
この本はタチヨミ版です。
装画・イラスト 香月 優希
1
ダムスの街の中央街道は、立ち並ぶ店々と、そこに買い物に来る客で賑わっていた。久々に快晴の今日は、いつになく人が多い。
そんな活気溢れる道中を、旅人用のザックを背負った一人の男が、その肩に更に大きな荷物を担いで歩いて行く。
男は長い銀髪を左側に無造作に束ね、肩から背に纏っている鮮やかな赤いマントが、歩く足取りに合わせて緩やかに揺れる。腰には、やや大きめの中剣。長身だが、大男という感じではない。端正な目鼻立ちは銀の髪とよく合っていて、青い瞳は、深い海のような穏やかな光を湛えていた。
普段は柔和であろう雰囲気の彼にしては、少し緊迫した表情だ。大きな荷物のわりには、足取りはどことなく速く、微かな焦りも見える。
それもそのはずだろう。彼が担いでいるのは人間だった。担がれている黒髪の──まだ少年とも言えそうな青年は、完全に意識を失っていて、その顔は憔悴の色が濃い。彼を包んでいる濃茶のマントも、色合いで分かりにくいだけで、血の染みでひどく汚れていた。生きているのか疑いたくなるような状態だ。
男が街道を真っ直ぐ進むと、やがて右手に宿屋が見えた。そのままの足取りで、そこに入って行く。
こじんまりとした受付には、十四、五歳くらいの少女がいた。明るい茶色の髪を左右に分け、赤い紐を混ぜて、丁寧に編み込んでいる。宿屋の主人の娘だろうか。
彼女は入ってきた客人に気づくと、すぐに駆け寄ってきた。
「どうなさったんですか?」
銀髪の客人の肩に担がれて昏々と眠る青年を見て、少女は心配そうに聞いた。
「この街に来る道中で、ぶっ倒れていてな。まだ生きているんで連れて来たんだが、ひどく弱っている。部屋はあるか?」
「ええ、すぐに用意します」
慌てずに、少女はしっかり答え、空いていた奥の部屋へ二人を通した。
「どうぞ、こちらのベッドに寝かせてあげて下さい。お医者様をお呼びしましょうか?」
「ああ、怪我もしてるんで、そうしてくれると有り難い」
「すぐ近くに住んでいらっしゃるんで、行ってきます」
言い終わると、少女はすぐに部屋を出て行った。
男は、とりあえず青年をベッドに下ろし、ほっと一息ついた。それから自分も荷を下ろして、ベッドの脇の椅子に腰掛ける。大きく腕を伸ばしてから、体の節々を解した。
「我ながら、とんだお荷物を拾ったもんだ」
息があることを知って、思わず担いでしまってから、半日ほどかけてここに辿り着いたのだ。しかし、十代半ばを少し過ぎていそうな青年は、思ったよりも重たかった。おかげで通常よりも倍ほどの時間を要した。
<ま、ある程度回復するまでは、付いていてやるか。このまま見捨てるわけにもいかないからな>
ベッドの上で全く目覚める気配のない青年を見て、男──イルギネスは小さく溜め息をついた。
やがて、太陽がゆっくりと角度を落とし、市場のざわめきが落ち着き出すと、酒場から漏れる灯りが道を照らし出した。
空は濃い青に変わり、街に夜が訪れる。
星が降りしきる夜空の下、黒髪の青年は眠り続けていた。意識はまだ遠くにあって、夢すら見ている様子はなかったが、その顔には少しずつ、血の気が戻ってきていた。あちこち切り裂かれて血糊が張り付いた衣服を脱がし、身体と顔を拭いてやるまで分からなかったが、こう見るとまだあどけない、小綺麗な顔をしている。
<峠は越えたみたいだな>
イルギネスは医者が帰ってからも、しばらくその傍にいたが、やがて安心したように立ち上がると、酒場へ繰り出した。予想外の事態ですっかり忘れていたが、喉も潤したいし、腹も減っている。

2
──明るい。
おぼろげに、白い何かが見える。何度か瞬きをすると、どうやら部屋にいるらしいことに気づいた。見えているのは天井だ。
<……なんだ?>
啼義はしばらく、天井を見つめて考えた。状況が把握できない。ただ、ここが自分の住み慣れた部屋でないことだけは分かった。空気も、なんだか暖かいような……
<どうなってるんだ?>
起き上がろうとして全身が硬く軋み、啼義は思わず顔をしかめた。その瞬間、思い出す。
「そうだ……ダリュスカイン!」
しかし、辺りにそんな気配は全くないどころか、窓の外からは、穏やかな鳥の鳴き声が聞こえてくるだけだ。自分は一体、どうしてしまったのだろう。戦っていたはずだ。地面に滴った自分の血──そして、目が眩むほどの光。
「……──靂」
その名が口をついて出た途端、胸の奥が震えた。いない。ここに、いるはずもない。
「どこだよ……ここ……」
呟いた時、扉の向こうで音がした気がした。誰かが来る気配──全身に緊張が走る。
<何か、武器を>
気力を振り絞って上体を起こした啼義は、すぐ横の小さなテーブルに果物ナイフを見つけ、慎重に構えた。
イルギネスは買い出しを済ませ、宿屋に戻ってきていた。出掛ける前、青年はまだ眠っていたが、顔色もだいぶ良かったし、そろそろ目を覚ましそうな気もする。どういう事情か全く分からないが、とにかく元気になってもらわなければ。置いて立ち去るわけにもいかない。
「お帰りなさいませ」
受付の少女が、読んでいた本から顔を上げる。入ってきたのがイルギネスと分かって、自然とその顔がほころんだ。彼の端正な顔立ちは、大体において──特に異性には好感度が高い。
「ああ。まだ、変化はなさそうか?」
「今のところは……」
「そうか」
奥の部屋に着いて荷物を抱え直し、扉を開けたその瞬間だった。
「動くな!」
ドシッ!──と。
ナイフが飛んできて、顔すれすれの壁に突き立った。イルギネスは驚いて声の主を見る。
ベッドの上で、ナイフを投げた姿勢のまま鋭い眼差しを自分に向けているのは、瀕死で拾ったはずの青年だった。
「あんた、何者だ?」
抑えた声で、彼はイルギネスに尋ねる。あどけない寝顔からは想像もできない凄味に感心しつつ、イルギネスは不思議な既視感に囚われていた。
<この眼差し……どこかで──>
記憶を探っていると、
「誰だって聞いてるんだ!」
今度は、先ほどまで眠っていたとは思えない、張りのある声が響いた。
「俺はイルギネス。お前の命の恩人さ」
「は?」
あっさり答えすぎたのか、今度は青年の方が狼狽えた。
「お前こそ、名前は?」
だが、彼は答えない。射るような目でイルギネスを見つめ、口を固く閉じている。
「どうでもいいが、いきなりこんな物投げるなよな。危ないだろ」
しょうがねえな、という顔でナイフを引き抜くと、攻撃されると思ったのか、青年が起き上がろうとしたので、イルギネスは慌てて止めた。
「待て待て。そこから出るんじゃない。自分の格好をよく見てみろ」
「──え?」
そこで初めて、彼は自分が、包帯以外ほとんど何も身に纏っていないことに気づいたようだった。
「着ていた服が、あまりにひどい状態だったんでな。適当に買ってきた。ほら」
袋ごと軽く放り投げると、青年はベッドの上でそれを上手く受け取った。少し赤面している様子には、やはりまだ、わずかに少年のような雰囲気もある。
「名前くらい、教えてくれないか?」
彼は少しの間、探るように袋とイルギネスを見比べていたが、やがて答えた。
「……啼義」
「啼義か。ふむ。年は?」
「……十七」
素直に答えてしまうこの雰囲気は、なんなのか。
「そうか、十七か。若いな。俺より九つも下か」
イルギネスはそう言うと、啼義の戸惑いなど全く気にしていない様子で、「よし。とりあえず、目が覚めて良かったよ」と大らかに笑った。
3
「お、ちょうど良さそうだな」
部屋に戻って来たイルギネスは、ひと通り身だしなみを整えてベッドに戻っている啼義を見て、前の椅子に腰掛けると、満足そうに言った。
「……うん。まあ……」
言われた本人は、どうもしっくりこいない様子だ。上体を起こしてはいるが、まだ本調子とは言えない。この場の雰囲気が慣れた空気と違うことも、彼を困惑させていた。日が出ているせいもあるだろうが、秋らしい気配のあった羅沙の地域とは違う、長袖を着るには些か暑いくらいの気候。
「ここは、どこなんだ?」
思わず尋ねていた。先ほど啼義が投げた果物ナイフで、テーブルの上にあった林檎の皮を剥き始めていたイルギネスは、「ああ、そっか」と呟き、手を止めずにこう続けた。
「ダムスの街だ。俺は、もう少し北の方からここを目指して南下してきてたんだが、途中、お前がぶっ倒れてたんで、担いできたわけさ」
「は?」
啼義は驚いた。街の名前に覚えがないのはもちろん、さらっと言ってのけたが、倒れていたから担いでここまで来た、だと? 旅の荷物もありながら、人一人担いで歩くのには、相当の労力を要したことだろう。
「全く……覚えていない」
イルギネスは「そりゃそうだろう」と笑った。
「死んでるのかってくらいの昏睡状態だったからな。それにしても重かった。お前、見た目より筋肉質なんだな」
言われて、啼義はまた赤面した。自分はこの男に、初対面からどんな姿を晒したのか。
「ははは。まあ気にするな」イルギネスは人好きのする笑顔で言ったあと、「ところで」とふと神妙な表情になって、啼義を見つめる。啼義も、イルギネスを見つめ返した。今まで出会ったことのない、深い青の瞳──
「魔物にでも襲われたのか? 茂みの中なんかに倒れこんで、運が悪けりゃ、誰にも発見されずに逝ってたかも知れんぞ」
心配したんだぞ、という感情がその目に浮かんでいる。啼義は、また胸の奥が震えるのを感じた。自分の最後の記憶と今の状況が、あまりにかけ離れていて、どこまでが本当だったのだろうという思いに駆られる。
「……うん」やっとそれだけ答えた。
「他に、仲間とか……家族は? 一人でいたのか?」
「……」
言葉に詰まり、啼義は俯いた。
「いや、いい。今はとにかく、回復することを考えよう」
イルギネスは柔らかく微笑んだ。思えばこの男は、先ほど自分にナイフを投げられたというのに、まるで気にしていないのだろうか。
「なんで……助けてくれたんだ?」
「え?」
「その……得体も知れないのに……放っておこうって、思わなかったのか?」
啼義の問いに、イルギネスは手を止めて不思議そうな顔をした。
「そりゃあお前、生きてるのを見つけちまったからには、見捨てて行けんだろう。旅は道連れってやつさ」
そして、屈託のない笑顔で言った。
「大丈夫だよ。獲って食ったりしないから」
「そ、そういう心配は……してねえけどっ」啼義は慌てた。自然に、信用を宣言しているような流れになっている。
「まあ、思ったより怪我の治りが早いみたいで安心したよ。拾った時は、かなりズタボロに見えたからさ」
「──」
治りが早い、の言葉に、無意識に身体が強ばった。今も全身のあちこちが痛むが、見る限り致命傷なほどのものはない。あれだけ出血していたのに。いや、思い違いだったのだろうか。
その時、鼻を突く匂いに気づき顔を上げると、自分の足先の向こう、部屋の隅に置いてある黒っぽい塊が目に入った。
<あれは>
間違いない。かつて自分が身につけていた装備品だ。それは確かに、血と泥に塗れて、正視するのを躊躇うような猟奇的な状態だった。
<夢じゃ……ねえんだ>
背中を、冷たいものが走った。やはり、あの戦いは現実だったのだ。どうしてか分からないが、とにかく自分は一命を取り留め、今ここにいる──たった独りで。
「ああ、とりあえずさ。無断で捨てるのも悪いと思って。服はもう無理だが、肩当てとか剣とかは、汚れも落ちたし、大丈夫そうだぜ」
イルギネスが言った。啼義は黙って、イルギネスに視線を戻す。あれを身につけていた自分を、何の躊躇もなく担ぎ上げてきたのか。普通は厄介ごとに巻き込まれることを恐れて、放置しておくのが妥当と思うところだ。この銀髪の男──見た目は柔和だが、存外、肝が据わっているのかも知れない。それとも、少し感覚がずれているのか。そんなことを考えていると、イルギネスが口を開いた。
「お前、行くあては?」
タチヨミ版はここまでとなります。
2025年1月14日 発行 第五版 /2023年1月7日 初版
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ファンタジーが好きで、現在は長編ハイファンタジー小説『風は遠き地に』を執筆中です。