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作務衣猿 山太郎

菊地夏林人

夏林人文庫



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  この本はタチヨミ版です。





         

       作務衣猿 山太郎


                 菊地 夏林人








 もくじ
    
    

      作務衣猿 山太郎

      樹 海 と 流 木

      地 図 屋








       作務衣猿 山太郎






 人里離れた山奥に寂れた禅寺があった。

 山門には深山寺《みやまでら》と刻まれている。開基も来歴も定かではないが、古い集落の裏山に位置し、古刹の風情は感じられる。住職の名は「天峰《てんぽう》」。今年の誕生日で七〇歳を迎える。元々は大都市の大学付属病院で外科医を務めていたが、六〇歳で退職し、御縁の深いこの寺で修行を積み、僧侶となった。その後、先代に代わって住職に就任した。
 外科医として、夥しい数の患者を治療し、すべての力を使い果たし、医者人生は全うしたと納得の上での僧侶転身だった。山紫水明の清らかな山村で、日々、寺の作務を行い、法事を務め、清貧の暮らしを続けている。
 ある晩秋の朝、印象的な出来事が起こった。山奥から野猿がやってきて、境内の柿の木の実を盗み食いしたのである。まだ幼い子猿だった。素早く柿の実をもぎ取ると、矢のように走り去った。住職・天峰は珍客を目撃したが、そのまま気がつかないふりをしていた。むしろ歓迎した。腹を空かせているのだろうと思った。

 天峰は早朝の読経を終えると、定刻の梵鐘を撞き、庭仕事をしていた。晩秋の落ち葉を掃き清めたり、境内に何か不純物がないか目視で確かめた。それらは毎日の日課だった。特に異常もないと思い、寺の中へ入ろうとしたとき、背後で何かの気配を感じた。山門から竹垣へ、竹垣から燈籠へとその影は素早く移動し、柿の木によじ登ると、熟果をもぎ取り、矢のように疾走した。
 昨日の子猿だった。今日もまた昨日と同じように柿の実を盗んでいったのである。しかし、天峰は執着せず、それを許した。要するに空腹なのだろうと。
 翌日も翌日も、毎日、必ずその子猿はやって来た。やがて、柿の木の実はすべて食べつくされ、ただの裸木となり果てた。天峰は思った。おそらく親猿を含む仲間のサルたちからはぐれてしまった孤独な子猿なのだろうと。まだ原生林の中でたくましく生き抜けるすべを知らない。このままでは苦労が続くかもしれない。
 ある日、住職・天峰は近隣の農家さんから頂いたリンゴをひとつ、柿の木の根本に置いてみた。仏門に入った者としての慈悲から生じた配慮だった。

 天峰が柿の木の根本に置いたリンゴは、予期した通り、子猿の餌食となった。ここへ来れば、何か食べ物が得られると覚えたのだろう。翌日はサツマイモ、その翌日は大根の切れ端。子猿は毎日この寺に通い、柿の木の根本に置かれた野菜や果物を持ち帰った。何でもよく食べ、一日も休まず通い続けた。
 二週間が経過した頃、子猿の様子に変化があらわれた。矢のように逃げ去っていたはずの態度が軟化し、一定の距離を保ちながら天峰の顔を見るようになったのである。別に天峰は深追いしなかったけれども、両者の距離感は少しずつ狭まっていった。今日は煮上がったばかりのカボチャを御馳走した。天峰と子猿の距離は1m程度にまで縮まっていた。
 そこへ、珍しい客人がやって来た。艶やかな深紅の高級車を山門近くに停め、颯爽とした足取りで寺に近づいてくる人物は、ひとりの美しい女医だった。天峰はすぐに反応した。かつて天峰が所属していた北王医科大学耳鼻咽喉外科の後輩ドクターであり、隣接していた霊長類言語研究室の研究仲間でもあった。
 彼女は天峰の前まで来ると、切れ味の良い挨拶を交わし、十年ぶりの邂逅を懐かしんだ。彼女の名は、一条真理香《いちじょうまりか》。すでに四十は過ぎていたが、その美貌は衰えを知らず、医科大学の中でもひときわ目立つ花のような存在だった。さっそく真理香は手土産の菓子折りを渡すと、天峰に相談事があり、少しばかり話す時間がほしい旨を伝えた。天峰は何かを察し、快諾、深く頷いた。

 寺の庫裏には粗末な客間があった。狭いながらも禅語の掛け軸があり、傍らの机には仏教関係の冊子が堆く積まれていた。天峰は懐かしい珍客に煎茶をすすめ、さっそく要件を伺うことにした。一条真理香は黙礼して茶に口をつけ、軽くため息をついてから切ない顔で喋りだした。
「天峰さん、今、医局も研究室もたいへんなことになっています」
「どういうことですか? 一条先生」
「得体の知れない動物愛護団体がしつこく絡んできて、動物実験を動物虐待だと騒ぎ立てているんですよ」
「何と、動物虐待ですか。別に研究者は動物を虐めているわけではないが、素人の眼にはそのように映るのでしょう」
「集団で押しかけてきて、デモ行為を繰り返すものですから、今、事実上、一切の動物実験が行えない状態なんです」一条真理香は苦々しく顔を歪める。
「学長と教授は? 何か対応の仕方があるでしょう」天峰も首をかしげる。どこか腑に落ちない。
「そこなんです、問題なのは。宮原学長は騒ぎを鎮めるべく、人にも動物にも優しい医学というスローガンを掲げて、動物実験を一時中止すると公言。医局の小野教授も学長に忖度して、事勿れ主義ですね。霊長類研究室の神田室長は激怒していますが、ここで実験を強行しては逆効果になりますので」深くため息をつき、苦笑し、真理香は茶を啜る。事情を知った天峰はすでに他人事とは思えなくなり、腕組みをして渋い表情を見せた。かつて同じ医局、同じ研究室に属していた者として、聞き捨てならなかった。そして、天峰は疑問に思ったことを尋ねた。
「どうも解せない。単なる動物保護の立場なのか否か。一条先生、その動物愛護団体の狙いはどこにあるとお考えですか?」
「天峰さん、聞いたら必ず呆れると思いますよ。団体の会長は元・女優で国会議員の藤崎悦子、彼女は財界にも霞が関にも顔が利くんです。はじめは小さなNPO法人からスタートしたらしいのですが、組織は肥大して、近々、正式に国の外郭団体に承認されるらしいんです。しかも、藤崎は・・・・、いいですか?  天峰さん、藤崎は何と、その昔、宮原学長と恋仲だったらしいんですよ!」
「何と!」冷静沈着な天峰もこの事実には、思わず叫び声をあげてしまった。絵に描いたような癒着だった。
「要するにウィンウィンの関係なんでしょうね。医科大学の動物実験を止めさせれば、団体としても正義の実績になり、評価を集めやすくなる。助成金も獲得しやすくなるというわけです。そして、うちの宮原学長はあいまいに批判を交わし、医科大学の柔軟な姿勢を示しつつ、時間稼ぎをして、自分が退任したら、即、彼女の動物愛護団体の理事に就任する・・・と。みんな同じ推理をしていますよ」
「なるほど、構図が読めてきた。実にどす黒い構図だね。しかし、一条先生、それでは肝心の研究課題が全く進められないでしょう。長年取り組んできた、例の人工声帯の研究には必ず動物実験が必要ですからね」
「はい。今回、何かお知恵を拝借できないものかと、お邪魔した次第です」
 一条真理香は改めて姿勢を正し、深々とお辞儀した。
 天峰もまた作務衣の襟を正し、悩ましげに天を仰いだ。

 数週が経った。山からやって来た子猿の適応は目覚ましいものだった。日に日に住職・天峰との距離感を縮め、相手を怖れなくなり、人の手から直接食べ物を受け取るようになっていた。もう逃げだしたりはしない。
 考えてみれば、当然の成り行きとも言えた。仲間からはぐれてしまった子猿にとって、厳しい大自然の中には安住の地などありえなかった。寒村の要の地、深山寺に馴染んで確実に食を得たほうが無難に違いなかった。
 ここ数日の傾向として、寺の庫裏の戸を少し開けておくと、子猿は勝手に入ってくる。天峰は「おお、来たか」と声をかけ、野菜や果物、雑穀や豆類など、残り物を分け与えた。子猿は喜んで受け取り、逃げずに、その場で食べるようになった。天峰にとっては良き友人を得たような感覚だった。

 天峰は数週前の会話を心の奥で反芻していた。突然訪れた後輩ドクター・一条真理香。動物愛護団体のバッシング行為。動物実験の中止と主要研究の進捗ストップ。団体会長と医大学長の露骨な癒着問題。
 イメージの堂々巡りの中で、消し去ることのできない燠火のような燻りが天峰を悩ませていた。胸騒ぎがした。すでに医師・研究者としての役目を終えて、すべて清算し、仏道に入ったはずなのに、まだ何かやり残したことがあるようにも感じられていた。それは医学を志した者特有の煩悩でもあった。


 少しばかり開けておいた庫裏の戸が、がらりと開いた。そこには梅木さんの姿があった。梅木静江さんはこの村の檀家さんである。若い頃は、大きな町の有名呉服店で和裁技能士として大活躍した人物で、定年を迎え、故郷の村に戻って来た。よく気が利く人で、天峰のところへ差し入れを持ってくる。
「天峰さん、大豆を煮たんだけど、召し上がりますか?」
「ああ、それは非常にありがたいことです。それでは遠慮なく」天峰はきっちりと手のひらを合わせ、合掌の礼節を守り、それをお布施としていただく。
「味付けは何もしていないから、お猿さんも食べられると思いますよ」
「猿にまで慈悲喜捨の精神を、誠に有難いことです」
「天峰さん、このお猿さん、名前は何というの?」
「そうですね・・・、山から来たので、シンプルに山太郎でいかがでしょうか」
「山太郎! 覚えやすくて、何だか可愛らしい名前!」梅木さんは大いに笑い、明るくはしゃいだまま自宅へと帰っていった。これは丁度良い機会と思い、天峰はさっそく筆を執ると、和紙に『山太郎』と揮毫した。


 泉川耳鼻咽喉科クリニックの院長室に、三人の人影があった。ひとりは院長の泉川誠一、もうひとりは一条真理香、そして残るは天峰。院長・泉川は小柄で小太り、いつもクリクリと丸い瞳を輝かせている。午前中の外来受診を終えて、白衣のままこの場に臨んでいる。一条真理香は濃紺のスーツを着こなし、差し出されたコーヒーカップに目を落としている。天峰は作務衣姿で、剃髪した頭をぴしゃぴしゃと叩きながら、いつものように柔和な笑みを浮かべ、話を切り出した。
「お忙しいところ、お集まりいただき誠に恐縮です。泉川先生には御無理を押し付けてしまい、何と申し上げればよいか」
「何をおっしゃいますか。久しぶりにお会いできて光栄です。僕のクリニックで宜しければ、いつでも大歓迎ですから」泉川が瞳を全開にして嬉しそうに応じる。
「泉川先生が退任されたのは、たしか五年前でしたよね?」真理香は室内に目線を泳がせながら、それとなく泉川に聞く。
「そうそう、五年前。あのときは急に父親が倒れて、後継ぎ問題が浮上し、北王医大を退任した僕がこのクリニックに入ったと。それまでは、あの医局に居たわけですからね。天峰さんが退任されたのが十年くらい前でしょう。あの頃はよく三人でお昼ご飯を食べましたよね。懐かしいなあ」
「今ではもう北王医大の現役は一条先生だけになってしまった。しかも、その医局と研究室に理不尽な異変が生じている・・・というわけです」天峰は眉間にしわを寄せ、やや険しい表情を見せる。泉川も真理香も同時に頷く。
「理不尽、ほんとうに理不尽です。長い年月をかけて忍耐強く継続してきた人工声帯の開発プロジェクトが、わけのわからない動物愛護団体の横槍に屈するなんて、信じられません。もう研究のゴールは見えているのに」真理香が悔しそうに細い拳を握りしめる。天峰も泉川も同調して、強く頷く。
「ああ、一条先生、そう言えば、例のモノ。V-andoron-peraxはもう仕上がっているんですか? ips細胞の・・・、あれですよ」泉川が専門的な興味を示す。
「もちろんですよ。先日も京都の自己再生パーツ研究開発センターに出張してきたばかりですから。V-andoron-perax、自分の組織細胞からips細胞をつくり、特殊な刺激を与えて分化させれば、中咽頭から声帯へ至る総合的なパーツを生み出せます。それを埋め込む手術をすれば、喉頭がんやALSで声を失った人の発声を回復させることが可能になるわけです。あと一歩なのに」真理香の感情がやや昂ぶる。
「そこで、今回お集まりいただいたのは他でもない、そのV-andoron-peraxの動物実験をこのクリニックのオペ室で行えないものか、という相談なのです」天峰は数週間、悩みに悩んで、悩みぬいた結果として捻りだした秘策を打ち明けた。
「いや、その・・・、オペ室はご自由にお使いいただいて構いませんが、問題となるのは何の動物を使うか、その術後管理は誰がやるのか、ですね」泉川は冷静に状況を捉えようとしていた。まったく正論そのものだった。
「私もこの歳になって、ようやく華岡青洲の心境が判るようになりました。身内の手術には異様なプレッシャーがかかる。悩んだ末の決断です」天峰のこの唐突な発言に、一条真理香が素早く反応した。美しい顔が奇妙にゆがむ。
「まさか、お寺に棲みついた、あの・・・、お猿さんのことですか?  違いますよね」
「いや、その通りです。うちの山太郎を実験に。その決意を固めて、ここへ来ました」
 院長・泉川誠一と北王医大ドクター・一条真理香は同時に顔を見合わせ、一瞬、人形のように固まり、それからゆっくりと天峰を見据えた。天峰はいつも通り、柔和な笑みを浮かべているだけだった。天峰の気持ちが揺らぐことはなかった。


 ニトリル手袋を外し、ディスポーザブル術衣を脱いで専用バスケットへ放り込むと、一条真理香は傍らにあった小さな椅子に腰かけた。下を向いて、涙ぐんでいる。その姿を見て、天峰は気遣いながら静かに声をかけた。
「お疲れになったでしょう。何と言っても、ips細胞式のV - andoron - perax 人工声帯の埋め込みオペですからね。誰でも緊張します」
「いえ、オペの内容は完全に予定通りでした。このオペのために今までの研究があったわけですから。手術そのものは自分でも納得しています。でも、今回、私が変な相談をしたために、天峰さんにも泉川院長にもご迷惑をおかけしてしまいました。そして、何よりも山太郎・・・、天峰さんの身内と言っても良いこの無垢な子猿が実験台になったことが、自分の胸に刺さるんです。山太郎が犠牲になってしまったことが、理不尽に思えて、悔しいんです」真理香の瞳から涙の粒があふれていた。
「いや、それは違う。一条先生、犠牲という考え方は当てはまらないでしょう。山太郎は時代の先を走っているだけなのですよ。元々、この研究プロジェクトは巨大な構想を持っていた。声を失った患者さんを救うことからスタートし、人工声帯を応用することによって、人間と動物の境界を取り払おうというレベルにまで達していった。高い知能を持ちながら、発音言語の違いが障壁となって、人間とのコミュニケーションがとれない動物はたくさん存在する。言語によって正確に意思の疎通が可能になれば、介助犬の発想と同じように、介助猿、買い物猿、俳優猿、アニマルセラピーに至るまで、さまざまな可能性が広がるんです。都市社会に猿が現れたと叫んで、滑稽な捕物帳などする必要さえなくなる」鎮静的な声音で、天峰は囁いた。オペ室を軽く片付けてから出てきた泉川院長も、微笑みながら天峰に同調する。



  タチヨミ版はここまでとなります。


作務衣猿 山太郎

2022年8月26日 発行 初版

著  者:菊地夏林人
発  行:夏林人文庫

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作務衣猿 山太郎 (さむえざる やまたろう)         

           菊地夏林人(きくちかりんじん)

福島県福島市出身。著述家、農学・医学研究者。
(独)東北農研で種子や益虫の研究に従事。県立福島医大で脳細胞科学の研究に従事。
 主な著書、『森羅万象ノート』東洋出版、『村の樹に棲む魚』太陽書房

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