
この本はタチヨミ版です。
装画・イラスト 香月 優希
風は、まだ燻る炎の煙たい空気を乗せて、微かな熱気を帯びていた。
噴火の影響で、これより先に立ち入ることは不可能だった。無理矢理立ち入ったところで、ここから先は火砕流に埋もれて、何も残ってはいないだろう。
だが。
そこに、濃紫の羽織を纏い、背中にかかる白銀の髪をなびかせて佇む男──靂は、ふと気配を感じ、辺りを見回した。
声がする。しかも、赤ん坊の泣くような声。とは言えこんなところに生き物、ましてや赤ん坊などいるわけがない。
<猫でもいるのか?>
どこか切迫した、激しい癇癪にも似たその声を無視することも出来ず、靂はその発信場所を探した。
「靂様、どうかしましたか?」不思議そうに尋ねた従者には答えず、慎重に気配を探る。
果たして、振り返った斜め後方に、何かが光った。薄い雲の隙間から射した日の光を、こちらにキラリと反射したのは、突き立った棒──否、剣だ。
怪訝に思いながらも、靂の足は、自然とそちらへ歩を進めていた。濃茶の柄が見える。緩やかに美しい曲線を象ったガード(鍔)は金。これが先程、光を反射したのだろう。剣は鞘に収まったまま、先の方が地面に埋まって自立している。
そして──そのすぐ横に、赤ん坊はいた。包まっていたであろう、厚手のボロ布から、半ば這い出す様にして、うつ伏せに転がり、声を上げている。そのまま地面に這いつくばって進みそうな気配を感じ、反射的に、靂は赤ん坊を抱き上げていた。赤ん坊は泣き止み、靂を見つめた。あまりに無垢な、真っ黒い瞳。自分の封じた何かを見透かされた気がして、靂は言葉を失った。
<どうして……>
こんなところに。
首はしっかり据わっている。その顔には少し泥がついて汚れているものの、どうやら無傷のようだ。
他に人の気配はない。赤ん坊は簡素な肌着を纏っているが、あるのは下敷きになっていたボロ布と、隣に突き立っている謎の剣だけ。
靂は赤ん坊を片手に抱き、もう片方の手で剣の鞘を握って引き抜いた。程よい重さの中剣だ。鞘を抜いてみないと、中がどうなっているかは分からないが。不思議なことに、剣も目立った汚れや傷はなく、火山灰を被った気配すらなかった。これは、この赤ん坊と関係があるのだろうか。
靂はしばし、剣と赤ん坊を見比べた。赤ん坊は、無邪気に剣に手を伸ばしている。
<結界でも張ってあったのか?>
しかし魔術の気配もない。他には何一つ残っていないのに、どうして赤ん坊と剣だけが、こうして残されているのだろう。考えたところで、答えは出なかった。
「桂城、帰るぞ」
従者に声を掛けると、剣を右手に握ったまま身を翻し、靂は歩き出した。赤ん坊は、彼の左の肩にしっかりと小さな手を添えて、自らしがみついてきた。そしてまた、泣き出した。
「靂様、お待ちください! どうなさるおつもりですか」
赤ん坊の泣き声にも、従者の狼狽えた声にも耳も貸さず、靂は黙って来た道を戻って行く。オロオロしながら、結局は桂城も後をついて来た。
どうするつもりかなど、分かる筈もない。だが、流石の靂にも、この状況で赤ん坊を置き去りにすることは憚られた。社に戻れば、女たちがどうにかするだろう。
赤ん坊はやがて泣き疲れて、靂の肩ですやすやと寝息を立て始めた。それは、靂が初めて感じる温かな重みだった。
1
──竜は、その者が自分に気づいてくれるのを待ち続けていた。彼が早く自分の存在に気づき、正式な継承を成すことを。
秋の空気が、風に乗って、建物の中に薄く吹き込んでいる。
靂は窓際に佇み、厚い雲が流れる様子をそれとなく眺めながら、遭遇したことのない事態について思案していた。
啼義が、淵黒の竜の像を破壊したのだ。
像は、この羅沙の社の信仰を象徴するものだ。黄泉の国へ渡った魂を復活させる力を持つという淵黒の竜への敬意を示すために、社の頭である靂が建造させた巨像だ。
赤ん坊だった啼義を、噴火直後の山の麓で拾ってから約十七年。その信仰はしっかりと彼の中にも根付いているはずだ。像の破壊とて、無論、故意ではなかった。他ならぬ啼義自身が、その瞬間ひどく驚いた様子で目を見開き、青ざめた顔で息を呑んだのを、靂はしっかりと見ていた。しかし。
<あの雷は、躊躇がなかった>
啼義には、物心ついた頃から不思議な力があった。魔術の類の一種かとも思ったが、どうもその『気』とは違う。だが、時に炎や水、風などを自在に操る気配を見せるそれを、あるいは鍛錬することで、役に立つよう育てられないかと、靂は考えた。そうして重ねている鍛錬の最中に、起こった事件だった。
その時のことを、あらためて思い返す。
指先に意識を集中していた啼義が、火傷でもしたかのように手を引いたその時、光が生まれ稲妻が天へ放たれ──次の瞬間、耳をつん裂くような轟音が響き、岩の砕ける音が続いた。
思わず閉じた目を開いた靂が見たのは、前方、翼の左半分を失くした淵黒の竜の像だった。その足元には、砕け散った石の残骸。そこにいた者たちがざわめき始めた中、啼義は言葉を失って立ち尽くし、靂もまた唖然としていた。
「靂様!」
誰かが声を上げ、靂は我に帰った。
「──捕らえろ。牢へぶち込め」
かろうじてそれだけ言うと、ハッとしたように顔を上げた啼義の、黒い瞳と目が合った。だが、言葉はなかった。
「啼義様、失礼いたします」
両側から腕を取られ、啼義は抵抗することもなく、その場からあっさり連れ出された。彼自身も、予期せぬ事態に、思考が停止してしまっていたのかも知れない。
そして──
もう一昼夜、啼義を地下牢に放り込んだままだ。
外は冷たい雨が降っていた。先ほどまで聞こえていた雷鳴は、もう聞こえない。もうじき冬を迎えようとしている今、気温は日に日に下がり、夜は少し冷えるようになってきていた。
<ひとまず、顔を見に行くか>
靂は意を決すると、踵を返し、窓辺から離れた。そうだ。あれはきっと、ただの偶然に違いない。
2
壁にかけたランタンが一灯照らすだけの、薄暗い石造りの四畳半ほどの牢の奥に、両の手を後ろで縛られて身体を横たえている人影があった。
背中の中程まである黒い髪を、肩の辺りで緩く結わえている。今そっと開いた瞳は、髪と同じ黒。暗くて分からないが、微かに濃茶の光も湛えたその瞳を彷徨わせ、景色が変わっていないことを確認して、啼義は一人、嘆息した。
<いつまでここに居ろってんだよ>
ずっと縛られているわけではなく、簡素な食事の差し入れと、用を足す時には、監視の元で自由だったが、それにしても飽きた。いちいち看守を呼ぶのも面倒臭い。
<それとももう、今度は本気かな>
自分のしでかしたことの重大さは、よく分かっている。あの靂が、黙って見過ごせるはずもないことも。だが、自分の意思でなかった出来事に、こんな仕打ちを食らうのは理不尽だった。
<何なんだよ、あれは>
自分の力なのに、自身で制御出来ない未熟さが歯痒かった。なんとか自在に操れるよう鍛錬しているのに、最近はむしろ、自分の意思と離れていく気すらするのだ。
<どうしてなんだ>
考えても、思い当たる節はない。やればやるほど、感じるこの違和感は何なのか。このまま鍛錬を続けていけば、やがて出口が見えるのだろうか。
その時、格子の外側、階段を降りてくる足音がした。長い濃紫の羽織の裾を揺らし、ゆったりとした足取りで冷たい靴音を響かせ、現れたのは靂だ。
「靂様!」
看守が慌てて頭を垂れると、靂は言った。
「ご苦労。下がってよい。鍵を貰おう」
「はっ」
看守が姿を消すと、靂が鍵を開けて、悠然と牢の中に入って来た。帯刀している。啼義は身を横たえたまま、靂を見上げる。
「起きろ。釈放だ」
あまりにあっさりした宣告に、不思議に思いながら身体を起こした途端、左肩に衝撃が走り、吹っ飛ばされた。手を縛られていたので、体勢をどうかする術もなく、顔から硬い床に叩きつけられる。靂が、鞘に収めたまま、刀を振るったのだ。口の中に血の味が滲んだ。
「……ってぇ! 」
間髪入れず、今度は足で蹴り飛ばされ、背中を激しく壁にぶつけて、啼義は呻いた。靂は金の瞳を冷ややかに細めて、歩を進める。それでも怯むことなく睨み返してきた啼義の視線を無視して、刀を下ろし、片膝をついた。
「無傷で出すと、外野が煩いからな」
靂は言うやいなや、刀を鞘から抜くと、啼義の手を縛っていた縄を造作もなく斬り解き、また刀を戻して、何事もなかったかのように身を翻し、啼義が起き上がるのも待たずに去って行った。
3
まもなく、夜の帳が下りようとしている。等間隔の燭台が灯された回廊を行く、男が一人。緩やかに波打つ金の髪を高く結い上げ、すらりとした長身に、深紅のマントを纏っている。赤い瞳の奥には、どこか仄暗い光が沈んでいた。
靂の右腕と呼ばれる魔術師、ダリュスカインだ。
十年ほど前に、このエディラドハルドの大陸の南部から、ドラガーナ山脈を越えて現れた彼は、当時まだほんの十七、八歳の青年だったが、魔術の腕は目を見張るものがあった。彼は、当時やたらと周囲に出ていた魔物を、いとも容易く始末し、社の安全を確保した。そうすることで信頼を得、熱心な信仰心も手伝って、靂も側に置くようになった。
だが──
<啼義様の力は、一体……>
ダリュスカインにとって、啼義は弟のような気がしないでもなかったが、正直、どこか相容れない空気があるのも事実だった。啼義の持つ力には、他にはない独特の『気』を感じるのだ。
その力が、社の象徴である淵黒の竜の像を破壊した。あの時、像を打った雷のような光に、明らかな敵意を感じたのは、気のせいか。
<あれは、意志を持っている>
ダリュスカインは、そう直感した。啼義とて、この羅沙の社で育ったからには、靂に倣った信仰心を持っている。社の方針に逆らうようなことを、決して自らするはずがない。だがあの勢いは、ただ間違って当たった、などという生ぬるいものではなかった。では、何故──?
気味の悪い波動だった。魔術師として様々な力の波動を見てきたが、ここのところ啼義が鍛錬のたびに僅かに発している、本人も気づいていないであろう不協和音のようなものに、彼は密かに警戒を高めていた。今回の事件は、それが具現化したようにも感じる。社の信仰に抗うような、決して交われない存在のもの──
<……もしや>
ふと、思い当たった。
<蒼空の竜?>
遥かな昔、淵黒の竜を退治したとして語り継がれる、もう一匹の竜。その竜から授かった『竜の加護』と呼ばれる力を継承する者が治めるイリユスの神殿が、彼の故郷と同じ大陸の南にある。しかしその継承者は、ダリュスカインが故郷を去った当時、もう何年も不在で、神殿の人間が行方を探していた。その力は今、どうなっているのだろう? 継承者は?
思いを廻らしかけた時、回廊の向こうから、とぼとぼと俯き気味に歩いてくる啼義の姿が目に入った。
ダリュスカインが立ち止まると、啼義が顔を上げた。右の頬は擦り剥き、額からの出血も見られる。
「啼義様……」
「大したことねぇよ」
何か言おうとしたダリュスカインを遮り、啼義は不貞腐れた口調で答えた。左の肩を、庇うように押さえている。背で緩く結えた髪は乱れ、解けかかっていた。
「お部屋まで付き添いましょうか?」
ひどく疲れた様子が気にかかり、思わず言ってみたものの、啼義は「いや」と短く断った。「心配には及ばない。すぐに治る」
そのまま歩き去る後ろ姿が突き当たりを曲がって消えるのを、ダリュスカインは立ち止まったまま見送った。
<すぐに治る、か>
そうなのだ。啼義の身体の回復力は、普通の人間のそれをやや上回っている。怪我をしても、いつも医者の見立てより早く完治するのだ。あれも、力の一種なのだろうか。
<調べてみる必要が、ありそうだな>
もしも、淵黒の竜の力の復活を阻むものなら、削がねばならない。黄泉の国へ渡った魂を呼び戻すことができると言われる力。魔物の牙にかかって失った家族を取り戻すために、自分はここにいるのだから。
タチヨミ版はここまでとなります。
2025年1月14日 発行 第六版 / 2022年9月1日 初版
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