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この本はタチヨミ版です。
おとにわにさくせみぜみ
音 庭 に 咲 く 蝉 々
きくちかりんじん
菊地 夏林人
花鳥風月・詩歌管絃、六道輪廻の最頂域に属する天道には、耽美主義ゆえにあと一歩の処で解脱しえない宿命がある。天道に生まれた者たちは絢爛たる迷宮の中、時空を超えた輪廻の罠から逃れられない。西行法師の魂が漂泊する日本芸術の経絡に、今もなお見え隠れする美意識と仏道的大悟の狭間に生じる矛盾に挑む、夢幻幽玄譚。この謎めいた長編小説を忘れ難き旧友・親族・仕事仲間・SNS知人・他、すべての方々へ捧ぐ。
【主な登場人物】
時原鏡月… 天才華道家。元・鏡海寺住職。
時原敬一… 通称ケイ。鏡月の曾孫。失踪したカリスマ奏者。
鮎川大吉… 宮大工。鏡海寺の山門を作った名匠。
鮎川舞子… 通称ヴァーミリオン。美貌の歌姫。大吉の曾孫。
高村秀昭… 通称ダイコク。ドラム担当。
秋本所縁… 通称ユカ。キーボード担当。
藤沢直樹… 僕。通称フジ。ベース担当。ケイの親友。
柿沼織絵… 僕の恋人。ケイの親戚。
平林先生… 県立医科大学の精神科医。
夕映太郎… 公園に現れる謎の仙人。
草庵禅師… 樹香寺に住む謎の禅師。人の前世を知る。
庄司… 生徒会長。学内の権力を牛耳る。
小堀… 庭師。修行時代に時原鏡月と親交。
【歴史上の人物】
西行法師… 佐藤義清。鳥羽院北面の武士、僧侶、和歌の天才。
高倉宮以仁王… 後白河天皇の第三皇子。平家打倒挙兵。
源三位頼政… 御所の武士、公卿。奇獣ヌエを捕獲。
【その他】
ヌエ… 伝説の奇獣。頭は白猿、胴体は狸、手足は虎、尾は蛇。
音 庭 に 咲 く 蝉 々
物語が始まる前に
Ⅰ 海岸
Ⅱ 蝉の抜殻、地下の庭
Ⅲ 夕映え太郎
Ⅳ 極彩色の夢
Ⅴ 神隠し
Ⅵ 万象卵と白猿
Ⅶ 虹色の桜
物語が始まる前に
おぼろげな半眠半覚の中で何度か寝返りをうった。夢のようでもあり古い記憶の断片のようでもあり、千切れてはまた寄せ集まる白雲にも似たそのイメージはずっと以前から僕の頭蓋骨の洞窟に棲みついていた。
あまりにも脆く儚い残像であるために、それがいつどこで刻まれた記憶なのか正しく思い起こすことができない。不確かな妄想の類に等しいものだった。
天界の女神を彷彿とさせる美しい人物が煌びやかな装飾の琵琶を優雅に奏でている。どこか遠い異国の美しい民族衣装を纏い、国宝級の五絃琵琶を奏でるその人物は、女性なのか男性なの判別し得ない。聖なる丘に響きわたる透明な弦の音色。耳を傾け、その音色に酔い痴れていると、琵琶の音に誘われたのか周囲の樹々が早送りのように花を咲かせ、甘く爽やかな芳香を漂わせた。
どこからともなく煙のように人々が集まってくる。ゆるやかな足取りでこの地に辿りついた群衆は、苔むした伐り株に座して琵琶の音と花々に心を酔わせている。ここがどこなのか、人々が誰なのか、確かめるすべなどなかった。
不意に心象風景が変転する。猛獣のような黒い波。すべての造形物を呑み尽くす黒い波が近づいてくる。そして、不吉なうねりに浮かぶ一艘の木舟がこちらに向かってくる。その木舟を漕いでいるのは、すでに亡くなったはずの旧友の姿だった。
この部屋が病室であることは数日前から知っていた。いつのまにか己の衣類が自分自身も着た覚えの無い入院患者用のパジャマに替わっていたので、状況を察することができた。しかし、なぜ自分が入院させられているのか、なぜ看護士たちの様子が奇妙に優しすぎるのか、この先自分がどうなるのか、まるで見当がつかなかった。
もやもやとした中間色の壁には、毒のない穏やかな風景画が掛けられていた。遠景には丸みを帯びた森があり、森から流れ出る浅い川がS字を描いて近景に至る。可愛らしい帽子をかぶった少女が川辺で遊んでいる。
テーブルの上に昔なつかしい巻貝が置いてあった。幼年時代にこれを耳にあて、貝の内部へと果てしなく続く永久音に神秘を感じたことがあった。それにしても、なぜこの巻貝がここにあるのか全く理解できなかった。窓を開けて、外を眺めようとすると、視界は堅牢な鉄格子に分割され、風情に乏しい住宅地が遠景に広がるばかりだった。
部屋のドアがノックされる音。若い女性看護士が入ってきた。彼女は医療備品を積んだ包交車をベッド脇に静置させ、電子カルテを操作しながら僕の様子を覗きこんだ。
「藤沢直樹さん、点滴の準備をしますね」
「点滴? 何の治療ですか」僕は率直に尋ね返した。
一瞬、彼女はびくりと委縮して、異様な眼で僕を観察し始めた。
「藤沢さん、体調はいかがですか?」
「体調ですか? 体調は普通です。別にどこも悪くありません。それより、いくつか御質問したいのですが、今、よろしいでしょうか?」
「あ!」彼女は軽い悲鳴を上げ、さらに瞠目した。何か重大な発見をした人のように、自分自身を落ち着かせようと苦心していた。
「今日は顔色も良く、言葉もはっきりしていますね。わかりました。いま、平林先生をお呼びしますので、少々お待ちください」
「ヒラバヤシ?」
あきらかに聞き覚えのある苗字だった。澱んでいた意識が少しずつ鮮明さを取り戻しつつある。ぶれていた記憶の輪郭がはっきりと形を成してきた。
程なく、白衣姿の男性医師が颯爽と姿を現した。
「藤沢さん、私のことが判りますか?」
「勿論わかります、平林先生ですね」
何年前のことだろうか。交際中の女性、柿沼織絵の主治医代理が平林ドクターだった。織絵の症状が気になって病院を訪れ、彼女の病気の本質について詳しく面談したときの光景をよく覚えている。
「良かった、ご記憶が戻り始めましたね。良い兆候です」
「記憶? 記憶って、僕の記憶ですか?」
「地震の時のことを何か覚えていますか?」平林氏は丁寧に質問した。
「地震! そうです、強い地震が起こって、津波に押し流されて、そして」
「藤沢さん、藤沢さんがここへ搬送されてきた経緯をご説明しますね」
平林医師の説明によれば、二〇一一年三月十一日、東日本大震災が発生した当時、福島県相馬市を訪れていた僕は地面が波打つような激しい揺れの後、わずかな時間の中で津波に押し流され、瓦礫に頭を打ち付けた。一瞬のうちに記憶を失ったらしく、その後、どのようにして生き抜いたのか自分でも判然としないが、無意識の状況下で阿武隈山系を彷徨い続けたと推測される。
その後、福島市東部に位置する川俣町の寺の山門に蹲っているところを僧侶に助けられた。自分の名前さえも言えないまま呆然としている様子を不審に思った僧侶は警察に連絡、ひと通りの事情聴取を経て、正体不明の男は福島県立医科大学へ運び込まれたとのことだった。
「ところで先生、この貝殻は何でしょうか?」
「それは震災当時の藤沢さんの唯一の所持品です」
「大震災の直前に海岸で拾ったような記憶があります」
「おそらく、そうでしょうね。とにかく、あの日、あの大津波に押し流されて多くの方々が命を落としました。その中で、たとえ一時的に記憶を失ったとしても、生き延びたこと自体が藤沢さんの身体能力だと私は思っています。とにかく、良かったです。ご記憶を失っているあいだに一通り健康状態を診させていただいたわけですが、各項目とくに目立った異常はなく、脳のMRI画像も問題ありませんでした。不幸中の幸いというべきか、ホールボディ放射能被曝検査も基準値をはるかに下回っています」
「放射能? 被曝って、何かあったということですか」僕の声が裏返った。
「あ、そうか、当然、原発事故のことも知らないですよね」
苦笑しつつ、平林先生は福島第一原発の水素爆発のことや飛散したセシウムの線量に関する現状を詳しく説明して下さった。俄かには信じがたい浦島太郎的なこの状況に、僕自身は心理的な整理がつかなかった。
「とにかく白血病の発症リスクはきわめて低いとお考え下さい。大丈夫です。それよりも、藤沢さん、話は変わりますが、数年前に藤沢さんが出版された小説を‥‥、じつは私も隠れて読んでいました。なかば自伝的な夢幻小説ですね。いろいろな意味で深い感銘を覚えました。それで、できればサインなどをいただければ、と」
平林先生は黒鞄の中から本を取り出し、油性マジックペンを一本置いて、恥ずかしそうに病室を立ち去った。いつでもいいですから……、と。
再び静謐が訪れた。僕は自分が書いた書籍 『空蝉幻舞曲』 を手に取り、この物語がメビウスの輪のごとく現実世界に結びつく眼に見えない結界を感じはじめていた。
うつせみげんぶきょく
空 蝉 幻 舞 曲
やどりして夏の山べに寝たる夜は
夢のうちにも蝉ぞ散りける
読人知らず
Ⅰ 海岸
①モーツァルト
群衆が散りはじめた。
人波に押し流されて音楽堂を出ると、外気が清々しく感じられた。ほどよく冷やされた大気が肺の内壁を押し広げる。新鮮な大気が肺から血管へと浸透し、体内の隅々まで満ちていくこの感覚は、五感が清められていくようで絶妙にここちよい。
先程まで耳の奥に鳴り響いていた名曲の数々は、いつのまにか右脳に花開く透明な花弁と化して、その造形を無意識の画布に定着させた。それは猥雑な雑踏の中でさえ、少しも傷つけられることなく、秘宝のように保たれていた。仙界の泉を想起させる楽曲の調べは、まろやかな音の粒子によって編み上げられ、波打ちながら広がり、ほどかれて流れ出し、渦巻き、飛沫をあげて落下する。
神々の化身……。
音楽家という名の巫女たちを介して伝えられる極楽の花園は、無垢で優雅で透明な世界観を狂おしいほどに立証していた。
すでに外は薄暗くなりかけていた。葡萄酒色に染まる西の空を背景に、黒い街路樹の枝が静止する風景は、昔なつかしい影絵のように映る。
「少し歩きますか…」と言って、僕は柿沼織絵の横顔を覗き込んだ。
「そうですね。コンサートの後に散歩すると目に映る風景が彩られて、気分がいいと思いませんか。モーツァルト色に染まっていますよ。実はわたし、最近なんです、モーツァルトの魅力を知ったのは」彼女は笑窪を見せて、嬉しそうに話を続けた。
「去年、ひどく体調を崩したことがあって…。職場のストレスが原因なのか、それ以外のことなのか、自分でも釈然としないんですけど、食欲不振とか、めまい、手の痺れ、その他いろいろな症状に苦しめられたんです。その間、内科、整形外科、耳鼻咽喉科、神経内科、心療内科まで行って、それぞれ専門的な検査を受けたんですけど、結局、最後は自律神経失調症みたいな診断結果に落ち着いて。手の痺れが気になって整形外科に行ったとき、念の為に首のMRIをとったんですよ。検査機器のなかに入る不安を和らげるために、ヘッドホーンで好きな音楽が聴けるようになっているんですけど、わたし、そのとき何となくクラシックのほうが落ち着けるのかなと思って…」
「そこで、とりあえずリラクゼーション系の番号を選んでみたところ、偶然モーツァルトが流れてきた…と」
「そう、そうなんです。たしかアイネ・クライネ・ナハトムジークだったと思いますね。それを聴いたら、すうっと気分が楽になって検査の恐怖心が消えたんですよ。もう、それ以来、モーツァルト三昧ですね。CD買いまくり…。ポトスとかアジアンタムとか、うちの観葉植物にも聴かせています」
柿沼織絵は僕より八歳年下、背が高く、澄み切った瞳が印象に残る人物だった。長い髪のゆったりとした流線と、綺麗に鼻筋の通った横顔は思索的な一面を感じさせる。
親友の高村(通称ダイコク)の紹介がなければ、彼女に出会う機会など一生恵まれなかったことだろう。三〇代半ばになってもまだ結婚する気配のない僕を哀れに思ったのか、ある日、ダイコクは唐突に〈 会わせたい女性がいる 〉との緊急提言を発した。
僕としては断る理由が見つからず、YESもNOもなく曖昧な返事をしているうちに、結局そのまま押し切られてしまったのである。
そして今日、ダイコク御推薦の美女と春のクラシックコンサートを堪能するに至った、というわけだ。モーツァルトの清涼感にも助けられ、短い時間のうちに、二人はすっかり打ち解けた気分になっていた。
彼女はダイコクの会社と取引のある小さな広告代理店に勤めている。営業と編集を兼任しているらしく、多忙が続くと、そのストレスを和らげるために音楽鑑賞は欠かせないと言う。
「僕もモーツァルトは好きですね。一〇代の頃はバッハにのめり込んで、二〇代はエリック・サティとシェーンベルク。三〇代に入って自分の健康を真面目に考えるようになってから、モーツァルトの効果を知ったんです。あれは薬用効果に近いものがある」
「あ、そう言えば、藤沢さんって、昔、バンドをやっていましたよね?」
「え? 高村がその話を?」予想外の方向に転がりはじめた話題に、僕は狼狽した。
「いえ、高村さんからは聞いていませんけど。じつは、わたしの姉が中学時代にロック中毒になりまして、伝説のロックバンド〈 アプリオリ 〉の追っかけをやっていたんですよ。その頃は高校生でしたよね、藤沢さん…。姉が言ってました、藤沢さんのベースは意識の中に滑り込んで、蛇みたいに絡みついて来るって。もちろん褒め言葉ですよ。カリスマだったんでしょ、もの凄い人気だったらしいですね」柿沼織絵は両腕を天に突き上げ、軽く背伸びをして、葡萄色の夕焼け空を見上げた。
「そうですか、お姉さんが。でも、それはずいぶん昔の話ですよ。まあ、たしかに相当の人気があったのも事実と言えば事実かもしれませんが、僕よりはギターの男のほうが有名でしたね」胸の奥のわだかまりを隠し、僕はできる限り素っ気なく答えた。
そして、俯いたまま言葉を探した。
じわじわと掌や足の裏に嫌な汗がにじむ。唐突に蘇ってきた昔話が、僕の平常心をぐるぐる掻き乱していた。耳の奥にここちよく谺していたモーツァルトの残響音が、いつのまにか魔術的なギターソロに変容していく…。魔人が奏でる魔の旋律に。
②記憶と予感
万世町の自宅アパートへ戻って風呂に入り、TVの電源を入れた。
定刻に放映されているニュース番組が始まっていた。連続ドラマに興味がない僕は、この時刻はこのチャンネルに決めている。今日一日、世の中で起きた出来事を一応知っておきたい、その程度の軽い視聴態度にすぎなかった。
しかし、僕のささやかなリラクゼーションタイムはある奇妙なニュースによって、無残に破られた。僕は自分の耳を疑った。
…本日午後三時ごろ、福島県相馬市の海岸で男性の遺体が発見されました。推定年齢は三十歳前後、身長百八十五センチ前後、痩型で頭髪は長く、黒いマントを着用。男性が俯せの格好で波打ち際に倒れていたのを、近所に住む小学生たちが発見しました…
番組で偶然伝えられたその事件は、僕の記憶の奥底で眠っていたモノクロ写真に、鮮やかな色彩を滲ませようとしていた。
それはすでに風化し、目録から外された骨董品か遺跡の出土品のように古土を被って沈黙していたが、僕自身がそれを完全に忘れていたわけではなかった。むしろ忘れることができずに苦しみ抜いたあげく、自分自身もその未解決事件の処理に疲れ果て、いつのまにか意識の底に沈めてしまった、小さな廃船のようなものだった。
それは青黒いダムの底に沈んだ村の古刹にも似ていた。すでに日常での有効性を失ったはずなのに、不気味な遺恨と異様な存在感が今も燻り残っていた。それがまったく不意に、今、現実の海景へ浮上してきたのである。
もし、その報道を耳にすることさえなければ、おそらく今日の安眠の床は約束されていたに違いない。
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年10月1日 発行 初版
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菊地夏林人(きくちかりんじん)です。 農学研究・医学研究に従事しながら、著述活動を続けてきました。現在は著述に専念しています。よろしくお願いいたします。 思想哲学『森羅万象ノート』東洋出版 幻想小説『村の樹に棲む魚』太陽書房 ※最新作『作務衣猿 山太郎』BCCKS