房州うちわ 日々の記
保田文庫
文・前田 宣明
写真・Old Blue Crow(セキアキコ)

私の祖母は、南房総保田の鱚ヶ浦で雑貨店をやっていた。夏になると、店の前の平台に水中眼鏡や浮き輪、花火なんかを並べて売っていて、足に砂を付けた海水浴客がよく買い物に来た。今から30年位前、私がまだ10才にならない頃、銀色の西陽がまぶしい夏休みの午後だった。下の浜で泳いできた海水浴客が店のベンチでアイスを食べていた。その傍らで、祖母が竹製のうちわを扇いで店番をしていた姿を覚えている。
祖母が使っていた竹製のうちわの裏面には、隣町の問屋さんの名が書いてあった。うちが商品を仕入れていたお店だ。家にはプラスチック製の団扇もいくつかあったが、竹でできたものは、少なかったんじゃないかと思う。このころ家にはエアコンはなくて、夕飯を食べる時も、テレビを見る時も、黄緑色の扇風機が家族の傍らで汗を流して首を振っていた。

初めて房州うちわを自分で買ったのは、高校2年の頃だったと思う。あれはたしか、富浦の道の駅に寄った時だった。別にうちわを買おうとしていたわけでもなく、当時はまだ工芸品に興味があったわけでもない。ただなんとなく、たまたま土産売り場で手に取った。くすんだ灰色の地に黒い菱形柄の反物が貼ってあって、見た目が気に入って買った。レコードでいうジャケ買いのような感覚に近かった。その日から自分の部屋に飾って、そのうちに愛着がわいて、夏が来ると自然と使うようになった。
学生時代は東京で一人暮らしをしたが、そのうちわをつかっていた。海のない土地での生活で、うちわの風に故郷の海を感じたのを思い出す。当時親しかった岩手出身の友人とお互いの故郷の話になり、うちわと海の事を話した。友人は「お前はほんとに南国の人間なんだな」と言っていた。思い返すと、私にとって、房州うちわがちょっと特別な存在になったのはこのころから。

うちわがどんな風に作られているのか見てみたくなって、職人さんの仕事場にお邪魔してみたことがある。目の前で緻密に竹を割く姿がとても印象的だった。その時、こんな話を聞いた。うちわが作られ始めた江戸時代、房州はうちわの材料である細い竹の産地だった。収穫された竹は館山の那古から船で輸送され、江戸の職人が紙を貼り、「江戸うちわ」の名で知られていたという。

明治時代にはいると、江戸の問屋や職人が、竹の産地である館山に移って生産を始めていた。大正時代に起こった関東大震災で被害を受けた東京の問屋や職工たちが、館山に拠点を移していった。その後、房州は本格的なうちわの産地となったそうだ。関東大震災直後、東京のうちわ業界にいたひとたちは、灰燼に帰した街の姿を見て房州に行くことを決めたのだろう。いつの時代もひとは、工夫して生き延びる。

明治大正昭和戦前期にかけて房州の沿岸地は、保養地・海浜別荘地として多くの人に親しまれていた。震災をへて、夏の涼をとる道具の産地が、避暑地である房州にうつったのはなんとも数奇なことだと思う。数年来地元に残るの古い別荘の事を調べてきたが、古別荘の建物の中で使い古されたうちわの姿を見かけることが多々あった。建物とうちわ、それぞれに宿る経年の質感が見事に馴染んでいる風景。

高校の頃に買ったうちわが傷んで、扇の外周の紙が切れてしまっていた。なんとかして使いたかったので、富浦の「うちわの太田屋」さんに持っていき、修繕を頼んだところ、快く直してくれた。長年の摩擦で扇面が切れて竹が窓の両端部分から飛び出してしまっていた。上から和紙などを貼り強度を増す「耳貼り」のやり方を教えていただき、家で自作してみた。この耳貼りは、どことなく陶器でいうところの「金継」のような感じがして気に入っている。

その土地の風土や人の営みから生みだされた衣服や生活用具がある。例えば「キューバシャツ」と呼ばれる開襟型のシャツは、中南米の高温多湿な地域で着られている衣服だ。私は房州うちわもそんな風土を反映した品の一つだと個人的に感じている。涼をとる道具である「うちわ」には、古くから海浜避暑地・保養地として親しまれてきたこの土地らしさが宿って居はしないだろうか。

ずいぶん前、知人の家に行ったとき、バーベキューの火起こしの時に房州うちわを借りたことがあった。20年来、火おこし用に使っているものだという。表も裏も無地の白い紙で、フチも剥がれるほど使い込まれ、煙のせいか少しくすんだ色味の佇まいだった。なかなかかっこよく見えた。

先日、地元の美容院に髪を切りに行ったときの話。クーラーつけっぱなしでは風邪ひいちゃうよねという会話から、自然とうちわの話になった。店主は、長らく房州うちわを愛用しているそうで、「ひと扇ぎするときの風の量が、プラスチック製と全然違うからいいよね」と言っていた。車のサンバイザーの裏には普段からうちわを挟んであって、夏になると、観光売店なんかで売っている子供用の小さなサイズのものを持ち歩いているという。女性用のバッグにも入ってちょうどいいのだそうだ。身近に思いがけない愛好家がいてなんだかうれしくなった。

2021年10月
娘が房州うちわを持って小学校から帰ってきた。なんでも、授業で房州うちわの作り方とか歴史をやり、自分で描いた絵をうちわに貼ったのだという。娘が描いたのは、浮世絵「見返り美人」が口にマスクをしている絵だった。コロナが流行っている時勢を反映してなかなか面白いものだった。思い返すと、私も保田小学校に通っていた時に、房州うちわの事を授業で聞いたような習ったような気もするが、どうだっただろう。忘れてしまった。
柚木沙弥郎の型染のうちわを買った。茄子をモチーフにした愛らしい柄に一目ぼれした。夏野菜というところに心がくすぐられた。
物心ついたときから、房州うちわは身近にあったと思う。南房総(特に内房)の出身の人は似た感覚をお持ちの人もいるだろう。身近なものではあるけれど、改めて手に持って細部を見てみると、やはりこれは熟練の技術者による立派な工芸品だなと感じる。
2008年5月某日
アメリカに住んでいた友人夫婦が遊びに来た。学生の頃、サンフランシスコに友人と旅行した時に、家に泊めてもらってからの縁だ。妻のアコはフィルム写真の愛好者で、いつもカメラを首から下げている。この時はローライとF3、ハーフサイズカメラを持っていた。房州うちわの写真を撮ってほしいと相談してみたところ、ぜひ出かけてみよう。ということになり、いつも行く千倉のサンドカフェや、白浜の根本海岸、方々回って写真を撮った。この本で使っている写真はその時に彼女が撮影してくれたものだ。
夫のニールは、はじめて房州うちわに触れたそうだが、「とてもやさしいメロウな風が来るよ」といって、車の中でも外でも、心地よさそうに扇いでいた。
小さなアパートの台所で、みんなで朝食を作っていたとき。「うちわの写真を撮るなら、ココ!だっていう場所ないかなぁ!?」。アコがそう言ったので、すこし考えて館山の「砂山」を案内することにした。砂山は、小学生の頃に父親に連れられて行って以来好きな場所だ。風に舞った平砂浦の砂が、遠くの山に堆積する。その自然のダイナミックさと荒涼とした風景が好きだ。私の中ではこの土地の風と海とを象徴する場所。
うちわの使い方で心惹かれるものがある。それは、他者に「涼」を贈れるということ。たとえば、赤ん坊の横で風を送る母親の姿。映画だと、小津安二郎の「東京物語」。浴衣を着た老夫婦が語らうシーンで、夫がそよそよと妻に風を送りながら会話をしている。どことなく猿の毛づくろいにも似た親密さを感じさせる。あるいは冬だったら、うとうと眠りそうな人にブランケットをかけてあげるやさしさにも似ていると思う。そういえば、ニールは小津安二郎の映画が好きだと言っていたっけ。
写真・文 保田文庫
芒を折りて 海を聴く
幽にとおき 海を聴く
君と別れし 朝夕の
芒の中に 海を聴く
2022年の春、西條八十の詩集を久しぶりに読んだ。八十は大正時代から昭和初期にかけて活躍した詩人で、独特の郷愁的な作風がいい。学生時代、八十は度々東京から保田に避暑に訪れていた。避暑地の砂浜という「彼岸」的空間に身を置き、風景の中に自分を見出し詩を紡いだのだろう。大正8年に出た処女詩集の中には、地域の高齢者から聞いたイメージしていた当時の保田海岸の情景を思わせるものが複数あり、夏が来る前に「あのころの保田」の風を感じる房州うちわを作ってみたくなった。
後日、郷土史の趣味に長じた小宮さんと会った折、共通の知人じゃはなさんが房州うちわの作り手になったと聞いた。小宮さんはその時に昭和6年に作られた房州うちわの制作風景をうつしたフィルムを見せてくれた。
家に帰るやいなや、海と砂浜の質感が出せてうちわに貼れる素材はないかと部屋の引き出しをあさってみると、二ついいのがあった。一つは、タイの山岳民族・モン族の家庭で作られた藍染の麻布。以前にフリーペーパーを作っていた時に、房州の古い地布の巡回展をやったことがあった。市川の会場に来たお客さんがモン族の古布の収集家で、後日プレゼントしてくれたものだ。もう一つは手すきの和紙。大正時代からある私の家の近所に別荘を持っていた茶道研究者の子孫が、何かに使ってと送ってくれていたものだ。濃藍に染められた麻布は、海を思わせるし、この和紙はチリが入っていて、まるで砂浜に細かく割れた貝が散らばっているかのようで気に入った。この組合わせに決めた。
7月、じゃはなさんに電話をしてうちわづくりの依頼をすると快諾してくれた。後日うちあわせには西條八十の詩と戦前に発行された保田海岸の絵葉書を持参した。素材一式を渡し約一週間で出来上がった。
仕上がりは思った以上で、郷愁のある藍色の海と砂浜がそこにあった。なんというかサウダージ。八十の詩の質感だ。幼いうちの子どもたちも、出来上がったうちわを見るなり「海っぽいね」と言っていた。また一つ長く使いたい一本ができた。
出来上がったうちわを受け取った後、うちわづくりの事など、じゃはなさんに小一時間話を聞かせてもらった。彼女は以前、千倉にあった写真家・浅井慎平の私設美術館「海岸美術館」で働いていたことがあった。ちなみに、現在は閉館してしまったが、私もこの美術館が本当に好きだった。「海岸美術館のある風景」自体が一つの豊かな世界だった。学生時代から一人でたびたび訪れ、たいへん影響を受けた。むしろ故郷に興味が向いたのもこの美術館があったからといっても過言ではない。
彼女は日常的に浅井さんの作品に触れることで、日常の風景の中に気になるものを発見するようになったという。彼女が惹かれたのは、古い房州うちわの工房の風景だった。例えば、内職のおばあさんが加工したうちわの竹の部材が積みあがっている様子や、年季の入った工房の様子など、そういう景色に独特な「かっこよさ」を感じたという。
彼女も、小宮さんから昭和6年の房州うちわの映画を見せてもらったという。画面に映る今から90年前の職人さんの作業と自身の仕事が重なり、自分の仕事はこの土地ならではの営みを受け継いでいるのだなぁと感慨深く、よりよい技術で作れるようになりたいと思うそうだ。
それと、以前に館山の博物館で一枚の古い絵葉書を見たという。うちわ工房の作業場で、着物姿でうちわ作りをする女性たちと幼い子どもが写っているもの。それもまた、うちわづくりがこの土地に根付いている感じがしてよかったと言っていた。その赤ん坊は小さいころから身近に房州うちわに触れて育ったことだろう。そういえば、90歳になる私の母方の祖母も昔、館山の船形で房州うちわの工場に働きに行っていたというのを聞いたことがある。どんな仕事をしていたのか今度聞いてみようと思う。
最後に、房州うちわのどんなところが好きなのか彼女に聞いたらこんなことを言っていた。「私は南房総の風景のなかにある、房州うちわが好きなんです」。
この言葉を聞いて、アコとニールと一緒にうちわを持って南房総各地で写真を撮った日のことを思い出した。じゃはなさんも私も、房州うちわに対して似た思いを持っているような気がしてうれしかった。
さいごに
房州うちわにまつわる記憶や出来事を、いち「ファン」として、思いつくままに綴ってみました。ごく個人的な日々の記録ですが、振り返ってみると、私と同じように房州うちわに魅力を感じている方々との出会いや、思いがけないつながりがありました。これからも房州うちわが、暮らしの道具として、工芸品として、あるいは土産や贈り物として、人々の暮らしのなかで親しまれていくことを願っています。
2022年7月 保田・鱚ヶ浦にて
前田宣明
著者・前田 宣明
1984年生まれ、保田の人。近隣の古別荘をめぐる聞き書きを起点に、保田を中心とする内房州における保養地としての歴史や文化を調べ、その記憶や営みを書籍などのかたちで記録・発信している。保養のあり方についても関心がある。
2022年7月16日 発行 初版
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