの、そんな経験のない真佐美には客の行為がまったく想像できない。
「あとで誰かが洗うってことにも気がつかないんだよね、そういう人たちって」
 ベトベトになったスポンジをすすぎながらつぶやいていると、不意に中学時代の思い出がよみがえってきた。地味で目立たない真佐美は、周りからいいように使われがちな存在だった。特に一軍と呼ばれるクラスの中心人物たちからは、まるで子分か召使いのような扱いを受けていた。
「おい、掃除当番代わってくれよ」
「でも……私、今日は部活があって、急いで行かなきゃ……」
「なんだ、オレ様の頼みが聞けないってのか?」
「決められた当番は自分でちゃんとやらないと……」
「いいから黙って代われよ。掃除なんて汚い仕事、お前みたいなブスがやってりゃいいんだから」
 真佐美に陰で掃除当番を押し付けてきたのは、クラス一の人気者だった奥山だ。サッカー部のエースストライカーで、クラスの代表委員も務めていた彼には他のクラスの女子にもファンが多く、バレンタインデーにはダンボールにぎっしり詰まるほどのチョコレートが集まるほどだった。ユーモアもあって明るく、いつもニコニコと笑っている奥山は、みんなの前で真佐美をないがしろにするようなことはない。それどころか、真佐美が誰かにバカにされていると庇ってくれることすらあった。そんな奥山が、誰にも見せない顔を真佐美に向けている。あの人気者が本当はこんな奴だなんて誰も知らないだろう。真佐美がそれを誰かに言ったところで信じてもらえるはずもない。ドラマで言えば主役とエキストラのようなもので、観客は主役にしか興味がないのだ。
「掃除なんて汚い仕事……か」
 手に持ったスポンジをぼんやり眺めながら、あのときの奥山はその仕事で生計を立てるしかない私の将来まで見通していたのだろうかと真佐美は考えた。
 そのとき部屋の電話が鳴った。真佐美があわてて出ると、
「あんた、その部屋いつまで掃除してるの? 早くしてくれなきゃ困るじゃない、次のお客さん待たせてるのよ!」
 清掃グループのチーフにいきなり怒鳴られた。

「そんなに気にするんじゃないわよ。真佐美が仕事で失敗するなんて、いつものことじゃない」
 その夜、親友のなぎから電話があった。
「そうね、次から気をつければいいか」
 渚沙の声を聞くと、沈んでいた真佐美の心はふっと軽くなる。
 真佐美と渚沙は小学校三年生のときに同じクラスになり、たまたま席が隣同士だったこともあってすぐに仲良くなった。渚沙は性格も明るく、目が大きくぱっちりとしていて、当時テレビでよく見ていたアイドルグループにいても不思議ではないような子だった。しかも、父親は県内でも有名な企業の経営者で、真佐美とは家庭の経済レベルが段違いだった。
 そんな渚沙が、どうして自分のようなパッとしない子と仲良くしてくれるんだろう。そのことが真佐美にはずっと不思議だったのだが、機嫌を損ねてしまいそうな気がして訊ねたことはなかった。
 小学校を卒業すると、二人の進路は大きく分かれた。真佐美は地元の公立中に進んだが、渚沙は私立の中高一貫校を受験して見事合格した。合格を知らされたときには、真佐美も自分のことのように喜んだが、これで渚沙ともお別れかと思うと心が痛んだ。
「これからは別の学校だけど、真佐美とはずっと友達だからね」
 満面の笑みで言う渚沙に、真佐美は作り笑顔でうなずくことしかできなかった。どんなに仲が良くても、お互いに違う環境になれば疎遠になっていく。そういうものだと覚悟していた真佐美の思惑は、思いがけず外れることになった。
「真佐美、大丈夫? クラスでいじめられたりしていない?」
 真佐美がひどく落ち込んでいると、渚沙から電話がかかってくる。
 中学に入ると真佐美は無口になった。いじめの対象とまではいかなかったものの、クラスメートが自分を馬鹿にしていることが痛いほどわかった。中学生くらいの年頃に、弱さを見せることは致命傷になる。自分よりも弱いものを叩くことで安心する周囲の人間から身を守るため、真佐美は自分の殻に閉じこもるようになった。
「……今日もみんなにバカにされた。数学の授業で、当てられた問題が解けなかったの」
「真佐美、算数も苦手だったもんね」
「うん。先生も、私ができないのをわかってて当ててると思う」
「ひどい! みんなの前で恥をかかせるなんて」
「……いや、問題が解けない私が悪いんだし」
「もっと勉強しなよ! 今度当てられたらサラッと正解して驚かせてやればいいんだよ」
 真佐美の愚痴を聞いて、渚沙は一緒になって腹を立ててくれる。時には慰めてくれ、ときには尻を叩いてくれる。真佐美にとって、渚沙は無二の親友と呼べる存在になっていった。

 真佐美は高校を卒業すると就職したが、渚沙は東京の女子大に進学した。いわゆるお嬢様大学というところで、早稲田や慶応といった有名大学の学生とも、サークルやコンパで交流があるようだった。
「この前、サークルのOBが持ってるクルーザーに乗せてもらったの」
「友達に誘われてパーティーに行ったら、あの有名バンドが生で演奏してた」
 渚沙が聞かせてくれる華やかな学生生活は、まるでマンガや映画の中の出来事のようで、海の底でじっと息を潜めるように生きている真佐美には眩しすぎるほどの甘美な世界だった。
 一方の真佐美は、面接でうまく応対できなかったことで就職活動に失敗し、市内のホームセンターでアルバイトとして働き始めていた。ガーデニングコーナーの中でも地味な家庭菜園のセクションに配属され、重い土や肥料を相手にする毎日だった。苦手な接客も一生懸命にこなし、他のアルバイトが嫌がる品出しや棚卸しなどの業務も率先して当たった。要領は決してよくないが真面目な勤務態度が認められて、一年後にはアルバイトから正社員になった。
「よかったじゃない! 真佐美はやればできるんだから、もっと自信を持たなきゃダメだよ」
 そういって真佐美の正規採用を喜んでくれた渚沙は、大学を卒業すると大手広告代理店に就職した。
「ドラマの撮影の立ち会いでクライアントと一緒にテレビ局に行ったら、カフェのシーンのバックで打ち合わせしている人の役で出てくれないかって言われちゃって、もう困っちゃった。私ただの一般人なのに」
 派手な業界話を聞かされるたび、同じ小学校に通っていたのにこうも人生が違うものか、と真佐美は思う。

 真佐美と渚沙は、その後の人生もまったく対照的だった。
 二十代半ばになった真佐美は、ホームセンターに出入りしていた業者の坂本という男と付き合うようになった。ひと回り年上の坂本は朴訥な中年男で、真佐美に猛アタックしてきた。そんなことは人生で初めてだった真佐美は、初めての恋人に舞い上がってしまった。ほどなくしてプロポーズされ、勤めをやめて家に入ってほしいという頼みにも何も考えずに首を縦に振った。
 しかし、結婚して坂本の家に入るとその頼みの意味が分かった。坂本の母親は重度の認知症を患っており、真佐美はその介護を任された。夢見ていた新婚生活ではなく、朝から晩まで姑の介護にあたる毎日が始まった。坂本が探していたのは妻ではなく無料の介護ヘルパーだった。それを裏付けるように、坂本はしばらくすると外に女を作った。もしかしたら真佐美と付き合う前から関係のある女で、面倒な親の介護を真佐美に押し付けて、自分たちだけ楽しもうという魂胆だったのかもしれない。
 渚沙は真佐美よりも少し遅れて結婚した。相手は都内にクリニックを開業していて、たまにテレビにも出演する松原という精神科医だった。あとで渚沙からハワイでの挙式の様子を見せてもらったとき、真佐美は松原の聡明そうな眼差しに思わず見惚れてしまったほどだ。
 そんな真佐美の結婚生活は三年で破綻した。先も見えず報われない介護に疲れはて、離婚届を置いて逃げるように家を出た真佐美だったが、行くあてもなく、渚沙に頼るしかなかった。
「……それは本当に大変でしたね」
 哀れな姿で家に転がり込んできた真佐美に、松原は心の底から同情してくれた。
「真佐美から話は聞いていたけど、そこまでひどい目に遭ってたとは知らなかったわ」
「ごめん……なかなか本当のことまでは言えなくて」
 伏目がちに言う真佐美を渚沙がなぐさめる。その様子を見ている松原のまなざしに、どこか冷ややかな色が浮かんでいることには誰も気づいていない。

「渚沙とは別れようと思っているんですよ」
 呼び出されたホテルのラウンジで松原にそう告げられ、真佐美は驚いた。突然何を言っているのだろう。
「あの……どうしてですか? あんなにお似合いで、仲も良さそうなのに」
「まわりからはそう見えるでしょうね。実際、夫婦仲も悪くはありませんし」
 離婚でボロボロになった真佐美が松原と渚沙に世話になってから、早いもので六年が経とうとしていた。時折家に招かれることはあったものの、こうして二人きりで会うのは初めてのことだ。
「彼女は、ずっと仮面をかぶっているような人なんです。本当の顔は誰にも見せない。僕は精神科医の端くれですが、結婚するまでそれに気がつきませんでした」
「渚沙の、本当の顔?」
「実は、渚沙はコンプレックスに支配されています。たぶん親から完璧な娘であることを求められていたのでしょう。そうしなければ見放されてしまうという恐怖から、本当の自分を隠すようになったのだと思います」
 家庭環境にも、才能にも、ルックスにも恵まれて、何不自由ないと思っていた渚沙が、そんな事情を抱えていたなんて。真佐美には松原の言葉がまだ信じられない。
「いくら精神科のお医者さんだといっても、そんなこと本当にわかるんですか?」
「本人が隠そうとすればするほど、ちょっとした仕草や言葉の端々に出てしまうんですよ。たとえば……渚沙が真佐美さんのことをどう思っているか、とか」
「渚沙は私のたった一人の親友です!」
「そうですか……残酷なことを言うようですが、渚沙はそう思っていませんよ」
 さっきからこの人は何を言っているのだろう。怒るよりも困惑する真佐美に、松原が続けて訊ねてくる。
「昔から、あなたが困ったり落ち込んでいるときに限って、渚沙から連絡が入りませんでしたか?」
「私がちょっとしたことですぐに落ち込んでしまうから、そのタイミングに合うことは多くなりますよ」
「落ち込んでいる理由や状況について、根掘り葉掘り聞かれませんでしたか?」
「私のことを心配してくれただけです」
 松原に反論しつつ、真佐美の心のどこかに「もしかしたらそうなのかもしれない」という思いが湧いてくる。それを否定したくて、真佐美はたまらず席を立った。
「ごめんなさい、これで失礼します」
 真佐美が足早にラウンジの出口に向かうと、そこには渚沙が立っていた。
「渚沙……?」
 どうしたの、と続ける前に頬に強い痛みを覚えた。渚沙に平手打ちされたのだ、と真佐美が理解するまでには時間がかかった。
「ひとの旦那と何してるのよ! こんなところで」
「えっ……」
「このところ様子が怪しいと思って、興信所を使って調べていたのよ。まさかあんたなんかを相手にしていたとはね」
 違う、私は松原と二人で会うのは今日が初めてだ。不倫なんかしていない。真佐美はそう言いたかったが、体が硬直して言葉が出ない。
「私が今までどうしてあんたの相手をしていたか知ってる? 面白かったのよ、不幸なあんたが!」
「……」
「いつもひどいことばかり起こるあんたの不幸な人生が面白かったから、友達のふりをしていたの。ほかの友達は金持ちで苦労なんてしてないからつまらない。その点あんたは子供の頃から不幸ばっかりで、そのへんのテレビや映画を見てるよりもずっと面白かったわ」
 興奮を隠そうともせず自分を罵倒しているこの女は、本当に渚沙なのだろうか。無二の親友だと思っていた真佐美を、陰であざ笑っていたのだろうか。これが、渚沙が誰にも見せなかった顔なのだろうか。
 呆然と振り返った真佐美の視線の先に、松原の姿があった。
 自分は利用されたのだ、真佐美はそう直感した。渚沙に疑われていることを知って、本当の不倫相手をカモフラージュするために真佐美をここへ呼び出し、鉢合わせするように仕向けたのだ。おそらく、この醜態を理由にして渚沙との離婚を有利に進めるつもりだろう。
 口元に冷たい笑みを浮かべている松原を見て真佐美は思った。これも誰にも見せない顔なんだろうな……と。

                        [了]



すてきなご縁

 近所を散歩してみようと思ったのは、窓から差し込む明るい陽射しに誘われたからだ。引っ越して三日目、郊外にあるアパートは今まで住んでいたところよりも広くて家賃も安い。
 アパートから歩いて三十分ほどの場所に小さな公園があった。遊具で楽しそうに遊ぶ子どもたちの姿を眺めながら、カスミはベンチでひと休みした。木陰をつくる新緑が美しい季節になった。今までの自分は最低だった、とカスミはつくづく思う。ここで自分も心機一転、生まれ変わらなければならない。

 短大を出てからずっと勤めていたのは吹けば飛ぶような中小企業だったが、カスミはそこの陰の実力者だと勝手に勘違いしていて、自分から派閥争いに加わっていた。派閥争いと言っても、創業者の社長と叩き上げの専務という絵にかいたように陳腐な対立構造で、傍から見れば単なる内輪もめに過ぎなかった。専務派に属する直属の上司に頼まれて、社長派の邪魔をしているうちはまだカワイイものだった。経理部という立場を悪用して、社長派の社員の必要経費をなかなか認めなかったり、書類のささいな記入ミスを見つけては「いつも間違ってばかりで、これだから仕事ができないっていわれるんですよねヤマシタ係長は!」と、本人の目の前で営業部じゅうに響くような大声で罵ったり。上司の言うことを真に受けて、専務派が善で社長派が悪というシンプルな理解しかしていなかったから、カスミとしては社内にはびこる悪を成敗していると思って使命感に燃えていたほどだ。タチが悪いことこの上ない。自分も単なる一社員、それどころか役職すらついていない平社員なのに、社内抗争を扱った人気ドラマの主人公にでもなった気分で、どうでもいい嫌がらせを繰り返していたのだから。
 ところが、海外情勢の影響で取引先の輸出部門が縮小することになり、そこに部品を納めていたカスミの会社も大きな痛手を受けた。売り上げの大幅な減少は避けることができず、社員のリストラ話も公然と噂されるようになった。その候補の筆頭に自分の名前があると聞いて、カスミは驚くというよりも冷静に「なるほど……その手で来たってわけね」と芝居がかった声でつぶやいた。能力不足などで会社にとって有益ではない社員を整理するという、非常にまっとうな理由のリストアップだったのだが、自分の存在を脅威に感じている社長派がリストラを隠れ蓑に排除しようとしている、とカスミは思いこんだ。



  タチヨミ版はここまでとなります。


誰にも見せない顔・他短編集

2022年7月5日 発行 初版

著  者:さら・シリウス原案・ナリタマサキ執筆
発  行:さら・シリウス出版

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さら・シリウス

 私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。  いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。  最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。  自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。  暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。  けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。    そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。  小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。  私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。  勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。  宜しかったら応援してくださいね(#^.^#)               さら・シリウス

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