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この本はタチヨミ版です。
「……退屈」
ゆかりは小さな声で呟いた。
「つまんない」
もう一言。
こぼれてくるのは愚痴ばかりだ。でもきっとこの声は、誰にも届かない。向こうの自室にいるママにだって。
ずっとベッドの上で寝てばかり。たまに起きても屋内だけ。家から出ることは許されていない。ゆかりは本当にそれだけの生活を送っている。
きっとこの程度の、誰にも届かない苛立ちを声に出して表明するくらいのことは、ゆかりにだって許されてもいいはずだ。
「……」
清潔に整えられた部屋に視線をめぐらせながら、ゆかりは口をつぐんだ。
少女らしいきれいな部屋。いつもママにきちんと掃除されて埃ひとつない。
本棚には背丈も揃って背表紙の色ごとに整理された小説が並び、学習机の上も教科書やノート、筆記用具がぴたりと並んでいる。カーテンの襞もみんな同じ幅で揃っている。
このベッドにコミックや少女雑誌を雑に開いて置いてみたら。床に靴下を脱ぎ散らかしてみたら。それはどんな気分がするものなのだろう。
そう考えて、思わずゆかりは少しだけ涙ぐんだ。
きっと、もっとこの部屋が生き生きとして見えるんじゃないだろうか。元気で活発な女の子の部屋に見えるんじゃないだろうか。
だってゆかりは、三年前まで、本当にそんな女の子だったのだから。
そのとき、なぁん。と甘えるように、部屋の片隅のふわふわの寝床でパワーが鳴いた。
「……おいで」
声をかけると嬉しそうに胸の上にぽんと乗ってくる軽やかで小さな体。可愛いパワー。柔らかなトーンの声で鳴くけれど、実はかなり活発に動きまわる、元気な猫の女の子。
何を言ってもおとなしくただ聞いてくれる。一緒に寝ていて足や手が当たっても怒ったりせずに、どうしたの? と言わんばかりにそこを舐めてくれる優しい子。
今もきっと、ゆかりの憂鬱を感じ取って慰めてくれようとしているのだろう。
自分の胸元でくるりと丸まったその白い背を、ゆかりは撫でた。
温かく柔らかなその感触に、心の暗い雲が少しだけ晴れてゆく。おそらくこの雲がきれいに無くなる日はもう来ないのだろうけれど、それでもパワーという存在は、今のゆかりにとってかけがえのないものであることは確かだった。
「……」
ゆっくりと柔らかな毛を撫でつづけるゆかりの手は白く、血色が悪い。太陽に当たらない生活をもうずっと続けているからだ。
ゆかりは、不治の病にその身を侵されていた。
それが判明したきっかけは、本当に些細なことだった。
中学三年生で、間近に高校受験を迎えた秋口の頃。体育祭も終わってほっと一息ついたある日の朝、ゆかりは熱を出した。
今でも覚えている。ほんの三十七・六℃の微熱と関節痛。普段ならそのまま登校してしまうくらいの発熱だったけれど、体育祭で活躍した後で疲労もあるのでしょうと、ママは学校を休ませて近所のクリニックに連れていってくれた。
最初におりた診断は風邪だった。いつも優しいお医者さんも、ママと同じく疲れが出たのでしょうと話して、数日ゆっくりお休みすれば治りますよと言ってくれたのだ。
けれど、ゆかりの熱はそこから下がらなかった。
数日どころか一週間を超えて続く発熱。夜にはさらに二℃は高くなり、これはおかしいと思い始めて再診したときには、お医者さんも厳しい顔になって精密検査を受けるようにと大学病院に紹介状を書いてくれたのだった。
その頃にはもう、続く発熱と体調不良で食欲も無くなり、皮膚にも湿疹が出るようになっていた。心配してその日は会社も休んだパパまでもがママと一緒にゆかりの体を支えながら大学病院に連れていってくれて。そして。
「……」
ゆかりはぐっと唇を噛んだ。
血液検査。抗体。肝機能。国の指定難病。全身症状を伴う炎症性疾患。不治。
それまで聞いたこともないような言葉が勢いよく流れこみ、ゆかりの中に渦を巻いて溢れた。ママは泣いた。パパは難しい顔をして黙り込んでいた。
そして、ゆかりは――
ゆかりはそのとき、自分の身に起きたことを実感もできず、ただ呆然とするだけだった。
そしてその時から、角田ゆかりという名前の少女は、それまでとはまったく別の人間になったかのような生活をすることになった。
ただ、不幸中の幸いというべきか。
罹ったのは、すぐさま生命の危機を迎えてしまうというような病ではなかった。
まだ特効薬と呼べるようなものはないにせよ、定期的な通院と、対症療法としての投薬と、安静。感染症を極度に避けて生活していれば、寛解してある程度までは日常生活に戻ることも可能という説明もあった。
だから、希望はまだあった。
大学病院ではそのまま検査入院をして状態を確認し、その後は自宅療養。体調が落ち着いたところで一年か二年先へとのばした高校受験をして、学生生活に戻る。
そんな単純な青写真を描いていたゆかりとその家族は、しかし、その想定があまりにも甘いものだったことをすぐに思い知らされることになった。
ゆかりの病は、検査入院の結果、すでに多臓器に及んでいたことが明らかになったのだ。
あとは、もう、可能な限り進行を遅らせるしかないのだと。
沈痛な表情でそう語る担当医の顔に、両親もゆかりもただ無言になるしかなかった。
必要な薬は。自宅での看護の方法は。たくさんの書類を読み、サインして、説明を受けて。手渡されたその病気についてのパンフレットにわけもわからないまま目を通して。
一連の作業が終わったその夜、たった独りの病室で、ゆかりは声もなく泣いた。
病気が明らかになってから初めての涙だった。
そして退院は早かった。
病院にいてもこれ以上できる治療は無いのだということが、すぐにわかったからだった。
自宅で安静にしつつ、何かの症状が出たときにはすぐに病院に連絡するようにと。そう話す医師に礼を告げて、そしてゆかりは両親とともに自宅に帰った。
ゆかりの部屋は、掃除がされているだけで、それまでとまったく変わっていなかった。
「……ただいま」
ぽつりとそう告げてみたものの、それでもゆかりの目には、その部屋はまるで見たこともない誰かの部屋のように感じた。
荷物を置き、シャワーを浴びて、着替えて、自分のベッドに横たわって。
そしてその瞬間から、ゆかりの戦う相手のない闘病生活は始まったのだった。
パパもママも、一人娘のゆかりのことをとても気遣ってくれた。食事も生活もすべての面でサポートできるよう、病気のことを調べ、学んで、良いようにと実行してくれた。
それでも、自分にはもう夢見られる未来は無いのだということを思い知らされたゆかりにとって、両親の行動はすべて無駄なものに思えた。他に頼れる相手などいないのだけれど、いっそ放り捨てておいてくれとさえ思った。
小中学校時代の友達や先生も退院を知ってお見舞いにと来てくれたけれど、ゆかりは気の利いた反応もできなかった。暗く陰鬱な気分であることを気遣ったのか、足を向けてくれる人は一人減り、二人減りして、最後にはずっと仲の良かった友岡益美だけになってしまった。そしてその足も、いつしか途絶えた。
その頃にはもう、ゆかりは、ただ空しいと思うだけになっていた。
数年後には病で失うことになる自分の命のことそのものよりも、優しい両親のもとに生まれたのに、二人に何を返すこともできないまま死んでしまうのであろう自分という存在が空しくて苦しくて。両親の手をこれ以上煩わせることになるのなら、いっそもう自分の手ですべて終わらせてしまいたいと思うこともあった。
そんな風に自暴自棄になるゆかりのもとに、ある晴れた日の午後、その贈り物はなんの前触れもなく届いたのだった。
仔猫。小さな猫の女の子。
タオルを敷いた箱の中、小さな白い、温かい命。
「パパ?」
「相談したら、医師からも大丈夫だと言ってもらえたよ」
長く続く自宅療養で、気鬱になる患者さんも多い。無理をして世話をすることになってはいけないけれど、慰めになる存在があるのは心強いと思います、と。
「知人のところで先日、仔猫が生まれた話を聞いてね。世話はパパとママもするけど」
「……可愛い」
「そうだね。とっても可愛い。――ゆかりの友達になってくれれば嬉しいと思ったんだ」
ゆかりはじっと箱の中の存在を見つめた。
そのとき、もぞりと白い塊が動いて、にぃ、と小さな声で短く鳴いた。
おそるおそる差し出してその頬のあたりを撫でたゆかりの指を、仔猫はちろりと舐めた。
「……」
もう、目が離せなかった。胸の中の奥深くから、熱い感情がこみあげた。
小さなこの存在が、その命が、なぜか一目見た瞬間からたまらなく愛おしかった。
「……この子、飼いたい。一緒にいたい」
「じゃあ、名前をつけてあげないとな」
ゆかりはほとんど考えることなく、頭に浮かんできた言葉を告げた。
「パワー」
「パワー?」
「こんなに小さいのに、なんだかこの子、力強い感じがして。命の……塊みたいだから」
仔猫をずっと見つめているゆかりの瞳に何かを感じとったのか、パパはそのとき、大きな力強い手のひらでゆかりのまっすぐな黒髪を撫でて、その目をぐっと細めて嬉しそうに言った。
「いい名前だね」
ゆかりは、逸らすことなくまっすぐな視線を仔猫に向けたまま、こくりと頷いた。
その日から、パワーはゆかりと一緒に暮らすことになった。
実のところ、ママはパパのそんな計画なんて知らずにいたらしく『まあ、まあ、まあ』なんて驚いていたけれど、それでもすぐにパワーのための寝床やご飯を用意してくれた。
嬉しかった。
パワーと一緒に居られることももちろん、パパもママも、ゆかりがただベッドの上で暗くうつむいていることなくいられるようになったことを喜んでくれているのがわかった。
パワーは白くて可愛くて、そして賢い仔猫だった。
すぐにトイレも覚えたし、名前を呼べば返事をして、そっと寄り添ってきてくれた。
夕方からの発熱はまだ頻繁にあったけれど、そんな時も、パワーが指先を舐めてくれたらそれだけで心が落ち着いた。
自宅療養が決まってしばらくしてパワーが家に来たから、一緒に暮らし出してもうかれこれ三年になる。パワーがいることで、傍で話を聞いてくれていることで、ゆかりは自分がちゃんと前向きに生きていられるという実感があった。
そんなある日、ゆかりはふとパワーに囁いてみた。
「……パワー、外に行ってみたくない?」
よく晴れて風も爽やかな日。窓を少しと、カーテンは半分ほど開けてベッドに日光が直接ささないようにはされていたけれど、迷い込んでくる外の空気も澄んで透きとおってやさしくて、明るくて気持ちの良い日であることは間違いなかった。
カーテンの向こう側に見えている窓の外に広がる世界も、いつもよりとても綺麗に見えたから。だからついつい誘われるように、尋ねかけていた。
「私は出てはいけないけれど、あなたは元気で健康だもの。ずっと家の中は可哀想」
パパもママも、外は危ないから出してはいけないと言っていたけれど。でもパワーはちゃんと予防接種も済ませてる。賢いから遠くまで行って迷子にはならないだろうし。この辺りは住宅街で、日中には車もあまり通らない。首輪だってしているから、きっと大丈夫。
「お友達もいるかもしれない。素敵な男の子と恋をしてもいいの」
ゆかりはそっと言い聞かせるように続けた。
「気をつけて、でも自由に太陽の下を歩いて、それで……」
パワーは賢そうな濃い緑の瞳を、じっとゆかりに当てて耳を澄ましているようだった。
「……それで、私に教えて。それがどんなに素敵な気分なのかを」
燦燦と降りそそぐ太陽の光も、街の空気も、ゆかりにはもう手に入らない遠い世界の存在だった。
だから、せめて。せめてパワーが自由にそこで過ごしてくれれば。そうすればきっと、ゆかりにとっての慰めにもなる。そう思った。
少しおぼつかない足取りで、ゆかりはベッドから立ち上がると、窓辺に寄った。
そして開いた窓。とん、と軽やかなジャンプで窓枠に乗ったパワー。
にゃおん。珍しくも甘えた響きのないはっきりと通る声で鳴くと、パワーはもう一度、確認するかのようにゆかりの方を見上げてくる。
「行ってらっしゃい」
ゆかりは微笑んだ。
そして、まるで窓から飛び立とうとするかのような体勢をとったパワーは、そこから見事なジャンプで庭の木の枝に、そして塀へと飛び移っていった。
「……」
満足げにゆかりはベッドに戻ると、重い体を横たえた。
一息。大きく息をついたところでなぜか不意に訪れた睡魔。
ゆかりは抗うことなく、そっとその瞼を降ろしていった。
それからどれほどの時間が経ったのだろう。
ゆかりはふわりとした浮遊感に気がついた。
体が軽い。まるで病気になる前のように――いや、もっと。まるで小鳥のように。それにとても気持ちがいい。呼吸が苦しくもないし、熱でだるくもない。
そっと瞼をあけてみると、そこは家の外。どころか、塀の上。
「……えっ……?」
思わず呟いたはずの声は出なかった。唇だけが小さく動いた。
慌ててきょろきょろと見回すうちに、自分の足元が視界に入った。
「……!」
猫の白い足だった。試しに上げてみても、下ろしてみても、それが今、ゆかりの自由になるゆかりの足であることに間違いはなさそうだった。
そして気づいた。塀から見えた、窓ガラスに映った自分の姿。
「パワーだ……」
それは見慣れたゆかりの猫、パワーに似ていた。いや、パワーそのものだった。
「私、パワーになってる!」
目をまるくして叫んでも、やはり声にはならなかった。
パワーと一心同体なくらい仲良しだから? それとも、私が、自分の思いを託してパワーを外に放したから? こんな不思議な現象が自分の身に起きるとは信じられないまま、ゆかりは頭の中で考える。
でも、なによりその体の軽さが、外の世界の楽しさが。自分の体の何もかもが自由になる嬉しさが、いま、ゆかりの心に満ちていた。
歩いてみる。塀の上なのに、危なさなんて微塵も感じない。
胸が高鳴った。泣きたくなるくらい求めていたものが、そこにあった。
そう、これはきっと夢。パワーが見せてくれた夢。だから、だからせめて今だけは、もう諦めていた外の世界をどこまででも行ってみたい。
心の赴くまま、ゆかりはどんどん歩いていった。
家が立ち並ぶ住宅街、塀は家庭によって形を少しずつ変えながら、どこまでも続いている。そして、まっすぐに進んで行きついた先にはとても大きなお屋敷があった。
白い塀は、今まで通ってきたものと比べても高くて少し怖い。
少し考えてみてから、ぴょん、と軽いジャンプを試してみると、植え込みを伝って、大きく育った庭の木にのぼることができた。
ヒメシャラの木。病気で寝ついてからは本ばかり読んでいて、色々な図鑑まで繰り返し眺めていたから知っている。綺麗な白い花が咲くその木の枝を愛でるように、気分良く枝を選んで散歩してゆくと、お屋敷の二階のバルコニーに行きあたった。
ガラスの大きなバルコニードアの向こう側には、男の子が机に向かってノートパソコンを広げている姿。
なぜかその姿が気になって、ゆかりはそっと声をかけてみた。
「……にゃおん」
人間の言葉を話そうとしなければ、ちゃんとパワーの声になるみたい。そんな些細なことに妙に感心していると、ゆかりの声が聞こえたのか、男の子がこちらを向いた。
きれいな顔立ちだった。でも顔色は青白く、眼にはなぜか精気がない。
そのままじっと見ていると、男の子は立ち上がり、こちらへと来た。
タチヨミ版はここまでとなります。
2022年10月7日 発行 初版
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私がヒーリングを生業としてかなりの年月が経ちました。 いつからか瞑想中に小説のプロットが天空から降りてくるようになりました。 最初は気にもとめていませんでしたけれど、それがちゃんと起承転結のある面白いストーリーだと気付き、そしてそれがハイアーセルフからもたらされているというのにも気付きました。 自力で肉付けをして書いた物が十冊ほどになりましたが、やはり中々時間がとれません。 暫くは多忙を言い訳に、数年間、プロットの山を放っておきました。 けれど、ハイアーセルフがプロットを下さったのにも訳があるのだと思い立ち、形にしなければと一念発起したのです。 そこで2021年の始めから、才能のある人に私が書いたプロットを渡して書いて貰うことにしました。 小説は時間がかかります。筆の遅い私が一人でこのプロットの山を形にするには、数百年かかります。 私のプロットと、才能ある方のコラボ、どこまでできるかわかりませんが、形にしていきたいと思っています。 勿論、時間の許すかぎり、自分でも書いていきたいと思っています。 宜しかったら応援してくださいね(#^.^#) さら・シリウス