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少女雑誌の中から抜け出してきたような『君』の顔が眩しかった。少年は日に焼けたすべすべした皮膚に涼しい目をしている。その凛とした整った顔にときめく。姿勢よく座り、目は黒板とノートを行き来していた。丁度右斜め前の席だ。
晩夏。クラブ終わりに見た西日は、少年の砂埃を吸った体操服をオレンジ色に染めていた。紙質の悪い雑誌の紙面に水で薄めた橙色の絵具をのせればあの色になる。その滲んだノスタルジックな色に誘われて、私は冒険した。
尾行。
角々で身を潜め、さながら探偵だ。少年は重いクラブバッグを地面に置いては持ち直す作業を繰り返した。疲れを引きずり砂埃を巻き上げながらひたすら前だけを見て歩いている。そして、角を曲がりガラスの引き戸の向こう側に消えた。私は通行人を装い何食わぬ顔をして家の前を通ってみた。見上げると、ベランダに洗濯物。
あのノスタルジックな色の体操服も、明日にはあそこに白く干される。そう想像すると、少女雑誌の『君』はただの少年になった。
砂埃と熱気と西日。二度目の場面設定も似ていた。
広い公園の中に千人以上はいただろう。右斜め前の人のかたまりの中に、少しカールのかかった君の頭がゆれた。
青年は午前の授業が終わってからそこにいたのだ。半袖から出ている腕と首筋にはうっすらと汗がうかび、赤く日焼けしていた。眩しそうな細い目をして肩からズレる紐を気にしている。紐のさきには傷だらけのメガホン。〇大、学生自治会という黒々とした文字は黄ばんだメガホンに不釣り合いだったが、その太い文字は「青春、現在進行形」と主張しているようにも見えた。
やがて青年はメガホンのスイッチを入れ、シュプレヒコールとともに砂埃の向こうに遠ざかった。
ときめきは夢から覚めるように終わる。
それを忘れて久しい。
服だって、三年着なければ断捨離するべきという。私にとって『ときめき』はもはや『死語』になっていた。
若者たちは、ときめきという言葉を『キュン』と言い換える。
「軽いなあ。これじゃ、情景が浮かばない。細やかな心の動きがわからない」と思ったが、『キュン』と言い換えることによって、圧倒的にときめき回数が増えているのは間違いない。きらきら光る甘酸っぱい特別感はなくなったが、これはこれでいいのかもしれない。
ときめきたい気持ちさえ忘れてしまった私でも、たくさんキュンすれば、その中からまた『ときめき』を探せるかもしれない。
今年も梅雨が明け、夏本番。元々、2時間ドラマや時代劇が好きだった私の、ボランティアエキストラ初挑戦は、13年前の夏のタイムスリップ時代劇作品であった。当時、漠然とシナリオライターをめざし始めていたのもあり、いち経験のつもりで参加したが、現場での一期一会が楽しく、人の気づきや元気のもとになるエンターテインメント分野でのお手伝いにやりがいも感じて、今も続いている。
あれは、ちょうど10年前の夏だろうか。私は、某人気2時間ドラマの30回記念のボランティアエキストラに当選し、主演の方をはじめ、控室が足りないくらいの大勢の俳優の方々と某お寺でご一緒し、お手伝いをした。ハプニングもあったが、赤い〇〇〇に初遭遇し、リアルチャリーンなシーンにも感激しつつ、喪服が汗でびしょびしょになるくらいの暑い日であった。
その撮影の合間に、ふと見かけた光景にハッとした。木々を見上げて、まるでライトのような木漏れ日に照らされた某俳優さんの表情が、優しく穏やかで、魅力的に感じたのを覚えている。その後、訃報に驚き、そう言えば痩せられていたなと思ったが、年を重ねた大人の純愛を素敵に演じられたラストカットも印象的であった。
今回、経歴や人となりにふれる中で、撮影後の秋に癌が見つかり、闘病の中、生涯現役を貫かれ、翌年に映画で受賞後、在宅で家族に見守られてご逝去との事で、切ないけれど、生き様も魅力的に感じた。
某作品で魅力を感じて、10年程、刺激や元気も貰えている若手俳優さんは、作品を通じて「伝えたい」気持ちも信念の一つで、最近も頼もしく感じている。
彼の作品やお役をこの先何年観届けられるかは長生き次第だが、公私素敵な出会いの中で、健やかに素敵な人生を全うされる事にふと思いを馳せた。
そして、いつか自分のシナリオ作品を演じてもらいたい夢もある。なかなか簡単な事ではないけれど、挑戦は忘れず、前を向こう。
庭にはケイトウが咲いていた。
買ってもらった三輪車に乗って庭で遊んでいると、私の後ろで声がする。振り向くと知らない女の人が男の子と並んで立っていた。二人とも笑顔だった。
父の知り合いが、愛媛から汽車に乗ってやって来たのだ、と母が言った。
男の子は優しい顔をしていた。身長もそれ程高いということもなかったが、喧嘩が強く、いつも大きな声でまわりを威圧していた。
近所の男の子達は、皆んなで男の子を囃し立てた。
「ノウ、ノウ、言わんかノウ」
男の子は言葉の語尾に「ノウ」という言葉をつける。たぶん方言だと思うが、私達には聞きなれない言葉だった。近所の男の子達にいじめられても、本人は、のほほんとした表情だった。
近所のお姉さんが、
「三輪車にアイツが乗っているよ。返してもらったら」と教えてくれた。
庭に置いていた三輪車が消えていたからだ。
男の子は、水着のパンツ一枚で三輪車にまたがっていた。小学生が小さな三輪車を必死で漕いでいるように見えた。
男の子が三輪車を降りると、
「お前だけ家に連れて行ってやる。他の奴には言うなよ」と、私に言う。
ついて行くと、家の敷地にある蔵に入った。蔵の中には二階に上がる階段があって、上から明るい光が差し込んでいた。二階に上がると、大きな窓から隣の庭の木の緑が窓一杯に見えた。その下で布団に寝ていた女の人が驚いて起き上がった。
「母ちゃん」と私に紹介する男の子。
「広い家だろ」と、辺りを見まわし自慢する。
私は男の子の横に座って話を聞いた。
布団の中で母親がくすりと笑う。
私には蔵のイメージは良くない。父に叱られた時に、何度も蔵に閉じ込められた経験があるからだ。それ以来、蔵は避けていたが、こんなに明るい、人が住める場所だとは思わなかった。
数日たったある日、私は両親と一緒に病院へ行く。
廊下を歩いていると男の子の泣き声が響いてきた。病室から男の子の母親がベッドに横たわっている姿が見える。その傍らで女性と男性が二人、男の子の横に立っている。
「施設の人だ」という両親の声がした。
泣きじゃくる男の子を元気づけるように、
「早く治すから待っていて」という母親も涙声だった。
施設の二人は男の子を連れて私達がいる廊下に出た。
涙を拭きながら歩いて行く男の子。
両親と私は、男の子の後ろ姿を静かに見送った。
ベッドサイドまで近づくと、叔父はようやく私だと分かったようでした。
口を覆っていた酸素マスクを外し、
「おお、来てくれたんか。俺のことなんか気いつかわんでもよかったのに」
と声に力がありません。
数年ぶりに会った叔父は見る影もなく弱っていました。
離婚して旧姓に戻った母には五人の兄弟がいました。上から長女、次女(母)、長男、次男、三男です。母は昭和八年生まれで末っ子の三男は昭和二十年生まれで一回り離れています。兄弟とはいえ叔父たちのキャラクターは三人三様でした。長男は四角四面の真面目人間、大学を卒業後、大阪中央郵便局に就職し、特定郵便局の局長に転じて定年まで勤め上げました。気質はゲルマン系、つまらないおふざけを前でしようものなら、鼻で笑われます。長男としてのプライドが高く、兄弟で意見が違ってもたいていゲルマン叔父の意見が尊重されます。
次男は商業高校卒業後すし職人として修業し、若くして自分の店を持ちました。最盛期にはキタとミナミに計五店を出し、娘ふたりにも婿を取って支店を任せました。機を見るに敏、ここ一番の勝負にも強い完全無欠の商売人。例えるならユダヤ系でしょう。
さて、三男は典型的なおとんぼでした。明日のことは今日考えなくてもどうにかなるさ、と楽天的。裏を返せば計画性には欠けています。兄弟の中では一番ハンサムでよくもてたようです。加えて人懐っこくて明るい性格、私は心の中でラテン系に分類していました。独身時代には、母の出戻った祖父母の実家にもよくふらっと現れました。
「よっ! 元気にやってるか」と屈託ない笑顔。
「おまえはわが一族の遺伝子とは違うもん持ってるから頑張れよ」
と激励してくれました。
ラテン叔父との一番古い思い出は小学校低学年の頃、母と私を乗せてドライブをしたときのこと。車は友人からの借り物、夜の阪神高速を端から端まであてどなく疾走しました。行き先を決めずに走り出す彼の本質は今から思えばあのドライブに現れていたかもしれません。
ラテン叔父はその後結婚し、実家の近くにスナック兼喫茶店をオープンしました。土曜日の午後、小学校から帰った足で店に行き、山と積んである少年サンデーやマガジンを読みます。昼食には叔父お手製のピラフ。食べ終わってからもけっこう長時間、店の隅で漫画を読みふけっていました。今から思えば、母親が仕事で留守がちだったので、私のために居場所を作ってくれていたのでしょう。そんな優しいところがありました。
叔父の世代はマガジン連載の「あしたのジョー」がど真ん中。叩きのめされても戦い続けるジョーの生きざまにあこがれていたかもしれません。しかし思ったとおりまっすぐ進んでも商売はうまくいくとは限りません。スナックの経営は行き詰まりました。
母は末の弟にはシンパシーを感じていたのですが、彼が失敗するたびに、
「あの子はデカダンなことばっかりしてるから」
と嘆息しました。母の言うデカダンは享楽的という意味合いでしょう。遊び好きで、どうしても兄たちのように仕事一筋にはなれなかったのです。店をつぶしてからは大学の学食で雇われ仕事をしていました。
私が大学に入学したころラテン叔父は転機を迎えました。多くの店舗を展開し盤石のユダヤ叔父に頭を下げて援助を受け、またもや実家の近くにこぢんまりしたすし店を開店しました。それまですしの修行はしたことがなく、職人さんを雇って自分は裏方に回るという変則的な形でのスタートでした。すしを握らなくても、仕入れや下ごしらえなどやるべき仕事は山ほどあります。母親と一緒に行くと、白の割烹着姿に照れくさそうな笑顔でお茶を運ぶ叔父の姿がありました。
私は叔父に礼を言いました。大学入学の祝いはどの親戚もお金か図書券でしたが、この叔父だけは鮮やかなブルーのスーツをプレゼントしてくれました。それもわざわざ紳士服専門店に仕立てに連れて行ってくれたのです。スーツが完成するとそれを着せて、飲みに連れて行ってくれました。
固定客もついて店の経営が軌道に乗ると、母の言うデカダンなところが顔を見せ始めました。女性問題で家庭が崩壊し、店の二階で寝泊まりするようになりました。ついで酒やギャンブルにうつつを抜かすようになり、経営は傾いていきました。
すし店の命はネタの質です。母は近所の人から、
「弟さん、スーパーでマグロのさくを買ってはったよ」
と聞かされ、あまりの手抜きぶりに絶句したそうです。お目付け役だったユダヤ叔父もたびたび運転資金の無心をされて、とうとう愛想をつかしてしまいました。ゲルマン叔父は弟が苦境に陥っても、「アリとキリギリス」の教訓をもとに説教を垂れこそすれ金を出すとは思えません。
ラテン叔父は万策尽きてすし店をたたみ、行方知れずとなりました。祖父母も亡くなり、一人暮らしとなった母は、彼がそのうち実家に転がり込んでくるのではないかと恐れていました。その一方で不肖の弟の自堕落ぶりをけなしつつも、優しすぎるところが仇になった、とどこか擁護するのです。
「相当困っているだろうから、あんたに金貸して、と言うてくるかもしれんよ」
といらぬ心配までします。私としては、もしそんな電話があったらそれまでの恩に報いるつもりでいました。ラテン叔父の世間的な評価は、何事もなしえなかった落伍者かもしれません。しかし、スポーツの世界にも記録に残らないが記憶に残る選手がいるように、周りの人の心に残る人生はそれだけで魅力的だと思うのです。
音沙汰ないまま数年が経ち、大阪市内の病院に末期の肺がんで入院しているらしい、という情報が入りました。
「お前、こんなところに来たらまずいやろ」
医療職に就いた私への彼なりの気遣いなのです。大阪の病院には顔見知りも多いから、見舞いに来て顔がさすようなことがあっては困るだろうというのです。今の暮らしぶりなどはさすがに聞けませんでしたが、昔の思い出話になると表情が明るくなりました。
話しているうちに叔父と会うのもこれが最後になるだろう、と悟りました。帰り際に、
「退院したら、ぼくの知ってる店に飲みに行きましょう」
と半ば見え透いた励ましの言葉をかけました。
ラテン叔父は、
「楽しみにしてるわ」
といつか見た笑顔で答えました。
私が子供の頃に大切にしていたモノは、とんびの羽、鹿の角、蝉やへびの抜け殻、川で見つけた変わった石、昆虫などだった。これらは山奥の祖母の家に遊びに行った時にせっせと集めたモノ。私にとってとんでもなく素晴らしい宝物であった。が、母や姉、登下校を共にする近所のお姉さん、お兄さん、クラスメイトには気味悪がられ、全く理解をされなかった。こういう変なモノにばかりに興味が向いていた私は、美的センスが磨かれないまま成長してしまった。
年頃になり、そんな私に彼という存在ができた。奇跡だと思った。奇跡の彼は私にアクセサリーをプレゼントしてくれた。が、美的感度の低い私は、もらったアクセサリーを素敵と思えず困った。けれど彼と会う時には最大の感謝の気持ちを込め、毎回つけるように努力した。
努力は空回りし、もらったアクセサリーを引き立てる服の着こなしだとか、逆に服を引きたてるアクセサリーの付け方など全くできないおしゃれ下手なまま、奇跡の彼にふられた。ふられた理由は一つではないはずだが、キレイ・カワイイのセンスがない自分に、彼を引き付ける魅力がないからだと思って落ち込んだ。気持ちを吹っ切るために、もらった品は彼と撮った写真や、一緒に出掛けたコンサートのチケットの半券などと共に、全部捨てた。
月日は流れ、私は妥当な相手と結婚した。夫を姉に初めて合わせた日の晩、
「アンタ、あんなんでいいん?」
と、私の夫を「あんなん」と変なモノのように姉は言ったが、今では姉、夫、母、私の四人で年に一、二回、旅行に行く間柄である。
母は旅先で骨董品の店をのぞいては、あれは本物だ偽物だと言って楽しみ、質店で宝石を見ては、男女の別れの末に持ち込まれたダイヤだルビーだと、勝手にストーリーを語って楽しむ。私たちはその話に呆れたり、笑ったりしながらつきあうのがお決まりだ。
ある旅先でいつも通りそれらの店で楽しみ、さあ、質屋を出て何か美味しい店を探そうか、という段になって、母がカバンから何やら取り出し、
「これ、いくらくらい?」
と店員に査定を依頼した。見ると私が奇跡の彼からもらい、捨てたはずのアクセサリーだった。捨てたといっても家のゴミ箱だったので、どうやら母が後で拾ったらしい。姉や夫はそうとは知らず、
「何やってんの!」
「家からわざわざ持ってきたん?」
など言って大笑いしていたが、私は驚きと恥ずかしさ、怒りが同時に噴出しそうになっていた。なんとか早くこの場を切り抜けたい。そう思いはしてもどうにもできない。母はナニ喰わぬ顔をし、姉と夫はゲラゲラと笑っている。私は全く興味ございませんという顔して横を向くしかなかった。
やっと査定が終わり金額が提示された。
「あら、そんなもんにしかならないの?」
奇跡の彼からもらった品はたいした査定額が出ず、母はさっさとカバンにしまい、事情を知らない姉と夫とが店を出た。私も母への腹立たしさは持ちつつ、安堵した。その後は皆で美味しい食事をし、楽しく旅行を続けた。
この出来事は、私の貴重な想い出コレクションの一つとなり、奇跡のプレゼントは、母のアクセサリーコレクションの一つとして今も実家に存在している。
そろそろ梅雨入りの季節。今年の夏は暑くなりそうだ。そう思った矢先、携帯電話が鳴った。朝の散歩時間を早めませんかと、友人のみどりさんからのラインだった。私は即座に了解と送信した。
今日はその初日である。東の空は未だ明けていない。だからそっと家を抜け出す。思いのほか、外はひんやりとした冷気に包まれている。小雨が降っているわけでもないのに、しっとりと濡れている。
待ち合わせの場に、みどりさんは居なかった。確認するにも朝はまだ早すぎる。
音の消えたモノクロームな街。私は迷うことなく独り散歩を決行した。
近所の空き家がクズの葉で覆われている。いや、クズが屋敷を飲み込んだようだ。そっと下から覗いて見ると、洞窟のように奥へ奥へと丸く暗がりが続く。階段の左側と右側から、つるが伸び、互いの手を探しあてたかの如く、中央で固く結びこまれている。それは、まるで結界を創り、人の出入りを拒んでいるようだ。
まだこの家が元気だった頃、蒼いガラス窓が見えた。枝に止まる鳥の絵が彫られた窓。あの窓は、本当に洒落ていた。
数軒先の畑では蜜柑の木がぽつんと一本残されている。黒い木に、黒い蜜柑が墨絵のようにぶら下がる。何年もここで沈黙していたのだろうか。
次ぎに私は、道の真ん中で二羽の鳩と出会った。それは眠っているのか死んでいるか、微動だにしない。だからそっと通り過ぎた。
今、私はどこかに迷い込んでいる。
見慣れたはずの風景が、どこか違う。
風のない坂道を見上げた。その道を右から左へと丸い物体がゆっくり移動する。ピンポン玉の半球だ。まるで手品のイリュージョンを見ているようだ。
奇妙でちょっと面白い。これは確かめずには、いられない。私は小走りに駆け上がった。だがそれは、つるんと禿げたおじさんの橙色の頭だった。頭しか確認できなかったが、火野正平さんの頭のように思え可笑しくなった。
この丘陵地帯は随分と開発された。時とともに様子は変わる。変わらないことなどは、数えるほどしかないだろう。
ふと、若くして亡くなった人が心に浮かんだ。この右折した先で待っているような錯覚がした。笑顔とカラッとした笑い声が聞こえて来そうで、私は、その方角にずんずんと進んだ。もちろんそこには誰もいなかった。
人生には、いろいろな事が起きる。良い事も嫌な事も悪い事も……。だがそれらはそんなに長くは続かなかった。そして、どんな日も一日として同じ日はなかった。明日はいつも少し違っていた。
丘陵地を登りきり、私は大きく深呼吸する。てっぺんからは、キラキラ眩しい太陽と家々が見渡せた。街もようやく目覚めたようだ。
そうだ。
朝ごはん、今朝は何をつくろうか。
熱々のごはんが炊き上がっているはずだ。塩おむすびを握ろう。おかずは、糠漬けが食べごろだ。ナスにキュウリに大根人参。それで充分、それが一番。
私は、もう一度ゆっくり大きく深呼吸した。奇妙な散歩だった。
目覚めていないのは、街だったのだろうか、それとも私だったのだろうか。明日、みどりさんと、もう一度確かめよう。
♪ 何にもない日おめでとう♪ ……と訳の分からない歌が頭をよぎった。
それから私は、塩おむすびだけを目指し、一気に一目散に坂を下っていった。
2022年9月15日 発行 初版
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