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エッセイ集 四季散策

菊地 昌彦

生涯教育研究所



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  この本はタチヨミ版です。




 エッセイ集


      
           四  季  散  策



                       菊 地 昌 彦





はじめに

 平凡な日を重ねながら、今年私も、八十八歳を迎えることができました。一つの節目かと感じております。いかに多くの方々にお世話になったことか、まことに感謝の気持で一杯です。
 健康法とて何もありませんが、できるだけ外を歩くことにして参りました。平成二十九年に妻が亡くなりましてからは、とりわけ散策が多くなりました。歩きながら、いろいろな想い出に耽ります。そして月に一度ぐらいは、感慨をエッセイにしてみました。この度、それらの近年分をエッセイ集『四季散策』としてまとめ、長男の一彦・次男の学の協力のもとに小冊子を刊行いたしました。
 僭越なものですが、ご高覧いただけますなら、望外の喜びです。

                 令和六年八月五日 八十八歳の日に

                               菊地 昌彦

 もくじ


    十三夜
    和算の碑
    塞ノ神
    暁まいり
    梅
    西行
    ベートーヴェン
    からたちと橘
    北鎌倉
    尾瀬

    わたくし的 秋の七花





    低名山
    菊 二題
    藤村詩抄
    多様性について
    銀河鉄道
    観音堂
    ホトトギス その1
    ホトトギス その2
    七夕
    わだつみの声
    
    




    月山
    百代の過客
    軽井沢
    建国記念の日
    なかなか会えない 春の七草
    初春の雪
    金沢の羽山ごもり
    まほろば
    吾妻の中庭
    足るを知る





        十 三 夜
                     
 
 十三夜とは旧暦九月十三日の夜の月のことをいう。今年は十月十八日の月がそれであった。「名月」は旧暦八月十五日(今年は九月二十一日であった)の月であり、十五夜と呼ばれている。旧暦では七月、八月、九月が秋とされるから、八月の十五夜は中秋の名月と呼ばれている。ススキを飾り、団子を供えて美しい満月を見るのである。
 昔の人は風流であったのであろう。名月が年一回では淋しいので、もう一回見たいと思った。九月の十五日になるが、先月と同じでは工夫がないと思ったのだろう。満月(望月)の二日前の月を愛でようと考えた。十三夜である。これを名月とした。後の月の名月だから、「後の名月」などと言われた。言葉の使い方だから拘らなくてよいのだろうが、「名月」とは旧暦八月の十五夜と翌月の十三夜を指す。美しさという点では普通の月の満月も同じだろうが、ほかは「明月」と言って区別する。
 病を得て散歩するようになってから、私は暦を見るようになった。変化する月の形が気になるからだ。旧暦は太陰暦と言われるが、太陰とは月のことである。陰陽(おんみょう)という言葉を思い出すと、気持ちは古代に帰り、不思議さに陥る。当然ではあるが、暦は月の変化をも表している。今更と笑われるだろうが、一箇月は次のように変化する。朔(さく)・・・月の出ない日、新月、第一日。上弦(じょうげん)・・・半月の形、半分は満ち半分は欠ける。
 望(もち)・・・十五日、満月の日。下弦(かげん)・・・欠け始めて半分になった月。上弦の逆の半月。再び朔になる。以後この繰り返し。
 この繰り返しの中で、その時時の月を楽しんでいるわけだ。三日月とか満月とか十六夜(いざよい)とか。名月を待つ前の晩は待宵と呼ばれる。どのようにでも表現してよいのだろう。月の出は十六夜以後だんだん遅くなる。月を見る人にとっては待ち遠しく、十六夜の次は立待月(立って月の出を待っている)、その次は居待月、以後順に臥待月(ふしまちづき)、更待月(ふけまちづき)、と風流に呼んだ。話は変わるが、以前に長野県の松本城を見学したことがあった。感激したことがある。天守閣の天井に板張りがあり、「毎月二四夜(と記憶する)に餅を供えよ」と墨書されている。城主の命令で松本の地元の人人は、今でもこれを守っているという。旧二十四日というと、大体は、下弦の月の頃である。城主は下弦の月に祈りを捧げていたのではなかろうか。
 今年の十三夜は、新暦の十月十八日であった。昔の人は十五夜と十三夜を両方見るのを決まりとし、片方だけ見るのは片月見として忌んだという。それに拘ったのではないが、私は十三夜をぜひ見たいと望んでいた。
 十月十八日。二日間の雨が上がって、朝は雲一つない晴天となった。誰しもが気分爽快となり大気を吸った。近くの知人は、花壇の土を長く掘り、チューリップの球根を植えていた。誰もが外に出た。この分だと今晩の十三夜は見事だな、と私は喜んだ。
 秋の空はわからない。午後になると、雲が出始め、だんだん広がって来た。心配だ。

「十三夜」という樋口一葉の小説がある。名作だ。会社を退職して間もなく、私は、樋口一葉のゆかりの地を歩いてみたことがあった。時代を超えて人気の衰えない一葉の人生と作品を現場で見てみたいと願ったのである。東京の日比谷、本郷、吉原ほか隅隅まで。一葉は東京で生まれたが、父母は山梨県塩山の出身で、樋口家の先祖の墓地は塩山にある。塩山まで行ってみた。塩山駅で降り、大菩薩峠行きのバスに乗り、途中で降りて樋口家代代の墓にお参りし、近隣のゆかりの地を歩いた。父が漢文を学んだ慈雲寺には樋口一葉文学碑が建てられていた。幸田露伴の撰文・揮毫による堂々たる文学碑だ。日本一の文学碑だと言われている。慈雲寺のそばには、母の生家もある。
 名月を見ようとする日、一葉の「十三夜」を読み直してみた。なつかしい。猿楽町に住んでいた斎藤家のお関は、近くの小川町煙草店能登やの高坂の録さんと幼馴染であった。お関は見目うるわしく、録さんは気が優しく利口もの。二人は幼から知り合い、やがては二人で店をと思い合っていた。世の冷たきや、お関は親の勧めで、役所の高官原田の嫁になった。斎藤家は上野の新坂下に移った。
 それを境に録さんは人が変わり放蕩者に落ちてしまった。今は、気に任せて車を引く、浅草の木賃宿住いの車夫。一方お関は、はじめは原田家で大事にされたが今は教養がないと蔑まれ、離婚を決意した。許しを得ようと上野の実家を訪れた。丁度、十三夜であった。父は「今宵は旧暦の十三夜、旧弊なれどもお月見の真似事に団子をこしらえてお月様にお備え申せし・・・今夜は昔しのお関になって、見得を構はず豆なり栗なり気に入ったを喰べてみせておくれ」と言った。その後、離婚の話に斎藤家は、涙・涙・大泣きの雨になった。最後に父は「どの道に行っても不運。同じく不運に泣くならば、原田の妻で大泣きに泣け、なあお関、そうでは無いか・・・今夜は帰って、今まで通りつつしんで世を送ってくれ」と悟した。うるめる父の声であった。
 玄関で車夫に声をかけ、駿河台までと言って実家を後にした。ところが途中でお関は、車夫が高坂の録さんであることに気づき、驚愕した。録さんも客がお関さんであることがわかり、落ちぶれた自分の身を恥に恥じた。二人は歩いて話そうと、上野広小路まで歩いた。それぞれの、あれ以来の有様をつぶさに話した。悲しい話であった。広小路に出た。ここで別れることにした。お関は別の車で南へ、録さんは空車を引いて東へ。大路の柳は十三夜の月のかげに靡いていた。
 名作を読み了えた。夕方である。空には雲が更に多くなっている。それでも、何とか月が見えてほしいと、祈るような気持ちで時を待った。
 十月十八日。午後七時頃、外へ出てみた。やはり雲は厚いが、所所切れ目もある。そして、ぼんやりと明るい部分もある。そこだ、そこに十三夜の月があるのだ、・・・姿の見えるのを待った。あ!見えた。雲間に月が出た。真丸にはやや欠け、ゆがんだ円だ。正しく十三夜だ。吸いつけられるように見た。短い時間で、隣の厚雲に陰れて行った。ああ、待っていた十三夜の名月を、拝することができたのだ。

 現代。科学、デジタル、喧騒、超多忙の現代だ。その中で、なぜ名月などを求めるのか? なぜか、自分でもよくわからない。ただ、言えることがある。これから益益進化する人工知能AIには、どこまで行っても、名月の良さはわからないだろう。

                             
                         ( 令和三年十月三十一日 )


















        和 算 の 碑

 
 私の散歩道は、途中で林の中に入る。山というほどではないが、杉・檜・樫などの古木もあり、薄暗い感じのする所だ。夏は冷っとして、蝉しぐれが降るように響く。私はここが好きで、百メートルほど行ったり来たりする。
 ここには、モミジの大木もある。イロハカエデの古木は京都を思わせるし、ヤマモミジは紅と黄の極みを見せる。
 この秋のある日。三、四人の隣人が、モミジの木の周辺の下藪を払い取る作業をしていた。もっとモミジを見たい、光と風を通したい。地主さんのご了解を頂いて、行っているという。私も手伝いたかったが、体が弱く、出来なかった。
 このお仕事の成果には、大きく二つ感じられた。
 一つには、モミジが更に美しく見えたことである。小さな葉が特徴のイロハカエデは、たしかに京都に見るような美しさを見せてくれた。東京の高尾山の紅葉はたしかに見事だが、京都の高雄山のイロハカエデはモミジの極致だと言われる。イロハカエデは別名、高雄モミジとも呼ばれている。
 私は感銘した。恥ずかしながら、七五調に表現してみたほどである。
十一月十九日
「 山道に高雄モミジが陰れ咲く 雅高めむ草刈りの人 」

 二つには、林の中に和算の碑を見たことである。碑があることは知っていたが、よく見ることはなかった。碑と対面した。そして驚いた。その驚きが、私にエッセイを書かせた。
 和算の碑は、完全な漢文である。私は、襟を正して碑の前に立った。「 長澤保齋翁碑 」とある。和算の師であった長澤保齋( 通称 忠兵衛 )殿の御功績を称える碑であった。この土地の地主さんの御先祖であるから、この土地に建てられた。
 全文が漢文である。その文章と意訳を、後頁に記してみたので、ご高覧いただけたら幸甚である。
 「和算」とは、日本古来の数学である。明治新政府は西洋の数学を正式に導入することにした。「洋算」である。これに対して日本古来の数学を「和算」と呼んだ。関孝和などに代表されるように優れた学問で、江戸時代には武士も町民も農民もこれを学び、測量・開発・生活に活用した。明治時代にも実質的にはこれを学び、日常の暮らしにおいて不可欠の存在になっていた。その後も日常に定着し、知らないうちに暮らしの一部になっている。現在の九・九やソロバンもその例である。
 碑の周辺を見てみると、運び込まれた小石がたくさん並んでいる。碑の前面には碑を見に入る通路のように並び、裏側には長円形の空地が出来るように並べられている。おそらくはこの顕彰碑の所在地を区画するために石を並べたのであろう。ここから私の空想が始まった。史実は何もないが、ここに門人が集まって、和算を語ったり、親睦を深めたりしたのではなかろうか。蓆を敷いたり、石に腰を下ろしたり。言うなれば、和算講が行われたかもしれない。昔は、あちこちで講が行われた。特定の神社や寺院の参拝のための講( 伊勢講とか熊野講 )だけでなく、日常生活の中で近隣の人が集まったりする講がたくさんあった。私の生家も当前(とうめえ)すなわち当番になって、家中が準備に大わらわだったことが思い出される。
 和算の碑の前で、私は勝手に、あれこれと夢を広げるのであった。

 最後に、つけ加えることがある。和算の碑に接したとき、私はハッとした。実は、私の祖父 菊地桝吉が和算の研究に熱意を持っていたことを思い出したからである。菊地桝吉は四十代後半に亡くなったので、私は顔を知らない。しかし、黒岩の満願寺の虚空蔵菩薩堂に和算の額を奉納したことは知っていた。同じ金谷川村であるから、祖父は長澤忠兵衛殿にお会いしていたのではないかと直感で思った。改めて和算額を見に行った。果たして祖父は、長澤忠兵衛殿を先輩格として表示していた。大きな感動を受けた。後頁に奉納和算額の概略を記したので、これも併せてご覧いただけたら、これに過ぎることはない。



  タチヨミ版はここまでとなります。


エッセイ集 四季散策

2024年8月5日 発行 初版

著  者:菊地 昌彦
発  行:生涯教育研究所

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