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登場人物 耕下仙人(たがしたせんと)…根端(ねばだ)署の警部補
千山 紅(せんざんこう)…同巡査長
辺田和門’へんだかずと)…公安特別捜査官
飯黄文太(いいきなもんた)…文巡社編集副主幹
ゾウさん…剣客
半次…同
「MⅠNEのビルですよ。まあ、何事もなかったようには見えるよね」
「あのときこいつがあったら…いや、俺たちがこうして上から見ていたら、討ち入った奴らなぞすぐに殲滅できたのにな」辺田捜査官が苦々しく言った。「今頃言ってもしょうがないがな」
上空から見るMⅠNEビルはまさしく現代のモノリスだった。すべての現代人をあやつる小さなモノリス=スマートフォンの主だ。黒い巨大な長方形の石版型形態は世界に示唆を与え、人々を導く神の棲家ようだった。
「『打ち入った』ねえ…ホントに賊がいたんですか?」
「いたさ。VTRに黒い影があったのを、ワイドショーもネタにしてたじゃないか。二人の刀を持った影があった。奴ら、自分がやったということ誇示するためにわざわざあのカットを入れた」
「奈舞喜太郎を襲った奴らですか」
「そうだ、俺は奴らと面識がある。奴らの手口だ。間違いない」
「名前まで使われてますからねえ」
「これ以上腹が立つことはない。よりによって俺の名をかたるとは」
「どうして捜査官の名前が出てきたんでしょうね、証言する人なんていないのに」
「残っていた面会録に俺の名前があった。それを報道の連中が見た。犯人の奴ら俺をからかうつもりで、はじめから俺の名をかたったんだろう。勝手に名前を使われると、根も葉もない噂をたてられたり、痛くも無い腹を探られる。出世競争にはダメージだ」
「たいして出世なんてしてないじゃないですか」
「君はじつによけいなことを言うな。出世できないタイプだ」
「とっくに定年して、こうしてパイロット役だけで呼び出される予備役ですよ。もとより縁がないし興味もない…で、あれ以来社長はホントに行方不明なんですか?」
「二人の秘書ともども行方不明だ。完全に消えた。ジャマイカの空港の監視カメラに、似た感じの、派手な身なりの三人が捉えられていたが、それだけだ」
「内部留保ってやつをたんまりさらって、持ち逃げしただけだっても言われてますね、粉飾がバレる前に」
「いや、あの告白は本物だよ。脅されて白状させられた…」
「突然カメラに向かって白状したんだからびっくりだよね、話題のIT長者がさ…」
「…わ、私は皆様に謝罪しなければなりません…間違ったことをしてご迷惑をかけてしまった…前に私どもがお騒がせした事件は…偶然起こったものではなく、故意に引き起こしたものです…多くの…多くの情報を彼の国に渡しました…しかし、これは、あくまで日本の軍事大国化…いや…軍国主義化を食い止める…え?!あ…は、はい…」
ここでカメラの外から何か意見があった。その声は消されている。社長は一瞬はっとしたが、おどおどしながら告白を続ける。
「…私は日本に戸籍を有しているが、それはでっち上げたものです…親の代に彼の国から渡ったと聞きました…親からは祖国のために役立つよう教育されました…祖国の会社と連携し、日本国内に会社を立ち上げた…そしてインターネット事業のひとつとして国の機構に入り込むことができた…防衛機密に近づくことが目的でしたが、足がかりを得るところまでいったわけで…」
虚ろな表情の突然の告白はネットに乗り、大ニュースとなった。
「だとすると、捜査官がご存知の、その犯人ってやつは、いいことをしたんじゃないですか?スパイの正体を暴いたんだから」
「奴らのやることには裏がある。右翼として一応筋は通っているように見せているが、何を企んでいるのか…奴らはまた何かやらかすぞ、規模を拡大させてな」
「だからこうやって空から見回ってるってわけですか、当てもなく」
「当てもないことはないぞ。数少ない信頼できる、頼りになる仲間とは連絡を心がけている。今日はどこにいるか連絡はないが、一番あぶなそうなところに目星をつけて回っているはずだ…
しかし…だ!事ここに至って、今なお本庁(警視庁)もウチ(公安)のうえ(上層部)も、俺と耕下警部補を捜査チームの中心に据えようとしない!俺と警部補はかつてあの日本刀を操る犯人たちと渡り合い、追いつめた経験者であるはずなのにだ!
今回の張本人も奴らで間違いないはずなのに…確証がないんだとさ。あの(警視)総監がよくない。自分が作ったチームで解決して手柄をひとり占めしたいんだ…公安の上層部もまるめこんでしまった…
おっと!なんだ?!どうなったんだ?!」
捜査官とパイロットが乗った小型ヘリは、いきなり大きく上昇すると、左右に揺れ始めた。
「ビル風かな、すぐに直します。小さいヘリはどうしてもね…」
金魚鉢のようなガラスの風防と、細い尾のような胴体の、オニヤンマのように見える博物館展示品級のヘリコプターは、都会のビルの間を飛行すると、大木の間のオニヤンマのように頼りなかった。セスナってやつは空飛ぶ軽自動車だったが、こいつは空飛ぶスクーターだ。捜査官は足先がムズムズしていた。しかもパイロットは退役じいさんだ。
「搭載しているミサイルが重過ぎるんじゃないのか」
「ミサイルったって、前のガトリングに比べりゃオモチャみたいなもんですよ。手りゅう弾程度の威力ですかね」
「なんでそんな悲しいものになったんだ?!」
「都会の真ん中でミサイル戦争をされちゃ困るからでしょう。ないよりはマシですよ」
ヘリは大きく旋回して方向を変えた。
遠ざかるヘリの響きはこのビルの中まで聞こえていた。都心にしては喧騒がない。公園やホテルの庭そして邸宅の木々、さらに坂道などのおかげで、屋敷町のような落ち着きが感じられるオフィス通りの一角にそのビルはあった。
老舗の書籍関係らしい、巨大ではないが風格のあるビルだった。
「あの掃除婦は前から来ていたのか?」耕下が聞いた。
「掃除婦って、どの?」飯黄が聞き返す。
耕下と飯黄の二人は編集室の大部屋を歩いていた。長方形の大広間のような大空間の床を埋め尽くして無数程に思えるデスクがあり、どれにも書類が山と積まれている。紙の山の迷路だ。そこここに記者の頭がのぞいている。全員で40人ほどもいるだろうか。
耕下たちに近い、デスクの横にあるゴミのつまったバケツをかたずけようとしていた掃除婦が、記者らしい一人に大声で静止されていたのだ。
「ちょっと待ってよ、それを持ってっちゃだめだよ!使うんだから!中に書類があるだろ」
「す、すみません…てっきりゴミだと思って…」メガネとマスクで顔はわからないが、赤面しているらしい掃除婦はあわてて謝っていた。
「あの掃除婦は初めて見るな」
「気に留めたことはなかったな、掃除人は交代で来てるからな…しかし、さすがに観察が鋭いな。ここに来るのも今回で三回目となると、もう、ここにいる人間は知りつくしたのか?」
「いや、異質なものには目がいくんだ。向こうの小部屋にいる人もはじめてだな」
大部屋に付随している小部屋の一つの中を見ながら言った。
「情報を提供しに来てくれた人の一人だよ…ところで今日は編集長がいるんだ、あいさつしてくれ…」
二人は天井全体が輝き、昼間の日差しのように明るい大部屋の歩みを進めた。三階の窓ごしの街路樹とともに経済部、政治部、生活部のデスクが過ぎてゆく。そして連載係、コラム係…見逃してしまいそうなのが、真ん中へんの特集部AとBだ。いまや週刊文巡の中心、いや文芸春巡社の中心とさえ言える。二つの部で6名程度の記者と編集者が送り出す記事が、世の話題をさらい、国を揺さぶってさえきたのだ。
「今どきの出版社はパソコンだけで仕事をしているのかと思った」
「書類はわかりやすい、実体を手でつかめる、取り出しやすいしな」
飯黄文太は耕下の大学時代の同期だった。耕下と違い、今をときめく文巡社の編集副主幹という地位にいる。政治家や芸能人はその素性を聞いただけで緊張する。
「しかし無用心だなあ、メディア関係が狙われる昨今に」
「全く、何一つ誰ひとり恐くはないね。来るなら来てみろ。ペンの凄さを思い知らせてやる。ペンは剣よりも銃よりも強いよ」
「撃たれたら最期、世紀のスクープの文巡ミサイルか…しかし、こんな取り散らかった乱雑なところから世を右往左往させるほどの話題が出て行くとはね」
「この混沌=カオスから真実が生み出されるんだよ」
「真実ねえ…(スキャンダルも真実ってのに入るのか)
君たちのおかげで政治の動きが芸能人の下ネタ並みに親しみやすくなった。しかし国政と不倫が同列とはな…」
「それが現代、これが現代の鏡だ」
「現代が下劣になったってことか。そもそも君たちは文学をリードする日本文壇の最高峰だったはずじゃないか。それが、スキャンダルで目立つ裏ジャーナリズムが本業になったとはな。昔は君たちの文学賞が文化の一大事件だった。文巡が文化をリードして最先端を行っていた」
「いまでも先端を行ってるさ。我々は活字文化の終わりを予見できた。文学や文学賞は過去の遺物だ。今の現実を、人の欲望を、好奇心を、本心を活写してこそジャーナルだ…」
AVと同じなのか、と耕下は思ったがもちろん言わない。
「…我々こそが現代日本最高の報道さ…」
最低のノゾキ屋でしかない、とも思ったがこれも言わない。
「…今の我が国の報道の現状を見てみろ。報道らしさなど微塵もない。TVも新聞も失敗と非難を恐れてスクープを一切しなくなった。誰もが知っている、いわば大本営発表をトップニュースにするという体たらくだ。記者クラブでの情報の域から一歩も出ていない。取材というものをしなくなったのさ。我々は常に取材をしている。誰も知らない情報をいち早く捕まえることができるという強みがある。狙いが正しいのさ…」
「おお、そうだ、垂れ込み屋のネットワークは確かにたいしたもんだな。これに一番金がかかるだろう。そこでだ、何か情報を教えてくれ。今、俺が追っているあいつらだ」
「と、言うと、あの…奈舞喜太郎と…」
「そう!今またMⅠNEを襲った奴らさ」
「やはり同一犯なのか?」
「間違いない。さっきも言ったろう、奴らはメディアを狙ってくる。次はここだという可能性がある。だからこうして何回も来てるだろう」
「…うーん、そうか。じつは…犯人の特定が…それが意外に難しかった。我々も苦戦していたんだ。特集A班の優先事項なんだが…ところがここにきて、急に情報が二つ入ってきた。まだわからないが、いくらかの信憑性はある。さっき君が注目した小部屋にいた人だよ…」
今日、耕下が掃除婦に続いて注目した人物だ。まだ小部屋にいて、記者相手に話している。でっぷり太った、見るからにオタクらしい身なりのぞんざいな若い男で、長髪なのにハゲぎみ、雨もふっていないのに傘をこわきにしっかり抱えておどおどしながら話しているようだ。
「…期待できないかもしれないが」飯黄が付け加える。
「当日、MⅠNEビルの近くを歩いていたというから、確認する必要はある。もう一人、これも当日、同時刻MⅠNEビル付近を通りかかったという人があの人だ…」
耕下と飯黄が行く通路からデスクを隔てた壁際にあるイスに座り、二人の記者らしい男に、身振り手振りで声高に話している眼帯をした年寄りがいた。灰色の髪を振り乱し、手に持った杖を上下させて力説しているのが聞こえる。
「…わたしはね、ひと目でピンときたんですよ…これは絶対怪しいって…」
正直なところ、たよりなさそうに見えた。この程度の拾い物情報が最新有力な手がかりだとすれば、文巡の情報網もあてにできないと耕下は思った。
「さっきも言ったが、編集長がいるんで会っていってくれないか、初めてだろう」
突然飯黄が言って立ち止まり、目でデスクの連なりのはずれの方を指した。
大きめのデスクに、品のいいスーツを無造作に着こなした女性が脚を組んで座り、パソコンを見ながら立っている若い記者と話していた。
「この人の投書は止めてくれない?現状肯定すぎるじゃない」
「でも、投書は公平を期すべきではないかと…」
「前にも言ったよね、順平ちゃん。ウチのホンに公平はいらないの。悪い奴を決めて徹底的にやっつける。一片の真実があれば他のメデイアが追随する。話題のないところに話題を作る創造主になるわけ。
TVも大新聞も私たちの取材を待っているのよ。私たちはリトマス試験紙なの。報道ネタというジャングルに先頭で分け入って、宝を見つけ出す先遣隊の役ね。それを見て恐る恐る後に続き、いいとなったら本腰を入れはじめて、自分達のネタだって顔をする、情けない連中が大手なの。
だから、私たちのホンに必要なのはインパクトなのよね。輝く宝よ。読者を捕まえるインパクトで統一したいの。公平や肯定はインパクトにならない…あ、文ちゃんちょっと待ってね、すぐ終わるから」
飯黄をちらりと見て言ったが、すぐには終わらなかった。若者の意見を聞き流して細かく指示をする、大部屋の主のような若見えの女史¦¦は、しばらく後、急ぐでもなく立ち上がると耕下の前にやってきた。
「これはこれは警部補さん、ご苦労様です。はじめてお目ににかかります。お話は文ちゃんからうかがっています。あら、いつも一緒にいらっしゃるという美人の相棒さんは今日はおられないんですか?」
「ハア、今回は別々に回ってまして…」
「ほんとにお気にかけていただいてありがとうございます。それにしても何度もウチに回ってきていただけるというのは…ウチだけ丁寧な特別扱いでいいんですか?」
慇懃なあてこすりめいた言い方だ。
「何といってもこちらは、いつも注目度ナンバーワンの記事を発表なさる。今の、我々が追っている凝り固まった右翼の奴らにとって一番気にかかる、いや、気に障る、奴らの神経を逆なでする取材になっているような気がしてまして…」
「どこが容疑者たちの気に障ると言われるんですか?」
「常に反権力的で、権力は悪と決めて、総てをそれに結びつけようとする編集姿勢が、国論を分断する煽動者ととられかねません。いや、私だったら…」
このとき、この大部屋の人間は誰も気づいていなかったが、この出版社の外の通りに、黄色い大型4WD車4台が次々に殺到し、車体をきしませてビルを取り囲むかたちで駐車した。4台ともピカピカの新車で、ドアの外側やリアのドアにはMTTのロゴがプリントされていた。
止まるや否や中から青いヘルメットと青いつなぎ服の男女が現れ、軍隊のような素早さで、一団となってビルの正面入り口奥にある受付カウンターへ向かい、二言三言受付の女性と話をしたかと思うと、カウンター係が呼び止めるのも聞かず、4台から出た総勢10名のうち5名が遠慮なくずかずかとビルの奥へ消えていった。
「警部補だったら…」編集長がうながした。
「私だったら、ここを最終的に最大のターゲットに定める。ここに比べたら今までのはウオーミングアップにすぎないかも…」
「なるほど。でも、うかがってると、なんだか警部補個人の見方みたいですね。データに基づかない単なるカンみたいな…あの…警視庁の上層部のご意見などは…」
「私は本庁の者ではありません。前に似たような事件にかかわったことがあるので、特捜部とは別に動いています」
「ベテランのカンで、ご勝手に私どものことをご心配してだいていると…」
「編集長、耕下はこう見えても優秀な奴なんです。過去の似たような事案でも大いに活躍しました。古いタイプの警官ですがね」飯黄が友達甲斐にフォローしようとする。
「カンは統計や確立をしばしば上回ります。御社の情報選択と同じだと思うんですが」耕下もここで自分を推すが、
「ウチの情報屋だったら解雇されるかもしれませんね。昔ながらの同じような思考回路で同じことばかりしたがるようでは、スクープは無理ですから…」と、あっさり流されそうになったところで、編集長はすぐ近くのデスクでパソコンを揺らしたり傾けたりしている記者に注意が向いた。
「どうしたんですか、長さん?パソコンは昭和のメカじゃないんだから叩いたりしないでね…」
「いや、さっきからおかしいんですよ、《ネットにつながっていません》っていう画面が続いていて、変わらないんです…」
「あ…あの…」デスクを隔てた書類の山から女性記者がスマートフォンをかざして呼びかけた。
「私のスマートフォンもさっきから変なんです。フリーズしちゃって…」
「あらまあ、谷ちゃんもトラブル?」
「俺のパソコンもおかしい…」
「こっちもだ!まるで動かない…」
「ほんとだ、電話が通じないぞ!」
「どうなってんの!?」
大部屋にいた多くが口々に言い出し、立ち上がったり隣をのぞき込んだりし始めた。
「なんなの!?みんないったいどうしたって言うの?!」
編集長もたまらずあたりを見回す。
そのとき、バーン!という音とともに大部屋の三方の壁にあった扉がいっせいに開き、それぞれに青いつなぎ服と青いキャップの、見るからに作業員ふうの男や女合計4人が部屋に押し入ってきた。
「皆さん!このビルのこの階、この部屋のエリアが只今サイバー攻撃を受けております!」
真ん中の扉から入ってきた青服の若い男が両手を挙げて全員に向かって話し始めた。
「我々はMTT本社の要請でフィックス作業を行っている調査班です。これからしばらくの間=約1時間、この部屋を閉鎖し、連絡を遮断して相手を特定する作業を行います。危険はありません。どうか落ち着いて行動して下さい」
緊張するそぶりもあわてる様子もなく口上のように言い放つ。ざわついていた大部屋も半信半疑ながら静かになっていった。
「それでは皆さん全員のパソコンをチェックしていきますので、皆さんは立ち上がって奥の方へ移動して下さい。
MTT本社と同時に調査を開始します。詳しく説明している余裕はありませんので、どうかしばらくの間、質問は控えていただいて、私どもの指示に従って下さい」
部屋にいたすべての社員=ほとんどの記者たちはぞろぞろと長方形の大部屋を縦に動いて奥へ移動しだした。
「入れるだけ、奥のほうの小部屋へ入っていただけませんか。そのほうが作業がしやすくなりますので」
いきなりやってきて色々指図をすると、ぶつぶつ言いながらも、約40名の記者たちは指示に従っていた。大部屋に来ていた部外者=インタビューされていた太った若者、掃除婦まで、そして耕下もその群れの中にいる。
「耕下、来たのか!?奴らが!君の予想したとおり?!
奴らどこかにいるのか?」
飯黄がやや興奮ぎみに聞いてきた。
「わからんな…サイバー攻撃とは…どういうことなんだろう?サイバー攻撃への対応って…」
群れの前方の人々から小部屋に入っていき、部屋はたちまち満員になっていく。
「まあ、ちょっと様子を見てみよう」
「何か変かい?」
「君もこんなことは初めてだろう。普通じゃないことが起こるときは何かありそうだ…何より、サイバー攻撃への対処だったら、新設された警察庁のサイバー攻撃特別捜査隊が来るはずだが…」
奥の小部屋は一杯になり、入りきらない社員たちが部屋の前に突っ立って大部屋を見守る状況となった。
「皆さん、お手数をおかけします。いましばらくの辛抱をお願いします」
作業員は仕上げのように言うと、するすると入ってきた扉の前へ移動した。
このとき、生活部の女性記者の一人が何気なく見ていた。
あの特集班の記者にインタビューされていた若者、でっぷり太った髪の毛の薄いオタクっぽい男が、持っていた傘の柄を引き抜いていきなり大部屋の中を走り出したのを。
走りながら傘の心棒を振り回している。
と、いきなり通路の中で止まった、と思いきや、その場からバネ仕掛けの人形のように飛び上がり、手前のデスクに飛び乗った。そのままの流れで傘の心棒を振り回し続け、デスクやパソコン、デスクの上の書類や本を叩きはじめる。そのたびにパソコンや書類が砕かれ飛び散る。さらにデスクの上を走って移動し、手近な壁を心棒で次々に叩いていく。叩かれた瞬間、あちこちで火花が散った。
大部屋の奥にたまった記者たちは、あっけに取られてこの様子を見ていた。突然気がふれたようなこのオタク男はいったい何をしているんだ?!長髪を振り乱し、達磨のような体型なのに、信じられないほど身軽な動きだった。デスクを飛び移っては、傘の芯であたりを叩いている。ワイヤーを切っている?!切られた瞬間、電気の火花が湧く。と、次のデスクへ飛び移り、またそこのワイヤーを切る。見ていると義経の八艘飛びのようでもある。
いや、次のデスクでは、デスク上から垂直に上へと飛び上がった。そして目にも留まらぬ早業の心棒の動き。ガッ!と音がして、心棒は天井からぶら下がっていた容器を叩いた。容器は天井の根元から火花を散らして切り離され、下へ落ちてデスク上にぶつかってつぶれた。切られて落ちた…デブ男が持っていたのは心棒ではなかった。刀身の細い刀…日本刀だった。
そしてつぶれた容器は大部屋内を監視する監視カメラだった。このカメラはもう監視の役には立たない。男はさらに次のデスクに飛び移り、再び飛び上がって天井に据付られていた別の監視カメラを刀で根元から切り離す。カメラは火花を散らしながら落下し、床に激突してコナゴナに砕けた。さらに別なデスクに飛び移りざまもう一つの天井カメラを切る。また飛んで切る…こうして天井に仕掛けられた総ての監視カメラは粉砕された。
この間せいぜい十数秒。次にデブ男はさらに飛び回って壁やデスクに張り巡らされた電線へと刀を振るった。電線は火花をまき散らして寸断されてゆく。続いて男はデスクをいくつか飛びついで、社員たちがひしめく奥の部屋近くのデスクへと飛び移ったあげく、まん前に社員たちを見下ろすデスク上に着地して止まった。と、刀をデスクへ置き、長髪のハゲかつらをむしりとり、顔のゴムマスクをメガネごとひっぺがし、詰め物だらけのジャケットを脱ぎ捨てると、色白の少年のような顔が現れた。縮れた髪がところどころ茶色に光る若者だ。右の耳たぶに金色のリングのピアスをしている。
若者はどこからか、細い濃い色のサングラスを取り出してかけると、置いてあった刀を再び手に取りビュンと一振りしてから仁王立ちになって記者たちを見下ろした。口もとに邪気のない笑みが浮かんでいる。
と、デスク上の若者と対峙した記者たちの中から一人が抜け出し、よたよたと前に出た。記者のインタビューを受けていた松葉杖の老人だった。
その年寄りはくるりと向き直り、デスク上の若者と並ぶようなかたちになると、曲がった腰をしゃんとさせた。そして長いごま塩のかつらを脱ぎ捨てる。下からは黒々とした長髪が現れた。さらに眼帯をむしりとるとジャケットから、若者と同じような細いサングラスを取り出し、はれぼったい目にあてた。たちまち老人は色の浅黒い長身の男へと若返った。
そして男は松葉杖の芯を引き抜く。銀色に輝く細い薄い芯が出てきた。刀だった。男は空になった松葉杖を放り出し、刀を下げて持つと、記者集団を見すえる。すぐ後ろの一段高いところには、同じように刀を持つ若い男。
「きっ、きたっ!来たぞ!なんてこった!耕下の言ったとおりだ!…ホントに来た…!」
飯黄が声をうわずらせて思わずつぶやいた。
「しっ!騒ぐな!様子を見るんだ!あわてるな!」
耕下は押し殺した声で制するように言う。
「し、しかし、あいつら…あの…まさか…ここに来るなんて…」
「いいから!うろたえないで機会を待つんだ!」
「…信じられない…どうすればいいんだ…まさか俺達を…」
「パニックになるな。万一のときは俺がなんとかする…」
「さて、文巡の諸君、我々のささやかなオープニングショーを楽しんでもらえたかな」老人の扮装をしていた長身長髪の男が声高く演説をするように言った。
「現在このエリアは妨害電波で覆われていて外部とは連絡不能だ。じつは監視カメラ以外切る必要もなかったが、あちこち断ち切ったり壊したりして見せたのは、我々の
剣の腕前をその目で見てもらうためだ。見てのとおり我々は何でも斬れる。もちろん人もだ。逃がすことなく一刀両断できる。
察しのとおり我々は奈舞喜太郎やMⅠNEを襲った者だ。ついに売国奴メディアの本丸へお出ましってわけさ」
長身の男は朗々と言い放つ。着ているよれよれのスーツには不釣合いな迫力がみなぎっている。目を覆うサングラスは影のようだ。記者たちは声も無くただただ男たちを見つめていた。
「つぇいっ!」
いきなり長身の男が声を発したかと思うと、閃光がきらめいた。男は右手を伸ばしポーズを決めている。その先には抜き身の刀があった。早くてわからなかったが、男は突然剣を振るったのだ。しかも前にいる記者の一人に向かって。その記者は口を空けて呆然としていた。
と、記者が持っていたスマートフォンが音も無く横に割れて上半分が床に落ちた。
「我々はカメラは好きじゃない。撮ることは許さん。ここにいる奴は全員自分のスマートフォンを捨てろ。捨てない奴は腕ごと切り落とすぞ!」
たちまち全員が自分のセルフォンを放り出した。
「聞け!週刊文巡のダニども!」男はいきなり声を張り上げた。記者たちは思わずびくりと肩をすくめた。
「反日のニュースや記事で国民をあやつり、たぶらかす陰謀屋ども!常に人々を煽り、反体制の機運を盛り上げようと企む獅子身中の虫めら!国民を食い物にする詐欺師どもめ!」
記者たちは男の迫力に圧倒され、そして男二人が持つ真剣の不気味な輝きに怯えて静まりかえった。
しかし不安に負けそうな飯黄は、小声でもしゃべらずにいられない。
「…な、妨害電波って何だ?そういえば、あのMTTと言ってた奴らの姿が見えないぞ…奴らもグルだったのか…」
「…たぶんな…こいつら意外に組織的なんだ、表に出るのは二人だが、協力者はもっといる…飯黄、とにかく静かにしてよう、俺のこともまだ気づかれたくない…」耕下も小声でうながす。
「…かつては右翼がいた…」男の話は続く。
「…日本人を日本人たらしめた精神の支え=武士道を守る人々だ。日本人の心の奥底には武士道に対する畏怖の念があった。それまであった漠然とした自己規律を具現化したのが武士道だ。武士道は道理を説き、誤った行動を戒めた。西洋人の心の奥底に根づくキリスト教精神と同じだ。
しかし時の流れとともに人の心は劣化し、右翼も消えていった。日本人の心には荒地(ブーンドック)が広がり、精神は支えを失ってさまよっている。しかし左翼の思想は、この国で、人の心の中にある反逆というカビに根ざし、絶えることは無く、海外からも仲間を集めて外来種のように日本を覆いつくそうとしている。いまややりたい放題さ。我々はこの日本人の心の危機に、精神の荒野を救うために現れた十字軍(クルセード)だ。超弩級の右翼だ!
今こそメディアの元凶を正してくれる!常に上からの目線で国を、すなわち国民を批評してくる貴様ら文巡とは何者だ!国民の心のすき間に入り込み、国民を操ろう導こうと仕掛けてくるお前らは一体何だ!何の資格があってお前らは指導者気取りをするか!お前らに国民を指図する資格など毛ほどもない!のぞき見を旨とする最低のメディアが、いや、もとよりフェイクニュースの元祖である日本メディアが、ふざけたマネをするんじゃない!ゲスメディアはゲスらしくタレントの下半身事情を探ることに徹してろ!偉そうに聞いたふうなことをほざくんじゃない…」
男の話は熱を帯び、妥協の余地なく決めつけてくる。同じく妥協を許さなそうな日本刀の切っ先に記者たちの不安がいや増した。
「…ま、ま、待った…」突然のか細い震える声が、男の放流のような話にどうにか立ちふさがった。
「…待って…ください…」
「何だと!」
「…ちょっと、待って下さい…ちょっと言いたい…あの…あなたたちこそ…変じゃないですか…突然やってきて、寝耳に水の右翼の主張をするなんて…そちらこそ、何の資格があってここで国士気取りをするんです…」
記者たちも誰が言ったのかと振り返る。全員の視線の先、真ん中へんにおどおどした若い男がいた。さきほど女編集長から指導されていた、順平ちゃんと呼ばれていた男だ。順平ちゃんは自分の言葉に勇気を得たのか少し落ち着いてきた。なすすべもなかった記者たちもざわついてくる。
「…あ、あなたたちは、右翼と名乗った…武士道を信奉しているらしい…しかし、しかしですよ…武器を携えて突然私たちのところへ押し入ってきて、刀を振り回して脅すのって…武士道なんですか…ぼ、僕は矛盾してると思う…真剣で、徒党を組んで、武器を持たない弱いものを攻撃しようとするなんて、卑怯だよ。武士道にもとることじゃないんですか…」
「そうだ!」「そのとおりだ…」記者たちの中から同調する声があがる。
「ふん、よくぞ言ったな…」順平の必死の抗議にも男が動じる気配はない。
「武器を持たない弱いもの…とは、笑わせる。お前達は文巡ミサイルという最強の武器を持っているじゃないか。誰も彼もがその武器に怯えている。お前達から見れば国民なぞ虫同様のまさに弱虫なんだろう。その上、記事で自在に人々を操る。週刊誌しか読まないじいさん、ワイドショーしか見ないばあさんはお前たちの言いなりだ。大衆は、所詮感情で動く愚民だろうからな。今やお前達は制御不能の暴君さ」
「詭弁だ!」「君たちこそ強盗と変わりない」「政府の回し者か!」「武器を捨てて出て行け!」記者たちは順平に続けとばかり口々に反ばくし始めた。
「そうだ、我々は誇りあるジャーナリストだ!暴力には負けない!」「そうだとも、真実で戦うジャーナリストだ!」
「そうだ、そうだ、フェイクニュースの元祖とは何だ!
いい加減なことばかり言うな!何を根拠にそんなことを言う…」
ここで男はサングラスの奥からにらみをきかせた。
「ほほう、これはまた威勢のいいことだな。真実で戦うジャーナリストだと、フェイクニュースの元祖…ではない、だと…これはいささかひっかかるな…我々がここに来たのも、そういった日本メディアの思い上がりが我慢ならなくなったためでもある。自分達に都合の悪いことには目をつぶり、ひたすら他者を排斥する。何事にも一切責任をとることがない。そんな思い上がりを断ずるためだ。自分達がニュースにさえしなければ、すべてはなかったことになると思ったら大間違いだ」
ヒュッ!男は刀を一閃させた。調子づいてきた記者たちは、ここで、男は凶器を持っていたのだとあらためて気づき、はっと身構えた。
「今を去ること80年前、お前達の先輩は何をした!そんな昔のことは知らないとは言わせないぞ!お前らのひいじいさんの頃だ。直接つながっている!そのとき日本メディアは何をした!80年前政権を握った軍部は無謀な戦争を始めた。このとき日本メディアは軍部を恐れ、戦争遂行に反対しなかった。すべてのメディアが戦争を追認したのだ。国民の命など顧みず、ひたすら軍の顔色をうかがった。当事は軍部独裁の帝国統治下で報道管制がなされていたとはいえ、軍の広報ではなく、独立した民間のメディアだったのに、やすやすと権力や大衆に迎合した犬に成り下がったのだ。メディアの根本である真実を探求する姿勢、国民に真実を伝えるという報道機関の本来の目的は無視された。さらに戦争が進んで敗色濃厚になっても、嘘八百の大本営発表を嘘と知りつつそのまま報道し、国民を煽った。戦は勝っている戦を続けろ。国民は参加する義務がある。国民は次々に戦場に赴いた。メディアは軍に全面協力する完全な軍の手先となっていたのだ。
あの戦争で何人の日本人が死んだ?軍人200万人、一般人100万人。日本メディアは300万人の日本人殺害に手を貸した超A級の戦犯なのだ!
戦争が終わって占領軍としてアメリカ軍が日本を支配したとき、日本メディアはどうした?手のひらを返し、日本は民主主義国家になったとアメリカ万歳を叫び、今度はアメリカの手先となった。
これがメディアといえるのか?お前たちの先輩はあくまで国民を食い物にする権力の手先でしかなかったのだ。国王のように日本を支配していたアメリカの軍人・ マッカーサーがクビになり日本を去って権力者が消えたとき、日本メディアは、民主主義国では権力にはへつらう必要がないのだと悟り、今度は反権力に転じた。つまり昔から反権力だった、戦争中もそうだったというふりをしたのさ。戦後の混乱で生活に追われる国民はメディアの罪を顧みる余裕はなかった。かくしてメディアは反権力・日本否定・反米・中国礼賛を自らのプロパガンダとした。アメリカと日本に対しては、いくら批判しても自分は安全だと見切ったからな。そしてのうのうとメディアであり続けた。
ところが、国民を動かす力を自負し、増長を続けた日本メディアは、パンデミックでウイルスが日本に蔓延したとき、自らの無力さを思い知った。国難を前に何一つできない。このふがいなさへの怒り、自らへの怒りをなんと政府攻撃に転化した。ウイルスに効果的な手段が打てるのは政府しかなかったというのにだ。政府の方針に従いながら、反政府キャンペーンをやらかすのだからお笑いだ。何事につけ、総てのメディアが同じ報道をするというのが、日本メディアの絶望的特長だ。暗黙の地下カルテル=戦争中と同じだ。そして国民はまたも操られた。これで総理が二人もクビになった。フェイクニュース・フェイクキャンペーンでなくて何だね…」
「ゾウさん!」
突然若い声が男をさえぎった。あの、机の上に傲然と立ち、編集室全体を見下ろしていた色白で茶色い髪の若者だ。
「…そろそろ演説は切り上げてもらわないと記者の皆さん退屈しますよ…って言うか、我々がやるはずの本来の仕事ができなくなりますよ。もう時間がない…」
「わかった、わかったよ、半次。お前は準備にとりかかってくれ。今すぐ終える、ひとこと言ったらな。こいつらに、これから我々が行うことの道理を言っておきたい…」
ゾウさんと呼ばれた長身長髪の男は一瞬とまどった様子を見せたが、すぐに話の続きにもどった。
「…そしてパンデミックにからんでもうひとつ大きいのがオリンピックつぶしだ…」
男が話し続ける間、半次と呼ばれたほうは、長い足で自分が乗っているデスクの上に積まれた書類の山を蹴りはじめた。書類は床に落ちて散らばる。すぐに隣のデスクに乗り移り同じように書類を蹴り落とす。これをくり返してたちまち床の一角に紙敷きの小さな四角いエリアができあがった。
「…オリンピックは戦場だった…」ゾウさんと呼ばれた長髪の男の話は続く。
「…メダルではない、やるかやらないか、のだ。民主国家圏と独裁国家圏の代理戦たる世論戦になったではないか。
パンデミックという世界災厄の後の世界的イベントを成功させるのは中国でなくてはならない。それが世界の人々に中国の偉大さをみせつけられる。ウイルスの発生源という汚名も、ウイルス兵器という非難も、逸らすことができる効果もある。その前に予定されている日本でオリンピック開催に成功されてはその効果は半減する。だから世界で、特に日本国内で必死の反五輪作戦が決行された。日本に対する世界からの4億5千万ものサイバー攻撃とは前代未聞だ。それだけではない。愚かにも日本のすべてのメディアはこの煽動に易々と乗り、反五輪キャンペーンに加担した。あきれたもんだな。どこの国のメディアのつもりだ。迎合も極まれりだ。
反五輪作戦の中核となったのがどこの誰か言ってやろう。三世代前から日本に住み着き、日本国籍を取得して完全な日本人に成りすましている工作員、忍者でいうところの『草』だ。草はメディアの一員となり、メディアを使って中国に有利な世論を惹起させ誘導する。ミサイルより安上がりでスパイより高度な人間兵器というわけだ。
現代は情報戦に加えて世論戦の時代となっている。つまり、ここに世論戦の尖兵がいる。日本の報道をリードする文巡、どのメディアもお前達の後についてくる編集部、お前達の中に何人もの世論工作員がいる!」
「でたらめだ!」ここで記者たちの中からすかさず声があがった。「よくもそんなでたらめを!あんたこそでっち上げを決めつけようとしている!」
「何ぃ!」長髪の男はきっと記者たちをにらみつけるが、どこから声がしたのかわからない。
「そうだ、そうだ、右翼の妄想だ!」また記者たちの中から声がした。
「嘘つきの妄想屋!」別な声。
「いいかげんにしろ、暴力団め!」
「帰れ、帰れ、出て行け!」色々な声が続く。
「証拠でもあるのか!あるわけがない、あるなら出してみろってんだ!」とどめとばかりに誰かが言った。しかし、
「証拠か。証拠はこれから見せる。あぶりだしてな…」
と、男は記者の集団をにらみつけた。
「…な、なあ、耕下、外はどうなってるんだろう…」
記者集団の後方で、隠れるように立っていた飯黄は隣にいた警部補にひそひそ語りかけた。
「都会のど真ん中の、この有名な会社の中で、こんな信じられないことが起こっているのに、なぜ誰も知らない?
助けがこない?」
「あの偽MTTの奴らがドアの外で抑えてるんだろう。しかしいつまでも続くまい。ここ以外の会社全体が大きな騒ぎになっているはずだ。本物のMTTや本庁へも知らせがいく。もうすぐだ」
「しかしその前に奴ら何かしでかすぞ…」
はたせるかな、ゾウさんと呼ばれた長髪の男は切り出した。
「さて、今、証拠を出せと言った奴は誰だっけな?」
もちろん誰も答えない。刀を持った全く油断のならない男たちと対峙している出版社社員たちは静まり返る。
「どうせそいつが工作員だろう、図星をつかれてあせったんだな。名乗り出ろ!」
名乗り出てもいい結果にならないことは明らかなので、記者たちは一言も発せず男をにらみつけるだけだ。
「…よーし、名乗り出なければ全員を工作員とみなす。さっき半次が刑場をあつらえた」
全員の目が男の斜め後ろへ向いた。無造作に若い男がデスクから紙を落としていたと思っていたが、いつの間にか床に落ちた紙類は、正方形の敷物のようになっていた。
「スパイの処分は死刑と決まっている!これより直ちに全員をこの日本刀で斬首の刑に処す!介錯人は半次だ!」
「一人につき10秒以内です。おとなしく従って下さい」
色白の少年のような面影の男はすまして言い、右手に持った長刀をひょいと空中に放ると左手で受け止め、さらに右手をそえてから左八双の構えへもっていき、にやりと口もとをゆがめた。真剣の、いかにもな重さを感じさせるパフォーマンスに驚きの声と悲鳴が一斉に沸き起こった。
キャー!…ワー!…ヒー…!どうして…!なんで…!ひどい…!バカな……
あらかたは怯えて意味無く悲鳴をあげるが、どうしていいかわからずあたりを見わたすもの、事態が飲み込めず立ち尽くすもの、みんな騒ぐなそんなことできっこないと落ち着かせようとするもの、これは脅しだ、ただの脅迫だと言い張るものもいたが、パニックは増幅しはじめる。…!
ありえない…!なんてことだ…!助けて…!
混乱の只中で飯黄が叫んだ。
「耕下!まずいぞ!」
「落ち着いて、もう少し待て!」
「いや、待てない!」飯黄はさっと耕下のそばを離れると、
怯える群集をかき分け、長身長髪の男の近くへ進み出た。
「おい、君!」及び腰ではあったが大声で話しかける。
男はゆっくり振り向いた。
「名乗り出ろと言ったな、名乗り出たらどうなるんだ?!そいつから斬るのか?!」
「いや、名乗り出たやつは斬らない」
「なんだと?!それはまたどうしてだ?」
群集は急激に静かになっていった。男と飯黄副主幹のやりとりを固唾を呑んで見守りはじめたのだ。
「名乗り出た者は、さっき半次があそこに置いた…」
と、顎で後方のひとつのデスクの上を指し、
「…もう録画がはじまっているカメラの前で、現在の仮の名前と本当の国での本名を言うんだ…」と続けた。
なるほど、いつの間にかそこには小さな三脚にすえられたスマートフォンのようなものがあった。
「…スパイだったと全国へむけて告白すれば、もう日本にはいられまい。どこへでも勝手に逃げるんだな」
「…信じられない…。それは名乗り出させる手段じゃないのか?」
「お前達はニュースで知っているはずだぞ」
「何のことだ?何を言っている?」
「…もしかして、あのMⅠNEの社長のことか?…」
取り囲んだ記者の中の一人がつぶやいた。
「そうだ、今はカリブで豪遊中のご隠居さ。名乗り出たから、逃がしたんだよ。さあ、さっさと名乗り出ろ!」
「…バカな…この会社にスパイなんているわけがない…」と言ったが、ここで飯黄は言葉につまってしまい、下を向いた。他の社員連中も同じだった。顔を見合わせたりあらぬ方向へ目をやったりと、口をつぐんでしまった。誰一人話そうとしない。誰もがどう言っていいかわからなくなっていた。
「そうか、ではひとりづつ斬っていこう!赤穂浪士の切腹に習って、まず若いやつからだな」
男は顔を上げ、ざっと記者たちを見わたすと、
「お前、お前だ、順平と言ったな」
と、ひとりを見据えて言った。
名指しされた順平は、気がついてハッと身構えたはずだったが、それよりも早く半次が風のように動いて順平に詰め寄り、手に持った真剣を順平の首に突きつけてそのまま記者たちの中から前へ引きずり出した。
「まず、この男からだ」
「やっ、やめろ!何をするんだ!やめてくれ!」
順平は抵抗し、暴れて必死で半次につかみかかろうとしたが、半次はいきなり膝で順平の腹を蹴り、順平がうめいて体を二つに折ったとき、今度は手に持った刀の柄で順平の顎に一撃食らわせた。さらに半次は倒れようとした順平を無理やり立たせてゾウさんという長髪の男の方を向かせる。
男は順平を問いただした。
「お前は記者か?」
「…そ…そうだ…」順平は痛みをこらえてようやく答える。
「では、お前は工作員か?」
「…いや…ちがう…そうじゃない…」
「工作員が誰か知っているか?」
「…し、知らない…」
「まあ、いいだろう。どっちでもいい、お前は見せしめだ。
いま斬ってやる。みんな、よく見ろ!その刑場を!その紙が集められたところだ。そこが首切り場だ!紙に血を吸わせる。血が多すぎると床が滑るからな。今、半次が持っている刀は長船兼光といって、江戸時代の首切り役人の山田朝右衛門が、最上の切れ味と認定した大業物だ。痛みも恐怖も感じることなく、0・05秒で首と胴が離れる無痛の剣さ。苦しませないのは俺たちの思いやりだ」
ギャー!…ひどい!…嫌だー!…助けて!…逃げろ…急げ…!早く警察を…!
立ちすくんで震えるもの、泣き崩れるもの、大声で叫ぶもの、逃げ出そうとするもの…パニックが再開した。
もう潮時かな…耕下は思った。ここまで成り行きを見て観察してきたが、こいつらやっぱり尻尾を出さない。背後関係を匂わせもしない。あいつの演説は狂信者のものではないし、右翼なら言いそうなことではある。やつらはプロの仕事人なのだ。何より、奴らとは前に会っている。思ったとおり同じ二人だった。まるで変わっていない…手強い決意に満ちているところも…
このまま様子見を続けては被害者が出る…
ここらで正体を現し、けん制しよう。まもなく本庁以下が駆けつけるはずだ…
「…よーし、そ…(そこまでだ、こいつを見ろ!警察だ!その刀を捨てろ!)」と言う言葉をさえぎって、
「待ちなさい!」と言う声が凛と響き渡った。
記者たちをかきわけてひときわ華やかな影が剣術使いたちの前に進み出た。
「編集長!」何人かの声があがる。ピンクがかったスーツの大柄の女性。髪をまだらに染めているのは白髪染めだろう。記事を値踏みするときのように厳しい顔つきだが、落ち着いている。
「編集長だ!」「編集長、気をつけて!」記者たちが声をかける。
「大丈夫よ、任せなさい」言いながら長髪の男の真ん前に立ちふさがった。
「こんな人たちには何を言っても無駄でしょうけど…
はい、あなた!色々ほざいてくれたわね。あなたたちの気に入る返答をしてあげる。私よ、私が命じたの。総て私の指示なの、つまり私が工作員とやらの親玉ってわけね、どう?」男に向かって言い放ってしまった。
「ほう、あなたが…」男の反応はさして意外そうではない。「さすが編集長…」と言いながら、感心したようすもなくサングラスの奥から編集長を見やる。
「編集長!」「編集長ーっ!」「下がって下さい!」「そいつから離れて!」「危ないよーっ!」記者たちは口々に叫ぶ。
「みんな、黙って!」編集長は部下達を押しとどめ、さらに男につめよった。
「さあ、名乗り出たわよ」
「ふん、編集長ならそう言うとは思っていた。部下をかばってな…」男は当然のことのようにうけながす。
「で、どうするっていうの?」
「言ったとおりさ、半次!」まだら茶髪の若い男に鋭く呼びかける。
「はい!」右手に日本刀を持ち左手で順平記者を押さえつけていた半次は、順平を放り投げるように突き放つと、さっと編集長の後ろに回り、肩をつかんで持ち上げるように軽々と編集長をひきずって、自分たちが首切り場と呼んだ紙の上へ運んだ。
そして「さあ、編集長さん、そこへ膝をついて」と、指導でもするように言う。
「あなたたち!まさか、本当に?!」編集長は今さらながらに唖然とし、棒立ちになる。しかし半次は自分の膝で編集長の両膝の後ろを押し、膝を折らせた。編集長は紙が敷きつめられた床の上にひざまずかせられてしまった。
「そのまま首を伸ばして下さい」半次はあくまで淡々と注文をつける。「暴れないで。下手に動くと頭や肩を切ってしまう。二度三度と刃を入れると苦しむし、死骸が無様になる」
「何ですって?!何をする気?!本気なの?!」
編集長はひざまずいたまま叫んだ。「狂ってるの?!やめなさい!!やめなさい!!」
「そのまま!動かないで!じっとして!」
半次は言いながら刀を振り上げていた。
「キャー!」社員たちから悲鳴が上がる。「編集長!」
「助けてー!」「やめてー!」「やめろー!」
日本刀は大上段に振りかぶられた。
「あなたたち!こんなことをしてただですむと…」
長い刃は見えないような速さで一気に振り下ろされた。
「ワー」「アー」群集の悲鳴と同時にバスッ!という音がした。その瞬間、全員が目を閉じた。日本刀使いたちと耕下以外は。
いっとき誰も動かず何の物音もしなかったが、やがて記者たちは恐る恐る目を開けあたりをうかがった。床に広げられた紙の上に編集長の体がうつ伏せに横たわっていた。その横に刀を下ろした半次と呼ばれた若者が立っている。編集長の首は切り離されていないように見えた。記者の一人は、これが首の皮一枚残すってやつかとも思ったが、床に血は流れていない。
「見たか」長髪の男は記者たちに向かって言った。
「本来ならば今の呼吸で首と胴がはなれるわけだ。今、半次は剣を振り下ろす直前に刀を返し、刀の峰でこの人の肩を打った。峰打ちだ。うるさいオバさんには寝ていてもらう」
大部屋にいた全員がほうっと息をはいた。泣き声のようなため息ももれた。しかし、
「さあ、続きをやるぞ。半次、今度こそ順平を斬れ」
もはや記者たちは呆然とし、悲鳴すら上げられなくなっていた。
「もういい、そこまでだ!」
しおれきった記者たちの中から、元気のいい一声が上がった。
「何ぃ!何だと!誰だ?!まだ邪魔をする奴がいるのか?!」
ゾウさんと呼ばれていた長髪の男はさすがにいらだったように社員の群れをにらみつける。
「邪魔じゃない、これで終わりだと言ったんだ。おまえたちのショーはお開きだよ」さらに声が響く。
ここで半次と呼ばれていた若い男がついとゾウさんに歩み寄るとささやくように言った。
「ゾウさん、あの声、どうやら我々の知ってる人のようだ」
記者たちの群れが海が割れるように二つに分かれると、奥から一人の男が片手を高く上げてすたすたとやって来た。
もう片方の手には銀色に光るものを持っている。
「…な…なんと?!…くたびれたスーツに似合わないネクタイ…警部補か?!耕下警部補なのか!なぜお前さんがこんなところにいる…」
「とんだお馴染みさんと再開しちゃいましたね」
半次もあきれたように言う。
「なんで桜田門の連中のように新聞社やテレビ局に張り付かなかった?」
「あんたがたの今までの一連のやり方をみると、小人数で手に負えるアタックで最大の効果をあげている。次はここしかないと思ってたよ…さて、ごたいそうな演説を聞かせてくれたな。だが得意になるのもそこまでだ、これを見ろ!」
右手に持った銀色のリボルバー銃で長髪の男を指す。
「これはまたごつい銃だな、カスールか?」
「超マグナム弾だ。以前のようなわけにはいかないぞ。一撃でぶっ飛ぶ」
「やってみたらどうだい、警部補」半次が刀を構えなおす。
「やめろ、半次」ゾウさんがさとす。
「そうとも、刀を捨てて下がれ!!」
「…言うとおりにしよう」
「ゾウさん?!」
「いいから!捨てるんだ!」ゾウさんは持っていた真剣を無造作に床に落とした。
「しかし!…」と半次は言いかけたが、「ちぃっ!」と舌打ちをすると、こちらもすみの方へ刀を投げ捨てた。
「よーし、いいぞ。では二人とも手をあげてそのまま奥へ下がれ。みんなから離れるんだ」
これで編集室は耕下のコントロール下に入った。丸腰になった二人の剣客はぐずぐずしながら両手をあげる。
「そこから二人そろって後退だ」
二人の犯人は長大な部屋の真ん中、並んだデスクが離れて通路になっているところに立っていた。通路は部屋を真っ直ぐ縦に横切って奥の壁まで続いている。
「早く!」
二人は耕下にうながされて並んだまま後退しはじめる。
サングラス姿の屈強そうな二人が歩幅まで合わせて一歩一歩歩くさまはこっけいでもあったが、歩き方は少しづつ早くなった。それがどんどん早くなり、どんどん耕下から遠ざかるにいたって、いささか不安になった耕下が
「もういい、止まれ!」と声をあげた。
それが合図だったように二人の男はいっせいに跳ね上がって正反対の二方向へ飛びのいた。二人とも書類の山の陰、デスクの陰に隠れて見えなくなった。しかし動く気配はわかる。左右二手に分かれているので、左右に気をとられてしまう。
しまった、こいつら逃げてはいない!逆にこっちへ向かってきている。姿を現さないネズミかゴキブリにもにている。
「…こっ…こっちです、警部補!」「こっちに来てます!」
社員たちの何人かが低く叫んだ。耕下は社員集団側を振り返った。と、あの二人が、デスクと書類の陰から、社員たちを背景に通路の中央に両側からさっと集合するように現れ、自分達が捨てて床に転がっていた刀をそれぞれ素早く拾い上げた。
「なんとなんと、もとどおりになったぜ、警部補」
長髪のゾウさんが、背後に人質の社員集団を控えさせて、勝ち誇って言った。
「ふん、こっちだってもとのままさ。これがあるのを忘れるな!」耕下は銀色の旧式のリボルバーを持つ右手首を左手でしっかり支えながらゾウさんに向けて言う。
「ふふ…撃てよ警部補。さっさと撃ってみろ、そのものすごいパワーの銃をな。人一人を凧のように飛ばすことができるほどのガンだ。俺に命中したら俺を貫通するかもな。今俺の後ろには誰がいる?記者諸君がひしめき合ってるぜ。俺に続いて三、四人は貫通するかも。俺達はまだ誰も殺してない。ここで最初に殺しをやるのはあんたってことになる。確かにカスールはすごいよな」
(しまった!)うかつだった…地団駄を踏みたい耕下は歯を食いしばった。
「さて、俺達の優勢勝ちだ。そのガンを捨てろ」
「……わかった、捨てるとも」言うなり耕下はマグナム銃の激鉄を起こすと、銃身を天井方向に向け引き金を引いた。
グワン!という空気を揺るがす音がして、道路側に向いた壁の天井近くにあった高窓のガラスが塵のようになってふっとんだ。残ったのは硝煙に煙る窓枠だけだ。続いて警部補は右手をピッチャーのように振りかぶると、持っている銃を窓枠めがけて放る。銃は弧を描いてビルの外へ消えていった。
「さあ、捨てたぜ。これでビルの外でも何かしら異変に気づく人がいる。サイバー攻撃対策をしてるっていう、あんたがたの仲間の芝居じゃごまかせまい!」
「ほほう、やるじゃないか警部補。あいかわらず厄介なお人だったな。やっかいな奴から始末しなけりゃな」
ゾウさんは目配せしてうなずいた。
「いくぞ、警部補!」
すっと前に出て耕下と向かい合ったのは、縮れた茶髪の若者・半次だった。サングラスの奥からでも眼光の鋭さが伝わってくる。半次は両手で細長い包丁のような真剣を青眼に構えたと見る間、刃先を地面すれすれまで下ろし下段に移った。そのまま歩みに合わせて、切っ先を地表を滑らせるように耕下に迫ってくる。
そうだ、半次は下段から来る。風のように振り上げ、稲妻のように振り下ろす。耕下はかつてのこの男との対決を思い出し、思わず後じさりした。編集室の大部屋を縦に割るように真っ直ぐに奥まで伸びるデスクの間の通路。下がることはできる…間合いから離れなければ…
追いつめられればそれっきりだ。打つ手はない…
「警部補!」
どこからか甲高い声がした。耕下ははっと顔を上げる。
半次の後方、社員たちの群れの頭越しにモップが揺れている。誰かが掃除用のモップを持って振っているのだ。耕下もそれに応えて両手を挙げる。半次も何だと一瞬いぶかしむ。
と、「えーい!」と再び甲高い声がしたと思うと、後方から社員たちの頭の上を越えて横になったモップが飛んだ。モップは半次も飛び越え耕下へと向かう。耕下は開いた両手で飛んできたモップの柄をしっかりと受け止めた。 旧式な木のハンドル(柄)のモップだった。
そのまま背中にモップを背負うようなポーズをとると今度は前に回し、モップの先のヘッド(糸ぞうきん部分)とハンドルの端を交互に左右に突き出す。さらに両手で柄の中ほどを持つと、掛け声を入れながらヘッドで左、右を突く。仕上げとばかりに柄の端を右手で持つとヘリコプターのローターのように頭上で回しはじめた。デスクに囲まれた広くもない通路での一人演舞。少しは相手への威嚇になったか…
「たいしたパフォーマンスだ。警部補は宝蔵院流かもしれんぞ」長髪のゾウさんは苦笑まじりに言った。
「警部補が槍術をやるとはね」半次もあきれたように言う。
「でもね、警部補、モップには刃がありませんよ」
「刃がなくてもいろんなことができるさ、見ろ!」
耕下はモップの回転をとめると両手でバットのように握り、手近のデスクの上の物を片っ端からモップのヘッドで打ちはじめた。書類、本、筆記用具を半次に向けて次々にヒットしていく。半次は飛んでくる物をうるさそうに左右によけてかわしたり、刀で叩き落したり意に介すようすもない。しかし厚めの一冊の本を半次の頭めがけて打ち、それを半次が真剣を振るって真っ二つに切り下げて刃が下に降りたとき、この一瞬だとばかりに、半次の首めがけモップのヘッドを長刀よろしく繰り出した。だが半次は難なく頭を下げてこれをかわす。ならばと返すモップで半次の胴を薙ぐ。ついに手ごたえあり!…とはいかなかった。
そこに半次はいなかったのだ。姿がどこにもない。消えてしまった…。どうなったんだ?!ときょろきょろまごつく。
「上、上っ!」「警部補、上です!」何人かの声がした。もたつく警部補を危ぶんで外野に陣取る記者たちが教えてくれたのだ。なるほど、見上げると半次がデスクの上に立ち、薄ら笑いをうかべて見下ろしている。飛び上がってモップをかわしたのだ。なんという跳躍力。何より先を読まれている。とても敵う相手ではなかった。しかもこっちは最悪の立ち位置になった。
はたせるかな、半次は刀を大きく上段に構えると、「てーぃ!」という気合とともにデスクから耕下めがけて飛び降りざま、大型の人斬り包丁を振り下ろした。ギロチンの刃をしのぐ勢いと力が込められた真剣が降りてきたのだ。
「うわあああー」耕下は悲鳴をあげ、モップの柄も放して飛びのいた。白刃の風は耕下をとらえたが、刃は光速の差で捕らえそこなった。勢いが余りすぎた半次もデスクから床への着地が乱れてよろけた。そこを逃さず耕下はゴキブリよろしく這ってモップを取りもどした。
ふらつきながらもモップを構え直してデスクの通路に立ち上がり、
「まだまだ!」とどうにか強がってみせる。
「半次!」ゾウさんが声をかけた。時間がない、早く殺れという合図だ。
「えーい!それえ!」と掛け声だけは勇ましく耕下はモップのヘッドを槍の穂先よろしく次々に繰り出して半次に突きを入れる。半次は刀で払い、体をかわしひらりひらりとこれをよける。しかしやがて耕下の連続突きにいらだって、ヘッドの糸ぞうきんに切りつけ、刃がぞうきんに刺さり、からみついてしまった。
やったぞ!、と耕下はモップをひねり、刀そのものを絡めとろうとする。しかしこれが半次の手だった。絡められたと見せかけた刃をすっと引き抜くと、返す刀でカッ!とモップのヘッドを切ってしまった。槍の先がなくなった。あせる耕下。しかし見ると、切られたモップのハンドルは、先が斜めに切れてとんがっている。
「こいつはいいや、おかげで竹槍ができあがったぜ!」
「むっ!」と半次は顔をしかめる。白い顔がやや紅潮したのだろう、金の小さなピアスをした片耳が赤く見えた。耕下はだだっと後ろへ下がると、モップの柄を腰だめに構え、さらに後ろへ下がった。
「いくぞ、半次。田楽刺しにしてやる!」突進の姿勢へと身構えた。
「あなたはすでに据え物(試し切り用の罪人の死体)だよ、警部補」半次も八双の構えをとった。
「えいやーっ!」掛け声とともに耕下はダッシュした。
通路の真ん中を一直線に半次めがけて突っ走る。半次は通路の端で社員たちの群れを背にして待ち構える。見守る記者たち社員たちにとってはどうにも無謀な突撃に見えた。警部補は懸命の努力はしているが、勝ち目のない最後の竹槍攻撃でしかない。あの達人の若者は飛び上がるか転がるかして攻撃をかわすと同時に警部補を一刀両断してしまうだろう。凄惨な場面は目前だ。
しかし社員の中には耕下の槍の構え方がさっきと違うと気づいた記者もいた。あれって、まるで…?…オリンピックの…?…はたせるかな、警部補が日本刀の間合いに入る直前で異変が起こった。警部補の疾走コースがずれたのだ。半次が目標でなくなった。警部補のゴールは一瞬で別方向に変更された。中央通路を直角に曲がり、デスク群がさらにせまい間隔で並んでいる短い支流通路に入ったのだ。耕下は壁に向かって走っていた。壁にモップを持って突き当たる気か?!?
と、耕下はモップの先端、槍のように尖った部分を床に突き立てた。そして、飛んだ。モップを軸にして弧を描いて空中を飛んだ。競技場ほど広くはない編集室で、しかも越えるバーもないところで棒高跳びをやった。越えたのは窓枠だった。さきほど耕下が銃でガラスをこなごなにして窓枠だけ残した高窓だ。大きくもない窓から警部補はすっぽりと外へ抜け出してしまったのだ。編集室にいた全員があっけにとられていた。半次でさえ当惑するほどだ。
「し、しまった、逃げられた!なんてこった!」
気づいたゾウさんが思わず叫ぶ。「くそっ!」半次はうなって窓辺へ走る。高窓の近くの大窓から外をのぞきこんだ。
「どうした?!奴は?!警部補は?!」ゾウさんが聞く。
半次は外を見たまま答えた。
「木に…街路樹にひっかかってます。運のいい人だ…
しかし地上に降りるまでいくらか時間はかかるでしょう」
「そうか…もう猶予はならん、ここにいるそいつらをすぐに何人でもいいから叩っ斬れ!椿三十郎みたいに、走りながらできるだけ多く斬れ!」
「承知しました!」半次は記者たちにきっと向き直ると、刀を大きく振り上げ、ことの成り行きの早さに目を見張るだけの社員たちにだっと突進した。
2022年7月21日 発行 初版
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屋根裏文士です。 青森県を舞台にしたホラー、アクション、コメディー、ファンタジーなどを中心に娯楽ものをいろいろ書いてます。 ◇青火温泉第一巻~第四巻 ◇天誅団平成チャンバラアクション第一巻~第四巻 ◇姫様天下大変上巻・下巻 ◇無敵のダメダメオヤジ第一巻~第三巻 ◇ブログ「残業は丑の刻に」