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ブーンドッククルセード1

北村恒太郎

北村恒太郎出版



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 目 次

アクト1(第一幕)スウォードマン(剣客)

シーン1「打合せ室」
シーン2「車中」
シーン3「川原」
シーン4「病院」

アクト2(第二幕)デュエル(決闘)

シーン1「路上」
シーン2「社長室」
シーン3「社長室つづき」






登場人物 奈舞喜太郎(なまいきたろう)…ニュースキャスター 
     耕下仙人(たがしたせんと)…根端(ねばだ)署の警部補 
     千山 紅(せんざんこう)…同巡査長 
     辺田和門(へんだかずと)…公安特別捜査官 
     社長…インターネット事業MⅠNE社長 
     アオイ…秘書 
     トモエ…同 
     ゾウさん…剣客
     半次…同

アクト1(第一幕)
スウォードマン(剣客)

シーン1「打合せ室」

 この殺風景で、ただ広いだけの倉庫の一室のような部屋は、空気がよくなかった。いや、空気清浄機は良く働いていて、空気はいつにも増して澄んでいたが、中にいる二十人近くの人々から立ち上る思いが、雰囲気を重苦しくしていた。
喜太郎には察しがついていた。スタジオでの微妙なぎこちなさから、あたりにいるスタッフの言うであろうことの内容はおよそわかる。そろそろ誰かが言い出すだろうとは思っていた。
 「じゃ、降りてくれというわけですか?」
 「いや、そんなことは言ってないよ」
 「そうでしょうね、これほどの人気者を降ろせるわけがない」喜太郎はぬけぬけと言ってのけた。
 「あたりまえだよ、視聴者が承知しない。俺がこの俺が番組を降りるって?クビを切られるって?ふざけてもらっちゃ困りますね。戻りたいんですか、二年前に?あの最低最悪のお荷物時代に?誰のおかげでこんなにスタッフが増えるようになったのかなあ、一番広い打合せ室があてがわれるようになったのは誰のせい?」
 部屋のほとんどのメンバーが首をすくめた。が、部長はひるまなかった。部長と常務が反省会に出てくるのは異例のことだ。
 「いや、喜太さん、もうすこしトーンを落としてはもらえないかと、まあ相談しているわけなんですよ」
部長は平静と平穏をよそおいながら言う。
 「じつはね、このところ官邸筋にもマークされてるようなところがあってね…」常務が援護するように言う。
 「…その、終始にわたってだね、一方的すぎるんじゃないかと…君の言い方がですね…」
 「断る!」
喜太郎はすべてを断ち切る天の声のように言い切った。
 「視聴者は拍手喝采している。政治権力に真っ向から立ち向かい、一歩も引かない姿に誰もが胸のすく思いをしている。
決して妥協しない、ブレないのは俺が確立した俺のパターンだ。知ってるでしょう、今や,すべての報道の先頭を走っている。どのニュースもワイドショーも俺を、この俺を意識している。MHKのキャスターでさえ俺の後に続いて俺のマネをしているんだ」
 「彼は左遷されたよ」プロデューサーがぼそっと言った。
 「君のマネをしたばかりに」
 「MHKの上が悪いのさ。そうだ、今度はこの点を突いてMHKをヤリ玉にあげてみよう!」
 「やめてくださいよ、喜太さん、アメリカのテレビショーじゃないんだからさ」ディレクターが泣きつく。
 「話はそれるが、君のような話題の人は常に文巡の盗撮スパイにも気をつけていてくれよ」
プロデューサーが言った。
 「今のテレビ界の台風の目だからな」
 「文巡といえば仲間じゃないですか、反権力の。連携したっていい。協力しあって政治のウソを暴く企画はどうですか、スター同士の連携は数字に出ますよ」
 「なんだか君は自分の力を弄んでいるような気がするんだけどねえ」
常務はさすがにスタッフは言えないことをさりげなくやんわり言った。
 「何が悪いんですか、俺は俺のこの能力をもっともっと試してみたい。どれくらい視聴者を動かせるのかどうか、できるかぎり試してみたい、面白いですよ、自由自在にあやつれたりしたら。世論を支配する、これは快感ですよ」
 「扇動者か…」常務が低い声で言った。
 「清河八郎だな。幕末だったら暗殺だ」
 「何の話だかわからないんだけど。どうでもいいけどね」
喜太郎はほぼ無視の体だ。
 「昭和だったら右翼が会社に押しかける。局の前で街宣車がわめく」
 「喜太さん、私はね」プロデューサーが言った。
 「この前の番組の中で、君がやっつけたあの大臣の、あの目が忘れられないんだよ」
 「まったくもってあんなボンクラが大臣とはお笑いでしたね。何にも言い返せなかったですもん」
 「だから君のそういうところがだね…」
プロデューサーはさすがにいらだったが、喜太郎はさっとさえぎるように常務に向かって言った。
 「常務、話はそれだけですか?今日は別口の打ち合わせも入ってますんで、このへんで…もうジャーマネの家洲の奴が入り口に車を回してる頃で。このへんで失礼します」
 「ずいぶん仕事が増えたもんだね」
部長が皮肉っぽく言った。
 「テレビ以外にもいろいろありまして。同盟が講演の打ち合わせがしたいってしつこくてね」
 「ちょっと!君が選挙に出るというのはホントの話なのか?!しかも同盟の目玉候補として?!」
プロデューサーがあわてて問いかけたが、喜太郎はそれにはまったく応えず、
 「いつも入り口と出口で出待ちしているファンの連中を追っ払っておいてくれませんか。うるさくてかなわないんだよな」
と捨てゼリフのように言い残して、そそくさと打ち合わせ室を出て行った。後に残った一同は憮然とお互いの顔を見合わせる。

シーン2「車中」

 「あれ、いないな、どこだ?おーい、家洲!」
 テレビ局のエントランスにはマネージャーの姿はなかった。出入りする関係者の姿もなく、もちろんいつも声をかけてくる常連のファンも、カメラを構えた田舎者の団体もいない。と、一台だけ路肩に止まっていた黒いワゴン車から男が降りてきた。
 「奈舞喜太郎さん、こっちです。お待ちしてました」
背の高い男だった。浅黒い長い顔を横切るように色の濃い細いサングラスをつけている。葬儀にでも出席するような黒の上下スーツに、ネクタイのない白いシャツ。長い髪はたてがみのようだ。プロのドライバーか。マネージャーの家洲にこんな知り合いがいたのか。
 「私が代わりです。家洲さんは先に同盟の本部に行っているそうです」
 「そうか、おかしいな、いつもと違う感じだ。まあ、いいだろう、よろしくね。で、話は聞いているのかい?」
 「はい、おおよそのところはいろいろと」
 「じゃあ急いでくれ」
 喜太郎がワゴン車の後部座席にふんぞり返ると、車は音も無く滑り出し、ぐんぐんスピードを上げ始めた。大通りを横切り裏通りをくぐりぬけ、一瞬のためらいもなく進んでゆく。かなり腕のいいプロの運転手といったところだ。しかし
 「おいおい、まだ党本部じゃないよ、聞いてなかったのか?」 
 「おっと失礼しました、小路町のマンションでしたね」
 「そうそう、早くたのむよ」
 「マンションがハレムってわけですね」
 「ちゃんと聞いていたようだな。だが、わかってるだろうが、秘中の秘だからな。人気商売の必然だからね」
 「わかってます。口が石になるくらいの金額をいただいてます」
 「ならいい」
 「すごいですね、部屋別に女性がいるなんて。よくケンカにならないもんだ。マンション代もバカにならないでしょうに。」
 「あのね運転手くん、世の中は金で少なからぬことが解決できるものなんだよ。少なからぬ金額が必要だけれどね。金持ちしか知らない特権さ」
 「今日は三ヶ所いっぺんに回るんですか?」
 「もちろんさ」
 「党の打ち合わせには間に合うんですか?」
 「一ヶ所20分、一時間で十分さ」
 「すげえな、光源氏というか、種馬というか」
 「種馬としたら俺の種は最高だぜ、日本一の金を稼ぐサラブレッド司会者のタネだ、ハハハ…」
 「最高のゲス野郎のタネってわけですね」
 「…え?!何?何だと!おい!言葉に気をつけろ!今何と言った?!」
 「ゲスのノーベル賞だと言ったんだよ、俺が表彰してやろうか」
 「やめろ!誰だお前は?!いいかげんにしろ!家洲はなぜお前みたいな奴を?…違う、ちがうな!お前は関係ない奴なんだな…誰なんだ?!止めろ!今すぐ止めろ!変な奴め!俺は降りる!」
喜太郎は後部座席から身を乗り出し、運転している男の肩をつかんだ。男はスピードをゆるめる気配はない。ルームミラーに運転手の顔が映っている。目はサングラスにおおわれているが、口がゆがんでにやりと笑っているのがわかる。
 「止めろ!止めるんだ!さもないと、ぶん殴ってやるぞ!」
喜太郎はさらに身を乗り出し、運転手につかみかかった。次の瞬間、顔面に強い衝撃を受け、後部座席に吹っ飛んで、何もわからなくなった。

シーン3「川原」

 喜太郎は絶え間ない騒がしい音で意識を取りもどした。
顔が痛い。顔に手をやる。鼻から血が出ているようだ。殴られたのだ。殴られて気を失っていた。背中も痛い。上半身を起こした。石の上に寝ていた。敷きつめられた石。ここはどこだろう。
 薄暗い。夕暮れなのか。雲が低くたれこめている。敷かれた石の先は流れる川。反対側は高く伸びた葦の林。川原だ。
なんとも居心地の悪い、人を不安にさせる気配に満ちている。
三途の川とでも言えそうな…せせらぎの音以外何も聞こえず、自分以外はここには人っ子ひとり……いた!
 目線の先、川べりに男が一人立っていた。がっしりした背中を向けている長身の男。黒い髪が肩まで伸びている。あいつだ。殴った男、運転手だ。怒りよりも不安が先に立つ。つれてこられたのだ。何のために、ここへ。
 「お前はお笑い芸人だったな、奈舞喜太郎。そのままでいたほうがよかった」
男は背を向けたままで言った。低いがよく通る声だ。
 「あ、あんた誰なんだ?なぜ俺をこんなところへ無理やり連れてきた?!これは誘拐だぞ!俺みたいな有名人にこんなことをして、ただですむと思うなよ!」
 「有名人か…セレブってやつだな。偉くなったもんだ。お笑いコンテストで優勝しただけでワイドショーの司会に抜擢、その場しのぎのお茶濁し話を続けるうちにいつの間にか人気者か。専門家でも学者でもないお前が、政府に、体制に、偉そうに物申し、世論を操作する大騙りになろうとは、世の中ちょろいもんだぜ」
 「俺は間違ったことは言っていない。いつも国民が言いたくても言えないことを言っている。みんなの代表だ!」
 「テレビを見ている奴らはお前に猿芝居以上のことは期待していない。お前は巨大な権力に立ち向かうヒーローのポーズだけでいいんだ。お前はそれ以上のことをし始めている」
 「なるほど、わかったぞ、あんたがた政府の手先だな。犬ってわけだ。俺を黙らせようというんだな」
 「日本は自由主義の国だ。誰がどう政府を批判しようと止めはしない。いくら言ってもいい。だがお前はよけいなことをやりすぎている。調子に乗りすぎた扇動者だ。間違った方向へ人々を誘導し、国を壊そうとしている。見過ごすことはできない」
 「これは明らかに暴力だ。あんたがたは暴力を使って俺を誘拐した。暴力で言論を弾圧しようとしているんだ。いいとも、受けて立とうじゃないか!これを俺の番組でバラしてやる。国民は政府の陰謀を知るぞ。これで政府もお終いだ、ざまあみろ!」
 「政府は国民の多数が選んだということを忘れるなよ。政府を否定するということは国民を否定するということでもある。近頃は面白半分で国や国民を否定する奴が多すぎて困る。自分自身を否定することにもなるんだぞ。
 かつて日本には右翼がいた。日本人としての正しい道を説き、逸脱することを戒めた。日本人を日本人たらしめようとした集団だ。右翼の思想の根本は武士道だ。侍が己を律した武士道こそ、礼儀・規律・義務を説く人の道の原点だ。それをはずれたとき人は畜生道に堕ちる。しかしいつしか右翼は消えていた。右翼に対抗し、ひたすら自分勝手を奨励する左翼のプロパガンダのせいだ。共産主義が意味をなさなくなった現在、ひたすら反体制を続ける狂信者の群れだ。
 人は自由の仮面をかぶった勝手に影響されやすい。左翼の言葉には反逆の快感という蜜がある。左翼は確実に日本人の心を蝕んできた。日本人は右翼を必要としなくなるところまで劣化したのだ。かくてその心には花も咲かない荒れ野が広がることとなった。現在左翼思想はメディアを乗っ取っている。怠惰と卑屈を勧め努力を否定し、ひねくれものの論理を正当化する。メディアによる洗脳だ。メディアによる国の破壊が進んでいるんだ。
 お前はその権化だ!耳に心地よい自由平等を標榜しながら国民の対立を煽り分断を謀る。行き着くところの目的は何だ?!煽りのための煽り、混乱のための混乱か?お前は人々の混乱と逡巡をエサにカネを得ている。
 心のひだに入り込んで扇動する外道、お前の罪は軽くないぞ」
 「…はあ、たいした講釈だな、誘拐犯にしては。
 そうかい、とにかくあんたがたはアタマがおかしいということはよくわかったよ。あんたがたこそ何かの狂信者じゃないのか。勝手にやってるがいいさ、俺は帰る。つきあいきれないね」
 喜太郎は後じさりしながら言った。ころあいを見計らってさっと奴に背を向け、だっと走って逃げ出すつもりだった。俺を乗せてきた奴の車がどこかにあるはずだ。
 「ゾウさん!」
 後ろから声が聞こえた。若い明るい声。反射的に喜太郎は振り返った。予想したとおり車はあった。川と反対側の川原のはずれとおぼしきところに。
 その前に男がいた。若く見える男だ。黒服ほど大柄ではない。くだけたポーズで背にした車によりかかっている。  あちこち擦り切れたジーンズにたるんだスウエットシャツを腕まくりしている。見た目は下町の整備工だ。短かく縮れた髪の毛は茶色と金色にまだらに染められている。青白い顔を横切るのは、黒服の奴と同じような黒いサングラスだ。右の耳の小さな金色のリングのピアスが時々輝く。
 腕を組んで喜太郎のほうを見ているが、口がゆがんでにやついているのがわかる。腕に手挟んだ黒い長い棒が気になった。
 と、若い男は両手でその棒を懸垂でもするように捧げ持つと、勢いをつけて空中へ高く放り投げた。棒は喜太郎を飛び越え横になったまま、ゾウさんと呼ばれた黒服の男のほうへ落ちてゆく。男はキャッチボールでもしているようにこちらも楽々両手で受け止めた。
 と、棒の横についていたらしい長い紐を引っ張り出し、それを使って棒を自分の背中にくくりつけた。さらに、見る間に右手を棒の先にあてがい、上へと引き抜く。喜太郎は、かつて子役の俳優だった頃、時代劇に出演したことがあるのでわかっていた。あれは真剣だ。
 映画ではときどき、迫力を出すために、細心の注意を払って真剣を扱うことがある。子どもながらに、その巨大な包丁のような不気味さは印象に残っていたものだ。何年かぶりの再見だった。黒い鞘、黒い柄。黒い鍔の先の銀色の刀身は鈍く光っている。かなりイヤな予感がした。
 男は抜きざまに、上から斜めに空中を薙いだ。音の無い音が聞こえる。右手を添え両手で構えると刃を返して斜め上へ斬り上げる。そのまま横へ薙ぐ。さらに刃を返して反対側へ薙ぐ。と、正眼に構え直し、一歩進んで突き、上段に構え直して真っ直ぐ斬り下げ、さらに刀を返して下段から上へと斬り上げる。
 一瞬の休止もない流れるような動作。この間一言も発しない。見事な型だ。何よりも重い真剣を自分の手足のように軽々と扱っている。達人だ。現代にこのような剣客みたいな男がいることは喜太郎には信じられなかった。
 男は喜太郎に向き直ると、刀を、バットを構える野球選手のように右肩の上に構えなおした。八双の構え。サングラスの奥の目は喜太郎をはたと見据えているはずだ。
 「…な、何をするつもりなんだ…」
喜太郎はようやく言うことができた。
 「お前に剣舞を見せようってんじゃない。お前は時代劇に出たこともあるはずだ。こんな場面では何が起こりそうか、わかりそうなもんだがな…」
 「うわああああ!」
 喜太郎は悲鳴をあげるとむちゃくちゃに走り出した。逃げなければ、ここから逃げなければ…やられる。あの車だ、こいつらのあのワゴン車に乗れば…行く手にはその黒いワゴン車があった。あいかわらずあの髪を染めた若者が悠然とよりかかっている。
 「どけぇっ、小僧!」
 若者を弾き飛ばしてドアを開けたはずだった。が、弾き飛ばされたのは喜太郎のほうで、ドアに叩きつけられ、たちまち川原の石の上に叩きつけられた。強い力で背中から組み伏せられ、腹と顔を石にこすりつけられる。見かけからは想像できない敏捷で容赦ない動き。
 両腕を背中にねじ上げられ、紐でしばられた。無理やり立ち上がらせられると、背中を押され、刀を下ろして待っている黒服の前にひったてられる。さらに後ろから両ひざを押されて黒服の前にひざまずかせられた。
 「ちょっ…ちょっと待ってくれ、何をする気だ…?!まさか…まさか…その刀で…」
 「お前の首をもらう。それを撮影してネットに投稿する。せいぜいいい顔をしてろ」
 黒服はこともなげに言った。
「待ってくれ、待ってくれ、助けてくれ!か、金か?!金ならある、そんな刀なら二、三本買える金はあるぞ!いつだって二百万は持ち歩いている、一千万だって5分で用意できる、二千万でもいい、二千万じゃ不足か…」
「二千万…それっぽっちか、お前は一週間で二億稼ぐんだろう…」
「そ、それはそうだけど…え?!まてよ?!二千万、それっぽっち、あんた一週間で二億稼ぐんでしょう…って、これはリオが言ってた言葉じゃないか…
 なに?!そうか!わかったぞ、お前らリオに言われてきたんだな!そうか、裏にリオがいたのか!リオの値上げ交渉だったってわけか、脅かしやがって、手の込んだマネを…あの手切れ金ドロめ!」
「何を言っているんだ、お前は?」
「え?!違うのか?!じゃ、もしかしてユナか?中絶費用が不足だってのか?…え?アリサなのか?慰謝料はいいって言ったじゃないか…レナか?ダンナがゴネて一億ふっかけてるってホントなのか?…まさかレイカか?レイカは高校生のはずだぞ…」
「いいかげんにしろ!女たちには地獄から詫びるんだな。我々は女の使いではない。国を国たらしめる右翼の中の右翼、実動右翼だ。右翼が絶えて荒野(BOONDOCK)となったこの国を救うためにやってきた十字軍(CRUSADE)だ。
 お前は人々を煽動し、さらにこの国の荒廃を進めようとしている。お前はテレビ番組で人を非難することで莫大な利益を得てきた。非難とは攻撃することだ。お前は国を批判し、企業を批判し、人を批判し続けてきた。批判とは攻撃することだ。相手を一方的に攻撃して自分は無傷でいられようなどと思うなよ。攻撃には反攻がつきものだ。
 士道不覚悟だぞ、奈舞喜太郎!我々が、そしてこれが反攻だ。思い知れ!」
 男は刀を大上段に構えた。
「さあ、首を差し出せ」
「いやだ、いやだ!死にたくない、死ぬもんか!アタマのおかしい右翼野郎、絶対首は出さないぞ」
「覚悟を決めて首を伸ばしたほうがいいですよ、ニュースキャスターさん、へたなところを斬られると、苦しい思いをするし、亡骸の見た目もよくない。
 いまゾウさんが持っているのは和泉守兼定という名刀だ。刃が触れた程度でも首が落ちるというほどの切れ味なんです」
 髪を染めたピアスの若者が言ってきた。
「いやだ、いやだ!斬られてたまるか!斬れるもんなら斬ってみろ、亀より首を縮めてやる!」
 喜太郎は首を思い切りすくめ、しかも地べたにはいつくばろうとする。
「困ったな、ゾウさん、どうします?こう暴れられちゃあ斬れませんよ」
「やむを得ん、あれを使え」
「あれですか、やれやれ手間をかけるなあ」
 何かが川原の石畳に落ちる音がし、するすると何かが石の上を滑る音がした。音が聞こえなくなってしばらくして、喜太郎は危険が去ったかもと、そろそろ目を開けた。
 喜太郎のすぐ目の下の敷石の上に一匹のヘビがいた。
 かなり太い、胴体の長いヘビだ。地上から喜太郎の顔を見上げ、ちろちろと舌を出してみせた。
「ぎゃああああっ!!!」
 喜太郎はその場で一メートル以上は飛び上がった。首も手足も意識せず思い切り伸ばしていた。
 このとき背後にかすかな風を感じた。空気を断ち切る一瞬の風。背中から何かが切られる音が聞こえたような気がした。

シーン4「病院」

 「…こちらが人気キャスター・ 奈舞喜太郎さんが収容されていると言われる総合病院です。ここには私たちのほか、ご覧のように多数の取材班が押しかけてたいへん賑わって…いや、えーと…そう!騒然…。騒然とした雰囲気に…空気に包まれております!…」
 「…奈舞さんの容態はまだ明らかにされてはいません。いまだ病院からも所属の事務所からも会見の予定は示されてはいません…」
 「…まだ、ネットで公開されたこと以外に新しい情報は入っていません。私たちはVTRに登場した、つまり奈舞さんが名前を挙げた女性に取材を敢行しましたが、ほとんどの方からコメントすることはない、とのコメントをいただきました。中にはなんだか恐いので話したくないという方もいました…」
 「…奈舞さん出演の番組の局の担当部長は、これは言論に対する暴力であり、番組に対する圧力に断固抗議するという声明を発表しました…」
 病院の前は押しかけた報道陣でイベントのようにごった返していた。病院に入るのにも細かいチェックがいる。喜太郎がいるという病室前は取材陣と病院関係者らしい一団がおしくらまんじゅうを繰り広げていた。
「…いったん病院の外へ出ていただけませんか…ほかの患者さんもいらっしゃいますので…廊下がこのように騒がしいのは困ります…」
「…担当の先生ですか?…違うって!?…ちょっとした様子だけでも聞かせてくれませんか…」
「…カメラはやめてください…フラッシュは特に…テレビカメラも控えてください…」
「…私は喜太ちゃんとは顔見知りなんですよ、名前を聞けば入れてくれるよ、喜太ちゃん、生きてるんですか…」
 ごった返す中に後方から白衣を着てマスクをした二人がトレーを持って割って入ってきた。
「ちょっと失礼しますよ、点滴です」
「点滴って、終わったばかりだけど…」
「これは別口です。はい、どいてどいて」
 強引に押し込むように病室に入ってしまい、ぴしゃりと戸を閉める。
「ん、誰?誰か入ったの?」
 病室はカーテンで仕切られていた。カーテンの奥にベッドがあり、そこに奈舞が寝ているらしい。気配を察して問いかけてきた。
「点滴の時間です」
 医者と看護婦は慣れた様子でカーテンを押しのけると、ベッドをのぞきこんだ。
「点滴って…さっき言ったでしょうが、必要ないって…どうも連絡が悪いみたいだなあ…」
 寝たままもぞもぞ動きながら言う。
「別口なんですよ、奈舞さん、ちょっとお聞きしたいことがありましてね、私は根端署の耕下、こっちは同僚の千山という…うん?あなたは奈舞喜太郎さんじゃないね」
「あ、はい、ご存知ないんですか?お医者さんには話してあるはずですけど…」
 ベッドで起き上がったのは病院着ではない、スーツを着た太った男だった。
「あなたは?」
「奈舞のマネージャーの家洲 満です」
「どうしてここに?」
「奈舞が、こんなところにいたくないって言って、私に代わりを押し付けて、朝から病室を出て行ってしまったんです。
 仕方が無いから先生方に事情を話して、調子を合わせてくれと…あなたがたも病院の方じゃなかったんですね」
「逃げられましたね」
 看護婦のなりをした警官がぼそりと言った。医者のふりをしていた警官は頭をかく。
「で、行き先に心当たりは?」
「さあ、でもお金は持ってないし…」家洲が答える。
「仕方が無い、自宅か事務所を当たりましょう」
 男のほうが白衣と帽子をぬぎマスクをはずしながら言った。ずんぐりした中年の男。スーツはくたびれているが、動きは軽快だ。女もそれにならい看護婦の扮装をやめる。ほっそりしたパンツスーツ姿。芯が強そうな無駄のない動き。病室を出ようとしたとき、マネージャーが呼び止めた。
「あの、耕下さんと言われましたっけ?」
「そうですが」
「これを、耕下というおまわりさんが着たらやってくれと預かりました」
 差し出したのは銀色に輝く太めの万年筆だった。
耕下はけげんそうに受け取る。
「誰からですか?」
「警視庁の皆さんの次にやってきた捜査官の方です。
そのときももう奈舞はいなかったんですけどね。警視庁の事情聴取が終わるとすぐに出て行ってしまって」
「捜査官ねえ…」

 混雑した正面入り口は避けようと警部補が言い出したため、二人は出口の表示をたどって病院の廊下を逆方向へと歩いていた。
「奈舞さんは自宅にも事務所にもいないと思います」
「そうかい」
「両方にもマスコミが押しかけているでしょうし、警官も見張っている。名前があげられた愛人らしい人たちのお宅も同じです。それに犯人がまた襲ってくるかもしれないから近づけない」
「なるほど、いい推理だ」
「推理なんてもんじゃない、誰でもそう思いますよ、警部補ももっと事件に集中してください。本庁の管轄に無理やり首を突っ込もうとしてるんですから」
「もっともです」
「奈舞さんが本庁に保護をたのんで、ここを引き払ったのかもしれない」
「そうだなあ、ベニちゃん先が読めてる」
「ベニじゃありません、コウです。毎度言いますけど私の名前は千山 紅です」
「そんなにてきぱきこの仕事に馴染んでるのに、まもなく辞めちゃうってなぜなの?」
「私、体育会系のノリについていけないんです」
「入ってすぐ巡査長だし、将来有望じゃないか」
「セクハラのターゲットとして有望ってことですか?
あれにも、もうウンザリ!」
 根端署に来る前にいろいろあったらしい。けして肉感的なほうではないのだが、その物思いに沈むような大きな目と、めくれたバラの花びらのような唇が同僚や上司の関心を引かずにはいられないようなのだ。
 彼女のいまのたたずまいもいかにも濃密だった。濃紺のパンツスーツは上品で、襟が大きく開いた絹のブラウスからは細い金鎖のネックレスがのぞく。同じく紺色のスーツなのだが、警部補のものはゆるんだTシャツのようで、全身がかすんだ陽炎のように見えた。
「もうひとつ一番可能性があるのが…」と、彼女が言おうとしたとき、ピロピロピロ…とけたたましい音が聞こえた。
「なんだ、なんだ」と警部補があわてて自分の体を探って携帯を取り出した。
「違う、俺の携帯じゃないぞ、君のかい?」
「違います、それじゃないですか?」
 と警部補の胸ポケットを指差した。確かに、胸ポケットにおさまっている銀色の万年筆が光りながらうなり声をあげている。
「なんだこれは?!」警部補は万年筆を手に取ると、「どうすれば止まるんだ?」とためつすがめつしたのち、キャップをはずしてみようと回した。と、万年筆から声が聞こえた。
「警部補かい?耕下警部補?」
 聞き覚えのある声だった。
「警部補、警部補だろう?聞こえてる?」
「あなたか、捜査官!やっぱりあなただったのか!」
「そうとも私だよ、耕下警部補。いまだに警部補のままとは君も進歩がないな。しかし安心したまえ、サンフランシスコ市警のハリー・ キャラハンも命がけで多くの事件を解決したが、刑事のままだった。悲観することはない」
「あなたはどうなんです?」
「まあ、似たようなものかな。THADは解散して公安に吸収された。いまは警視の待遇だ」
「期待したほどの出世じゃありませんね」
「しかしいまの仕事はすごいぞ、特別捜査官の役職のままで、訪日外国要人の進行ルートの安全確保を確認するという大役だ」
「たいしたもんだ、日本一の閑職ですね。ところでこいつは何なんです?このうるさいペンは?」
「これから発売される予定の無線機をいち早く手に入れた。新型スマートフォンの付録でね。持っている一人だけと通話ができる。昔のスパイドラマにヒントを得たらしい。君の電話番号を知らなかったから、奈舞のマネージャーに託した」
「あいかわらずオモチャずきですね」
「ところで、今どこにいるんだね?病院の中だとは思うが」
「これから出るところです。裏口へ向かってますよ」
「じゃあ、五階まで上って渡り廊下を歩いて西棟まで来てくれないか。そこに病院レストランがある」
「いや、これから我々は…」と言いかけたところで、通話を切られた。
「あー、あいかわらずマイウエイだな。くそっ、仕方が無い、べ…いや、コウちゃん、そこらへんにエレベーターはないかい?」
 
 渡り廊下を渡り終えたところがレストランの真ん前だった。病院関係者だけではなく近所のビルからも客がくるらしい。白衣の医療関係者・医療従事者、ガウン姿の患者らしき人にまじってビジネスマン、ОLとおぼしき一般人ふうも多い。大企業の豪華社員食堂を思わせる簡素だが豊かな造りのレストランだった。
「近頃の病院ってのは快適に出来てるもんだね。ま、長く滞在したいとは思わないが」
「私は一ヶ月くらいなら居てみたい。人生観も変わりそうだし」独り言のようなつぶやきに警部補が思わず見やった 紅の横顔の向こうに、広いレストランの隅に座っていた人物が片手を挙げたのがうかがえた。今どき三つ揃いのスーツにトレンチコートをひっかけた古風な感じの男に二人が近づく。色白の痩せた男が立ち上がって挨拶した。
「しばらくだな、警部補。君はほんとに変わらないな。
そちらのお嬢さんはもちろんガールフレンドではないよね」
「耕下警部補と一緒に捜査にあたっています。根端署の千山 紅です」紅が自己紹介し、軽く頭を下げる。
「辺田捜査官でいらっしゃいますね、捜査官と警部補のご活躍は記録で拝見しました。お目にかかれて光栄です」
「ベニちゃん!なんと、君が昔のことを知っていたとは驚きだよ。いつも何一つ興味がなさそうな顔をしてるからね」警部補が思わず言った。
「いや、嬉しいかぎりだよ、ありがとう千山さん、今では仲間内でも関心を持っていなさそうだからね」
「まったくですよ、今のこんな奈舞キャスターの事件が起きたら、類似の事件の経験がある俺達をすぐに捜査の中心に据えるべきなのに、声すらかけない。どうなってるんだろう」
「この事件が世間の注目を集めて派手になりそうだから、本庁の捜査本部は自分達だけでやりたいのさ。もう、あのころのことを知る上役もいなくなっているしな」
「しかし、じつによく似た事件じゃないですか。捜査官はどう思います?犯人は我々が知っているあの二人でしょうか」
「まあ、立ち話もなんだから向こうへ出て座ろう」
捜査官は二人をうながしてレストランとガラスで仕切られたバルコニーへ出た。
都会の騒音と空気が下界から湧き上がってくる空中バルコニー。ここにもイスとテーブルがしつらえているが、客は極端に少ない。彼らが座ったテーブルの隣のテーブルに病院の患者らしいガウン姿の一人がぽつんとタバコをふかしているだけだ。
「ここは喫煙所でもあるのか」
「そうだよ、警部補。意外かもしれないが、病院には不可欠の部屋だ。手術前の一部の患者や医師にはストレスを少しでも減らせるところが必要なのさ」
 やがて捜査官がオーダーした熱いコーヒーが三人に運ばれ、それをすすりながら警部補がつぶやいた。
「本庁に乗り込んでいくわけにもいかないし、とにかく今は、この病院にいた奈舞喜太郎を探して話を聞くしかないな。犯人はどんな奴でどんな調子だったのか。目的はほんとうに右翼的なことだったのか、直に聞きたい」
「まさにそのために君にここに来てもらったんだよ、警部補」捜査官はそう答えて自分の後ろの方向に語りかけた。
「いくらかは聞こえていたでしょう。できるかぎりは答えてもらいたいものですね、いかがです?」
「はいはい、聞こえてましたとも」
背中合わせになっていた患者が答えて振り返った。
「メデイアはちょっとはごまかせても、警察関係はそうはいかないね」
警部補と紅が目を見張ったことには、こちらを向いた、くわえタバコの患者はまさしくテレビで見知った奈舞喜太郎だった。
「これも公けにはしていない喜太郎さんの秘密のひとつなんでしょうが、愛煙家でいらっしゃいますよね。病室にいないとすれば、ここしかないと思いまして、こうしてグループで押しかけました。
 我々は警視庁本庁の者ではない。警察関係者ではありますがね。私は公安の特別捜査官・辺田和門、こちらは根端署の耕下警部補と千山巡査長。私と警部補はかつて、十五年以上前ですが、喜太郎さんが巻き込まれた事件ときわめてよく似た事件に関わったことがあるんです」
 喜太郎は黙ってうつろに捜査官に目をやっていた。テレビに出ていたときの余裕あふれる支配者のような面影はまるでない。やつれて顔色も黒ずみ、病人用ガウンがやたら大きく見えるほど意気消沈の体だった。
「見てわかるでしょうが、誰にも合いたくないし話したくもないな。あらかた警視庁の人たちに話しちゃったしね」 それでもぼそぼそ語りだした。
「人気司会者、最高のキャスターの最低のショーだった。奴ら俺のことを何台ものカメラで撮ってやがった。情けない俺の一人芝居を。それをしっかり編集して、あんな動画にして投稿した。奴らは映ってない、俺だけだ」
 確かに面白い見世物だった。普段の超然として尊大な奈舞喜太郎の片鱗もない。怯えて命乞いをする世にもいじましい小人の姿が映っていた。
「恐かったんですよ…敵を作って人様を非難することは俺の芸風だった。でも非難が逆に非難を呼んで一部からは強烈に憎まれていることは知っていた。でも有名税みたいなもんだと思ってた。
 それが、本当に襲ってくるなんて… この平和な国の中で…右翼なんていたのか…あんな危険な連中が野放しでいたなんて信じられない。でもね、同じくらい恐いのは動画を見た視聴者さ、俺のファンさ」
「衝撃的な告白でもありましたもんね」
 紅が気遣いすることもなく言った。
「まったくだね。なんであんなにしゃべってしまったんだろう。気が動転してたんだ…」
 喜太郎は自ら秘密をバラしてしまった。人気者が暴漢に襲われたと同等の話題を呼んだのが、喜太郎の隠し通そうとしていた性癖だった。ワイドショーとタブロイド紙は両方を取り上げて騒ぎまくった。喜太郎のイメージは地に落ちた。
 無名のお笑い芸人で、脇役タレントでしかなかった喜太郎は視聴率がほぼゼロのワイドショーを、五年かけて局を代表する人気番組にし、自らは絶大な影響力を誇るキャスターとなったのだが、それが一日で費え去った。
「精神的ダメージがあるので少し休みたいって連絡したら、すぐに承認された。おしまいだ。番組からは降ろされるし、CMも全部パーだけど、もう表には出たくない。
 懲りましたよ。生きているほうがいい。奴ら本当に俺の首を取ろうとしていたんだ。本物の剣術使いのテロリスト、そう、筋金入りのテロリストですよ!」
 喜太郎は言いながら震えていた。
「もう思い出したくはない。警視庁の人に話したんで、そちらから聞いて下さい」 
「私たちが来たのは、かつて同じような事件を担当したことがあったからです。」捜査官が落ち着いて言う。
「さっきのワイドショーで見ました。そういえば記憶がある。かつてそんな事件があったなあって」
「犯人の特徴は極めて前と似ています」
「私たちの知っている犯人だとすると、あなたが逃げることができたのは、不思議なくらいです」警部補が補足した。
「知らないよ!…とにかく夢中だった、目の前にヘビが現れて飛び上がった、ヘビなんて大嫌いだったから…そのとき後ろから斬られたと思った…」
 ところが地面に転がってみると、生きていた。しかも後ろ手に縛られていた両手が動く。あいつの刀はちょっとのところで喜太郎に届かなかったのだ。逆に縛っていた皮ひもをかすって切っていた。
 あいつらはヘマをやった。そう気づいた喜太郎は必死に走った、奴らが乗ってきたワゴン車の方へ。そして飛び乗った。あの若者にも捕まらなかった。ともかくエンジンスタートさせ、アクセルを床まで踏んだ。どこだかわからなかったけど、川原から土手に出て、飛ばしに飛ばし、市街地へ出たと思ったら、何か電柱みたいなものにぶつかって車が横転してしまった。
 そこで車から降りて、ふらふら歩いているうちにサイレンが聞こえて、パトカーらしいものが近づいてきたところまでは記憶があった。あとは病院で気が付いて、いろいろ聞かれてすべてしゃべった。それと時を同じくして動画が拡散していたというわけだ。

「結局たいしたことは聞き出せなかったな。新しいことは何もない」捜査官が憮然と言った。
「犯人についての記憶があいまい過ぎる。何を聞いても覚えていない、忘れた、とはね。一応ジャーナリストの類のはずだが」
 捜査官、警部補は病院の出口へ向かいながらいらだった口調にならざるをえなかった。
「覚えていないはずがない。言わないだけかも」
 紅が意外にさらりと言った。
「恐いんでしょう、かなり脅えていましたからね」
「何に脅えるというんだ」警部補が聞く。
「再度の襲撃ですよ。あの連中は不首尾に終わったためにまた喜太郎さんを襲ってくるかもしれない」
「ことはもはや本庁の管轄だ。本庁からの護衛がしばらくつくのは間違いない」
「そんなのアテにできないほど恐いと思ってるんじゃないですか。喜太郎さんなりのカンで、易々と警察に捕まるほどヤワな奴らじゃないと見切った」こう言ったところで、紅は二人の顔を交互に見ながら言った。
「これは容易ならぬ犯人だと思います」
「もしも犯人が、我々が知っている奴らだとしたら、確かに容易ならぬ奴らだ」警部補が眉間にしわをよせた。
「喜太郎さんは、よけいなことを言わないほうが、自分は安全だと思ったのかもしれない」紅が補足する。
「我々…俺と捜査官が知っているのは、水も漏らさぬ凄いテロリストだ。そいつらだとすれば、喜太郎を殺しそこなっているというのがどうも解せない」警部補がうなる。
「しかし今の時点で喜太郎さんを黙らせることには成功してますよね」紅はこだわる。
「この一件で、メデイアの中にはターゲットがメディアになったことに不安を覚えている人々もいるとのことだ。メディアが萎縮しかねないと言ってね」捜査官が解説ふうに言う。
「萎縮って、そんなに簡単に萎縮はしないでしょう、ジャーナリストが?」
「おいおい警部補、日本のメディアなんだぞ。ワシントンポストやニューヨークタイムズとはわけが違う。付和雷同が身上の瓦版屋だ。萎縮も増長も底なしさ。
 現に、ツイッターで政治的発言と称して反政府的なツイートをくり返していた芸能人たちが、たちまち静かになったそうだ。喜太郎と同じだ」
「喜太郎か…彼からもっと手がかりが得られると思ったんだが…」
「しかし、我々の、あの過去のライバルたちが今回も主犯であるとすると、先のこともいくらか見当がつくとは思わないかね?」
「確かに。この先さらにやっかいになるということでしょうね」
「と、言われますと?」紅がつい引き込まれて聞いた。
「かつて奴らが起こした一連の事件は、はじめが、次ぎの事件のリハーサルのようになっていたんだ。それが次々に拡大していく…」警部補は苦々しそうに言った。
「最終段階にむけてね」
 警部補の重荷をしょいこんだような表情に紅も当惑し、不安が千切れ雲のように胸をかすめた。が、警部補はすぐにもとの人を食ったような調子にもどって、
「おっと、そうだ!こいつを忘れてた。このオモチャはどうしましょう?」胸のポケットから銀のペンを取り出し、目の前にかかげた。例の、捜査官の声が聞こえてきたペンだ。
「君にやるよ。キャップ部分がスイッチになっている。回せば私につながる。私としか話はできないけどね」
「スマートフォンなら持ってますよ、それにこの種のツールなら、もっと小型で性能のいいのがありそうだけど」
「それはトレーサーにもなってるんだ。GPSの位置情報から、君がどこにいるのかすぐに地図上に表示される」
「ますますいらないな」
「じゃあ、私があずかりましょう」と、紅がさっと奪い取った。
「なんだか面白そうだし、私が誰かからセクハラされたとき、捜査官を呼びますから」
「いや、これは純粋に仕事上役に立てばとね…」
「もちろんアテになんかしませんから」
「そう言われるのも困るな、私は十二分にアテになる男を自負しているんだから…実際私は頼りになるんだよ、そうだ!警部補は知っているだろう、私のかつての備品のヘリを。あれをまだ確保できているんだ」
 かつてのTHAD(対テロ高度対策室)時代に捜査官が得意になってそれに乗って現場へ急行した超小型ヘリコプターのことだ。金魚鉢そっくりの風防と細い胴体を持った、オニヤンマによく似た二人乗り重武装ヘリ。トレーラーに入れられ、駐車場に止められているという。
「機関砲は取り上げられてしまったが、代わりに小型のミサイルは装備している。威力はあまりないがね。しかもパイロットが自衛隊の予備役だから、彼が暇なときでないと出動できない…」
あまり実用的ではなさそうだ。

アクト2(第二幕)
デュエル(決闘)

シーン1「路上」

 「あれが社長か…」
「まちがいない、テレビの謝罪会見で見たとおり…」
 二人は車の中から旧式の双眼鏡を使って見ていた。最大級のオフィス街のはずれのこのあたりも巨大ビルが林立し、街路にもごみ一つない無機的な石の町のたたずまいだが、高級ホテル群のような重厚で富裕な気配に満ちている。 目標のビルからだいぶ離れたビルの狭い駐車場に強引に止めての観察だが、超高級車であれば誰も文句を言う奴はいない。
 件の社長は高級ワゴン車から降り、ゆっくりした足取りでアプローチを歩いていた。アプローチは余白のように長く広く、ガラス張りの入り口が遠い。 
 社長は、出迎えた重役らしい人物を軽くいなして進む。よく見るIT会社のオーナーのように、Tシャツにパンツのラフな服装の若い男というわけではなかった。高級スーツにネクタイの初老の男という往年の社長スタイルだ。
「あの後ろから行くレデイは秘書か?」
 二人の背の高い女が家来のように付き従っていた。ふたりとも派手だが落ち着いた色合いのスーツ姿だった。長い髪のほうは青いタイトスカートのスーツ、ショートカットのほうは黄色のパンツスーツ。遠くからでも美女の自信がうかがえる。
「美人秘書が二人とはなんとゴージャスな」
「確かにゴージャスな身のこなし。歩き方がモデルみたいだ。いや、それより…」
「そう、やはりそう思うだろう、あの二人って…」
「なんというか…ぐっとくる…」
「あー、そんな方面の興味になるのか?…」
 ガラス張りの壁面から、社長と女二人の一行が一階ホールを横切り、奥の金色の扉のエレベーターに消えていくのまでが見えた。
 このビルはビル自体が話題の最新建築だった。ガラス張りで、中の豪華さが一望できるのは一階のみ。あとは光を吸収する黒い石のような壁面で、窓が全くないようにさえ見える。オフィス街に出現した巨大なモノリスだった。MINE(マイン)社はここの二階と三階を占めていた。
「凄いビルですねえ。ⅠTってそんなにまで羽振りがいいんですかねえ」
「あの、インターネットが注目され始めた頃、大評判になって大もうけしたインターネット事業会社があったろう」
「その後、事件になって裁判になって、結局社員のほとんどが去っていった…」
「そのほとんどの社員がこの会社の社員だ、社長も含めて」
「へえー…先見の明がある人は不滅なんですね。優秀な人って…」
「そう、いい方にも悪い方にも優秀らしい」
「だからこんなビルに入れるってわけだ」
「大手の子会社になってるからな」
「子会社って感じじゃないでしょう」
「MⅠNEは爆発的な人気だったからな。やってないほうが珍しい」
「俺はやってませんよ。それにしても、直に会ってみたいね」
「…では、いくとするか」

シーン2「社長室」

 「ようこそ!いらっっしゃいませ、お待ちしておりました」
 明るい嫌味の無い若い女の声とともに扉が開き、客は中に入った。「大事なお客さまとお話がありますので、以後一時間は連絡オフでお願いします」
 女の一人が外に向かって話した直後、ドアはぴたりと閉ざされた。
 通された客が例外なく目を見張るのは、得体が知れないほどモダンな外観のビルのわりに、社長室らしいこの部屋の、さながら中世ヨーロッパの僧院を思わせる重厚さだった。
 全面ガラス張りで公園が一望できる正面奥の突き当たり以外は、磨きぬかれた木の壁で、図書館のような作り付け本棚。置かれている調度品、奥に社長が座って書き物をしている机、手前のテーブルとイスもすべて重々しい高価そうな木製だ。高い天井には太い梁までむき出しになっている。
 さらに(男性)客が(さりげなく)目を見張るのは、入り口で客を出迎えてくれた秘書らしい二人の女性だ。モデルのような長身とスタイル、貴族的な顔立ち。長い髪を結い上げた一人は、女らしさを強調するような暗い青色のスーツ。ドライさを引き立たせるように髪を軽快に短くセットしたもう一人は、暗い黄色のパンツスーツ。二人に共通するのは、美人だが人をどこか寄せ付けない冷たさが漂っていること。そして、それぞれ左と右の腕に腕輪のように見える大きめの時計をしていることだった。一人は金、一人は銀で対のように見えていた。
 「おお、いらっしゃいましたか。どうぞこちらへ」
 社長は奥のデスクから立ち上がると、自らも応接用らしいテーブルとイスのセットへ向かう。
 トレンチコートを羽織り、黒スーツに黒シャツ、黒ネクタイにサングラスという死神のようないでたちの、髪の長い背の高い客も、浅黒い金属的な顔に笑みを浮かべて奥へと進む。
 と、突然ブザーのようなチャイムのような聞き覚えのある音楽が聞こえた。客は思わず立ち止まってサングラスをはずした。重そうなまぶたの奥の目が油断なく光る。
「この部屋では武器は不要です。お預かりいたします」
青いスーツの秘書が笑みを絶やさずに言った。
「なるほど金属探知機があるんですか」
 客は驚いた様子もなく答えると、手を腰に回しホルスターごと銃をベルトからはずし、青いスーツの女にちかづいて渡した。
「SWショーティーフォーティー。公安ではこんな銃が支給されているんですか?」ずしりと重い銃を受け取りながら意外そうに聞く。
「いや、これは私物です。私が買ったものです。銃に詳しそうですね」
「ええ、まあ…え?これって?!」
「そう、オモチャですよ。じつは銃はきらいなんです」
 客はにやりと笑った。女も愛想笑いを浮かべようとしたが笑えなかった。逆に目つきがほんの少し厳しくなり、それとなく黄色いパンツスーツのほうを見やる。パンツスーツがかすかにうなづいた。
「さあさあ、もう通過儀礼はいいだろう。すみません、初対面の方にはうちの会社独自のしきたりがありまして…」
 テーブルの前で待っていた社長がうながし、自分も着席しながら「こちらへどうぞ」と客へイスを勧め、秘書たちには「コーヒーでよろしいでしょうな。君たちお持ちして」と言った。
 客はコートを脱いで隣のイスにかけ、社長の正面に座る。
「IT関連会社の社長さんだと、てっきりTシャツ姿で若い社員と肩を組んで登場になると思っていましたが、イメージが違いました」客は意外そうに言った。
「それは三階の大部屋のほうです。ここはお客さんとの打ち合わせ専用ですので」
「美人秘書の方が二人もいるというのも、クラシックな大会社の社長さんのスタイルですね。今どきうらやましい」
言いながら客は名刺を差し出した。
「彼女たちは秘書よりも有能ではるかに役にたちます」
 社長は言いながら名刺をあらためる。
「公安の辺田捜査官。さて捜査官、なぜ公安が私に御用なんでしょうか?例の件は、私の謝罪ですべて解決済みと思っていましたが。ニュースで報道もされましたし」
 青いスーツの秘書がコーヒーカップを持ってきて二人の前に置いた。黄色いスーツが大きなコーヒーポットからなみなみとコーヒーを注ぐ。捜査官は一口すすって顔をしかめた。
「苦いですかな。ジャワの上物ですが」
「目が覚めますね。いや、じつはそちらより、あのタレントの奈舞喜太郎が襲われた件の関連です。ご存知でしょう」
「あの右翼といった連中の起こした事件…」
「そう、彼らは右翼と名乗った。極めて暴力的な実動右翼です。何をしでかすかわからないところがある。公安は現在すべての右翼を洗っている…と、いっても今や小ぶりの組織ばかりですが、未だしぼりきれていないというのが実情です。
 野放しの彼らは再び跳梁するかもしれない。再び事件を起こす予感を捨てきれない。そこでターゲットになる可能性のあるところを警告して回っているということです」
「なぜ私が警告される側になったんでしょうか?」
「あなたの行ったことが極めて反日的と受け取れるからです。国を危機に陥れるレベルのものでした。そして右翼を自認する連中を怒らせるには十分だった」
「とっくに終わったことではないですか。政府をはじめ各方面で納得している。すべては解決済みのはずですがね」
「そうかな、確かに総て中国から引き揚げたらしい…が、じつは総てコピーがとってあった。今もそのまま中国にあるのではないですか」
「これはまたいきなりな言いがかりだな。公安はそんなことを考えていたのですか」
「疑っている人間も一部にはいる。私もそうだ」
「あなたは警告しに来たのではなかったんですか」
「同時に真実も知りたくてね」
「では私も真実が知りたい、あなたは誰だ?」
「と、いうと?」
 社長の言葉を待っていたように、青いスーツの秘書が辺田の前に進み出た。
「じつは私たちはチェックさせてもらいました」
 こわきに抱えていたタブレットを辺田に向け、ディスプレイを映し出す。辺田の顔写真が出た。
「辺田捜査官。公安にアクセスして写真と略歴を手に入れました」
「勝手にアクセスできないはずだ、私の場合はとくに」
「私たちの技術ではかなりのことができるんです」
 社長が悪びれることなく言った。
「確かに写真はあなたと同じでした」青いスーツの秘書が表情を変えずに言った。さらに
「でも、これは加工したものですね、不正に。すりかえられていたものだとわかりました。なぜなら私たちは辺田捜査官の略歴をもとに…略歴は本物でした…捜査官の大学時代、高校時代の写真を入手しました。ごらんになりますか」
ディスプレイに大学生、高校生らしい若々しい顔が現れる。
「このとおり、別人ですよね」
 証拠をつきつけられ、一瞬顔がこわばったように見えた辺田捜査官を名乗った男は、すぐに不敵にふんと鼻をならすと、ひらきなおったように薄ら笑いを浮かべて言った。
「なるほど、やるねえ社長。タヌキだぜ。にらんだとおりだ。あんたにはやっぱり裏があるな」
「ふざけないで!あなたはいったい誰なの?!これは不法侵入よ!」
 青いスーツの秘書がきっとなって言った。
「だったら本物の警官か公安を呼べばいい」
 男にひるむ気配はない。が、対する社長も動じる様子はなかった。
「いや。ここは一時間出入り禁止を命じておいた。つまりこここは完全密室だ」
 落ち着いていつもの業務のようにさりげなく、じつは意外な展開になるであろうことを示唆する。青いスーツの秘書がこれを補足するように言う。
「あなたが誰で、何を知っているのか、今、すべて聞かせてもらうわ」
 正体不明の男を恐れる様子もなく、売り言葉で言われて、さすがに男はむっとしたように勢いよく立ち上がった。
「ならば教えてやろう、俺がその右翼だ!あのバカなタレントを斬ろうとした者さ、こいつでな」
 男はイスに投げ出してあったコートをひったくると中から棒を取り出した。黒い、わずかに湾曲した棒。全体が薄い黒い皮のようなカバーで覆われ、一部に輪のようなふくらみがある…日本刀か…?!
「しまった!銃はダミーだったのね!それをごまかすための!!」青いスーツの秘書がうめいた。
「次からは金属探知機じゃなく、レントゲンを使うんだな」
 刀は鞘ごと皮のようなケースに収まっていた。ケースには皮のような紐がついている。男はケースを背負うように背中にくくりつけると流れるような動作でシュルンと刃を抜いた。
 間近に現れた日本刀に社長も秘書たちもさすがに息を呑む。巨大なカミソリのように不気味だった。男は見学者たちが一瞬引いたのを見て取ると、余裕の口ぶりで言い放った。
「俺達は右翼だ。まさに奈舞喜太郎の首を取ろうとした犯人さ。日本の国体の最後の保護者を自認する、そのためにはいかなることも辞さない、実行する右翼だ。本物の右翼が消え去り、荒野(ブーンドック)となったこの国を救うために帰ってきた十字軍(クルセード)だ。ネットで右翼めいたことを言うだけのゴミどもとは違うぞ」
 両手で前方に捧げ持っていた抜き身をさっと逆に返し、社長をはたと睨みつける。
社長も緊張の表情こそ見せたが、ひるまずに聞き返す。
「なぜだ?!何のために私を狙う?!」
「お前は斬らなきゃならない売国奴だからさ。お前ははじめから防衛機密が目的だった。全部白状してもらうぞ」
 両手で柄をささえられた日本刀は、細く長い、凶悪な刺身包丁のようにも見える。男はゆっくり正眼へと構え直し、そこからさっと八双へともってゆく。無駄のない動きで攻撃直前のタメへとゆきついた。
「社長!」
 偽の辺田捜査官の後方にいた青いスーツの秘書が呼びかけた。落ち着いた声だった。暴漢の侵入にも日本刀の出現にもそれほどうろたえてはいない。
「うん、たのむ」社長は部下に仕事を頼むような気安さで答えた。
「私がお相手いたします」
 青いスーツの秘書は日本刀を構えた背の高い男に、注文を聞くウエイトレスのように言いかけた。
「なにぃ!」
 男は思わず振り返って女と向き合った。
と、社長はさっと動いて奥へ移動する。黄色のパンツスーツの女は近くの壁へ走り、そこにあった照明スイッチのようなボタンを押した。
 グイーンと音がして天井から何かが降りてきた。分厚い巨大な透明プラスチック板だった。板は社長室を二つに仕切った。社長は仕切りの向こうに隔離されたかたちとなり、デスクに悠然と控えると、見物するように偽捜査官と青いスーツの秘書の方を見やった。なんだか慣れた行動だ。
 青いスーツの女は左手の腕時計に右手をやる。と、時計は二つに分かれた。左手には時計の腕ベルトが残り、右手にははずされた時計がある。左手の指を動かし腕輪のようなベルトの一部のスイッチを押す。と、腕輪全体が光を帯びた。こどもが夜店で買う光る腕輪のような見かけになった。同時に右手を回しはじめる。右手にはいつの間にか紐を持っている。紐の先は錘。時計の中心のケースの部分だ。紐は細い金属のワイヤーだった。ワイヤーはまだ腕輪とつながっていた。
「これは?!…なんと…鎖鎌か!?」
 右翼を名乗った男は、刀を構えたまま思わずうめいた。
まさに時計ケース部分が分銅と化していたのだ。
「その腕輪はレーザーの鎌ってわけなのか!?」
 男は目をみはる。
青いスーツの秘書は右手をさらに勢い良くぐるぐる回しはじめる。ワイヤーはどんどん伸び、描く輪がさらに大きく広がる。
「さて、右翼さんとやら」
 透明ボードで仕切られ、安全が確保されたところから、社長は、机に肘を置き頬杖をつきながら他人事のように話しかけた。マイクが仕掛けてあるらしく、仕切りの向こうから声が良く聞こえる。
「彼女は秘書でもあるが、ボディガードでもあるんでね」
「なるほどな。秘書にしちゃ、足の運びに武道らしい心得がうかがえたよ。何かあると思ってはいた」男は女をにらみながら言い返す。
「こんなシチュエーションのときは私はいつもここで、彼女たちが不審者を取り押さえるのを見物させてもらうんだよ。まずはアオイちゃんの番だね」
 社長は見慣れたショーを見るときのように興奮も熱意もこめずに言った。こんな状況には慣れきっているというわけだ。
「遠慮しないわよ、右翼さん」
 女は日本刀を恐れてはいない。
ワイヤーはさらに勢いよく回り、輪はさらに大きくなってゆく。そして青いスーツの女はじりじりと日本刀を構える男へ近づいていった。ヒュンヒュンとワイヤーが唸る。
 小さな分銅とワイヤー、未来版鎖鎌ってわけだ。一撃で頭骸骨を割り、首をねじ切るパワーがありそうだ。予想外の展開に男はやや面食らっていた。この女、意外にできる。
「ふん、アオイっていうのか。ボデイガードのアオイとくれば、もうひとりはトモエってわけだな」 
 早くも守勢に回りそうな男は一歩下がりながら言い、自分の黒ネクタイを引きちぎるようにほどいて捨てた。と、何を思ったかいきなり刀を背後の鞘へ納めると、鞘の紐をゆるめ、鞘ごと刀を背中からはずし、鞘のまま刀を女に向けた。
 それと女が分銅を飛ばし、男を狙うのが同時だった。女は男が何かを仕掛ける前に勝負を急いだのだった。回る、勢いに満ちた女の分銅ワイヤーはたちまちぐるぐると鞘に捲きつく。鞘は滑り止めか、ワイヤーをからめて奪い取る気か。力勝負の引っ張り合いになるはず。しかし女には自信があった。
 女がいきなりワイヤーを引いた。体勢に入ろうとしていた男は思わず引きずられる。女の右手の力ににぐいぐい手繰り寄せられ、たちまち女の間合いに入ってしまう。
 どうしたことだ?!こんなバカな!女の左手が飛ぶように伸びてきた。その拳が頬をかすめる。熱い!レーザーだ、レーザーの刃だ。思ったとおり左手に持った時計のベルト=銀の腕輪の外側はレーザーが仕込まれていたのだ。まさに究極の鎌だ。触れるだけで肉も骨も切られる。 
 女は拳を右から左から突き出し顔や首を切ろうとする。かわすのが精一杯だ。
 それにしてもどうしたことだ?!女が右手に持つワイヤーにいいように振り回されている。操り人形だ。脚がフラフラしてよろけている。体の自由がきいてない。力が入らない。
「効いてるわね。もっと効くわよ」
 女の口もとにあからさまな笑みが浮かぶ。必死で女の攻撃から逃げ回る男の額には汗が浮かぶ。
「しまった!毒か?!コーヒーだな!油断した…」
「卑怯…なんて言わないでね、日本刀で押し入ってくる人が」
 男の脚がもつれてきたところで潮時だと思った女は、思い切り右手を引き、男を一気に自分に引き寄せ、同時に左手を水平にして伸ばしながら男の首めがけて飛び込む… その寸前だった。刀身の切っ先を自分のほうに向け、引き寄せられるのを踏ん張ってこらえていた男がいきなり刀身を水平にし切っ先を女のほうに向けた。 
 鞘はからまっていたワイヤーごと刀からするりと抜け、引いていた女は力あまって鞘やワイヤーと一緒に後方に飛ばされるようにひっくり返った。はずみで持っていたレーザー腕輪も落としてしまった。 
 床に転がって一回転した女はあわててワイヤーを持ち直し、立ち上がろうとしたところで、日本刀の刃がぴたりと首筋に当てられた。すぐ上に両手で刀を構えた男の顔があった。鋼鉄の刃の感触が冷たい。1ミリでも動いたら頚動脈を切られる。自分の血が滝のように流れる。
「もう少し強い毒にするんだったな。あの程度じゃリカバリーするぜ」
「そ、相当強いやつだったのよ…で、でも、よかったわね、
ど、毒に強い丈夫なお体なんて…」
「今度はこっちの番だな、立て!」
青いスーツの秘書は首の刃に用心しながらそろそろと立ち上がる。
「そいつを捨てろ」
女はうなだれて持っていたワイヤーを放った。
「さて、社長、カードはこっちに渡ったぞ…」
 男は女の首から刃を離すや片手で女の首を後ろから締め上げ、右手の刀を社長の方向に向けて体勢を立て直した。
「お前さんの返答しだいでこの美人秘書の…」
 言い終わる前にヒュッと音がすると、刀身に銀色の紐がくるくるとヘビのように捲きついた。先端に時計の分銅がついている。ワイヤーがピンと張る。驚いて見やると女が手繰っていた。黄色のパンツスーツの短い髪の女。
「…そうか、もう一人いたんだっけ…」
 男はうんざりしたようにつぶやいた。
同じ武器を持った姉妹のようなもう一人。前の女とは対照的な少年のような凛々しい顔できっと男を睨みつけてくる。
「トモエくん、その人はかなりできそうだ。さっさと勝負をつけてくれないか、いつものやり方で」
 社長がアドバイスをするように声をかけてきた。事実トモエという名前だったのだ。
「わかりました、社長」
 トモエは視線をそらさずに答えると、ワイヤーをぐいと引いた。刀も男も思わず抗う間もなく引かれ、せっかく手に入れた青いスーツの女から引き離されて新手の敵と向かい合う。
 武器を持たずに向き合っていれば心躍るほどの女かもしれないが、その目は威嚇するヘビのように鋭い。 
 またしても刀とワイヤーの引っ張り合いだ。
「さあ、次はどうするの、右翼さん。わかったわ、いい加減引き合ったところで、今度は刀を放ってよこす気ね。同じ手が通じると思ってるの」
 癇に障ることを言いやがると思いながらすきをさぐっていると、いきなり全身に衝撃が走った。思わず動きが止まり棒立ちになってしまう。
 何があった?!どうなったんだ?!女の口もとが笑みでゆがんだ。こいつ、何か企んだな…直感し、両手で正眼に構え女にむけた抜き身の柄を持ち直したとき、再び強い衝撃が走り、刀を落としそうになるが、両手は柄に吸い付いたように離れない。男の額に脂汗が浮かんできた。 
 こいつはいったい何の魔法だ?まだ毒が効いているのか…いや…ワイヤーにつながる、女が左手に持った金の腕輪=レーザー鎖鎌の一部を女の左手の親指が這っているのを見とめた。スイッチを操作している…
 電気だ…電流をワイヤーに流しているんだ…あの腕輪の中には超小型の強力電池がしこまれている…感電させられていたのだ。男は気づいていなかったが、男の髪の毛は少し逆立っていた。
 正体見たり!しかし、手は電気の作用か刀を離れない。なんとか…と、思ううちにまたしても電流が来て飛び上がった。電流が流れるのは1秒間くらいなのだが、これが来るごとにパワーが強くなっている。なすすべもない。刀はあきらめ何か他に武器になるものをと、あたりを見わたしたとき、またまた強い電気が来て倒れそうになった。
「どう?かなりのショックでしょう。普通の男なら三回目のリリースで気を失うわ。あなたはタフなほう。でも、もういいわね、覚悟なさい」
 女は左手のレーザー腕輪を構えなおすと、手首を放り投げでもするように、男に向けて強く振った。その瞬間腕輪が真っ二つに割れ、半月状となった光るレーザー板が男に向かって一直線に飛んだ。全身がしびれ思考までしびれてきた男の目に、飛んでくる小さな三日月が見えた。これが顔にぶつかったら顔は二つに割れる。男はとっさに刀の陰に隠れた。
ギャリッ!
 三日月は切っ先近くに当たり、青い火花と白い煙が飛び散って凶器は大きく方向を変え、さらに飛んで火花を散らして空中で止まった。社長室を仕切った透明版に食い込んだのだ。
 三日月はさらに火花をまき散らして透明版を切りながら床まで落ちてようやく動かなくなった。社長は驚いてそれを見つめる。
「社長!大丈夫?!」
 黄色いパンツスーツをひるがえして女は社長に気を取られた。
 いまだ!けさがけにしてやる!男は刀を振り上げ、女の正面へ飛び込む。しかし女はすぐ気づき、半円腕輪のスイッチをさぐる。男が一太刀浴びせようと振り下ろしたとき、蹴つまずいてよろけ女の前で止まってしまった。あのコーヒーテーブルがあったのだ。女はスイッチを電力最高ボリュームまで上げた。 
 男はとっさにテーブルの上のコーヒーポットめがけて刀を放った。ポットは空中を飛び、女の肩にぶつかって盛大にコーヒーを女の全身に浴びせた。 
 このとき電流が流れた。腕輪から火花と白煙が爆発的に飛び散り、女が感電した。
「ギャーッ!」
 女はびっくんと飛び上がると、両手両脚をぴんと伸ばしたまま硬直状態になって仰向けに倒れた。
「し、しまった!トモエくん!」
「トモエーッ!」
 社長と青いスーツのアオイが同時に叫んだ。
 トモエは白目をむいて鼻血を流し、口からはよだれをたらして大の字にのびていた。コーヒーでよごれた黄色いスーツからは煙りと焦げた匂いが立ち上る。髪はあらかたアフロヘアのように逆立っていた。ひくひくと全身をけいれんさせていたが、やがて「うーん…」とうなりはじめた。
 こいつはまだ死んでいない。はやいとこ息の根をとめないと…男は刀を拾った。胸を一突きにするか。倒れている女をのぞき込み、切っ先をトモエの胸にあてがおうとしたとき、脚が動かなくなった。
 何だ?両脚が一つに縛られたように何かがからまっていた。銀色の細いワイヤーだ。その伸びている方向をたどると、青いスーツの女・アオイの手にしっかり握られていた。アオイはまたまたワイヤーを手にしていたのだ。
 アオイは部屋の中央、男からだいぶ離れたところからワイヤーをたぐる。
「ずいぶん伸びる紐だな。四次元ワイヤーか」
「10メートルは伸びるわ。しかも強度はばっちり。あなたを吊り上げることだってできる」
 言うなりアオイは振り返るや腕輪を空中高く放り投げた。腕輪は天井の梁を乗り越えて落ちてくる。アオイは後方へ走り、腕輪を受け止めると、手繰り引きはじめた。ワイヤーがぴんと伸び、男は縛られた足を引っ張られ、そのまま転んだかと思うと、逆さづりに上へ引き揚げられた。 
 が、女一人の力では男を逆立ち程度に吊るのがせいぜいで、それ以上は上がらない。男は必死でじたばたし、日本刀を持った手でワイヤーを切ろうとする。女はえいえいと掛け声をかけながら吊り上げようとする。
 そのうちそのえいえいの声が大きく力強くなり、男は上がり始めた。もう一人の女が力を貸し一緒にひっぱっていたのだ。なんと髪を逆立て振り乱し、汚れたジャケットを脱ぎ捨ててブラジャーとパンツ姿となったトモエが、凄まじい形相をして手助けしていたのだ。
 ついに男は地上1メートル以上のところまで逆さに吊り下げられてしまった。
女たちはワイヤーの先を重厚なドアの取っ手に結びつけ、
男を空中に固定した。男のジャケットは床に脱げ落ち、長い髪は垂れ下がり、顔は赤黒く変色する。
「よくやった、良くやったぞ、アオイ、トモエ!」
 社長が手を叩きながら言った。
「この男はあのときのアメリカ人より、この前の暴力団員たちよりはるかに手ごわかった。それを手こずったとはいえ、完璧に叩きのめした。君たちはまさしく最強の戦士だ」
 笑顔で褒めちぎったが、
「まて…まて、まだ勝負はついていないぞ…」なんとジャケットは脱げても男はまだ右手に刀を握っていた。
「くそっ!こんなもの…」刀を振り回して悪あがきをする。 
 さらに自分を吊り下げているワイヤーを刀で切ろうとしてみたが、自分の体を起こすことができず、切っ先がワイヤーまで届かない。トモエは風のようにさっと移動して、いつの間にか男の横についた。男が気づいて刀を向けようとする前に、エイッ!という気合の一声とともに男の右手に空手の一撃をくらわせた。
 男がたまらず刀を落とすと、トモエはその柄を蹴り、刀を男から遠ざけた。
「く、くそっ!」男は両手を振り回してトモエを捕まえようと暴れる。
「お、おい!おねえさんたち!次は柔道で勝負をしよう、寝技だったら負けないぞ!ベッドで勝負しないか!」
 すかさずトモエが男ののどに水平打ちを繰り出した。男はゲホゲホと情けなく咳き込む。
「くだらない減らず口はやめてね。自分の立場がわかってるの?」
「わ、わ、わかった…もう気にさわるようなことは言わない、あんたを誉めることにする…あんたはそのアフロモヒカンが良く似合うよ、八割の人から笑いがとれる…」
「社長、ちょっと遊んでもいいですか?この男の聞き分けをよくするには、ちょっと〝かわいがり〟が必要だと思うの」
「トモエ!」
 アオイがどこから取り出したか赤と青で左右色違いのボクシングのグローブを持っていた。それをトモエに放り投げる。
 トモエは受け取って装着すると、慣れた動作でいきなりシャドーボクシングをやりだした。動きが鋭くかなり堂に入っている。
「右翼の剣道マニアのあなたに説明しておこう」
 社長はガラスの向こうから楽しそうに言った。
「彼女=トモエはボクサーでもある。オリンピックの予選までいった。そのほか柔道、空手もプロ級だ。しかし一番強力なのはタイ式ボクシングの飛び膝蹴りだろう。これは凄いぞ。君が体験しないことを祈るよ」
「いくよ!」
 言う前にパンチが飛んできた。男はいきなり右頬を殴打され、体全体が左へ揺れた。さらに二発、三発、同じところへ続けざまにめりこむ。唸る暇もなかった。トモエは一歩横へ移動すると今度は左頬を連打する。逆さづりにされた時点ですでに顔が腫れぎみだった男はたちまち両頬が腫れ、唸りのような悲鳴を上げ始める。
 それに答えるようにトモエは男の正面に向かい合うと、両の拳で交互に、パンチボールを打つように男の頭をリズムよく殴りはじめた。なされるがままだった男は垂れていた両腕をようやく上げ、肘を曲げて腕と肘で自分の顔を守りだした。少しは防御が効き、トモエのパンチが男の顔に届きにくくなったことで、いらだったトモエはいよいよ強烈なパンチを繰り出し、男の顔はいよいよ赤黒く膨れ、鼻血が逆流して咳き込み、唇も切れて血が床にだらだら流れ落ちる惨憺たるありさまとなった。さしもの男も
「…わ、わ、わかった…もう…もう…やめてくれないか…」  とついに情けなく哀願するような口調になった。
「トモエ、もうやめてあげてもいいんじゃない?」
 意外と言うべきかアオイが男に同調した。
「その人、いくらかイケメンだし…元も子もなくす必要はないじゃん」
「あ…ありがとう…アオイさん…そうだ…次…次はアオイさんにお願いしたいね…トモエさん、アオイさんと交代してくれないか…」男はよれよれながらも調子に乗る。
「ふん、アオイ、あいかわらずイケメンには寛大ね」トモエはトゲのある言い方をして動きを止めたが、次の瞬間さらに力を込めて男を殴りだした。猛烈に左右のフック、強烈なアッパーの連続。まるで止める気配はない。男は両腕でフェイスガードを作り、雨あられのパンチをなんとかかわそうとする。そしてかわしながら捨てゼリフのようにことさら声高に言った。
「…わ…わ…わかったぞ…やたら攻撃的で、男を…男を…とにかく憎む…いつもイライラだ…人から非難されまいとな…あんたレズだな」
 トモエは一瞬動きを止めた。が、勢いをつけ右手の猛烈なストレートを繰り出した。男は体をよじって、からくも直撃をかわした。そしてさらに一言付け加える。
「…図星だな、アオイが彼女ってわけか」
「うるさいっ!」
 ストレートの次なる一撃は男の即頭部を捕らえ、男は鐘突き棒で叩かれた鐘のように、共鳴したように静まり返った。しかし自身の揺れがおさまるとぼそりと言った。
「…お…お、俺は…こう見えてもな…いくらか…女には詳しいんだ…トモエ、あんた焦ってるね…」
「何だって?!」
「…そうとも…アオイちゃんはモテる…ほかにいい人が何人か…二人以上いる…しかも一人は男だ…」
「こ、こ、こいつう~!」トモエは背を向けると高く上げた脚で勢い良く回し蹴りを繰り出し、男のわき腹に命中させた。
「トモエやめて!そんなのウソだから!」アオイが叫んだ。
その声にトモエはますます逆上し、何度も男のボディに後ろ回し蹴りを炸裂させる。男はさらに唇を切ったのか内臓をやられたのか咳とともに噴き出す血へどの量が増えた。にもかかわらず男は開き直るようにトモエに向かってさらなる悪口を続けようとする。
「…レ…レ…レ…レズの…一人が…に…妊娠したら…どうなるんだ…きっと…おも…おもしろいことに…」
「あなたも言うのを止めなさい!なぜそんなことを言うの?!」アオイも声を荒らげる。そうだ、そうなんだ…アオイは思った。なぜこの人はこんな目にあいながらも、ここに至ってトモエを煽るようなことやめないのだ、このままだとトモエは確実にこの貴重な虜を殺してしまう。
 アオイも社長もトモエと虜とのやりとりにすっかり気をとられてしまっていた。注意が散漫になり、男とトモエの成り行きしか見ていなかった。そして逆上するトモエは自分の暴力に酔い、沸騰するほど我を忘れるに至った。
「殺してやる!おまえなんか殺してやる!今すぐ殺してやる!…社長、こいつの血がそっちへ飛ぶかもしれないから、下がってください!下がってったら!」
「落ち着くんだトモエくん!殺してはいかん!早まるな!」
「覚悟しろ!アタマをコナゴナにしてやるーっ!」
「やめて!トモエ!」
「アオイ!あんたも良く見てな!男なんか、男なんか…」
トモエは社長の透明の壁の近くまで走って下がると、勢いをつけ男に向かって突進した。そして幅跳び選手のように一気に飛んだ。
「エヤーッ!」
飛びながら右足を蹴り出した。膝、というか右足全体が槍のように、男の頭に突き刺さるように一直線に空中を舞った。

シーン3「社長室つづき」

 ヴァイン!
金属が絶たれるような音がした。
 トモエは火の出るような勢いで全身で床に着地した。勢い余って寝たままドア近くまで床を滑る。トモエの蹴りは風を切った。が、骨が砕ける音、肉がつぶれる音はしなかった。手ごたえがなかった。どうしたことだ?!あいつの顔にめりこむか首をちぎったはずだ…
 思わず振り返る。あいつはいなかった。逆さに吊るされてはいない。床に大の字になって寝ていた。
「ウーン…」と、わずかながら動こうとしている。死んではいない。男の足元に切られたワイヤーがとぐろを巻いていた。ワイヤーが切れて男は床に落ちていたのだ。必殺の蹴りが命中する直前にすり抜けていた。
「…い、痛てえ…」男はさらに動き、立ち上がろうとさえしはじめる。
「こ、この!…なんて奴!…」トモエもだっと立ち上がる…前に、ハッと動けなくなった。後ろから髪をつかまれ引っ張られ、強引に上を向かされる。のどに冷たい金属の感触があった。幅の広い鋭い鋼…刀…刃がのどに当てられていた。
 斜め上からサングラスがトモエの顔をのぞき込んでいる。
 男だ。色白で整った繊細な目鼻立ち。いくらか縮れた髪はまだらの茶色に染められている。今や珍しくなった茶髪だ。どんな目をしているのか見えないが、薄い唇は端がゆがんで笑っている。トモエがわずかでも動こうとすると、刃が押しつけられる。まるでスキがない。手も足も出ない。
 男がいた。もう一人敵が、いつの間にか社長室にいたのだ。男は若い。少年のように見えるところもある。前の、辺田捜査官と名乗った男が着ていたと同じような長いコートを着ていた。が、ボタンはかけられていず、明るい色のスウエットシャツ、ジーンズ、スニーカーが見えている。シャツを、肩から腰にかけて皮のベルトが斜めに横切っているのは偽捜査官がしていたのと同じ、刀の鞘を背負うためだ。この男も刀使いなのだ。
「…遅いぞ、半次!何をしてやがったんだ!おかげで俺はさんざんな目に遭って…」立ち上がった男はよろよろしながらも口調は明らかに元気を取りもどしつつあった。
「いや、すみません。外の連中を黙らせるのに手間取ってしまって…社長室は入室禁止だと言い張ってね…今は全員空き部屋で寝てますがね…えっ!?なんてことだ!ゾウさん、すげえ顔だぜ!自慢のモテモテ二枚目がだいなし…一作目の『ロッキー』みたいだ!いや『用心棒』の三船かな!!」
「お前がもう少し早くきてりゃこんな目にあわずにすんだんだ!あやうく殺されるところだったぞ!」
「一度死んでみるのも経験ですよ」
「何だと!…」
 侵入者二人は敵の陣地で言い合いをはじめる。あっけにとられていたアオイは気がついた。
「…そうか、注意を引くためにトモエをたきつけていたのね。もう一人の仲間が入ってくるのを気づかれないように…」
「まあ、そんなところさ、アオイさん」
 年かさの偽捜査官のほうが、咳き込みながら口の血を片手でぬぐって言った。両目がすっかり腫れて見にくそうなので、しきりに顔を上げがちになる。床に脱げ落ちていたジャケットからサングラスを取り出し、かけようとしたが、顔が腫れすぎていて思うようにかけられず、いらだったようにポケットにしまい込んだ。
「さてと、予想外に時間をくってしまったが、勝負は決着だ。本題に入るぞ」
 振り返って、防弾ガラスの向こうで緊張で体を硬くしている社長をはたと見据える。
「話してもらうぞ、何もかも。あんたと中国との関係だ。はじまりからここまで。そして前回の事件のほんとうの目的…俺が言ったとおりなのか…現在はどうなっているのか…」
「言ったとおりだし、ニュースで見ているとおりだ。それ以上はない…」社長は額に汗を浮かべ立ち上がって答えた。
「半次、お前がおさえている女はトモエという名前だ。刀の刃をトモエの顎の下の浅いところにあてがえ。そこから俺の合図で一気に切り上げろ。顔をそぐんだ」
「ヒーッ!」トモエが叫んだ。
「トモエの生きお面を作ってやれ」
「キャーッ!キャーッ!キャーッ!いや、イヤ、イヤーッ!助けて!助けて!助けてーッ!」トモエはたちまち半狂乱になる。
「騒がないで!あまりしゃべるな!のどに刃が当ててあるんだぞ、自分でのどを切ってしまう」若い男・半次が低い声でトモエをたしなめた。トモエはすぐにおとなしくなる。目から涙があふれ出た。
「社長、お願い!早くしゃべって!私を助けて…」低い声で懇願する。
「社長!」アオイもうながす。「トモエを助けてやって下さい」
社長はわなわなと震えだす。
「これ以上言いようが無い、言い用が無いんだ!言ったら…」
社長は苦しそうに横を向いた。
「ホントにやるんですか?」
 半次と呼ばれた男が、ゾウさんと呼んでいた男に向かって聞く。
「社長がしゃべらないんじゃ仕方が無い。すべては社長の責任だ」ゾウさんが答える。
「何を言うんだ!そんなバカな!」社長が反論する。
「社長、お願いします、トモエのために!」アオイもたのむ。社長は横を向いたままだ。ゾウさんが半次を見て無言でうなづいた。合図だ。半次も無言でうなづき、サングラスの奥からトモエを見やる。そして刀を持つ手に力がこめられた。
「わかった!わかったわ!」
突然アオイが言った。ゾウさん、半次、社長も驚いてアオイを見る。注目を集めたことを確認してアオイが言った。
「よくわかりました。トモエはもう限界です。ここからは私が代わりになります。さあ、お二人、今度は私が相手になります、トモエを解放してやって下さい。そしてどうか私を見て下さい」
 言い切るとアオイは青いスーツのジャケットのボタンをはずしてさっと脱ぎ捨てた。フリルのついた純白のブラウスが現れたが、これもボタンをはずし、見る間に脱ぎ捨てる。目に染みるような白いブラジャーだけになった。さらに青いスカートのジッパーもはずし、足元に落とした。 
 アオイは下着だけの姿になった。まだ終わらない。手を背中に回すとブラジャーをはずして放り投げた。白い肌に山脈のような盛り上がりの乳房と桜色のその先端があらわになる。さらに真っ白いパンテイーもするすると下げ、たちまち両のハイヒールまですり抜けた。仕上げに髪留めまではずし、長い髪がふわりと背中にたれさがる。
 一糸まとわぬ完璧な裸身のアオイがいた。秘部は童女そのままのけがれないありさま。透けるように白い全身は完全な陶器のようにすべすべと天女の美しさだ。
 アオイは少し震えながら大きく両脚を開き、両手を天に向けて広げた。大きな決意を秘めた目は涙でうるんでいる。「さあ、私をさしあげます。どうとでも…すきなようにして下さい…だからトモエを放してやって…お願いだから…」と、トモエに目をやる。その両目から涙が落ちた。
 見ているトモエも涙を流し、「ア…アオイ…」と言いながらしっかりとうなづいた。見ている男三人は完全にあっけにとられていた。一番若い半次は明らかに目のやり場に困って窮していた。
 …この若い男の顔には少し赤みがさしている。魅了されている上にとまどっている。いまはアオイの虜になってしまっている。あと一息、あと一歩だ…アオイは効果を確かなものにするためにさらに一歩進んだ。
「そこまでだ!」
 野太い声が響き渡り、ドッと床が鳴った。あのゾウさんという男が自分の剣で床を突いたのだ。離れたところから見ていたと思っていたあの男はすぐ近くにいた。
「いい芝居だったなアオイ、少しは引き込まれたぜ」
ゾウさんの底意地の悪そうな一言にアオイはハッと身を固くする。すかさずゾウさんが言った。
「半次!トモエを押さえろ!」
半次はぎょっとした。刀をその喉笛にあてていたはずのトモエはいつの間にか抜け出し、床を這おうとしていたのだ。
半次はあわててトモエの背中から襲いかかり、全体重をトモエに乗せ床に押しつけた。
「半次、士道不覚悟だぞ!まんまと逃げられるところだった。こいつらの目くらましに乗せられたんだ。お前、アオイのハダカに一瞬目をそむけたろう」
「…あ、あんな場合ではちょっと目をそらすのが礼儀じゃないですか…」
「何を言ってやがる!純情気取りは命取りだ!こいつらは使い手だ。目だけで会話ができるんだ。お前は油断した!」
「お、俺は、ゾウさんみたいな自他共に認める女たらしじゃありませんからね。少しは女性を信じますから」
「お前は未熟だってことだ」
 ゾウさんが床を突いた刀の切っ先は、床にアオイが脱ぎ捨てたジャケットを刺していた。その刀をついと動かすと、その下にあのアオイのレーザー鎖鎌があったのだ。アオイはあと一息で拾い損ねた…
「チッ!」アオイは涙にぬれた顔を思い切りゆがめると舌打ちをした。「くそーッ!」トモエも地団駄のかわりに床を手で叩く。
「もういい!半次、トモエから離れて間合いをとれ。そこからトモエの片方の耳を切るんだ。次はもう片方の耳、次は鼻…どんどん切っていく…どこかの段階で社長が話すはずだ」
「キャーッ!やめて!やめて!恐い!怖い!」
再びトモエは恐怖に震え上がった。
「人をさんざんいたぶりやがって!何が恐いだ!士道不覚悟だぞ!」
「知らない、士道なんか知らない!私は侍じゃない!助けて!お願い!」
「心配するな、半次は剣の達人だ。正確に切ることができる。それに半次の刀は兼元という名刀だ。笹の露という別名もある。少しの衝撃で笹の露が落ちるように、簡単に首を落とすことができるほど斬れるそうだ。きっと切れすぎて痛みも感じないぜ。痛くなくて耳も鼻も無くなる…」
「ギャーッ!いやだーッ!いやーッ!」
半次の刀が前ぶれも音も無く宙を舞いトモエの左耳に向かって振り下ろされた。
「あんまり動かないでくれないか、トモエさん。動くとほかのところも切ってしまう」半次が言った。
 半次の刀はトモエの左耳の直前で止まっていた。そして半次は再び刀を上段に構えた。トモエは気を失った。
「わかった、もういい。君たちの勝ちだ」
 社長の声が聞こえ、半次とゾウさんはゆっくり振り返った。
 部屋を仕切って社長を守っていた防弾ガラスがするすると上へ上がり、社長が力なく中央に進み出てきた。
「私の秘書たちが酷い目にあうのを見てはいられない。すべて話せば、私はもうこの国にはいられないが、話すしかあるまい」
「よし、じゃあ、そこで話してもらおう。この部屋にはいくつものカメラやマイクが仕込まれているはずだ。どこでしゃべってもいろんな角度で録画される。データとして、すべていただいて帰る。編集して告白の大事な部分だけネットで流す」ゾウさんが促した。
「私が築いたMⅠNEの王国だったが、これで終わりかな」
 社長が誰にともなくつぶやいた。
「ろくでもない王国は消えてもいいと思うがね。つまり俺の推理したとおりってわけだな」
「君の言ったことはおおむね正しい…」
「MINEのもともとの始まりは韓国の会社だった。中国とも関係が深い。つまり社長、あなたも…」

ブーンドッククルセード1

2022年7月8日 発行 初版

著  者:北村恒太郎
発  行:北村恒太郎出版

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北村恒太郎

屋根裏文士です。 青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。 ◇青火温泉第一巻~第四巻 ◇天誅団平成チャンバラアクション第一巻~第四巻 ◇姫様天下大変上巻・下巻 ◇無敵のダメダメオヤジ第一巻~第三巻 ◇ブログ「残業は丑の刻に」

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