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この本はタチヨミ版です。
プロローグ
「カミラが帰ってこない」
二日前から行方知れずの娘をさがして、マリアナは町中を走りまわっていた。警察にも赴いてみたが、捜索願が受理されるには一か月半もかかる、と云われた。失踪者が多過ぎるからだ。市街地の至るところに失踪者捜索のビラが貼り出されていた。
「このメキシコで行方不明というのは死んだということさ」
そんな言葉も聞こえてくる。それでもマリアナは挫けることなく娘のカミラを必死でさがしていた。
一七歳になったばかりのカミラは、その美しい顔立ちが近所でも評判で、三つ年下の弟ビトの面倒をよく見る自慢の娘だった。シングルマザーであるマリアナの家計を助けるため、カミラは市街地からはずれたマキラドーラへ片道二時間かけて毎日働きに出ていた。マキラドーラとは、安い労働力を使って輸出製品を安価に生産するため保税輸出加工地区に建てられた工場のことだ。そこで一日働いて七〇ペソ(およそ四八〇円)ほど。家計の足しになるとはいえ、生活は決してらくではない。
しかし彼女が働く理由はそれだけではなかった。自分の弟にはきちんとした教育を身につけさせたい、という切実な思いがあった。スラム界隈の若者は、半数近くが学業および職に就いていない。そのほとんどがギャングの道へ進み、若くして命を落とす者が実に多かった。そういう人生だけは、弟には歩んでほしくない。そしてまた、貧困から抜け出すためには教養を身につけるしかない。そんな確固たる思いで遠くまで働きに出ていた。とはいえ、その通勤も危険と隣り合わせだった。
近年、この州を支配する麻薬カルテルは小さな町や村にまで支部をつくって影響力を拡大していた。カルテルは麻薬の製造密売の他に、武器密輸、みかじめ料、拉致身代金、性的人身売買など、二二種類にも及ぶ収益の手を広げていた。中でも高収益を見込めるのが性的人身売買であった。年頃の若い女性や少女をカルテルは有無を云わさず拉致するのだ。その最たる標的となったのは、郊外のスラムからバスを利用して通勤する女性、または乗り換えて徒歩で職場へ向かう女性である。
多分に漏れず、カミラが利用する通勤経路でも女性が失踪する事件が頻発していた。もしかしたら彼女も拉致されたのではないか、そんな声を耳にしたマリアナは愕然とする。
「まさか……」
あの子に限ってそんなことはないはずだ。そう自分に云い聞かせて神に無事を祈るが、娘を捜索する手立ては何もなかった。
わずかな光
メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家である。スペイン語を公用語とし、人口はおよそ一億三〇〇〇万人でスペイン語圏の国としては最多であった。
アメリカと隣接するこの国では、麻薬カルテルが膨れ上がっていく姿を警察も州政府も阻止することができないでいた。
麻薬(ドラッグ)カルテルとは、アメリカで便宜上つけられた名称であり、中南米諸国では麻薬密売人を総じて「ナルコ」といわれている。彼らは麻薬を製造、輸送、密売を包括的におこなう組織ではあるが、一枚岩の組織というわけではなく、各地域を支配する麻薬密売人の集合体といったところだ。
八〇年代にコロンビア麻薬カルテルの麻薬王が警察によって射殺されると、その勢力は急激に衰えて、密輸の中継地点であったメキシコにその権限が移行していった。
メキシコ国内において最初に麻薬カルテルのボスになったのはホンジュラス人であったが、雇われ運び屋だったメキシコ人たちがそのパイを掌握していった。やがてクリアカン出身の元警察官が麻薬王の座に就くと、プラサ・システムを確立して密輸が機能的にコントロールされていく。
プラサ(縄張り)とは、麻薬密輸のための特定ルートをさす。それぞれのプラサの支配者が輸送を手配し、他の密輸人がそのルートを通過する場合は手数料を払わせるのだ。すなわち、ボスというのはプラサの支配者であり、この支配者たちの上に立つ人物こそが麻薬王といわれ、ボスたちのボスにあたる。
こうして各プラサの支配者たちは仁義と秩序を保っていた。しかしその麻薬王が逮捕されると、秩序の均衡は崩れはじめる。小さな縄張り争いがやがて大きくなり、残虐を極める血で血を洗う麻薬戦争へと発展していった。
ビトは、姉の写真を片手にその行方をさがしていた。灼熱の太陽が容赦なく照りつける中、その細いからだで幹線道路をたどってひたすら歩いていく。道すがら出逢う人々に写真を見せては尋ねるが、だれもが首を振るばかりであった。
やがて道は未舗装になると、人も建物もまばらになっていく。果てしなくつづく青い空に送電線鉄塔が延びている。ビトは朝から飲まず食わずで、歩きつづけてきた。渇いた口の中で唾液を絞り出して飲み込む。
更地の真ん中で一台の車がぽつんと止まっていた。動く気配がない。ビトは車に近づくと、何が起きたのか、否応なしに悟ることになる。フロントガラスは粉々に割れて、運転席の男が口を開けたまま、のけ反った姿勢で絶命していた。そしてその胸元には銃弾を浴びて衣服も皮膚も裂け、乾いた血が黒くなっている。
ビトは運転席までやってくる。死体に群がるハエが羽音を立てながら旋回する。死体が無造作に転がっているのは、この界隈では珍しいことではない。車内を覗き込むと、後部座席にスナックとミネラルウォーターのボトルがあった。ドアを開けてそれらを掴み取り、ごくごくと喉を鳴らして水を流し込む。スナックの封は開いていて中はほとんどカスしか入っていなかったが、袋を高く持ち上げて口の中にカスを落としていく。これで少しは生き返った。
単調な道路をひたすら歩いていくと、やがて工場群の建物が見えてきた。古びたフェンスをたどって、出くわす人たちに姉の写真を見せて尋ねてみるが、ここでもみんな首を振るばかりだ。
広大な敷地の駐車場へやってきて、日陰を見つけて腰を下ろす。腹はすいたし、何よりも水が飲みたい。ビトは膝を抱えてじっと我慢していた。
作業員のフリオは、車の中におき忘れた煙草を取りにやってくる。すると坐ったまま、じっとしているビトの姿が目に入った。不審に思って彼に近づく。
「おい、坊主。ここで何しているんだ? こどもがくる場所じゃないぞ」
「姉さんをさがしているんだ」
「おまえの姉さんはここで働いているのか?」
「実は、帰ってこないんだ」
「姉さんのなまえは?」
「カミラ」
そう云ってポケットから写真を取り出してフリオに見せる。
「ふむ。見たことはないな……」
フリオがそう云うと、ビトは力なく写真をしまう。そして気だるそうにうなだれる。
「坊主、どこか具合でも悪いのか?」
「ううん」
「飯は食ったのか?」
「…………」
黙って首を振る。
「腹がへっているのか?」
「うん……」
ビトは頷く。ちょっと待ってろ、と云ってフリオは車へ向かう。朝早くから出勤するので、いつも車の中でパンを食べていた。その残りがあったのだ。そして工場内の自動販売機からミネラルウォーターを買って、それらをビトに与える。
「それを食べたら、うちに帰るんだぞ」
そう云い残してフリオは工場の中へ入っていった。
「似ている気がするわ」
その中年女性はカミラの写真を見て云った。
「たしかにこのひとだったの?」
「でも、あっという間に車で連れ去られていったから……」
「どんな連中が車に乗っていたか、憶えている?」
「ナルコか、もしくはギャングか、連中しかいないわ」
「場所はどこ?」
「アリータ通りのバス停のところよ」
カミラがよく利用していたバス停だ。
「警察には伝えた?」
「そんなことが知れたら、仕返しが怖いわ」
その連れ去られた女性が、カミラかもしれない、そう考えるだけで、ビトは全身の血の気が引いて息苦しくなる。
夕暮れどき、作業員たちが工場から吐き出されていく。だれもがくたくたに疲れていた。一四時間におよぶ勤務でも低賃金であるがゆえ、生活していくのがやっとだ。組合がいくら声を上げても労働条件は悪くなる一方である。真面目に労働しても貧乏から抜け出せないのなら、と麻薬ビジネスに手を染めてしまう。そんな実情もあった。
フリオは外に出て煙草に火をつけると、うまそうに一服する。すると視線の先にビトの姿がある。がっくりとうなだれて坐っていた。フリオは彼のもとへいく。
「坊主、まだいたのか」
「…………」
見上げた彼の目は赤く泣き腫らしていた。
「もう遅いから家まで送ってやろう」
そう云ってフリオは車へうながす。
すっかり日が暮れて、ヘッドライトが通り過ぎる窓の外をビトは黙って見ていた。運転席のフリオは、ちらりと彼の横顔を見やる。
「お姉さんの手掛かりは何かあったかい?」
「きっと、姉さんはナルコに攫われた……」
ビトがぼそっと呟く。
「そんなこと云うなよ」
拉致は、無事ではないことを意味していた。
「連れ去られるのを見たって云うひとがいたんだ」
「でも、本人と決まったわけじゃないだろ」
「畜生。どうしたらいいんだ……」
ビトは頭を抱える。
「とにかく、警察に……」
「警察なんて何もしてくれない。何度、母さんが助けを求めても捜索すらしてくれない」
「たしかにそうだな、警察はあてにならんな……。正義なんて言葉は、とっくのむかしにどこかいっちまった」
「ぼくがギャングになるしかないのか……」
「馬鹿なことを云っちゃいかん。きょうだって、よく無事でいれたものさ。連中は、おまえさんのようなこどもを攫って暴力で服従させるんだぞ。そうやって組織の殺し屋に仕立て上げるんだ。そんなことをしたら、まともに長生きなんてできやしない」
「…………」
ビトはしくしく泣いている。嗚咽を押し殺して小刻みに肩を震わせる彼の姿が、フリオは不憫でならなかった。
「実はな、おじさんも二年まえに弟を亡くしているんだ。ただ、あいつは自分から麻薬ビジネスにとび込んで殺されちまったんだがな」
「…………」
「だから、おまえさんの気持ちはわかる。ただな、暴力は何も生まない。その連鎖が永遠につづくだけなんだ」
「でも、カミラをどうしても助けてやりたいよ」
「そうだな……」
捜索というものが真相に近づくほど、何者かによる脅迫が待っている。政府関係者、役人、軍隊、連邦警察、地元警察に至るまで、カルテルに取り込まれている者が少なからずいるのだ。するとだれも手出しができない。
「どうしたらいいんだ……」
ビトはむせび泣く。有志の自警団や人権団体など、正義ある人々もいる。が、カルテルの圧倒的な力の前にその正義は無力に等しい。
「おじさんも死んだ弟から聞いた話だがな──」
フリオはそう云ってつづける。
「西海岸の街で、凶暴なギャング組織のデモニオ・エルマノをひとりでやっつけた男がいたそうだ」
「…………」
「その男は凄腕のシカリオ(暗殺者)でな。連中を皆殺しにしちまった」
「皆殺し……?」
ビトは顔を上げる。
「ああ、そうだ。ひとり残らず。その男の暗号名は、ゲッコー、と呼ばれる日系人、もしくは日本人らしい」
「そのひとはどこに?」
「さあな。アメリカにいるとか聞いたが……」
こんな話をしたところで慰めにもなりはしない、とフリオは自戒する。
「…………」
「…………」
「そのひとなら……」
「うむ?」
「そのひとなら、カミラを助けることができるかも……」
ビトの心にわずかな光が射し込んだ。
「まあ、な。しかし、そのシカリオがどこにいるかさえ……」
「でも、さがしてみる価値はあるだろ?」
「ああ、そうだな……」
無責任な希望を与えてしまった。だが、そんな砂粒を掴むような期待でも、この少年にとってはそれでいいのかもしれない。フリオはそう思うようにした。
密航者
夜が明けると、反対するマリアナを押し切って家をとび出し、ビトは決意の足取りで一路アメリカを目指す。しかしポケットにはわずかな小遣いだけで、パスポートは当然持ち合わせていない。なんとしてもゲッコーという男を見つけ出して姉の救出を依頼するという志だけだった。
近所の人に頼み込んで車に乗せてもらう。車窓から見える風景は寂れたスラムから賑やかな市街地へと移り変わっていく。ビトの大きな瞳はそれらをじっと見詰めていた。
一三〇万人が暮らすこの美しい街はすべてが機能していて、一見すると平穏な日常が流れている。しかし麻薬犯罪に関わる犠牲者は、過去三年間で計七三八六人にもおよんで右肩上がりである。犠牲者のほとんどはナルコやギャングであったが、警察官や軍人も頻繁に標的にされていた。
ある朝、幹線道路に頭部のない死体が括りつけられた状態で発見された。また、頭部のみがいくつも道路にならべられていた事件もあった。いずれも、死体のそばには「ナルコマンタ」といわれる布地シーツに書かれたメッセージがある。それは敵対する者同士で残虐に見せしめて権威を誇示しているのだ。
白昼の路上では、およそ二〇分にわたる銃撃戦が繰り広げられ、五人の警察官が四三七発の銃弾を浴びて命を落としていた。
新しく就任してきた警察署長は、カルテルと戦うことを声高らかに会見で宣言する。しかしその六時間後に建物から出てきたところを無数の銃弾を浴びて絶命してしまう。
一方で、連邦警察および地元警察によるカルテルとの癒着もある。警察官たちはだれが味方なのか、わからない状態だった。また、だれかを逮捕できたとしても、結果的に敵対するカルテルを手助けしたことになり、自身の命が危険に晒されるのだ。
民間人が巻き込まれる事件も起きている。若者たちがガーデンパーティーに興じているところに覆面をした何者かが無差別に銃撃し、少なくとも一四人が命を落としている。
この国では、殺人事件が発生しても九割は逮捕されない現実がある。また逮捕されたところで死刑制度もなく、数年の服役で刑務所から出てくる。一八歳以下の犯罪に関しては、五年程度の服役で済んでしまう。こうした背景からカルテルは若いギャング団を積極的に吸収して利用していた。
車はリオグランデ川につづく四五号線までたどり着く。すると遥か先の国境検問所へと延びる車の大渋滞ができていた。ビトは礼を云って車を降りる。陽射しが容赦なく降り注いで、毛穴からじわりと汗が噴き出してくる。まだまだ姿形すら見えない国境検問所へ向かって一歩を踏み出す。
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年9月20日 発行 初版
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1975年東京都生まれ。
都立高等学校卒業後、監督を目指して自主映画を制作。のちにハリウッド映画にも参加。また日本でも映画、テレビ、CMなどにちょっぴり出演。米国で生活した経験を活かして作品を執筆。本書の他に『童顔の暗殺者』、『香りたつコーヒーは恋の味わい』、『モンドラーゴの神』。