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海のロマンス

米窪太刀雄

エイティエル出版



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  この本はタチヨミ版です。

はじめに夏目漱石の序はしがきさらば芙蓉峰*――いざ太平洋横断へ帆船のロマンスアンクルサムと彼の郷土――米サンディエゴ滞在百十七日陸を見ず――太平洋南下、ホーン岬を経て喜望峰まで南アフリカの南端――ケープタウン滞在セントヘレナ――ナポレオンが流罪となった島へ鹿と亀とカメレオン――南大西洋を西進し南米へ南洋より故国へ――インドネシア多島海を経て再び太平洋へあとがきに代えて本文目次

海のロマンス (現代表記版)

よねくぼ

世界周航のルート

1912年(明治45年)年7月18日千葉・館山を出港

 (太平洋横断) 

米サンディエゴ

 (太平洋を南下、ケープホーン経由で南大西洋横断)

南アフリカ・ケープタウン

 (大西洋を北上) 

セントヘレナ島

 (大西洋を西進)

リオデジャネイロ

 (大西洋を南下し、喜望峰をこえてインド洋横断) 

豪フリーマントル

 (インド洋東部を北上、インドネシアの多島海を経て再び太平洋へ)

1913年(大正2年)10月16日、千葉・館山(鏡ヶ浦)で投錨

全航程  36,377海里

航海日数 456日(内訳 錨泊びようはく116日、帆走はんそう308日、汽走きそう32日)

目次

はじめに

夏目漱石の序

はしがき

さらば芙蓉峰*――いざ太平洋横断へ

帆船のロマンス

アンクルサムと彼の郷土――米サンディエゴ滞在

百十七日陸を見ず――太平洋南下、ホーン岬を経て喜望峰まで

南アフリカの南端――ケープタウン滞在

セントヘレナ――ナポレオンが流罪となった島へ

鹿と亀とカメレオン――南大西洋を西進し南米へ

南洋より故国へ――インドネシア多島海を経て再び太平洋へ

あとがきに代えて

   はじめに

 『海のロマンス』は、商船学校の学生だったよねくぼが商船学校の練習帆船・たいせいまるに乗船し、二年間をかけて世界一周したときの航海記です。

 これはまず朝日新聞にれんさいされ、夏目なつめそうせきが激賞したこともあって、出版されると同時にベストセラーとなりました。

 とはいえ、そうせきは、賞賛すると同時に、自分が『わがはいねこである』を書いたときの文章に似て、作者が悪達者にも思えるので、あまり「くろうとっぽくなりすぎないように」と親身な忠告もあたえています。

*   *   *   *   *   *

 作者はしきりに横文字を使います。また、中国のやギリシャ神話からの引用など、博学多識ぶりも相当なものです。

 よくいえば血気さかんな若者の意気込いきごみの表れ、悪くいえば、げんがくしゆ――そうせきのいう「達者すぎる/才にまかせて書きすぎる」こと――につながりかねません。

 とはいえ、そういうことを加味しても、日本人の書いたはんせん航海記としては群をいており、また内容もしゆういつです。

 この本が出版されると、海にあこがれて船乗りをめざす若者が増えたとも伝えられています。

 みなさんも商船学校の若き学生になったつもりで、彼らとともに世界一周の航海を楽しんでみませんか。

現代表記について

 原著は漱石が現役の作家である時代に書かれたこともあって、今ではあまり用いられていない表現や難解な漢字、中国のや成句、ギリシャ神話の引用などが数多く出てきます。

 この現代表記版では、現在の若い人々がそれほど苦労せず興味を持って読めるように、旧字体は使用せず、ふりがなルビをつけた上で、可能な限り現代かなつかいに従ったものにし、語注や図版を追加し、さらに必要に応じて「言い換え」を行っています。また帆船用語については、同じ用語についても語注で繰り返しとりあげています。

 とはいえ、そうせきも述べているように、著者の文章はさいかんぱつで独特のリズムがあるため、そのすべてを「意味が伝わればよい」と平板な現代文にしてしまうわけにもいきません。

 また、言葉づかいについても、約一年半の間には、同じものを別の言葉で表現したりもしていますが、それも長期航海による変化を示すものとして楽しめると思うので、無理に用語を統一することはしていません。

 この現代表記版は、可能な限り現代の人々が理解できるようなものにすると同時に、当時の雰囲気が感じられるようにもする――ことを念頭に作成してあります。

 その点について、読者の皆さんに不十分と感じられるところがあるとしたら、それについての責任はすべて編者(海洋冒険文庫)にあります。

 お断り

 本書の漢字についているふりがなは、必ずしも学校で習うのものと同じではないことに注意してください。

 つまり、その語句の俗っぽい呼び方や英語の読みだったり、意味が「ふりがな」としてつけてあったりします。また、同じ漢字に別のルビがついている場合もあります。

 著者の一種知的な言葉遊びでもあるので、この現代表記版でも、それについてはできるだけ原文に忠実に再現し、学習指導要領のみがなに統一してはありません。そこに注目して読むのも楽しみ方の一つです。

 例

おか

にくい友だち

姿形すがた姿形かたち

沈黙の谷バレイ・オブ・サイレンス

すべて駄目ナツシング

   夏目なつめそうせきの序

 あなたの回航日記は、海を知らない人にとって、興味の深いものであります。また有益なものであります。私は『海のロマンス』という表題の下にこの回航日記がおおやけにされるのを喜んでおります。

 がいしていうと、文筆は陸の仕事です。陸にいて海を書くコンラッドのような人はありますが、船にいて海のせいかつをその日その日に写していった人はあまりないと思います。

 それもひまのある人が道楽にならやれるかもしれませんが、あなたのように練習にいそがしい身で、朝夕仕事に追いかけられながら、つかれた手にペンを持つことをまいにち忘れずに何百日もやりとおすということは、とうていできる業ではありますまい。この点において、あなたの文章は他の人のそれよりもはるかに骨の折れた努力を示しています。この点において、たしかに世間にしようかいされるがあると思います。

 あなたはつうの人にできないことをなすったのです。おかげでつうの人に知れないことをおおやけにする機会を得たのです。今度のはんそうは約四百日で三万六千かい(約六万四千キロ、地球を一周半できるきよ)を走ったのだそうですが、このの回航中にふくまれている暴雨だのだの、波の山だの、雲のかたまりだの、陸では百年たっても見ることのできないものが、ただあなたのにんたいにぎられたペンの先からのみいて出たとすれば、あなたもうれしいでしょう。陸にいるものもうれしいのです。

 島国と名はついていても海の生活を知らない日本人はいくらでもいます。知らないで知りたがっている人もたくさんあります。あなたは、そういう人にケープタウンや、リオ・デ・ジャネイロやフリーマントルから、よい土産みやげたずさえて帰ってきたといわなければなりません。

  あなたの文章は才筆です。少しのよどみもなく、おぎわはほとんど素人しろうとらしくありません。よくあのいそがしい練習船のうちで、このくらいに念入りの文章が書けるかと思うと感服せずにはいられません。しかし、そこにあなたの弱点のひそんでいることを忘れてはなりません。

 あなたの筆は達者すぎます。あなたは才にまかせて書きすぎました。素人しろうとらしくないと同時に、少しくろうとくさくなりました。私はあなたの文を読んで、なにゆえ延ばす一方にのみ走らないで、縮めるふうに少し頭を使わなかったかをかんに思うのです。あなたの文章は、私がむかし書いたものの系統をどこかに引いています。それが、私にはなおさらつらいのです。人の文章が自分の文章の悪いところに似ている。私にとって、これほどめんぼくのないことはありません。私は「ねこ」を書いてなんべんこうかいしました。そうして、そのこうかいの過半は「ねこ」らしい文を読んだときに起こったのです。

 あなたが私の文章をたといっては失礼です。しかし、私の文章の悪いところがあなたの文章にもあるということは疑いもない事実です。私はその後、自分の非を改めたつもりです。あなたも今度第二の『海のロマンス』を書くときには、どうぞ私の忠告を利用して、素人しろうとばなれのした、しかもくろうとじみない筆づかいでじゆんすいなものを書いてください。

大正二年十二月二十日

夏目なつめそうせき

 様

   はしがき

   一

 今年の秋十月、ともかくも無事に「世界周航」なるものをすませて帰国したとき、一人の男がたずねて言った。

「君はあんなものを書いたが、いったい船乗りせいかつおもしろいのか」と。

 たずねた男のがんこうには、「やせまんは認めないぞ」というするどさがあった。

 ぼくはとうわくした。

 大いにとうわくしたぼくは、「いや大いに不平がある」と答えざるをえなかった。

 そうして、だまっていればよいのに、なまにも、

「船乗りはきらいだが、海洋うみは好きだ。人間はきらいだが自然は好きだ。白いきれいな雲の往来と赤いしい太陽のしゆつぼつとをながめくらして、そうぼうたる大洋うみの真ん中に首だけ出して見ていたい」

 などと、古くさいことを長々とつけ足した。

 こしゃくな、とばかりに、その男はカラカラと笑った。

 口ががるのをおそれながらも、なおデイドリームにあこがれ、エアキャッスルを築く*しような男だと心ひそかに笑ったのか、「うそをつけ、いまの船乗りの意識と情操とをしてくれる海洋うみの景象に、海のロマンスというべきものがあるのか」と笑ったのか、いまだにそれはわからない。

 このはしがきを読んで、その男はいまごろどこやらで、またカラカラと声高く笑っているだろう。その笑い声を聞きたいようでもあり、また聞きたくないようでもある。

* デイドリームは白日夢や空想、エアキャッスルはくうちゆうろうかくを意味する英語。いずれも現実ばなれしているという意味がこめられている。

   二

 『海のロマンス』は、商船学校の練習船・たいせいまるに乗り組んだ一人の学生が、明治四十五年七月から大正二年十月にわたる十五ヶ月間、三万六千かいの大航海の間に、感じたこと、見たこと、聞いたことを、船務のにそこはかとなく書きつづったものである。

 その昔、ただ海洋美とか、雲や波の美しさとか、または海洋の精気オーシヤンスピリツトとかにあこがれて、美しい着物を着て喜ぶしようのように、ただわけもなく、うっかり入校したその男は、船乗り生活の苦しい、つらい、じようちよもない現実的な将来を知ると同時に、少しずつ不平や悲観や失望を味わうようにもなった。

 この心理は、かれが練習船の人となって二年間の海上生活を送るようになったときに至るまで、この正直な男の頭脳あたまなやまし、心にわだかまりがあった。

 このとき、この男の手元に一本の手紙がとびこんだ。……船乗りは最も男らしいせいぎようだとか……今度の航海は空前無比の世界的大航海だとか……いろいろ人の心をするような言葉がふくまれていた。

「正直な男」は首をかしげて、「なるほど、そんなものかなあ」とつぶやいた。そんなにえらい生業なら悲観するにもあたらない。そんなにえらい航海なら、こいつを一つ新聞に書いて、さらにほめられてやろうとと決心した。

『周航記』が東京朝日新聞にけいさいされたのは、こんなつまらぬ動機からである。

かれ」とか「その男」とかいうのは、かく申すせつしやである。

   三

『海のロマンス』には、これぞと思うがない。

 ただあるとすれば、米の値段を知らないふうらいぼうが、となんら関係のないきよくたんな非人情のことを長々とのんきに書きまくった、その気楽さを味わうくらいである。二つの世紀と三つの内閣とをそうげいした日本の「陸の人」から見れば、実にふざけたたわごとであるかもしれない。しかし、ぼくは、これが『海のロマンス』のであると思う。読む人が、うらやましくて、ついよだれが、という、そういうきようぐうではあると思う。

 百二十日、ほぼ四げつの間、口から空気と麦飯とを放りこんで、手にブレースたこ*をこしらえる以外に、はんも情実も義理もヘチマも度外視した無げきな生活!! 金の「か」の字も心頭にのぼってこない気楽な生活!! いまから考えてみると、こんな月日は二度と世界のどこにも、いつしようがいのどこにもあるまいと思う。

* ブレースたこ  はんせんよこをつるすげたをヤードと呼び、ブレースはその りようたんにつけたロープを指す。

 このロープを引いての角度を調節するため、手の指やてのひらにたこができる。

   四

 東西の両朝日新聞*にかかげられただんぺんてきな『周航記』が一つのまとまった『海のロマンス』となったのは、まったくせんぱいうすしゆういち氏の友情あるせいてき努力によるので、十月十八日に下船して、さらに十一月十六日によこほうじゆつ学校にけんされる……などとおおさわぎにせわしなかった自分のみであったならば、とうていこんな単行本はできなかったことと、心より感謝の念をささげる。

* 東西の両朝日新聞  一八七九年(明治十二年)に大阪朝日新聞が創刊され、その後、東京にも進出して東京朝日新聞が発行された。

 新聞統制で両者が「朝日新聞」として統合されたのは太平洋戦争直前の一九四〇年(昭和一五年)。

    五

よこくすうら寄宿舎において

 また、この機会を利用して、序文をくださった夏目なつめそうせき先性、しぶかわげん先生、とりせん先生、すぎむら楚人冠そじんかん先生にじんだいなる謝意を表する*。

よねくぼ

大正十三年一月ちゆうじゆん

* 序文  本書には、そうせきの他にしぶかわとりすぎむらの三氏(いずれも当時の著名な言論人で朝日新聞関係者)が序文を書き、終戦直後の誠文堂新光社版では大宅壮一他も序文を寄せているが、「あいさつは短い方がよい」のは古今東西を問わず真理と思われるため、本書ではそうせきのものだけを掲載。



  タチヨミ版はここまでとなります。


海のロマンス

2022年7月18日 発行 初版

著  者:米窪太刀雄
編  集:海洋冒険文庫
発  行:エイティエル出版

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