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大牟田の輝く人たち編

優美ジュン

フェースブック「大牟田炭都物語」



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  この本はタチヨミ版です。

大牟田炭都物語
輝く人々編

優美ジュン 作

目次(ページ省略)
1 ジプシーローズ編
2 甲斐智枝美編
3 大坪和彦さん、
  大森明さん編
4 魚住英一郎さん編
5 著者について 

ジプシーローズ編

昭和三十年代、一世を風靡したストリッパーがいた。
彼女の名前はジプシーローズ。
昭和六年十二月生まれ。
大牟田市出身。本名、志水トシ子。
四歳から日本舞踊、小五からバレエを習う。

トシ子が十四歳になったある日、
家族と知人の会話を偶然耳にした。
それは、トシ子と妹をそろそろ芸者にでも売ってしまおう。という軽い冗談話だった。
けれど、トシ子はその会話を本気にしてしまい六歳の妹の手をとり、そのまま黙って家を出た。
行くあてもなく暫く二人で歩いているうちに小桜舞踊団の前に来ていた。座長はその二人を匿った。
トシ子は間もなく上京するが妹のエイ子は中学を卒業するまで小桜舞踊団の座長の元で過ごした。
一方で上京したトシ子はロマンスショーの座長の付き人をしていた。
暫くして彼女の素質を見込んだ元俳優で演出家の正邦の元でジプシーローズとして売り出すことになる。
ジプシーもまた、正邦にかけてみることにした。
日本人離れした容姿と厳しい訓練の中、自分で見出だしたとされる腰を激しく回転させるグラインドという大胆なダンステクニックで人気を博し、
彼女の演目は大入りを続けていた。
十七歳で東劇バーレスクルームに出演し、昭和二十八年からはジプシーローズのワンマンショーだった。
その見事な肉体と芸で俳優や作家達までも虜にした。
ある版画家は彼女を、
肉体の神である。と讃え、
作品アメノウズメノミコトは彼女をモデルとして描かれたという。
ところが昭和二十九年、親会社の松竹の方針で契約を突然打ち切られる事になった。
それでも人気絶頂だった彼女は日本全国の劇場から誘いを受け巡業する。
その後、東京日劇ミュージックホールと二年間の契約をするが正邦は別巡業に出る事になり彼女は信頼する正邦から離れて過ごすこととなる。
東京日劇ミュージックホールでも大人気になったのだが、他のダンサーからのやっかみや嫉妬、
ひがみなどで虐めを受ける。
それに加えて彼女が見出だしたグランドダンスが当局から禁止されてしまう。
得意な売り技を封印された事による焦りや正邦の居ない孤独感や、他のダンサーからの嫉妬絡みの嫌がらせなどのストレスを紛らわせる為、
この頃から彼女は酒に溺れるようになっていった。
正邦が巡業から戻った時にはもう既にジプシーの心身は疲れきりアルコールで蝕まれていた。
正邦は悲しみ、ジプシーから何度も酒を遠ざけようとしたのだが無駄だった。
酒の量は益々増え続け、それと同時にジプシーの肉体と踊りと人気は衰えていき、やがては地方の場でさえも、
アレはジプシーローズではない。
ただの偽物だ。
と言われるようになった。
そんなジプシーを目の前にして正邦は昭和四十年に彼女をストリッパーから引退させた。
妻子を捨ててジプシーローズと運命を共にすることを選んだ。
ジプシーにとって正邦は初めての相手であり
誰よりもかけがえのない存在だった。
だから、ジプシーは一生涯、正邦ただ一人を愛し続けた。
その後、正邦は山口県内にスナックをオープンさせる。
昭和四十二年、四月、ドスンという鈍い音が響いた。
正邦は二階へと上がっていった。
するとジプシーは赤いカーペットにうつ伏せになって倒れていた。
脱色をした金髪の下で目は開いたまま、かつて笑わないスターと異名をとったあの舞台から客を睨みつけた目。
そのものだった。急性心不全。
三十五歳四カ月。戦後から続いたストリップ黄金時代の終わりを志水トシ子は自ら表現するかのように幕を閉じた。
そして、
ストリッパーに骨董品はいらないよ。
というジプシーの言葉が響くかのようだった。

甲斐智恵美編

私が二十歳前後の時でした。
町外れの八百屋で野菜を見ていると、八百屋の店員さんや
近くにいたお客さんが
「智恵美ちゃんよー。智恵美ちゃんよー」と叫んでいた。
何事だろうと、私は振り向いたら、タレントの甲斐智恵美さんが真後ろに立っていた。
智恵美さんは数秒、店員さんなどに会釈し立ち去ってしまった。
突然で私は立ちすくんでしまった。
目鼻立ちのくっきりとした綺麗な女性でした。

本名、甲斐智恵美。
昭和三十八年六月、大牟田市出身。
大牟田高校を退学した後、堀越高等学校へ。
昭和五十四年、
オーディション番組、
スター誕生で第二十九代グランドチャンピオンを獲得、芸能界へ。
昭和五十五年、シングル曲、スタアで歌手デビュー。
ポスト百恵と言われていた。
同期は松田聖子、柏原芳恵、田原俊彦、三原順子、河合奈保子、岩崎良美、松村和子、浜田朱里、比企理恵など。

けれど、シングル曲のオリコン順位はあまり思わしくなく、歌手活動停止。
そして、昭和五十七年にはヌード写真集が発売され、
のちに女優やタレント業に転身する。
人気ドラマに立て続けに出演し、昭和六十二年には日本テレビの連続ドラマ「見上げればいつも青空」でヒロイン役に抜擢された。
クイズ番組の司会などでも活躍。

平成二年には堀越高等学校で知り合ったミュージシャンと結婚し芸能界を引退する。
その後、二人の子宝にも恵まれた。

平成十六年に「あの人は今」というテレビ番組で、智恵美さんが生花店で働く姿が放送され、デビュー曲が流れた。
本番組が最後のテレビ出演だった。

平成十八年七月、自宅の二階の寝室で死亡が確認された。
自殺と報じられた。四十三歳だった。

智恵美さんの死亡のニュースを見て、
私は信じられない気持ちになりました。
後ろを振り返ると、
また甲斐智恵美さんが立っていらっしゃるような気がします。

大坪和彦さん、大森明さん編

中心街から車で五分ほど行った先のコンビニに車を止め、一つの角を曲がり二分ほど歩いたら大坪さんが経営されているホテルが観えました。

ホテルの玄関先に止めてあるトラックの方に軽く会釈してホテルの中へ入ってみる。
すると、大坪さんが私の名前を呼んだ。
その後、大坪さんにホテルのロビーへ案内されお話を聞かせてもらいました。
大坪さんと大森さんは、とても親しいご友人でいらっしゃいます。
松原中学校のブラスバンド部で、
大坪さんが二年生の時、大森さんは一年生でした。
大森さんの希望はトランペットだったのですが、
大森さんのお姉さんがクラリネットの経験者だった影響もあって大森さんはこの時、
既にクラリネットの達人でした。
それで大森さんの担当はクラリネットに近いサックスとなったそうです。
練習は遅くまで行われ、
とても厳しい。
しかも五十年以上前の当時は、電気などなく冬場は暗くて楽譜も見えない中での練習となっていた。
一年生だけで十六クラスあり、ひとクラスが六十人体制なので三学年までの全校生徒数は二千五百人以上というマンモス中学校でした。
校舎が足りず運動場に六軒長屋が作られたほど。
大坪さんが二年生で大森さんが一年生の時の文化祭では、その当時、九州では一番大きいと言われていた大牟田市民会館にて、ジャズを演奏されグレンミラーの茶色の小瓶を披露したそうです。
中体連では市内の全中学校のブラスバンド部が行進し、
大牟田の夏祭りの大蛇山ではトラックの荷台の上での演奏で三池方面からトラックに乗ってのパレードでした。
甘木中学校への慰問の際にはチューバや大太鼓などをリヤカーに乗せて運んでいた。
そんなある日の帰り道、メンバーの一人の生徒が行方不明になって
大騒動になり皆でリヤカーを引きながら
夜遅くまで探しまわったというエピソードもあるそうです。
それから夏には合宿などもあり、
とても楽しい思い出が出来たそうです。
高校生になると、
大坪さんはバンドを組みベースギターを担当していました。
夜、勉強しながら途中で抜け出して色々なお店で演奏していたそうです。
大森さんは高校三年生の時に高校を退学して、
国立音大へ進みピアノの先生をしていた女性と出会いご結婚されました。
その後、奥様とご一緒にニューヨークへ行って
有名なジャズの方達の出身でもあるボストンのバークリー音楽学院へと進まれました。
そして、そこを首席で卒業した後はまたニューヨークへ行き、
世界で有名な方々と一緒に演奏して十七年過ごした後、東京へ戻ってきたのだそうです。
現在、大森さんは色々な教室を開いたりされていて幅広くご活躍されています。

一方、大坪さんは現在、市内で旅館やグランドホテルなどを経営されていて
とてもお忙しい日々を過ごされています。

お二人共、ダンディなスタイルでとても素敵です。
これからも益々のご活躍を心よりお祈りいたします。
素晴らしい出会いに心より感謝申し上げます。



  タチヨミ版はここまでとなります。


大牟田の輝く人たち編

2021年11月14日 発行 初版

著  者:優美ジュン
発  行:フェースブック「大牟田炭都物語」

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